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姉たる千隼と鬼憑きの姉妹  作者: 忍野佐輔
四章 六角ボルトの鬼憑き
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四章 六角ボルトの鬼憑き(その1)

 五年の月日が過ぎた今でも、()()()千隼(ちはや)はあの日の事を鮮明に思い出せる。

 あの日。

 八月二十二日は、朝からいつにも増して暑かった。昨晩降った雨の湿気がまだ残っていたのだろう。ねっとりと肌にまとわりつくような熱風が気持ち悪かった。朝の予報では、最高気温は摂氏三十四度。国立競技場で開かれた全国中学校体育大会――いわゆる《全中》に参加していた選手たちは皆そろって頭から水をかぶり、熱くなり過ぎた身体を冷やしていた。

 当時、中等部三年だった千隼もその中の一人だった。

 鈴鹿女学院陸上部の短距離ランナーとして全中へ参加していたのだ。

 昼過ぎ。軽めの昼食を済ませた後フリースペースへやって来た千隼は、蛇口に繋いだホースから直接水を浴びていた。既に170センチあった長身に、ズブ濡れのユニフォームがへばりつく。けれど気にはならない。むしろ服を着たままシャワーを浴びているようで、妙な背徳感からなる快感すら覚えていた。その頃は右足にもまだ義足ではない生の足がついていて、靴の中に染み込んだ水を踏みしめて遊んでいた。

 その時、千隼は背中で「キィ」という音を聞いた。

「千隼、」

 声に振り返れば、母である水無瀬(みなせ)菊夜(きくよ)の姿があった。

 千隼は「ん」と、片手を上げて応える。

 母の菊夜(きくよ)はこの暑いのに着物姿だ。今朝、千隼が注意したにも関わらず「娘たちの晴れ舞台だもの」と言ってきかなかったのだ。一応、日傘はさしているが額には汗が浮いている。このまま倒れてしまうのではないかと危惧し――即座に「無いな」と思い直す。こう見えて菊夜(きくよ)は身体が丈夫なことが取り柄。趣味はトライアスロンという鉄人だ。余計な口出しはよそう。

 それよりも心配なのは、妹の方。

 千隼は菊夜(きくよ)が押す車椅子の方へと視線を移す。

紅羽(くれは)

 名を呼ぶと、妹の水無瀬(みなせ)紅羽(くれは)は車椅子の上で「ん?」と首を傾げた。ショートに切り揃えられた黒髪がサラリと揺れた。

 千隼は片膝をついて、紅羽(くれは)と同じ高さまで視線を落とす。

「こんな暑いところに来て大丈夫か? 動悸とかしないか?」

「うん、平気」

 紅羽(くれは)はこくりと頷く。

「今日はすごい調子いいんだよ」

「そうか。でも、無理はするな」

 千隼が頭を優しく撫でると、紅羽(くれは)はくすぐったそうな笑みを浮かべる。

 妹の紅羽(くれは)は生まれつき心臓と免疫系に異常を抱えていた。過度な運動はもちろん、外出も控えねばならぬほど、重い。入退院を繰り返している為、もう十三歳の八月だと言うのに一度も中学校へ登校出来ていない。本当はこんな猛暑に外に出てはいけないのだが……。

 ふと、紅羽(くれは)が周囲を見回す。

「そういえば()(すか)(ねえ)は?」

 言うやいなや、紅羽(くれは)の背後から何者かの手が伸びた。

 その手は紅羽(くれは)の両目を覆い隠し、

「だーれだっ」

 その声に、紅羽(くれは)の頬が弛んだ。

「飛鳥姉だよ?」

「あったりー♪」

 菊夜(きくよ)の背後に隠れていた飛鳥が、にへら、と笑みを浮かべて紅羽(くれは)の正面へと回ってくる。代わりに千隼は一歩下がって二人の妹を眺めた。少しクセのあるボブカットの飛鳥と、サラリとしたショートヘアの紅羽(くれは)。二人は歳も近いせいかよく似ている。だがその関係は仲の良い姉妹というより、親友といった方が近い。

「二人とも準備は万端かしら」

 じゃれ合う三姉妹を眺めていた菊夜(きくよ)が、ふとイタズラっぽい笑みを浮かべる。左手首の小さな腕時計を指して「もうすぐでしょ?」と首をかしげた。

 千隼は仏頂面を僅かに(ほころ)ばせ、

「ああ、もちろん。準備――」

「――ばっちし万端っ!!」

 千隼の言葉に続いて、飛鳥が親指をぐいっと掲げた。

 それを見て菊夜(きくよ)は「よろしい」と鷹揚に頷く。

 千隼と、そして中等部二年の飛鳥も、短距離ランナーとして決勝まで勝ち進んでいる。同じ学校の選手が決勝で顔を合わせるというのも珍しい。姉妹対決だと周囲も(はや)()てていた。

「大会が終わったら、またいつもの中華の店にいきましょう。勝った方には何でも好きなものを買ってあげるから、二人とも頑張ること」

「好きなもの?」

 そう言われ、千隼は車椅子に座る紅羽(くれは)へ視線を落とす。

 好きなもの、と聞いて反射的に妹たちを思い浮かべてしまったのだ。

 だが妹を金で買うことは出来ない。

 何故なら《妹》を得るには《姉》になるしかないからだ。

 ――ああ、それならば、と千隼は考え直す。飛鳥と紅羽(くれは)に何か欲しいものを聞いて、それを菊夜(きくよ)に買ってもらおう。それがいい。

「お姉?」

 唐突な痛み。

 飛鳥が貼りつけた笑顔のまま、千隼の二の腕を摘んでネジりあげていた。千隼が「痛いぞ」と言うと離してくれたが、そっぽを向いてしまう。いったい何なんだ。

「――あのね、」

 そんな姉二人の様子を見て、紅羽(くれは)が慌てたように口を開いた。

 見れば、紅羽(くれは)は抱えていたポーチの中から何かを取り出そうとしている。暫くゴソゴソとやって取り出した何かを「はい」と千隼と飛鳥へそれぞれ手渡した。

 白く細長い布。

 それはハチマキだった。

 広げてみれば、恐らく表側であろう面に《鈴鹿女学院》と刺繍されている。飛鳥の方も同じだ。だが、紅羽(くれは)のハチマキはそれだけではない。裏面にも刺繍があった。

 そこには《お姉ちゃんが一番速い》とあった。

「どう、かな?」

 紅羽(くれは)はおずおずと問いかける。震える声には『迷惑だろうか、ふざけ過ぎただろうか』という不安が感じられた。

 千隼と飛鳥は互いに顔を見合わせる。

 それから、どちらともなくハチマキを額に巻いた。

「ありがとう紅羽(くれは)

「あたし達、必ず優勝するから」

 そう言って、千隼と飛鳥は紅羽(くれは)を抱きしめる。

 紅羽(くれは)は静かに「うん、知ってる」とだけ呟いた。





「あのさ、お姉」

 飛鳥が口を開いたのは、決勝戦のトラックへ向かう途中だった。

 先を歩いていた千隼は、飛鳥の方へ振り返る。

 決勝戦はもう間もなくだ。既に二人はグラウンドに降りていた。周囲には決勝まで勝ち残ったライバル達。彼女たちから『必ず殺す』という静かな視線を浴びながら、飛鳥は千隼の側まで駆け寄ってくる。

「さっきママが言ってたことなんだけどさ……」

「ん?」

「だから、勝った方に――っていうヤツ」

「ああ。それが、どうかしたか?」

「それとは別に、あたし達も賭けない?」

 (ささや)くような提案を聞いて、千隼はこちらへ身を寄せる飛鳥へ視線を落とした。

「何を賭ける?」

「負けた方が、勝った方の言う事をひとつ聞く」

「いいぞ」

 可愛い妹の頼み。断る理由はない。千隼は何気なく了承した。

 だが、

「じゃあ――あたしが勝ったら妹扱いをやめて」

「……は?」

 続いた飛鳥の言葉は、千隼の心を深く、抉った。

 妹扱いをやめろ――とはどういう意味か。もう私を姉とは呼びたくないのか。千隼は飛鳥から放たれたその言葉に打ちのめされる。

 なにしろ『妹扱いをやめろ』などと言われたのは、これが初めてだった。

 動揺する千隼を無視して、飛鳥は淡々と続ける。

「お姉はあたしを対等な人間として扱うこと。もう、あたしは一人前。お姉の世話にはなんないから」

「ちょ、ちょっと待ってくれ飛鳥――」

「待たない。あたしはもう、お姉より速い」

 戸惑う千隼を置いて、飛鳥は自身のトラックへと向かい歩き始める。

「今からそれを証明する」

 千隼への宣戦布告というよりは、飛鳥自身へ向けた、深い決意の言葉。

 呆気に取られる千隼に「そろそろ選手はスタート位置へ」と声がかけられる。千隼は慌てて自身に割り振られたレーンへと向かった。レーンは4番。左隣のレーンにいる飛鳥は軽く跳ねながら両脚を暖め、コンディションを最高の状態に保っている。その表情は既に戦闘態勢にあった。

 飛鳥は本気だ、と千隼は悟った。

「飛鳥」

「なに?」

「私が勝ったら、当然、飛鳥は私の言う事を聞くんだな?」

「聞かないよ」

「そうなのか?」

「だって絶対――あたしが勝つから」

 それきり飛鳥は口を(つぐ)んでしまう。

 仕方ない、と千隼も覚悟を決めた。

 会場のアナウンスが選手の名前を読み上げていく。第3レーンにいる飛鳥の名が呼ばれ、飛鳥が手を掲げて一礼。続いて千隼自身の名も呼ばれ、同じように右手を掲げて一礼をした。その際、どこからか声援が送られたような気がしたが、もう千隼には意味のある言葉として認識出来ない。余計な思考は全て排除され、脳髄は走ることのみに特化した計算機と化している。

 そうして八人全ての選手の名が読み上げられ「以上八名で、100メートル競走決勝です」と締めくくられた。

 おもむろに、八人がスタート位置へと移動する。

 そこからは身体が勝手に準備を進めた。スターティングブロックを軽く蹴って感触を確かめる。両手を広げ地面につく。視線を上げ一度だけゴールを見据える。走り貫く先を見定めたらもう余計なことはしない。発射態勢を整え引き金が引かれるのを待つ。

「位置について――」

 キン、と空気が張り詰めた。

 観覧席から雑談すら消えてしまう。時間が止まったような錯覚。永遠に引き延ばされる一瞬。感覚が研ぎ澄まされ、見てもいないのに合図役のピストルが空へ向けられたのが判った。引き金が引かれ、撃鉄が下ろされ、水無瀬千隼が発射され――――――


 爆音。


 次の瞬間、千隼は暗闇の中にいた。

 時系列のはっきりしない曖昧な感覚だけがある。上手く思考がまとまらない。ふと問いかけのようなものを受けた気がした。強烈に甘く、包み込むような問いかけ。「願いを叶えましょう」身を任せたかったし、そうすればどれだけの幸福感を得られるのだろうと全身が痺れ涎が出る。だが同時に、それをすれば自分自身の根幹が壊れることを千隼は感じた。だから拒否した。「どうして?」この気持ちは私だけのものだ。私が、私の為に、私によって行わなければならない。私が私であるために。私が彼女らの『     』であるために。私が、私が、私が、私が、わたしがワタシがわたしわたしわたしわたしわたしワタシワタしわたシワタシワタわたシワタシワタシ――――


「なら、別の方に頼みましょう」


 目が開いた。

 千隼の意識が現実へと回帰する。しかし時間の繋がりが理解できなかった。体感的にはスタート直後のはず。

 なのになぜ、自分はグラウンドに突っ伏しているのか。

 耳を潰すこのノイズは何だ。なぜ右足から下の感覚がないのだ。

 全身をギシギシと軋ませながら、千隼は何とか両肘をついて上半身を起き上がらせる。

 周辺の景色が一変していた。

 ゴミの山だ。

 全中陸上女子100メートル決勝。そのトラック上には何故かゴミ山があった。ちょっとした丘ほどもある()(れき)の山。分別も何もない。砕けたコンクリートも千切れた鉄柱も粉々になったプラスチックの椅子も頭のない女も失した腕を探す男も腹から漏れる腸をかき集める中学生もせっかく無傷なのに瓦礫の山から滑り落ちて頭を打って動かなくなる老人までいっしょくたになっている。

 そこでようやく、千隼は耳を(ろう)するノイズの正体を知る。

 悲鳴だった。叫びだった。何者かの気が狂ったような笑い声だった。

 それらがゴミ山から響いている。少し見回せばゴミ山は幾つもあり、それら一つ一つが巨大なスピーカーとなっていた。

 ふと、自分の意思と関係なく口が動いた。

「……飛鳥、」

 千隼の耳が、自身の声を捉えた。

 そうだ。飛鳥はどこだ。

 千隼は慌てて首と視界を左右へと巡らせる。ゴミ山は見ない。それは最後。飛鳥はまだゴミになっていないと千隼は身勝手に断じた。それに現実的な問題として、あの瓦礫の山から飛鳥を見つけ出せても引きずり出すことは不可能だ。なら、まずはそれ以外の可能性から追うべきだった。

 そして、見つけた。

 ゴミ山とは別に点々と散らばっている瓦礫。その一つのそばに、飛鳥が横たわっていた。両足が瓦礫の下に隠れているが上半身は無傷。なら助かる。私が助ける。千隼は立ち上がろうとして――失敗した。

 高圧電流でも流されたような痛み。それが背筋をつらぬき、視界を白く染め上げたのだ。

 痛みの元を知ろうと、千隼は視線を自分の下半身へ向ける。

 右足が無かった。

 ふくらはぎから先にはソックスもスパイクシューズもなく、右足とすげ替えたようにコンクリート片があった。

「はは、」

 思わず笑いが零れる。綺麗な断面だ。単純に上から押し潰しただけで、跡形もなく右足を消し去っている。このコンクリート片は相当な勢いで空から落ちてきたに違いない。

 ならば、飛鳥の上にあるコンクリート片はどうなのか。

 その事実に気づき、千隼は慌てて飛鳥が倒れている場所へ視線を飛ばす。だが千隼の位置からでは、飛鳥の下半身がどうなっているのかまでは判らない。だが、もし、自分と同じように押し潰されているのだとしたら――、

 千隼は額からハチマキを剥ぎ取った。

 それから身体をひねって、押し潰された右足へ手を伸ばす。膝下あたりにハチマキを巻きつけ捻り上げるようにして縛り上げた。ふたたび痛みで視界が白くなる。だが、二回目ともなれば慣れたもの。「ずるぅぁああああああああああああッ」口から溢れる誰かの叫び声を聞きながら、千隼は右足を止血。コンクリート片の下へ名残惜しそうに伸びる生皮を無理矢理ひきちぎって、

 自由になった。

「あ、あ、あす飛鳥(あすか)っ」

 両手と片足で四つん這いになり、千隼は不器用に飛鳥へと這い寄っていく。距離としては十メートルもない。だが、隣を走っていたはずの飛鳥がそれだけ離れた場所にいるということは、飛鳥自身も吹き飛ばされたと考えられる。一刻も早く無事を確認しなくては。

 そうして千隼は妹のもとへたどり着く。

 自身の口が「飛鳥、飛鳥、飛鳥」とうわごとのように妹の名を繰り返していた。飛鳥は目を閉じている。千隼は仰向けに倒れている飛鳥の首筋に手を当てた。

 暖かい。脈打つ鼓動があった。

 生きている。安堵するのも束の間、千隼は飛鳥の足元に広がる鮮やかな赤を見た。確かめるまでもなく大量出血の跡。まさか飛鳥も足を潰されたのか。いやそんな事より、こんなに出血していては死んでしまう。ああ、どうか。どうか勘違いで――

 千隼は恐る恐る、飛鳥の両脚が埋まる瓦礫の下へと手を伸ばす。

 瓦礫は、飛鳥の両脚を押し潰してはいなかった。

 元は水道管か何か通っていたのか円筒状の隙間があり、飛鳥の両脚はピッタリそこにはまっていたのだ。

 なんという幸運だろうか。流石、飛鳥だ。千隼は飛鳥の頭の側に回り込んで、その身体を瓦礫の下から引きずり出す。つるり、と傷ひとつない飛鳥のナマ足が瓦礫の下から現れた。

「――ん、」

 飛鳥が呻き声をあげて身を捩る。良かった、意識も戻ったのか。

 千隼は「飛鳥、大丈夫か飛鳥?」と繰り返し、地べたに座る飛鳥を背後から抱きしめる。温かい、動いてる、生きている。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 対して飛鳥はまだ状況が呑み込めていないようだった。千隼と同じように周囲を見回し、その周囲から浴びせられる悲鳴を聞き、全身を軋ませる痛みに顔を歪めた。それからようやく自分を抱きしめる存在に気づき「お姉……」と呟く。

 そして飛鳥は気づく。

「お姉、足が――、足がない」

 千隼を見た瞳が、絶望に堕ちる。

 だから、

「なに、どうってことない。飛鳥が生きてるんだからな」

千隼は、希望に満ちた表情を浮かべてやった。

 それなのに飛鳥は、絶望の底のさらに下へと墜ちていった。顔が歪み、半開きになった口から呻き声が漏れる。何に絶望しているのか、千隼にはわからない。

「ぅあぁ――、またお姉は、うぁ、また……また、あた、しはっ」

「飛鳥どうしたんだ、いった――」

「大丈夫ですかっ」

 千隼の言葉が切羽詰まった声に遮られる。思わず見上げると、赤十字と『赤坂消防』という文字が書かれたヘルメットがあった。救急隊、という単語が千隼の脳裏に浮かぶ。

 千隼のそばに現れた救急隊員は二人だったが周囲には更に多くの救急隊員や警官、その他無事だった大会関係者が散らばっている。ようやく救助活動が開始されたのだろう。救急隊員は千隼の右足を見た途端「担架に乗せますよ」と宣言。飛鳥から引き離され、千隼を担架へ載せてしまう。

 だが、それでは困るのだ。

「ちょ、きみ何を――」

「飛鳥を先に、運んでください。私は、私は母さんと紅羽(くれは)を探し……」

 担架から転げるように落ちると、千隼は四つん這いになって進み出す。それを二人の救急隊員が無理矢理押しとどめた。振り解こうとしたが、手足に力が足りない。「出血死したいのか君は!?」という言葉を聞いて『そうか、血が足りないから力が入らないのか』と他人事のように納得する。ならば血はどこから持ってくれば良いのか。

「君の母親は我々が助ける。この子も他の子も助ける。だからまず、君が助かりなさい」

 嫌だ。それは嫌だ。

 そう千隼は口にしようとしたが、ついにできなかった。千隼の口は「私が、私が飛鳥、紅羽(くれは)の――」と意味の繋がらぬ単語を繰り返すのみ。

 ほどなくして、千隼は意識を失った。


 五年の月日が過ぎた今でも、水無瀬千隼はあの日の事を鮮明に思い出せる。

 そして夢想する。

 あの日、もし自分が救急隊員を振り切って、母の菊夜(きくよ)と、妹の紅羽(くれは)を探しに行っていたらどうなっていただろうか、と。無論、ありえもしない『もしも』の話だ。千隼の止血は完全ではなかったから、血液は刻一刻と失われていたし、後から聞いた話では飛鳥のもとへ辿り着けただけでも奇跡的だったという。万が一、救急隊員を振り切って二人を捜しに行けたとしても見つける前に息絶えていただろうし、奇跡に奇跡を重ねて奇跡的に二人を見つけ出したとしても、それが限界。どちらにしても千隼は死んでいたはずだ。

 だが、どうしても――どうしても考えてしまうのだ。

 あの日、母と妹の捜索を、人任せなどにせず自分自身の手で行うべきだったと。

 甘かったのだ。

 突然の事態に呆然としたのなら、常にそうした心構えを持っておくべきだった。

 出血多量で死にかけていたのなら、完全な止血方法を学んでおくべきだった。

 救急隊員を振り解けなかったのなら、護身術でも身につけておくべきだった。

 こうして後悔し続けるくらいなら、ありとあらゆる準備を怠るべきではなかったのだ。

 五年前のあの日――後に《822事件》と呼ばれるようになったあの事件。

 意識を失った千隼は生死の境を彷徨い、病院のベッドで眠り続けた。


 そして目を覚ました三日後。

 千隼はよくやく、母と妹の死を知った。


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