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姉たる千隼と鬼憑きの姉妹  作者: 忍野佐輔
三章 諦めた者と諦めきれない者
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三章 諦めた者と諦めきれない者(その5)

 しかし、それから一時間が過ぎても千隼は昼食にありつけずにいた。

 アウトレットモールの一角に設けられたフードコート。昼時のその場所は、一際賑わっている。その喧騒のなかで、千隼はせわしなく首を左右に動かしていた。

「幸さん、そっちは?」

 駆け戻ってきた幸に千隼は問いかけるが、幸は無言で首を横に振った。

「ごめん、こっちにもいないわ」

「まっタく……あのイノシシ娘ハ……」

 そう吐き捨てたのは椛だ。苛立たしげにぼっくり下駄をコツコツと鳴らしている。市女笠を左右に振って周囲に視線を飛ばし続けているが、お昼時という事もあり人が溢れかえったフードコート内は見通しが悪い。三人の中で一番背の高い千隼ですら、絶えず動き回る人の波に呑まれそうで、人ひとりを探し出すのは至難の業だ。

 千隼たち三人が探しているのは飛鳥だった。

 事は、ほんの二十分ほど前に起きた。買い物を終えた四人はショッピングモール内のフードコートへ入り、昼食にするつもりでいた。しかし、他人と食事をとることが出来ない椛が「(わたし)は外で待っておるよ」とだけ言い残し、一人離れたのが問題といえば問題だったのだろう。注文の行列に並んでいる途中、飛鳥が「ちょっと鬼無里ちゃん呼んでくる」と一人でフードコートの外へ行ってしまったのだ。事情を知らぬ飛鳥は、椛の行動を協調性のない身勝手なものと考えたのかもしれないし、何故か機嫌の良かった事を踏まえるなら、椛と親睦を深めたいという意図があったのかもしれない。三人分の注文を幸一人に持たせるわけにもいかず、千隼も列に残った事が運の尽きだった。

 千隼と幸がフードコートの席についても飛鳥は戻ってこなかった。

 不審に思った幸が椛へ携帯で連絡を取ったが、椛は飛鳥の姿すら見ていないと言う。千隼も飛鳥へ電話をかけたが、呼び出し音が鳴るばかりで一向に電話に出ない。千隼と幸は顔を見合わせて駆け出した。

 そして今は、ひと通り周囲を探し終えたところだった。

「まさか《左脚》の――?」

 幸が最悪の予想を口にする。千隼はそれがあり得ないと知っているが、同時に別の可能性に思い至った。つまり《左脚の鬼憑き》となった飛鳥がどこかで人を襲っている可能性。

 しかし二人の危惧を椛が否定する。

「それハなかろうヨ。この中が平穏過ぎる」

 確かに《左脚の鬼憑き》が現れたのなら騒ぎにならないはずがない。幸の危惧はそもそも見当外れであるし、つまり今の所、最悪の事態には至っていないという事だ。千隼は二人に気づかれないよう胸を撫で下ろした。

「千隼ちゃん」

 と、唐突に幸が口を開いた。

「飛鳥ちゃんの携帯は電源が入ってたのよね?」

「はい、呼び出し音は鳴ってましたから――恐らく」

 千隼がスマートフォンを操作しながら答えると、「わかった」と言って幸も自身の携帯で何処かへ連絡を取り始めた。その口が「あ、室長ですか」という言葉を紡ぐ。どうやら《SCT》へ連絡を取ったらしい。

 まずい、

 そう千隼は直感した。

 すぐにスマートフォンを起動。あるアプリの画面を記憶し、ポケットへしまう。

 そして鼻をスンスンと鳴してみせた。

「……こっちです」

「え、ちょ、千隼ちゃん!?」

 駆け出した千隼を見て幸が狼狽える。が、千隼は構わず走り「二人とも早く」とだけ言ってその後は振り返る事もなく、人混みをかきわけながら前へ前へと進んだ。が、大柄な千隼は人混みをかき分けて進むのに向いていない。そもそも右足の義足は歩行用の為に全力で走ることはできない。すぐに速度が落ちる。

 先に千隼へ追いついたのは椛だった。

「どうシた、千隼クン」

 一体どういう仕組みなのか、椛は千隼を見つめたまま前からやって来る人の流れをよけ続けている。振袖にぼっくり下駄という格好で、どうしてそこまで身軽なのかと思いつつ、千隼は椛の問いに答える。

「匂いがする」

「……ニオイ?」

 怪訝そうに聞き返す椛に、千隼は頷きを返す。

「飛鳥の匂いが。こっちからする」

「――――」

 椛の(こん)(じき)(そう)(ぼう)が見開かれたのが、市女笠の上からでも判った。

 が、すぐに肩を(すく)めて「なルほど」と呟いた。

「君なラ、そんな事もあるダロうな」

 椛の言う『君なら』の意味がよく分からないが、納得してもらえたようだ。

「なラ急ごう」

「ああ」

 二人はアウトレットモールを駆け抜ける。





 そうして辿り着いたのは、アウトレットモールに併設されたスポーツセンターだった。

 元は都立大学だった広大な敷地には球技場が複数あり、それを囲むようにランニングコースが通っている。その終端にはこれまた充実した陸上競技用のグラウンドとトラックがあった。

 そう、陸上競技のトラックがあるのだ。

 歓声とヤジを一身に浴びて、飛鳥は100メートルトラックのスタート位置にいた。

 飛鳥は4レーンのスターティングブロックに足をかけ、感触を確かめている。1から3レーンには大学生と思しきユニフォーム姿の男たちが並び、飛鳥と同じようにスタートの合図を待っていた。周囲にはその仲間であろう若者たちが各々の()(いき)の選手へ声援を送っている。中には千円札を束に握りしめている者もいた。レースの勝敗で、賭けをしているのだろう。

「んじゃ、いくぞ。よーい――――」

 合図役の男が声を張り上げ、合図を打ち鳴らすべく両手を左右へ大きく広げた。

 パンッ――、と手が打ち鳴らされる。

 瞬間、飛び出したのはもちろん飛鳥だった。

 スタートの瞬間から一気に最高速度へ至るのが飛鳥のスタイルだ。それは同時に他の選手への攻撃手段でもある。スタートした途端に遠く離れた飛鳥の背中を見ると、半端な選手などは心を折られてしまうからだ。中学の時など、スタートから10メートル待たず走るのを止めた選手が何人もいた。

 だがそれは、飛鳥と同じ走法を取る相手に限る。

 大学生の男たちは、全く動じなかった。


 ――そも、短距離走において、まず何が大切かと言えば『最高速度』である。


 最高速度が速ければ、また、それを長く維持できれば記録に繋がるからだ。

 故に、短距離選手は各々の肉体に合った加速の方法を模索する。100メートルを幾つかの区間に分けて、どこでどう走るのかを考えるのだ。

 一般的なのは100メートルを三分割する考え方だ。

 スタート直後の前傾姿勢を保った一次加速区間。

 身体を引き起こし巡航姿勢に移行する為の二次加速区間。

 そして、最高速度を維持する為の巡航区間――その三点に特徴が出る。

 飛鳥は小柄な選手の例に漏れず、足の回転数――ピッチに重きを置いた走法を取っていた。

 要は人より足を速く動かし地面を蹴る回数が増えれば、歩幅が短くとも同じ時間で進む距離は増えるという考え方だ。

 これは一次加速時に大きく貢献する。

 極端な前傾姿勢である一次加速は加速がしやすい反面、筋肉への負担が大きく長くは続けられない。故に、その短い間に可能な限り多く地面を蹴る必要があるからだ。そうして一次加速で一気に最高速度へ達することで、一気にトップに躍り出ることができる。飛鳥が《徹甲弾》などと揶揄される所以(ゆえん)だ。

 この逆に、歩幅――ストライドを重視する走法がある。

 大学生の男たちは、これを利用していた。

 同じピッチ数ならば一歩が長い方が速く進むという話だ。当然、長身で脚の長い人間に向いており、さらに『跳ねるように走る』ことで一歩を大きくする。着地する反動を利用してボールが跳ねるように加速するというのは、二次加速以降に貢献する走法だ。

 この走法を重視した場合、一次加速と二次加速を合わせて最高速度へ到達する事になる。加速している区間が長いわけだから、結果として最高速度も上がる。  

 大学生の男たちが動じなかった理由はコレだ。

 彼らは加速している区間が長い。

 ――つまり、後から追う事に慣れているのだ。

 高校女子陸上では滅多に出会わない、180センチ台の長身たちが飛鳥に追いすがっていく。

 スタート直後のリードは徐々に削られ、半分を過ぎた段階で約二歩程度の距離まで詰められた。恐らく彼らもそこそこ名の知れた選手なのだろう。

 だが、飛鳥は『そこそこの選手』に負けるようなことはない。

 千隼の考えを証明するように、飛鳥はトップでゴールを駆け抜けた。

「よっしゃああっ!」

 飛鳥が歓喜の声をあげる。負けた選手たちは「マジかよ……」と絶望の表情を浮かべ、トボトボと仲間たちのもとへと帰っていく。よく見れば、今走った男たち以外にもランニング着の男が何人もいた。微かに聞こえた「お前たちでも無理か」という台詞から察するに、飛鳥と男たちは既に何度か勝負をした後なのだろう。

 まったく。と、千隼は内心でため息を吐く。心配ばかりかける妹だ。

 と同時に、千隼は飛鳥が《左脚の鬼憑き》になっていないことに安堵する。いずれは《左脚の鬼憑き》へ変貌する運命とは言え――今はまずい。なにしろ千隼の方の準備が整っていない。

「あ、」

 やがて、飛び跳ねていた飛鳥が千隼と椛の姿をみとめた。

 途端、飛鳥はバツの悪い表情を浮かべた。後頭部をポリポリと掻いてから、千隼と椛の方へと歩み寄ろうと一歩踏み出す。

 まずは「ごめんなさい」と謝ろうと思ったのか、飛鳥は口を開きかけ、

 その飛鳥の頬を、椛の平手が打ち抜いた。

 スタートの合図よりも、いい音がした。

「なにす――」

「何をしたのかわかってるのかっ!!」

 反射的に怒鳴りかけた飛鳥の声を塗り潰して、椛の怒声がグラウンド全体に響き渡った。

 離れた場所で賭けの精算をしていた大学生たちの顔から、ヘラヘラした笑いが消える。小柄な女子高校生のことを、どう見ても七五三帰りにしか見えない童女が怒鳴りつけている。事情を知らぬ者からすれば異様な光景だろう。その異様さに、察しのいい男の一人が「行こうぜ」と言って仲間を引き連れその場を離れていった。

 グランドには飛鳥と椛、そして呆然と二人を見守る千隼だけが残される。

「どれだけ――、」

 先に口を開いたのは椛だった。

 飛鳥の胸倉を両手で掴み、その顔を自身の方へ近づけさせる。

「どれだけ心配させれば……気が済むんだ――!!」

 まるで、懇願しているようだった。

 ふと、千隼は椛の口調が変わっていることに気づいた。声は若く(しわが)れたままだが、老人のような言葉遣いは消えている。わざとらしい変な話し方だとは思っていたが、やはり『作ったもの』だったのか。そして、今は『作る』余裕もないのか。

 そんな椛の姿に、胸倉を掴まれている飛鳥は困惑しているようだった。皮肉や小言は聞き慣れているが、ここまでまっすぐに椛が感情を露わにした事は初めてだからだろう。それは千隼も同じことだ。未だ、状況に思考がついていけずに、立ち尽くしている。

 と、

「ちょ、ふたりとも速すぎ、息が続かないってば――って、え?」

 そこへ、肩で息をしながら幸がやって来た。千隼と同じように目を丸くし、唖然とする。対して椛と飛鳥の方は、そんな幸に気づいた様子はない。遂に椛は、額の六角ボルトが露わになるのも構わず市女笠をかなぐり捨てて、飛鳥の胸倉をさらに引き寄せた。

 目と目が擦り合いかねない距離にまで近づき、

「お前……お前は、いつもいつもっ!」

「ちょっと、椛ちゃん。ストップ! ストォーップ!」

 ようやく我に返った幸が、椛を後ろから抱きかかえ無理矢理飛鳥から引き剥がす。つられるように千隼も急いで飛鳥と椛の間に入った。

「あたし、あの、」

 飛鳥は口をパクパクと動かし呆然としている。軽いショック状態に見えた。何を言うべきか、何から話すべきなのか考えられないのだろう。

 まずは落ち着かせようと千隼は飛鳥を抱きしめ、その背中を優しく叩いてやる。普段の飛鳥なら『子供扱いするな』と怒るところだが、今はされるがままだ。

「飛鳥ちゃん」

 ようやく飛鳥が落ち着いてきたのを見て取った幸が、諭すような声で語りかける。

「ちょっと椛ちゃんはキツイ言い方だったけど、どうして怒ったかはわかるわね?」

「…………はい」

 飛鳥は地面を見つめたまま頷いた。

 それからゆっくりと千隼から離れ、深々と頭を下げる。

「ごめんなさい」

 その飛鳥を見て、幸が微笑みを返す。市女笠を拾った椛はそっぽを向いたままだが、ひとまずは落ち着いたようだった。

「理由を聞いてもいいかしら?」

 幸は少し腰を屈め、飛鳥と視線を合わせてから優しく問いかける。

 だが同時に有無を言わせぬ迫力を伴った声音だった。

「ごめんなさい。……その、確認したくて」

「うん。何を?」

「主に、ストライドとピッチを。……あと、身体の引き起こしのタイミングとか色々と、走らないと分からないから」

「そっか」

 幸は小さな子供に接するように、飛鳥の頭を優しく撫でる。

 本当に刑事よりも、学校の先生が似合う人だと千隼は思う。

「でも、先に言って欲しかったな。わたしたち、すごく心配したんだから」

「はい。……本当は、そうするつもりで――」

 聞けば、飛鳥は行き先がこのショッピングモールと聞いた段階で、スポーツセンターで走ることを考えていたらしい。今飛鳥が履いているスパイクシューズも、こっそりナップザックに入れておいたもの。今日まで黙っていたのは出かける前に言って、ショッピングモールにすら行けなくなる事を恐れてのことだと言う。

 飛鳥の機嫌が良かった理由はソレか、と千隼は納得した。要は久しぶりに走れる事実に興奮していたのだろう。飛鳥はあまり隠し事が得意ではない。何かしらの形で感情が表へ出てきてしまう。

「でも、本当に相談してからにしようと思ってたんです。お昼を食べながら話してみようかなって。でも――」

「でも?」

「でも、あの、ごめんなさい……本当によくわからなくて。何だか、気づいたらここにいたような感じで。どうやってここまで来たのかもよく憶えてなくて」

 幸は「気づいたらって――」と怪訝そうに飛鳥を見つめる。

 その幸の横で、千隼は内心の動揺を悟られないように努めていた。

 気づいたらここにいた――というのはまさか《鬼肢》に操られていたのか。

 その疑念が千隼の脳裏に浮かぶ。だとすれば恐ろしい。《左脚の鬼憑き》に変貌せずとも、場合によっては《鬼肢》に操られるということだからだ。

 もしやこれが、幸が言っていた『活性化した《鬼肢》は制御できない』――というやつか。

 だが、もし《鬼肢》に操られたとして、何故、今、この場所でなのだろうか。

「そうカ……」

 と、ずっと押し黙っていた椛が唐突に口を挟んできた。

 三人がそちらへ視線を向けるが、椛はこちらに背を向けたままだった。ただ、振袖からのぞく両拳を固く握りこんでいるのだけが見えた。

「なラ、今のうちに出来るだけ走ッテおくガいいさ」

「鬼無里――?」

 思わず千隼は聞き返してしまう。どういう心境の変化だろうか。今まで『大人しくしていろ』と口うるさかった椛なら「知ったことか、早く官舎に戻れ」と怒りそうなものだが。

 しかし椛が千隼の声に応えることはなかった。

 代わりにぼそりと、

「もウ、外に出ルこともないだロウしな――」

 そう、一番近くにいた千隼に聞こえるか聞こえないかの小さな声音で呟いた。

 そしてそのままガラコロンとぼっくり下駄を鳴らしながら、トラック上から離れていく。それでも護衛の役目を放棄するつもりはないらしく、グラウンド端まで行くとフェンスに背中を預けてこちらを見守り始めた。

 千隼と飛鳥は顔を見合わせ、それから同時に幸を見た。

 幸は両手を腰にあてたまま、困ったような笑みを浮かべている。

「いいわよ。ここで『やめろ』って言うのも無粋でしょう?」

「――ありがとうございますっ」

 飛鳥が深々と頭を下げると、幸は飛鳥越しに千隼へウィンクを飛ばしてきた。『あとは任せる』という意味だろう。千隼としてもそのつもりだった。

「なら飛鳥、久しぶりにフォームを見てやろう」

「うーん……じゃあ、お願い」

 飛鳥も気持ちを切り替えたらしく、軽くストレッチをしてスタート位置へついた。

 それから飛鳥は何度も、100メートルを駆け抜けた。

 そのたびに、千隼は飛鳥のフォームを確認しアドバイスしていく。千隼自身もかつては短距離ランナーだった。どこを見るべきかは判っている。

 だが実際には、千隼が注文をつけるべき部分などほとんどなかった。

 繰り返すが、現在の飛鳥はピッチを重視した走法を採っている。

 しかし、実を言えばピッチ――足の回転数を重視するというのは効率が悪い。

 ピッチというのは体格に関わらず大きく差の出るものではないからだ。それよりも1センチでも一歩を長くした方が効率よく記録が伸びる、というのが短距離走における常識だ。

 しかしその常識が、飛鳥には当てはまらないことを千隼は知っている。

 何故なら飛鳥は誰よりも『自分の身体を操ることに馴れている』からだ。

 飛鳥は身長150センチと陸上女子でも小柄な方だが、昔から『小柄』と言われていたわけではない。むしろ小学生の頃には『電柱』と(あだ)()されるような少女だった。飛鳥が陸上を始めた小学五年生の時には既に今と同じ体格をしていたし、同じペースで成長すれば180センチの千隼すら追い越したかもしれない。

 が、結局は五年ほど前に突然成長が止まり、相対的に『小柄』と言われるようになった。

 言い替えれば、飛鳥は五年以上前からずっと『同じ身体を操っている』ということ。

 他の人間が肉体の成長に合わせて走法を変え、調整している間に、飛鳥だけは自身の体格に合った走法を極めることができた。本来、大きく差の出ることがないピッチを極限まで高めることができた。

 加えて飛鳥は、決してストライド――歩幅が短いわけではない。自身の体格で許される限りのストライドを既に獲得しているし、全身で跳ねるように加速もしている。無論、そのストライドは体格に恵まれた者からすれば大したものではない。『そこそこの選手』であれば身につけているもの。

 だがそこに極限まで高めたピッチ数が加わることで、飛鳥は『爆発的な一次加速』という武器を手に入れたのだ。

「お姉、どお?」

 十本目の走りを終えた飛鳥が、汗を拭いながら問いかけてくる。千隼は黙って親指を立て、口角を上げるに留めた。言う事なし。飛鳥は完璧に自分の走りを取り戻していた。

 飛鳥は小さく「よし」と頷き、再びスタート位置へと向かう。

 千隼は思わず苦笑する。全力で十本走って、まだ足りないのか。

「飛鳥は本当に走るのが好きだな」

 ほとんど呟きのようなものだった。

 しかし、千隼のその言葉に飛鳥は一瞬だけ動きを止めた。

 そして、

「――――そうでもないよ」

「……? ならどうしてそんなに走る」

「五年前の決勝戦、憶えてる?」

 千隼に背を向けたまま、飛鳥はそんなことを訊いてきた。

 忘れるわけがなかった。

「ああ」

「約束のことも?」

「――ああ」

 それは果たされることのなかった約束だ。

 そして、これからも永遠に果たされることのない約束。

 飛鳥は首だけで背後の千隼を見やり、力のない笑みを浮かべた。

「ごめん、変なこと言って」

 それきり飛鳥は千隼から視線を外して、スターティングブロックへ足をかける。まるで今の会話が無かったような態度。

 だが千隼は見逃さなかった。

 飛鳥の視線が一瞬だけ、千隼の義足へと向けられたことを。

「よーい――」

 飛鳥の脇に立ち、千隼は手を打ち鳴らす。

 途端、弾け飛んだ飛鳥の背中を眺め、千隼は思う。

 五年前の決勝戦。

 その時に交わした約束。

 もしかしたらそれが、飛鳥が《鬼肢》へ願ったことに繋がるのだろうか、と。

 

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