6.女神、浅草に立つ
与助は我が身を、四肢毎の感覚さえも奪ってしまう程の、えも言えぬ浮遊感に身を委ねていた。
河中で流されるかの如く、自らの身体に自由はない。只々、幾何ばかりの抵抗感を一身に受けつつも、包み込む浮遊感の正体、紫紺の気が我が身に降りかかる抵抗感を僅かばかりにまで抑えているであろうことが分かった。おそらくこの紫紺の気を身に纏っていなければ、今頃身体は異世界間を繋ぐ三途の川様の大河によって四分五裂の観を呈していた事であろう。
後から聞いた処によると、これこそが“異世界転生”なるものらしい。
まるで俎板の上の鯉だと言わんばかり。されど唯一と言って良い程自由に動く眼が球を左へと流し、視界を共に流される相方へと見やった。
与助と同様に、其処には紫紺の気を纏い、四肢の自由を奪われた女神、コーラルの姿。
彼女を構成する線の細い白くきめ細やかな肌を覆い隠すほどに濃い靄のような気に覆われて居り、その表情までを窺い知ることは叶いそうにも無い。彼女を象徴する黄金色の麗しき髪も、透き通るような声も、この場では何一つ分かりはしない。果たして左隣に居るのは本当に彼女か、否か。
あるいは、ここが夢か、現か、現世か、常世か――。
果たして永遠ともとれる程の長い時間を、まるで胎児に戻ったかの様に、流れと揺らぎに身を任せている内。与助は次第に自らの思考すらをも浮遊感の中へと置き去りにした。
与助が次に意識を得た時に、その相貌の先に広がっていたのは正しく江戸は浅草御門であった。
刻にして昼九ツ半。与助が新政府の手の者によって斬殺せしめられる凡そ半日前であった。
街を見渡す。生前見た時とは寸分違わぬ、江戸の街並みがそこには在った。
さても立派な浅草橋には下町住まいの町民や、将又旅の途中の飛脚が忙しなく往来し、眼下を眺めれば隅田川をいくつもの渡し船が通る。
江戸は浅草御門といえば奥州・日光へと至る街道の一大拠点であり、道行く人は多岐に渡るのも見て取れる。
だが、今現在、浅草御門は橋の袂に呆けて視線を泳がせるこの状況は、普段より少しばかり異なる様相を呈していた。周囲の町民――中には知り合いも多い――から奇異の視線を浴び続けている。
いや、町民だけではない。街道の拠点へと歩を休めに来た旅人や、仕事終わりで帰宅途中の飛脚、江戸幕府に籍を置く町武士の一派等々。
気づけば有りと有らゆる人、人、人凡てから好奇と猜疑の入り雑じった視線を受けているのだ。
が、よくよく見てみれば、それらの視線は与助を見ているワケではない。その傍らに呆けて棒立ちする、女神見習いコーラルへと集まっているのだ。
南中の位置にほど近い、燦々と照り付ける太陽は、卯月にしては心地良い暖気を江戸に齎していた。
だが、如何せんその光によって反射し、キラキラと輝きを放たんばかりに透き通る黄金色の髪の毛をもつコーラルは、周囲の視線を集めるには充分であったのだ。
これは、よろしくない。
鎖国が解かれて既に数年は経つものの、まだまだ江戸の町で異国の者を見る機会は少ない。ましてやこれほど立派な黄金色の髪を携えた者と来れば言わずもがな。
貴族か、或いは学者の娘と思しき外来娘が、何故かんざし屋の与助とつるんで居る?
与助を知る者は少なくとも、そう訝しむであろう。
下町の一商工人にとって、言葉も通じぬであろう異国の娘と一緒に居ること自体が奇怪この上ないのだ。
つまるところ、与助を知る者の勘繰りが自然と“色恋”と“痴情”の沙汰へと行き着くのは必至である。
それは、まずい。
せっかく黄泉返りを果たしたと謂うのに、おみつを死の運命から救い、今度こそ添い遂げんと意気込んで早々この展開とは、あんまりにもあんまりではなかろうか。
店先に立つ呉服屋の女主人などは実に目聡いもので、早速与助らを指差し顧客と色めきだっている。
まさかあの簪屋の三代目がねぇ。あらやだ、異国の別嬪さん引っ掛けて上手い事しはるわねぇ。ねぇ。
などと、やいのやいの聞こえてくるではないか。
このまま此処に棒立ちし続けるのは拙い、拙すぎる。
とは云えここでコーラルの手を引き自宅へと戻ろうものならば。
やれ早速しっぽり時化込むつもりだわ。あらやだ。あらやだ。
……と、要らぬ話題を提供してしまうのは目に見えている。
ええい。ままよ。
やらいでか。誤魔化しとおす。
与助は、パッと表情を作り、コーラルへと向き合う。
女性経験は皆無ではあるが、伊達に女性客が足を運ぶ簪屋を生業にしているワケではない。
何時の時代も、誰が相手でも、営業は基本だ。ならば、その振りも基本であるはずだ。
「あいや、コーラル殿。あっしが開いて居ります簪屋はもう目の前でごぜェやす。へへ、此度はよもや異国の方のお召し物にうちの簪をお誂える事が出来ようとは……大層恐縮致しやす」
兎角、胡麻を摺る振りを、態と大げさに行う。対するコーラルは与助の突然の豹変振りに困惑するばかりであった。むしろ、僅かながらに引き気味であった。
砂羽与助の世間は些か鬼ばかりではなかろうか。
心中で嘆くも、ここで演技に付き合って貰わねば明日には「砂羽与助、異国の娘と禁断の逢瀬!」などと有ること無いこと囁かれかねない。そもそも白昼堂々だ、禁断も逢瀬もない。
だがしかし、往々にして醜聞とは刺激的な悲喜劇を所望される物である。
少しでも嫌疑が残れば、明日の朝には与助と名も知らぬ異国の娘の間には、きっとのっぴきならぬ爛れた関係が作り出されているであろう。
故に、コーラルの手助けは必須であった。
与助は、他の者に聞こえない小さな声で耳打ちした。
「こおらる殿。ここはあっしに合わせてくだされ。どうにも周囲の者があっしらの関係を勘違いしているようでござんす」
「……マジですか。めんどくさいですね」
対するコーラルは嫌々ながら、されど与助と関係を誤解されるのもごめんだと言わんばかりに盛大なため息をついた。
暫くののち、再び顔を上げたコーラルは意を決したかのように眼を開き、腕を腰を盛大に振わせいかにも異文化に燥ぐ異国令嬢を演じて魅せたのだ。
「オーウ!ミスター与助!ミーはベリーベリーキュートな髪飾りを所望スルネー!ミーのトテモダイジなイイナズーケが見惚れるようなのをタノムヨー!」
なんとも無様であった。
あまりにも大振りかつ、わざとらしい演技は殊更周囲の視線を釘付けにした。
やれ変な異国娘が居るぞ。
やれ来舶清人みたいな喋りの伴天連娘が居るぞ。
やれ頭のおかしい外人が居るぞ。
等々、あまりにも大振りの演技は彼女の印象を“神秘的”から“奇妙奇天烈”へと変えるのは容易であった。
与助は思わず心中で頭を抱えた。
が、呉服屋の女主人を傍目で見やれば、先ほどの色めき立ちはどこ吹く風か。途端に与助を可哀想なものを見る目で密々話している。
望んだ結果とは違うが、贅沢はいえねェ。
与助はここぞとばかりに手を引き、ささ此方で御座います。と奇異の目で見られている黄金頭伴天連娘を己が店へと引き摺り込んだ。手を引かれる間も黄金娘はオーウ!だのワーオ!だのほざいては過剰に振る舞って居るばかりであった。
結果として、町人の誰もが二人の間に色恋沙汰はないであろうと判断したことは与助にとって唯一の救いであった。