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1.砂羽与助

※時代考証はテキトーです。

 慶応4年の卯月、江戸開城に新政府が歓声を挙げる裏で、その事件は起こったのである。


 神田明神から浅草門へと抜ける街道に、男が一人。名は与助。卯月の末ともいえど、前日からの霧雨に加え、冷たい水がさらさらと潺ぐ神田川沿いともなれば、子の刻の凍てはより一層強く感じられる。ひゅうひゅうと指先が痺れるほどの夜風に与助は身を縮こめて、尚も歩を進める。


「おお、寒い寒い。こいつぁ早う帰らねば」


 つい飲み過ぎた。男はしまったという顔つきで、目立たぬよう目立たぬよう街道の傍らをひとり歩く。子の刻から丑の刻にかけて、市中では強盗騒ぎが後を絶たないという。それもこれも、徳川と薩摩の所為だ。与助は独り言ちた。


 “よし家”の女将さんも、危ないと分かっているなら、男一人店内に泊めてくれてもいいだろうに。「うちにゃ年頃の娘がいるからねぇ」とからから笑って断られた。やはりツケ払いがいけなかったか。まぁ、娘さんへの恋慕もあるっちゃあるんだがね。そんなことを考え、与助はへへと笑いながら、酒で赤く染まった頬をポリポリと掻いた。


 両国橋が視界の先に見え始めた。おおう、そろそろ家に着くじゃあないか。平和だ。何もなかった、ちょろいモンだ。与助の心に余裕が見え始めた時、彼の視界の端に数名の人影が、ぼう、と立って居るのが見えた。


 賊であろうか、と訝しむ与助ではあったが、近づく度に、その姿は新政府のソレであることが分かった。ありゃあ、長州のものか?と目を細めて眺め射ると、その視線に気づいたのか、軍服の男達が与助の元へと駈けてくる。


 藪蛇だったか。こりゃあ、いかんな。

 そんなことを心中で呟くも、軍服達はあれよあれよと与助の周りをぐるりと囲った。数にして5人、逃げられそうにもない。


「こんな時間に何の用で」


「貴様、砂羽(さわ)与助であるな?」


「ええ、ええ。与助でございます」


 与助はぎくりとした。賊でないならば、と安心しきっていた。この者たちは最初から俺が目的であったのだ。与助は内心でそう考え至った。

 観念したとばかりに与助がこくこく頷きながら、答える。軍服達は微動だにしなかった。


「与助。貴様、この時間までどこに隠れておった」


「酒の匂いがするな。余裕なものだ」


「疑わしい素振りを見せれば即刻切り捨てるぞ」


 立て続けに捲し立てられて、与助は身が竦んだ。

 誰も彼もが背丈にして六尺にも届きそうな大男。対する与助は江戸の平均五尺二寸ばかり。軍服越しにがっちりと締まっているであろう腕や体を想像して、与助は身を震えさせた。たかだか、只の一町民に勝ち目など無いであろう。


「へえ、あっしは先刻まで神田須田のよし家で一杯ひっかけておりやした。見ての通り、只のしがない簪屋でございやす」


「これはこれは。随分とまた謙遜されるのであるな」


「そいつぁどういった意味で……」


 瞬間、目の前にいた軍服の一人がしゃらりと刀を抜き、その切っ先を与助の鼻先へと突きつけた。何をされたか理解した途端、与助の顔が酒の赤から、さあっと青へと染まった。


「ひっ……!?な、何を……」


「しらばっくれるな、与助。貴様が江戸講の手の者であることは分かって居る」


「え、江戸講……?そいつが一体、何で」


 軍服達は尚も微動だにせず。ただただ刃先を与助に向けるだけだ。

 不意に、軍服の一人がニタリと口元を歪め、何も知らないとは、愚かな。貴様らの持つ“ロク”というモノは飾りであるか。と嗤った。


「新政府は江戸しぐさ、ならびに口授する江戸講の身内もんを次代に残してはおけぬと判断した。その意味は分かるであろう与助。貴様らの持つ“ロク”は新政府転覆をも可能とする憂事(うきこと)であるのだ」


「よって貴様は生かしておけぬ。無論、浅草御門に根城を構えていた江戸講の一味も又、凡て、である」


「そ、そんな……!」


 そんな馬鹿なことがあってたまるか。これが只の悪夢である事を与助は祈ったが、しかし、与助の鼻先にぴとりと当てられた切先に染み付いた、刀とは違う錆鉄の香。まだ新しい血と人油の混ざった不快な臭いが、これは(うつつ)であると与助に突き付けたのだ。


「観念なされ砂羽与助。貴様は名うての簪職人であった。せめて職人の誉れとして、その手や腕に一切の傷はつけぬ。首筋を一薙ぎ。其れで楽にしてやろうぞ」


 その言葉に合わせるように軍服の男たちは与助を地面に抑えつけ、俯せの体勢へと固定した。その首の裏に切先が添えられる。つつ、と切れた首の薄皮から血が流れた感触があった。


「お、おお……おおお……」


 与助は声にならない嗚咽を発した。死を覚悟した。ここで短き生に幕を下ろすのか。

 せめて、よし家の一人娘である、おみつに恋慕の情を明かせばよかった。

 今となっては、全てが遅いのだ。


 瞬間、与助の脳内の自らの生の様々な情景がぱっと出ては消え、また違う情景が脳裏に浮かんで過ぎ去っていく。ああ、これが走馬灯なのか、と与助は悔し涙を流すばかりであった。


 ―――瞬間。


 与助の脳内には僅かに未来の自分の姿が映し出されたのだ。

 刀を振り下ろす刹那。

 その瞬間は押さえ付けて居る他の軍服も、振り下ろされる刀線から逃れようと手の力を緩める。

 その瞬間だ。

 その瞬間に身を思い切り捩れば、軍服達から拘束を解くことができる。


 それはまさに未来予測であった。

 与助はその光景に一瞬困惑したが、その思考通りに体が動かす。

 事実、その身を捩りてみれば、ひょうと振り下ろされる刀から見事逃れることが出来たのだ。

 

 “ロク”だ。与助は直感した。


 現在の目に映る視界に並んで、そのわずか刹那の未来が映し出される。

 本来であればそのような視界のブレは判断を遅らせるはず。

 だが、与助はそれを難なく理解し、自らのモノとしたのだ。


 瞬間、軍服の大男たちが与助を捕まえようと、斬り捨てようと、ある者はその図体で飛び掛かり、ある者は刀柄に手をかけ、今にも抜刀せんばかりの気迫を纏う。

 だが、それもわずかに未来の話。


「ひいぃっ!」


 まだ状況が呑み込めず、呆けて居る軍服達の体の間を抜けるように、与助は飛び上がり、情けない叫び声を挙げながらも、全力で夜の江戸を駈けだしたのだ。


 与助は駈けた。駈けた。

 もはや人通りの少ない江戸の夜は朧月の仄暗い光のみが道標となり、街道をぼんやりと照らす。店の軒先に架けられた行燈は全て取り外され、何処も彼処も店仕舞の様相を呈している。

 夜風は依然寒々としていたが、最早それ処ではなかった。僅かに切られた首の傷口からは熱を帯び、先ほどまで恐怖を帯びて過呼吸気味であった為に、まともに呼吸が続かない。

 ゼイゼイと駈けながらも、限界は近い。

 それでも尚、与助は駈けた。死にたくなどない。


 どこか、どこか人の多い所を。

 神田隅田まで戻った辺りであろうか。昌平橋を渡った処に、人集(ひとだか)りが出来ているのを見た与助は、しめたとばかりにその人の中へと潜り込んだ。


 なんの集まりであろうか、与助は呼吸を整えながら、物陰を探し、辺りを見回した。


 人を見やれば皆が皆、寝巻でやれ何が起こったと、やれ悲鳴が聞こえたなどと言いあって居るではないか。その人集りはある長屋の前でその密度をさらに増した。


 まさか。


 与助は悪い予感をひしと感じた。


 人が集まっている長屋は、先ほどまで正に自分が呑んでいた呑み屋ではないか。

 よし家。女将さんとその娘、おみつの二人で切り盛りしている小さい呑み屋。

 何故、こんな処に人が集まって居るのだ。

 よし家はもう店仕舞したはず。人も普段ここまで来ないはず。

 まさか。

 まさか、まさか。


 想像したくもなかった。

 先ほど、新政府の者たちの前で迂闊にもよし家の事を語った事を後悔した。


 あの時に、別働隊が居たのか。

 まさか、既に女将さんとおみつは……。


 与助の脳裏に最悪の考えがどんどん溢れてくる。考えたくない。

 女将さんとおみつが、互いに庇い合う様に斬られ、倒れ伏している姿が想像できた。


 いや、想像などしていない。

 勝手に浮かん(・・・・・・)できた(・・・)のだ。


 与助はそれが“ロク”による透視である事を察する程、余裕などなかった。

 いやいやまさか、そんなそんなと。きっと二人は元気でそこに居るであろうと。

 自信の迂闊な一言のせいで、江戸講の同志と見られ斬り捨てられた。などと言う馬鹿げた事はあるはずないと。

 そう自分に言い聞かせながら、与助はよし家の前の人集りを掻き分けていく。


 「―――っ!」

 言葉が詰まった。


 人を掻き分けた与助の目に映ったのは、多くの行燈と、朧月夜によって照らされ、ぬらぬらと鈍く反射する夥しい量の赤黒い血。

 そして、店の軒先で庇い合う様に死んで居る女将さんとおみつの姿であった。


 その一帯だけ、切り取られたかのように静寂であった。

 実際は気の所為であっただろう。事実、周囲はがやがやと野次馬の声が引切り無しに聴こえ続けていた。

 だが、既に与助の耳には、何も届かなかった。

 与助の目には、既に眼前に広がる無残な光景しか映らなかった。


「なあ、なあ……。あっしの、あっしの所為なのかい……?」


 与助は絞り出すように呟くと、そこから堰を切ったかの様に、ボロボロと涙が溢れ出してきた。


「あ……ああ……。あああ……っ」


 もはや言葉は出なかった、与助は只々慟哭し、死んでしまった二人を抱えながら涙を溢すばかりであった。あっしが余計な事ばかりに、すまねぇ。すまねぇ。その言葉は終ぞ発せられる事は無く、声にならない叫び声をあげ嗚咽するのみ。

 

 故に。

 与助は気づく事は無かった。

 

 或いは。

 既に与助の心はぽっきりと折れてしまって居た。


 与助は、背後から刀を振りかぶる軍服の男達に気づくことなく。

 その一太刀で背からバッサリと切り捨てられた。


 何が起こったのかも分からないまま、与助は女将さんとおみつの上へと崩れ落ち、そこで漸く自分が新政府の面々に深々斬られたのだと自覚した。

 死ぬ間際、霞み往く思考の中で、与助はロクでもねえ人生だった。と思うばかりであった。


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