唇をそっと、甘噛みして。
これから住むアパートの、近くの公園に行ってみた。
暖かい風を受けながら、彼と共に公園に入る。
中心に大木あった。
大木はピンク色の花をつけて、それを枝の隅々にまで飾らせている。
桜の木――。
季節は春である。
私と、隣のその人が過ごした春。
だいぶ前に過ごした、あの時間。
私はその時の桜に魅せられ、酔ったままなのだろう。
だから彼が隣にいるのだ。
私は隣のその人に顔を向けた。
その人は黒い瞳で、桜の木を見ている。
横顔を見ると、鼻と唇が意外に出ていることがわかった。
つまり、横から見た顔の造形が美しいということだ。
そして、彼の髪は相変わらず黒い。
あの時、彼は美少年だった。
今はもう少年ではないけど、やはり面影はある。
「――ユウジさん」
私はその人の名前を呼んだ。
この人はユウジさん。
私の想い人だ。
ずっと前から、好きな人。
ユウジさんは私に顔を向けると、困ったように笑った。
「なぁ、オトミ。本当に俺と住むのか?」
私はくすりと笑う。
――オトミ。
自分の名前だ。
ユウジさんは最初に会った時から、私を呼び捨てで呼んでくれた。
あの時差し出された手は優しく、柔らかいものだった。
そうして、優しく、オトミ、と呼んでくれたのだ。
「ユウジさん、いまさら一緒に住まない、なんて言わないでくださいよ?」
「……分かってる。でもさ、オトミの両親は何も知らないし、ちょっと不安なんだよ。オトミが提案したことだけど、でもやっぱり……」
「心配しないでください、ユウジさん。大丈夫。私はもう来月で二十歳になりますし、大人ですから。大学にだってちゃんと通います。両親には、ルームシェアをする友人ができたと言っておきましたから」
ふと、ユウジさんが憂いを帯びた目をした。
「俺は……オトミの友人?友人で、いいのか?」
「それ以上になりたいですか?」
「それ以上にって……」
「私はかまいませんよ。かまいませんから、ね……?」
そんな会話をした後、私たちは桜を見て、沈黙した。
青空の下、咲き誇る桜の花たち。
酔いしれてしまうほど、魅力的である。
私は既に桜に酔っているが、それをさらに増された感じだ。
「ユウジさん、あの時も、春でしたね」
「――ああ」
「私あの時、恋をしたんですよ」
ユウジさんは黙っている。
「初恋ですよ。幼い頃の、小さな初恋。あの時のユウジさんに――」
「……でもさ、それって」
「はい?」
「その時の俺だったからよかったんじゃないか?今の俺なんて、ただのおっさんだし」
「そんなことありませんよ。ユウジさんはユウジさんです。大人のユウジさんも、私は好きです」
「……そうか」
ユウジさんは少しだけ笑った。
彼は、私の告白について何を思っているのだろう。
好きだと言ったのは初めてじゃないけど、でも、じゃあ何度目かの好きって、どう思うんだろう……。
知りたいような、知りたくないような、少しくすぐったい気持ちだ。
「――オトミ、そろそろ行こうか。引っ越し屋がくる」
「そうですね。まだ見ていたいけど……、もう行きましょうか」
私たちは、これから一緒に住むアパートへと向かう。
公園から歩いて5分と、かなり近い場所に、「スズキ荘」はあった。
青い外壁が特徴の、新しいアパートだ。
昔からあったものを取り壊し、最近全て新築にしたらしい。
アパートの名前が古いのは、元々あったアパートが築40年とかなり歴史があったから、だそうで。
私たちの住み家は201号室。
二階だ。
ユウジさんから鍵を受け取り、早速中に入る。
入った瞬間から、ヒノキの香りがした。
床は木の木目があり、壁も木の色をしている。
1LDKで、荷物がまだ届いてないからか、なかなか広く見える。
「ユウジさん、私たち、ここに住むんですね!」
私がウキウキしていると、ユウジさんはそんな私に、少しおかしそうな顔をする。
「子供みたいな反応だな」
「二十歳になるんですけどね。まだまだ子供っぽい感じは、抜けないなー」
私は体の向きを、部屋からユウジさんに変えた。
ふふ、と笑って、彼に近づく。
「ユウジさんは、子供っぽい私がいいですか?それとも、大人っぽくした私がいいですか?」
「んー、そうだな……。オトミらしいオトミがいいかな。子供でも大人でもない感じの……」
「……今の私、ってことですか?」
「そう。そんな感じ……」
私はユウジさんの腰に手を回す。
ユウジさんも、私の背中に手を回した。
見つめ合うと、ドキドキする。
少し背伸びをして、ユウジさんの唇に、私の唇を触れさせる。
軽いキスだけど、それだけで私はほてりそうだった。
ユウジさんは余裕の表情。
ちょっと悔しい。
「ユウジさん、ちょっとだけのキスじゃ、つまらない?」
「つまらなくはないよ。ただ、少し……」
ユウジさんの表情が崩れた。
余裕にしていたのは、嘘のようだった。
うん……なんだか苦しそう。
「ユウジさん、楽にして……」
「……無理」
「切ない?苦しい?」
「……だいぶ、そんな感じ」
「大丈夫だよ。誰も見てないんだから。それにね、素直な気持ちでいる方が楽でしょ?だから、もっと正直になろうよ。ね?」
「……今だけ」
ユウジさんの顔が近づく。
そっと、私の下唇を噛んで、離した。
「今だけ、正直になる」
熱っぽいユウジさんの視線に、私も目で答える。
重なり合う唇と唇。
私より10歳も年上のユウジさんの方が、断然上手い。
でも、私だって負けてない。
熱情にほだされた感じ、初々しい感じを、私はまだ持っている。
まともにキスなんてしたことがなかった。
ユウジさんが初めてと言っても、過言ではない。
体だってまだ、誰にも捧げていない。
この人のために、私は15年も男性とお付き合いなんてしてこなかった。
ずっと前から、私はユウジさんのものだ。
誰にもあげない。
いくら魅力的な人だったとしても、ユウジさんにはかなわない。
激しいキスが、5分ほど続いて、止まった。
チャイムが鳴ったのだ。
荷物が届いたらしい。
私たちは息を調え、少しだけ引っ越し屋さんを待たせてから、私が玄関を開けた。
爽やかそうな青年の業者さんが立っていた。
この人は私たちが今、何をやっていたか知らない。
熱情も知らない。
二人だけしか知らない。
だから、私はユウジさんと二人だけの場所が欲しかった。
二人しか知らない、究極の密室を手にいれた。
それが、この201号室だ――。
全ての家電、家具、身の回りのものを、部屋に設置し終えると、広かった部屋は、急に狭くなったような気がした。
でも、それもいい。
狭ければ狭いほど、秘密基地にいるような感覚で、すごく楽しい気分になる。
私は、疲れてリビングのカーペットに転がるユウジさんを見る。
転がったユウジさんに、桜の花弁を落としたい。
そうして、ユウジさんと部屋を満たして、桜満ちる部屋の中で、ずっと、二人で埋もれていたかった――。
ストックホルム症候群
犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。
リマ症候群
リマ症候群は、ストックホルム症候群とは逆に、監禁者が被監禁者に親近感を持って攻撃的態度が和らぐ現象のこと。
(Wikipediaより)
15年前。
俺は5歳のオトミを誘拐した。
俺は元々母親の連れ子で、母はオトミの父親と再婚して、一時的にその父親は俺の義父になった。
義父は他の女と不倫をすると、オトミができたからと言って、あっけなく母と俺を捨てた。
15歳の俺はそれが許せなかった。
幸せそうに幼稚園で遊んでいるオトミを、俺は私念から誘拐してしまう。
最初はオトミのことだって恨んでいた。
こいつさえ生まれなければ、俺も母親も幸せにやっていけたんだって。
そう思って誘拐したのに。
俺とオトミの生活は残酷なほど幸福だった。
オトミは素直で思いやりがあり、そのおかげか、俺は自分の中の硬くなった私念を軟化させていく。
しかし、オトミと俺の生活は長く続くはずもなく、俺たちは大人たちによって引き離されてしまった。
だが、去年の夏、ある女の子が俺の家に訪ねてきた。
それが19歳になったオトミだった。
オトミはずっと俺に想いを寄せていたことを告白した。
オトミは綺麗になった。
そして女になって、俺を虜にしていった。
後で調べたのだが、オトミはストックホルム症候群らしい。
誘拐され、監禁された者が、監禁者に好意を寄せてしまうこと。
そして俺は、監禁者が監禁した者に、好意を寄せてしまうこと。
リマ症候群らしい。
たぶん、この恋はまやかしだ。
シンドロームの延長線に過ぎない。
オトミは俺を慕っていて、誘拐された桜の季節に運命めいたものを感じている。
しかし、違うんだ。
これは恋じゃない。
違うと分かってる。
分かってるのに、
「ユウジさん」
微笑む彼女にそれを伝えられない。
結局は俺も、彼女と反対のシンドロームの中にいるから。
オトミは俺に近づくと、俺の胴に腕を絡める。
そして、その桜色の唇で、言うんだ。
「唇をそっと、甘噛みして」
俺はそれに答えることしかできない。
熱くほてった体を、慰めてあげることしかできない。
桜の季節の、密室の中で、彼女は俺を、離してくれない。
「瓶詰めの中で、桜と一緒に、二人きりなんだよ。ユウジさん」
オトミはまたそんなことを言う。
桜の季節に運命を感じている、少女のようなオトミ。
俺が唇を噛んでやると、彼女にも仕返しをされた。
そっと、優しい甘噛みを。
end.