4
のど元に鋭い刃を突きつけられているような感覚だった。
それほどに眼前に立つ紅は美しく、冷たく、恐ろしかった。
「私の歌に応えてくれてありがとう」
歌うように彼女は言う。完璧な笑顔がそこには作られている。
けれど詠には、彼女が泣いているように見えてならなかった。
そして何故か、彼女が求める人物であることを感じていた。
ぼんやりと自分を見つめる少女に、舞姫は手を伸ばす。
白い指先が少女の頬に触れようという刹那、唐突に声は上がった。
「ねえ。どうして…笑っているの?」
ピシリ、空気が変わる。ああ、何か前にもこんなことあったな。
詠は気を引き締めて、視線を逸らすことなく続ける。
「辛いときや悲しいときは、無理に隠したりしなくていいんだって。彼にそう教えたのは貴女でしょう?」
すると彼女の表情がすっと抜け落ちた。
「…お前は、何?」
何とも答えにくい質問に、何故だか笑いがこぼれてしまった。
彼女の眉間に微かに皺が寄るのを見て、ますます笑みは深くなる。
「やっぱり貴女、彼のお姉さんなのね」
だって、そっくりだ。
あの作り物めいた表情さえなければ、疑う要素など全くない。
いつのまにかあの苦しいほどの恐ろしさは消え去ってしまっていた。
「私は、詠。貴女の弟…樵さんに助けられた人間です」
北の村で長老の話を聞いた後、二人は無言のまま廃屋へ戻った。
「…これから、どうする?」
気持ちばかりの夕餉を摂った後で、何気なく彼に問うた。
「…あの舞姫が誰であろうと、俺には関係ない」
全くそうは思っていないだろうに、彼はそう応えた。
そして彼女もそれ以上は追及しなかった。
当然のように共に帰ろうとする樵に、詠は別れの挨拶を告げる。
「じゃあ、ここで。助けてくれてどうもありがとう」
「…帰る家がないと言っていなかったか」
お姉さんのことで胸中複雑だろうに、律儀な人だな。
「また別の見世物小屋にでも行って、仕事を探すよ。だから大丈夫」
それでも樵は納得いかない表情で憮然としている。
―心地よい場所に長くいると、抜け出せなくなるから。
共に行かない理由を、詠は心の中で飲み込む。
死んでもいいと思った自分を助けてくれた、彼に恩返しするために。
「だから、さよなら」
精一杯の笑顔で言うと、彼の返事を待たずに背を向けた。
それからは劇場で下働きをしながら、舞姫に関する情報を集めた。
北の村の長老が言っていた『熱心なファンが姿を消す』こと。
詠は自らがその熱心なファンになることによって、舞姫に近付こうと考えた。
そしてその計画は見事成功し、今彼女と向き合っているのである。
「あの子…樵はどうしているの」
呟くように、舞姫―春妃は問う。
「お姉さんと暮らしていたあの家で、一人住んでいました」
それを聞くと、春妃は苦しげに顔をゆがめた。
「…私が、あの子を独りにさせてしまった」
幼くして両親を亡くした姉と弟は、手を取り合って必死に生きた。
彼らが額に持つ痣は、ある希少な一族の末裔であることの証でもあった。
それ故に孤独を強いられ、先祖は理不尽に命を奪われてきたのだ。
「あの子のために、私は戻ってきたの。もうあの子を独りにさせないために」
春妃はきりと表情を引き締め、詠を見据える。
「さぁ、おしゃべりはお終いよ。あの子のために、私たちのために…貴女の命を渡してちょうだい」
―命を失くした私は、他者の命を食らうことでしか生きられないの。
「―もうやめてくれ、姉さん!」
振り向くと、そこには銀髪の彼がいた。
紅の舞姫の大切な弟。そして詠を助けてくれた人。
春妃は彼の姿を捉えると、嫣然と微笑んだ。
「樵。…大丈夫よ、姉さんが貴方を護ってあげるから」
微笑みながら、でも咽び泣いているようにも見えた。
ここで自分が命を渡すことは、二人の為になるのだろうか?
春妃も樵も、お互いに深く傷を負っている。
心優しく孤独なこの姉弟は、どうすれば解放されるのだろう。
詠は必死に考えた。
「いいんだ、もういいんだよ姉さん。俺はもう一人じゃないから」
「…樵?」
春妃は思わぬ答えに、その微笑を崩す。
答えを待っていると、いつの間にか傍に来ていた樵に腕を引かれた。
「え、え?」
そのまま彼の胸に抱きしめられ、詠は思い切り困惑した。
「こいつがいるから、俺はもう一人じゃないよ」
…この人、誰だっけ。よく似た違う人なんじゃないのかな。
詠が思わず現実逃避を始めたところで、春妃がふっと息をついた。
「…そう。もう、いいのね…」
寂しげに呟き、けれど彼女はこれ以上ない温かな笑みを浮かべた。
それは、彼の家で見た遠き日の肖像画を彷彿とさせるもので…。
あぁ、これが彼女の真実なのだと感じた。
ゆるりと伸ばされた彼女の手を、詠は迷わず取る。
「ありがとう…この子を、樵をお願いね」
詠が答えを返す前に、春妃の身体はぼろぼろと砂のように崩れた。
「―っっ!」
行かないで、待って待って待って―…!
自分を抱きしめる腕にぐっと力が入った。
そして、美しき姉であったものが消えていくのを二人で見つめていた。