聖夜の冷めたコーヒー
「はー……」
志乃は冷たい携帯をカバンにしまって溜め息を吐いた。今年も結局一人で過ごすことになってしまった。
今日は十二月二十四日――クリスマスイブ。日本ではクリスマス当日より盛り上がる日。
「本当に、なんで私こんなところにいるんだろ」
手を繋いで浮かれるカップルを見るたびに、自分の境遇と比べてしまって惨めになる。家でクリスマスの特番なんかでも見て、さっさと寝てしまえばいいのに。
と、カバンの中の携帯が音楽を鳴らす。
手をポケットから出して携帯を開き、受信ボックスに放り込まれているメールを見る。『送信者:拓』の文字に、彼女は眉根を寄せて首を傾げた。
『今 どこいんの?』
メールの中から奴のぶっきらぼうな声が聞こえてくるような気がして、志乃はいらいらとメールを返した。
『ファミマの前だけど』
素っ気ない返信に、彼はさらに素っ気なく返信した。どんな速さで打っているのだと問いたくなる。
『じゃあ 隣の喫茶店で待っとけ』
「はあ?」
志乃は思わず声を上げる。確かにコンビニの横には、ちょっと着飾った喫茶店がある。すぐにその場を立ち去りたい衝動に駆られたが、待っていろということは、奴はここに来るのだろう。一人で立ち尽くす奴を見てみたい気もするが、それはそれで自分がもっと惨めになりそうなので止めておいた。
「いらっしゃいませー」
喋り声で溢れている通路を進み、入り口の傍にあった窓際の席に座った。丁寧にラミネートされたメニューを開き、予想以上の値段に顔をしかめる。
「コーヒー一つ」
「ホットとアイスがありますが、どちらにいたしましょうか」
「ホットで」
携帯を弄んでいると、コーヒーはすぐにテーブルに運ばれた。白い湯気を眺めながら、志乃はホットコーヒーをスプーンでかき混ぜた。
「――寂しい女だな」
聞き覚えのある声がして顔を上げると、そこにはメールの送り主がいた。彼は志乃の同僚だった。幼稚園の頃からの、これでもかというほどの腐れ縁。
「あんただって寂しい男のくせに」
当然のように自分の正面に座った拓を彼女は一瞥し、コーヒーカップに口を付けた。こうでもしないと格好が付かないと思ったのだ。何かしないと間が持たない。
「何やってんの。お前、猫舌だろ?」
「うっさいなあ。そんなの勝手でしょ」
ヒリヒリと痛む舌を誤魔化し、志乃はまたコーヒーを口の中に流し入れた。その瞬間訪れる激痛。
「――っ!」
コーヒーカップはコーヒーを散らしながら床に落ち、パリンと乾いた音を立てた。白い床に黒いコーヒーが染みを作るのではないかと、彼女は慌ててコーヒーを拭き取ろうとした。
「危ないです。お客様は触らないでください」
しかしすぐに店員がやってきて、カップとコーヒーを素早く処理した。その手際の良さに、彼女は何も言えなかった。
「あ、ホットコーヒー一つ」
店員は思い出したような拓の注文を聞くと、かしこまりましたと会釈し、奥へ戻っていった。
「馬鹿だろ。意地張るからだ」
「…………」
椅子に座り直した志乃は、無言のままカップの乗っていない皿を見つめた。拓はコーヒーの中に次々と角砂糖を放り込んでいる。
「お前、落ち込んでるわけ? クリスマスを一緒に過ごす相手がいなくて」
心の中に醜い感情が沸き上がるのを感じる。それがクリスマスを満喫している人への妬みだとわかっていても、抑えることは出来なかった。
「……そーだよ。友達はみんな彼氏と一緒だし、私には彼氏なんていないし……落ち込むのなんて当然じゃない!」
爆発は思いの外大きく、喫茶店中の視線が彼女に向けられた。はっと我に返った志乃は、顔を赤くして椅子に座る。男は面倒臭そうにカップのコーヒーをかき混ぜながら目を細めた。
「ふーん、俺じゃ不満だと」
「当たり前よ。もー、コーヒーはこぼすし、踏んだり蹴ったりよ」
文句を言いながらテーブルに突っ伏すると、拓はコーヒーをテーブルに置いたまま伝票を掴んで席を立った。
「ぬるくなったからお前にやるよ」
代金を払って店を出ようとした拓は、ドアの前で立ち止まって振り返った。
「来年のクリスマスは、寂しい女にさせないでやるよ」
「え、……ちょっと待って!」
拓は志乃の制止も聞かず、そのままさっさと外へ出て行ってしまった。彼を追い掛けようとした志乃は、少し考えて思い止まった。どうせ会社で会うんだから、そのときに聞けば良い。
さっきの言葉はどういうことだったのか。
どうして、アイスコーヒーが好きな彼がホットコーヒーを注文したのか。
――拓が残したコーヒーは、彼女にとっては甘すぎた。
2010.12.10