チキンの回遊
初めて投稿しました。
「チキン」。確かにおじさんのTシャツの胸にはそう書いてあった。
薄汚れたベージュの帽子と作業ズボン姿。
品祖な三角定規の様な輪郭には頬からアゴにかけて、色つやのない髭が生えている…。
弱冷房の車両の中で、明日にもホームレスになりそうな身なりのおじさんは、胸の文字が指す意味とは正反対に、実に堂々と座っていた。
エンジのTシャツに白字で縦に書かれたその書体は、まるで筆でなぐり書きしたかの様に力強くて…おじさん同様、堂々としていた。
梅雨だというのに雨ひとつ降らない真夏の様な暑さがもう何日も続いていた日のことだ。
旦那に高校の同窓会と嘘をついて帰省するために乗り合わせた車中。
私はこれから子供を実家に預けて男に逢いに行く。
何度となく理由をつけては、3年位こんな事を繰り返してきた。
旦那を愛せなくなったのが先か、彼を好きになったのが先だったのか…。
今となっては自分でも解らない。
ただ、旦那の部下でもある6歳下の彼は、愛し合ってる最中でさえ一度も「好き」と言ってくれた事は無い。
冷えきった夫婦関係に終止符を打つことも、修復の努力に励むパワーもない。
たった一人好きでたまらない彼に、私に対して愛があるのか?って問いただす勇気もない…。
子供の頃観たテレビ番組ででマグロは泳ぐのを止めると死んでしまうと聞いたことがある。
私と彼との月一の関係も回遊だ。
現実逃避のための…。
止まったらきっと死んでしまうだろう…。
彼の気持ちは薄々わかっているから…。
車窓のネズミ色のカーテン越しからも、外の陽射しが強烈なのがわかる。
それはどんどん熱と光を増していく。
おじさんは目的の駅に着いた様子で、私の向かいの席から立ち上がった。
ねっとりした暑さを振り撒きながら、迷いなく開いたドアに吸い込まれるその後ろ姿を見て泣きたくなった。
おじさんの背中には「小心者」と書かれていた。
こんな小さな嘘とプライドでしか自分を支えられない私にはその言葉たちが突き刺さってくる。
「私ってチキン野郎だ…」
呟くわたしに息子は、家から持ってきた絵本を読んでとせがむ。
なるべく優しい声で、私は息子のお気に入りの本を読み始めた。
( 回遊が終わっても、息できるかなぁ?)
さっきより少し、前に進んでみる想像をする私がいた。自分がちょっと好きになった気がした。
読んで頂いてありがとうございました。感想伺えたら幸いです!