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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Deuxième mission 「迷宮の究明」
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第三章 三々とした傑家、散々な結果

第三章 三々とした傑家、散々な結果


        1


 トルコ国内に於ける迎洋園家所蔵の別宅こと通称『不要な矢筒(イニュティルメドゥサン)』。

 漫画に出てくる様な優美なお屋敷が悠然と建築しており、おそらく初めてお邪魔する人々は緊張して仕方ないのではないか、と思える程にこの別宅は大きかった。特筆すべき点は、その庭の広さであり、そこらへんの公園よりも大きな自然公園に思えた。

 廊下の道沿いに歩く最中にガラス越しに見える視界の範囲でもそう唱えられる。

「本当に広いですね」

 歩き始めて三分。屋敷の庭の広さに日向(ヒナタ)は思わず感嘆の息を吐く。

「まぁーな。金持ち道楽よろしく得てして金持ちって人種は豪邸を持ちたがるもんだぜ」

 彼の言葉に答えた声は批自棄の声。

 不作法で礼儀知らずに主へ忠誠心とかどっか置いてきてるのではないだろうかという主への皮肉を興味なさげに発した。

「何度見ても……広いですよねぇ」

「目をこすろうが、瞼を上下でキスしようが、失神しようがしょうがなく変わらねぇぞユミクロー」

「そんな現実逃避してませんけどね? でも本当に広いですよ。一般家庭なんか目じゃないくらいに大きいです」

「ははっ。当然になっ」

「僕の家なんか藁屋敷だったのに……」

「よぉーしストップだぜフットマン。藁屋敷てのは聞き間違いだよな? 精々、ゴミ屋敷か何かとの聞き間違いだよな?」

「いえ、ゴミは所詮ゴミだからって父さん家に集めないので不要なものは無かったんですよねウチは」

「お前の親父さんはマトモなのかなんなのかわからねぇな!」

「傭兵やっている時点で普通ではないですが。出稼ぎに傭兵って……」

「はっはっは貧困極まれりじゃねぇか」

 ケラケラとおかしそうに笑う親不孝通りに弦巻は「笑いごとじゃないですよ」とどんよりした様子でげんなりと呟いた。そんな彼に対して「んで?」と問い掛けた。

「なんですか?」

「いや気にかかってな。藁屋敷って何ぞや~って具合にさ」

「別に面白い内容じゃないですよ?」

「うん、だろうなって思う。だが聞いておかねーと凄い気がかりになるしがっかりは最低限しねぇから安心して話せ」

「命令形ですか」

「ま。話したくないような内容だったら無理を通して話させるけどなっ♪」

「最低ですねひじきさん!?」

「基本、私はそこらへん横暴に生きてるんでな。けらけらけらっ」

 うわぁ……、凄い愉しんでるよこのメイドさん……。と思いながらも別段隠す様な内容でもない為に日向は、

「まぁ僕の家は貧乏なんで……」

と、話し始める事とした。

それに実際には横暴に聞き出す様な女性でもあるまい。批自棄とは出会って僅かだが、人格者としての面が存外強い事に日向はある程度感じ勘付いていた。

「生まれてから物心ついた頃には不思議に思ってましたね。何で僕の家、こんなに地下にあるんだろうって」

「すげぇ早くも話に付いていけねーぜユミクロ君よ」

 珍しく目に驚きが灯っている。やはり自分の生活習慣は……環境は余程狂っていたのだなとこういう場面で実感できてしまう為に日向内心少し項垂れたが、話し始めた以上は最後まで語ってしまおう。

「いやぁ皆は扉を開けて外に出るのに何で僕は丸い板を持ち上げてるのかなって昔はすっごい不思議に思ってました」

「それは世に言うマンホールって言う物体だけどな」

「僕の中では当時『ドア=マンホール』だったので実態を知った時はカルチャーショック並みの出来事でしたね」

「周辺住民にしてみたら地下道を生きている住民がいる事にショックだろうがな」

「よく『自宅が一番落ち着くよね』って言葉がありましたけど自宅臭いのにな~ってずっと不思議でしたね~」

「食事とかどうする気だったんだろうな親父さん」

「食事の心配はいりませんでした。良く外に出て食べ走りしたので」

「無銭飲食だよなぁ、それ! 食べて走ったってそれ無銭飲食だよなぁ!?」

「父さん曰く『ネズミを食べる程落魄れたくはないんだぞぉ!』だそうで」

「よーし無駄に自尊心持ってるおやっさんの様だな、めんどくせぇっ」

「一番困ったのは家庭訪問の時でしたね。先生が来られませんでした」

「先生も下に家があるとか考えないだろうからな」

「まぁ家が分かった後も『日向君。ここじゃなんだから学校でご両親含めて話そっか』って言って上がってくれた事は一度しかありませんでしたが」

「先生もマンホールの下で家庭訪問とかしたくなかったんだろうな。そして一度はあったって事実が驚きだわ」

「昔、一度だけあったんですよ。『ははは、これはまた個性的な場所に住んでるね』って言いながらニコニコ笑顔で訪問してきてくれました。感動でしたねっ!」

「感動と同時に感嘆するよ私は。何者だよセンセー。対応力高すぎるだろうセンセー」

「流石はメガネの似合うナイスミドルでした……!」

「たまげたナイスミドルなこって。しっかしなー、マンホール下での生活なんざ国が認めねーし教育委員会も同様に問題視しなかったのかよ?」

「マンホールの構造はほぼ把握してましたからねっ!」

「キリッと自信満々にドヤ顔かます場面じゃねーぞユミクロ君や」

 ガッツポーズでまでして話す武勇伝なのかどうか批自棄には怪しく思えてならない。

「後父さん、ネズミの扱い上手かったので」

「お前の親父さんは猛獣使いか何かかよ」

「休日に公園で鳩の扱いが上手かったですし、今思えばそうなのかも……?」

「それはただの暇を持て余す人種だがな!」

「ただまぁ近場の自宅を無くしてしまった方々相手には蔑みと嘲笑と窃盗を繰り返していたので折り合い悪かったですけどね」

「逆にそれで折り合い良かったら不思議だわっ!!」

「まぁそんな親父なので周辺住民には疎まれ、近隣ホームレスには憎まれ、学校には我関せずを貫かれ続けたわけで僕の状況は改善には至れるはずもなかったですね」

「四面楚歌とはよく言ったもんだな、おい」

「そんな僕の生活ががらっと変わる出来事が訪れました」

「へぇ?」

「父さんが『最近Gが大量出現し始めたからそろそろ撤退かな』と言ったんですよ」

「逆に今までGがそこまでいなかった事に驚くべきか否か悩むぜ、うぉい」

「そして僕は怯えましたね。外の世界に出て平気なのだろうかってね」

「どこの隔絶世界に生きてたんだ少年よ」

「今まで食い逃げと窃盗と学校といった面でしか外部に出なかったのに遂に家を外に移すと知った時は大丈夫なのかと不安でしたよ」

「逆に私は安心しか湧かねーけども」

「そしてついに進出した外です! シャバは最高です!」

「ヤーさんか何かかお前らは」

 シャバ等と言うセリフ、ちょっと性質の悪い性質の方々の台詞でしか批自棄は訊いた事がないというものだ。

「でも開始二分で気づきました。住むところがないって」

「うん、進出する前に気付こうな?」

「そして紆余曲折の末僕らは現在の藁で造った家に住む様になった、というわけです」

「過程をかなり飛ばしたと言うのに実態がつかめてしまうこの気持ちを私はどうしたらいいんだろうな。外部進出の後がどうなったか怖くて聞く気にならねー」

「ははは、まぁ色々ありましたね。本当に、色々……」

 そう呟く彼の言葉にはどこか暗さがあった。

 拭いきれない申し訳なさを抱く様な悲壮さが。故に踏み込むには危うい領域だろうなと批自棄は推察する。だからこそ――、しらっとそれを彼方へと流して追求するかという考えを処理する。

「だがしかし何故に藁っ!」

 何故ならそこだけは聞き逃せないからだった。何だ藁って。

「木でつくるのは手間がかかるそうなので」

「どこまでもダメ人間街道まっしぐらじゃねぇかよ親父さんよぉ!」

「でも藁もいいものですよ? あったかくて」

「お前ら生まれる時代を間違えてねーかね?」

「縄文時代みたいですいません」

 あはは、と苦笑を零しながら日向は頭を軽く下げた。

 頭の後ろで腕を組んで歩行する批自棄は、

「……壮絶な人生ってより奇天烈な人生を送ってるなユミクロは……」

 と、カタカタと愉しげに笑みを浮かべた。

「さて」

 そこで話を区切る様に語調を強めた。

「なんやかんやと無駄話しているうちに到着だぜユミクロ君」

「人の家庭事情を無駄話扱いとは流石ですねひじきさん」

 あはは、と苦笑を零す。不思議と無駄話と言われてもカチンときたりはしなかった。実際、無駄話の類であろうからと言う話だからこそ日向は諦観してしまうものがあったのが何とも物悲しくてたまらないが。

「まぁ興味深い人間模様ではあったよ。とりあえず今までの日常と比べたらマシな人生送る可能性出来たって事で今は喜んでおけ」


 ――なんたってお前は本日付で迎洋園家の従僕なんだからな


 力強く輝く批自棄の眼光に見据えられ、艶やかな赤の唇から零れた言葉に日向は体全身にぴりっとした緊張感を抱いた。

 従僕。それが彼の新しい道。

 少なくとも今までよりもずっと光に満ちた道なのだろう。仕事としてまだ何も行ってはいないが今までよりは確実にマシ、そう考える事に間違いはおそらくない。

「んじゃ扉を開けるが、この先にいるのは世に言うお前のご主人様って奴だ。粗相のないようにしっかり挨拶するんだぜ?」

「……はい」

迎洋園(げいようえん)家の御令嬢、テティス。私は勝手気ままに洋園嬢と呼んでいるが。胸元が開きすぎててエロいからって欲情して襲ったらアウトってのはわかるな?」

「はい。……いや待って?! 欲情して襲うとかありえないですからね!?」

「男ならあの胸に欲情するもんじゃねーの?」

「すっごい失礼な発言ですね!」

「貧乳派?」

「そう言う意味でもなくて!」

「まぁこれは私の勝手な意見だが始め『お嬢様~』って呼んでる間柄だったのが、いつの間にか『ペットらしく~』うんぬんになってたら面白いかなってな」

「自分の主に何を望んでるんですかひじきさんは!?」

「調教、乙」

「語尾に『ww』が付きそうな顔で言わないでいただけますかね!?」

「だがここだけの話、洋園嬢は何となくお前を気にかけてる節があるから脈ありかもしれねーぜ?」

「ハッ、一〇〇パーありえませんね」

「自分で自分をそこまで卑下して嘲笑う様な表情が出来る辺りガタがきてるなユミクロ。まぁなんにせよもしも洋園嬢と『禁断! 主従の恋物語~!』的な発展した時には調教してペットよろっ」

「この人メイドのくせして主人への礼節皆無だなぁっ!」

「礼節? 何それおもれーの?」

「さっきまでシリアスな印象で礼節うんぬん言ってた人種とは思えない様な『ケッ』という表情ですねぇ!」

「だって洋園嬢、全体的に完璧すぎて弄りがいがねーし」

「主人を弄りたいが為だけにっ!?」

「んじゃ開けるから粗相のないよー、にっ」

「ここで急遽!? えっ、あっ、ちょっと待ってくださっ……! 何か今のやり取りで心の準備がむしろ出来なくなって――」

 あたふたと慌てた様子で手をぱたぱたと振りながら制止しようと言葉を紡ぐ。

 だがそんなもの伝わるわけもなく批自棄は「さぁ挙動不審のままの挨拶によるオモシレー展開よろ」と口元に愉快痛快そうな笑みを浮かべている。

 野郎、面白いものが見たいためだけに胸だのなんだの言って意識させたな……! と、日向は落ち着かない頭ながらもそんな怒りを抱きつつ、はっと思いついた行動を実行に移す。

 それは瞬時の思考であった。

 そうだ。開けられる前に扉を両の手で抑えてしまえばオーケー、と。僅か数秒の世界での思考であった。そう思った瞬間に《ギィ》と重く慎み深い音を響かせ僅かに開く扉を抑えるべく瞬時に彼は動いた。開けさせるわけにはいかない。

 何か落ち着きを取っ払われた状況で面会は拙い気がする為だ。

 故にバッと即座に、果敢に、勝ちを掴む。

「まったく、貴方方は先程から何を廊下で会話ばかりしているのです? さっさと入ってきなさいというもの――」

 声が聴こえた。

 内側から開け放たれた扉を抑えつつ凛とした印象の声が耳に近い場所で聞こえる。その綺麗な声と同時に感じたのは手の平の感触だった。

 もにゅっと。

 いったいどうしたらこんな温かく柔らかな感触の物体が生まれるものなのだろうかと人生全てをかけて思考したくなる様な感触。もしももう少し違和感を抱けたら間違いなく確かめる形でもにゅもにゅと何度か握ってしまったに違いない程だ。

 しかしそれに至らなかったのは明快。

 日向は否応なく事態が『うわぁ……』な方向に向かった事を理解していた。それほどに周辺の状況は実に察しやすい状況にあったからだ。

 なにせ眼前に彼女の顔が見えているのだから。

 手の平に包む感触が果たして何なのか――なんて緊張と切迫と絶望でさーっと青ざめた感情が『ヤバヤバだーっ』と元気よく伝えてくれたのだから。

「……」

 目の前の少女の目がまず間近にある汗たらーの少年の顔を捉える。

 次いですーっと視線が下に落ちて自分の胸元を見据えた。柔らかな双丘が弦巻の手の平で歪な形に歪んでいる。相次ぎ、少女の顔が凄まじい勢いで朱に染まった。

 そしてその後の記憶は弦巻日向は覚えていない。

 覚えているのは腹部のみぞおちに走った死にたくなるような激痛と――。

 批自棄の「おもしれー」という呆れを含んだ意味での感想ただ一言であった。


 そして時間にして一三分後。

 意識を回帰させ腹部の痛みに涙目、何故だか両頬が焼ける様に熱く紅葉型の型をくっきりと浮かび上がらせている。けれどそれに気に掛けるわけにもいかなかった。

「ぅ~~! ぅ~~!」

「は、ははは……」

 目の前には羞恥に赤く染まった顔でこちらを睨む少女の姿があるのだから。

 弁明も言い訳も弁解も発せられるはずもなかった。思い出させる行動も酷と言うものなのだろうか。何にせよ甘んじて甘受する他に無さそうですね、と日向は内心呟いた。

 あちらは不慮の事故と言うのはわかっている様でこちらを一概に責められない。

 かと言って申し訳ない事をしたのは事実なのでこちらは微動だに出来ない。そんな気まずくマズイ空気がもやもやと空気を漂っている。

 その中で批自棄だけが空気読まずに笑いを堪えている。

 いっそ爆笑してしまえと叫びたい。肩を震わせ腹を抱えて目じりに溜まった涙を拭う。後でぶん殴ってやりたいのに相手は女性。殴れないではないかと思いながら怨念めいたものを涙目ながらに送る日向である。

 さて、そんな面倒くさい空気を延々と垂れ流すのもどうかと感じたのであろう。

 眼前の他と比べ装飾豪華な席に腰かける少女、迎洋園テティスは大きく息を吸って吐いてと繰り返した後に。

「迎洋園さんの胸を触って本当にすいませんでしたっ!」

 あちらが何か言う前にまずは謝罪を試みた日向が叫んでみた。

「ぶふぉ!?」

 そして吹き出す迎洋園テティス。

 だがその気配を気にした風もなく、あるいは気付いていない様子で。

「事故ではありましたが触ってしまって本当にすいませんでした……」

「ま、まぁ不慮の事故と言うのはよくわかってますから……」

「いえ、謝る必要がありますから。胸を触った事についてっ!」

「力説は止して頂けますかしら!?」

「あんな両手でがっちりつかんで包み込むみたいにしっかり触っちゃって……」

「日向。本当に申し訳ないと思うならその口を閉じなさい」

 耐え切れない様にテティスが真っ赤な顔で彼の胸倉をつかみ、ねじりあげる。息が出来ませんと訴える彼に対して「適切に言葉として述べないように。オーケー?」と問い掛けて返答が絶え絶えの「お、オーケー……!!」だったのを認識してからそっと手を離す。

 そして苦しそうにコホコホ咳込む日向に背を向けながら冷静な口調で言葉を紡いだ。

「とりあえず先程の一件は不問と致しまして……」

「弦巻君がお嬢様の胸を触った件ですよ♪」

 ここぞとばかりに睡蓮が念押しする。

「ごほっ」

 冷静が崩れ去った瞬間である。

 そしてすぐさまバッ、と睡蓮の方をジト目で涙目ながらに訴えた。

「……睡蓮。私が暗に伏した出来事を明確に告げないで頂けますか? 恥かしいのですけれど?」

「申し訳ありませんお嬢様」

「わかればよろしいですわ。そして記憶から消しなさい」

「真っ赤になって唸るお嬢様と言うのが得てして可愛らしかったので正直からかいたいですね。そう言われてしまっては残念ですが致し方ありません」

「主をからかわないで頂けるかしら?!」

「私の分もとっとけよ土御門ーっ」

「親不孝通りさんも腹を抱えて肩を震わせながら仲間入りしないでくださるかしら!?」

「仲間外れはずるいであります」

「ねぇ我那覇? 何で貴女までからかいたそうな表情を浮かべるのかしら?」

 何ですかこの周り全員敵は! と叫ぶ迎洋園。

 そんな彼女らを見守りながら弦巻は考えた。普段完璧だからからかう隙間がない、と言っていたが隙が出来たら弄りたくて容赦ないですねこの人達……! と考える。だが確かに完璧超人めいたオーラがあるよな~とほのぼの眺めつつ気付く。

 あれ、そのくんだりの内容だと自分も今後しばらくそのネタでからかわれるのではないかという懸念を抱く。日向は頬に冷や汗がたらりと流れるのを実感した。

 いやむしろ変態のレッテル張られないだろうかと心配に思えてきた。

「ともかくです」

そこで迎洋園は大きな声で話を遮断し、

「あんな恥ずかしい出来事さっさと忘れたいのですから皆、忘れる事。いいですわね?」

と、赤い顔で告げた。

「了解しました。胸のうちに秘めておきますねテティス様♪」

「至極残念だが主の命令じゃしゃーねーか。胸に秘めておくよーん」

「胸に秘めるであります」

「何故かしらね。何で三名全員、出来事を秘める意味合いでそれを取ったのでしょうね。忘れますとかじゃないのが妙に気にかかりますわ……」

 そう言いながらもテティス自身も出来事を何時までも胸に抱えているのも恥ずかしいのだろう。その意思をくみ取って弦巻もまた彼女の優しさに胸をかりつつ秘めて対面する。

「何にせよ、従僕服……似合ってましてよ、日向」

「ありがとうございます」

 と言いつつも本人は似合っているか自信ないのだが……。

「自身なさげですね~弦巻君」

「まぁこんないい服装が僕に似合うとも思えませんし……」

「私にあれだけの事をした男に称讃送るも嫌でありますが適度に似合ってはいるであります」

「その表現だと僕、何をしたんだろうって男に思えるので止めてください我那覇さん。そしてありがとうございます」

「けれど一つ難点があるであります」

「難点?」

「何かあるかしら……ね?」

 蹂凛の言葉に日向が続いてテティスが首を傾げる。蹂凛の言わんとしている事に関して理解していない様子だ。

けれど睡蓮は気付いた様で「ああ」と間を開けて呟いた。

「髪?」

「でありますな」

 睡蓮の言葉にこくりと頷く。

「ああ、それは一理あるな。男の癖に長髪だからなコイツ」

「執事ならばさっぱりと短髪が好ましく思えるであります」

 執事以前に企業就職ならば長髪の時点でアウトだろう。それくらいは簡単に想像つくので日向自身も時折うっとうしく思う事についての指摘に当然だなと考える。

「まぁ似合ってないわけではないですけどね」

 そう呟いたのは睡蓮だ。

 確かに日向は長髪が似合わない男子ではない。むしろ女性的な顔立ちなのだから似合っているレベルではある。けれど職務に就くという性質上の観点か、そこに厳しい指摘は生まれて当然なので特に難色を示すでもなく日向は受け止めた。

 唯、気にかかるのは……。

「……というか、僕の髪、いつの間にまたこんなに伸びたんでしょうか?」

『無自覚!?』

 と言うよりもむしろ本人もあまり気付いてないだけだが。

「つい三カ月前に短髪にしたばっかだったはずなんですが……」

「いや、三カ月も結構遠いぞ?」

「しかし、それにしては伸びる速度が速いでありますな」

「何か昔から結構伸びるもので……」

「髪の毛が早く伸びる者の性質はなんだったでありましたかなー?」

「そこの指摘は止めてくださいね!?」

「そう言えば先程、とある女性の胸を……」

「何だろう否定要素を今さっき自分で失ってしまっていたというのか!?」

「と言うかそれを話題にあげないでくれますかしら!?」

 前方で真っ赤になって叫ぶ迎洋園の声をさらりと回避しつつ動いた親不孝通りは、

「まぁともかくだ。髪の毛は、これで適当にくくっとけ。邪魔だろ?」

「あ。髪ゴム……」

 ありがとうございます、と呟きつつ手早く髪の毛をポニテに結ぶと。

「ふむ、まぁ今はこんなところでありましょうな」

「ですね。まぁ頭髪につきましては後日どうにかしますとして……お嬢様」

 テティスは先を促す言葉を受け取り彼女はテーブルの上に肘をつき手を組んだ状態で凛とした空気を身に纏う。その雰囲気は大人びた――というよりも名家の主を思わせる厳かなものであった。日向は少し身を強張らせつつ言葉を待つ。

「それでは改めて述べますわ。弦巻日向、本日より貴方には私付けの従僕(フットマン)として働いていただく事となります。よろしいですわね?」

 その言葉の意味は正式に彼女に付き従う存在となる事を示す。

 アルバイト等ではない職業。職に就くと言う意義。その重みを双肩に背負うべく、日向はしばしの隙間を置いた後に、はっきりと、そして力強い声で了承の二文字を紡いだ。

「はい」

 肯定の一言。

 今、この瞬間に自分はしっかりとした職業を背負う事となった。責任を抱いた。従僕という形の責務を授かった。

「さて初めにですが……日向。貴方はフットマンとは何か知っているかしら?」

「UMAの一種ですよね」

「弦巻君、それはビックフットです」

 苦笑しながら睡蓮が訂正する。

「あれぇ!?」

「『あれぇ!?』じゃなくてですね? 日向、貴方は自分がUMAとして働く仕事でも想像でもしていたのですか!?」

「……もしかしてフットボールをやる男でしょうか?」

「いえ、そんなスポーツマンを我が家は求めていませんけれど……」

 認知はしていないらしい。その様子から察するとコホンと一息ついて、

「では改めて告げますが、フットマン――即ち『従僕』とはイギリスで言う男性召使の事を指しますわ。名称の理由は貴族の馬車の後を追う役割を持っていたことに由来し、多くはその身体的能力によって選ばれていたとされます。彼らは主人の走路確保の為障害物を排す、処理するなどし、時には主人の目的地への到着の準備をするために、前を走ることが理由とされていますわ。『脚の立つ男(フットマン)』と言う事ですわ」

「つまり僕は車の後を走ればいいんですね……!」

 何故にそうなるのですか?

 いえ、まあ今の説明だと文字通りの従僕の意味なのですが……。ただし、現在では移動方法等五万と存在しているのだから従僕を従僕のまま使う意味など無いに等しい。

「さり気無く言葉にしてますが現代の自動車の後を走ったら警察に捕まりますわよ」

「じゃあ横ですか?」

「対向車線に撥ねられますわね」

「……」

 涙目にならないでくださいな。

 テティスはコホンと一つ咳払いして。

「日向。とりあえず私は貴方に『面白おかしく死ね』とか告げているわけではないですからね? と言うかそもそも車の横を併走してほしいとは思っていませんし」

「……では僕は何を?」

「従僕の名前が示す通りですわ。召使の役割通りに貴方にはフットマンの仕事。給仕、ドアの開閉といった行動をしてもらう事となります。後はメイドの手助け――まぁこれはうちのメイドのたくましさを考えればしばらくは助けられる側になるでしょうが。と言うか実際にそうなりますしね」

「どういう意味ですか?」

「言ったままですわ」

「言ったまま?」

「ええ。何故なら日向、貴方は形式を見れば新人にあてがわれる存在ですし職場の先輩に面倒見てもらう形が妥当です。ですから貴方の面倒はそこの親不孝通りが受け持つ事となりますわね」

「苦難、苦難(笑)」

「人選ミスです迎洋園さん! 愉快そうに僕を見ながら困難直面して四苦八苦するのを楽しみに待ってる人が上司なのは大変なんですけど!?」

「とはいえ我那覇はしたがりませんし」

「砲撃殺してもいいのでしたらするであります」

 問題外だ。と日向は断じざる得なかった。

「他の面々は大概やりたがりませんしねー……」

「土御門さんは!?」

「睡蓮は私の専属として動くので監督役の一人としてぐらいですわね」

「まぁ安心しとけユミクロ君よ。仕事ならしっかりするんでな」

「お願いしますね……?」

 親身で面倒見がいいと思えば突き放して厄介事に押し込むのもまた好き。といったハチャメチャな思考をしている問題児めいた女性に対して静かに懇願を示す。とはいえこれまでの経緯を辿れば日向としては本音で接しやすい為に全体的に好感度は高いのが彼女なのだが。

「それともう一つ安心しときな。日本へ戻ればメイドの先輩以外にお前の同僚と上司も増えるこったろうからな」

「同僚? 上司、ですか?」

 不思議そうに呟く弦巻に対して睡蓮が簡単に説明した。

「ああ、いるんですよ弦巻君。迎洋園家にはあなた以外に一名の従僕と一名の執事。それと一人の執事長が」

「ああ、なるほど」

 考えてみれば当然。メイドがこれだけ存在し、これだけ大金持ちなのだ。自分を末席の執事として数えれば必然、上が存在するのが道理だろう。

 どんな人なのだろうか……と少し想像を膨らませる。

 そんな最中、睡蓮とテティスは小声で話していた。

「……ところでお嬢様。バトラー執事長には今回の事、説明しているのですか?」

「一応は。ただ若干、難色を示してもいますわ」

「やはりですか」

「ええ、あの人は分別わきまえる方ですし……まぁ日本に戻り次第追々ですわね」

 そんな話くんだりを横目にちらっと一瞥した後に批自棄は。

「さて。んじゃまー従僕については説明終了ってな具合でいいんかね、洋園嬢?」

「え? ええ、そうなりますわね……」

「それじゃあ次のステップだ」

「何ですかひじきさん? 次のステップって?」

「メーカイだ。まずは何よりも肝心な事だ。ユミクロ、洋園嬢をなんと呼ぶ?」

「迎洋園さん」

 それが一番言い易いとばかりに、何の事無く呟いた。

「ダメだ、ダメ。てんでダメだ。いいか? お前は今日から従僕だ。ああ、ちなみに補足だが迎洋園に於ける従僕ってのは即ち執事見習いみたいなもんととらえておけ。そしてそんなお前の重要な事――それは主への意識の高さだ」

「意識の高さ……」

「そう。まるで一晩中頬ずりして愛でたくなるような愛情、恋人を思うような心境だ」

「さらっと嘘を吹きこまないでいたあけますか、親不孝通り!?」

 テティスが若干赤面して叫ぶも批自棄は口笛を吹いて白々しく視線を逸らしている。相変わらずムカつく嘲りっぷりに呆れを抱いてしまう。だけれどここは否定したい。

 さもなくば席に鎮座する少年の困惑した赤面顔をどうすればいいと言うのだ。

「恋人……!?」

「そして日向も神妙な面持ちで愕然としない! 嘘デタラメの類ですからね!?」

「より正確には夫婦の間柄みてーなものが必要だ」

「夫婦ですか……!」

「何かしら間違ってはいませんわ。けれど何かがひねくれてく感じがしますわ!?」

「諦めましょうテティス様♪」

「その『ああ、展開次第で凄く面白そうな事に』的な表情を止めたら諦めても構いませんけれどね、睡蓮」

「だがこれはあくまで執事と主の関係性だ。従僕のお前は斜め下を行け」

「斜め下!?」

「物理的な意味でな。執事はこう呼ぶ『お嬢様』とな。だが従僕。それは単純に奴隷だ」

「どれっ……!?」

「違いますからね日向!? 漢字的に確かに従属めいた雰囲気こそあれど従僕は奴隷などとは一線を画す存在ですからね!?」

「故にお前は呼ばねばならない。洋園嬢をこう呼ばなくちゃならない。『ご主人様ぁっ』とな」

「何故かしらね。従者にとって普通の呼び方のはずが嫌に卑下した意義に聞こえてきてしまいますわね……」

「貴重な教訓ありがとうございます、ひじきさん。そうか、ご主人様、かぁ……!!」

「とりあえず日向が戻ってくる気配もありませんわね……」

 困った面持ちで頭を抱えつつテティスは項垂れる。会話の内容次第では自分がどんな呼ばれ方をされるかわかったものではない。適当に『お嬢様』や『テティス様』という在り来たりな形で構わないというのに。

「いっそ別の執事の呼び方見習って『ハニー』とかよくねぇか?」

「それは勇気がいりますねひじきさん……!」

「後は別の奴が『奴隷』って呼んでるケースもあったなぁ」

「もう僕には主従関係の定義がわからないっ!」

 ……本当に参りましたわね、とテティスは汗を伝わせて内心呟いた。

 このままでは新婚さんみたいな敬称や危うい綽名がつけられてしまいそうな勢いだ。何故にこうなったのですかと内心で吐露する。批自棄との会話に口を挟みたいものの、口を挟めないのが実に腹立たしい。

「本当にもう厄介な従者ですわ……」

 ため息を吐いて呟く。

「とはいえ」

 自己を貫くのが彼女の性質なのだから致し方ないですか、と小さな声で呟く。

 その声に答える者はおらず。

 替わりに発せられた声は一つの決定事項であった。

「決めました」

 日向が小さい、けれどはっきりとした声で告げた。

「決まっちゃいましたかー……」

 汗が中々止まらない。思考の最中に於いても聞こえてきた『姫君』『にゃんにゃん』『お館様』『ご当主』と言うジャンルからどれが選ばれたのか正直訊きたく様な気もしたテティスである。

 そんな心中察した様子で睡蓮が一応釘をさす形で「あんまり変なのは却下ですからね?」と笑顔で指摘する。

 だがそんなもの関係ないですよと言わんばかりに日向は自信満々に。

「それでは迎洋園さん。これから僕の主人としてこう呼ばせて頂く事としますっ」

「……」

 皆が一様に静まり返る。

 しずかな緊張感が漂う。その空気を拭う様に日向は確かな声で告げる。

「ひめねーさ「却下」何でですかぁっ!?」

 ガビーン、という音が聞こえてきそうな日向のアホ面が炸裂する。

「何でっ、何でダメなんですか!? ひじきさん推奨なのに!!」

 不満そうに手をパタパタと振って目をくるくる回しながら納得いかないですよと叫ぶ日向。

「何故か、ですか。そうですわね……」

「サハラ砂漠に吹く熱風由来のアニメーションを相手にするとしたら却下は必然です」

 睡蓮がピシッとした態度で告げる。

「それだったら……お嬢!」

「『どうですか』と言わんばかりのキメ顔ですがテティス様には少し合わないかと……」

「じゃあ姫様でいいでしょうか?」

「その呼び名は今のご時世、私は少し恥ずかしいのですが……」

 苦言を呈す迎洋園。どうにも批自棄を一緒になって決めた名称は却下の様だ。と言うか背後で肝心の批自棄ときたら「やー本当に言うとはやるねーユミクロ君」とからから笑っている。

 その答えが示す事は一つ。

 またからかいましたね……! と内心で拳を握りしめて唸りながらも、結局何て呼ぶべきだろうかと少し悩む。

「もう他にどんな呼び名が残ってると言うんですか……!」

「いえ、普通にお嬢様とかで構わないのですが……」

「そんなのダメですよ!」

「なぜです!?」

「似たような呼び方をしていてはキャラが薄まるからです!」

「結構、色々勘定に入れてるんですのね?」

「ってひじきさんの助言です!」

「ええ、予想ついてましたわ。後で少しじっくりお話致しましょうか親不孝通り!」

「いぇーおっことわりーっ」

「興味関心全くなしの態度で拒否られるといささかイラッときますわね」

「ははは、わりーわりー」

 批自棄はカタカタ揺れ動き不気味な笑みを浮かべた後にぴらっと右手を軽く振って嘆息交じりに呟いた。

「けどまーよー。後輩のポジション確立の為に助言してみたんだぜ、イチオー私もな」

「助言の結果が名称になるんですのね……」

「そーいうこった」

 そして何故それほど個性が薄まる事に日向が執着しているかと言えば蹂凛との会話による個性うんぬんが地味に余波を残しているのだが……、その事はもう頭にない蹂凛は不思議そうな視線を向けてくるだけであった。

「結論どーするよ、ユミクロ君? あーだこーだ言っちまったが何だかんだ お前の一番しっくりくる呼び方にしておけよ。なんつったってこれからずっと呼ぶ事になる敬称だからな」

 気だるげにしながら彼女はそう告げた。

 一生の敬称。なるほど事実だろう。四億円なんていう借金抱えているのだ。これから何年に渡り返済する事になるかわかったものではない。だとしたら自分が彼女を仕え続けられる様な心持を生む呼び方がいい。そう考えた瞬間にふっと日向は一つの呼び方を思い浮かぶ事が出来た。男として、執事として、弦巻日向として何となしにしっくり来る。

 そう感じた瞬間に弦巻は呟いた。

「閃きましたぁあああ!」

「何か天啓でも舞い降りたんですの?」

「はい、背中の方からザグンッと」

「背後から刺された様にしか感じられない表現なのですが!?」

「まるで脚の小指をタンスにぶつけたかの様な電流が走りましたね」

「想像するだけで痛そうですわね」

「では満を持して自信満々に告げさせて頂きます」

 そう告げて、胸に手を当てて日向は静かに呼吸を整えた。

 対して呼ばれる主であるテティスは内心でそもそもなぜ、呼び方一つでここまで長引いているのかしら……、と疑問を感じていたりもするが、いよいよ決まったとなると少しばかり緊張感を感じていた。周囲がシンと静まり帰る中で日向は一泊間を置いた後に告げた。


「それでは僕は貴方の事を……主様(あるじさま)と呼ばせて頂きますっ!!」


 静まっていた空気がより一層静まった。

「如何ですか皆さん!」

 自信たっぷりに呈する彼に対して周囲はしばし硬直していた後に、

「主様ですか~♪ いいですね、わかりやすくって♪」

「いやご主人様の方がまだ普つ「黙っていましょう我那覇。指摘してこじれたら手が付けられない気がするので」……いえっさー、であります」

「今、我那覇さん何か言いましたか?」

 蹂凛の言葉を遮る形で告げた睡蓮の様子を見て不思議そうに首を傾げる日向に対して睡蓮は「いいえ、なんでもありませんよ弦巻君♪」と笑顔で接する。

 そんな中、主様と呼ばれた肝心の少女は。

「何時の時代の呼び方なのかしら……」

 少し複雑そうな表情を浮かべていたりもしたが「主様(ぬしさま)とか言われるよりかはかなりマシかもしれませんけど……」と呟いて内心で決着をつけた。

「さて……、それでは形式的なものも済んだことです」

「はい」

「ではこれより弦巻日向。貴方は迎洋園家の従僕となりました。まずは新人見習いとして一通りの職務を実践していただく形となります。今日の仕事内容は……こちらになりますわ」

 机の上で手を組んで毅然とした雰囲気を発しながらテティスはテーブルの上にある数枚の用紙を手に取ると日向の方へと手渡した。

 軽く視線で上から下まで追ってみる。

 簡単に目を通しただけでも若干「うへぇ……」というつぶやきが洩れる様なスケジュールにも感じられた。とはいえこれが自分の仕事。それも正規のちゃんとした仕事だ。日向の心は内心『ちゃんとしたこと』に心躍る気持ちが生まれていた。

「アシストは親不孝通り。任せましたわよ」

声を走らせ批自棄の方を一瞥し告げると批自棄は頭の後ろで腕を組んで、

「しゃーねぇなーかったるぃなーめんどくせーなーしょーがねぇー」

と、やる気のない様な、ある様な返答が帰ってきたがいつも通りで済ませて。

「それでは日向」

 そっと視線と顔を彼へと向ける。

 そうしてふわっと花咲く様な微笑みを浮かべて呟いた。

 小さくもしっかり聞こえる声で頑張りなさい、と。

 その声に答える様に日向はシャンとした佇まいで椅子から立ち上がり。

「お任せくださいですよ! 主様っ!」

 ぐっと拳を握りしめ声高らかに叫んだ。

 そしてくるりと扉の方へ向けて颯爽と走り出す。頑張らなくちゃ、そんな気持ちで駆けだしてゆく。新しい日々が確かに始まる事に大地に新芽が芽吹く様な爽やかな気持ちを胸に抱きながら日向は走ってゆき。

「もばふぉんっ!?」

 カーペットに足を取られてすっころび、近場の階段を勢いよく転げ落ちてゆき下の階から《ガシャーン!!》という何かが粉々に割れる音を響かせて。

 彼の新しい日常は始まりを告げた。粉砕音と共に……。

 そんな慌ただしい彼の背中を見守っていた主と従者達は心の中でそっと呟いた。

「……何となくそんな気がしていましたが」

「な。私のからかいに乗せられる辺りな」

と、睡蓮の言葉に肯定を示す形で批自棄が呟く。

 その通りだなと三名は頷いた。

 ここへ来る間の時折見せる妙なテンション。含めて興味津々な時の子供っぽさ。四億円絡みの失敗と不幸の数々を考えて、そして何故に『主様』と言う敬称を選抜したのかうんぬんを含めて四名はうんうんと頷いいて。

 間違いなく良識人ではある彼だけれど、おそらくは。

『……あの子、多分バカな子ですね(ですわ)(だろ)(でありますな)……』

 天然の……と最後に付け足して。

 下の階から聞こえる『わっ。わっ。ど、どうしようコレ!? ねぇどうしよう!? 割れちゃったよ花瓶!? 割れちゃいましたよ花瓶!? ちょ、うわぁ、どうしよう!? どうしよぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!?』という困惑の声に。

 しばし静かかつ優雅にお茶を愉しみ心を落ち着ける一行であった。


        2


「って事で借金加算で二〇〇万円。総額4億5,300万2,345千3333円な」

 ぽかんと口を開けて等では済まず天を仰いで「神よ……」と主に許しを請う様な状態の日向に対して特に何の感慨も抱いていない様子で批自棄はこともなげに伝えた。

 そんな彼らの傍にあるのは青磁の花瓶であった。健在であったならば相応の雰囲気を醸し出していて、水を具現化した様に流麗で厳かな花瓶――であったはずだ。だが今では悲しいまでに粉砕されていた。大小それぞれ異なる破片の数々。内側から溢れた水。赤いカーペットの上は弦巻の悲しみを体現する様に敷き布を濡らしていた。

「ははは。やるな、ユミクロ君。いきなり家財破損たぁ」

「やってしまいました……」

「いやぁ、記録更新だぜ」

「何のですか?」

「ん。聞きたーい?」

「いえ、聞きたくありません、やっぱり!」

「就職後、家財損壊のタイム。最高だった五分が本日、遂にたった二分っていうなっ」

「訊きたくないって言ったのに笑顔で言ったよこの人! そして嫌だぁあああああああああああああああああああああああああっ!!」

 うわぁぁぁ……、とカーペットの上で咽び泣く日向。ただでさえ濡れていた赤いカーペットが更に濡れてゆくがカーペットは『そんなに泣くなよ坊ちゃん。一度や二度の失敗でへこたれてちゃあいけねぇや』と男前に彼の涙を受け止めていた。

「しかし、マジで最速更新だな。ジョースケを超えやがった。こりゃ将来有望――否、将来無望だな」

「僕、将来無いんですか!?」

 泣いていた顔をばっと跳ね上げて涙目で懇願する様に問い掛けた。否定してくださいと言う意思がビンビン伝わってくるが……。

「借金とかガチでヤバイしな」

 えらくリアルな内容で惨殺である。

「僕、将来無望だったぁああああああああああああああああああッ!!」

 もうダメだぁ……、と更に泣き叫ぶ日向。

 赤いカーペットは大きく腰を据えながら『大丈夫だ。自身持て坊ちゃん。男がそんなわんわん泣いてたらいけねーぜ』とばかりに受け止める。だけれど、そんな優しい言葉は当然ながら日向の耳に届くわけもなく。

「初日……、初日で二〇〇万円の借金増加……は、ははは……」

 まさしく失意の胸中である。失意を今日中に何度するのだろうか。

 ぽかんとしていた感情が胸の中までぽっかりと抉り取った様な感覚に打ちひしがれる。

「まー清朝時代の一品だしな。昔ならまだしも今の時期はざっと二〇〇万円っつー代物だ」

「家財高いです」

「涙目で訴える様な懇願だな。金持ちともなるとな、周囲への見栄が必須なんだよ」

「そこは名家の尊厳とかいうべきでは!?」

「まぁそんな尊厳もさっき一つ砕けたわけだが」

 ピシッと指さす先には先程まで威厳に包まれていたが某従僕により破砕された花瓶が『気落ちしなさんな少年。俺が壊れたのは仕方ないことだって。形あるものはいずれ壊れる。だからここから先はお前が俺の分まで背負ってお嬢に花の様な笑顔を見せてやってくれ』とばかりに横たわっていた。

 だが弦巻にとっては『この恨み晴らさでおくべきか……!』にしか思えないし、何よりも親不孝通りの指摘に対して、

「傷に塩を塗り込まれたっ!」

「塗り込んでやったぜ」

「すっごい不敵な笑みですねぇ!?」

「ただまぁ、安堵しとけよユミクロ君」

 砕けた破片の一つ。なるべく手頃なサイズの破片をひょいと摘まむと、

「この青磁の花瓶は別にそこまで重宝してる一品でもねーから」

「……そうなんですか?」

「こんな場所に設置してある花瓶一つが重宝してあるわけねーだろ。本当に大切なものは大概見え張った玄関とか倉庫に大切に保管されてあるっての」

「それなら良かったです……!」

「ただ、つってもよぉ」

ケラケラと不遜な態度で笑みを浮かべながら、

「――額は額で普通に流通な価格で二〇〇万円はガチだがな」

そこは仕方ないとばかりに、ふぅ、と息をついて。

「ごふっ……!」

 素直にダメージを喰らった。

 二〇〇万円という借金の加算はどうしたって帳消しには出来ない。

 うやむやとは決していかない額にあやふやで朦朧に霧の中へ消えてしまいそうな思考を必死に繋ぎ止めながら弦巻は声を振り絞り呟いた。

「すいません」

「いや、まぁ謝罪したくもなるわな心情的に。けどともかく顔を上げな」

「すいません。……」

「いや謝罪の連呼はとりあえず置いといて、まずは顔を上げろってユミクロ君」

「すいません。……」

「ダメか。精神的に参り果てやがったぜ、YA(コイツ)

 と言うか先ほどから後半ブツブツ呟いているのだが聞き取りづらい。何と言っているのだろうかと批自棄は聴覚に集中してみた結果。

「すいません。……どなたか切腹に使用できるくらいの包丁を……」

「そっち!? 謝罪じゃなく借りたいって意義の『すいません』だったのか!? 何時の間に謝罪の心がメーター振り切ってオーバーヒートに至ったよ!?」

「だってひじきさん。僕はもう……生きてちゃいけない運命(さだめ)ですよ」

「ネガティブだなぁ、おい」

「最早切腹するしかないんです……!」

「流石は日本男児だな。でも今のご時世に切腹とか見たくねーよ」

「お目汚しはさせません、包丁をお借り次第腹を掻っ捌きますっ!」

「そうか」

「そうです」

 神妙な表情で頷き合うメイドとフットマン。

 借り次第掻っ捌く気の時点で臓物等で私の眼が汚れるんだがな、とツッコミすべきか否かで軽く思考もしたがそれは別にいい。

 それよりも肝心なのは彼の眼だ。

 この時、批自棄は確かにその瞳に見た。確かな決意と覚悟を。揺るがないであろう自殺への熱意を。周りがなんと言おうが頑なに首を横に振る事はないであろう意思を、その瞳の奥に垣間見た。その凄絶とも言うべき意思を前に、

「だが貸さねぇし」

 そしてメイドは物凄く見下した表情で「ケッ」と舌打ちして答えを発した。

「何でですか!?」

「いや、使われる包丁が気の毒だしよ」

「……はっ!?」

「いや、まさかこの発言に対して『言われてみれば……!』的な表情を浮かべられるとは私もあんま思わなかったんだけど」

「確かに僕なんかの血液に晒されたら包丁が可哀そうでした……!」

「私としては今のお前が可哀そうでならないよ」

 どこまで自分を卑下してんだろうなコイツ……、と考えながら流石に哀れみ、そして同乗して同情の念を浮かべざるを得なかった。

「でもそれじゃあ切腹出来ませんっ!」

「まだする気かいっ」

 自殺したい奴がいるならサクッと自殺すりゃーいいだろうが……という気持ちにならず、むしろ自分以外の者が自殺とか、こちとらの個性浸食してんじゃねぇよ、という心情の批自棄は気だるそうに頭をわしゃわしゃとしながら、

「自殺してーんなら切腹以外にも方法があんだろうが」

「投身自殺ですか?」

「まぁそもそもさせねーけどよ」

「ひじきさん、人が悪いって言われませんか?」

「良く言われるが、ここで言われると流石の私も心外だなぁっ!」

 だが切腹せずして如何に自分が詫びを入れられるというのだろうか。

「何か嫌な考え起こしてそうだから一つ言っておくぜ。花瓶一つと人間一人の価値だったら人間尊重だっつの、まったく」

 呆れ混じりに批自棄は呟くとグワシッと鋭い手先で日向の頭部を鷲掴むと、

「花瓶壊して申し訳ありませんでーしーたーっつーなら仕事で挽回しやがりな。そして私が教育係になってる以上は自殺は許さねぇ。そいつは私の専売特許だ」

 獲物を射殺す様な視線を送られて流石の日向も「は、はい……!」と力強い声で頷くほかになく、その回答を得ると批自棄はニカァッと笑みを浮かべる。

「よーし、それでいい。それがいい。んじゃまずは花瓶の後処理――」

 と口元に手を当てながら呟きつつ視線を周囲の扉へ、より正確には扉の中の部屋を見据えているのだろう。うむ、とばかりに小さく頷くと相変わらずの悍ましい笑みを浮かべて、

「後処理ついでだ。次は使用人の基本、掃除をやってみるのが良いだろうな」


        2


 一部屋をいざ掃除してみると存外思っていた以上に時間がかかる。それはより手間暇をかければ当然のごとく時間はかかっていくわけで、そんな掃除は大抵大掃除の折にくらいだ。

 だが迎洋園家の一部屋は舐められない。

 別に散らかっているわけではない。むしろパッと見整理整頓されており清潔であり豪華としか思えぬ程の美しさである。

 しかし部屋の隅やシャンデリアの上、箪笥の上等にはどうしたって埃が溜まる。

 加えて一部屋が大きい。一般家庭の居間よりも遥かに大きいだろう。範囲が広がれば掃除にかかる手間も大きくならざるを得ないわけで、如何に効率よく事を成すかが限りなく重要。

 だがまあ、今回はさして関係はない。

 部屋の中央に立つ批自棄は偉く感心した表情で頷いた。

「いやぁ凄いな。感心したわ私も」

 その言葉に対して日向は上手く言葉を返せる事は無かった。けれど日向の反応など気にしていないとばかりの立ち振る舞いで批自棄は遠くを見る様に手をかざしつつ、明後日を見る様な視線で周囲の状況を窺った後に視線を日向へ向ける。

 日向が気まずそうに、さっと視線を逸らす。

「ははは、目を逸らすなよユミクロ君」

「なんていうか、もう……ホントすみません」

 汗だらだらで本当に申し訳なさそうに緊張している様子を見ながら批自棄は「はぁ」と小さく溜め息づいた後に、

「とりあえず謝罪するならこっちを向けYA(おまえ)

と、言われ日向はしょんぼりとした様子で視線を戻した。

「しかしお前も不幸体質なんだかドジっ子の類なんだかわかりゃしねぇな」

「昔から結構器用にこなせはするんですが、どうしてか失敗が時折ありまして……」

「だろうな。器用な癖して奇妙なところで失敗している辺り」

「失敗しないように頑張ったんですが……」

「頑張った行動は評価するぜ、私も。つってもまぁ……」

 批自棄は周囲へ目配せしながら「うはぁ、おもしれー……(棒)」と棒読みで呟く。

 汗だくの弦巻は何も言えない。おそらくこの惨状を見れば、他の人も同様に絶句する事だろう。今、彼らがいる部屋――それは一言で言えばカオスだった。

 飾ってあった高価な置物は破壊。

 赤いカーペットには洗剤塗れの水がかかり。

 壁には焦げた焼け跡。

 床に落ちた見る影もないシャンデリア。

「三〇〇万くらいは逝ったか」

「もう死にたいけど、死ねない……!」

 自分の妙な不器用さに嫌気が差してくる。

「いやはや、まさか――さっきの失態を払拭すべく箒を手に部屋へ乗り込んだところ強く開け放った扉が壁にぶつかった反動で跳ね返って顔面強打しふらついた瞬間に傍にある置物にたまたま箒の先端が衝突し置物がぐらりと落ちそうになったのを必死の形相でどうにか抑え込んだところ急に窓の外から一羽の鳥が飛び込んできて置物の上に着地しバランスが崩れかけたのを必死にどうにかしようとした結果、上へ放り投げてしまい結果、シャンデリアに激突してシャンデリアの一部が破壊、この際あろう事か置物はシャンデリアの形状に捕まる様にのっかかってその間下では、カーペットにザクザクと破片が突き刺さるだけでも不幸なのに、置物救出の際に思わず放り投げた箒があろうことか壁にある蝋燭台に接触して引火し壁が炎上、騒ぎに気付いて即座に火消を試みようとするも箒がそこでちょうど支えを失って横に倒れる。床に引火するのは避けるべくさっき花瓶処理に使ったバケツの水をぶちまけたはいいが、その際にバケツが洗剤にひっかかり蓋が空いた状態でカーペットに染み込んで内心嘆きまくりな頃に上のシャンデリアにひっかかっていた置物が置物自体の重さでシャンデリアごと自分を床へと落下させて、現在のユミクロ君は若干の怪我を負った、と」

「……ダメですね、僕」

 自嘲気味の際の常套句の様なセリフなのだが重みがまるで違う。死んだ魚の眼をしながら呟くだけで本当に自分を見限った感が感じられるのが実に嫌だ。

「気にすんな。つっても流石に無理だろうが」

「……すいません」

 完全に落ち込みモードに入ってしまった様子の日向を見ながら批自棄も流石に堪えるだろうな、という感想を抱く。

 借金莫大で頑張って返済しようという矢先にこれだけ立て続けに不幸と言うかドジが続いて借金がかさむとなるとみていられなくなる気持ちだ。かといって肩代わり出来る金額でもないが。だが現在一番重要な事はとりあえず精神的に落ち着かせる事にあるだろう。

「とりあえずアレだ。後片付け。箒で掃いたり、雑巾で拭いたりしてな。案外落ち着くぜ」

 そう呟いて差し出された箒を日向は若干、恐る恐るながらも受け取ると、

「……はい」

 そう。小さく呟き返した。


 それから数十分の間は実に穏やかな時間が流れた。実に静かに。箒で床を掃いたりしているだけなのだから、それも当然な話だが先程までの不幸を考えると信じ難い話にも思えた。けれど日向として明らかにクビどころか切腹ものクラスの失敗を犯したのに咎めずに優しく対応してくれた批自棄に感謝していた。

 なのだが不安は正直雑巾がけをやったくらいじゃ拭い切れず、

「僕、従僕としてやってけるでしょうか……」

「え? 問題ないだろ」

「即答過ぎません!?」

 ここまで失敗に失敗を重ねて失態を起こしているにも関わらず批自棄は別に何の問題も発生していないどころか手際のいい使用人相手に告げる様な言葉を寄越した。

 何故、そんな事が言えるのだろうか。

 そんな日向の疑問に対して批自棄は天井を仰ぎ見る体勢で語りかけた。

「……ウチにはな。お前以外に従僕が一人いるって話したろ?」

「それは確かに聞きましたけど……」

「そのほかについさっき、ジョースケって言っただろ? そいつがお前が塗り替える前の最速破壊者だったんだよ。そいつもてんでダメダメでなー。いや、むしろ気概は溢れてたな。熱血とでも言うべきか。まあ熱い男って奴だ。だから空回りも多くてな。そんな奴だったから今さっきのお前みたいな器物破壊もよくやった奴なんだよ。今でも時折、な」

「そうなんですか……」

「そんな奴でも従僕やれてるんだ。いくらか理性的なお前がやれないわけがねー」

「何か複雑な心境ですけどねっ!」

 底辺同士、五十歩百歩の戦いだった。どちらが制しているのかもわからない。

 けれど自分にも出来るのなら……、そう考えると相手には申し訳ないが少しばかりの希望を抱けた。相手を下に見下す様な情けない安心感に自嘲する気持ちも大きいが。

 だが従僕として成長していきたいという気持ちも同時に大きくあった。

「……誰かに師事してお手本にするのも手かなあ……」

 そんな言葉が自分の口から不意に漏れたのに少し驚いたが、師事するのは悪くないかもしれない。それで成長出来たらもう物を壊したりして、こんな落ち込む気持ちに――期待しててくれる人を裏切る心地にはならないかもしれないから。

「師事、ねぇ……」

 対する批自棄は確かに悪くはない。けれど相手間違えると大変だなーという感想を抱いた。

「とりあえず最近、知り合った不知火(シラヌイ)さんに尋ねてみようかなっ」

「よせ」

 誰に師事するにしても応援してやるかね、くらいに構えていた批自棄は執事従僕を知らないからってここでその選択肢しかない実態に気づいて即座に制止にかかった。

「あー、あー、個人的な、ひじきさん的な意見だがヤコーってか不知火は止めとけ。筋肉筋肉な未来と結末しか待ってねーから。そもそもあいつは執事の仕事として少し部類が違う」

 やれやれとばかりに手と首を振って言う批自棄に「そうなんですか?」と疑問を呈すると小さく頷き返す。

「ヤコー……。ヤコー、はなぁ……」

 確かに執事全般の仕事(主に筋肉で)はしているわけなんだが、アイツは知らぬ存ぜぬなウチに独断行動、あるいは筋肉な事をやっているケースが多すぎて手本にゃならねー。

 それが批自棄の見解であった。

 とはいえよくよく考えれば確かにモデリングケースはあろう事か、あり得る事か、あり得ない事に不知火しかいなかった。

「かと言って……」

 いや、確かに執事っぽいっちゃっ饒平名(ヨヘナ)の旦那もいるんだがな。あくまであの人は運転手っつーか『運転主(ショーファー)』って存在なんだがよ。文字通り運転手であって執事じゃあねーんだよな。と、内心で検討する。

 他に日向が出会った存在は大地離(オオジバナリ)(サカイ)、または(ヒサゲ)の当代。どちらも当主であって執事と言う職種にも従僕の職種にもついてはいない。

 だが、だからと言ってヤコー、不知火九十九では師事等は言語道断だ。

「そもそも筋肉語がわからねーだろうし……」

「何の話!?」

 批自棄はそう内心で頷く時である。

 筋肉語って何だと訝しみながらも日向はふと思い出した様に掃除の手を止め彼女の方を見ながら呟いた。その声には尋ね事がある様な問い掛けたい気持ちが言葉に含まれている。

「そう言えばなんですけど、ひじきさん」

「何だよ? 言っとくがヤコーは止めとけよ。執事なら日本へ帰った時にでも手本が他にいるからな」

「あ、いえ、それはありがたいんですけど。そっちじゃなくってですね」

 と、少し躊躇する感じに考え込んでいたが、やがて意を決した風な表情で問い掛けた。

「迎洋園さん達が言っていた『従三家(ジュウサンヤ)』っていうのについて――教えてもらえませんか?」

「……は?」

 きょとんとした様子で問い返された事に聞いてはいけない類のことだったのかな、やはりと言う感想を抱いた弦巻は即座に「い、いえ。話せない事ならいいんですけど、少し気になっちゃいまして……!」と言い直す。

 その様子に苦笑を浮かべつつ、

「ああ、違う違う。そんな秘匿的な守備義務的な隔絶的な話題内容じゃあねーよ」

「……そうなんですか?」

「別にな隠す様なものでも隠される様な類でもねーんだ。単純に私らの中では有名すぎる存在に対してそういう見知らぬ態度でこられたからキョトンとしちまっただけの話」

「なるほど」

 つまり有名すぎる話題であったが為に尋ねられて何故知らないのかと唖然となってしまったと言う事なのか。

 けどなーっ、と頭の後ろで腕を組んでトン、と壁に背をもたれかけさせながら少し悩む様な態度を見せた。

「語るってなると……アア、やっぱ『御三家(ごさんけ)』語るしかねーよな、うん」

「『御三家?』」

 そう問い返す弦巻の声に「ああ」と小さく応え返して、

「歴史上、ほぼ同時期に発足した三つの家柄だな。日本のとある学院に於いて学校を設立へと動かした七つの名家のうちの三家を占めていやがるのさ。そして七人の創設者のうち三名として理事を務めている。その理事らの生まれ。即ちソイツらの名家ッ!! それが『御三家』だ。財力もほぼ同等、知名も家名も、な」

 互いに平行線上に並びたてる存在同士であるからこその『御三家』。

 歴史的な設立を見ても好敵手の様な関係性を築いている。学園は七つの名家が協同で運営しており、テティスの出自迎洋園家を含めている。その七家の中で同期の家柄こそ『御三家』と呼ばれている。残りの四家に関しては協同と言う形式を取っている形であり、御家発祥の時期は異なっている。

「それって一つは、主様の……」

「そ」

 ピ、と右手人差し指を掲げ周囲へ視線を走らせる。

 莫大な敷地面積の僅か一室に過ぎない部屋を感慨深げに見渡しながら、

「『御三家』はまず一つ、私らが仕える洋園嬢(うみぞのじょう)の迎洋園家。加えて一つ、YA(おまえ)も先日見た疆さんの生まれである大地離家。最後にまだYAはお目見えになっちゃねー訓子府(クンネップ)家だ」

「そこは空が来ると思ってました」

「『御三家』だからって陸海空と来ると思ってンなよ、ハハハっ」

 まあ私もそこは揃えろよって思うときあるけどな、と語り同時にだが無理言ってやんな、とも呟いた後に、

「さーて、そんな家柄っつーもんにもなると色々やる事も大きくなるってもんなんだよ。だから、だからこそ、であるために家計を支える家系ってもんは必須だったのさ。言っちまえば支援者ってやつだな」

「それが……」

「そう、それが『従三家』。平安時代にはすでに基礎が確立し始めてた、古き古きやんごとない家柄ってやつさ」

 すっと前へ差し出した手からぴっと三本の指を伸ばす。

 そのうちの一本を折って親不孝通りは語り始めた。

「一つは、言うまでもねえ。迎洋園家に仕える、陰陽道の直系、安倍清明の力を受け継ぐ一族と謳われる土御門(ツチミカド)家だ。この家柄もまー特殊でな。土御門流陰陽術はこの家独特のものになってるって話だ。門外不出を志したのかどうかは知らねぇが……、この土御門の開祖って言うのが超絶天才陰陽師と言われる土御門(エキ)、加えて術式の発明家とも言われた、易の夫、(イマニノ)才斗(サイト)の両名だ」

 流石に一言でいきなり飲み込める感じはしない為に重要な個所を飲み込む程度しか出来なかったが土御門睡蓮が迎洋園家に仕えている理由は仕える家柄であった為なのかと得心がいった。

 その様子に満足した様子で批自棄は続いてもう一本、指を折り曲げる。

「二つ目だが、お前もすでにご存じの通り、存じ上げてる通りに不知火家。大地離家に代々仕えている従家だ。この家が大地離に仕えている理由として有名なのは何でも大地離がある時、襲撃を受けた際に駆けつけ当時の当主を救ったとされるのが理由らしいな。この家柄の特質は一言に怪力だ。九十九の奴もあの体格からわかる通りに怪力の持ち主。執事っていうかボディーガードみてーな立ち位置の方がしっくりくる家系だ。まあ当時、当主を救った初代、不知火家当主のナキリも相当な怪力の持ち主だったことだろうしな」

 確かに不知火九十九の体格はかなり良かった。羨ましくなるほどに男らしい体躯だ。

 話を聞く限り代々大柄な筋肉質なものを受け継ぐのだろう。そう考えると不知火九十九の傍にいた提樹仰も相当に大柄だった事から親戚か何かなのだろうかと日向は何となしに考えた。

「で、最後だ。訓子府家に仕えるのが最後の従家である赤滝(アカタキ)家になる。この家柄が当主に仕えるノリになったのは……」

 そう言いながら最後の指を折り曲げた。

 だが歯にも衣着せぬ言いようの彼女にしては何か少し言葉を吟味する様に口籠った。

「何なんですか?」

 何故か歯切れが少し悪い事に違和感を覚えながら話を急かす。

 批自棄は「まぁ事実だしな」と言葉を区切ると、

「当時、ライバル的な立場にあった迎洋園家、大地離家が次々に従家を決めた。このままでは当家だけ格好がつかない。なら、どう思う?」

「焦るでしょうね」

「そう、焦った。だからこそ訓子府家の当主は旅に出てまで従家として起用する者を探しに出たほどだったんだそうだ。そして、長い長い旅路の末にようやく見つけたのさ。一代でただの弱小名家にしか過ぎなかった家柄をグングン格上げしたっつー腕利きの若者とな。家の歴史こそ古いがインパクトはある。その上」

「……その上?」

 どうしたんだろう?

 と、首をひねる日向に対して批自棄はニヤリとした笑みを浮かべこう答えた。


「そいつは、やってきた当主に対して出迎え代わりに庭にあった枯れ木に満開の桜を咲き誇らせたってのさ。真冬の寒ィ日にも関わらず、な」


「え……!?」

 そんな事が可能なのだろうかと日向は目を見開いた。

 けれどすぐに可能性に思い至る。常識に囚われない常識知らずな存在を〝定式知らず(イグノーセンス)〟という概念を。枯れ木に花を咲かせるなんていう普通じゃない現象もスキル持ちであるのなら簡単な話に思えてくる。

「まあ、そんなインパクトある面白存在を逃すわけもなかったんだろうな。後日、訓子府家はその男、(アサヒ)を当代に据える赤滝家は従家の一角へ伸し上がり一気に名声を高めて今に至り、そして――」

 そこで批自棄は言葉を区切った。まるで喉の奥が詰まったかの様にピタリと。

 不思議そうに思っていた日向だったが、やがて批自棄はぱっと蝿でも払う様に手を払った後に話はここまでとばかりに告げた。

「いや、ここから先は語るとマジで長くなる。話はここまでって事にしとくぜユミクロ君よ」

「え? あ、はい……?」

「ともかく一般的に聞く内容は大概、概ねそんな具合だ。『御三家』、それを支える『従三家』の存在は学院にとっちゃ基礎の基礎だ。覚えておきな」

 まぁ支える家柄で言うと他にもあるんだがよ、と呟きながら日向の傍からスタスタと歩いてゆくと、何をする気なのか、彼女は信じがたい事に床に落ちたシャンデリアを踏みつけようとした。

「?! 何しようとしてんですか、ひじきさん!?」

「あン? ンなもん、この後ちょい買い出しに行くのに部屋がこんな不格好じゃなっさけねーことこの上ねーから処理しとくだけだけどよ」

「いや、処理ってそれ踏みつけようとしているだけじゃ――!!」

 このまま踏みつけたら親不孝通りの足は見るも無残な様になる、その蛮行を止めたい一心で叫んだ。その声が急カーブに差し掛かったごとく唐突に突然に「!!? !!!!!?」という別種の驚愕に変わり果てた。

 シャンデリアは元の位置に――天井に優雅に鎮座していた。

 まるで何事も起きていなかったかの様に。

 不幸な出来事など微塵もありはしなかったかの姿で。

 いつも通りに天井で優雅な輝きを放っていた。

 その出来事に、何が起きたのかまるでわからない現象にしばし弦巻は「!?」という愕然とした表情のみを浮かべざるを得なかった。そんな彼の困惑と驚きを愉快そうに愉快犯の様に愉悦に感じながらニヤリと頼もしい笑みを顔に張り付けて。

「ま、器物破損は心配すんなユミクロ君。大概の不幸は存外、不幸通りにのみ、ありはしねーからよ」

 ギラン、と輝く親不孝通り批自棄の笑みはどこまでも頼もしく輝く。

 そんな表情を見ながら弦巻日向が思う事は一つ。

 この人は本当に色々な意味でとんでもない(ひと)であるという事だけであった。


 時間にして、弦巻達がちょうど部屋の掃除が後半へ差し掛かった頃とほぼ同時刻。

 こちらでも、また議題は呈されていた。

 場所は『モディバ』。二人きりで話したいとの事から席を外し外のテラスで紅茶をすする土御門睡蓮の姿が見て取れる中、店内の方には二人の人影があった。

 前方で優雅に紅茶を口に含む物語に出てくる姫君の様であり、金髪赤目の少女、迎洋園(げいようえん)テティスは相席である医者見習いのワイシャツにジーンズといった簡素な服装をしているラナー=ユルギュップに対して穏やかな表情を浮かべながら言葉を放った。

「今回もお世話になりましたわね、ユルギュップさん」

 コッと小さい金属音を立ててティーカップが皿の上に静かに鎮座した。

 言葉を受け止めたラナーは気恥ずかしそうに微笑を浮かべながら手をぱたぱたと軽く振った後に、

「イヤだなぁ。気にしないでくれていいよ」

 照れ臭いからさ、と困った様に微笑を浮かべた。

「いいえ。彼には、あの場で救われた恩義がありますから……恩人を看護してくださった事に対しては頭が上がりませんわよ」

「それを言い出したらボクだって調子が上がらなくなるから頭上げておくれよ迎洋園さん」

 恥ずかしそうに頬を掻きながら謙遜気味に言う。

「それにね。ボクは一応医者見習いだからさ。怪我人を看護するのは当然の事だよ」

「かように言って頂けるとありがたいですが……、それにしたって本当付きっ切りで看護してくださっていたそうじゃないですか」

「……」

「何でそこで唐突に黙るんですの?」

 さて、ここでピシッと固まった様にラナーは全身を強張らせた。

 瞬間的に張り巡らされる思考が次々に考え事を執行し処理してゆく中で、さて自分が管轄になった理由を話すものか否か悩んでいるのだ。理由はまぁ二つ三つある様なものなのだが。

 何が困ったと言えば、言えないのが困った話だ。

 搬送時に猫耳ニーソックス血塗れだった為に、当時は看護すべき看護師達が揃って気味悪がって扉越しにこそこそ状況を様子見する様に隠れ見ていただけの情けない実態があったとか、日本風に言うのなら男の娘と言うものを見て欲情した男性医を他数名の男性医が「落ち着けっ!?」「相手は男の子だぞ!?」「まだ子供じゃあないか!」と一生懸命――それこそ一生の汚名が病院に癒着しそうな状況を懸命に抑え込んで医者が数名程、喧嘩問答の末に負傷して人手が足りなくなっていたとか諸々……。

 とてもではないが……情けなくて言えるわけがない……! と、ラナーは思った。

 冷や汗を流しつつぐいっと押し込む様に紅茶を飲み干すラナーの姿を見て迎洋園は良く分からなくなりながらも、とりあえず根掘り葉掘りしない方が良さそうですわね……。と、内心の汗を隠しつつ紅茶で一息付いて一区切りした。

 病院の威厳に関わりそうな実態はとりあえず男勝りな看護婦長により立て直され、医者にあるまじき――否、人にあるまじき蛮行に走ろうとしたした男性医も現在は即日解雇されたという一騒動も今は鳴りを潜め――というよりも世間への身形の為に潜ませて実態は闇の中へと抑え込んだこの頃だ。

 祖父と父がしっかりしてなかったらどんなカオスが生まれてたかと思うと溜息も出てくるというものなのでラナーは日向が目覚めるまで精神的に色々気疲れしていた為に起きた時は本当嬉しかった。――その後もまた個人的に、だが。

 だがまあ、そこは置いておこう、と気を取り直して話題の種足る弦巻日向の事を考える。ただ、そうすると思い至る事は相応に重々しいものばかりだったので鬱にはならねど沸々と心配が湧き上がる始末なのだが。

「それにしても……」

 問題の弦巻君は大丈夫かなぁ……、と心配そうに呟いた。

 その声に対するテティスの声は心配はもっともだろうな、と考えながらの発言だ。

「とりあえずヤミ金ではないのだけは安心なさってくれて構いませんわよ、ユルギュップ?」

「だね。そこは本当にそう思うよボクも」

 心配の種は日向に対して実に複数存在する。

 一つはこれ以上も無く異常な借金の異状な多さだ。

「正直、日本の高校生としては多分――日本一の借金高校生なんじゃない? 弦巻君の借金総額は、さ」

「でしょうね。私も借金四億円等、訊いた事がありません。持つならまだしも」

「四億円なんて額を普通に持っている迎洋園さん含め、日本の名家複数も一家庭のボクからみたらよっぽど羨ましい話だけどね」

 あまり本音で語った言葉ではない。ユルギュップ本人の感覚としては『四億が欲しいですか?』と尋ねられたなら、きっと『はえ?』と現実味のない事に対して素で小首を傾げるだけだ。あったらいいなくらいで無くたって別に構わない。早い話が持っていようが現実味が湧かないと思う――ただ、それだけの話なのだ。

 だが弦巻の現状は真逆。

 四億円を持っている、と。

 四億円の借金がを持っている、では。

 あまりに実態が違いすぎる実体験等決してしたくない程にだ。借金を持っているというニュアンスを一言目に訊いただけだって人は人に対して悪い印象を抱くだろう。額が二〇万円、五〇万円、一〇〇万円ならば返す目途も立つためまだいいだろうが、そこが一千万の世界に入ったら多分友好関係とか諸々破滅していく世界だろうとラナーは思う。借金返済をする者に対して周囲の人は多分に遠慮してしまう。

 そんな考えを抱くからだろうか。日向に対して特に先ほどの考えを抱いて自然と距離を置いてしまう、無自覚の距離感が発生しないでいるのは。

 借金総額が何というか現実味に沸かないのだろうとユルギュップは思った。

 個人の借金と言う印象、イメージよりも……、

「……どっちかって言うと大企業の損失イメージなんだよね、その額」

「日向の借金額が、ですか?」

「うん。個人の借金としてはあんまりにも大き過ぎてさ。何ていうか、言うのかな? 借金を持ってるってイメージが今は沸かないや」

「本人は凄く絶望していると考えますけれどね」

「うん弦巻君、本当大変だよね……。いや、大変って言葉だけじゃ足りないくらい大変なんだけどね。それにこう言っている僕もこの先、彼が借金まみれなんだなぁって実感する時間が何時かきっと来る様にも思うけど」

 だからと言って、

「――まぁそれで手の平返す事したくないし」

 実際にそういう行動をしたら自分が情けなく感じる気がしてならなかったから。

 それに、むしろ個人的には借金返済手伝ってあげたいくらい、か。そんな事を言っても頼りない応援くらいしか出来ないのかもしれないけれど。それでも応援はしてあげたかった。病院で目覚めた後にモディバへと歩く最中の彼の楽しそうな表情や感謝の表情見ていたら優しくて明るい子なんだなというのは、ちゃんと見て取れたから。

「トルコ在住の時に怪我とかしたらいつでも連絡して構わないよって伝えておいてください。治療費サービスはするからさ」

「それは怪我しまくりそうな日向は喜びそうですわね」

「ただし大怪我はサービス出来ないから気を付ける様に、ともね」

 キラーンと目を光らせて楽しげに告げる。

 要は『大怪我しない様に気を付けて仕事頑張ってね』という事か。本日だけでも階段から早速転げ落ちたりしていた日向に出来るかどうか心配になりつつもテティスは嬉しく思った。異国の地だというのに現地の人と早速友好関係を少しずつ結んで行っている。

「……ありがとう」

「ん?」

 迎洋園の小さな言葉にラナーはきょとんとした表情で聞き返した。聞き取れないくらい小さな声で呟いたのだから無理はない。そして迎洋園は今一度呟くつもりはなかった。

「何でもありませんわ。とにかく日向にはそう伝えておきます。しかしユルギュップ……」

「なんだい?」

「今更ですが……四億円返済って、お給料いくらの仕事で成し遂げられるのでしょうか?」

「……」

「……」

 互いに無言。悲しいまでに無言。

 このままでは無限に無言のままではないかと言う程にシンと静まり返っているだけだった。

 しかし、そんな空気は一瞬でパリンと壊れ散った。

「……うん、無理だねっ!」

「……頭抱えますわよね……」

 いざ借金総額を考えると参った事に返済方法がわからなかった。

 四億円の借金を個人が返済……。

「……大企業を発足して返済するか、凄い発明品で特許を得てか、はたまた競馬ギャンブルの類で返済総額を稼ぐか……それくらいしか、とても思い浮かばないよボクとしては?」

 とても他のやり方は通る気がしないし、と小さく零す。

「まぁ、そうですわよね……」

「……こんな金額の理由も借金の相手が迎洋園家ってのが全てだけどさ」

 ヤミ金で借りるにしたって利子ついたって中々届かない額に一足飛びにここへ喰い付いた――いや、食い込んだのは相手が『御三家』の迎洋園であったからに他はないだろう。

「……そうなると瓜生野(ウリュウノ)の当代に交渉して金額を下げてもらうとか、かな……」

「ううん。難しい話ですわね……」

「と言うか借金返済に意欲的だよね、迎洋園さん? 普通もっと厳しく当たるものなのかとか思ってたんだけど」

「先にも言いましたが恩人ですからね」

 なるほど、と頷くには少し薄い気がした。

 見ず知らずの相手の借金肩代わりしているよりかは身内の借金肩代わりしている様な感じを抱きはしたのだが問い詰める理由と確証は何もなかったし、そこまで気にする事でもないのかなと考えて「そっか」と簡素に呟くと、

「そうなると瓜生野家当代の説得……っていうか交渉かぁ。何か案あるのかい?」

「方法と言うと……調教ですわね」

「うん、待ってストップ。昼間のカフェテリアでそんな言葉飛び出すとかボク全く思ってなかったからさ。とりあえずストップさせてもらうね、完全アウトだからさ。そして、いざ一言叫ばせてもらうよ?」

「どうぞ?」

 促されてラナーはすっと深呼吸、大きく息を吸った後。

「真昼間に何言ってるのキミ!?」

 と真っ赤な顔で叫ぶ。余程耐えながら堪えながら突っ込みを冷静に行っていた事だろう。ただし対する迎洋園は神妙な表情で、

「そうは言っても一番手っ取り早いのがそれと言いますか……」

「いやいや確実にアウトだからね? と言うか僕、瓜生野の当代とは逢った事がなかったけどどんな人なのさっ!?」

「一言で言えば……変態マッドサイエンティスト……でしょうか?」

「良いところが一つも感じられない!」

 ずっと瓜生野の当代とは逢った事が無かったし一度会う機会があったら挨拶はしておいた方がいいかなーとか前々に一度思った事もあったラナーではあったが一度も会わなくていいような気すらしてきた。

 なお逢わずにいた理由は瓜生野の当代は迎洋園の化学発明部門――即ち科学者であり発明家である為に実験室にこもりっ放しであるから世俗との干渉が非常に薄い為だ。ラナーに限らず結構色々な人が瓜生野の当代の顔すら知らなかったりする。

「兎にも角にも」

 明後日の方向を見据えて。

「……弦巻君、今後の苦労が推し量れないなぁ……」

 関係者であるテティスは苦笑を零しながら相槌を打つしかない。

 実際問題、どうしたものかと悩むのは当然であり、今後の苦労が推し量れないというのもまた同意せざるを得ない。一般的には。

 迎洋園家としては瓜生野家がせっついて来たりする可能性も半々存在しているが処遇を酷くしたりする気はテティスには無かった。精神性ストレス障害にならない事を祈りながら今後の従僕生活を支援していく方針だ。

「とりあえず借金の話題はそこまで出さない方向で行きますわ」

「だろうね。精神的に参っちゃわない事をボクも祈ってるよ迎洋園さん」

 そう呟きながら腕につけている古い腕時計を一瞥した後にラナーはすくっと席を立った。

「この後、仕事入ってるからさ。ボクはもうこれで帰るね?」

「ええ。お時間取らせましたわね」

 少し遅れてから同様に席を立ったテティスは小さくお辞儀をする。

「構わないよ。借金関連で一度灰に化したみたいに青ざめて気を失いそうだった弦巻君の事、個人的に心配だったし。平気そうだったみたいだから安心した。さっきも言ったけど、小さい怪我程度だったらいつでも言ってくれて構わないからさ」

「伝えておきますわ」

 簡素にそう答えるとラナーは椅子にもたれかけておいた上着を肩にかけながら、その場から去ってゆく。

「それじゃ」

 と、だけ告げて。

 そんな彼の背中にテティスが小さく問いかけた。

 小さい、けれどハッキリ伝わる声で。

「……ねぇ、ユルギュップ」

 それはまるで神様にお願い事を一つするかの様な切ない思いを乗せた言葉でした。

「……昔みたいに名前で呼び合う関係に、戻る事は出来ないのかしらね」

 ピタリ、と足が停止する。ラナーがその言葉にまるで絡め捕られたかの様に全身の駆動を停止させ呈しされた議題に頭を悩ませる様に下を俯き、顔に影を差した。そんなほの暗い雰囲気の中で小さく一言だけを零す。

「……ゴメン」

 それだけをどうにか発した。

 その拒否する様な声にぐっと奥歯を噛み締めつつテティスは仕方がない、という感情を諦めたくないという想いで埋め尽くされる最中に浮上させ現実を割り切った。どうしても昔の様に取り戻したい間柄であるが――戻らない昔もあるのだから。

 仲良く見えても歪が今もあるのだから。

 その事を辛く苦しく感じながらもテティスは言葉をどうにか口にした。

「……そうですか。……そうですわね。ごめんなさい、こんな事をいきなり言ってしまって」

「気にしてないよ」

 その言葉もまたラナーの抑え込んだ感情の上に塗り重ねられた言葉に違いはなく。

 場の重くなった沈んだ空気から抜け出す様にラナーはその場を去って――、


「見ろよマフムーっ! 巨乳カワイ子ちゃんと貧乳カワイ子ちゃんのコンビだぜぇええええええええええっ!」

「ヒェア! ヒェアッ! こんな草臥れた場所で最上美少女ツーショット、イェーッ! 俺達とデートしませんか、するよねヒェアーっ!!」


 行こうとした所でナンパ男二名に遭遇を果たした。

『……』

 随分とちゃらい印象をした漫画でしか見かけない様なブーメランになりそうな厳ついサングラスをかけた、全身がチャラ男ですと告げている様な容姿自体は彼のにはもったいない程に整っている青年の名は稗島(ヒエジマ)囃子(ハヤシ)。加えて明らかにトルコ人であろう――とはいえ近隣の住人ではないと思しき青年アロハシャツを着たトルコ人、マフムード=ユーフラテスの軟派コンビの登場であった。片方が見知った人物をお姫様抱っこで運んでいるのも妙に気にかかりはするがツッコンでいる気分は二人にない。

 本人達曰く『三人の方が成功率が高い? いいや、二人で二人を落とすが流儀』、である二人であった。

 そしてそんな二人と対面もといナンパされた側にあるテティスとラナーはしばしの思考停止の後に内心で叫ぶ――いや、叫んだ。

『……空気読んでぇええええええええええええええええええええええええええ!?』


 カフェ『モディバ』にて主人がナンパ男二人の毒牙にちょうど狙われている頃。迎洋園の使用人である彼ら日向と批自棄はどうしているかと言うと。

「これで買い出しは全部済みました……よね?」

「おうよ。いやぁ買い物くらいはキチンと済ませられるみてーじゃねぇか、安心したぜひじきさんはよ」

 ケタケタと皮肉る様に言葉を発する批自棄に対して日向は「うっ!」と胸を抑えた後に、

「ふっ。バカにしないでください、ひじきさん。僕だって買い物ぐらい一人でも出来ます、日本なら」

「そっか。まぁお使いに初めて行くガキじゃあるめーしな」

 そう呟きながら子供をお使いに行かせる有名なテレビ番組があったなーとか他愛ない事を考えた後に批自棄は考えた。さり気なく日本ならって付け加えた辺り……、恐らくは日向が現地の言語が理解出来ていないとみる。

「現地語が早く理解出来るといーなぁユミクロくぅん?」

「あうっ」

 胸を再び抑え気まずい表情を浮かべる日向。

 ある種当然のことではあったのだが日向はトルコ人の言語がわからなかった。今まで結構話しかけられる際に日本語で話してくれる人が多くて忘れていたのだが会計の折にもの見事に外国語と鉢合わせして四苦八苦した始末だ。

「すっかり頭から抜け落ちてました……」

「ガーハーハーッ。一応、ここ外国だからな。日本語で通じる場所も当然あるが基本は現地の言葉で通せよ。つっても借金返済の為に傭兵としてやってきたお前にゃ難しいか」

「すいません……」

「だがまぁ片言でもいいから現地慣れはしといた方がいいぜー。まぁ暇な時間には私かあるいはユルギュップ辺りと過ごすがベストかもしんねーがな」

「以後そうします。……けどあの店員さんも最後、日本語分かるって、とんだオチですよ……。現地語で話されたから慌てちゃって別の言語で喋っちゃいましたよ……。わかるなら日本語で話してほしかったです……甘えですけどね」

 しょんぼり話す。その内容は若干からかわれた、イタズラされたが大きかった。初めこそ現地の言語で会計係の店員は話しかけてきたが次第に涙目になってゆく日向に対して『さ。それで可愛いお客様。お会計の方はですね♪』と日本語で決着がついた。確実にからかわれた感があったのが事実である。

「まぁそれもこれも事前に店員にその旨伝えて於いた私の手腕によるところだがな」

「原因はあなたですかあっ!」

 どよんとした涙目で睨むも「ははっ。怖くねーっ」と意地の悪い笑みを浮かべる批自棄を喜ばせる一因にしかならない様だ。そして店員へ事前に現地の言葉で話してくれと伝えて於いたであろう旨は自分への教育係としての仕事の一環なんだろうな、と思うからこそ強く非難出来はしない。

 実際外国なのだから一人で安全に会話するスキルくらいは必須だ。それこそ批自棄にもラナーにも頼らないくらいの会話スキルが。それを養わせる為に小さな部分で仕掛けてきたのだろう。そう思うと一つ感謝はしないと申し訳ない。

 と、日向が深読みする中で批自棄は、

しかし慌てっぷり面白かったなぁユミクローっ♪ 等と、考えている内心だ。

 単純にこういう場面でどうなるかな的な興味関心を満喫した教育係は内心愉悦状態である。

 とはいえ批自棄も迎洋園にそれこそ長く仕えるメイドの一人。

 今後はこのドッキリの影響で言語を学び始めるだろうしちゃんとフォローしてやらないと私も失格だなと考えつつ、荷物を持たせている日向の方をちらっと一瞥した後に、

「ユミクロ。買い物達成のご褒美くらいは与えてやんよ」

 ニヤァッと楽しげに笑みを浮かべる。

 その表情を見て「え?」と何をさせるつもりだろうかと身構えながら背筋がぞっとするも、すぐに杞憂と悟った。相変わらず人を怯えさせる様な悍ましき笑みを浮かべはせども色々気配りのする人である。

「ま。ホービ、だっ。奢ってやっから少しのんびりしてきな」

 その指差す先には先刻にも邪魔をしたカフェ『モディバ』のエンブレムがきらっと日光を反射して静かに佇んでいた。そしてそんなカフェテリアを背にコインをぴんっと指で弾きながら親不孝通り批自棄はニコッと労う様な微笑を浮かべた。


 つい最近も手に握った扉の感触を味わいながらも店内に入ると落ち着きのある空間がふわっとコーヒーの香りと共に広がった。

 何度入店しても落ち着く心地が味わえて嬉しくなる。

 同時に何だかんだで気遣ってくれる上司として結構優しく厳しく悍ましくな先輩、ひじきさんこと、批自棄の行動自体も嬉しくてたまらないと思いながら。

「……あン?」

 批自棄が歯をぐぃっと噛み合わせながらおかしな空気を感じ取る様に声を漏らした。

「どうしたんですか、ひじきさん?」

「いやぁ……。ちょっと痛快な展開になってやがらぁっつーか、だなぁ……」

「はい?」

 何を意味の分からない事を、と考えながらも日向は店内の一角に目がいった。

 そこで何やら女性二人と男性二人が揉めている様に見えた。

 だが焦点がハッキリしてくるのに時間は要らず、日向はその二人が見知った二人であるという事実に行き当たる。よくよく見れば男性三人、女性一人が揉めている。

 主様にユルギュップ君? それで……誰でしょうか、あの二人? と小首を傾げる。

 見覚えは無かった。

 サングラスをかけた男性にもアロハシャツを着た男性にも見覚えはなかった。しかし見覚えのある、そして恩人でもある二人に対して何かを語りかけながら腕を掴んで無理やり一緒に席につこうとしている様に見えた。

 そう認識して識別した瞬間にドンッと床を足で蹴って彼女らの元へ一足飛びに飛び込むごとく駆け寄った。

 日向の姿を見た瞬間にテティスが「あっ」と声を零すと同時に嬉しそうに目を見開く。だがすぐに心配そうに眉をひそめた。ラナーも同様の反応を見せる。

「何をしてるんですか」

 冷たい声音で男二人に声を向ける。

 その男の声に男たちは「ああ?」と言わんばかりに、邪魔者が来たとばかりに日向の存在を拒否する気配に満ちた表情と声で叫ぶ。

「今日は最後まで……、朝帰りを目指してナンパしている所なんだ邪魔するなっ!」

「本当に何をしてんですか!?」

 堂々っぷりに若干感心をし、盛大に呆れながら叫んだ。

「ボーイ。ヒェア、君にも見えている通りだが……上玉過ぎるんだこの二人! 最上玉、特上玉なんだ! 一度に貧乳ちゃんと巨乳ちゃんの超絶カワイ子ちゃんを相手にするんだ。俺らは本気さっ!」

「確かに主様は可愛いし美人ですし、世間一般から見たらいわゆる女性も羨む程の美貌ですから思わず声かけたくなってしまう気持ちもわからなくはありませんが弁えてください!」

 ユルギュップ君も容姿が女性的だから間違われてナンパされてるんだろうなぁ、と大変な勘違いされてて同じ様な経験のある日向としては内心で同情の心を抱いてしまう話だ。

 そしてそんな考えの最中に肝心のテティスは「何を言ってるんですか……!」と顔を赤く染めて若干照れていたりもしたが。

「とにかく二人とも嫌がってるじゃないですか。その手を放してとっとと離れて、さっさと帰って頂けませんか?」

「了承しかねるぅっ!」

 無駄に格好いいポーズで囃子が宣言した。

「いや、何で無意味にポーズ? そしてあえてそこでしてください。嫌がってる女性に無理強いはよくありません。それに一人に関しては勘違いしてますし……」

「嫌よ嫌よも……好、き、の、う、CHIっ」

 チッチッ、と指を振りつつわかってないねとばかりの顔をする囃子。

「ヒェア。大丈夫、安心してくれボーイ」

 そこでマフムードが実にしっかりとした表情で弦巻へ語りかけた。

「何をですか?」

 何か聞いても全く価値がない気に駆られながらも一応の思いに万感込めて問いかけた。

「避妊はちゃんとするヨ!!」

 案の定以外のなにものでもありはしない。

「アウトです、テメェ」

 思わずドスの効いた声になってしまったが後悔は微塵もしていない。

「どこの誰とも知らない人に恩人である主様をはい、そうですかと渡すわけには、いきません――いや、いかないです」

 そう敵意剥き出しの表情で日向に告げられた二人は相変わらずチャラけた表情と対応のままで逆にこう問い返した。

「そもそも、よ。ヒェア……お前さん、どこの誰よ? このカワイ子ちゃんの知り合い?」

「ええ、まあ」

 ギラギラとした敵意を発するままに睨む様な表情を浮かべながら応える。

「この片方と恋人だったりしたら本気で殺ス。……か、仮に、仮に両方とハーレムうっはうはとか言い出してみろぉ……!? 魂も完全に滅殺するからなぁ……!!」

「それはあり得ないですっ!」

 日向のギラギラ感が一気にぽしゅっと吹き飛んでナリを潜めた。格好悪いと言われてもしょうがないじゃないですかと返したくなる程に情けなく先ほどまでの敵意がどこかへ吹き飛んでしまっている。だがあえて男らしくも無く弁明させてもらいたい。二人から仮に恋人だったらという問いかけをされた際の表情が怖すぎた。怨念めいたものすら感じるレベルで。まるでこの世すべてのモテない男の気持ちを背負ったかの様な負の塊を彼らは抱いているかの様でさえあった程に。こちらが敵意剥き出しならば相手は殺意剥き出しであった。

 多分、どっちかと恋人と答えていたら本気で殺されていただろう。実際恋人関係だったら死を覚悟しながら頑張ったかもしれないが実際は恋人どころか主従だ。甘い関係など微塵も無いのだから嘘は決して吐いていない。

 ただし今はそれは実際問題関係ない。

 困っている人がいて――尚且つそれは自分の恩人。そして今は主だ。

 散って行った敵対心を気概として再び集めた後にしっかりとした佇まいで日向は譲る気配のない二人へ目掛けて挨拶と共に挨拶代りに発した。

「自己紹介しますよ。僕は弦巻日向。迎洋園家の従僕」

 風切る音がブォッと囃子の耳元に響きながら――、

「主様の使用人って奴ですよっ!」

 ドパァン!! と強い衝撃を響かせて弦巻の言葉が、そして必中の蹴りが炸裂する。


「ああ、じゃあ加減出来ねぇや」


 はず、であった――。

 次の瞬間には日向の全身が強い衝撃、走る痛みと共に床へ叩きつけられていた。そう感じる瞬間に口元から「ガハッ」と苦しくなって吐き出た空気が痛みを表す。

 世界が反転していた。

 日向はカフェの床に叩き伏せられ仰向けに。対して囃子は屈みこむ様な体勢で、日向の腹部に減り込む様な拳を一撃見舞っていた。そんな様をテティスとラナーが心配そうな表情で見ている。マフムードは微動だにしている気配すらなかった。

 そんな中で一番、動いていたのは他ならぬ彼らの感情であった。

「使用人……? 使用人だと……? 主ことご主人様ことお嬢様とイチャイチャラブラブでおなじみの使用人だとぉおおおおおおおおおおっ! 許せるかマフムーっ? 俺ぁ許せねえっ!!」

「安心し安堵し心を安らかに思え稗島君! ヒェア、俺も悲しみで胸は張り裂けない、怒りで腸が煮えくり返りそうなだけなんだ! 俺達は出会いなんかナンパでしか訪れないのに――否、ナンパでも訪れないのに彼は、あろうことか彼は! 出会いたくさん、お嬢様美少女のお屋敷生活を甘受してるって事になるよなぁ!? それは許せない。否、許したくない!!」

 頭を抱える様に滝の様な涙で号泣する囃子とマフムードを前に日向は「いや、そんな事を言われましても!?」とツッコミを行いつつ内心では動揺していた。

 自分なんか敵でもないと言わんばかりに囃子は自分の攻撃をいなした上に一撃を返してきたのだから。 そんな日向に対して囃子は「ああ」と理解を示した風に呟くと。

「ナンパ男が弱いとかモブキャラでしかないやられ役だから格好いい勝利を収められるとか、そんなナルシズムな考えに浸っていたか? 甘いな、甘すぎる」

 サングラスを指で抑えつつ何かを堪える様な声で囃子は語った。

「確かに過去、俺とマフムーはそんなナンパ男の末路を幾度も辿ってきた。だからこそ頑張った。イケメンフェイスに女性を守る奴らを見返したい一心で必死だったさ、そりゃあ。涙ぐむ程の修行、鍛練を経て俺たちはナンパ男を卒業しナンパ男の定説を論破するまでに強くなった」

 そう告げる彼の眼からは先ほどとは違った形の涙が流れる。

 果たしてどれほどの鍛練を積んだのだろうか。雑念を振り払いながら一心不乱に強くなるのではなく雑念を抱きながら一心不乱に――否、一心富淫に努力を続けてきて果たしてどれほどの努力がいたのだろうか。彼の眼尻から零れる別に全く清くない滴にはどれほどの価値があるのだろうか。

 それは彼らしか知りえない。

「ヒェア。稗島君は空手の有段者。そして俺もまたヤールギュレシの達人だ。お前に勝ち目はないという事の実質的証明だウーイェー」

「もっと別の事に対して頑張りましょうよ!?」

 まったくもってその通りだろう、とテティスとラナーは肯定の頷きをする。

「しかしまー大ピンチって奴だな、ユミクロ君」

 そう特徴的な呼び方をするのは紛れも無く批自棄以外に有り得ない。正直な話確かにこの状況は厄介だ。と言うか今ので自分は勝ち目が薄い事を悟らざるを得なかった。何故なら結構渾身の一撃に近かった蹴りを簡単にいなし更に体力の七割近くを持って行った拳の持ち主。ナンパ男のキャラなのにスペック高すぎですと叫びたくもなってしまう二人だ。

「ひじきさん、どうにか……!」

「え? しょーじきめんどっちぃんでパス」

「あなた使用人なんですよねぇ!?」

 本当にこの人、迎洋園家に仕える何でしょうか!? と愕然する。

「くっ。ひじきさんは使い物にならないですが……!」

「はっはっは。断った側だからそうは言われてもしゃーねーんだが、無能ものみてーで嫌ンなるぜ」

 そうは言いながらも別に気にした風は微塵もない。おそらく本当に手出しする気がないのだろう。従僕としての訓練と言うか戦闘力の測定がしたいんだか分からないが主のピンチなのだから訓練中止に割り込む気はないのかと問いかけたくなるが、基本この人の性質はある種異常な部分があるので致し方ない。

 それに情けなくも頼る相手ならば他にいよう。

 迎洋園家のメイドの一人。

「土御門さんなら……!」

「土御門? ……ああ、メイドさんかね? それならそこで倒れてるぜ?」

「ホワーイッ!?」

 そんなウソか冗談のような指摘の、文字通り指差す先には確かにいた。座席に力なくもたれかける様なサマで眠る土御門睡蓮の姿。バカなと叫びたい想いすら浮かぶ。あの土御門睡蓮がすでにやられているとかどんなナンパ男たちなのだろうか、と額に脂汗が滲み出す。

「どうして土御門さん程の人が……!?」

 彼女は日向はそこまで詳しくはないが土御門流陰陽術の使い手。

 圧巻なまでの実力者。批自棄曰く上から三番目の実力は持つ迎洋園家のメイド。ひいては迎洋園テティスの専属メイドの一人と聞く程に頼りになるメイドなのだから。そんな土御門がほぼ無傷で倒された様に見える――そんな芸当を成しえたのか、この二人は。

「いやあ店先で気絶してたからビックリして慌てて店内に運び込んだ矢先、美少女二人だったからこの人女神だと思ったぜ」

「芋虫が怖くて気絶してたんだよな、可愛い人だよヒェア!」

土御門さぁーんっ!?

「そう言えば睡蓮は大の毛虫嫌いでしたわね……」

 どうやら芋虫毛虫が苦手で失神した様だ。

 そんなくらいで……と思いたくもなるが才能ある陰陽師も女の子なのだろう。ある種かわいらしい弱点である。だがしかし、

「そんなこの場面でピンポイントに……!」

 気絶してないでください、と言いたいが自分は成すすべなく倒されている情けない身の上なので何とも説得力が無い、欠けている。ともすれば今現在この場にいる迎洋園家の戦力は。

「土御門の芋虫嫌いもしょーがねーなぁ、カッハハ」

 忠誠心なしの今現在の状況を愉しんでいるメイド一人。

「……芋虫、誰か、取ってぇ……」

 芋虫に対する恐怖のあまり気絶して戦力外通告状態のメイド一人。

「……」

 そして男のくせして圧倒的に敗北し床に張り付け状態の情けない従僕一人。

 なんか自分が一番情けなくなってきた……、と悲しい言葉を零す弦巻。余裕綽々で本当に危なくなったら救出出来るだろう威厳のあるメイドと女性としてむしろ可愛い部類の弱点で倒れるメイドの二人と比べたら真面目なまま敗北を真面目にしてしまった自分が一番空しい気がしてきた。

「安心してなボーイ。真面目に頑張るお前を俺たちは格好悪いなんて決して思わねぇヒェア。女を助けようと動いたお前の格好よさ……良かったぜっ」

「ユーフラテスさん……!」

 その元凶足る敵があなた方なんですがねっ! と内心で叫ぶ。

 同時に敵に励まされている自分が悲しくて仕方がない。

「だからボーイ。その誇りを胸に抱いたまま……逝けッ!」

「後の事は俺らがホテルで甘美に完結させてやるからなっ!」

「誰がさせますかぁああああああああああああああああああああああああっ!?」

 まずい、このままでは本当に事態が悪い方向へ進んでしまう……! そう考えた日向は必死の形相で体を起こそうと踏ん張った。けれども腹部にあてがわれた拳がまるで杭の様に体を床へ縫い付けており、とても動きようがない。

 こんなの嫌だ。

 絶対やだ。

 こんな仕事決まって開始早々に……みっともないまま終われるものか……! と、日向の内面では激しい憤りが渦巻いていた。

 けれど現実は無情で。

 急激な変化なんて見せる気配も無く。力及ばずと言わんばかりに日向の身体は少しも、少しばかりもばかばかしい程情けなく、動く気配を見せなかった。


「ほい、悪ふざけはそこまでだガキども」


 むんずっと何か掴む音。

 途端、体に自由がふわっと戻る。え? と声を零したくなるほど呆気なく戻った自由に呆気にとられる始末だ。その理由は一目で見て取れた。仰向けに寝かされていたこの状態だからこそ頭を上げる事も無く見て取れた。男二人の身体が浮いている。いともたやすく持ち上がっているのだから驚きだ。ざっと五〇センチ近くは持ち上がっているのだから驚きの一言に値する現実だ。

 そしてそんな荒業を成し遂げている者――それはあろう事かこの『モディバ』の店員であった。口から「カハァァァァ……!!」と言う白い息を吐き出しながらギラリと光る眼が実に怖い。実際問題ナンパ男二名がすでに震え上がっている程だ。

「おい兄ちゃん達ィ……」

「な、なんっしょーか……っ?」

「和気藹々と楽しく愉快にいるお客は見逃すがな……、女にナンパするのも同じ男として咎めはしねぇ……だが、しかし、だ」

 ぐっと襟元を掴んだ両腕を勢いよく後方へ揺らし、

「店内での暴力行為はぁああああああああああああああ!!」

 そしてその反動のまま。グンッと勢いよく前方へボールを放り投げるかの様な気軽さで放り投げた。

「お止めくださいって奴だぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」

『ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?』

 窓ガラスの割れるけたたましい音と共に外へ悲鳴と共に投げ飛ばされる二人。

 どんな剛力なのだろうか。人二人を片手でそれぞれ一斉に投げる腕力というものは。とてもではないが日向には成しえない力技であり、同時に自分が手出しも出来なかった相手をあんな造作もないみたいに圧倒してしまう。どんなインフレがこのカフェテリアの中で巻き起こっているのであろうか、まるでわからない。

 だが日向の脳内は目の前の圧巻の戦力の入れ替わり現象を前にただただ苦笑を零す他に余地は無かった。そんな日向を横に助けに来てくれた巨漢の褐色の肌色をした店員。前に確かバンガーさん、と呼ばれていた記憶がある。そのバンガーはカフェの外へ窓ガラスを破砕して散って行った二人に対してサムズアップのサインを送りながら、

「だがまあ、女一人、気絶してたから運び込んできた優しさに免じて、加減はしてやったぜ」

 キランと光る歯を見せつけながら告げた。

 加減本当にしたんですか……? と言う窓ガラスの割れた惨状を見守りながら茫然とする弦巻に対して、バンガーはポンポンと日向の頭を撫でながら、

「完全敗北ってやつだったが、気張ってたじゃねぇか。良かったぜ、そこ」

 と労う様な言葉をかけてくれた。

「嬢ちゃんとユルギュップも変な事されてねぇようで安心したぜ。悪かったな、さっさと仲裁に入らなくてよ。さっきシフト入ったばっかだったんでな」

 そう言いながら店員の服装を見せるバンガー。仕事の時間が来たから店内へ来てみれば何やらごたついているから仲裁に入った、という事なのであろう。

「いや、来てくれただけで助かったよバンガーさん」

 ユルギュップの朗らかな言葉に腕まくりして「おうっ!」と格好よく答えた後に窓の外へ追い出され気絶している二人を見ながら、

「で。結局あいつら誰だったんだ?」

 という質問。その答えに対する答えは『ナンパ男です』としか答えようがないのが実態であった。ただし異様に鍛えているナンパ男、ではあるが。そんな二人を見据えながら日向は考える事がたった一つだけ。

「また役に立てなかった……」

 何か自分は事態を悪化しかさせていない気すらしてくる。仮に自分がおらず批自棄だけがこの場に対面していたならば事態はもっと俊敏に片付いていたのではないかと思える。今の自分は役立たずと言うか足手まといにしかなっていない様に思えた。

 そんな彼の気持ちを知ってか知らざるか。

「ならば一つ、私と共に冒険をしてみませんか弦巻君、これは」

 唐突。そしてあまりにも突然な声の主であり突飛な提案であった。

「……大地離さん!?」

「こんにちは弦巻君、これは♪」

 声の主の姿を見て驚く。メガネをかけたその端正な容貌の男性、それは紛れも無く大地離疆の姿であったからだ。いや別にどうしてトルコにと言うわけではない。しかし今までどこにもいなかったのに何で唐突にいるんですかとツッコミは入れたくなる話だ。

「いえいえ、私がここにいる理由はこの後、君の主様と仕事の内容で話し合いがあるから、と」

 そもそもテティスに至っても疆と仕事の話と幾分のお願いがあるとの事から話し合いの申し込みとの事で此処を訪れる事になっていたので、それまでの空いている時間にラナーと茶会をしていた様なものなのだが当然、日向は知るはずもない。

 すっと日向の方へ視線を向けて、

「折角なのだし弦巻君を一つ危なっかしく危険しかない冒険の旅へ御案内するのも楽しいかと思った次第なのですよ、これは♪」

「……へ?」

 冒険の旅。それが果たして何の事なのか全くわかりはしない。情報もない。

 けれども。

 弦巻日向にとってトルコで一番思い出深い数奇な数日間が見果てぬ大地で起こり始めようとしているのであった。


 なお、そんな日向と大地離疆から少し離れた場所。

 明確に言えばバンガーの手ずから仲裁により結果的に生まれた損害による被害場所にはバンガーを背に一人の店員服を着た青年が佇んでいた。

「……バンガーさん。これはどういう事なんでしょうか」

 隙間風が通って実に趣で風流な――文字通り風が流れてくる座席付近を佇みながら店員の服装をした一人の青年はざざぁ、と爽快な風をその身に浴び少し長めのセミロングの銀髪を揺らしながら頭を抱えながら呟いていた。

「ガッハッハ。……まぁアレだ。致し方なくってやつだな、オウ!」

「出入口から追っ払うのが順当でしょうが……?」

「それじゃあ何か格好よくねえだろう?」

「格好よくないかあるかで窓ガラス壊さないでくださいっての、全く……」

 と呟きながら「あー、弁償代も含めねぇとなあ……」と頭をわしゃわしゃと軽く掻きながらも厨房の方へと歩いてゆく。そんな途中で僅かにバンガーの方へと振り返り、

「だけどまぁ……格好良かったのは事実でしたよ」

 とニカッと口元に笑みを浮かべて、

「ただし弁償代分、きっちり働けっ!」

 と怒ったような口調で激を飛ばして厨房の奥へと去って行った。

 その対応から心から怒ってはいない、むしろ格好良かったからよしとしようくらいの気持ちが見て取れてしまう。

 そんな青年を、

「なんでぇ見てたんじゃねぇか」

 小さく愚痴を零す様に呟きながらも、へいへい、と子供でもなだめる様な動作で答えながらすっとバンガーは視線を弦巻達の方向へ向けると何かを考え込むようにしばらく「ふぅむ」と顎に大きな手を当てながら、

「な~んか、あっち面白そうだよなぁ……♪」

 と愉快そうな笑顔を零しながら彼らを見守るのであった。


第三章 三々とした傑家、散々な結果

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