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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Deuxième mission 「迷宮の究明」
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第二章 ドーナツ茶会、カフェで散財

第二章 ドーナツ茶会、カフェで散財


        1


 その青年は颯爽と現れると血相変えて一掃に相手を伏した。

 赤く燃える炎の様に猛々しい、ぼさぼさとした髪が彼の動きに合わせてはためき、逞しい剛腕は力強く唸りを上げて声を発せず咆哮を鳴らす。まだ青年か少年かの――、まるでガキ大将の様にも連想する顔立ちで大柄な青年は突如として彼らの前に現れたのである。

 不知火(シラヌイ)九十九(ツクモ)

 九十九(くじゅうく)の名前を冠す青年は弦巻日向の前に実に爽快に堂々と怪力を打ち奮い推参を果たした次第であった。そして今、

 有名ドーナツチェーン店『ハムスタードーナツ』通称『ムスド』。

 普段からにぎやかな空間であり誰もが気軽に楽しめる素敵な場所である。しかし現在この場所には一つの異質さが目についていた。今、ムスドへと入店した一組の母娘は入って早々に違和感に気付き目をやると、店の奥――、一角のテーブルに手を組んで、まるで重要役員たちが会談するかの様な空気を漂わせながら座っているのが目についた。

 その数、七人。

 楕円形のテーブルに着席している七人はそれぞれ一様に表情が見えない程度に顔を俯かせていたが、一人の男子がゆっくりと顔を上げたと同時に――、叫んだ。


「ドーナツ論争……開幕だ、テメェらぁっ!!」

『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』


 店が振動で震える! 窓ガラスがビリビリと大きく揺れ動く!

 周囲の一般客が一様にハイテンションで大声を上げて、一部はオーボエで素晴らしい大音量、高音を鳴り響かせながら、店員は汗だくだくで『どうしたらいんでしょうか、これ』という涙目の視線で母親を見つめるが、母親は母親で『いえ、わけがわかりません!』と視線で返答し、娘は「キャー!!」とよくわからないが楽しそうな空気を感じて手をパチパチと拍手する。

 そんなカオスっぷりを感じながらラナーは小さく呟きを零した。

「……何で、こうなったんだっけ……ひじき君」

「若さゆえじゃね?」

 何故だろう。このテーブルならばまだしも、周囲からも聞こえる『ドーナツの魅力うんぬん』という論議の声にラナーはこの浸透率の高さはいったいなんだろうかと悩む。そもそもな話、当初にこんなに人がいなかった気がするのに、今では店内に一五人は確実にいる。

 その現実からか親不孝通(オヤフコウドオ)批自棄(ヒヤケ)の、

「……ドーナツ店に入っただけで何この騒ぎ死にてー……」

等という死んだ魚の様な目は若干共感が出来る。口ではもしゃもしゃと『ムスド』のオリジナルドーナツで団子をリング状にしたかの様な商品『トン・ダ・リング』を頬張っており、とりあえずドーナツを味わうという目的は達していた。

 しかし、おかしいな。

 折角注文したストロベリーサークルドーナツの味が中々伝わらないやとラナーはもぐもぐと口内に広がるはずのイチゴ味が周囲の喧騒によって掻き消されているかの様にも錯覚するレベルでこの騒ぎの渦中にいた。

「本当に朝方のムスドで僕らは何を……」

「朝から元気な奴らだわな、本当に……。…………ユミクロもだがな」

「……だね」

 批自棄言葉にラナーは小さく嘆息しながら返答する。視線の先にはふんふんと飛び交う知識を吸収しようと学習意欲らしきものに駆り立てられている少年の姿。てっきりツッコミ役で動くかと思ったがドーナツの魅力という言葉に負けたか、あちら側の世界で必死に生きている様子だ。

 とりあえず戻ってくるのは少し先かな、と思いながら。

 ラナー=ユルギュップは少し前の事を思い出すのであった。

 そもそもの事の始まり、と言うものを。


 やってくれるぜ。

そう呟きながら彼らは立ち上がった。

 床に押し伏された事から服が少し汚れるといった様子はなく清潔な店内のおかげ、着衣に乱れは少し目につくが汚れた様子はない。

「流石は世界に名高きムスドの店員さん……GJ(グッジョブ)!!」

 キラーンと感謝の意を述べつつ黒髪の青年、加古川(カコガワ)は手に持つ木刀をビュンっと閃かせて九十九の後頭部へ切っ先を突きつける。

 だが彼はそんなもの大した事ではないという様に、弦巻(ツルマキ)日向(ヒナタ)の手をぎゅっと握って快活な笑みと共に握手をする。そんな九十九の様子に苛立ちを覚えた加古川は少しばかり怒りを含んだ声で威圧的な言葉を吐いた。

「こっち向け、オラァ!」

 その声に不知火九十九は毅然とした表情のまま振り向くと、眉間近くに突きつけられている木刀に瞬き一つする気配無く悠然と見据えると、怯えた様子もなくただ一言。

「止めな。……ドーナツが見てる」

 何だろうかその『やめろ、子供が見ている』みたいな発言は、と周囲は総じて思ったものだが空気的にツッコミが出来ずツッコミ気質にあ者たちは体の疼きを抑え込むのに必死であった。

「……っ」

 そして加古川と言う青年は何とも言えず舌打ちする。

 え? 舌打ちする様な発言なの? と周囲はやはり総じて思ったものだが緊張感の高いこの空間でどうツッコミすべきか迷い、言葉を発せずにいた。

さて、そんな空間が形成されているとは本人気付かず、加古川はこんな状況下にありながらブレる気配のない毅然とした態度を示す九十九に感心した様子で問い掛けた。

「ほぉ……テメェ……出来るな?」

 眉間に凶器――木刀と言う刃物ではないが、武器としての威力を持つものを突き付けられても身じろぐ様子のない九十九の姿に加古川は感心した様子でニヤリ、と口の端を吊り上げた。

「生憎と、木刀とかで怯えたりはしねーぜ……俺の――筋肉さんはなァッ!!」

「なるほど……。そいつぁ大層な筋肉をお持ちじゃねぇか……。人間誰しも、こういう武器ってもんを突きつけられると素が現れちまうもんだが……お前動揺しねぇとはやるな……へっ」

「こんな棒切れで俺の筋肉さんは倒せねぇぜ」

「棒切れたぁ言ってくれるじゃねぇか……。この木刀はただの木刀じゃねぇぞ……俺の師匠である人から渡されたすげぇ有名な刀鍛冶の物凄ェ有名な親友の高名な弟の淑女と知れる愛妻の噂に名高き義父の誉のある別れた元妻の風に名を訊く遠縁のおじいさんである山岡(ヤマオカ)同舟(ドウシュウ)が作り上げた一品――木刀『木賊(とくさ)』を舐めない方がいいぜ!」

「え、読み、木賊(もくぞく)じゃねぇの!?」

「ああ、読みは木賊(もくぞく)じゃねぇ木賊(とくさ)だ……! 俺も貰った当初、読み間違えしてて師匠に怒られたもんだぜ……! 紛らわしいっての『知らねぇよ!』だよな……!」

「本当だな、読み間違えるっつーの……! だが、木賊だろうが山賊だろうが、俺の筋肉は負けやしねぇっ!!」

「ハッ!! いい度胸だぜ、不知火とか言う奴ぅっ! なら喰らわせてやらァな、俺の師匠直伝の朴念自然流(ぼくねんじねんりゅう)――をなァ!」

「待ちな。初めに言ったはずだぜ、止めとけってな」

 九十九はそう呟いて振り下ろされる木刀を素手で掴みながらチラリと背後を見て、

「俺とお前がこんなところで戦ったらケガお菓子(ドーナツ)が出ちまうぜ?」

「……ッ」

 背後に守る三名の更に奥――、ショーケースの中に飾られた色とりどりのドーナツを見ながら口からヨダレをだらーっと流しながらキリっとした表情で呟いた。加古川という青年もドーナツ好きなのだろう、口からヨダレどばーっで苛立たしげに舌打ちをかます。

「……あの不知火さん? 僕らの心配とかは……?」

「安心しろよ、お前ら(ドーナツ)は俺が守る」

「ヨダレだらだらですね、皆さん」

 何だろうか味方なんだろうか、という日向の複雑な心情。と言うかドーナツで何と言う事態に発展しているんだろうかと隣のラナーは思っている。そんな中でどうにも事態が脇道に逸れているどころではなく蚊帳の外になりかけている現状に批自棄は仕方なし、といった様子で九十九へと発言する。

「なぁ、ヤコー。お前さぁ、私らの心配とかねーわけ?」

 聞き覚えない名前だが、おそらくは自分の苗字『弦巻(ツルマキ)』から取った『(つる)』を派生した『(ゆみ)』と『(くろ)』でユミクロとなった様に、不知火九十九に関しては『知』から派生した『()』と『(こう)』でヤコーなんだろうな、と日向は考える。

 ヤコーと綽名で呼ばれているだろう青年、九十九は眉をひそめて、

「あん? んな事言ってもひじきは心配する必要ないだろうが、こういう時よー」

「まぁ私はな」

 サクッと断言するぶん、批自棄は凄いと日向は妙に感心してしまった。

 そんな彼女だったが自分の性質を知る故に、だけどよー、とカタカタと嗤いながら、

「生憎と私以外はフツーなんだしよ、喧嘩勃発する以上は適度に心配くれーしてくれね?」

「あ。んな事か……」

 きょとんとした様子で反応した九十九だったが、その次の浮かんだ笑みは実に頼りがいのあるものであった。

「心配すんな。ドーナツは動けないから心配だが、お前らは俺が動いて守るから大船に乗った気でいやがれ! 気分はタイ○ニック辺りだぜ!!」

「それ大船過ぎて僕ら致命傷になりそうなんですが!?」

 発言と笑顔のギャップの凄まじさたるや。

 果たして大船に乗った気でいればいいのか、豪華客船に乗った気でいればいいのか。されども眼前の青年の力強い雰囲気から頼りに出来る――。そう実感したのも事実であった。

 そこまではいい。だが問題はその後だ。

「フン。ヒーロー気取りかよ、不知火さんとやらよぉ」

「ヒーローなんか気取る気ねぇよ。何時だって俺たちのヒーローは筋肉だしな」

「すまん、言ってる意味がわからねぇんだけど……。……ま、まぁいい。お前がそいつらを守るってんならやってみるがいいさ、俺の斬撃からなぁ……!」

「だから待てって。何度も言うが、ここで戦ったら店に迷惑だっつの」

「……ま、そうなんだよな」

 そこで素直に応じるぶんだけ、割とマトモな人だと日向は思った。いや、ただ単純にドーナツを心配しているだけの話なのだろうが。

「んじゃ」

「おう!」

「……外でやるってことか!」

 振り上げた拳の親指ですっと外を指し示め、表に出ろと促す言葉に、同じような動作で九十九は遠くにあるテーブルの上にあるドーナツを指さしながら、

「いや、俺、ドーナツ食べかけなんで店内でやろうぜ」

「……は?」

 何を言っているんだと口を開く。

 唖然とする加古川に対して九十九は後方のショーケースを指さしながら、

「闘いで語り合いってのも乙だがな――」

やっぱし、と呟いて、

「そんだけドーナツが好きってんなら、ドーナツの魅力について語り合おうじゃねぇか!!」

「なるほどな……闘論よりも討論ってか……いいぜ、乗ってやるよ。そして猛ってやろうじゃねぇか、ドーナツの魅力ってもんをなぁ!! (ナダ)! 海味(カイシュウ)!」

「ベリーオッケー」

「お前の言いたい事はわかってるぜ、加古川!」

 呼びかけに応じた灘と海味。二人と共に加古川は日向達の傍へと近づき、店員さんを見据えながら告げた。

「「注文お願いしまーすッ!!」」

 それはまさしく戦火を告げる宣言であり戦闘の下準備でもあった。


 そうして現在。

 火蓋は切って落とされている事と相成った。

 テーブルの上に満たされたドーナツ、ドーナツ、ドーナツ……。加古川、灘、海味の三人が順番守って注文した大量のドーナツもあれば、ラナー達の注文したドーナツも当然ある。多量に並ぶドーナツを口いっぱいに頬張りながら、加古川は告げた。

ふぃふぃふぁ(いいか)!! ふぉの(この)ふぉーふふぉふたいふ(オールドスタイル)ふぉふぁんふぇきな(の完璧な)ふぉふふぁさ(美味しさ)!! ふぉのふぁじふぁいは(この味わいは)もふぁや(最早)――」

「とりあえず食べてから語りろうか、加古川君」

 ラナーの進言に対して若干、むせやすい性質――、というか口の中の水分を持っていくシンプルな造形のドーナツ、オールドスタイルを喉の奥へと味わいながら送り込み、傍にあるオレンジ味の炭酸飲料をがばっと飲み込んで、

「くぁぁぁ……! うんめぇ……! 美味ぇオールドぉ……!! この菓子は最早ワールド!! 人の心をホールド!! 味わいの甘美さはゴールドだッ!! ってもんだぜぇ……!!!」

 食したドーナツへ彼なりの絶賛の賛美を送る。

 本当に好きなんだねードーナツ、という感想を抱かざるを得ない。オールドスタイルと言えば、ムスドの中では一番シンプルな味わいと質素な姿かたちのドーナツではないだろうか。捻じれていたり、チョココーティングされていたりするわけでもない。ドーナツの原型の一個とでも思える程にシンプルだ。口に含んだ際に少し水気を奪われそうになる感覚も乙と言って醍醐味としたい。

 そして加古川が食べている姿の両隣では右に灘、左に海味の二人が並び同様にお気に入りの一品であろうドーナツをがつがつと喰らい、ミルクをまるで缶ビールの様に飲みながら美味そうに声を上げる。

「マクシマぁああああああああああああああああああああああム!!」

「最高だよ……あんた(エンゼルホップステップ)最高だよ……! 最高すぎるぜ、山岳の頂点に上った感動と匹敵する美味さだぁっ!!」

「いやはや……」

「なんていうか……凄いですよね」

「うん。見ているこっちが可笑しくて微笑みを浮かべる気持ちになるね、一周回って」

「ええ」

「本当に美味しそうに食べるんだね、君達……」

 日向とラナーがそんな感想を零すのも当然……、それほどまでに三人の青年は美味そうにドーナツを頬張っていた。まるで一週間飲まず食わずで過ごした者が目の前に大好物を置かれた瞬間の様な喰いっぷりだ。

「当たり前だ、ユルギュップ君。俺こと海味山道(サンドウ)……ドーナツがだいっすきだぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「俺もだ海味……! 三度の飯より六度のドーナツですよおッ!!」

「うん、灘君は残り三度は何処から湧いて出たのかな? そして健康面に気を配ってね?」

 流石に朝昼晩全部ドーナツを本当に食べているとは思いたくない健康面大丈夫だろうかとラナーは心配にもなるというものだ。けれど、三人の発言内容と食事事情から察するにドーナツ好きなのは間違いないんだろうね、と信じるには申し分ない。

 その実態は不知火九十九も十分察した様子で、

「ヘッ、ドーナツ好きは惹かれ合うって奴か……」「いや、そんな話聞いた事ないよ、不知火君?」「ヤコーにツッコミ入れるだけ無駄だぜ、ユルギュップー」お前らのドーナツ愛は確と見届け……んじゃ、てめーら……」

 腕組みし、不敵な笑みを浮かべたまま不知火九十九は先陣を切った。

「始めようぜ……口戦(こうせん)をなッ!!」

 大きな声を皮切りとして加古川がぐっと拳を握りしめ、灘がこくっと頷き、海味がふふんと踏ん反り返れば口々に戦闘表明の意思が感じられた。

「おうよ!」

「常套だ、ヴェリー常套ッ!」

「登山の醍醐味よろしく、ドーナツの経緯を敬意評して語ってやるとしようじゃあないか」

 その中で海味山道――。まずは彼が声を上げた。

 両手を軽く振って、全員を指さすかの様に横に手を振り告げる。 

「そもそもドーナツとは何なのか。そこを理解しているよな、お前ら」

「海味よぉ。怒るぜ? ドーナツが何かってお前、それを(プロ)らに訊くのかよ?」

「あえて訊いてるんだよ灘」

「ヘヘッ。いい質問だと思うぜ海味! ドーナツが何か……初歩的でありシンプルだ。そして皆何時しか何も考えずに、ただ『美味しいよな』で食べちまう……」

 いや、大概の人が美味しいよなで食べてりゃよくね? と批自棄は思ったが言うと面倒くさい事態になるので言わない。

「そこが恐ろしいぜドーナツ……! 浸透しすぎてるのさ。これは美味い。そんな考えをあの美味そうなドーナツがいくつもプリントされた容器を見た瞬間に抱かざるを得ないんだもんな……」

「そうだ加古川。ドーナツは美味い。こりゃあ……真理だぜ」

「分かってるじゃねぇか不知火。そうなんだ、美味いんだよ、ドーナツっ! 美味いだけじゃない惹き込まれるんだ……! あのシルエットに俺たちは惹き込まれる!!」

「全くだぜ加古川! あのドーナツの穴は実はブラックホールなんだよ! 俺達を魅惑の世界へ引きずり込む世界最強のブラックホールなんだっ!!」

「ブラックホールじゃあ例えが悪いぜ……アレはミラクルホールさ」

「分かる、分かるぞぉ灘ァっ!! あの空洞には未知の何かがある! 魅惑という名の尊い何かがあそこにあるんだ!」

 尊い何か。

 それを知る事こそがドーナツ好きの追及すべき真理であると加古川は知っている。何時、明らかになるのかわからない。いや、そもそも人類の英知を結集したところで得られる答えではないのではないかとすら考えている。そんな加古川達へ、九十九は一言を発した。

「ああ、あるぜ……俺はその答えってのを知ってる」

 神妙な不知火九十九の声に緊張の面持ちで加古川が問いかける。

「何だ……? 話してみろよ、不知火。訊いてやる……!」

 その声には純粋な好奇心。

 そして挑戦状が含まれていた。巨大すぎる強大な真理を解き明かせるだけの見識がお前にはあるのか? そう、問い掛ける挑戦状であった。

「へっ、あんがとよお前ら」

 九十九は手に持ったチョコドーナツの穴をまるで安らかで尊くそこに存在する理想郷の光景を見据える様な瞳で少年の様な無邪気な声で言葉を紡ぐ。

「……ここにあるのは……夢、だ。そして小さな願いと希望……」

 本当に真剣な顔でそう告げたものだからラナーはどうしようか、という表情で黙々とドーナツを食べながら、隣の椅子で笑いを堪えて肩を震わす親不孝通りを一瞥しながら、何か見えるんでしょうか……? という様子で穴の奥を覗く日向に『いや、何もないよ?』と進言すべきか否か迷いながら、九十九の発言でまるで戦士たちの穏やかな時間とでもいう様な和やかで暖かな安らぎの空気に戸惑う。

 ラナーはとりあえず、

「皆、何ていうか……ほんと、ドーナツ好きなんだね……」

 と、相槌を打ちながら無料で飲めるコーヒーを口に含んだ。

「ああ」

 九十九は小さく呟く。

「バカみたいって思うだろ?」

 正直に言えば『ゴメン、もうよくわからないや』なのだが、とりあえず曖昧な振る舞いでその場を誤魔化す事にしようとラナーは隣の日向に『何か見えるかい、弦巻君?』と問い掛けると『特には何も。でも、目にイチゴチョコがくっつきました……!』とまつ毛についたものを取るべく四苦八苦していた。

 そしてそんな様子に気付く気配もなく、九十九は興奮した様子で自分たちの世界に居座り続けている様だ。言葉が続いている。

「でもな、ユルギュップ……俺には見えるんだよ、この何もない穴の向こうに……たくさんのドーナツが……あ、一個減った」

「それは空洞越しにテーブルの上のドーナツを見ているからだと思うよ、不知火君。今、海味君が一つ手に取って食べてるし」

「大人気だよな……ドーナツ……!」

「何かドーナツ全部肯定的だね、不知火君。そしてドーナツマニアみたいな四人が同じテーブル囲んでいれば大人気だともボクは思うよ……!」

「でも何で、ドーナツってこんな形してるんでしょうねー?」

 そんな時、日向が少し気になった事をぽつりと呟く。

「弦巻っつったか。だろう、不思議だよな。何でドーナツはこんな輪っかの形を完成形として作り上げたのか……だが、俺たちは惹かれるんだ、この形に」

「ですけど何か真ん中あった方がお得な気が……損してる様な……」

 日向からしてみれば――、比較的貧乏な日向からすれば真ん中のこの空間にもあってくれた方が食べる量が多くて嬉しいのである。

「へっ、まだまだガキだな、弦巻はよ」

「僕とそんなに歳離れてないですよね加古川さん!?」

「歳はな。だがドーナツを愛する者としては俺とお前には六〇過ぎのおっさんと生まれたての赤子のごとき差が存在するのさ。お前らもそう思うだろう?」

 加古川の発言に統率の取れた動作で『まぁな』と海味、灘、不知火が頷く。

 何故、両手で丸を作って賛同したのだか、そのドーナツマニアっぷりには最早、どう反応すればいいのだか全くわからない。

「いやいや、何でさもありなんとばかりに肯定するのさ皆……」

 ラナーが呆れた表情で苦笑を零す。最早ポーズにツッコミする余力も惜しい。

「それだけわかってるって事だユルギュップ。まぁそんな六〇代後半の俺でさえ、一二〇歳は超えているだろうドーナツ界の重鎮、ベルリーナー=P=ボストンさんにゃあ勝てないんだがな」

「大きく出たな加古川……!」

「ベルリー姉さんを引き合いに出すとは恐れ多い発言だぜ、おい……!」

「一日三〇〇食ドーナツを食べ続けるという稀代のドーナッツイーターにはそりゃ勝てねぇだろ……! 俺の筋肉さんですら持つかどうかわからねぇぜ!」

「いやいや、それ誰さ!? って言うか桁が二つくらいおかしいよねぇ!?」

 稀代のドーナッツイーター、ベルリーナー=ボストンという名前すら出てくる始末。ドーナツの世界はどうなっているんだろうと思いながら、一日三食ドーナツって健康面大丈夫かな、と不安に思いながら、そもそも本当に誰なんだろうと悩みながらツッコミを果たすラナーの傍では、何時の間に不知火さんは向こう側へ加担してるんでしょうか……と思いながら自らの発言を甘いと宣言する加古川の発言について、

「……どういう意味ですか……?」

 と、日向が問いかける。

「この穴の良さがわかってねーのさ、お前は」

「男はな……。皆、惹かれるのさ……穴に」

「同感だ、海味。男って生き物は何時の時代も穴に惹かれてくもんだ……。穴の中に存在する神秘を前に俺たちはがっつくんだよ……ドーナツ然り、鍾乳洞しかり、アリの巣然り、あの子のスカートのな「それ犯罪だよ灘君」」

 灘が肯定の意を唱える最中、一部分をラナーが否定する。

「子供のころ、アリの巣ってどうなってるのかなーってよく思ったわ」

「いや、アリの巣は置いといてくださいね加古川さん?!」

「いや、何かこう罪悪感がな……。子供のころは気にしないけど、蟻を踏みつけて殺すってガキだとよくしちまったよなーって。今考えると相当悪だよな、蟻の世界の大魔王だぜ、きっと」

「何か急にしょんぼりしだしたんですけど大丈夫ですか!?」

「まぁ、何にしてもよ……。俺たちはこのドーナツの穴に魅惑を感じるのさ。ミロのヴィーナスと同じだぜ……、欠損しているからこそ――否、足りない何かがそこに存在している事に俺たちはどこまでも妄想を膨らませるんだ!」

「ドーナツの穴はな……ミロのヴィーナスの失った両腕と同じなんだよ、弦巻」

 灘が感慨深い様子で呟いた。

「ミロのヴィーナス……。アレは両腕が存在しないからこそ価値が大きいってのもある。あの腕の形は果たしてどんなものなのか。あの腕はいったいどういったあり方で存在しているのか。ヴィーナスの腕は欠けた――けど、ヴィーナスの美しさは完成され切れない存在と化して万民を魅了し続けるんだ」

「海味の言うと通りだ」

 加古川が神妙な様子で言葉を続けた。

「ドーナツはまさしくソレだ。失われた空間――この世界に俺たちは終わらぬ夢を見る。見果てぬ世界を見続ける。いつの世もドーナツの完成形態はコレだ。俺はそう思い続けているぜ、弦巻、それに不知火」

「すいません、話についてけないです……!」

 若干混乱気味の日向を余所に「へへっ」とドーナツに精通している九十九は軽く笑みを浮かべて、

「感動したぜ、加古川。まさしくそれだ。ドーナツに恋い焦がれる者たちは皆、そうなんだよな……。この空いてしまった空間に何時までも終わりない希望を描けるんだぜ!」

「流石だぜ不知火!!」

 加古川は感動した様子で拳を握って呼応し、次いで日向を見ながら、

「大して弦巻はまだわかってねー様子だな。いいか、この空洞には前言通りに魅力が詰まってんだ。子供のころ、このドーナツの輪っかの部分を食べて途切れさせた瞬間に何ていうか楽しさを覚えたな。アレなんでだろうなぁ……」

「ああ、わかる、わかる! 何か楽しいよな。意味も無く何となく楽しかった!」

「それ言うとアレだ。輪っかだけ――ってか真ん中だけ残すように喰うのも無性に面白ぇんだよな!!」

「ああ。この空洞があるからこそドーナツって存在は輝くんだ」

「だが、まー……」

 そこで批自棄は、

「この輪っか型で所詮、不要だっただけじゃねーのかねー」

 と、はむっと最後の一欠けらを口に運んで呟いた。そんな否定的な不要的な発言故に九十九達の間に緊張感が走り、加古川が拗ねた様子で尋ねた。

「む。どういう意味だよ親不孝通り」

「ははっ、むくれるなよ加古川君よ。なぁに、私が言ってるのは諸説って感じの内容に当たるものだっての」

 批自棄零した言葉に灘が少し考えた後に、

「諸説――、即ちドーナツの輪っかは何故存在するのか、という観点だな?」

「まぁ、そう言う事だわな」

 ケラケラと彼女は独特な笑みを浮かべながら、くるんと人差し指を一つのドーナツの穴に通してくるくると暇つぶしの様に回しながら、

「ドーナツ。そもそも始まりは約17世紀のオランダってのが有力説らしーな。小麦粉・砂糖・卵で作った生地を酵母で発酵させて、ラードで揚げたボール状のオリーボルという菓子が起源だってのが有力だ。オランダ人はオリークックと呼んでたそーな」

「へー……てっきりアメリカのものかと思ってました……」

「へっ、知識が浅いぜ、弦巻」

と、加古川が一口頬張った後に批自棄の話を補足する。

「一説にはドイツとも言うがそこは置いておこう。さて、加えて言えば当時は真ん中の部分――即ち魅惑の穴に当たる場所にはクルミがあったんだとよ。当時はやっぱり輪っかって感じじゃあなかったそうだな」

「更に付け加えると命名理由として有力なのが、それって話だ」

 と灘が加古川の言葉を更に引き継いだ。

「『生地』という意味の『Dough(ドウ)』に『クルミ』という意味の『Nut(ナッツ)』――この二つが組み合って生地と木の実の『Doughnut(ドウナッツ)』という名前の意味が完成したってのが有力だそうだな」

「ちなみに」

 ピッ、と指で指すよろしくドーナツで日向を指しながら批自棄は、

「ドーナツは相応に古い歴史を持つわけだが、ここで違和感抱かないか、ユミクロ? このドーナツってのは焼くんじゃない、揚げるんだ。加えてこの砂糖の多さの菓子だぜ?」

「え、うーん……?」

 時代背景を考えながら考え込む日向の隣でラナーが、なるほどと言った様子で頷く。

「当時を考えると明らかに砂糖も油も高級品だったはずじゃないかな? 日本でだって昔は高級品だったわけだし」

「その通りだユルギュップ」

 にんまりと批自棄は答える。

「そもそもドーナツの原型ってのはクリスマスやら復活祭(イースター)、あるいは誕生祭に於いて家庭で作られ、お互いプレゼントし合っていたっつー高級品さ」

「何か奥深いんですね、ドーナツの歴史……!」

 親不孝通りの発言に「へー」と知識を得た日向は一人感心する。その様子を見ながら不遜な青年、加古川は軽く失笑を零した後に、

「わかったか、弦巻。これがドーナツマニアの六〇代おっさんと、唯の赤ん坊の差って奴だってなっ」

 と、何故か上から目線な口調である。

 何故だか赤ん坊と言われても全く悔しくないから困ったものだ。

「故に」

「故に……何ですか?」

「今後は質量の多いドーナツは俺らに譲りな、後輩よ!」

「結論はそこなんですね!? っていうかまだ諦めて無かったんですか!?」

 という日向と加古川の口論の後ろではラナーたちが、

「ひじき君、果たして彼はいい人なのだろうか、悪い人なのだろうか、どっちだろうね……」

「客観的に見れば善悪のくくりよりか、こずるいとかそんな感じ……小悪党でもねぇしなぁ……ケタケタ♪」

「面白そうに笑ってないでね?」

 と、苦笑を零し、笑みを漏らして談笑に興じている。

「とにかくだ! ドーナツマニアとなった以上は先輩を敬え、弦巻!」

「その理論は嫌ですよ! って言うかドーナツマニアにはなっていませんし! 何処の部活動の先輩後輩関係ですか!」

「なら今日からお前は俺の弟分――ブラザーって事でもいいぜ!」

「それのが更に嫌ですがね!?」

 と言う謎の口論をしている最中の加古川の肩をトンと灘が軽く小突いた。続いて小さく彼の苗字を呼ぶと加古川の反応が「あん?」と返ってくると、

「加古川。話している最中にアレなんだが……時計見てみろ」

「時計? あん……?」

 きょとんとした様子の加古川だったが時計の針を確認するやすぐさま、その顔に焦りが浮かんだ。

「――ッ。やっべ、もうこんな時間じゃねぇか、急がねぇと!」

「ああ、待ち合わせの時間に遅れてしまうからな。灘も急げ」

 突然、少し急いだ様子で身なりを整え始める三人。どうしたんだろうか、と四人は見つめていると加古川が「ふん」と軽く唸った後に「わりーな。この後ちっと用事あるんで、俺ら行くわ」と簡素な挨拶をした、彼の後ろでは灘と海味が口いっぱいにドーナツを詰め込んでいた。

「んで」と呟き、加古川は愛木刀『木賊(とくさ)』をひゅっと日向に向けると、力強い口調で告げた。

「いいか、弦巻。俺たちは基本ここに立ち寄る。テメーもまた来やがれよ? そしてドーナツマニアとして成長しな」

「ドーナツ美味しかったので立ち寄るのは(やぶさ)かではないですけど、ドーナツマニアにはなりませんからね!?」

「へっ。何時までそう言ってられるか楽しみだぜ。俺には見えるぜ……『ハァハァ……ドーナツ……ドーナツぅ……丸いボディライン、滑らかで丸みが凄い美味しそう……、食べたい、食べたいよぉ……!!』というお前の無様な姿がな!」

「本当に無様ですね!? って言うかそれもう悪質な変態ですよね!?」

「お前はまだ不知火と違って俺は認めてねー。俺に認められるくらいに成長して俺を感心させてみせろって話だな」

「いや、今の人になってまで加古川さんに認められたくはないです!」

「何時までその発言を出来る事やら……。やれやれ」

「何ですしょうかその『仕方ねぇな』みたいな素振りがイラッときますね!」

「お前はまだ知らない。ドーナツに秘められた神秘を。世界の真実を知り得てねぇ。……見抜いてみろ、世界の真実を、な」

 そう告げると加古川は灘と海味二人を連れて、店の外へと去ってゆく。

 がらん、と開かれた扉が閉まりゆく最中。あばよ、と言わんばかりに背中越しに左手を振って加古川達はその場を去って行った。それと同時に店内にいたトルコ人一五名からスタンディングオベーションが湧き上がる。凄まじきかな、熱気。恐ろしいかな愛情である空間。本当に何なんだろう……とラナーはジュースを飲みながら目を伏せて思考するが中々答えには行き着かない。

 だが不知火九十九は満足そうに、

「いるもんだな……トルコに。アレだけドーナツへの真実を見透かした猛者どもがよ……」

 と、腕組みしながら神妙に頷くと。

「いや、お前と話してたの生粋の日本人だけどなー」

 批自棄が三分の一程のドーナツを食しながら指摘する。

 そして批自棄が残りを食べ終え、口元を下でぺろりと舐めた後に、

「ところでだなヤコー」

 後口を爽やかに清算すべくジュースを口にストローから冷たく芳しい飲料を喉の奥へ流し込み、胃の奥を清々しい感動で満たしながら、何気ない口調で問いかけた。

「……お前、そもそも何でここに一人でいるんだ?」

「……へ?」

 不思議そうに固まった後にさも当然の様に九十九はポツリと呟いた。

「んなの決まってんだろ? ……ここにドーナツがあったからさ」

「何ですかその登山家みたいな理由……」

 呆れる日向を余所に、

「お前確か前も急にスクワットしたくなったとかで一人だったよなー?」

「ああ、あったな何度も」

「何度も!?」

 思わず日向は驚いた。この人は何をしているのだろうかと。一人になる理由が毎回妙な話である。そして何よりも一人になってもまったく凹んだ気配も見せていない。

「コイツにとって人生で重要なのは筋トレとドーナツ。そんくらいの感じのバカだからなーヤコーはよ。かっかっかっ」

「ヘッ、バカで悪かったな。所詮、筋肉とドーナツのバカ野郎ですよー! ごめんなさいでしたー!!」

「全体的にバカオーラ溢れる男なんだよなー」

「褒めても何も出ねぇぞ。へへっ」

「すいません、不知火さんの怒りポイントが分からないんですが……」

 前半軽く怒ったし不貞腐れたのに後半はむしろ褒め言葉として捉えているメンタルは果たして何なのだろうか、と考えた後に不思議な事だが結論が『ああ、バカなんだな』と言う結論に至る辺り、不知火九十九が奇妙なバカなのだ、という事に辿り着く辺りが泣けてきた。

 まぁ、それはともかくとして、だ。と呟くと、

「お前確か、スクワットやら腹筋で一人になった後に毎回散々お仕置きある程度喰らってるじゃねーか、お嬢様によ?」

「んあ? ああ、今はご当主ことサカイの旦那と行動してるからなぁ……一緒にいねぇんだわ今」

「んだ、そーなのかよ? そうなると制裁が見れなくて残念なんだけどな……」

「いや、いやなもんを楽しみにしてねーでくれよ、ひじき……」

「で。……その大地離当主と一緒にいねぇってどうなんだよ?」

「…………へ?」

 そこで不意に九十九がきょとんとした表情を浮かべた。

 そうして恐る恐るといった様子で店内を端から端まで見渡す。視界に映る光景のどこにも見知った男性二人の姿が無い事を識別すると、九十九は汗ダラダラの状態で頭を抱えると、

「ぬぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! すっかり、やっちまったぜぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!?」

「えええええええええええええええええええええええええええええええ!?」

 突如、この世の終わりの様に叫ぶ九十九の姿に日向は驚き隠せず叫ぶ。

 許可を得て別行動しているのか何かなのかと思っていたのだが、どうやら独断行動に近しいものの様子で九十九は、

「バカな……! サカイの旦那はドーナツの魅力に吸い寄せられなかったってのかよぉおおおおお……!?」

と、別の意味でショックを受けていた。

「そりゃ大地離当主、教育以外は大概冷静の様な冷淡のような大人だしよー。つーか、お前やっぱり当主に何も言わずにふらふらとムスド入ったんだな、ヤコー?」

「俺、ミツバチ!」

「キラーンとした笑顔で答えるなウゼェ。蜜蜂ホイホイとでも言いてぇのかよ、ああ? ……ま、いいわ。お前がこういう行動している時って何だかんだ結構護衛複数の時だし、当主も別行動許してる辺り、警護は問題ねーんだろうな……」

「本当に大丈夫なのかな?」

 ラナーが少し不安げに問う。

「問題ねぇよ」

 批自棄は呟くと、

「なんたって、現在、大地離の当主はうちらの洋園嬢含めて従者引き連れて合流してるみたいだからな」

「何でわかるんですか、ひじきさん?」

 日向にそう問われるや否や親不孝通りはメイド服の中から携帯電話を取り出すと着信通知のメール画面を見せながら。

「此処に来る途中に送ったメールの返信として、後半の文面にそういった内容書かれてあってな。読む限り土御門は同伴してるみてーだし、一応は安心かなってな」

「なるほど」

「で、後半はともかくとして――問題は前半だな」

「前半?」

「そ」

 きょとんとした様子の日向に軽くぴっと人差し指で指し示しながら批自棄は少し呆れ気味に日向に言った。

YA(おまえ)の事だよ、トーゼンな」

「僕……ですか?」

「当たり前よ。つーか、それ以外ねーっての」

「という事は……ひじきさんが僕を連行しているのは、迎洋園さんに逢わせるためな訳ですか……? だとしたらこうしちゃいられない……! 早く会いに行かないと……!」

「おお。何か急に行く気になったな」

 自分の言葉から目的を察した様子の日向を見て批自棄は感心した様子で呟いた。

 そんな彼女の様子に当然ですよ、とばかりに視線を投げかけると早く行かなければと心が急く。あそこで倒れた後に病院まで手配してもらい生き延びている現状なのだから目覚めて早々にお礼を申し上げるのが礼儀と言えよう。

 弦巻日向は、

「そういう事は普通に言ってくださいね、ひじきさん」

 と、告げてから椅子から立ち上がると店の入り口へと向かおうとする。

「そんじゃ私らも行くぜ、ユルギュップ」

「だからボクが同伴する意義が良くわからないんだけど……? けど、弦巻君の容体も気になるしもう少し行動を共にしておくかな……」

 批自棄がガタッ、と椅子から立ち上がりながら声を投げかけるとしょうがないな、と言わんばかりにラナーは席を立つ。そんな二人を見て残された九十九も席を立った。

「お? 何だヤコー?」

「決まってんぜ。俺も一緒に行くかんな、ひじきっ!」

「迷子案内かよ……」

 親指をぐっと立ててにかっと笑みを浮かべた九十九の発言に、批自棄はげんなりした様子を見せた後にケラケラと笑いながら、

「やーやー蜜蜂君はここでドーナツ食べていていいんだぜ? 職務怠慢で護衛仲間にミスって(バチ)ればいーんじゃね?」

 と、意地の悪い笑みを浮かべて答えると。

「へへっ。……提さんも怒るとヤベーよな……」

 若干青ざめた表情を浮かべる。

「何だ護衛は提の当主か。マシな方で良かったじゃねーか」

 仮にコイツの父親とかだったりしたら絶対に鉄拳制裁になっただろうから比較的温厚な提家当主の時点で大分マシだろうと親不孝通りは考える。同時に行くと決めたら残った数個のドーナツを大急ぎで口に詰め込んでいる辺り、さては目的地へのルートがわかってないから、一緒に付いて来る魂胆だろうなーというのはそれとわかるものだ。

 色々とわかりやすい奴だと思いながら親不孝通りはコポコポとグラスに水を注ぐと、喉に詰まって窒息中の九十九の口内へと叩き込む。

「ごヴぉごばがヴぁ!? ――げほっ、げほっ、つきゅーんっ! 咽るわぁっ!!」

「命の恩人になんつー態度かねヤコーはよ。つーか『つきゅーんっ』て何だよ。何で咽て『つきゅーんっ』なんて声が飛び出すのかひじきちゃん、そこが一番ふっしぎーっ」

「態度がムカつく命の恩人だな、おい! そして自分でも知らねーよ、何だっつの『つきゅーんっ』って自分でも何で咽て『つきゅーんっ』って出たのか不思議で溜まりませんよぉ!!」

「ははは、良かったな。喉の奥に水が貯まらず不思議が溜まるだけでよ」

「ちょっと上手い事言ってるなよ!?」

 ゴーン、と言う様子の九十九の叫びを馬耳東風ごとく受け流しながら、批自棄は、

「まー。ドーナツも食って腹ごなしも済んで万々歳。御の字状態様様なわけだし……いい加減行くとしよーっ」

 ちらりと視線を投げかける方向には出口で待つラナーと日向の姿を確認し『先、出ておけ』と身振りで軽く合図する。わかりましたとばかりに頷いて店の外へと足を向ける二人を見送りながら、何気ない様子で九十九が問いかけた。

「ところでよ……。ひじき、お前のご主人、日向にどんな用があるんだよ?」

 そんな簡素で質素な何気ない質疑に批自棄は、ははっとか細く笑いを零して、

「……ユミクロの人生相談――かね」

「はぁ?」

 意味わからねぇぜ、といった様子の九十九を横に、先程の表情とは打って変わって実に興味深いな、面白そうだな、どうなるのかなな表情を浮かべて応答する親不孝通り批自棄であった。

 一人の少年の人生、さて如何なるか。

 出口を出てすぐ、不幸にも自転車との交通事故に見舞われる少年を見据えながら彼女は実に愉しげであった。


        2


 結局のところ、弦巻日向が目的地へ辿り着いたのは御昼前の一一時半と言う時間帯であった。

 朝に病院で目が覚めてから此処へ到達するまでの間に嫌に時間がかかってしまった事に批自棄は何となしに気だるく死にたくなる。とはいえ道端で血飛沫巻き上げ傍迷惑な事後処理を二人に行わせる気も毛頭なく、加えてラナーと言う医者見習いの前で自殺すると言うのは無粋な話。

 死にたい感情を平常通りに抑えながら、軽く指さした先の看板に記載された店名を淡々と読み上げた。

「着いたぞ。ここが目的地の『モビーディックバックス』だ」

「これはまた有名どころですね」

「そうだね。『モディバ』って言ったら全国有数のチェーン店だし」

 ラナーの言葉に批自棄は「そっ」と簡素な肯定を示す。

 その言葉通りでありコーヒーチェーン店である『モビーディックバックス』こと通称『モディバ』はアメリカ合衆国ワシントン、シアトルに於いて発祥したエスプレッソメイン。歩き飲みやテイクアウトと言ったシアトルスタイルを定着させた火付け役である。緑のカラーに白色で水面から現れるクジラをイメージされたデザインのマークが目印だ。

 清潔でオシャレな店内では連日の様にお客が賑わっている。

 しかし今日は少し諸事情にて一部の席が買い取られており入り浸る人の数は少々少な目となっている次第だが。

「さて、店に着いた事だし早速入るぞお前ら」

「あのひじきさん」

「何だよ、ユミクロ君よ?」

「僕こういう場所に入ると自然とお客さんを持て成してしまうんですけど」

「どんな習慣が身についてんだよ、ユミクロ君?」

「だってこういうお店って基本、アルバイトしかありませんしっ」

「あるよ!? 大抵の人は皆、コーヒー飲むためにやってきてるよ、弦巻君?」

「コーヒー店でアルバイトせずにコーヒーを飲むとか贅沢過ぎますよ、みんな……!」

「逆にコーヒー店でコーヒー飲めずにアルバイトしかなかった子に私らはどんな言葉を投げかければいいのか自問自答が絶えないぜユミクロ君」

「って言うか弦巻君はさ?」

「はい」

「……アルバイトで飲んだりしなかったの? コーヒー、サービスとかまかないで普通に飲めそうなんだけど」

「ありますけどバイトの先輩が『お前なんかに飲まれるコーヒーが可哀そうだから』「ああ、いや、いいや。言わなくていいよ、うん」……?」

 何で最後まで聞いてくれないのだろうか、と弦巻は不思議に思い顎に手を添える。

 対して約二名は弦巻から離れた場所で「だから何でバイト先で先輩に恵まれてねぇんだよ、ユミクロは!」「ひじき君、僕なんかしょぱい涙がここ数時間で何度も流れて来てるんだけど……」「私だって若干以上に不憫に見えてきたよ!」と語り合っていた。

 そんな事とは露知らずに弦巻は「あの時はやばかったですよねー……」と一人呟く。

 何があったのか凄く問い掛けたい衝動を抑えつつ、親不孝通りはわざとらしく「こほんっ」と可愛らしい咳をした後に。

「んじゃ、改めまして。この先でお茶会気分で入り浸る我らが洋園嬢(うみぞのじょう)と、これまたお茶会気分で話し合ってもらうぜ、ユミクロ君」

「何か雰囲気的にお茶会で済まなそうな気がしますけど」

 もう一度話の一つでもしておかなくては礼儀も無い。

 日向は大きく息を吐いた後に穏やかな吐息を「はぁ~……っ」と吐き出した後に「美少年の吐息……美味しく頂いたよ♪」と上半身裸で通って行った上半身裸の眉目秀麗な変態が通って行った後に、

「いや、待って!? 今、素通り出来ない出来事が目の前にあったんですけど!?」

「何を言ってんだ、素通りしとけ。時間ねぇぞ」

「お願いです、ひじきさん! 先程の気持ち悪い現象と一度向き合わないと後味が悪い気がするんです本当に!!」

「変態とは関わらない方が身の為だと思うよ弦巻君」

「そこで大人な意見ですね、ユルギュップ君は」

 とりあえず目の前を風の様に横切って行った男がトルコ警察官と思われる男性に『おいコラ待てぇええええええ!! またお前かぁあああああああああああああ!!』と言う大声の叫びと共に追われながら、どこ吹く風な表情で颯爽と逃げてゆく光景を見ながら、

「何度かあったんだ……」

 と、考えてげんなりする。

 変態って色々な場所にいるんですねー、と悲しい事を考えた後。

 汚れきった様な気分を払拭する為にモディバのガラス張りで中の実に楽しそうな様子が見て取れる扉を右手で掴んでゆっくりと開く。開いた瞬間にふわりと心地よく匂ってきたのはモディバが誇るエスプレッソの芳醇な香りであった。

 体の奥底から活力を。目を括目させてくれるコーヒーの匂い。

 次いで木造建築の店内に残る優しげな気の香り。

 心地よい気分に浸ってしまう。何とも落ち着く空間であった。そんな空気の中にいるわけだが批自棄は きょろきょろと周囲を見渡していた。恐らくは主である少女、迎洋園テティスを探しているのであろう。

「えーっと、洋園嬢は……」

「っていうか店員さんに尋ねた方が早いですよね?」

 と日向が問い掛ければ、

「まぁそうだな」

 と、頷いて店員が来るのを待つ事とする。

 客が多く繁盛している様子で

「おーう、悪いがそこで少し待っててくれや!」

 との声に待つこととする。その間にラナーが少し困った様子で呟いた。自分たちの傍にある問題一つに関しての解決案を練る為に。

「……で口数が減った不知火君をどうする?」

 その言葉に視線を向ければダボダボと汗を流す九十九の姿があった。。

 そこで批自棄はため息交じりに停止した。

「……ヤコー。到着後――否、到着寸前から会話に参加がねぇと思ったらいつまで『ヤベェこいつはヤベェぜ……』的な表情をしてんだよ」

「より正確にはモディバに近づくにつれ口数は減っていったよね不知火君」

「訊くなひじき……。俺はもう……もう……怒鳴られるのが目に見えてんだぜ……!」

「テストの点数が悪くて見せられない子供の様だね、不知火君」

 ラナーの台詞には若干の呆れが含まれている様で苦笑を零していた。

「懐かしいぜ……、親父にテストの点数で怒られたガキ時代もこんな気持ちだったな」

「また嫌な気持ちを思い出してますね……」

 そう言いながらも日向は別に共感は沸いていない。頭が悪いと言うのは日向も同様だが、怒られるほどの事など日向には何もなかった。

「つーかさっきから偉い大人しくて気味が悪ぃんだよヤコー君よ」

「悪かったなひじき、だがまぁ聞いてくれ。俺にこれから待っている未来は一つ。提さんのお説教だぜ。そう考えると『へへっ! もう筋肉筋肉言ってごまかすしかねぇな!』とか考えたりするのが当然じゃねぇかってなもんだぜ」

「会話参加してない間に考えてた言い訳がまさかで僕びっくりです不知火さん」

 言い訳は日向も得意ではないが、それはごり押しの無理矢理で話題を逸らしているだけの話だと言う事は想像つく。筋肉を発言し続けて事態を誤魔化せたらそれはもはや魔法の域ではあるまいか。

「基本バカだからな。筋肉の事しか考えてねぇよヤコーは」

「何をぅっ! ひじきテメェ! ドーナツのことだって考えたりしてんだぞ!」

「基本、筋肉の事しか考えてないのは否定しないんだね……」

「ユルギュップ。筋肉はな……マッスルなんだっ!!」

「ゴメン。言っている意味がわからなくて。うん、そうだね、筋肉はマッスルだけど、だからそれがどうしたって返すべきなのか悩むしかないよボク!?」

「まぁいいや。怒られるのは結論、ヤコーだけだしよ。さっさと向かうぜ」

「後生だひじき。何か言い訳を考えてくれッ!」

「後生は蹴る。大人しく御用になっとけ」

 九十九の懇願をズッパリと切り捨てた後にぐわしっと彼の頭を鷲掴みにして『いでででででっ!? いてぇいてぇ!?』と言う声もスルーしつつ、日向達の苦笑を横目にしながら一行は店内で待つこと数分。出迎えてくれたのはとんでもなく大柄――巨躯の店員だった。

 褐色の肌に筋骨隆々とした出で立ち。紅蓮の炎を思わせる頭髪。

 どこかのRPGで主役の一人でも張れそうな風貌を持った男性であった。コーヒー店で働くよりもむしろバーテンダーあるいは傭兵か兵士でもしている方がよほどしっくり来る様な男性だ。なにせ着ている制服などピッチピチなのだから。今にもボタンが弾け飛ぶ――否、服そのものが弾け飛びそうな程に彼の制服姿は異様に似合わなかった。

「入店直後になんだこの筋肉の塊は」

 そして礼儀を払いましょうと言いたくなる批自棄の発言である。

「お。この俺を初見で引くことなくつっかかってきた奴はお前が初めてだぜ」

 ガッハッハ!! と楽しそうに大声で笑いながら男性は批自棄の頭を軽くわしわしと撫でながら「……!?」この間に頭を撫でられて驚愕している彼女を置いておき男性は、

「んで。客だよな。いち、ツー、トレス、カトゥル……四名様でご来店か」

 と、人数を確認した後に問い掛ける。

 ユルギュップが小さく、

「どうして日本語、英語、スペイン、フランスで数えたんだろうか……?」

 そうどうでもいい疑問を問い掛けながらも店員の言葉についていく。

「んじゃ、席にご案内するからついてきな」

 その途中、ぽんぽんと頭を撫でられている親不孝通りは、

「なぁ店員さんよ」

「なんだちっこい嬢ちゃん」

YA(あんた)相手だと大概の少年少女はちっこい部類になるけどな。何で頭撫でられてんだよ私、死にてー。……ともかくだ。今この店で席を一部借り切ってる金持ちオーラ爆発させてる奴らがいるだろ? そこの相席なんだが私ら」

 男性店員は「ほう」と納得した様子で頷くと成るほど得心が言った様子で小さく頷いた。

「なるほどねぇ~。お前さんらが、あそこで金持ちパワー爆発させてた奴らの待ち人ってわけか。ならこっちだ」

 店員の案内に従って一行は短い距離を歩いてゆく。

 そうしてすぐに批自棄には見慣れた。日向には数日ぶりという相手の姿が見て取れた。金髪の美しい髪を持った真紅の瞳の少女。

「ようやく来ましたわね」

 顔に若干の『何時まで待たせますか』的な不機嫌オーラがぽわっと見て取れる。一目でわかった。『起きたと言うから待っていたのに何時まで待たせてるのですか』と言う感情が表情からひしひしと伝わる。

 日向は汗をたらりと流しながら愛想笑いを欠かせない。

「わりー、遅れたわー(棒)」

 等と言う批自棄の棒読みに対して、

「貴女は相変わらずですわね親不孝通り……」

 諦めた表情でため息をつく辺り、彼女は日頃誰に対してもこんな感じなのだろうと予測付く。

 対して一名、九十九は辺りを見渡しながら不思議そうに首を傾げる。

「……あり?」

「どうしたんですか、不知火さん?」

「うんにゃ……。大地離(オオジバナリ)の旦那がいねぇ」

 その発言を訊いて周囲をさっと見渡すが確かに金持ちらしき男性はいない様だ。

 不思議そうに思っている九十九に対して紫の髪が美しいメイド――、日向にとって面識もないので知る由ないが、土御門(ツチミカド)睡蓮(スイレン)が九十九の傍によって話しかけた。

「ようやく来たんですか九十九……」

「おう、睡蓮じゃねーか。なぁ、大地離の旦那と(ヒサゲ)さん何処よ?」

 その言葉を訊くと睡蓮はため息をついた後に静かな声で……九十九にとっては絶望的な言葉を吐いて捨てる。

「もう店を出ましたよ」

「へ?」

九十九がきょとんとした表情を浮かべた。

「ですから。もう店を出ましたよ大地離当主と提当代は」

「……マジで?」

「ええ。時間が詰まっていて、この後に会う約束と言うのがあるらしく、提さんを護衛に店を出て行ってしまいましたよ。九十九が来たらコレを渡す様に、とも」

 そう言いながら九十九の手に一枚の紙きれを渡す。

 内容は分からないが、おそらくは次の移動場所が書き記された紙であろう。

 何故、予定を事前に把握しているであろう九十九宛にそんな紙切れが存在しているのかで言えば、場所は前もって九十九自身が知っている可能性は高いがすでに忘却の彼方の可能性を苦慮したのだろう事を批自棄は予測付けた。

 そんな失礼な感想を抱かれているとは知らない九十九は「へー。場所はここねぇ」と呑気な声を上げる。声に幾分かほっとした印象が抱けた事から叱責が遠のいた事からの安堵が生まれているのだろう。

叱られる子供だな本当に。と批自棄が内心でへっと嘲りを行った後にテティスの方へ足を運ぶ最中に耳元に会話が聞こえてきた。

「怒られなくて安心してるところ残念だけど伝言あるわよ?」

「伝言?」

「ええ。提さんから『拳骨と説教――好きな方を選んだ後に追いついてくるのだぞ、九十九』ってね」

「ぬ、う、おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

けれども、頭を抱える少年の事等素知らぬ顔で受け流して主へと発言する。

「ともかく。遅まきながら弦巻日向、連れてきましたよ洋園嬢」

「そうね。良く連れてきてくれましたわね、と返しておきましょう親不孝通り」

 軽く会釈を示す批自棄に対して告げた後にテティスは小さく手で前の座席を指し示しながら、

「とりあえず、そこに座ったらいかがですか?」

 と、告げた。

 弦巻は少し戸惑いを覚えたが恐る恐ると言った様子で席に着いた。

 その光景を見た後に連れてきてくれた店員さんは「んじゃご注文が決まったら呼んでくれや」と告げた後に「バンガーさーんっ! 接客ーっ!」と言う格好いい声が店の奥から響けば「おう、わかってらぁ、坊主ーっ」と告げて足取り速く去って行った。

 そうして残され、前方に縮こまった様子で着席する弦巻の様子にしばし着目した後に、

「そんなにかしこまらなくてもよろしいのですけど……」

 優しい言葉を言ってくれる。

 だけれどそれは無理であった。命の恩人を前にしている様なものだし、その上に超が付く程の美少女であり何かカリスマ性も高い……自分とは雲泥の差の様な気配を感じて日向はすでに硬直状態にあった。

 そんな様子を感じ取ったのだろうテティスは小さく諦めの息を零す。

「まぁいいです」

「……」

「まずは改めて自己紹介させて頂きますわ。私はテティス。迎洋園(ゲイヨウエン)テティスと申しまして日本の名家の一つとして数えられている迎洋園家の者です」

 迎洋園家。

 名家事情に等そこまで詳しくはない日向にとってピンと来る内容ではない。けれども目の前の少女が名家の生まれ独特のオーラを放つ少女――と言うのくらいは理解を示せた。そんな少女に対して日向も小さく、

「ご丁寧にどうも……。僕は先に言いましたけど弦巻日向と申します」

「改めまして、ですわね」

 と告げた後に、

「この度はあの場でのご助力感謝致しますわ」

 テティスは小さく頭を下げた。

 その行動に少し驚いて照れながらも、同時に自分はむしろ助けられた側と言う想いが強い為に日向は正直な話、事実を事実としてパッと認識していなかった。

「感謝と言われましても……僕がやった事なんて何一つ無い気が……」

「そんな事はありませんわよ?」

「君がひゅーって落下してく時も助けられませんでしたし」

「すみません、そこだけは忘れて頂けるかしらっ!?」

 どうやら無様に落下した事は面子が悪い様だ。

 向こうで『筋肉を鍛えてっ、説教にっ、耐えきるしかねぇっ!』と言って腹筋を開始した少年と比べれば可愛らしい光景だったとも感じるが。

「コホン」

 その最中、話題を払拭する様に咳払いし、

「ともかく貴方には我が家の家宝である刀剣を奪還して頂いた恩義がありますから、そこに関しましてお礼申し上げますわ」

「ああ、あの件ですか……」

 でも、と呟いて。

「ただの成り行きみたいなものですよ?」

「成り行きであろうとなかろうと家宝を取り返してくれたのは事実ですわよ?」

「そう言って頂けると助かりますけど……」

「けど?」

「思い返してみると……」

 う~ん、と唸りながら弦巻は記憶をぐんぐんと思い返す。

 初めての邂逅では相手のスキルを見誤った事での窮地を助けられ、その後も例の傭兵との戦いに於いて助言に加えて助力を添えてもらって……。

 そこまで考えて思い浮かぶ事は確実に、助けてもらったのは自分の方だと言う感想であった。実際、自分一人ではどうにも出来なかった面が多い様に思う。これはむしろ自分がお礼を相手へ渡す側ではないだろうかと考えて、男として情けない、そして返せるお礼が何もないという事に愕然とする。

 汗をたらーっと流して目を逸らす弦巻に対して迎洋園は不思議そうに、

「どうしたんですの?」

 と、問い掛けるが、

「い、いえ、何でもありませんよー」

 きょどった声で返すのが精いっぱいである。

 とにかく話題を進めてしまおう。

 弦巻はそう考えて話を促す事を決めた。その結果が彼の今後に大きく影響する事になるとは微塵も思わずに……。

「そ、それでっ! 迎洋園さんは!」

 緊張と気まずさによるものか思わず上ずった大きな声が零れた。

「急に大きな声を出されると驚くのですが」

 真顔でテティスは言った。

「それならせめて驚いた表情で言ってくださいますかね?」

「従者の中に大声でしか話さない者がいまして免疫がありますの」

「従者の主って立場も大変なんですね」

「そうですわねー。時折、主と言う立場は何処に消えたのかと言う時がありますわ」

「うぇーい、洋園嬢が私の事を見ながら呟くぜ死にてーっ」

 批自棄の発言通りにテティスの視線は批自棄を一直線に集中的に捉えていた。なお、批自棄に関しては椅子にだらーんと座っていてとても気にした風がある様には見えない。

「主が基地内にいるのに関わらず大砲乱射するメイドもいますしね……」

「お嬢様、その節は申し訳なく感じているであります」

「すっごい視線を逸らして汗だくですから許していますけどね」

「って言うか一ついいですかね?」

「何です?」

「何で何時の間に、人数増えてるんでしょうか?」

 弦巻がポツンと漏らした一言。その言葉通りに、その場に人数は増えていた。迎洋園テティス、土御門睡蓮の二人がいただけに思っていたのだが現在では約二名。金髪のメイドと老齢の男性がその場に存在していた。

 そして弦巻の疑問に対して迎洋園は「ちょうどいいですわね」と呟くと。

「紹介しますわ。まずこちら……紫の髪色をした女性は私の専属メイドとしては№2に当たる人で土御門睡蓮と言います」

「初めまして、弦巻君。テティス様に仕える土御門の睡蓮と申します♪」

「彼女は私の――引いては迎洋園に代々仕える家柄の者でして、そちらの不知火九十九さんと同列の家柄の者になります。まぁ三家の従家――『従三家(ジュウサンヤ)』と我々は称す家柄なのですが」

従三家(ジュウサンヤ)』、と言うのにも聞き覚えはない。九十九がどうやらそこそこ高い地位の家柄と言うのは漠然と判断出来るが当人を見ていると何と言えばいいか些か困る。しかしどうやら『迎洋園』家に仕える代々の家柄と言うのが『土御門』家と言う立ち位置らしい。とすると先程から何度か聞いている『大地離』と言うのが『不知火』が仕える家柄と言う事の様だ。

 三つと言うからには後一家あるのは確実だが興味の湧かない日向にとってそこは正直な話どうでもいい話だった。

 どうでもいいと言うには語弊があるかもしれないが。

 彼らの世界とは何の関係も無い自分にとっては知ったところで価値は無いだろう。

「では、次にこちらの私より明るめな金髪のメイド――彼女は我那覇蹂凛。綽名はジュリー等と呼ばれていますわ」

「我那覇であります。少年、苦しんで死んでみるのも一興であります」

「何で僕、初っ端から初対面の人に苦しんで死ね的に言われてるんでしょうか?」

「私たちにあんなに酷い事をしたのですから当然であります」

「何かしましたかね、僕!? 初対面ですよね?」

「気持ちよく寝る傍で私たちはあんなに……」

「何か間違いでも犯したんですか、僕は!?」

「ええ、一夜の過ちであります」

「ワッツ!? ホワーイ!?」

 最早、何が何高日向にはわからない。

 涙目でテティスへ問いかけるもテティスは「まぁそこは追々」と簡素に告げるだけ。

 何をしたんだろう……と少し怖く思いながらも次に示された老齢の男性に目を向ける。彼は我那覇とは違って優しい苦笑を零しながら弦巻に穏やかな挨拶を行った。

「迎洋園家の専属運転手。饒平名(ヨヘナ)銀次郎(ギンジロウ)と申します」

「私の祖父の代から仕えていてくれる方ですわ。私にとっては馴染み深い方です。そしてご本人も仰っていますが迎洋園にて運転手を長年務めてくれていますわ」

「そうなんですか……」

 と呟きながら弦巻は何故だろうか、妙に胸に来る不可思議な感覚にとらわれた。なぜだろうかと悩む。嫌な感覚と言う気はないが不思議な違和感を抱いた。

 けれどどうせ間違いか何かだろうと吹っ切って会話を続けた。

「本来はまぁ幽の倉沢(ユウノクラサワ)さんやダッハシュタインさん、双子岬(フタゴミサキ)さんを紹介しておきたいところですが……」

「現在は所要で出かけております」

 睡蓮が補足する。

「という事で最後になりますが、貴方を此処まで連れてきてくれた、そちらのメイドが、親不孝通り批自棄(ヒヤケ)になります。正直な話、何時から仕えているか知りません」

「何ですかその自己紹介?」

「正直、年齢と容姿が合わない方といいますか……詳しく知らないんですわよ」

「化け物か何かの扱いかよ私は、死にてーっ」

 そうは呟くが確かに独特の少女ではあると思う。当然そんな事は口に出さない日向だが。

「ところで何故、ユルギュップさんまで?」

「ひじき君に連れられてきてね……何故か」と困惑の表情を浮かべながら答えた。

 けれど約数名は『ああ~……』と納得した様子で頷く。

 何故だろうか? と疑問を抱きもするが、そんな事情を日向は知る由もないのでただ淡々と会話を訊く以外に他なかった。

「さて、自己紹介は以上ですわ」

 それで、と呟いて。

「――ここからが本題になります」

 その言葉に思わず背筋がピンと伸びる。何を言われるんだろうか、と少し緊張を抱きながらも内心でもしかしたらお礼の話もしれないと淡い期待を日向は抱いた。正直な話、お金なら嬉しい。一〇〇〇円か。もしかして五〇〇〇円と言う暴挙か。と、ドキドキと胸が高鳴る。

 大金持ち相手にその金銭感覚に嘆きを禁じ得ない、読心を行っている批自棄を傍目に会話は進む。ただし、その進み方は日向としては若干想定外な方面から入っていった。

「……貴方、覚えていますかしら?」

「何を……ですか?」

「件の戦い相手、例の傭兵ですが……名前はブロドと言う者だそうですが。彼との決戦中に屋外へ飛び出しましたよね?」

「はい。彼を追う形で」

「その折に……巨大な黒塗りの車体を切りつけて破壊しまし……たか?」

「ああ、覚えてます、覚えてます」

「……何故、壊したのですか?」

 その言葉に責めの意味は無い。含まれる意義は疑問。

「理由ですか……戦いの最中に邪魔だ、と感じたのもありますけど、僕を搬送するのに使った敵の車両の類だろうなーと予測したので壊しておいた方が得策かなって……」

 そう自分で言いながら後半の言葉が尻すぼみに小さくなってゆくのを感じた。

 どうした事だろうか。先程まで耳に捉えていた店内の人々の楽しげな談笑も、外を走る車や歩く人の会話の声も何もかもの音が遠のいてゆくかの様な錯覚を抱いた。

 体中の穴と言う穴から汗が噴き出してゆく様な嫌な感覚を感じる。

 ひくつく口をどうにか動かしながらどうにか言葉を紡いだ。

「ま、まさか……。もしかして、その、えと……ひょっと、して……」

 ダボダボと汗を滝の様に流す日向の姿に少し同情的な瞳で。

「残念な――本当に残念なお話になるのですけれど――」

 本当に残念至極に、日向にとってどうしようもない言葉が述べられた。


「――アレは迎洋園家所蔵の車体です」


 死刑宣告――、とまでは行かない。けれど逮捕宣告くらいに彼の心には響いた。

 日向は止まらぬ汗の不快感すらも彼方へ遠のいていったのを自覚しながら、

「あの黒塗りの車体って……迎洋園さん、の……?」

 と、引き攣る表情でどうにか言葉を紡ぎ出した。

「ええ。正確には迎洋園家の所蔵『運船(スカイワーカー)』と言う高級車両ですわ」

「高級……!」

 弁償ものだった。お礼金どころではない。弁償だ。

 それも恐らくは一〇〇万円と言う額をぽーんと飛び越えて一〇〇〇万円の壁を貫通するくらいの。ベンツの高いのがそれくらいした気がするから、車に詳しくはないがかなりの金額が考えられる。

「私としては……」

「僕の腹切りで満足してあげてもいいですが?」

 ぷるぷると生まれたばかりの小鹿――否、仔羊がそこにいた。

「涙目でそんな事を考えなくていいですわよ!? そしてそんな事を言うつもりはありませんからね!? 車と人の価値で車を取る気はありませんし」

「でしたら……僕はどんな処罰を……」

「正直な話、助力をしていただいた恩義を感じますし、まあ弁償はして頂かずとも構いませんかねーとも考えるのですが……」

「ですが?」

「あの、ほら……」

 テティスは少し上目使い気味に何故だか申し訳なさそうに、

「……壊した場所があの基地でしょう? ですから我々は徒歩での交通手段で隣国のここまで来る嵌めになったと言いますか……」

 口から吐血を零しそうだ。弦巻はそんな感想を抱いた。

 並大抵の距離ではない。国境をまたぐ程の距離を徒歩。まさかの徒歩。途中に車でも調達したかもしれないが途中まで徒歩だったのは間違いないだろう。

「……疲れたのであります」

 これ見よがしに聞こえてくる声。

 成る程、納得だ。我那覇が先程からジト目で見つめてくるのは『コイツの所為で何キロも歩く嵌めになった』と言う不満の表れだったのだ。確かに睨みたくもなる。

「とはいえ、正直その距離も適当に板を担いだ饒平名さんが我々を乗っけてものの数時間で跨いだ距離なのですけどね」

「待ってもらえますか。それはそれで僕はどういう反応示すべきか悩むんですが。饒平名さんは何を人間離れした事を平然とこなしてんですか!?」

「運転手ですので」

「運転手の領域超えてませんかねぇっ!?」

「ですから事実、我々はそこまで疲労感マックスの様に歩いたわけではありません」

「それは何か救われました……」

「ですので賠償などを求める気も無かったのですが……」

「ですが?」

 迎洋園は今度こそ本当に言いにくそうに。

「あの車体『運船(スカイワーカー)』はただの車両ではなく迎洋園家に技術協力を行ってくれている瓜生野(ウリュウノ)家の当代が作り上げた『自称・最高傑作』だそうでして……」

「はい」

「様々な機能を詰め込んだ結果、それはもう莫大な開発費や研究費が重ねに重ねられている様な代物でして……つまりですね」

 一言で言えばそれは『最高傑作を壊された瓜生野家当代が賠償無しを許さない』。

 と……、言った事情であった。試行錯誤を重ねて作り上げた最高傑作があろう事か何処の誰とも知れぬ者の手で斬殺にして解体として爆発である。開発者としてはたまったものではないだろう。御令嬢の恩人と言えど何の損害賠償もなしにいては許容出来ないと言う事か。

 つまり賠償をしなくてはならない。

 結論はそこへ至った。

「でも……僕、その……お恥ずかしい話ですけどお金なんて全然ないですよ……」

「やはりそうですか……まぁあったとしても……」

 弦巻にお金はない。無くて傭兵に駆り出されたほどだ。それにお金の大半は父親により奪われる形で無くなっている。とても一〇〇〇万円などは払えない。

そんな価格なら良かった、と。

 後に弦巻が抱く感想である。

「落ち着いて聞いてほしいのですが」

一拍置いて、

「……『運船(スカイワーカー)』の価格はですね……」


 ――約、四億円です


 あの時は本当、開いた口が塞がりませんでした。後に弦巻は当時の心境をそう語った。

 四億円。バカにならない金額とかそんなのじゃなく車一台にしてみてもあからさまに値段がおかしい。そう叫びたくなる気持ちは膨れるだけだった。金持ちが本気で作り上げた一車にしてもそこまでふざけた金額に至るものなのか。

 疑問は尽きない。

 しかし命運は尽きた。

 思考も尽きた。

 廃人の様に背もたれにもたれかかりながら「……僕は……どうしたら」と声にならない声で呟く。臓器を――体を全部売り払ってもとても払えない。四億円など何をどうしたら返済出来るのか。弦巻は大企業ではない。

「そう言う流れでして……」

 無惨にさらさらと散ってゆく弦巻相手に迎洋園はピシ、と扇子で指し示して告げた。

「弦巻日向さん。4億5,300万2,145千3333円――それが迎洋園家が要求する正式な返済金額と、なります」

 すでに空気中に散っている弦巻に対して無情な勧告がなされた。

「敷いては、その返済方法としまして――」

 その際に少しにやっと嬉しげな表情を浮かべながら迎洋園ははっきりとした声音で土御門によりかき集められ傍のコーヒーで練り固められた弦巻君(灰)に対して告げる。

「貴方には本日付で――迎洋園家の従僕(フットマン)として働いて頂きますわっ」

 綺麗で。美麗で。清涼な美声が軽やかなステップを踏み締めて弦巻の人生を決定づけた。

 灰と化した少年は馬耳東風よろしくその後詳しく訊いてやっと、という有様であったが。


        3


 そうして今に至る。

 トルコの別荘である屋敷の一室。その部屋から執事服の格式より一段、見劣りするもしっかりとした服装を身に纏う弦巻の姿があった。迎洋園家の従僕の正式採用の服装。執事の地位よりも一つ劣る従僕。今風に言ってしまえば執事見習いの服装だった。

 開け放った扉の向こう、傍の壁に背を預ける独特な雰囲気放つ異彩のメイド、親不孝通りの姿を見た。

 彼女はぱちっと目を開けて弦巻の姿を見据えると、

「似合ってんじゃねーか」

 と、微笑ましいものでも見る目で告げた。

 同時にその声には何処か格好いいぜと褒める様な色も含まれている。

「自分じゃ全然似合ってる気がしませんけどね」

 だけれど、日向はそんな事伝わっていない様子で苦笑で返した。

「大丈夫だろ。そのうちに着なれてくるさ」

 そう言いながら壁から背を離して手招きする。

「さ。行くぞ」

「はい」

 小さく肯定の意を発して彼女の後へ続く。歩いてゆく。

「そいじゃあまずは――」

 日向の方を振り向きながら小さな歩幅で歩んでゆく少女は告げた。

「ご主人様にその服装姿を見せてから、だな」

 そうして歩く。

 傭兵なんて立場から、何故だか四億円なんて借金背負って――従僕(フットマン)へと。

 随分と激しい移り変わりが身に降りかかる。

 けれども弦巻日向は真新しい上着の袖に通した腕を軽く握りしめて。

 長い長いこれからの道を仕える者として歩き始めた。

 自分の未来を確かめる。

 その時まで。


第二章 ドーナツ茶会、カフェで散財

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