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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Deuxième mission 「迷宮の究明」
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第一章 日常、白縫い絡み前日和

第一章 日常、白縫い絡み前日和


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 三月二十四日。

 その日が示すのは件の戦地脱走から実に二日が経過した事であった。弦巻日向は知人友人の死を目の当たりにし、兵士に捕縛され脱走に至るまで。

 彼の地で日向は日常より非日常寄りな光景を目の当たりにする事となった。

 拳銃片手に戦場を駆け走った時の記憶よりも実に色濃い二日間。身体的な意味でも精神的な意味でも疲労困憊となった日向は傭兵ルディロ=スラヴォンスキ=ブロドとの戦いを皮切りに疲労は頂点へ達し、倒れ込む様に眠りこけてしまっていた。

 そして実に二日間程眠り続けた日向の目が開いた時、目の前にいるのは一人の少年であった。色素の薄い銀髪で後ろ髪が長く、ゆったりと紐で縛っている。ピンク色の瞳を持つ端正な顔立ちの少年であった。

 この場所がどこか。そして彼が誰か。

 それが理解できないでいる日向に少年は振り向いたまま、小さく微笑みを浮かべて、

「あ。起きたんだ?」

と、訊く者の心を鎮静するかの様な柔らかで綺麗なアルトボイスで言った。その声に一瞬どこか懐かしむ物を思い出す。

 けれど周囲の光景は思う物とは明らかに違う光景で。日向はそんな淡い想いを頭からどけて今一度少年へ目を向けた。

 思わず女性と見間違える容姿の少年だなと日向は思う。

 自分も初見の人には大抵女性と間違われる容姿を持っているが、この少年も相当に女性に間違われるであろう容姿をしている事は確実である。ただし服装は生粋の男性ものである事からも自分と同じく男性なのだろうと予測をつけた。実際、言うのは悪いが胸は完全な絶壁であった事からも男性であろう事が如実に物語っている。。

 しかし、そう考えると男性として相当な美少年だなぁ、と日向の口から感嘆の息が零れる。

 そんな日向の心など露ほども想像していないであろう少年は日向の様子がずっと、きょとんとしたままなので心配になり、不安げな表情で尋ねてくる。

「えーっと……大丈夫? ひょっとしてどこか具合悪い、かな?」

 心配をかけてしまったと気付き少し早口で焦りを交えた様子で日向は即答した。

「あ、いえ。大丈夫です!」

「本当? 何処か悪かったら素直に言ってくれた方がいいんだけど」

「いえいえ、本当に平気です。……うん、体に変な感じはありませんし……健康って感じがします」

「そっか。良かった♪」

 それならば安心だよと微笑を浮かべて一度小さく頷いた。

「にしても君、相当タフな体してるらしいよねーお医者様が診てくれたんだけど、手当したらグングン回復に向かったよ?」

「あははー……」

 そう言われて日向は苦笑を零す。

 まぁそうだろう。今まで人生で父親に裏切られ続けて複数の大人から暴行を受けた事もあるし子供たちにいじめを受けた事もあるし、野生の動物に襲われた事も多々あるし、交通事故ことひき逃げにあった事も数えたら限りがない数で起きている。だから自分の身体はそんな負傷を補う為に新陳代謝が常人よりもずっと強くなっているだろうから、大抵の怪我では死にはしないのが日向の無駄なタフさである。

「しかし君が連れてこられた時はボクも驚いたよ、流石に……」

「驚いたんですか?」

「……うん」

 連れてこられた、と前置きした以上は搬送されてきた折に驚いたと言う事なのだろう。病院だろうから怪我人が搬送されてくる事にそこまで驚くものなのだろうかと少し不思議に思った。けれども確かに血塗れの少年が、日本人の少年が搬送されてくれば驚くのは当然かもしれない。しかし生憎ながら、それは大幅に違っていたと言えよう。

 目の前の少年は男の眼から見ても可愛く感じる程の赤面の表情を生み出しながら、気まずそうに視線を逸らし、コホンと咳を一つ交えて日向にとって最悪な発言を発した。

「……まさか猫耳でニーソックスで体にシーツだけの男の子が運ばれてくるとか前代未聞だったからね……」

 一瞬の沈黙が満たされた。

 だがすぐに沈み、黙った日向が静寂を瞬時に破り捨てた。

「う、うあぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 そっちかぁ! と、叫びながら日向は叫び声を上げた。

 なお少年としては日向が血塗れでも驚かないのには隣国で紛争が起きている為に重症者というのは見慣れている事から驚きを抑えられるのだが、流石にコスプレ状態で搬送されてきた少年には驚きを隠せなかった、という日向としては物悲しい真実こそ事実であった。

 けれど良識的な少年は嗚咽を漏らす日向に対しての感想が、

「その分だと望んで着ていたわけじゃないみたいで、ボク少し安心したよ……」

と、いう言葉が返ってくるぶん助かった。

ここで『大丈夫。人の趣味は各々だから私は引いたりしない』とか『流石にあの服装はちょっと……』とか返ってこない現実に日向はほろりと涙する。

「え、と……。一応あの服には理由がありまして……!」

「その反応見た限りじゃそうだろうね」

「はい一応理由がありまして……!」

「ああ、理由とか話さなくていいよ? 思い出したくない類のものな気がするし」

 苦笑交じりに肩をすくめてみせる。

 少年の対応に日向は若干涙を流す程であった。

 何てこっちの事情察してくれる良識的な人なんだろうかと、思いながら頭を垂れる。

「ありがとうございます……!」

「わわわっ!? 頭を下げる必要はないよ? 君悪い事したわけじゃないんだろう?」

 つくづく良識的だ……、と日向は軽く感動を覚えた。一切茶化さないし。

 そこまで考えたところで日向は今更ながらに気付く。結局この人誰だろう、と。運び込まれたという辺りからここが病院の様な場所なのでは、というのはわかるのだが……。

 そんな日向の視線から察したのか少年は、佇まいを少し正して。

「ああ。そう言えばまだ自己紹介してなかったよね」

胸に右手を添えながら少年は名乗った。

「ボクはラナー。ラナー=ユルギュップ。ここでお医者さんの見習いみたいなものをやっているってとこかな。よろしくね、弦巻君」

 にっこりと笑みを浮かべる。その表情はとても優しい色を発していた。

「ユルギュップ君ですかー……。僕は弦巻――……って、あれ僕の名前……?」

 自分の名前を知っている事に関してラナーに視線を投げかける。

 ラナーも日向が何を不思議に思ったのかすぐさま気付いた様で返答を返す。

「名前ね。初めはわからなかったんだけどね。後で君を搬送してくれた人達がささっと調べてくれたおかげで名前とかこっちに通してあるんだよ」

 そう言いながらポンと四角形の薄い板をたたく。軽くヒラリと白い紙の端が舞った事からカルテに記載されてあるのだろう。

「そうなんですかー……」

 確かに異国の地で日本人が負傷したとなれば一つ騒ぎにもなるだろう。身元確認が起きたとしても何ら不思議ではない。日向はとりあえず不審者とかには該当されて困った処遇に至ってはいない様子でほっと安堵する。確かに不審者とは少し違う。

「ただ、まぁー……うん、少し問題があるって言えばあるんだけど……」

 少し安心感を持った日向は病院で起きたという事に戸惑いを抱いていたが、落ち着きを取り戻してラナーが腕組みし右手で顎に軽く触れて考えこみ、何か含む物がある様に言葉を吟味している様子ながらも日向としては少し気になった事があったので何気なく問いかける。

「それにしてもー……さっきから日本語上手ですねユルギュップ君」

「え?」

 何となく関心を抱いていた事とはラナーの日本語の上手さである。

 ここで初めて起きた時に耳に馴染み良く聞こえた『起きたんだ』の声は紛れもなく日本語であり現在の会話も日本語のキャッチボールであった。外見から察するに生粋の外国人であろう事はわかる為に日本語が彼ほど上手な事に内心驚いていた。

 対してラナーは軽く腕組みしながら小さく微笑むと、

「ああ、その事か。日本の人相手だったから日本語で喋ってたもんね、ボク」

「起きた瞬間に一瞬、日本に帰ってたのかと思っちゃいましたよ」

 本当に上手だったので……と小さく畏まりながら呟く日向にラナーは、何処か誇らしげに、そして何処か感慨深げに声を発した。

「まぁボクが日本語得意って言うのには幾つか理由もあるんだけど……一つはやっぱりここがトルコって事で僕はトルコ人だからってのが大きいかな」

 その発言の真意にはどれだけの意味が含まれているのか日向は当然ながらも知る由が無かった。と、言うよりも日向としては別の事に思考が飛んでしまった為にそこに注視する事が出来なかったと言う方が正しい。

 日向は窓の外を眺めながら少し驚いた様子で呟いた。

「え……? ……あ、ここトルコなんですか……!?」

「あ、うん。そう言えばそこも言ってなかったよね。そう、ここはトルコだよ。君が運ばれてきた場所のお隣って場所になるね」

「そうでしたか……。けど、当然か……」

 彼の地で負傷したのなら安全を求めるならば確かにこの地が一番だろう。今この場所がどこなのだろうかと思っていた疑問が氷解して日向は安堵の吐息を零す。

「良かった……」

 妙な場所に来ていたらそれこそ大変だった事だろうが、トルコならば左程心配はいらない事だろうと安心する。

「その様子だと……やっぱり戦地では大変だったかな?」

「あはは……そうですねー……」

 本当に色々あったよなぁー……と遠い目で呟く日向を見てラナーは困った様に苦笑を零す。

「もしも秘密組織みたいな場所の監獄だったりしたら大変だったね」

「それは笑えませんよ」

 冗談交じりの発言に実際そうだったら笑えないと思いながらも、同時にこんな軽口が叩ける場所に来れた事に安堵しながら日向は苦笑を交えて言葉を返した。

「そっか、ごめんごめん」

 手をひらひらと軽く振った後に背中を振り向ける。

「さて、と」

「どこかに行かれるんですか?」 

「うん。ボクはちょっと人呼んでくるね。君と話があるって人がいるからさ」

「話、ですか?」

「そっ。迎洋園家の関係者なんだけど……一名、この病院に残ってもらっているから呼んでくるよ。……あ、話しても平気、かな? 体調が辛いなら後日にしてもらう形になるけど」

「平気です。僕も少し訊きたい事ありますし……」

 その言葉は無理とかではなく本心であり、今どのような状況なのか漠然としか判断出来ていない日向にとっては状況を理解してくれている相手に話を訊きたい心境であった。ラナーは視線で無理だけはしないでね、と語った後に、

「じゃあ今から呼んでくるから」

 そう告げて足早に扉の方へ赴く。パタン、という扉の閉まる音が聴こえた。

 耳に懐かしく感じる在り来たりな音を聞き届けて少年が駆け足気味に去り遠のいてゆく足音。それが完全にある程度聞こえないまでに至って日向は軽く息を吐き出した。

「迎洋園……か」

 確かめる様に呟く。

 記憶が少し曖昧に感じるのはやはり先程まで寝込んでいたからなのだろう。ただし記憶に鮮明な少女の姿は思い出せる。金髪赤目の見目麗しい少女。迎洋園テティス。

 そこまで言って一つの可能性に思い当った。

 もしかしなくても自分を運んでくれた人達って迎洋園の人達なのだろうか?

 と言うか逆にそれ以外考えられない。

 あの場所は敵戦地なのだから安全地帯まで運んでくれるとしたら迎洋園の関係者くらいであろう。先程の『迎洋園の関係者が話がある』というのも自分への安否とか、そういったものなのだろうか、と考えて日向は失礼の内容にしないといけないと思い、ピシッと背筋を伸ばし、すぐに来るであろう礼儀の場に備えた。

 痛かった。背中がズキズキと鈍い痛みに苛まされる。

「あぐぅ……! 一瞬、ピリーってしました……!」

 とりあえず少し猫背になっておこう。

 そこまで考えた所で日向の耳に複数の足音が聞こえる。まばらに聞こえる四つの足音……、即ち二人の足音。一人はラナーだとしてもう一人は間違いなく迎洋園の人なのだろう。扉がコンコンとノックされる音が響いてラナーの『入るよー?』という声に「ええ」と即座に返答する。

「おっ。マジだ、目が覚めてるじゃんか」

 日向の元に現れたのは一人の少女であった。色素の薄い黄緑の髪に黒目の可愛らしい顔立ちの少女で結構小柄だ。メイド服を着ている事からおそらくメイドなのだろう、という予測は付くのだが全体的な彼女の雰囲気からメイド? と勘繰る感情が発生するのも致し方ない。何かこう不気味なオーラ漂う、とでもいうのだろうか。

 それによくよく見ればメイド服は服の端がズタボロに切れている。

 長年ロングコートかローブを着用し旅にでも出て生まれる貫禄の様なものが感じられる様なズタボロのメイド服であった。ただし洗濯はちゃんとしているのだろう、端の切れ目を除けば清潔感漂っている。

 そんな全体的に異質な雰囲気纏う少女は軽く手をひらひら振りながら日向の方へラナーと共に近づきながらニンマリと何処か歪な笑みを浮かべながら上から目線で問い掛けた。

「やぁやぁ、御加減はどんなもんだい、坊や?」

 自分より小さい少女に坊や呼ばわりに少し戸惑いも感じたが日向は、

「あ、はい。特にこれと言って問題は……」

「ないなら良かったじゃねぇか。まずは一安心って奴だな」

 ケタケタと凶悪なスマイルを浮かべながら少女は笑みを浮かべる。笑みこそ凶悪だが何故だか安心感はしっかり感じさせる辺りが特徴的であり不可解で不可思議な少女だ。

「それで貴女はその……、迎洋園家の方なんでしょうか?」

「おっと。まずは自己紹介しとくべきだったな」

 少女は笑いを止めると腰に右手を当てながら、ニマァと笑みを浮かべる。

親不孝通(オヤフコウドオ)り批自棄ってモンだ。まー苗字呼びでも、ひやけちゃんでも、綽名のひじきちゃんでもフコードでも何でも好きに呼んでくれりゃーいいさ」

「あ。じゃあ、ひじきさんって呼ばせてもらいます♪」

 初対面ならば苗字呼びが基本の日向であったが、苗字名前以上に綽名として宣言した『ひじき』というのが実に親しみやすさを覚えた様子でひじきさんと呼ばせてもらう事とした。

 それに対して批自棄はスタスタと壁付近の近づいてゆくと『どうしてその選択になるんだっつの全員!』と叫んで頭をズガン!! と壁に頭突きして『そんなにてめぇら美容健康ひじき様様とでも言いてぇのかぁああああ!』と何故だか意味不明な怒りを吠えた後に、スタスタと壁から離れて額から流血しながら日向達の元へ戻ってくると、

「んじゃ、こちらこそよろしくな、ユミクロ」

「いやいやいやいや、今の頭突きくんだりの流れは一体なんだったんでしょうかねぇ!? って言うか僕が綽名で呼んだらそちらも当然の様に綽名で来た?! そして自分でも由来が全く分からない綽名なんですけど!?」

「あン? んなの苗字弦巻で『(つる)』は『(ゆみ)』と『(くろ)』だろ? だからユミクロ」

「予想斜め上を抜粋しましたね!?」

「将来は大型衣料品店でも開けそうな感じの綽名でいいじゃねーか?」

「開いたと同時に周辺住民と大型衣料品店に告訴されそうですけどね!」

「んじゃあ名前日向だし『ぼっこ』とでも呼んでやろうか?」

「遂にほんわかしそうな不思議な派生を……。そして意味的に止めてください。『ぼっこ』じゃ意味的に女の子で男が名づけられて嬉しいものじゃないですよ!?」

「なら転じて『ぼっち』とかどうだ?」

「凄まじく悲しくなるのでやめてぇええええええええええええええええ!?」

「えー。格好よくね、『ぼっち』?」

「何処がですか! 孤独への嘲笑しか感じられませんけど!?」

「だってダイダラボッチの『ぼっち』だし」

「格好いいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!! けど僕の名前と縁も所縁も無いんですけどねぇええええええええええええええええええええええええええええ!?」

「我儘な奴だな折角格好いいネーミングだっつーのに……」

 同意を求める様な視線をラナーに向ける批自棄だが困った様に苦笑しているので残念そうに舌打ちを打って『ぼっち』をボツ案に仕方なくする事とした。

 なので代わりとして……もとい案を遠回しに否定してくださったラナーに向けて発言を、発案を促す事とする。

「なら何かいい呼び方あるかユルギュップ?」

「うぇえ!? ぼ、ボク?」

突然指名された事に少し驚きを示し戸惑いを浮かべながらも、律儀に返答する。

「うーん……。日本語は話せるし書けるけど漢字とか難しいし……普通に弦巻君でいいんじゃないかな?」

 普通だ……。

 約二名は可もなく不可もない返答に一人は安堵を。一人はこれ以上なく蔑みの眼を送ってくる。

「凄い不愉快なんだけど……」

「気のせいってやつじゃねーかね」

 顔をしかめるラナーに対してケッ、とつまらなそうな態度を見せた批自棄は仕方なく泣く泣くの採決を下す事とする。相手が不快感を覚える綽名等つけてはならない。そんな良識を兼ね備えているからこそ批自棄は――、良識等ドブに捨てて自分を押し通した。

「それじゃ呼び方うんぬんも決まったし話を始めようぜユミクロ君よ」

「「初めからそれ通す気満々でしたね(だよね)!?」」

 何やら日向の綽名が中々度し難い形で決定した。

 弦巻日向なのに綽名ユミクロ……、これ絶対ひじきさんしか呼ばないよ……と日向は内心で呟きながらも彼女の様子から何故だかユミクロが気に入ったのだろう、帰る気配も無い。某衣料品店にそっくりな綽名になってしまったが致し方ない。

 とりあえず妥協して日向はそっと口を開く。

「えーっと……それで、お話と言うのは……?」

「決まってんだろう?」

ニヤリ、と笑みを浮かべる。

YA(おまえ)が気絶したその後ってやつさ」

 その言葉を訊いた瞬間に日向の表情にぴりっと緊迫感が走る。

 尋ねたい事は複数あった。戦った男の事、あの基地はどうなったか、それに……友人であったハーリス=デリゾールの遺体はどうしたのか、等だった。

 そんな日向の様子を見抜いた表情を浮かべてケラケラと笑いながら腕組みする。

「ハハッ、色々知りたそうだなYA」

「ええ……結構真剣な問題ですから」

「そっか。まぁYAにとっては重要案件みてーなもんだろうからな。私も真面目に話してやるとしようじゃあないか」

 まず一つ目、と呟いて。

「YAが倒した男、正式名はブロド、ルディロ=スラヴォンスキ=ブロドってのがフルネームの様だな。コイツに至ってはYAが相討ち気味ながらもぶった押したおかげもあって、こちらで即座に捕縛して危険人物って事も調査で判明してたし、現在は某所の牢屋に収まってもらってる次第さ。まぁ怪我も酷ーししばらくは無理出来ねーだろうな」

「そうですか……良かった……」

「肩の荷が下りた様子だな」

「ええまあ。何と言うか野放しにしていると危険そうな性格だったので……」

「ま、な。つっても雇われ兵だし、色々難題ではあるがさ……」

 んで二つ目に、と指を二本立てて、

「結論から言えば基地は完全に崩壊してやがるそうでーすっ」

「すっごい軽い口調ですけど大問題じゃないでしょうか!?」

「あっはっはー。まぁそうさな」

「倒壊したんですかあそこ?」

 記憶の残留を手繰り寄せながら思い浮かべる景色は如実にそれを物語っているが、戦闘でそこまでの影響が出てしまったかと僅かばかりに驚きの感情を抱く。

「YAもわかってただろう? あの基地戦闘の影響で完全にズタボロ状態まで陥ってたしよ。崩壊も時間の問題……。つーか実際、崩壊に巻き込まれただろ一回?」

「確かにそうですけど……」

 落下しながらルディロと戦っていた記憶を思い出してつーっと冷や汗が頬を伝うのを感じながら日向は神妙に頷いた。むしろ崩壊に巻き込まれずに済んでいた事を安心すべきなのかもしれない。

「まぁ崩壊の責任大半はうちのメイド部隊の大砲娘こと我那覇(ガナハ)って奴の攻撃に責任があるんだがな。大半の崩壊は絶対アイツの仕業だ、間違いなく」

 実際、睡蓮にこってり絞られてたしな~と頭の後ろに腕を回し上を仰ぎ見ながら気だるげに呟いている始末だ。大砲娘こと我那覇蹂凛(ジュウリン)の事は面識のない日向にはわかるべくもないが、しかし爆撃が多数あった事は記憶に鮮明に残っていた。本当に倒壊に巻き込まれなくて良かったと胸を撫で下ろす。

 ただ同時に倒壊のおかげで日向の貞操は無事であった事から恩人でもあるわけだが……、日向は気付いていない。

「なお補足してやると死者は一人。重軽傷者は合計で一四〇人ってとこだな。ちなみにけが負わせたの大抵が私らの仕業になるわけだが」

「さらりと僕ら相当な事をやってましたしね……」

「軍の兵隊相手にとんでもない事やるよね本当に……」

ラナーがうんうんと頷く。

日向も同感である。さり気無くとんでもない事をやっていたものだと今更ながらに痛感する出来事だ。

「それでその……」

「ん?」

「……死者一人、って言うのは……?」

 日向はそこが気にかかった。

 死者。即ち死人。あの場での戦闘の結末……、予測できるのは目の前で自分を庇う形で散って行った青年の姿。批自棄の口から語られる名前に推測をつけながらも確認しないわけにはいかなかった。

「ああ、そこな」

批自棄はまぁその質問来るだろうと予測していた様子で返答する。

ただし、語られた名前は日向としては随分と意外な名前である事に驚きを感じたのであった。

「ハマー氏だよ」

「ハマー氏?」

「そっ。アルグール=ハマー。あそこの責任者って奴だ」

「ハマー……責任者……あの人か……」

 思い出すのは自分を見下し、そして父親の雇い主でもあった人物の厳つい眼光。同時に自分へ下した最悪な拷問と僅かな同情。本当何故あそこで同情を見せたのだ、見せるくらいならやらないでよと叫びたかった記憶。思い返したら吐き気を催してきて何かイラッときた。

「知ってる……、みたいだな?」

「はい、一応……。会話もしましたし……」

 最悪な内容の、とは内心で吐き捨てて。

 あの人が死んだのか、と内心で心が揺れ動いた。別に死んだからどうした、という程の間柄ではなく、むしろ敵ではあるのだが人死、というのが存外心に突き刺さる。

 何のことは無く無事で済みそうだったのに……。

「……何で……死んだんですか?」

「死因か?」

「はい。正直、そう簡単には死ぬ風には見えなかったと言いますか……まぁ少しばかり気になって……」

「まぁ、そうだな……。死ぬ少し前にはYAも知ってるだろうが洋園嬢(テティス)に加えてメイドの同僚……、即ちメイド僚」

「略したせいで寮部屋みたいなものになっちゃいましたけど!?」

「土御門ってのが戦闘した後に亡くなったってなわけなんだが……」

 とりあえず日向のツッコミをスルーしながら批自棄は告げる。

 その無慈悲な現実を。

「瓦礫でペシャンコってヤツだな」

「想像以上に普通な死に方ぁああああああああああああああああああ!?」

 あれだけ敵の親玉オーラ出していたのに死に様が潰れて死亡であった事にどうしようもない不思議な憤りすら感じる日向である。

「普通ではない、かな……? 瓦礫で押し潰される、かぁ……。中々悲壮な最期だね……」

隣でラナーが一般的な見識を呟く中で日向はなんだろうか、完全な事故死に呆気にとられる。何と言うかあの空気の中なら迎洋園家の人を戦って最後……、とかにでもなったのかと考えていたのだが……。

「おいおい、勝手にメイド部隊を殺人組織に格下げしてんなっての」

「いやいや、ひじきさんも勝手に人の内心読まないでくださいよ!」

「読心くれーはメイドやってりゃ、出来る様にもなんのさ。それはともかくメイド部隊はすっげぇ攻撃はするが死者は出してねーぞ。大砲娘の我那覇ですら死者を出さない戦闘技術の持ち主だ、すげーな、ソレ?」

 あんだけドンパチやって死者出さないとか神業か死にてー、と褒め言葉と自殺願望を滲ませながら批自棄は呟いた。日向に関してはアルグールが完全な事故死に至った様で何となく腑に落ちない気持ちもあったのだが、

「より詳しく話すとな。どうにも電話途中だったっぽいぜ通話画面『ミスター・トリックスター』っつー誰だかわからん奴にかかってたそうだ。通話に夢中になっていて崩落から逃げそびれたってのが有力だ。地面に転がる携帯と瓦礫の山、突きだす右腕、流れる血の痕跡を土御門が確認したから、まず間違いない」

「そうなんですか……」

 確かに通話に夢中になって崩落から逃げそびれた可能性が濃厚な光景だ。

 しかし気になるのは……。

「……誰ですか、ミスター・トリックスターって?」

「私らにもわからんよ、ユミクロ君」

 カタカタと揺れながら嗤う批自棄。確かに全くわからないだろうなぁ、と日向も考える。おそらくはコードネーム的な要素の強い偽名か何かなのだろうが……。そう考える日向を余所に批自棄は内心で深く思考していた。

 あの局面に於いて通話していたと言う事は、つまりあの状況に対する打開策を検討していたと言う可能性が一番大きい。それは即ち日向を含めて迎洋園家の面々を対処出来るだけの人材に連絡を寄越していたと言う可能性が考えられる。そして批自棄の思考の末の答えは今回の事件に迎洋園家が絡んだ根幹。つまりは迎洋園テティスを拉致出来たあの人物に対してと言う可能性が比較的高い。

 くっそ、笑えねぇぜと批自棄は内心で舌打った。

 戦況を見極めた上での行動なのだとしたら本当に笑えない。今、こうしてくだらない他愛ない話で笑っていられる状況がありがたくて仕方ない話だ。仮に例の人物が間に合っていたとすれば。その結果事態が大きく揺れ動く結果になっていたとしたら……。迎洋園にどれだけの被害が結びついていたのかも定かではない。

 実際に現れなかったら良かった話だ。

 で、結局トリックスター誰よ、と疑問を抱く批自棄に対して日向が一つ質疑を呈した。

「あの……一つ、尋ねてもいいですか……?」

「何だユミクロ君?」

「えーっとですね……」

 日向は失礼の無いように振る舞いながら問いかけた。

ハーリスという少年の事。容姿から何から自分の目の前で最後に散って行った事まで細かに。彼が死んだのは確実だ。けれど遺体は現在どうしているのかが日向は気がかりであった。

 そしてそれを訊いた後に批自棄が考え込む様に口元に手を当てた。

「ちっ。初耳じゃねーか……。参った死にてー……。現地の友人って奴か……」

「はい……僕を庇って死んだ後にどうなったのかなって……」

「なるほどね。つーか当たり前の感情だろうな」

 こめかみを抑えて何処か苦悶を浮かべる批自棄に対して日向は少し困った様子で先を促す。

「……ひょっとしてもう土葬しちゃったりしましたかね……?」

 もうお墓の中かな……と思い葬式に参加出来なかった事が悲しく思えた。

 しかし批自棄の言葉は考えれば当然の事であったのだが日向に衝撃を与える事となった。

「あー、あー、あー。いや、そういう事じゃねーんだよ」

「へ?」

「申し訳ないんだが……そのデリゾールって奴は土葬にも火葬にも水葬にもされてねーな。というか初耳なんだよ、ソレ。遺体回収なんてしてねーし、間違いなく今も基地の残骸の場所に埋まってると思う」

「え?」

ポカンと呆けた後に小さくそんな……と悲観の声を日向は洩らした。

「悪いな。生憎とこっちはそいつとの関係とか知らないし回収の暇も無かったんだ」

 言われてみれば当然だ。

日向にとっては大切な友人だったが、彼女らにとっては他人の死亡であって関係ない事だ。その上崩壊の最中という事もあってそちらへ目を向ける事も出来なかった事だろう。

「なら僕、なんとしてでも回収を……!」

「今から? と言うか病院側としてはそれ認めるわけにはいかないよ?」

 そこで今まで会話に関わってこなかったラナーが真剣な表情をして止めに来る。病院側としては当然の反応だろうけれど、日向としては見す見すハーリスの遺体をそのままにしておくわけにはいかなかった。けれどもそんな彼の内心を汲み取って、故に批自棄は牽制する。

「止しな。生憎と先の大騒ぎで向こうも殺気立ってるんだよ。今戻ったら確実にお前殺されるし、うちらも安全に近づけるわけねーっての」

「……ッ」

 思わず唇を噛み締めた。

 確かに自分が行けば相手の琴線に触れるし、迎洋園の関係者が向かうのも騒ぎになる事だろう。とすればむやみやたらに近づけるものではない。

「じゃあ、どうしたら……」

 あのまま彼を放って置くのか。そんな事は出来ない。

 自分を庇って死んでいった友人をあの場所に置き去りにする等とは出来ない。かと言って赴いて死んでは彼に庇ってもらった意味すらない。そんな日向の心情を察したのか目の前の少女は溜息交じりに告げた。

「よし、わかった。んじゃ時期こそしばしかかるかもだが、デリゾールの遺体回収に関してはこっちが模索しておいてやろうじゃないか。私から進言して置いてやるよ。なるべく近いうちに遺体回収できればいいんだが……」

 場所が場所だしな……、と呟く批自棄。

 けれど無理を言っている身としては彼女の言葉はとてもありがたく。日向は思わず頭を下げて感謝の言葉を何度も述べた。その度に批自棄は若干頬を赤らめて頬を掻きながら蝿を追い払う様な手つきで、

「謝罪とか照れるわ、死にたくなるから止めろユミクロ君よ」

どうにも素直じゃない女性である。だけれど優しい女性だと日向は感じた。

「良かったね弦巻君」

「はい……!」

トンと肩を軽く小突き穏やかな笑みを浮かべるラナーに力強く一度頷いた。

 本当に良かった……、と思う。

 あそこに戻っても成し遂げるのは難しい身の上としては彼女の申し出はありがたく。それ故に感謝の気持ちは絶えない。なるべく早くハーリスの遺体が……、別れくらい述べられたらいいな、と考えながら日向はそっと目を閉じ涙を溜めながら思った。

「さて」

 そこで批自棄が呟いた。はっきりと。そしてその表情にはなぜだろうか、先程までの優しさはなく代わりに面白いものを見る様なものがあった。

「んじゃあ、こっからは本題のお話って奴だ」

 大声ではない。けれど強い語調での声に日向は少し気圧されるものを感じる。

「なぁYA(しょうねん)……予め訊いておくんだが、気絶直前にぶった切った車体の事を覚えているかな?」

「へ?」

 ぶった切った車体?

 何故そんな事を訊くのだろうか?

 そこまで考えて思い出す。ああ、確かに、と。確かに戦闘後半におそらくは軍の特別車両か何かだから苛立ってぶち壊したものを覚えている。それが何だと言うのだろうか?

 と日向は考えながらその旨を伝える。

「はい、覚えてますけど……」

「よーし、分かった」

 そして途端にこの超絶スマイルである。

 普段が嫌に不気味な雰囲気だけに物凄く可愛い笑顔なのだが、それが嫌に不可思議な不気味さを滲ませてズズっ、と後ずさりする日向の襟元をガシッと掴む。残った左手でラナーの腕もガシッと掴む。

「さーそれじゃあ残りの話こと本題を洋園嬢含めて話し合おうじゃねーかYA……!」

 唐突かつ意味が分からない。

 何がどうしてこの事態に急激に転身したのだろうか。掴む批自棄の手には決して解放する気配のない力強さが加わっているし、事態がわからないまでも恩人の様な批自棄を力で振り払うわけにもいかない。しかし困惑は決め込んでいて思わず混乱が口をつく。

「え、いや、何を――――――――?」

「ちょっと待ってくれない。何で僕も引きずられてるんだい、ひじき君?」

 ギラッと怪しく輝く瞳をしながら親不孝通り批自棄は、

「いいから付いてくりゃわかるっての」

「そう言われましても!?」

「そしてユルギュップ、テメーは貧血介護要員ってやつだ!」

「待とうか、うん。恐ろしい程事態が読み込めないんだけど!」

 困惑する日向、そして真の意味で混乱するラナーを無造作に無視し無造作に掴みながらケラケラと笑顔を浮かべながら批自棄はぐんぐんと歩を進めていく。

 トルコ某所の病院【命のオリーブ】はやけに騒がしい声が交差していた。


 その頃、同市内某所。緑のカラーに白色で水面から現れるクジラをイメージされたデザインのマークの下には英字で『Moby-Dick-bucks』と並ぶ。店の内部を除けばシャレた雰囲気の室内が見える。店内にいる人物はみな、テーブルの上のコーヒーを片手に談笑している。

 だが一部だけ少し緊張感が走っている部分があった。

 トルコの某有名コーヒーチェーン店では二組の組み合わせが相席していた。

 周囲に人の姿はなく、少しばかり多めに払って幾つかの席を買い取った金持ちと呼べる方々が二人静かに腰を下ろして対面している。紫色の艶やかな髪をしたメイドの女性、土御門(ツチミカド)睡蓮(スイレン)。バーミリオンカラーをしたアフロ頭の大柄な男性、(ヒサゲ)樹仰(シュゴウ)の両名は席に座らずに凛とした佇まいで座席近隣に佇んでいる。

 その中で彼らの主である二人……、片方に関しては事情が少々異なるのだが。

 二人の男女がいた。

金髪の美しい少女迎洋園テティス。並びに黒髪にメガネの男性は用意されている椅子に腰かけて静かな雰囲気を放っている。知性人としてのイメージが強い優男だ。

 そんな二人の元へ大柄で筋骨隆々とした茶褐色の肌をした長いボサボサ頭をしたおおよそ店員とは思えない程にマッチョな男性が小さく思える程のプレートに注文されたエスプレッソとキャラメルモカと言った品々を運んできて『へい、お待ちどう!』と手馴れた動作でシュババっと品をテーブルの上に取り揃えると『ゆっくりと楽しんでけよっ!』とガッツポーズで合図して去ってゆく。

 何だろうかあの豪快な店員は……と従者二人が背中を目で追う中でテティスが、そんな空気など触れていなかったかの様に凛とした声で呟く。

「まさか……貴方がトルコに来るとは思いませんでしたわ」

 男性は苦笑を浮かべた。

「いやはや、よもやトルコで迎洋園君に遭遇するとは私も思っていませんでしたよ、これは」

「それで……何様で訪れたのですか? と言うか学院の方は……?」

「ちゃんと任せられる人物に任せてありますので問題はありませんよ、これは」

「でしたら構いませんが」

「恐縮です。さて、何様で来たのか……これはそうですね……話したものか否か……」

 うーんと腕組みして考える男性に、

「まぁ家絡みでしたら話さなくて結構ですわ」

と、テティスはキャラメルモカに舌鼓を打ちながら呟いた。互いに干渉の域が一定ラインを超えるのは最低限の礼儀だ。その上この相手の家は、自分の……迎洋園家と同等の名家であるのだから。深入りはしない。

「ですけど……手が必要でしたら手助けくらいは御三家の(よしみ)で致しますわよ」

 ――大地離(オオジバナリ)さん

 その言葉を訊いて男性は穏やかな微笑みを浮かべながら小さく呟く。

「感謝しますよ迎洋園君、これは」

 明るく優しさの篭った声。

 香るコーヒーの匂いが満たす店内でとある学院にて御三家と称される家――その中の二家に当たる。迎洋園と大地離の会談は静かに行われていたのであった。

 大地離(サカイ)

 それが眼前でエスプレッソを優雅に、そして気品に満ちた佇まいで口に運び世の女性を魅了してしまいそうな優しげな風貌をした男性の名前であった。

 日本のある学院内に於いて巨大な利権を持っている七家のうちの一つ。迎洋園家と同等の地位に就く家柄『大地離』と言えばあの学院で知らぬものはいないだろう名前だ。名家としても相応に知れ渡っている高貴な家柄。

 その人物がトルコにいる事に関して、何かしらの用事があるには違いないが――土御門睡蓮は海外で鉢合わせるというのも中々縁のあるものですね、と考えていた。

「それで」

迎洋園テティスはカップから口を離して、

「……一応、訊いておきますけれど学院絡みで仕事が出来たとかはありますの?」

 迎洋園家の者として訪ねねばならない事はそこだ。

 大地離の私事だけなら手助けがいればある程度で済ませるが、学院絡みになれば自分も動かなければならない必要性が存在する。何故ならば、それだけの立場に迎洋園家もいるからに他ならない。

 そんなテティスの心境を和らげる様に疆は告げた。

「そこは問題ありませんよ、迎洋園君。春休みへ向けての仕事は全て済ませてありますからね。それは迎洋園君も同様でしょう?」

「まぁ……、そうですわね」

「ええ。――同じ理事長として、ね」

「……」

 理事長。その言葉がテティスの胸に僅かばかり重く圧し掛かる。

「……ですわね」

自分の口から零れた肯定が何処か重くて、無意識に目を伏せた。

「確かに学院に於ける仕事は全て済ませましたわ。まぁ若人である私には些か手馴れぬ部分もありますが……」

「仕方ありませんよ、最年少の理事なのですし。慣れるまでこちらでカバーもするというものですよ、これは」

「ありがとうございますわ。今はまだ少々甘える事になりますから……。早く、笠良木(カサラギ)さんに頼らずとも済む程になりたいものです」

「ははは、頑張ってください、これは」

 期待しておりますよ、と優しい笑みを浮かべて疆は告げた。

 その表情から窺えるのは今も自分を当時の生徒として見ている部分がある事にテティスは頑張らないとなりませんわね、と内心で呟き放った後に、

「それはともかくとしまして……仕事はあの段階まで終えたは終えたとして家の方の仕事なども含めると大丈夫ですの、大地離さん?」

「はっはっは、大丈夫ですよ。学院の方は君が笠良木君に一旦任せた様に、私も八頭(ヤズ)に任せてきちゃいましたからね、ほぼ一方的に押し付ける形で」

「最後の一言は何ですの!?」

 はっはっは、朗らかに笑顔で笑う疆の隣に佇む提は『……うむ、書類仕事を託されなかっただけ私は余程マシだったかもな……』と呟きながら自分の良く知る人物が今頃、無い頭を振り絞りながら書類仕事に四苦八苦しているであろう光景を思い浮かべていた。

「いやー何と言うか今回の旅行に理由はあるんですが、こうも解放感があると久々に自由と言う感じがして嬉しいものですね、これは」

 その顔には爽やかな風貌としか言えない解放感が満たされている。

「そうなんですか……。まぁそこは同感ですわね」

 理事の仕事は忙しくて忙しくて……とテティスは呟きを零す。

 彼女に関しては秘書の様な立場で時に代理として働く老齢の人物、笠良木がいる事から今はまだ慣れないまでも遂行出来ている辺りがありがたい。

「それで……ご実家の方は……」ちらりと提を見ながら「……まぁ、ここに提さんがいるという時点で予測つきますが……」

「御明察の通りですよ。実家の管理は崇雲(アガグモ)に任せております」

「崇雲さんは流石と言うべきかしら?」

「崇雲は人相の悪さというか雰囲気的な威圧感は凄まじいですが、万能ですからね。こういう時は大概彼に後を任せておりますよ」

「まぁわかりますわね。私の方も留守番を彼女に任せておりますから……」

「ああ、椥辻(ナギツジ)君ですか……。有能なメイドとして名前が挙げられる一人ですからね、これは」

「私の従者をお褒め頂き光栄ですわ」

 彼女に限らず有能なメイドは中々に存在するが迎洋園家のメイド長な結構な逸材であった。それでも世の中には更なるメイドが存在する事も承知しているテティスであるが……。

「彼女がいたなら『運船(スカイワーカー)』も直せたかしら、ね……」

「? 『運船(スカイワーカー)』……と言いますと、迎洋園家の技術開発部――いえ、迎洋園家支援の家柄、瓜生野(ウリュウノ)家が開発した例の……?」

「ええ、まぁ……諸事情ありまして……」

「もし壊れたのなら彼女の修復がいるでしょうね、これは。……しかし発明家と言うのは凄いものですよね、迎洋園君。君の所の瓜生野君は紛れもなく天才でしょうし」

「若干以上に難がありますけれどね、彼女には……」

 実際問題、瓜生野家の当代はまさしく変人奇人の部類であろう事からテティスは困った様に苦笑を零した。わかりますよ、と言う様な気配を見せて相槌を打ち、疆は僅かな嘆息と共に

そして同時に尊敬を込めた様な眼差しで天を仰ぎながら、

「けれど……その上の大天才は紛れもなく天才科学者、暮明(クラガリ)博士でしょうがね……」

 暮明博士。

聞き覚えある名前にテティスは「なるほど」と小さく頷いた。

 確かに彼ならば大天才と呼ぶに相違ないだろう。『技術の分岐点の先』と称されるあの大天才ならば納得だ。まぁ彼に関して話し出すと昼間から話すには長い上に専門的な会話になるだろうから割愛するのだが、

「それはともかくとしまして……先程から気になっていたのですが……」

「何ですかな、これは?」

「大抵、こういう場所には勉強の意味も込めて彼も一緒に行動しているはずですが……今回は連れてこなかったんですの?」

 と言いながらテティスはちらりと彼をよく知る従者、睡蓮に視線を送る。睡蓮は『まぁ何等かの事情があるのではないでしょうか?』といった意味の視線を返した。

 だが。

 疆と提はそれを訊いて左右、と周囲へ視線をきょろきょろと巡らせる。先程の大柄な店員が妙に目につくのはあるが、店の常連客と思しき人物やら旅行客と思える人、店の奥で忙しそうに働く若い店員の姿というありふれた光景を見て、

「……コホン」

 と咳払いして。

「……いませんね、これは。ははっ、参りましたね♪」

そんな如何なる場面でも中々冷静な主とは打って変わって対応変えて、樹仰は内心『何処だ九十九ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』と絶叫を発した。

 店内と言う事で騒がない様にしているが内心間違いなく絶叫しているであろう提と対極に楽しげな疆を見ながらテティスは苦笑を洩らす。隣では睡蓮がにっこにこしながら内心でおそらくは彼への『どこで油売ってるのかしら♪』的な意思を潜めながら、

「彼はもぉ……主を放ってどこへ……」

と、顔知らぬ中では無い少年を思い浮かべながら項垂れる睡蓮。

「なぁに、土御門君。一時的についてもらってきてるだけで普段は私の娘の執事を任せている身の上ですし大目に見ましょう♪」

「若殿は寛容すぎますぞ……」

そう言った後に提はふと思い出した様子で、

「ああ、そう言えば来る途中に見つけたあの店に視線が注がれていて、その後、声がしてなかったか……ぬかった」

と、頭を抱えていた。

 どこも大変ですわね、色々と……と考えるテティスの携帯が軽く震える。

 そっと取り出した液晶画面に指を触れてメールの受信を閲覧する。黒いディスプレイの画面上には自分の従者として働く少女の名前と簡素な一文『ユミクロが目を覚ましたんで、そっちに向かってますんで、そこらへんよろしく洋園嬢ーっ』という内容だった。

 一瞬『ユミクロって誰?』と考えたが該当するのは一名。

 ならば静かに待ちましょうか、とキャラメルモカに口づけながら、周囲の喧騒となだめる落ち着いた声を耳にしながらテティスは甘い味わいを口いっぱいに広がらせた。


 穏やかな気候の中、視界に映る歴史的建造物の流れゆく光景。行き交う人々のこちらへ笑顔を向けて挨拶してくれる表情を心地よく思いながら軽く会釈を交わしつつ進みゆく。

 朝の涼やかな香りは周囲の美味しそうな食べ物の匂いへ変わってゆき鼻孔をくすぐる。歩く人の中には手に片手間に食べられるものを食べながら歩く姿もあり、その笑顔から妙に食欲が湧き上がるものだ。

「何か良い雰囲気なんですね、トルコって……!」

 外国と言う事で少し緊張気味であった日向であったが、周囲の空気に緊張は解れ興味津々の様子で周囲を見渡しながらキラキラとした目で呟いた。

「おいおい、ガキかよユミクロ君よ? 目がきっらきらだぜ?」

「そう言われましても、建物の雰囲気とかトルコの人の優しい対応とか、凄い感動しましたので……!」

「少しはチル(落ち着け)れユミクロ君?」

「はっ、見てください、ひじきさん! アイスがびにょーんって伸びてます!! バニラアイスがとんでもなくびにょーんって伸びてますよ、何あれアイス何ですか!?」

「それは有名なトルコアイスだっての」

店先で一メートルは優に伸びているであろう傍目お餅のごとく伸びるアイスに店主のおじさんの日向へ向ける『一つどうだい、兄ちゃん。安くしとくぜ』との声で日向がマジか……! という感動の目をしているのを見ながら苦笑交じりに『騒ぎ過ぎだっての、チルっとけ』と適当な様子で嗜める。

 パタパタと手を軽く振って日向に落ち着く様に促す批自棄を見ながらラナーは微笑みを浮かべて、

「まぁまぁ、ひじき君。外国旅行ってテンション上がるものだし大目に見てあげようよ♪」

「ユルギュップ、ユミクロは別に海外旅行の為に来たわけじゃねーっての」

「あはは、まぁそうなんだけどね。あのキラキラの表情を見ているとトルコ人としては何か国を褒められているみたいで嬉しいからさ♪」

「まぁ、トルコは雰囲気良好な国だからな、実際。行き交う奴ら結構こっちに笑顔で挨拶とかしてくれるしな」

 そう呟きながら見渡す周囲には日本人と言う事で友好的な挨拶をしてくれるおばさんもいれば珍しげにはしゃぐ子供の姿もある。

「本当に心地よく感じますもんね~……!」

日向が嬉しそうに同意する。

「トルコは親日的な国だからな。過去にも随分、トルコには助けられているもんだ♪」

ただまぁ、と呟いて、

「外国事情共通に日本人と甘く見られて屋台で大目に金銭ぼったくりーとかもあったりするから気を付けろよ」

 ケタケタと意地の悪い笑みを浮かべて批自棄は言った。

「まぁ、そこは妥協点じゃないでしょうか……海外では値切りって重要ですよねー」

「まぁね。当然ながらトルコに限らず外国人って事で高めに売りつける事は結構ざらにあるものだろうし」

「でも大丈夫です、ラナー君。僕、一銭も持ってませんしカモられませんよ!」

「カモの心配以上に金銭の心配しておこうよ、弦巻君!?」

「一銭も持ってないで良く今日まで隣国で生き延びられたりしたもんだな……」

「現地の人に食糧分けてもらったり、雑草食べたり、雨水で凌いだりでどうにか」

「切実だなぁ、おい!」

「少しは栄養あるもの食べないと拙いかもしれないね、弦巻君……」

「あ! 見てくださいひじきさん、ケバブです! 有名なトルコの料理ケバブ様のご光臨ですよ、ひじきさん!!」

 ケバブとはトルコの伝統的な串焼き肉の料理である。その肉の焼かれる匂いが日向の鼻孔をくすぐって引き寄せた。

「肉がどんだけ神様みたいに見えてんだよ、YA(おまえ)は!? ケバブなら昨今の日本でもかなり見かけられるもんだぞ、おい!」

「はい。僕もケバブの屋台見ながら公園の水道でお腹を満たしたりして……美味しかったなぁ……♪」

「それケバブじゃねぇし!? ただの水だし!!」

「ひじき君、ボクちょっと涙が……」

「わかってるよ、同感だよ、私も何か訊いてて悲しくなってきちまったよ!」

 キラキラとした瞳で筒状に巻かれた肉の塊、その芳しい肉の風味、削ぎ切りにされる度にゴクンというケバブの美味しさが伝わってくる様で日向は感嘆の息を零した。

「ほわぁ……」

「ユミクロ。よだれ、よだれ」

「はっ!? にしてもトルコアイスも美味しそうでしたし、ケバブも凄い美味しそう……!」

「まぁ私も食った事はあるけども、トルコ料理はかなり美味いよ。伊達に世界三大料理なんて呼ばれてねーや。ちなみにトルコアイスはドンドゥルマって言うんだ、覚えとけー」

「トルコ風アイスだとまた事情が異なったりするけどね」

「そうなんですか? ……それにしても何か急に甘ったるい匂いがしてきたんですけど」

 日向が鼻を抑える、という事はしないが道に漂い甘い香りにふらりと来る。

 鼻孔から侵入した香は蜜蜂が花に釣られる様に日向の視線を集めた。

「これは……!!」

 目の前に並ぶのは実に色彩豊かな料理の数々。厳密には菓子である。

「おう。トルコのスイーツってやつだな」

「何か華やかですね色合いが!」

「ちなみに」

「ちなみに?」

「激甘ちゃんだぜ♪」

 批自棄がニンマリ笑顔で言う通り。

「うんうん、甘いんだよね、トルコのスイーツは♪」

 批自棄の言葉にラナーは同感とばかりに首を縦に頷かせた。随分とたくさんのスイーツ、と言うより果物が並ぶ場所もあればやたら光沢を放つ甘味も多数存在する。

「アレは……ハチミツですか?」

「そうだよ。トルコのお菓子はハチミツ使うタイプ多いからね。ハチミツ漬けのお菓子たくさんあるし、ミルク系のお菓子も多数。総じて凄く甘い♪」

「後はピスタチオとかよく使うよな~」

 お菓子、スイーツは甘いのが大前提の一つであり、その意味でトルコのお菓子はかなり甘さの追求を成しているだろうか。ハチミツという自然食品かつ健康的な甘みを使用してのスイーツというのは実に興味深かった。

 加えてケバブを始めとして数多の屋台料理にも目を惹かれ、腹を空かせる。

「あぅぅ……」

 日向は思わずお腹を押さえて短くため息を零した。

「何か食べたくなってきちゃいました……」

「お。やっぱしか?」

批自棄の言葉に続いてラナーが言葉を引き継いだ。

「それはそうだよ、ひじき君。だって弦巻君二日間寝続けてさっき起きたばっかりで連れてこられたんだよ? 本来なら病院側がご飯提供してる頃だろうに……」

「マジですか……!?」

「うん、マジ。本来なら今頃はご飯提供されてる頃だろうから弦巻君お腹限界近いんじゃないかなーって思っててさ……」

「じゃあそこらへんのケバブでも買って喰えばいいじゃ――……いや、そうか。金無いんだったなYA……」

「トルコでの通貨なんて持ってません……。まぁ日本円もお小遣い五〇〇円しか無いんですけどね僕」

「お前日本で良く生きてこられたな……」

「やっぱり何か奢ってあげた方がいいんじゃないかな、ひじき君……」

 ラナーにしょぼんと落ち込む日向を視線で『可哀そうだし……』と送られた批自棄は軽く腕組みした後に、僅かな隙間を置いてからゆっくりと頷いた。

「しょーもねぇな。仕方ない、歩く先で次に見かけた店に入るぞ」

「後戻りはしないんだね……」

「人生に後戻りする時なんざありゃしねーさ」

「そんな重い状況じゃないけどね!」

「でも私、引き返す時も肝心だと思うんだわなー」

「発言撤回した!?」

「兎にも角にも……行きながら――ってやつだよ、ユルギュップ」

「何にしてもありがとうございます、ひじきさん……!」

「気にすんな。ただし高級料理店とかは無しの方向だぞ? あくまで一般価格だ」

「はい……!」

 何にしてもこれでお腹が満たされる。加えてトルコ料理が食べられる。

 食べ物……久々の普通の食べ物、を食べられる事に関して日向は内心で『ばんざーいっ』と飛び跳ねながら『……ここ、か』という批自棄の呟きを訊き視線を上げた。

 ラナーが隣で、

「……うわぁ」

と、何とも言えない呟きを訊きながら。

 日向は視界に映った光景を確認した。

 白い壁面に描かれた茶色のデザイン。コック帽をデザインしたと思われる絵の下には丸い輪っかをかじる小動物の姿を模した愛らしいデザイン性の横に英字で書かれた『Hamster Donut』の文字。

 ドーナツチェーンブランド――『ハムスタードーナツ』。

 主要都市日本に一三〇〇店以上が進出している有名なドーナツチェーン店であった。そう主要都市『日本』に於いて有名すぎるブランドだ。

「まぁ……アレだ」

批自棄はぽりぽりと頬を掻いた後に、

「トルコ料理より先に馴染み深い味わいで味覚取り戻しておけってお告げだな、うん」

と、呟いた後に店内へ入って行った。

「えーっと……」

少し言葉に困った後に、

「だ、大丈夫だよ弦巻君! きっと明日か明後日、いや早ければ今日中にもトルコ料理食べられると思うしさ!」と励まして後へ続く。

「……」

そして残された日向は、

「……うん、食べられるだけマシってのはこの世の事実だよ、我儘言うのはよくないんですよ……」

そう名残惜しげに呟いてケバブの匂いに涙ながらに別れを告げて店内へと入って行った。


 アンニュイな気持ちであったとしよう。

 例えば海外に赴いて隣人から腹を空かせた自分へお恵みが与えられる際に、折角海外に来ている状態で奢ってもらえるならば地元の料理を食べてみたいと思うのが常だ。けれど諸事情――どうでもいい諸事情で自国でも有名すぎる場所へ入る事になったとしたら、期待していた分テンションダダ下がりという現象は起きて仕方ない事と受け止めてほしい。

 けれど。

 そんな思いを何だかんだで店内へ入った瞬間に払拭させるのがお菓子パワーというもの。そう円形? 否、輪っか。シンプルだが如実に独創性を発揮するその甘味、ショーケースに並ぶ色鮮やかな大群、夢をポンと叶えるリングの数々を見た瞬間に気分高揚も世の常ではないだろうか。

 幸にして店内は込み入った様子はなく、内部にはお客は三名ほど。視界にちらりと映った赤い髪の大柄な少年が印象的でもあったが、彼らの視線は今、一心不乱にそこへ向けられていた。

「…………(キラキラキラ)!!」

「何だかんだで目が輝かしいばっかりだな、おい!」

「ドーナツは美味しいからね、何だかんだで。それで、ひじき君。……何個までオッケーかな?」

YA(ラナー)、その物欲しげな眼差しお前もかっ!」

「ダメ?」

「しょんぼり言うな! ああもういいよ、食え、食え! ドーナツの一つや二つで私の懐は別に痛まねーっての!」

 ほころばせて嬉々としてドーナツのショーケースを眺めて選定を開始しだすラナー。そんなラナーの隣では喜々とした表情の日向が危機を脱した様な喜びに顔を輝かせている。

「初めはちょっとしょんぼりでしたが……」

「まーわからなくもねーよ」

 折角、トルコに来て『ムスド』では僅かにテンションも下がった事だろう。『ムスド』が悪い等とは断じて言う気は無いが、トルコなのだしトルコ料理に舌鼓打ちたい気持ちはわからないわけではない。

「やっぱりドーナツって見ているとテンション上がりますよね……! どんな味がするんでしょうか……!?」

「甘くて美味しいよ。チョコとストロベリーがメインでもあるけど、オールドファッションの味わいも捨てがたいものだし……!」

「まぁ『ムスド』のドーナツ美味いよな。そりゃもう半額セールなんかしたら店が休業に追い込まれたり閉店時間早めないとヤバイくらいに」

「思い出すなぁー……ドーナツの匂いを嗅ぎながらおむすびを頬張ったバイトの日々……!」

「だからYA(おまえ)悲しいよ色々な意味で!? と言うかそれ、気持ち悪そうなんだけど!? チョコやらストロベリーの匂い嗅ぎながらよくもまぁ白米喰えたな!」

「と言うかそう言うのは残ったら幾らかお持ち帰りとか出来ないものなのかい?」

「ハムスタードーナツ、略して『ムスド』はですね……。基本、ドーナツの持ち帰りとかはバイトでは出来ないんですよねー……。何故かと言えば、持ち帰りって事は夜遅いわけですから必然的にドーナツの味が落ちちゃうそうで、店員さんに配るにしても味の落ちたドーナツでは印象に悪くなるって事らしくてもらえないのが基本なんだそうです」

「なるほどね」

「休憩時間にバイト代から引く事になりますけど、食べる事は出来るんですけどね~……。その時は僕の買ったドーナツは全部、『貧乏人が贅沢してんじゃねーよ、俺が食っといてやるよ、ありがたく思えっ♪』て踏み付けられたり食べられたりが大半でした……だから一回も食べた事がないんですよねー」

「弦巻君、それイジメだよ? どう考えても完全なイジメだからね!?」

「何か泣けてきた死にてー……。とりあえず金は気にするな、好きなだけ食っとけユミクロ君よ……」

「? ありがとうございます?」

 何でひじきさんは目をこしこし擦っているんだろうなー……、と不思議に思いながらも日向はショーケースに並ぶ見るからに美味しそうなオーラを放つ食べ物の群れを見つめた。

 輪っか状の物体はチョコやストロベリー。はたまた捻じれた生地でのドーナツの存在もあればパイといったものも存在する。見ているだけで頬が緩み、今にものどから手が出そうになる気持ちを押し止めながら品を幾つか見てゆく。

 とりあえず三品くらい我儘言っても平気かな、と考えながら、チョコレート、ストロベリー、パイ、ちょっと変わったところでバラエティーシリーズ、凄く変わったところでデストロイシリーズと視線を走らせ――、

「いやいやいや、おかしいでしょう何ですかこの青紫とか赤紫のドーナツ!?」

「偉く凄いオーラ発しているね……」

ラナーも頬を引き攣らせて呟く。

「紫芋とかそんなんじゃね?」

「いやいやいやいや……」

 適当に推測した批自棄に日向は手を振って苦笑交じりに否定する。この『デストロイ・シリーズ』とやらが何なのか店員に尋ねてみようと日向は顔を上げてみると、

「お客様……その……デストロイシリーズをご注文、でしょうか……?」

 そしてあろう事か注文を受け付ける美人店員さんは顔を青ざめた様子でダボダボと汗を垂らしながらも笑顔で接客を行っている。『Kislovodsk』とネームプレートに書かれているが少し難しくて読みづらい。

 店員は汗を垂らしながら、

「で、デストロイシリーズをご注文でしたら専用の装備をしなくてはなりませんので少しお待ちいただく事になりますが……」

「いやいや、その時点でおかしいんですけど!? 明らかにドーナツへの接し方と掛離れているんですけれど!?」

「そりゃまぁデストロイシリーズは喰う側も寄越す側も命懸けの代物だしな」

「ひじき君、その時点でボクにはドーナツじゃなく食品兵器に思えてきたんだけど!?」

 っていうか批自棄は明らかに詳細を知っている様子だ。道理でさっき適当な発言を零していたわけである。

「ちなみにお客様。シロップは濃硫酸とアルカロイドのどちらをご所望でしょうか……?」

「そんな不安げに注文しなくていいですよ!? と言うかその選択の時点でとても食べられるものと思えないんですけど! って言うか頼みませんからね、デストロイシリーズ!?」

「……ほっ」

 そしてこの素晴らしい安堵の表情である。

「凄い笑顔!! 文章で表せないくらい素敵な笑顔を店員さんが!! スマイル〇円じゃ申し訳ないレベルの素敵な笑顔出てきた!?」

「それではお客様、ご注文がお決まりになりましたらお声掛けください♪」

「わかりました! けど結局デストロイシリーズの正体がわからない!!」

「突っ込むのは止めておこう弦巻君、何か危険だから……。よく見たらショーケースの中でも仕切りで隔絶されてるしここだけ……」

 そう、ですね……という納得すべきか否かわからない曖昧な感情に揺さぶられながらも日向は深く深呼吸した後に視界の端を消し飛ばしてショーケースを見る。

「うわぁ~美味しそうですね~♪」

「そうだねー弦巻君♪ どのドーナツもとっても美味しそうだよ♪」

「……何やってんだその茶番はよ……?」

 批自棄のツッコミをスルーしつつ、とりあえず無かった事にした二人、プラス店員はそのまま華麗に会話を進めて、結果として注文する品々を決めるに至った。

「それじゃあストロベリークリームフレンチとストロベリーサークルにスコーンイチゴ味を一つずつください」

「弦巻、YAめっちゃストロベリー寄りだな、おい」

「じゃあ僕はツインチョコレートにシルバーチョコレートでお願いしていいかな?」

「いいけど、YAはYAでチョコ派なんだな」

 んじゃ私は……と批自棄が呟いた時であった。


「――待ちなっ」


 鋭い低音の声が後方から聞こえた。

「おいおい、困るなぁお宅ら。俺らの目の前であろう事か目をつけていた獲物(ドーナツ)を横取りしようたぁ、やってくれるじゃねぇか……」

 不躾に聞こえる声。誰だろうか、と感じた三人はくるりと背後を振り向く。

 そこにいたのは三人の男性であった。黒髪黒目の木刀を肩に乗せて威圧的な態度のたれ目気味のチンピラ風の青年を始めとして、染めたであろう赤髪に青髪の青年が目につく。赤髪の青年は登山家の様な服装。青髪の青年に至ってはスキューバダイビングの服装だった。

 三人は思った。

『うわぁ……何かめんどくさそうなのに絡まれたなぁ……』と。

 そんな三人の考えを見抜くわけでもなし、黒髪の青年は、

「お宅ら地元民じゃあねーよな? それなのに地元民を差し置いて大人気メニューをかたっぱしから蹂躙とはやることがえげつねぇじゃねぇか、おい?」

 何か完全に理不尽な喧嘩を吹っかけられたと思いながら、

「いや、まだたくさんあるんですしいいじゃないですか……?」

という日向に続き、

「と言うか地元民とは言うけど君ら地元民じゃないよね?」

嗜める様に、少し不愉快さを見せた様子でラナーが告げる。

 確かに見た目、トルコ人ではない。純然とした日本人だろうか。

 そんな疑問に黒髪の青年は実に不遜な態度で答えた。

「郷に入っては郷に従え……。その言葉通りに……この地で一週間過ごした時点で俺達ぁトルコ人なのさぁ!!」

「そんな無茶な!?」

 その基準では海外旅行して一週間経ったら外国人ではないか。

「「ウーイェー! 俺達トルコ大好き、トルコニーズ!!」」

「いや理屈無理ですからね!? そしてトルコ人はトルコニーズ(Turkonese)じゃなくてターク(Turk)ですからね!?」

「細けぇこたぁどうでもいい!」

「トルコ大好きなのにそこどうでもいいの!?」

「肝心なのは――」

黒髪の青年は木刀をビシッと前方へ突き付けて告げた。

「テメェらが俺らの目の前で狙っていた獲物をかたっぱしから蹂躙するって事だ! そうー目をつけていた他より一グラム質量が多いドーナツばっかりなぁ!」

「こまかっ!」

 微々たる差にも程がある。日向は彼らの目敏さに感心を抱いてしまう程であった。

「許せねぇよなぁ、この地でこんな暴挙たぁよぉ……なぁ海味(カイシュウ)! (ナダ)ァ!! おめぇらも何か言ってやれぇよ!!」

「「一〇〇円サービスの時期でしか食えない代物を気軽に頼む裕福野郎たちめ! おごってください!!」」

「ほぅれみろ!!」

 黒髪の青年はどやっと言わんばかりのしたり顔をしながら顎でしゃくった。

「何が?! そしてただのタカリだったという話だった!?」

「タカリじゃねぇよ。俺たちはなぁ……この後、頼まれ事で肉体労働バンバンする身の上なんだよ、その俺らにちっとくらい恵んでやろうって気はねぇのか!」

「知りませんよ!? そしてどう見てもタカリですけど!」

 何時の間にか獲物うんぬんは消え去り土下座で『ドーナツめぐめっ!!』と言うコールに変わり果てている三名に関して三人は『なにこれめんどくさい!』という内心の叫びを上げながら困っているととこに、

「あのお客様、こちらの商品はこちらの方々がご購入されたものですので……」

 店員の女性が諌める様に発言する。

 その声に黒髪の青年は、髪をさっと一撫でした後に大声で吠えた。

「ふっ、んな事わかってる。けどな……他人のものの方が美味そうに見えるから仕方ねぇんだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「そんな理由なんだ……」

ラナーが戸惑いの表情で苦笑交じりに呟いた。先ほど見せた不愉快そうな表情は影を引締めてすでに顔は困惑と言った様子の方が多い。

「けど確かに納得の理由ではありますね。自分のよりも他人のものの方が美味しそうに感じる事ってありますよね……僕はあんまりないんですけど」

「その理由は比較対象に雲泥の差があったからなのではと思ってしまうよボク……今までの弦巻君の発言から言って……」

 ラナーの読みは当たっている。日向が他人のものの方がよく見えるという現象に遭遇しないのは日向が比べられるものを保持していない為に他ならないという物悲しい理由である。

「まぁなんにせよ『隣の芝生は青く見える』『隣の花は赤い』ってのに該当する内容ってやつなんだろーな。まぁなんにせよくれてやるつもりねーし、金払うの私だしな」

 その発言を訊くと黒髪の青年は左手の親指でぴっと軽く鼻を弾くと、

「生憎だが俺たちもドーナツを前にしちゃ引くに引けねぇのさ……それが強奪であろうとも! 悪いがテメェらのドーナツ……俺らが貰ったぁああああああああああああああ!!」

「リアル強盗!?」

「大人しくしてりゃあ痛い目見ずに済むぜ嬢ちゃん。女二人優男一人じゃあ勝ち目もねーだろうからなぁっ!」

「誰が女ですか……!」

 女二人、という発言の折に視線が批自棄続いて自分へと移った事で日向のこめかみにピキリと怒りマークがついた。こうなったら仕方ない。

ぶっ飛ばす……! と、日向は拳を握り緊めた。赤く肌が染まる程に。

 メラリ、と微かに燃え上がる怒りの炎。

 青年の『行くぜ海味、灘ぁああああああああああああああああ!!!』と言う一言を皮切りに、海味と灘と言う二人の青年が構えた。そして、拳を握り緊めて一気に迫る。

「ああ、後ろは任せとけ加古川(カコガワ)ぁっ!」

「ドーナツ戦争開幕じゃあいっ!」

 そうして、加古川、海味、灘と日向の戦いが実に、実に傍迷惑にも店内で繰り広げられようとしたその瞬間の事であった。


「止めとけ、テメェら」


 身構えた日向と同時に響いた声。力強く頼もしい印象を抱かせる男性的な声が聞こえたと同時に加古川、灘、海味の三名は「ごるでちょこっ!?」「ふれんちくるらっ!?」「ぽんでりっ!?」という声と共に地面へと叩き伏せられる。

 日向の視界には実にたくましい背中が映し出された。

 全体的に大柄で日向の一、五倍はあろう太い腕を持った燃える様な赤い髪――。

 圧倒的な存在感。

 その青年は地面に伏してわめき声を洩らす面々に対して怒鳴る様な声で大きく叫んだ。

「聖地で喧嘩してんじゃねぇぞ!! ここはうめぇドーナツ食い放題の偉大な場所なんだからな、ゴルァッ!!!!」

 ドーナツ好きな人だった。

「見ろ、俺の筋肉なんかドーナツ食って嬉しそうに上腕二頭筋が震えてやがるんだからな!?」

そう、しなくてもいいのに腕をまくって叫ぶ青年に『あのお客様……当店は食べ放題というわけでは……』と言う冷静な店員の声。

 そして一方で批自棄は批自棄で嘆息交じりに、だるそうな小さな声を発した。

「……あぁ……バカがいた」

「あの……ひじきさん、お知り合いですか?」

青年と知り合いと思われる様子の批自棄に対して日向は問い掛けると『ははっ、まーなー』と言う全体的に気だるげな声を洩らした後に、

「……あん?」

 青年がこちらに気付いた様子で振り返った。

 その顔は精悍で逞しい、といった印象の顔つきでボサボサ頭でスポーツマン、のようにも見えるが服装が若干崩れているので相殺している。不良とスポーツマンの中間を名乗れそうな感じだ。

 けれどその笑顔は実に明るく親しみもてるものだった。

「よう! ひじきじゃねぇか!! 久々だなぁ!」

 と批自棄へ向けて挨拶する。彼女は軽く手を振って、

「おーう、久々って程じゃねーけどここで会うとは奇遇だなー。て言ってもYAは結構、ドーナツ好きだし確立高いっちゃ高かったか……」

 と、納得した様子で頷いた。

 すると青年は「お?」と気付いた様子で、

「何か初めて見た奴らだなそいつら」

「まーな。ちょっくら用事でよ。こっちが弦巻。こっちがユルギュップだ」

まあ見知っておけや、と呟き批自棄は眼前の青年へ連れの簡素な挨拶を行うと

「そっか、よろしくな!」

 快活な挨拶が帰ってくる。

「で、お前ら。こっちの全体的にぽわっぽわのバカオーラが漂う奴は――」

「へっ。そんなに褒めるなよ。オーラが漂うとか格好良過ぎるじゃねぇか」

 腕組みして誇らしげにニヤリと笑みを浮かべる青年を見て二人は『ああ……バカなんだ』と納得した表情を浮かべた。

 そんな二人の内心はさしも知ろうはずもなく。

 青年はガッツポーズを作ってハキハキとした声で告げた。


「俺は九十九(ツクモ)不知火(シラヌイ)九十九だッ!!」


「よろしくな」

 穏やかな声で差し出された武骨で大きな手。

 それが弦巻日向と不知火九十九の邂逅であった。


第一章 日常、白縫い絡み前日和

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