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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Cinquième mission 「夕映えの誓い」
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第六章 大体育祭前日譚(2) 金蘭の正義:後篇

第六章 大体育祭前日譚(2) 金蘭の正義:後篇


        1


 鼎竜胆。貴公子。副総監の息子。鼎の剣。芳城ヶ彩でも有名な男子学生の一人だが、その異名の中には、潔癖症の鼎などという侮蔑的なワードも含まれている。だが事実として、鼎竜胆は男女ともに接触を嫌っており、体を触れさせる、触れ合っている場面はほとんど見受けられないのが普通な事だ。

 そんな鼎とストレッチのペアを組む。

 下手な場所に触れれば瞬時に首をはねられそうな環境下。だが、首が床に落ちない事を祈りながら、六月十四日のその日。鎧潟楔は前述の恐怖を全て抱え込み、竜胆とのペアに挑戦するという進歩を成し遂げる。

 そこに命の危険性を予測しながら――。

「ひゃっ、そこ、ダメだ。もう少し、くすぐったくない、場所に、おねが……!」

「……」

 ――結論として言えば、そういう問題以前に何か別の問題が浮上していた。

「んっ、んっ、ふぅっ……!」

「……」

 どこか躊躇する様に鼎に背中を抑えてもらったり、背負ってもらったりと楔の分は先に終えて、今度は楔が竜胆の手伝いをする側へ回ったわけだが、

「……少し強く押すぞ」

「んっ。んんん――っ」

 どこか色艶のある声が零れて響く。

 近くで似た様にペアを組んでる同級生たちが困った様子で、だが気になるのかチラチラ視線を注ぎ見守る中、

「……おい、鼎」

「……な、なんだ……?」

 そこでぺしーん、と頭を叩いた。「ひにゃあ!?」という高い声が驚きに苛まれる。

 だが、そんなこと知ったものか。そう、問題は他にある。

「なんなんだお前は! さっきから声が若干淫靡なんだが!?」

「い、淫靡とは聞き捨てならないな! 誰が淫靡だ訂正しろ!」

「はいはい、悪かったよ。淫靡は俺も言い過ぎかなと反省しているところだから――」

 言いつつ、ふにゅっとした背中をぐっと強く推した。

「ひぁっ」

「……」

「……」

 口元を手で押さえ、赤面の竜胆が視線を逸らす。

 楔は追及する事はせず、そのまま鼎の背中を押し続けた。

「ひゃっ、ううっ、ふぁ……っ」

 普段の凛とした声がどこかへ旅行か夜逃げしているらしい。やたら可愛い高い声が喉から挨拶を繰り返すさまは想像だにしなかった。

「……なぁ」

「な、なんだ」

「鼎、お前敏感過ぎないか……?」

「うぐっ」

「もしかして人とするのが嫌だったのってのは、触られるとすぐこう――アレか? くすぐったくなるからとか言うんじゃ……」

「そ、そんなことはない。オレは敏感肌って程じゃあないぞ! あ、た、ただ横の腹とかは触れるなよ、絶対だぞ? 絶対だからな?」

「なら、オレが触ってるのにも耐えろよ……」

「そ、それは……ぐぬー、ぐぬぬぅ」

 何をやたら唸っているのか。そして明確な反論が出てこない事にも驚いていた。理路整然な鼎ならば反論もしかと出てくると考えただけに不可解である。

 しかしそれにしても――、

「お前、体やわっこいな……」

「急に何を変な事を言っている!?」

「は? いや、ただの感想だよ。鉛とかあと数名と組んだ事はあるけどよ。どいつも背中とか筋肉質だっただけに――鍛えまくってるお前の背中がこうも柔らかいのに驚いただけだ」

「そ、そうか……」

「弦巻といい、中性的な連中ってのは皆こうなのかねぇ?」

「弦巻か。確かにあいつはな……オレも一回、頬をつついて遊んだ事があるが、柔らかいんだよな、赤ちゃん肌というべきか」

「いや、何をつついてるんだよ……」

「やたらふにふにしてて、ついな」

 知らぬ間に結構気さくな間柄だったらしい。

 そんな事を会話しながらも、ストレッチを続ける二人だが、やはり竜胆はなんというか恐る恐るといった空気を発している。それに気づく楔は竜胆を背中で背負いながら、

「な、鼎」

「な、なんだ?」

「お前、俺が怖いわけではないんだよな?」

「当たり前だろ? ただ、その――悪い、色々あってな」

「俺と組むのが嫌なら嫌で別に構わんが、やはりペア組める相手はいる方がいいぞ」

「そんなのは……わかっているが」

「というか、お前なら女子と組むとかどうだ? 業腹だが、お前モテるんだし、引く手数多ってやつじゃないのか?」

「お前な……、それ言い出すとややこしくなるだろうが。自慢じゃないが、モテるぶんどこかを引き立てれば、他がってものだろ。言っておくが、オレみたいなのが不用意に女子に近づくといらん喧噪が生まれるんだよ。人気の男子に特定の一人が近づくと、周囲の女子が牽制する風潮みたいなのがあるからな。芳城もといシラヅキは、そこらへん優しいが……」

「なんか詳しいな。実体験みたいに語っているが……」

「そりゃあ、実体験だからな。中学で経験した。以来、女子と組んだりは相手の為にも自分の為にもならんと理解したさ」

 はぁ、と深々とした溜息を漏らす憂いの表情。

 なるほど、そういう体験があるのなら女子と組めというのは酷な話だろう。

「モテる男ってのは中々大変なんだな?」

「……まぁな。鎧潟は経験無いのか? ――いや、すまん失言だった」

「おいこら、返答も聴かずに自己完結するな。俺だってなぁ。俺だってなぁ。俺だってなぁ。俺だってなぁ。俺だってなぁ」

「言葉が続かないじゃないか、涙拭けよ……」

 うるさい、と内心反抗する楔である。

 生来の眼光の鋭さも相まって女性人気は残念ながら低い。御曹司という立ち位置にこそいれど、生憎と生きてきた世界では御曹司など珍しくもない。少なくとも一般受けする顔立ちではないことは自覚している。

「顔立ちは中々だと思うんだがな。自惚れとかじゃなくて」

「まぁな。顔立ちは相当整ってるとはオレも思うぞ? ただ、眼光が鋭すぎる。対面してるだけで威圧してきてんじゃないのかって感じるからな」

「マジか。やっぱ、糸目になるべきなのかなぁ」

「なにを眼光紛らわしに糸目を対策にしてるんだコイツ……」

「仕方ないだろ? 正直、損得で言えば損しかないんだよ、こういう目つきだと。何かやらかすんじゃないかとかな」

「まあ、俺は将来的にはそんな悪くないとは思うがな。強面のおっさんなんか探せばそこらにいるんだし、学生時点じゃ難儀かもしれんが、大人になれば平静するんじゃないか?」

「なるほど、そう言われると中々救いがあるかもしれんな」

「ああ、何事も悲観のない未来へ向けて、だよ」

「前向きな思考だな」

「物事、大抵は前向きにいかないといけないからな」

「それはその通りだな――っと、このくらいでいいか」

「ああ、そうだな。オレもいい加減限界くらいだったし……」

「何か言ったか?」

「い、いや。なんでもない」

 どこか照れる様子でそう零すと、すくっと竜胆は腰を上げる。

「じゃ、体育祭の練習に励むとしよ――あれ……?」

「――鼎?」

 そこで竜胆の様子が不意に妙な気配になった。

 何かが揺らいだというべきか、がくりと外れたというべきか、ぶれたというべきか。竜胆本人も口元を抑えて形のいい眉を潜め、不可解な様子を浮かべている。

「おい、急にどうかしたか?」

「……いや、大丈夫。ああ、そのはずだ。だってこないだ終わったばかりだし……」

「鼎?」

「あっ。す、すまんな鎧潟。なんていうか急に眩暈がしてな」

「そうなのか。大丈夫か?」

「平気だ。まあ、気のせいだろう」

「ならいいが――」

「それより、運動も終えたし早く体育祭の練習しないとな。俺も出る種目が色々あるもんだから練習しないといけないわけで――」

 そう額に汗を浮かべる竜胆の言葉は形として繋がる事はなかった。

「――ひぁぐっ」

 途端――、竜胆の口から凄絶な悲鳴が漏れた。

 叫びは一瞬。竜胆がガクンと糸の切れた人形のように膝をつく。同時に腹部を抑え込み、声にもならない呻きを必死に耐える様に苦悶の表情を、端正な面貌に滲ませる。

 そんなさまを見て、周囲が驚かぬわけがない。

 体育館内部の人数と広さを鑑みれば、気付いたのはごく少数。特に、竜胆と楔は後も後に準備運動を開始しただけあって、先に済ませた生徒たちは各々運動を始めている。それもあって、竜胆の刹那の激痛はさりとて目立つ事はなく、済んだ。

 騒ぎにならなかったという意味ではよいのか悪いのか。ともかく、そんな些末を鑑みている暇はないだろう。

「鼎? おい、鼎。どうした?」

 焦る気持ちを必死に堪えて、楔は竜胆に投げかける。

 大声を出すにも、こうした場合痛みへ響く恐れもあることからどうにか小声で、されど切羽詰った声で少年の身を案じる他にない。

 だが、竜胆は一向に痛みが静まる気配はなく、それどころか肢体が段々と力を失っていくかのようであった。見れば額には玉のような汗が湧いている。

「おい、やばくないか、鼎?」

 視界の端で誰かが言った。まさしくその通り。理由は判然しないが、鼎竜胆が唐突に痛みに苛まされているのは一目瞭然。そこまで至ったところで楔は即座に竜胆を背に背負う。

 このまま安静にというのも脳裏に過るが、こんな状態で安静にというには無茶がある。

 ならば選択肢は思い当たるところ、一つ。保健室へ担ぎ込むしかない。

「おい、俺は鼎を保健室へ送ってくる。先生に話、通しておいてくれ!」

「お、おう。わかった任せろ!」

 竜胆の様子に気づいて集まっていた生徒の一人へ教師への説明を任せると、楔は即座に走り出していた。行き交う同級生の視線がちらほら集まる中を疾走する。

「鎧潟、どした」

「鼎が具合悪いみたいだ」

「保健室っ」

「ああ、わかってる!」

 案じる表情の秀樹へ答え、急げと希求する日向に頷き、楔は足を止めず走り行く。

 楔は背中に背負う竜胆に負担がいかないよう配慮しつつも、なるだけ早く辿りつけるよう全力を尽くして道を駆けていた。ともあれ、道に関しては比較的不安は少ない事を知っている。

 芳城ヶ彩において、保健室というものが他校と比べ特殊だからだ。

 その最たる理由は純粋に敷地面積の違いにある。通常の学校と比べ、敷地が広大なこの学院において体調不良の生徒、あるいは遭難した生徒の事を考慮し――遭難とかわけのわからない現象が起きるのはこの際置いておくが――ともかく、広さに対して保健室というものを一か所やそこらで済ませられるわけがなかったのである。

 その為、学院は敷地内数十か所に於いて関所のごとく保健室を設置した。

 これにより具合の悪い、怪我をした、そういった学生は最寄りの保健室を目指す事が芳城ヶ彩で生きる学生たちの鉄則である。

 特に、テニスコート、グラウンド、サッカー場、プール――そうしたスポーツ施設が立ち並ぶ場所においては近場に保健室がすぐ目につくのが、この学院の道理である。ならば体育館のすぐそばにもあるのが道理。

 駆け走って辿り着いた一棟の白い家屋の扉を楔はすぐさま開け放った。

「先生! すいません、具合の悪い奴がいるんですが!」

 手短に急患が来たことだけを告げて、楔は保健室の中に足を運ぶ。

 踏み込んでみれば、そこは最早家だった。玄関があり、キッチンがあり、廊下があり、リビングに当たる空間が保健室としての体を成している点を除けば人が住めるだろう程に、保健室というものは広々している。

 楔も一回体調不良でシラヅキ本校舎の保健室にお世話になった事もあるが、やはりこの学院は随所随所が豪華な佇まいであると実感せざるえない――得ないのだが、重視すべき点は生憎とそこにない。

 むしろ、問題が浮上した。

「いねぇ……」

 思わず落胆が漏れる。

 よりによってと言うべき教師がいなかった。保健室というもので考えれば別におかしなことではないのだが、この局面で不在というのは不安が募るものである。

(保健室変えるか? ――って、考えは浮かぶが……)

 保健室は一か所ではない。走れば別の保健室に行き着く。とはいえ、性質上保健室のすぐ隣に保健室なんて置いていない。ある程度間隔は開くものだ。幾分、時間がかかる。

 それ以上に、と背中を一瞥して楔は瞳に案じる様な色を浮かべた。

「大丈夫か、鼎?」

「……ぁぁ、へー、き、だ」

 声が小さい。掠れている。

「その声聞いて真に受ける馬鹿はいないっての……」

 やたらきつそうな声を聴けば、無理はさせられないと判断せざる得ない。思わず頭をかいてしまう。楔は強情さに嘆息を浮かべた後に、部屋を闊歩し、室内に設置された白いカーテンをそっと横にずらす。そうすれば見慣れた保健室のベットが目に入る。

 そこへ楔はゆっくりと竜胆を横にさせてやった。

「ほら、横になっとけ。先生今いないっぽいが、鍵はかかってなかったし、長期出張とかじゃないはずだから。そのうち戻ってくるだろうから安心しろ」

「……すまない、手間、かけるな」

「構うか、手間なんて。それより、具合どうだ?」

「喋るぶんには、平気そう、かな」

「そうか。歩くのはどうだ」

「すまん。歩くのは、すこし、厳しそうだ」

 辛そうな、柳眉をひそめてきつそうな様子だが、仰向けの体勢で竜胆は楔に苦笑を零す。そんなさまを「いいさ、別に気にしないで」と端的に返した。

「悪いな。ありがとう」

「……ああ」

 こんなもの人として当然の行いだ。こんなにつらそうにしてる学友に手を差し伸べないなんてのはどうかしているというもの。

「しかし、どうしたんだお前? 腹抱えて、相当に酷い腹痛っぽかったが……」

「なんでも、ない……」

「なんでもないわけないだろ。顔が青白かったし、尋常じゃ――」

 そこまで言って楔は血の気が引いてゆくのを感じた。

 ただの腹痛だからと侮っていたか。そのさまに気づくのが遅れた自分を叱責する。目にした現実に思わず絶句し、事態の深刻さを殊更深めていた。すぐさま自分の上着を脱いで背中を確認してみれば、そこにはべちゃっとした感触が付着していた。

 そして、即座に肝心の場所へ視線をくべる。

「お前……っ、ここ、どうした?」

 相手が病人というのもあって極限まで声を抑えながらも切迫した空気で、紡ぐ。

「血が出てんぞ? なんだ、何があった!?」

「――」

 詰問する気はなかったが、自然声が硬くなる。手には赤い液体が付着していた。見れば、竜胆のジャージのズボン。股間の付近が変色してしまっている。シラヅキのジャージは白を基調としているのもあって、なおのこと鮮血が映えたのもあり、楔は思わず動転した。

 対する竜胆は言葉に詰まった様子で、

「気に、するな。なんでも、ない」

「なんでもないわけあるか。血が出てるんだぞ?」

「……古傷が、開いただけだ」

「大事じゃないかっ」

 この強情野郎、と思わず叱りつけた。古傷が開く――治ったはずの傷跡が開くほどともなればかなりの大きな傷跡なのだろう。この出血量を見ればわかる。そこまで思考した楔は最早迷わなかった。

「服脱がすぞ」

「はえ!?」

 そこでやたら仰天した竜胆の声が飛んだ。

「な、何故だ!? へ、平気だと、言って、る」

「馬鹿野郎。こんな出血してるの見過ごせるか。今すぐ、止血しないとだろう。包帯は棚に入ってるみたいだから、それを貰う。巻くのは得意だからな」

「や、ち、違う。そ、そうじゃなく、脱がすのは――」

「お前が潔癖症なのは知ってる。後でいくらでも怒鳴れ。罵詈雑言何でも聞いてやる。慰謝料払うし、責任だって取ってやる。――こんな状態の奴見過ごせるか。俺の勝手な正義感にしか過ぎないが、応急処置くらい許せッ」

「そ、それは、感謝する。だが、気持ちだけでいいから――あっ、馬鹿っ、脱がすな!」

 静止の声は零れたが二の次だ。

 がばっと軽くシャツを捲れば、そこには白いすべすべとしたお腹が覗く。男子としては綺麗な白い肌で、鍛えている成果だろううっすらとだが腹筋が割れているのが目につく。だが重要なのは開いてしまった古傷だ。

 がしっとズボンに手をかけた。

 ひしっと腕に制止の手がかかった。

「「離せ」」

 片方は切迫し、片方は切実な声の色だった。

「お前、状況がわかってるのか? 出血してる状態を見過ごせと?」

 ぐぐぐっと腕に力を込めた。

「や、ち、違う。自分で、やるから。な、鎧潟……?」

 ぐぐぐっと必死に楔の腕を抑えていた。その声は懇願に近い。

「そんな蒼い顔した奴の言葉が聴けるか。腕掴んでる手の力のなさでわかる。同級生にズボン脱がされるのなんざ恥ずかしいのはわかる。俺も同い年の奴に、風呂場ならともかく、こんなとこで、ち○ことか見せるのはきっついからな」

「ぶふっっ!?」

「だが、お前。恥ずかしがってる場合じゃないんだから脱がすぞ」

「い、いや、だから。お願い、待ってってば――」

 切実だった。潔癖症故か。羞恥の至りか。ともすれ、鼎竜胆の嘆願は極めて切実な色を込めており――、まあともかくそんなもの大怪我の可能性ある事を考慮すれば取るに足らない些末事なので、楔は容赦なくズボンをずりさげたわけだが。

「「……」」

 無言が生まれた。

 悲しいくらいに圧倒的な無言だった。

 顔を真っ赤にさせて涙目でぷるぷるしている竜胆。

 目を点にしてそんな竜胆の股間を凝視する楔。

 二人の間にあるのは無言と静寂――そう、それは俗に嵐の前の静けさなんて言ったりもするらしい。

「……」

 するっと、楔がずり下げたズボンを元の位置へ戻した。

 次いで巻き戻しのようにがばっと脱がせる。

 そして最後に目を擦った。

 ――おかしい。

 そんな思いでもう一度繰り返す。履かせ、脱がす。そんなしょうもない行動を壊れたラジカセのように繰り返す。脱がし履かされる側はもう涙目で何も出来ない醜態あるいは痴態であったが、楔は悲しいかな気づく様子もない。

 何が楔を壊してしまったのか?

 その答えは、楔の瞳に映るものだ。

 竜胆の股間。そう、そこには別段好き好んで見たくもない、同い年の男子が履くブリーフだかトランクスだかがあるはずなのだが。

 そこにあったのはパンティーだった。

 清純な白い下着である。妹に何度も見せられたから見間違えるはずもない。生憎と妹は赤とか黒とかきわどいのだっただけに新鮮味は強いが。

 ともかく、そこにあったのは女物の下着だった。

 女装趣味か。そんな思考も働かなかった。

 なにせ、女装趣味ならばそこにはある程度膨らみがあって然りなはずなのに、生憎とすっとしたなだらかなラインしかない。

 単純に言って、男の股間じゃなかった。

 加えて言えば。古傷なんてものもなかった。あったのは血だまりだが、それも放射状に広がっていて、その上その場所が場所だとするならば、古傷なんてそんな話じゃなく――、

「か、鼎……。お、おま……」

 ダボダボと、汗が頬を大量に伝った。

 いや伝いもする。現状、顔どころか背中の方がすごい。汗っかきな背中である。

 そして――、

「――くれ」

「へ?」

 これは動揺の汗か。いや、悪寒の汗に違いない。なにせ、耳に届いた言葉が聴いたまんまならば、それは凄く納得いく言葉だっただけに。

「――死んでくれ」

 死の、宣告だった。

 青白い肌をしたくせに目元だけ涙交じりで顔がほんのり赤い死神による宣告だ。正直、どっちが死んでいるかと言われれば竜胆の方が死んでる気配ですらある。

 瞬間、どこからともなくスラリと竜胆の愛刀が引き抜かれた。

「どこから……!?」

 持ってなかったはずなのに、果たしてどこにしまっていたのか。楔の疑問は絶えないが、息の根は絶えかねない。

相生天咒流(あいおいてんしゅうりゅう)――」

 確か、竜胆の習得している剣術だったか。明確に殺す気である。

 そう認識した瞬間に、楔は生存本能を解放した。死への恐怖は人の力を何倍にも増大させてくれるのである。刃を振りぬかんとした左腕、手首を即座に掴んで、すかさず開いている手で日本刀を取り上げた。

「おまっ、鎧潟、返せ……っ」

「色々思うところもわかるし、言いたいところもわかる! だがまず、殺意は止めてくれ! 本当に言いたいことはわかるんだが、頼む! 弁明を!」

「弁解は、いい。刀、返せ。死なす――」

「目が虚ろなままその発言は止めてくれ、怖いんだって……! いや、ホント、気持ちは察しがつくんだが、本気で聞いてほしいから、チャンスを――」

 人間、死の危険性が迫れば必死になるものである。

 刀を返せば、その瞬間に絶命する可能性大ともなれば気は抜けない。というより離した瞬間に楔は自分の首が床に落ちる光景を想像できるくらいである。二人は揉み合いながら死と生の狭間を行き来している心地だった。どっちも。あらゆる意味で。

「頼む謝罪はする! だから大人しくしていてくれ!」

「大人しく、していられるか……! おま、よくも、オレの秘中の秘を……!」

 楔が死に際の馬鹿力とするならば、容体急変で体力がこそげ落ちているはずの竜胆もまた羞恥ゆえの馬鹿力というに相応しい。痴態を必死に消し去らんとする慟哭は至極当然の嘆きであったことだろう。

(そうだ、堪えろ! 鼎は今まともな容体じゃないんだから耐え忍べば力が尽きるはず……!)

 そして、そこに楔は一縷の希望を賭けていた。

 こうして拮抗していれば体調不良の竜胆が先に崩れるのは自明の理。事実、徐々にだが竜胆は力が緩み、楔の腕力を前に段々と床へ押されていった。

「ちくしょ……平時なら、こんな……!」

「黙ってろ。頼むから大人しくしてくれ。なるべく優しくする。だから俺に身を任せてくれないか……!」

「出来るか馬鹿!?」

「そうは言うが、俺だってこんなこと初めてでどうすりゃいいのかわからないんだよ!」

「なら忘れてさっさとここを出ていくのが一番だとオレは思う!」

「そうだ。俺も下を脱ぐ! 俺も恥ずかしい思いをすればイーブンじゃないか?」

「動揺しすぎだ、悪化じゃないか!? あ、バカ脱ごうとするな!?」

 動揺しすぎ、当然である。

 怪我を診ようと脱がせたら女だった。その現実を前に、楔は困惑を極めていた。同様の果てに奇行に及びかけているのもある意味仕方ない話である。

 だから願わくば、この事態が平和的解決をみることだが、――残念なことに世界は楔に味方しなかった。

「ふー、もうお通じ悪い時ってホントきっついなー。トイレに籠りきりとか、もうやだな――って、あれ、誰か来てたんだ――……」

 はーあ、とため息交じりに保健室の扉が開かれた。

 そこにいたのは白衣を着た一人の女性――保健の先生の一人を務める護江(もりえ)教諭、二十七歳だった。

『…………』

 状況を把握しよう。

 花を摘むのを終えて部屋へ戻ると、そこには服をはだけられ、下半身丸出しの上に股間付近が出血塗れで涙目な女の子と、そんな女の子を押さえつけ、日本刀を携えた怖い目つきでズボンを下げかけてる男子学生。

 状況把握完了。

 楔は即座に手にした日本刀の柄を向けて護江教諭の膨らみが確認出来たポケット近隣目がけて投擲した。それは一拍遅れて、先生が取り出しかけた携帯電話に直撃し、跳ね除け宙を舞ってから、床に落ちて遠くへ滑った。

 先生が焦った様子でドアを閉めて駆けだす。

 同時に楔が全力疾走した。

 行先は間違いなく玄関。保健家屋の外。逃走は楔の死を意味する。だが所詮は保険の教師。日夜鍛えている楔の疾走から逃れる速度ではない。

 玄関扉に辿り着き、安全地帯へ逃げ延びようとした女性の前に先回りし、手首を掴み、壁際へと押さえつけた。爛々と光る眼光で必死に訴えかける。逃げないで、と。

「いやぁああああ――――! お願い、犯さないで!?」

「話聞いてください、頼みます!!!!」

 殺さないでより残酷な反応だった。

 あの光景を見たなら当然の反応だろうけども、心が絞殺される気分である。

「鬼畜! 外道! 女の子を刃物で脅して犯そうとするなんて最低よ性犯罪者あ!」

「とりあえず話を聞いてください! お願いっすから!」

「お願い、お願い! 助けて、私、婚約者がいるんです! 初めては彼とって決めてるんです、助けてください……!」

「すいません、助けて欲しい心境なのは俺も同感なんで……!」

「鎧、潟……!」

 そこで首筋にチャキ、と刃物の音がした。

「……鼎?」

 佇む剣客、鼎竜胆。表情悪く左右に体が揺られながらも、眼光は絢爛に。愛刀を携えて、不埒の輩へ叱責を下すべく刃を構えている姿だった。

「ろ、狼藉は、許さない、からな……」

 だが声に力もなければ、体に力も入ってないのだろう。

「うにゅぁ……」

 と、頼りない声を零した後に、へたへたと竜胆がその場に崩れ落ちた。立っているのもやっとだったのだろう。

 そのさまを見て護江はキッと楔を怨敵を見る目で睨む。

「初めての子を、あんなになるまでするなんて……! この強姦犯――――!」

「お願いです。俺に一度でいいから弁明の機会を下さい」

 最後は、心からの土下座だった。


        2


「はあああ……」

 数分後。保健室の扉の前に一人佇む楔の姿があった。

 護江先生から「事情はわかりました。診察しますので、鎧潟君は部屋の外で待っているようにお願いしますね」との返答もとい要求の結果である。

 扉一枚向こう側から、声は聞こえてくるが、それも話し声、という括り程度で全容は全く聞き取れない。まあ、デリケートな話だろうし、楔も積極的に踏み込みたい内容でないのは間違いないので、ありがたい事だが。

「はぁぁぁぁ……」

 それにしたって溜息が絶えない。

 やらかした――心境一言で言い表すなら、そんなところか。やらかしたとしか言えない顛末に頭を抱えたくもなる話だ。顔を手で覆いながら、脳裏に浮かぶのは竜胆の事である。目に映った光景が今更ながらに忘れ難い。

「女みたいに綺麗な顔してるとは思ってたが……本当に女とかマジか?」

 いやマジなのはわかっている。あの女子としての下半身を視認した以上は竜胆が女子なのは疑いようがない。あれを見て男と誤認する愚鈍ではない。腰元の体つきも目視しているのだから尚更だ。

「謝らんとなぁ……」

 善意で怪我の具合を診ようとしたといっても、辱めたのは事実である。

 楔は自責を抱きながら深々と息を吐いた。とりあえず、やるべきことはやらないといかんだろう、と認識した辺りで少しだけ余裕も生まれてくる。すると、気になったのは一つの事だ。

「そういや――弦巻は何であの時、あんなことを言っていたんだ?」

 それは日向が案じていた竜胆の体のこと。明確に何かを危惧するような反応を見せていた事を思い出すと、どういうことなのかと不思議な気持ちが湧いてくる。

 しかし――、

「野性の勘か何かかもなあ、アイツの場合は」

 容体が急変したのは、途中からで、授業はじめの頃にはそんなに目に見えてという様子ではなかったと記憶している。だが、日向は確かに『へーき?』と何かを案じる様に竜胆を見ていたのは間違いない。

 日向からすれば、竜胆の体調が悪いというのが感じ取れていたのだろうか?

「……まあ、後でそれとなく聞けばいいだけの話か」

 そう、ぽつりと呟いた後だ。ガララ、と保健室の扉が開いた。

「鎧潟君、だったわね」

「先生」

 顔をひょっこり覗かせて、こちらを手招きする護江の姿になんだろうかと楔は眉をひそめると護江先生は「入って」と端的に答えた。

「……いいんですか?」

「鼎さんから許可は取ったから」

「入った瞬間に上から日本刀がギロチンの様に振ってきたりとかは……」

「ないない」

 苦笑する護江の後方から「そこまで物騒に思われてると流石に傷つくな……」という掠れた声が聞こえてきた。そんな大きな声というわけでもないのに、お互い届くのも保健室がとても静けさというものを強く醸し出しているからだろう。

「じゃあ、失礼します」

 そう言って、楔は保健室の中へと戻った。

 そして、そこで待ち受けていたのは――、

「……」

 視線だった。圧倒的な視線だった。

 ぷっちゃけ警戒感の視線である。「むー」と、唸る竜胆が布団を胸に抱きながら、なんともいえぬ様な複雑な様子でこちらを睨みつけていた。敵意とか殺意とかがあるようには思えない辺りを考えると、

(……これは、アレですかね? 羞恥心ってやつかね?)

 顔が若干赤らんでいる。しかして眼光は鋭い――が、どことなく気恥ずかしそうに見える。

 ともすれば、これは端的に言って恥ずかしがっているという事なのだろう。

「ほら、鼎さん。そんな睨んでないで。ね?」

「うぐぐ……わかってはいる。わかっては、いるんだが」

「大丈夫よ、鎧潟君も悪気があったわけじゃないからね。悪い行動ばっかりしただけよ。善意で無自覚に乙女を辱めただけだもの。ほら、元気出そっ♪」

「先生は無自覚に俺を非難しますね、甘んじて受け止めますが」

 頭に疑問符を浮かべる教諭の姿に嘆息を浮かべつつ、歩みだして、竜胆の傍にある二つのパイプイスの一つに腰掛ける。

 途端、恐ろしい程の安らぎが湧きあがってくる。

「…………あの、このパイプイス。なんか無性にケツにフィットするんですが」

「ああ、それ科学部さんが開発した個人の臀部に沿った形状に変化して骨盤ダメージを軽減して、特殊な音波を発生させて座ってる人にリラックス効果を齎す代物なんだって。すごいわよね~」

「……よし、今は科学部の事は一先ずいいや」

 ツッコミを入れていたら間に合わない。コホンと一回咳払いし、竜胆へ向き直る。

「……しかしよく説明してくれる気になったな?」

「鼎さん本人は最初は拒否感を示してたんだけれどね。言いたくないって」

「そりゃまあ、そうでしょうね」

 わざわざ男装までしてる奴が自分の秘密を洩らそうとするわけがない。

「正直、この局面でも俺に忘れろとか言うかと思っていたんだが……」

「……助けてもらった上でそれ以上の不作法はオレが自分を許せそうにないだけだ」

 力ない声のまま竜胆が諦めた様に呟いていた。助けたと言えるほどの事をしていないばかりか、むしろ精神的には窮地へ追い込んだ気分もしてくるが、竜胆の姿勢は律儀な奴だ、と思うものがあった。

「まあ、そんな感じで竜胆さんが最終的に諦めたのよね。というか、誤魔化すのも無理なのは本人も自覚してるみたいで」

「見られたからな。見られたからな。見られたからなあ」

「わかったから恨みがましい目で見るのは止めてくれ。その通り過ぎて反論も出来ない」

 その上脱がせたからな、もつくレベルの不祥事である。

(ははは、笑えん)

 そんな二人の様子を「うわぁ、どっちも目が虚ろ……」と、口元をひくつかせて見守る護江先生だったが、やがて「ともかく。説明に移ろうかしらね」と小さく手を叩く。

「まあ、鎧潟君も大方想像はついてるんだと思うんだけど……」

 そこでちらりと護江は竜胆へ視線を寄越した。好きにせい、とばかりに投げやりな視線が帰ってきたのを苦笑で返した後に、コホンと小さく咳払いする。

「鼎さんの症状は――生理です」

 潜めて言うと女の子の日ってやつね、とつけくわえて。

 楔はやはりそうか、と思いながら渋面を浮かべていた。

 生理。女子の永遠の悩みにして、人体の神秘故の特徴と呼ぶべきか。なんにせよ、楔からしてみると男の自分には永劫わからないものだ。

「生理痛、ですか……」

「まあ、男の子にはわかりづらいわよね? でも、症状が重いときはホント厳しいのよ?」

「あ、いや。妹がいますから多少は理解があります」

「あら、そうなのね」

 なるほど、という護江の頷きに楔は菊理の事を思い出していた。

 妹が生理痛の時も確かに大変そうだったと記憶している。普段、自分と関係を持とうとしている菊理でさえその日が来ると静かなものだ。曰く、生理は軽い重いがあるとも聞いた。

 ただ、楔が釈然としないのには別の理由がある。

「けど、先生。生理痛ってんなら、当人は周期? でしたか。何時来るかとかが、わかるもんなんじゃありませんでしたっけ? 俺もそんな詳しいわけではないですが……あんなぶっ倒れかけるみたいなもん堪えるもんなんですか? 妹なんかは酷い時は保健室で休む事にしてると訊きましたが」

「そう、そこなのよね。私もそこが頭に引っかかってるんだけど……」

 言いつつ二人で竜胆を見つめていた。

 そんな彼女は気まずそうに視線を横にずらす。

「おい、鼎。まさか生理を押して、とかじゃないよな?」

「生憎と、オレだって生理抑えて無謀はしない。今回のには理由があるんだよ……」

「理由?」

 問い返すと竜胆は小さく首肯し、

「簡単に話すと、周期が早すぎたんだ……オレ、こないだ終わったばっかなんだ……」

「つまり時期が乱れてるって事ね?」

「はい」

「そっかー。ホルモンバランスの乱れなのか、ストレスか……」

 うーん、と悩ましげに護江先生が唸る。

 その傍ら、なるほどと楔はそういう理由か、と感じていた。

「つまり、今回倒れた理由は予期せぬタイミングになった影響ってわけか……」

 自分でも来るはずないと考えていた時期に来てしまった。少し前に終えていたはずだからと安心していたところ訪れたものだから自分で調整する事がしきれず、一気に体調悪化してあれだけ不調な容体になっていたという事なのだろう。

「しかしそれにしたって腹を抱える程の激痛ってなるもんなのか?」

「重い時にはな。酷い時は酷いというだけだ……」

「そうか……まあ、この手の話題にあんま踏み込むのは失礼だろうからよしておくが……ただ、先生が言っていたように何がしかストレスでも抱えているのか? あるいは他に要因があるか自分で思い当たる節は……」

「ストレス……ないとは言えないな」

「それは――男装の事か?」

「……ま、そうかな」

 男装。女子が男子として偽って過ごしている。

 想像にしか過ぎないが、それはストレスを蓄積する要因なのではないか、と楔は考えた。

 だが、鼎はゆるく首を振った。

「しかし、それじゃ弱いな。オレは男装に関しては納得してるんだし……それで男子や女子とのアレコレが挟んだとしても、そこまで重篤なストレスにはならないし……」

「だとするとホルモンバランスの乱れかしらね? 高校生なんて成長期で思春期なんだし――って言ってもそれは女子の皆に言えてる事ではあるわね……」

 ううむ、と護江教諭も竜胆も困った顔を浮かべ始める。

 どうにも要因に行き当たらないのだろう。楔はかといって話題に踏み込む勇気もなく「ま、まあ時にはそういう激痛が、とかもあるって事ですかね」と相槌を打つこととした。

「鼎も、アレだ。体調悪いんだろ? あんま要因を探るとか頭使いそうな事は止めて安静にしておいたらどうだ?」

「別にそこは平気だよ。っていうか喋っている方が気がまぎれるんだ」

 そうなのだろうか。無理していたりしないのか。

 鼎竜胆が平時、凛としている様は今は薄れて、どこか弱弱しくもある。だからといって彼女の言葉が強がりかどうかなど楔にはまだわからなかった。なんともいえず、もどかしさを募らせて、やがて口をついたのは扉の向こうで考えていた謝罪の言葉だった。

「……鼎、その」

「? なんだ?」

「いや、その――すまん。悪かった」

「……服脱がした事か?」

「あ、いや、違くてだな。いや、違くないか、まあ、そこもあるが、それだけじゃなくて……無理に組んだ上もだが、潔癖症も男性恐怖症かなにかなら殊更申し訳ない。それに体調不良を見抜けなかった事もだ。――すまなかった」

 楔は心底そう謝罪すると竜胆は「なんだ、そんなことか」とため息を漏らしていた。

「男性恐怖症ではないから安心しろ。体調の事も気にしなくていい。そもそも偽っているのはオレだからな。なにかしら問題は起こりえるなんてのはオレ自身わかっていたから……」

「……そうか」

「でもそれでも、服を脱がされるなんて末路は想像してなかったな……ふふふ」

「悪かった。謝ります、ごめんなさい」

 気づけば土下座である。

 脱がしたのはしかも脚絆ときたものだ。誠心誠意謝る他に道は無い。

「すまないな。そこまで謝らなくていい。今のは意地の悪くなったオレの意地悪だ」

「鼎……」

「だから同じ場面では同じ被害者を生まないように努めてくれればそれで許そう」

「そうか、ありがと――いや、あるか同じ場面!?」

 正直、この展開が二度も起きるとか想像できない話である。だが竜胆は「わからんぞー、世の中は存外、二の舞を起こしたりするからな」と楽しんでさえいるようだった。先程まであんなに辛そうだったというのに「お前な……」と呆れの一つも零そうものだ。

 そうして自然と、僅かばかりの無言が続く。

 話すべき事はお互いわかっていた。そう、長引かせても始まらない以上は口火を切る必要性というものがあるのだから。

「――なぁ、教えてもらってもいいか? なんで男子の格好なんてしてるんだお前?」

「……まあ、そこ訊くのが普通だよなぁ」

「デリケートな話題なのはわかるけどな。正直、性別を偽って学校に通ってるなんて、そうそう出来るもんじゃないだろ? 学校側に話を通さないと明らかな書類不備だろうし」

「……ああ、そうだな。良くわかってる事だ。事前に言っておくと学院の上の人たちは知っている。だから書類不備はないから安心してくれ。……じゃ、いくらか説明といくしかないか」

 諦めた様にそうぼやくと、竜胆は小さく口を開いた。

「鎧潟。【鼎】ってなんだかわかるか?」

「…………はい?」

 問われた内容に楔は、ただただ唖然とした。【鼎】とは何か?

「……少し待て。検索するから」

「いやいい。その反応だけでわかったから」

 携帯電話を取り出した楔をトントンと軽く小突いて竜胆は制止する。

 わかった、と言うが楔はわけがわからなかった。竜胆は何を言おうとしているのかサッパリというのが彼の心境だったからである。

「護江先生。【鼎】ってわかります?」

「え、私? んー、古代中国の土器で、三本足の釜みたいなものってくらいしか……」

「字面通りに受け取ってもわからないさ」

 頭に疑問符浮かべる二人に対して竜胆は端的にそう零すと、疲れの滲んだ相貌にふっと覇気のようなものを宿して語りだした。

「【鼎】ってのはな。日本の警察じゃ大きな意味を持つんだ」

「警察で?」

「ああ。【護身刀・鼎(まもりがたな・かなえ)】――鼎家の人間はそう呼ばれて存在してるんだ。だから、警察関係者じゃないとわかりづらいだろうな」

「【護身刀・鼎】? なんだそれ?」

 確かに、初めて聞く話だった。

「元を辿れば相生天咒流宗家、日ノ本の巫女の家系である伊鈴(いすず)の分家筋の者が新たに鼎という家を創り上げた事から起因していてな。鼎の剣士は正義感の強い人だったんだろう。相生天咒流を人を守る力として振るうべく、正義の剣として戦い続けたって歴史がある」

「やたら古めかしい話が出てきたな……」

 いつの時代か。戦国か、江戸時代か。なんにせよ相当古い気がする。

「だから鼎の初代は古い文献を見る限り、明確に人を守る役職についていた。江戸時代には与力、同心。明治には邏卒(らそつ)。そうやって代々国本を守る守護の刀としてあり続けた。現代に至っても警察内部では【鼎】の家督が意味するものは大きい」

「つまりは――、警察を象徴する家柄って感じなのか?」

「あくまでその一端だ、という話だ。警察なんて大組織を象徴するなんて程御大層なものじゃない。ただその佇まい、在り方から守り刀として認識されてきた家柄なんだよ」

「そうなのか……」

 ほう、と感心した様子で楔は頷く。

 警察関係など詳しい知識は持ち合わせていない。ただ、鼎の家が警察関係で大きな力を持つという事くらいは彼女の立ち位置から察していた程度だったが――つまりは、代々警察の力となってきた名家という事を再認識した心地だった。

「だが、それがどうして男装に繋がるんだ?」

 しかし、肝心の部分はそこだろう。

 鼎家の成り立ちや、役割、存在意義。それは大体わかった。実に尊い事だ。今を生きる日本人として日本の平和のために奮闘する鼎家に対して感謝の一つは必ず抱こうというものだが、そこから鼎家が竜胆に男装を求める理由が見えてこない。

 すると、竜胆は「当然の反応だな」と理解を示してから、静かに語りだした。

「まあ、これを話すとどんな反応が来るのだか若干わかるのでアレではあるが――、簡潔に言うなら、鼎家がオレに男装を要求するのはただ一つ。女に家督は譲れないからだよ」

「ええ~……」

 そこで不満げに護江先生が唸った。楔もそれを聞いて難色を示す。

「……つまりは、アレか? 古い体制というか、その」

「まあ、家督は長男が継ぐものとかそういう理屈だ。わかりやすいだろう?」

「理解が出来過ぎて、古いなおい、とすら思ったぞ」

 だが得心はいった。

 確かに古来より日本は男尊女卑の社会が形成されていた。もとい国際的にみても、時代をいくらか遡れば社会の体制は大半が男尊女卑のシステムが織り成されてきたのだから、その風習には納得が生まれる。

 だが男女平等が謳われる昨今においては古い価値観と抱くのもまた自然な事だった。

「はは、同感だ。オレも確かに、古い価値観だとは思ったさ。ただな――綺麗ごと抜きに、そういう守りとして機能する強い象徴は男って抱くのも事実だろ?」

「それは……」

「いや、いい。答えなくてもいいさ。ただ、オレ個人はそう考えてしまうというだけだ。仮に凶悪犯のようなものに遭遇して、近くにいるのが女性と男性であったとするならば、割と自然に助けを求める偶像は男性というだけ。そりゃあ腕っぷしの強い女性もいるけどな」

「……そこは難しい話だな」

「そうだ。無論、オレが女性初という肩書で新境地を切り開くってのも考えの一つだと思う。だけどな。鼎家はそれだけは絶対に許さなかったし、オレもそれが並大抵ではないと理解しているから、そこはまあオレが折れた、というとこか」

「……」

 難儀――いや、複雑な話題なのだろうなと理解する。

 ただ呆れは浮かべるが悲観は感じられない竜胆の表情を見て、折り合いをつけているのだろうと理解し楔は言及をすることはない。

「第一、オレが求めるのは強い男性像でも、強い女性像でもないんだ。求めたのはもっと別の、なんというか正義の象徴であればいいと感じた。だからオレは些末に囚われるのは面倒くさいと男装を選んだんだよ。これが近道でもあったからな」

「遠回りを選ぶ気は無かったって事か?」

「挑戦か。それも素晴らしくはあるが、わざわざやる事じゃないだろ?」

 そう言って弱弱しいながらも、不遜に竜胆は笑う。自嘲するような気配は微塵も感じられなかった。

「そんな苦難の過程を刻んで到達するよりも、オレは到達したその場所から苦難を歩むことの方が遥かに大事なんだよ。男尊女卑も、性差も関係ない。そんなまどろっこしいしがらみを一々相手取る暇はない。男装を前提になら用意出来る舞台があるなら、そこに食いつく。それがオレの決定事項だからな」

 難しく、そして楔が到底口を挟めない内容だった。

 部外者がとやかく持論を挟むべきことではない、と感じてしまう。少なくとも竜胆が述べたとおりに彼女は折り合いをつけているのだろう。

「だが、それでいいのか? 男装、それその意味合いだとずっとだろ? 少なくても、学生時代だけで終わらない。大人になっても、死ぬまでずっとなんじゃないか?」

「ああ、そうだ」

「女としてのお前はいなくなるぞ、きっと。ずっと男として見られる人生なんて絶対に破綻している……!」

「なくならないさ。オレは女だからな」

 そこで柔らかく竜胆が微笑を灯した。何故、そんな性別を終始偽る事になる人生に対して穏やかでいられるのか、楔には到底理解出来ずにいたが、竜胆は毅然と言い放つ。

「オレはな。どんな弁明を吐いたところで、男は男だし、女は女だって考えてるからだよ」

「そうなのか?」

「ああ。オレは確かに男装しているし、将来的に女を捨てている様に他者からは映るかもしれないさ。けど、オレは女だ。他ならない自分自身がそう理解してる。例えばな、男に生まれたかった。女に生まれたかったって発言があったりするだろ? オレはそれはあまりに短慮だと考えている。なにせ女は男の思考回路を理解しきれないし、女の思考回路も男は熟知しきれないんだよ」

「そういう、ものか?」

「そういうものだと少なくともオレはそう感じている。別に男女差別的な物言いじゃないんだが、そうだな――男女感覚的な物言いとでも言おうか。オレは長年男装しているが、正味男の思考にはついていけない所が少なからずあってな。逆に女の思考の方がああわかる、と頷ける場所が多いんだ。他者へ対するかっこいいと感じる感覚も、可愛いと感じる感覚も、男女で結構違うもの。そういうのを何となく掴み取ってきただけにな」

「わかるような、わからんような……」

「なら、女子の印象について例に挙げるか。鎧潟なんかは女子の可愛いって基準はなんだ?」

「そりゃま――容姿かな。なんか世俗的な事言った自覚はあるけど、基本そんなもんだ」

「だろうな。オレも同意見だ。男は基本、容姿を重視してるんだなーってのが正直、男装しててよくわかってるんだよ。男の会話耳にするしな。別に男が、容姿しか見てないってことじゃないぞ。ただ可愛いって感じる地点がどうにも容姿に特筆してるって風に見てきた。男子にとって可愛いはイコール容姿なんだよ」

「恥ずかしながら、否定出来んな」

「対して女子にとっての可愛いは容姿とは少し違う。そりゃあ顔が可愛ければ、それで可愛いは通じるけどな。けど可愛いの幅が広いんだ。雰囲気、口調、服の着こなし方オシャレのセンス、表情豊かで愛嬌がある――オレも同性に向けて抱く印象はそういう感じだ。だから女子がどれだけあの子可愛いと言っても男子からすると可愛いのか? と、首を傾げる場面を何度もあったのを見た覚えもある」

「ああ、わかってきたなんとなく。確かに女子はなんていうか多感だからな……感覚的に、確かに男子と違うか……」

「そうだ。頭の働き方が男女じゃ思いの外に差が出てるんだなーって実感してきた。だからオレはどこまでいっても女なんだって自覚を以て男装してるんだよ。オレは男を騙るが、女を捨てるどころか、自分の女をより強く自覚するだけだった」

 男と偽って生きようとしても、実際に渦中へ入ったら、どうあろうとも自分の女性としての性質を強く感じた――竜胆が言っているのは、そういうことだ。

「ほかの誰がオレを男と思おうが、扱われようが、オレは納得して男装した。だから悲観はしない。そりゃあ女扱いに夢見る気持ちはあるけど、それで人生に悲嘆はない。オレは夢を歩むからこそ男装で、その道程でも立派に女性である事を誇ろう」

「――」

 一拍の隙間を置いて、零れた言葉はただ一言。

「――強ぇな」

 堅牢な精神性に呆れ交じりの感嘆を楔は零していた。

 これは曲がらん。他に道を示したとしても、鼎竜胆は現状、この道を歩むのだろう事は間違いのない話だ。竜胆は「そんなに強くは無いんだがな」と反対に苦笑していた。

「反面、バレる事に関しては正直、心もとなくてな……。生き方自体はこれでいいんだが」

「バレたらご破算ってことか」

「そういうことだ。どんだけ心を強く持っても、そこだけがネックだよ」

「俺はバラさんから安心してくれ」

「ああ、頼む。素振りを見せたらチョンパだからな?」

「可愛く言ってくれてもなぁ」

 言いつつ、鼎竜胆の秘密を漏らす気は微塵もない。

 これだけ決意を見せつけられて軽々しく口を滑らすならば、それは屑だろう。だからこれは胸に秘めておくもの――そしてその胸中は雄々しい焔が輝かんと熱を帯び始めている。

 不意に、そこで沈黙を保っていた護江教諭が口を開き疑問を零した。

「けど不思議ね。男系とはいっても、女性くらい歴史のある家柄なら排出してきたはずでしょう? 鼎の家ってのは、女性にも男装を仕来りとしてきたのかしら?」

 そこで護江教諭が最もな疑問を呈した。すると、竜胆は難しげに唸る。

「いえ、オレも気にはなりましたが、歴代でオレだけみたいです。生涯秘匿を貫いた女性当主がいるんじゃ、と思い調べた事はありますが痕跡は無かったですね」

「なに?」

「ええ、ひどくない? 鼎さんだけとか……」

「鼎。そうなると俺もどうなのか、と思うぞ。一応、反論してみたらどうだ?」

 てっきり歴代で同じ境遇の女傑でもいたのかと思っていただけに少し眉を潜めそう呈す。

「あー、いや、そこは無理だ。少し後継問題があるんだよ……」

 後継問題。

 その四文字は文句を呟く心を容易く呑み込んだ。曲がりなりにも、御曹司の家柄である楔は、それがどんな複雑な内情を孕む意味なのか少しばかりは理解できる。特に鼎家の歴史を想えば鎧潟家とは格段の差があるに違いないだろう。ただ何故、鼎だけ男装なのかが全くもって謎ではあるが仕方がない。

 鎧潟家も古い血脈とは父に聴いた事はあるが、自分としては実感わかないのも手伝っているわけだが――ともかく、竜胆の言葉に楔は「そうか」と悩ましく反応する。

「そうなると外野がとやかく言うのはご法度だな」

「理解が早くて助かる」

「けど、本題は教えてくれるか? 正直、男装を強要されてまで、お前がそうして生きている理由はなんなんだ? そこまでしているからには譲れない何かがあるんだろ?」

 性別を偽り生きる。その人生が苦難でないわけがない。

 ならば核となる信念があるはずだ。そうでなくては艱難辛苦を歩む気概は抱けない。

「そんなもの決まっている」

 竜胆はきっぱりとした声で返答する。瞳に強い意志を込めて、語気は自然と誇らしさを感じさせるように凛と澄ましながら、ぐっと拳を握り胸の前に掲げる。

「オレは――正義の警察官になりたいんだ」

「――」

 その答えに刹那、楔は声を失くし、一拍の後に呟いた。

「正義の警察官……?」

「ああ」

 こくりと竜胆は首肯する。

「日常を守る為には、必要な正義がいる。誰からの感謝が無くても平和の支柱としてあり続け、時に罵倒を受けようとも膝を折らず、最後の最後まで諦めないで自分の信念に生きて、何時しか――……、オレは小さいころにある人から聞いて感銘を受けた在り方だ」

「それが、正義の警察官、か」

「ああ、その通りだ」

 凛と輝く表情で少女は頷く。

「もちろん、警察が正義かどうかは論争に上がるだろうさ。警察は法を順守する。だから厳密には正義ではないという意見もあるかもしれない。警察の怠慢や、汚職。後手後手の捜査。世間一般からの叱責も熟知している。だが、その上で――オレは声高に告げてやる。正義の警察官を目指していると」

 瞳を皓々と輝かせながら少女は未来を見据えて唱えていた。

 正義を誇る警官になってみせる、と。高い志を掲げて吼えている。不思議な色彩の瞳を煌めかせながら、そう吐く少女の姿勢に楔は思わず、口を開いていた。

「――すごいな。かっこいい」

「え」

「正義の警察官、か。すごく、いいと思うぞ、俺は」

 気づけば竜胆の手を掴んでいた。

 楔は今、ひたすらに――目の前の輝かしい人の在り様に興奮しているのである。明確に、目標を見定めて人生を歩もうとする同年代の少女の姿に歓喜を覚えるほどに。

「そ、そうか……?」

 そして少女は困惑していた。

 戸惑っていた――より正確には恥らっていた。花が恥らう様に頬を染めて。

 そんな様子には気づかぬまま、楔は頷く。

「ああ。素晴らしい目標だと思う。正義の警察官。いいじゃないか、最高だ。そうあろうとする警察がいるだけで俺は素敵な事だと感じるぞ」

「そ、そか……ほー、ふー、ひゃー」

 普段周囲に怖いとすら恐れられる三白眼も気付けば少年の様に煌めいていて実に和やか――でもなく、輝きが増した分怖いが――生憎と妙な相槌で返す竜胆は如何せんそれを気にした様子もなく楔から顔を逸らして頬を赤く染めるばかりである。そんなさまを護江先生は「なんだかわからないけど、青春ぽいな、いいなぁ」と和やかに見守っていた。




 数分後。

 話を聞き終えて、ひとまず感動の興奮も落ち着いた楔は腕組みしながら、一連の話の流れを思い返して、

「しかし話を聞き終えてみるとお前、本当に大変だな。俺も将来は家を継ぐための勉強を頑張らないといけないが、お前はお前で複雑そうで難しい」

「難儀だが今では平気だ。何年もしてきたからな」

「だが、よく誤魔化せてきたな? 芳城は水泳の授業は無いが、健康診断とかあったろうよ。そうでなくても、小中とかはどうしてきたんだ?」

 そう問いかけると、ふっと竜胆は物憂げな顔色に変わって、

「健康診断はもっぱらズル休みで、後に事情を知る鼎家お抱えの医者による診断書。小中の水泳なんかはカナヅチで押し通してきたものだ……。小さいころは【かなづち王子】とか散々言われてたなぁ……」

「目が若干涙目になってるぞお前……」

 というか、そのころから王子の綽名あったのか、とそっちに少し驚きを覚える楔である。

 しかしまあ、これだけ容姿の整っている竜胆だ。男の振りをして通していれば、女子から王子様みたいとそんな評価が投げかけられでもしたのだろう。

「女子にモテて、それに嫉妬した男子児童に、『やーい、かなづち王子―』とでも悪口言われたのが綽名の由来か……」

「なんで見てきたようにわかるんだ、お前!?」

 図星らしい。自分でも、びっくりである。

「ただの想像だよ。しかし、お前、今後はどうするんだ?」

「ど、どうする、とは?」

「どうもこうも――小中はどうにかなってきたんだろうが、高校ではきつくないか、性別を偽るってのは? これが女装男子だったら海にでも学友と一緒にいかなけりゃ隠せそうだが、男装女子ってなると結構不利だろ? 今回見たく、生理の痛みや周期がある。隠すにも現実問題難しくないか?」

「……それを言われると苦しいが……、そ、それでも自分は鼎竜胆だ。やってみせるさ!」

「けどねぇ。痛みであんな疲弊する状態が今度も起きたりしたら……アレ、鎧潟君が運んでこなかったら大変だったろうし、必然誰かが運ぶ羽目になるわよ鼎さん?」

「う、うぐぅ」

 そして別の男性なら再度秘密が露見するのは目に見えている。

 男女共同で運動を行っているにしても、鼎は男装しているのだから女子がわざわざ運ぶ理由も生じない。運ぶのは絶対に男子生徒によるものとなるだろう事は明白だ。

 そうなれば密着した際の感触でバレる事も予測つく上に、急を要すれば仕方なしにどこかしか触れられる可能性も無きにしも非ずである以上は――鼎竜胆の今後は明らかに綱渡りであるとしか言えないだろう。

「女子って大変だな」

 しみじみと楔は呟いた。反論も出来ないのか竜胆は「……男にはわからないさ……」と遠い目で天井を見つめていた。

「これが女装男子なら本当、バレにくいんだがなぁ。バレるとしたら更衣室、病気やら熱中症で急に具合を悪くした時くらいか?」

「あら、男の子って更衣室では平気なの? 女の子だと――私なんか学生時代はなんだかんだ見られるの恥ずかしかったりしたけど」

「普通の男子は隣の男子の裸なんかに興味湧きませんから。むしろさっさと着替えてむさ苦しい空間からおさらばして、可愛い女子の体操着姿で癒されにいきたいもんですよ。――まあ、うちの合同だと他のクラスの男子が美少女ばりの容姿した弦巻とか鼎に、後は体格的に男子だが天道、辺りか? 佐良土はまぁご愁傷様として……。その辺に対しては視線が若干危険ですけどね」

「へー……」

 言いつつ、鼎を睥睨し納得した様に護江教諭は頷いた。見られた竜胆はといえば「視線があるんだよなぁ……なんなんだよ、ホモなのかあいつらは。一応男子で通してるのになんで視線が向くんだよ……」と、涙目で小さく震えていたりする。

(そりゃバレるか気が気じゃないのはあるよなぁ……)

 とはいえ男子の着替えなどその実、ささっと済む話。水泳でも絡まなければ割合簡単に着替え終わる事からバレずにきたのだろうと予測する。

 だがこのままではいけないだろう。

 鼎の将来の為にも。

 鼎の現在の為にも。

 故に鎧潟楔は決意を秘めて口を開いた。

「――おい、鼎。お前は今後、俺と組まないか?」

「……なに?」

 その突然の申し出に当然のように鼎竜胆が眉を潜めて楔へ視線を注ぐ。

 その視線には困惑、動揺、疑心、警戒――色々な感情が混じっていた。だが臆する事は無い。楔は自らの心情に沿って言葉を続ける。

「体育のペアだよ。お前、現状誰かと組めないんだろ? だったら、俺とはどうだ?」

「それはその通りだが……どうした急に?」

 怪訝そうな竜胆の眼差しに楔は苦笑して返す。

「いや、先生にも言われていたしな。それにお前、これ以上ペアを拒絶してると浮いちまうぞいい加減? 俺ならまあ秘密も共有したし、どうだろうかって提案なんだが」

「……それは、そうだが」

 言いつつ、竜胆は不可解げに柳眉をひそめている。何か気がかりでもあるのだろうか。

 そう、感じつつ言葉を待つと、

「……それをいいことにやらしい考えでも抱いてないだろうな?」

「もっともな懸念材料だが、純粋な好意だから勘弁してくれ」

 なるほど、と楔は当然だとばかり肩をすくめ苦笑する。

 ペアと言っても、生物的に男と女だ。その上、女は捨ててないと断言する竜胆のこと、そのあたりを案じるのも当たり前というものだろう。

「言うのは酷だが、お前今の状況だと男としか組めないんだろう?」

「うぐ……」

 ぽちょん、と汗を伝わす竜胆。小中では、最悪一人体操で押し通せたやもしれないが、高校生ともくると過度な孤立は流石に厳しい。だが、竜胆の事情を鑑みれば、男としかペアを組めない状態にあるというもの。

「理想的なのは、女友達で秘密を共有する相手の出現だが、お前いないだろ?」

「し、仕方ないだろう、そういうのはずっとだったんだし!」

「それはわかる。だから妥協でいい。というか、お前が、そういう相手を見つけるまでの背中案でいいんだよ。俺と組め、鼎」

「そ、それは確かにありがたい話だが……だ、だがわからない! なんだその親切心! 唐突にやたら親切だぞ、お前! 初めは仕方ないなみたいな感じだった癖に!」

 ビシィッと体調が芳しくないながらも、声には動揺と語気の強さが滲み出る。それは当然の反応ではあっただろう。秘密を知ったら急に何かと構う気配を見せ始めた。若干、気にかかる怪しいという感慨を抱くのは当然だ。

 それを理解し楔は真摯な返答を心掛ける。

「そりゃあ友達いないんだなモテる割に、とは思ってたが」

「がふっ。否定出来ない……出来ないが、無性に胸に突き刺さる……!」

 モテても同性相手。突き刺さりもするのだろう。

「だが、事情を知れば、手の一つくらい貸してやりたいと考えるのも人情だろ? お前だって誰かが何か困っていれば助けようとする――そうじゃないか?」

「それは当然だが……」

 当然、と断言する辺りを好ましく感じながら、楔は尚も言葉を続けた。

 誰かに頼るでもなく孤高であった少女へ、最大限の礼節を抱いて、掴めとばかりに手を伸ばし続ける事を決意する。

「――もっと言うとな。俺は、お前を応援したくなったからだ」

「応援?」

「ああ。勝手な話だが――好きなんだよ、そうやって目標へ向かって頑張る奴がさ」

「おま……っ」

 竜胆は顔を真っ赤にさせ「……よくそんな気恥ずかしいセリフ吐けるな」と呆れた様に零した。楔も「わかってるから言うな」と軽く苦笑して返す。

「けどな。これは本心だ。俺は頑張ってるお前を応援したい。ただ、お前難題が多そうだからさ。もしもの時のサポートくらいは力になれたらって思ったんだ」

「サポート……」

「ああ。もしも女だってバレそうになったら、やばいんだろ? なら、危なくなったら俺も隠し通すのに一役買ってやる。正味、そんな気苦労する事でもない。だから、どうだ?」

 隠し通す上で所々綻びのようなものが出る時もあるだろう。

 楔は、その時々に手を貸してやればいい。過保護に接するわけではなく、危ない時に支えてやる。夢の為に、露見しないことが道筋だというのならば――、是非もない。性別がばれないように彼女がどうしても困ったときに声をかけられる相手になりたい、と――そう思った話なのだ。

「それともやっぱこういうので、男は嫌か?」

「馬鹿野郎。女相手だと殊更問題だよ」

 そう言って苦笑する様に竜胆は口角を釣り上げた。そりゃそうだ。下手したら恋人同士とか勘ぐられたりもするのだろう。

 だから出来うるならば一目にして判然となる友人がいい。

「そうだな……じゃあ」

 そうして竜胆は――少女は花のように優しい笑みをこぼす。

 竜胆。花の名前を冠する癖してやたら刺々しかった少年の様な少女が。始めて楔に見せてくれた大輪のように優しい、少女の笑みを浮かべて。

「これからよろしくな、鎧潟」

 ふわりと花咲く笑顔と共に、楔の手を握り返したのだった。


        3


 場所は所変わって1-Dクラス。

「おせーなー、鎧潟。次の授業始まる前に戻ってくんだろうな?」

「わうー、どーかな? 竜胆さん、体調悪そうだったし」

 日向の前の席で椅子に反対向きに腰掛けながら秀樹が「まだかねー」と腕時計を一瞥しながらポツリと零す。Dクラスで楔と仲の良い二人は体育を途中で抜けて保健室へ向かったであろう二人を心配している様子だった。

「確かになー。あの腹抑えて蹲るのやばかったもんな。顔も青ざめてたし」

「わうー、ボクのせーだ……」

「いやいや何で弦巻の所為なんだよ」

 おかしな事言い出すなと、秀樹は苦笑を漏らして日向の頭を乱暴に撫でた。「わうー!?」という悲鳴がなんとも面白い。

「けど、心配だよねっ。倒れ方凄かったって私聞いてるしっ」

 そんな二人の近くでは仲の良い三人組――新橋エリカ、刑部真美、初音=クローリクの三人もまた授業中にいなくなった二人を案じている様子だった。

「まあ、鎧潟がすぐさま運んだって聞いてるから、そこは安心してるけど……鼎とか本当平気なのかしらね。去り際にすれ違ったけど、顔色すごい悪かったし」

「エリカは見てたのか。私はその時、いなかったからな……。鼎君も何事もなく無事だといいんだが……とりあえず救急車とかは無い様子なんだろ?」

「うんっ。特に、そういう事態にまではいってないみたいだよ。そういう騒ぎも起きてないみたいだしねっ」

「なら、そのうちに戻ってくっかねー」

「次の授業までに戻ってこられるといいけど……ああ、でも授業受けられるくらいなのか、わかんないわね」

「わうー、鼎さんへーきかな」

「……弦巻って鼎と仲良いんだっけ?」

「わう? うん、多分そこそこくらいだと思うしっ!」

 嬉しそうにそう零す日向に「ま、あんたは基本大抵の奴と仲良くなれそうだしね」と、軽く頭を撫でてやりながら優しい声音でエリカは話す。

 日向は嬉しそうに「わう、なでなでだー♪」と頭髪の一部を耳の様にぱたぱた揺らしていたが、不意にぴこんと頭髪の一部が天高くピンと立つ。

「わうっ。鎧潟君たちの声だしっ!」

「お、そなん?」

 秀樹が反応するのに続いて「ああ、よかった。戻ってきたのか」、「まずは一安心だねっ……え、でもなんで弦巻君わかるのかなっ……?」、「……」、「あれ、エリカ顔が赤いんだけどどうしたのっ……?」と声が続く中で、日向は首肯する。

「うん♪ 竜胆さんの声もするし! 今、踊り場から上がってきたとこ!」

「へー。…………いやいや、お前相変わらずその耳の良さ凄すぎだろう!? 聞こえんの!?」

 距離としてかなり離れてるし、なにより休み時間中の廊下なんてざわざわしているものだ。事実廊下の方からのざわめきがいつもの様に耳に入ってくる中で、日向はぴこぴこと髪の毛の一部を揺らしながら答えていた。なんで髪の毛の一部が動いているのかはわからないが。風か何かだろうか。

 それにしても耳の良さが良すぎてやばいと思う秀樹である。

「陽皐。言っとくけど、この子、ホント耳いいからね。かなり遠くまで聞こえてるっぽいのよ、本当に。そこらへん、獣並みだと思うわよ?」

 そう思っていると隣で頬を少し赤らめた新橋エリカがジト目で頬杖をつきながら日向を睥睨していた。その顔はどことなく恥じらいを浮かべている様子から、彼女がその聴覚の鋭さで気恥ずかしい体験をした素振りが滲んでいた。

 無論、気付いても指摘しない地雷回避の秀樹は「なるほど」とだけ頷いて、

「新橋が言うなら間違いないな」

「ホントよ。この子ときたら、ちょっと呟いた言葉も拾い上げるから、内心で呟くしかないんだもん……!」

「わうー? だって、エリカの声、好きなんだしっ♪ 一番好きな音色で美声なの!」

「アンタは一字一句漏らさず過ぎるのよ、バカわんこっ! しかも私相手だと特に精度高いし! それと評価高すぎて恥ずかしいんだけど、私の声好きすぎなんだってば!?」

「わうー?」

 こてんと小首を傾げる日向に、何か思い出しているのか顔を真っ赤にするエリカ。そんな様子を「青春だねー」とほほえましい気持ちで見守る秀樹に加えてエリカと雑談していた初音、真美が同調していた。

 唯一、よくわからない日向は「なーにー、エリカー?」と好きな女の子の服の裾をちょいちょい引っ張っていたのでエリカは「なんでもないから気にしないのっ」とツンとした言葉を吐いた後に、なでなでと日向の頭を空いている手で撫でてやっていた。

「なんつうか態度がツンツンな癖して、その実甘々な対応してるよな新橋は日向にだけ」

「ねー。……意外とかわいいもの好きだった――とかじゃないよねぇ、エリカだしっ」

「そうだな。別に可愛いものが特段好きってわけでもなく普通ってくらいだし、エリカは……。でも確実に弦巻君に対しての対応は最近、お姉さんじみてきてるしな……」

「……つまり弟恋愛(ブラコン)かな?」

「マジか。兄親愛(ブラコン)だけじゃなく、弟恋愛(ブラコン)まで……?」

「そこ? 何を奇天烈な事を想像してんのかしらねぇ……? しかも弦巻は弟じゃないし――いやまあ世話の焼ける弟みたいかなーって思ったりする時が最近多いけど――ああ、いやそうじゃないでしょ私ッ!」

 とにかく違うわっ! と顔を赤くして自身の豊満な胸元にむにゅむにゅと子犬のように甘えてくる日向をなでなでと甘えさせてやりながら、反論するエリカであった。三者揃って『でも……』という顔をしたのでエリカが更に顔を赤くしてどうにか反論しようとしたが。

 と、そこでざわっとした空気が発生する。それは教室の向こう、廊下の方からだった。それだけで理由がわかる。先程、弦巻が言っていたのだから間違いもあるまい。

「あ、鎧潟君来たし――わぅ――――?」

「お。来た来た。おーい、鎧潟うぇーいぃいい……!?」

「鎧潟来たんだ。じゃ、鼎とか平気だったのかしら……、…………え?」

「わ、わー……どういう事なのかなっ!?」

「私に聴かれても答えようがないぞ初音……」

 クラスへ戻ってきた――もとい、教室の部屋の前で立ち止まった二人を見て五人は固まった。

 なぜならそこには二人がいたからだ。

 二人が仲睦まじく――手を繋いで。

『なんだあの距離感……!?』

 クラス一同、心の声が合致した。なんであんな仲良さそうに手なんて繋いでいるのだろうか。予期せぬ光景に周囲が茫然と固まっていた。それは当然、なにせ男子の心情から言わせてもらえば――、

(男同士で手をつないで歩くなんて普通はありえねぇ! ガキじゃあるまいし!)

(繋ぐとしたって結託とか握手とかそういう場面でしかねぇよ!)

(ただ一緒に歩くだけで手は繋がない……具合が悪いとしたって繋ぐわきゃねぇ、肩を貸すのが精々だ……!)

 それが男子の心情。

 近しい友へ肩は貸せども、手つなぎは女子との憧憬。――である。故に、困惑する。

『なにがあった……!?』

 その上、なんで――、

『鎧潟が余裕綽々で、鼎が頬を赤らめてなんか若干いじらしいだと……!?』

 汗が止まらない。手を繋いでいるのも主導権が楔にありそうな様子に戦慄する。あの野郎何をしでかしやがった――そんな視線がビシバシ飛んでいくのだが、当の本人たちは気にした素振りもなく――いや、気付いていないそもそものままに会話を始めていた。

「お、おいもういいぞ。倒れたりしないから。皆見てるだろ、恥ずかしい。迷子の幼子じゃないんだから平気だ」

「悪いな、けど心配だからよ」

「それはありがたいものとして受け止めるが大丈夫だ、安堵しろ」

「そうか。じゃあ、また後でな鼎」

「……ああ、後でだからな。約束忘れるんじゃないぞ鎧潟」

「ははっ、わかってるっての。んな心配すんな」

「心配などしてないさ。お前が反故しないか疑ってるだけだ」

「しねぇよ。というかそんなぷんぷんしてても、かわいらしいだけだぞお前じゃ」

「だ、誰がかわいらしいだ! ふざけるなよ、馬鹿! 鎧潟の馬鹿っ」

 ぷんすか、と怒るそぶりを見せる竜胆だが、その表情にはどことなく安堵感のようなものがにじみ出ている様に見える。

 あの竜胆が、ある。

 普段から終始きりっとした印象が拭えぬ鼎竜胆が僅かばかりだが気を抜いている――気を許しているように周囲には見えてならない。

「ゴホン、たくオレを甘く見過ぎだ」

「はは、悪い悪い。謝るさ」

「ならよし。じゃ、オレはもう行くからな! それと何度も言うようだが――」

「わかってる。約束は守る男だぜ、俺は」

「ならいい」

 フッと貴公子然とした柔和な笑みを零し、そっと足を自分の教室へと向ける。

 丁度そこで楔は「鼎」と、優しく声をかけた。

「また明日な」

 その言葉に竜胆はきょとんとする。

 だが言わんとしている事を理解した様子で花の様に綺麗な笑みをたたえて、楔へと言葉を紡いでゆく。

「ああ、明日からよろしくな、鎧潟」

 ――嗚呼、なんとも違うものだ。

 体育の授業前までとは、少し違う。同級生へ向けても若干硬かった声が和らいで聞こえてくるのを楔は感じていた。距離を少しだけ、僅かにだけ詰められたのだと理解し、嬉しく思った。

 友達がまた一人増えた。その心地は何ともよいものだ。

 楔はその心地よさに耽るよう刹那瞼を閉じて、やがて開く。

 そうして教室へ足を踏み入れて、自分の席へと向かい、椅子に腰かけた。

 明日から、一つのことが変わってゆくという事へ嬉しさを想いながら、窓辺へと目を向ける。そしてそんな楔のことを――、

「おい、鎧潟に何があった?」、「なんかすっごく仲良かったねっ?」、「わうー、鼎さんと鎧潟君仲良くなってたし♪」、「そうね……手をつなぐ程なのは流石にちょっとびっくりしたけど」、「っていうかあの雰囲気はなんだったんだ……?」

 と、彼に近しい五人組は揃って首を傾げつつ、

「鎧潟君……やりますね、まさか僕より先に同姓と愛を育むなんて。羨ましいです」、「帯解が怖い事言ってるー!?」、「つっこむな、いつも通りだ」、「それより本当に何があったよ? あの鼎があんな顔してるの見た事ないぞ」、「友情が芽生えたとか?」、「保健室で?」、「保健室で?」、「女みたいに綺麗な鼎と?」、「おい嘘だろ……そこに行くのは佐良土だとばっかり!」、「俺もだ俺も。どうせ佐良土も遠からずって考えてたんだがなぁ……」、「…………どういう意味だお前ら? 俺が、なんだって?」、『……あ……』。

 当人知れずクラス内では、徐々に話題が高まりつつあるのだった。


        4


 白く巨大な建造物があった。純白を基調とした、シンプルな高層ビル。しかして只の建物ではない。悠然と佇む事こそが悪への抑止力として潜在し、表明する建物だ。

 即ち在り方そのものが正義の砦――神奈川県警察本部である。

 そんな警察本部、その一室である会議室内部にて、剣呑とした空気が漂っていた。

 それが何故か。集いた面々全員が理解するが故に、緊迫感は微かにも緩まないでいる。

「全員、集まったようだな」

 やがて、峻厳とした声が室内に響く。大きな声ではないが、淡々とした声音。しかして実によく通る。白いテーブルの上に肘を乗せ、指を組み、部下一同を睥睨する壮年の男性は、その瞳を厳しく細め、皓々と輝きを灯していた。

「どうかね、誕生(たんじょう)君」

「確認したところ、全員着席している様子です本部長」

「ならばよし。始めてくれたまえ」

 壮年の男の言葉に「了解しました」と痩せた頬の男がつぶさに返す。何とも眼光の鋭い細身の男性は静かに腰を上げると、睥睨一閃に部下を見据えた。熟練の警察官は然したる動揺を浮かべずにいるが、若手は短く消え入るような悲鳴を零す。

 男――誕生一麻(かずま)参事官にとっては見慣れた反応でしかない。面貌もとい眼光を畏怖されるのは、いつもの話とばかりに上官である鴨志田(かもしだ)(たくま)本部長の勅命を実行する。

 それはまさしく神奈川県警にとっての一大任務。

 同時に年に複数回必ず発生する大規模警護任務である。

 其は、即ち――、

「諸君に集まってもらったのは他でもない。今年も例年通りに六月二十四日から、横浜市内において芳城ヶ彩共同高等学院【大体育祭(スポーツフェスタ)】が開催される」

 その言葉の影響力は凄絶だった。

 熟達の警官達は一様に真剣な表情で額に汗を伝わらせ、若手の警官達はごくりとつばを飲み込む者もいれば、緊迫感の意味が判然とせず頭に疑問符を浮かべるものもいた。しかして、場を包む空気は一言で言ってしまって、目に見えた恐怖に慄く図式である。

「まずは手元の資料を下に説明に入る。清聴するように」

 そんな空気を更に深めんとばかり、誕生が言葉を続ける中、とある一角にて、小さく声が零れ始める。警察組織の会議という中でそれは些か配慮に欠けると言って致し方ないことではあったが、その男性はどうにもわからず小声で隣席の上官に対して質疑をぶつけていた。

「警部、警部」

 ひょろりとした痩せ姿。頼もしさというより頼りなさの方がビシビシ伝わってくる若手の警察官、栗林泗水は資料で口元を隠しながら視線を横に言葉を発していた。そんな部下を後目に頬杖ついて顔は向けず意識だけを割いて気だるげに、上司である三刀屋軍司は叱責する。

「んだ、話しかけんな怒られるだろうが」

「手短に済ませますから」

「そういって手短に済んだ話を俺は知らねぇ」

「いけずですよ、警部ぅ」

 その言葉にうへぇと嫌そうな顔を浮かべる軍司である。『警部ぅ』とか婦警に言われれば嬉しいが、何が悲しくて男の後輩にそんなねだり声を浴びせられなくてはならんのだ。辟易しつつも仕方ないと二回、三回頭をかく。

「ちっ。わかったよ。んでなんだ?」

「いや、一学校の体育祭でこの警察会議って大袈裟すぎやしません? 参事官に本部長がここまでするって神奈川県警じゃ普通なんすか?」

「……そういやお前、配属されてからまだ半年も経ってねぇんだったな」

「ええ。元は九州方面でして、警部の下についてからまだ数か月――あれ、数か月なのになんだろうこの気苦労……、なんか三年は扱使われてきた感覚っすね……」

「まあいい。お前の下積み時代に興味ねぇし。ま、言っちまえばアレだな。学校の体育祭で警察がやたらとやかく言うのは確かに大仰かもしれん。――が、【大体育祭】ともなりゃ話は別だ。ま、聞いてろ。丁度説明入るぞ」

 そう零して、三刀屋がすっと視線を誕生へと向ける。

 それに伴い、栗林も前を向き直ると、「さて」と誕生が一拍隙間を置いて、

「ここには四月に配属されたばかりで、芳城ヶ彩を経験していない警察官もいくらかはいるだろう。よって、説明を挟んでおこうと思う」

 コホン、と咳払いを一つ発して、

「芳城ヶ彩が行事を行うというのを甘く見るな」

 ギラリ、と眼光が鋭く細まった。言葉の強さか、眼力の威力か。果たしてどちらもか。どちらにせよ、若手や経験をしていない警官たちは一様に唾を飲み込み、誕生の迫力に気圧される。どういう事だ、という疑問符を置き去りに徐々に危機感というのが募りゆく。

「では、それが何故かについて解説をするが――、そもそも諸君らが知る通りにあそこの学院は日本国内においても有数の名門校にして――名家の子息子女が多く通っているという点が大きい。少し考えればわかる事だが、財界の大物、資産家、政治家、芸術家、スポーツ選手。のきなみ、あの学院には多くの著名人の子供が存在する。そんな学院が学校行事で一般に敷地を解放するというのが、どういう事か」

 そうなのだ、と話を清聴する警官一同は重々しく頷き返す。

 日本有数の学院における一般開放。学校行事。名家のご子息ご令嬢のいる学院で。ともなれば警察が危惧すべき事案はまさしく。

「そう、憂慮すべきはそうした学院への不埒な横暴に関する対応だ」

「皆もわかっているとは思うが――」

 そこで誕生の言葉を引き継ぐ様に鴨志田が峻厳な空気で声を発した。

「――最悪の事例は学校行事中に学院の生徒が何らかの危害に合う、という事だ。拉致誘拐、暴行、強姦致傷。言いたくはないが、言わぬわけにもいくまい。物事において最悪は常に潜在する。気の緩んだ瞬間に、暴虐は得てして起こされるもの。特に狼藉ものが狙うには、あの学院程に粒ぞろいな学び舎は、数えるほどしかないのだから」

 口を挟んで悪いね、と一言零し、再び鴨志田は誕生へ説明を促す。

「普段、芳城ヶ彩は和やかな空気を纏ってはいるが、その実学院SPにより常に厳戒態勢が敷かれているのに等しい。学内で何か起こればすぐに誰かが駆けつけられる様になっているほどだ。しかし学校行事の最中は話が違う。芳城ヶ彩の知名度も踏まえて、一般の来賓が加わることで学内の人数は超過する。如何に学院内部に優秀なSPが数多くいようが、どうしても隙間というものが出来てしまいかねない。そこで我々警察による協力も関わってくるというわけだ」

 それはどんな学校法人であれ起きてしまう許容限度。

 如何に見回り、人員を備えようと、必ず手が回らなくなるほどの人数というのは生まれるものだ。教員、生徒、それだけならば備えは適度に行えるだろうが、芳城ヶ彩程ともなれば、途端その程度では抑えきれない。

 必ず超過した人数が溢れるのは想像に難くないのだ。

「【大体育祭】開催期間中は、間違いなく敷地内の人数、訪問者数は三日間で合計500万人は超えるだろう。毎年平均でその程度の訪問者数が計測されている」

 淡々というが、それはレジャー施設級規模の人数である。青ざめた様子で栗林が口をぱくぱくして三刀屋へ視線を向けていたが、黙って聞いてろとばかりに顔を前に向けさせた。

「人が人気遊園地ばりに、ごった返す事は確定事項と考えろ。かといって身動きの取れないほどに、とは想像しなくていい。あの学院は敷地自体が広大な上に保護者以外の一般客が立ち入り禁止となる区画もあるため、人の整理は問題ない。その為、我々警官が成すべき事はやはり騒ぎが起きた場合の制止、また不審人物のマークなど治安維持に振り分けられる」

 要するに警備と治安維持に努めればいいわけっすね、と栗林は小声で頷くのに対して「ま、そういうこった」と端的に三刀屋は返答する。やる事は割と普段と変わらない。

 ただ大規模施設並みの範囲になったのと要人警護がたくさんあるみたいなものなだけで。

「……頭痛くなってきたっす警部」

「諦めろ。ガキが楽しく青春謳歌出来るよう取り計らうのが大人の役割だ」

「はは。自分の学生時代との差を実感しますよ」

「芳城と一般高校じゃ比べようがねぇもんな」

「ですねぇ」

 そうして二人は軽口を叩き終えると、再び意識を誕生参事官の言葉へと集中させた。

「正直なところ、これだけ名家のご子息ご令嬢が集う学院という時点で、拉致誘拐といった凶悪犯罪の標的となりやすい面がある。平時ならばまだしも、こうした行事中は警備にどうしても死角というものが出来やすい」

 その通りだと三刀屋も内心同意を示す。

 敷地面積、人数。如何に監視カメラなどの徹底防備をしようと、必ず死角となる地点は存在するだろう。早い話が目が足りないといってもいい。ゆえに、SPも警察もそこを埋めるべく細心の注意を払う必要がある。

「中でも、警察として注意するべきは大まかに分けて二種類だ。大規模な悪意と小規模な悪意。手元に資料を見てもらえればわかる通りに、リストアップされた犯罪組織があるな? それは昨今、国内で動きを感知した組織をリストアップしたものだ。末端から、大物まで。入国が確認された海外指定暴力団や巨大組織、及び国内指定暴力団といった団体だ」

 言われて胡乱げに三刀屋はリストを捲ってみた。同じく、栗林も確認し――表情を失った。無機質という意味で。現実逃避という形で。

「警部、多いっす。日本危ないっすよね、これ」

「言うな。俺も頭が痛いんだ」

 見なきゃ良かったかもしれん、と三刀屋が面倒くさそうに目じりを指で押さえた。

(見覚えのある組織もあれば、聞いたことのない組織もあるが……多いな、おい。公安ファイト、頑張れよ)

 こういうのは全部、公安の仕事である。注意するだけで、あまり関与したくないものだ。

 三刀屋の仕事はこういうデカ過ぎる存在ではなく、日頃跋扈する潜在恐怖なのだから。

「なお、一応の注意を怠らないように願いたいのは【耕灰(こうはい)高校】の学生達だ。正直、こうした未成年の私学を上げるのは一抹の想いがあるが――皆もその辺りは聞き覚えある事と思う」

 誕生参事官が少し難しそうな表情で、そう語ると室内にいる警察官一同が一様に難しそうな顔を浮かべた。当然、この反応には理由がある。

「……あそこっすよね?」

「そこしかねぇだろ」

「っすよねぇ~……」

 わかる、と栗林は脱力する。

(【耕灰高校】――単純に言やぁ、近隣きっての問題校だからな)

 とにかく悪い意味で目立つ学校であり、完全なまでの素行不良高校。芳城ヶ彩からはかなり離れた立地であり、芳城ヶ彩同様に名門学園【栄朔(えいさく)】や、芳城ヶ彩の周囲を囲む六校などが有名だが、このただの一般高校は悪質な意味で有名なのだ。

「思い出せる限りでも、アレか……近隣高校女生徒への集団強姦事件で三名逮捕だろ。銀行帰りの老人を殴打しての強盗傷害事件に、未成年誘拐で男子学生一人の立件と、女学生に対する内申点での脅迫で性行為強要した屑教師の逮捕……挙げだすとキリがねぇんだよな、あそこの高校」

「警部と一緒に一番初めに起きた事件とか僕も担当しましたからね、ホント。もう怖いっすよ、あの学校。学生全員不良オーラ半端ないですし。なんであそこまだ学校認可降りてるんすかってくらい壊滅的ですよ?」

「まあ、近所から絶対にかかわるなって言われてるくらいだからな、あそこは」

 そして、だからこそこの学校は対象に挙げられたのだろう。

「学校を風評で語るのは本来避けるべきところだが、生憎とこの学校の学生はあまりに問題を起こし過ぎている。何年か前になるが、芳城ヶ彩の文化祭で女生徒を男子生徒五名が追い回すという案件があってな。幸にも学園SPが捕縛して退去をさせているが、こうした婦女暴行未遂が起きんとも限らん」

「芳城ヶ彩は事件以降、耕廃学園に対して接触禁止の通達を出しているが、当然守らない学生というのもいるし、確認を取る事も難しい。不穏な行動を見れば退出を実行する事は可能だが」

 まあ敷地内へは入れるだろうよな、と軍司は頭をかいた。

「なんていうかよく廃校にならないっすね……」

「あんま、つきつめねぇ方がいいぞ。耕灰高校には黒い噂が絶えんからな。某国と繋がってるだの、丸暴と関係性があるだの、な」

「ひぇぇ……」

「ま。とにかく警戒対象ってだけだ今回は。あんま考えんな」

「わ、わかりましたっ」

 頷き返す栗林を余所に、前方では誕生が淡々と言葉を述べてゆく。そうして次に取り上げたのは、とある事件にまつわるものだった。

「加えて言えば、近隣で婦女暴行殺人犯が横行しているのは皆も耳にしているな?」

 誕生がそう告げると一同にピリッとした空気が伝搬した。

 婦女暴行殺人犯――それは最近、近隣で出没した殺人鬼である。

「狙われているのは十代から三十代辺り――比較的若い女性で、全員が茶髪である事から茶髪の女性を標的としている事が伺える。学園関係者ないし来客でも茶髪の女性は大勢いる事だろう。この犯人が数に乗じて紛れ込み、暴行行為を起こすとも限らん。頭に入れておくように」

「当然、諸君には全力を挙げて、早期逮捕を実現してほしいところだがね」

 鴨志田が眼光を鋭くして、補足する。

 それも当然。【大体育祭】に向けて警戒を滲ませるよりも、期間までの間に捕縛してしまう事の方が遥かに理に叶っているのだ。だが、現状数件の殺人事件が起きていながら、逮捕へまでは至れていない。

(ふむ……茶髪女性連続殴殺事件っつーと……)

「茶髪の女性殺しっすか。僕らは関わってないっすけど……」

「お前らは関わってるはずだよな、一網」

 軽く視線を背後へ向けてそう零せば、簡素に「おうとも」と野太い声が返ってきた。

 三刀屋と栗林。二人の後ろの席に剛胆に座る警察官が一人いる――名前は一網(いちあじ)豪三(ごうぞう)。熊の様な男と評価されるように、椅子が小さく見えるほどの巨漢である。そんな一網の隣にいるのは、彼の部下の君島(きみじま)英八(えいはち)という眼鏡を愛用する真面目そうな青年だ。

「実際、どうなんだ? 未だ逮捕出来てねぇみてぇだけど」

「誕生参事官の仰せの通りだわい。面目次第もねぇってやつだな。――まあ、茶髪狙いなのは間違いねぇなあ。正直、被害者は皆手酷い痕跡ときたもんで、暴行後の様子見ると手を合わせざるえんわい」

「ったく、【電気蛭】を捕まえた後にこれとか物騒な世の中だぜ」

「であるな。まったく。――おお、そう言えば【電気蛭】を逮捕した際には【メイド様】が貢献成されたと聞いたが、真か?」

「ああ、それな。俺も又聞きなんだが、まあ違いないらしい。ちくしょうめ、【メイド様】がいるんなら見たかったもんだぜ」

「あの、警部? 【メイド様】ってなんすか?」

「おおん? お前はまだ知らなかったか?」

「そう崇拝されるご令嬢ですよ」

 カチャ、と眼鏡を押し上げて三刀屋の代わりに君島がそこで声を発した。

「警察内部では【護身刀】と謳われる鼎一族がおられますが、それに似たものですね。ごく最近ではありますが現場に居合わせて犯人を封殺する【メイド様】と呼ばれる、犯罪抑止力。どこかで犯罪が起きた折に、その犯罪を瞬殺する完璧超人。【メイドの頂点】、【メイドの鏡】、【椅子になりたいですお姉さま】、【徳永の切り札】、【何しても無傷なんだけどあのメイド】、【バイクならいつでもご自由に】、【奥さんになって甘えたい完璧超人№1】、【神奈川県警美女ランキングトップ】、【というか結婚してください】、【異次元ポケット】、【美麗なりし絶世の従女(パーフェクト・レディ)】、【多分神様か何か】、【家政婦が来た】etc.……数多の異名で尊敬される完全無敵のメイド。そのお方を呼び称すものですね」

「いくつか異名どころか願望混じってますけど!?」

「美人なんだな、これが。絶世の美女ってレベルで。後五年そこら歳をくってりゃ俺もアプローチかけたんだがなぁ。ラブホ一緒にどうだいって」

「警部は節操なさすぎるの止しましょうねぇ!?」

「じゃが、ワシも見た事はあるが相当の別嬪だわい。ありゃ人気も博すだろうて。実際、所内にファンクラブあるしの。【KFC(カレン・ファン・クラブ)】とか聞き覚えないか?」

「ありますけど、ケント・フライド・チキンの事かなとか思ってたっすよ、あれ!?」

「ああ、ちなみに本部は日本にあるが海外諸国にもあるそうですよ?」

「最早一大組織!」

「まあ、あいつらは最早統率された兵士ばりにメイド様が事件に関わった際に手助けする連中に化してるけどな」

「警察内部掌握!?」

 そして「なんなんすか、メイド様ってぇー!?」という驚天動地の小さな叫びで困惑する栗林を余所に、三刀屋は肘をテーブルにつきながら、後ろの巨漢を睥睨し、

「んで、だ。話がそれたが、結局どうなんだ茶髪殺人の方は。進展ねぇのかい?」

「この事件は一網警部が受け持ちである以上、三刀屋警部にお話しする事は――」

「いや、構わんだろ。情報共有くれぇはな三刀屋相手だし。【大体育祭】が近づいてんだし、それっぽい目星の情報くらいは三刀屋にも知っておいてもらった方がええ」

「……そういうことでしたら」

 チャキ、と眼鏡の位置を直しながら君島は了承すると「まあ、情報言うても、そんなたいそうな情報は出てきちゃおらんが――犯人像は少し見えてきたわい」

「マジですか?」

「確かに信じられねぇな。現状、茶髪の女に対して殺意があるって事くらいだろ? んで、足取りは見えてこねぇと」

「いや、中々興味深い事実が掴めてきてな」

 というと? と、疑惑を向ける二人に対して一網は端的に一言発した。

「――犯人はガキだ。未成年。大体、高校生くれぇとみちょる」

「……ガキ?」

 俄かには信じがたい、とばかりに眉を潜めて三刀屋は問いかける。

「おうともさ。周辺の器物損壊状態から当初は相当の怪力持った大男って印象が浮かんだが、検証してみりゃこれが違った。靴のサイズから少なくても成人男性というには小さく、破損した外壁の箇所を探ってみりゃ痕跡の高さと拳のサイズから少年のものと推定されとる。また被害者を徹底的に殴打して嬲る殺し方やら、やたら周辺に及ぶ破損から力の誇示っつー可能性も見受けられた。更に付け加えれば、第一の事件から第二、第三と続くに際して、殺し方に残虐性が強うなっとる事から歯止めが徐々に外れている。総合してみるに、精神的に熟してない、癇癪のままに行動するガキの振る舞いって線が濃厚だわい。それも、段々と殺人に対して慣れてくる様子も見受けられとる」

 なるほど――そう、二人は思いながらも、一つだけ信じられないような言葉があったため、そこに意識が割かれていたと言っていいだろう。

「――待て。外壁に殴った後で壊れてた?」

「おう、三刀屋はそこ知らなかったか。こっちじゃ有名だが、まあテレビでも取沙汰されてねぇからな。テレビじゃあくまで、素手で殺害されたって程度に留まってるからのう。そうだ、一連の事件は殴っただけと見るのが間違いないわい、殺害も器物破損もの。少なくても、なにがしか凶器と呼べるようなもんで殺害した気配はなかった」

「つまり犯人は殺しも壊しも拳でって事っすか?」

「そんとおりよ。信じられんくれぇの怪力小僧なんで、署内じゃ【茶髪殺し(ブラウン・キラー)】だの【悪来(あくらい)】だの言われとるぞ、もう」

「【悪来】ねぇ……」

(確か、殷の最後の帝王、紂王に仕えたっつー剛力者だったか。他者を貶め、傷つける事を得意とする様から『悪しき来』と諸侯に嫌われた悪漢、ね)

「けど、俄かには信じがたいっすね本当。というか壁とか殴って壊せるとかもう……」

 ぶるり、と青ざめた様子で栗林が泣き言を零していた。

 わからないでもない。そりゃあ、コンクリートの壁を殴って蹴って壊せる子供なぞ、危なっかしいにも程がある。まして、力を誇示するように振る舞うというのなら、それは何時かきっと自制が効かなくなるだろう。――否、もう効いていないのだ。

 そこまで考えてふと気づく。

「ふむ、しかしそうなりゃ一つ気になるな。おい、一網。その【悪来】は周辺の器物も殴って壊したとみてるんだよな、お前らは」

「ああ、そうだ」

「ってなるとDNAはどうしたよ? 壁なんてもん殴ってりゃあ、確実に犯人の皮膚や血液が付着してるだろうが。ないし、被害者の衣類にだってありえるはずだろ?」

「ああー……それな」

 そこで困った様に一網は頬をかき、そして耳を疑うような発言を口にした。

「無かった」

「無かったあ?」

「おうよ。少なくともコンクリートやら壁面にゃあな。被害者の皮膚組織に少しはついとる様子は見受けられると鑑識が言うんじゃが、なにぶん殴殺の影響が強すぎてな。言いたくないがグチャグチャな部分もある。あれじゃあ識別は困難だわい。掴み取られた衣類も鑑識がしとるが指紋の測定も難しくてな」

「いやいや、待て一網。コンクリにもねぇってのは――」

「おう。一言で言えば、コンクリで傷つかないくれぇの肌ってこったな」

「……怪物かい」

 思わず渋面を浮かべていた。

 なるほど、それは【悪来】だのと言いたくもなるのだろう。コンクリートなんていう殴れば確実に肌に擦り傷程度は確実に及ぼすだろう物質を殴って無傷ともなれば常軌を逸している。

 まず間違いなく普通の人間でない。

「だが、そんだけの奴ってなると絞られるな。武道家崩れか何かか?」

「どうじゃろうなあ。言うて、最近の不良の小童どもが舐められんことくれぇは、三刀屋。お前さんとて知ってるだろが?」

「あー、それ言われちまうと難しいな……」

「え、そうなんすか警部……?」

「ああ。今度不良の補導の連れてってやるよ栗林。すごいぞー最近の不良はな。昔も埒外な節はあったが最近も血気盛んでよ……」

「白い眼しないでください、遠い目止めてくださいよぉ……!」

「フフフ。なぁに、栗林。お前さんもいずれ何もかも諦められるぞぉ。一大勢力【死塵牙破魔】を築く不良の首魁【銀鬼(ぎんおに)】。同じく一大不良派閥【デザートイーグル】を従える【ナイトグラス】。最後に【江の島ヤンキース】を率いるカリスマ【鎖龍(さりゅう)】……。御大層な名前つけおってと思うじゃろ? ……結構、名前負けしとらんのよなぁ……」

「ガキの癖して一丁前に、どっから集めたあの人数って規模だよなぁ……相手すんの骨折れるんだよなぁ本当に……」

「いやいや、不良程度でそんな気落ちしてたら警察やってられませんって警部たち……」

 何をそんなに脱力しているのか栗林はとんとわからなかった。

 たかが不良である。そりゃあ喧嘩馴れしてるし、怖い相手というのはわかるがあくまで不良に過ぎず、自分たちは警察官である以上は、有利な立ち位置にあると言っていいだろうに。

 そこに三刀屋は異を唱える。

「いいや、違うぞ。ガキ風情に一々臆してるわけじゃあない」

「おうよ。所詮は子供。どんなことがあろうが子供に過ぎん」

「はぁ? じゃあ、何がそんなに――」

「「仕事が嵩むじゃん」」

「まじめに職務熟しましょうよ、ねえ!?」

 会議中だというのに思わず大声出しそうになるくらい呆れる栗林である。一瞬、前方より鋭い眼光がギランと一瞥したが四人揃って醸し出す真面目に聞いてますオーラにて返礼すれば、嘆息交じりに誕生参事官は再び、口を開き留意事項を述べてゆく。

 駄弁り四人がいようが会議進行優先だった。

 ふぅ、と内心四人は息を吐き、

「――まあ、なんにせよ言える事は一つだわい。最近の神奈川の事件は性質が悪い」

「性質、か……」

 三刀屋が問いかけると、ふっと真剣な表情を浮かべて、一網は率直に返答する。

「お前もわかっとるじゃろ、三刀屋。ワシらが、取り締まるには、あんまりにも扱いきれんような事件が増えてきとる」

「……ちっ、否定できねぇな」

 その言葉に三刀屋は参った様に頷いた。

 その通り。――その通り過ぎて笑いも起こらない。笑えぬ話だ。なにせ、マクシミリアーノ。【電気蛭】と呼ばれた男の逃走劇でも、実感済みだ。当人の戦闘力も去ることながら、問題は別にもある。それは、三刀屋が逃走犯を追いかけている最中に、夜間起きたあの現象。

「お前らが、その蠢く影みてぇのに阻まれたってようによ。ワシも影じゃねぇが、最近はそういう不可思議なもんに接触した経験がある。そして、それが公にならず処理された不思議な不思議なお話もおまけつきだ」

 わかるだろ? と、一網は神妙な表情で問いを促す。

「明らかに、一般警察の手に負えない事件やら、そもそもワシらが関知するより先に異常な事件が発生しているって可能性があるわけだ。うちにゃあ、そういう事件と遭遇した可能性がある警察関係者。多いぜ?」

「難儀な話だ」

 頬杖ついて、思わずと嘆息を唸らせた。

 従来の犯罪とて肩に背負うものが大きいというのに、その上そんな摩訶不思議な事件が――もといそんな異常な事件が表に存在を匂わせる事態そのものが三刀屋から言わせれば、厄介な話でしかない。

(超常の存在は知っちゃいるが、それでもこんな鉢合わせの率が増えるとか、勘弁な……)

 ふぅ、とため息ばかりが零れ出る。警察の仕事って大変だなあ、などと他人行儀な感想で馬鹿やってないと気疲れしそうだ。

「それに知ってるか、三刀屋?」

「今度は何をだ?」

「ここ最近な――まあ言うて一ヶ月そこらは遡るんだが、近隣でヒーローが出るらしいぞ?」

「ヒーロー――ああ、アレか。【インビクタス】っつー騎士装束の野郎だか何だか」

「そう、それな。後は【ワンダフル】だとか、【ヴェネルディ】だとか――ああ、あと女で【バニラ・スカイ】ってのも報告に上がってんな」

「ヒーロー多いね。時代はヒーロー全盛期か?」

 何が起きているのだか、と呆れ交じりに三刀屋は背もたれに寄りかかる。これが巷の噂話程度で終われば都市伝説扱いだったのだが、生憎と目撃証言と情報量から、こうした連中が存在しているという事実自体は否定する事は出来ない具合だ。

「馬鹿言うなって言えない辺りに時代を感じるもんだわい。おい、君島、これ関連の報告間違ってねぇんだよな散々訊くが」

「はい、一網警部。全て私と部下が度々の事件で聞き込み途中に浮上したネームです。当初は信じられず、後にコスプレか何かかと思っていましたが、現在は暴力事件の停止、強姦未遂事件での被害者救出、逃げた飼い猫の捜査、道に迷った某警部の迷子誘導などなど。確実に存在し、またある程度の事件解決能力を有していると判断せざる得ませんね」

「って事だ」

「いや、あのさらっと警察もお世話になってるんですけど……」

「突っ込むな、栗林。どうせ国木田だ」

 三刀屋が簡素に呟くと室内のどこかからか「ばくしゅっ」という豪快なくしゃみが聞こえてきた――それはともかく。

「しかしまあ、俺も部下の報告で耳にしちゃいたが……そのヒーロー連中、なかなかどうして活躍してるみたいじゃないか」

「ありがたい話だ。警察の仕事が減るからな」

 そんな警部二人の怠惰に君島は嘆息で答えた。

「警部。事件解決は警察の仕事です。ヒーロー連中は今のところ問題を起こしてはいませんが、それでも私人連中でしょうし、過度の期待は止めておくべきかと思います。私人の暴力行為による事件解決は許容しかねます」

「はは、硬いな君島は」

 一網はくつくつと笑みを漏らす。

「だがまあ、事件を起こさない。普通の事件を暴力的解決しない段階でならワシは応援するってもんだぜ。仕事減るからなぁ。最近多くて多くて」

「ああ、本当に。仕事減るからなあ」

「刑事二人揃ってこれですか……」

 君島が眼鏡を抑えて天を仰いだ。君島さん大変っすなあ、と密かに共感する栗林である。

「まあ、そう難儀するな君島。こないだの事件なんて途中で止められて良かっただろ?」

「こないだ……ああ、それは確かに」

「こないだ? なんかあったんですか?」

「おお。まあ、有体に言って路上生活者が金品奪い取られようとしてたんだ。その上、そいつが刃物持って脅迫した上に暴力に及んだっつー事件でな」

「ホームレス狩りってやつですか。古い事すんなあ」

 栗林は辟易する。

 何が楽しくてあんなことするんだか、と肩を竦めた。

 と、そこで隣席の三刀屋が神妙な面持ちである事に栗林は気づく。

「ホームレス狩り、か……」

「どうかしたんすか、警部?」

「ああ、いや、なにすまん。過去の事件を思い出しちまってな」

「過去の事件、すか? なんか大事件でも?」

「そうとも言えるが……、ありゃただただ救えない後味の悪い事件だったからな」

 言いつつ三刀屋は、こめかみを人差し指でがりがりと掻いた。難しい顔をしている。警察稼業ともなれば、そういったやりきれない事件は数ある事は栗林も理解しているが、それでもこの表情を見るに重い事件だったのだろう。

「警部はご存じなのですか?」

「ん? ワシか? ……ああ、知ってる。まあ、昔の話だが――河川敷でホームレス四人撲殺事件だよ。俗説に【不運の招き猫連続事件】なんても言われちゃいるが」

「一網。そっちの言い方は好きじゃねぇぞ」

 そこでギラリ、と三刀屋の眼光が鋭く光った。

 一網は「悪い。ワシだってそうだが……如何せん、それで流布しちまったかんな」そう申し訳なさそうに零すが、それでも不快だったのか三刀屋は目じりに皺を寄せながら苛立ちをみせていた。

「参った話だぜ、んとに。誰があんな子供と事件を括りつけたんだか」

「えっと、ただのホームレス狩り事件とは違うんすか?」

 栗林がそう尋ねるが「ケッ」と三刀屋は言を拒否する姿勢を見せる。

 これは言わなそうだ、と判断して思わず頬をかきつつ、一応と一網の方へ視線を寄越すと難儀そうに唸りつつも、口を開く。

「何とも言い辛いな。三刀屋がそれならワシが言うのもアレだが……、まあ、ありゃ酷い事件だった。恨みつらみもねぇ面識もねぇ――ただ噂に河川敷近くの公園にホームレスが住んでいた。クソガキども曰く『ゴミ掃除のつもりだった』だとよ。ただそれだけで殴って殺して、金を奪った。理不尽な話だろ」

「……公園での住居など問題はありますが、やりきれませんね」

「ホームレスをゴミ扱いで殺したって事なんですか……」

 うへぁ、と栗林が辟易した様子で溜息づく。

 ホームレス狩り、というものは昔からあるが、未だにそんな思考回路を抱く人種がいるとは何とも言えず複雑になるものだ。

「では、一網警部。【不運の招き猫】、というのは?」

「……うーむ、テメェで口にしておいてアレだが、言えねぇな、悪い」

「ホントだぜ、一網。みだりにそれを絡めるな。関係ねぇんだから。風評被害なだけだろ」

「ま、そんな具合だと思ってくれ」

 肩を竦める一網の反応に君島はなるほど、と追及を止めた。

「えと、どういう……」

 それでもわからぬ様子の栗林に「要するに、関係ない人物がやり玉に挙げられてしまうワードという事ですよ。だから警部たちは仰らない」と諫言を零す。

 栗林は「なるほどっす」と一応の納得を示した。

 詳しく説明しようとしないのは、その案件が本来無関係の子供に対して悪評がささやかれてしまうという懸念からなのだろう。ならば、栗林もそれ以上追及するのは刑事としてあるまじき行為として口を紡ぐ。

 と、そこで不意に河川敷、というキーワードで思い出す事があった。

「そういえば河川敷って言えば、河原での話なんすけど警部たち知ってます? なんか、最近溺れてる女の子がいたそうなんですけど、助けたその子に――」

「栗林。口閉じろ」

「――へ?」

 そこで何やら頭上から影がかかっている事に気づく。

 そして鋭い眼光が頭上で耀いている気配を如実に感じていた。栗林は顔色の悪い汗を流す三刀屋の様子に口元をひくつかせつつ――視線を上に上げた。

 するとそこには、人を視線で殺せそうな参事官の姿があった。

「た、誕生参事官……」

「三刀屋。栗林。一網。君島」

 ――随分と会話を弾ませているじゃあないか? と、怖気立つ声がした。

 そのあとは言うまでもなく。

 会議中の私語で叱責を食らい、始末書の提出も要求されるという大人としての減点を食らったのは当然の出来事だった。


        5


「いや、参った。しぼられちまったぜ、ガキかよ」

 会議は終了し、通常の職務へ戻り、今は一先ずひと段落という形で休息を取っている最中。

 一人、三刀屋軍司は庁舎の屋上で煙草を吹かしながら、晴天の空を眺めていた。

 ここ最近の事件の数々。それもあずかり知れぬ事件やら、大きな事件。加えて来る可能性のある難儀な可能性含めて――空を茫然と見ていなければやってられない気分になる。

 風でぱらぱら捲れる内部資料――これに関して置き忘れや紛失をしないよう心掛けながら、指でぺらりと捲って目を通す。

「非合法宗教法人【堕落の紐(だらくのひも)】、同じく宗教法人【無神人命教(むしんじんめいきょう)】、中国犯罪集団【終道連・岱山(しゅうどうれん・たいざん)】、国際盗撮連盟【裸眼(らがん)】、アメリカ・ギャング【アコナイト】――大分下がって一応の注意でアメリカ・ギャング――」

 ふへぇ、と空を仰いだ。

「多い。多すぎる。いいだろ、別にそんな日本に集約せんでも」

 頭を抱えたくなる気分だった。

 どれも世界的に有名な問題組織ばっかりだったからである。

 何が問題かと言われれば、この組織が日本国内に踏み入る事自体が問題だが――、本来一高校の学校行事で、こんな大規模な事に頭を悩まさなくてもいいはずなのだ。しかし、芳城ヶ彩はあまりにも拉致誘拐といった対象になった際に危険が大きい学院だ。あれだけ各界の大物のご子息ご令嬢がいるのだから仕方ないと言えばそれまでだが。

「目下、そんな来るかわからん大組織よか、潜在してる恐怖を駆逐しねぇとだよな、と」

 青空を仰ぎ見ながら一人ごちる。

 そう――犯罪組織。それは確かに問題なのだろう。だがしかし、三刀屋の意識は別にある。それは日常に潜む犯罪者。【電気蛭】と呼ばれた男もそうだが、現状注視すべきは【悪来】とか署内で呼ばれる茶髪少女を殺す犯罪者や、そうした今目に見えている脅威だ。

 その上、【電気蛭】を追っていた折に干渉してきた異常な影の問題もある。

「アレもどうすっかねぇ。副総監みたく力があるでもねぇし」

 自分の手のひらを見ながら、自嘲気味に苦笑を漏らす。

 餓鬼か、俺は、と。多感な時期でもあるまいに、自らが超常的な能力を夢見た事に対して阿呆らしいと笑みが零れた。自分が出来る事などたかが知れている。

 一警官とはそういうものだ。

 力という力はなく、だが誰かに頼られたときに全力の誠意で答え、頼られずとも真摯に職務を熟すもの。そこに全能はなく、無力さを痛感するばかり――もどかしくもある、だが、それでいいという自負もある。

 二律背反など百も承知だよな、と三刀屋は自嘲する様に口元をゆるませて、いつものように煙草の箱を取り出した。銘柄にこだわりはなく、あればいい。その程度の関係だ。

 ライターを手に取り、自然な流れで着火しようとした――その時である。

「――悪いのだが、煙草。吸わないでくれるか?」

 ヒュッと。耳に綺麗な声が滑り込んできた。

 驚きに目を見張り、煙草を持とうとしていた手を制止させ周囲を見渡す――と、こちらへ闊歩する一人の女性の姿が目に飛び込んでくる。

「苦手でね。煙も好ましくないんだ」

「……あんたは?」

 見覚えのない女だった。目の覚めるような美人であり、覇気のある女傑のごとき佇まいをした美女だった。

(警官、だよな。制服着てるし)

 ただまあ何というべきか。婦警というには気迫が在り過ぎる気がした。

 モデル体型で凹凸の激しい体つきなのが、服の上からでも判然としている。正直、警察の衣装で、胸元がこんなに突っ張っている様を三刀屋はそうそう見た事がない。だがだからといって警官の衣装が似合っていないかといえば、そんなこともない。むしろ似合いすぎているくらいというところか。それはすなわち――、

(新米じゃねぇな。結構長い。貫禄がある。というかこの女、警官ってか軍人って感じの雰囲気があるな、おい)

 自衛隊上がりかもしれない、という線を残しつつ三刀屋は彼女の視線が自分の手にある煙草に向いている事に気づいて、そっと箱に戻した。

「おおっと、悪いな。先客がいるたぁ思わなかったんだ。許してくれや」

「いや、私こそ感謝しよう。すぐ言を受け入れてくれた辺り、貴君は度量が深いな」

「んな大した程じゃねぇよ。煙草嫌いがいる奴の傍で吸いはしねぇ。それが喫煙者のマナーってやつだからな」

「そうか。最近は喫煙も大層厳しい様子だが」

「まぁな。害しかねぇし。一服デメリットのみだ。好く事自体間違いだろうよ。長生きしたい奴にはおすすめしねぇな」

「ふむ……」

 三刀屋が箱を軽く振りながら、そうシニカルに零すと女性は僅かに悲しげな視線を寄越せども、それ以上は口を開く事はなく、言葉を噤む。

「……まあいい。姶良(あいら)澪奈(れいな)だ」

「うん? おお、名前か。へー、美人な名前してやがらあ」

「そうか、それはありがとう。貴君は?」

「三刀屋軍司だ。役職は警部だが――あんたは? 上か下か」

「ふ、なんというか粗雑な態度だな。上だったらどうする気なんだ?」

「まあ、屋上って事で大目にみてほしいもんですな」

「ならばそうしよう。――とすると話さない方が都合がよい、か」

「……なるほど、それもそうだ」

 ふはっ、と三刀屋は可笑しそうに破顔する。

 女性に年齢を尋ねるのは禁句である以上は見聞に頼るしかないが、年のころはどれほどのものかと僅かに悩む。

(おおよそ二十代か、三十代に見えんだよなぁ……四十はねぇし。まあ、そこらへんだろう。にしても若いな。熟女よか若いが、かといって小娘って年齢でもねぇし。女にとっての最盛期って辺りか。そそるねぇ)

「……ふむ、貴君はあれだな。女性に対しての無遠慮な視線が中々どうして隠さないな? 普通隠すものではないか?」

「そりゃ悪かった。あんたがいい女なんで興奮しただけだ。許さなくていいぞ」

「中々欲求に正直な姿勢だな、評価しよう」

「おお、何点だい?」

「減点3」

「はは、そりゃあ順当な評価だ。安心したぜ。加点されてたらなんだこの女ってなったな」

「くす、確かに」

「それで――あんたみてぇな美女が屋上でなにしてたんだい?」

「なに、ということはない。単に風に吹かれる、というので戯れていた程度だ」

「なるほど。暇人か」

「ふふ、失礼だな。こう見えて多忙な職務なんだぞ?」

「知ってるさ。警察だからな」

「それもそうか」

 それは他愛ないじゃれあいのような会話だった。こんな人目もない屋上で、咽かに時を過ごす以上は、そこに気負いした言葉は必要ない。

「それで、貴君は何を難しい顔をしていたんだ?」

「難しい顔か。してたか?」

「ああ。紙の束――資料を見た後は気だるげだったくせして、気付いたら難儀な顔をしていたからな。気にかからないと言えばうそになる」

「顔に出てたかい。恥ずかしいねぇ」

「恥ずかしがる必要などないと思うが?」

「男が女に見せていい顔は何時でも頼って平気と思わせる顔ってのが俺のポリシーでね」

「ほう、中々高い志だな」

「ああ、今作ったにしては上出来だ」

「私が一瞬抱いた感心を貴君は今すぐ返上すべきだな」

 可笑しそうに美女は微笑む。その優美な在り様に三刀屋は内心賞賛を送っていた。あふれ出る余裕というものか。母性とは違った大人の女としての余裕が見て取れる。

 三刀屋は少し考えた後に、正直に口を開く事とした。

「まぁ、そんな大仰な話じゃねぇんだが……この資料な。まー、めんどくせぇ連中が乗ってるんだわ。それが関係してくるかどうかはわからんが――、それでも、もしそんな未来が来たとするなら俺が出来る事なんざ小せぇな、と自嘲してたとこだ」

「力不足でも感じているのか?」

「力不足なんて話が出たらとっく昔からの事だよ。俺に出来る事なんざたかが知れてる。普通の事件だって凡夫なりに気張らにゃいかんのだからな」

「なんだそんなことか」

「ああ、そんな事だ。誰だって行き当たる壁で、誰もが折り合いつける悩みだよ」

「人として抱く無力感みたいなものか」

「全くだ。笑えるだろう? そう、笑い話で終わればいいんだけどな。最近はそうもいかなくて悩ましいんだこいつがまた」

「というと?」

 そう返されて、三刀屋はどういったものかと一瞬悩んだ。

 だが、この女性相手に茶を濁すにもどうかと思い、ありのままに口を開く。

「あんたは――最近、妙な事件に行き会った事とかあるか?」

「妙な事件?」

「ああ。そうさな……超常的な力が働いてる事件――なんつーと、何言ってんだこいつって思われるか? まあいい。そんなんだ」

「それは独特な体験だな。貴君は何かあったのか?」

「は、まあな。笑えん話だが、蠢く影にやられてねぇこの前なんかよ。それ以前にも以降にも少しばかり怪しいもんと接触しちまってな。有体に言えば、お手上げ案件よ」

「世に言う、異常な力が働いているかもしれないという事か。なるほど、それは力があればと思うも必定か。一般には信じがたい話だな」

「まったくだ」

「だが貴君はあると考えているわけだ」

「まぁな。ただ、そういう力が仮にあるんだとすりゃあ、それでいいんだよ。否定はしねぇ」

「ほう?」

「ある以上は仕方ないだろうさ。存在しないなんて願ったとしても、あるんならあるだけだ。問題なのは、それが悪用されている可能性ってやつでな」

 指先で資料を胡乱に弄りつつ、三刀屋は神妙な表情で言葉を続けた。

「俺が嫌なのはよ。そういう超常的な力で誰かが犠牲になってる可能性なんだよ。例えば仮に人が殺される事件があったとする。それが刃物や、鈍器。または密室殺人なんて洒落込んだ結果だとしても――そいつならまだいいさ。人の――法律の元で裁ける悪だからな。暴いてしまえばそれで決着はつく。どんな形であれな」

「道理だな」

「ああ、それが物事の道理だ。――だが、超常的な力なんてもんが絡んだらそれは瓦解するだろ? どうやって捕まえる。どうやって罪を立証する。どうやって裁けばいい。要するに法の枠組みに捉えきれん存在だ。それがあるってのが、俺は一番やるせねぇよ」

「――なるほど。貴君はそうした超常的な力の悪用を恐れているわけか」

「まぁな。例えば炎を操るなんて能力が世の中にありゃそれだけで人なんざいくらでも殺害出来るだろ? 放火でもいい、人を焼き殺すでもいい、屋内を火事場にして酸素を焼き尽くすでもいい。火災なんて起こしたらそれこそ大勢が亡くなる。今のご時世にそういう漫画もびっくりな人間がいたら、一気に人知れず人が死ぬなんて可能性も高いんだからな」

「……」

「はは、なんて言ってもオカルトだよな。悪い、忘れてやってくれ」

「いや、忘れないさ。参考になった」

「おん?」

「当然だろう? 貴君がそれだけ危惧しているのだから――貴君は本当に知っているのだろう? そうした異常の存在が跋扈しているという事を。そしてそうした脅威が潜在しており、顕正した際には災禍が招かれるという実態を」

「――」

 喉の奥がくっと詰まった。

 同時に脳裏には焼き付いた記憶が絶叫する。

 伸ばされた手。

 弾ける血飛沫。

 紡がれなかった最後の言葉。

「――ああ」

 相貌に疲労が滲んでいた。目元に皺がより、陰鬱と懺悔のような色が滲む。三刀屋本人もそれには気づいていた。気づいていたが――隠せそうにもない。

「知っている。常識じゃ図れなかった――異形の殺人を成せる悪鬼をな」

 その言葉に連なる様に、三刀屋は服のポケットから煙草の箱を取り出していた。微かに震える腕で箱のパッケージを睥睨し、ラベルを胡乱なさまで見つめている。

 空虚だった。三刀屋軍司という男にしてはあまりに儚い有様だった。

「あれは――」

 そう、思わず口をつきそうになった時である。

「――姶良室長。やはりここにいたかね」

 不意に、響いた聞き覚えのある声にハッと、忘我の心地から引き戻されて、視界に意識を戻すと、そこには一人の男性が近づいてくるさまが目に映る。

「三刀屋。お前も一緒だったか、中々珍しいツーショットだな」

「鴨志田さん――あ、や、鴨志田本部長」

「はは、構わんよ。お前と私の間柄だ。こんな屋上でくらい鴨志田さんで構わんがな」

「流石にそういうわけには、」

「ふふ、生真面目なとこは昔と変わらんか。安心した。で、姶良室長とは――偶然といったところか? まあ、揃って屋上好きの性格だからな。馬鹿と煙はなんとやらか」

「本部長、それですと私が馬鹿扱いになるのですが?」

「ナチュラルに俺を煙に宛がうな。まあ煙草のせいだろうが」

「はっは、すまんな口が過ぎた。――まあいい。姶良君、職務の説明で聞きたいことが出来てね。一旦、報告にきてくれるか?」

「構いませんよ、鴨志田本部長」

「そうか、すまんな。三刀屋、美人と屋上で二人きりと楽しんでいたところ悪いが、姶良君は借りていくぞ」

「はぁ。まあ、どうぞとしか」

 別段、部下でも恋人でもなく、たまたま居合わせただけの間柄。

 美女と一緒という状況が無くなるのは寂しいが――それはともかくという程度である。警官として一礼を以て二人を見送る事とした。

「では、行こうか姶良室長」

「ハ、鴨志田本部長。三刀屋警部、ではまたな。次に会う事を楽しみにしているとしよう」

「自分も楽しみにしております」

 お世辞――ではなく、美女好きなので十割事実であるのは内緒だ。

 そうして二人の背中を見送る三刀屋。

 只一つだけ、姶良室長の背中に意識を取られていた。警察の制服の上に羽織った軍服のような特徴的なコート。その背中に記された【PSRT】のアルファベット四文字により施されたエンブレム。見覚えのない羅列だった。だが、誇り高いその後ろ姿は否応なく網膜に焼きつくようで――自然、その背中を最後の最後まで三刀屋は見送る。

「……まさか鴨志田本部長が来るとは思わんかったな」

 ふぅ、と息を長く吐き出す。

 しかし、と三刀屋は驚きを覚えていた。

「室長、か。高い地位ってのはまあ想像ついてたからそりゃあいいが、鴨志田さんとも面識強いみてぇだし……あの羽織っていたコートは結局なんだったんだかね?」

 三刀屋が鴨志田と面識がある理由は単純だ。

 家が家だから。理由としてはわかりやすい事だろう。

 三刀屋家は鼎に連なる家柄。言わば警察の名家の一角。そのため、警察の上層部とそれなりに面識があるため、鴨志田のような大物とも幼少期から関わっていたというだけのこと。

 だが、姶良という女性はとんと記憶に符合する事は無い。

 ともすれば名家とかではないのだろう。

「ま。謎の多い女だったな、ってとこか。まあいい。謎の多さも美女の秘訣だ」

 呟きつつ、静かに煙草を取り出して口に咥える。

 想起するのは、先の姶良との会話だった。

 脳裏に僅かに過る情景で柳眉を潜めつつも、それを振り払う事はしないままに、三刀屋は煙草に火をつけて、一服する。

「ああ、くそ不味いよなぁ、相変わらず」

 どこか自嘲気味に煙を吐いて、再び吸う。

「――本当、長生きしてぇ奴には勧められん」

 そうして男は一人、空しげに煙を揺らがせながら、物悲しく胡乱に佇み続けるのだった。


        6


 太陽は身を潜め、月が淡く輝く時刻。

 街灯は闇を晴らし美しい夜景が見初める頃合い。それでも人の雑踏はあり、行き交う車も絶えなく光の線となって交錯する。都会ともなれば夜になろうが静まりかえらず、むしろ賑わいを増す事は当然の光景だ。

 そんな都会の喧騒を見下ろす場所があった。

 いや、それは場所というには些か荘厳であり壮大と言えるだろう。同時に、その姿形を人々は目視する事は叶わず、同時にそれに気づく気配はない。

 夜の空。月光照らす月下に、それは悠然と揺蕩っている事に何人が気づくのだろうか。

 そうして、そこに。その巨大な場所の中では一人の少年が、とある扉の前に佇んでいる。認証式の扉に網膜をスキャンさせ、扉を開けば、そこには十数名の人の姿が捉えられる。

 そのうちの一人、黒髪碧眼の美しい少女が、少年の来訪に泰然と反応を示した。

「――あら、来たのね、【ヴェネルディ】。今日は少しばかり早いじゃない」

「遅れるよりはいいだろう?」

「ごもっともね」

「何分、今日からしばらくは早上がりにさせてほしくてな。だから早めに来たんだ」

「へぇ、そうなの? 普段、『正義の光は夜明けを迎えるまであらねばならん!』とか言って格好つけていた割に――やっぱり、疲労困憊が募ってきたかしら?」

「格好悪い話だが、それもあるな。そろそろ睡眠不足も心配している」

「そのくせタフだったわよね。学校でも居眠りしないんでしょ?」

「たまにはしてしまったさ。そこが反省点だよ」

「まあいいわ。正直、貴方みたく頑張りすぎてる姿は見ていて心配するものだし。っていうか、こっちとしてはもっと休息を取れって常々言っていたはずでしょう?」

「それを言われると弱いな。何分、その――高揚してしまっていてな」

「ああ、そんなとこだろうと思っていたわよ。【インビクタス】も【ワンダフル】も【タイラント・ジャガー】も……男の子って皆似た感じに張り切るわよね」

「マジか、【タイラント】もなのが親近感湧くな」

 どこか嬉しそうに零すと部屋の隅から「おい、アヤカ!? テメ、なに言ってヤガル!?」と動揺した声が聞こえてくる。少女は「はいはい、事実でしょー」と軽く流していたが。

「ま。休息を大事にするってんなら、こちらがいう事はありません」

「そうか。ありがとう」

「そうよ。というかまだ学生なんだから、貴方は。近いうちに【大体育祭】も控えているんでしょう? 体は、健康面は自愛なさい」

「心得ているさ。――妹にも今朝心配されてしまったからな」

「ああ、妹さん。菊理ちゃん、だったわね」

 穏やかに頷く、その面貌――そこに佇んでいるのは私服姿の少年。

 鎧潟楔の顔があった。

「心配かけすぎないようになさい。話してはいないでしょう?」

「まぁな。正直、話しても信じ難いだろうし。何より――」

 言いながら周囲を――白を基調とした未来的な壁面、科学技術の粋を集めたような最先端技術がそこかしこに見て取れる室内を睥睨する。

 夜空に漂う巨大航空空母――名を【アルゴーⅡ】。

「【セイヴァーズ】――もとい、【アイギス機関】の事は原則機密。妹であっても、全部を話すような事は出来ないさ」

 そこは鎧潟楔にとっての、夢であり目標地点。

 彼が抱く理想の具現であるからこそ、少年は人知れず、ここに所属する。

「とにかく出る。アシスト頼むぞ、【アクアマリン】」

「了解よ。でも、ホント早めに上がりなさいな?」

「無茶は控えるか」

「本当かしら。また張り切り過ぎて時間超過しても残業代は出さないわよ?」

「安心しろ。全ては帰りの布団の為に」

「……何を言ってるの?」

 わけがわからないと言った顔だ。まあ、わかるまい。

 帰ったら寝台が妹に占領されている可能性があることなど、彼女がわかる道理もない。

「ハン、今から寝るときの考えカァ? そんな眠ぃなら寝てろよ、ガキが」

「言ってろ【タイラント】。俺の正義の輝きは眠気などには屈しない」

「屈されたら困るからね、普通に」

 少女【アクアマリン】の呆れ気味の言葉を余所に【タイラント】と称された男は皮肉を交えたように「ハッ」と嘲笑を灯しながら、一足先に扉の向こうへ去ってゆく。

 そして遅れを取るまいと、楔もまた足早に道程を疾走し、

「――さあ、今日も共に輝こう」

 その腕に装着した機械的な籠手を天高く掲げて、

「着装――」

 装備された籠手の一部、中央の宝石部位が燦然とした輝きを纏う。

「気高き白の師子王よ。咆哮せよ【エーデルヴァイス】!」

 瞬間、楔の全身を光輝が包み込み――次の瞬間、そこには一人の男の姿があった。

 白を基調とし、さながら白い獅子を人型に模したようなシャープで勇ましく、荘厳さを感じさせる、王の様な空気を纏う戦士の姿。

「騎乗戦士【ヴェネルディ】! 降臨!」

 勇ましき、ヒーローの名は【ヴェネルディ】。

 輝く純白の体躯を常闇に耀かせ、航空空母より、凄まじい脚力を以て跳躍し――みるみるうちに、その姿は眼下に広がる都会へと上から上から吸い込まれてゆく。

 身を切る風の威圧に装飾であるコードをはためかせながら、戦士は咆哮する。

「ヒィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイハァアアアアアア――――――!!」

 いざ、今日も夜の都会にて悪意を駆逐すべく舞い踊らん。

 そんな上空より滑空する形で地表へ降下してゆく同僚の姿を、モニター越しに見越しながら、少女【アクアマリン】は一言漏らす。

「……毎度だけど、【ヴェネルディ】になるとテンション高くなり過ぎじゃないかしら? なんかもう別人みたいなんだけど普段と」

 その一言に同僚たちはポツリと汗を一筋垂らして苦笑する他になかった。



第六章 大体育祭前日譚(2) 金蘭の正義:後篇

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