第六章 大体育祭前日譚(1) 金蘭の正義:前篇
第六章 大体育祭前日譚(1) 金蘭の正義:前篇
1
――それは、五月も終わり、六月に入って少し経った日の夜の事だった。
六月にしては癪になるほど肌寒い日だと、一人の少年が、そう突飛に感じながら。
夜中だからか、シンと静まった空気が、誇大に感じさせているのか。その要因となるべくものがなんであるのか。少なくとも、そんな些末な事象に少年が頭を悩ます気分はない。いやさ、余裕がないと言うべきか。こればかりは、はたしてとんと難しい。
初めての出来事に際して、上手くその感覚を抱けというのは先の話。後々に、ようやっとその感覚が掴めるというのが事の定石故にだろう。
「はぁ……、はぁ……っ」
ぶるぶると、腕が身震いしている。
鳥肌も立っている事だろう。伸ばした左腕の感覚が妙にもぐらついて不可思議な気分だった。しかして底冷えする夜中の風に当てられて寒いのか、と言われればそうではない。
「はっ、はっ、はっ」
呼吸の感覚が整うどころか乱れてゆく。全力疾走したかのような疲弊感がどっと少年を鬩ぎ立てていた。だが、同時に走り切ったぞ、と声高に叫ばん如きの満足感が巡っている。
そうだろう、そうだろう――そうであろう。
この光景を前に、そんな後悔などという無粋は在りえない。
「はっはっ、ははははっ! うひゃはふひへへへへ……!」
只の吐息がやがて喧しい程の哄笑へ変わってゆく。変な笑いがこみあげてくる心地よさの何たる事か。何たる快感か、何たる高揚であることか。
頬は引きつり、口角が自然、吊り上っていた。目は大きく見開き、眼前の成果に充足感を得て止まない。己の腕が掴みあげる、その姿が何処までも自分の空虚を満たしてゆく。
「見たか」
ぎちぎち、と指の間から零れる艶やかな、絹糸のごときそれを圧迫しながら、少年は誰かに示す様にそう発していた。この場へいない誰かへの言葉か、自らに語りかける自尊であったか、はたまたその両方かは、わからない。しかして、少年の声は狂気を滲ませた。
「これが、俺だ」
悍ましい程に狂気を孕む眼光が、だらりと力なく揺れるその存在を侮蔑する。
それは、一人の少女だった。
長い茶髪をしたかわいらしい容貌の女子である。おそらくは学生程度の年齢か。そんな少女の綺麗な御髪を乱暴に少年は掴みあげていた。そんな事をされれば、当然ながら相手は痛みを訴える事だろう。しかし、少女が声を放つ気配は微塵もない。
見れば、頬は痛々しく青紫に腫れ上がり、瞼はうすらぼんやりと半開きした程度。そこに輝きが灯っている様子は見受けられない。愛らしい面貌は暴力によって凌辱されてしまっているようだった。見れば着衣にも乱れがある。弾けたボタン、胸部、腕、足に見受けられる打撲痕と思しき痛みの痕跡――そこにあるのは残虐な暴威の過ぎ去った後の爪痕だった。
そして少年は何の脈絡もなく、少女の体を放り投げる。
そう、放り投げた。まるで小物でも投げ渡すかのような軽やかさで。ふわっと一瞬だけ浮いた少女の体躯は、ドゴリと路上に落ちてから数回転げ、やがて力なく倒れるがまま。
そんな様を少年は月夜に照らされながら、僅かに時間を過ぎ去らせ、しかして徐々に足を踏み出し、少女のもとへと足を進ませてゆく。駆り立てる程の歓喜を抱きながら。
「殺せた。殺せた。殺せた殺せた殺せた殺せた――殺せるッ!」
胸中に芽吹くのは凄絶なまでの慢心だった。絶対的を得たが故の慢心と呼ぶべき余裕。
「なんだ、なんだよ、なんなんだよ、おい! なんですかぁ! あひゃっ、んだよそうかよ、こんな脆いもんかよ笑えてくるッ! こんな程度かよ、お前さあっ!?」
じゃり、と不躾に少年は路上に流れる茶髪の端を乱雑に踏み占めた。蟻を甚振る様に、妄執的に少年の靴底は彼女の頭髪を侮辱していた。頭髪のみを執拗に、踏み躙っていく。
「最っ高じゃねぇか! ははっ、ひゃはははっ……!」
涎を振りまき、感動が喉の奥から噴火した。
満たす、満たす、満たされる――嗚呼、なんという高揚感か。常々思っていた事は正しかったと少年は確信する。なるほど、これは止められない。胸中に蜷局巻いてた汚泥の様な感情が、この瞬間まさしく無味無臭のように思えるではないか。己を取り巻く腐った世界はこうもたやすく払拭出来るのかと神様へ感謝の祈りの一つでも捧げてやろうかと腹の底から言い知れぬ感慨が沸々と沸き起こる。
そして高ぶった感情はそのままに――少年は近くの外壁を殴打する。瞬間、轟音が響く。
「簡単だっ。こんなすげぇ力、持った俺なら簡単だ!」
壁は粉砕されていた。おおよそ少年程度の体躯では信じられない程にバラバラに。
壊れた壁面。転がる女の死体。自分の行った成果を前に少年は感動する。同時に何か言い知れぬ不安感を覚えるが、それも自らの力を前には奥底へ埋もれて消えてゆくだけの些末な程度のものでしかないのならば。己が暴威は止まらせない。
「こんだけの力がありゃあさ……」
ニタニタとした笑みで己が手のひらを見つめていた。残虐を成した手のひらが、綺麗であるはずはなく、その手には少女の凄惨な返り血を浴びている他に、彼女の綺麗な頭髪もいくらか絡みついていた。
それを汚いと思いながらも、ある種恍惚を覚えて睥睨する。なにせこれは最早、自分が壊した存在の醜い残滓に過ぎないのだから。
胸中には自然と、邪鬼のような唸りが起きた。勝手気ままに暴虐を成せと声がした。
「ああ、どうすっか」
胡乱と棒立ち、自ずと呟く。
どうしようか、と頭がこれより先を考えて悩んでいた。それはさながら幼子が学校の行事を前日に控えた折のわくわく感と言ってもいい類のもの。そう、つまるところ少年は愉しんでいる、愉しみ始めているのだ。
この人として最低最悪の蛮行を。
そうして逡巡というには短い過程を経て、ニマァ、と口角を釣り上げる。
「ああ、そうだな。これでいいや。これがいいだろ。これっきゃねぇ」
素晴らしい考えだ。押し寄せる衝動はそれを是として肯定した。
ならば開幕は済ませたところ。
後戻りは効かぬし、する気もない。ゆらりと体を揺らして天を仰ぎ、恍惚と口を動かす。
「――さあ、始めるぜ。恐怖しろ、これが俺の復讐劇だ」
言葉と共に拳を握りしめていた。己が剛力が全身を充満する高揚感と心地よさ。
自分はすでに上位者だ。
故に、少年は暴威を振るう事を決定した。自らに宿る【力】を以て、己が事を成す事を決意とも呼べぬ幼稚な憤怒により、断行する。その果てに何があるのかなど、さしてどうでもいいが話でしかない。
ただ一重に――胸中渦巻く悪食の怪物が腹を満たせればそれでよし。
これを以て、ある日の深夜。人を殴殺し、暴虐を始めるべくその場から静かに歩き出した。そう、ただの通行人のように自然な歩みで、その場から離れてゆく。
その時、彼は気づいていなかったのだろうか。
気づいたうえで放置したのだろうかは、この時に限ってはわからない。
横たわる少女の元へ、体を小動物のように震わせながらも駆け寄った黄金の少女がいたことを。
――それは、今より数日前の出来事。
六月中旬現在においては【茶髪女性連続殴殺事件】として世間で騒がれる事となる連続殺人事件、その第一幕足る光景であった。
2
六月十四日、明朝。清らかな初夏の陽ざし。障子の外、羽ばたく小鳥の囀りの音。毎朝通りの、不変なき朝の情景を瞼の裏に思い起こしながら、彼はゆっくりと目を覚ます。
「ん、朝か……」
さわやかな朝の程よき気温に頬を撫でられながら、小さな欠伸交じりに目をこする。
朝方というのはどうにも不思議なもので、シャッキリと起きれた心地もあれば、どこかけだるさを残すような、二律背反の心地があるもの。しかしてそれは不快というより、むしろなじみ深いもので、また朝が訪れた――そんな感慨を抱く代物だと彼は思っている。
と、そこで少年の眉間にしわがよる。次いで目線が下へ下へと移ってゆった。
もっこり。あるいは、ぽっこりか。まあどちらでもよいのだが。
なんにせよ、少年が横になる寝台には、体にかかる毛布には異変があった。見慣れた異変だ。見慣れた異変というのが対外遺憾であるのだけれども。おおよそ、人ひとり分程度のふくらみを見てしまえば、後は判断つくというもの。
「……おい」
さてまずは、とばかりに誰となく嘆息を発す。
そして次の瞬間――、
「ふんっ!」
どげしっ! と、その毛布の中にいる人物を蹴飛ばした!
すると布団の中からは少年と歳の近い少女が一人転がり落ち「あきゃんっ!?」と遅れて衝撃を得た声が零れ出る。
「お前はまた、何を勝手に潜り込んでる」
そんな光景を見終えた後に、少年は頭を軽く掻きながら、少女めがけて叱責を呟く。
「這入ってくるな、と言っただろうが――菊理」
そう、告げられた少女、菊理――鎧潟菊理は佇まいを清楚に整えなおすと、床に品よく正座しながら愛らしくコロコロと艶やかな笑みを灯しながら、
「嫌ですわ、兄様。褥の折に、入るのは女子ではなく、殿御の方、というのが男女の仲の定石ですのに。菊理は兄様の中に入るなどより、兄様が菊理へ入ってくる方が――」
「何の話してるお前!? 俺が言ってるのは布団の話だからな!?」
毎朝のごとく、ブレーキを自ら破壊しつくした言動を以て、兄足る少年の鎧潟楔をからかうように、色香を匂わしていたのだった。
かくして一家団欒。兄妹仲睦まじく。菊理と楔は二人きりの食卓を囲んでいる。カンカンと朝の不埒な破廉恥三昧に対してだらだら説教を零す兄を後目に、兄の作った美食三昧に舌鼓を打つという中々剛胆な妹の姿がそこにはあった。
感嘆漏らし、少女はやんわりと頬に片手を添えて舌に広がる味に微睡む。
「はふぅ。兄様の手料理はやはり格別でございます」
「そうか。それは何よりだな。だが、それより、菊理――」
「はぁ、羨ましいです。この食材のごとく、菊理も早く兄様に調理されたいものです。手のひらでこねくり回され、指で弄られ、美味しく頂かれたいというものですのに」
箸で摘まむ里芋をコロコロと羨ましげに転がしながら呟く妹の言葉に「ごっほ!?」と、思わず咽込んだ。
「あら、有名画家が何か?」
「違う! お前は、まったくお前という奴はだな。もっと淑女の嗜みってもんをだな――」
「兄様。お食事中の多言は品をかくと言いますのよ?」
「品を欠いてるお前に言われたくはないな! しかもうちの家、そんな食事中のモラル厳しくやってる方じゃないだろ! いやまあ、多言はないが、無言でもないわ!」
「ですが、兄様のお説教など菊理は聞く所存がございませんゆえ。暖簾に腕押し、馬耳東風、豆腐に鎹、糠に釘――この菊理。兄様の叱り声などに行いを改めるほど、酔狂ではございません!」
「すでに酔狂な奴だから納得だな、いっそ! なんで自慢げなんだしかも!?」
がくり、と楔はテーブルの上に突っ伏した。
そんな兄の様子を「愛しい兄様? 菊理が慰めてさしあげましょうか?」と元凶が和服の胸元を肌蹴させて、にこやかな声と共にすり寄ってきたので「いらん、失せろ」と容赦なく返すと「まあ、いけず」と楽しそうな声すら返ってくる始末。
即ち、この場所は鎧潟家。鎧潟楔の生家である。
家屋の外観は一言で言ってしまえば純和風。しかし内装はところどころに西洋式を取り込んでおり、総じて言えば日本家屋の不便性を排除し、和洋折衷したことによる利便性の高い内部様式に落ち着かせたといったところだろう。少なくとも寝台が布団であったり、厠が和式だったりといった古い形式という事はない。
ともあれ、語るに家屋の構造など二の次だろう。
真に語るべきはやはり、家に住まう住人――鎧潟兄弟といったところだ。
真白月の一年生、高身長で面立ちは悪くない、だがしかし眼光が鋭い辺りが威圧的なため、そこで微かに損しているも、大企業である大手電機メーカー【パナドバンス】のご子息という背景がある為に学内で比較的優良物件として密かに人気を博す少年、それが鎧潟楔という少年の立ち位置である。
そんな楔の前に座し、静かに食卓を囲む艶のある美少女は菊理。楔の妹であり、兄の目線から贔屓目に見てもモテるだろうと首肯できる容姿を持つ。艶やかなセミロングの黒髪、バランスの良いプロポーションと女性として平均的な丁度良い身長の高さ、だがなによりも特筆すべきは、年齢の割にやたら色香漂わせる美少女である事か。現在は美花赤女学院の中等部に通う花の中学生だ。
(まあ、そんなもん俺から言わせれば言動で吹っ飛ぶがな)
しかして、彼女の魅力を楔は一笑に付すしかない。
大和撫子の体現者のごとき容姿こそ持つが、その実言動は実の兄に対してやたら危なっかしいのだから困りものである。大和撫子というより虎視眈々と狙うハンターの方が近い。
そう、例えば口を開けば――、
「兄様。煮物が美味しゅうございますから、ぜひ」
「ああ、もらおう」
「菊理も甘く煮えておりますから、お一口いかがですか?」
「お前はいらん」
「ふぅ。食わず嫌いの困った兄様ですこと。菊理の甘露は兄様の喉を潤すべく、トロトロに煮えていますのに。はぁ、下着を変える必要がありますね、兄様?」
「お前は発言を慎め! 朝から淫猥街道まっしぐら過ぎるわ!」
とりあえず毎朝常に勧められる妹の味をどうしろというのか。いや、断るが。拒絶一択だが。
正直、口を開けば自分と関係を持たそうとする妹が厄介極まりない話である。
「はぁ。菊理。いい加減脈がないんだからやめにしないか?」
「脈があるないに、然したる意味はございませんので無意味ですよ兄様?」
「それはまたどうしてだよ……」
「どうしてもなにも」
にこり、と柔らかに微笑んで、
「――世の中、一時の過ちというものがございますから。どれほど拒否していようとも、魔が差した、などという現象はあるというもの。一時ふとやってしまう。どれほど強靭な精神性を以ておられようが、ふと手を染めてしまうのが人というもの。このように常に股を開くごとき情愛を示せば、ほら。――兄様も誤って手出ししてしまうやもしれぬでしょう?」
「怖いわッ!! それと本当に足を開いてこっち向けるな嘆かわしい!」
――もうやだこの妹怖い! 怖いっていうか恐ろしい!
楔は常日頃にして戦々恐々である。要はこの妹、間違って手出ししてしまう瞬間を虎視眈々と狙っているのである。常時受け身の体勢で兄の毒牙をばっちこいと来たものだ。むしろ、ハニートラップの類じゃなかろうか勘ぐりたくなる。逞しすぎて泣けてきた始末だ。
(昔はこうじゃなかったのになぁ……ってならないのが殊更切ないわ……)
頭を抑えながら脳裏に浮かぶは兄妹の日々――さて、その光景で所々自分がズボンを脱がされたり、息の荒い妹に押し倒されたり、風呂を共にしようと入ってきたりする光景がぽこぽこ出てくるのはなぜだろうか?
「あら。どうかなされました兄様?」
「いや、自分の良識と忍耐に道徳、倫理観に我ながら感涙しているところだ」
「感涙、ですか。菊理としましてはさっさとその邪魔くさい良識を破って捨てて、おのことして一皮剥いて欲しかったものですのに。ヘタレな兄様。はぁ」
「俺はお前を名誉棄損で訴えても許される気がしてならない!」
「では、菊理は兄様に幼少より慰み者にされたと虚偽を吐いてみせましょう」
「やたら勝ち目のありそうな虚偽は止めてください」
真実の程? そんなもの、怖い目つきの兄貴と淑やかな妹を見比べて、双方の主張を聞いた相手の下す判決なぞ、一撃必殺というものじゃなかろうか。楔は訴えを取り下げる方向に決めた。第一印象に勝ち目はなく、妹に勝てる兄はいないのが世の常だ。
そうして苦渋と辛酸の味わいを覚えつつ、土下座を止めて再び食事を開始する。口いっぱいに広がれ、美味。敗北の味を塗り替えるのだ、とばかりに美食に舌鼓を打つ。
そんな兄を面白可笑しげに見守りつ、菊理は静かにある提案を促してきた。
「それはともかくとして、兄様。ヘタレうんぬんはともかく、兄様もいい加減、女性を知っていい年頃かと菊理は思います」
「――なんだ急に」
そこで思わず箸を止めた。止めてしまいたくもなるというもの。
妹から急に『女を知れよ、兄ちゃん!』とばかりの提案をされて困惑しない兄などいない。
「兄様。兄様は大企業の御曹司なのですよ? そんな人物が十五を超えても女性経験がなく童貞――そのようなこと、恥という他にございません」
「いまどき、元服を基準にするお前の判定も問題あると思うが……」
「兄様。おのこ足るもの、童貞でいてよいのは十代までです。二十歳になっても、童貞なおのこなど、それは最早、おのこと呼べぬ落第者。無駄に年齢を重ねた童貞など、見向きもされぬ価値無き男性なのですよ?」
「やめろ、想像していくらか刺さるから……」
確かに、それは楔も嫌だ。十代の間に、童貞を捨てておきたい気持ちは強い。そも、童貞関係なしに青春謳歌の十代だ。今のうちに恋人が欲しいというのが男子高校生の本懐である。性欲やら童貞やらは、そのあとだ。
「ですが、ご安心くださいな兄様。適齢期超えた童貞。価値無きおのこと言えども、兄様は私の大切な兄様です。もしもの折にはこの菊理が誠心誠意――」
「――だが、妹で童貞を捨てる暴挙を犯すつもりはないぞ、俺は」
やたら誇らしげに、どうせ最後はそうなるだろう的な胸の張り方をする妹に無性にイラッとしたので、一切容赦なく彼女の希望を切り捨てておく楔である。これぞ家族の愛情よ。大人しく諦めろ妹め、とばかりの言葉であった。
無論、妹の反応は泣き崩れる様な切なさだった――表面上は。
「そんな、兄様! 血迷いましたか!?」
「血が迷子になってる奴に言われたくない! そして朝っぱらから話題がアウト過ぎるんだよこの愚妹が!」
「ご安心くださいな、兄様。菊理の血は兄様へ一路です。断じて迷子などという事はありませんゆえ、ささどうぞ」
「ようし、足を開こうとするな恥じらいを持て、兄との関係を見直せえっ!」
早口で捲し立てると、どっと疲労感が湧いてきた。
「なんで、俺は毎朝妙に叫ぶ羽目になるんだ……」
「お疲れですか兄様? でしたら、寝台へどうぞ。菊理が添い寝してさしあげましょうか? まあ、殊更疲れる事になるやもしれませんが――」
「ようし、疲れなんて微塵も感じられないな! そしてお前はもう黙ろうか、うん!」
「くすす、恥らう兄様は愛いですこと。相も変わらず愛らしい程に赤い顔をなされて」
「怒鳴ってるからな! 恥らってるわけじゃないからな!?」
「童貞風情がよく言うもの」
「どどどどど、童貞ちゃうわ!」
無論、悲しき男の見栄である。
「何を仰いますか、兄様! 恥らう旨などございません。二律背反でございますが、齢十五を重ね女性経験がない事に憂いはありますが、兄様が童貞――操を残していること菊理は嬉しく思う気持ちもございます。それは兄様がまだ誰とも懇意になっていないということ。そして、兄様が童貞なのは菊理が毎夜確認し存じ上げております。剥けてない事を脚絆を捲り、日夜視認し、安堵する私の心中を何だとお思いでしょうか?」
「むしろ何だと思えと!? というか嘘ですよね待って!?」
楔の心中を言い難い感じの恐怖が襲った。
毎日、妹に童貞の証を確認されているなんていう奇天烈な事実断じて知りたくなかった話である。それ以前に、自分の妹の行動に頭を抱えた。そして次に自分の安否を気遣った。
「菊理。正直に答えてくれ」
「なにがでしょう、兄様?」
「――なにもしてないよな? 断じて、何もしてないよな?」
確認された。――ということは、何かされた可能性なきにしもあらず。
というよりあったら兄として絶命する他に道はない。菊理が少しでも、怪しい反応を見せた暁には腹を掻っ捌く所存である。
(妹に手出しする兄など死ぬのが道理よッ!)
実直なるかな倫理観。この楔、もし仮に妹と関わりを持ってしまった羽目が起きているならば死ぬのが必定とさえ考え実行する男である。
対する菊理は朗らかに返答した。
「まあ、兄様ったら。妹がそんな破廉恥な事をする女だと思われるなど侵害ですよ?」
「今更、破廉恥うんぬん響くかあっ!」
脚絆を捲り、童貞確認。夜な夜な寝台に忍び込む。言動も所々怪しさ募る。
そんな妹が今更破廉恥で誤魔化せるものか……!
「菊理。本当に正直に言え。何もしていないだろうな? 触れてないよな?」
「……はあ」
菊理は頬に手を当てて嘆息を零す。さめざめとした呆れが滲んでいた。
「兄様。菊理は兄様の意識がない場面を見計らうなどという愚挙は犯しません」
「……そうか。それならよかった――」
「意識のない兄様を襲って何になるのでしょう。ないときに襲って目覚められても兄様は困惑し、それを忘れるよう努めるか、菊理との肉欲に溺れて後悔なされるかくらいというもの。菊理はそんな兄様を望みません。自らの意思でしっかりと社会規範、社会道徳、倫理観を破り捨て、菊理と共に落ちるところへ落ちてゆく――菊理から抜け出せぬよう、底の底から二度と這い上がれぬように徹底的に。兄様が自ら道を踏み外して重い枷に囚われることこそ、菊理の本願なのですから。寝込みを襲うなど味気のない真似で初体験など――」
「もういい。知りたいのは質問の答えだけだったんだ。もう言わなくていい」
後半につれ、なんだろうか。体温が下がってきた気がする。声が何故だか泣き言言ってるみたいに力がない。変な笑いもこみあげてくる。体を温めなきゃ。そう思い、湯気の立つ味噌汁を手に取ったら、水面がやたら波打っていた。
手を見れば指が震えているではないか。五月ってそんな寒いわけじゃないというのに、何故だろうか怖気が止まらないものである。乾いた笑いが零れてきた。
「……菊理。お前、他に好きな男とかいないのか?」
ほとんど願う様に呟きを零す。この妹が正常な道を歩めるよう努力してくれる稀有な若者はいないだろうか。いないのだろうか。いてくれないのだろうか。
そんな問いかけに菊理はにっこり微笑んで、
「好きなおのこ、ですか? 兄様以外に? おりませんね」
淡い期待を笑顔で打ち砕いてくれる。
「なら、好感が持てるというのだけではどうだ?」
「ああ、それでしたら、咲さんですね。兄様と中学から、仲良くしていただいているのです。菊理は快いご友人を得たこと、好ましく感じておりますもの」
「お前は俺の母親か」
なんという保護者目線。
「ふふ、兄様。菊理は家族として兄様を想っているだけですよ?」
「そこはまあ、素直に嬉しいがな。お前は俺を異性として見ているのだろう? まったく、何時からこうなったものか……」
「それは、初めて兄様を認識した頃からですね。兄様を兄と慕いながら、一度も異性として見なかった日はございませんゆえ。幼少より、兄様と過激なすきんしっぷを図り、兄様の幼いソレが雄々しく育ち、自らを穿つ日を日々妄想する。実に有意義な幼少期でございました。ただ後悔として、幼い事をいい事にもう少し淫靡な触れ合いを求めても良かったやもしれませんが――」
「歪みまくって手が付けられないなお前の幼少期! 兄として手のかかる妹の面倒をみていこうと必死に頑張ってきた自分を方向転換させたいくらいの暴露だったわ!」
「そんな。仮に、冷たい兄様になられたら菊理は――」
「あ、や、すまない。流石に言い過ぎだったか――」
「辛辣に扱われる事で、冷たい兄様に一層の懸想を抱いてしまいそうです。それこそ、そう。嫌がる兄様を無理に襲い、手籠めにされるべく兄様を縛り付け、物乞いのように菊理を求めるしか出来ない身の上に染めてゆく――嗚呼、甘美な妄想が生まれてしまいますね、兄様!」
「なんでだろうな。冷たくあしらわなくて良かったって思うのに涙出てきた」
普通に兄として接してきたらこの禁断の愛を普通に邁進する妹となり、距離を空けて接し続けると思いの丈が募ってヤンデレと化すらしい。どちらも困るのだが、どうすればいいのだろうか? 神様助けて、と願をかけるより他にない。
もとい藁にもすがる思いで、楔はそっとテレビをかけた。
なにかこう話題の方向転換が欲しい。人の声が聴きたかった。他人の声で平静さというものを取り戻したい心境である。
そうして電源が入った画面上に表示されたのは、いつも通りの、毎日よくある話題だった。
『――昨日深夜。横浜市内でまたも暴行殺人事件が発生したと警察発表がありました。警察庁の発表によりますと、被害者は殴打による暴行の末に死亡した痕跡がある事や、被害女性が全員茶髪の女性である、との見方から、最近県内で発生した複数の事件との類似性を鑑みて同一犯による連続殺人事件であるとの判断を下し――』
それは概念としてある【事件】という情報。
誰かが亡くなったという悲惨な知らせ。どこの誰など与り知らぬが、確実に言えるのはどこかで誰かが死んでしまったという日夜起きている悲嘆の末期である。
「……」
表情は自然強張り、目に力が籠るのを感じていた。
正直、朝からまた嫌な事件を耳にしたと思う。極論言ってしまえば、ニュースにこんな事件は流れない、もといそんな事件発生しない方が一番だというのに。世の中というのは、悲しいかな得てして毎日のように誰かが死ぬ事件を耳にする。
どこの誰かも知らぬが、哀悼を抱く事くらいは自然な人の在り様だと楔は考える、嫌な事件と覚えつつ、
『――次のニュースです。国内で違法薬物を取引しようとしていた組織が検挙されたとの事で警察は、裏に大きな組織が絡んでいるとの見解から調査を進めており――』
そうしてニュースが切り替わるのと同時に楔は緩く首を振った。
どうも熟考し過ぎていたらしい。ぼんやりと見ていたのか、少し時間が飛んだ感覚を覚えながらも、画面から目を離して妹へ視線を向ける。
菊理、お前も気を付けるんだぞ、と度重なる犯罪事件を耳にして、妹への注意を促すべく楔はそう口を開こうとした時である。
「――兄様」
そこで神妙な声が言葉を遮り耳に届く。
「菊理?」
シンと静謐な佇まい。妖艶さはなりを潜め、鎮座し視線に言い知れぬ神妙な気配が滲んでいるさまは自然見ているこちらを気圧す程のなにかがあった。
「兄様。菊理は諫言したきことがございます」
明確に妹の様子が変わっている。真剣みというのだろう。箸を丁寧に置いて、両手を膝の上に置き、少女は真剣な眼差しをもって、楔を見つめていた。楔もその普段と違う様子に先ほどまでの気勢を削いで、真剣な佇まいで問いかける。
「……急になんだ?」
発現を促された菊理は厳かに口を開いた。
言葉の先はわからない。だが、ニュースを見ていてこうなっただろう事はわかる。しかしそれにしたって兄様気を付けてくださいね、程度が普段出る言葉だろう。しかし、菊理の様子は打って変わって真剣だ。この姿勢に何か意味があるのは一目瞭然。
ならば、と妹の真摯な発言に耳を傾けるべきが、兄の務めであろう――。
「――遊郭で遊ぶのはお止めください、兄様」
「急になんだあ!」
よもや一瞬で絶叫にまで持って行かれるとは、そんなどうでもいい感慨を抱きながらも、動揺――理由がわからないままの動揺で叫んでいた。遊郭? 遊郭? 一瞬、言葉が古すぎてわからなかったくらいである。
しかして、菊理は真剣一路に追及を止める気配はない。
「隠すことは許しません、兄様。いったいどこの遊郭へ赴いておいでなのですか? いったいどこの女に誑かされておいでなのです、兄様っ」
「そんな普通にやましい事隠してないわ! というか古い! 遊郭なんて言葉使う十代少女見た事ないぞ!?」
「兄様、誤魔化しはききません。正直にお話くださいな」
「何を!?」
「当然、兄様が夜な夜な遊郭へ出向いている事でございます」
ぴしゃり、と叱責が飛んだ。身に覚えのない叱責だ。
遊郭――言いたいことはわかる。要するに、女遊びをしてまいか、という事が菊理が疑っている事という事なのだろう。
「兄様。ご存じのとおり、菊理は毎晩、兄様の寝台へご寵愛を頂きに参っていますよね?」
「さも自然な流れで当然のように、そういう事を呟かれても俺は反応に困るんだが!」
「ですから、菊理は知っています。――兄様が毎夜毎夜、どこかへ出かけているという事を」
「……」
「そして、その折には数名の女性の匂いを染みつかせているという事も、です」
そこで遊郭なんてワードが出てきたのか、なるほど。
そう考えながら、楔は匂いを嗅ぎ分ける妹の嗅覚に戦々恐々していたのは内緒だ。
「当初は厠かと思いました。ですから、兄様の残り香を堪能しようと嬉々として厠へ赴いても、そこに兄様はいらっしゃいません」
「お前はどこまで特殊な趣向に陥ってるんだ……」
厠だぞ? と、畏怖に絶えない。兄の残り香ってどんな匂いが混濁していると考えた上で行動しているのだろうか。
「更には、兄様の寝ている場所へと赴いて――そこにも兄様はおりませんでした」
「……」
「わかりますか、兄様? 毎晩毎晩、主のいない寝台で兄様の残り香に包まれ、シーツを濡らし、一人兄様を想い、興奮余儀なくされる菊理の想いが」
「まったくわかりたくねぇ! っというか疲れて帰ってきたら布団が占領されてて、別の部屋で寝る俺の気持ちもわかってほしいもんだなあ!?」
自分の匂いで興奮してる妹にドン引きである。その上、やたら湿った感じがシーツからした理由も判明して一層、頭を悩ませる気持ちがわいてきた。この妹、どうしてくれよう。
「兄様」
怒るか、嘆くか、そんなことで悩む楔だが――、本題はここだろう、と思考は働いている。
菊理の視線も先ほどからからかい調子だが、その実緩んでいない。
つまるところ、
「兄様がそうした行動に移られて、はや一ヶ月――どちらで何をなさっておいでなのですか?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。さながら浮気を疑われる亭主の心地である。なにより菊理の目に光が灯っていない気がする。なんだろうか、この陰鬱な眼は。
(ああ――)
楔は悩んだ。
正直に打ち明けるか。誤魔化すか。
菊理の疑いは真っ当だ。事実、自分は夜更け、町へ出かけている。それはバレている。まあ、バレるだろう、とは考えていたので構わない。というか布団に忍び込むような妹が気づかないわけもない。
だが、それは菊理が優しさ故に問わずにおいたというだけなのだろう。
しかして、その日数も嵩んできた自覚はある。一日、二日ないし、一週間。その程度ならば妹もこうは問わないだろうが、一か月を超えれば話は別だ。
そこまで至れば菊理がここで発言した意味も頷ける。兄が夜な夜な家を出る。そんな状態が長く続き、テレビでは世間で危ない事件が多発している事をよく流している。妹として、兄の安全が気にかかったがゆえの言葉なのだと理解した。
どこで。なにをしているのか。問うのが必然だろう。
ならば、その答えに返答をもつのが真摯というもの。少しだけ逡巡する思考を経て、楔はおもむろに口を開いた。
「菊理は」
「はい?」
「菊理は、どう思う。俺が夜中、何をしていると本当は思っているんだ? 言っておくが、遊郭なんぞに足を向けた事は誓ってないぞ。ほんとだ」
「……」
微かに目を伏せて後に、菊理は口を開いた。
「菊理は兄様を信じております。決して間違った行いをされる殿御ではないと。幼少より父様に躾けられて生きてきたのですから、間違っても、よからずへと落ちたりはしないと」
「そうか、ありがとう菊理。……それで、よからず、ってなにかな? 兄ちゃん、そんな言葉聞き覚えないんだが……」
「不良」
「読み方が古来でもないのに古来っぽいのよせ、紛らわしい!」
だがまあ、不良認定はされていなかったらしい。それは何より。
不良は自分が忌み嫌うものだけに、そう思われていてはやるせなかった。
だから――その心象は損なわぬように、真摯に努めなければならない。
「菊理。正直に話そう。って言っても、具体的に話せないんだが……」
「構いません。大まかにでよいのです、兄様」
「そうか。なら――」
楔は一拍隙間を置いて、
「俺が昔から抱いた夢を追っている。俺が頑張りたいと思い続けた目標を」
抱く想いを口にした。力強く、意思を込めて発露されたその言葉。自分をよく知る菊理ならばわかるだろう発言であると信じている。
「夢、目標……」
そう告げられ、菊理はしばし目を見開いた。
やがて、口元に手を当てて、怪訝そうにも楔を見据えてくる。その反応はある種当然のことだろう。菊理は自分の夢を知っている。知っているからこそ、どうやってやろうとしているのかが今一わからないといったところか。しかし、視線に揺るがず動じず楔は答えていた。威風堂々と。
そうして、しばらくし菊理諦めた様にがため息を零す。
「……にわかには少し戸惑いを覚えますが、兄様がそういう目的で行動されているというのなら、とりあえず菊理は口を挟まぬ事を決定致します」
「……こんな胡乱な回答でいいのか?」
「胡乱というのでしたら、今少し具体的にしてほしかったというのはありますが、そこをよしとしたのは菊理の一言。ならば、追及は野暮というものでございましょう」
ですが、と菊理は少し怒った風に頬を膨らませる。
「如何な事情であれ、出向くたびに、疲労感漂わせる兄の姿を見る妹の心境くらいは顧みていただきたいのですよ、兄様。健康第一という言葉をお忘れですか?」
「はは、それを言われるときついな。わかった、抑えるよう努力するさ」
「本当ですよ兄様? 【大体育祭】も近いのです。無理をする事は菊理が承知致しません」
ぷー、と頬を片方膨らませての、自分を家族として想っての発言に楔は心から頷いた。
妹が案じている。それを無下にする事の愚かさを楔は理解しているから。体休めに控える事も大事にしないとな、と心中でそっと呟いて。
「さ、とっとメシ食い終わるか。学校の時間になるしな」
「はい、兄様」
そうして穏やかに、家族と一緒の朝食を再開する。テレビは相変わらず、事件の事や政治的話題、可愛い動物の紹介やら様々なニュースを取り上げる。心が痛くなるような話や、温かくなる話を織り交ぜて。
そんな毎朝の光景を過ごしながら、今日も時間は優しく過ぎてゆく。
3
それから朝食を終えた兄妹は、余裕を以て朝の支度を全て整え終わると、家のある一室へと揃って足を運んでいた。部屋の一角にある古めかしい神棚の前に立つと、パン、パン、と柏手の音を重ねて響かせ、静かに黙祷を捧げる。
これは鎧潟家の慣習だった。
日に一度は必ず参拝する。言われの様なものはよくわからない。ただ、父親から幼少より言付かってきただけに二人にとって自然な流れによる祈りである。それからしばしの静寂を経た後に、すっと瞼を上げて、
「よし、行くか」
「そうですね、兄様」
「忘れ物はないか、菊理?」
「万全でございますよ、兄様」
「家の鍵忘れてないな?」
「ここに」
チャリ、と指先に金属音を響かせる。それを確認すると「よし」と頷いて、鎧潟兄妹は学院に遅れまいと家を後にする。いつもの見慣れた通学路。途中までは歩いていき、学院に到着したら通学専用の乗り物に乗車する。それが二人の朝の通学風景だ。
「また心地よく晴れたもんだ。日差しが眩しいったらないな」
「兄様は晴れ空がお好きですものね」
「まあな。って言っても普通じゃないか? 天気なら、特に交通に支障がないものを――ってのもまあ、あるが天気として晴天模様は、爽快って感じだからな」
「菊理も同意見です。窓辺から見る晴れやかな空と、青く照らされた木石の数々。遠くに響く鳥の声も、流れる浮雲の在り様も見ていて心潤う気持ちに浸りますから」
「相変わらずなんというか風流だな。俺はそこまで雅になった事はないぞ?」
「もう、兄様もしかと風物を感じるべきですよ?」
「気が向いたらそうするさ」
「では、今度雨模様の折にでも菊理が一肌浴びてみせましょう」
「嬉々として兄に濡れ姿を見せようとする精神は止せ」
この妹、変わらぬ雅さのまま淫靡な姿勢を貫く剛胆ぶりをどうしてくれようか。
いや、どうもしないのが正解なのだが、それはそれで敗北一路のようでもどかしい。
「よーっす、鎧潟。菊理ちゃんもはよはよ~っ。やはー、今日もかわゆいねぇ♪」
と、そんな事を考えている最中に前方を歩く人影がすたすたと近寄ってきて、実に親しげな声を発した。その声に楔と菊理もまた、親交を以て返す。
「咲夫」
「咲さん、おはようございます」
男子学生の名前は太白咲夫。菊理と楔共通の友人である。天然の金髪に鮮やかな緑の瞳をした西洋系の顔立ちで、中々に整った造形をしている。ただどこかチャラっとした気軽さがにじみ出るのが特徴的な友人だ。パッと見では、チャラチャラした雰囲気が感じられる辺り、鋭い目つきで損をしている楔としては同族の憐憫が滲み出る。
「……あのさ、なんか失礼な事考えてやしませんかねぇ、楔」
「はは、まさか。さあ、行くぞ咲夫。学校に遅刻するなよ、走ろう行くぜ!」
「あからさまな誤魔化し模様だよねぇ!?」
そうこうして。毎朝の光景ながら愉快に騒がしく、朝の一幕は織りなされた。
自然と合流した友人と共に、三人で歩く通学路。しばらく歩いていけば、まばらだが他にも学生服を着た学生が道を同じにしているさまが目につく。中には赤を基調とした学生数名がいるが、大半は白であり、所々に毎朝興奮した様子の黒い学生服の生徒も目立っていた。
楔の見た感じだが、彼ら――青善雪男子校の生徒は毎朝妙にテンションが高い気がする。
「青善雪の連中はなんだかいつも、ウヒョーって感じが漂ってるよな」
何気なしに口にすると、意外な事にさも当然とばかり咲夫が言葉を返した。
「いやあ、そりゃそうでしょ」
「そうなのですか、咲さん?」
「菊理ちゃんはわっかんないかもしんないけどさ。連中、男子校だもん。要は女っ気ってのが皆無なわけよ。そんな奴らからすりゃ朝の通学路で目につく女生徒なんて見てたらウヒョーともなるもんだよ。しかもウチ顔面偏差値異常だしさー」
「ああ、そうか納得するな。俺もきついな、それは」
「僕だってゴメンだね、そんなむさ苦しいの。だからセイゼンじゃなく、シラヅキで最高だよー! 可愛い女の子、綺麗な女の子、美人な女教師と華やかだからねっ!」
「同感だ。女子がいない学校とかはなー……たまに、女子うぜーと中学の頃考えた事もあると言えばあるが、それでもいてほしいかほしくないかなら、いてくださいお願いしますだからな」
「兄様。急に下手に出すぎです」
「はは、かわいい子いたら下手にもなるのが男ってもんだよ菊理ちゃん。見え透いた下心と一緒にね!」
「咲さん、それは誇らしげに言う事ではないのでは……」
くすり、と可笑しそうに菊理は苦笑を零す。
「ただまあ、楔の言う様に、そういう意味じゃ僕らには女子高の方はどうだかわかんないや。美花赤とかそこらへんどうなん?」
「ミカアカですか? 菊理の見た限りでは、左程どうという気配はございませんかと。通学路で男性と行き交う事がないでもありませんし。ただ男子禁制みたいな風潮のある学院ではありますから、そこは手厳しいかと」
「秘密の花園って感じでいいねぇ。僕は好きだな、それ。穢されない楽園ってやつぅ? 清楚なお嬢様とかたくさんいるんだろうなぁ」
「……中身は割とドロドロな部分もございますけど」
ぼそりと菊理が何かを言った。だが救いあるかな、美花赤女学院の方向へ顔を向けて鼻の下を伸ばす親友には聞こえなかったらしい。理想は理想で耀き続ける――なんと美しい現実だろうか。だから楔も聞こえなかった事にする。それが理想だから。
「ま、それにしたってミカアカの学生を通学路で見かける率は存外少ないよな。大半は黒と白の学生服ばっかりだし」
「比率としてはそうだよね。通学路結構重なるのにさ」
「そこはアレですよ、兄様方。美花赤の学生は大半が良家令嬢ですので、送迎車で通学されているのです。私の様に、シラヅキに親族がいるから通学を共にする――といったような者や、美花赤にいれど家が裕福過ぎない――まあ、基準がすごい事になっておりますでしょうから仔細は省きますが、一般家庭平均年収程度となると徒歩で途中までという生徒がそうなるのです」
「ああ、つまりお嬢様ってレベルの子たちは車移動なんだな、納得」
そりゃそうか、と二人揃って得心がいった。
確かに名家のお嬢様なら徒歩通学より、それが似合うというものだ。言われてみれば、絵になるというか、様になるというべきか。ただの徒歩より余程、想像つく光景と思えた。
「女子のミカアカ、男子のセイゼン――なんていうか極端に振り分けるとやっぱ想像つきにくいよね。僕は小中校共学だし、男子校もわかんねぇや」
「俺だってそうだぞ? セイゼンの風景とかまったくわからん。ミカアカは菊理に聴いたりしてみた感じ、華やかって印象だがな。セイゼンには知り合いがいないし」
「そだねー。まあ、知り合いうんぬんで言えば、僕はセイゼンよりダントツでミカアカの子と仲良くなりたいわけだけど……ほんと、ちらほらしかいないんだよねー徒歩だと」
「咲さん。あまりミカアカの生徒に話しかけようとすると、従者やSPがどこからともなく馳せ参じたり致しますよ?」
「え、マジで?」
「多分マジだな。この学院そこらへん、すげぇし」
「兄様が前に家の鍵を落とした事がございましたが、すぐにSPの方が届けにきてくれた事がありましたよね。しかも感謝を伝えた後には、姿が消えており……」
「忍者かよっ!」
「いやまあ、うちの学院忍者いるからな。いても不思議ではないだろ?」
「そういえばそうだった……無音とかいう人達がいるって一学年上の先輩に聞いたことあるんだったよ僕も……。…………いや忍者がいるっておかしいよ、やっぱ?」
「兄様……今更ですが、この学院色々規模がおかしいと菊理は思います」
「思っても無意味だぞ、今更過ぎてな」
そもそもこの敷地面積がおかしいのだから。
「学院都市ってこういう規模を言うんだろうなぁ」
交通の便として電車、バスと各種取り揃えており、娯楽施設やらショッピングモールに、学生寮が区画で存在している時点で最早、ただの学院ではない。図書館施設【大図書館】に至ってはそこらの小学校より大きい上に、山岳地帯まであるのだから、最早学院を超えて一つの都市として機能しているのは間違いなかった。
楔は小中との巨大すぎる差を、遠く見る光景を睥睨しながら感慨深く感じていると、親友がなにやらきょろきょろと顔を動かしているさまに気づく。そうして、ある一点へ視線が止まると、歓喜の声を小さくあげた。
「お、ミカアカの子はっけーん」
「で、お前は何をしてるんだ?」
「いやまあ、ミカアカの生徒いないかなーって。話聞いてたら徒歩が希少ってなると、ミカアカの子と関わり持つのも大変そうだしよ。通学路歩く子と仲良く出来たら最高じゃね?」
「下心ありありですね咲さん」
「可愛い女子に目を惹かれるってのは俺もだがな。だが、咲夫、ほどほどにな」
「あいあーい。お、ミカアカ生徒仲良し合流って感じかな? いやぁ、あの赤の制服って本当麗しいよね、ドレスっぽいっていうかさ――」
前方を歩く女生徒の元へと、三人の女生徒が駆け寄る様に眼福とばかりの様子を見せる咲夫である。だがまあ、確かにあの制服で着飾った女生徒は学内でも、なんというべきか輝きがあり希少性のようなものを感じるのは楔も同感である。
身近に一人、妹がまさしくそれだが、生憎と見慣れてしまったのか、内面の淫靡さを知っているからかどこか違く。出来るならば貞淑清楚な在り様を見たいというもの――。
「兄様は清楚系がお好みでしょうか? 菊理は清楚そのものかと。清楚を具現化したら菊理になる気が致します」
「心を読むな、あとお前の清楚は見かけだけだ」
横から飛んできたアピールを足蹴にしつつ、咲夫ほどではないが、朝の華やかな光景に気持ちを潤わせようと注視する――はずだった。
「……あん?」
まず感じたのは不穏。
あれは話しかけているというよりも、絡まれているといった印象が強い。
そして次には肩や背中をやたら乱雑に叩かれ――、終いに後ろの一人がひじ打ちを背中にくらわせて前方へ転げさせた。そうして這いつくばる形となった少女へ甲高い笑い声を零しながら、足早に去ってゆく。
「なんだアレ……」
不愉快そうに咲夫の顔が険しさを募らせてゆく。
目の前で起きた背中にぶつかるという行為。明らかに、あからさまに故意であり悪意があった。後方から見ている三人はそれをしっかりと目にしている。
楔もまた憤怒を覚え、口から声が轟こうとした。
だが一瞬早く、口の前に手が差し込まれ、声が喉の奥へと引っ込んだ。
「――な、気持ちはわかるけど朝だよ? 大声は絶対注目集めるから、よしとけ楔」
「あ、う――」
冷静な咲夫の言葉に楔は沸騰した感情を静かに鎮火する。
確かにその通りだ。ここで大事を起こすと、否応にも目立つ。それは、正直よくない事だ。注目を集めるというのは時に悪手となる時があるように。
「僕、ちょい行ってくるー」
へらへらー、と手を軽く振って咲夫がひょひょひょいっと走り出した。
実にこうチャラそうな走り方、能天気というべきか楽天家と思うべきか――否、こういう時にこういう行動が出来るからこそ、
「たくっ、咲夫はホントに芯が良いよな」
「はい、いいおのこだと菊理も思います」
駆け寄る咲夫の後姿を温かい気持ちで見守りながら、二人も静かに転んだ少女の元へと足を運んでゆく。咲夫はと言えば、少女の元へ辿り着くと大丈夫かとでも声をかけているのだろうか。しゃがみこんで話しかけている。
「……ん?」
若干、びくっと咲夫の体が震えたのが目に映った。
へらへら笑いながらも、ほら、とばかりに転んだ少女へ手を差し出す。立つ手伝いをする気の様だが――その手がばしっと叩かれた。
「あら……?」
次いで、頬を二回連続で叩かれる様が目に飛び込んでくる。
そしてわけもわからず尻餅をついた咲夫の股間目がけて、少女は情け一切なく足で踏みつけると「うきょっ」という奇声を上げると同時に、少女は駆けだして去ってゆく。
「…………いやいやいや」
思わず、待てわけがわからない、とばかりに困惑し、楔は咲夫の元へ駈け出していた。
「咲さん」
菊理も何時になく案じる様子で咲夫の元へ近寄ると、二人揃って白目をむいている咲夫目がけて声をかけた。
「おい、咲夫っ。大丈夫か、お前? 傷は深く、めり込んだ程度だぞ」
「めり込んだのが一番響くってお前も知ってるだろうがよぉ……」
とりあえず喋れる程度でホッとした。
「立てるか?」
「ちょっと待って。普通に痛いっす。立てるけど、内股になりそうだよぉ」
「では、そこのベンチへ一度移りましょうか」
「そうだな」
「うん、ありがと二人とも。でもさ。こういうのって普通腕だと思うんだよねせめて。足を引っ張って引きずるとか普通に頭がガリゴリ削れて痛いっつうか……」
ガンガンと路上にぶつかる後頭部の痛みを訴えるが、楔はベンチを指さし、
「近いからいいだろ、別に」
「いや、確かに近いけど――まあ、いいかあ……扱い雑だったけどいいや……」
よいしょっと、三人そろって腰を掛ける。
咲夫は股間が痛いのだろう、若干内股気味に座りつつ空を仰いでいた。
「で、なにしたんだお前? 助ける対価に何を求めた?」
「求めてねぇし! あの場面で求める鬼畜とかいねぇだろ!」
はぁ、と咲夫は鬱屈そうに肩を落とす。
「うん、まーさ。別に何か気に障るような事をしたとかは無いと思うんだ」
「そうなのか?」
「うん。顔見たときに『あ。あんま顔は可愛くないな……』とかは思ったけど」
「正直な感想が顔に出ていたので気に障ったのでしょうか?」
「というか普通に失礼だな、お前」
「思っただけだよ、言ってないし! ――っていうかね。可愛くない以前に、正直そのなんつーかあの……」
「なんだよ?」
「……不気味だったんだよね」
「不気味?」
それは更に失礼ではなかろうか、と二人が眉を潜める。
対して咲夫は弁明するでもなく、言葉を続けた。
「いや、その助けようとした時に顔が向いたんだけど……その顔がもうなんだか怨嗟に塗れてるって感じで。『うわ、怖ぇ』とか一瞬引いちゃってさ。けど、立たせてあげるくらいはするのが人情ってもんだし、手を差し出したら――」
「払われ、叩かれ、踏みつぶされ」
「踏んだり蹴ったりですね、咲さん」
「文字通りだなあ、こう訊くと……」
うぉぉん、と咲夫がうなだれた。頬は双方赤くはれている事も言ったらかわいそうかもしれない、とか兄妹は思ったが口にしない事を決意する。
「ま、まあアレだ。あんないじめみたいな事をされた後だし気が立ってたって奴だろ。あんまお互い気にしないって事で済ませるのもいいかもだぞ?」
「そうだねー。僕もあんま気にしないでおこ……でもなあ、なんか不吉な事も言ってたから、なんだか夢に出てきそうだよ、あの子」
「不吉な事?」
「ああ、うん。『あいつら私の魔術で殺してやる』とか言ってた」
「物騒ですね……呪殺、のようなものでしょうか?」
「オカルト関係か? オカルト部とかあるはずだし。しかし、なんというか、危なっかしいな思想だな……」
呪術でも使うのだろうか、と想像して複雑な気分になってくる。
しかしまあ、
「だが、それなら心配しても始まらんな。呪術で人が殺せたら笑い話にもならんし。復讐心に駆られるってのは気にかかるが――そういうのなら現実には起こらんだろ」
「……はは、それもそうだよな」
「はい。杞憂に終わるとでも思うべきかと。こういう言い方もどうかと思いますが、憎むだけで人が殺せたら話になりませんし」
「だよね! あーしかし、朝からひどい目にあったよー。股間強打とか何度も体験したくないやつだしさあ」
「何より朝から話題にしたくもないしな」
「はは、言えてる」
さて、と咲夫はベンチから腰を上げる。
「もう歩けるから行こうぜ二人とも。のんびりしてると遅刻するし」
「そうだな。行こうか、菊理」
「はい、兄様」
兄妹揃って、朝から妙に不幸体験した咲夫を少しだけ気遣いながら歩き出す。なにやら朝に嫌なものを見た感があるが、土台三人は関係の薄い話と割り切って歩みを再開する。
正直なところ、あんな後味の悪いものを覚えながら朝を過ごしたくないという感性故の行動でもあった。
そんな中で、さてどうするか、と咲夫は考える。妙な事に遭遇した為か、会話が変に途切れてしまった。かといって、先の一件をネタとすると少女への雑言も含みそうだし、それはよろしくない。
ならばと、先程までは制服の話題を上げていたが、それも尽きた。とすれば、そうだとこの手の話題を取り上げておくのもいいだろうと口を開く。
「そういやさ、ニュース見たかよ、二人とも」
最近のニュース。話題の鉄板ネタだ。
「ニュースか。そうだな……。朝垂れ流しておいたから一応、聞いているぞ。まあ犯罪関係を重点的に、だが」
「兄様の声に耳を傾け過ぎておりましたが、いくらかは」
「聞き方適当だねぇ。特にぶれないなあ、菊理ちゃん」
あはは、と苦笑を漏らす咲夫だが、「でも最近のニュースとか聞いておいた方がいいぜ?」と忠告する様に一指し指を立てた。
「わかってるさ。それは同意見だからな」
「お、流石だな楔。わかってるぅ」
パチン、と指を鳴らして満足そうに咲夫は頷く。
「そうなのですか、兄様?」
「菊理はそういうの関心が薄いからな……だが、そうだと俺からも言っておこう」
「むう……では、兄様、ニュースの間は清聴する事と致します」
「そそ。聞いておいた方がいいよ、菊理ちゃんも」
少し真剣な顔つきで咲夫は頷いた。
「正直ね。最近、事件とか物騒だし多いんだよ。だから自己防衛の意味でも、そういう情報はちゃんと得ておいた方がいいと思う。最近だって、脱獄犯が出て、数名の女性を殺害したって事で警察が陳謝する一件があったろ?」
「ありましたね。菊理もあれは恐ろしかったものです。逮捕されたと聞いた時はほっとしたものでしたから」
「逮捕まで怖かったからな。菊理と帰りも一緒に下校するように心がけたし。事件の現場から離れているから杞憂かと考えていたんだが……」
「逮捕現場は、結構近かったもんな。僕もびくったよ、『え、コイツこんな近くまで来てたの?』とか怖気立ったね」
「全くだ。本来なら犠牲者が増えるなんてなかっただろうに……警察の過失にしたって、報われない事件だったよ。――で、本題はなんだ? その事件もういくらか前だろ?」
「ああ、うん。実はさ、テレビでなんか興味深いニュース見たから」
「どういったものなのです、咲さん?」
「それがね、聞いてよ菊理ちゃん。すげぇ不思議な話なんだけど、アメリカで起きた一件でさ。なんか翼の生えた人間が多数目撃されたんだってさ。あっちじゃ、【フライングヒューマン】絡みで話題らしいよ?」
「フライングヒューマン? それ、翼は無い奴じゃなかったか?」
「そそ。だから姿形で天使来臨かって、アメリカの熱心の教徒の間じゃ特に噂されてるみたいなんだよね。動画見たけど、確かになんか上空を飛来しててさ」
「ほー。都市伝説が滾るな」
「だよねだよね! それと事故の話題もあったよ、こっちはフランスだけど。なんか、ビルが倒壊する事件が起きたらしくて、それで大騒ぎみたいだね、何人か重症者も出て」
「テロか? 昨今、多いからな海外だと」
「わかんない。容疑者が確保されたのかとかも、まだみたいだね」
「ふぅ、異郷の方々も大変でございますね……日本もテロが起きないか心配です」
「テロ以前に最近も事件が多いからなぁ……」
「それとは別の意味であんま良くない話題もあったなぁ。なんか外国の墓で墓荒らしが多発してるらしくて、中に入ってる遺体が……って案件があるみたいだぜ?」
「切なくなるな、それ。犯人何がしたいんだ? というか何か明るい話題振れよ。暗い話題は微妙だ」
「そうなると……あー、アレだ。凄ぇーとか思ったのは若手画家のニュースだったな。若手画家っていうか、美術収集家の大富豪が来日するってニュース。フランスのシャンパーニュ公爵とかいう、なんかナイスミドル! って感じの人なんだけどさ」
「ほー、それは見なかったな。どんなニュースだったんだ?」
「ああ、それがさ。美術界じゃ【日の目】なんて呼ばれるくらいの人らしくて、高い芸術品とかすげぇ購入するし、気に入った作品は高値で取引するらしいんだよ。なんでもそれが美術界の価値基準として通用するくらい目の凄い収集家らしくて」
「なるほど。だから購入されるのが一つのアドバンテージになるって事か?」
「らしいぜ? そんでその人が『日本でどなたかの作品を購入される予定は?』ってな質問されてて『やはり「シキ・アオカゲ」の作品を見るのが一番楽しみですかね。彼とは懇意にしているので』って言っててさ」
「『シキ・アオカゲ』? 知らないな……誰だ?」
「兄様はそもそも画家の名前なんてほとんどご存じなさってない気がしますが……」
「それを言われるとそうなんだがな……ははは」
妹の正しい言葉に頬を汗が一筋伝った。
その通り――だが、しょうがあるまい。所詮高校生。そんな画家の名前なんていくつもいくつも知っているわけがない。特に現代画家なら致命的だ。
「今の時勢の画家なんて本気でわからんからな。ゴッホ、ミケランジェロ、ピカソ、ダリ。美術の教科書に出てくる巨匠程度が関の山だよ、俺は」
「んはは、僕もそんな感じだよ、ぷっちゃけ」
「だろ。知らないのが普通だよな?」
「なー」
「お二方は……とはいえまあ、有名どころさえ押さえておけばよい、というのは菊理も同感のところではございますね。雪舟、宮本武蔵、蕪村、横山大観という具合に」
「なんだろうな、有名どころだけどお前の日本傾倒っぷりは」
むしろ一般高校生ともなるとそっちの方が知らなかろう。悲しいかな、ピカソ、ゴッホなどと比べると中々日本の巨匠は話題に上がりにくい節がある。
「まあ、それはともかくさ。その『シキ・アオカゲ』って気になったから検索かけてみたら、なんでもすごい若い新進気鋭らしいんだよね。なんと中学生で美術界に名を轟かせたんだってよ。んで今は高校生――同じ年頃くらいかな。名前は漢字で『青景四綺』って書くらしくて、若手天才画家って事で美術界じゃすでに数千万から、数億とか高値の取引がされるくらいらしいよ」
「ほー。美術絵画なんて死後数十年とか言われて生きている間の評価なんてされないもんらしいのに、それは凄いな。今度どこかの美術展で見る機会があればいいが」
「らしいねー。まだ名前出て数年らしいから画像検索じゃ出てこなくてさ。けど、こういう凄い若いのに成功を収めてる奴が世の中にいるって思うとすげぇなー羨ましい、俺もそうなりてーとか夢見ちゃうわけですよ」
「わかるな、その気持ち。同い年でオリンピック選手してる奴とか。今は皆年上だけど実質そんな離れてないんだもんな。四つ年上ってだけで、すげー大人に感じる不思議とかさ」
あの自分とは生きる世界が違うんだ、と感じる言いようのない憧憬は中々に度し難いものがあると楔は感じている。かくいう自分自身もまた御曹司という立ち位置を鑑みれば世間一般から見れば、贅沢な悩みとしか言いようもないのだろうが。
「でもまあ、一番気になったのはやっぱ身近なニュースだったかな。楔たちも見てるだろ多分? なんか連続殺人鬼が出没してんだって神奈川県内で。茶髪の女性ばっか殺すっていう変わった殺人鬼」
「それは俺も聴いたな。なんせ、一か月前に脱獄犯の一件があったばかりだから、またかって気分で聞いていたよ。菊理は見ての通り、黒髪だから安心したが――それにしたって、茶髪とか範囲が広い殺人対象だよな」
「なー。なんか茶髪の女に恨みでもあんのかね? こっぴどく振られたとかそういう」
「さてな。だが、暴行の痕跡が酷かったらしいと聞く。テレビで見てたが、周辺の器物損壊も起きてるそうだから相当の怪力がある大男じゃないかとコメンテーターが言ってたな」
「酷い話だな。女性へはレディファーストと礼節が一番だろうによ」
「はは、何ていうか楔って本当に女絡みは紳士みてぇなとこあるよな」
「目つきが怖いからな。態度で見てもらうしかないんだよ」
如何せん、楔は自分の目元が怖いと実感している。なにせ、やたら眼光が鋭いのだ。そのせいで幼少期から御曹司の息子でありながら随分と不良のように見られてきたし、不良にすら同胞だと思われた事もある。心外この上ない話だ。
「兄様の目元は菊理は好きですよ? いつも犯されてしまう、と、ゾクゾク昂ります」
「兄の目つきで最悪な印象の妄想を膨らますのは止めような、愚妹。はっはっは」
ぐりぐり、と自分の胸元程度の高さにある丁度良い頭を拳で愛でる事とした。「兄様! 痛い、頭痛いです兄様! 痛いのは下半身の方が嬉し――ふみゅっ!?」ゴンッ、と最後に一発、愛の拳を振るうのも忘れない。
「にしても物騒だよね、最近はほんと。こないだ脱獄犯が逮捕されたってのに、次は茶髪狙いの殺人鬼だぜ? しかも被害者皆女性ばっかと。なんかやるせないよなぁ」
「まあな、しかも殺人鬼の方は徹底して殴殺と耳にしているし、相当な恨み様なんだろう」
「殴り殺すとか怖すぎでしょ。刺殺とか撲殺より恐ろしいよ」
「素手だからな、凶器が。正直、なんの獲物も持ってないってのが殺人犯としてはある種一番厄介だろうよ。持ち物検査してもわかりにくいし、何か獲物を持たなくても殺しに移れるんだからな。早く捕まってほしい限りだ」
「ほんと、怖ぇもんね。僕は女子じゃないから狙われないけど、でもそういうのに遭遇したらついでみたいに殺されそうな気がするし」
「言えてるな。ありえそうだ」
「楔も気をつけろよな? お前、正義感強いし、突っかからんようにしとけよ?」
「兄様、それは菊理も懸念します」
「せんでいい。いくら俺だってそんな素手で人を殺せるような怪人に勇んで挑むような真似はしないっての。即通報だよ」
「へへ、ならいいや安心した。後は――近いうちにやる各国首脳会談のニュース見たけどやっぱインパクトあるよねー感じだったかな」
「首脳会談? 政治ネタ苦手なくせして、その辺ちゃんと見てるんだな」
「失礼だなあ、楔は」
「で、どこがすごかったんだ?」
「そりゃあ靖方総理だろ! あの人がテレビに映るとなんつうか貫禄? 威風? まあ、なんていうか襟元正して正座したくなるじゃんか」
「政治割と関係ないよな、それ……」
咲夫の発言内容を理解して楔は思わず苦笑いを浮かべていた。
靖方総理大臣。言わずと知れた現在の日本国首相である。
「私は好ましく感じますよ兄様?」
「俺もだよ。まあ、あの人は凄いからな。普段から和装であり公の舞台でも和装ってことで就任初期に話題を集めた人だし。その圧倒的な才覚と威圧感もそうだったがな」
「けどかっこいいよね和服。様になってるし」
「全くだ。まあ、感化されたのか翌年、中国元首までチャイナ服で公の場に出るようになった事は正直驚いたがな」
脳裏に浮かぶのは、和装に身を包む仙人のように髭を生やし厳格な面持ちと峻厳な眼光を煌めかせる総理大臣の姿と、新進気鋭若き君臨者として新たな中国を背負う国家元首の佇まいである。
「確か藍国家元首だっけ。すげぇよなあの人も。今の中国を背負うってのも相当覚悟がいる事だと思うし。その上、絶世のイケメンだし。なにあの甘いマスク」
記憶を少し掘り起こしても、政治的話題――もとい国際的な関心事を思い起こせば、それだけでも昨今は歴史が変動した時勢と言えるのだろうと楔は考えている。
事実、テレビ画面でも最近の国際情勢は変動が激しいというフレーズをよく耳にしているのもあって今の時期は何がしか変動期のようなものなのかもしれない。
「しかし、お前さっきから顔に関してしか言ってなくないか?」
「はは、政治話題難しいからよくわかんないんで!」
「ダメじゃねぇか……」
「それよか凶悪犯罪の方がわかりやすいし、危機感も持てるし、関心が向くんだよなー。他は面白ニュース見てのほほんと出来れば最高なんだけどさ」
そんなことをぶつくさ呟いていると、菊理が少し不満そうに、声を漏らす。
「菊理としては、そろそろニュースよりも読書などのお話で有意義に過ごしたいものですが」
「おっ。菊理ちゃん読書家だもんね。いいよいいよ、何の漫画の事話す?」
「咲さんは相変わらず漫画に詳しいのですね。何か面白いものがありましたか?」
そうして次第に他愛ない会話へと移ろってゆく。
そんな情景を心地よく胸に抱きながら、三人は学院への道を歩んでゆくのだった。
そこは駅のホーム。
一人の少女が慕う兄へだきっと身を寄せて、涙する。
「兄様ッ! 一時の別れですが……どうかご自愛ください」
「いいから、早く行け遅刻するぞ」
「菊理のこと……何卒、忘れないでくださいね。片時も。片時もです。刹那にも、那由多にも忘れられることのないように。兄様ですから、そんなことはないと信頼を寄せておりますが、一時でも菊理の事が頭から離れるようなことが起きたらと思いますと、菊理は今日の夕餉に自分の血液を混ぜてしまいかねないかもしれません」
「重い! 怖い! そしてはよ行け!」
「兄様。菊理の事を想って自慰に耽られても菊理は決して兄様を嫌いになりませんからね」
「そんなことする兄がいたらむしろ毛嫌いしろ! 家を追い出す様に父に言え!」
「嗚呼、時が過ぎてゆく……名残惜しいですが、最早時間がありません。それでは菊理は行ってまいります。次に会う時はきっと愛を語らいましょうね、兄様――」
最後はもう聞く気がないまま妹を送り出す楔である。ドア付近で妄想を拗らせくねっている妹のザマに無性な切なさを覚えつつも、楔は白いハンカチを振って送り出した。警笛を鳴らして進は蒸気機関車。菊理の好む乗り物である。
「相変わらず色々古風な妹だ……」
「そういや、知ってる? あの蒸気機関車、黒煙吐いてるけど、なんでもウチの科学部が発明した新技術で環境汚染ゼロの発明なんだってさ」
「だからウチの科学部はどこまで先進しているんだよ……」
聞いた話、宇宙科学部という宇宙テクノロジー研究部署もあるらしい。学院の規模もおかしければ、科学部の技術もおかしい場所――それが芳城ヶ彩である。
ともあれ。
「いやぁ、傍目見てるだけだと、愛する人と離ればなれになる悲しいヒロインみたいな去り方だよね、毎度毎度さ」
「困る表現は止せ。間違いじゃないぶん、厄介なんだからな」
「相変わらず、求愛されてるんだねーいいな、羨ましい。俺が兄貴だったら妹と一線超えちゃってるよ?」
「嘘こけ、お前それほど無節操野郎じゃないだろ」
カーン、と手の甲で相方の頭を軽く小突く。「いてっ」と小さな声が漏れてから微笑が漏れた。
「はは、ま、それ言われるとその通りだけどな。流石に実妹と恋愛はないしな」
「だろう? 可愛い妹ではあるが、恋愛的な感情があるわけじゃない。必ず妹だしなでストッパーがかかるもんだよ。兄妹ありきだとそう感じる。というか、妹より普通に赤の他人の女性が恋愛主観だと輝いて見えるからな」
「ま、正味、妹いたらなーってのは理想像みたいなもんなんだろうしね。こう優しい姉がいたら、とか格好いい兄貴がいれば、みたいな」
「よくわかる。兄妹がいるいないだと大分違う――そんな風に思うからな」
深く耽る様にそう零していた。
あんなに困った妹もそうそういないのだが、それでも楔にとって菊理は愛すべき妹だ。やたら困った次元のブラコンを発揮しているが、一緒にいる事に心地よさを覚える事もあれば、騒がしさに心潤う場面も多々ある。
「正直、兄妹仲で言うなら新橋兄妹辺りくらいが理想的なんだろうがな」
「ああ、あの二人ね。仲良いよねー。年齢が年齢だし血縁無いんだろうけど、本当の兄妹って感じするもん見てて。ま、喧嘩ばっかの兄妹関係も兄妹らしいって印象抱くけど――楔の場合は禁断の関係って感じだし」
「言うな、死にたくなる」
「でもまあ、新橋さんも結構ブラコンって聞いてるし、菊理ちゃんは――まあ、ブラコンだなありゃ。妹って結構、格好いい兄貴いるとブラコるんかね?」
「ブラコるってなんだよ。まあ、わからんけどな。というか俺は新橋ほど格好良くはないぞ」
「はは、けど正義漢って意味で頼れる兄貴だと思うぜ。楔って昔から悪は見逃さぬ、困っている人は助けるって感じじゃんか」
「当然だろ。目の前で明確に悪があるなら、見過ごす事は良心の呵責が許さん」
「はは、すげー。相変わらずだよな」
「変わるわけがないだろ? それは人として当然の在り方だ」
「そういうの僕はすげーかっけーって思うぜ? ホント、昔から変わんないもんな」
「当たり前だ。ぶれないさ、そこは」
楔がそう真剣に声音を響かせると隣の咲夫はニッと快活な笑みを返す。
明瞭に仔細を語る事は必要ない。なにせ、咲夫は理解者だ。だから、その笑みだけで楔もまたニッと力強い笑顔で返し「うわぁ、笑い方怖いよ悪党みたい」結構発言にしょげた。
「度々、自分の目元に嫌気が指す……」
「怖いもんな、お前の目元。ニヤって笑うと凶悪犯みてぇだし」
「お前もう少しオブラートに包む気はないのか?」
「はは、悪い。けど顔はともかくやっぱ楔はかっこいいと思うぜ? そんな風に、誰かの為にってやれる男がかっこ悪いわけないんだよ」
「そういうものか……?」
「そんなもんじゃね? ――ま、話し戻すけど菊理ちゃんの重篤ブラコンに思うとこもあんだろうけどさ。あんだけ可愛い子から兄様、兄様慕われてる自分の幸福は、ちゃんと理解しておきなやがれ羨まけしからん代わって許さん」
「急激にテンションが激変するのは止めろ、驚くだろ。内心でどんな嫉妬が湧きあがったんだよ、お前は」
血涙流す所存な咲夫を隣に楔は可笑しそうに苦笑するしかない。
「だが、わかっているさ。菊理はいい子だからな。多少困った育ち方はしているが、道徳観念を見誤った精神性にはなっていない。あいつが妹で俺は幸せ者だよ」
「……そか。ならいいじゃん」
ニッと隣で咲夫が破顔する。その通りだ。なんやかんや言いながらも楔は菊理の事を妹として愛している。無論、恋愛関係はなんとしてでも矯正させるが、それを差し引かずとも、菊理は良くできた妹なのだと感じている。
一人息子だったら味わえない幸福が確かにそこに根ざしているのだから。
「はー、けど、やっぱ羨ましいや。俺も兄妹誰かいたらなーとか少しだけ思うし」
「はは、ありがとよ。だけどまあ、一人にも一人の良さがあるんだろ?」
「気兼ねないとか、おさがりがないとか、そういうのはあるな」
にっと咲夫は破顔する。
そして次には笑顔が掻き消え、切実さの帯びた表情へ変化し、ガッツポーズで心中の感情を発露した。そして途端にくねくねしだす。
「でもやっぱ時々はさ、こう――弟君♪ とか、お兄ちゃん♪ とか呼ばれたい気持ちがあるわけですよぉ。わかりますかぁ、あなたあ!?」
「だから急激にテンション上がってびびるんだが。脳内でどんな興奮が起きたよ」
「いや、想像したらやっぱ可愛い姉妹いる男とか殴って蹴って鼻フックしたいなって」
「暴力の振るい方がやたらリアルでドン引きだぞ、お前」
「そんだけ、姉妹のいる男はこういない側からすりゃ羨望って事っすよ羨望! いたらうざいだけ? いらねぇんだよ、そんな仮定! 実際にはそんな甘々な光景生まれない? 知らねぇんだよそんな現実! そもそも体感する機会さえない奴らの気持ちがいる側にわかるかあ!」
「熱意は凄く伝わるから落ち着こうなー。さっきから何あの子みたいな視線が向いてきて地味に切ないぞ、俺ら」
「ぐえー。だってさー」
そこを指摘されると諦めたのか鞄を背中へ回して嘆息する咲夫。
語る咲夫にとって兄妹がいるというのは羨ましい光景でもあるのだろう。
同時に叶わぬ光景でもある事を、楔は知っている。友人である楔は咲夫の家庭環境を理解しているのだから当然か。
(――咲夫は、母親と死別しているからな)
幼少期の病死とだけ聞いている。
(だから、咲夫の父親である栄助さんが再婚でもしない限りは――だが、)
再婚がないだろう事は咲夫自身理解している事だろう。
だからこれは父親には決して話さぬ妄想話。少しだけ思春期男子が抱く理想というだけの話である。理想で終わればそれでよし。夢を見れればそれでよい。そのくらいの淡い期待に過ぎないのだ。楔に出来ることは、それはのんびり聞いて相槌をうつ。それだけでいい。
そうして少しの間、咲夫は姉の理想像と妹の理想像を熱弁した後に、一通り満足したのか現実へ回帰すると、美花赤女学院の校舎がちらりと遠く山頂に佇む優美なさまを一瞥した後にぽつりと漏らした。
「にしてもさー、楔」
「うん? なんだ?」
「今更聞くようだけど、高校生活で親父さん仕事関係で忙しくなって、離れて暮らす事になったわけだけど、よく兄妹二人きりで生活を許されてるよな、親父さんに? 正直、菊理ちゃんがあれだと俺が親父なら絶対許さない気がするんだけど」
「ははは、本当に今更だな咲夫」
「いや、だってなんかそれが決まった当初はなんか『訊くな』みたいなオーラ出ててなんとなく聞きそびれてたし。」
からからと楔は破顔する。本当に今更な質問過ぎて笑いが込み上げた程だ。――苦い笑いだったが。
「親父さんは気づいてないとか? まさかないよなそりゃ。いくら多忙な親父さんったって、正直気づかない要素ないしな」
「無論だ。幼少期から『兄様と結婚するー』とか言い続けてた妹だから、親父は普通に気づいているぞ? 『ダディは? ダディはどうなのかなー、菊理ちゃんや。菊理ちゃん、ダディはどうなのかなー? 息子テメェ』とか威圧されたな。ともかく、まあ、単純な話だ」
「単純な話?」
「ああ。学院通うから二人暮らしって事になってからは普通に『菊理に手を出したら、絶対に殺すから』と念を押されてある」
「はは、おっかねぇ冗談だな」
「いや」
ふるふると、楔は首を振って――光の灯らない目で言葉を続けた。
「やべぇよ、アレガチの言葉だったよ……。息子を手にかけても本望、仕方なしってレベルだったんだぜあの目……笑ってねぇんだよ……」
「は、はは……」
淡々と。本当に冷淡に感情の灯らぬ声が空しく響く。親友の口から発せられた完全に何もかも悟った様な口ぶりに『考えすぎだろ』などと口が裂けても言えぬがため。
そこからしばらく――交通用のバスに乗車するまで二人は終始無言だった。
4
登校した友人との語らい。教師による朝の連絡。
いつも通りの日常と授業風景を経て、またいつものようにその時間はやってくる体育の授業時間。芳城ヶ彩の三校が一角、白のシラヅキ。その一年生玄関口では大勢の生徒がジャージ姿でにぎわいを見せており、その中で一人精悍な顔立ちの生徒が外へ出るや否や、眩しさに顔をゆがませる。
「日差し良好、燦々日光、お天道様よ、疾く顔隠せって気分だわ体育の授業だと」
隣で呻くような同級生の声が響く。
陽皐秀樹は輝く晴天を仰ぎ見ながら「ふー」と脱力する様子を見て、楔は「良かったな」と軽く肩を叩く。
「今日は体育館だ」
「行くまでも暑いんよ」
「そのくらいは我慢しろ。苗字の陽皐が泣くぞ?」
「陽皐だからってか?」
アホくせ、と楽しそうに笑みを零す秀樹。そんな秀樹に吊られて楔も同様に笑みを浮かべていた。そんなところへ「何してるんだし?」と可憐な声が来訪する。
「お。お天道様が得意そうな名前の奴が来ましたよっと」
「わうー、急になんだろ?」
くしくし、と破顔しながら秀樹が青い頭髪を撫でると日向はわけわからずといった様子で疑問符カーニバルな表情になっていた。秀樹が手を放すと、日向は「うー」と小さく唸りながらくしくし毛づくろいして元の髪型へ整えなおす。
「それで結局なんだったんだし?」
「なんでもねぇよ。大した話じゃねぇしな」
「本当、くだらない話だからな」
「わう、そーなんだ」
名前に太陽関係の字が入ってましたよ、程度の話題は早々に打ち切って「んじゃ、行こうぜ弦巻」と秀樹は先陣切って玄関口を後にした。
玄関から出れば道すがらには大勢の生徒が体操服姿で闊歩するさまが見受けられる。
皆、次の授業のため、体育館へ向かっている最中なのだ。ただし、三クラス合同という形のため、必然人数はほぼ百名近くに上る事から大行列のようにもなっている。
「一クラス増えるだけってのも見た目大勢度増すよなー。俺、中学じゃ二クラスだったし」
「それは確かに言えてるな」
「ま、この光景ももう見慣れたけどよ。人数うんぬんは今更だしな」
「わう。僕は人数より、体育館がすごいと思うし。いくつもあるもん」
「同感だ」
二人揃って日向の言葉に頷いて返す。
なにせ敷地が広大という事もあってか、体育館が一つではなく複数あるのだ芳城ヶ彩は。
「まあ、体育館が複数ってのも理由ありきらしいけどな。半分は部活のためって聞くぜ? ほれ、部活動が場所争い時間争いとかあるだろ普通は? この学院だと、場所が割けない時間が割けないだと、『よっしゃ、建造しようぜ!』のノリが起きるんだと」
「場所が無ければさっさと作ればいいじゃないか、とか金持ち高校の発想は半端ないな」
「およ、鎧潟の家とかはそんな感じ起きないん? 相当金持ちだろ、お前んとこ。【パナドバンス】なんだし」
「おきねーよ。少なくとも、そんなやたらめったら巨大施設作るかよ。利益採算とか見積もるんだから大変なんだぞ一つ作るにしても」
馬鹿言うな、と苦笑を零して楔は返答する。
「僕は、この学校来るまでお金持ちってすごいなって思ってたくらいだけど、舐めてたし。想像してたよりもっと次元が違ったもん」
「弦巻は一般家庭なんだったな、確か」
「ううん、家なき子だし」
「素面で悲しい発言飛び出したな……」
楔が目じりを抑えて俯いていた。秀樹は呆れるように嘆息を灯す。
「こいつのケースだと最早一般家庭とかじゃねぇよな。ガチでお前、家無くて野宿が大半だったんだろ、迎洋園家に雇われるまで。大変だよな」
「俺にはわからん領域だぞ、自慢じゃないが裕福な暮らしを満喫してきたからな。正直、弦巻の暮らしぶりは少し訊いただけでも別世界だよ、まさしくな」
「俺だって似たようなもんよ、鎧潟。家は金持ってるだけで、暮らしは一般水準よか少し良質くらいだからな。でも、弦巻のは最早貧困とかそういうのじゃねぇよ、現代日本じゃなくスラム街クラスだろ、もう」
「わう、スラム街に失礼だし。スラム街よりも暮らしは快適だったし。水は綺麗で、食べ物の取り合いもなかったし、殺人も日常じゃなかったもん!」
「そしてこのガチのスラム街を知っている様な反応……恐ろしくて突っ込む度胸は俺にはまだないね……」
多分、日向に内情を突っ込んで聞けば凄い凄惨な事実がぼろぼろ出てきそうな気がする両名である。前に戦地がどうとか聞いているのもあって、恐らくは想像の及ばない体験談が数多あることだろう。
それを考えるとこの無垢っぷりは良く無垢のままだなと感心すら覚えるが。
「えへへー、僕は今すごく平穏だからうれしーし。お屋敷の人達とか皆優しいからありがたいんだ。お風呂もベットもごはんもあるし!」
「衣食住があるってのは最低限ながら最高だからな」
「従僕として研修中なんだっけか? 頑張れよ、俺達もクラスから同級生がいなくなるとかは寂しいからな」
「わう、わかってるし! 僕も今の職場失いたくないし……私欲だけど、学院から離れたくない一番大切な理由もあるから……うん、頑張るし」
そう可憐に花咲く微笑を浮かべて、熱のこもった眼差しがある少女へ向かうのを楔も秀樹も当然のように気づいていた。隠す気がない莫大な好意。一途に一直線に最大級の恋慕が希う先にいる、後方から友人二人と共に歩いていた少女、新橋エリカはそれに気づいて「はぅっ!?」と一瞬で沸騰した様に赤面を浮かべていた。
「わうー♪」
ぱたぱた、と頭髪が耳の様に揺れて、日向が笑顔に綻べば「な、なんで急にあんな好き好きオーラ放ってんのよ、あいつは……!?」と思わず視線を逸らしていた。両隣の友人たちが「ま、いつも通りだな」、「なんかもうエリカ好かれまくりだもんねっ」と楽しそうに、可笑しそうに親友の恋愛を見守っている。
そして、当然日向の友人二人もまた、その在り様を微笑ましく見守り――、
「こんにゃろくんにゃろい。いい想いしやがってよぉ!」
「わうー!? ぐりぐり、ヤー!」
「はは、嫉妬噴出だな。大人げないぞ陽皐」
「鎧潟君も頭ぽかぽか、ヤー!」
片や頭をぐりぐりし、片やぽんぽんとリズミカルに木魚を打つ如く拳が上下する。そんな嫉妬の祝福を浴びる日向であった。
(――しかし、まあ)
そんな光景を見守りながら、楔は密かに内心零す。
(輝かしいよな、恋愛してる奴ってのは)
そこに脳裏に過った情景と、一抹の寂寥を、大事に胸に抱きながら――。
5
学院での体育の授業は最近になって活気と賑わいが一層高まったと気のせいではなく実感するものは割と多い事だろう。
普段はサボる輩もいるというのに、今現在ではサボりがゼロとは言わないが、それでも精力的に運動を行う姿もちらほらと見受けられていた。その理由としては間違いなく、【大体育祭】が原因だろう。むしろ、それ以外にない。
「まだ授業前だってのに、練習する姿増えたよなあ」
そんな光景を前に感心しながら楔は呟いていた。
「原因はアレだろうかね。MVPには好きな女の子がキスしてくれるとかいう――与太話」
「あるだろうなぁ」
それは最近話題に取り上げられた情報である。【大体育祭のMVPには好きな女子がキスしてくれる】という突拍子もない都市伝説。どこから湧いたかと言えば、難しいが、それでもそんな男心をくすぐる根も葉もない話が実しやかにささやかれていた。
男二人、馬鹿だなああるわけねぇじゃん、と悟った様に平然とした面持ちで零しながら、
((――起きろ! 奇跡、起きろ! そんな淡い青春ラブコメみたいな輝きを寄越せ!))
内心では期待満々だった。
無論、事の発端である淡路島姫海絡みの一件を知る秀樹からすれば、そんな乙女の唇がかかっているような報酬あるわけがないというのは理解している。
だがあえて言おう――だからなんだ、と。
(ああ、わかっているさ。可能性なんてゼロでしかねぇ。体育祭で活躍したMVPには好きな女の子がキスしてくれる伝説があるだの阿呆らしいこと百も承知。だけど――それでも、もしかしたらそんな奇跡が巡りくるかもしれないだろう。だって、体育祭で活躍するMVPとか超モテそうだし! まあ、好きな女子とかいねぇけどかわいい子なら大体OK!)
根拠。理屈。そんなものすべからく埋没せよ。
起源に信憑性が皆無など百も承知――しかし、もしかしたら本当に奇跡が起きるかもしれないとか、そんな本当に馬鹿な事を考える男心でもあった。
それになにより――、生徒たちが自主練に励む理由が、主にそれだったからである。
「ただの都市伝説でここまでやる気になれる辺りが、馬鹿だよな俺ら」
「仕方ねぇさ。男は理屈に生きる生き物じゃねぇ。伝説に生きたい生き物だからな」
「しかし本当にどっからそういう都市伝説が出てきてたんだ? お前に聞いた限りじゃ、淡路島先輩が絡んでるんだろ、その話題の根幹は」
「ああ、恭介先輩が言ってたんだけどな。先輩曰く『俺たちの絡みだけでそこまで話題が肥大化するのも不可解だ。となると、そういう青春ラブコメが昔から連綿と続いていたりしてたんじゃないのか?』って言ってたぜ? 要するに、体育祭で活躍した奴が好きな女子と結ばれたりがあったんじゃ――って事らしい」
「なるほど、納得できるな。確かに芳城ヶ彩なら、そんな甘酸っぱい出来事もありそうだ」
この学院ならば――もとい、学校という青春謳歌の大舞台で、そうした羨ましい出来事が起きていたという可能性も無下には出来ない、とそんな想像を膨らませた。
「で。どうなんだ陽皐は?」
「なにがだ?」
「いや、いるのか、キスしてほしい子とか」
「じつのとこかわいい子なら大歓迎ってやつだな」
「いないんじゃないか。手広いな」
「まぁな。正味、いまんとこそんな相手はいねーや。つうか、目移りしそうになるほど、この学院って美少女、美女多すぎるんよ」
「それは同感だな。顔面偏差値高いからなシラヅキは。でも、あの子はどうなんだ? 確か明日香だったか」
「メチャクチャ可愛いし、いい奴だけどそういうのとはまだ違ぇかな。かくいう鎧潟はどなん? キスして欲しい相手とか」
「いないな。枯れてるだろ?」
「枯れてんねぇ、確かに」
「しいて言えばお前と同じで、美人な女子なら大歓迎ってやつだな」
「はは、本命いねぇと本当そんなんだよな」
「ただまあ、無理にとは思わないかな。してくれるって相手がなったんなら、お願いしますよろしくやったぜにはなるんだが」
「そうだな。無理にゃ俺も頼まんよ。やってくれるって女子が言ってくれさえすりゃあうっしゃあお頼み申す、出来りゃあ口同士でってなるんだけどよ」
そうして互いに「「ま。ありえんよなぁ」」と寂しそうに零す。
胸に本当、微かな期待を残しながらも。
そんな風に馬鹿話に花を咲かせていた二人だったが、秀樹の方は体育館の壁掛け時計を一瞥すると、「んし」と体をくっと伸ばした。
「んじゃま、そろそろ時間になるだろうし俺は行くわ。ストレッチ組まねぇと」
「弦巻とだったな」
「おうよ、あいつ組体操だと面白いんだぜ? 背負って体伸ばすやつやると『わにゃー』っておもしれぇ悲鳴上げてな」
からからと楽しそうに笑う秀樹。そりゃそうだ。比較的背の高い秀樹と男子としては小柄な日向が相手すればびよーんと伸ばされて楽しそうな光景を楔も目撃している。
「お前ら仲良いよな」
「そりゃあたぼう。ダチだしな。っと、んじゃ行くわ。問題は弦巻の奴、どこいるのかね、なんか見通す限りじゃいねぇし……新橋のとこか、やっぱ? ま、探すか」
そう零して秀樹は足早に去っていった。
「さて、俺も行くか。鉛どこだろうな」
話し相手も終えたところ。楔もさっそく、クラスメイトと組むべく探しに歩き出そうとした、丁度その時、思いがけず声がかけられる。
「鎧潟。少しいいか?」
見れば、それは体育教師の一人だった。確か、Fクラスを専ら担当している体育教師だと記憶しているが話しかけてくる理由があまりわからない。怪訝なまま、問いを発す。
「先生? どうかしたんすか?」
「ああ。お前確か割と仲良かった方だよな」
「――――は?」
怪訝そうに眉をひそめる楔に対して体育教師は「実は頼みたいんだが――」と、口を開いた。
体育館を見渡し、目的の人物を発見した楔はその場所へ足を運んでいた。
(先生も中々難儀な事を頼むな、おい)
先程、体育教師から依頼された内容に頭を悩ませる――というほどではないが、それでもアイツそんなことになってなのか、と気づかなかった自分に若干辟易としていた。
クラスが一緒ではないからしょうがないにしても、割と授業中絡むことが多い方だというのもあって多少なりし責任感というものが感じられていた。
隅の方で腰を下ろして物静かな様子に意外さを覚えながら歩いていくと、そんな目的の人物――鼎竜胆の隣へ、子犬のように駆け寄る少年の姿が目に映る。
「鼎さん、へーき?」
子犬のごとき少年、日向は、ちょこんと体育座りして竜胆を見つめていた。竜胆の服の端っこをちょんちょん、くいくいと引いて話しかけている。相も変わらず子犬が大人しくお座りしているように感じられるのが、何とも言えず不思議であり、微笑ましく感じられる。
頭髪の一部をぴこぴこっと動かしながら――相変わらず原理は不明だが――地面に腰を下ろして鎮座している竜胆へなにかを尋ねかけている様子の日向がいたのだった。
対する竜胆は少し神妙な面持ちで「……なにがだ、弦巻?」と問いを発す。
「んーとね。なんだかなんか変って思ったんだし」
返答は実に要領を得ないもの。有体に言ってしまえば曖昧模糊な発言に、楔は様子を見ながら眉をひそめた。なんのこっちゃと疑問が湧く。
だが、日向の言は竜胆からすると反応すべき内容なのか。竜胆は困ったように口を開いた。
「もしかして、顔色悪いのか、オレ?」
「わうー……」
その言葉に日向が困ったように小首を傾げた。当人も何を言えばよいのか、判然としていない。そんな様子が見受けられる。だが、当人がそんな言葉を吐いたという事は、
(もしかして体調不良なのか、鼎?)
と、自然にその可能性にいきついた。
「なら、心配するな。別になんにもないぞ。そのはずだからな」
「そーなの?」
「ああ、そうだ」
「わう……、でもなんだか……うー」
釈然としない。日向の様子はそういった形だった。だがかといって無理に阻む理由もない以上は言葉が浮かばない様子である。そんな日向の頭を軽く撫でて竜胆は告げる。
「オレは大丈夫だ。それより準備運動始まるから、早く行ったらどうだ? 陽皐と組むんだろ」
「わうー……」
むむむ、と、日向が何とも言えず難しそうな表情で唸るのを見て竜胆は「別に何ともないからさっさと行け」と、ぽんぽんと頭を撫で終えて、日向は「うー、じゃあ、わかったし」と渋々ながらもちょこちょことその場から離れていった。
会話が終わった様子を見計らい、楔は静かに足を進めて、竜胆の傍へ歩み寄る。
「何の話をしてたんだ?」
「立ち聞きか? よくないぞ」
「そこはすまんな」
「ま、いいけどな。そんな大した事を話していたわけでもないし」
「というか要領を得ない風な感じだったな弦巻は。抽象的というか……まあ、あいつは感覚的って感じだからそうなんだが」
「感覚的、か……」
楔がそう肩をすくめて零すと、竜胆がやたら悩ましそうに口元に手を当てた。
何か悩む事でも湧いてきたのだろうか、と訝しみはするものの無暗に踏み込むのも憚られるため楔はそこを指摘せず、走って行った日向が秀樹に向けて「秀樹君、たいそー、たいそー!」。「おうし、行くぜ弦巻背中合わせで足がつかない恐怖を食らえー!」、「わにゃーっ!?」と溌剌ハイテンションで促しているのを一瞥し、ふと思いついた様子で口を開く。
「弦巻は平気みたいだな」
「なにがだ?」
「いや結構近距離だったからな。ちょんちょん、くいくいされても何てことなさげに見えたから。お前潔癖症なのに」
「……」
言うと、何とも難しそうな――けど、少し怒気を含んでいる気がしないでもない――そんな微妙な眼差しが向いてきたが、数秒後諦観したように怒気が霧散して嘆息を零す。
「……ま、そうだな」
「そうなのか」
「ああ。初めて邂逅した時は、女子に狼藉を犯した不埒者だと思って怒ったものだが……」
「ああ……」
それは楔も知っている。具体的にどんな出来事があったのかは仔細知らぬが、とりあえず日向が現在最も好意的、懐いている対象の新橋エリカに対してやらかしたというのだけは同じクラスなだけあってわかっている事だ。
(まあ、それが今じゃ新橋自身すごい優しい感じに甘えさせてやってる光景が出来てるから正直数奇なもんだな羨ましいって感じだが――それはまあともかく、)
「今はそんなに悪い印象じゃないって事だな」
「ああ。というか――抱けないだろ、あんな無垢な在り様見てるとな。正直、あの年齢であれだけ無垢で素直な男子とか希少だろ? 後は通学路でたまに【花のお墓】を作る光景が目撃されて遅刻とか割とするのが少し有名でピュアな天道翔とかか。なんにしても、今のご時世、小さい子供でも拗れてたり、捻くれてるような、可愛げのない子供とか多いんだから――正直眩しいよ」
「それはわかる。俺も小学生くらいのガキがやたら着飾ったり、その年齢でそんな知らなくてもいいだろうワード零す様を見てると思うところはあるからな。こう言うと反感もあるだろうが、お前らもっと子供でいろ、とかな」
「そうだ。大人びたい、背伸びしたい気持ちはわかるんだが、なんというのかな。そう、微笑ましいとかそういう温かい気持ちを感じるんじゃなく、まだ早いから止めとけって思う感覚があるんだ」
「代表例は女子の化粧とかか。肌に悪いとか言うよな」
「アレはアレで幼少からの憧れではあるんだがな。如何せんやってみると、あんまり好きなものでもないと気づいたりもする」
そう言って照れたように竜胆は苦笑を漏らす。その発言に一抹の疑問を抱いた楔だが、そんな事は構わず竜胆は言葉を連ならせる。
「ともかく。そういった点、弦巻は無垢だからな。無垢すぎるって言ってもいいくらいに」
「結構、無知なところも多々あるからなアイツ。学校の授業的な知識はあるけど、それ以外の知識がすっぽり抜けてるみたいだし。そこらへん、新橋が最近教えてやってるみたいだが」
「そうか。うちの女子も『新橋さん、最近弦巻君のお姉さんみたい』とか評価してるしな」
「はは、納得の感想だな。実際結構、傍目だと姉みたいに面倒みてるからな、新橋は。弦巻が結構こう手のかかる弟、みたいな具合にさ」
「同年代のはずなんだがな」
「幼い印象があるからな精神的に。反面、やたら成熟した物言いをする時もあるが」
「ほう、そうなのか?」
「ああ。ただ、どちらにしても独自の観点で自我というか芯が強いみたいで中々興味深い奴だよ弦巻は。自分の意思をしっかり持っているというのかな」
「それはなんとなくわかるな。問題点も多々あるが、それでも何となく惹きつける魅力みたいなのがある奴だとオレも思う」
くすり、と微笑を浮かべて竜胆は賛同し、続けざまに口を開く。
「……それと、弦巻の目を見ていると不思議な感慨に襲われてな」
「弦巻の目?」
「ああ。鎧潟は間近で見たりしたことあるか?」
「男同士で見つめ合いとか気持ち悪いだけだろ」
「――ああ、それは確かに」
くすり、と竜胆は苦笑を漏らした後に言葉を続ける。
「ただ、機会があれば――なんというか見つめていたくなるくらい綺麗な瞳なんだよ、あいつの目。碧眼とか見た事あるんだが、そうじゃないんだ」
「というと?」
「もっと純粋に青い。蒼穹みたいに澄み渡っていて、無垢な輝きのくせして、どこかやたら知性的な光がある。たぶん、今まで見てきた中で格別に綺麗な色合いだった」
「それは同感だ。遠目に見てても青くて綺麗だからな弦巻の瞳は。だけどまあ、鼎だって相当綺麗な色彩してるぞ。何色も交じってるみたいで」
「そ、そうか。それは、その、ありがとう」
そこでおや、と楔は内心驚嘆する。
無愛想な鼎としては珍しく、花も恥らうといったぐらいに頬を種に染めていたからだ。日頃美少女のごとき容貌で天真爛漫とした日向と比較して表情を変える事が少ない竜胆にしては珍しくて、彼もまた美しい容姿の持ち主なのだと認識する。
「それにしても竜胆も高評価だな弦巻に関して。知性的かというと、少し悩ましいが……」
知性的というには日向は結構わうわうしてて天然系な印象を抱く楔である。
「ま、所見の意見だと思ってくれ。オレも左程弦巻を知ってるわけじゃないしな。ただ、あの瞳の害意の無さとか、邪気の無さとか。どれも話してみると好ましくて」
「だから傍に寄られても潔癖症がでないとかか?」
「茶化すなバカ。まあ、あんな子犬みたいな奴をやたら突っぱねるのもどうかと思うし……ただなんというのかな……」
そう言って悩む素振りを見せる竜胆に楔は怪訝な視線を投げかけると、竜胆は「いや」と簡素に前置きして、
「なんというか視線が逐一温かいというか……」
「……弦巻の視線は割とはなから優しい気がするが」
「あ、うん。まあ、そうなんだよな。見る者すべてにすごい真摯な眼差し向けてくるというのは理解しているんだが……」
ううん、と竜胆が複雑そうなそぶりをみせる。どう表現すればいいのか困る様に。
問答させているとこれは長引きそうだ、と楔はそこで判断し、本題を切り出す事とした。
「ところで、鼎」
「ん? なんだ?」
「組むぞ」
「……うん?」
「だから組むぞ、準備体操のペア」
「……」
すっぱりと放置されていた本題を提示する。日向の事で色々個人的に考えるものがあるのかもしれないが、それはそれ。後で考えろとばかりに本題を口にした。
当然、竜胆は「急に何を言ってるんだ?」とばかりに視線を寄越す。
「オレは一人で熟すからいい」
「知るか、組むぞ」
「人がいないなら他を当たってくれ」
「いたが、組むぞ」
「ならそのペアを大事にするのが一番だぞ」
「過去だ、組むぞ」
「ペアの存在過去にするの早いぞお前!? というか問答無用過ぎるだろ反応が!?」
「いいから、組め」
「うぐ……なんだこの引き下がらない精神……!」
ぬぐぐ、と竜胆が歯噛みする。
おおよそこの手の話題は今までこの素っ気なさで拒絶してきたのだろうが、如何せんそうは問屋が卸さない楔である。何故なら――、
「お前、今日まで誰とも組まずとかないだろう……」
「はぐっ」
本人も痛いところだったのか、ぎくりと肩を震わせた。
「だ、誰に聞いた……」
「先生」
「うぐう」
そこに貴公子然とした姿も、王子様のごとき勇壮さもありはしない。あるのは恥部を晒された、さながら遅刻回数を知られた生徒のごとき恥ずかしさだけだ。
「お前……潔癖症とか言われてるが、そこまで潔癖症とかもう……コミュ症か?」
「う、うるさい! お前には関係ないだろ、クラス違うし!」
「クラスは違うが、お前みたいに変な意味で孤立してる奴見過ごせないだろう」
良い意味で孤立というのが例えば勉学も運動も出来過ぎて優秀な学生像によるもの。悪い意味で孤立というのが素行不良によるもの。そんな風に仮定するなら、竜胆は変な意味での孤立だった。やたら潔癖症のような孤立は得てして印象が悪い。
俺達はそんなに汚らわしいものなのか。お前に触れるのもダメなものなのか――そんな感慨がやがて過るだろうことは想像に難くない。
(これが仮に女子や男子で言う異性に対するトラウマならわかるが、鼎はそういう恐怖的なものと違う風に見受けられるしな……)
少なくとも話していて、近づいていて何かに恐怖する素振りがない。
知った顔に男性恐怖症の少女がいるが、彼女は異性が近づけば明確に恐怖を示していた。その顔と照らしても、違うようにしか思えない。同じクラスの委員長であるエリカは男性が苦手とはいうが、日常的にはそれほど支障は来していないように見える。ならば、エリカ程度の――と考えども、そも性別から話が違う。
つまるところ、竜胆の潔癖症は理由がわからないのである。ただ、一言言えるのは、今はまだ容姿と言動、行動から学院の王子様のごとく持て囃される竜胆も、他者との接触をやたら拒んだ末期としては、孤独な孤立が待っている。
お節介な想像なれど、流石にそれはよろしくない。
「なにも無暗に誰彼構わず触れ合えってわけじゃないぞ。せめて、最低限の事務的な触れ合いくらいは許容しないと、お前生き辛いだろうが」
「あ、握手は出来るぞ」
「そうか、よしなら」
――ぺしっ!
伸ばした手。叩く掌。ほう、と意地の悪い様に見える形相で楔は赤くなった手のひらをさすさすとさすりながら、
「握手が、なんだって?」
「……」
汗と共に鎮座する竜胆。なぜか正座に変わっている。楽して座っていればいいものを。そんな風に感じながら。
「さ。組もうか」
「待ってくれ。後生だから一人でさせてくれ……!」
「理由はあるんだろうな?」
「り、理由は、その…………ぐぬぬ」
ハキハキ答える竜胆にしては珍しいくらいの情けなさが露呈する。とはいえ、これではいけないだろう。理由なしの完全拒否では説明になっていない。何よりこんなひどいレベルの潔癖症を見過ごせるわけもない。
しかし竜胆は諦めなかった。
「そ、そうだ鎧潟! お前、オレじゃなくて他の奴を組んでるはずだろ? ほら、誰だったか、誰だっけ、誰、だったかな……特徴が思い出せないな……普通とかじゃなくて無個性というか……ううん」
「それ本人の前では絶対零すなよ、泣くからな?」
「心得てるよ」
「ならいい。――鉛だよ、鉛。まあ、もう鼎と組む必要が出たんで断ってきたがな」
「切り捨てるとは非道な奴だな! 友達を大切にしとけ!」
「大丈夫だ。割と事務的な間柄だからな」
「悲しい事を言い切るなお前……鉛が泣くぞ?」
と、言われてもその実そんな感じなのだからしょうがない。
楔にとって鉛は同級生だ。友人かと言われると少し困る。咲夫や日向、秀樹といった面々と比較して接触率が少ないのだ。
第一、論点にしたいのは別段、そこではなく鼎自身の事。依怙地なこの貴公子を如何に陥落させるべきか、と考えて楔は奥の手を繰り広げる。
「はぁ。ならしょうがないな」
「ふ。やっと諦めたか――」
「助けてくれ」
「――なんです?」
きょとんと竜胆が瞼をしばたかせた。思いがけない言葉だったからだろう。
「いや、だから助けてくれよ。俺、ペアいなくて困ってるからさ」
その厚顔無恥な物言いに、その取って作った様な悩み事に思わず竜胆は絶句し、
「いやいや、ペア切ったのお前だろう!?」
「なー。自業自得とはいえ、一人で運動とか寂しい奴だなとしか思われないだろ?」
「くっ、オレに跳ね返ってくるような返しをいけしゃあしゃあと……!」
「それも学園の王子に振られて一人寂しく準備運動……噂になったらどうなるかなぁ」
「脅迫してるよな、それ? さりげなく、オレがひどい奴イメージつくよな、それ?」
汗がたらたら流れ出す竜胆。別に周囲が信じようが信じまいがだが、個人的にそれは妙にやるせない光景を生み出す事だろうと想像がついてしまう。
「いやいや、まさか。脅迫なんてそんな。ははは」
「白々しいなお前!」
「だが、そんなに俺と組むのは嫌なのか……泣けるな。俺でも泣いてしまいそうだ。ようし、泣こうかな。泣きたいときは泣けってじっちゃんも言ってたし!」
「本当だよな、それ!? じっちゃん言ってたんだろうな!? 後、それやられると本格的に俺へ白い視線注がれるが、お前も相当変な視線注がれる羽目になるがいいのか、おい!?」
「な。だからさ、困ってる奴を助けると思って手を貸してくれ鼎」
「……っ」
竜胆は言葉に詰まった様子でこめかみをひきつらせ――、
「……はぁ」
やがて、深々と嘆息し、
「――わかったよ。参った。俺の負けだ」
諦めた様子で肩を落としていた。
「お前――底意地悪いな」
「悪いな。お前みたいなの、こうでも言わないと頷いてくれそうになくてな」
「悪いのは目つきだけかと思っていたよ」
「目つきの事は言うな。それに一部からは『わうー、鋭くてかっこいーし!』とか好評受けてびっくりしたこともあるんだぞ」
「言動で誰に言われたか想像つくな」
くすりと、竜胆が微笑する。
彼の三白眼を見て、そんなキラキラした眼差し送ったのはおおよそ、件の子犬であろう。
「まあいい。助けてやるから、ありがたく思えよ?」
そうして、楔の肩を小さく小突いた。
準備運動のペア。物事としては些細なもの。小さな繋がりでしかないだろう。
しかし、楔は喜びを以て前を歩く竜胆の背を負った。こうして友人として繋がりを深めてゆく。それがすごく素敵な事だと思えるから。
後はそう――、
(やってる最中に手が出てこない事を祈るだけだ)
密かな仕返しの一回、二回は覚悟しないとな、とそんな事を考えながら二人はようやく準備体操を始める場所までこぎつけたのだった。
第六章 大体育祭前日譚(1) 金蘭の正義:前篇




