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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Cinquième mission 「夕映えの誓い」
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第五章 ハートフル・ランチタイム(2)

第五章 ハートフル・ランチタイム(2)


        1


 究極的な話。佐良土影郎は一飯の恩というものが、どれほど恐ろしいのかを今から恐怖していた。戦慄していたとさえ言えるだろう。

 昼飯を友人に奢ってもらう。なるほど、なんと青春の一ページなのだろう。財布を忘れてしまい昼餉にありつけずにいそうであったところを助けられる。「ありがと、マジ感謝する!」と手を合わせ感謝の念を発する光景に違いない。

 だからきっと――、この光景に間違いはないはずなのだ。

 きっと。――きっと。

「…………」

「いやあ、佐良土君が俺のクラスで一緒に食事してくれるなんて、俺感激だよ!」

「…………そうか……」

「ああ、嬉しいの一言に尽きるね!」

「…………よかったな……」

「まあ初めの友達に借りるですこーし傷ついたけどさ。ったく、隣に友人がいるのに俺は除外ってどゆこと? って感じにさ!」

「…………悪かった、かもしれない、いや、そんなはずは……」

「ま、謝る必要はないよ。さ、食べようぜ佐良土君!」

「…………ああ、いただきます……」

 購入した丼型の弁当を前に手を合わせる。王道的にかつ丼だ。

 湯気がほかほかと実においしそうな匂いと共に影郎を刺激する。早く腹にかきこみたい衝動にお腹が『ぐ、ぐぎゅぁぁぁぁぁぎゅぐぎゅぐ……』と何かに怯える様な唸りなのは気のせいだろう。そんな風に今、影郎は目の前の食事を目と鼻で楽しみ――、

「……おい、アレ佐良土だぜ……」、「ああ、Dクラスのな……ワッキーに目をつけられてることで有名な……」、「遂に俺らのクラスで食事するまで、篭絡されちまったのか……」、「なんていうか見てて可哀そう」、「言っちゃダメよ。それにもしかしたらもうそっち側にいっちゃってて幸せかもしれないじゃない……」、「いいや、俺らにゃわかる。アレは絶望の顔だ。まだ踏み込んでない、だが戻れないところに捕まり始めた……そんな絶望の顔だ」、「なんにせよ時間は限られてるかもしれないな……」、「昼飯時に切ないもの見ちまったぜ……」、「おかーさんあのお兄ちゃんなんで泣いてるのー?」、「し、見ちゃいけません」、「おい待て誰だ今の幼女」。

 ――耳で、苦しんでいた。

(…………なんでだぁああああああああああああああああああああああああああ!!?)

 内心で絶叫し悶え苦しむ。

 ただ友達と食事する光景でどうしてこんな憐みの視線を向けられているというのか。ギンっと鋭い視線で彼らへ一瞥する。屈辱ではない、むしろ救援要請だった。視線を向けると、「……がんばれよ」という穏やかな――同時に関わり合いになりたくなさそうな傍観者の眼差しが返ってくる始末。

 明らかに昼休み、友人とご飯の光景に向くべき視線ではなかった。

 むしろ冤罪の死刑囚に対する最後の哀れみのようですらある。

「なにしてんのさ、佐良土君。早く食おうぜ? 昼の時間だって、そんないつまでもあるわけじゃないんだからさ。芳城は普通より長いけど」

「…………ああ、そうだな……」

「んじゃ、いっただきまぁすっ!」

「…………いただきます」

 感謝の言葉と共に腹に飯を掻き込んだ。美味い。影郎の購入したものはボリューム満点のかつ丼なわけだが、やはりジューシーかつ味が深い。よほどとんかつに適した豚肉を使用しているのだろう、卵も美味で文句のつけようなく大衆好みの味というほかない。

 体育の授業明けに、これはまさしく最高の一品というやつだ。

「…………」

「佐良土君? どしたよ?」

 影郎はむーん、と少し表情を難しくさせながら、

「…………いや、サンクスなワッキー。食ったらやっぱ腹減り痛感した。昼飯食えなかったら相当きつかったなって感じてさ」

「ははは。そんなことくらい一々いいって。おごり一回くらい気にするなよ、佐良土君」

「…………そうか。そうか、ありがとな」

「おう。ま、なんなら俺が財布忘れた時に助けてくれよ佐良土君」

「…………忘れるなよ財布くらい」

「それ佐良土君のいえたことじゃないよなあ」

 けらけらと互いに可笑しそうに罵り合う。

 ――そうなんだよな。

 ふざけあい、笑い合う。その光景はなんのことのない友人同士の駄弁り合いだった。

 普段つっけんどんと対応せざる得ないとしても、仮にも友人だ。

 だから一緒に馬鹿やる事が楽しくないわけがない。そう、尻堀町野分という少年が比較的良識的なのを知っているからこそ、影郎はなんだかんだ関わっている。畜生のごとき変態だとしても、一応友は友で良識的な少年なのだ。

 一部を除いて。

「あ、佐良土君、手に米粒ついてるぜ。よいしょっ。あむ」

「…………」

「ああ……佐良土君の汗の味がする」

「…………」

 ――肝心の一部。欠落した部分の常識の酷さに影郎は絶望を禁じ得ない。

 まあ見てくれ。影郎はシニカルな笑顔で鳥肌状態になった右手を見やる。産毛が逆立って悲鳴を上げているではないか。そりゃそうだ。

(…………相手が女子だったら……! 女子だったならば……!)

 こんな苦痛は味わわなかったに違いない。

 何が悲しくて男相手にこんな真似をされねばならぬのか。眼前の筋肉質な少年に対して恐怖と殺意が過ってくる。これが女生徒相手だったならば至福の一瞬だったはずなのに。

 かといって野分が仮に女性だったらという仮定も嫌である。

 というか野分が嫌だ。野分の女体化など価値すらない。

 つまり野分が嫌なのだ。

「…………あれ、なんで俺、こいつの友達枠なんだろ……」

 掠れた疑問の声が喉から漏れる。

 友に利害関係など求めない影郎だったが、野分には普通を求めたい気分であった。主に根源的なものを。

 当の野分は「ん? なんか言った?」と疑問を呈していたが、野分と話す気分など起きない起きない。代わりに何か周囲から『うわぁ……』みたいなひそひそ声が聞こえてくるのが無性に切なかった。

(…………誰か、助けて)

 虚空に向けて内心を響かせる。

 誰か来てこの場を騒がしくしてくれないかな。そんな事を願う影郎であった。

 そしてそんな願いは程なく叶う形となる。

「あー、腹空いた。はよメシメシ」

「だな。早く食って校庭でサッカーしたいし――と、あれ。佐良土だ」

 ガララ、と教室の扉を開けて入ってきたのは二人の男子生徒であった。野分と同じクラスメイトである。爽やかな空気を纏ったイケメン二人。どこか赤色がかった黒髪をしたグレーの瞳を持つ少年が長谷部(はせべ)(すみ)。艶のあるストレートの黒髪に黒目をした少年が所沢(ところざわ)心太(しんた)である。

 そんな二人の片方、長谷部が席に戻る傍ら、友人たる所沢の言葉に視線を向けると、少し目を見開いてから――静かに哀切の念を灯した。

「おっ。佐良土がいる。……そっか。そういうこと、か」

「…………待て、長谷部。その反応はおかしい」

 友人と昼飯。その構図でそうなる理由はわからんでもないが、止せと影郎は泣いた。

 しかしみなまで言うなわかってるとばかりに小首を振る長谷部。そんな長谷部の肩を所沢はポンと手をおいて、

「そうだぞ、長谷部。愛は人それぞれってテレビで言ってるだろ? 俺はいやだけどね、佐良土たちみたいな関係性」

「…………勝手に納得しているな、俺だって嫌だわ、お前らの想像上の俺!」

「おお、正常だな。肝を冷やしたぜ、佐良土」

「そのニマニマした笑顔を俺は殴っていいと思うがどうだろうな、長谷部」

 はっはっは、とからかい空気で笑顔を浮かべ肩を叩いてくる長谷部に対して影郎は不穏な空気でそう告げるが少年はまさしくどこ吹く風といった空気だ。

「けどまー、なんにせよ珍しいなおい。佐良土がうちでメシなんてよ」

「だな。おかげで一瞬、あっ、てなったし」

 あっ、ってなんだ。そう言いたい気持ちに駆られるが、返答が怖いので止しておく。

「…………財布を忘れてな」

「あっ。……そっか、まあ時々あるよな!」

「…………待てなぜ今反応出た」

「……いや、そっからズルズルとかなって思ってさ……」

「…………」

 嫌だ。止めて。そんな怖い想像しないで。

 そんな念が瞳から伝わってきて、長谷部は思わず「わ、悪かった」と謝っていた。

「ま、まあアレだろ?」

 そしてぽん、と手を叩いて、野分には聞こえない様に、耳元に小声で言葉を発す。

「ちょいアレだけどよ。なんかこう気になる女子の事とか、アイドルの事とか妄想して興奮出来てるうちは大丈夫ってやつだろ」

「…………言ってる内容中々アレだな、長谷部」

「バーロー。だから口顰めてんだよっ」

 本人もきわどいセリフの自覚はあるようで、軽く頬を赤らめていた。

「けど、確かになあ。不健全って言われればそれまでだけど、ある種健全だよね。女子の妄想して興奮するとかさ」

「……からかってんじゃねぇよ所沢」

「はは、わり」

 親友同士なのだろう、からかう口調の所沢を長谷部は軽く小突いて返す。

 けれど確かにだ、と影郎も賛同する。

 そっと野分を一瞥してみる。するとどうだ。悪寒が体を駆け抜ける。だが愛おしくすら感じる感触だ。なにせ自分が正常であると体が告げているのだから。

 しかしまあ、賛同できる意見と言えば意見だが、少し悩む部分はあった。

「…………なあ、長谷部」

「んだよ?」

「…………それってあいつらみたいにか?」

 あいつら、と言われた方向へ視線が注がれる。

 そこにいるのは三名の男子生徒たちだ。

「うひょー、やっぱでっかっ。流石グラドル!」

「なあ、胸でかすぎで、たわわってしてるんだよなぁ」

「この脂肪のどこがいいのか我にはわからんな」

「「黙れ中二病ロリコン」」

 という昼時に何とも下品な話声に野分は思わず顔をしかめる。

 長谷部は「……いや、あいつらは極端過ぎる例だろう!?」と即断する。

 視線を向けた先には三人のクラスメイトが昼飯と共に、机に広げた雑誌に熱中しながら浮かれた声を放っている光景だった。男子高校生として、らしいといえばらしい光景でこそあるが、やはりその手の話題をこの場で話されるのは迷惑だ。

 ここは注意を促さねば、と野分は立ち上がった。

「おーい、洞庭湖(どうていこ)君たち」

「苗字で呼ぶなワッキーぃっ!」

 思わず引いてしまうほどの怒号が返ってきた。

 野分も流石に臆してしまう程で「お、おお、すまない……えと、昭凱(しょうがい)君」。

「野郎が俺を名前で呼ぶんじゃねぇえっ! 俺を名前で呼んでいいのは、未来のお嫁さんただ一人ッ!」

「どうしろってのさ!」

 野分は困惑と混乱で絶叫を返す。

 ともあれ、そうであった。野分のクラスメイトの男子である彼、洞庭湖昭凱はそういうやつなのだと思い返す。何故だか苗字で呼ばれる事を嫌い、男相手に名前で呼ばれる事を嫌がる。そんな彼だからこそ、

「え、ええと……どーしょー君」

「おう、なんだワッキー。何か用かよ」

 綽名一択しか呼ばせない。何故だかは皆目見当つかないが、なんとも面倒くさいことだ、と野分は毎度そう思う始末である。

 だが、問題はそこではない。

「……こほん。真昼間からそんなエロ本を広げてるなよ。広げてこっそり見てるだけならまだしも、声大き過ぎだし、もっとボリューム落としてくれない?」

「エロ本? はは、ワッキーは何を言ってるんだか。どこにエロ本があるって?」

「え? そりゃその机の上に――」

 堂々と広げて置いてあるじゃないか、という旨を伝えるが昭凱は「HAHAHA」と、やたらアメリカンな笑い声で一蹴し、

「机の上? 俺には、ご飯とおかず(・・・)しか見えないな。なあ、小根(こね)?」

「ああ。確かに、ごはんとおかず(・・・)しか乗せていない。それが美味絢爛なる食卓の理故に」

「その通りだぜワッキー。ごはんとおかず(・・・)しか」

「おかずにインモラルなニュアンス含めてるよなぁお前ら!?」

「黙れ黙れ! 断じて俺たちはなんとかなんて本なんざ持ってきちゃいねぇ!」

「じゃあ、そこにある物的証拠は何なのさ!」

「これは――女性版ウィトルウィウス的人体図である」

「女性版ウィトルウィウス的人体図!?」

「ああ。だから俺らの勉学の邪魔はしないでくれ」

「言い訳が無茶過ぎる!」

 かつて万能の人と謳われた天才が描きしデッサン。

 それをエロ本の言い訳に使われては天才もたまったものじゃないだろう、と野分は嘆いた。だがなんにせよ認める気配はさらさらない様だ。そりゃそうだろう。学校にエロ本持ってきたのがバレれば没収ののち、厳重注意を済ませて下手打てば謹慎処分だ。

 相も変わらず困った三人である、と野分は頭を押さえた。

 洞庭湖昭凱。小根(こね)桐雄(きりお)浅立(あさだち)若気丸(わかげまる)。野分のクラスでエロを探求する困った三名である。おおよそ野分にとっては関わり合いたくない連中だ。

「それよか折角だしワッキーも見るか? すげぇ胸にやべぇ尻のオンパレードだぜ?」

「俺はパス」

「俺もだ」

「てめぇらモテ組に訊いてねぇよ!」

「お前らはさっさと彼女作って俺らに女友達斡旋しろや!」

「へりくだりまくるから切に頼む!」

「幼ければ、幼いほどよいぞ!」

 清々しいほどクズいな……、と若干呆れ果てた様子を浮かべながら、所沢と長谷部の二人は軽く影郎たちに会釈してから自分の机へと戻っていく。昼食を食べるのだろう。

「ふ、リア充は去ったか。これで心置きなく賢者になれるぜ……」

「君たちってわかってはいたけど、かなりひどいよねある意味で。ともかく、俺は共犯者になる気はないよ。男の大胸筋(むね)の方がいいからね」

「ここで真面目ちゃんめ、と返せない辺りがワッキーだぜ……」

「どういう意味であるか……聞くも悍ましき闇に飛び込む決意はない」

「ん、んな事よかはよ次見ようぜ! パッション! パッションが滾る! どこまでも!」

「くぉぉ……写真なのになめまわしてぇ……!」

「よせ、もう昨日俺が舐めまわした後なんだ」

「なんだとぉ!? あぶねぇ、間接キスになるとこだった! んで、味は!?」

「紙とインク、かな……ふっ」

 理由の大半は下品な上に馬鹿だからである。野分の慕う男とは大違いの惰弱な者たち――野分は内心、彼らを快く思っていなかった。

(なにより、影郎君へ悪影響だろが)

 影郎がそんな淫猥な事を好み始めるのは野分として良く思わなかった。影郎は今のようなクールでダウナーな、そして時にしっかり決めてくれる頼れる姿が好ましい。

 女体を前に鼻の下を伸ばす脆弱な男になどさせてたまるものか、と野分は密かに断じる。

「影郎君も女の脂肪(からだ)より、男の筋肉(からだ)の方が好きだよね?」

「…………え? 今、なんて?」

 男たるもの、マッチョに憧れる事が常なのだ。まずはマッチョ。

 素晴らしい筋肉を得てこそ、男の道は開かれ女性を抱けるというものだろう。まあ野分からしてみれば女性よりも男性の筋肉を抱きしめて、その屈強さを体感したいわけだが。

「ったく、グラドルなんてどこがいいのさ。雑誌にこんな肌を露出させてるなんて不健全だぜ。それに女の裸より男の裸の方がよっぽど興奮するだろうに。ほら、俺の筋肉見てごらんよ? 大胸筋がさ。びくんっ、びくんっ、って躍動してるだろぅ……?」

「きたねぇもん見せるなワッキー風情がぁ! 干しブドウ見せんな!」

「そうだあ! 昼時に飯が不味くなんだろがあ! 野郎の乳首に生えた、うじゃうじゃな毛なんぞ見たくねえ!」

「汝の解放された真の姿は我らが瞳に毒となりうる歪なもの。封じて眠れ永久に!」

「いくらなんでもあんまりすぎる罵倒の数々!?」

 瞬間、馬鹿どもの怒号が炸裂する。一切の否定を許さぬ絶叫だ。己が防衛ラインに入り込まんとする不逞の輩を排斥すべく放たれた言霊はいつにもなく力を帯びていた。

(くそ……尻堀町……! 普段話しかけてなんてこねぇから内心怯えてたら……予想通りに俺らに勧誘かけてきやがった!)

(いきなり自分の裸アピールなんて普通じゃねぇ……やっぱコイツ、クレイジーだ!)

(うひぃぃぃ……尻堀町こぇぇよ……あ、コホンコホン。……この我で恐れを抱かせる、か。やはり尻堀町野分――侮り難し、よな)

 片や軟弱さや柔らかさより筋肉を愛し、男へ尊崇を仰ぐ男。

 片や女体に恋し、日々妄想に励む、こじらせ続ける馬鹿ども。

 両者の思惑が交わる事などあろうはずもなかった――互いへの危機感から!

 馬鹿どもは野分を危険視し、野分も影郎に寄らせまいと馬鹿どもを危険視する。

 しかして、そんな野分の配慮は無情にも、何の価値も生み出さなかった。

「…………少しいいか。俺も話に混ぜてほしい」

 何故なら――当の本人が興味を以て動いたから。

 当然、野分は「佐良土君!?」と悲鳴じみた声を上げる。そんな影郎に馬鹿三人も少し驚いた様子を浮かべてみせた。

「お、おお、なんだよ珍しいな。佐良土がこんな話にかかわってくんなんてよ」

「なんだなんだあ? 無関心にも限度がきちまったかあ、佐良土君よう?」

「…………なんとでも言ってくれ。ただどうか関わらせてほしい」

 ――女がらみのエロい話題に混ざりたいんだ。

 その佐良土の発言のなんたるバカバカしさであろうか。聞く者みなきっと当人の頭を疑うだろう助平の発言に他ならない――本来であれば。だがしかし、発言者は現在、遥か遠き魔境に引き込まれようとしている佐良土影郎である。

 故に、馬鹿どもの理解と同情は早かった。

「佐良土君。何を変な事吐いてるのさ! 君に女子に対する関心なんて必要ないよ! そんな淫乱な話題に関わっちゃダメだ! 女好きになっちゃうだろ! 女に現を抜かすなんて俺がさせないぞ、お前ら! ほら、長谷部君も所沢君もなにか言ってくれよ!」

 などという友人の諫言のなんとおぞましき事か。

 こいつは本気でやばい。素で狂っているとしか思えない影郎である。なお発言を促された両名はそろって興味なさげであった。

「ただいま、昼飯中ー」

「っていうか女の子好きって男ならまあ普通じゃあ……」

 そして、その間に恐ろしき境遇たる影郎の背中をバカ一人がぽんと叩く。

「こいよ、佐良土」

「…………いいのか?」

「ああ。俺たちはバカだからさ。こんなことくれぇしかお前の力になれねぇけど」

「そうだ佐良土。他愛ない話に花を咲かせる。それも悪くないだろう?」

「男なんだ。エロくたって仕方ない。それが真理。だろ?」

「…………ああ……っ!」

「そんな佐良土君! 佐良土君が!」

 涙腺が緩む。もう歳か、と影郎の口をついた。

 バカたちは、暖かな空気と共に影郎を迎え入れる。楽園へ。彼の少年に安らぎを与えんが為にウィトルウィウス(エロ)的人体図()のページを厳かにめくるのだった――。

「……君たち、真昼間からよくエロ本、学校で読めるよね」

「黙れ尻堀町!」

「言葉を間違えんじゃねぇ! これは人体図だっつってんだろうが!」

「…………お前の目が邪だから人体図が人体図以外に見えるんだぞ」

「佐良土君、普段のまともな君はどこにいった!?」

 野分は嘆く。性へ没落してしまったのか、と。

 影郎は呻く。これだ。女の写真を見て興奮する。俺の感性は歪んでいないよかった、と。だが悪魔は這いよる。友が道を違えぬ様にと、それはまさしく猛々しく。

「目を覚ませ佐良土君! エロ本でしか会えない女より、近くの男! だろ?」

「…………それは違う、絶対違う」

 青ざめた表情で必死になって首を振る。こいつの思考回路が恐ろしくたまらぬ影郎である。近くに女もいないのだろうか?

 そんな窮地の同士を助けるべく洞庭湖昭凱は立ち上がる。

「おいおい、ワッキーさんよぉ。お前さん、すこーし過干渉過ぎやしないかい?」

「何を言う、どーしょー君。俺は佐良土君の為を思って――」

「それが過干渉だってんだよワッキー。佐良土はエロ本が好きなんだ」

「…………いや、好きと断言されるのは少し困るんだが」

「佐良土君がエロ本を好き――はっ、バカバカしい。そんなことがあるものか!」

「…………まて、それを否定されるのも違うんだが」

「まあそう邪険にすんなや、ワッキー」

「無理だぜ。俺は佐良土君の友人だからな。友人が道を間違えそうになったとき、その腕を引っ張って押し倒してやるのが友の役目さ」

「…………間違えてるのお前の道だからな……!?」

「友人? 真の友人ならよ……佐良土の事を理解しようとする姿勢も肝心じゃねぇか? こいつがどうして女性版ウィトルウィウス的人体図を見たがるか、わからねぇんだろお前は?」

「そ、それは……!」

「見地を深めるときだぜ、ワッキー。こいつを見れば、佐良土と感想を言い合える。そして中を深められるんだよ――男同士の友情ってやつだ」

「なっ……!」

「そのあとは好きにしやがれ。根掘り根掘りなんでもな」

「――」

「…………なあ葉掘りどこいったの? なんで根掘り二回言ったの? ねぇ、なんで? 深い意味はないんだよな?」

 影郎が言い間違いだよね、と焦る傍らで、野分に電流が走った。

 男同士の友情。それはまさしく野分が求め続けているものだからだ。エロ本――散々忌避し続けていたもの。しかし、考えを改める。忌避がいけなかったのではないか、と。エロい話題から遠ざかろうとするから男友達に困っていたのではないか、と。

 ならば――、野分の選択は一つだ。

「いいだろう。ならば、見てやる、その人体図を」

「それでこそまこと日の元の、もののふ、よな」

 首肯し合うダメ男二人。そんな二人を白い眼で影郎は見やりながら「…………なにやってんだろう俺……」エロ本を見る流れでどうしてこうこんがらがる、と微妙に面倒くさくなっていたりもした。

 しかしエロ本を見ることは外せない。野分が見るというなら殊更にだ。なぜならば、

(…………だが、ワッキーにエロ本を見せるのは最良の一手)

(そうすれば、この男の根源にも真っ当な感性が生じるというもの)

(俺らの不安は払拭されるってわけだよなあ!)

 野分が女体に興奮を抱けば――それすなわち希望への一縷。

 抱かなかったら――考えたくもない、といった気分である。

 さて、どんな無様な形であれ舞台は整った。

 いざ無法の領域へと、佐良土影郎は足を踏み出す。教師に見つかれば即刻反省文執筆確定だ。存外危険が伴うものである。

 そうして学校の昼休みにエロ本を漁りだす面々。

 とはいえ見ていてわかったのは、エロ本とはいえガチのエロ本ではないらしいという事だ。グラビア雑誌といったところか。少なくともコンビニの十八禁コーナーに陳列する類のものではないようで、影郎は内心胸を撫で下ろす。この三馬鹿のこと、そういうのを持ち込んでもおかしくないのでは、という不安があったが杞憂だったらしい。

 雑誌に掲載されている写真はどれも最大の露出が水着姿ほどの布比率だったからだ。

 にしても、ぺらぺらと頁を捲ってみて抱いた感想としては、

「…………しかし見ていて思うんだが、これ熟女多いな」

「どーしょーが熟女マニアだからな」

「ちなみに小根は幼女。俺は痴女マニアだ」

「…………アブノーマル過ぎるだろう」

「んでもって、これはまあ今回熟女特集もやっててな。その関係で昔の有名グラドルなんかもピックアップしてるっつーわけよ」

「正直理解に苦しむがな、どーしょーの感性は。齢八を過ぎてしまった女なぞ、もう売れ残りではないか」

「…………誰か警察を呼べ。小根の感性がヤバ過ぎる」

「ああー……こんな下着姿の女に夜道出会えねーかなぁ」

「…………もういい警察を呼ぼう。ここの連中がアカン」

「あっ、こら佐良土! ガチで携帯を取り出すな!」

 形態のボタンを押し始めた影郎を阻まんと男三人が騒ぎ出す。その後、懇願の末に通報は諦め、影郎も大人しく、彼らの雑誌に興味半分で目を通し始める事とした。そんな中で洞庭湖の持ってきた雑誌に目を惹かれた浅立が驚き呆れた声を零す。

「うわ、古っ。これなんか昔のグラドルじゃねぇか」

「いいだろ、お宝だぜ、ある意味」

「お前の執念には感服するぜ。でも俺この人見た事あんな。三〇年くらい前なのに、すげぇ体してて当時は一世を風靡したくらい色っぽかったってテレビで見たし……今でも通じそうだな、けど!」

「ふーん」

 野分はやたら昔のグラドルを押す言葉になんとなく目を運んだ。

 見れば確かに艶やかな女性が写真写りよく映っている。グラビアモデルに相応しいであろう豊満な体躯と少し小柄な、どこか気だるげな印象の美少女だった。だらしない――悪い意味ではなく、どこか色香の溢れる様なだらしなさを感じる少女の姿に野分は至ってシンプルにモテたろうな、という感想を抱く。

 なにせ昨今こそ日本人女性の発育は食事の関係から良好になっていると聞くが、三〇年近く前ともなれば、まだ現代には程遠く、西洋人のようなすらっとした体形の女性は希少だった事だろう。

 このグラビアアイドルに関して言えば、身長から言えば当時の日本人女性の平均だが、足が長く小柄ながら実に色気に富んでいると感じられた。トランジスタグラマーといったところだろうか。

「……三〇年も前にこれだと絶対目を惹くよね」

「お、ワッキーもそう思うか!」

「だろだろ? ワッキーも、この体じゃあ興奮したろ? ほれほれ、正直になれよ」

 なんとも淫猥な話題に野分は深々と嘆息を浮かべて、首を振った。

「いや、別に、なんとも。こんなグラドルより、佐良土君の筋肉(からだ)の方が興奮するよ」

「…………(ふらっ)」

「佐良土! 気を確かに持て!」、「そうだぞ、佐良土! 大丈夫だ俺らがついてる!」、「変態なんかに負けんじゃねぇ!」、「世間では最近愛の形に理解を求める動き盛んだが、我から言わせれば、その矛先を向けられる我らの恐怖こそ理解せよ!」。

 唐突に膝をついて血反吐を吐いた影郎を野分のクラスメイトらは必死になって支えた。

 肝心の野分は「佐良土君どうしたあ!? 君ら、佐良土君は俺が介抱する! だから佐良土君をこっちによこせやおら! さっさとしやがれぇ!」と絶叫するも「近づくな。近づけばこいつの命はないぞ……!」、「どこの誘拐犯!?」クラスメイトらが彼を明け渡す事はなかった。

 そんな五人の様子は傍目には面白おかしく映ったようで、昼食を終えたのか所沢と長谷部の二人がからかい半分といった気配で戻ってきた。

「おー、佐良土大変そうだな」

「しかし騒がしいね君ら」

「…………せめてお前ら二人も混じってればこんなカオスにはならないんだがな」

「バーロー。普通の感性してる奴はこんな空間にお邪魔しねぇよ」

「…………それもそうだ」

「と言いつつ面白半分でお邪魔する辺り俺たちも大概だけれどな」

「それ言われると弱ぇな」

「にしても本当に君ら三人ときたら学校によくもまあこんだけ雑誌を……」

「まあ、学院のショッピングモール漁れば出てくるだろうけどよ。けども、多いよなあ」

「だね。にしても、ほうほう。流石グラビアアイドル……うん?」

 そうして、ちらりと雑誌を一瞥し、ふと眉をひそめた。

「……おや」

 そして影郎へと視線を移す。その様子に所沢が不思議そうに首を傾げる。

「ん? どした所沢?」

「いや……なんだか、このグラドル、佐良土に似てるな、と思ってな」

「へ?」

「似てないか?」

 クラスの男子の一人、所沢の指摘に彼の友人である長谷部はひょいと雑誌を覗き見てから、なにやらもう生きることに絶望してるような表情を浮かべている影郎を見やり――、

「あ、確かに似てんな」

 と、小さく頷いた。だろ? と、所沢が軽く返す。

 その会話に浅立が「なんだと?」と興味深げな反応を浮かべると、雑誌を手に取る。

「佐良土と、佐津川が似ているなどと――む……」

 そうして、その表情が確かに訝しむようなものへと変化した。

「……言われると、確かに似てる」

「マジか!?」

 驚いたように小根が唸る。そして雑誌を引っ手繰ると「…………洞庭湖、手を放すな奴が来る、奴がくる」、「さあ佐良土君を返すんだ!」、「な、佐良土。雑誌気になるんで悪いんだけど俺も……」、「…………手を放してみろ、ワッキーにお前が如何に素晴らしい男か力説してやる……!」、「よっしゃ、はらからよ! 裏切りなんて許せんよなあ任せろ!」驚いたように声をあげた。

 しかし、友の思念は衰えない。洞庭湖の意識が逸れた好機をついて、愛する友を奪還し喜びに沸くと、そのまま眼球に痛みが走り地べたへと崩れ伏した。実に自然な流れである。

 ともあれ、守るべきものを失った洞庭湖はこれ幸いとばかり影郎の事は置いておいて話題のネタに食いつく事とする。

「ううむ……確かに、これはある種似た空気を纏うか」

「え、マジか小根?」

「ああ。見てみろ、面白いぞ」

 言われるがまま、雑誌を今一度注視してから、洞庭湖は影郎へと視線を向けた。目つぶしで転げまわる野分を光のともらない暗い瞳で見やる影郎の面立ちをよく見張る。

「あー、確かになんか……」

 そこまでで影郎もいい加減、無関係を貫くわけにもいかず、溜息交じりに声を発した。

「…………それで誰が俺に似てるって?」

「ほれ、これ。さっき見せたグラドルだよ」

「佐津川巴ってんだ」

「…………佐津川?」

 影郎はやたら複雑そうな顔で雑誌を手に取った。

 それはそうだろう。男性芸能人ならまだしも、グラビアアイドルに似ていると評されて、どう反応を返せというのだろうか。そもそも、影郎は女顔というわけではない。

「…………隣のクラスの天道や、クラスメイトの弦巻ならわかるが、俺が似ているといわれてもな……」

 そう言いながら、手に取った影郎は思わず「…………む」と顔をしかめた。

 なぜなら――確かに、似てた、からだ。

 非常に不愉快な結果であったが、似ていると感じる部分があったのだ。

「佐良土が女顔とかそういうんじゃなくてさ。顔立ちとか雰囲気? 目元とか、そういうのがなんていうか似てるって感じたもんでさ」

 と、所沢が注釈を入れた通りだろ影郎も思う。

 女顔とかそういうのでは、確かにない。強いて挙げるなら、

「兄妹が似てる、とか、男にしたらこんな感じとか、そういう風だよな」

 という所沢の発言に皆が、それだ! と頷く。

 洞庭湖が声を震わせながら影郎に質問した――頬を上気させながら。

「佐良土……女装に興味はあるか」

「…………無いから安心しろ」

「大丈夫だ。俺の胸パッドを貸してもいい」

「…………待て。何故貴様胸パッドなんぞ持ってる洞庭湖……!」

「にしても似てるよな……もしかして姉弟……!」

 可能性はそれだ、とばかりに浅立が指摘を生むと、洞庭湖が興奮した様子で唸った。

「お姉さんを紹介してください!」

「…………一人っ子な上に、このグラドル亡くなってるってお前ら言ってたよなあ! 三〇年前って言ってたよなあ!」

「つまり、佐良土の母親説……!?」

「佐良土……お前、母ちゃん亡くなってたのか……」

「お母さんを紹介してください!」

 とりあえず洞庭湖は年上に対して見境なさすぎると感じながら影郎は首を振る。

「…………母の名前は佐良土白鷺だから関係性皆無だ! あと誰が好き好んで母親を紹介するか!」

「じゃ親戚とかはどうだ?」

「…………むむ」

 そう所沢が何気なしに呟くと、そこで影郎は黙り込んでしまった。

 なにせえらく可能性の幅を広げられたからだ。親戚かも、というのは如何せん否定しづらい。ありえなくはない、という確率を孕む。

「…………なくはない、かもしれない。だがあくまでそれは俺が親戚の顔をさして知らないからというおまけつきだ」

「あー……悪い。そりゃ確かに俺も否定しづらいな」

 影郎にのみならず所沢にも言える事だ。顔の知らない親戚などたくさんいよう。いないかいるかで差はあれど、高校生が逐一網羅してる事ではない。だからこそ返答は曖昧になるほかなかったといえる。

 結論とすれば、佐津川巴との関係性など判明するべくもなかった。

 だが、その過程で一つの可能性に気付いた洞庭湖が目を光らせる。

「しかし、一つだけわかった事がある」

「今の流れで何がわかると?」

 何もわかんなかったぞ、と小根が不思議そうに呟くと、洞庭湖は不敵に笑った。

「わからないか、小根? それは――佐良土が女装が似合うかも、という可能性だ」

「佐良土君の女装なんて何を変な事を言いだしているんだよお前は……」

「なんだワッキー。お前は興味ないのか、佐良土の女装姿」

「うん。だって佐良土君は――今のままの男らしい姿が一番だからね」

「なんだろうな、言ってる事はいい事なのに、なんでかお前が言うと鳥肌立つわ」

 それは影郎も同意見だった。

 なにせちらっと腕を見れば、ぞぞぞ、と何か本能的逃避が発生したご様子である。それを青ざめた顔で片隅に追いやり、とりあえず今浮上してるしょうもない可能性を潰すものとした。

「…………生憎だが、女装は似合わないと思うぞ」

「何を言ってるんだ、佐良土。自分の可能性を信じろ」

「いや、お前が何を言ってるんだ」

 呆れた様に嘆息を浮かべた後に、影郎は仕方なく腕捲りをすると、二の腕を晒す。途中どこぞの自称友人が「うほほっ」という歓喜に沸いた気色悪い声を耳にするも、影郎はその腕を見せつけた。鍛え上げられた細マッチョと言うべき上腕二頭筋を。

「こ、これは……!」

「…………わかるだろ? 俺は体を鍛えている。多少の女装じゃ誤魔化しようもないレベルで俺は体格がいいんだ」

「そ、そんな……!」

「女装が似合うなんてのは本人達は嫌がりそうだが、鼎竜胆――それに、ウチのクラスの弦巻くらいなもんだ。アイツは体格から少女的だからな。女物を着せればもう骨格の問題皆無で美少女にしか見えないだろう」

「確かに弦巻は可愛い。もうあれ男装なんじゃね? って疑う次元で可愛い。だが、新橋さんとイチャついてる場面よく目撃すっから悔しさ募るんだよぉ……!」

「…………それは知ってる」

 膝を屈して床を拳で叩く悔しさに塗れた若気丸を睥睨しながら影郎は賛同する。

 実際、日向が人気が高い――もとい高まっていると小耳に挟んだことも数多いからだ。なにせ美少女ばりの可憐な容姿に、子犬のような天真爛漫な言動により年上女子――もとい母性の強い女子からの人気はかなり高く、一部では男子人気も相当高いらしい。

(…………まあ、本人が新橋に一途だもんで、マスコット人気に転化してるらしいけれどな)

 ただ言わずと知れたエリカ一直線の日向である。

 恋愛にしても叶うまい、という空気が生じているため、表立っての評価は『可愛い』、『天真爛漫』、『可憐』、『無垢』といった言葉に尽きるらしく、男女ともの総評だ。ただし、日向の現時点でのポジションは子犬的マスコットキャラになっている事を本人は知らない。

「ああー……俺も弦巻みたく女子にモテてぇ……」

「ならまずはエロ談義を止める事からじゃないか?」

「エロを止めれば、俺にも彼女が出来ると思うか?」

「いや、あんまり」

「そこは嘘でも出来るさとか言えよ、所沢!」

 ぎゃーぎゃーとまくしたてる洞庭湖。友人足る小根と浅立はどこか諦観したように「洞庭湖は若いな」、「ああ。ま、仕方ないさ。あいつはまだ現実に夢見てるからな」、「まったく。俺たちにゃあエロ雑誌しか無いって気づくのはまだ先か」と何か聞いてて切なくなる会話をしていた。正直影郎としては呆れてもいるのだが。

「…………なんにせよ、いよいよ不毛な会話になってきたな」

「佐良土。言いたくねぇが、初めから不毛だったぞ」

「…………それもそうか。頭が痛くなってきた。俺はなんでエロい話題に食いついたんだ」

「そうさ。佐良土君は女子の裸体なんか必要ないよ! それより、俺と筋肉(はだか)見せあいっこしてるほうが有意義ってもんじゃないか?」

「…………そうだ、これが原因だったんだ……」

「バーロー。泣くなよ。見てるこっちまで切なくなるじゃねぇか」

 滂沱の如く涙を流す影郎を見ていて長谷部と所沢は思わず目じりを抑えていた。

 なんでこいつこんな気苦労背負ってんだろ、と同じ男として悲しくなってくる。今にもふらついて倒れそうな顔色を浮かべている影郎だったが、次の瞬間にふと表情を戻すと、なにやら腕時計を確認し、「あ」と口を開いた。

「…………悪い。時間だから、俺はここらでお暇するからな」

「あれ、佐良土君何か用でもあるの? 俺といるより大事な用なの?」

「…………お前の優先順位なんぞ最下位にも位置付けたくないわあ!」

「じょ、冗談だったのにそこまで激怒しなくても……」

「いーや、今のはシャレにならないよワッキー……」

 傍で所沢が冷や汗を掻いて影郎に賛同していた。

 平常な仲間がいて何よりである。

「で、佐良土は要件でもあんのか? なら急いだ方がいいんじゃないのか? 休み時間も後半切ってるしな」

「…………そうするさ」

 そういって肩を竦める影郎。

 丁度、そのときクラスの扉からひょこりと優し気な空気を纏う、どこかふんわりとした印象の女教師が顔を覗かせた。

「おーい、佐良土おにいちゃーん」

 そしておおよそ教師が口にするにはおかしい呼称が飛来した。

 だが、生徒みな慣れたもの。今更、その呼称に疑問を呈するものもおらず。

「ありゃ、花屋敷先生か。なるほどな」

「お前って、花屋敷先生に弱いよなあ」

「…………弱い言うな。荷物運びでな。という事で俺は行く。はいはい、わかってますすぐ行きますよ花屋敷先生」

 所沢と長谷部の二人に軽く挨拶を終えて、影郎は教室を後にした。

 そんな二人の後ろ姿を注視しながら、野分が切なそうに息を吐く。

「あの二人……、やっぱり何かあるのかな……。なあ、みんなはどう思う?」

『キモイ。知るか』

「今の発言でそんな貶される要素あったかよお前らさあ!?」

 当然のように適当に返される返事に野分はいつものように理由わからず憤慨するのだった。


        2


 昼休み。

 九十九は、自分のクラスではなく、主である柩の美花赤でもなく、友人たる勇魚のクラスであるHクラスへと足を運んでいた。扉を開けて開口一番、明朗快活に声をあげる。

「いよー、佐伯! メシ食ってるかー!」

「あ、不知火君」

 クラスの一席で、黒髪の綺麗な少女が朗らかに笑みを零す。そんな様子をクラスの男子連中はどこかでれっとした表情で歓喜し、次には瞬時に九十九に嫉妬を向けるも、「でも不知火だしな」みたいな視線でどうでもよさそうに箸を持ち直した。

「うわぁ、筋肉じゃん。またきたよ、筋肉が」

「だ、ダメですよレティシアさん。不知火君はいい筋肉なんですから」

 粗雑な口調に乱雑な態度。見目麗しい異国の容姿を持つ留学生。同時に勇魚がクラスで友人となった少女レティシア=マルディグラの嫌そうな声に勇魚は諌言を示す。

 だがレティシアは「えー」と嫌そうな声で。

「だって邪魔じゃん、図体でかいし、汗臭いし。この筋肉」

「よくそこまで筋肉さんを虐められるなお前ってやつぁ……」

 散々に貶された九十九は若干青い顔を浮かべて嘆いていた。

「あ、あはは……すいません、不知火君。レティシアさんが失礼な事を言ってしまって。レティシアさんいけないですよ、そういう悪口は」

「へいへーい。さーせん」

「謝る気皆無ですね……」

 謝罪の気もここまで無いといっそ清々しくさえあるものだ。項垂れる勇魚の隣で「ま、べつにいいけどよ」と快活な声が響く。

「なんにせよ、折角来たんだから食ってってもいいよなマルディグラ?」

「はなから、拒否してないじゃんよ」

「それもそうだな」

 言われて九十九はおお、と頷き返す。確かに邪魔だ、汗臭い、うわ来たよ、みたいに罵倒された記憶はあるが来るなと言われてはいない事に気づく。

「んじゃ、お邪魔すっぜ。オルレアンの奴が来たら席また借りたって言っといてくれや」

「わかりました。それじゃ、ご一緒しましょうか、不知火君」

 勇魚に促され、席に座る九十九。前に勇魚のクラスへ来た折に、席の持ち主へは許可を取っておいたので感謝と共に腰を下ろした。今頃は友人と学食だろうか。

 そんな事を考えているとレティシアがごそごそと鞄を漁っている事に気づく。

「ん。どしたマルディグラ。筋肉でも探してんのか?」

「制汗スプレー、制汗スプレー、どこだったじゃんよっと……」

「お前隣で制汗スプレー探すとか本当いい肝っ玉してんなマルディグラ……」

「いや、終始汗臭いのは事実じゃんよ」

 言いつつ、本当に制汗スプレーを取り出すでもなく、レティシアはうげー、みたいな表情で九十九をからかいつつ距離を取るという友好的なのか嫌悪的なのか判断しかねる対応を取る。

 なにより終始汗臭いというのはその実、勇魚も同意見である。

 なにせ気づけば筋トレしていたりする少年だ。自然、汗もかこうというもの。

「佐伯っちも気を付けるじゃんよ。この筋肉の傍にい続けたら汗の匂い映るかもよ?」

「あ、あはは……気を付けます」

 勇魚は困った様子で苦笑を零す。

 不知火を悪く思うではないが、やはり女子である。汗臭くなるのは抵抗があった。

「汗臭い女子とかんなモテねぇし。本人の汗ならまだしも、これの匂いが移ったら最悪じゃんよ」

「なんかさっきから俺の貶され方ぱねぇ……」

「なら筋トレ止めな。そうすれば貶さないじゃんよ」

「馬鹿野郎! マグロはなぁ、泳いでないと生きられないんだぞ!」

「つまり不知火君は筋トレしていないと死んじゃうんですね……」

 本当に死にそうなので反応に困る話である。

「ったく、どうしてそんなに筋肉が好きかウチには理解不能じゃんよ」

「へっ、マルディグラにはわかんねぇみてぇだな。筋肉が好きな理由なんざ、んなもん筋肉だからに決まってるじゃねぇか」

「この筋肉に全部直結する思考がわかんないんじゃんよ……」

 ぐでーん、とレティシアが突っ伏す。勇魚も困った様に苦笑する他にない。

「不知火さあ。その筋肉への思いのたけを一割でも別のもんに割いたらどうじゃん?」

「馬鹿だなお前。全身全霊筋肉に捧げないで筋肉になれっかよ」

「筋肉ってなんなんじゃんよ、もはや」

「なにってお前そりゃ筋肉だろうがよ。何言ってんだおかしな奴だな?」

「やべぇよ、佐伯っち。ウチも自分がおかしいのかと思い始めそうじゃんよ……」

「え、ええと、落ち着いてください……?」

 勇魚も困った様に返すほかない。なんというか真理的追究をしているみたいで、頭がこんがらがりそうだった。筋肉とはなんなのだろうか。

「不知火は相変わらずっつーか、本当筋肉狂じゃんよ。まあ、野球に打ち込むみたいなもんなんだろうけどよ」

「そういう感じなんだと思います私も」

「けど、もう少しくらい他の事にも関心抱くのが普通じゃね? これときたら、筋肉にしか興味なさそうじゃんよ」

「失敬な奴だな。俺だって色々考えてるっつうの」

「例えばどんなじゃんよ?」

「そりゃあダチとの遊びに決まってっぜ!」

「爽やかすぎて最早、否定すら浮かばないじゃんよ……」

 友達とバカ騒ぎをしたい。そんなことを子供の様に無邪気な笑顔で告げられてしまえば、レティシアとて二の句も告げられない。告げたくない。むしろ好意的に受け取るくらいだ。

「不知火君はお友達の事が大切なんですね」

 そんな九十九へ向けて勇魚が柔らかな表情を零す。

 当然と九十九も首肯した。

「日向、秀樹、佐良土、鎧潟――俺のクラスにゃ、面白い連中がたくさんいっからよ! 正直毎日楽しくて仕方ねぇんだ!」

「はは、そりゃ何よりじゃんよ」

 ニッとレティシアも賛同の笑みを浮かべる。

「ウチも友達はやっぱいて楽しいからな。しかも可愛いときたもんだし、最高じゃんよ」

「う……、れ、レティシアさんそういう事を言うのはずるいです」

 赤くなったじゃんよ、とニマニマとした笑みで返答するレティシアに対して勇魚は殊更羞恥心を煽られるようだった。そう、言われることはうれしくてたまらないが。

 そんな光景を見ながら、九十九は嬉しそうに破顔する。

「へへっ、佐伯も友達出来た、みてぇだな」

「……はいっ♪」

 一拍於いて勇魚は素敵な笑みで答えた。

 彼女にとって、友達が出来た、というのは普通にすごく嬉しい事だから。

「この調子でもっと友達を増やしていきたい。それが今の私の目標の一つでしょうか」

「友達、か」

「いいんじゃねぇか。最高だ」

 勇魚の言葉に九十九もレティシアも微笑ましい表情を浮かべた。まるで保護者のような表情に勇魚は「……なんだか、その視線複雑なんですけど」と赤い顔でむくれてしまう。

「いや、なんつーか、可愛いもん見たと思って」

「もう、レティシアさんは……」

「ま、佐伯っちなあ友達も増えてくっしょ。いい子だしね」

「そ、そうでしょうか……」

「そうそう」

 にこやかに首肯され勇魚はむず痒い気持ちを抱きながらも、温かい心地となった。

 なにせレティシアは勇魚が学院にきてから初めての友人――同年代の友人である。転入初日に席が隣で、それで自然と会話する関係になって――そんな仄かな過程で仲良くなった。勇魚にとっての友達だ。

 そんな人物にそう評価してもらえたのは心から嬉しく感じられる。

「けど、佐伯ってそんな友達いなかったんかよ? 俺としちゃあお前そんな友達が出来にくいタイプにゃ思えないぜ?」

「それ言われるとウチも気になるじゃんよ。人見知りってわけでもないし」

 そこで発した二人の疑問に勇魚は「それはですね」と答える事とした。

「私が育った環境では、その、同年代の子がほとんどいなかったものですから……」

「そうなん?」

「はい。みんな、年上だったり、年下だったり……丁度、私と同い年付近の子がいなかったんですよね。だから友達という感じより、弟妹、姉兄、親戚のおじさまのような枠組みで……」

 それで二人は納得する。

 なるほど、それは微妙な境界線だ。年の離れた友人というのもあるにはあるが、そういうのも勇魚にはいなかったのだろう。寂しい環境下ではないようだが、友達というのがいない環境下でもあるらしい。

「一番仲が良いのはセン姉様といって、二十歳程度の女性です。幼いころより、姉同然に接してくれて、私が一番信頼している方ですね」

「へー、そうなのか。どんな人なんだ?」

「うーんと……」

 勇魚は何故かそこで微妙に言葉を濁していた。しかしやがて口を開いて、

「……だらしない艶のある色気のある女性、でしょうか」

「……佐伯っち、それ信頼出来るん?」

「し、信頼できますとも! いえ、容姿はもう色気むんむんの女性ですし、服装着崩してて胸元とか見えそうなくらいだらしない雰囲気漂ってますし、二言目には『勇魚、お酒~。お酒くれさね~』ですし、散らかしっ放しでしょうがない方ですが、頼りにはなるんです!」

 それはもうフォローなのかどうなのか怪しかった。

 というか訊いてて世話しないといけないダメ人間に聞こえてくる。同時に容姿の想像は結構できてしまった。要するにだらしない美人なのだろう。そして聞いている限り、勇魚がその世話を焼く羽目になっていたことも……。

「……」

「ああっ!? レティシアさんの視線が苦労してきたんだねぇ、みたいな視線にぃ!? やめてください、その視線はつらいです!」

 勇魚が視線から逃れるように腕で庇っていた。

 そんな様子を面白く思いながら、九十九はふとある事を思い出す。

「しかし友達っていやぁ……」

「ん? どした筋肉」

「いやよ。そういや体育の授業の時、Fクラスの連中が言ってたんだよな。佐伯を紹介してくれー、的によ。友達増やすんなら、そいつらとかどうだ?」

「「……」」

 先ほどの空気と打って変わって、揃って無言になる二人。

 その表情は片方はジト目。片方は言葉に困るような苦笑だった。しかし、九十九がそのことに気づくわけもなく、言葉を続ける。

「お、どした? やっぱ男友達っつーんはちょい抵抗あるってやつか?」

「いや、まあ男友達くれぇ気のいいやつなら別にいいじゃんよ、ただそれ……」

「いえ、男性慣れがあまりしてないので微妙にまだ不安感はあるといえば、あるんですけど不知火君、それは友達というか……」

 勇魚の言葉に九十九は疑問符を浮かべるばかりだ。この顔は絶対わかっていない。

「まあ、友達と言えば友達狙いでもあんだろうけど……」

「んー、よくわかんねぇけど、気が進まねぇって感じか? ならいいぜ。俺も無理強いする気はねぇし、友達作りってそういうんじゃねぇだろうしな」

「ええと……」

 やはりわかっていない。

 九十九は確実に彼らの絶叫を友達になりたいと換算しているらしいが、叫んだ連中の本心もとい下心は恋人欲しい、みたいなもんだ。そこで不知火と関係性のある勇魚に白羽の矢がひょいっと軽くぴゅーんと飛んで行っただけのこと。

 さもあれ、そこを汲み取れない九十九の鈍感さにレティシアは呆れる。

「この筋肉ときたら、恋愛関係ダメダメらしいかんなあ……。実際、自分のクラスにあんだけ美少女いる癖して、誰も意識しとらんときたもんだ。お前男なんだろが、あんだけ綺麗どころいるクラスで誰も興味ねぇとかなんなんじゃんよ」

「皆いい奴らだぜ、俺のクラス」

「そりゃ知ってるじゃんよ……」

 ダメだかみ合っていない気がする。

「けど、本当に不知火君のクラスって綺麗な方だったり、可愛い方が多いですよね」

 佐伯っちも普通に美少女じゃんよ、と内心零して、レティシアは補足する。

「不知火のクラス、美男美女率が尋常じゃないじゃんよ。ギャル系美少女の祁答院に鴇崎。グラマラス、ロリータ、スレンダーの三拍子美少女の桃原、源、柳郷の三人娘。清楚系の撫子原も密かに人気あったりするし、他の女子も総じてレベルは高い方ときたもんだしさ」

「私も不知火君の教室行った時にはびっくりしてしまいました……。特に新橋さんは本当に美人な方でしたし」

 総じてDクラスはレベルの高い女子が多い。

 中でもDクラス一の美少女として名高い新橋エリカは、勇魚から見ても憧れるほど美人だった。整った顔立ちに綺麗な茶髪と同色のツンとした目元。淡いピンク色の唇は薄く綺麗で、色白の肌もきめ細かく京美人の様に華やいでいる。運動が趣味というが日焼けをほとんどしない肌など羨ましい事この上ない。同性でも羨む様な細身のスレンダー体型だというのに、胸元は制服越しでもわかるほど豊かで、腰は感嘆するほど綺麗なくびれかたをしている。スレンダーなのに巨乳という女子の理想形のような体型をしていた。あれは反則ではないだろうか。

「やっぱし中でも新橋はクラス一の美貌だし、クローリクと刑部の二人も人気高いわけだし、不知火んとこのクラスどうなってるじゃんよ?」

「いや、知んねぇけど」

 スパーン、と返されてレティシアはガクリと肩を落とす。

 見事に何の関心も示していない反応だ。男としてこの反応はどうなのだろうか。

「不知火さ。気になる女子とかいねぇじゃんよ?」

「え。佐伯かね?」

「それどうしてるかなー的なアレですよね……」

「おう、馴染んでるか気になってたしよ!」

 いい奴である。学校に来て間もない同居人を案じる辺りが、やはり心の広い少年だ。

 だからどうした。

「この筋肉に恋愛の二文字はあるのかねぇ……」

「不知火君はなんていうか友達と遊びまくりたいタイプみたいですから……」

 あはは、と苦笑を浮かべレティシアに告ぐ勇魚。その通りなのだろう、とレティシアもわかってはいる。これは恋愛よりも筋肉と友情を重んじるタイプなのかもしれない。

「ったく傍ででっかい恋愛事案起きてる癖して関心ねぇ奴じゃんよ」

「恋愛事案? なんかあったかうちのクラスで?」

「大ありじゃんよ。おたくのクラスの新橋なんか最近話題だし。彼氏出来てるかもーって」

 そういうと九十九は「ああー」と納得した様子で手を叩いた。恋愛鈍感である彼も、流石に新橋エリカの近況くらいは友人たちの反応から理解している。

「恋愛って言えば、新橋さん、でしたか。新橋さんの傍に顔真っ赤にして、でもすごく嬉しそうにくっついてる男の子前に見ましたけど。正直、男の子? って思うくらい可憐な容姿で驚いてしまいました」

「ん、そりゃ日向だな。アイツ、容姿はほんと女みてーだからな!」

「日向――ええと弦巻君、でしたっけ? 弦巻君見てると恋ってあんな幸せそうな表情するものなのかーってなんだか凄く感心したんですよね私」

 少し恥ずかしそうにしながらも、勇魚は口を紡ぐ。

「感心した、か。確かにあんだけ恋に一直線って感じだとね。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいじゃんよ」

「本当ですよね」

 勇魚は思わず微笑で返す。

 九十九のクラス、という事で足を運んだ折に見かけた二人の関係は思わず目を見張り、当事者でもないのに赤面してしまうくらい初々しかったのだ。真っ赤になってツンツンしながらも優しい表情で頭を撫でているエリカに、そんなエリカを大好きオーラ全開でぎゅーっと抱き着いて嬉しそうにしている日向の両名。

 聞けば恋仲ではなく、日向の片思いとの事らしい。どう見ても恋仲じゃないとあの距離感にならないと思いはしたが、それよりも勇魚からすれば恋する人の顔、というのが印象的に映っていた。

 あんな嬉しそうで幸福そうな顔になるものなのか、と。そう考えると自然、言葉が口から零れ出ていた。

「恋かぁ……羨ましいです、私したことなくって」

「おや意外な」

 レティシアがきょとんと眼を見張る。

「そ、そんなに意外ですか?」

「意外っつーか子供のころに誰か気になる男子とか佐伯っちはいなかったん?」

「実のところ、あまり身近に男の子がいなかったものですから」

「え、そんな幼少期から男子がいないとかマジで? 小さいころから女学院系だったとか?」

「いえ、そういうわけではないんですが……」

 言って勇魚は困った様に反応に悩む。

 そも、勇魚は学校に通っていないのだ。義務教育基準を満たす知識は育ての親から学んでいるのだが、集団が通う学校というシステムに入ったのは、この芳城ヶ彩が初めてである。閉鎖的な環境で育ったというやつなのだろう、と今の勇魚はそう分析する。

 しかしそれを諸々話せるわけもなく、彼女は言葉を濁すほかになかった。

「ともかく、同年代の男子といいますと、ほんとここ一年程度でして……」

「どんだけ箱入りじゃんよこの娘……」

「んー、まあ佐伯も色々あるらしいかんな。俺も詳しくねぇけど」

「親戚の関係なんじゃないん?」

「おう、遠縁だぜ!」

 ガッツポーズで返す九十九。不知火家から、学院側に入学させる折に、そうした方便を使ったというのは九十九も頭に叩き込んでいる。

「まあ、遠縁じゃんな詳しかないか……」

 遠縁。親戚筋とはいえ、遠縁ともなれば、知らぬ事も多いだろうと印象を植え付けた。その意味で崇雲の裁量は明確だったと言えるだろう。

「つー事は佐伯っちってば、ガチで初恋もまだかいな……」

「はい、そうなんです。ですから、弦巻君の表情見たときに、恋ってどんなものなんだろうなーって少し、気にはなっていますけれど……」

 ただし、自分が恋を得ないのは出会いが無いからだけではない。

 ふっと掠めた思考を勇魚は刹那に表情を歪めかけたが、内心で頭を振って、先ほどと変わらぬ苦笑をもって返していた。

「そればっかりは自分でするしかないじゃんよ。恋の感覚なんざ、本人が抱かないとわかるものじゃないしね。他人に訊いても曖昧な感覚でしか伝わらないじゃんよ」

「やっぱりそういうものですか?」

「おうさ。未知の食べ物を前にして、食わずに味がわかるかい? 匂いと触感だけで、想像を膨らませようが、それは味覚に届かないじゃんよ絶対。どんだけ熟考を重ねたところで味わわなけりゃどんなものだって、わかるわけないじゃん。恋も然り、ね」

 そう、レティシアは穏やかな表情で微笑んだ。

 その笑みは実に優しい。恋を知らぬ少女へ恋への期待を抱かせてくれるような、そんな未知に希望を植え付けるようなぬくもりがあった。彼女の笑顔を見ながら、勇魚はもしかしたらレティシアも恋をしていたりするのかもしれない、とそんな感慨を抱きながら。

「というか、レティシアさんも結構恋バナ、というものはお好きなんですね?」

 と、普段のあっけらかんとした彼女の雑な振る舞いとはかけ離れた真摯な在り方に対して思わずといった態度で問いを発していた。

「――」

 そう告げられるとレティシアはポッと表情を赤らめる。

 キャラじゃない、と自覚を抱いていたらしい。

 そして視線を二人から逸らして、「あ~……」と口をもごもごさせていたが、やがて仕方ないように口を開く。

「……そりゃウチだって女子じゃんよ。そういうの、気になったりもするっての」

「……」

 恋に関心を持っている。それを恥じらいながら零すレティシアの様子は勇魚が初めてみた表情で、その表情はなんとも普段飄々としている彼女に比べて乙女らしいものだった。

「ふふっ、レティシアさんすごくかわいらしいですね」

「んなっ! さ、佐伯っち。可愛いとかいうのはウチへの評価としてそぐわないんじゃ――」

「いえ、可愛らしかったですよ?」

「むぐぅ……言うんじゃなかったじゃんよ……!」

「ほら、可愛いです。不知火君もそう思いますよね?」

「あん? そうだな筋肉だな!」

 これは会話内容が掴めていない反応だ。勇魚はぽちょんと汗を垂らし、レティシアは感情の行き所を見失い静かにこめかみに怒りマークをくっつけていた。

 だがやがて、深々と息を吐いて、

「ま、不知火相手だし別にどうでもいいじゃんよ。それよか、佐伯っち。あんま人をからかうなし」

「すいません、レティシアさん」

「ったく。まあ、この手の話題はこの辺にしとくじゃんよ。ウチが言い出しっぺだからアレだけど、この手の話題を訊かれるとやかましい奴がいるし――」

 ああ、と勇魚があの子か、と頷こうとしたその瞬間である。

 教室の扉がガララ! と素早く開かれて、

「――恋と、誰かが言った気がするの」

 途端、何か神妙な声が響いた。

 二名は不思議そうに、一名は「きちゃったよ」とげんなり気味に零す中で、その声の主はよく通る清廉な声と共に現れた。

「恋。それはきっと人生で一番大切な衝動」

 カツカツ、と教室に足を踏み入れ、

「恋。世の蒙昧どもは恋は下心なんて言葉で侮り嘲れど、無粋も無粋」

 近くの机に「うんしょ」とよじ登りながら、

「燃え盛るほどの恋心。燃やして何が悪いのよ。あんたら恋した事ないだけじゃない?」

 トン、と教卓の上に仁王立ちし「皇后崎さん、教卓上っちゃダメだよ?」少女は呟く。

「かのジュリエットはこう言ったわ。『ロミオ、ユーはどうしてロミオなの?』と。それに対してロミオはなんて言ったと思う? そう、『親が名づけたからかな』、よ……!」

「いや、言ってないし。意味も相当違うし、そういうんじゃないから絶対」

 周囲がうんうんと必死になって首肯する。

 名作『ロミオとジュリエット』はそういう感じのじゃなかったはずだ。そんな冷静に返すロミオ見て誰が燃え盛る恋をするというのだろうか。もっとこう感覚的なもののはず。

 しかして少女は一人突っ走る。

「まあ、そんなものは正直どうでもいいわッ!」

『どうでもいいんだ!?』

 なら何故言った、とクラスメイト一同内心盛大にツッコミしたい衝動に駆られるが、ツッコミをしてもマトモに返ってくる気がしないので口を紡ぐ。必死に。

「あたしは言うわ! ううん、叫んじゃう! 恋の一つものに出来ない奴は人間性がダメなんだって! だって、恋は自分で叶えるものだから!」

『すげぇ発言飛び出した!?』

「恋に生きて愛に死ぬ! それが青春! さあ、みんな! 恋人作った後、大病患って劇的ストーリーを突き進みなさいな! あたしは病気嫌だけどね!」

『俺(私)らだって嫌だわ!』

 周囲の盛大に発生するツッコミも馬耳東風。少女は天高く腕を突き上げ高らかに吼えた。

「ドラマティックにトキメクもの! それが恋よ! おわかり、者どもー!」

 きゃっふー! と、煌くハイテンションガール。

 教室の照明の下で燦然と輝く金髪に青い瞳。すらっとしたスレンダーな体型も、身長がそこそこ高い事から見栄えがよい。シラヅキの学生服に身を包み、台本片手にハツラツとした声で意気揚々と叫ぶ少女の名前は皇后崎(こうがさき)花冠(ティアラ)という勇魚のクラスメイトである。

 今日はやたらテンションが高い――というわけでもない。

 彼女は終始こんな感じだ。

 皆のまばらな死んだ魚のような拍手にご機嫌で答えている嬉しそうな姿を見ながら、勇魚は内心で今日も楽しそうで素敵だな、とこっそり思っていたりする。

 レティシアなんかは『うざい』の一言で済ませているが、楽しそうに学院生活を送る姿は正直好ましい。

「そーれーで! 恋がどうしちゃったわけよー、佐伯! それにマルディグラ! あ、筋肉いたんだ。どうでもいいや。ううんやっぱよくないわね、景観的に。邪魔」

「お前、よく教室の外からウチらの会話聞けたじゃんよ……」

「テメェ、筋肉を雑い扱いしやがって許さねぇぞ皇后崎ぃ!」

「やーん、汗臭いきもい筋肉寄らないで~」

「皇后崎……テメェ……」

「お、おおおおおお……私でもかわいそうになるほど、筋肉が意気消沈……いや、萎んでるじゃんよ……」

 流れる様な罵倒が余程ダメージだったのだろう。

 筋肉はへなへなと力を失っていく様だった。

「だ、大丈夫ですよ不知火君! 不知火君はいい筋肉ですから!」

「佐伯……わかってくれるか! お前は筋肉の良さを!」

「あ、いえ。そこは正直よくわからないですけど……」

「ぐっはっ!」

「追加ダメージじゃんよ。筋肉寝てな」

 レティシアにそう促されると「ああ……筋肉は少し体を休めるぜ……」と少し疲れた様子で筋トレを始めた。休むんじゃなかったのだろうか、と思わなくもないが本人がそれでいいならいいのだろうと勇魚は言葉にすることはなかった。

 というか。

「で? で? 佐伯、黙ってないで? はよはよ~♪」

 別の方面の追求に際して九十九に構う余裕がなかったというのが正しい。

 数分の会話を経て、彼女――皇后崎はさも驚いた様子で声を荒げた。

「え、じゃあ佐伯ってば恋した事がないわけ?」

「は、はい。そう、なりますかね……」

 ぐいぐいと近くに寄って信じられないものでも見るような皇后崎に対して、内心若干怯えながらも勇魚は返答を返す。

「恋に対しては少し思うところがあるというか。そもそも若輩者ですしといいますか……」

「なにそれ、つまんないって! 人生損してるわよ、損よ大損よ!」

 よよよ、と演技じみた風にふらふら崩れ伏す皇后崎。

「第一、なに? 若輩って! 恋はむしろ若輩者の特権なのよ!?」

「い、色々あるんですよぅ……」

 どうやら余程、恋愛経験がないというのが彼女からしたら信じがたいものの様子だ。

 しかし、勇魚とて恋愛に関心がないほど枯れているなんて事はない。何て言ったて女子なのだから、そういうものに意識を惹かれないわけがなかった。

 ただ、自分にはそういうのに慎重にならざるえない理由がある。

 それを他者に話す事は生涯で一度も訪れる事はないだろうが、勇魚にとって皇后崎の言葉の通りに若さで突っ走るという事は出来ない事だった。

「むぅー……ありえないわ、ありえないでしょ。佐伯ってば、こんなかわいい癖してなにをもったいない事言ってるのよ! 男なんてより取り見取りな容姿してるのに! この際、男の二人や三人囲っちゃいなさいよやだ不潔!」

「よ、より取り見取りはちょっとしたくないんですけれど……囲いませんからね?」

「なによー、恋人募集中ですとか言ってみなさいよ! きっとドドッと寄ってくるわよ?」

 ピクッと周囲の男子生徒が反応を示す。

「別に募集する気はないですし……」

 そして若干気落ちした空気を澱ませた。

「なんて色気に欠ける発言なのかしら……! 近場にいい男いないの? 不知火――は、ないわね。こんな汗まみれの筋肉なんかじゃね……置物にもならないじゃない」

「マルディグラといい筋肉さんに辛辣に当たらないでくれよな!?」

 うおおん、と男泣きする筋トレ筋肉が叫びを上げる。

 そんな筋肉を見る気はしない皇后崎だったが、ふと思いついた様子で、九十九に向けてびしっと声を放つ。

「そーだそーでしょ! 不知火、あんた誰かいい男紹介してあげなさいよ! このままじゃこの子、干物女じゃない!」

「干物女!?」

「男紹介しろっつったってなぁ……。ダチん中じゃ弦巻――はダメか。アイツ新橋だもんな。皆言ってたしよ。てーと、陽皐に佐良土、鍵森先輩、筵の野郎に隣のクラスじゃユウマと天道……」

「子犬的な弦巻ちゃんはともかく、ラインナップに大当たりがいるじゃないの! 鍵森先輩とかイケメンだしぃ! 新橋様もイケメンだしぃ! 大地離先輩もイケメンだしぃ! 皆玉の輿間違いなしだろうしぃ! 不知火、紹介してください! お願いしまっす!」

「佐伯への紹介しろって言ったのどこの誰じゃんよ……」

 すぐさま自分に紹介してと土下座のスタンスを取った皇后崎に向けてマルディグラの冷ややかな視線が注がれるが「ね、ね? いいでしょ不知火?」と目をハートマークにして筋肉にすがっている少女は聞いていない様子だった。

 ダメだこりゃ、と頭を抱えるレティシアに思わず苦笑する勇魚である。

 対して足元に土下座している少女に対して九十九はきょとんとしながら、

「皇后崎、そんなあいつらと友達になりてぇのか? そりゃいい奴だけどよ。普通、男友達よか女友達がいいもんなんじゃねぇの?」

 と、実に何もわかっていない返答を返してみせる。

 うわぁ、とレティシアの呆れた声が漏れた。勇魚も困った様に苦笑するばかりである。当の皇后崎も目を点にした後に、

「……やっぱいいわ。萎えた。ここまでの会話でそれも理解出来てない脳筋に紹介されても実もんも実らないわね……」

 と、諦観した瞳で無理を認める。

 頭に疑問符をほにゃらかぱーんと乗っけている九十九は呆けるばかりである。どうやら恋愛絡みではなく、友達作りと思い込んでるらしい。何故だ。

「え、ええと。が、頑張ってくださいね皇后崎さん……?」

「ノン! 無理に応援されたくなくてよ佐伯! あたし輝けない時はスタンバイな時期なの! 今は同情がハートダーツなアンニュイ気分だからよして!」

「え、えっと……」

「直訳すると心に矢が刺さってテンション下げ下げ~みたいな感じじゃんよ、多分」

「解説褒めてあげるわマルディグラ!」

「いらねぇじゃんよ」

「あら、つれない」

 ぷくっと不服そうに皇后崎は頬を膨らませた。

「にしてもやっぱダメね。不知火は恋愛」

「筋肉だからな」

「んな褒めても何もでねぇぜマルディグラ」

「貶してるから別にいいじゃんよ」

「んだとぅ!?」

「くさいキモイ黒ずんでる寄らないで」

「……筋肉さんがひとーつ、筋肉さんがふたーつ……」

 容赦ない皇后崎の罵声に筋肉さんを数えて静かに腹筋を繰り返す九十九。見ていてもの悲しいことこの上ない。

「筋肉しか取り得がないとか不知火はほんとダメダメね! 恋の一つでもしてみなさいな!」

「んだよぉ……筋肉でもいいじゃねぇか……」

「コイツの恋人はもしかしたら筋肉そのものなのかもしれねぇじゃんよ」

「んげ。なにそれキッショ」

「テメェ口が過ぎるぞマルディグラ!」

「え、ウチなん? キッショとか言った方はスルーなん?」

「筋肉はなぁ! 恋人とかそういうんじゃねぇんだよ! 筋肉はな。筋肉なんだよ! 筋肉でしかありえねぇんだよ! そういう事言ってると集合筋肉体(グランド・マッスラー)の怒りに触れるぜ!」

「すげぇ言ってる内容全部わかんねぇじゃんよ……」

 レティシアの悲鳴がにじみ出ていた。勇魚もよくわからない。筋肉理論が真理的過ぎるのか何なのか筋肉を鍛える事にそこまで関心の湧かない勇魚にはわからずじまいである。そもそも集合筋肉体とはなんだろうか?

「でも不知火君の恋とか語ってると、不知火君の好きになる人って想像出来ないですね」

 と、勇魚は何気なしに呟くと、九十九は「んあー?」とすっからかんな返答を寄越す。

「心っ底、興味なさそうじゃんな……」

「そりゃ別に恋人とか知らんしな」

 いっそ呆れた様子でレティシアは頬杖をつきながら嘆息を浮かべると、さも適当な様子で隣の勇魚を指さしてみる。

「んじゃ、佐伯っちとかどうじゃん? この子、器量よしだし、スタイルも中々じゃんし、不知火も男なんだからこうムラムラ来たりしないわけよ?」

「あの、その紹介恥ずかしいんですけれどレティシアさん!?」

「え? 佐伯? まー、確かにいいやつだけど別にどうでも。ムラムラってなんだそれで?」

「ありゃー、脈ないね佐伯っち。ごしゅーしょーさま」

「なんでしょうかこの言い難い敗北感……。不知火君が好きとかそういうのはないですけど、色々な意味で何かへし折られた気分です……」

 いっそ清々しいまでに恋愛の空気が感じられない返答を返す九十九に対して、勇魚は内心ダメージを受けていた。いや、好意があるわけではない。あるにはあるが、それは感謝。助けてくれた恩人への感謝でしかない。

 ――が。そもそも、なにか変な流れだったにせよ共に風呂に入ったという一応、何らかのイベントを過ごした女の身としては、裸見られておいてこの反応は結構くるものがあった。

 しかし思い返せば風呂場で九十九が赤面したこともない。

(あれ、もしかして私、女の魅力ゼロ……?)

 気づけばがくーんと膝を屈する勇魚である。傍で「佐伯っちー? 佐伯っちー? あれなんなんじゃんこの見当違いな方向にショック受けてる感」と、レティシアが呟いているが聞こえている様子はなかった。ただただ「仕方ないじゃないですか、生まれが生まれなんですもん男女の関係なんて一歩気おくれっしたって仕方ないじゃないですか。そもそもこの年齢まで恋なんてからっきしなんですもん、女の魅力なんてわかるわけないじゃないですか。あれ、もしかしてもしかしなくても私結構ダメな子だったりするんでしょうか」何事かを呟くばかりである。

「佐伯の奴、どしたん?」

「あー、この子ダメな子モード入ったりするみたいよ? ま、気にしなくていいじゃん」

「へー」

 静流と一緒にいる間はこういう姿を見せた覚えもない。

 ともすると、同年代がいる場面ではこうした弱みも見せる――見せられるわけか、と九十九は理解する。

(……そりゃそれでいいもんだよな)

 平時気張ってばかりいても苦しいだけだ。学校でこうした姿を見せる事は溜め込まないという意味合いで大切なことだろう。

「しっかしまあ、佐伯っちと屋敷で一緒に暮らしてんだろ不知火は? ドギマギとか――あ、無理よね、不知火だし」

「テメェで言っといてテメェで納得されただとぅ!?」

「んじゃ、不知火ドギマギって意味わかるじゃんよ?」

「んにゃ、さっぱり。食いもん?」

 ダメだコイツ。

 レティシアと皇后崎含め、声の聞こえる範囲にいるクラスメイト達は皆一様にそう思った。

 恋愛感情とかあるんだろうか。むしろ女を意識出来てるのだろうか。

「んー……不知火って、なんかこう身近にフレンドリー・ガールとかいないわけ?」

「身近? 女子ねぇ……」

 うーむ、と皇后崎の問いかけに唸る九十九。

 唸っているだけで、その実考えてなさそうである。表情なんかぺっぺけぺーとしており、頭がぽにゃーんとしている気配を感じてレティシアは嘆息交じりに助け船を出してみる。

「なら幼馴染とかはどうなんじゃん? 不知火は名家出身なんだし、横のつながりで幼馴染の一人や二人いるんじゃね?」

「おう、そりゃまあな! 名家の息子とかとは顔見知りだぜ! まあ、その中じゃあ睡蓮の奴が幼馴染だな俺は!」

「睡蓮? 土御門家の?」

「お、知ってんのか皇后崎?」

「そりゃまあ美花赤のご令嬢でも有名な迎洋園テティスの従女だし、不知火知ってりゃ土御門と赤滝くれぇは頭に浮かぶの当然って話じゃない?」

 と、さも当然のごとく語るとネガティヴから復帰した様子で勇魚が小首を傾げた。

「土御門? 赤滝?」

「んー? ありゃ、佐伯っちには話してない系?」

「お? ああ、まあそうかもしんね。あんま話す事でもねーかなって思ってたし」

「どういう事ですか?」

 不思議そうに頭を傾げる勇魚に対してレティシアと九十九は端的にあらましを述べた。不知火家がどういった家柄であるのか。そして不知火と同列の家柄に関して簡単に説明する。

「……はあ、そういった系譜があるんですね」

 なるほど、と勇魚は知識を得る。

 即ち、芳城ヶ彩の七理事のうち三名の理事長の家柄であり名家。その名家に古来より従者として定められた家系が不知火、土御門、赤滝、ということか。

「おお。ま、そんな気に掛ける事じゃねーけどよ。んで、今の話題に出た土御門に俺の生涯のダチがいんだぜ! 男と女の垣根を越えた――一生大切な変わらぬ永遠の友達って女がな!  俺とアイツの友情はどんな関係にも変化しやしねぇ固い絆でがんじがらめなんだぜ!」

『…………』

 そういうと何故だろうか。空気が死んだ。

「お? どした、お前ら?」

『……いんやぁ、別に』

 気まずげに視線を逸らす。

 クラス一同反応に悩んでいた。中々に脈の欠片もない返答に言葉が詰まっていた。しかしてわかるのは、とりあえず幼馴染=大切な友、という事なのだろう。ならばきっと、相手側も大切な友人と思っているに違いない。

第一、相手側に恋心を抱く人物がいるとも限らないのだ。だって筋肉だし。

 しかし、そこまで考えたところで周囲の心は一致していた。

(もしも、不知火を好きな土御門さんとかいたら不憫この上なくて泣けるよなぁ……)

 遠く――美花赤女学院にて、一人のメイドが突然、くしゃみして言い知れぬ苛立ちを覚えたりした事を当然のごとく彼ら彼女らが知る由もない。

 それはともかく。

「不知火さぁ……言うのアレだけど、女っ気なさすぎじゃん?」

「た、確かに予想以上ですね……」

「恋に燃えた経験がないからこんなしょうもない筋肉って事なのねん!」

 ひそひそ、と。

 レティシアと勇魚は頭に疑問符浮かべてぽけぺけーっと皆の視線の意味がわからぬ棒立ちの九十九を他所に会話する。

 なにせ、九十九の恋愛模様の適当さ加減のこと。

「まあ佐伯っちに恋愛感情とか無いのはしゃーなし。逢ってまだ早いし」

「第一、私も不知火君は男友達感覚ですしね」

「友達だった。けれど気づいた時には好きになっている――燃える! 燃えるわそのシチュ! ぜひやってみなさいな佐伯ちゃん! あたしはこんな筋肉お断りだけどね!」

「雑な進め方されましても……」

「なー、不知火。他に身近に女子とかいないじゃんよ?」

「他に身近な女子っつわれても、柩くれーかねー」

 柩――大地離柩の事だろうと周囲はすぐさま予測ついた。

「んじゃその柩さんとかは?」

 近場で訊いていたクラスの一人が何気なしにそう零すと、そこで九十九はひどく憤慨した様子で言葉を吐いた。

「はぁ柩ぃ? 一番ありえねぇだろ馬鹿かっ」

「そ、そこまでありえないのか?」

「大地離さんっていうと結構な美少女って訊いてるのに、それでもダメなんだ……」

「性格最悪とかだったりすんの?」

 いやいや、と気づけば会話に入ってきている周囲の反応を殊更九十九は否定する。

 そうして次の瞬間に吐いた言葉は彼には珍しく心からの侮蔑が表れていた。

「容姿とか、性格じゃねぇよ。主に懸想を抱くなんざ従者として落第点だろうが。なに言ってんだお前らよ。従者って仕事を出会いの場かなんかだと勘違いしてんのか?」

『――』

「いいか? 従者ってのぁな。主を導き寄り添う役割であって、主を支え合う役割じゃねぇんだよ。あくまでそこらは主の伴侶がやる事だ。恋慕とか、懸想とか、そんなもん従者が主に抱くかよ。振った振られた。すれ違ったとか、俺はよくわかんねぇけど恋仲だとあったりすんだろ? 夫婦間だって亀裂は出来たりするもんなんだろ。そん時に従者は近くにいれるんか? いれねぇだろう。主に懸想抱くってんならサクッと従者止めちまえ。従者を傍にいる理由に宛がうな。常に主を、主の大切なもんも含めて導くのが従者の職務だ。色恋を主従に持ち込む奴が従者なんてもんを名乗ってられる道理がねぇだろ」

 皆、一様に絶句する。

 普段の不知火九十九という男の印象からは想像も出来ないしっかりとした持論に対して驚きを示していた。静まった空間、その中で。生徒の一人がぽつりと零す。

「……不知火ってなんかすげぇ、従者って大切にしてたんだな」

 その言葉に皆、同意見だった。

 主に懸想する従者に資質なし。九十九はおおらかな彼にしてはキッパリとそう断じたのである。それを珍しいと思う事も無理からぬ事だ。九十九は普段から懐が深く、心優しい性格をしていただけにこの言葉は存外珍しいものである。

 そしてここまで明確に断じたという事は、

「なんつーか、不知火。お前、結構従者の仕事が好きだったりするんか?」

「はあ?」

 すると反ってくるのは、当然だろと言わんばかりの反応だ。

「当たり前だろ。じゃなきゃ俺ぁ、とっくに姉貴みたく不知火家から家出してんよ」

「姉貴が家出してるとかヘビーな話題さらっと出たのに驚いたけど、マジか」

 そうなのか、と皆一様に驚いていた。

(――普段、あんなに敬意とか皆無な感じだったのに……)

 一同またも内心が合致する。

 周囲が九十九は従者の仕事が適当と感じていた理由はそれだった。なにせこの少年、主人に敬意じみたものを全く払った気配をみない。前に青善雪男子校学長である彊が九十九の元に現れた時も、目上に対する態度すらしていなかった。不平不満たらったらで「めんどくせーけどしゃーねーかー」と言っていた記憶もあれば、実質の主である柩に対しても「あの腹黒お転婆お嬢め、またか……」とかなり暴言を零していた記憶がある。

 しかし今の言を訊く限り、不知火九十九は相当に従者の仕事に責任を持っている。

 そう、感じられた。

(コイツ、意外と従者として堅苦しいんだなあ……)

 呆れではなく、感心。

 従者の仕事に於ける心の所在。それを明確に持っている事は同年代として感心させられたといっていいだろう。無論、彼の言がすべて肯定することはない。なにせ、数名身近な従者の少年が主に懸想を抱く例を知るため、一概に肯定出来ない感情というのがある。

 ともすれ、そういう意識を持って従者をしている、という点において周囲は九十九への評価を改めていたといっていい。

「不知火君って意外と従者としての弁えとかしっかりしてたんですね……」

「ん? 弁えってほどなんか? まーほとんど親父の教えだけどな。主従の関係性において念を置くべきことはうんたらかんたらって感じでよ」

「親父さん、キッパリしてたんだな」

「確かに不知火君のお父さま――崇雲さんは、そういう事言いそうかも」

 脳裏に強面岩窟オーラを放つ崇雲を思い浮かべる勇魚である。

 レティシアには言わなかったが――、勇魚は実のところ、不知火家への居候が決まった折に崇雲から釘を刺されていたりする。

『お前を家に泊めること。それに私は難色を示す気はない。我が家と思って精々自由にやっていろ。だがしかし、これだけは述べておく。我が愚息をかどわかす――ないし、アレに恋愛感情を抱くな。抱かせるな。それだけは誓ってもらおうか』

 轟く様な覇気を放ちながら言われるものだから、あの時は正直怖くて冷や汗かいたものだ、と勇魚は思い返してぶるっと震える。

(……まあ、不知火君は友達で恩人ですけど、そういう風に感じはしないって答えたら「そうか」って満足してくれたみたいでしたけど……)

 なんとも不思議な感覚である。

 なんというか娘に対する親馬鹿父親のような言葉だ。とはいえ、九十九はあくまで息子である以上は、そういう定義ではないのだろう。

 さりとて、今の九十九の様子を見ていると少し思うところはある。

 本人が恋愛感情希薄にして、父親がどこか息子の恋愛を遠巻きにしている様子を発している。それが何でなんだろ、と気にかかりはするのだが――。

(私が踏み込む事じゃない気がするから、考えるのはやめておきましょう)

 うん、と勇魚は首肯する。

 所詮、自分は居候で、九十九は名家の跡取り息子だ。ならば、自分には及ばない家の内情というのがあるのだろう、と推測する。そうして勇魚は思考を切り替え、九十九の恋愛話題へ触れる事を止めるのだった。

 と、そこで不意に「なあ不知火」と男子の一人が声を発す。勇魚はなんだろ、と思いながら声の主へ視線を見やる。これといって特徴のない平凡な顔立ち。話したことの少ない男子だった。確か苗字は湯檜曽(ゆびそ)だったか。

「そういや主って言えばさ」

「ん?」

 湯檜曽がぽそりと何やら思い出したかの様子で言葉を発する。

「こないだお前のクラスの新橋さんに……まあ、新橋さん達が食堂でなんか揉めてた一件あるけど、相手がお前のとこの……」

「俺のとこ? ――ああ、筵の野郎か」

「そう、それ!」

 九十九の言葉に湯檜曽は即座に首肯して返す。酷く憤慨した様子だ。

「見ててひやひやしたから覚えてるんだよ。新橋さん大丈夫かよって。俺、大地離筵って初めて見たけど、あんな高慢ちきなだけの奴だったのか?」

「おい、誰が高慢ちきだけだと?」

 九十九の眉をひそめての返答に湯檜曽は内心しまった、と焦りを浮かべた。

 九十九の主人である柩の兄なのだ。そんな人物を侮辱的に評すなど、慇懃無礼であったか――と怯えた少年だったが、

「そこに下種と小物っぽさをつけねぇと筵じゃねぇだろうが!」

「怒るとこはそこでいいのか不知火!?」

「むしろなんで俺があいつを馬鹿にされたから怒らにゃならんのだ相手が柩じゃあるめぇし!」

「兄貴おざなり!?」

 どうやら九十九的に兄貴の方はどうでもいいらしい。

「え、えっと……不知火君、仮にも仕える相手でしょうし、そんな風に言っては……」

「そーよそーよイケメンじゃない!」

「いや、皇后崎悪いイケメンってのもいるじゃんよ?」

「……え、そうなの? イケメンってみんな性格いいんじゃないの?」

 ちょっとショック受けた様子の皇后崎はともかくとして、九十九は腕組みし言葉を続ける。

「だがな佐伯。残念なことに、あいつはカスなんだ」

「か、カスですかー……」

「おお。あいつはな。昔っからカスだった」

「不知火がここまで言い切るとかやべぇな……」

 ぽちょーん、と冷や汗掻いて湯檜曽も口ごもる始末だ。

 明朗快活だが他者をここまでハッキリ下したりは滅多にない九十九である。それがこうも言うという事は本当にカスなのだろうか。少なくとも当時の状況を見た湯檜曽からしてみれば、それは快く納得できる事でもある。

「ガキの頃から筵は気に入らない事がありゃあ理不尽に腹立てて、それをどうにかしようとかなり悪辣っつーか卑劣ってーか下劣な手練手管でどうにかしてきた奴でよ……。そんなことが上手くいきまくってたから、どんどん助長してったんだ……」

「悪童だったってことか……」

「ま、そんなあいつも人生で一度だけ完全な挫折を味わってな。それを不屈の闘志で乗り越えて更に昔よりカスになったけどよ!」

「結局、悪化の一途じゃねぇか!」

「仕方ねぇだろ、基本世界は自分のために回ってるって信じてる奴だし」

「自己中!?」

「ナルシスト、だっけか? 確か柩の奴はそう評してたっけか」

『ああー』

 と、おそらくは学食で場面を目撃したのであろう生徒らが声を揃え納得の声を上げた。

 勇魚は生憎と、現場を見ていないが、そんな簡単に納得がいくという事は、どうやらその通りらしい。湯檜曽はそこまでで評価が底へ落ち切ったのか、筵への嫌悪感を露わにする。

「大地離の長男っつーから、どんな人かと思えばそんな屑なのかよ……! あの野郎、新橋さんに散々な事言ってたんだぞ? お前から何か言ってやれよ不知火!」

「あー、一応事の顛末は俺も聞いてっからなあ。一応こないだ新橋に後で謝っちゃおいたんだが、そうさなぁ……。あいつこう女にちょっかいかけるのも好きみてぇだからなあ」

 言いながら、微妙に悩んだ様子の九十九。

 そんな彼を見ながら勇魚は、湯檜曽に感心していた。

「人の為にそんな怒れるなんて、湯檜曽君、結構熱い人だったんですね?」

「え? あ、ああ。まあな佐伯!」

 言われると、少し戸惑った様子だったが、湯檜曽は照れた様に頭をかく。口元が少しにやけているようで、言われて嬉しかったらしい。

 そして、義憤の感情なのか湯檜曽は「とにかく俺ぁ大地離が許せねぇしな」と腕組みしながら言葉を紡いだ。

「聞いててカスだってわかった。そんなカスなら体育祭でも負けたくねぇ」

 鼻を明かしてやるんだ、と湯檜曽は不敵に笑みを深める。そんな彼に対して勝ち負けはともかく頑張ってください、と勇魚は言おうとしたが、そこで手厳しい言葉が投げかけられた。

「いんや、そりゃ無茶だ」

 へ? と、周囲が疑問符を掲げる中で九十九は真剣な顔で告げる。

「あいつは確かに天才的カスさと小物さを併せ持った下種なんだが――ことスポーツに関しちゃ垣根なしの超人だからだ。どんな批判的な正論もあいつは実力で覆す」

 その言葉に周囲はごくりと唾を飲み込む。

「口先だけの野郎にゃ負けはねぇ。実力でしか相手できねぇ。それが筵って奴だ」

「し、不知火がそんだけ言えるくらいやばいのか……」

 断言。そう呼んで然りない物言いにごくりと湯檜曽はつばを飲み込んだ。

「あたぼうだぜ。筵は脚力も、速力も、胆力も、腕力も全部ずば抜けてんだからな。アイツ、素手で鉄製のもの、折ったり砕いたり貫けるからな」

「鉄人過ぎるだろ! 人間かそれ!?」

「人間だぜ? ああ、あと俺も当然出来る」

「ここにも怖い奴いた!」

 驚きの声上がる中、勇魚は納得の様子で内心頷く。

 妖怪であると知っているのだから当然だ。

 そう、九十九の正体は人間ではない。妖怪――それも、鬼種。即ち、日本においてメジャーな種族である鬼に該当する存在なのだと。

(まあ、鬼と一概に言ってもそこから亜種派生が様々ですから、不知火君がどの鬼種に該当するかは、あの一時では判断出来ませんでしたが――)

 それでも、かなり力のある鬼の一族の末裔なのは間違いないだろう。それも、恐怖心を呼び覚ます程に無比な力を秘めている可能性がやたら高い。

「なんなら見せてやっぜ! そこのロッカーぶち抜いてなあ!」

「よせや! 修理費しかかからねぇよ!」

(けどまあ、本人がこの調子ですし、善良な、という言葉がつくんですけどね不知火君には)

 くすり、と勇魚は小さく微笑む。

 なにせ見ず知らずの自分の訴えを間髪入れず受け入れたほどに懐が広く、ヒーローのような熱血漢なのだ。そんな九十九が邪悪と勇魚には判断出来るわけもない。

(それに、平時はあの勾玉が封印呪具のようですし、不知火君も怪力は出せないのでしょう)

 服の中に隠れて見えないが、九十九は自身の妖力を抑える道具を所持しているらしい。

 勾玉の形をしたそれを所持する事で、彼の力は多少力のある人間程度になっているのだと勇魚は考えている。もとい、妖力を封じ人間にしか感じさせない辺り、相当高位の呪具でもあると推察していた。

「しっかしなんていうか、不知火ってば熱いわよねー。むさ苦しい筋肉に暑苦しい筋肉をプラスしたって感じであたし生理的にきついわ」

「俺はお前の言動がきついわ!」

「まあまあ皇后崎。こういう筋肉にとっちゃこの時期は唯一の輝ける場所なんじゃんよ。ここが過ぎればもう荷物運びの筋肉にしかならないんだから、多めに見るじゃんよ」

「そうだぜ、荷物運び手伝ってやんねぇからな!」

「いや、不知火。それでいいのかお前……?」

 擁護でもフォローでもなかった発言だった気がしたが「なにがだ?」と平素の発言が返ってくる辺りわかってない。はたまたどうでもいいらしい。

「にしても【大体育祭】ねぇ……やだわ、お肌が焼けちゃうじゃない! 皆に愛されるあたしの玉の肌が! 玉のお肌が! ところで玉の肌ってなにかしら?」

「知らないで使ってたんですね……」

「基本アホの子じゃんよ」

 使用方法が間違っていないだけ救いはあるが。

「まあ、ウチも【大体育祭】は内心気乗りしちゃねーじゃんよ。熱い、怠い、疲れるってのが体育祭の三原則じゃん?」

「私は学校の体育祭とか初めてですから、楽しみなんですけどね。不知火君も家では、運動頑張ってるみたいですし」

「運動好きは喜ぶわよね。かくいう私も運動は好き。だって発声に欠かせないんだもの! 体力づくりだって演技者の基礎だもの! 盤石盤石ゥッ!」

 カッと開眼して叫ぶ皇后崎。そういえば今更だが、彼女が演劇部所属であると思い出す。平時から台本片手にいるのもそのためだ。

「……けど、それなら体育祭は楽しみなんじゃ……?」

「ノン! あたしが好むのは屋内スポーツだけよ佐伯! 屋外なんて馬鹿のやることよ! なんで好き好んで紫外線を浴びるのかしら! お日様より、あたしは照明を好む! 時代はサンライトじゃないの、LEDなのよ、おわかりかしら!」

「は、はあ……」

 とりあえず皇后崎的には太陽は天敵らしい。そんな皇后崎を見かねてなのか、九十九がわかってねぇな、とばかりに不敵に言葉を発した。

「ふっ、屋内だけたぁ筋肉さんが育たないぜ皇后崎。外に出る奴にならなけりゃいかんぞ」

「筋肉なんか汗と一緒に減量しちゃえばいいのよ! ゴー・トゥ・サウナ!」

「ばっ! おま、筋肉減るとか怖い事言うなよ!」

「っていうかサウナだと減るのは脂肪では……」

「じゃあサハラでいいわ!」

「サハラ……サハラだと!? 砂がいっぱい……! お日様サンサン……! どうなる? どうなっちまうんだ俺ぇ!? サハラなんて行った事ねぇ! 俺の筋肉さんは無事なのかよ? いいや信じろ俺……筋肉さんを。なんのために鍛えてきたんだよ。筋肉はサハラ程度にゃ負けはしねぇ。そうだろ? 足場を取られて食料もねぇ。だがそこを乗り越えた先に未知の筋肉があるんだうぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「なんで今の流れでコイツってば興奮してるわけ!? わかんない! あたしにはこの筋肉の何もかもがわかんないわ! はっ! これが噂に聞く未知の存在への恐怖……? 知らないものこそ怖いってテレビの肥え太ったおっさんが言ってたもの! 怖い!」

 そして、とことん喧嘩腰の深まる両名である。傍目じゃれあいじみた喧嘩ではあるが。会話内容も素っ頓狂この上ないもので困るが。

 とりあえずこのままだとサハラに行きそうな九十九だけは止める事としよう。

「不知火君。サハラの前に【大体育祭】がありますよ」

「はっ、そうだ! 【大体育祭】ほっぽってはいけねぇぜ!」

「単細胞」

 レティシアの淡々とした呆れの言葉が響くが、九十九は気づいた様子はない。そのまま「今から燃えるぜぇえええええええええええ!!」と盛大に吼えるばかりである・

「……やっぱり嬉しそうだな、不知火は」

「ああ、うれしいぜ。なんたってよ。筵の野郎と競い合えるんだ。あの野郎とは、あの日以来中々機会が取れなかったからな……。今からうずうずすっぜ……!」

「おいおい……」

 主に花を持たせる気は皆無らしい。

 九十九の滾る様な闘争心を見て湯檜曽は思わず口元をひきつらせ、息をのんだ。

「――そんでもって筵だけじゃねぇ」

 ぐっと握った拳を注視しながら九十九は湧き上がる高揚感を確かに抱く。

「芳城ヶ彩にゃ、筵以外にすげぇ奴が結構いるみてぇだからな」

 なら示さなくてはなるまいて。

 この身は不知火。鬼種たる妖魔。筋骨気骨の在り様を。

「そいつらに魅せてやにゃならんだろ。――不知火が来たっ、てなぁ……!」

 爛々と、赤き瞳を輝かせて。

 不知火九十九は燃え上がり、猛り笑う。

 面白い相手と、強者たちと競い合える舞台が近づいているという事実に沸き立ち、その日が来るのを今か今かと、武者震いしているのだから止まるまい。

 そんな姿を見守り、汗を垂らして周囲は思う。

 ――一波乱どころか、大波乱になりそうだなぁ、【大体育祭】……。

 熱気渦巻く者どもがいる。熱気にあてられる者たちがいる。そう、未来を直感し、来るべき祭典の日へ向けて徐々に加熱していく空気を感じつつあるのだった。



第五章 ハートフル・ランチタイム(2)

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