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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Cinquième mission 「夕映えの誓い」
63/69

第五章 ハートフル・ランチタイム(1)

第五章 ハートフル・ランチタイム(1)


        1


 朝というものは、毎度変わらずよくやってくるものだ。

 佐良土(さらど)影郎(かげろう)は、朝の朗らかな日差しに、つい転寝しそうな心地よさを覚えてしまう。そんな彼はといえば、学校への道のりをカタンコトンと鳴る路面電車に揺られ、穏やかな空気と共に学院への道のりを進んでいた。

 芳城ヶ彩(さいじょうがあや)という群を抜いて豪華な学院においては、登下校の仕方が数多存在する。

 新幹線、地下鉄もあれば船も出るし飛行機もヘリある。学院側が遅刻対策にと飛び抜けた乗り物ばかりを用意したというのだから驚く話だ。問題は生徒たちが、乗り物のやばさから遅刻より命又は娯楽を優先する結果、普通に遅刻するものもいるあたりはご愛敬である。

 そんな数ある乗り物の中で影郎が好んでいるのが、この路面電車だった。微かに揺れを感じながら走る様に風情があると感じるのだ。

(…………後はモノレールなんかもいいよな)

 あれもあれで乗り心地がよい。こうしてゆっくり乗車しながら、読書に耽るというのが贅沢に感じられるあたり、自分は穏やかな時間というものを好んでおり、また読書が好きなのだと実感する。

 優雅な朝のひと時というやつだ。読書好きならば眉唾の時間だろうと一人納得する。

 ともあれ、願わくばこの素晴らしい朝の一時が穏やかに経過してほしいものだと、この時佐良土影郎は心からそう願っていた――、

「おはようだな、佐良土君! 今日は実に心地よい朝だよ! なぜって、佐良土君と一緒の電車だからね!」

 ――だから、そんな胸に抱いた一握りの願いは不躾に蹂躙されるものなのかと愕然とする。

 なにこのムサい筋肉。邪魔じゃね? それが影郎の容赦ない酷評であった。

「…………」

 さりとて、影郎は静かなる朝の美しい時間が、無情にも終わりを告げた事を理解する。なんという非道。神は死んだ。死んでいなければ、こんな絶望もそうそうないだろう。

 目の前の筋肉質な同級生に対して「…………消え失せろ悪夢」ぼそっと呪詛を吐き捨てるように言葉を零し「…………おやすみ」と何かを願うように挨拶を返した。

「ははは、佐良土君。今は朝だよ、挨拶間違えてるぜ?」

 破顔一笑で返す影郎の友人とも呼べない、だが最低限友人という枠組みで、その枠からどんな形でも外れてほしくはない、強いてあげるなら【永久にお友達風情】の関係を望む相手――尻堀町(しりぼりちょう)野分(のわき)を見据えて、影郎は朝から深々と嘆息を魂と一緒に吐き捨てた。

「…………もっと眠っていていいのに」

「何言ってるんだい佐良土君! 朝は早寝早起き! 健康第一じゃないか!」

「…………そんなこと言わずに九九年くらい眠ってろや」

「それもう死んじゃってるよね!? やだよ、九九年は!」

 戯言とでも思っているのか、可笑しそうに人の好さそうな朗らかな笑みを浮かべながら、影郎の隣に野分が腰かける。なのでごく自然に影郎は席を移った。

「佐良土君! ひでぇよ、席を移るなんて!? 俺と一緒に腰を落ち着けるのが嫌なの!?」

「…………黙れ意味深野郎。お前図体でかいし。狭いかなと思って」

「佐良土君……俺の為を思って席を空けてくれたんだね……! 俺のためを思って! 俺の!」

「…………なんだろう、もうその理解でいいやと思いつつ好感度が上がるのが無性に気色悪いな、やはり止めだ。本当はいつも脇が臭くてつい」

「やめて――!? この年齢で腋臭とか救いがないアンサーはやめて――――!」

 大きな手のひらで顔を覆っておいおいと泣く野分。

 体がでかく屈強なせいか酷く女々しく映る様に影郎は辟易した。流石に腋臭はないのだが、なんというか汗臭さと油臭さはあるので、前言撤回する気は微塵もない。

 好感度が下がろうと知った事か。むしろ下がることを願うばかりである毎日だ。

「…………しかしワッキーも、この電車に乗るとは知らなかったな。二カ月間乗り合わせた事などなかったのに」

「ああ、それかい?」

ぬへへ、と野分は照れた様な表情を浮かべながら、影郎に熱の籠った眼差しを向けて。

「――佐良土君と一緒に登校したいと思って、佐良土君の登下校の時間帯を一ヵ月くらいずっと念入りに調査してて……今日ようやく、念願が叶ったよ」

「…………そうか、よかったな」

 感情の起伏ない声のまま――、間髪入れず影郎は野分の目玉を手刀で潰していた。

 野分の「のぐそぽぃえっ!?」という奇声が朝から実にやかましい。

「…………どうした?」

「どうしたじゃないんだけど佐良土君!? 目をついておいてどうしたじゃないんだけど!? うわああああ、目がぁ、目がぁぁああああああああああ……!」

「…………朝からやかましい奴だな。読書の邪魔だ」

「理不尽!」

「…………黙れストーカー」

「ストーカーなんてあんまりじゃねえか佐良土君! 俺は友人として友達と仲良くしたいから――ただ、それだけだから佐良土君の生活リズムを把握すべく務めただけなんだからさ」

「…………よぅし、当然のような口ぶりでそれが出る辺りが、マジでドン引きだな」

「そして当然のように目つぶししてくる佐良土君に俺はドン引きだよぶふぅっ」

 それはまさしく流れるような自然な所作であった。

 野分の言に応えるように放たれた影郎の目つぶし。内心やるたび、指がぬるっとした丸いものに接触するのが気持ち悪いと物凄く自分勝手な感想を抱きながらも、影郎は目つぶしをやめない。何故なら野分の視線が恐ろしくてたまらないから。ただ、それだけのこと。そしてそれだけで十分、影郎が加害者に身を落とせる理由だった。

「…………だが悩ましい。手慣れてきた実感が怖いものだ」

 ここまで自然な所作で野分の眼球をつけるようになった。それはある意味で慣れ親しんできたということだろうか。怖すぎる現実に影郎は静かに身震いする。

「なら手慣れなけりゃいいじゃん!? 正直眼球ぐにょぐにょんだぜ俺!?」

 ぶわわっと溢れる涙を抑えつつ野分が絶叫する。眼球が歪んでやしないだろうか。

「…………この光景に見慣れてしまうのも苦しいものだ」

「苦しいの俺ですけど!?」

 叫ぶ野分。

 だが、眼球の痛みもだんだんと引いてきたのか、目元をハンカチで拭い「はぁ」と、あきれたような声を零す。

「まったく、佐良土君。照れ隠しにしたって眼球潰しは流石に痛いよ」

「…………」

「――おっと、残念だったね。そう何度も喰らわないよ?」

 パチッとウインクを決める野分。

 そうか、お前は一連の目つぶしを照れ隠しと認識していたのか。影郎は「そうかそうか」と頷きながら容赦なく放った目つぶしだったが、先読みしていたのか野分は自分の目を掌で覆いながら不敵な笑みを浮かべていた。

「――――だからどうした」

 なので容赦なく拳二つで両目の辺りを殴打してみた。眼球の部分が指越しにめにょりと凹む。指で突かれるのとは、また別種な痛みが野分を襲う。

「もぐぅうううううううううううう!? ちょ、佐良土君!? 今の地味に痛い! 地味に痛い!」

「…………それが、俺と友達でいる、という事の代償だ」

「なに急に格好よさげなセリフ吐いてるの!? 俺ら普通の高校生の友人同士だよね!? なんなのその裏社会っぽい友人関係! そしてその理屈でいくと俺の眼球ピンチだね!」

「…………貴様の眼球にどれほどの価値がある」

「――おーい、後部座席の学生君二人。あんまり騒がしいと電車から降ろすよ?」

 そんな二人が大人しくなるのは車掌さんからの注意が発せられるまで続いたのだった。




 結論。朝から公共の車内で絶叫したりするものではない。

 そのことを野分は心から痛感したといっていいだろう。さあ、御覧あれ。この野分へ向く『朝からやかぁしぃんだよ……!』という怒気の眼差しの数々。喰らっていて心身縮こまるものである。

「あはは……一緒に怒られちゃったな、佐良土君」

「…………」

「佐良土君? なんだか陰鬱な表情だけど、どうした? ……もしかして、怒られたことかな? そんなに気にする必要はないと思うぜ、俺は」

「…………ワッキーと仲良い友人に見られた……。『ご友人と仲良しなのはいいけど、はしゃぎすぎちゃダメだなぁ』とか言われた……」

「なんでそれをショックな事みたいに言ってるの!?」

「…………死にたい」

「そこまで言われる俺もショック死しそうになるけどな!」

「…………本当?」

「……佐良土君、流石にそこで嬉しそうな瞳の輝きを見せられて無事で済むほど俺も鋼メンタルじゃないんだけど。あ、でも佐良土君の心にどんな形でも俺が残るというのであれば、佐良土君の前でこれ以上ないくらい苦しんだ死に顔を晒して死んでも、それはそれで素晴らしい事かもしれないな――」

「…………生きろ、ワッキー。誰にも関わらずひっそりとな」

「唐突になんだよ! 嫌だぜ、そんな寂しい生き方!?」

「…………お前の思考回路の方がよほど嫌だわ!」

 なにを恐ろしい思考回路しているんだろうかこの男は。

 どこぞのヤンデレばりの思惑を生んだことにドン引きの影郎である。そうして「…………朝から叫び疲れた」と、当初の緩やかな朝の空気もどこへいったのか。影郎は背もたれにぐでんと体重をかけた。どうしたんだろう、と野分は不思議そうに眉をひそめるほかにない。

(大切な友人の記憶に足跡を残せるなら、どんな形だっていいと思うんだけどなあ)

 そう、思う野分の思考は流石に影郎に伝わるわけもなく、思考の海へ埋没してゆく。

 件の影郎は野分の思考など、知らず背もたれが心地よいのか大きくあくびを発していた。

「ふぁぁ……」

「佐良土君、また欠伸かい? 眠いの?」

「…………眠いと問われると、眠いとしか返せないのが歯がゆいな」

「……膝でも貸そうか? なーんて――」

「お願いですから御冗談めはおやめください何卒申し上げ奉るー!」

「そこまで嫌そうにしなくていいじゃんか! 第一冗談だよ!」

 座席で土下座する影郎に対して大慌てで野分は弁明する。

 ただの冗談だったし、男を膝枕なんて野分も嫌――まあ、影郎なら別だが――基本、そんな構図に需要がないのは一般知識なので影郎は冗談と言われホッとした――本当にホッとした笑みを浮かべる。そんな影郎の肩を軽くぽんと叩き、からかうように一言発す。

「ま、それにしたってさ。夜更かしでもしてるのか? 睡眠不足は筋肉の敵だよ?」

「…………睡眠はとっているから問題ないはずなんだがな」

「そうなんだ? なのに、疲れてるって事は寝方の問題かもな?」

「…………寝相と指摘されると改善が難しいから困るものだ」

「なら、佐良土君が寝てるときに俺が様子を見ててやるからさ――」

「…………お前の前で寝られるほど俺は危機管理を怠るつもりはない」

「ん、んん?」

 どういう意味かな、と野分は影郎の言葉が、よくわからなかった。そんな野分に気づかぬまま、影郎は「…………睡眠不足など笑えん。どうしたんだ俺は本当……」と、気だるげに目元を半眼にして悩むそぶりをみせていた。

 結構気にしているらしい。ここは友人として慰めねば。

「……でも寝ぼけ眼の佐良土君。俺は、かわいいと、思うな。食べちゃいたいくらいぐそっぽぃえっ」

 野分はすぐさま悶絶する!

 眼球に走る慣れた痛み――そう、最早運動部の部員にとって筋肉痛と同じような頻度で光臨する眼球に異物がのめり込んだ痛みに苦悶していた。

「痛いよ佐良土君! 目が、目がぁあああっ!」

「…………眼科にいけ」

「適切な処置!? でもそれ原因のいう言葉じゃないよね!?」

 そういう影郎の表情はすごく青ざめていた。手も震えているし、全体的に恐怖がにじみ出ている。だが悲しいかな、その怯えようは野分の目に映る事はなかった。なにせ、今潰されたばかりだし。

 件の野分はと言えば、佐良土の様子に気づかぬまま、目じりを抑えつつ嘆息する。

(テレにしたって、火力がやばいんだよなあ……!)

 恥ずかしがるにしたって眼球をつつかれる日々は結構過酷なのだと野分は内心思った。

 当の影郎からしてみればテレなんぞ欠片もなく、同性から発された恐怖の発言に身の危険を感じて彼の瞳を壊さんがため、文字通り指摘を放っただけの話だが。

「ふー、痛かった」

「…………だんだん、回復が早くなっている気がする」

「そりゃあ何度も受けていれば慣れるわ! 慣れたくなかったけどな!」

「…………ならば瞼を閉じていればいい。そうすれば俺は目つぶしをしない」

「やだよ、それじゃあ大事な友人の顔が見れないからな」

「…………そうか。ならば俺は延々と目つぶしを続けるのみだ。貴様の目が見えなくなるまで、俺は、目つぶしを、やめない……!」

「怖いよ!? 悲壮な覚悟オーラ発しながらどんだけ俺の目つぶしに意欲的なの!?」

「…………無論、死ぬまで」

「俺の目、失明しそうマジで!」

 割と本気で失明するのでは、と戦々恐々する野分である。

 すると、そこでまたも影郎は「…………くぁぁ」と、眠そうに欠伸を一つ零した。

 野分は少し心配そうに眉をひそめる。

「それにしても、佐良土君って毎日ほんと眠そうだよね。いつも半眼だし」

「…………半眼なのは、元からダウナーだからだが」

 けどそうだな、と小さく首肯する。

「…………確かに最近は眠くて仕方がないのが困りものなんだ。いつも妙に気怠いというか、疲れが取れていない感じはしてる」

「そうなの? 毎日ちゃんと寝てるんだよね?」

「…………ああ。時間はちゃんと、とっているはずなんだがなあ」

 不可解そうに影郎は眉根をひそめていた。

「…………日本に来てから、もう大分経過してるし、時差とかではないはずなんだが……」

「時差?」

 その単語に野分は、思わず意外そうな声を発する。

「時差って佐良土君……、海外にいたの!?」

「…………言ってなかったか?」

「初耳だよ! 佐良土君が帰国子女だったなんて……大親友なのに、そんな事も知らなかった自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい気分だ」

「…………そうか。俺もお前が俺の大親友なんて立場にいたことが初耳だ。……心底、煩わしい……!」

 影郎の怨嗟に満ちた声が隣で響くも、野分は聞いていなかった。

 海外にいた――なんというショッキング事情だろうか。友人足る自分も、今日まで知らなかったとは、羞恥の至りとしか言いようがない。弁明しようもない無知の始末。だが衝撃に凹むばかりではいられない。ここは距離を近づけるチャンスと切り替えた野分である。

「佐良土君ぐわひゃっ!」

「…………急に肩を掴むな。びっくりするだろう」

「お約束とばかりの目つぶしもびっくりするぜ、佐良土君! ずぶっていく勢いだったよ」

「…………そういいながら目を庇った奴に言われてもな。で、なんだ?」

「慣れたくないけどマジで慣れてきたからな! ……こほん、まあいいや。それより佐良土君、俺は君に訪ねたい事が出来たんだ。訊いてくれるか?」

「…………毎日のことだが、景色綺麗だな、この学院は」

「佐良土君の筋肉(からだ)の方がよっぽど綺麗だぜ? ――じゃなくて、ごまかさないでよ、佐良土君! 聞きたい事あるんだってば!」

「…………やめろ、離れろ、お前と金輪際関わる気が今の一言で失せているんだ……!」

 まるで虫が大の苦手の人が虫の大群と遭遇したかのような蒼褪めた顔を浮かべる影郎だが、興奮した野分はそんな態度も気にならず、勢いそのままに、ウキウキと口を開いた。

「佐良土君がいた国ってどこなんだ?」

「…………それを聞いてどうするつもりだ?」

「もちろん、佐良土君が辿った足跡を俺も追う所存だよ。それで、佐良土君との親睦を深めるのが狙いかな。――なーんてね♪」

「…………そうか。気持ち悪いな。気色悪いな。消えてくれ」

「ひどい! 佐良土君、毒舌もほどほどにしとかないと友達無くすよ?」

「…………むしろ無くしたい」

「孤独を愛してもいいことないよ? それより俺を愛そうぜ?」

 ――友達として、と大切な部分を照れくささから、言いそびれて。

 すると当然のように影郎は蒼褪めた表情で恐々と首を振っていた。意識がないが、それだけは御免被ると――まるで本能的な恐怖から首を振っているかのような拒絶の示し方だったが、野分は自分の発言が照れくさくて少し視線をそらして顔を赤らめてて見ちゃいない。

 そんな中で、影郎は光のともらない瞳のまま、必死に首を振っていたのだった。

「ま、まあそんな事よかさ。佐良土君、どこに前はいたの?」

「…………」

 瞬間、影郎の思考は加速した。

 どうしようか。答えるべきだろうか。それとも逃げるべきだろうか。いや、逃げ場などない。場所は密室、乗り物の中。窓ガラス破って脱出してもいいくらいだが、それは迷惑と修繕費がかかる。あるいは目の前の友人もどきの命脈を寸断すべきか。いや、野分を手にかけるという事実自体が気色悪い。

 すなわち、影郎のとれる選択肢はたった一つしかないのだと理解した。

 やがて観念した様子で、影郎は重々しく肩を落としながら「…………アルゼンチンのブエノスアイレス」と答えた。

「アルゼンチン……、アルゼンチンかあ……! そこが佐良土君のいた場所なんだな? 今度の夏休み行ってみるしかないな、これは! ああ、楽しみだ!」

「…………そうか。勝手に行ってこい」

「ああ! 土産話に期待しておくれよ、佐良土君!」

「…………いや、別にそこはいいかな」

「つれないなぁ」

 言いながら野分はひそかに高揚していた。

 友人がかつて足を運んだ場所。異国の地。いつか、否、近いうちに必ず訪れてみたいものだ。そこがどんな場所なのかこの目で見て――そうすればきっと友人との会話も花が咲くことだろうから、と気分はとても暖かだった。

 そんな野分を温い視線で見ながら、

(――――本当は別の場所だけどな)

 ふっと勝利のほくそえみを内心零す影郎であった。

 アルゼンチン? ブエノスアイレス? 関わり合いもないな、と不敵に笑う影郎である。むしろアルゼンチンなんて治安的な意味では最悪だ。勝手に行って勝手にくたばるがいい。何気に相当、下種な事を考えているのを自覚しているが、目の前の恐怖が消え失せるならば下種と罵られようと構わない影郎の内心である。

 隣の天然危険物がいなくなるのならば悪魔と謗られようと構わない。

 だって割と真面目に隣人が怖いから!

(…………なんでこんなのと関わっちゃったんだろう、俺……)

 窓の外を睥睨しながら、明後日の視線を浮かべる影郎。

 野分との邂逅を思い返す影郎だが、こうなるとわかっていたのであれば、あの日関わるべきではなかったのだという思いが首をもたげている。

(――ま、そうしなかったのも俺の判断か。後悔はあるが、未練はないな)

 しかしそれも一瞬で頭を振った。

 野分との出会いに今更いちゃもんをつける意味もない。いちゃもんは現在進行形のこの友人モドキに対してのみであって、出会いに難癖つけても仕方がないだろう。何よりも自らの行動を悔いる程の事でもない。

「佐良土君? どうかしたのかよ?」

「…………いや、なんでもない。思い出したくない過去を思い浮かべてしまっただけだ」

「?」

 わからなそうに顔をぽかんとさせる野分。

 かといって当人が思い出したくないと言っているのだし、追求する事ほど馬鹿なこともないだろう。思考を切り替えて、野分は先の内容に改めて触れなおす。

「にしても佐良土君が帰国子女だったなんてな。びっくりだ」

「…………まあ一応な」

「ってことは佐良土君のご両親は今海外なのか?」

「…………わからん」

「わからんって、おいおい」

 所在不明なほど諸国漫遊しているとでもいうのだろうか?

 野分はからかわれたと思い苦笑を浮かべるが、ふと気づく。影郎の横顔が真剣そのものであったこと。憂いを帯びた表情であることに。

「……もしかして、ご両親何かあったの?」

「…………まあな」

「それってどんな……」

「…………色々だ。お前に話す事じゃない」

 話す事じゃない。悲しいが、その通りだろうと野分も理解し口を噤んだ。

 家庭の問題の気配が色濃いように感じられる。とすれば、そこに土足で踏み込む事をするほど野分は無遠慮ではないつもりだ。今わかったことは、影郎の家庭も何かしら抱えていて大変なのか、という憶測に基づく感想くらいか。

 どこも大変なのだな、と野分はため息づいた。

「佐良土君も家族絡みで色々あるのかあ……。他所も大変なんだなって思うよ」

「…………まあな」

 その時、野分は少しだけ思いを抱いていた。

 家族関係が大変――それは、野分にとって実に共感沸く実態である。影郎もそういう悩みがあるのか、と感じると同様に自分もまた感じ入ることがある。けれどきっと影郎はそういうことを語らないで抱え込み続けるのだろう。

 けれど何時かは話して貰いたい。友人として野分の思いの一つも、またそれであった。

 そうして、野分は決意する。

 無理に聞かせる、という殊に僅かばかりシコリを感じる気持ちはあれど、影郎に伝えたい言葉が生まれたから。尻堀町野分は誰にも語らずにいた思いを吐露する覚悟を固めていく。

 朝の陽射しに照らされながら、まるで軽口を叩く様に野分は口を開くのだった。

「――俺の家族も困ったものでさ。佐良土君とは違う意味合いだけど、最低で参っちゃうぜ」

「…………そうか。まあ、事情は知らんから頑張れ」

 そして、にべもなく受け流される。

 思わず無言になり影郎に「訊いて?」とばかり視線を注ぐ野分。

「……」

「…………なんだその物乞いみたいな卑しい視線は」

「俺、今聖者に縋る教徒の如き心地なんだけど?」

「…………ならバチカン行ってこい」

「俺、さ。佐良土君になら全てをぶちまけてもいいって思って、今、口を開いたんだ」

「…………独り言なら勝手に話していろ」

「佐良土君……!」

 それはつまりアレか、と野分は理解した。

 独り言の風を装っての話ならば聞いておいてやる、という影郎の優しさに間違いない、と。

「…………俺は交通手段をタクシーに切り替える。じゃあな」

「待つんだ佐良土君!」

 しかし、無情にも発せられた一言は聞き逃せるものでもなく、気づけば野分は、がしっと影郎の腕を必死につかんでいた。

「…………はなせ」

 それに即座に反応を示すのは影郎の体そのものである。ぞぞぞ、と掴まれただけで鳥肌が立つほど野分を危険視する本能が拒絶の言葉を口から吐かせる。

「ありがとう、佐良土君……! なんだ、ちゃんと訊いてくれるんだね……!」

「…………ずいぶん都合のよい耳をしているみたいだな、くそ野郎がぁ……!」

 話せ(・・)ではない、放せ(・・)だ。

 影郎が願ったのはそういう意味ではない。影郎が吐いた言葉はそれではない。しかし、野分はすでに感涙の表情を見せており「佐良土君……。俺は、君のそういう静かな優しい態度が大好きだぜ!」とウインクでいうものだから、

「…………何か大きな勘違いをしているようだから訂正しておくが、俺はお前の家族関係の悩みなんざ知ったこっちゃないし、朝からそんなヘビーな話題についていく気もない。というかお前の背景とか全般関わり合いになりたくないので、手を、放してください尻堀町さん」

「佐良土君のばっきゃろー! そこまで無慈悲な拒絶しなくたっていいじゃんかさー!」

「…………黙りやがれ、今言った通りだ聞いてられっかそんな重苦しい話題朝からなあ!」

 悲嘆と憤慨。

 爆発する感情が車内に満ちる。それはすなわち、当然のごとく、

「おーい、学生さん。あんまり騒がしいと電車から降ろしますよ?」

 アナウンスで車掌が諌言を発してきた。

 それは影郎にとって救いの天啓に他ならない。影郎は懇願した。

「…………降ろしてくれ……! 頼む、車掌さんの責任で降ろしてくれ……!」

「どういう意味だい!? これ言って降ろしてくれなんて言う子初めてなんだけど!?」

 予想通り、車掌の困惑が伝わってくる。そりゃそうだ。

「…………だがコイツだけはいさせてやってくれ。頼む」

「佐良土君、さり気なくいい感じに俺への排除はやめよう? 俺は佐良土君と登校したいんだから、運転手のおじさんに迷惑かけちゃいけないぜ?」

「ほら、学生さん。友達もこう言ってるんだから落ち着きなさいな。静かにしてれば、私も降りろなんて言わないから――」

「…………何時か孤独になろうとも。歩いた足跡に目を向けて、掴んでいたはずの夢想に微睡み――♪」

「なんで急に歌いだした学生さん!? あれだね、若者に大人気、CRANEの歌なのはおじさんも知ってるよ、あの子は綺麗な子だ! ただ、なんで大声で歌いだしたんだい!?」

「わかってたはずの結果に目を背け、目を閉じることもやがて終わる。敵わないなと自嘲を零すその先に――♪」

「友達の君もなにデュエットしだしたんだ!? ここカラオケじゃないから、本当に降ろすよ学生さんたち!? ――って、ああどうした学生さん!? 乗り物酔い!? 違う?! デュエット気持ち悪くて?! わかったからもうそこの後部座席に横になってなさい学校までちゃんと送るから! ね!?」

 そうして影郎は大人しく席に横たわった。車掌さんの温かい言葉を馬耳東風状態で胡乱に聞き届け、

「運転手のおじさん、いい人で良かったな佐良土君。筋肉は微妙だけど」

「…………そうか。安心した」

 筋肉が微妙なら野分の目に留まることはないだろう。いい人はいい人のままいい家庭を育んでくれれば最高である。代償として――、

「それで佐良土君。話の続き。話して平気だろうか?」

 結局として、話を聞く羽目になる。

「…………なぜ、こうなるんだ…………」

 現実はなぜ、こうも無情か。

 影郎は口から魂を吐き出しながら項垂れる始末である。

「……佐良土君? どうしたんだよ?」

「…………なんでもない。いいからお前のくだらない悩み事とやらをさっさと言え」

 最早破れかぶれである。ここまで来たら馬耳東風としゃれこもう。

 早い話、聞く気はさらさらない影郎であった。

「ははは、くだらない、か。確かにくだらない悩み――なのかもしれないな……」

 そう、野分はどこか自嘲交じり、諦めた様な声を灯して、言葉を続け語り始めた。

 朝には似合わぬ、重苦しさを孕んだ、その一文を。

「今まで誰かに話したことなかったけどさ。実は、俺の家は――もうとっくの昔にバラバラなんだ」

「…………あ、そうなんだ。大変だね。でも俺には関係ないから」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………わかった。続けてくれ。メソメソしないでくれ、気色悪いから」

 会話のキャッチボールで、あえてボールを回避しても悪い結果が生まれることもあると学ぶ影郎である。

 引き締まった筋肉を持つ男が女々しく泣く様とはこれほど絵面的に厳しいのか、と影郎はむなしく思った。なんというべきか。野分の泣き方が気持ち悪かった。男がめそめそするな、という気はないが、野分にめそめそはえらく似合わない。絵面的に。

 そんな彼の内心汲み取るれるわけもなく、野分は影郎の優しさに絆されたように歓喜の笑顔を浮かべる。しかしその表情も一瞬で次の瞬間には憂いを帯びた表情へと変わっていた。

 なぜ、そんな表情を浮かべたか。

 それには当然理由がある。野分にとっての秘密――それは必然的に自分の痴態を晒す事になってしまうのだから。それを影郎にどう評価されるのか。それが野分は恐ろしかった。

 しかし勇気を振り絞り、影郎に問いかける。

「佐良土君は……俺の事、どう思ってる?」

「ただの友達」

 その問いかけに影郎は間も置かず、即答で返した。割と必死だった。

「そんな期待を……俺は裏切ってしまうかもしれない」

「そんな事を言うな。頼む、言わないでくれ」

 きっと二人の思考には明確な差異がある。野分は今から話す内容で影郎がどう思うかを恐れて。影郎は――ただの友達という前提の何が崩れるんだという恐怖におびえて。

「今から話す事はさ。俺の恥ずかしい秘密なんだ」

「…………今でさえ存在が恥ずかしい癖にまだ何かあったのか?」

「佐良土君、その毒舌はあんまりじゃね!?」

「…………そうか。嫌ってくれていいぞ」

「まさか! 俺が佐良土君を嫌うだって? ――大好きだぜざらぼっ」

「…………いいからさっさと話を進めろ」

 言わせねぇよ。影郎の内面はどす黒く、その一言に尽きていた。

 眦を痛みで少し抑えつつ、野分は「ええと、ね」と静かに語りだす。その内容は――野分という少年の家族に関する事であった。

「……そもそもの原因は親父なんだ」

「…………へー、親父さんなのか」

 言いつつ、影郎は少し身構えていた。

 野分の、父親である。このとち狂った天然の父親だ。同類ではあるまいか。はたまた元凶かもしれない。そんな憶測から影郎は、なるべく詳細を漏らさぬように心がける。

 なにせ危機とは常に潜むものなのだから――!

「親父は俗に言う合法ロリコンでね」

「…………」

 危機は去った。

 代わりに得体のしれない実態が到来したらしい。

「……合法ロリコン?」

 合法ロリではなくて? と、小首を傾げる影郎である。

 うん、と野分は頷いて返す。

「合法ロリコンさ、親父は。未成年だと手出しできないからって理由で、成人だけど幼い容姿の女性を――つまり合法ロリを相手にすると見境なしに手出しするどうしようもない人間なんだ。それこそあくどい手を使っても関係を得るくらいに……」

 犯罪者じゃないか倫理と道徳観念な意味で、と影郎は肝を冷やす。

「そんな父の横暴に母は嘆き悲しんで、最終的には幼馴染で恋人の彼女と一緒に駆け落ちして家を出て行ってしまってさ……」

「…………」

 ぱたん。ぺらり、ぺらり。

「父は家に帰らず、母も去った家庭環境でマトモでいられるわけもなく、俺の兄はぬくもりを求めて近場の牧場に侵入し、雌牛と姦通しようとしたところを牧場主さんに見つかって通報、あえなく警察の厄介になって今は精神病院送り……はは、笑えるだろ?」

「…………」

 ぱらぱら。ぺらり。

「……佐良土君? ねえ、聞いてる?」

「…………読書で忙しい」

 言いつつ、頁をめくる手を止めない影郎である。

「俺のシリアスな背景興味なし!?」

「…………それ以前に、どこからつっこめばいいか迷うレベルの背景にドン引きしてるんだよ、朝から妙な家庭事情語りやがって! 笑える笑えない以前に関わり合いたくないわ!」

「そ、そんな……!」

 野分はガーンとショックを受けると、しょぼーんと気落ちしはじめた。

 だからどうした、と影郎は気にしない。情けとか同情とか、そんな優しい気持ちは介在しなかった。――だって、正直めんどうくさいから。

(…………父親がまだいっそ普通なゲスに思えてくる家庭事情なんて首突っ込んだらアウトな気配しかないぞ……!)

 肝心の野分は「関わりたくない……そうだよな、こんな重苦しい事情の家、関わりたくないよな……」と嘆いている様子だった。微妙に影郎の罪悪感が駆り立てられるが――それでも関わり合いたくないと思える辺りが凄いとしか言いようがなかった。

 幼馴染の恋人(かのじょ)と駆け落ちした母親。

 母の温もりを求め、牧畜と姦通行為しようとした兄。

 幼女っぽい女性と不倫を繰り返す亭主。

 ふぅむ、と影郎は唸った。

(…………バカな……! 父親がいっそまともに思えてくるレベルでこの家族嫌だ……!)

 ただの不倫ロリコン野郎が、こうもまともに感じられる家族など遭遇したくもないと思える始末である。

(…………いや、恋愛沙汰だけで言えば母親は、マシな方か……! 百合に走ったってだけだしな。問題は兄だ……!)

 俗に言うところの複雑な家庭環境というやつだ。

 こんな難儀な家庭環境耳にしたくも無かったが。破綻している。し過ぎている。

 全部我欲に突っ走った感じで。

 しかし、現状そういった家庭環境ということは、だ。野分の現在の家庭内事情はどうなっているか影郎は軽く推測する。

「…………で、お前は今も父親と二人暮らしなのか?」

「え? ああ、いや。今は一人暮らしさ。それと一応、弟がいるんだけど、折り合い悪くってね。お互い毛嫌いしているというかさ」

「…………ほう、それは意外だな。…………しかし、弟までいたのか……」

「俺は、どうにもアイツの事を好きになれなくてね。だから、父とも弟とも離れたくて学院の寮に一人暮らししてるんだよ。気楽でいいんだ」

「…………そうか、それはまあ何よりだな」

 言っていて弟に対して危機感を抱く影郎である。この親にしてこの兄だ。

 果たしてどんなねじ曲がり方をしているか想像もしたくない。

「おう。あ、そうだ、佐良土君。今度うちに遊びに来ない? 一人暮らしだから気楽だし、俺と二人きりで楽しく汗でも流さないか?」

「…………そんな危険地帯に足を自ら踏み入れるなど、とてもとても。ご冗談を」

「あれ!? 普通に友達を誘っただけなのに、その反応おかしいよねえ!?」

「…………バカを言え。これが世の男性陣の普通の返答だ」

「嘘だ! なんで死刑判決受けたみたいに顔青くしてるのかわからねぇよ!?」

 嘘なものか、と影郎は歯を食いしばる。

 断じて――嘘なものか。野分の一人暮らしの部屋。そこに男がお邪魔する――無事で済むわけがない。魔窟に足を踏み入れるなど、誰がそんな蛮行を出来るものだというのか。

 だが、当然納得いかぬ野分は食い下がらない。

「俺の部屋は危険地帯なんかじゃないぜ? 事故物件でもない!」

「…………むしろ、事故物件だったらどれほどありがたかっただろう。他の人が見ていてくれて邪魔してくるなんて最高過ぎて泣ける」

「どういう理屈!? やだよ、俺は佐良土君と二人きりで夜を明かしたいんだ!」

「…………事故物件に住め。話はそれからだ……!」

「事故物件でもない部屋になにを戦々恐々してるんだよ佐良土君は!? ひどいぜ。俺はいつでも佐良土君が来れるように部屋を綺麗にしてるっていうのにさ!」

「…………そうか。あきらめて散乱させといていいぞ」

「……え、それって佐良土君。俺の部屋を汚す気ってこと……?」

「…………行く気がないって事を読み取れ難聴似非筋野郎が!」

「えげつない罵詈雑言!?」

 涙目を浮かばせる野分に対して内心で泣きたいのはこっちだ、と唸る影郎である。

「…………いいか、事故物件だ。俺がお前の部屋にいくとすればそれが最低条件だ。これだけは譲れない。わかったな?」

「わからねぇよ!?」

 野分は本気でわからなかった。

 わざわざ事故物件を推奨する意味がわからない。幽霊とそんなに会いたいのだろうか?

 ともかく、影郎を家に招くには事故物件でなければ難しいらしい。無茶だ。折を見てまた話すしか手はないだろうか。さすがに事故物件は恐ろしいし、と悩む野分である。

 どうすればいいんだ、と嘆く傍らで影郎は危機は去った――そういわんばかりの清々しい表情を浮かべながら静かにカバンに本を戻して、手探るようにカバンをあさり、

「……あれ」

「……佐良土君?」

 なにか不安が灯されたような声を思わず零す。当然、その声に隣の野分は眉をひそめて友人の様子を見守った。

「…………はて?」

「……どうしたんだ佐良土君?」

 少し焦りを浮かべた影郎の様子に疑問を抱く。

 そんな野分に対して影郎は途切れるようにか細い声を零す。

「…………まずい」

「何が?」

「…………財布が、ない、かも……」

「え……っ」

 財布がない。

 つまりは、財布を忘れた。そういうことか。野分はもっとよく探すように促すと、当然影郎もカバンを漁りながら時間は少しまた少しと経過し、同時にシラヅキ高校が窓の外に近づいてくる。その段階へ至ってようやく影郎は諦めた様子で腰を落とした。

「…………ない。忘れた。今日は断食か……」

「ええええ……。マジか、大丈夫なのかよ佐良土君? 断食はきついよ?」

 野分の言葉に影郎も迷う。

 なにせ、

「この学院の昼飯うっまいんだよなぁ……」

「ねぇ……」

 そう、ご飯がどこもかしこも美味いのだ。芳城ヶ彩の学食も、購買というものも。ゆえに学生らの舌は肥えている。特に自炊が出来ない男子学生にとって、そのボリュームと味に価格は全てが天上の味わいに等しく映える。

 たかが一飯、されど一飯。我慢せよ、と言われればそれまでなのだが。

「…………今日も体育あるしなぁ」

「つらいね、それも」

 野分の同乗の眼差しが痛い。しかも今は体育祭シーズンだ。当然腹も減る。ともなればまあ仕方がない。影郎は最終手段にして最良手段に手を伸ばす。

「どうするのさ、佐良土君?」

「…………仕方ないから、友達に借りることにするから心配しなくていい」

「――」

 その一言に。野分の温度がひゅっと冷えた。

 なるほど、言葉は間違っていない。

 しかし、それが――野分に対して発せられるという事では意味がおかしい。なぜ、その友人カテゴリに自然と自分が外されているのだろうか、と。

「佐良土君」

「…………ん? なに――ひっ!?」

「友達ってどこのどいつかな?」

 この時の体験を佐良土氏は恐ろしくて仕方なかったと語っている。まず。声が低い。目が笑っていない。笑顔なのにうすら寒いなにかを影郎はその時、感じたのだと。

(…………なんだこの恐怖っ。このへんちきりんな圧倒的恐怖はッ!)

 目が、濁っていた。

 そう、それはさながらお前が頼ってよいのは己だけだと言い募るごとくに――、

「佐良土君。俺たち大親友だよね?」

「…………え、それはどうだろ――」

「友達、だよね?」

「…………ただの友達なのはそうだが――」

「お金を借りるなら、さ。その選択肢が目の前にも、あるわけで」

「…………闇金に手を染める気はな――」

「俺が奢るよ! 任せろ佐良土君!」

「…………」

 逃げられない。きっと自分は逃げ切れない。

 そんな恐怖に身をさいなまされながら――二人を乗せたバスは学院へと到着するのだった。


        2


 教室の窓際の席。そこに艶やかな黒髪を垂らす純日本風な和風の美少女が一人いた。

 端麗な面立ちに、均整の取れたスタイル。奥ゆかしさを感じさせる雰囲気は、実に優し気であり転入して間もなく男子からは可愛い女子の一人として意識されており、お嫁さん候補の位置づけも相当高くなっている。本人は全く知らないが。

 名家、不知火家の親戚筋――そんな不知火の遠縁という肩書で彼女、佐伯勇魚は真面目に授業を受けていた。

 黒板に走るチョークの筆記音を耳にしながら、勇魚は勉学に勤しむ。

 生来、真面目といえるだろう彼女にとって勉学に励むという事は普通な事であった。なにせ彼女は日本へ渡る前は、その実学校というものと縁が無かった為である。学問を教授してくれる先達に先輩こそいれど、辺境といえば辺境と呼べるかの地に於いては、わざわざ学校に通う理由がなかった為だ。

 日本へ渡りようやく学校というものを知った時には驚嘆し――今まで、自分が勉学に励んでいた状況は個別家庭教師あるいは学習塾のようなものであったと知ることとなった、そのジェネレーションギャップのようなものは計り知れなかった。

 故に。

 そんな自分が同年代と机を並べ、平穏と呼ぶに相応しい現状はうたかたの夢の如くにまばゆく優しく――そして掛け替えのない現実である、と。

 であるならば、その木漏れ日のごとき微睡みに感謝したい。自分に教育の恩恵を享受させてくれた不知火家に対して勇魚は感謝を抱いていた。

 勇魚はシャープペンをすらすら走らせ、教諭の声に耳を傾けつつ、幸福を噛みしめている最中であった。

 そんな勇魚が窓の外から響く――否、とどろく声に若干驚きふっと視線を運ぶと、音の発生源を視認し、

「……わぁ、今日も元気ですね不知火君は」

 と、少し可笑しそうに笑みを零し、その快活な少年を興味深げに見守っていた。




「どぉらぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 豪胆な叫び声がグラウンド中に轟き唸る。

 吠えるその少年の足跡は実に異常と言える光景を生んでいた。そのさまを見守るクラスメイトや同級生は口々に呆れた様な遠い目をしていた。

「……なんで走ってるだけで、土埃が間欠泉みたいに吹き上がってんだろうな……」

 一人の生徒のため息に、周囲はうんうんと頻りに頷く。

 現在、彼ら三クラス合同による体育の授業では徒競走の練習が行われていた。なにせ、芳城ヶ彩では【大体育祭】という一大行事が後に控えている。そのため学生らは授業により練習の真っ最中なのだ。

 体育の授業ともなれば、必ず生徒により得手不得手は明確に映える。

 すると中でも際立ってスポーツに目覚ましい活躍をする生徒はいるのが自明の理というものであり――、今現在生徒たちの注目を一身に浴びている彼はまさしく、その運動に比類なき者という事になる。

 筋骨隆々。一学年にしては大柄で、おおよそ高校生の枠組みに収まらない筋肉を誇る不知火九十九は雄たけびと共にどたどたと爆走を遂げる最中であった。

「どぅらぁっ!」

 その迫力に思わず「タッチ、ダーゥン!」と生徒の誰かが、やたら流暢な発音の言葉が聞こえるが、生徒たちは突っ込みを入れる気も起きず、むしろ納得するものである。

 ――ああ、そうか。アメフトかあ。

 道理で迫力が凄いわけだ、と死んだ魚の目で納得する同級生たち。

 九十九の走る姿は実にアメフトっぽかったからだ。土煙を巻き上げ、障害物があろうと弾き飛ばし誰にも抑えることが出来ない様な爆発力――アメフトにおけるランニングバックでもやったらどうだろうか、と提唱したいくらいである。ただし漫画の世界の、という注釈が入る事だろうが。

「不知火。七秒三五。佐良土。七秒一二」

「ぬおお――――! 佐良土に負けたぁ!」

「…………勝った」

「んだよ、顔色悪かった癖して絶好調だな、佐良土!」

「…………腹が減る。怖い、怖いよ」

「……は?」

 九十九と、影郎。Dクラスでも高い身体能力を誇る両名の、五〇メートル走におけるタイムを計っていた体育教師の声を聴くと、思わずといった様子で誰かが驚きの声を上げる。

「え、そんな速くねぇんだな不知火……」

「だな。速いっちゃ速いけど、七秒台か……」

 もっと早く感じた――、言わずとも全員の意見は一致する。

 九十九の爆走っぷりを見る限りでは、もっとすごいタイムに感じたのだったが、実際のタイムはおおよそ飛び抜けたものではなかった。無論、平均よりだいぶ早いが、体感程の速さというものではない。

 むしろ同じく隣のレーンを疾走していた影郎の方が余程速いようだ。

「お前たちは迫力に気圧され過ぎなんだ」

(かなえ)

 ふと、よく通った綺麗な声が生徒らに届く。

 見れば、そこには学院の有名人の一人である、風紀委員所属の男子生徒。鼎竜胆(りんどう)が九十九の走った道を一瞥しながら佇んでいた。

「不知火はあの通りに巨漢だからな。どうしたって筋肉が重い。速さ重視の鍛え方なら当然違ってくるが、あいつの鍛え方はパワータイプのそれだからな。あの派手な走り程に速度は出ていないんだ」

「マジか。その割にすごかったけどな」

「それこそ迫力とか威圧とかに騙されてるだけだ」

 そういって肩を竦める竜胆。

 それを聞くと「じゃあ半分くらいは派手なだけって事かー」、「なら俺にもワンチャン……」、「ねーよ」と可笑しそうに同級生らは談笑を弾ませる。

 彼らの声を聴きながら、竜胆は微かに視線を鋭くさせていた。

(――そう、パワー型だ。不知火は。なのにあの速度、というのがとんでもない)

 九十九の筋肉はほぼ戦闘面特化なのだと竜胆は見抜いている。

 おおよそアスリートの鍛え方ではない。屈強な肉体全てが、戦うための肉体として鍛えられている事が、武芸に通じる鼎竜胆にはよくわかる。だからこそ、九十九は速さを追求していない体つきなのも推察している。

 しかして、あの速度。

 そのうえおそらくは、本気も出していない。

(本気の不知火というのも恐ろしいが、見てみたいものだ)

 高校一年生にして、あの肉体。武芸者が見れば脅威と思うのが自然だろう。そして近づく【大体育祭】を顧みれば、その脅威さは水を得た魚がごとく発揮される事なのだろう。

(それは武芸者として胸高鳴る話でもあるし)

 更には、不知火九十九だけが脅威ではない。

 九十九の後、一人小柄な生徒が準備運動をしながらウキウキとした表情を輝かせている。あどけなさが残りながらも、少女の如く可憐な西洋風の面立ち。蒼穹色の艶やかな頭髪は後ろで束ねているのだがどういう原理か風が吹いているのか、ぴこぴこと左右に揺れ動いており、まるで犬の尻尾を思わせた。傍目、天真爛漫な美少女にしか見えない容姿と、それを後押しするかのように華奢な体躯を持ち合わせる絶世の美貌は美少女としか思えないほどだが、まごうことなき男子であり、美少年――弦巻日向は腕をくっくっと伸ばして今か今かと待ち遠しそうに気勢を放っている。

「次――弦巻(つるまき)帯解(おびとけ)

 遠方の体育教師がメガホン片手に号令をかける。

 一拍、遅れて空砲が鳴り響けば、青い少年は爆発的に加速した。隣のクラスメイトである帯解など、凄まじい瞬発力に「おや、流石」と小さく口を開き、前方を疾走する背中を見送らざるを得ない始末。

 空砲発して早六秒そこら。

 ゴールラインを飛び越えて、日向は満開の笑みでぴょんと跳ねた。

「わうー♪」

 最早、人間というよりも動物が走りぬいたかのような瞬発性。教師は嬉しそうにぴょこぴょこしている日向を一瞥し微笑ましいものをみるかのように苦笑を零す。

「相変わらず早いな、弦巻は」

「運動得意だし♪ わーいっ♪」

 わうっ、と鈴の鳴る声でコロコロと微笑む日向。

 女生徒の数名が「今日も弦巻君、可愛いわよねー」と好意的な視線を送っているさまを見て男子生徒数名が「弦巻ちくしょういいなぁ」、「俺も女子にあんな風に可愛いとか評されてぇよぉ……!」、「つーか弦巻の可愛さもやばいんだよなぁ……」ぐっと涙をこらえていた。自分も可愛いと言われたい。そんな願望がまざまざ伝わってくるものである。

「……お前ら、男なのに可愛いと言われて嬉しいのか?」

「うるさい、鼎。お前みたいな弦巻と似た部類の美少年にゃわからんだろうが、女子に可愛いって言われて甘やかされたい男心だってあるんだっつーの!」

「そうだそうだ! 貴公子とか呼ばれてるお前にゃわからんわ!」

「……そういうものなのか?」

 竜胆の言に対して鼎は困った様に頬をかきつつ、丁度近場にいた男子生徒に声をかけてみる事とした。中々端麗な容姿だが、怖い印象の目元を見て竜胆はその人物に思い至る。名前は確かそう鎧潟楔といったか。冷静な性格のようで日頃見ていて落ち着きのある男子として好ましく感じていたのもあり、楔に話を訪ねてみる事と決めた。楔は突然話を振られて一瞬驚いた様子を浮かべる。

「すまん。訊いていなかった。どういう話だ?」

「男子は可愛いと言われると嬉しいのか、という話だ」

「あー……」

 楔は、彼らの視線を追って遠目に見ても近くで見ても、マジマジ観察しても男子の体格的特徴がほぼ皆無で有名な日向を一瞥すると、口を開いた。

「厳密にはおそらく違う。弦巻本人は多分可愛いというのは複雑なんだろ。実際、俺らなんかも可愛いと言われれば複雑だが――、こう嬉しいというべきか、なんというべきか。女子にちやほやされる感覚が嬉しくてやばいってなる時があってな」

「要するに、女子が好意的に接してくれるのが好きという事か」

「端的に言われると何ともとりとめないが、その通りだな」

「男らしさに欠ける連中め」

 呆れた、という様子で嘆息を浮かべる竜胆に対して「うっせいやいうっせえやい!」と、涙目の男子生徒たちが抗議しているが、実に頼りない姿である。

「まあ、そんな言ってくれるな鼎。それと弦巻は多分、可愛いと言われて嬉しくてたまらない相手がいるからだろうしな」

「相手――まあ、それもそうか」

 二人揃って、反対方向のレーンへと視線をくべる。気づけばすでに、目ざとい男子生徒たちは惹き付けられた様子でそちらを見ている事に気づく。まあ、当然の反応なのだろう。なにせ、今準備体操を軽くしている少女のすらりとした姿勢のよい立ち姿は否応なく人目を引き寄せる魅力というものが輝いていたからだ。

 見れば風に綺麗な茶髪を靡かせ、疾駆する色白の美少女が一人。

 陽光を紡いだ様に煌びやかに日の光に華やぐ艶やかな茶髪。同色の綺麗な瞳に活力を漲らせ、すらりとした長い手足は躍動感に満ちている。スレンダーな細身ながらもエネルギッシュな気力を充溢させ、軽やかに彼女は駆けていた。

 美少女ぞろいの芳城ヶ彩に於いても、飛びぬけた一角として名高い新橋エリカが走る姿であった。美しいフォームで風を切って疾走する走り姿は遠目においても、見るものの心を惹きつかせるだけの魅力を放つ。

「カモシカみてぇ……」

「野兎みたく速いよなぁ……」

「髪の毛が印象的だよなあ。ブロンドに近いっていうか」

 同時に、美しさだけではないと周囲に無言で言わしめる。

 一年生女子の中でも群を抜いて運動神経がいい彼女にとって、徒競走という形は独壇場のごとく日頃の奮励の結果を見せつていると言っていい。他の女子生徒達もエリカの走る姿には何かしら感嘆の感情を抱いているようであった。

 そうして、ゴール地点へと足を踏み込むと同時に綺麗な茶髪がふわりと浮き上がっては背中へとしなだれかかり、躍動感は刹那にして身を顰め、代わりに活気づいた喜色が色づく。

 教師より測定されたタイムを知らされれば、嬉しそうに「うしっ!」と心地よい音色の声が歓喜を灯す。

 ほぅ……、とどこからか蕩けた様な声が漏れる。

「やっぱ綺麗だよなあ新橋さん……」

「なんで俺、新橋さんのクラスじゃないんだろ。壁二枚に隔てられるなんて……!」

「ばっか、隔てられても新橋さんと付き合えるわけねぇだろ」

「つーか、兄貴のユウマ除くと弦巻しか、だしな……」

 一人がそう呟くと、男子生徒達はどうしようもなく呻く。

「未だに信じられねぇえええ……! 入学当初告白されまくったのに鉄壁のごとく誰とも恋仲にならず、男が苦手ってのがわかって高嶺の花な存在だった新橋さんが……!」

「信じられないで言えば知ってるか? Dクラスの奴に訊いたけど、今度の二人三脚で新橋さん、弦巻と一緒に走るらしいぞ」

「マジか? 二人三脚をあの新橋さんが?」

「知りたくなかったその情報……!」

 悲観的な声が次々と漏れてゆく。恋愛に対して鉄壁の姿勢を保っていた事で話題だったエリカが、あの二人三脚に男子と共に参加するという事自体が信じがたい様子だ。

「つーか、Dクラスもう決めたのかよ。例年二人三脚はそんなすぐパートナー決まらんって先輩に訊いてたのにな」

「そりゃアレだ。中々組む奴らが出ないからだよ。Dクラスはすぐ決まったって聞くぜ」

「羨ましいよなー、弦巻。つーか、うちも【夏軍】だから新橋さんと組めるワンチャンあるかもとか思ってたんになあ」

「お前、クラス別じゃん」

「あれ、知らないんか? 一応、同じ軍同士だと組めるんだぞ、二人三脚」

「マジで!?」

「ああ。過去に別クラスの恋人が理事長にかけあったらしくてな。軍が同じなら、可能ってなった経緯があるんだってよ。先輩が言ってた」

 近くの男子たちは「結局それでも俺たち関係ねぇなー」としょんぼりしていた。

 恋人がいないのではなんの魅力も感じていないのだろう。むしろ、前例を作った先輩への羨ましさがにじみ出ている様子だった。ともあれ、竜胆としては、そういうルールも生まれていたりするのか、と内心意外に思うと同時に、彼らの会話内容に関心を抱く。

「しかし、あの新橋さんがな……驚いた」

「なんだ? 鼎も新橋が気になっていたりしたのか?」

「いや、恋愛絡みはない。恋愛関係鉄壁で有名だった新橋さんがな、と思ってな」

「それは違いない。俺もクラスで二人が挙手した時は随分驚いたものだ」

「そうなのか?」

「まあな。ただ新橋は挙手した後に羞恥で顔真っ赤で大変そうではあったが」

 くすり、と小さくからかうように笑む楔を見てそれは大変そうだ、と竜胆も賛同する。

 教室の中で二人三脚の手を上げるのだ。冷やかしもありそうなほど、こそばゆいに違いないと思う。同時にその光景はきっと竜胆が思う以上に初々しいものなのだろう――そう考えて内心少しだけ羨ましくも感じた。

「その後はうちは二人に続け、と言わんばかりに他二組も名乗りをあげたからな。帯解と源。それにリヒテナウアーと鉛だ」

「……それらも恋仲とかなのか?」

「いや、あげまくってるうちにこんがらがって、気づけばなっていたらしい。後半は阿弥陀だったような、くじ引きだったような、ババ抜きだったような、レースゲームだったような……」

 記憶を探り頭を悩ませる楔の様子に竜胆は思わず冷や汗を垂らす。

 どうやらランダム要素も混じったらしい――が、それでもDクラスのカップリングに問題が生じていないということは、折り合いがついているのだろうと理解する。

「だが決まっているなら何よりだ。うちはまだだからな」

「そうか。決めるのは揉めるぞ、中々な」

「それはそうだな。特に、うちのクラスの男子はアレだからなぁ……」

 言って若干遠い目をする竜胆。そう言えば彼はFクラス――そして、Fクラスと言えば厄介な男子生徒が数名いたはずである。そして今悲観的に駄弁っている連中もFクラスだ。

「芳城ヶ彩は美男美女揃いとかよく言われるが、一クラス探るとメンツがな……」

「Eクラスなんかは温和で良いんだがな、人気もあるし。Dクラスだって濃ゆい面々とか言われているがいい奴らが勢ぞろいだ。だがうちのクラスは問題児がいるからな……」

「お前のところは数名がな……」

 若干げんなりしている竜胆に思わず同情が宿る。竜胆は真面目で風紀委員なのだから、それを踏まえると自分のクラスの手ごたえは半端ないものだろう。

「ま、今更言っても詮無き事か。もとより、俺は二人三脚には関係ないしな」

「貴公子とも呼ばれているお前なら女子は喜びそうだがな」

「女を喜ばせる趣味はない」

 お堅いな、と楔は小さく苦笑する。どうやら本人、二人三脚にはてんで興味がないらしい。それに、思い返せば、竜胆は異名からして断る事だろうと気づく。

「あああああ……」

「ん? どうしたこいつら?」

 そこで急に絶望的な悲鳴を滲ませ、座っていた男子たちが転がっている事に気づく。竜胆に視線を寄せれば「ん」と簡易的にちょいちょいと指でその方向を示していた。

 視線を向けると、茶髪の美少女の方へと青い少年がぴょこぴょこ近づいているのが見える。

 見れば順番が終わったという事もあってか、エリカの傍へは日向が嬉しそうに駆けよっていく姿が見て取れた。エリカもエリカで、すぐ日向が来るとわかっている様子で、しょうがないんだから、柳眉をひそめながらもふんわりとした優しさが滲んでいる表情だ――ただ、頬がほんのり染まっているかもしれない。

 遠く、流石に声まで聴きとれぬ距離。二人は自分たちに視線が向いているとは気づかぬままいつものように会話を交わしていた。

「エリカ、エリカ♪ 走ってるとこ、綺麗だったー♪」

「そ、ありがとね」

 ふぃっと恥ずかしそうに返答するエリカに対して日向は嬉しそうに満開の笑顔で頷く。

「わうー、今日もすごい見惚れちゃったし!」

「みとっ!? ば、バカ! 変な事言ってるんじゃないの! それにアンタ毎日私に見惚れてんじゃない!? そんな終始私に見惚れてちゃダメでしょうがバカわんこ!」

「ヤー、エリカ見てたい。毎日エリカ見てたいし。ダメ?」

「し、知らない!」

 今度こそ顔を赤らめながら、エリカはすたすたと歩きだし、そのあとを日向が追ってゆく。いつもの見慣れた光景だ。ただし、少しして立ち止まると、エリカはふっと日向の方を一瞥して、頭髪の毛先を軽く指で弄りながら、口を開く。

「そ、そういえばだけど……走るところ見てたけど、やっぱ弦巻って足速いのね」

「わう? 見ててくれたの?」

 きょとん、とした表情で、しかし嬉しそうに日向は表情を綻ばせる。そんな日向に対してエリカはむぅ、と少し困った表情を零す。自分が見てた、それだけでこの反応だ。だから、これを言うと反応が容易に予測つく――が、エリカはこれくらい言ってあげてもいいよね、と内心で首肯した。

「まぁね。結構、かっこよかったわよ」

「――」

 一拍の間を置いて。

「――ほんとっ?」

 花咲く笑みというのはこういうものをいうのだろう。

 無垢で純粋な表情にエリカはドキリと胸を高鳴らせてしまう。

「う、うん。まぁね……」

 思わず胸の奥がきゅんとした感覚がどうにも忙しなくて、エリカは毛先をくるくると指先で弄りながら視線を少しだけ逸らすと、

「わーい、エリカ見ててくれてたー♪ エリカ、大好きーっ♪」

「ちょっ!? ば、バカっ。授業中だってのっ」

 嬉しさ余って抱き着いてきた日向にエリカは狼狽し表情を朱に染める。胸元に感じる日向の感触に心地よさと気恥ずかしさを覚えてしまい「は、離れるのっ」と、少しだけ頭を撫でた後に諫めれば、日向は素直に応じて体を放せば、また可愛らしい好意の表情で「わうー♪」と嬉しそうにはしゃぐ。

 そんな可憐な笑顔を浮かべて「エリカ、エリカっ♪」と、まるで大好きなフレーズを口ずさむ様に自分の名前を連呼する日向の事が気恥ずかしくなって、エリカは「そんなに嬉しがるなバカ! あーもう、わうわうしてないのっ」と恥じらう様に言葉を一つ残して、今度こそ後をついてくる日向と一緒に歩き去っていくのだった。

 遠目――、会話の次第こそわからぬが、遠目に見ていた男子生徒たちはといえば、

『青春、してぇ……』

 死屍累々とは、こういうものをいうのだろう。

 中々どうして目に切ない光景である。鼎としても、これは堪え辛い。

「流石に、不憫だな……」

「まあ……アレを見れば羨ましくもなるさ……青春、か」

「……どうかしたか鎧潟?」

「なにが」

「いや……すまないなんでもない」

「……」

 竜胆の言に対して楔はこれといって反応を示さなかった。

 しかして竜胆の瞳は確かに見抜いている。表層程度をなぞる程度しかできないが、それでも楔の瞳がかすかに揺らいだ様な雰囲気を。別にエリカに好意を寄せているわけではないのだろう。エリカは見惚れる容姿の持ち主とはいえ、それならば楔も屍達の仲間入りくらいはたしている事だろうし。

 ただ竜胆は、楔の瞳に憂いる様な、羨望のような光を見た気がしたのだ。

 それが何かはわからない。

 だが、それでも楔が零した一言がいやに感情が籠っていた様に感じられた。青春。その言葉を吐いた時の楔はなんというか、切なそうに竜胆には見えたからだった。

(む。会話に詰まったな)

 竜胆はそこまで思考して気まずそうに頬を掻く。知人程度の関係の自分がやれ無遠慮に踏み入るのは気が引けたし、勘違いの可能性もある。それを踏まえると内心、次の言葉に吟味をやつそうと考えた丁度、その時である。

「おーっす、鎧潟。あと、鼎も一緒か。珍しいな」

陽皐(ひさわ)

 と、そこへ別方向から近づいてくる影があった。これは幸いだ、と竜胆は内心思った。自分の一言で、少し微妙な空気になってしまったところ。空気の入れ替えに良いだろう。

 陽皐秀樹(ひでき)

 少し前に竜胆が吹っ飛ばした関係性にある男子だ。とはいえ、誤解の末の和解も現在ではなされており、今は普通の知人友人関係というものである。

「それに不知火か」

「おう、鼎! 鎧潟もな!」

 秀樹の隣には九十九もいた。となれば、影郎もいるのか、と思ったが。

「佐良土はいないんだな」

「ん? おお、佐良土なら尻堀町が懐で温めてたタオルを寄越しにきたら、さらば、とか残して消えちまったかんな。尻堀町の奴も『ちょ、佐良土君どこいくんだよ!? おーい、待って――あれなんだろう、この心の高揚感……追いかけるってだけなのに……』とかなんとか呟いて追ってちまってな」

『うわぁ……』

 汗が染みこんでそうだ。楔は想像して吐き気を催した。そして影郎の安全を祈る。

「佐良土は大変そうだな……。で、陽皐。弦巻を探しているなら、新橋のところだが?」

「ああ、知ってる。つーか分かってる。アイツ、時間がある時は新橋と一緒にいたくていたくて仕方ないって感じだしな。体育の授業とか、小休止の時間なんかは新橋のとこよく行くからな」

「本当、子犬みたいに新橋大好きって感じだしな、弦巻は」

 楔の言葉に鼎は「そうか」と端的に微笑みを添えた。

 鼎としても、あんな風に素直一途に意中の相手に好意を示す姿勢は好ましいと感じていることもあって反応はやわらかだ。男らしさというのには欠けるのだろうが、ああやって頑張る姿勢をみれば、内心応援くらいはするものである。

「しかし、とするとお前たちはなんでここに?」

「ああ、それならここで死人が出てるの見て好奇心でついな」

 あっはっは、と返せば地べたから怨嗟の声が響いてきたが秀樹はふっと余裕で返す。

 恋愛感情こそ相手も自分も抱いていないが――、美少女との付き合いはある。若干勝ち組に乗り始めたものの余裕の威光である。次の瞬間には威光に照らされた屍たちが「陽皐、てめぇもかぁ……!」と唸りながら、ばたっと力なく腕が落ちた。

「……なんて見ていて切ないんだ」

 鼎は呆れたように深々と息を吐く。

「陽皐も意外とモテる方だがな。恋愛対象外としてらしいが」

「はっはっは――は? 鎧潟、それどういう意味――」

「女子曰く『気軽に相手出来る面白い男友達』らしいぞ、お前の評価」

「うおっほぇぇえええええええええ!!」

 どんな鳴き声だ、と言いたくなる涙声と共に、問う間もなく秀樹が地べたに膝をついた。そのままダンダンと拳で地面を叩く。

 美少女と付き合いもあり、比較的勝ち組だと思っていた。

 恋人になりそうな相手はいないものの、そのうち素敵な彼女が出来るもんだと未来に希望を抱いていた。しかして、その評価は秀樹的に惨かった。『面白い男友達』。なんだそれは。

「よくある友達としてはいいけど、恋人にはちょっと的ポジじゃねぇかよぉぉぉぉ……!」

「いや、そんな悲観的にならなくても……」

 ぽつりと鼎が汗を垂らして慰めの言葉を口にするも、秀樹は嘆くばかりである。

「馬鹿野郎! 鼎、お前にゃわからねぇのかその印象の恐怖が! 秀樹君って面白いよね~おかしいよね~って好意的に見られても、その実本命にはなれない更に言やぁ男として意識されてんのかさえ怪しい言っちまえば都合の良い道化ポジなんだぞ!? 恋愛関係に発展しにくい貧乏くじで有名なポジなんだぞぉ!?」

「お前の中で女子にとっての面白い男友達はどんな印象しているんだ……」

 呆れた風に零すが秀樹は気づけば屍の仲間入りを果たしていた。

「テメェ、陽皐。女子に話しかけられてる時点で仲間に入れると思うな」、「叩き出せ」、「あ、ちょ、お前らゲシゲシすんな……!」いや、入ろうとしたが蹴りだされている様子である。

「なんかよくわかんねぇけど、大変そうだな」

「本当によくわかっていないだろう不知火……」

 楔がぽちょんと汗を垂らす。のぺーっとしている様子を見る限り、やはり九十九にとってはこの手の話題は関心が薄いらしい。そんな彼に同じ光でも見たのか、屍たちが呻くような声で這いずってきた。なんだこの怖い連中は、と同じクラスの竜胆は内心怖気を感じるものだ。

「不知火。不知火は俺らを裏切らないよな?」

「そうだよな。馬鹿だもん、そのはずだ」

「なんで俺馬鹿扱いされてんだ!? 馬鹿っていう方が馬鹿なんだぜ? ばーかっ!」

「いや、不知火は馬鹿だろう?」

 不知火が馬鹿、というのは共通認識なのか後ろで鼎が当然のように首肯するものだから、秀樹と楔は何も言えず苦笑いを浮かべるばかりだ。

 しかしまあ、九十九が女っ気がないのは事実である。それを踏まえれば、誰よりも恋愛が似合わないと言えなくもないが――、ふと思い出した様子で楔が声を発した。

「けど、最近はHクラスに知り合いがいるんだっけか?」

「んお? おう、家に住んでんだ。佐伯っつってよ! 教室のあのあたりに――お、いたいた。おーい佐伯―! って、流石に声は届かねぇか」

「けど手を振ってる女の子がいるな。アレがそうか」

「そうそう、黒髪の奴」

 目を向ければ、遠目に一人の少女が、こちらに気づいた様子で小さく手を振っているのがギリギリわかる。何かを振っている程度だが、おそらくは手だろう。胸元付近で小さくひらひらこっそり返している辺りが実に勇魚らしい。

「ぐ、ぐぎぎ……」

「おい、歯ぎしりの音がヤバいが、大丈夫かお前たち……」

 鼎が心配がる通り歯ぎしりの音が凄かった。

 見れば先ほどまでの屍たちが一様に血涙を流すかのごとく涙している。なんと惨たらしい惨状なのだろうか。怨念渦巻いていると言ってもいい。

 目を合わせた美少女に手を振られる――、その現象がどれほど男の嫉妬を煽るものか。周囲から響く「俺にも、誰か俺にも手をぉ! 手をぉ!」、「疲れた体に女子の癒しを! 土下座か! 土下寝か!? なにをすれば手を振られる答えよ神よ!」、「なんで不知火なんかに美少女が関与するんだよぉおおおお!! 俺も美少女と親密になりてぇええええ!!」嘆きの声――いやさ、断末魔というべきか。

 やがて、屍達は地べたを這いずって、九十九の足に縋りつく。

「佐伯さんをぉおおおおおおおおおお佐伯さんを俺に紹介してくれぇええええええええええ」

「いや俺だぁあああああああああああああああああああ」

「……お前らすげぇ怖ぇんだけど、どしやがったよ……」

 うおお、と蒼褪めた表情で何がなんだかわからぬと九十九は珍しく狼狽する。

 死人顔負けのオーラに怯える他ない。

 だが同クラスの恥と感じたのか「ほれほれ、醜態を晒すな男だろう」と竜胆が九十九に縋りついていた屍の群れを足蹴にして転がしていく。地面の底から響くような慟哭が、理由こそわからねどさしもの九十九も哀れに感じるものである。

 ともあれまあいいか、と思考を切り替えて、再び視線を窓辺へと向けた。勇魚が机に座り、前を――黒板を向いている横顔が見て取れる。その普通の光景に、

(佐伯の奴は今日も平穏そうだったな。なによりだぜ)

 ニシッと彼は快活な笑顔を零していた。

 初めてであった時――聖僧院に追われていたあの場面、その後の彼女の穏やかそうに見えても、その実緊張感を含んでいたさまは大分薄まってきたように感じられる。

 静流を狙った件の僧侶たちも現在は不知火家の庇護下という事もあり、下手に手出しはできない状況へ移行している。ひとまず、目下の難所は保留出来た現在は、勇魚の方も安らげるひと時を過ごせているようで九十九は密かに安堵していた。

(――からって、一息つけても一安心ってならなそうなのがめんどくせぇぜー……)

 ふへー、と人知れず気怠そうに嘆息を吐く。

 その理由――それは、あの日。聖僧院が僧侶、宝戒寺長徳との激戦を終え、少しした後の実父との対話が原因であった。



 記憶をいくらか遡る。

 あの戦いの後、少ししてから九十九は父、崇雲により呼び出しを受けていた。

 部屋の内部には実に重苦しい、物々しいと呼べる空気が漂っていた。親子の対話というには実に威圧的すぎる空気。ビシビシと肌をつく威圧の感触に九十九は平然と振る舞いながらも、やはり父親の放つ筋力(オーラ)には畏怖を抱かざるを得ない。

 だが負けるものか。へこたれるものか。へたれるものか。

 九十九も自身が噴き出せる限りの筋力(オーラ)を解放する。全身の毛穴からは、溢れ出る、吹き出る筋力の威圧が親子の狭間で鬩ぎ合っていた。

 そんな筋力と筋力の見えざる戦いが数分の間続いた後に、ようやっと崇雲が小さく口を開き、

「中々だ。いいぞ、九十九。その純然足る筋力(オーラ)。流石は私の遺伝子から生まれただけはある」

「へっ。伊達や酔狂で筋肉してねぇからな」

「当たり前な事を抜かすなバカ息子め。伊達や酔狂でどうにかなるほど――筋肉は甘くない」

「はは、そりゃそうだ」

 当然の事。筋肉たらんとする筋肉に伊達も酔狂もありはしないのだ。

 筋肉が筋肉であること、あろうとすること――そこに筋肉以外の理屈はないのだ、筋肉である以上は道理なのだと自分は知っている。筋肉は限りなく筋肉でしかたりえない。

 真理は常に真理なのだから。筋肉が筋肉であるように。

「さて」

 崇雲は腕に力瘤を作った。ギチギチと肉が詰まった恐ろしい規模の力瘤だ。

 九十九も力瘤で返す。父には劣れど、一級品の力瘤だ。恥じる要素は微塵もない。そしてこの一連の流れに特に意味もない。筋肉に意味を、定義を求める事など無粋でしかないのだから当然の話だろう。

「――筋肉で語るもいいが、それでは明日になっても終わらんだろう。さっさと話を始めるとしようか」

「馬鹿な。筋肉の話はしないのかよ……!」

「誠に残念ながらな。優先事項には劣るが、貴様と話をつけねばならん話題がある。わかっていような、九十九よ?」

「え、なんだろ?」

 ふぅ、と崇雲は天を仰いだ。

 流石は我が息子よ愚劣極まる頭だ、と空へ向かって呟いた。だがまあいい。それでこそ不知火なのだから。

 とはいえ、この議題を外すわけにもいかないだろう。

 崇雲は端的に口火を切る。

「――佐伯勇魚。焔魔堂町静流。この両名の今後についてだ」

「……」

 二人の名前が出た瞬間に九十九の筋肉のワードしかない頭の中にちょこんと二人の名前が浮上した。筋肉に比べれば優先順位は低いが、それでも大切な友人二人の今後についての話題である、と九十九は理解し、頭を悩ませた。

 厳密には――なにがどうなるんだかよくわかんねぇけど親父の話聞くか! 的な楽天さがあるが、本人的には至極真面目である。九十九は無情なのではない――ただバカなだけであり、思考回路のほとんど筋肉に占められているだけでしかない。

「……この二人を今後お前はどうしたい?」

「どうしたいって言われてもな……」

 父の言葉に九十九は、んなの答えは一つしかないと判断する。

「ま。幸せに生きてほしいぜ。関わってまあ助けられた相手だからよ。もうあんな血生臭いこととは無縁に生きてくれりゃーって感じだぜ」

「ふむ。まあ、当たり障りのない貴様らしい言動だな」

「無難で悪いのかよ親父」

「ふん。悪くはない。むしろ真っ当だろうよ。だが、だからこそ難題なのだ。その生き方は誰しもが出来る、叶う選択肢であるが故に――壁が多い」

「へ?」

「単純に言えば、それを誰が支援するか、だ」

「親父」

「無論そうなるだろうな。事実、私が動けばそれは容易い。娘っ子二人風情、不知火家が動けば庇護も可能、平穏な毎日も可能であろうよ」

 神奈川の土地にて不知火は名家の一角だ。

 その名前を使えば、勇魚と静流の保護も人生も守り抜く事は可能だろう。

「だが私は現状、それが気に食わん」

「……てぇと?」

「魚に水をやるだけの立場なんぞ御免被るといっているのだ九十九。なるほど確かにあの両名は不幸な境遇にあるのだろう。片や親族同族一門皆殺しの孤児同然。片やあの年齢で尼となり両親はいないという未成年。同情すべき点は多いだろうよ」

「ああ。佐伯の奴も、両親の顔は覚えていないって聞いてるからな」

「そういう話だそうだな。それも事実であろうよ。――で、だからそれでどうして我が家が家督を振るってまで助けねばならん」

「……そういうことかよ」

「当たり前だ。ただ一時の人助けであれば私も過度に口は挟まんさ。だが、現状、あの両名の保護をお前が望む以上は、私も相応に動かねばならん。娘二人ともなれば殊更にな。貴様でさえ、学校に通っているのだ。あの両名も学校へ通わん事には話にならん」

 面倒くさそうに眉を潜めて崇雲は言葉をつづけた。

「保護下に置こうが、この家を出られては目の届かぬ場所でいづれ死ぬだろう。聖僧院の面々は甘くはないからな。かといってこの日中家に置くなど考慮にも値せん。女中見習いという選択肢もあるが、未成年をそれにしてみろ。――昼の買い物で我が家への視線は厳しいぞ」

「親父強面だし、猶更そうなりそうだよなぁ……」

「黙れ愚息」

 めらり、となにやら背後に憤怒の炎が燃え上がったご様子。

 しかしそれが自らの強面を気にしているだろうことは明白以外のなにものでもない。九十九はさして動じた気配を見せず苦笑で返す。その様子を忌々し気に舌打ちすると、崇雲は肩を竦めて言葉をつづける事ととした。

「要するに私が言いたいのは――」

「二人を家に置く理由、だろ?」

「その通りだ。ただ庇護下に置くだけの居候なんぞ置いておく道理がない。不幸な孤児なんぞ世の中には五万といる。私はあの両名に棚から牡丹餅の甘え切った幸福など甘受させる気は毛頭ないと言っているのだ。あの二人には何かしら事を成せ、と言っておけ。」

「……納得したぜ。確かにそら正論だ」

 まさか他所の子供を我が子同然に手塩にかけるなど行き過ぎというものだろう。

 養子とするならばまだしも、崇雲の選択肢は居候だ。ともすればそんな家から出費しか生まぬ存在など世間一般許容すべきことではない。

「家の手伝いだろうが、文筆で賞を取ろうが、音楽で金を稼ごうがなんだろうと構わん。少なくとも高校卒業程度は面倒を見てやろう。少なからず関与してしまった事もある。それが最大限の恩寵だ」

「それも結構望外な裁定だよな、親父もさ」

「ふん。若輩に機会を与えず放り出すわけにもいかんからな」

 むすり、と不満を露わに感じさせ、腕組みする崇雲。

 だが、それでも見ず知らずであった少女二人を学校へ通わせてやるという懐を九十九は親として誇らしいと感じる。威圧感に迫力、強面と恐怖を煽る父親であり厳しいが、同時にある種の大人ぶりを持ち合わせている吾人なのだと知っている。

 知っているが故に――、

「……雷の奴にもそんくらい甘くしてもよかったんじゃね?」

「アレの事はいうな。世の中の一般解釈と――不知火では区別が異なる」

 憤慨でも冷淡でもなく、ただの事実として口にした様子の崇雲に九十九は小さく肩を竦めた。やはりこればかりはもうどうしようもないらしい。

 脳裏に浮かぶは顔に幼さ残る少年の姿。

 自らにとって関わり深い存在だけに、今のように、勇魚たちと同様な裁量を求める気持ちも僅かにあるが――やはりそうもいかぬのだろう、と不知火九十九は分別する。

 アレは不知火において無用。

 その点において九十九も意見を翻す気はさらさらないのだから。

 無常だな俺も、と罪悪感を一抹抱けどやはり心中変わらぬことだ。しかし空気はかすかに重い。そりゃあそうだろう。一命の価値を蔑ろとする判断だ。お互い空気が濁るのも当然のことと言える話である。

 九十九はそこまで感じたところで、軽く腰を上げた。話はもう終わりだろう、と。同時にこの空気が湿っぽいのも癪に障り、良い空気を吸いたいと思った。

 だが、そこで「待て」と一声かかる。

「ん? まだなにかあんのか親父?」

「当たり前だ。よもや娘二人の今後だけで済ませられる話であるか戯け」

 ふぅ、とふるふる首を小さく振ると、崇雲は口を開く。

「九十九よ。最後にもう一つ、お前と話しておくことがある」

「へ?」

「まず前言の通りにて。今回の一件にて、あの、娘っ子二人を庇ったことに関してはもう口を挟まん」

「おう。あんがとな、親父!」

「だが、貴様。今後はどうしていくつもりだ?」

「……どうってーと?」

「……わからんか? 端的に言えば――似たようなことが起きたとき、お前はその場面でもまた同じことを繰り返すかどうか、という事だ」

 似たようなこと。

 それはつまり、また誰かが聖僧院――そうでなくとも、あの時の構図と似たような事が起きてしまった場面で自分がどういった行動をとるのか。それを知りたいという事か。

 九十九は間髪入れず、返答する。

「そりゃ助けるさ。親父に迷惑かけちまう可能性だって否定できねぇーけど。それでも俺は誰かが手を伸ばして助けてってんなら助ける。求められなくても、助けたいと思うなら助ける」

「……昔から変わらん愚息だ」

 そんな九十九の言葉にほとほと呆れた様に首を振る崇雲。

「仮にまた保護下に置いてくれと頼まれようが、二度も同じ事はせんぞ。我が家は保育園ではないのだ」

「俺だってんな何度もんな事頼まねぇよ」

「そうか。それを聞いて安心した」

「っていうか親父実は家に年頃の女子がいるのが苦手なだけ――」

「だが念頭に置いておけ、九十九。聖僧院は並大抵ではないぞ」

 あ、今話題そらした。九十九はそんな事に気づいたりしたが、指摘すると藪蛇が出そうだと息子ながら明察し言葉を飲み込む。

 というより、聖僧院に関しては九十九も少し知っておきたかったのだ。

「親父がそういうって事はやっぱ結構強いんだな、聖僧院の連中って」

「貴様はどこまで知っている?」

「一応――大まかにはって感じかね? ぷっちゃっけ関わる事なかったしよ。妖怪を目の敵にしてる連中ってくれーしかしらねぇ」

「だろうな。私も貴様が関わり合いになるなんぞさして考えていなかった。不知火の基盤で関与は大分後々にと思っていたのだが、どこぞの愚息が自分からかかわっていったからな」

 汗をだばだば流しながら白けた崇雲の視線から顔をそらす九十九。

 崇雲は小さく嘆息を浮かべる。

「過ぎたことを蒸し返しても始まらん、か」

「だ、だよな!」

「まったくもって……まあよい。本題を話そうか。まず、聖僧院――妖魔滅相。それのみを掲げた武装僧侶集団と言って過言ではない。一般の僧侶と比較すれば戦闘能力に特化させたハンターども、と言ったところか」

「妖魔滅相……か」

 九十九は先に戦った宝戒寺を思い出しぞくりと身を震わせる。

 負けはない。だがあの執念。妖魔を滅ぼさんとする覇気には感じるものがあった。

「気になっちゃいたんだけどよ、親父。妖魔滅相なんて理念を掲げてるあいつらって……」

「言いたい事はわかっている。お前はこう思っているのだろう? 行き過ぎではないか、と」

「おう」

「それに対する答えは明確だ。聖僧院の連中は妖魔を憎んでいる――言葉通り、親の仇と言って過言ないほどにな」

「……」

 やっぱか、と九十九は苦い顔を浮かべた。

 そう、あの憎みよう。

 妖怪を滅ぼすことだけに心血を注いだかのようなありかた。アレはまるで――、

「とはいえ聖僧院。アレは一枚岩というわけではない」

「へ? そうなのか? するってぇと妖魔に優しい奴とか――」

「いない」

 九十九の灯しかけた期待感を崇雲は即座に一蹴する。あまりにも端的に、あっけらかんと告げられた実情はさしもの九十九も言葉に詰まる。

「あれらは妖魔滅相を全員が掲げている。私の言いたい事は別だ。すなわち、一般人に被害を出しても妖魔を滅ぼすか、一般人を巻き添えにしても妖魔を滅ぼすか、というな」

「……そういうことかよ」

 つまり被害に度合い、主張の差異があるということか、と九十九は理解する。

「一つ例を挙げるならば、人間が妖怪に人質にされたと仮定すれば、人質救出を優先するか、人質ごと殺害するか、というところだ。奴らは人の守護者足らんとする者たち、あるいは人を守護する為に必要な犠牲と少数を切り捨てる者たち――しかして、根幹は妖魔滅相。その大志は一切揺るがず、変わらん」

「……ああいう連中ってなると結構骨が折れそうだぜ」

 なにせ心が折れない連中なのだから。

 妖魔滅相。そこに執念を燃やす面々と今後また矛を交える場面が来るのだとすれば、きっとそれは並大抵の戦いには終わるまい。なるほど、それは面倒だと。崇雲が不戦を掲げているのも理解出来る話である。

「やりあった宝戒寺って破壊僧がいるんだけどよ。あいつはやばかった。どんだけ殴り倒しても不屈の如く立ち上がってきやがった。挙句の果てに自爆を選んだくれぇだ。単純な殴り合いで終わらねぇ奴――そう、思った」

「……」

 無言で九十九の言葉に耳を傾けた崇雲はしぼしの沈黙を置いて口を開く。

「――お前が戦った僧侶、宝戒寺。アレは聖僧院の二十一律師(にじゅういちりっし)。その一人だと記憶しておけ」

「二十一律師?」

 突如語られた知らぬ単語に、九十九は筋肉をひそめた。

「ああ。平たく言えば、精鋭中の精鋭二十一人だ」

「……道理でいい根性してると思ったぜ」

 九十九は静かに思い出す。

 あのタフネス。自らの身命捧げようと妖魔滅相に挑む胆力。敵対の形であれど、あの食下がらない心、折れない膝に敬服もしようというものだ。それだけの益荒男――なれば、その地位も相応のものが望ましい。果たして構成員が如何程かはわからぬが、それでも中々上位に食い込む戦力なのだろう、と。

 そう感慨深く感じている九十九に対し、崇雲はさらに言葉を重ねた。

「――そしてその上に、七宝僧都(しっぽうそうず)と呼ばれる七人の幹部級が存在する」

「そんなのまでいんのか?」

「お前は会いまみえているだろう?」

「へ? 何時だ?」

「宝戒寺を止めた少女。青蓮院と名乗るものだ」

 青蓮院歔欷。

 父の言葉に九十九は記憶を鮮明に思い出した。宝戒寺の自爆を止めて、仲裁に現れたあの端麗な美少女。

 あの、人とは思えないほどに生気を感じなかった尼僧か、と九十九は唸る。

「あいつ、やっぱすげぇのか?」

「……七宝僧都に選ばれている以上は、間違いなく法力を用いるものとしての実力は高いだろうな。元より、七宝僧都ともなれば、それだけではなかろうが……」

「親父?」

 ふと、そこで九十九は違和感を覚えた。

 どこか父親の言葉に濁りのようなものを感じたからだ。気のせいか――いや、おそらくは気のせいではないのだろう。……と、するならば、それは崇雲が言葉を選ぶだけの事情がある。そう感じた九十九は追及する口を後ろへ、ぽいっと放り投げておいた。

「まあいいや。強いのがわかってりゃ今はそれで」

「それでよい。不知火であるならば、な」

 不知火であるならば。不知火にとって、戦闘はその一言に集約される。そのことを九十九は理解しているからこそ、言及をする気は微塵もない。

「そして最後に教えておくが、当然組織ともなれば頭がいるのが自明の理だ」

「頭首、か……。どんな奴なんだ?」

「奴ら、だ」

 九十九は「へ?」と怪訝そうに反応を示すと、崇雲はこう述べた。

「二十一律師。七宝僧都。そんな面々を統制する三人の英傑――僧正三支天(そうじょうさんしてん)。その三名こそが【聖僧院】という組織の長、三頭首。各違いの実力者たちだ」

「二十一……、七、三……マジかよ三十一人、最低でもやべぇ奴らがいるってわけか!」

 うおお、と九十九は盛大に唸った。

 彼とて【聖僧院】が一大組織なのは知っていた。しかして、中々に数が多い。二十一律師である宝戒寺の不屈の強さを知る身の上としては、中々に関心が募る。

 むろん、恐怖ではなく面倒でもなく――、滾る闘志と相成りて。

「――殴り合ってみてぇな」

 口角が思わず吊り上がる。

 宝戒寺とて、聖僧院においては下の精鋭に位置していることを理解する。ならば、その上はどうなのだ。あの益荒男よりも猛る者どもがいるという事なのか。

「物騒な事を言う愚息だ」

「うぐっ」

「貴様、不知火はその社会的基盤故に聖僧院より後回し、と判断されているのだ。精々、早期に勇み足は止めておけい。奴らと事を構えるのは、まだまだ先だ」

「わ、わかってんよ……」

 とはいえ拳を交わせてみたい、と九十九の中の不知火は迸っていた。

 殴り合う。その思念が猛っているのだ。うずうず、うずうず、と。

「だーっ!」

 九十九は大声をあげて絶叫した。

「親父! 話はもう済んだろ? もういいよな?」

「ああ。済ませるべきことは終えた」

「そうか!」

 んじゃあ、と九十九は障子を開ける。

 目指すべき場所は鍛錬場。鎮めきれぬこの昂り。発散せねばなるまいて。九十九はどたどたと廊下を駆け走る。拳で空を突き、足で大地を蹴り飛ばすべく。聖僧院と事を構える事はもうないのだろう。それはわかる。

 ならば戦ってみたいという願望は夢想に潰えた。

 故に、行き場のない己が猛りを、虚空へ目がけて解き放つべく不知火九十九は駆けだしていく。そうして、去りゆく九十九を後に不知火崇雲は密やかに口角を吊り上げる。

 あれは滾った事であろう――、と。

 不知火の本質は【強者への追求】に他ならない。故に強者へ至らんと足掻き、強者と競い合う事を是としている。今の言、ああ言えば九十九は昂るだろう事を崇雲はわかっていながら口にした。

 なにせすでに舞台へ己が愚息は踏み入ったのだから。

 先ほど口にした通りに、過ぎたことを言っても仕方がない。九十九があれらと関わるのは、よほど先だろうと見越していたが、関わり合いになったのならばなったで好都合。どのような結果に至るかなど未知の領域――だが、それがよい。

 そこまでゆかねば。

 それだけ無謀を成し遂げた先にしか、【筋肉】には至れぬのだから。

 あの【聖僧院】と事を構えて、ジッとしていられるはずもない。いやさ、双方の意志にてジッと終わるという可能性は極めて薄い。故にそこまで思考して、不知火崇雲は腰を上げる。

 全ては犠牲の上に成り立つ強者のために――。

「――宿業が動き始めるのも、近いというものか」

 そう零す崇雲の表情は物陰に潜み静やかに消えゆくのだった。




 ――思い返せば、なるほどなんとも厄介そうな連中である。

 妖魔滅相。掲げた信念の強きこと。蹂躙を使命と掲げる彼奴らのなんたる危なげな思想であることか。そしてそれは九十九にとって無関係とはとてもではないが言えないものだ。父曰く社会的基盤のため迂闊に手出し出来ないとのことだが、それも何時まで持つのかはわかるまい。あれだけの決意の連中ならば、いずれ不知火にも火は及ぶ。

 鬼種たる己らにも牙を届かせんと研いでいる過程なのだろう。

 そしてその牙は道すがら静流といった妖魔の中でも無害な弱者に及んでいる。九十九一人でそれをどうにかしようなどとは思わない。そんな思想は今この世界のどこかで起きている殺人事件を片っ端から止めようとすることの様に無謀にして困難極まっている。

(――なら手を伸ばした奴は守らんと、筋肉が廃らぁな)

 しかして、自分は手を差し出した。

 誰かに助けれくれ、と。そう乞われたならば、見過ごす事は筋肉のすべき事ではない。助けよう、と自らそう決断した。ならば何れ責は負わねばならないだろう。救ったものとして、最低限の責務というものを。

(親父が金、出してくれたんだしな)

 勇魚や、静流が学校へ通えているのは偏に崇雲の采配だ。金銭的余裕の大きい、不知火だからこその大盤振る舞いといってよい。九十九も、幼少より大地離に仕え続けている事で一応の給金を得てはいるが、所詮学生。

 そこまで大枚をはたいてよい立場ではない。

 だが、いずれは自分が救った相手に対して責任を果たせるように――九十九も、大きくならねばならないだろう。幸いなのは、保護した二人の安全が今は守られているということか。

 目下、めぼしい敵はいない。

 聖僧院は一先ず手出しを止めさせている。ならば害する敵はおらぬ――、

(なんて、一概に言えるわきゃあねぇよなあ)

 敵対者なぞ、どこからでも湧いてくるものだ。それこそ、己らは妖魔。

 人とは異なる法なき化け物。故に法律による戒めなどさらさらない。思いたくはないが【聖僧院】以外に妖魔を目の敵にする存在も山ほどいよう。

 不条理はいずれ来る。理不尽は常に身を顰め訪れるもの。

 ならば、それらをいつでも粉砕する為の土台がいる。盤石なる基盤がいる。

 鍛えた筋肉はなんのためにあるのか――そう、そんなことは決まっている。

 それを想い、九十九の気骨に力が昂る。

 同時に不遜といえど、思いが猛る。

 ぐぐっと握る拳に力を籠める。滾る。実に、漲る事だ。ジッとしていられぬほどに。

「おっしゃあ!」

 その衝動は、抑えきれぬとばかりに気づけば、ぐんっと腕を突き上げていた。

「きゃん!?」

「うお!? なんだ急に叫ぶなびっくりするだろう、不知火」

「マジだぜ。どした急に」

 驚く面々。楔が隣で口元を恥ずかしそうに抑える竜胆を怪訝そうに見つめてる最中、問いかけた秀樹へ「へへ、わり」と快活な笑顔で九十九は返した。

「ちょい色々考えたら昂っちまってよ――だから、ちょい走りこんでくっぜ!」

「マジかだるくね? 適当に座って時間いっぱい過ごそうぜ?」

「陽皐。だらけるのはよくないぞ」

「鼎も真面目だなぁ。結構みんなしてるぜ?」

「皆がしているといって、自分もしていいわけはない」

「そりゃ確かに正論だな」

 わかったよ、と秀樹は納得した様子で素直に首肯した。

「んじゃま、俺も少ししたら軽く走り込みするかね」

「運動は大事だからな。そういえば、先ほど、弦巻も新橋達と一緒にランニングに出た様子だったぞ。遠目にだが、軽く走っていったようだ」

「げ、ダチがやってるってなると俺もなんもせずは気が引けるな」

「ふ、流されは好まないが、切磋琢磨は嫌いじゃないな。そういうのは好みだ」

 ふわりと優しい微笑を零す。

 秀樹はその笑みに若干ドキリとしてしまう。親友が美少女めいた容姿の日向というのもあって結構男の娘な容姿の持ち主に耐性が出来ていると思っていたのだが、普段から不愛想な竜胆がこうしたやわらかな表情を浮かべられると少なからず同性とわかっていても、驚嘆してしまうものだった。

「……どうした難しい顔をして?」

「うんにゃ、なんでもねぇ。鼎が女子だったらデレデレってたなってだけだ」

「……よくわからないが、斬ればいいんだな?」

「よくわかんねぇなら斬るなよ! つーか、手元に武器なかったのに、どっから出した!」

 キランと光る鼎の模造刀。さっきまでこんな棒切れ持つ場所なかっただろうに、どこから取り出したのだと感心と同時に呆れて焦る。

「鼎」

「止めるな、鎧潟。俺は俺を女子だったらと宣った輩を切り伏せたいんだ」

「お前なんでそこで沸点短いんだよ! 気に障ったんなら謝るけどよ! ごめんなさい、殺さないで!?」

「おい、鼎」

「鎧潟、わかっている。謝罪を述べた輩を切るほど無体ではないつもりだ。だがな、陽皐。俺は女みたいと言われる事が嫌いだ。以後、俺を女子だったらなど口が裂けても言うな、言ったら口を裂いちゃうからな?」

「可愛い言い方で口裂け男生み出そうとすんなや! 怖いわ!」

「冗談だからな」

「冗談になってねぇんよ……」

 ちろ、と舌を出してそんな事を言う竜胆に対して秀樹はへなへなと力が抜けてゆく。そういう時々の反応が妙に女の子っぽいんだがな、と思ったが命惜しさに口にはすまい。

「なあ、鼎」

「……なんだ、鎧潟? 話はちゃんとひと段落させたんだが――」

「いやそうじゃなく、そろそろ鼎の順番じゃないか? 先生呼んでるぞ?」

 言われて見れば、確かに教師が「おーい、鼎」とメガホンで鼎を呼んでいた。どうやらそろそろらしいから準備しておけ、という事らしい。

「ん。ああ、もうそんな頃合いか。では、行ってくるか」

「おう、行ってこい。すげぇタイム期待してるぜ?」

 サムズアップで声援を送る秀樹に対して竜胆は不敵に微笑む。

「当たり前だ。俺は鼎竜胆だぞ? 不知火、お前に遅れはとらないさ」

 そうして竜胆はすくっと立ち上がるとレーンの方へ足を向けた。

「――あ」

 瞬間、竜胆の体が突如ぐらりと揺れた。

 思わず楔は目を見開き即座に竜胆の体躯を抱きとめる。そしてすかさず声をかけた。

「おい、大丈夫か鼎? 調子でも悪いのか?」

「……う、鎧潟、か」

 何故だろう妙に竜胆の声に弱弱しさを感じた。先ほどまでのどこか凛とした響きが感じられない――と、思っていたが次には再び凛とした響きが灯る。

「すまん、立ちくらみか何かだろう。面倒かけた」

「いや大事ないならいいさ。……風紀委員の仕事でも頑張りすぎたか?」

「かもな。まあ、それはそれとして――」

「ん?」

「さっさと放してくれるとありがたい。流石に俺も助けた相手に無礼は気が引ける」

 言われて「あ」と楔は青ざめた。

 なにせ竜胆は潔癖症だ。誰かと触れ合うのを極端に嫌っている節がある。事実彼からさっさと放せという空気が凄く伝わってくる始末である。

「わ、悪い……」

「謝るな。むしろ、謝るべきは助けられて拒否を放つ俺の次第だしな。だからまあ、返礼代わりに一言だけ――ありがとう、助かった」

 どこか気まずそうににだが、確かに謝意を感じられる言葉を残し、竜胆は今度こそコースの方へと走っていった。その足取りは先ほどのふらついた空気が見受けられず、確かな足取りで軽やかに駆けてゆく。

 それを見て楔はほっと一安心するのだった。

「アイツも難儀な奴だけどいいやつだよな」

「真面目な性格なんだろう」

 秀樹が二カッと笑みながら告げる言葉に楔は即答で返す。

 潔癖症だったり風紀委員で容赦なかったりせども、真面目ないい奴。関わり合いこそ、未だそれほど無いが楔から見ても鼎竜胆とは、そうした好印象の相手だった。

「しかし、鼎も行っちまったし、弦巻も新橋のとこだし。俺も走り込み行くかね。鎧潟はどうすんだ?」

「さて、俺はもう計測は終わっているから気楽にほかの奴のタイムでも見てるさ」

「そっか。見てたけど、お前も結構速いよな、足。鍛えてんのか?」

 その言葉に楔は刹那沈黙した後に、小さく言葉を発した。

「鍛えてはいた……ただ最近は前にも増して自然と鍛えられるというかな……」

「は?」

「なぁに、夢ってのに向かって走ってるだけだ」

「はは、なんだよそれ?」

 どこか誇らしくさえ感じさせる口ぶりに秀樹は不思議そうに声を漏らし、それに気づいた楔は二カッと爽快さを感じさせる笑みで静かに返すのみであった。



第五章 ハートフル・ランチタイム(1)

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