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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Cinquième mission 「夕映えの誓い」
62/69

第四章 Gurévič - finale D.C.

第四章 Gurévič - finale D.C.


        1


「――やきもちじゃない?」

 あっけらかんと初音から告げられた言葉にエリカは一拍の間を置いた後に「……え?」と、間の抜けた声を漏らす。

「だから、やきもちじゃないかなーってっ」

「や、やきもちって……焼くような場面あったかしら……?」

「弦巻君、素直だからな。アレじゃないかな? 大地離がエリカに対してアレコレ言った事に対して、エリカが取られちゃう、とか考えちゃったんじゃないだろうか?」

「と、取られるってねぇ。私は別に弦巻のものとかじゃないし……」

「うん、だからやきもきしちゃったんじゃないかなっ? エリカが自分のーって考えは無くてもエリカ大好きだもん、弦巻君。これが大っぴらに恋仲なら、もっと強く言えたろうけど、今んとこ弦巻君の片思いだしね。だからそんな反応なんじゃないかなっ?」

「あ、アレはわんこが懐いてるだけだってばっ」

 片思い、という単語が妙に気恥ずかしく感じられてエリカは赤い顔で訂正を入れた。

 その反応を「素直じゃないな」と真美がからかうように零すので「事実よ、事実!」とエリカはつんとなって否定する。

「だ、第一ね。アレに対してやきもち焼かれても反応に困るわよ。私のあの男への評価、結構最悪なんだけど」

「あはは……、それはそうだよね。かなーり険悪だったしねっ」

「弦巻君の場合、大地離がイケメンだったのに危機感を抱いたんじゃないかな?」

「あーまあ、顔は相当よかったもんねっ」

 うんうんと神妙な顔で頷く初音と真美。エリカもそこは素直に認めよう。精悍な顔立ちであり高慢ながら凛々しさも見受けられた。態度がそれを全て塗りつぶしている事を除けば、確かに面貌の良い男子である。

「でもアイツは無いわよ……。弦巻も何を変な事思っちゃってるんだか、もう……」

 エリカは困った様に柳眉を潜めつつ、そっと頬を触れた。

 まるで――というより、そのままに好意のアピールなのか去り際にすりすりと頬ずりされた右ほほが嫌に熱く感じられてしまう。すべすべとした女の子のような肌の質感が事細かに甦る様だった。

「……ほんと、バカなんだから」

 大地離相手にやきもちなど焼いてもしょうがないでしょ、と嘆息を零す。

 弦巻と大地離を天秤にかけたら自分は間違いなく弦巻を選ぶのだから――と、そこまで思考したところで恥ずかしくなって頭を小さく左右に振った。今そういう事を考えると去り際の日向の余熱を全身が思い出して仕方なくなるのだ。

「あ。エリカてば真っ赤だねっ♪」

「だ、誰も真っ赤になってなんかないわよ!」

「そうかな? エリカは赤くなりやすいと思うよ?」

「そ、そんなことないし!」

「でも、弦巻君みたいな子に好かれて、あんな猛アタックされたら誰だって真っ赤になっちゃうと思うよエリカっ?」

「そ、それは……」

 頬にキスするわ、抱き着いて甘えてくるわ――確かに赤面ものの数々だ。

「……あんな事、女の子にしたら怒られるってのにバカ」

「でもアレ、エリカにしかしてないよっ?」

「そうだな。エリカ以外にした事を見た覚えはないしな……」

 言われてエリカは更に赤面する。

 そんな事わかっているのだ。普段その求愛行動を全部エリカが受け止めているのだから、日向が他の娘に目移りせず、自分しか眼中にないのなんてエリカ本人が一番わかっていた。

「にゃあ……」

 もうなんなのよ、とエリカは思い返して赤面する。なんだって自分ばっかりこんな恥ずかしいラブラブ攻撃にさらされているのかわからなくなりそうだった。

「しぃ~~~……」

「――え?」

 その時、急に初音が何かに反応を示した。「どうかしたか初音?」と真美が振り返ると初音は「ね、今なんか聞こえなかったかなっ?」と怪訝な声を漏らす。

「何かって」

 エリカが何を、と呟こうとした時だった。

 茂みの中からしゅるしゅると這い出てくる細長い影があった。地面をくねりながら近寄ってくる、その姿――エリカにはすぐに正体がわかった。真美が声を上げる。

「初音、蛇だっ。下がれっ!」

「え? へ、蛇⁉ わわわっ⁉」

「真美も! 毒があるかもしれないから気を付けて――」

 三人揃って、茂みから顔を出した蛇に対して危機感を募らせる。蛇が全て毒持ちでない事は理解しているが、毒がある可能性も無碍には出来ない。即刻、三人は茂みから飛び出した蛇を注視し――、

「し~~……」

『……』

「しぃ~~、し~~……」

『……』

 反応に、困った。

「……へ、蛇? だよ、ね?」

 初音が確認するように声を発す。

「ああ、蛇だ。蛇、なのに、間違いは、ない。……たぶん」

 真美が対象をまじまじ見つめながら困惑する様に頷いた。

「いや、けど、この子……蛇?」

 思わず、この子、と言ってしまう程に悩むエリカである。

「しぃ~~……」

 いざ出てきたはいいが、驚かれた事に怯えたのか茂みに戻ると、茂みの影から恐る恐るといった様子でこちらを見てくる真っ白に青い腹模様をした鮮やかな綺麗な白蛇の子供に三人揃って、反応を困っていた。

 なにせ、どう見ても外見が、

「……蛇のぬいぐるみ……?」

 エリカの言葉に心の中で初音も真美も「だよね!」と賛同する。

 そう、蛇は蛇だ。それは間違いない外見だ。しかし、蛇は蛇でも、どう見ても、その外見は蛇のぬいぐるみにしか思えなかったのだ。蛇の鱗の硬そうな印象よりも、ふわふわっとしそうな鱗の様子はぬいぐるみにしか思えなかった。

 そのうえ、何故か羽までついている始末。殊更ぬいぐるみにしか思えない。

「……あ! も、もしかしてこれが噂に聞くツチノコとかだったりしてっ!」

「初音。残念ながら目撃されたというツチノコのイラストを見た事あるが、似ても似つかないぞこの蛇の子供とは……」

「そ、そっか……」

 だがツチノコで説明できた方が楽だったかもしれない。

 なにせどう見ても普通の蛇じゃないのだ。ぬいぐるみが動いている方がまだメルヘンチックに済ませて終わりに出来るのだが、生憎しゅるしゅると生物的な舌が伸びている事から、その線は薄い。

 そんな蛇の子供だったが、不意に「し~?」と不思議そうに小首を傾げた。

「?」

 エリカが様子に訝しむ中で、蛇の子供は少し恐る恐るとしながらもしゅるしゅる地面を這ってエリカの傍へ寄ってくる。

「え、エリカ、大丈夫?」

「あ、う、うん。子供の頃は怖かったけど、今は蛇とかそんな怖いわけじゃないし――っていうか、蛇って思えないんだけど、この子……」

「そ、それはまあ、うん……」

 真美が確かにそうなんだよな、と少し複雑そうに首肯する。初音も真美も同意見だった。

「え、えーっと、それで……」

 どうしよ、とエリカは悩む。

 肝心の蛇はエリカの傍まで寄るとエリカの周りをくるくると這いずっていた。害意などは驚く程感じられない。むしろ不思議そう、といった様子だ。そうして、エリカの傍を何か確認するように廻っていた蛇は次の瞬間、ぱたぱた羽を生やして宙に浮いた。

「……なんで飛ぶのよ……!」

 もう蛇じゃない。エリカは、最早ただそう思う他無かった。

「し~~」

「ど、どうかした……?」

「しぃ~♪」

 空に浮いていた蛇の子供は次の瞬間にはどこか嬉しそうな鳴き声を上げて、エリカの頬にすりすりとすり寄ってくる。

「蛇として、その反応はどうなの……?」

 何が嬉しかったのかわからないが、好意的な態度である。

 頬に伝わる感触も実にふわふわとして心地よい。

(もう完全に蛇じゃないでしょ、コイツ! 子犬かッ!)

 懐き方といい、感触といい蛇って何だっけ? となったエリカ。

 しかし、同時にその反応諸々含めて唐突にピンと思い当たる記憶が弾けた。

「……あ。そう言えば……!」

「エリカ?」

「どうかしたの?」

 初音と真美が不思議そうにする中、エリカは少し前のある会話を思い出していたのであった。


        2


「弦巻、いるかしら?」

 昼食を食べ終え、二人の友人と共に、教室へ戻ってきたエリカは意の一番に日向を呼んだ。

 正直、あの後なので迷ったがああなっては仕方がない。恥ずかしいが、日向に知らせてやるのが一番だろうと声を出したのだ。

 その声に当然のように「わうー?」と愛らしい声が返ってくる。日向の耳の良さを知っているので少し大きめな声だけで反応はすぐさま表れる事をエリカは理解していた。

 肝心の日向は座席に座っており、エリカの方へ振り向くと「わーい、エリカだー♪」と、嬉しさにはしゃいでエリカのところへやってきた。先ほどにあんな神妙な感じで別れた割には自分が逢いに行くと凄く喜ぶ辺りがエリカはどうにも気恥ずかしく感じてしまう。

「エリカ、なにー?」

「ええと、今時間ある?」

 わう? と、疑問符を浮かべる日向に対して「うん、ちょっとね。今から一緒に来れる?」と簡素に伝えると「うん♪」と、子犬がしっぽを振るような了承が返ってくる。

「そ。じゃあちょっとついてきて。アンタに確認してほしいことがあってさ」

「わう?」

 ぽかんと小首を傾げる日向。

 何が何だかわからないであろう、日向の手を引いてエリカは一路、校舎裏へと連れてゆくのだった。



「こんなところ何で来たのエリカー?」

 人気の少ない校舎裏にエリカが連れてきた事に対して日向はただ不思議そうにしていた。

 エリカとて普段ならば、こんな場所へ連れてきたりなどしないし、そもそも近づく事もない。こんな場所に来る面子と言えば学内の不良だが、一口に学院の校舎裏と言っても規模が違う上に、そもそも校舎裏以外に不良行為に及べる場所は多々ある。別に、告白の場所という可能性もあるのだが、生憎と恋愛に疎いエリカがそこに気付く気配はなく、またエリカに恋せど基本鈍感な日向が気づく理由もない。

 とすれば最後の理由は、一目につきにくい場所であるということくらいか――。

「まあ、ちょっと待ってて。ここにいるように言っておいたんんだけどね」

「ここ? いる?」

 日向が相変わらずきょとんとしている中で、エリカはおもむろに茂みの辺りを探索する。このあたりにいる様に、と伝えておいたのだが、そもそも蛇なのでどこかへ移動してしまった線も濃厚だが、

「あの子素直そうだし、近くにいると思うんだけど……と、あ」

 茂みに顔を近づけるエリカが不意に特徴的な鳴き声を耳でとらえた。

 蝶々が飛んでいる。

「し~~♪」

 白蛇がキラキラした瞳で、楽しそうに尻尾を振って蝶の後を、飛んでいた。

「のん気かっ!」

「わう?」

 エリカが若干ずっこける。

 そんなエリカに気付いたのか、びくっとした蛇の子供は「し~~♪」と、嬉しそうな声を出しながらエリカの傍へとよってきた。

 すると、そこでエリカが呼んだ日向に気付き、ぴたっと停止する。

「し~~」

「わうー」

「し~~」

「わうー」

 そうして、一拍遅れて少年は驚きの声を上げた。

「カトルだ⁉ なんで、カトルがいるんだし!?」

「いや、なによ今のやり取り」

 エリカが若干呆れた様な声を零すなか、カトルと呼ばれた蛇は羽をぱたぱたさせ喜色の感情を表現し嬉しそうに体を揺らす。

「し~~♪」

「でもまあ、逢えたの嬉しいからいっか! わうー、カトルだカトルだ! えへへー、嬉しいなまた会えたし!」

 はしゃぐ日向は同じくはしゃぐ蛇の子供を抱き締めながら無邪気に可憐な笑みを咲かせていた。その様子を見て柔和な微笑を浮かべながら、エリカはほっと胸を撫で下ろす気分である。

「やっぱ、その蛇の子供、前に弦巻が言ってたカトルって子なんだ?」

「うん! エリカが連れてきてくれたんだ。ありがとー、すごく嬉しいし! エリカ、大好きー♪」

「ッ。そ、そんなさらっと大好きとか言わないの!」

 エリカは若干熱くなった頬を軽く手で扇ぐ。

(無垢というか、無邪気というか……向日葵みたいに笑うコイツの顔はちょっと反則じゃないかしら……ッ)

 純真性か、純粋性か。エリカは日向のこういうところにも素直に好感を抱いていた。

「でもすごくうれしーの! カトルまた会えたし!」

「し~~♪」

「でも、どーしてカトルがエリカと一緒に?」

「たまたまよ。ごはんの帰りに道端でね。たぶん、アンタの事探してたんじゃないの?」

「そうなの?」

「し~!」

「わうー、そうなんだありがとう」

 えへへー、とカトルを肩に乗っけながら嬉しそうに日向は笑う。

「ところで弦巻。その子の名前のカトルって……」

「わう? えと、鳴き声が『し~~』だから『四』で、スペイン語で四がカトルって単語だったからカトルなんだけど……」

「あ、やっぱりそうなのね……」

 エリカは結構博識なのもあり、各国言語の数字の数え方程度は当然記憶にある。

 鳴き声が確かにそういう風に感じられたのもあり、もしかしたら程度の予測だったが、やはり名前の理由はそういうことらしい。

「カトル、久しぶりだね。元気だった?」

「し~~♪」

「わうー、僕も元気だし! それで探しに来てくれてたの?」

「し~~!」

「そっか、ありがとう!」

 えへへー、とカトルに会えた事が相当嬉しいのか日向は終始笑顔を浮かべていた。

「し~~♪」

「わう?」

「ん? どうかしたの?」

「カトル、エリカにもありがとうって言ってるし!」

「蛇の言葉わかるわけ?」

 可笑しそうにエリカは零す――が、正直エリカもなんとなくカトルの言葉はわかる気がした。というより感情表現がわかりやすすぎて蛇なのに、すごく伝わってくる。なにせ、感謝の証とばかりに頭を下げているのだから、わからぬわけがない。それ以前に、地面に尻尾で【ありがとー!】と描く時点でわからぬ道理が無かった。

「……変わった蛇ね、その子」

「わう、そーなんだ。初めて見た時、驚いたし!」

「本当よ……。私、蛇って何度かテレビで見た事あるけど、この子どの蛇とも似てもにつかないわ、羽根生えてるわ、ぬいぐるみみたいだわ……どこで見つけた子なの?」

「んー、わかんないし。ある日、気付いたら傍にいたから……」

「しぃ~~♪」

 日向はカトルの頭を撫でながら、

「けど良かった。友達にまた会えたの嬉しいよカトル! モード君はどこかわかんないし、イシカさんとはあれから話せてないし……」

「イシカさんって……新谷さんのこと?」

 エリカが何気なく尋ねたその一声。しかし、無意識だったのか、そう問われた日向は一瞬驚いた様な様子を浮かべるが、素直に「……うん、そー」と首肯した。

 その肯定にエリカは少なからず驚きを覚える。

 なにせ相手は有名人なのだ。歌手として期待の超新星である有名人、そんな人物と日向が関りあったというのが素直に驚きであった。

「イシ――ううん、新谷さんか。新谷さんとは、同じ中学の友達だったんだ」

 だった、と寂しそうな声でエリカは少しだけ事情を察しながら言葉を続けた。

「同じ中学だったんだ?」

「うん。って言っても、芸能活動が頻繁で中学は義務教育だったのもあったから、ほとんど学校に来れなくて家庭教師とかで勉学済ませてたって訊いてる。それで僕が新谷さんと仲良くなったのは三年に上がってすぐだったんだ」

「その頃から仲良くなっていったわけね?」

「うん。……実は新谷さんの事とか全く知らなくて、僕その頃友達いなかったから初めて見た新谷さんに『ごはん一緒に食べてもいーい?』って言っちゃって……」

 わう、と失敗談を語る様にてへへ、と苦笑する日向。

 日向の事だ。きっと一人で食べるのが寂しくて友達作りも兼ねて突貫したのだろう、とエリカはすぐに推測出来た。

「……それでどうなったの?」

「『私は一人で食べたいの。どっかいって』って言われたし……」

 当時を思い出したのか涙目になる日向。

「……アンタ、言われた後に今みたいにしょんぼりしたでしょ?」

「うん、ガーンってなった。新谷さんも一人だったし、もしかして一緒に食べてもへーきかなあ、って思ったんだけど一刀両断でダメだったんだー……。でも、少ししたら『……あ、ああもうしょげてないの! い、いいわよ、わかった! ここで食べるだけなら別にいいからさ!』って言ってくれたからイシカさんもとっても優しかったんだー♪」

「……」

「わう? エリカー?」

 何故か頭を抱えるエリカに日向は思わず小首を傾げる。

 対するエリカはなんか自分もそうなる気がして何となく頭を抱えていた。今みたいなしょんぼりした日向を見れば多分、譲歩して甘くなる気が凄くしてからである。

「とりあえず、なんでもないから気にしないで」

「わ、わう? わかったけど……」

「それで、まあ要するに……そこから新谷さんと友達になったってことなわけ?」

「うん。中学の頃、僕の友達は学外のモード君と、このカトルだけだったの」

 だから、とどこか悲しそうな顔をしながら、

「イシカさんは学校で初めて出来た友達なんだ。今はもう、向こうは友達なんて思ってないだろうけど……」

「……喧嘩でも、しちゃったの?」

「……わかんない。でも、どこかで新谷さん怒らせちゃったんだと思ってる。卒業間近の時期だったんだけど、その辺りから、新谷さん僕の事避ける様になって……」

 そして重苦しい表情で「僕、何か怒らせるようなことしちゃったのかな?」と、辛そうに呟いた。その言葉にエリカは言葉を返せない。

 理由がわからない以上は下手な言葉を言うわけにもいくまい。

 しかし、それでも――、

「弦巻。アンタはどうしたいの? このままでもいいのか。それとも友達でいたいのか」

「前みたいに仲良しの方が嬉しいもん。また、楽しくおしゃべりしたい……でも、無理なのかなあエリカぁ……」

「……どうかしらね」

 エリカは少し返答に悩む。

 きっとなれる、と無責任な事を言う気にはならなかった。喧嘩の原因が果たして何であるのかを知らない以上はわからぬ話だ。難しいのか、それとも些細な事なのか。

 だが、そんな彼女にもこれだけは言える。

「でもね、弦巻」

「わう?」

「仲直りがもしかすれば難しいのかもしれないけれど、そう想う事は無意味じゃないって私は思うわよ? アンタみたいに、また仲良くなれたらって思う事は凄く大切な事だから」

 嫌っているわけではない。

 むしろ好いているからこそ、仲の良い友達に戻りたいと願っているのならば――、その背中を応援することをエリカは快諾しよう。

「今は難しいのかもしれないけど、きっとアンタなら大丈夫だと私は思うわよ。だから臆せず頑張ってみなさいよ。私が応援してあげるからさ」

「――」

 その言葉に。

 日向は刹那、茫然とした表情を浮かべて――それから熱の灯った様な焦がれる表情を一瞬だけ浮かべた後にふわりと和らいだ笑顔を浮かべて少女の温もりに嬉しそうな声で頷く。

 そんな二人の様子を見つめながら、カトルがどこか嬉しそうに鳴き声を上げた。


        3


 本日最後の授業では、本来の時間を使って種目決めが執り行われた。

 教卓では担任の椋梨が種目一覧が書かれた黒板を手の甲でコンコンと小突きながら、

「いいか、お前たち。一人、最低二種目は参加が目安だからな。やれそうな奴は五種目くらい参加して構わない。やろうと思う種目に関して挙手する様に。わかったな? ただし事前通告した通り、ミニトライアスロンだけは慎重に考えるんだぞ」

「先生、そんな言葉種目決めで今まで聞いた事なかったすよ本当……」

「先生も同感だ陽皐。正直、なんでこんな事を言わなきゃならん種目があるのか謎だが、あるものは仕方ない。――というわけで、今から種目決めを開始する! みんな、出たい種目があったら手を挙げるように!」

 わかったな? という大きな声に皆一様に、はーい、と返す。

 そこからは椋梨先生が色々な種目を黒板に書き、順番に募集を募っていった。【水泳リレー】の種目が出た時には、隣席の日向が高らかに手を挙げる姿が、エリカの目に映る。

(私はどれに出ようかしらね……。ああ、でも、ううん……)

 そんな中でエリカは色々物思いに耽ってしまっていた。

 原因は言わずもがな、日向だった。中学の頃に、聖紫花と何かがあった。喧嘩があったのか、怒らせるような事件があったのかはわからない。

 しかし現在、日向と聖紫花は会話らしい会話をする気配がないのだ。日向は話しかけたら迷惑だろうかと心配し、聖紫花の方は徹底して日向に近づく気配がみれない。

 ただ……。

「……」

(なんでかしら、日向の事見てる時があるみたいなんだけど、私の事も見てるような気が……)

 まあ気になるのだろうか。

 確かに自分は凄く日向が懐いているわけだし、視界に入らないという事もないのだろう。なにかしら理由ありきで自分の存在も気にしているということか。

(でもやっぱわかんないわねー……)

 何をすれば、で止まってしまう。現状出来る事は少ない。

(でもそれでも、弦巻が仲直りしたがってんだし、支えるくらいはしてやりたいし……)

 と、思ったところで不意にエリカは思考を停止した。

(……なんか、私結構、弦巻の事考えるようになってる?)

 うあ、と日向の事を心配している思考が何となく恥ずかしくなって頭を振った。

 別に心配する事が恥ずかしいのではなく、もっと別の気持ちで恥ずかしくなってしまった感覚を抱くエリカである。

「エリカー」

「ふぇ!? え、な、なによ弦巻⁉」

「エリカ、借り物競争出る?」

「え……、か、借り物?」

 言われて黒板へ向くと先生が「借り物競争出る奴いるかー?」と挙手を募っていた。

「借り物競争って普通な感じですか先生―?」

「そこはわからん。祭典委員会が、面白半分で書くお題もあるからな」

 と、可笑しそうに答えている。

「借り物競争かぁ……」

「うん、借り物。面白そうだし、エリカどうかなーって思ったの」

「借り物かぁ……んー、私はとりあえずいいわ。弦巻は出るの?」

「わう♪ 面白そうだから出てみるし!」

「そ。楽しいといいわね。後は変な借り物じゃなきゃいいけど」

「うん、ありがとエリカ♪」

 ふにゃっと笑顔を浮かべると日向は借り物競争へ挙手をした。椋梨先生は「ん、弦巻出たいか。よし、四人目は弦巻と……」黒板にチョークを走らせる。

(弦巻。体育祭好きなのかしら?)

 妙にキラキラした表情を浮かべている。と、エリカは気づく。

 普段もキラキラと何事も楽しんでそうな日向だったが、種目決めではより一層わくわくしている様にエリカは見えた。自分も体育祭は色々な種目がやれて好きだが、日向はまるで初めて体育祭に参加する様な心の沸き立ちようをみせている。

 良かった、とエリカは少しホッとした。

 大地離筵を見返す、と昼間に言っていたから、体育祭で厳しい顔ばかりしないかと少し案じていたのだが……、

(この顔なら平気そうね。体育祭が純粋に楽しみで仕方ないって顔しちゃってるし)

 ほんと無邪気なんだから、とエリカは少し頬を緩めながら、その横顔を見守っていた。

 そこから更に、種目決めは加速してゆき、【パン喰い競争】に秀樹が名乗りを上げ、【モチ喰い競争】には誰も名乗りを上げないので、九十九が勇ましく俺がやるぜと声高に宣言したり、【ビーチフラッグ】は人気なのか十数名でのジャンケンとなったりしながら、種目の参加者は決定してゆき――、

「さて、次は二人三脚だが――誰か出る奴はいるか?」

 いよいよ肝心の種目がやってきた。

 その言葉にドキッと、エリカは心臓が高鳴るのを感じた。

 日向と約束した、出てあげると言った競技である。

(うう……恥ずかしい……)

 うーん、とエリカは内心恥ずかしさで縮こまってしまう。なにせ、約束を違えるつもりはないとはいえ、今から手を上げる事の意味は結構大きいのだから、仕方がない。かといって、手を挙げなければ、日向のしょんぼりとした顔が見れる事になってしまう。

 ふと、視線を隣へ向けると日向が赤い顔で期待する様な眼差しを向けている事に気付き、エリカは「む」と赤面するも「ほら」と視線で日向へ行動を促した。

 それを見た日向は嬉しそうに満面の笑みを零すと、

「先生、僕出るし!」

 わうー、とぴこぴこと日向が挙手をする。

 んじゃ相手は? と、皆の視線が自然と隣の席のエリカに注がれた。なんでそんな当然のように私に向くのよ! と、内心恥ずかしく思うエリカだが、仕方なく顔を赤らめながらも、日向に続いて手を挙げる。

「えーっと……弦巻とは私が組みます」

 ざわっとクラスがざわめいた。

 そのざわめきの理由がわからない程にエリカも鈍感ではない。クラスメイトが口々に「え、新橋さん男子と一緒に出るの⁉」、「新橋さん男子苦手っていうけど、やっぱり弦巻君は例外になってきてるのかな……?」、「くそ、弦巻羨ましい! 新橋さんが普通に手ぇ挙げたし!」驚愕の声を上げている。当然の反応に、エリカは「だー、やっぱ恥ずかしいわね!」と顔を真っ赤にして唸った。

 あのエリカが男子と二人三脚に参加する――それが話題にならないわけがない。

 先生も少し驚いた様子だったが、やがて二カッと快活な笑みを浮かべて、

「驚いたな、新橋。弦巻と参加でいいんだな?」

「……一応。コイツと約束してあげちゃってるし……」

「はは、そうか。なら、二人三脚の一組目は新橋・弦巻ペアで決定、と」

 黒板にチョークが走り新橋と弦巻の苗字が記載された光景にエリカは絵も言えぬ恥ずかしさを覚えた。二人三脚の組で自分の名前がこんな風に書かれる事を中学時代は想像すらしなかった。高校になろうと変わらないと思っていたのだが、まさか一年目から何かがガラッと変わり始める――そんな感慨を抱いてしまう。

「エリカ、エリカ」

「な、なに?」

 ふと隣を見れば顔を赤らめた日向が可憐に微笑を浮かべてはしゃいでいた。

「ありがとー♪」

「……どういたしまして」

 ふにゃっと微笑んだ日向の顔をまともに見れずぷぃっと顔を背けながらエリカは返答する。

 この選択のおかげで、すでに周囲の好奇心の視線が束の様になっていて、エリカの心中はかなりドキドキしてしまっているが、やはり日向の嬉しそうな顔を見ると、なんというか出てあげてよかったかな、と優しい想いを抱くエリカだった。

 その後も順序よく種目決めは進んでゆく。

 途中、エリカも自分が出たいと思った種目に挙手をしたり、人数が超過してジャンケンで参加を決めたりを繰り返しながら、時間は段々と進んでゆく。

 そして。

 遂に、日向が出る、そして勝つと自身に誓った種目が訪れた。

「――次、ミニトライアスロン。誰か挑戦したいってやつはいるか?」

 来た、と日向は思った。

「先生っ」

「弦巻? ……出る気か?」

 何名出るだろうか? 挙手する奴はいるか? そう、思っていた椋梨が驚いた様子で日向を見据えた。

 対して、こくん、と頷く日向。椋梨は「ふむ」と唸ると、

「まあ、弦巻は見た目より遙に体力があるから平気と言えば平気だが……。しかし、大丈夫か弦巻? 言っておくが、ミニトライアスロンは本当に、きついぞ?」

「いーの、頑張るし! 絶対、大地離さんに一泡吹かしてみせるし!」

「うん、大地離? また随分と有名人の名前が出てきたな。……いや、そうか。学食での騒ぎで何かあったとみるべきか?」

「は、はい。えと、先生騒ぎ大きくしちゃった事に関してはその……」

「ん? あーいい、いい。新橋も申し訳なさそうにする必要は無い。概要は概ね伝わっているからな。それに兄の方だろう、大地離となると。あいつは本当騒ぎを起こす奴でしょうがないな……」

 ふぅ、と嘆息を浮かべる椋梨先生。

 その反応を見る限り、どうやら去年も何かしら騒ぎを起こしたりしたという事なのだろうか。あの性格を踏まえればあり得ない話ではないのかもしれない。

「……二人は大地離筵と逢ってみた感じ、どうだった?」

「……」

 ううむ、と渋面を浮かべる。

 どうだった、と言われると悪評しか口が開けそうになく、かといって罵詈雑言を吐く様な事はあまりしたくなかった。すると先生は「そうその反応だろうな」と首肯する。

「先生から言わせてもらえばアイツは普通に困った生徒だ。他人を見下し、自分の我侭が通らないと苛立つ部分が大きい。――ただし、学院側が認めるだけ埒外の身体能力を持つアスリートなのは事実だ」

「……やっぱりそんなになんですか?」

 担任の断言に対してエリカが驚きに目を見張る。

 ユウマが言っていた事は、やはり正しかったらしい。

「そんなにだ、新橋。プロが認める程に大地離のスペックは高い。学院のスポーツ特待生という時点でそうだが、その中でも特段上の奴が、大地離だ」

「先生が言うって事は相当ですね……」

「ああ。新橋も相当、抜群の運動能力を持っているのは先生も知っているが、そんな新橋でも大地離相手だと確実に負けるだろうな」

 ぐ、とエリカは悔しそうに歯噛みした。あんな男と比較して負けてしまう――と、見込まれるのが悔しくてたまらない。事実だろう、とエリカは認識するも、やはり感情は別物だ。

 そんなエリカの横で日向が、強い声を発す。

「でも負けたくないです、あの人には」

「だがな、弦巻。大地離に勝つとなると優勝狙うレベルになるが……」

「じゃ、優勝するし!」

「おいおい。だが、ふーむ、優勝か。そいつは難しいな……」

 顎に手を当てて椋梨は面白そうに笑みを強めた。クラスメイトが「先生、それ面白がってる顔っす」と苦笑を零す。すまんすまん、と先生は朗らかに笑う。

「だが嬉しくてな。【大体育祭】なんかになると、普通科の連中は中々優勝なんかは目指さないもんでな。うちは体育科がいるのもあって、優勝は無理と諦めてしまうんだ」

「そりゃまあ、体育科と普通科じゃレベルが違いますもんね……」

「ああ。だが、弦巻は優勝したいと言った。それが嬉しくてな」

 そう言って、椋梨は日向を一瞥する。

「だが、それだけ言うって事は、やはり相当悔しい様子だな、弦巻。何があったかは簡易的にだが聴いている。それで頑張りたくなったか?」

「はい」

 日向は力強く頷いた。

「大地離さんは、僕の大好きな人達バカにしました。エリカに、エリカのおにーさんに……内容は言わないけど、あんなメチャクチャな侮辱は許せないし。だから……」

 厳しい表情で拳を握りしめてなんとも言えず悲し気に顔を伏せる日向を見ながら、エリカは穏やかな表情で、その言葉を聞き届ける。

 日向が自分の事で、兄の事で、家族の事で怒ってくれているのが嬉しかった。心がほんのり温かくなるようだった。

 そして――、

「そういう事情なら私だって許せないわよ、新橋さんを――私たちのクラスの委員長をバカにしたんでしょ? そういうことだよね?」

 と、クラスメイトの一人が憤慨した様子で立ち上がる。

「そうですね。私たちをしっかり取りまとめてくれている委員長を侮蔑した。憤慨を覚えないと言えばウソになる」

「新橋さんをバカにするとか絶対許せねー! みんな、ここは一丁、大地離を見返す為にも優勝目指してやろうじゃねーかあ!」

 続き、口々に賛同の声が溢れ、優勝を目指そうという気概がそこかしこから溢れ出した。

 エリカは内心感動を覚えていた。自分がバカにされた、という事から自分のことのように怒ってくれるクラスメイトたちの姿に、そんなクラスの委員長で良かったと心がほうっと温かくなるような気持ちを抱く。

 場が優勝目指して盛り上がる中で「待てお前ら!」とクラスメイトの一人、豊臣(とよとみ)が声を張り上げた。立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべる豊臣に皆はなんだ? と顔を向ける。

「一ついいか。優勝目指すのはいい。男らしくて俺の好みだ! そういう話なら俺も力を貸すってやつだぜ。けど【大体育祭】は舐められねぇと俺は思う。正直、この学院にはスペックのおかしい奴がゴロゴロいやがるんだ。気合だけじゃ勝てないぞ」

 む、と熱気を帯びる面子が「それは当然だ」と腕を組んだ。そんな中、クラスの一人である帯解(おびとけ)が口を開く。

「確かに道理ですからね。学院にはスポーツ学科のクラスもありますから。正直普通科の我々では通常苦しい戦いが予測されるでしょう」

「帯解と豊臣の言う通りだな……なら、どうすれば……!」

「いいえ、皆さん。ですが我々のクラスにはその実、特待生にも劣らない高スペックのクラスメイトが結構います。その方々を使えばおそらくは……!」

 おお! と、周囲がざわめいた。

「まずは、最も勝とうと気概を見せている弦巻君。体育の授業で皆知っている事でしょうが、彼はかなりの身体能力を持っています。まあ、途中転んだり、不慮の事故で保健室送りになったり、不運な事も絶えませんが」

「泳ぎとミニトライアスロンでたくさん頑張るし!」

 わうー、とエリカの隣で日向が白熱した気迫を放っていた。エリカがバカにされた、その事で恐らくはクラスの中で最も大地離に憤慨しているのは間違いなく日向だろう。エリカは横目でちらりと日向を一瞥すると小さく「――ありがとね」と唇だけそう動かした。声にするときっと聞こえてしまうと知っているエリカは内心嬉しく思いながらふっと微笑む。

「次に豊臣君。彼もまた運動神経抜群です。普段からサボり癖がありますが、能力値の高さで言えば抜群というところでしょうか」

 燃えてきたぜ、と拳を掌にバンと叩きつけて勝気な笑みを強める。日向なんかは普段そう関わる事のないクラスメイトだが、勝負事を好む気質があるのは知っている。それが今回火をつけたということか。

「加えて、陽皐君も重要です」

「俺ぇ!?」

 びっくら仰天と秀樹が自分を指さす。

「ええ。陽皐君はバランスが良いですからね。運動神経、動体視力共に平均より上でしょう?」

「……そらま、親父に鍛えてこられたからな」

 ふっと何故か青ざめた表情で陰鬱そうに語る。

 日向はそんな横顔を見ながら、そう言えば秀樹の両親や背景なんかは訊いた事がなかったなーと漠然と意識したが、あえて聞き出す事でもないか、と判断した。

「そして、佐良土君。貴方も貴重な戦力です」

「…………よく見ている」

「ええ。このクラスの男子生徒は皆、普段から観察を怠っていませんからね」

『!?』

「…………そんな見られ方はしたくなかった……!」

「手遅れですよ。大方の肉体情報はすでに脳に焼き付けていますからね」

 とんとん、とこめかみを指で叩く帯解の姿に『どういうこと!?』と、クラスメイト男子全員が戦慄の表情を浮かべていた。女生徒たちが『気づいてなかったんだ……』と、憐れむような視線を向けてくるのが辛い。

「まあともかくです。佐良土君、貴方も平均より上の資質を持つ人だ。素早さにかけてはと起筆するものがある。50m走の時の素早い走り。私は忘れていませんよ」

 その言葉に秀樹も「そういや佐良土って足速かったな……」と思い出した様に口にする。

「そして最後に――不知火君。男子のキーパーソンは間違いなく貴方だ」

「……へ、遂に気づかれちまったか。筋肉さんによ」

「ええ。貴方の筋肉が活躍するべき場があるという事です」

「筋肉が、筋肉って事だな?」

「その通り」

「そうか。そいつぁ筋肉だな」

「わう、不知火さん、お願いします。力貸してほしーです!」

 九十九の身体能力の高さは日向も知るところだ。その力量を考えれば、九十九が力を発揮してくれれば優勝も望めるだろう。日向はぺこっと小さく頭を下げてお願いする。

 そんな頭をぐいっと九十九は持ち上げて、

「へへ、安心しな日向! 友達が頑張ろうって時に力貸さなかったら筋肉じゃねぇだろ? 筋肉ってのは困った時に駆けつけるもんだ。それが今なら――俺は全力で呼応するぜ!」

「不知火さん……!」

 日向は嬉しそうに顔を輝かせた。――筋肉の意味がよくわからないので申し訳ないと思いつつも。だがこれはいけるんじゃないか? と、誰かが興奮の声を上げた。

 確かに、この面子は普通に強い。

 通常の体育祭であれば一位を狙えるメンバーではないだろうか。しかし、これは【大体育祭】、それを考えれば、そんな慢心は出来ない。

「えーっと、ちょっと待ってくんない男子」

 そこで祁答院カリナが困った様に声を上げた。

「何かな、祁答院さん?」

「いや、あのさ。男子が白熱する傍らで申し訳ねーっつーか、私らも新橋がバカにされたっつーんなら力貸そうとは思うわけよ? ただ、男子と比べると女子でやばいっつーか……」

 うんうん、と困った様に女子全員が頷いた。

 確かにその通りだった。当然ながら、【大体育祭】において女子対抗戦といった一面もあるわけだから、優勝を狙うには女子の活躍も目覚ましいものがなくてはならない。だが、生憎とDクラスの女子は他クラスが見に来る程の美少女が揃っている反面、そこまで運動に特筆した面子がそろい踏みという事は無い。

「一応、エルフリーデさんもいるけど……」

「む。自分か? もしかして自分がご指名なのか? なら任せてくれ頑張るぞ!」

 キラキラと嬉しそうに拳を握るドイツからの留学生エルフリーデの姿に和みを覚えると同時に不安も覚える。そう、クラスメイトは知っている。彼女がすかぽんたんなのだと。

「――安心してください」

「帯解⁉ お前、まさかまだ何か考えがあるのか?」

「ええ。もちろん。私は基本、女性に興味関心がありませんから、情報は持ち合わせていないのですが――」

『!?』

 男子生徒一同、女性に興味が無いで衝撃を覚え怖気を感じる中で帯解は言葉を続けた。

「確かに我がクラスの女子は大半が運動をそこまで得意としておりません。ですが、一人だけ。このクラスで万能なる者がいます」

 クラスメイトが固唾を呑んで帯解の意図を見守る中で、帯解はぴしっと一人の女生徒を指さした。そう――、エリカを。

「……えーっと。帯解……?」

「策は一つ。優勝を求めるならば、最早全員の強化など叶わぬ夢! ならば、女子勢の得点を得る為には、最もスポーツ万能である新橋さんに全てを託すこと! それしかないでしょう!」

「ええっと、あの……確かに皆、私の為を思って頑張ってくれるって話だったし、私も頑張ろうって感動を覚えたりしたわけなんだけど、それをアンタらが言うのは何か、微妙にこう違和感が募るっていうか……」

 エリカが、あれ? いや頑張るけどあれ? と内心不可思議な感慨を覚える横でクラスの女子たちは、

「そっかー、新橋さんなら安心だね!」、「うん、いけるって新橋さん!」、「新橋さんに全てを託すよ頑張れ委員長!」、「適度にあたしらも頑張るからさー、エリカふぁいとー」、「そーだよエリカならどうにかなるっしょ」。

 等々、得心がいった様に談笑を交えていた。

 私の問題だもん、私が頑張らなくちゃね、とエリカはそう思う。思うのだが――なぜだろう、なにか微妙にすっきりしない心地となっていた。いや本当に何なのかしらこの違和感……! と、複雑な心境になるも。

「エリカ、エリカっ」

 と、唐突に、机の上に手をついて自分を見上げてくる日向の姿にドキッとする。

「な、なに、弦巻?」

「僕も一生懸命頑張るから、エリカもがんばろーね♪」

 ぴこぴこ、と日向の頑張るし! という顔を一目見ると、エリカはしばしきょとんとしていたが、やがてふっと頬を緩めて「……そうね。一緒に頑張って優勝目指そっか」と柔和な笑みを浮かべながら頷くのだった。

 そうしてこの日、Dクラスは優勝目指してクラス一致団結する。

 大地離筵の言を見返すのは当然――それ以上にクラスとして優勝してやる、という気概に溢れながら。そんな空気の中でエリカと日向も気を引き締めるのだった。

 なお、種目決めにおいてこの後エリカの名前が乱発し、エリカ本人、自分の名前がいたるところに登場して何種目出場するんだか本人わからなくなり、大会当日にその種目の多さに驚く事となるのだが――今のエリカには気にする暇もなかった。


        4


 放課後。エリカと日向は委員長と祭典委員会の仕事をこなしていた。

 仕事としては少し多量であり、物置である教室から備品を取ってくる事に踏まえて少し片づけをするように、というものである。【大体育祭】が近い事もあって、慌てない様に先の日から準備の一端を進めていくらしい。委員長でもあり祭典委員会にも所属するエリカと日向にとっては当然の雑務だった。当然二人きりではなく、数人がいたが、二人を残して他数名は一旦別の部屋の作業へ移っており、現在は日向とエリカの二人が片づけをこなしている程度には部屋として小さめである。

 種目決めの方も一応滞りなく完了したため、後はこの仕事を済ませるだけだ。

(……まあ、私、どの種目なのかわかんなくなってきたけどね……)

 どうなってんだろ、と若干遠い目をするエリカである。

 だけど嬉しかったな、とエリカは少し照れたように零した。

 まさか自分の事でクラスメイト全員があんなに怒ってくれて、優勝しようと一致団結してくれるとは思わなかった。あんな風に皆に思われていたことが嬉しくてたまらない。

「わう⁉ わわわっ……!」

「弦巻、大丈夫? 重いなら手伝うわよ?」

「んー、へーき。ちょっとバランス崩しちゃっただけだし」

「そ。気をつけなさいよ」

「うんー♪」

 ぴこっと嬉しそうな顔して、段ボールを下ろす日向を見つめながら、穏やかな気持ちに浸るエリカ。――あの時、ああも自分の事をバカにされた事に怒ってくれたのは兄であるユウマに日向だった。そして、日向は大地離筵をぎゃふんと言わせる、と自分の事を思って躍起になってくれた。

 宥めないとな、と思う反面、その心が嬉しく感じている。

 なんだか心が温かく感じるエリカだった。

「エリカ? どしたの、ぼーってして?」

「え!? あ、や、な、なんでもないわよ?」

 どうやらボーっとしてしまっていたらしい。エリカは気を取り直す様に深呼吸すると「よし!」と力のこもった声を奏でて作業にとりかかる。

 そうしてしばらくし、二人は額の汗を軽くハンカチで拭うと、

「……にしても、重いしそこそこ量あるわねー。流石、芳城ヶ彩ってくらいに」

「うんー、まあ先生も少し片づけてくれればいいからって言ってたけど……」

「そうね。まあ、このあたり片づけたら帰りましょうか」

「うんっ♪」

「……なんかやたら嬉しそうね?」

「だって、エリカといる時間増えたもん!」

「も、もう! バカな事ばっか言ってないで、さっさと終わらせるわよ!」

「はーい」

 わうっ♪ と、心地よい声が返ってきて、二人は片づけを再開した。すると、少ししてから何か穏やかな美しい音色が響いてくる。

 エリカは吹奏楽部とかかしら、と一瞬思ったがそんなはずはない。それが歌声で近くから聞こえてきたからだ。

 日向が歌を歌っている。片づけをしながら、嬉しそうに歌を紡いでいた。委員長として仕事を共にしているうちに、エリカはよく耳にしている歌声だ。男の子にしては高い声。少女の様に可憐な美声が、音色を奏でている。

(何度聴いても、素敵な歌声だな……)

 エリカはそんな日向の歌声が好きだった。

 仄かに優しく紡がれる日向の美声は温かさに満ちている。聴いている側が心地よくなる素敵な歌声だと彼女は感じていた。歌声を耳に、瞼を閉じれば、綺麗な田園風景が、心地よい春風の草原を感じさせる――そんな歌声。

 ずっと聴いていたいな、とエリカは心からそう思う。

 すると不意に歌が途切れる。あれ? と、思って顔を日向の方へ向けると、日向はこちらを見て柔和に微笑みを零していた。

「エリカ、ありがとね」

「え? 急になんのことよ?」

「二人三脚。一緒に出てくれるって言ってくれたの、すごーく嬉しかった」

 段ボールを両腕で持ちながら、日向は嬉しそうに顔を赤らめていた。

 いつもの様な喜色に満ちた表情の中に仄かな熱い眼差しを感じる様でエリカは少し恥ずかしくなってしまい、くるっと背を向ける。

「あ、ああ、その事ならしょうがないでしょ? アンタがどうしてもって言うから、仕方なくなんだからね? 仕方なくよ、仕方なくっ」

「わう、それでも凄くうれしーの。ダメかなーって思ってたから、頷いてくれたのが本当に嬉しかったんだ。エリカ、本当に優しくて大好きだし」

「――ッ」

 だからそんな好き好き言うな、とエリカは内心で絶叫する。

「知らないわよ、バカわんこっ」

「えへへー♪」

 こんな風にエリカにバカと言われるのさえ、日向は好きだった。どこか親愛のようなものが感じられて、エリカのやさしさが感じられる気がしてエリカの言葉も声も、日向を逐一惚れさせてゆく。

「僕、一生懸命頑張るね、エリカっ♪」

「あ、当たり前でしょ? アンタから言ってきたんだから、ちゃんと一位になれるよう頑張らなきゃメッ、なんだからね?」

「うん、わかってるもん!」

 わうっ! と、嬉しそうに日向は頷く。

 だが、その後に表情を引き締めると。

「でも、それだけじゃなく、全競技頑張るんだ。ミニトライアスロンもやり切ってみせるし!」

「ああ……。ね、本当に大丈夫? きついって聞くわよ?」

「頑張るもん! でも、エリカはミニトライアスロン出たりしないんだ? エリカ、スポーツ凄いからやるのかなってちょっと思ってた」

「……私は、まあいいのよ。そ、それに参加種目多くなっちゃったみたいだしね!」

 わう? と、小首を傾げる。

 ミニトライアスロンは確かにきついらしい。出なくても普通だ。ただ、エリカならやろうと思えばやれそうな気がするが、出ないらしい。やはり種目が多い事もあってつらいのだろうか? しかしそれにしては何か違和感を覚える日向だが、やがて気のせいかな、と口を閉じる。

 なんにしても自分が掲げるハードルとして、あの少年が難敵だ。

「大地離さんには絶対、負けないもん」

「……ほんと、すごいやる気よね弦巻」

「うー、だって……エリカにも、エリカの家族にも酷い事言ったもん。そんなのヤだもん」

「……そっか、ありがとね弦巻」

 エリカ自身も憤りは感じている。けれど、昼間程に怒ってはいなかった。クラスメイトや日向が自分の事の様に怒ってくれた事が嬉しかったのか、エリカの心はほんのりと温かみを帯びている。

 特に日向は顕著だ。自分やユウマがバカにされた事が許せなかったのか、普段のわうーが怒った様なわうーへ変わっているのをエリカは理解している。その気持ちをエリカは素直に嬉しく思った。

「……うん。でも、それだけじゃなくて」

「ん? なにかしら?」

「……エリカ、取られちゃうのヤだ。そっちも、頑張らなきゃだもん」

 わう、と日向がしょんぼり声を発していた。

 またお昼の時に言っていた事だ、とエリカは心臓がトクンと高鳴った。

 ――やきもちじゃない?

 そうして、ふと、初音の言葉が脳裏を掠めた。やきもちを焼かれている。自分が他の人に取られちゃうのではないか、と日向が不安に思ったから、あんな事を言ったのだろうか? 真美の言う通りにそういうことなのだろうか?

(別に、私は弦巻のものとかじゃないし、そんな関係でもないわけだけど……)

 日向の様に自分を凄く恋しがる男子は、今までいなかった。

 男子に告白された事は数多あれど、その全ても断っているし、日向が自分に対して恋慕を抱いているのだとしても、自分は断るだろう事をエリカは自覚している。日向が嫌いとか苦手とかそういう事ではなく、断ってしまうだろうと。

(でも――、)

 微かな想いが胸を温めた。

 同時に、もうなんなんだろ、と複雑な心境が脳内を搔き乱してしまう。

「エリカ。こっちは終わったけど……」

 日向が抱き着いてくる光景が、眼に焼き付いてしまったのか、最近ではすぐ思い浮かぶまでになっている。あの無邪気に嬉しそうな顔がよく思い浮かぶのだ。

(……もし、私が――)

 日向の事を、とエリカは考えると、胸がぐっと苦しく感じる。

「――エリカ?」

 ハッと戻った意識と同時に顔の横すぐ近くにぴょこっと日向がのぞき込んでいた。

「え、あ、な、なに弦巻――?」

 先程まで悶々と考え込んでいた対象がすぐ近くに、エリカからしてみれば唐突に近くにいる事が驚きとなって駆け抜けた。思わずガタ、と置台にぶつかってしまう。

 すると、先ほどまでエリカが上に押し上げていた段ボールの箱がぐらりと下へと揺れた。

「わ、わう⁉」

「へ?」

 びっくりした日向の声。ふっと顔を翳す陰影。エリカは頭上から落下する段ボール箱を視界で識別し「あ、やば――」微かな焦燥の声を零した後に。

 ドゴ、という鈍い大きな音が部屋に響いたのだった。



 一瞬、時が吹き飛んだかの様な感覚。

 何が起きたのかわからない漠然とした間を感じるエリカは、全身にぐわんと揺らす様な衝撃を覚えていた。

「つぅ……」

 しかし、それほど痛みは感じない。むしろ異様に柔らかい床が気になった。温もりがあり、優しい感触と好きなタイプの匂いがしている優しい香り。それは普段、よく感じ覚えのある香りと温もりである事に気付く。

(……この感じと、匂いって……)

「あ、危なかったあー……!」

 唐突にすぐ近くから、安堵した様な声が響いた。

「わうみゃ……エリカ、大丈夫? どこも怪我したりしてない?」

「え、ええ、大丈夫――って、あ……」

 エリカは今さらになって気づく。やけに近いところから響く自分を案じる日向の声。なぜそんなに近くに感じるのかと言えば、難しい事はない。文字通りに、すぐ近くに、エリカは日向の身体の上におぶさる形となっていたからだ。

 それを認識した瞬間にエリカは頬がふっと熱を帯びるのを感じながら飛び起きる。

「ひゃっ⁉ ご、ごめんアンタこそ平気!? 痛くない!? 重くなかった!?」

「うー、全然平気。それよりもエリカだもん。だいじょーぶ? 怪我なーい?」

「あ、う、うん。どこも痛いところはない、わよ」

「ほんと? なら良かったや、わーい♪」

 心底安堵の表情を浮かべて日向は嬉しそうに表情を綻ばせた。

 その顔に一瞬ドキリと何かが脈打つのを感じたエリカだが、すぐに頭をぶんぶん振ると「アンタね。私の事ばっか考えてないの。本当にどこか痛いところない?」と、額に手を当てる。

「わうー……♪」

 すると、当てた掌に心地よさそうにすりすりされた。

「……」エリカは真っ赤な顔でジト目を浮かべて「……私の手でそんな喜んでるんじゃないの」と怒った様に呟く。

「うー、だって気持ちよかったんだもん」

「はいはい、バカ言ってないの。それより重いでしょ? すぐどくからさ……」

「わうー、どいちゃうの……?」

「な、なに悲しそうな顔してんのよ、重いでしょ?」

「んーん、別に。っていうか凄く軽い。女のひとってこんな軽く感じるんだって、今凄くドキドキしてるとこ。エリカなんでこんな柔らかいんだろ……柔らかくていい匂いする」

「な、なにを考えてんのよ、もうスケベ!」

 こつん、と赤い顔でエリカは日向の頭を小突くと、日向の上から腰を持ち上げる。

 日向はぴょこっと起き上がると、軽く背中を摩る。

「……本当に平気だったわけ? 背中痛くしてない?」

「んー、へーき。ちょっとわにゃーってするくらいだし!」

「そっか。わにゃーってするくらいか。なら良かった……」

 わにゃー、は日向が驚いたり少し痛い想いをした時に出る言葉なのをエリカは知っていたためホッと胸を撫で下ろした。【大体育祭】の前に怪我が起きたら申し訳ないところだった。

「それにしてもエリカどーしたの? ぼーってしてた」

「え? あ、う、うん。まあちょっと考え事してたのよね……。ゴメンね」

「考え事?」

「ええ、アンタが大地離って言うもんだから、少しね」

「わう? もしかして、嫌なこと思い出させちゃった!? それとも、エリカ大地離さんのこと……」

「ないわよ。それは普通にないわよ。アンタね、アレだけ言われて私があんな奴の事を好いたりすると思うわけ? むしろ、ムカついてしょうがないわよ!」

「わ、わう、そっか……!」

 若干怒り気味に怒鳴られ日向は少し委縮してしまう。

(まったくアンタはもう。私があんなゲテモノ好む趣味でもあると思ったわけ?)

 男の好みなど、そもそも男が苦手故に前提が違うエリカだが、あれに惹かれると思われる事が我慢ならなかった。日向がそんな事を考えたというのも、何故だか無性に癪に触る。

「私は大地離の事、本当に嫌いなんだからね? アンタも、変な想像して悲観してないの。わかったわね?」

「う、うん」

 日向はこくりと一回頷くと「そっかぁ……、良かったー……」と安堵した様な小さな声が零れてくる。エリカは、その言葉の意味が、大体察する事が出来たものだから、少し困った様に頬を赤くして、

「そ、そういう事だから心配とかしなくていいから……」

「わう、わかったー♪」

「そ、それじゃ私はこの落ちた段ボール片づけるからさ!」

「なら、僕も手伝うね!」

「そ、そう。なら、お願いね弦巻」

「わうっ♪」

 嬉しそうに頷く日向の無邪気さに恥じらいを浮かべながら、エリカと日向は三度、片づけを再開した。落ちた段ボールからは備品らしきものが溢れているが、どれも片づけやすい部類のものだったからありがたい。液体系があったら困ったところだった。

「~~♪」

 そんな間にも日向の嬉しそうな歌が響いてくる。落下した段ボールの中身を整理しながら、エリカは何となしに先ほどから気にかかっていた事を聞いてみた。

「ねえ弦巻」

「? なーに?」

「大した事じゃないんだけど、アンタ今日はどうかしたの?」

「なにが?」

 きょとんとする日向に対して「いやさ」とエリカは前置いて、

「なんか仕事の最中も嬉しそうに歌、歌ってたじゃない? 普段以上に凄く機嫌よさそうにしてるもんだから、何かいい事あったのかしらって思って」

 そう尋ねると日向は突然に口を閉ざして、真っ赤な顔になってしまった。

 弦巻ってほんとよく赤くなるわよね、とエリカは不思議に思うのだが、次の瞬間に返された言葉により、逆にエリカが赤くなってしまう。

「……たから、嬉しくて」

「ん?」

「……だから、それはその……さっきも言ったけど、エリカが二人三脚一緒にしてくれるって言ってくれたから、凄く嬉しくて」

「え……、そ、その事で一日中そんなに喜んでたわけ?」

「……うんっ」

 真っ赤な顔の日向がエリカの顔を熱のこもった眼差しで伺ってきた。凄く恋しそうに自分を見抜く瞳にエリカは「ッ」と言葉に詰まってしまう。

「そ、そうなんだ」

「うん。大好きな女の子が一緒にしてくれるのが、今凄く嬉しいし」

「……そ、そう。良かったわね」

「わうー、ありがとーエリカ。だから昨日よりもずっとエリカ好き」

「――ッ」

 カーッ、と自分の身体が酷い熱量に晒された事を自覚する。

 なんなのよもうコイツは、と掠れた言葉が口から洩れる。エリカがどう反応すればいいのか悩ましいくらいに、日向はこういう時に素直に過ぎた。純粋に、無垢に過ぎた。恥じらいはすれど、隠さず本音を、本心まるごと曝け出し続けている事をエリカはおそらく他の誰よりも知る羽目になっている。

「え、エリカ? 顔赤いけど、大丈夫? へーき? 風邪?」

 そんなエリカの様子を不思議そうに心配げに日向が顔を寄せてきた。

 エリカは面を上げ、キッと日向を睨むと「わう?」と小首を傾げる日向の額をコンと小突く。

「わにゃっ⁉ な、なんでぶたれたの⁉」

「うっさいわね! 誰の所為よ、誰の!」

「な、何のこと……? わうー、エリカ怒ってる……?」

「怒ってないわよ! ただもうなんていうか、ああもう!」

 行き場のない感情にエリカは自分の身体を抱き締めて「にゃー!」と何故だか猫のような声を上げながら首をぶんぶん振る。思った事を口にすると事態が更にある意味悪化しそうな気がするので日向へ言葉を投げかけるよりも高ぶりを静める方が余程健全だと判断した。

 肝心の日向は、エリカの様子の意味はわからず頭にたくさんの疑問符を浮かべている始末である。

(本当にコイツはもう……)

 明確に好意を示す部分といい、無意識に恋慕を示す言動や、自分が絡むとすぐにう嬉しそうにする無邪気さ。それらを併合した無垢という性質がエリカの心を否応なく騒めかしている事をエリカは認めたくないが、認めるほかになかった。

 この無垢さは厄介極まりない。反則でしょ、とエリカは恥じらう。

 自分も素直な方だが、日向の素直さは隠す壁が無いのだ。全部開放しているものだから、相対するエリカは気が気ではない程に好意を示されてしまう程に。

「むー、エリカ怒ってる……顔、見てくれないし」

「お、怒ってないって言ってるでしょっ。顔見ちゃダメよ」

「でもエリカ反則でずるいもん。怒った顔のすごく可愛いの反則だし。わうー、どんどん好きになっちゃう……エリカ落としたいのに僕ばっかり落ちてる、どーしよ……」

 日向がむぅ、と小声で零す言葉がエリカに届く。

(だから内心で思った事を口にしなくていいんだってばあ⁉)

 顔を背けながらエリカはもう日向の顔を見れなくなっていた。

 日向の厄介なところは思った事を口に出しちゃってる部分でもあり、それがまたエリカを恥ずかしがらせる要因にもなっている。

「わうー、でもそんな素敵な女の子と二人三脚出られるのうれしーなー♪ えへへ、体育祭楽し――わにゃ!? え、エリカ何で今ほっぺつねったの⁉」

「やかましい! アンタは素直過ぎて心臓に悪いのよ!」

「わうー?」

 よくわかんない、とばかりに小首を傾げる日向にエリカは深々と嘆息を浮かべた。

(もうコイツと一緒だとほんと心臓に悪い……! 一緒にいたらいたでヤバいけど、いなかったらいなかったでヤバい気がするし……!)

 一緒にいないといないで自分への好意を包み隠さず他人へ暴露している気がするエリカである。しかし彼女のそんな不安を他所に日向はぴょこぴょこと嬉しそうにはしゃいでいた。

「えへへ、楽しみ。【大体育祭】すごーく楽しみだし」

「もう……」

 その理由の一旦、というよりほぼ全てが自分によりけりな事を感じ取ってしまい、エリカはなんとも言えず恥じらいを浮かべてしまう形となる。

 ここまで喜ばれるとやはりどうしても気恥ずかしい。

「エリカ、ありがとー♪」

「だ、だからそんな何度もお礼言われる事じゃないわよっ」

「んーん。感謝一杯だし」

 ふにゃっと日向は喜色に富んだ色合いで頬を緩ませる。そうして、次にどこか安らいだ様な表情を浮かべた日向は独り言のように小さく呟きを発した。

「僕、初めて体育祭が楽しみだなって思うし……」

「へ?」

 ぽつりと呟かれた日向の言葉に思わずエリカは目を丸くする。

 体育祭が初めて楽しみ、というのが不思議に感じられたからだ。なにせ日向は運動が苦手な方ではない。むしろ得意だろうし、体育の時間を見てても好きな部類だろう。そのうえ、どこか哀愁の様なものを感じさせた今の表情はエリカにとって気がかりとなるものだった。

「初めて楽しみって……?」

 エリカは思わず怪訝そうに呟きを零す。日向は極端に耳が良いのもあって、聞き逃すわけもなかった。エリカの零した発言に「……あ」と、独り言のつもりだったのだろう、訊かれた事実に微かな狼狽を示した。

「……弦巻?」

 そんな日向の様子にエリカは心配そうな声を浮かべる。

「え、えと、その……わうー、そのね」

「うん」

「実は僕……その、小学校でも、中学校でも学校行事、いい思い出なくて」

「そうなの?」

 普段、高校生活を凄く楽しんでいる日向の様子を見る限りだと、とてもそうは思えないエリカだったが、日向の小中時代を知るわけでもない。

「そーなの。僕、その……友達いなかったから」

「また随分と寂しい告白してくるわね……」

 正直、エリカとしては意外だった。

 日向は相当、見目が良い。女の子と見紛う容姿と人懐こい性格。常識は若干ふにゃっとしている部分があるが、それでも良識的で優しい少年だ。友達が出来ないタイプではないように思えるのだが……。

「中学で知人、くらいはいるんだ。。けど、あくまで知人で、友達って言える程に関係が深かったわけじゃなくて……高校に来るまで、僕の友達は、モード君っていう学外の男の子くらいだったから」

「学外? 他校の男子ってこと?」

「んー……他校、じゃないかな。学校通ってないと思う。初めて会った時は血まみれで他の人殴り倒してたし学校だとすぐ休学させられそうかな。僕と同い年か一つ上くらいかなとは思うんだけど……、あ、それで容姿はこう不良がそのまま大人びたみたいな感じ! 目つきがすごーく悪くて人殺しそうな感じでギラギラしてるの!」

「話だけ聞くといい印象抱けないわね⁉」

 というより不良なのではないだろうか……と、エリカは日向の周囲が心配になってきた。

「本当、近くで見ててあげないと心配になってしょうがない子ね……」

「わう?」

 こてっと小首を傾げる日向。

 とはいえ、日向が友達という人物なのだし、エリカは心配ではあれど悪印象は一切抱かない。日向は確かに無垢で素直に過ぎる為に、人に騙されやすい節があるが――、

(人の本質みたいなのを捉える事に長けてそうなのよね)

 騙されやすそうだが、ちゃんと相手を見極める目は持っている。エリカはそんな印象を日向に抱いていた。――まあ、でもすぐ騙されそうな印象はぬぐえないのだが。

「それで、そのモードって奴以外に誰かいないわけ?」

「カトルと……あと一人、いたけど」

 言葉を濁す日向。

 いた、と過去形になった辺りをエリカは察して「……そう」と呟くと、場が少しだけ静かになる。日向は少し焦った様子だったが、すぐに顔に喜色を浮かべて、

「でもねでもね。高校に入ってから、友達が何人も出来てすごくうれしーんだー♪」

 わうっ! と、弾ける笑顔で日向は喜びをあらわにした。

 先程の表情が嘘の様に笑顔で、言葉通り嬉しくてたまらないのだろう。小中と友人が少なかった少年にとって高校生になってからの日々は今まで以上に充実したものになっているではないだろうか。

「友達、か。昨日の冒険部とかもそうだしね」

「うん、秀樹君と恭介先輩と友達なんだ」

「みたいね。普段から陽皐とはよく一緒につるんでるし、アンタ。けど鍵森先輩とは初対面だったし、驚いたかしら。後は、アンタが急に号泣した事とかね」

「わう……!」

 その一言で日向がおもむろに恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 エリカも顔を少し赤くして、しまった、と話題を掘り返してしまった事を後悔する。

「だ、だって、好きな娘に、はずかしーとこ見られたんだもん……」

「ちょっ!? こ、、コホン。わ、私は気にしてないから、アンタも恥ずかしがらないの」

「ヤー、気にしてほしー」

「どっちよ!?」

「うー、好きな娘に気にされないのヤだ」

「アンタ天然もいい加減にしなさいよ!?」

 またも「わう?」と自覚がないのか首を傾げる日向の頬を軽くふにふにつくエリカ。この子は本当に、と内心抱きながら小突く代わりに頬をふにる。日向はよくわかってないながらもエリカにふにられるのが恥ずかしいのか「うー、なーにー?」と顔を赤面させていた。

 エリカは小さく息を吐くと、

「まあ、話を戻すけどね。どっちかって言うと問題は明日香に撫でられて泣いたって方よ? アンタねぇ、撫でられて泣くとか明日香の方が気を悪くしないかひやっとしたわよ?」

 流石に初対面で撫でられて泣くのでは擁護が難しい。

 未だに何が起きたのか本人たちにもわかっていないのが難点だった。

「わうー、アレはその、申し訳なかったです……」

「何で泣いたのか、わからないわけ?」

「んー、わかんない。とりあえず明日香さんには急に泣き出してごめんなさいって、嫌とかじゃなくて、何でか涙が出ちゃってって謝ったんだけど……」

 昼食会の後に一応のフォローは二人の間で決着している。

 日向が泣いた理由はわからないので、理由のつけようがないのだが、羽叶の方は『驚かせちゃって、ごめんね』と、何故だか凄く優しそうにも嬉しそうにもな穏やかな表情で返された。とりあえず羽叶の方は悪く感じていないようでエリカも胸を撫で下ろしたものである。

 だが、結局理由は何だったのか。エリカはぽつりとつぶやいた。

「弦巻、撫でられた時に何か感じなかった? 悲しいとか、そういうのとか……」

「……強いて言うならだけど」

「うん」

「……多分、凄く悲しくて、それ以上に凄く嬉しかったんだと思う」

「……へ?」

 エリカはきょとんとした後に、

「嬉しかった……ってことは、アレ嬉し涙だったの?」

「……う、うん。多分……!」

「そ、そうなんだ……」

 確かに怖がって泣いたというより、わんわん泣いた印象だった。あの唐突なぽろぽろ泣き出したのも、嬉し涙と仮定すれば存外納得がいく光景だ。それが無意識の嬉し涙であったとするならば尚更に。

 けどそうなるとやっぱり理由よね、とエリカは内心困惑した。

 そうなるという事はつまり、要因があるはずだ。嬉しいと感じる何かが。日向はいったい何に対してそんな感情を爆発させたのか。

 しかし。

(……って、言ってもわからないわね)

 そう、エリカは結論づけた。本人たちもわかっていない事態をエリカがわかるはずもない。出来る事と言えば、二人が仲良く出来る様に支えてやることくらいだ。幸い、割と波長の合う者同士のようで、

『わうー』

『ぽけー』

 と、この前の昼食会で途中舞い降りてきた小鳥を見る場面でエリカも思わず和んだ事をふと思い出していた。

 まあ仲良く出来るわよね、とエリカは朗らかに内心微笑む。

「ま、挽回ってやつよ。明日香にも今の一応、話しておいた方がすっきりしてくれると思うわよ? 理由がまあ不明だから、アレだけど嬉しかったんなら、ね」

「うん、わかった! ……えと、エリカ、それで部活だけど……」

「ああ、冒険部? いいわよ、入っても」

「ほんと!?」

「ほんと。姫海先輩とも、明日香とも仲良くなれたからね。それにもう途中合流した二名のうちの一人が不安でね……」

 わう? と、日向は不思議に思った。

 確か途中合流は一人だったはずだが……。エリカはそれに気づいたのか「ああ、その一人が更に呼んだのよもう一人。綺麗な人だったのよとっても。大学生くらいかしら」と付け加えた。

「けどまあ入部してもいいわよ。部活に興味ないわけじゃないしね」

「わうー♪ やったー♪」

「ただ私、他の部活の助っ人とか、家の夕飯の準備とかで出られない時もあると思うけれど、それでもいいんならって形になるんだけど……」

「うん、それでも嬉しいし! すっごい嬉しいし! わーい、エリカと一緒の部活ー♪」

「もう。喜び過ぎよ」

 隣でぱたぱた尻尾を振る様に喜びを露にする日向に対してエリカは「おおげさね」と優しい顔で苦笑を零した。自分が入部してもいい、といっただけでこれほど喜ばれるとエリカだって普通に気恥ずかしいが、普通に嬉しく感じる気持ちもある。

(ま、明日香とか姫海先輩も一緒だしね)

 他クラスと、年上の先輩との関係も少なからず楽しみに感じるのも事実。

 問題は冒険部とやらが、今後どういった活動をしていくのかだが……そこも楽しみにしておくこととしよう、とエリカは結論づける。

「ま。そんなに喜ばれるなら悪い気はしないわね。アンタも、友達出来てきて良かったじゃない。私だって、アンタのこと、大事な友達だし大切な奴って思ってるしね」

「ほんと? わーい、やったー♪ でも、僕エリカと友達のままじゃヤだから複雑だし……」

 真っ赤な顔で訊かなかった振りを通すエリカ。今のも内心から零れ落ちたものだろう。

(コイツ、ポロポロポロポロ落とし過ぎでしょ! 自転車の鍵じゃないんだから、そんな大切なもの胸にしまっておきなさいよ!)

 と、想い狼狽するエリカは知らない。

 肝心の日向は、とにかく余すことなくエリカに思いの丈をぶつけると決めているのだと。たとえどれだけ、それがエゴだと言われても、伝えず終わる事だけは絶対に嫌だと感じる故だと知るのは会話を交わした、彼女の兄であるユウマくらいだろう。

「ま、まあ、私の方はそんな感じってこと!」

「うん、わかった。ありがとー、エリカ。本当に嬉しい!」

 心底、嬉しそうな顔をする日向の顔を見るのが気恥ずかしく感じてしまい、エリカは思わず、少しだけ視線を逸らしてしまう。

「そ、そう。なら私も良かった、かな。え、ええ、うん。……とりあえず、部活の日はユウマに一言言っておけばいいかな」

「エリカ、家で料理作ってるって言ってたもんね」

 それがあるから早く帰宅するときもあるだろうと日向もわかっている。

「うん。うちの両親、料理出来ないからねー……いいとこの育ちってのがあって従者さんに任せっきりだったらしくてさ。……でもそっか、【大体育祭】に部活か。私もなんだか忙しくなってきたわね……!」

「わう……」

「ん? こら、そんな申し訳なさそうな顔しなくていいのよ。部活入るって決めたの私なんだから、大丈夫だってば」

「わう、そっかぁ……」

「ええ。だから平気よ。頑張るのは好きだし。【大体育祭】なら、お父さんたちも見に来るだろうし……ほんと頑張らなきゃね」

 よし、とエリカは拳を握りしめ、やる気を充実させる。

 大地離にもしっかりしっぺ返しの一つは見せたいが、家族に元気な姿を見せる事も大切な事なのだ。日向は「エリカのおとーさんたち来るんだー♪」とほにゃほにゃしていた。

 そんな嬉しそうな日向の顔を一瞥して一言。

「逢ったらダメだからね?」

「わう!?」

「っていうか絶対に逢わせないから」

「わうー!?」

「逢おうとしたら、頭なでなで一週間してあげないわよ」

「わ、う……!?」

 ガーン、と日向がショックを受けていた。そして「どーしてー?」と物凄く悲しそうな表情で袖を引っ張って抗議してくる。罪悪感が湧いたが、エリカにとって譲れぬ領域だった。

(だって逢せたら絶対自分が恥ずかしい想いするのが目に見えてるし!)

 おそらく、想像がつかない程に恥ずかしい事になるに違いない。

 それだけは避けねばならないとエリカは固く心に誓った。

「わう……ご挨拶したかったのに……」

「……ちなみに聞くけどなんて?」

「日向って言います、エリカさんの事が大好きですってわにゃっ――うー、エリカ、どーして、デコピンするし……?」

「したくもなるわ!」

 そんなご挨拶をされてたまるもんですか、とエリカは真っ赤になって怒鳴った。

 日向はしょんぼりする。どうやら挨拶の方法が間違っているらしい。教養に欠ける自分はやはり挨拶の仕方がダメなのかもしれない。従者の鍛錬でもう少し学ぼうと内心決意する日向君である。

「はぁ……、アンタは私の両親より、自分の両親のこと気にしてなさいよ。アンタの御両親は見に来たりとかしないの?」

「わう、しないよ? ……だって一度も来た事ないもん」

「え……」

 どこか寂しそうに口にした日向を見てエリカは、もしかして、と申し訳ない気持ちに駆られた。連続で変な事を尋ねてしまっているかもしれない。

「……ゴメン、もしかして訊いたら拙い事だった?」

「わう? ……あ」

 日向もエリカの気まずげな顔を見て、しまったという表情を浮かべる。しかし、言った手前誤魔化せないと悟ったのか「えとね」と肩を竦める。

「そんな気にしなくていいし。ただ、その……僕は多分父さんにも兄さんにも……好かれてないの理解ってるから」

「アンタが……?」

 諦めた様な日向の言葉。エリカは、それに驚きを覚えた。

 日向は、そんな好かれない人柄ではない。むしろ、人懐こく優しい性格をしているのもあって学院の女性の上級生からはマスコット的に可愛がられたりする事もあり、その時は嬉しそうにデレデレして本当に仕方がない――、

「……」

「わう? え、エリカどうしたのムスッとして……?」

「別に、なんでもないわよ」

 そう? と小首を傾げる日向に対してエリカは、今のなんだったのかしら、と少しもやっとした感覚を不思議に思いながらも、日向に問いかけた。

「それで、好かれてないって……。……いや、いいわ。なんでもない」

 そう言いかけて、エリカは口を閉ざす。

 訊いても平気な事なのだろうか? 神経質な話題かもしれない。日向の心を傷つけてしまうような話題なのかもしれない、と案じてエリカは父兄に関する問いかけを止めた。

(でもコイツ、普段は能天気に明るいけど……結構辛いのかしら。そう言えば昨日の昼食会でも姫海先輩がああ言ってたし……)

 ――その頃のひな君は、ちょっと環境が……過酷だったんじゃないかい?

 機能の事を思い出す。あの時、姫海は確かにそう言っていた。友達が少なかった。父兄には好かれていない。日向が寂し気に言った通りに、日向は辛い日々を送ってきたのだろうか?

(そう言えば弦巻ってあんまり自分の家族の事とか語らないのよね……)

 そう考えるともしかして、とエリカは柳眉を潜めて小さく問いかけた。

「ね、弦巻」

「わう?」

「あのさ。急に変な事訊くかもしれないんだけど……」

「うん」

「アンタ、お母さんとかは……」

 学校行事に来てくれなかったの? と、エリカは静かに問いかけた。すると日向は寂しそうに苦笑を浮かべて、

「お母さんは僕が小さい頃亡くなったって訊いてるの」

 やっぱりか、とエリカは悲しく思った。先ほどの話題で母親の事が語られなかった時点で怪しかったのだ。日向ならきっと母親が優しかったなら、喜々としてそれを語るだろう。だが、その気配も感じない。とすれば――母親にも蔑ろにされたか、そもそもいないかだ。

「そっか……ごめんね、変な事訊いちゃって」

「んーん。覚えてないから、全然平気だし」

 困った様に日向は笑った。

 記憶に母親がいないという事から、母親が死んでいるという事に関して寂しさも抱きようがないのだろう。――だけど、とエリカは思う。

 自分は母親が死んでしまった事に対して深く悲しんだ。絶望を味わった。どうして自殺なんか、という想いが今もある。そしてその後に続く、母親がいなくなったという悲しみの経験も忘れようがない。

 ならば。日向の様に母親がいないというのは、幼少から母親がいなかった現実はきっと間違いなく少年に寂しさを植え付けてしまった事だろう。

「……そう。でも、きっと寂しかったでしょうねアンタも」

「寂しかった……」

 反芻する様に日向が呟いた。そうして僅かに表情を疲弊させ、

「寂しかった……の、かな?」

「母親がいなくて寂しくならない子なんていないと思うわよ?」

 自分だって母親が死んで悲しかった辛かったのだ。

 母親がいない。それだけで十分、子供は悲しみを覚えるものだとエリカは知っている。

「弦巻は、お母さんの事は何も覚えてないの?」

「うん。ちっちゃかった頃に死んじゃったらしいから。あ、でも……」

「でも?」

「うー、ぼんやりとだけど覚えてる様な気が……」

 日向は眼を瞑って「わうー」と仄かに嬉しそうな声を漏らし、

「……綺麗な紫髪の人」

「紫髪?」

 へー、と珍しそうにエリカは零した。

「お母さん紫髪だったんだ? アンタは青髪みたいだけど」

「わうー、多分だけど……。この記憶そーなのかなー?」

「どんな記憶?」

「えとね。多分相当ちっちゃい頃だと思うんだけど、僕が手を伸ばした先で僕の事見下ろしながら女の人が……何となくだけどすごーく優しい顔してくれてるの。顔は覚えてないけど、なんとなくそんな顔してくれてる気がする。その人の髪の色がキラキラした紫髪で所々白光してるみたいに綺麗で。これ、おかーさんなのかな?」

「そうなんだ? ……うん、そうだといいわね」

「わうー♪」

 頷く日向へ、エリカは本当に優しい表情を浮かべてそう答えた。

 日向がこんなに嬉しそうな顔をしているのだから、その記憶が母親であってあげてほしい、と少女のやさしさはそのままに、その理想が真実であることを望んだ。

「エリカー、エリカー」

「なーに?」

「エリカの……死んじゃったお母さんはどんな人だったのか訊いてもいーい?」

 自分の母親はどんな人だったか。

 日向は母親を知らないからか、そういう事が気になるのだろう。エリカは優しい表情を浮かべて「いいわよ」と静かに頷いた。

「そうね……優しくて綺麗で明るい、楽しいお母さんだったわね。大好きだった、ううん今も好き。容姿は私やお姉ちゃんとそっくりだったと思うわよ」

「エリカ、すごく美人だからお母さんも凄く綺麗そーです」

「お、お母さんは美人だけど、私はそんな美人って程じゃないわよっ」

「そっくりって言ったもん」

「そっくりって言ったけど、よ!」

 確かに理屈だとそうなのだが、容姿の自己認識が低いエリカは美人と言われるのに慣れず真っ赤になって否定を示した。

 日向が「今まで見てきた女の人で一番綺麗だもん……」と拗ねる様に言うのを「ありえないわよバカっ」と、つっけんどんに返す。

「むー、エリカ顔立ち綺麗で、スタイル良くて、どう見ても美人さんだもん」

「お、お母さん譲りよ全部!」

「なら美人さんだもん」

「そ、そうなるけど、そうじゃなくて! ああもう、私は美人なんて言われるほどじゃないんだってば!」

 カーッ、と頬が熱くなるのを感じた。

 理屈だとその通りなのだが、エリカは自分が美人とは思っていないため、平行線が続く。頑なに否定し、首を振るエリカに対して日向は揺れる茶髪を熱のこもった眼差しで見ていた。

「エリカの髪も凄く大好き。キラキラしてて温かい色してて、凄く好きな色してるー♪」

「……そ、そりゃどうも」

 否定のエリカだったが、母親譲りで大切にもしている髪の毛を褒められるのは素直に嬉しく、恥じらいながらも首肯した。

 しかし面と向かって、そんな事を言いだすものだから、恥じらう様に自分の髪の毛を指で軽く弄ってしまう。相変わらず唐突に自分への好意が飛び出すものだから、エリカとしては気が気ではないものだ。

「何時か触ってみたい、エリカの髪!」

「そ、それはダメ。髪の毛なんか触ったってしょうがないわよ?」

「うー、サラサラしててキラキラしてて気持ちよさそうなんだもん」

「ダーメ。アンタに触らせたら絶対すりすりしてくるでしょ? 恥ずかしいもの」

「わうー、残念……」

 しょぼりーんと、気落ちする日向にエリカは「う」と若干罪悪感を覚えるも、かといって許すと調子乗ってすりすりしてくる未来も見えるので、ここはと心を鬼にする。

「ま、まあ私の事はいいの。それよりアンタの事よ、今は。……大変だったわね。友達とか、家族とか。本当、寂しかったでしょうし」

「わう、まあ、そこそこだからへーき。男の子だしさ」

 強がってる。そこがエリカには、すぐわかった。この苦笑じみた表情は、日向が零す笑顔と性質が違う。悲しみを押し殺す様な笑顔だったから。

「それに今は家族はまだだけど……友達はたくさんいるし!」

「陽皐とか、仲いいものね」

「……それにその、何より、エリカと出会っちゃったから……」

「え?」

 エリカはきょとんとした様子で「なんで私なのよ?」と不思議そうな顔を浮かべる。

 家族には距離を置かれ、友達も少なかった。その寂しさを自分が埋めている。そんな大きな穴を自分が埋められた――気づかずそんな事になっていたのだろうか、とエリカは驚いていた。

「えとね、これ言うと変に思われちゃうかもなんだけど……」

「う、うん」

「エリカは、その……少しだけ、おかーさんみたいで、おねーちゃんみたいに思うところもあるから……」

「お姉ちゃんってだけでも驚きなのはともかく、お母さんって複雑なんだけど……」

 恥ずかしそうに、そう告白する日向に対してエリカはちょっぴり困った様に頬を赤らめた。

 同時に体育の時間に言われた『男の子って自分のお母さんみたいな人に惹かれるっていうよね』という言葉を思い出し、日向が自分に好意的な理由の一欠けらを感じるようでもある。

 おねーちゃんみたい、というのはエリカは基本妹なのだが、生憎としっくりくる部分があった。なにせ普段の日向の甘え方が姉に甘える様な甘え方なのだから。

 弟にしても、随分とお姉ちゃん子な甘えん坊で困ってしまうわけだが。

「私は、アンタのお母さんにはなれないんだからね?」

「むー、僕だってエリカお母さんになってほしいわけじゃないもん。普通に綺麗で素敵な女の子だって思うし。それになにより、エリカには、その……」

「? なに?」

 赤い顔で恥ずかし気に言葉に詰まった様子の日向をエリカは不思議そうに見つめる。

 口をもごもごさせて、今にも湯気を出しそうな程に真っ赤だ。

「わう、どーしよ……。急にエリカは恋人になってほしいなんて言ったら驚かせちゃうし、脈無いし……。でも、言わないとエリカ勘違いしちゃうのもヤだし……うー、どう言おう……」

「……」

 だから思った事を口に出すんじゃないわよ、と強く念じるエリカである。

(コイツ、自転車持たせちゃダメな子かもしれないわね。きっと鍵毎日無くすわ)

 と、どうでもいい事を考えて意識を懸命に逸らすエリカである。

 頬の熱さは何度目だかわかりゃしないが、必死に夕方だからと自分に言い聞かせていた。

「エリカ、えと、あのね……!」

「とりあえず!」

「わう⁉」

 言葉を遮る様な大きな声に日向がびくっと驚きを示す。

「と、とりあえずアンタの言いたいことは何となくわかってるから安心しなさいね?」

「ほんとー?」

「ほんとー、よ」

 だから大丈夫、と言い聞かせる様に告ぐと日向は安心したのか「わう……」と安堵の息を零していた。あのまま口を開かせたら自分が恥ずかしくなるような事を連発したに違いない。最近顔が赤くなって大変であるエリカの防衛策であった。

 けどそっか、とエリカは優しい声で呟いて、

「なんにしても、つまりアレね。アンタにとって今年は初めて楽しみに思える体育祭なわけなんだ?」

「うん、そーなの。友達がいて、エリカがいて、すごく幸せなんだ。だから、そういう人たちと一緒に体育祭やれるの、すごくドキドキするし」

「……そう」

「父さんとか兄さんはきっと来ないけど……でも、それだけで僕は十分。皆がいるだけですごく贅沢なんだもん」

 えへへ、と頬を赤らめはにかむ日向。

 そんな孤独だった少年の頬を右手で優しくエリカは包み込んだ。

「なら、協力してあげるわね」

「わう?」

 小首を傾げる日向に対して微笑を浮かべ、エリカは花開く様な笑みでこう答えた。

「アンタが体育祭楽しめる様に私が傍で一緒に頑張ってあげるから。アンタにとって最高の思い出になるように、私も一緒にいてあげる。だから大丈夫よ。すごく幸せな記憶一緒に作ってあげるから――安心しなさい」

 家族を知らず、ずっと孤独だった少年に対して、それがエリカが出来る精一杯。

 彼女が少年へ与えられる出来る限りの温もりを。エリカは日向に知ってほしい。そんな慈愛の心から、エリカは日向へそう言祝ぐ。

 そんな言葉を、想い人から告げられた少年の心は当然のように熱を帯びた。

「……弦巻?」

 急に顔を真っ赤にしてふるふる震えはじめた日向の様子に気付いてエリカはいぶかしむ様に柳眉をひそめ――、

「エリカ、エリカぁーっ!」

「ひゃんっ⁉」

 エリカはばふっと唐突に飛びついてきた日向に少女の声で驚きを上げた。

 胸元に顔を埋めて「うー、わうー……!」と堪えきれない、たまらないような鳴き声を零し続ける日向の様子に驚きつつも、胸元にむにむにと顔を沈める日向に怒った様に恥ずかしさから声を張り上げた。

「こ、こら! 急に飛びついてこないの! んっ、おっぱいにすりすりしちゃダメって毎日言ってるでしょ?」

「ヤー、無理なの。我慢出来ないの」

 何時になくギューっと必死にしがみ付いてくる日向にエリカは顔が熱くなるのを感じた。

 相変わらず何度やられても当然ながら、胸元に男の子が甘えてくるのなんて慣れるものではなく、毎日されている日向の甘え方にエリカは気恥ずかしさで死にそうになる。

「ごめんなさい、エリカ。こうするの迷惑だろうなっていうのは自覚してるんだけど……」

 しょぼん、と日向は申し訳なさそうに「わう~」と小さく唸った。その姿がまるで子犬が耳を垂れさせている様な姿にエリカは見えてしまった。

「……迷惑ってまでは言わないけど、急に抱き着かれたらびっくりするし……な、なにより恥ずかしいんだからね? しかも、胸に甘えてくるし……!」

「うん、ごめんなさい」

 でもね、と日向は胸元から上目遣いにエリカを見上げると、恥ずかし気に口を開く。

「エリカだと凄く我慢出来なくなるの。甘えたくなっちゃうんだし」

「あ、甘えたくってアンタね……」

 なる、というかしまくっているではないか、とエリカは呆れる様に恥じらった。

 何時からか日向は明確に自分に対して甘えん坊になってしまっているのだから。

「これでも頑張ってるもん。本気はまだ出してないもん」

「本気ってなによ⁉ すでにアンタデレデレじゃない私に⁉」

「で、デレデレじゃないし。まだもっとデレが残ってるし! もっとたくさんエリカにデレたいって思うの我慢してるし!」

「ば、バカな事言わないの!」

 エリカは真っ赤な顔で日向を制止する。現時点かなりの甘えん坊状態なのに、まだ先が残してあるというのか。それだけは今の関係でさせてはならない、と心に誓うエリカである。

(けどそれって仮に私と弦巻がそうなったら、私の心臓ガチで持たない……?!)

 そんな風に狼狽するエリカに対して日向がぽつりと自嘲する様な言葉を発した。

「だけど、このままじゃエリカに迷惑ばっかりかけちゃうだけなのもわかってるんだ」

「ん、そ、それはまあそうね……。このままだと私、心臓爆発しそうだし……」

「だから僕は頑張りたい。僕が一方的に甘えるだけじゃダメだなって、思うから……エリカが甘えられるような存在にもなれるよう頑張るの」

「……ッ」

 その発言は普段の言動とは別の意味でエリカの心を火照らせた。

 普段の素直さと別の真摯な言動。エリカが甘えられる相手になりたい、という日向の願望である。それを面と向かって言い放つ辺りが実に日向らしかった。

「……そ、そう」

 とにかく自分の事を、エリカの事ばかり考えている、日向の好意的な発言にエリカはたじろいでしまう。圧して押してとにかく引かない日向の姿勢はなんというか、容赦が無いほどに自分の心へやってくるかのようだった。

「ま、まあ……精々頑張りなさいよ」

「うん、たくさん頑張るー♪ エリカ応援してくれる?」

「わ、私が出来るわけないでしょ!?」

「わうー、なんでー?」

 悲しそうな顔をする日向にエリカはコンと日向のおでこを呆れた様な小突いて返す。

「な、なんでもよバカ」

「うー、エリカに応援してもらえたらうれしーのに……」

 うー、と寂しそうに唸る日向をちらりと一瞥し、その表情を見るとエリカは、困った様に顔を赤くした後に、小さく嘆息を浮かべると、

「お、応援は別だけど……期待は、してあげる」

「……! うんっ♪」

 エリカのその言葉が嬉しくてたまらなかったのか、日向は満面の笑顔を浮かべながら、エリカの胸元に好意の証とばかり、すりすりと顔を谷間に埋めて喜びを示す。

 さっきまで言ってた決意はどこいったのよ、とエリカは嘆息と共に、しょうがなく胸元に甘えて離れない日向の頭をそっと撫で始めた。

「……たく、言ってる割には相変わらず甘えん坊なんだから……」

「だって、エリカどんどん好きになってくんだもん。今の反則だし……!」

「し、知らないわよ! アンタ私への好感度おかしい上がり方ばっかするんだからっ」

 自分の胸元にすりすりと甘えて止まない年下のような、子犬のごとき少年の頭を仕方なく撫でてやりながら、エリカは肩を竦めて嘆息する。

 本来なら突き放すべき事なのだが、どうにも日向相手だと調子を狂わされてしまう事を一応自覚していた。その認識が自分にとって日向がなんなのかを悩ませる。

(目を離すのダメなのよね……、ほんとに、さ)

 まさか高校生活の初っ端から、自分がこんなに甘えさせてしまう男の子が現れるなどとは中学時代には想像すらしていなかった。

(私にとって、コイツはどんな存在になってくんだろ……)

 胸の奥、とくんと微かに鼓動を鳴らして、新橋エリカは悩み考える。

「……他の女の子にこんなことしたら絶対ダメなんだからね?」

 手で静かに、日向の頭を撫でながら、少年の明日に想いを馳せる。

 気付けば窓辺には黄昏色の光が日差し、茜空の輝きが穏やかに二人を照らしていた。


第四章 Gurévič - finale D.C.

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