第四章 Gurévič - passione
第四章 Gurévič - passione
1
それはそもそもにして平穏なお昼時の事だった。
ユウマと日向が語らっているテーブルから幾分離れた場所のテーブル。そこで麗しい容姿を持った三人の女子高生が談笑を繰り広げている。エリカ、真美、初音の三人組だった。Dクラス切っての美少女である三名は食堂でも目を惹く一角として、周囲の男子生徒がちらほらと気にかけている様子も見受けられる中で、唐突にそうした静かな時間が終わったのだ。
「丹波、貴様どういうつもりだッ!」
開幕として唐突に響いた怒号にエリカたちはびくっと背筋を震わせて、なんだ? と、意識を配る。食堂に轟いた声の主へ視線を向けざるを得ない。学食の席の端、壁際の場所だ。
そこに六人の男子生徒の姿が確認出来る。
「なんだ?」、「よくわかんないけど……」
真美と初音が不安げに表情を曇らせていた。エリカも正直同じ意見である。お昼時にこんな騒ぎを起こされては、周囲もなんとなく落ち着かない心地になってしまう。
「喧嘩、っぽい、わね」
たぶん、そういう事なのだろう、と推測する。
胸倉を掴み、青筋を立てて怒る褐色肌の男子生徒。服装からいって青善雪の生徒だろう。黒の学ランに豪華な金の装飾が施されたあの制服は間違いない。掴まれている赤毛の男子生徒と、残り四人も同じく青善雪の生徒だと判断出来た。
――これ少しまずいんじゃ……。
そこまで認識したエリカは、危機感を滲ませた。
確実に頭に血を登らせている事が見て取れる。双方相手を射殺さんとばかりの目で互いを睨みつけているさまは、まさしく一触即発の危機である。喧嘩が始まらない事を願うばかりだが、果たして穏便に済むかと思えば、とてもそうは思えなかった。
そんなぴりぴりした空気の中で、丹波という少年がハッと嘲笑う様に口を開いた。
「言ったまんまさ、お坊ちゃん。もうお前みてぇな七光り息子とつるむ気はねぇってこと」
「七光りだと……?」
「そうだろ。家の威光にすがって、学校じゃ尊大だけどよ。もう、そんなもんも俺には関係ないんだからな」
「ほう。その赤毛も僕への反抗の証ということか……?」
「まーな」
「なるほど、この僕に逆らうというわけか丹波……?」
ぎしっと胸倉を掴む腕が上空へ伸びてゆく。当然、高く持ち上げられた丹波という学生は苦し気な表情を滲ませていた。同時にエリカは若干の驚きを覚える。人の身体を片腕であそこまで持ち上げるという事は並大抵の膂力ではないからだ。
しかし、持ち上げられた生徒は「ハ」と尚更に嘲笑を滲ませた。
「さっき言った通りだよ、お坊ちゃん。金輪際テメェみてぇな小物のいう事は訊かねーって言ったんだよバーカ」
「なんだと⁉ 丹波風情が、もう一遍言ってみろ!」
ぐっと眼前に丹波の顔を近づけて怒号を発す。
見ていてハラハラする切迫した空気――それは次の瞬間に崩壊した。
「小物の戯言は聞き飽きたってんだ!」
「がっ」
ゴン、と鈍い音。
丹波という生徒が相手の頬を殴ったのだ。それが皮切りとなったのか、憤怒の表情を浮かべた少年は凄まじい速度で拳を振りぬき、丹波少年の右頬を殴打した。「ごっ」と何かがつぶれる様な悲鳴が漏れ、同時に近くの椅子が大きな音を立てて床に倒れる。
それが契機となって生徒の数名から悲鳴が零れ、椅子から思わず立ち上がるもの、硬直して動けなくなる生徒たちの姿が視界の端に捉えられた。
そんな周囲の空気も本人らにとっては意識を割くことではない。
「言うに事欠いてっ! この僕を! 侮蔑したなっ! 丹波あああっ!」
ゴッ、ガッ、ドゴッ、と怒り任せに少年の足が上下して丹波少年の身体を踏みつけた。
幾度も足蹴される丹波少年の瞳に反抗的な色が灯る。決壊した緊張の空間が更に加速せんとした、その時に、
「やりすぎよ。止めなさい、アンタ!」
真剣な声と表情で。新橋エリカは、その空間に割って入る。
後方で真美と初音が緊張感を滲ませ、それでも見守る中でエリカは、丹波と怒声の主との間に佇むと「一先ず落ち着きなさい」ぴしゃりと青年を叱責する。
ここをどこだと思っているのか。少なくとも乱闘騒ぎを起こしていい場所ではない。
眼前にいきなり赤の他人が入り込んだ事で熱した頭が少し冷やされたのか、青年は数歩後ろに下がった後、訝し気に「……誰だ君は?」と疑問を発した。
「私が誰かなんてどうでもいいわよ。それより、どういうつもりなわけ? こんな場所で、こんな大騒ぎ起こしてしょうもないでしょうが」
「む」
ぴくっと眉を吊り上げ、周囲を見渡す青年。そして注目の的となっているのを識別したのか忌々しそうに舌打ちする。
「それは失敬。だが、僕は悪くない。悪いのはそこの彼だ。この僕を侮辱に等しい態度で返すそこの屑が全て悪い」
「は、屑はどっちだよ。ああ、いや、お前はただの小物かあ」
「なんだと貴様!」
「だから、落ち着きなさい。後ろのアンタも火に油注ぐ真似してんじゃないわよ!」
「油じゃなくてガソリン撒いた方がそいつにゃいいぜ」
「いい加減にしろ丹波! 二酸化炭素を無駄に増やすな!」
「え、怒るとこそこなの?」
確かに怒っていい内容だけど、論点どこいったのだろう?
「お前なんか燃えちまった方が人のためって言ってんですけどねー?」
「なにぃ……⁉」
「あーあーもう! アンタらね! いい加減にしなさい! アンタもアンタで喧嘩腰してて平気と思ってんの? 怪我酷いんだから大人しくしなさいよ!」
そう言ってエリカは二人の間に凛と佇んだ。その姿を不可思議そうに尊大な物腰の少年はエリカを見た。
「庇うのは感心しないな。悪いのは彼だしね」
「別に庇おうなんて思ってないわよ」
エリカは肩を竦めてそう返す。
そう別に庇う気はないのだ。
「アンタの服、胸元に染みが出来てて、その染み後が中心から放射状にかかってるってだけでちょっと想像つくしね」
おそらくは液体が何かかかった痕跡だ。水か、何かだろう。
先程の乱闘の際に何かの拍子でかかった事はエリカは視認していない。もしそうだとしてもかかるならもっと下の方が精々だ。なのに胸元付近という事はおかしい。なにより中心からほぼ均等な放射状の水濡れというのは、自然にかかった痕跡ではない。自然にかかったのなら、水はもっと斜めに跳ねる。
想像するに、勢いよく水をぶっかけられた。この丹波という少年に。
見る限り、喧嘩腰であったのは間違いないし、なにより、
「それと、私にはどっちが悪いって事情が汲めないしね。アンタが悪いのか、コイツが悪いのかわからない以上、庇いだてする気はないわよ」
「ほう、ならどうしてそいつを守ったんだ?」
「あのね」
エリカは嘆息を零す。
守る守らない以前の話として、
「どっちが悪かったにしたって、こんな食堂のど真ん中で乱闘騒ぎが起こる様なら止めに入るのが当然だし、やり過ぎるようなら仲裁に入るのは当然でしょうが」
まさか乱闘を摘みに昼食を味わう性分のものがいるでもない。
むしろそんなものが起こされたら周囲は嫌な気分になるだけだ。
喧嘩が行き過ぎて骨折なんて事になる様子ならば、なる前に止めに入るのは当然のことではないか。
そしてそんなエリカの男勝りな度胸の在り方に青年はいやらしい笑みを浮かべた。
「へぇ、随分と度胸がある女じゃないか。気に入ったよ」
「別にアンタに気に入られてもね」
「つれないな。僕に気に入られたんだ、光栄に思いたまえ。この僕に気に入られる――それはどんな事象より幸せなのだとね。さあ、僕の女にしてあげようじゃないか?」
「はあ?」
また随分な上からな物言いにエリカはカチンとくる。
「どっからそんな話が出るのよ。ふざけないで」
「ふざけてなどいないさ。君の様な綺麗な女性は僕の傍で宝石のように輝く事こそ運命というものだ。僕の愛人にしてやっても構わないんだぜ?」
「お断りよ」
ナンパされた経験は数多あるエリカだが、これまた随分と上からな物言いのナンパに辟易するエリカ。仲裁として入ったはいいが、これは若干自分が鉄拳を振るいかねない心境にならないか不安になってくる。
肝心の少年は「なんだ、つれないな。僕が、この僕が、誘っているんだよレディ? 光栄に思うべきだ」と肩に手を回そうとするので頑なにエリカはその手を振り払った。
「……ふむ」
振り払われた手を一瞥し少年は「お痛が過ぎるな」と不遜な笑みを零す。
「アンタね。私の事より先に、コイツと和解するとか努力みせなさいよ」
「丹波のことかい? ああ、むかつくね。だからこうして君に僕の慰めをさせてあげようとしているんだろう? 何を言っているのだか」
「は、はあ?」
慰めとか、なんで初対面の男を慰めなくてはならないのか。いや、慰める事も事情次第だがこれはない。絶対ないと断じるエリカである。というより、慰める要素あるのだろうか?
後ろで丹波が「ほんと、下衆だよな」と嘲笑を浮かべている。後ろの男に同調する気はないが確かに対面するこの少年、中々にどうしようもなかった。
なおも「ほら、はやく。何時まで僕への慰安を怠るつもりだい? しなだれかかってきていいんだぜ子猫ちゃん」などとふざけた事を宣う少年の顔面へ拳を入れるか迷ったその時に、ふと少年の取り巻きの一人。執事服の少年が声を上げた。
「お待ちください、ご主人様。この女生徒は新橋エリカです」
「新橋……? ああ、訊いた事があるな。新橋兄妹、だったか。シラヅキで有名な美男美女の兄妹ね……なあるほど、確かに綺麗な顔をしているじゃないか。体つきは……まあ、慎ましさに欠けるが抜群か」
そう零しながらエリカの顔を、身体を品定めする様に不躾な視線が注がれる。エリカはそれに気づいて嫌そうな表情で「変な事考えてるならぶっ飛ばすわよ」と嫌悪を滲ませる。
だが、エリカの言葉を聞くと青年はとたんに哄笑を零した。
「ハハハッ、ぶっ飛ばすだってさ。聞いたかい、お前たち。ぶっ飛ばす、だとさ。この僕を女の子が、ぶっ飛ばすと、強気に、きたもんだ。ハハハハハハ!」
追従する様に四人の男子生徒が可笑しそうに笑い声を発する。
イラッとしないと言えばウソになるだろう。
「何がおかしいのよ」
「何もかも、だよ新橋さん。女子の君が男子の僕をぶっ飛ばそうだなんておかしくておかしくて仕方ないってなるに決まっているだろう? 女子が、この僕を、だ。ハハ、アハハハハ!」
「……随分と女子を舐めてないかしらね、アンタ」
「うん? まだ言うのかい? なら一発殴ってみる真似でもするといい。女子のパンチなんてたかが知れてるのに、君は随分とおかしなことを言うものだから笑ってしまうじゃないか――」
その言葉が終える前に、いい加減に我慢の限界だったエリカの拳が少年の顔面目がけて炸裂した。
「……えっ……」
「……」
その時――エリカは驚嘆するほかになかっただろう。
まさか、まさかまさか。
自分の拳がいともたやすく防がれるなどとは、想像だにしなかったのだ。顔の前に翳された掌。そこへすっぽりとエリカの拳は受け止められていたのである。ナンパ男を沈めるくらいはわけない火力の拳、それがこうも呆気なく。
エリカを知る真美や初音からも驚きの声が零れている。
そして肝心の少年は、その拳を掴みながら、忌々し気に渋面を浮かべていた。
「女のくせに随分と乱暴な拳を持つもんだね」
「うそ……!」
「躾がなってないな。だがいいか。僕が躾てやれば済む話だろうしね。感謝するといい。今日から、僕が君のご主人様になってやろうじゃないか?」
「なんですって……?」
「君の様なガサツな女も、僕が天塩をかければマシになるだろう。この僕がここまで寛大な事を言ってやってるんだぜ? 女なら女らしく、従順しろ――」
「ふざけ――ないでっ!」
放しなさい、とエリカは力任せに腕を掴む手を振り払った。
その際に右手の甲がひゅっと少年の頬を掠めた。ちり、と掠める程度の痛み。しかしそれだけでこの少年には十分だった。
「……男児の面貌に女が手を挙げるか……ッ」
「どっか、当たったんなら悪かったわよ。でもアンタの事は嫌」
「嫌? おいおい、この男の中の男と呼ぶべき僕を捕まえて嫌だって? 寝言は寝て言うものだよ新橋さん」
「アンタこそ寝言は寝て言いなさいよ。とにかく私はアンタの事は嫌い。自分勝手で身勝手なのが今のやり取りの中だけで伝わってくる。私はそんな男の好きとかはまだわからないけどアンタはお断りだわ」
兄の様に頼れる男でもない。自分に嘘をつかない無垢な少年でもない。
目の前の男は、エリカの苦手とする男としか思えなかった。
すると少年はこめかみをひきつらせ憎々し気に舌打ちする。
「この女――ならまずは手始めだ」
瞬間、エリカは自分の後頭部に手が触れられているのを感じ取った。そしてぐっと目の前の少年目がけて引き寄せられる感覚を理解する。
「強引にものにするとしよう」
「――ッ」
なにもかもが一瞬。気づけばすでに逃れようない場面になっていた。近づく男の顔に嫌悪と焦燥を抱き、エリカが意図を理解してしまい恐怖を覚えた刹那、
「――そこまでだよ」
ふっと体に自由が戻り、エリカは先ほどまでの悪寒が嘘のように温もりに包まれている事に驚きを覚えて、眼をしばたかせていた。
「え……?」
「くっ……」
赤い跡が浮かぶ手を忌々しげに振る青年の姿は視界に遠く距離が開いていた。
先程の――無理矢理、唇を奪おうとされた事態から何が起こったのか。エリカは顔を横へ向けて、声の主へと、訊き慣れた美声の元へ寄せていた。
「卿、悪ふざけが過ぎるのは感心しないな」
凛と響く静かな声音だった。
普段、自分に向けられた天真爛漫とした可憐な響き。自分に向けて好意の発言を零す声の持ち主と同じはず――だが、そこに込められた響きは普段とは打って変わって冷徹であり、sン県な声と感じられる。
――弦巻。
自分を抱く少年は日向だった。いつものほにゃーとした柔らかな表情が、今は鋭い眼差しに代わり、どことなく大人びた印象さえ抱く。渦巻き昇り上がる様な怒りを灯していた。
「誰だ、君は」
対して少年は憎らし気に歯を食いしばっていた。
「僕の邪魔をする。随分、許せない行いだな。せっかく、新橋さんを僕の女という素晴らしい立場にしてあげようとしたというのに。君は女性の幸せを邪魔するKYなのかい?」
「人の幸せは当人が決める事だよ。卿ではない。――なにより、エリカはボクにとって慕う女の子だ。その子が怯えていた――それだけで邪魔をするには十分な理由だよ」
「ちょ……⁉」
背後でエリカが真っ赤に染まる。またコイツは天然で……! と、発言がさらっと好意的では済まない事なのに気付いているのかいないのか。なんにせよ、先の発言でエリカは恥ずかしさを振る払う様にコンと咳払いを一つした。
そして、そんな言葉を聞いた相手の少年は、日向とエリカを交互に見定めた後にニヤァ、とほくそ笑む様な表情を零した。
「――ああ、なるほど。君が件の弦巻君か」
ぴくりと日向の眉が動く。
自分を知っている――というより、日向は誰かにそんな知られるような知名度を誇っていただろうか、と自問し訝し気に眉をひそめていた。
「聞いているよ。なんでも女子更衣室に飛び込んで、女子の半裸に抱き着いたそうじゃないか。随分と情熱的な事だね」
「……」
日向がエリカの方へ振り向いてぷるぷる涙目を浮かべて視線で訴えかけていた。『……エリカぁ』という困った表情にエリカは嘆息と同時に当時を思い出し頬を赤く染めてしまう。
(否定要素が無いもんね本当……!)
間違いとはいえ突っ込んだのは事実だし、抱き着かれたのもエリカ当人であるし、情熱的といえば、それも間違いではないやもしれない。それがあるから、日向も先ほどの気勢を沈めざるを得なかったのだろう。情けないと言えば情けないとしか言えないのは日向も自覚し、エリカも嘆息するほかにない。
そんな様子を鬼の首を取った様に少年はエリカへ視線を注ぐと、
「新橋さぁん。君も随分なお人よしのようだね? まさか自分に粗相をやらかすような相手を傍にいさせてやるだなんて」
「……私の勝手でしょ。アンタには関係ないことよ。それに、弦巻の事を悪く言わないでくれる?」
確かにやらかされたのは事実である。だが、それを反省して謝罪も受け取った。
今も――まあ、抱き着かれたりなんかしているが、それもあの時とは違っている。偶発的な事故だった時と違い、日向は自分へ好意を向けているのが伝わってくるのだから、その気持ちを無碍にはしたくなかった。
段々と――、日向の事が放っておけない気持ちになってきている事をエリカは少しだけ認める。認めるからこそ、他人に踏み入られたくない事だった。
「クハハ、新橋さんが優しくて良かったなあ、弦巻くぅん? 君みたいな狼藉者のことも許してやるというのだから、懐が深い事だ。その甘さに甘えて、彼女に懸想でもしているのかい? 少し優しくされただけで勘違いする。なんて典型的な勘違い男なのだろうね?」
そう言われた瞬間に日向の瞳が微かに潤んだ。
瞬間、エリカの心が沸騰する。
「――っ! アンタいい加減に……!」
「まあ、それも仕方がない。聞けば、そこの従僕はどうにも出生と教育環境も怪しげな奴の様子だからね。お人よしな迎洋園は雇用した様だが、僕から言わせればどこの捨て犬とも知れぬ男子を従者にするなど、危機管理が怠っているという話だよ。財産を狙う不届きものかもしれないのにねえ」
「な……!」
あまりの物言いにエリカは愕然と憤慨を露にした。
これといった理由もなしに日向の事を盗人呼ばわりし、嘲笑する姿勢は許せるものではない。だが、それよりも案じるのはいわれのない事を言われた日向だ。エリカはすぐに心配そうにh鉈へ視線を向けると、日向もどこか悲しそうな顔を浮かべていた。
そうしてふるふると必死に首を振る。
「僕は、そんな事してないです。迎洋園家の御恩に報いるためにも――」
「はは、口は綺麗だな。だが所詮は一般庶民。それも出自があやふやと来ればもう、金目当てでもあるんじゃないか? 言ってみろよ、内緒にしといてやるからさ。高価な壺やら、ふと目にした絵画やらこっそり売って贅沢したいとか思わなかったかい?」
「そんな事ないです」
「どうだか。それで言えば、新橋。君の方は大丈夫だったようで良かったじゃないか?」
「……言いたい事がわからないな」
シン、と冷えた声でユウマが問いを発すると、筵は「おいおい」と肩を竦める。
「君達一家は楽天家かい? 訊けば、新橋さんは義理の妹との事だったか。所詮、赤の他人だろう? そのうえ、資産家の家に転がり込んだとなると、知らないうちに金を使い込んだりとかしたかもしれないじゃないか? だが、良かった。新橋さんはどうやら、そういう悪癖は持っていなかったらしいね」
「……」
ユウマと日向からゆらっと負のオーラが溢れ出す。しかし、それに気づかないのか、なおも筵は言葉を続けた。
「ただ、いかんせん、君の妹はまだ未熟のようだぜ? ご両親は相当な阿呆なのか、僕は不安になって仕方がないな。君も君だ。妹に女らしさを身につけさせた方がいい」
「……うちの両親がアホってなる理由が検討もつかないな。エリカだって、十分に女の子らしい妹だと思っているんだけど?」
「はは、身内贔屓で、過大評価し過ぎだよ新橋! 彼女は淑女らしさに欠ける。もっと穏やかさとたおやかさを持たせないと生きていけないぜ?」
「お生憎だったね。うちの妹はどっちかっていうと逞しく生きていけるタイプなんでね」
「逞しく――ああ、やはり君も両親も教育を間違っているな嘆かわしい。ぜひ、君の妹の方は教育をやり直した方がいい。男に盾突く性分といい、淑女らしさに欠ける振る舞いだ。君の両親は随分と新橋さんの教育をおざなりにしてきたようすだね? どうだ、この僕に預ければ直々に再教育してやっても――」
「――少し黙れ、大地離」
「なに?」
ユウマは眼光を底冷えさせながら「それ以上口にすると流石に怒るよ」と、冷え切った声が零れ出る。
だが筵は「クハハ」と、哄笑で返した。
「まさか怒っているのかい? 君の両親の稚拙さも、淑女らしさに欠ける妹さんの現状も、どんな病気持ちの野良犬かすらわからないただの同級生を擁護するとでも? クハハ、お優しいことだな、随分と。君も所詮、ダメな両親に育てられた子供に過ぎないという事か。言ってやろう、新橋ユウマ。この僕に盾突くとどうなるか――」
パンっと。乾いた音が響いた。
茫然とする筵。驚き目を見張るユウマと日向。ひりひりとした頬は他者から見てうっすら赤く染まるのが目に見える。そして筵の瞳には手を振り上げたエリカの姿。一拍、遅れて彼は自分が叩かれたのだと理解した。
「――アンタ、いい加減にしておきなさいよ」
エリカは静かに怒気を放つ。
「私の事はともかく、家族の事をバカにした事は許せない。弦巻の事を勝手に悪く謗った事も許さないわよ」
大切な両親を、兄を、弦巻を。侮蔑の言葉に晒された事に対する憤慨を灯し、エリカは筵の頬を引っ叩く決意を示した。彼が如何な立ち位置の人間であろうと、自分の大切な人々を身勝手に悪く言われる事は断じて許せぬ蛮行だ。
そんなエリカを茫然と見つめながら、筵は叩かれた頬をそっと触れ、そこに確かな痛みが存在する事を理解すると、ぶるりと震えて微かな怒気を籠らせる。
「……殴ったね」
ぐっと歯をかみしめて、
「親父にだって何十回も殴られたこの頬を!」
後方でユウマが「……結構あるんだね、納得だけど」となんと言っていいのかわからなそうな声を上げていた。エリカと日向も同感である。結構、躾はちゃんとしてるらしい。
(……その割に、今のこれって事はコイツ相当筋金入りなのかしら)
だとしたら、エリカは怒りながらも、心底げんなりした。
殴られたという事は繰り返しても更生していないという事なのだろう。この高慢な態度は全く昔から変わっていないということか。
「許せぬ蛮行だぞ新橋さん。僕を殴るなんて言語道断だ。先ほどの頬を掠めた事より余程看過できない蛮行だ! 女は男の三歩後ろと決まっている! 男を立てるのが女の役割だろうが図に乗るな!」
「何時の話よ時代錯誤もいいとこじゃない! あいにく、そんな前時代的な教育とは無縁だけど、両親からはしっかり教育も愛情も受けて育ってきたわよ!」
「そうかい! ならやはり随分とズボラな両親に育てられてきたようだね! 男に手をあげる娘が育った時点で話にもならないな!」
「アンタ、本当に……!」
もう一発殴ってやろうか。沸々と怒りが煮えたぎったその時に、どこか危機感を募らせた様に執事服の少年が筵を庇う様に前に出た。その瞳が憎たらし気にエリカを見据えている。
「ご主人様、この女子は粗暴です! お下がりください」
その言葉に日向がぴくりと反応を示し「……粗暴?」と明らかに非難の色を宿した視線を発する。エリカは粗暴などとは、縁遠い少女だ。故にその暴言は見過ごせなかった。
「そちらから吹っかけておいて粗暴はないだろう。訂正してください、そちらの従者さん」
「ふん、男の顔を殴る女など淑女にあらず」
「キミの言う淑女とは男の言いなりになる女のことか?」
日向は鋭い眼光で執事を睨むが、執事も肝が据わっているのか「その通りだ」と首肯する。
「ご主人様に相応しいのは、彼の望みを何時でも叶える存在だ。必要な時に全力をつくし普段は後方で待機する。名家の長の妻たるものは奥ゆかしさと品が無くてはならんのさ。そして求められれば何時でもその身で彼の愛に応える――そう、この僕のように」
なんて滅茶苦茶な物言いだろうか。
女を道具のように扱うのが道理と言わんばかりの発言にユウマもエリカも日向も揃って難色を示した。難色を示し――小首を傾げた。
……僕のように?
(なんだろう……なにか引っかかるような……)
ユウマは漠然と、なんだかこう嫌な感じがした。
「ふふ、為又はわかっているな。そう、常に待機し必要な時にその身を差し出す。それこそが名家の長の妻に、愛人に必要なスキルなんだよ、わかってくれたかい新橋さん?」
「ご主人様……! もったいなきお言葉です……ハァハァ、ご主人様がそこまで言ってくださるだなんて為又感激です……! 僕も、何時いかなる時でも身を差し出せるよう清らかに保っておりますのでご安心ください! そう、そこの粗暴な女などよりわたくしめの方が余程相応しいかと存じ上げる所存にござりまするぅ!」
「うんうん、為又、君は本当に物分かりがいいな。……うん、半分ほどなにかこうかみ合わない気がする時があるんだがまあいいか。僕の事を褒めているのに違いはあるまい」
『……』
そしてエリカは確かにそれはないわね、と内心首肯する。
いや、新橋家は一応一般家庭なのも含め、エリカはそんな名家の長の妻となるような高等教育的なものは携わってこない――そもそも必要が無いので当然である。そんな教育はもっと上の名家がするものだろう。何代も続いてきたやんごとなきとかそういうの。炊事選択が熟せるエリカはむしろ花嫁修業がよく出来ているといった方が近しい。
それはともかくとして、三人が抱いた危機感は別にある。
ん? と、日向含めて周囲は何か違和感を覚えていた。こう怖気立つような違和感を……。そんな事を考えていると、今度は巨漢の学生がぐっと主を引き寄せ――否、抱き寄せていた。がっしりと。がっつりと。そして、そうっと優しく頬に手を添える。
「それより頬を見せてみよ、我が薔薇の花よ。痛みはないか⁉」
「泥亀、僕の心配をするのは流石だが、お前は過剰表現過ぎる。何も羽交い絞めにしなくてもいだだだだだだだだ硬い! 硬い! なんか硬い!」
「我が薔薇の花が痛がっているだと……! おのれ、新橋!」
「いや、それ私のせいじゃないんだけど」
エリカが反応に困りながらも苦言を零す。
何故だろうか。こういうのは見過ごせないエリカなのだが、こう見過ごしてもよかったと直感が何か嫌なものに対してアラームを鳴らしている気がしてならない。
「泥亀、筵ちゃんが痛がってる理由はアナタの力の込め過ぎよお?」
と、そこで口を挟んだのは、どこかしなっとした男子生徒だった。長身痩躯、それはいい。なのだが佇まいと、仕草――それがどことなく女性的に感じられる美青年だった。
「ふふ、ごめんなさいね新橋ちゃん。今のは流石に難癖だものねえ」
「え、ええとまあ……ちゃんと訂正してくれるんならいいんだけど、ね」
「あら、優しい。ありがとね」
性格も悪くない。話していて良心的である。
だがエリカも日向もユウマも気づく。
(((――この人、オカマだっ!)))
「ウチの筵ちゃんは唯我独尊なのは当然だし、泥亀は猪突猛進だし、まーあ迷惑かけちゃうのよねぇ」
ウフフ、と口元に手を当てて可笑しそうに微笑む美青年。
身振りも手振りもオカマのそれだった。だが思い込みかもしれない。それは失礼だ。なので、日向は恐々とだが、一応の確認に努め暗に質問を投げかけた。
「あ、あの……えーっと、貴方は……」
「うん? 私かしら? なーに、弦巻ちゃん」
「えと、その……言葉遣いとかがその……」
日向の意図を察したのか男子生徒は「ああ」と手をパンと叩き、
「失礼したわね。私は筵ちゃんの傍仕えの一人――、堂山璃音。見ての通り、オカマだからオカマでもよければ、よろしくねえ♪」
「わ、わう……」
日向がどこか怯えた様子を見せるなか「……いっそ清々しいね」と、ユウマが困った様に汗をかいている。普段平常なユウマにしては珍しくエリカは不思議に思った。
「……ユウマ? どうしたのよ?」
「……その」と、言葉を濁しながら「……なんか視線が獰猛な気がしてね」
「ウフフッ」
ぺろり、と舌なめずりする璃音に対してユウマは背筋にぞくっと悪寒が走った気がした。心から気のせいであってほしい。エリカの「うわぁ」みたいな視線が地味に辛い。
「さて、それで結局頬は大丈夫なのかしら、筵ちゃん?」
「ふん、過保護だな。この僕が頬を叩かれた程度でどうとなるとでも?」
「あら、叩くって痛みが万人共通のものだから痛かったんじゃない?」
「……ふ、ふん。流石わかっているな堂山。ああ、正直ひりひりする」
頬を軽く摩ると、筵はスッと眼光を細めた。
「しかし新橋さん。君はどうにもなっていないな。この僕を叩くとは――亭主の怒りを買う行為はおすすめしないよ?」
「誰が亭主よ。ふざけんなってんでしょ」
相も変わらず、ふざけた物言いをする筵に対し辟易するエリカ。そのエリカの言い方が癪に障ったのか何なのか、更に言い募ろうと筵が前に出ようとする。
「言葉遣いもなっていないな、この僕に対して」
「ご主人様。僭越ながら諫言を」
しかし、そこで執事服の少年が更に一歩前に歩み出た。
「なんだ為又。僕は今、この女と話をしているんだぞ! 淑女の何たるかもわかっていないこの女を躾てやろうと――」
「このような粗暴な女は筵様には勿体のうございます」
「……ほう?」
「先ほどご主人様が言っていた通りに、新橋の妹の方は、義理の妹と聞き及んでおります。どこの血統かもわからぬ女をご主人様がご寵愛なされる必要はありますまい、と」
その言葉に眉を潜めたのはユウマだった。微かに視線を鋭くさせ、
「人の妹を随分な言いぐさしてくれるね? 血筋がどうだとか」
「当たり前だ新橋兄。ご主人様を誰と、ご主人様の血族を何と心得ている?」
「わかってはいるつもりだよ。筵って名前にセイゼンの学生服――大地離家の長子、大地離筵だろう?」
肩を竦めて嘆息交じりにユウマは呟いた。
それを聞いてエリカと日向も理解する。【大地離】――、芳城ヶ彩共同高等学院の理事長の一角であり、実質的な青善雪男子校の経営者、大地離の嫡男であるのだと。
つまるところ、理事の息子という事だ。
理事の息子にして、大地離家の子供。道理で幅を利かせた物言いをするわけだ。
筵はフッとシニカルな笑みを浮かべると、
「流石、僕だ。新橋、君もわかっているな。僕の知名度の高さがよくわかる」
「一応ね。大地離の息子ってなると確かに知名度は高いから――ただ、噂通りにあんま好きになれない奴だってのは理解したよ」
「ほう、嫌われたものだな僕も。だが、許そう。男に好かれたところで欠片も嬉しくないからね。好かれるならばやはり美しく品のある淑女に限る」
『え……』
背後の取り巻き四人の男達が急に悲し気な表情を浮かべる。
だがそんな事気に掛ける意味もなく、ユウマはすっと筵を見据えていた。ユウマは大地離の長子に対していくらか話は知っている。まあどの噂もいいもんじゃないんだけどさ、と微かに渋面を浮かべ対応に悩む。人の悪口を言う気はないが、それでもやはり――噂はあながち間違っていないのか。
眼前の少年は、とても尊大な物腰で自分の妹を侮辱しているのだから。
それと、と背後の四人を一瞥して、
(……あの噂もはずれじゃないっぽいな。やばい、関わりたくないな……)
かといって引くわけにもいかないか、と尚更に嘆息を浮かべる他にない。そんな風に感じていると、横からぐっとエリカが身を乗り出した。
「まさかアンタ理事長の息子だからって好き勝手やってるんじゃないでしょうね……?」
「クフフ、それは愚かな想像だな新橋さん。親など関係ない。僕が理事の息子だから好き勝手をやっているって? 笑わせないでもらいたいものだね」
くつくつと、さも可笑し気に筵は自分の腹を抱え嘲笑を露にする。
「僕が好き勝手やるのは、僕が僕だからだ! 筵という世界の宝。才能の塊が、どうして自由気ままに生きられないと想定するのか、僕の方こそ理解しかねるね。クッフッフ!」
『…………』
その言葉でエリカは理解した。
(こ、これって、ナルシストって言うやつじゃあ……?)
傲岸不遜にして自己愛をみせる筵に対してそんな感想を抱く。親の権力などどうでもいいと断じる辺り、一つ何かを飛び越えた清々しさに呆れも感じる始末だ。
だが、それが彼の取り巻き四人にとっても真実なのか、
「その通り!」
と、為又は語気を強めた。
「わかるか新橋ユウマ。ご主人様は、偉大にならざるえないほどのお方だ。その方を血統をお前のところの妹が継ぐなど言語道断ということだ!」
「別に頼まれても、そんなもん継ぐのすらいやに決まってんでしょ!」
「それなら僕も安心だ。だが同時になんと頭足らずだろうか、新橋エリカ。ご主人様の血脈のすばらしさを理解出来ないなどとは――ま、そもそも理解出来ていない時点で受け継ぐ資質はないとみえる」
「だからさ、為又、だっけ? 人の妹を悪く言うの止めろって言ってるんだけど?」
あまりの侮辱にユウマがただただ冷淡な眼差しを浮かべた。
「悪く? 事実を述べているまでだ、新橋ユウマ。我がご主人様が、匹婦にかどわかされては、いけませんからね。ご主人様の清純な体を守るのも執事たる僕の役目というものです」
「キミ。いい加減、その暴言を止めてもらうよ? 誰を捕まえてそんな侮辱をしているのか。ボクとて堪忍袋が限度なんだけどね」
そしてまた、日向もユウマに負けず劣らず鋭い獣の様な視線で為又を射竦める。
「ふん。ご主人様を誘惑する売女を叱責して何が悪い、弦巻日向――「為又」」
と、そこで意外なところから怒声のようなものが放たれた。それは見れば、彼の主である筵本人であると気づき日向たちは目を見張る。
「確かに先の二言は言い過ぎだ。撤回しろ。僕の従者に品性に欠ける口の悪い輩は必要ないぞ?」
籠る様な怒りの色。何が琴線に触れたのか、彼なりのノーブルに反するものなのか、なんたるかは定かではない。お前が言うな、と周囲が思ったのは気づかない様子ではあるが。そんな中で主の怒りを買った事を恐れたのか、為又は突如、冷や汗を噴出させ「も、申し訳ありませんご主人様!」と膝をついて首を垂れた。
「僕に謝ってどうする。相手は新橋さんだろ。あちらへ向け」
「は、はい! …………悪かったよ、言いすぎた」
エリカはその謝罪をどう受け止めるべきか逡巡する。
謝罪はされた――が、その目が全く悪びれていないのを理解してしまう。それもそうだが、それ以上に筵の善悪の基準点が不透明で、判断に迷うというのが正直なところだ。
もしかしたら、そこまで悪い奴ではないのか――。
「さて、従者が失礼したね、新橋さん。お詫びに僕が愛でてあげようじゃないか。ありがたく思いたまえよ。この僕が、女を愛でるなんてそうあるものじゃあない」
そして、来るんだ、とばかりに尊大な物腰で手を差し伸べる筵の姿を確認して、
(……いや、やっぱ自己中だわコイツ)
と、一瞬でもちょっとはマシなのだろうか、と思った心をエリカは溝へ放り投げた。早く手を取れ、とばかりに手招きする筵に対して、さっとユウマが一歩前に歩み出て、
「エリカ。エリカはもう行きな。ここは俺に任せて。弦巻、エリカと一緒に行ってくれる?」
「バカ、ユウマに丸投げなんて出来ないわよ。もともと、私が割って入ったんだから最後まで私の責任よ」
「うん、そうです。ユウマだけに出来ないし、二人が残るなら僕も残ります」
二人がそう零すと「たく、しょうがないな」と優しく苦笑を灯す。
だが、同時にさてどうすべきか、とユウマも悩む。
(このままだと、喧嘩の仲裁では済まないしな……)
というよりすでに当事者か。
日向もエリカも憤慨を示している。自分も冷静に努めているが、このままでは喧嘩腰が絶えない結果になるだろう。丹波と筵。この二人だけの問題では済まなくなっている。この局面に第三者が更に入らない限りは――、と、そこで三人に助け船がやってきた。
「そこまでにしておけ、大地離のせがれ」
「なに?」
不快そうに眉を潜める筵。だが、現れた複数の人物を一瞥すると「……む」と、僅かに難色を示し威圧的な物腰がふっとなりを潜めた。
「あ、この人たち……」
エリカも、その姿を確認してすぐに事態を理解する。
学院におけるSP――すなわち、学院内部の治安維持も務める人々だったからだ。中には日向の見覚えのある人物四郎兵衛終左衛門の姿もあれば、教師である土御門天花の姿もあった。合計六名の学院の大人達である。
天花は周囲を軽く見渡した後に筵を一瞥すると、
「こりゃあまた昼時に随分と騒ぎを起こしてくれたものだな、筵」
「……天花さんか」
「ここでは天花先生か土御門先生と呼べ」
からかうようにフッと天花は肩を竦める。
「学食で騒ぎなど起こしてくれるな。メシが不味くなるだろう?」
「フ、僕の尊顔を見てメシが不味くなるなどありえない心配だな。むしろ僕の尊顔だぞ? ごはん六杯は軽いはずだ、何を呆けた事を言っている?」
「……ふむ、そうだった。こういう反応をする奴だったな」
ただただ呆れた様な表情でぽつりと天花は呟き、
「まあ過ぎた事より、今の事態だ。四郎兵衛」
「ハイ。『警告』――そこまでにしておけ、大地離のせがれ。これ以上、騒ぎを起こすようでは大人として動かざる得なくなる。若さゆえの騒ぎで経歴を汚す事になるぞ」
「そういう事だ。今ならお説教の一つと反省文程度で勘弁出来る範囲だぞ。しないなら自宅謹慎、停学処分、まあ好きにしろ」
天花がそういうと筵は僅かな逡巡の後に微かに舌打ちする。
「……仕方ないな。僕の優雅な経歴を汚すのは人類の損失だろうからね。ここまでにしておこう。もっとも――丹波の奴がこれ以上、僕に噛みつかなければの話、だが」
「ハッ、家柄だけの坊ちゃんは一言多いな。小物みてぇ」
「何を……!」
このままじゃ本気で何も変わらないな、とユウマは心底辟易した。先ほどまで沈黙していた丹波も口を開けば罵詈雑言の始末だ。相手は熱しやすい筵となれば、平行線で加熱するばかりだろう。
「双方落ち着きなよ。これ以上すると本当に大事に取り扱われるよ? 現時点でも、結構大変なんだから。頭に血が上り過ぎだ二人ともね」
「新橋、君が口を挟むのか」
「第三者は黙ってろよ事情知らないだろ」
「客観的な第三者の意見と受け止めてくれないかな」
ユウマが疲れた様に息を吐く。
特に大地離への不快感は抑えるのも億劫なのだから。
「――ともかく、二人とも、一旦落ち着くべきだし」
「……弦巻」
「二人の事情は僕らにはわからないのは事実だから強く言えないけど、言える事が一つあるもん。こんな人数いる場所で騒ぎを起こさないってことだよ。討論するなら場所を選ぶべきだし。なにも乱闘騒ぎを起こしたいわけじゃないんでしょう?」
そして、ギラリと瞳を輝かせて、
「何より頭を冷やしてくるべきだし。君らの騒ぎでどんな迷惑が起きたのか省みる事だよ。侮辱の数々も反省してほしい」
「ふん……狼藉者に言われるとは、僕も落ちたものだな」
「ちっ」
教師もいるからか、先ほどより噛みつく気配はない。もっとも日向も本気で怒っているのかユウマに劣らず、その瞳に本気が灯されていた。筵はともかく、丹波は気まずげに舌打ちし顔を背けている。
「弦巻と新橋の言う通りだ。お前たち反省しろよ?」
無言で応答する筵と丹波。まあこんな反応が精々か、と深々としたため息を零す天花。
「なんにせよ話は訊かせてもらうぞ。なんで喧嘩したのかをな」
「そもそもはこのお坊ちゃまが――」
「僕の服に汁をかけた、丹波のせい――」
言って互いに火花散る視線を交わす両名。天花は「あーいい、いい。話は後でちゃんと聞くから、ここで言い合うな」と手をパンパン叩いて制止を促す。
「だが、どうにも新橋達に食ってかかったようだな? そこは謝罪しておけ、筵」
「うん? 僕に謝罪する要素がどこかあるか?」
訝し気に眉を潜める筵。
どうやら一切悪いとは思っていない様子だ。むしろ、自分の発言を正当なものと捉えているのかエリカへ向き直ると、
「まあいい。新橋さん、さっき言った言葉は嘘じゃない。君が淑女のなんたるかを知りたいなら僕の元へ来るといい。手取り足取り教えてあげるとしよう」
「だからいいって言ってんでしょ。アンタに教わる事なんてないわよ」
「まったく、君は随分と強気な子だな。運動が得意だとか言われているが、所詮、女の領域だろう。女は女らしく、慎みを覚えるべきだ。運動など、僕と言う頂点を知れば、鍛える気も失せるだろうに」
「……なんですって?」
エリカは憤慨をあらわにした。
自分が運動を常日頃している理由はそういう事ではない。運動が好きだから、という清純な想いからなるものだ。そんな男に敵わないとかどうとかの理屈ではない。
「その顔、納得いってないようだね? だが許そう。なにせ、君は知る機会を得るのだから」
何が、と口にするのも億劫だったため、エリカは眉をひそめて不遜な態度の筵を見据えた。
筵は不敵に笑みを零しながら、
「僕の真骨頂は【大体育祭】で明かされる。君もスポーツは得意らしいが、僕のそれは、達人のそれだ。君は知るだろう、真の男の強さというやつをね。その時、君は女として濡れる事になるさ、この僕へね」
「アンタね……」
心が怒りで騒めいた。愚弄されてるとしか感じられない言動にエリカは苛立ちを募らせる。
「僕はそうだね――水泳、ミニトライアスロン、徒競走辺りに出る事としよう。純然な力というものは小細工抜きのそこでこそ輝くからね。クフフ、その時になって気づいても遅いのさ。君が愛人となるチャンスを得たはずの相手の雄大さにね」
「自分にかなりの自信持ってるみたいだね」
「当然だ、新橋。僕は完全なるアスリート。そこで僕の輝きを見せてやろう。その後に、お前の妹はきっと僕に縋り付いてくるだろうさ、クハハハハハ――」
さて、と、そこで土御門天花が筵の肩に手を置いた。
「……」
筵に汗が伝う。
「散々騒ぎを起こしてくれたんだ。一応事件の発端である奴には話を訊かないといけないよなあ、大地離? そして女生徒に対しての暴言侮辱諸々――生徒指導室で一つ、訊こうか?」
「……ま、待て天花さん。それなら丹波のやつに――」
「土御門先生、だ。安心しろ丹波もすぐに後を追うさ」
「土御門先生! 丹波が逃げました!」
「追え。断じて逃がすな。そして逃げたぶん追加で罰則だ」
キュピーンと天花は恐ろしい程に眼光を輝かせて、そう告げる。命令を受けた者たちは「ハ!」と答えると霞の様に消失した。
「よし、あっちはあいつらに任せておいて――行くぞ四郎兵衛。さっさと筵の奴を折檻せねばならん」
「折檻!? 今、教師が折檻と言ったか――「おっと、手刀が滑った」かふぅ」
惚れ惚れする程に鮮やかな手さばきで筵を締めた天花に周囲から「おー」と拍手が送られた。天花は筵を四郎兵衛に手渡すと、四郎兵衛はひょいと肩に担いで連行してゆく。そのあとを四人の取り巻きが「ご主人様―!」、「あらあら……」、「我が薔薇の花よ、待ってくれ!」、「大地離君大丈夫かなぁ……!」心配なのか、追ってゆく。
その背中を見ながら「あいつらも罰則で連行する気だったが普通についていく辺りがなあ……」と複雑そうに柳眉をひそめ、
「さて、騒がせたな諸君。もう安心だから、さっさとメシ食って、授業に備えろー」
天花が声を張ると、周囲の生徒たちは胸を撫で下ろした様に散会し、口々に談笑を開始しはじめた。今の事件のことも話題なのか、密やかだった声が今ではざわざわと大きな声になりはじめている。その光景はいつものにぎやかな学院の食堂風景であった。
「さて、すまなかったなそこの三人」
「土御門先生……」
「あのドラ息子がいらん世話をかけた」
「いえ。ですが、大地離はどうなるんでしょうか先生?」
ユウマは神妙な様子で問いかける。
「そうだな。学食でこんな騒ぎ起こしたんだから、普通に折檻だな。セイゼンの方では二日、三日謹慎させるかもしれん。ま、説教と反省文は確実だな。発端が丹波であった以上は丹波の方が重いだろうしな……。筵の方は、なんなら謝罪の一つでもするようにさせるがどうする?」
「エリカはどうする?」
「んー……あんま関わり合いになりたくはないわね。それに謝罪って心からじゃないとなんていうか納得できそうもないし」
「だ、そうです」
エリカの意思を伝えると天花は「だろうな」と納得を示した。
「あの人をコケにしたような態度は生まれつきだから救えん」
「先生はやっぱり大地離のことを知っているんですか?」
「……まあな。私は土御門。アイツの事は幼少から知っている顔なじみだ。アイツも昔は可愛かった――事もないな。普通にむかつくガキだった」
(そうなんだ……)
こめかみに怒りマークを浮かべる天花。本当に小さい頃から変わらないのか、と三人揃って若干呆れた様子を浮かべる。
「まあ、そんなアイツもある一件があって、それ以来変わろうと努力をして――結果、更に高慢でムカつくクソガキになったんだよなぁ……」
「更に悪化しちゃったんですね……」
「ま、そんな私だからこそ言える事もある。新橋兄妹、それに弦巻。特には妹の方か」
「は、はい。なんですか土御門先生……?」
エリカが何だろうと、訝しむと天花は顔だけこちらへ向けながらこう述べた。
「何を言われたか知らんが、筵のバカの事は気にするな。アイツは心も芯も捻くれてる生粋の下衆だからな。言われた事を気にするだけ、バカをみるぞ」
酷い言われようである。
しかし――、エリカは、天花の優しい忠告に、しっかりとした声で返した。
「でも……許せない事を言われたのは気にしないわけにはいきません」
「……そうか」
天花は当然だ、と言葉を置いて、
「なら【大体育祭】で見返してやるといい」
「見返す?」
「ああ。アイツは生来の腐れ外道だが、それでもことスポーツは真正のそれだからな。スポーツで輝きを見せれば、アイツも思うところがあるだろう。だから奴を見返すならスポーツに限る。健全にしっぺ返しをしてやるといい」
ふっと和やかな微笑を浮かべると「では私は行く」簡素にそう告げると、颯爽と白衣を翻して、天花は歩いていった。
騒ぎが段々と終息していく気配を感じると、ユウマは安堵した様に息をついた。
「やれやれ、ひやひやしたよ。エリカ、これに懲りたら変なのと関わるなよ?」
「う。し、仕方ないでしょ見過ごせなかったんだからっ。……ただ変なのだったのはそうなのよね……」
普段よりよほど疲労感が蓄積した感じがするエリカである。
仲裁したら愛人になれだとか変なナンパをされた始末。疲弊もするものだ。そんなエリカの頭を穏やかな表情を浮かべて、ユウマは軽く撫でた。
「たく、相変わらず心配かける妹だな」
「むぅ……」
エリカが困った様に頬を赤らめる。基本お兄ちゃん子なのだ。
「あんな奴、私でもどうにか出来たわよ……」
「……いや、それはどうだろうね」
ユウマが難色を示す。
「エリカもわかってるだろ? アイツ、大地離――相当、腕も立つよ。弦巻も見抜いてるみたいだけどね」
「……うん、僕もそう思う。多分、武術の試合形式とかだったら、僕もエリカもユウマも負けるだろうし」
「ああ。俺も同感だ。正直かなり厳しい」
「嘘……⁉ ユウマが……?」
ユウマはこくんと頷いた。
泥仕合だったら食い下がらないだろう。だが、試合形式。純粋なスポーツの舞台となったなら自分でも厳しいと踏んでいる。日向の実力は知らないが、日向もまた筵には勝てないだろうとユウマは推測していた。体幹の凄さ、姿勢の良さ、筋肉の付き加減に至るまで恐ろしいレベルで完成しているとユウマは判断したのだから。
「ま、勝てはしないにしても、負ける気もないんだけどね」
しかし、それは試合限定の話だ。
あれだけ妹を侮辱され――、それをそのままにするわけなどない。泥に塗れても、謝罪の念を抱かせるまで抗い続ける事になるだろう。自分は当然のこと――、
(きっと弦巻もな)
だがなんにせよ、教師の介入があって良かったとユウマは思う。
「けどまあ、これに懲りたら無茶はするなよ、エリカ?」
「うぐ……」
「まあ、誰かの為に駆けつける。そこがお前のいいとこではあるんだけどさ」
今回は相手が本当によくなかった、とユウマは嘆息する。家督の差とかそういうのではなく、性格面的によくなかったと言わざる得ない。
そして心配そうな表情を浮かべて日向がエリカに、声を発する。
「エリカ、女の子なんだから、あんまり無茶したらダメだし」
「……私の事、そんな女の子に想うのアンタくらいよ本当」
「あれ? エリカ、照れてる?」
「て、照れてないわよ!」
ツンっとユウマの指摘にエリカはぷぃっとそっぽを向いた。
日向は自分をとにかく女の子として見ている。女の子らしさは少ないと自己認識しているエリカにとって、日向の想いは毎度のように心をざわつかせてしまう。そんな熱を振り払おうと、エリカは頭を振って思考を切り替えた。ムカつく、あの連中の方へと。
「にしても、あー……むっかつくわね本当アイツ!」
「うーん、確かにかなり際物だったな。大地離の長男は性格最低ってマジだったか……」
「わうー……」
「弦巻? どうかしたの?」
「うー、大地離理事知ってるだけに、ご子息さんがあんなだったのに驚いてて……」
「あー、確かにね。俺も理事長知ってるけど、別物もいいとこだったな本当……」
父親である彊理事長を知る身の上としては、驚く程高慢で自分勝手な筵の姿は少なからず衝撃を覚えざる得ない。小さい頃からああだったという事は、その頃に自分が名家の生まれだから尊大になったのか否か、とも思うのだがアレは本当に生来のもののような気がしてならない。
天花曰く、気にしていたらバカをみる、とのことだが……。
日向は拳をぎゅっと握りしめた。
「とりあえず僕は決めた」
「何を?」
「あの筵って人が言ってた種目に僕も出る。ちゃんと、見返したいし」
「私も同意見かしらね。正直むかむかして仕方ないもの」
「弦巻……エリカもか」
加熱した気配をみせる日向とエリカの様子にユウマは、小さく嘆息を零した。
「まあ、あいつの言葉を訊いてるし、喧嘩ならまだしもスポーツだから止めたりはしないけどさ。二人とも、落ち着きなよ?」
「落ち着いてるわよ私は」
「がおー!」
「うん、弦巻落ち着いてないよね」
(……まあ弦巻がこうなるのも無理はないか)
日向がエリカを好いているのをユウマは知っている。
恋した少女をああも侮蔑されたのだから、日向が怒りを感じるのは当然だろう。兄であるユウマだって憤慨を覚えたものだ。その気持ちはすごくわかる。
「だって、エリカもユウマも、二人の両親もバカにしたもん! 許せないし!」
そして同時にこの少年は凄く優しい。きっと自分達がバカにされたでなくても、こういう事態になっているのだろう、とエリカもユウマも日向の心根はわかっていた。日向の隣にいるエリカは優しく、嬉しそうな表情を零したのを見てユウマも微笑ましい気持ちになる。
「ありがと、弦巻は優しいよね」
ユウマは穏やかな気持ちそのままに、日向へ告ぐと、続いてエリカがおずおずと口を開く。
「……それと弦巻は、その、ありがとね?」
「わう?」
「アイツに無理矢理キスされそうになった時に助けてくれたでしょ?」
「あ、うん……」
「弦巻?」
どうしたんだろう、とエリカは訝し気に思った。
普段なら嬉しそうに受け答えするはずの、日向が今は妙に不安そうにエリカの瞳に映る。
「……なに、どうかしたの?」
「わうー……あのね」
「ええ」
日向は不安そうにエリカを見つめると恐々口を開いた。
「エリカ、僕にキスされるの、ヤ?」
「こほっ」
と、エリカは軽く咽ると真っ赤になって狼狽してしまう。
「きゅ、急に何を言い出してんのよ!」
「わう、その……エリカ、あの人にキスされそうになった時に、すごい怯えた様な表情してた。じゃあ僕がほっぺにキスするのも凄くイヤなのかなって思って……」
わう、と日向が申し訳なさそうにしょんぼりしていた。耳が垂れ下がったわんこの様に気落ちしている。あの場面で、エリカを助けこそしたが、同じことをしていたのではないかと心配になったということか。
エリカは少し困った様子を浮かべる。
「……一応、前々からキスしてこないのって言ってるわよね?」
「うん……嫌だったらごめんなさい」
すっかりしょんぼり気味な日向の姿を見てエリカは小さく息を吐いた。
「……私ね。アイツにキスされるって思った時に、かなり怖かったのよね。こんな無理矢理な形でって思ったら本当凄く嫌だった」
「わう……」
「……けど、アンタはアイツとは別よ。アンタが頬にキスしてくるのは……………と、とりあえず嫌って程じゃないからっ! で、でもしてほしいって事でもないからね⁉ 止めなさいって想いはするけど、嫌だからって事でもなくて――ああもう落ち着け私! ともかくアンタがそんな不安そうにする事じゃないの!」
「……ほんとー?」
「ほんとー、よ。本当に嫌だったら、とっくに突き飛ばしてるわよ」
事実、日向と筵を比べるまでもなかった。
(大地離の奴にキスされるって思った時は身が竦んだ。だけど――、弦巻のキスはそういうんじゃないのよね。されると何だかくすぐったくて、温かいっていうか……。そもそも、私の事を好きってのがメチャクチャ伝わってきて気恥ずかしいというか……)
そこまで考えたところでエリカは首をぶんぶん振った。
これ以上考えると変に茹だってしまいそうに思い、思考を切り替える。
「と、とにかくアンタにされるのはそんな嫌って程じゃないから。だ、だからってしてほしいってわけじゃないのよ? わかった?」
「わうー……わかったー」
少し安堵した様子で仄かに顔が明るくなった様子の日向にエリカはホッとする。
やっぱ弦巻は明るい方がいいものね、と穏やかな表情で日向の頭をそっと撫でる。ただ日向は「わうー、でもエリカにキスするの好きだったから……わう」と小さくしょげるものだからエリカは「……もう」と肩を落として頬を赤く染めた。
「……時々ね。毎日はダメ。わかった?」
「いーの?」
「ダメよ」
「うー、どっち……?」
「……良いなんて言えるわけないでしょバカ」
ぷぃっと視線を逸らすエリカの姿に「エリカ、対応が大変そうだね」とユウマは苦笑を零していた。仕方ないじゃない、とエリカは愚痴る様にそう返す。
そんな光景をユウマはくくっと笑いを堪えているもので「わ、笑ってないでよユウマ!」とエリカは真っ赤になって怒鳴っていた。
「わう、結局どっちなんだろー……?」
「弦巻は深く考え過ぎないで、今まで通りでいいと思うよ」
「ちょっとユウマ、今まで通りだと私大変なんだけど!?」
「わう、今まで通り……ううん、もっと頑張る! エリカに好かれるようにたくさん頑張るし!」
「うん、たくさん頑張りな」
「ユウマってば! 弦巻に助長するような事教えないでくれる!? ちゃんとしたこと教えなさいよ! 誤解解いてってばあ⁉」
「けど残念。俺はもうメシ食いにいくからさ。翔来てるみたいだし」
その言葉通りに、遠巻きにユウマの友人である翔が、食堂に姿をみせていた。空気に何か感じているのかどこか辺りをきょろきょろしていたが、ユウマに気付くと小さく手を振る。
「それじゃ。エリカは頑張りな」
と、だけ行ってユウマは二人を後に歩き去っていった。
その背中を「バカ兄貴――――!」とエリカの絶叫が響き渡る。
「ユウマ、何かあったの? 微妙に皆そわそわしてる気がするんだけど……。っていうかエリカさん何か怒鳴ってるけど……?」、「ちょっとな。まあそんな面白い話じゃないし気にしなくていいよ。それよりメシにしよう、時間ないしさ」、「それは確かに……! 午後の小テストもあるし勉強しとかないと……!」、「うん頑張りな」、「え、ユウマもだよね?」、「俺は平気」、「ユウマってほんと頭いいよね……」。
ユウマと翔が別の座席へ移動したのを見送ると、「エリカ、お疲れさま」と初音の声が近くで響く。
「初音」
「もー、ひやひやしたよエリカっ?」
「あー、ごめんね。なんだかややこしくて……」
「そうみたいだな。だがあのまま喧嘩が起きなかったからホッとしたよ」
「私は食堂でそんな事しないわよ真美?」
「一発殴りかかってた気がするが?」
「う……」
微妙に気まずそうに視線を逸らすエリカ。あれはまあ、うん。なんていうか癪に触ったし。エリカは自分も軽率だったかしらね、と反省する。
「ま、いいや。大事にならなくてよかったな私はっ」
「その通りだな。エリカも疲れただろう? 飲み物でも買ってこよう、何がいい?」
「弦巻君も何か飲む? エリカ庇ってくれたし、友達としてお礼で驕るよ?」
「あ、僕はいーです。ありがとうございます、クローリクさん」
「そっか、オッケー。で、エリカはどする?」
「なら、冷たいお茶でお願い。『向日葵緑茶』とか『ほーら、お茶』とか、まあ冷えてればなんでもいいかな」
「了解、買ってくるから席で待っていてくれ」
にこやかにそう答えると、初音と真美は自販機コーナーの方へさくさくと歩いていく。大地離に関して憤慨を重ねたのもあって、熱と疲労感が酷い。冷たいお茶でさっぱりしたい気持ちのエリカである。
「アンタ本当によかったの? せっかく、奢ってくれるって言ってたけど初音たち」
「うん、僕はいーんです」
「そ。それじゃ私は席へ戻るけど……アンタも、ごはんしっかり食べなきゃダメよ? それと今回は庇ってくれてありがとね」
穏やかな微笑を嬉しそうに零すとエリカは、席へ戻ろうと足を向けた。すると、そこで日向が唐突に「エリカ」と自分の名前を呼んだので「ん?」と軽く振り返る。
「……あ、あのね。エリカ」
「なに、どうかした?」
去ろうとした足をそっと止めたエリカはふっと全身を日向の方へ振り向いた。
するとふわっと心地よい香りが温もりと共に自分の身体を抱き締められる。
「……」
一瞬、ぽかんとなるエリカだが次の瞬間にぼふんっと真っ赤に染まった。
「ちょ、つ、弦巻? ど、どうしたのってか、な、なに!? え、なに!? 急に何が起きてるわけ!?」
「エリカぁ……」
ぎゅーっと一生懸命になって日向が自分を抱き締めている。そのことがエリカの脳内を沸騰させ冷静な思考も出来なくなってしまいそうになっていた。
なにせ、普段の抱き着くと比べて今、日向は明確に抱き締めているのだ。
いつもと違う。それだけで恥ずかしさの種類が別物になっていた。
そして日向がエリカの肩に顔を埋めながら耳元へ声を零す。
「大好き。エリカ凄く好きなの」
「え。へ!? あ、あ、うん。そ、そうなんだ。えと、し、知ってるから――だからアンタ急にどうしたのってば――」
「エリカ。他の誰よりも僕の方がエリカ大好きだもん。他の人のになっちゃうのヤだ」
「――」
ヤだってって言われても、とエリカは真っ赤になって反応に詰まる。
(っていうか何よこれ⁉ なんなのよこれ⁉ え、どう反応すればいいのよ⁉ そもそも、コイツ急にどうしたわけ本当……⁉)
カーっと全身に熱が籠るのを感じたエリカはもう限界に近かった。
どうしてこんな事に急になっているのかわからないままに、心拍数が跳ね上がってゆく。そして心臓が爆発するのではないか、というほどに心がざわめいたところで、日向が自分の顔に顔を近づけてすりすりと頬ずりすると、ぱっとエリカから離れた。
真っ赤な顔で右頬を小さく膨らませ、どこか拗ねる様に、いじける様な顔で、
「エリカはボクのだもん」
と、エリカにだけ聞こえる様な声で呟くと、ぱたぱたと何処かへ走り出していってしまった。
残されたエリカは顔を真っ赤に火照らせながら、ドクンドクンと高鳴る胸の鼓動を手で押さえながら「うあ……」と熱くなった声を漏らす。
そしてジュースを買って戻ってきた初音と真美はそんなエリカを見かけると、
「エリカ……えーっと、お茶買ってきたんだけど」
「飲む!」
「ど、どれがいいかな?」
「とびっきり冷えたやつでお願い!」
「あ、じゃあ向日葵緑茶で……」
言うと同時にぱっと初音の手元からお茶が消えた。
消えたお茶は気づけば蓋が開けられエリカはごくごくと冷えたお茶を喉へ流し込んでいた。見事なまでに一気に流し込んでいる。
「えと、エリカ……もしかして、何かあった?」
「なにもないわよ! あるわけないでしょ!? 全然、なんにも、まったく、ありゃしないわよバカ―――――――――――‼」
((何かあったんだ))
こうして今日もまた学食には恥じらう乙女の絶叫が響き渡るのだった。
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絢爛豪華にして百花繚乱、華やかな花々が咲き誇る花園があった。
芳城ヶ彩に存在する三校が一つ、真白月の外観が豪華な屋敷にも似た学校である事に比べると、この学校の見目は実に麗しいとさえ言える。華やかにして、厳か。住まう淑女らに気品と高貴さを感じさせるべく造られた、この場所は北欧の城と見紛うばかりである。
この場所こそが、芳城ヶ彩三校の一角――美花赤女学院。
出自、生まれにおいては良家の御令嬢が多く集うとされる女の花園。男子禁制一歩手前と言わんばかりに子女らの聖域と呼びうる学び舎なのだ。
ゆえ、聖域に住まう少女らは気品に満ち、所作麗しくあらねばならない――。
「ぐでーん」
広大な中庭の一つ。有名彫像家が作成した噴水が光に輝く傍で、花々咲き乱れる花壇の隣、茶会の会場と思われるテーブルが設置された場所で、肝心のテーブルに面貌突っ伏す一人の小柄な少女の姿が見て取れた。
「うるきさん。訓子府の姫君が、そのようなだらんとした姿晒してはいけないのでは?」
「えー、手厳しいぜテティスさん。しょうがないじゃんかー、午前たりかったんだよー」
「またそのような事を言って、仕方ない人ですわね」
「まあ、うるきちゃん自由奔放がモットーな子なので……」
あはは、と苦笑を零すのはミカアカ女学生、ミスラという少女だ。
テーブルに頬をくっつけて「ぷへー」と魂を吐く少女は訓子府うるき。そして、そんな彼女を見ながら嘆息を零す少女は迎洋園テティスであった。手には紅茶のカップを持ち、一口そっと静かに呷る。
「うるきさんは別に勉強が苦手でもないのに、なんでそんなに疲れていらっしゃるのやら」
「ふふん、テティスさんや。そこは見解の相違ってやつだな。やつだっけ? ま、いや。あたしは別に勉強苦手じゃねーよ、普通に頭の出来はいいって褒められてるしな!」
「あら、そうですの」
頭の出来は、という時点で少しニュアンスに含むものがあるが。
うるきさんは結構突拍子のない行動を起こしますものね、と思いくすりと微笑む。そういうところは結構、テティスとして好むうるきらしさである。
「ただ、ジッとしてんのが性にあわねーだけだぜ!」
「ふふ、らしいですわね」
にひひ、とあどけない面立ちに楽し気な笑みが宿る。
確かに訓子府うるきという少女は、インドアよりアウトドア。外ではしゃぎまくる事を是としているのだから、言葉通りなのだろう。
「まったく、貴方と言う人は……つくづくミカアカより、シラヅキの方がよかったのでは?」
「私もそーは思うんだけどよ、テティスさん。……うちのかーさんの母校がミカアカだったしな。だからあたしはこっちで満足してんだ」
「真珠様ですか。相変わらず、うるきさんはお母様を好いておりますのね」
「んなもん、大抵の奴に言える事――って、あ、ごめんテッティー……。YAは母さん亡くなってるんだったもんな……」
「そんな気にしないでくださいな。その分、私は従者に恵まれていますもの、寂しい事はあれど十分ににぎやかというものですわ。……それより、テッティーの呼び方そろそろ変えませんことかしら? 私も高校生ですし……」
「え、可愛くねテッティー?」
「……可愛いとは思いますが、恥ずかしいのですわ」
テティスは扇子で顔を半分隠しながら、微かに頬を赤らめた。
その反応はうるきにご満悦だったのか、朗らかに微笑し、
「あはは、テッティーのその反応がみれんなら、やめないでおくぜ!」
「もう……人の反応を楽しんでいないでくださいな。……ま、今さらなのですけれどね。ですが校内ではさん付けですわようるきさん?」
「おっといけね」
女学校な為に校内では基本さん付けが主流だ。
お嬢様として祖父より高等教育を受け続けてきたテティスからしてみれば、慣れ親しんだものでもある。うるきは苦手な様子だが。
(まあ、完全義務化でもないですし、校風のようなものですけれど)
しかし、こういうところはやはり女子高らしい厳しさがある。
それに比べるとやはり、最も緩いのはシラヅキなのだろう。テティスは静かに視線を彼方へと向けると見えてくるのは白の校舎と青の校舎――シラヅキ、セイゼンが遠目で確認出来た。知り合いは両方に在籍している。
だがやはり、テティスの心に映るのは、一人の従者だった。
「はぁ」
思い返し、テティスは嘆息を浮かべた。
日向が来て以来、二カ月そこら。その間、屋敷にて進展らしい進展はない。それどころか気づけば同級生に懸想を抱いているとのこと。
少し考えればわかる事だったのだ。
美花赤に執事として連れてくれば、もれなくどこぞのご令嬢の目に留まる可能性を危惧しあえて自ら引き離してシラヅキへ入学させたわけだが――、
(よく考えればシラヅキにもたくさん綺麗な女生徒はいますもの! というか、むしろ共学なぶん危険性はシラヅキの方が上でしたわ!)
「こんなことなら女装させて美花赤に通わせるべきだったのかしら……」
「テティス様。それ大問題になるから止めてください」
冷や汗をかきながら睡蓮が苦言を零す。
「な、睡蓮先輩。テティスさん、何をぶつくさ言ってるん?」
「んー、なんといいますか恋の話題と申しましょうか……」
「恋っつーと、アレか。弦巻って従者のやつだっけ、テティスさんが好きなのって」
「ええ、そうなんです。ぞっこんなのに報われる気配が皆無でして……」
「そこのお二方? 大きな声で口にしないでもらえまして? あと、睡蓮は憐れみの目を止めなさい。……お願いだから止めて……!」
「テティスさん、大変なんですね……」
「ほら見なさい! ミスラさんまで憐みの目を向けてきましたわ!」
うるきの友人であるミスラにまで同乗の視線を向けられたテティスは顔を伏せて涙を隠した。
その光景にうるきは恋愛って本当に大変なんだなあ、としみじみ思う。
テティスは客観的に見ても極上の美少女だ。金髪碧眼でスタイル抜群の御令嬢。そんな人物に好かれたなら男なら一目で惚れてしまいそうなものだというのに、肝心の想い人との関係は中々上手くいってないらしい。
「で、実際どんな感じなんだ睡蓮先輩?」
「うーん……うるきさんは弦巻君知ってますよね?」
「そりゃもちろんだぜ! あたしの執事の後輩だしな!」
んで聞いた限りだと、と間を置いて、
「きょーすけ曰く、人懐こくて、頭撫でられるのが好きで、ぴょこぴょこしてて、全体的に可愛い系の新橋大好きで、いつも抱き着いてるわんこって言ってたな」
「同級生の総評というより、ペットの評価みたいですね……」
「あたしもそんな印象受けたしな。けど、意外だなそういうタイプが好みなのか? あたしとしちゃあ男には男らしさあった方がいいんじゃねって感じがすっけど。聴いてる限りだと、そりゃ可愛いけど男らしさなさそーじゃん」
「これはまた辛辣に言われてますね、日向君」
睡蓮が可笑しそうに苦笑を浮かべる。
「いんや、別に友人としちゃ好ましいけど、恋人ってなるとどうなんかなーって感じ抱くんだよな、あたしは。テッティーってそういうのタイプなんだっけ?」
うるきにそう問われるとテティスは小さく首を振った。
「いえ、どちらかと言うと尊大な態度で自分の手を引っ張ってくれる俺様気質な男性がタイプですわね」
「それ真逆じゃないでしょうか……?」
ミスラが困惑した様な表情を零す。
先程うるきが言った少年と、テティスが思い描く理想が明らかに乖離していたからだ。だがテティスは小さく首を振って。
「確かに普段の日向は天真爛漫なドジっ子です」
((ドジっ子までつくのか……))
ですが、とテティスは語気を強めて、
「真剣な時は超格好いい顔を隠している――秘めている。これは間違いありませんわ!」
「確かに戦場で戦っていた時は中々逞しかったですが……」
「いいえ、睡蓮。アレ以上をまだ残しているのですわ、彼は!」
「そんな変身を隠してるみたいに言われましても……」
ただこうも断言するという事は、テティスなりの確信があるということなのか。
そこでうるきが小さく声を上げた。
「……なあ、テッティー。それもしかして、昔一度訊いた、あの男の子のことか……?」
「そう言えば、うるきさんには話した事がありましたかしら? そうですわよ♪」
「ええー……」
うるきが難しそうに唸った。
睡蓮は興味津々の様子でうるきに問いかける。
「うるき様は、お嬢様と日向君の昔事、何か知っているのですか?」
「いやまあ、知ってるけど……ええ……?」
やたら難しそうな顔をするうるきに睡蓮は訊きたそうな顔をするが、そこでテティスが、
「うるきさん。乙女の大切な秘密ですわ。話してはなりませんわよ」
と、嬉しそうに口にする。
テティスの大事な記憶なのだろう。睡蓮にさえ秘密にしておきたいくらいに。睡蓮は少し不満そうだったが「わかりました。では、訊きません」と身を引いた。
「ですけれど、何時か話してくださいねお嬢様?」
「ふふ、そうですわね。何時かお話ししますわ」
主が話してくれる日まで待つ。それが睡蓮の従者としての決定だった。
「にしてもそうか……、テッティーの好きな奴って事はそっか、そうだよなあ……」
「ええ、そういう事ですわうるきさん」
「ならまあ、想いが募って当然だわな」
納得だ、とうるきは頷く。
「だけどイメージ全然符号しない……」
「私もそこは戸惑っていますわ。ただ、きっと何かあったのだと心配していますわ。それこそ、性格を一変してしまう程の痛烈な過去が……」
テティスが先ほど言った理想が、その通りなのだとすれば。
三人は今現在の日向と照らし合わせ、何があったのだろうと重い沈黙に蝕まれた。そんな空気をテティスは仄かに笑って、
「まあ、今は考えてても仕方ありませんわね。過去は過去。彼が何かあったのなら、私はそれを乗り越える手助けがしてあげたい――そう、考えていますの。なにより今、日向は傍にいる。とりあえずそれで十分ですわ」
「テティスさんは優しいのですね」
「そんなものではありませんわ、ミスラさん。私は私の幸福を追い求めているだけ。そこに日向が重要な存在である。日向のため、自分のために頑張りたいと考えているだけですもの」
「そうですか……」
「ええ。ですので、まずは問題は――如何に日向を篭絡するか。それが先決なのですわ」
「あたし、それわかんねーけど、とりあえず告白でもすればいんじゃね?」
「うるきさん、貴女のストレートっぷりは私を容赦なく切り裂きますわね。そんな事出来る勇気まだ持ち合わせていませんわよ⁉」
「では、主特権で自分を押し倒しなさいとか命令してみたりは如何でしょうか?」
「更に恥ずかしい選択肢をよくもまあ主に出せますわね、睡蓮!?」
「え、えとじゃあデートに誘ってみたり――」
「それ前にさり気なくテティス様がしたら『女の子と二人で出かけるのはデートになるって言うから、そーいうのは主様の好きな人とすべきだし!』と笑顔で跳ね返され、その後新橋さんとのデートの時の事を嬉しそうに惚気だされて撃沈どころじゃないダメージを負ったんです、テティス様……」
ミスラとうるきが『うわぁ、えげつねぇ』という青ざめた表情を浮かべた。
テティスもその時を思い出したのか真っ白になっている。これは致命傷である。デートに二度と誘えなくなるクラスのダメージ量だろう。よく生きて、まだ好いていられるものだ。そんな日向の近況を聴いてミスラは感心の声を上げる。
「でも凄いですね、その弦巻さんて人は。テティスさんみたいな美人に誘われても、とことんなびく気配がないというか……」
「ええ。脇目を一切振らなくなってしまっていて……」
「日向ときたら……想い人が、いるに、せよ……ぐ、ぬぅぅ……! ええい、女は忍耐ですわ!悲しみなんて堪えます! 想い人がいるにせよ、他の女性に、もう少しドキドキしたりするものではありませんの? 一応、同居生活でそのうえ、男子高校生ですのよ? 普通、もっと意識したりするものですわよね?」
「同居って言っても、大人数ですしね……上杉君もバトラー執事長もいますし?」
「龍之助なんかは当初はドキドキしていたと思うのですが……」
「ふふ、それ懐かしいですね。というか今もそこそこドキドキしていると思いますよテティス様。上杉君も男の子ですし、時々テティス様の胸元とか気にしたりしてドギマギしてますし」
「それ私に伝えられても困るのですけれど……」
そうでしたの、と恥じらう表情でテティスはそっと胸元を抑えた。
やっぱり男の子なんだ上杉も、と内心当然のように感想を得る。
「まあ、それ以前にあんな大胆に胸元開いたドレス普段着なら、視線いきますけどね」
「わかってますわよ! けど、しょうがないではありませんか、代々続く由緒正しきドレスなのですから!」
初代より続く迎洋園のドレス衣装。
豪華絢爛な装いだが、あの露出の大胆さにテティスが恥じらいを感じないわけでもない。
だがまあ、そこは置いておいて、
「けれどそれならば日向も可能性はありますわね……。いいですわ、胸元がすーすーして恥ずかしい限りのドレスですが男性へ効力があるなら最早構いません。日向がドギマギする可能性が僅かでもあるなら、着続けるだけですわ!」
「だ、大胆ですねテティスさんは……」
「やけっぱちにしか見えねーけどなあたしには」
ぽちょーんと汗を伝わせるミスラとうるき。
だが、テティスに余裕はないのだ。気づけばすでにエリカとは大差をつけられているのが現実だろう。ならもうなりふりとか構う余裕などありはしない!
「やはり、色仕掛け……男性を落とすには、これしかないのかしら……」
「テティス様。それ最終手段過ぎます」
「着替えシーンとか見てしまったら、日向もきっとドキドキして……」
「テティス様の着替え、我々メイドが徹底防備していますし」
「ありがとう。有能なメイドに囲まれて嬉しい限りですわよ!」
「そんな涙目で訴えられましても……」
「ああ、けれどそう。お風呂を覗きにとか、今思うと心配ですわー。とっても心配ですわー」
覗かれたらどうしようかしら、とテティスは赤い頬を手で押さえながら「ふふっ」と笑い、
「ああ、それでしたら初日に日向君ラッキースケベしましたからね。主人に粗相のないようにと親不孝通りが再発防止に努めておりますから」
照れ気味だった表情は瞬時に石化した。ガラガラと何かが崩れ去る。
「従者の有能っぷりをそこで発揮しなくてもいいではありませんか、ひじき……!」
「そこに関して親不孝通りはこう申していました」
「なんと?」
きょとんとしたテティスに睡蓮はコホンと咳払いした後に、
「『真の従者ってのはな。主に対して艱難辛苦のみを与えてこそなんだぜ』……と」
「ひどいいやがらせですわあー!?」
有能さを発揮しつつ、邪魔をやり遂げる辺りが実に批自棄らしい。
だが有能さの方にはうるきは賛同を示し、
「でもさ、テッティー。流石に風呂を覗かれてもってどうなん……?」
「わかっていますわ。破廉恥の謗りも甘んじて受け入れましょう。ですが――、彼に意識されるには、インパクトが重要ですもの」
「とは言いますが、テティス様? 大浴場は男湯と女湯でわけているのですが……」
「……」
「そんな『なんで分かれていますの?』的に涙目で訴えられましても……」
元からですし、と睡蓮は冷静に告げる。
従者比率で女性に偏っているとはいえ、執事がいるのだから風呂場は別個になるのが至極当然な話である。それゆえ、ハプニングなどそうそう起こりえない。
「なんというか自分の恋の前途多難さに悲しくなってきましたわ……」
「テティス様。恋は頑張るしかありませんよ?」
「昔から睡蓮の恋路の多難さを面白がっていた罰なのかしら……」
「テティス様、ちょっとそこに座りましょうか?」
ぴき、とこめかみに怒りマークひっつけた睡蓮が笑顔で怒りを灯すも、
「……そういや、睡蓮先輩って結局進展あったん不知火とさ?」
「……」
その反応にうるきが「え……」とくぐもった声を零す。
「ねーの? えーっと、あたしの記憶だと、睡蓮先輩、不知火のこと好きになってから、十年以上経過してると思うんだけど……」
「うふふ、うるきさんときたら何を言ってるのですか? 私が九十九の事をだなんて」
「その尋ね方だと睡蓮しらばっくれるだけですわよ、うるきさん」
「しらばっくれてるわけじゃないですし!」
睡蓮が赤くなって怒鳴るが「それもそっかー」とうるきは嘆息を浮かべた。
うるきは御三家の一角として、大地離、迎洋園とは幼少期からの付き合いがある。だからこそ恋路の事情にも一応詳しい――というより、土御門睡蓮が恋愛ではわかりやすいというのも理由の一旦だが……。
(もう随分立ってると思うんだけどなあ……)
うーん、と年上ながら心配に思ううるきである。
「いい加減、進展ないときついんじゃねーの、テティスさん以上に」
「うぐ」
「そうですわね。私よりハードル高いのですから、いい加減積極的アプローチを試みた方がよいのではないの睡蓮」
「で、ですから私は九十九と進展がどうだとか考えていませんし――」
「――あらあら。進展など起こり得るはずがないじゃありませんか」
その時、不意に響く清廉とした声。
穏やかな淑女のごとき声音に反射的に睡蓮が、テティスが、うるきが反応を見せた。それはその声がとても馴染みがあった声だからに他ならない。
声を発した主はなんとも優雅さと、余裕を滲ませた態度を浮かべながらテティスたちの傍へと豪華な装飾の施された車椅子を転がしながら近づくと、口を開く。
「なにせ、そちらのメイドの想い人は生涯、私の所有物なのですからね」
にっこりと。どこまでも自信に溢れた笑みを浮かべながら。
優雅にして優美。
艶やかな黒髪に美しい白い肌。玉座のように車椅子に鎮座しながらも、気品と静謐さを失わない風格がそこにはある。
その少女に対して抱く印象はそうしたものだったと言えるだろう。華やかにして豪華なお嬢様の像が迎洋園テティスに通じ、活発でおおよそお嬢様像とかけ離れたのがうるきとするならば、この少女はまさしく深層の令嬢を感じさせる淑女のごとき静謐な空気を持つ少女である。
表向きは、であるが。
「柩……!」
苦虫を噛み潰す様な睡蓮の声が滲んだ。
柩、そう呼ばれた美しい少女は「あらあ」とたおやかな笑みを浮かべて、
「私のクジュークの幼馴染で土御門の次女であるメイドさん? 感心しませんわねえ、私の立場を考慮すると、名前で呼ぶなど恐れ多いというものではないかしらあ? 恐縮に思わせてしまったら私の落ち度よねえ?」
「これはこれは申し訳ありません、私の幼馴染と家の間柄で主従となられた彊様の長女であるお方に失礼な事をしてしまいまして。ですが、恐れ多いなどとは全く思っていませんので、どうぞご安心くださいね♪」
「あら、そうなの。ふふ、メイドの割に相変わらず躾が足りていないようでしてよ、テティスさん?」
「ええ、そうなんです。あとそんな事はございませんよ、私の主であるテティスお嬢様は主として残念なところが実はそこかしこにありますが、満点に近いお方ですからね♪ 私の幼馴染を所有物とか言い張るどこぞのお嬢様とは違って」
途中、テティスが「ねぇ睡蓮今のどういう」と言いたそうだが、口を挟む勇気は無かった。
「いやね。言い張るだなんて愚かしい。幼馴染というだけで胡坐をかいて、告白の一つも満足にしようとしないメイドさんの言葉よりマシでしょうし。――そ・れ・に、ただの事実でしょう?」
ぴきっ。
睡蓮の笑顔に青筋が張り付いたのをテティスとうるきは感じた。ゴゴゴ、と負のオーラを漂わせる二人に対して涙目でビクビクとしながら。
「ま、また始まっちまったぞテティスさん」
うるきが焦りを浮かべてぷるぷると小鹿の様に震え、ガクガクと悪寒を感じているかのようにテティスは「わ、わかっていましてよ」と互い小声で会話する。
とはいうものの、テティスが何かやれる事と言えば、実に少ない。
正直、二人の関係性の悪さは昔から知っているので、今さら自分にどうこう出来るとも思えない。出来るならとっくの昔にしている話だ。
だから、テティスに出来るのはせいぜいにして、仲裁に躍起になるくらいだ。
「ほ、ほらお二人とも! 今は優雅なお昼時。ミカアカの生徒たるもの、慎み深く、過ごすべきではありませんの? そんな喧嘩腰にならないで――」
「「喧嘩? 一方的な暴力を振るっているだけですよ♪」」
「この方々、自分の方が上と思って譲りませんわ……」
その仲裁も中々受け付けてもらえないのが難点である。
そんな空気の中で、ミスラがパンと手を叩いた。
「と、とりあえず柩さん♪ 立ち話もなんですし、一緒にお茶でもしませんか? 午後の紅茶は心が穏やかになって素晴らしいですし!」
(ようしっ、ミスラさんグッジョブですわぁ!)
(紅茶パワーで鎮静化ってことだな、ミスっちぃ!)
ぐっと内心拳を握るうるきとテティス。
「ほら、睡蓮。お茶のおかわりをお願いしますわ!」
「かしこまりました、テティス様。――ああ、そこのお嬢様も飲みたいというのであれば、センブリ茶をお出ししますよ♪」
「あらあら。そんな貴重なものを。ですが、安心してくださいまし。紅茶の方は私の従者に提供させますから。お招き預かったのですし、手土産がなくてはいけませんものね?」
しばしの静寂。
そして双方から『ギリッ』と歯ぎしりの様な音が聞こえたのはきっと気のせいだろう。気のせいであってほしい。そんな一抹どころじゃない不安を抱えたまま――、お茶会は再び華やかに幕を開いた。
数分の間を置き、茶会に出席する柩は「美味というほかありません」と優しい声音と共に口を開いた。
「午後のティータイムというのは実に優雅ですことよね、テティスさん」
「え、ええ。そ、そうですわね」
「ふふ、本来でしたら、招かれざるお客様などいない素敵な一時だったはずなのですが残念ですねテティス様。ですがこれも家々の仲として一つ耐えうる時というものですよ♪」
「あらあ。急な来客にも対応できないメイドを持つだなんて、テティスさんの苦労が伺われるというものですわね。ねえ、うるきさん?」
「お、おう。ど、どうだろな。あ、あたしはよくわかんねーかな、そういうのはーなんて。たはは……」
「おや、柩様が勘違いなさっている様子ですので、どうぞ言ってあげてくださいな、テティス様。急な来客ではなく、迷惑な客ともいえぬ輩が厄介なのだ、と」
「そ、そう、ですわね。間が悪い、というのもありますし……」
「ふふ、如何に来客が悪かろうとも、従者として礼節をこなすのが職務でしょうに、それが真っ当に出来ないというのであれば、まだまだ半人前ですわね。ねぇ、テティスさん」
「ま、まあ、睡蓮もまだまだ修行の身の上というのも……」
「テティス様。言葉に詰まる必要はございませんよ♪」
「テティスさん。歯に物が挟まった様な言い方をする必要はなくてよ」
「「――ハッキリ、この女に礼儀というものを、教えてさしあげてくださいな♪」」
「貴女たち、実は仲が良いでしょう……?」
頭を抱えながら迎洋園テティスは情けなく突っ伏した。
ギスギスギス。この茶会に響く空気はまさしくそれだった。従者と令嬢、双方の笑っていない瞳からは笑顔と共に紫電が迸りあっている。テティスは隣に腰掛けるうるきの制服の端を摘みながら「あ、テッティーちょい……⁉」逃げられなくなって焦る友人を後目に、はあと重々しい吐息を零す。
土御門睡蓮。
大地離柩。
この二人は、実に仲が悪いのだ。昔から。関係性は幼馴染であり、共に不知火九十九を廻る恋の怨敵同士である。取り合うというより奪い合う関係性というべきか。知り合った頃から幾度となく関係を見てきたが。
(ああああ、高校生になっても全く変わっていませんわあ……!)
睡蓮は柩に対して、とにかく敵対心を見せるし。柩の方もくすぶる事なき、絶対の敵愾心で応答する。九十九が間に入ってなければ、意外と普通に関係性を築けただろうが、恋が狭間にある事でこの二人の関係は昔から一向に変わらないままである。
「なんていうか、ほんと二人揃って引かねーよなあ……」
「恋路ですもの。引けない理由は存分にわかりますけれどね……」
双方が片方へ譲る、という事も一切ないまま続いてきた関係性だ。より根深いものになっていると言って差支えはないだろう。なにより、恋である以上、引くことはないというのはテティス自身、理解する事柄ゆえに口出しする事は出来ない。
「なんていうか恋って大変なんだな」
紫電走らせ、歯に衣着せぬ物言いで会話を交わす睡蓮と柩を見ながら、うるきは嘆息の声を発した。テティスは「そうですわね」と自己を省みながら苦笑を浮かべる。
「ですが、同時に素敵なものですわ」
「そーなのかね?」
「ええ。ですから、毛嫌いはなされないでくださいなうるきさん」
「毛嫌い、か」
うるきは青空を仰ぎながら、ぽつりと呟く。
「うーん、あたしは恋とかわかんねぇなー。父親がアレだし」
「……うるきちゃん、お父さん嫌いだったりするの?」
珍しいね、とミスラが驚いた顔を浮かべる。うるきは「嫌いっつーか」と呟いて。
「いねーんだ、家に。顔すら知らん。生きてるっぽい節はあるみてーなんだけど、まあ死んでてもどっちでもいいや。かーさんもあたしもおざなりにして、どっか行ってちまってるしよ」
「放浪癖ってこと?」
「あるいは捨てたかどうかかな。でも多分放浪癖、なんだと思う。あたしのかーさん相変わらずとーさん好きみたいだし。ただそういうのがあるからかな」
うるきは複雑そうな表情で、
「あたしは男と恋するのが、なんだか嫌だ。何となく、だけどさ」
うるきは男が苦手でも嫌いなわけでもない。
ただ純粋に恋愛に忌避があった。母親をおざなりにし続けている父親の存在がシコリとなってしまっている事はうるこ自身、自覚する事だ。テティスや睡蓮のように恋を抱けたことなどない。恭介の事を面白いやつと、彼の友人を楽しいやつと識別しようと、恋を抱いた記憶は然程もなかった。
テティスは柳眉を下げ、穏やかな表情を灯しながら言葉を発す。
「私は何時か、うるきさんも素敵な恋に出会える事を願っていますわ」
自分は、恋を知っている。素敵な感情だ。
だから何時かうるきにも知ってほしい。テティスの言葉はそんな言葉だった。うるきは軽く肩を竦めて苦笑を浮かべる。
「あんがと、テッティー。まー、かーさんにも言われてるよ。『うるき、うるき! 好きな子出来た? 出来たらお母さんに教えてね♪』ってさ。……はずくて、言えないに決まってるんだぜ、かーさん……」
「真珠様は相変わらず、うるきさんの恋人さんとか楽しみにしてそうですのね」
「そうなんだよなー。あたしその気ないのに、かーさんあたしに恋人出来る時をドキドキして待ってるみてーでさ」
ふぅ、とうるきは一拍間を置くと、睡蓮と柩へ視線を向けた。
「そんなあたしからすると、あの二人見てると色々思うとこあんだよなー。まさしく男の取り合いになってるわけだし」
そう零すと、柩と睡蓮が揃って反応を示す。
「あら、うるきさん。取り合いなどとは互角のような誤解をしているようですのね? 生憎だけれど、私は所有物の主張を行っているだけですのに♪」
「誰が誰の所有物なんでしょーねー、ふざけるのも大概にしないといけませんよ♪」
ダメだ下手な事も言えない。うるきは心からそう思った。
そもそも、こんな事になった理由はあの鈍感筋肉馬鹿なのだ。誰ぞ筋肉を呼んでこい、と言ってやりたい衝動に駆られる。だが、問題は呼んできても九十九がいようが何も変わらず、最終的には九十九の鈍感さで嘆きの死体が二つ嵩むだけなのは目に見えている。
「こんな綺麗な人たちが取り合うて……不知火さんはどういった方なんですか?」
「筋肉かな」
「……あの、うるきちゃん真面目に……」
「鈍感な筋肉かな」
「……えっと……テティスさん?」
「鈍感で罪作りな筋肉かしら」
あ、もういいです……とミスラが身を引いてゆく。なんでそんな顔をするのだろうか? 二人とも真面目に真摯に答えたのに、と不思議そうに小首を傾げた。
「しかし、九十九の奴もなあ……もっと筋肉のこと以外に目をむけるべきだぜ」
「まったくですわね……。ですが難しいでしょう今の時期は特に。普段以上に彼は、筋肉のことしか眼中になくなっているのではないかしら?」
「【大体育祭】……それもそうか」
その言葉を聞いた瞬間にふっと喧嘩していた美少女二人が口を閉じた。
「【大体育祭】……九十九が一番楽しめそうな行事が来ますね……」
「【大体育祭】ですか。クジュークには、我が執事として威厳を示してもらいたいものですわ。問題は、今年も私の愚兄が獅子奮迅の活躍を見せそうで、今からなんとも憂鬱な限りですけれどね、私は。はぁ、ドヤ顔されたらたまりませんね……」
「実の兄の扱いぞんざいだな、柩さんは。否定しねーけど」
うるきが、ぽちょんと汗を伝わせ苦言を呈すも「雑でいいのですよ、あの愚兄は。体育祭で活躍すれば目に見えてどや顔を決める方ですからね」と、小バカにするような口ぶりなれど、どこか温かみを含んだ可笑しそうな笑顔で柩は返答した。
「筵さんですか。あの方はまあ凄まじいですからね」
「ええ。身体能力で言えば間違いなくトップレベルですから、筵様は」
テティスの真剣みを帯びた声に対して睡蓮も重々しく首肯する。
二人は、筵がスポーツマンとして卓越した実力者である事実を、だいぶ前から知っている故に微かにも侮れない事を理解しているのだ。
同時に、それだけ体を鍛え上げた根源となる出来事も全て知っているだけに尚更。
「前年度の【大体育祭】でも筵様の戦績は最上位です。ミカアカも、シラヅキも油断できませんよ、テティス様」
「ええ、その通り。愚兄は――こう言っては何ですが、とことんカスです」
「実の兄の扱い、ほんっとぞんざいだよな。これまた否定しねーけど」
「だ・け・れ・ど。どこぞの筋肉馬鹿が一芸に突出している様に、あの愚兄もその一芸に特化した超人。完璧超人ではなく、超人です。こと、スポーツの枠組みに於いて負ける事は、まずありえないでしょう」
柩は慢心もなく、そう断言する。
その言葉にミスラだけが驚き目を見張る中で、うるき、睡蓮もテティスも否定する事はなかった。全員知っているからだ。大地離筵の身体能力の高さというものを。そしてなにより、その高さの原点を知っているゆえに、子馬鹿にする事も叶わない。
「独壇場にしてしまえる人ですからね、筵様は」
「だけど今年はそういかねーだろ。九十九のヤローもいるしな!」
「ええ。我が執事クジュークが愚兄に一泡吹かせるのを期待していますのよ。まあ、それでは物足りないから、兄の対抗馬がもう少しいたら面白いのですけどね」
「いますの、そんなの? 筵さん並ではありませんし。相手にしようと思う方がいるかどうかという話ですわよ」
「そこは問題ないでしょう。あの愚兄は自然と周囲に敵を作る天才――きっと、しばらく会わないうちに敵だらけになっているに違いないと思うのです」
((なんて嫌な信頼……))
「そのうえ、【大体育祭】まで、父は学校を空けていますから、好き放題やるチャンスでもありますもの。そこを踏まえれば、自ずと諍いは起き始めるかと」
「ストッパーがいないわけですのね……」
すると睡蓮が「そういえば」と呟いて、
「最近は大地離理事は諸外国へ飛んでいますものね。前々からでしたが、最近は特に」
「トルコの時を継起にですわね確か」
「ええ、そうよテティスさん。父はあの時に探し物の一つを見つけたらしく、それで尚更やる気に満ちてきたようです」
今まではあるかどうかも不明な存在を探していた。
だが、それがしっかり実在する――それが火をともしたのだろう、と柩は語る。
「ですので学校行事までは、またしばらく外国かしらね」
「大地離理事も大変そうですわね……」
「テティス様。テティス様も七夕の時期には、少し忙しなくなりますよ?」
「ああ、そうでしたわ……」
うるきと柩は睡蓮の発言にピンときたらしく、なるほどと小さく頷いた。
そんな馴染みの二人の反応に苦笑を零しつつ、テティスもまた七夕を想い、騒がしくなりますわね、と小さく呟きながら温くなった紅茶を一口、すするのだった。
第四章 Gurévič - passione




