プロローグ Monologue de bête bleue
プロローグ Monologue de bête bleue
――ねえ『 』。一つ、恋と愛について語ろうか。
青臭く生きてゆけるのなら、それは素晴らしい事だと思わないだろうか。
求めるものは甘酸っぱさなのか、初々しさなのか、甘ったるさなのか、程よい苦みなのか。挙げればそんなものキリがないね、と言わざるを得ないじゃないか。まったく恋だ愛だというのはどうにも限りが無くて語り切れるものではないのかもしれないね。
正直なところで言ってしまえば、恋だ愛だと分別するよりも、好きだという言葉に内包してしまった方が余程、想いを乗せられるのかもしれない。前にボクの二番目の兄は恋は夢見る気持ちで、愛は慈しむ想いだ、と告げていたかな。中々に奥深い言葉だと感じているよ。想いが紡ぐ恋愛の感情はかくも明瞭に語れぬ程に色彩自在だ。千変万化に個々人の形がある。疎いボクからしてみればあらゆる色を見て、自分の色を完成させたいと心から想った話だよ。
だからなんとも悩ましいところだね。想いはこうも色鮮やかに溢れるものか。素晴らしいと言わざるを得ないさ。
けれど言いたいことはハッキリ言おうか。包み隠すのは苦手なんだ。
Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen.
かく語りき。
語り切れぬ事すらも明瞭に語り続けられるならば、それはどれ程に清々しい話かな。
キミにボクは届いているだろうか?
どうかな、『 』?
気付けば、追憶の光景が広がっていた。
嗚呼、実に覚えのある光景だ。あの時から幾度となく脳裏に刻み付けた、最も黄昏に染まった日の悲嘆の磊落に満ち溢れた情景が浮かび上がっている。
薄紅色にも紫色にも見える花が、一面に咲き誇るの至高の花畑。――踏まれ、踏み躙られ、見る影もなく萎れ、朽ちて、散りゆく様に変わってしまった。
眦を向ければ遠方まで広がりゆく曇りなき水平線の景色。――憤怒を具現化する様に波は荒れ果て、蒼穹色は黒ずみ慟哭を絶叫していた。
灰色の教会が静謐に佇んでいる荘厳な雰囲気。――崩落があり、血が溢れ、神聖さはただの瓦礫に圧し潰されてしまっていた。
何もかもが、瞳に焼き付いている。
憩いの場所の最も穢れてしまった、その最後をどうして忘却の彼方へ追いやれるだろうか。
だが悲しいかな。
そんな情景すらも、あの日のボクには遠い出来事にしか思えなかったというのだからね。
見知った姿が二つあった。
見慣れた顔が二つあった。
見惚れた少女が穏やかな顔で眠っていた。
絶叫するボクがいる。搔き乱された心中で必死に泣き叫ぶボクがいた。長い髪を振り回し、喚き散らすみっともないくらいに悲しみを湛えながら、懸命に腕の中の少女の名前を連呼していた。大好きな少女の大好きな名前を果てなく、限りなく、幾度となく。
呼び続ければ目覚めてくれるなんて泡沫の期待を抱きながらね。
大切な誰かの死を経験した事がない――なんて事は言わないよ。
記憶に刻み、思い出に残る大切な誰かの姿に悼みを覚えた事は数知れず存在する。だから人が死んだとしても、すべてが跡形もなく壊れそうな程に絶叫するなんて事にはならない――はずじゃないだろうか。
然らば、この痛みはなんと例えればいいのだろうね。
全くおふざけの過ぎる話だとは思わないかい? よくボクの兄弟姉妹はこういった場面に於いて、胸に穴が開いたようだとか、胸が抉れる様な気持ちだとか、そういう事を語っていたよ。だから参るね。ことボクはそう言った感情にさえ疎いらしい。
「どこが胸に穴が開くと言うんだッ! 何が抉れると言うのだろうね……⁉」
抱き締める腕の中。誰よりも近く、一番に傍にいてくれた少女の躰を必死に抱き締めながらボクは乾いた笑みを零す他に無かった。
「やめろ。やめるんだ。降るな、降らないでくれ、雨よ――」
それが無意味な事とわかっていながら。
ボクは必死に曇天へ向けて懇願していた。仰ぎ見る余裕など刹那にもいらない。曇り切った空を仰ぐ時間など僅かにも要りはしない。一分一秒でも長く、長く。永久を願いながら、ボクはまだ血色を残した彼女の面貌を見つめていた。
雨よ。
どうか、彼女からこれ以上温もりを奪わないでくれ。
こんなに早く彼女の熱を冷まさないでほしいんだ。まだ感じていたい。ずっと抱いていたい。この熱の火照りを、そんな容易く冷まそうとなどしないでくれ。
そんな嘆願に然程の意味が無いのなんて理解は、していた。しているというのに、ボクの心は堰を切った様に感情の奔流に呑み込まれてしまっている様であった。いや、違うね。奔流そのものと化しているという他にないほどに――ボクの想いは溢れ出していた。
何が胸に穴が開いた様だ、だ。何が胸が抉れる様だ、だ。
「こんな、の……! こんな、にも……!」
気付けば歯を食いしばっていた。
知らぬ間に抱き締める腕に力が籠っていた。
そして双眸からはどうしようもなく涙が溢れ、湧き出て、止まる気配も無く頬を伝い、彼女の美麗な顔立ちに一滴、また一滴と大粒の雫が滴り落ちてしまっている。
胸が苦しい――なんて、言葉で済ませられる気持ちではないさ。
腕が振るえる。足の力がどこかへ去った。耳が音を拾わず、世界と自分が乖離したかの様に思う程、心はすでに嗚咽に溢れてしまっている。
その中で必死に視界よ歪むな、とボクは自身へ語りかけていた。
溢れる涙に止まってくれと念じ続ける。
なのに止まらないとは。自分の躰ながら言う事を聞かぬ愚かさに嘲笑が零れるというものだろう? お願いだ。止まってくれ。視界を歪ませないでくれ。
今は――今は、彼女の寝顔を見続けていたいんだ。
苦しげではない。穏やかに――いつもの彼女が見せる様な優し気な表情を浮かべて静かに眠る彼女の顔はとても安らかだった。あんな事があったというのに関わらず、こんな顔をして去りゆくというのだから。
「キミは――本当に、強い、女性、だよね。最後の……最後、まで、ホン、トに」
言葉が途切れ途切れに口をついた。込み上げる悲哀が喉を震わしてたまらなく辛い。
なんであんな顔を浮かべて終われたんだい?
あの場面。あの状況で。ボクにあんなに綺麗な笑顔を向けながら。
「『 』」
彼女の名前を小さく呟く。
焦がれる様に顔を寄せて、何時か出来なかった、したかった事を眠る彼女に「ごめんね」と囁きながら、彼女の顔に顔を触れさせた。そうして触れ合わせた頬を微かに動かす。柔らかくもあり、温かくもある。けれど、
「逝かないで」
どうしようもなく、冷たさが訪れようとしているのを理解出来てしまった。
温もりが去ろうとしている。それがどうしようもなく、ボクの心を苛ませた。命は死する。そんな当然の理屈、見知った事であるというのに、どうしてこんなにも、彼女という存在が当てはまるだけで全てが変わって感じられてしまうのだろうか。
「逝ったら、イヤなんだ。お願い、だから」
目を瞑ってしまいたかった。
しかし、それをすれば彼女の顔を見ていられない。
苦しくて全身が消えゆきそうなのに、目を瞑ってしまえば、こんな現実は直視しなくて済むのでは、彼女の終わりに苦しまなくて済むのでは――そんな淡くも強い幻想を期待してしまいながらも、ボクは必死に目を見開き続けていた。
なんて矛盾だろうね。
辛い事は見たくないというのに、その辛い事が、その辛い事こそが、今ボクが最も希う一番恋い焦がれている情景だというのだから皮肉な話だ。見たくない現実が最も見続けていたい情景という二律背反。
喉の奥から嗚咽が零れた。
消える。消えてしまう。イヤだ。消えないでくれ。なんでこんなんも願うのに雨粒一つが彼女の躰を覆う度に、躰を躯へ変えようとしていってしまう。命が明確な死へ傾倒してしまう事がボクの心を凍てつかせる様に冷え込んでゆく。
ダメだ。涙が止まってくれやしない。彼女の顔を濡らすことを申し訳なく思いながらもどうしても、どうやっても止まってくれないんだ。
止めてほしい。
他ならぬ誰でもなく。
この腕に抱いた少女が、目を開けて、この涙を変えて欲しくてたまらないんだ。
きっと呆れた様に苦笑を零し、けれど暖かい優しい笑みを浮かべてくれたいつものように、この想いから悲哀を消し去ってくれたら、とどれほどに願っているのだろうかボクは。
たとえそれが叶わぬ幻想であったとしても。
願わずにはいられようはずもないじゃないか。
だって、ボクは、どうしようもないくらいに彼女の事を――。
――うすらぼんやりと意識が漂っていた。
瞼が開く様に、先ほどの光景が彼方へと遠退こうとしている。ああ、参るな。思い出すだけで苦しくて、悲しくてたまらないというのに。どうしてこうなる度に寂寥感に苛まされてしまうのだろうか。まったく自分の未練がましさに苦笑が零れてしまうじゃないか。
過行く景色に無駄とわかっていながら手を伸ばす――ほら、やっぱりなにも掴めず、ボクの手の届かない場所へ消え去ろうとしていってしまったよ。
虚しさ、というものなのだろうか。軽く目尻を下げてそんな事を考えてしまう。
世界は残酷なのではない。
現実も残酷足りえない。
けれどきっと何も出来ないで潰えた日々は残酷足りえるものだろうね。
昔から。
本当に、昔から――思えばあの時からなのだろうかな? ボクはどうにも不吉らしい。誰かが言ったわけではないけれど、自分でそんな馬鹿な妄想に駆られるくらいには、ボクも疲弊の色を滲ませているのかもしれない。
大切に想った相手程、守れない。
慕う相手程に消えてなくなる。
ボクも然して恋だ愛だと語れる経験者ではないけれど。疎いボクにも、経験談から言える事は確かにあるのだろう。
恋とは心の奥底に秘めても浮かび上がる感情で。
愛とは想いを胸に歩み寄ろうとする感情なんだ、とボクは思うんだ。
恋と愛が糸の如く結びついて、想いは心と体の背中を押してくれている。
愛し合う者は心を重なり合わせ、また同時に体を交わり合わせる。心と体。その片方を疎かにする事は愚行だろう。心のつながりも、体のつながりも、等しく価値あるものだ。その一方だけをさも崇高に考えるものは何一つともわかっていないだろうね。
かくいうボクも偉そうに言える義理は無いけれど――それがボクの真実だ。
冷えゆく命に何を感じろと言うのか。
いなくなってしまった相手の温もりは二度と感じられない。
二度とだ。
恥じらい、二の足を踏んで、触れて壊す事を怯えて生きるなど真っ平御免な話さ。大切な相手の温もりを思い出せない現実が来るのならば、そんなものは御免被る話じゃないか。相手が二度と触れられない場所へ行ってしまった後では何もかも遅い。あんな想いを抱くくらいならば、仮にもう一度チャンスが巡るというのなら、心の鎖など取っ払って、全てを曝け出してキミの前に現れたいと、そう思う。
嫌われてしまうんじゃないか、という思いに幾度となく駆られたこともあるけれど。
そんな恐怖心よりも覚えておきたかったんだ。覚えて、記憶に焼き付けたかった。
キミがいなくなったとしても、この体にキミの熱が籠り続けてくれるくらいにずっと抱き締めていたいと願い続けていたんだ。
抱き締めたいという願いに反して腕は臆した様に怯えてしまう。
抱き締めてずっと放したくなんかないという想いに比例して、キミがどんな顔を見せてくれるのか期待と不安に彩られた空想があったものだよ。
だからこそ。
移り変わる表情が見たかった。
季節が変わる様に色彩鮮やかなキミの表情を命続く限りにずっと、ずっと。
もしもこの思いが重いと断じられてしまうとしても。
ボクはキミを二度と放したくないと星に誓いを立ててしまうんだ。
「――嗚呼、もう。困ったな」
何か頬を伝ったと思ったら、またこれか、とボクは歔欷を隠す様に苦笑を零していた。
「涙はどうしてこう枯れ果ててくれないものなんだろうね」
不意にそよ風が吹き抜けてゆく。長く伸ばした髪がふわりとそよぐので軽く手で押さえながら風の行き先を瞳で追いかける。
綺麗な薄紫色の花園が風に揺れてざーっと騒ぐ。船出日和に思える程に澄み切った海の青がたまらなく心地よく、無窮の空を何気なく仰げば飛び立てそうな程の青空が広がっている。
そんな場所にただ一人というのは、なんというか本当に複雑な心地だよ。
トン、と杖を突き静かにボクは足向きを翻す。来るべき時は、そう遠くはない事を感じ取りながらボクは静かに風に逆らう形で歩き始めた。
「もう二度と」
大切な誰かを失いたくなんかない。
――『守れなかった』、なんて言葉を吐く時は心が終わる時なのだから。
プロローグ Monologue de bête bleue




