第三章 傷が癒えたら、また羽ばたいて
第三章 傷が癒えたら、また羽ばたいて
1
日向とルディロが戦闘を繰り広げて二〇分近く経過した頃。
我那覇の砲撃によって瓦解した部屋に日向と共にいた彼らはと言えば、
「ええいっ! ボサっとするな、探し出せぇっ!」
アルグールの指示の下、近衛兵士足るブルーボーイ、マリコン、ビーシャ、浄夫の四名は前方の通路に至る道筋の中で脇道にいないか、室内にいないかを事細かに確認していた。
捕虜を寸前で取り逃がすという失態をした事に対してアルグールは声に怒気を込めた。部下四人に始末を任せた後に隣の部屋にて週刊誌を読み耽り、砲撃が突然、近くで起きた事で動揺してパニックに陥り、隣室へ駆けつけるまでに無駄な時間を浪費したという事実をこっそり秘匿にしながら。
当然、そんな事知らない同性愛の衛士四名は失態故に探すのだが、
「それにしても……」
「どうかしたかレイリア?」
「ああ、いやな……。何と言う失態。目の前で大事な美少年を取り逃がすとは……まだ味見しかしていないんだぜ?」
「味見ならいいじゃないか、レイリア。俺なんか何もしてない……服を剥ぎ取った高揚感だけだぞ?」
「ぐふふ。それなら俺は勝ち組だな。涙、舐めた」
「フッキング貴様あ……!」
「くぅ……! 羨ましいですねぇ、皆さん……! 僕なんか、すべすべの太ももを撫でまわしただけだと言うのに……!」
皆、一様に後悔の念に駆られていた。
あそこで砲撃が直撃さえしなければ美少年を味わい尽くせたのに、と。しかし逆の立場こと弦巻日向からしてみれば砲撃が起きた事で軽傷で済んで幸いであった。本人完全な忘却を夢見ているが、砲撃直撃前にされた事を思い出せば発狂ものである。
そしてそんな会話を訊きながらアルグールはうわぁ、と言う引き気味の表情になっていたりするのだが、会話に熱中、男に熱中する同性愛者たちは気付く気配はない。
そもそもなぜ、自分の近衛兵士は全員、同性愛者なのだろうかと言う事から始まる為に追及をする体力は無いが。
普段考えない様にしているが、こういう時は嫌でも考えさせられる。
能力重視した結果、こういった結果になった……と、いうのはまず間違いないのだが強い連中が揃ってホモという奇跡をどう処理すべきなのかアルグールには見当もつかないのが事実。今回の件に至っても、本当に正直な話をすれば興味があるのは迎洋園の息女だけだ。
日本で名家の一つとして名高いらしく、使い道がある。と言うのもそうだが、男としてあの美貌の少女は実に逃しがたく、男としての本能が疼いたというのは否定しない。
しかしこと少年に至っては別にそこまで興味は無かった。
「あのセキーという掴み所のない怪しい男の息子と考えると……あまり関わりたくはない。関わったとしてもさっさと殺すなりなんなりしてしまいたい、と言うのが本音なのだが、な」
自らを自嘲する様に呟く。要は面倒事に関わってしまいそうな……そんな感覚を抱いたからこそアルグールは関わり合いを持ちたくないのだ。
如何せん美少年という事で男食四人衆の欲望が刺激され、捕獲に走っている結果だが。
後は責任者として逃走した捕虜を逃がすわけにもいくまい、というプライド絡みの部分くらいであった。故に発見しようが、発見されなかろうが、彼としては本音の話をすれば別段どちらでもいいのだろう。
「……む?」
アルグールがそう考えていた、その時だ。部下の一人、浄夫が「ハマー隊長。こちらへいらしてください」と急かす声が届いた。アルグールは僅かに動作を早めて速足でそちらまで赴くと、そこには、ある痕跡があった。
「……これは……」
痕跡の後は斬撃であった。幾筋もの斬り跡が鉄製の壁についており、別の部屋へ別の部屋へと繋がっている。何度か切り付けており、比較的短い痕跡。
「……ブロドの戦闘痕か」
「おそらく彼のサバイバルナイフの斬り跡ではないか、と……」
「なるほどな」
この痕跡を辿れば、おそらく少年を探し出す事は可能であると察する。
純粋な鉄ではなくほぼ石による壁であるが、ナイフで切り裂くという行為は基地内ではルディロしか出来ないだろう。ならば彼を追って切って切って切りまくったと言ったところであろうか。
ならば追うしかあるまい。そして精々、臓器売買で小銭は稼がせてもらうか、そう考えながらアルグールは痕跡の続く方へ指さし、今まさに指令を下そうとした瞬間である。アルグールの耳に『どぺらでっぽい!?』という悲鳴が響き渡った。何だ、と思うより先に隣にいた浄夫が機敏な動きで通路へ飛び出る。
「どうした、無事か、君達!?」
「ナンタイサン!!」
「むふふ。ああ、大丈夫だ」
「HA、生憎と今の声は俺達じゃあないぜ、残念だったな」
男体山の声に反応する聞きなれた声。とすると、四人は何事もないようだ。
何かがあったのは別の奴と言う事か。通路へ顔を出して、床に転がる炎に包まれた一般兵士の姿を見ながらアルグールはそう認識した。しかし、それよりも興味は別へ移っていた。
「あら、これは……少し幹部っぽい皆さんのお出ましですね~♪」
「みたいですわね。見覚えありますわ、つい最近に」
見つけた。アルグールは目の前に現れた二人の少女を見て、内心で悪辣な笑みを浮かべる。同性愛者でない彼の矛先はノーマルであり、だからこそ純粋な欲望を向ける相手が現れて、さぁどうしてやろうか、といやらしい考えを浮かべる。
同時にバカな女だと内心で嘲った。逃げておけばそれで済むものを未だにこの場所にいるとは相当な命知らずだ。
隣にメイドを従えさせているが、だから何だと言うのか。
執事ならば幾分、慎重さも兼ね備えたが見た限り武器らしき武器はない少女。加えてこちらの少女も相当な美しさだ。両方捕えて可愛がってやろうか、と顎に手を添えて考えながら、まずは捕獲だな。と、狩人側としての思考を巡らせる。
「どうやらその様子ではあえて向かってきたらしいな。何故に向かってきたかは知らんが……その判断は愚行と知るがいいだろう」
女二人で屈強な男四人。自分も加われば五人である。
「迎洋園の方は、件の剣を持っている様だが、女の剣術等、高が知れる。槍術に使えそうなものを持ってこないとは愚かな……」
周囲に聞こえぬ程度、気取られぬ程度の声を口の中で転がした。
槍術で兵士を看破したのだろう、と内心で呟き、アルグールは告げた。
「生憎と我が兵士『男食四人衆』を舐めてかかると酷いぞ。何故なら彼らは性癖こそアレだが戦闘のプロフェッショナル!」
「性癖が自己紹介に出てくる時点でどうなんですの……?」
テティスのツッコミを素知らぬ顔でアルグールの指令が飛んだ。
その言葉を引き金に四人がニヤリ、と笑みを浮かべたと同時に雄々しい音を響かせ強く床を蹴り飛ばし一気に駆け抜ける。筋肉質な肉体で巨漢だがことのほか素早い。
その中でも格段に跳び抜けるものがいた。天井近くまで一度で近づき、両手にメリケンサック代わりのものを掴み鷹の如きポーズで迫る兵士。
「一人はマリコン=チャマルティン! その跳躍力による中国拳法の鷹爪翻子拳から成る両手のガムテープを用いての拳の痛烈さバウンドパワーにより多くの老人の首の骨を折って殺害してきた殺戮兵士!」
「ホワッチャァーイ! 私のガムテープホークブロウの力を見せてやろう! 勝利者は何時でも諦めない者から生まれる。そう粘着質の差が勝利の鍵なのさ!」
続いて右側から果敢に攻め来るジャケットを脱いで上半身裸。ボクサーブリーフを履いているグローブに缶詰を持って迫る兵士。
「一人はビーシャ=レイリア! ボクシングの達人であり今では実戦型ボクシングへと至った拳撃の悪魔! 得意技はグローブに仕込んだ缶詰ことシュールストレミングにより相手の嗅覚を死滅させる極悪非道な傭兵だっ!」
「HAッ! 俺の拳は年中KUSAIぜッ! そしてお前は俺に勝てない。何故ならばお前には俺の姿を捉える事は出来ないからだ!」
加えて左側から両手に黄色い物体の入ったバケツを掴んで、青と白のジャージに身を包んだ日本人の男性が迫り来る。
「一人は男体山浄夫! 日本にて世界最強の球技サッカーを体全身に染み込ませ、その俊敏な動きで相手を攪乱し自家製バケツプリンを相手の顔面にべちゃっと叩き付け不快な思いをさせる強烈な蹴りを操る外道なサッカーだっ!」
「悪いね。カラメルソースの悲劇を味わうといい、お嬢さんがた! 全ての敗因はこの僕を見くびった事さ!」
そして地面すれすれからぎゅるるる、と足を回して近づくものがいた。
「最後にブルーボーイ=フッキング! ブラジルの奥地で学んだ戦闘技術カポエイラを習得し戦場で地雷を仕掛けては一般人を盛大に虐殺する地雷とカポエイラを組み合わせた体技ジラプエラを操り熟す残虐無比の殺戮者!」
「ぐふふ。予想外だったかい。君は今まで地雷とカポエイラの組み合わさった攻撃を受けた事はないだろう。未知の攻撃を見る事になるだろう。それが君の敗因だと知るがいいね!」
上から鷹爪翻子拳ガムテープ流使いのマリコン。
右から実戦型ボクシングシュールストレミングスタイルのビーシャ。
左から世界レベルのバケツプリンサッカーを操る浄夫。
下からは地雷とカポエイラの混合流派ジラプエラを扱うブルーボーイ。
この完璧な布陣を前にアルグールの顔には勝利の二文字しか宿っていないかの様だった。
「さぁ、どうする、迎洋園よっ!」
その言葉にさして驚きも怯えも感じた気配を全く見せず……、手に持っている赤い折鶴四羽を前方へ投げつける少女の姿があった。
「土御門『火』式陰陽術――〝火鳥閃光〟」
迎洋園のメイド、土御門睡蓮は『火』式の中級で蚊を払う様に薙ぎ払った。
『のっぼぺぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええいっ!?』
怒轟ッ!
息をする間もなく空間に凄まじい火炎が舞い広がった。火の鳥の形をした炎は一瞬、男四人の元へ現れたかと思えば次の瞬間には光が爆ぜるかのように煌めきを放散したかと思えば周囲をゆらめく大火炎が辺りを満たし尽くす。同時に空間から少しだけ息苦しさを覚えてテティスが少しだけ喉を抑えた。害が出る程ではないが酸素が減ったのだろう。
そして次の瞬間にはメラメラと炎に包まれて焼け焦げた四人が僅かに時間に間を開けてどさどさどさどさ、と床へ力なく崩れ落ちる。
その四人の意識は完全に途絶えている。
あまりの事態にアルグールは思わず信じられないと言う声を零す。
「バカな……。こ、こんな……こんなバカな事が……!?」
「いえいえいえいえ……?」
バカなと申されましても……と、言う苦笑を浮かべる睡蓮を余所にアルグールは混乱の極みであった。『まさか男食四人衆が敗れるとは』……それは、彼にとって信じがたい光景だ。老人やら子供に女と虐殺の限りを尽くした最強兵士達がこうも呆気なく敗れ去るなどと言う事がありうるのか。
こうなると話は違ってくる。
男四人を一振りで打倒すメイドを抱える迎洋園家。恐るべし結果である。
「いえ、あの、これを基準にされると私は悲しいんですが……」
その顔が語る評価に睡蓮は困った様に苦笑しながら反論を述べているのだが、耳に入っていない為に信じられないとばかりに動揺を隠せないアルグールであったが自らの身の安全には耳は鋭い様で「……まぁ、とにかく貴方には幾つか聞きたい内容がありますし……」という睡蓮の声を聴くと、と汗がぶわっと噴き出すのを感じた。
ここにいてはまずい。
そう考えると同時にアルグールはくるり、と来た道へと翻し最大速度で走った。
「! 待ちなさい!」
けれども相手は土御門家の次女、睡蓮。容易く逃がそうとするわけもなく、懐から取り出した折鶴を投げつけた。
「〝火覆い〟!」
相手に覆い被さる巨大な布の様にぶわっと赤い炎がアルグールを包み込む様に燃え上がる。
「――ちぃっ!」
しかし、その火は不思議な事に当たる直前で火力がふわり、と弱まった。勢いも熱量も弱まった自らの術式に違和感を覚え驚いた睡蓮は一瞬茫然としたが、すぐにはっとなって「待ちなさい!」と追おうとするが、
「待ちなさい、睡蓮。そちらは構いませんわ」
「お嬢様?」
突然、そう告げられて睡蓮はきょとんとする。
あの男を追わずしてどうするのだろうかと言う話だが、テティスの視線が向いている方向の切り傷に塗れた壁の穴を見るとすぐさま察した様子で砂と方角の描かれた紙を取り出して呟きと共に発動する。
それを食い入る様に見ながらテティスは問うた。
「どう?」
「……間違いなさそうですね、痕跡はこちらの方から……小さいですが戦闘音の様なものがします」
「ですわね。先程まで聞こえなかったという事は……」
激化していると言う事か。
テティスはそう結論付けると行動は実に速かった。
「急ぎます。ついて来てください、睡蓮」
「了解です」
同じ日本人が窮地に至っている。土御門睡蓮はテティスの呼びかけに応じて、名も知らぬ何の繋がりも無い異国の地の少年を救出すべく主と共に疾く駆けるのだった。
時を同じくして、別室。あの二人の少女から逃げ延びようと必死なアルグールは非常階段のある小さな部屋まで走って荒い息をどうにか抑えんとしていた。
「バカな……。男食四人衆が手も足も出せずに敗れる等……!」
戦えば強い。それが男食四人衆だった。しかし戦う前に一方的に蹂躙され戦闘不能となってしまった現実にハマー氏は落胆とショックを隠し通す事は出来なかった。
「どうすればいいのだ……?」
あの二人を抑え込めるのか。一般兵士は先程から雑兵の様に蹴散らされてしまった。
「残る戦力と言えば石化の『定式』を持った……、名前なんだったか……ええい! 後は長方形のあ奴だが……奴は戦闘では使い物にならん……!」
それ以前に今はここにいないのだ。
基地内で残る可能性は石化の男とブロドくらいでしかなかった。
「さしものブロドも、もしも三人がかりをされれば倒されるやもしれんし……」
残る傭兵では手出しが出来ない。
「ツルマキセキーは……」
あの男ならばどうだろうか、と考えた所でかぶりを振る。
「くだらん、情報通でしかない奴では無理だ」
確かに戦闘技能もそこそこであったが、あの連中……。もとい、メイドと戦わせては負けは見えているだろう。情報や隠密行動には長けていたが今重要なのは戦闘力だ。自体を逆転出来るだけの圧倒的戦闘能力。
そして残る一択。これがあった。
「そうだ……。迎洋園の娘を誘拐すら成功させた、あの男ならば……!」
現在はトルコへ赴き、某有名コーヒー店で呑気にコーヒーを飲んでいるであろう、あの男ならば……必要な時にしか駆けつけないが十分だ。必要な時にしっかり駆けつける、基地内で最強の傭兵なのだから。
そこまで考えてアルグール=ハマーは口元に勝利の笑みを深く浮かべる。まるで確定した勝利を得たかのごとく。
「最後にして究極の一手だ」
あの少女らでも確実に屠るだけの。
「お前たちの敗因……。それはな……、私を生かした事なのだよ」
絶望的状況を打開する一手の為に、アルグール=ハマー隊長は携帯電話を片手に勝利への布石を作り上げるのであった。
2
戦いの火蓋は蹴って落とされた。
人体に減り込む左の蹴撃はルディロの右脇腹へ微塵の手加減も無く叩き込まれ、相手を弾き飛ばし左側の壁へと否応も無く叩き付けられる。
ごぁっ、という零れた呻き声を耳に心地よく感じながら日向は左足で軽く踏み込み左の壁へと跳躍し、続けざまに右足を伸ばし引き締め壁を穿つ様に蹴り上げた。けれど、その一撃は壁の硬い感触であり、人間の身体の柔らかさ、人肌の感覚は味わえず、むしろ自らの足に微かな白銀の煌めきが通ろうとするのを知覚して足を素早く引き戻すと同時に先程まで足があった場所へ右下から逆袈裟切りが素通りしてゆく。
「ありゃ、外れちゃったか」
という簡素な言葉を述べながら、ルディロはくるくると左手に持ったナイフを続けざまに振り抜いた。袈裟切り、逆袈裟切りと斜め一閃にひらめく斬撃を日向は俊敏な動きで回避しながら好機を窺った。
生憎な話だが、現在の日向に武器と呼べるものは存在せず、脚をメインに無手にて対応を図る他に無い。一流の体術家であったならば迫る白刃を拳で逸らしたり等出来たのやもしれないが日向にそういった技巧は無い。彼は体を鍛えこそすれど拳法を学んだ記憶はあるわけもなく、積み重ねた技術は三カ月前に訪れたこの地で培えた銃器の扱い程度であった。
だがその銃器も現在はアルグール=ハマー等によって没収されてしまい、愛用のコンバットコマンダーも例え回収できたとしても夜襲の折に防衛に使った影響で銃口が曲がっており一発放てば暴発する可能性も存在していた為に使えるべくも無かったのだ。
そうなれば日向に残された戦闘方法は脚しかない。
日向は幾度となく閃く剣閃を掻い潜りながら、右手へ持ち替えたナイフの水平切りを避けた際に僅かに生まれた左脇の空間を視界に収めると同時にブォッ、と吹き抜ける様に駆けた。
耳に「いっ!?」という少し驚きを含めた声が響くと同時にルディロの咄嗟に振り下ろす左腕の肘をぱしっと右手で防ぐと連続的に左拳を雄叫びと共に脇へと叩き込んだ。
ガァッ……!? っという痛みに歪めた表情と声を上げたが次の瞬間に彼は先程の表情は何だったのだ、と思わせる程に生き生きとした表情を浮かべると、
「はははっ!! いってぇっ!! すっげぇ痛かったよ、お嬢ちゃんさぁッ!!」
頬を染めて嬉々とした顔で語る。
その表情を見て日向はルディロの異様さにと驚愕し目を見開いた。悦んでいるのだ、傍目どう見ても明らかな程にルディロは悦楽に魅入られていた。
弦巻日向の人生の中で、統治のなされている日本では、そうそうお目の掛れない存在である事を認識する。日向の脳内に浮かぶ言葉は一つであった。生粋のバトルマニア。初対面で第一印象は友人を殺した男であった事から憎しみで視て、その後の行動から殺人を快楽としているのか、と考えた。
いや、実際の話をすればルディロと言う男は否定しようもなく殺人を悦楽とする人種であった。しかし加えて生粋のバトルマニアでもあった。相手を傷つける事と自分が傷つく事の両方が彼にとって楽しくて仕方がない、戦いも殺しも彼にとって一重に楽しみというものだ。人種としてまず違う。
だけど、そうなると……! と、言う切迫感に似た感情が走る。
如何に倒すべきか、と考える。おそらくは負けを認めるタイプではない、またそもそも勝ち負け等どうでもいいのではないかと勘繰る。
戦闘と殺生を悦とするのならばある程度追い込んでそれで終わりにはなるまい、ハーリス君を殺した事も謝罪の念があるとは思えない。そもすれば自分に出来る事は一つ。倒しきる事だけであると判断し、日向は更に速度を上げた。
「うっわ。はやっ」
更に速度を増した日向を見てルディロは感心した様に呟いたが、
「だけどさ~」
俺も結構速いんじゃないっすかねぇ、と口に笑みを浮かべて呟くと同時に日向の足首ががしっとルディロの左手に掴まれた。
「ッ!」
日向がまずい、と思ったその一瞬の間に太ももに違和感が走り抜ける。
同時に熱い血飛沫が噴出した。
「――ぐっ、……ツァっ!」
日向は即座に残された足でルディロを蹴り飛ばして距離を空ける。すぐさま視線を右太ももへと向けると、そこからはだくだくと流れ出る血の川が出来上がっていた。
少しだけ深くいったか、と痛みから認識しながらも、ここで止まっているわけにはいかないのだ。日向は蹴り飛ばしたルディロの元へ駆け即座に距離を詰める。その行動を見て、
「おいおい、正気かよ? 蹴り飛ばされたおかげでこっちは切り伏せるタイミング掴めてるんだけど?」
と言ってくるが了承している。
蹴り飛ばした後にすぐさま追撃すべきだったかも知れないが足の状態を見た事で一瞬の空白が生まれ、現在ではこちらがせめて相手が迎え撃つ。ナイフと蹴りで有利不利は相手にある。加えてナイフを投げられたらそれはそれで厄介極まりない話だ。けれど、こちらとて考えなしで突っ込む気はない。
日向はあと一歩分という所で自分の衣服代わりのシーツ突然にを《ビリリィィィ!!》っと文字通り布を引き裂く音を響かせたかと思えば一部を破ると前方へと投げつけた。
「んなっ!?」
驚きましたか? と問い掛けたい。
先程までの会話で相手が自分を『女』として誤認している事を日向は理解していた。ともすれば今の様に衣服を引き千切るのは中々に羞恥のいる事だろう。けれど、生憎と日向は男だ。
突如胸元付近の衣服を引き千切った事に関してルディロは驚かないまでも違和感で固まった事だろう。――そこを突く。日向はこれまでで一番の速度でギュンっとナイフを持つ右側へ移動し、渾身の力を込めて蹴りを叩き込んだ。
めぎ、という不快な訊きたくない様な音が乾いた空気に鳴った。
同時に顔面にシーツを被せられ視界が不良なルディロがビクンと痙攣したかの様に一瞬体を仰け反らせた。だがそんな事は気に留める気はない。日向は脚に込めた力を最大に放出するべく蹴り抜く。ボギボギィと骨が軋むどころではなく、砕け散ってゆく音にゴム手袋がねじ曲がる様にぐちゃりと変形してゆく腕の皮膚、ビクンと魚が跳ねる様に痙攣する光景を目に収めながら――ルディロは壁へと激突した。
そして辺りに響くような衝撃が駆け巡ったと同時にルディロの右腕が力なくだらんと揺れて動かなくなった。
白刃の刃は遠く離れた場所に乾いた音と共に床へ落ちゆく。
「……折れた、か」
どうにか重傷を負わせられた、と手ごたえを感じた。これで戦力は大幅に削られたはずだ、と日向は考える。
ナイフ使いは片手でも問題ないが、腕の痛みと加えてルディロは両手で持ち替えてのフリー性の高い攻撃を得意としていた。だがこうなれば左腕のみの安直な攻撃が目立つはず。状況はこちらが有利になれそうだ、そう日向が思った時。
「ふへへ……ちょー痛いんじゃないっすかねぇ……♪」
とルディロが愉しそうな声を洩らした。動く左腕でそっと引き千切ったシーツを掴むとずるっと顔から剥がす。その顔を見た時日向は思わずぞっとする。痛み等大したことでもないと言う様にルディロの表情は恍惚と輝きを放っていたのだ。
そして折れて動くのも難しいであろう右腕をだらんと肩から持ち上げると、
「ひゃひゃっ。すっげぇ全然動かねぇじゃん……♪」
目を嬉々として光らせながら呟くと日向を見ながら「やっべーっ。久々に楽しくなってきたよ、可愛いお嬢ちゃ…………ん……んんん?」
そこで初めて自分も理解できるような訝しげな表情を浮かべた。その目から察するにようやく誤認していた事実を修正出来たのだろうと思う。肌蹴た上半身をじーっと見ていたルディロは、疑心暗鬼と言った様子で問い掛けた。
「……もしかしてぇー……。…………男?」
日向はこんな時なのだが死んだ魚の目をしながら「ええ、まぁ……」と少し前の惨劇を思い出しながら肯定した。
「そっかぁ……。男とは意外だったっていうか、普通に女の子だと思ってたなぁ……。ごめんなー失礼な事して」
そこで日向が予想外だったのはルディロが本当に申し訳ない顔を浮かべた事だ。本心から現れている謝罪の念。そう言ったものが彼の表情に濃厚に表れていた。
「え、いや、別にいいですけど……」
「そういうわけにもいかんって、性別を間違えるとかマジでありえねーわ俺。マジでゴメン」
意外と良識的なのだろうか、と日向は思ったのだが、その考えも次の一言でやはり良識的ではないと考える。
「そっかそっか、さっきの男の子どうにも日本人じゃないなーって思ってたら……。アレ別人で君の方が俺の標的だったってわけなんだねー」
うんうんと納得した様子で数回頷いて身を乗り出す様に目を輝かせて問い掛けた。
「じゃあアレか。君は好きに殺してオッケーって子の方か。嬉しい、マジ嬉しい、ガチで嬉しいんだけど! 女の子って思ってた時は『殺せないじゃん!』って内心嘆いてたんだけどさー。とんだサプライズだわ、本当感激したっ!」
「別にあなたを喜ばせる気はなかったですけどね……!」
「そなの? まぁいいや。そんな事より俺は……君が男の子で俺が殺しても問題にならない相手ってのが嬉しくてしょうがないから、どうでもいいや!」
そう告げてルディロは左手で懐からスラリ、とナイフを引き抜いた。
今までのナイフと大きさ刃渡りに差異は少なく一五センチの黒のグリップだ。しかし何と言うか輝きと鋭さが今までと格段に違っていて良く切れそう……、そんな印象を与えた。大概のものを一振りで切り裂けてしまいそうな威圧感を……。
そんな視線を見てルディロは嬉しそうに、
「ああ、これ? これは俺が普段から研いでるナイフでね。俺の師匠から渡された一品で一番大切なナイフなんだぜー!」
師匠とやらが誰かは当然知らないがそのナイフの威圧感とも言うべきものを感じて尻込みしそうになる気持ちを抑えつつ不敵に余裕を見せようと笑みを浮かべて、
「……そんな代物を使って頂けるとは光栄ですね」
「君結構タフで結構速いじゃん? 何か面白くなってきてさー♪ ってなわけで……久々にこいつで相手してやるよ♪」
ついでに、と小さく声を洩らして「ちょっと本気で♪」
そう告げたと同時に日向の目の前にゴッ!! っと一気にルディロが詰め寄った。なるほど、速い――日向は彼が中々の速度を持っている事を戦闘中に理解していたから驚くことは無く、次に振るわれるであろう剣閃を避ける事だけに意識を集中した。
そして想定通りに左腕が水平に薙ぎ払われ日向の首元へ瞬時に迫る。しかしその剣閃を上体を右へ逸らす事で回避した。
避けられる事は想定通り。しかし次の瞬間、日向としては些か驚く光景が生まれる。ザグン!! と五センチほどの深さの斬り跡が生まれたのだ――壁に。
バカな、と思う程の驚愕。日向は目を見開いた。
鉄か石で作られている様な壁なのだ。
それをナイフでこうも易々と深く切り裂くだなんて、と日向は驚いて思わず後ろへと飛び退いた。そして唖然と佇む日向に言った。
「言ったじゃんかーちょっち本気だって、さ♪」
基地外部では迎洋園家従者部隊。基地内部では日向が戦闘を繰り広げている頃。
一人の少女が数多の一般兵士のいる道を自由に闊歩していた。
少女の名は親不孝通り批自棄。
その服装は迎洋園家の制服ことメイド服。色素の淡い黄緑のショートヘアーに黒色の瞳の少女だ。顔にはまるで絶望と言える程に影がかっていて判別が難しい。その暗さ、絶望感をかもしだしながらも、何故だか覇気のある佇まいが特徴的であった。
そんな全体的に影がかかった神がかり的な少女、批自棄。
彼女は基地外部で我那覇蹂凛の援護をしているであろう飛行少女、幽の倉沢玉喪と二人で迎洋園家の禍々しき双璧と呼ばれ親しみを持たれる少女であった。
少女はてくてくと短い歩幅で歩きながら呟いた。
「What's up諸君。HEYHEY、戦場。今日も陽気に能天気に朗らかに気色の悪い良い日だなあ、オイ」
批自棄は実に軽い口ぶりギラリと眼光を輝かせながら威圧的な声で発言する。
何なんだ彼女は、と周囲の一般兵士達は思った事だろう。中には雰囲気的なものから逃げ出したりした兵士もいた程だ。そして逃げた面々は正解だったのだろう。
「AY YO。酷いじゃねーか皆々様。話くらい訊いてくれたっていいじゃあねーかよ? くつくつくつ」
不満げに、けれど何処か面白おかしそうに批自棄は首をだらしなく振りながら呟く。その周囲に見える光景は実に阿鼻叫喚な構図であったと言える事だろう。何故ならば周囲の兵士達は皆一様に倒れ伏していたからである。崩れ伏す者たちは身体の節々を抑えており、その場所からは血が流れ出ていた。
一人が小さく呟く。信じられない色を含めて呟いた。
「何が起きたんだ……?」
その発言を待っていたとばかりに指で相手を見ないまま差しながらニタァとした笑みを浮かべて愉快そうに言い放つ。
「はい、そこ返答big upッ!」
「ひっ!?」
「やーやーそんなに怯えてんなっての、傷つくぜぇオイオイ? そんなに怖がられると自殺したくなるってのになあ、私は」
「くっ……!」
何が楽しいのか影の差した表情で口に笑みをたたえながら拳銃をトンっと頭に押し付ける少女の異常さを見て兵士の一人はびくりと震えながらずりずりと後ろへ後退しながらも、床に転がる一丁の拳銃を手に持つと震える腕で批自棄に構えた。
そんな行動に微かな動揺すら見せずして批自棄は、ニヤァと悍ましい笑みを浮かべる。
「銃弾来るぜ、わーいっ。さぁさぁ射殺を御覧じろよ、兵士諸君」
死ぬのが怖くないのか、と兵士は想う。しかし批自棄は実際、死ぬことは怖くない。そもそも死ぬ事が怖い瞬間は何時来るのかが彼女の追及すべき目標だからだ。
「はははっ。撃っちまいな、YA。撃ってくれて構わないんだぜ、私はな」
「……っ」
撃つべきか撃たざるべきか。そう考えていた折に別の場所で倒れる兵士の一人が叫ぶ様に声を上げた。「止せ、撃つな!」と言うの理由は意味不明ながらも大体わかっているわけなのだから撃つには躊躇いが生じていた。
その戸惑いの数秒のうちに複数の足音が響き渡った。
「おい、お前ら大丈夫か!?」
「ここに一人侵入者いるぞ!」
「お前ら早く来い! 侵入者のガキが一匹いるぞ!」
「小柄で可愛い、がっつりキスしてぇええええええええええええ!」
「おい、此処にロリコンが一人いるぞ!?」
騒ぎを訊き駆けつけた五人の兵士の姿である。倒れている兵士達は援軍の存在に歓喜すべきであったのだろうが今の彼らにはむしろヤバイ、と意識してしまう現実でしかなかった。
そして予測通りにジャキ、と機関銃四丁が構えられる「ロリに何をするか貴様らぁあああああああ!」と言う何故か敵を庇う発言に「お前は味方の背中に銃口押し付けてんじゃねぇよ!」と口論する中でも批自棄は怯える気配もなく威風堂々と暗がりで哂っている。
一人を除いて四人は何か嫌な予感を感じていた為に容赦なく引き金を引いた。
あの相手を見逃してはならないと言う感覚から射撃する。しかしそれが間違いであり嫌な感覚は別の理由から起因している事を推察出来なかった彼らを悪いと断じる事はまず出来ないだろう。
「ってぇっ!」
一人が勇ましく言い放つ。その声と共に断続的に無数の銃弾が放たれた。
しかし次の瞬間に奇妙な事が起こった。放った銃弾全てがぐにょぐにょと有り得ない軌跡を描いて壁に被弾、加えて倒れている兵士達の身体にまで着弾。兵士達の悲鳴が聞こえた事も同時に射撃した自分達にも痛みを感じて倒れだす。
「っつ。脚に……!」
一人は足に、
「俺は腕だ……!?」
また一人は腕を抑えて。
「俺、頭……」
別の一人は茫然とした表情でゆっくり倒れる。
「一人逝ったぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「俺なんか……股間のアレに……」
二人が声を揃えて仲間が倒れ伏す光景を見る最中にも別の一人が股間を抑えながら赤い水たまりを下に作り出しながら崩れ伏す。
「別の意味で一人逝ったぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「幼女の可愛さに……イった……」
そんな中批自棄を何故か擁護していた男は満足した様子で寝そべっていた。
「お前はさっきから何してんじゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
誰一人死んでまではいないが、有り得ない着弾をした結果、一様に倒れ伏す。
援軍であった兵士達は何が起きたのかさっぱりわからない、信じられない様な表情で呟いた。その思いは初めから倒れ伏している兵士達にしてみても同じ考えであったのだ。故に撃つな、と牽制し、援軍が来た際にまずいと認識した。
敵対対象へ放った銃撃が自分達に着弾する。
そんな不可解な現象が引き起こされたのだ。
自分達がどれだけ攻撃しても彼女には唯の一発も被弾する事はなく、逆に自分達がダメージを負うという現象の巻き起こり。理不尽な程に勝ち目のない現象だった。
とても普通ではない。普通足り得ない。それを認識するが故に彼らには成す術も無かった。
指を咥えたまま、手をこまねいて、手も足も出せずして敗退するしかないのか。
どうすれば、そう考えていた折に突然聞きなれない歌が聞こえた。聞きなれないと言うのは単純に語学の問題であり現地人の彼らにはこの声が日本語で演歌と呼ばれるものであった事を知りようがない。そしてその音は批自棄の着メロであった。
この緊迫した空気の中で演歌独特のリズムは場違いであり、兵士達はこの独特な響きに完全に困惑した様子を見せている。当然、彼女としてはそんな様子知ったことではない、と言うか知っていたところで変わらない。
批自棄はエプロンのポケットにしまっている携帯電話を取り出すと、
「ハロハロー。ぐっもーにーんっ。どちら様だーいっ?」
面倒くさそうに耳元から五センチ離した距離で会話を始める。
通話の主は若干、呆れた声で、
「誰からの通話かぐらい画面で確認してから出るべきでありますよ、ひじきさん」
「はっはー。相変わらず私の綽名、脂肪燃焼の食材みたいで笑う死にてぇーっ」
「相変わらず能天気に自殺志願者でありますな」
「ハハッ。志願したところで早々叶うもんでもねーがな」
「それは貴女みたいな人くらいであります」
電話越しに相手の呆れた様な溜息が聞こえて批自棄はくすくす笑う。
「こちら我那覇でありますが、そちらの首尾は如何程で?」
「そうさなぁー。とりあえずひーふーみー……ざっと二三人は倒れてやがるね、けらけら」
「相変わらず流石でありますね」
「おお、あんがとさん」
「相変わらず何もしなかったのでしょうけどね」
「わかってんじゃねぇの」
「同じ職場でありますから」
「上々だな」
「それ故に貴女の存在は中々疎ましいでありますがね」
「失礼な自殺すんぞ?」
「出来ない癖に良く言う事であります。大方今回の戦闘も立っていただけで済んだのでありましょう?」
「まぁな」
否定する意味も無いので簡素に返す。
その言葉に感嘆の息を零した気配が電話越しに伝わった。
「立ってるだけで周囲の命が絶ってるとは相変わらず迷惑娘でありますね」
「大砲娘に言われたくねーっつの。それに立ってはいるけど命まで絶ってはいないから安心してくれていーんだぜ我那覇? っつーかむしろそっちが死人出てないか不安だっての」
「安心するでありますよ、視認する限りでは死人も出ていませんし」
「視認出来てない範囲はどうなんだろうなー」
「さて?」
「『さて?』じゃねぇっての、責任持っておけよ……」
自分も大概だが彼女は対外に厄介だと批自棄は思う。
だがそこはいい。駄弁っていても仕方のない話だ。それよりも今は本題が別にある。
「まーいいや。本題あるんだろうし……、そっち入るぜ。洋園嬢は今どうだって話なんだろう、大方?」
「そうでありますな」
「こっちは回収出来てねーぞ」
「の、様でありますな。こちらにも姿を現していないであります」
「って、事は……土御門の奴、手こずってんのかあ……?」
批自棄が頬をぽりぽり掻きながら呟くと、電話越しの相手である蹂凛は少し棘のある声で、
「……オイ、土御門の奴はまだ救え出してないのでありますか?」
「いやー救出済みなはずなんだけどなー。実際、遠目だけど一回見てるんだよ、洋園嬢。なんだけどねー何か階段上ってったぽいからさー上に行ったみたくて」
「ん何ぃ!?」
「ガー、デケェ、デケェ、やかましい。ボリューム下げろ!」
唐突に音量の上がった声に携帯を遠ざけてかったるそうに叫ぶ。
「って事は救出はされてるけど何らかの理由で……。いや、予測はつくでありますな。私は詳しく存じ上げないでありますが家宝の剣を探しているのでは?」
「それがなー剣は持ってたっぽいんだわ」
「剣はあると……。……という事は別の理由でありますか」
「だろうな」
「しかし他に何があると……?」
「ひじきさん的には、おそらくだが訊くか?」
「参考程度に訊いておくでありますよ、ボツにする前提で」
「ハッ、ボツにならねー様に気をつけるさ」
批自棄は不遜な態度を電話越しにも伝達させながらくるくると手の中で携帯電話を軽く回転させた後に再び耳元に近づけて神妙な表情で自身の推論を述べる。
「……誰か、別に捕まってる奴でもいるんじゃないかなーってひじきさんは思うよ。何と言うか急いでいる感じって奴だった」
「急いでいる印象でありますか……何故そう思うでありますかね、ひじきさん?」
「全体的に『あんまり時間がない』って感じで走ってた様子なんだよな、これが。だから多分ピンチの奴がいたとか辺りだと私は踏んでるんだが……」
対象に時間があまりないと踏んだからこそのあの切羽詰まった様子の行動。批自棄は自分の主ならば、そういう時必ず駆けつけるであろう事を予測する。
「となると……」
「ああ」
「些か、お嬢様方が危険やもしれないでありますね」
「なんだわな」
真剣な声色で返ってきた発言に頭を悩ませる様に髪の毛の毛先をくるくる玩んで批自棄は、はぁーっとため息を吐き出しながら手に持った拳銃をコツンと頭部に突きつける。
「面倒事増えるとかマジ死にたいわぁー。……ま、そんな感じになってるんじゃないかとか思うんだけどな。……で、どうするよ?」
「どうするも何も従者としてやるべき事は一つであります」
「そっかい」
安心したよ、と言う表情で瞼を閉じながら口元に笑みを浮かべた。その後の力強い先の発言への肯定も本当頼もしい限りだと考える。
「当然」
「んじゃ、私は今から一応、上へ向かうわ。一階二階の兵士がなるべく下に集まる様に騒ぎ起こしたりしてみたんだけど集まりわりーしよ」
「囮お疲れであります」
「大して募らなかったけどなー。……つーか、むしろこの一階は多分ダッハシュタインの奴の方が制圧気味かもしれねーや。さっきからひんやり寒くなってきたんだよね、マジ死にたいわ」
ぶるっと体を押さえて批自棄は呟いた。
その言葉を肯定する様に周囲の兵士達も一様に寒さに震えている様子で見れば流血も冷凍されたかの様に凍結している様子であった。従者の一人であるネーヴェ=ダッハシュタインが共に行動しているとするなら当然の光景であるが。
あいつも容赦ねぇー、と苦い顔で呟きながら、
「んじゃ、私はダッハシュタイン見つけ次第上の階目指すとする限りよ、自殺しながらな」
「自殺は余計であります」
ともかく頼むのであります、という声を聴いた後に受話器越しで『覇DEATH!!』と言う叫び声が鳴り響いた。ジュリーの奴も当然ながら容赦ねぇーっとけらけら爆笑し、その後鼻で笑う様に呆れを見せた後にパタンと携帯を折ってポケットに仕舞い込むと、
「んじゃ私も行きますかねー」
だるそうに呟いた後にガォン!! という音を響かせる。
手に持っている拳銃からは煙が上へ上へと昇っており銃口は自らのこめかみに押し付けていた。けれど銃弾は批自棄の頭部を撃ち抜く事は無く、ただ無言で近くの壁に被弾している光景しかなく。批自棄は小さく呟く。
「まーた外れた」
そんな残念そうな可笑しそうな声を零しながら、同僚である少女を捜しに歩を進めた。
外部、内部の迎洋園家の従者達が兵士を圧倒的に攻める最中。
四階にて戦闘を繰り広げる、この二名の戦闘は互角と言う気配は微塵も存在しなくなってきている事がわかる。ズパンッと、いう鋭い音を連想させる様な斬撃が鉄石で造られているはずの部屋の壁を次々に続けざまに切り裂く光景を部屋から部屋へと隠れる様に移動しながら後ろを振り向き見る日向に余裕を言うものは感じられなくなってしまっていた。荒れ始める息をどうにか抑えながら逃げる日向をルディロは楽しそうに追っている。
「おいおい少年。逃げてばっかりじゃつまらなくない? 蹴り合ったり斬り合ったりしようってばー。そっちの方が格段に面白いって!」
「生憎と僕はそうは思いませんね!」
硬い壁に容易く切り傷を付けて近寄ってくる光景は中々に恐怖だ。
あの一撃が自分を襲ったらそれだけで致命傷に成りかねない。
走りながら振り返り見る後方では次々に器物破損が起きていた。
壁も部屋に備え付けてある家具も続けざまに邪魔とばかりにナイフは対象をざっくりと切り捨ててしまう。当然浅い深いもあるのだが浅いだけでも十分に恐怖するほどにすっぱり切られてしまっていた。硬いはずの壁すらあのナイフは幾度となく切って部屋から部屋への移動を可能にしてしまう程だ。幾ら部屋の壁が若干薄いからと言ってあんな馬鹿馬鹿しい程あっさりと切れるはずがない。
日向はそう考えながら探しているものがあった。武器である。
逃げ続けていられるはずはない。しかし、かと言って素手でアレを相手取るには分が悪すぎる。おそらく一度でも直撃したら悲惨な事になるに違いないだろう。
そう思いながら日向は次の部屋へと飛び込む。
誰かの個人部屋だ。
すぐさま部屋中に目を走らせる。先程から部屋がズタボロに切り裂かれているのはルディロが追い掛けているからとして日向がこうして部屋から部屋へ移るのには理由があった。武器を探しているのである。日向は足技も得意とはするが本分ではなく、むしろ現地で知識を得た銃器の方がまだ戦える。特にあんな化け物じみたナイフを相手に取るには素手で勝てると考えるには至らなかった。
そんな中、ベット傍の机に一丁の拳銃を発見する。
日本ではまず見られない光景だ。
やった、と内心で喜び勇んで銃器を取るとすぐさま弾数を確認する。計八発。二発程余っている様子だがそれだけあれば十分である。そう思った瞬間にピピッ、と前方の壁に亀裂が走り抜いた。そして次の瞬間にはガラガラと音を立てて部屋の壁が崩れる。
そして向こう側の男は呟いた。
「みーっけっ!」
愉しげなその声を聴いたと同時にぎゅわっとルディロの左腕が蛇の様に伸びた。
その手に握られているナイフに警戒を走らせながら日向は手に持った拳銃の銃身でどうにかナイフの腹へ当ててギャリギャリ、という金属の擦れる音を響かせながら攻撃を受け流す。しかしこれで安堵してはいけない。日向はナイフ使いの最大のメリットを回避すべく大仰に左へと跳躍して追撃を避けた。
ナイフの特徴は突くと引き戻す事にある。一度に二連続の攻撃を行えるメリット。
唯の通常攻撃が特に厄介な現象を引き起こす。
昔、一度父親に教えてもらったナイフの活用方法だった。
何のことはない攻撃の様にも思えるがその動作は刀に例えて言えば彼の有名な佐々木小次郎の扱ったと言われる技〝燕返し〟のナイフバージョンみたいなものだ。当然全く別物ではあるが性質的には似通ったものに近い。
特にルディロは刺しと引き戻しが速い為に通常攻撃で深手を負うのは目に見えており一撃も直撃を許してはならない状況下にあった。
日向は彼のナイフを引き戻す動作を飛び退いた距離で視認しながら手に持った拳銃をチャキッと構える。安全装置を外しっきりですぐさま撃てる状態であった事はこの場に於いては幸運であったと言えよう。
パンパン、と銃口から人を殺すにはあまりに恐怖の薄い乾いた音を洩らす。
「甘い甘いっ!」
放たれた二つの弾丸をルディロは手に持ったナイフでまるで矮小な虫を相手にしているかの様に切り裂いた。300m/Sは超えているはずの銃弾を空中で切り捨てるってどこの漫画ですか、と舌打ちをしながら、日向は近くにあった椅子を足でルディロに目掛けて蹴り飛ばす。これでどうにかなるわけはなが一秒の時間稼ぎは行える。
そんな思いで蹴り飛ばしたわけだが日向はその一瞬妙な違和感を覚えた。
「ひょいっと!」
しかしその違和感を検証する暇があろうはずもなく、蹴り飛ばした椅子は無惨に真っ二つに切り捨てられてしまう。本当にふざけた切れ味ですね、と去り際に呟いて日向は一目散に部屋を飛び出して通路を駆け走る。
「本当にどうすべきだ……?」
困惑する。如何に対処するべきか問題だった。
可能性としては機関銃の連続射撃で撃ちまくる。如何に切れ味が凄かろうが機関銃の持っている一分六〇〇発近くの銃撃ではどうしようもないはずだ。
「それをどうにかされたら――勝ち目ないですけどね」
そう呟きながら日向が向かう先は当初の場所……、日向が思い出したくない『男食四人衆』の集っていた件の場所である。確か記憶の限りではあそこの長机に機関銃が何丁か横に置かれていたはずだ。その事を思い出してすぐさま日向はズタボロになり行き来のしやすくなった道を複雑な道を選びつつ走ってゆく。
後方ではルディロが次から次へ壁を切り捨てていて、おそらくは追い掛けている者の余裕なのだろう。ご丁寧に邪魔になる壁や家具は切り捨ててくれている。つまりは元来た道を戻るとしたらルディロの標的は呆気なく自分だけにされ危険度が増す。意識を拡散してくれる障害物のある場所を走った方が危険度薄く、また違和感を気取られないはずだ。
そうして駆け走る事でようやく見えた。
数ある部屋の中でも一段と被害の大きい、バズーカ砲で瓦解した部屋。
あそこに違いない。それを判断するや否や日向は即座に飛び込み視界の端に映った機関銃の一丁をすぐさま手に握り発砲できる様に処理をしながら室内を走り、そうして取り上げられていた愛銃のコンバットコマンダーを偶然見つけるとそれも手に取った。おそらくは縛り上げられた後にこの机の上に置かれていたのだろう。
愛銃があった事にほっと吐息を洩らした後に視線を据える。気持ちを据わらせる。
そうして、
「あれ、この部屋何でこんなに壊れてんの?」
と、いう呑気な声を聴いた瞬間にジャキン、と黒光りの鈍い光沢を持ったゴツゴツとした銃身、長く伸びた銃口を入り口へと向けた。そしてトリガーを思い切って引き絞る。
手から全身へ凄まじい振動が伝わった。思わず落としそうになる衝撃を堪えつつ耳がおかしくなるほどの轟音を轟かせながら数えきれない程の膨大な銃弾が放たれた。持っている最中に微かだが重量の差を感じて銃弾が次々に虚空へ解き放たれているのを実感抱きながらルディロがいるであろう場所に容赦なく弾丸の雨を降り注ぐ。
しかし次の瞬間にひゅんっと煌めくものを銃身に見た。
あまりにも一瞬でワイヤーでもひらめいたのかと思ってしまう程だった。しかしそれはワイヤー等ではなくルディロのナイフの一閃だと自覚するや否やバラッ、と機関銃がその硬さを意識させる事も無いかの様に真っ二つに切り裂かれ、銃口の方は複数の弾丸をぼろぼろ零して地面へガチャンという大きな音を上げて落っこちる。
何時の間に懐まで来たと言うのだろうか。
速い。
銃撃を放った際にはすでに近づいていたのか、それも銃弾の雨の隙を突いて俊足で移動でもしたのか……。どちらにせよそんな問答を起こすより先に日向は身の危機を察する他に無かった。思考による隙など逃すはずもない。日向が機関銃すら切り捨てられた事実に愕然とする合間をついてルディロのナイフが下から突き上げる様に日向の顔面目掛けて迫り来る。それを認識したのは日向の瞳にナイフの切っ先が迫った、その瞬間の事だ。
「――!?」
声を出す暇もなく日向はばっと顔を左へ逸らして回避するが、無念にも完全に躱しきれずにナイフの切っ先がつ、と日向の頬を触れた。そして勢いそのままにつぃーっと自然な動き、滑らかな走りで日向の頬に一筋の切り傷を作った。
躱し切れなかった。
そんな事を頭で認識しながら、日向の身体は自然に機関銃をルディロの顔面目掛けて放り投げる。力強く投擲した破損した機関銃をルディロは「あぶねっ」と軽快な動作で回避するが、それにより生まれた隙でざっと大まかな距離を取る。あのままの距離はあまりに危険な距離だった。ナイフ使いの方が遥かに有利な距離。
そう考える日向が違和感を頬に覚えた。
「……何だ……?」
明らかに違和感を覚えた。
頬から流れ出る血の感覚に不可思議な感覚を抱く。
おかしいのだ。頬を切られたから血が出るのは当然。しかし出血量があまりにも違っており中々止まる気配がないのは無いとしても溢れ出る量がどうにも多い。
特にあんなに切れ味の凄いナイフなら切られたらむしろ細胞もあまり傷つかなそうで出血が少ないレベルではないかと日向は考える。切れ味の良過ぎる刃物は切った物の細胞を活かす程と昔に何かで訊いた事、見た事がある。
ともするとナイフ自体の切れ味が高く、ルディロはそれほどの使い手ではないのか。とも考えるが些か腑に落ちない。ルディロは型こそデタラメに近いがナイフ使いとしての技量は卓越したものがある。何者だ師匠。
しかしここで試行を重ねている暇もない。
機関銃でも通用しないとなるならばあと自分に出来る事は何か、と考える。普通の銃弾ではほぼどうしようもない。撃っても切り裂かれるのが目に見えている。そう考えるならば、
そこで日向は傍に転がる適当なパイプ椅子を掴み上げルディロへ放り投げると、
「またその誤魔化しかよ?」
同じ手段に少しうざったるそうに構え迫るパイプ椅子をナイフで八つ裂きに切り捨てる。
「そう言う目つぶしみたいな技何度も通用しないっての」
と、呟いた瞬間にルディロは視界の端……、下からの黒い影を認識した。
拳銃がまるでナイフの様に振り抜かれる光景だ。
撃てないならば殴ればいいじゃないか。そんな言葉を脳裏に描きそうになる光景であった。日向は椅子で一瞬、意識を差し向けた後に接近、そして拳銃を打撃武器として活用したのであった。鈍い金属光沢の放たれる銃器は鈍器として大差ない。
「――ちぃっ!?」
そこでルディロが予想より幾分か驚いた様子で顔を後ろへ仰け反らせた。
そんなに驚く事だろうかと思いながら日向は回避された攻撃の勢いそのままにその場でぐるんと一八〇度回転する。そして遠心力を乗せて再び水平にコンバットコマンダーの銃身を振り抜く。
「とわっ……!」
次ぐ攻撃もルディロは回避したが、その顔にどこか別の楽しさを見た気がした。一方的な狩りを楽しむ笑みではなく獰猛な獣を相手にする強者との戦闘を楽しむ様な笑み――。
何故だ?
日向は疑問に思った。
銃身を鈍器代わりに用いる事が左程珍しいとは思えない。こんな無理強いの様な土壇場の様な戦闘方法で戦っている自分に対するこの高揚感とも取れる表情の意味は何だ? 浮かび上がる違和感に対して日向は通常とは違う何かを掴みとるべく、
「はぁああああああああああああああああああああああっ!」
攻める。我武者羅に攻め続ける。
何に違和感を感じているのかはわからない。けれど攻めれば正体を掴める様な、そんな当てのない回答を得た。弦巻日向は拳銃片手にギャンギャンと音が鳴りそうな程に鋭く銃身を振り抜いてゆく。無造作で策のない無謀な攻撃に思えるだろうか。しかし唯一何かを見出せる気がする答えであった。
実際、どういうわけかルディロは楽しげだが緊迫感のある表情で攻撃を回避する。
幾度となく攻める日向は攻め続ける中で幾つかの疑問に衝突していた。切れ味の良過ぎる斬撃。軽く触れただけなのに溢れ出る今も止まらない流血。思い返せば、自分が蹴り飛ばした椅子や、
「ほらほらぁっ!」
そこまで考えた所でビュオっと振った水平の攻撃をルディロが下へ屈むことで回避した。と同時に彼の頭があった場所を銃身が切り抜けるが、踏み込んだ勢いからか、銃身は彼の背後の壁へ衝突しそうになる。
まずい、反動で衝撃が来る。
人が持っているだけの銃身で壁にぶつかればガツン、と鈍いしっぺ返しが来る。それが一瞬の隙を生んでしまうだろう事を考えながらも日向の振り抜いた腕の勢いは止まる事も無くガツン、と銃口が壁に叩き当る。
そして壁を浅い、本当に浅くだがずりっと抉り振り抜かれた。
鉄製の壁が抉れた。
「!?」
力は込めた。人を一撃で悶絶させる程に一撃一撃に覇気を込めて振った。
しかしこれは明らかにおかしい。鉄石で作られている壁を銃身が浅くなぞる程度とはいえ抉る等と言う事は自分の力では不可能なはずだ。仮にできたとしても何度となくぶつけてようやく抉れる様な浅い堀だ。
そこまで認識した所で日向は定式を推察した。
そして一つの答えに気付いた日向には聞こえていなかった。感じていなかった事だろう。瓦解した場所にピキ、と響く小さな崩壊の足音を……。
その同時刻。
弦巻日向とルディロ=スラヴォンスキ=ブロドの戦闘を影から見守る二人がいた。長い金髪と真紅の瞳が特徴的な少女、迎洋園テティス。それに彼女のメイド、紫の髪と瞳を持った女性土御門睡蓮。
二人は銃身の打撃とナイフの斬撃の応酬を見守りながらテティスが呟いた。
「……不利、ですわね」
「……」
「このままでは……」
「……ええ」
冷静な観察眼が明確な答えを導き出してしまう。このままでは日向に勝ち目が無いと言う実態を確実に映し出した。
「見抜く見抜かない以前に――強度の観点で勝ち目がない……」
「あの状況下ならば少し判断付きかねますが……壊れた拳銃と随分磨きこまれたナイフとなりますと少し彼の方が不利ですね……」
「となると……」
綺麗なラインの顎に手を添えて神妙な面持ちで考えるテティスに対して睡蓮は、
「……私がやりましょうか?」
と、提案するが、テティスは小さく首を振る。
睡蓮に任せればたやすく済む……と、いう考えもあるのだが相手のあの速度を見ている限りテティスには少し睡蓮に危険性を感じる部分があった。陰陽術には発動に時間がかかる部分があり発動前にやられるのではないかという懸念もあるのだが、それ以上にあの状況下ではやはり不利ではないか、と見越している。
速さで対応するにはおそらく睡蓮と自分以上に彼だ。
「……全く素早いお二方ですこと」
二人はそれほどの事をしているつもりはないだろうが、傍目に見ると中々の速さの応酬である光景だった。鋭い一撃を互いに出し合っている。自身が槍術を使える状況ならば無難に対応出来るものではあるが、それでも素早い。
「それにまぁ……。仮に彼が獲物に困ったとしましたら……」
そう言いながらテティスはそっと布に包まれた剣をぎゅっと握りしめた。
睡蓮が驚いた様子でぽつりと呟いた。
「……お嬢様? まさかとは思いますけど……彼にその剣を貸し与えるつもりでは……?」
信じられない行動をしようとしている。まさにそんな対象へ向かっての表情であった。それはわかる。テティス自身も頬に冷や汗を一筋垂らしているのだから。だが、しかし。
「ええ。状況次第で」
「状況次第って……」
それを使わせて……。
というより持たせていいのだろうかと睡蓮は悩んだ。あの十字架の剣を……。
土御門睡蓮は主にしては随分と突飛な発言に困惑を抱きながらも、仮に彼が状況を改善するにはこの剣で対応するしかないのではないか、と考えながら、主と共に二人の戦いを見守り続けるのであった。
この戦いは守りに徹した側が負けるだろう。
銃身と刀身の応酬。黒い鈍色の輝きを放つ銃身の水平切り、袈裟切りといった打撃が相次いで閃けば、刀身の輝きは銀色の鋭い残影を残して幾度となく空を切った。日向とルディロの互いの打撃と斬撃は一寸の隙もなく応酬を重ねる。
二人の戦闘は傍目に見れば回避と攻撃の連続である。
防御等僅かにしか見られなくなってきている。
彼らは攻撃を繰り出す速度は迅速なものだ。一撃一撃の威力よりも手数で圧倒しようと言う姿勢が見える。互いに武器は壊れた拳銃と鋭いナイフ。手数の多さが期待できると言えば互いに出来る武器であった。当然、拳銃にそんな仕様は無いのだが。
しかし手数の多さを叩き出せる二人の動きも当然の素早かった。
互いにどれだけ攻撃を繰り出しても、余裕で回避、紙一重で避けるという事を何十回も何百回も続ける心づもりで動いていた。
日向とルディロの表情は真剣で互いに一撃も喰らわぬ様に動く。
その理由を日向は何となしに推察していた。
この状況下の在り方が彼の考えと合致するのであれば、攻撃を繰り出す側が有利となり防御する側が不利となるであろう事を想定して日向は技の応酬という現在へ辿り着いていた。
何故か。
――仮に僕の考えがある程度的を射ているのだとしたら
自分の考えしか今は頼りに出来ない。
覚えている限りの記憶を呼び戻す。一番初めにいともたやすく切り裂かれた壁。切り裂かれた後に通常よりも多くの出血。自分の力で抉れてしまった壁。確実に通例の常識では図れていない現象が現在、定式と化して顕現している。
そしてこの世界では攻撃した側が有利に働くのだと、日向は考えている。
即ち……今、この空間は『脆い』。
それが日向の結論だった。
ルディロの定式がどういったものかは明確にはわからない。
けれど今現在、周辺の物質は脆くなっているのだろう。
その脆くなったものと言うのには明らかに人体も含まれている。攻撃を食らえば通常よりもダメージが増加している様に一撃一撃でのダメージが脆くなっている為に深くなってしまう。壁を殴れば容易く凹み、肌を切れば容易く痛烈な一撃と化す。つまり互いに脆くなってしまっているのだろう。辺り一辺を脆くする定式がある、それが彼のセンスだろうと日向は推察した。
そしてその世界では当然、受けた側は脆くなってしまっている為に不利になる。
つまり如何に攻撃に徹するかが鍵の空間なのだ。攻撃が最大の防御と言うように、攻撃を行い続ける事こそが打開策であり、回避に徹する事が防衛策だ。ヒットアンドウェイの様に一撃も喰らう事無く一撃を叩き込まなければならない。
――だけど……!
不利な点があった。互いに攻撃するに当たり、ルディロと比べて日向には不安要素が存在するのである。それは単純に言えば武器の耐久性であった。この状況下で攻撃を回避に徹し武器での防御を図らないのは互いにぶつかり合った際に確実に破損するからである。特に日向の拳銃は一度、防御に使って通常より幾分、脆い。
一撃受ければ破損は免れない。それ以前に機関銃ですら切り裂かれたのだ。拳銃も切り裂かれない保証は微塵も無かったと言えよう。日向は常に回避に徹し、攻撃に徹するという方法しか無かった。
そんな緊張感ある日向とは真逆にどこまでも痛快そうにルディロは差し迫る。
「ははっ! 何かすっげぇ楽しくなってきたよね!」
眼前を真下から風切音と共に閃いた一閃を紙一重で回避しながら日向は恐れた。こんな行動を何時まで続けられるのか……。戦闘に於ける姿勢が明確に表れる。
ナイフは純近接武器だ。近接戦闘特化の武装。
対してこちらは悪あがきの様な銃弾が無くなった際の攻撃策の様な打撃。遠隔攻撃に重点を置いた日向にとって回避は可能でも有効な一撃を見舞える可能性は露程にも無かった。打撃と言う意味で足蹴りという事も考えるが、あのナイフの一撃を食らった際のデメリットがあまりにも大きすぎる。
加えてルディロのナイフ捌きは秀逸で。そうそう甘い考えを抱ける代物ではなかった為に日向は五分五分の様に見えても実際には不利であった。
――せめて近接武器があれば……!
日向自身そう思って仕方がない。
拳銃でもある程度戦える。それに銃身を使った打撃技の十八番もある。しかしだ。この状況で拳銃と言う短いリーチでこの速度と手数、殺傷能力の相手を行うには近接武器の方が有効性が高いと考えられる。このままでは、日向がそう思った瞬間だ。
「しゃあっ!」
ズパン、と短く音が聞こえた様な気がした。同時にキィィン……という金属に音が反響する様な音が微かに響き、振り続けている手元が急にふっと軽くなる。少しの重さは残っているが全体的な重さは先程までとは比べ物にならなかった。
前方のニヤッと笑みを浮かべる楽しげなルディロの表情を視界に収めながら、日向の後方に乾いた音がカーン、と鳴ったかと思えば数回金属が転がり跳ねた音がした。
そしてそこまで認識した時点で日向は即座にルディロとの距離を空けた。
すぐさま手元を見つめる。その手がぶるぶると震えて、視界には自分の手がぶれて映る光景が広がった。そんな手に握られているのはグリップと引き金付近を残し、最早拳銃とは呼べないだろう金属の塊だった。地面に転がる銃口付近の銃身を茫然とした様子で見つめながら日向は自分の愛銃が儚く散った事を理解する。愛銃は散った。
『あばよ日向』
何の別れを告げる事も無く散って行った。
その光景をへらへら笑いながらルディロは歓喜する。
「いよっしゃーっ!」
「どうだ、遂にその拳銃も失っちまったよ?」
と、満面の笑みで勝利を確信していた。
くっ、と短い悔しさの声を洩らす。
胸中に愛銃の死という事実を抱きながらも日向は折れたくは無かった。ここで情けなく死を選ぶ程度に軟弱な精神ではない。
一挙手一投足であろうと歯向かってやる。
その決意のもとに日向はザ、と構えて足に力を込める。自分の蹴りは中々に速い。一撃を与えれば相当なダメージになるはずだ。だが問題なのがそれよりも速度を上回る速さがルディロのナイフ捌きと言う事。そこそこ早い蹴りを打ったところで、自分の足は寸断される事が目に見えていた。
だが、それが何だ。一矢報いる……否、必死報いる心づもりで顔面に一蹴り叩き込んでやろうじゃないか。そんな諦める気配のない瞳を見たのかルディロはコテンと首を右に傾げた後に、
「へへっ。そうこなくちゃねー」
と、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「んじゃあ、お望み通り、ハイスピーディに切り裂いてやるよっ!!」
ダンッと地面を蹴ってルディロが駆け走る。その光景を見ながら、僅かにでも一撃を食らわせられる可能性を模索しながら日向の視界はどこまでもクリアに晴れ渡りつつあるかの様であった。
ところが、その視界の範疇に想わぬものが飛来した。
「え?」
「あ!?」
思わずと言った様子で咄嗟にルディロが手に持つナイフとは別のナイフで《ガギィイイイイイイン》と、いうけたたましい音を鳴り響かせる。突然、飛来したその細長い物質を防御したナイフはビシィ、という音と共にひび割れて恐らくは使い物にならないだろうものと化したのと同時にナイフにぶつかった物体は弾き返されてくるくると図ったかの様に日向の手元へと舞い踊ってやってきた。
日向はほとんど反射的にその物体を手に掴む。
ずっしりとした重厚感……。
途端、ドグン、と脈打つ様な感覚が体を駆け巡った。その感覚にあの時手に持った時の感覚を抱きながら、見てみればその色合いは光り輝く様な白であった。
見覚えのある十字架の姿。
日向がその存在を確認した瞬間に脳内へ響く声があった。
――あーテステス
――呑気!?
――聴こえますかしらー?
――聴こえますけども!?
けども何ですかテステスってツッコミ入れて叫びたくなる気持ちを内心だけで抑えながら、日向は脳内に響くつい最近聞いた覚えのある声の主であるだろう少女の顔を思い描きながら耳を傾けた。
――迎洋園さんですか!?
――ええ
声の主はすぐさま肯定を示す。逢って間もないが流石にこの綺麗な声は中々訊き忘れない事だろう。
――あの、これ何ですか!? テレパシー!?
耳ではなく脳内に直接響いてくる声に連想するのは、そういった力が代表的で。日向はこの声も定式とやらか何なのかと疑問を抱きながら問いかけると、テティスの声は少し呆れた様な様子を含みながら返って来る。
――どうでもいいのですが、避けないと殺されますわよ?
「うぉわ!?」
「……何で急に余所見してんのさ、少年?」
と、不思議そうな表情で再び斬撃を繰り出してくるルディロを回避しながら返答を待つ。
――この声に関しては……アレですわね、陰陽術
――陰陽術便利ですねぇ!?
――そうそう便利なものではありませんわ。術者の性能で同じ術も大幅に変わってしまうものですもの。実際、睡蓮の通話の術式は範囲が狭くて……「悪かったですね、『水』式が不得手な陰陽師で!!」
何故だか若干、討論の声が聞こえてきた。
それも……比較的近場で。
より具体的には日向のいる場所から五メートル離れた場所の部屋の出入り口。その向こう側で見覚えのある艶やかな金髪がゆらゆら揺れており、なだめる声とすねる声が聞こえる。
――ちっかぁ!?
――……いきなり叫ばれるとこちらとしては驚くのですが
――あ。すいません……。……じゃなくて、凄い近いですね……
――言ったはずですわ。術者の性能で通話の術式は性能が決まる、と。ああ、ちなみに術式に用いているのは、その剣に付着している札が起因していますわ
どうやら確かに術者次第で性能は変わる様だ。
そして、札と言われてルディロの攻撃を回避しながら微かに余裕が生まれたところでちらりと剣を一瞥した。成る程確かに黒い文字で何か見慣れぬ筆記が成されている。
陰陽術って便利だなーと思いながら、
――ところでこの武器……使っても
平気何ですかと問い掛けるよりも早くテティスが口を挟む。
――構いませんわ
「けど……」
彼女の行動を思い出しながら、か細い声で問い掛けた。
――……大事なものなんじゃないんですか?
――大事なものですわよ、当然
――だったら無理ですよ。そんな大事なものを使ったら……! この人により壊されないとも限りません……!
周囲を脆くする定式。その性質を考えればあのナイフの一撃で剣が破損する可能性が存在した以上は他人のものを扱うのに若干の躊躇いが湧いた。しかし、そんな日向の内心を杞憂で済ますかの様にクスッと言う声が聞こえて、
――問題ありませんわ。たとえあちらの方の武器が鋭い切れ味の代物だとしても――その剣が遅れをとるわけはありませんもの
試に防御に使ってみるといいですわ、と最後に少女は告げた。
何と言う自信だろうか。それだけこの剣は凄まじい代物なのか。
そんな自信に満ちた声を訊きながら日向は回避に徹する中で僅かに思考を行った後に少女の言葉を信じる意味を込めて鞘に納められたままの剣を防御に構えた。
ルディロはそんな彼を見て不思議そうに、
「? いいのかよ、防御に使って?」
と、呟いて、
「まーそんなに壊して欲しいってんならさ……!」
縦一閃。裂帛の気合いと共に剣閃が薙ぐ。
「斬り壊してやるけどなぁっ!」
「――ッ!」
鳴り響く金属同士がぶつかり合った音。耳に轟く様な音が聞こえる。
しかしそんな音の中でも日向が構える剣は僅かにも身じろぎする気配は無かった。傷一つつかない様で雄大に威圧感を放ちながらルディロの凶刃を防ぎ切る。カィン、と音を響かせてルディロが鍔迫り合いを止めて離れると少し驚きに目を見開いて「かたっ……!」と呟いた。日向も信じられない気持ちだ。防衛に徹した方が分が悪いであろうこの状況下で全くふりを感じさせない、その強靭さに驚く。
――如何かしら?
相手が喜んでならない最高の贈り物を届けたかの様に強い自信に溢れる声が耳に届く。
日向は感動そのままに
「凄いです……!!」
――でしょう?
「これなら……イケる!」
この剣ならばあの相手と対等に渡り合える。もしかすれば逆転出来る程かもしれないと感じた。そう考えながら日向は剣の柄を握りしめる。そして次の瞬間、ダン、と地面を勢いよく踏みつけると覇気そのままにその純白の刀身を引き抜くべく力が込められる。
ぐっ。
「……?」
ぐっ。ぐっぐっ。ぐっぐっぐっ。ぐぃ――――――――……!
「引き抜けませんけど!?」
引き抜けなかった。真白い鞘に包まれた刀身はどれだけ力を込めても引き抜ける気配はない様子でどれ程頑張ってみてもびくともしない。その間にテティスの小さな、何か感情を含めた声を訊いた気がしたが、日向に耳では聞き取る事が出来なかった。
次の言葉は少し感情の抑えられた声で、
――ああ、それ抜けませんわよ
と、言う発言。
――抜けないんですか!?
――ええ……。どうにも一定の者でないと鞘から引き抜けないらしく……
錆びているのか、特殊な使用なのかわからないが、それで剣として役立つのだろうかと日向は少し不安に感じる。そんな感情の動きを読み取ったのかテティスはこう述べた。
――心配ありませんわ
――そうなんですか……?
――ええ。鞘に納められている状態ならば状態で打撃武器として扱えるはずですし
結論殴るのか……と思いながらも日向は何だかんだありがたく思った。
切るよりも殴るの方が何となく自分には合っている。
武器……、それもあのナイフを防げただけの硬さがあるのならば、問題ない。互角程度に戦えるのであれば、そう思う日向に対してナイフ片手にくるくると回して弄んでいたルディロは臨戦態勢に入った日向を見て何気なく話しかける様な気安さで問い掛けた。
「ん。もういいの?」
「ええ……。お見苦しいところを、お見せしましたね」
「うん、そうだなー。鞘から頑張っても抜けなかったもんなー」
何か本当に見苦しいところを見られたなぁ……と、思い苦笑しながら日向の眼光に鋭さが灯ってゆく。武器はある。これさえあるのならまだ戦える。おそらくはルディロの方もこの武器の頑丈さに警戒を示す事だろう。そしてより凶刃に刃は駆け巡る。
しかしそれを払拭するような勇気を剣に借りた日向はズン、と地面を深く踏み込み一気に前へ、そして携える剣を抜刀するかの様に逆袈裟切りを放った。ほぼ同時にルディロ自身もザ、と前方へ踏み込み三閃の攻撃を放ちながら、
「う、あぁあああああああああああああああああああああああああ!」
「シャ、ラぁああああああああああああああああああああああああ!」
二人の叫び声が重なり合う。刀身がいざ、ぶつかり合う。
その瞬間に。
どこまでも唐突に床が崩落する。
二人が刹那青ざめた表情で『え゛?』と身を強張らせた。猛烈な瓦解の音を地鳴りの如く響かせながら彼ら二人が戦っていた室内を崩壊へと導く。その光景を部屋の外から見守っていたテティスと睡蓮も大急ぎでその場所より軽く離れる中で床が抜ける。
実はこの部屋、当に限界が来ていた。
我那覇蹂凛の絨毯爆撃を含めて、ルディロの大雑把な大斬場な結果、そして最後に二人の地面を深く踏み込んだ衝撃が引き金となり……、加えてルディロのスキルによる影響でダメージを負いやすくなったこの部屋は限界を超えた。
結果、二人の雄叫びが、同時に、
「うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「あらぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
と、いう悲鳴に変わり果てる。
その悲鳴を訊いてこれ以上瓦解する気配はないのを察してテティスが大きく空いた床の穴から覗き見る。あろう事か下の階は大半が崩壊していた。おそらくは爆撃で四階より先に壊れていた事だろう。となると四階からの自由落下だ。どうなる事やら……という表情だ。
「この高さから落ちたら唯じゃすまねーな、うっわ、死ねそうでうっらやっましーっ」
「確かに冗談抜きで死にそうですねー……」
隣からひょこっと顔を出す二人を見ながらテティスは「ええ……」と相槌打った後に、
「それはともかく何時の間に現れたんですの、親不孝通り?」
何時の間にか合流している祖父のメイドの一人に対して問いかける。
「ついさっきっすよー」
軽い口調で批自棄は答える。
「ああ、ダッハシュタインも来てますから」
と、言う彼女の視線の先には青白いと言った色をしたショートヘアーに水色の瞳を持つ端正な顔立ちの女性がいたが無言でいて何も喋る気配は無かった。本当に何も。
だが、そこに事に気を取られている場合ではないとテティスは下を見る。
すると実に驚き溢れる呆れる光景が見えた。
「てやぁーっ!」
「ちょいさぁっ!」
「うりゅあーっ!」
「なんのっ!」
刃の交錯する金属音が幾度も響き渡る。
そして落下する瓦礫を足台に跳躍し空中戦闘を繰り広げる二人の姿が見えた。テティスが呆れた表情を浮かべて見守る。
「……器用な方々ですわね……」
他、三人も同意見の様でうんうんと肯定の頷きが返ってくる。
「それはともかくよーっ」
「何ですか、ひじきさん?」
「土御門。お前らが焦って階段駆け昇ってった理由があのしょーねんなんだろう? 私らも追い掛けて――、って言うか離脱した方が良くないか?」
「ですね」
言われるまでもなく、と言った様子で睡蓮はエプロンドレスから赤い折鶴に『大』と書かれた札を取り出す。それを一瞥すると、批自棄は少し気だるげに、
「んじゃー私は先に行ってっから。間違って逝ってたらよろしくーっ」
と、だけ言ってぐらーっと背中から四階の高さを背面落下して落ちてゆく。続いてダッハシュタインと呼ばれた女性も無言のままに表情一つ変えずにゆったりと落ちて行く。
相も変わらず気兼ねなしに行動する同僚達であると睡蓮は思った。そういう自分自身も似たり寄ったりなのだろうが。
「では、テティス様は私と一緒に」
「ええ。頼みますわ」
そ、と伸ばされた手を掴むと同時に赤い折鶴は光り輝き、その小さな紙は大きな姿へと変貌していた。まるで本物の鳥……いや、空想上の鳥の様に巨大な赤い折鶴に跨って睡蓮とテティスは同様に下へと飛来を開始したのであった。
さて、従者達と主が一様に一階へと落ちる降りる最中に、彼らは障害物を盾にしたり投げ付けて武器にしたり等を繰り返し走り出しながら幾度となく刃を交錯させていた。
先程までは地の利がある……いや、自の理があるルディロの圧倒であった光景が見られていた。しかし、今に至って、この戦いの状況は日向に有利に傾き始めていた。
「……ちっ……!」
幾度となく交錯しては弾かれる斬撃。その都度、ルディロの表情が微かに悔しさを滲ませる事となる。その最たる理由は武器の耐久性の差が大きく出ていた事だろう。鞘に納められたままの白い十字架の剣は幾度となく交錯し合っても傷一つつかない頑強さがあった。しかしルディロのナイフは徐々に蓄積される損傷が出始めていた。微かにだが刃毀れが起き始める。
どんだけ硬いんだろうかとルディロは呻く様に内心で愚痴を零す。
武器の硬度が上がっただけで不利になる……、彼の定式はまさしくそれなのだが、目の前の剣は明らかに常識を逸していたと言える程の強度を兼ね備えていた。いや、武器の硬度だけではあるまい。別に畏怖すべきは……。
「それと同時に随分粘るよね、本当」
日向の精神力自身だ。
諦める気配を感じさせない攻撃に独り言に様に発言した言葉に日向は小さく、冷徹な眼差しで返す。
「そりゃあ目の前で友人殺されてますからね」
「そんなに」
白の鞘が右頬に風を切って近づく気配に気楽な様子で顔を逸らして回避する。
「――大切な友達って奴だったのかな?」
「大切ですよ」
即答で返し、躱された一撃を引き戻し構えを整え胸元目掛けて一気に突き出した。
「現地で初めて親しくなった人でしたから――、ねっ!」
「そっかぁ」
口を開けて何気なく相槌を打つかの様に気楽に応え、水月を突こうとする突き技を左へ動いて避け切った。
「そーいうの俺にはどうにもわかんないけど……大切な人傷つけられたら怒るって奴だね」
明るい調子の良い声で感心した風に微笑を浮かべた。薄っぺらい微笑に見えた。本当に理解しているのか、判別出来ない微笑だ。だけれど彼が謝罪を示す気配はない。今はそれだけで十分だ。いや、すでに謝って済ませられる事ではなくなっているのだから……。
「ええ……。……謝っても許しません……!」
「謝る? じょーだんでしょ?」
あははっと笑い声すら発していた。
ルディロは反省の色を見せる気配は無かった。いや、むしろ楽しげでさえあった。なぜこんな表情をするのだろうか、と日向が考える中で彼は言った。
「俺の望みはこういうスリルな闘いさ。だから相手が本気出したら出した分だけ楽しくってしょーがないや。今こうして君から、その怒りを引き出せたってんなら――、あの少年殺したのはむしろ俺の誇りじゃねぇ?」
「貴方は……!」
少なくとも日向には理解出来ない思考だった。
本気を引き出せたのは間違いない。だが、それで第三者を傷つける行動は日向には許容出来る事では無かったと言うのが正直な彼の気持ちだった。
「ああ、ちなみに俺、こう見えて子供好きなんだよねっ! 少年の事も好きだし、こういう死合って何ていうか心満たされるしねー……! あの少年を殺したのも嬉しくってしょうがないって感じだしさ。ああ、俺やっぱり祖国戻って教師めざそーっと!」
その発言を訊いた瞬間には日向には何を言っているのかわからなかった。
けれどこの男が教師を目指すと言う部分はとんだ妄言に思えた。本当にそう思っているのかどうかはわからない、しかし実際に教師なんてやったら子供にどんな害意を及ぼすか……。そして何よりハーリスを殺したことを悪びれない男に対して日向は怒りを感じた。
「貴方が……」
地の底を這う様な低い声が零れる。
「ん?」
殺す度胸なんて日向には無い。そうたやすく折れる精神でもないが、強いと言うわけでもない。実際今なんてほら、怒りで腹が煮え滾る想いですよ、と内心で吐露する。
何としてもここで彼に一発決める。どぎついのを。
何故ならこんなにも……、
「貴方が……、僕は許せない、です」
腸煮えくり返る気持ちを抱いているのだから……。
チャキ、と構えた純白の剣が鞘に納められたままながらも淡い光を発する。その瞬間にドグン、と心臓が脈打つ感覚を抱きながら、弦巻日向はその刀身を上から一直線に振り抜いた。
「あぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
強ッ! 凄まじい剣閃が唐竹割の一閃。上から下へと振り下ろされた。
しかし俊敏さに長けるルディロは造作もない事の様にトン、と軽い動作で後方へ飛び退いた。問題なく回避したかに思い余裕の笑みを浮かべるルディロは「息巻くのはいいけど、その程度じゃね――」と呟いた瞬間だ。ゴン、と地面が盛り上がった。そのまま地割れが起きるかのごとく打ち付けた部分から放射状に地盤が捲り上がり次々にスパイク状の大きな石飛礫が炸裂しルディロの身体を爆風の様な衝撃が襲いかかった。
「がっ……!?」
腹部、脚に激しい衝撃を感じたと思ったらルディロの身体が後方へ吹っ飛ぶ。そして奥の壁に衝突すると、あろう事かそのまま壁を粉砕し薄暗い明りの見える外へと強大な勢いのままに叩き出された。
その強大な威力に思わず日向は唖然とする。
目の前の光景に、剣の威力に信じられないといった様子でただただ茫然と剣を見つめた。この剣にはこういう効力があるのだろうか、とある種の畏怖を抱く様な目であったが、日向は考えを払拭する。今は剣のうんぬん検証している暇はないと考えるとと素早い動きで駆け走り、ルディロの飛ばされた屋外へと躍り出た。
同時に一階まで到着したテティス達は周囲の光景に唖然としながらも後を追う。
そして屋外へと飛ばされ、黒塗りの巨大な車両にぶつかって停止したルディロは体を押さえながら辛そうな呻き声を洩らし、
「んとに、何だよ反則じゃねぇの、あの剣……?」
と、口元に強大な力を前にしても嘲る様に乾いた笑みを零しながらも所持しているナイフを構えて、次の動作を考えた。如何にすれば彼を倒せるか、殺せるかと言う考えを熟考し、辺りに使えそうなものはないかと視線を巡らせた。
すると背後にある黒塗りの巨大な車両が目に留まる。
これを盾代わりに使えるのではないだろうかと考えたところで自分に話しかける声がした。
「君、こんな所でいったい何をしているのですかな……?」
見れば老齢の爺さんだ。何でこんな所に年配の男性がいるのだろうかととルディロは考えながら、この場所にいたら巻き添えを喰らうだろう事を安否し手をひらひらと軽く振って一応の忠告をしておく。
「あぶねーっすから今すぐここ離れた方がいいっすよ、おじーさん」
一言だけ呟いた最中、激しい爆音の様な叫びが響いた。
「って、もう遅いか」
背後からの声に即座に後ろを振り向くと同時にナイフを構える。
「あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
雄叫びを上げて日向が暴風の様に剣を構えながら突進状態で飛び出してきた。
存外はえーし、と呟き迫る鞘の一撃を前にルディロはビュオッ、と右へ一瞬で動く。速い、そう日向が認識したと同時にガォンッと鞘に包まれた剣が激しい音を立てて巨大な車両に追突する。邪魔だ、と思った日向は剣を乱雑に振り抜いて車体を殴り捨てるとその場から離脱。同時に傍にいた老人が「馬鹿な!?」という声を零したと同時に近くの双子の少女を抱き抱えて恐ろしい程迅速にその場から消えた。
そしてルディロと日向が離脱完了した瞬間に盛大な爆音と共に車体が木端微塵に爆発する中で日向は負傷しているであろうルディロ目掛けて剣を振り抜く。
「ちぃっ!」
ナイフで殴り掛かられる攻撃を見事に逸らし、加えて反撃を繰り出す。
直線状に刺しにかかるルディロの技量に感服しながらも日向は最後の攻防に打って出る。彼を倒し伏すには最早先程のダメージで負傷したこの場所を叩くしかあるまい。迫る凶刃をビシュ、と肩口に感じながら日向はグリップだけとなったシーツに巻き込む様に入れておいた愛銃コンバットコマンダーを引き抜く。
そして剣から手を放すと同時にギャルンッと体全身駆動で回転し勢いそのままに、拳銃のグリップでゴン、と鈍い音を打ち鳴らす。ルディロの右こめかみに衝突した衝撃で彼の目が幾度となくぶれた光景を記憶しながら――、振り払う。
戦場で銃弾を失った折に打撃として使う技――〝鶯鳴〟
「だぁああああああああああああああああああああああああ!!」
まるでホームランでも打つかの様な勢いで殴打した攻撃でルディロは吹き飛ばされると、そのままに数度、地面をゴムまりの様に跳ね上がりそして地面へズザァ、と力なく転がり伏した。僅かに腕が地面を支えに立ち上がろうとするが、すぐに力なくくたっと伸びる。
日向はその場で回転の勢いを徐々に削減した後にがくっと膝をついた。
途切れ途切れに零れる息を自覚しながら、朦朧とする瞳で遠くに倒れ伏すルディロ=スラヴォンスキ=ブロドを見た。頭から血を流したまま動く気配はない。
倒せた。
あの男を倒す事が出来たのだ。
そう実感する。だが同時に殺してしまっていないだろうか、その事を不安に思う。全てが脆くなった状況を作り出すスキルが発動していたなら頭部へのダメージは……、そんな事を心配しながらもようやく、やり遂げた実感に身を包まれながら、弦巻日向の全身に今日までの膨大な疲労感が怒涛の様に押し寄せてしまう。
そして次の瞬間にはどさり、と糸の切れた人形の様に崩れ伏す。
朦朧とする意識の中で複数人の声が聞こえた。女性の声、年老いた男性の声、聞き覚えある少女の声。自分へかけられる声を耳にしながら、日向はそっと目を閉じた。
仄かに安堵の色を浮かべながら……。
そんな光景を一人の男性と思しき姿の人物は見ていた。
陰に潜んでいて首から上は識別出来ない。しかしその手には赤黒い色をしたぐにゃりと所々が曲がっている杖と思しきものを所持していた。
「これはまた盛大にやったねぇ……」
他人事の様に言葉を零す。その瞳にがらがらと音を立てて崩れる基地の光景を見ながら、一人の少年に駆け寄る面々等を見つめながら男性は呟いた。
「私がいない間に随分大袈裟な事が起きてたものと言うべきか……」
その声には至極残念と言う響きがあった。
面白いアトラクションに乗れなかった悔しさの様な雰囲気で男性は呟く。
「まぁいいか。ここがダメでも他に面白いものはたくさんあるだろうから――、ね」
その言葉を残して彼は闇の中へと去ってゆく。
そして夜明けの太陽が差し掛かる時にはすでに男性の姿は影も形も無く消えていた。
3
上空四〇〇〇メートルの場所。大海の様に広々と澄み渡る、見果てる事なき雄大な白き海峡が視界の果てに収まる事のない世界。雲の上。どこまでも爽快な白い絨毯の様に伸び伸びと世界を覆うように限りの見えない空の情景。
雲の上と言うのは実に快活明瞭な世界だ。突き出てしまえば後は終わるまで延々と見果てぬ理想郷が佇む様に聳えている。そして視界に捉える世界の青さは何に例えればいいのだろうか。こんな小さな窓から眺めた情景だと言うのに関わらずその雄大な爽やかさに酔いしれてしまいそうになる。雲のカーペットに澄み渡った青の部屋。風のカーテン。一度くらい飛行機から飛び出てあの雲の上を歩きたい、ごろごろと不作法に転がるのも一興かもしれない。
そんな童心に帰る様な事を思いながら中年と呼ぶには若々しく、青年と言うには大人びている雰囲気、だが一番該当するのはやはりといった様子で壮年期が一番しっくりくるのではないだろうか。
日本人の特徴的な黒髪を短めに綺麗に切り揃え、右側に一房毛先を鋭く切り揃えられている髪型の穏やかな眦をした銀縁の長方形型のメガネを掛けた男性がいた。全体的な雰囲気からとても物腰の落ち着いた男性といったものが感じ取れる。
その男性の隣には、彼の男性の風貌とは真逆な男性がいた。
優男といった容姿の男性とは違い、全身筋骨隆々とした大柄な男性が特注と思しき巨大な椅子に腰を下ろしている。バーミリオン色の髪の毛はもじゃもじゃとしたアフロ髪で統一されており、瞳の色は茶色の瞳をしており、着ている衣服は上諏訪梶の葉の文様が点在する直垂を着用していた。その顔には少し呆れの様なものが浮かんでいる。
そんな男性を横に優男風な男性はニコニコと空模様を眺めつつ呟いた。
「いやぁ、こういう光景を見ていると気持ちが爽やかになりますね」
スキップを踏みそうな明るい言葉に大男は渋い声で問い掛ける。
「……もう何時間も経ちますが、そんなに見ていて飽きないものなのでしょうか?」
「ええ」
当然とばかりに返答が返る。
「空模様は変わり映えありますからね。見ているだけでも景観が中々に変貌して楽しいものですよ。提もご覧になっては如何かな?」
「結構です。……残念ながら私はその小さな窓では何分視難いですからなぁ……」
ちょっぴり残念そうに提と呼ばれた大男は呟いた。その後にボソボソと「くっ。提の男はどうしてこう皆一様に巨漢になりがちなのだ。結構不便だぞ、背丈」と苦々しい表情で呟いている。そんな提さんに対して男性はこう提案した。
「そうだ。飛行機の上に乗って視るというのは如何でしょう?」
「吹き飛ばされます若殿!?」
「大丈夫ですよ、これは。提ならばしがみ付いて落ちずに済むはずです。この広大な空の景色を体感する為にも思い切ってスカイハイですよ、これは」
「いやいや、自分、何時間も耐久出来る気がしませんぞ若殿ぉ!?」
「成せば成る。と言う言葉をご存じですかな、これは?」
「知っていますが、実際にやったら成せば成るではなく成せば泣きますぞ、私が!」
それは残念です、とにこやかな笑みで言う自らにとって当主ともいうべき存在の悪意なしの興味と好奇心に満ちているであろう提案を却下した事に少し罪悪感を抱きつつも提にとって飛行機の上で空を体感……、いやはや流石にそれは厳しい。それも日本から一三時間近くかかる場所へ移動する中で現在、ようやく半分の六時間程度経過した段階だ。多分、上へ行ったら戻ってこれない事だろうと思いながら提は腕を組み直す。
そんな提に対して男性は小さな声で彼の苗字を呼びつけた後に話しかけた。
「話は変わりますが」
「……何ですかな?」
前置きを置かれた内容に提はあえて表情を変えず尋ねる。
「いえ……。今回はすみませんでしたね、代行で来て貰う事になってしまい」
代行。それが彼、提という苗字の大男の仕事であった。
提は何を仰るのやら、という表情をもろに顔に出しながら、
「我が提家が若殿の家に助力するのは、そんなに不自然な事でもありますまい。まぁ一番に貴方の家に仕えるのは何時の時代もあの家のものではありますがな」
「ははは。まぁそうと言えばそうですがね、これは」
知る人ぞ知るならば、その通りであった。本来にこの席に座る者がいるとしたら、それは別の男であるという事を提は知っている。だが今回は不都合が重なってしまい結果として彼の家と所縁のある提家が付き添いを果たしているというだけの事……。それを除いても最近では件の男は付き添いから一歩引いた形を取っている様子だが。
そこまで考えて提はしばし無言になった後に、ふと気づいた様子で呟いた。
「……そう言えば、九十九の奴はどうした?」
九十九。提にとっても、若殿と呼ばれる男性にとっても重要な存在の名であった。
この席に座るには早く……、かと言って資格がないわけではない。そんな現在進行形で精進するべき存在は今、何をどうしているのだろうかと提は静かなこの場所――飛行機のファーストクラスよりも幾分豪華な造りをしている、機内の中にいるはずの大柄の青年を捜すべく視線を走らせた。
そんな挙動に優男風な男性が気付くと、
「ああ。九十九ですか?」
「ええ。彼は確か記憶の最後にはしっかりと『大空すっげぇじゃねぇか! 何時か俺の筋肉もこの空の様に逞しくしてみせんぜ、見てろよ大空ぁあああああああああああああああああああああああああ!』と空模様ではしゃいでいた記憶がありますが」
「ええ、その記憶は間違いではありませんね、これは」
事実ほら、と指で指して、
「実に気持ちよさそうに向こうでいびきかきながら寝ていますねぇ、これはまた」
「九十九ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
確かに寝ていた。しかも熟睡だ。大型ソファーの上で『ぐーがー』という大きないびきをかきながら九十九と言う少年は眠りこけている。その光景に提は怒鳴る。
「お前、主が目覚めている間に何を寝ているのだ、うぉい!? しかも毛布までかけて寝る気満々だなぁ!?」
「あ。毛布かけたのは私ですね、これは」
「主に面倒みられてどうする気だお前ぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
「はははっ。まぁまぁ構いませんよ。子供には長時間のフライトは長すぎるでしょうしね」
「九十九は当に高校生なのですがな……」
「高校生と言ってもまだ数ヶ月ではないですか」
そう言われてみればそうだ。ごく最近に中学から高校へ進学したばかり……、とはいえ中学生でも従者として成長している者を知っている身の提としては九十九にも、あれだけの成長を見せて欲しいものだと考えてしまう事もある。
「あのザマで今回の付き添いは大丈夫なのか……」
「私は大丈夫と信じていますよ」
「若殿……」
「賭けに負けた事はそんなにありませんし」
「賭け扱いのレベルではないですか!? それで本当に大丈夫と!?」
「ははは、冗談ですからご安心しなさい提」
気楽に笑う男性に対して提はズーンと項垂れ頭を押さえたくもなる。
「本当に大丈夫なのか……?」
「心配性ですね、提は」
「不安にもなりますぞ……!」
一応の所、当然ながら九十九の力は過小評価していない、しかしこのほわほわな光景を見ながら提は若干の不安な気持ちを拭えなかった。
そんな提の肩をポン、と手で触れながら、
「まぁ正直な話……今回は少しばかり重要な案件なわけですから……」
頼みましたよ、と真剣みの籠った声で告げた。
その言葉も、内情もまた真剣な事であろう。提は事情に精通出来る立場でないなりに、男性が抱えるものがある事を理解している。九十九を連れてきた事にもしっかりとした意味を持っている事も重々承知している。
「……ですな」
神妙な面持ちで頷き返す。そう、今回は、それ相応に重要な案件であったからこそ赴いたわけであり……故に、彼の飛行機の中には気楽な雰囲気もあれば緊迫した雰囲気も確かに存在していた。
「さて……」
「如何しましたか?」
「いえ、そんな大層な事ではないですよ、これは」
小さく呟きながらゆったりとした座席に背中を預ける。
「到着まで時間もあり、到着したらしたで慌ただしくもなりそうですし、ここは一旦――」
一眠りしておきましょうか。そう呟いて男性は瞼をそっと下した。
暗くなった視界のままに、男性達を乗せて飛行機は目的地へと空を飛ぶ。一つの想いを乗せて機械仕掛けの空飛ぶ塊はただただ白く冴え渡る空の世界を貫く様に遠のき、そして何時しか小さな点へとなっていくのであった。
4
二日後。三月二十四日。午前七時。
朝の涼やかな風とふわりとした空気の心地よさ。小鳥たちの和やかな囀りと何処からかやってくる美味しそうな匂い。オリーブの香り。
清潔なベットの上で毛布を掛けられ横になっている少年は「ん……んん……」と起き掛けの呻きの様な声を洩らすと、体中の軋む様な小さな痛みを感じながらゆっくりと目を開けた。
視界から飛び込んでくる情報量にしばし感覚を持って行かれる。
眩しいと感じる気持ちが徐々にクリアになっていくに連れて少年は呟いた。
「……ここ、は……?」
白く清涼に整えられた部屋を視界に収め戸惑った様子の少年に声が聞こえた。
「あ。起きたんだ?」
綺麗なアルトボイスと共に窓際に佇む一人の少年がそっとこちらを振り返った。
第三章 傷が癒えたら、また羽ばたいて