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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
49/69

第九章 中篇:天魔の計略

第九章 中篇:天魔の計略


        1


 その日の夜――一人の少年が息を度々切らしながら走っていた。

 実際には、走っていたと言うよりもふらついていたと言う方が正しい。左右に重心がぶれた走行はあからさまに少年の身体に篭る疲弊をまざまざと見せつけているのだから。息も絶え絶えとばかりに走る少年の様は言っては何だが実に不格好に目に映る事だろう。

 加えて悲しいかな――内面も実に不格好だった。

「ひぇ……ひぇ、ふぉ……」

 喉の奥から声にする余裕のない悪態をついて少年は苛立たしげに目尻を吊り上げる。

(くそぉ……。何で僕がこうも毎日、夜にランニングしないといけないんだよ……! こんな地味な訓練なんて、価値あるかよってんだ……! ランニングなんて無意味、無意味! ランニングなんて馬鹿な奴らのやることだっつの!)

 うがー、と雄叫びと言うよりも絶叫じみた声を上げ、へたりこみそうになる足を仕方なしに揺り動かす。本当にこんな基礎鍛錬みたいな地味で味気ない作業をやりたくはない、そんな感情を抱いているのが目に見えてわかるさまであった。

 しかし、やらねばならない。

 なにせ、それが――、

「ああ、ああ、わかってるよ! やりゃいいんだろう、やればさあ? ああ、くそっ! 薄は本当使えないなあ!」

 憤慨を浮かべながら少年――祝島仁寿は投げ槍気味に、自暴自棄の様に走り出す。

 祝島(いわいしま)仁寿(じんじゅ)

 祝島家の次男坊。資産家の家に生まれた裕福な家の出の少年。それが彼であった。名家としてもそこそこ名前が売れている。

 そんな彼がどうして夜間ランニングに精を出しているのか。その理由は難しい話ではない。遡る事、思い出す事、数日前に彼は父親、祝島奉賀の執事であり祝島家執事長の肩書を持つ男性、宮王丸にこう告げられたのだ。


『覗きに加担したのは男の性として仕方がない。風評はお前自身の行動の結果だ男なら堂々と結果を受け止めろ。――が、その後の行動が頂けない。潔く腹を切れば済むものを。徹底的に鍛え直すとしよう。覚悟しておけ』


 その言葉通りに宮王丸(みやおうまる)は仁寿に対して厳しいトレーニングを課し始めた。

 地獄のトレーニングと言う程に猛烈過激なものではない。しかしそれは運動嫌いで体力作りを怠っていた仁寿には普通に厳しいトレーニングであり、その上ゴールデンウィークは日夜鍛練の日々が続いている事もあって今にも吐き出しそうな気分であった。

「あばばばば……。うぬはー、もう休みたいよぉ、(はく)ぅ……。その辺で休憩していいよね?」

 そもそも資産家の息子である自分がこんな体力作り必要なのか、と言う自問自答をする。

 体力とかそう言ったものは主を護るボディーガードとかが身に着けていれば、それでいいじゃないか、と仁寿は愚痴る。自分に必要なのはむさ苦しい筋力ではない。叡智の詰まった頭脳明晰さこそが至高なのだ。

「うっ。た、確かに五分前に休憩したばっかだけど、さっきはさ。なんかガラの悪い不良みたいな奴がいたから危ないじゃん? いや、メイドが付き添ってるのが不思議だったけど――って、お、おい。いいよ数えなくても休憩回数なんて! ご、五十回なんて休んでないし! わ、わかったよ走ればいいんだろ走ればさ! ちくしょう薄のバカぁ!」

 虚空に泣き言を零しながらも、仁寿は仕方なしに走りを継続する。

 若干、ペースを落としたがこれくらいならば許してくれるだろう。宮王丸自身も自分のペースで走れば今はそれでいい、と言う発言を残してくれている。

 それでも資産家の息子足る自分が何故こんな体力作りを……、と悔しさ紛れに仁寿は零す。

 そんな事を想って走る仁寿であったが不意に不思議そうに目を丸くした。

「あれ、どうしたんだ……?」

 何やら様子がおかしい。そんな空気を感じた仁寿が訝しげに虚空を一瞥した後に、ふっと視線を周囲に彷徨わせた。すると、仁寿は驚きに目を見張る事となる。

「――え」

 ポカンと口が開いた。

 何故か。

 それは眼前に、視界に入った光景が原因だった。

 人が、倒れている。そのさまを見て仁寿の思考が僅かに停止し――そして即座に慌ただしく再起動を始め出した。

「え、ええ、ええええ……!? な、なんで人がこんなとこに倒れてんだ!? よ、酔っ払いとかかな?」

 気味が悪いものを見る様な怯えた表情を浮かべながら仁寿は恐る恐る近づいてゆく。

 酔っ払いが倒れていると言う線を考えた仁寿だったが、近づくにつれてそれが間違いである事に気付いてゆく。なにせ、倒れている人物は若そうだ――というか、自分と同年代くらいではないか。赤毛の少年がそこに倒れていた。

「僕と同い年くらい、かな……? い、生きてんだよな? 死体とかだったら、簡便な。あ、それだと触れたくないな……。死体とかじゃないよな本当……!」

 仁寿が死体かどうかと訝しむのも無理はない。

 時間帯が夜遅くで、顔色に暗闇が浸っていると言うのもあるが、どうにも見た感じで生気が乏しい様にも見受けられるからだ。

「こ、こういう時って救急車とかだよな……? ああ、でも救急車って番号いくつだっけ……? っていうか、それよりも宮王丸に言った方が早いかな……?」

 人生でアクシデントはつきものだ。

 それが倒れている人ともなり、時間帯が夜ともくれば、存外にハードルはレベルアップする。仁寿は名家の子息だが、だからこそ随所に荒が見受けられる。そんな彼にとって、このケースは些か重たい。それでも救急車くらいは呼ぼうと携帯電話をかけたところ――、

「…………ん?」

 それは、視界に蠢いた。

 数字のボタンを緩慢な動作で押してゆく中、瞳が、仁寿の瞳が異形を捕え、狼狽える様に瞳がぶるりとブレ始める。

「……ふへ……?」

 一変と言うものは文字通りに唐突だった。

 路上に隣接する草木の影から、まるで影がそのまま形を持つかの様に何やら紫色の物体が周囲四方の所々から姿を現し始めている。ヘドロの様な――スライムの様な――おおよそ生物とも言えないであろう不気味な実体がどろりと溢れ出す様に。

 仁寿の指が数字の最後【0】を押したのとほぼ同時であった。

 粘液の塊の様な存在が、その色彩鮮やかな体色の中でも不気味に輝く双眸を――オン――と、輝かせながら、仁寿らの方を一斉に睨みつけたのは。

 言わずもがな。

「ひょ――ひょえええええええええええええええええええええええええええええええ!?」

 祝島仁寿は駆けだした。

 先程までの疲弊など存在しないと言わんばかりの俊足で、携帯電話を耳に当てながら、一心不乱に夜道を爆走し始める。

 そして、そんな彼に対して爛々と輝く双眸を持つ謎の存在達はずるりずるりと這いずっていたかと思えば――飛沫が飛び散る様に俊敏な動作で宙を飛び跳ね「テケ・リリリ――」深淵から響く歪な鈴の音のごとき鳴き声を奏でながら追走を始めるのだった。


        2


 西洋学園で用務員の仕事に就く太櫓(ふとろ)は自宅から車を使って、この場所まで訪れてきていた。学園の外に車を駐車させると、扉を開けてひょっこりと顔を現す。年季の入った老人の柔和な尊顔が校舎へと向く。

「さて、さて。一仕事頑張るとするかの」

 老体ながらも日頃、運動を欠かさぬおかげもあり歩みに一切の問題は無い。

 太櫓はしっかりとした足取りで校門の方へと向かっていく。

 本来ならば、用務員も警備員も昨今の機械警備の恩恵もあり、学校側にそうした職業が今なお存在すると言うのはマチマチだが、西洋学園は比較的古い校舎である側面から、時々こうして太櫓が見回りに訪れている。

 例えば、休みが長く続いた日の最終日などだ。

 今日まではゴールデンウィーク。

 明日からは休み明けだ。

 その期間中に校舎に何か問題が起きていた、では生徒たちも困るだろう。太櫓は腰元の鍵束を軽く触れながら静かに歩いてゆく。

「……おや?」

 そこで太櫓は校門前に、誰かいる事に気付く。

 暗闇で判然とはしないが、女性的なシルエットだ。何故、この時間こんな場所に女性がいるのだろう、と訝しみながら、

「おーい、そこの方。ここで何を――」

 意識がふっと刈り取られていくのだった。


        2


 空気が美味しい。

 殺伐とした空気ではない。夜の涼しく風流なそよ風と虫の鳴き声、鳥の囀りの全てが一体となって口に広がる空気が美味しかった。小難しい理屈抜きに、このいつも通りの光景とよくある日本の夜の風がたまらなく心地よいのだ。

「は、はは……! ははははは、くふ、あはははははははははっ!」

 休屋(やすみや)(れん)は哄笑する。痛々しい程に蒼褪めた表情を浮かべながら。

 校舎の外。あの化け物が、天魔が居座る校舎の外へとまずは撤退出来たと言う事実が胸中を歓喜渦巻いているのがわかるからだ。怖かった。恐ろしかった。一刻一秒でも早く、あんな場所から抜け出したいと思う程に。校舎の外へ出る。ただそれだけで緊張の糸がふっと緩んだ。ただ建物から出ただけで別世界に生き延びた様な安堵感を抱く。

「生きてる! 生きてる……! 生きてるっ!」

 震える手をどうにか握りしめながら連は哄笑を浮かべながら前進する。目指すは校門。

 とにかくこんな場所からはおさらばしたい。その一念であった。

 そうすればきっとこんな性質の悪い悪夢とも決別できたりするに違いない――そんな甘い想いを一縷の希望と縋りながら。

「家に戻ろう。家に帰れば、大丈夫だ。風呂入って、ベットに飛び込んでさ。ぐーすか眠るんだ。すりゃ、きっといつもどおりの明日が来てさ」

 また普段通りの日常が始まる。

 そう続けようとしたところで、それを邪魔する様に耳障りな声が響いた。

 ――いやあ、そりゃあ現実逃避ってなもんじゃね逃げ腰野郎?

「ッ!」

 ゾッ! と、怖気が立った。まただ。また、声が聞こえる。男の声。

 ――にしてもあの局面で『前者に決まってるだろ!』は流石に震えたわー。おおう、こいつガチで一般人過ぎんだろって思ったもん。

 先程も聞こえた声が耳元に、あるいは脳内に直接語りかける様な現象。連の知らない感触を前に彼はひっと呻きながら凄い勢いで辺りを確認すべく頭を振った。

 ――ああ。そんな無為な事はしなくてオッケーじゃん? これ俗に言うテレパシー! 的なもんなんで、逃げ腰野郎の近くにはおらんぜ?

「な、なん……」

 ――はっはっは、怯えまくりだなにしても! しゃーないとはいえ、面白いくらいにテンパりまくりってもんだ!

 脳髄に響く男の陽気な声。

 誰だ? 誰なのだ? と、連の顔が恐怖に青く染まる。この現象そのものが、お前はまだ非日常に中にいる、とでも訴えかけている様に錯覚する程にだ。

「なんなんだよお前……。俺、なんでこんな声が聞こえるんだよ……。消えろよ、消えてくれよお……。誰かなんて聞かないからさ。早く、消えろ――消えてください。お願いします土下座しろってんならしますから消えてください……!」

 ――お、おおう。失望したぜ、とお決まりの台詞を吐いてみたくなるくらいに及び腰野郎に染まっちまってまー大変だ、はっはっは!

 声の主はまるで少年の肩をバンバン叩く様な声音で反応を示す。

 連としては意外だった。最後の言葉はプライドなんて金繰り捨てて、お願いした言葉であっただけに失望の声が、いっそ侮蔑の声でも何ら蟠りを抱かず終わるはずだったのに。ありがとうありがとう、と感謝すら吐けるはずだったのに。

「んだよ……なんで消えてくれないん、ですか。俺、もうこんなのは……」

 嫌だ。そう零しながらひいひい喉元から声を噴き出して校門へ足を運ぶ。

 ――いやあ、ここで見捨てるとちょい寝覚めが悪いっつーかねえ?

「いいよ、気にしないでいい。俺、誰も恨みませんから。誰も憎んだりしないから、早く消えてください。話しかけないでください。マジで、お願いしますから。本当に」

 ぐずぐずと、涙と鼻水を溢れさせながら連は必死に懇願する。

 しかし、

 ――お断りじゃん?

「なんでっ」

 ――何でも何もねーさ。ここで逃げ出し野郎に語りかけないでいるっつーと、お前の今後が更に悪くなりかねないってもんなのさ。ああ、別にまた厄介事に巻き込まれるとかそういうんじゃあないぜ? ただ、単純に――道徳観念の問題だ。

「は、はぁ……!?」

 そんなわけのわからない事を言われても困る。

 そんなの知らない。自分はただもう死ぬような想いはゴメンなだけなのだから。連は声を振り払う様に必死に駆け出してゆく。

「んなの知らねぇよ……!」

 声の主の言葉を拒絶する様に。

「あんなのゴメンだ! 俺ァ戦う力なんてもってねぇ唯の一般人なんだ……ッ! 男とか女とか関係なく無力な一般人にしか過ぎないんだから……! あんな、天魔だか何だか知らない奴と張り合おうなんて無茶なんだから……!」

 だから逃げるのだ。いやいやと首を振って必死に乞うた。

 校門が視界に見えている。あと少し。気付けば声も鳴りを潜めていた。

 悪夢は終わるのだ。きっと。眼前にある、あの校門を潜り抜けて、自宅へ帰り明日を迎えれば何事もなくまた明日がやってきて――いつも通りの日々が来るのだから――そう心から信じ抜いて休屋連は一目散に駆けだした。

(こんな悪夢……覚めちまえ……!)

 だから――休屋連は、校門を一足飛びに飛び越えんと力の限りに跳躍した。

「がぶぼっ」

 そして顔面を鉄格子に強打した。

「あっ、づぁ……! い、いだぁ……! ひ、ひぃ……鼻、鼻痛ぇ……! 前歯も……痛い痛い痛い痛ぇよぉ……! なん、つ~~~~……!」

 連は両手で顔面を抑えて地面を転げまわる。まるで顔を焼かれた様な痛みが顔に走り、連は痛みに呻き声を発していた。当然ながら、連の身体能力は人並みだ。校門を一足飛びなんて格好良い事を出来る程の強健の持ち主などではない。

 そして。

 そんな連を見下ろす様に、そこには一人の女性が佇んでいた。

「――休屋さん、ですか」

「……え」

 一瞬だけ。痛みを忘れて連は顔を声の方へと向けていた。佇むのは一人の女性。

 鷹架理枝の側近――川蝉(かわせみ)と言う眉目秀麗なスーツ姿の女性だった。

「川蝉、さん……」

「ええ。――他の皆さんはどうしましたか? まだ戦闘は継続している様子ですが」

「あと、えの」

「私へ何か伝令でもあるのでしょうか?」

「その、あ、そういうの、は、なくって」

「では、目標である一矢報いる、と言うものは達成出来たのですか?」

「そ、そんな恐ろしいの無理に決まってるだろうが――ます」

「……なるほど。わかりました」

 冷淡に発せられた声が、急速に休屋連の中の何かを萎縮させてゆく。

 今ので全てを見抜かれた様な感覚を抱いてしまう。

 こうして、誰かと出会う事が。事情を知る誰かと面を合わせる事が、休屋連の中に湧き立っていた高揚感の様ですらあった逃亡思念に一石を投じるかの様だった。悪い事をして、それが親に見つかって、怒られる直前の様に。

「あ、その、あ……」

「……」

 ここに自分だけがいる事をどう説明すればいいのだろう、と連は汗腺を激しく稼動させながら頭を抱えた。ここにいる理由。そんなのは一言で済むのだ。そしてそれは、川蝉自身にもさっせてしまう様に明瞭だった。

「逃げてきた、様ですね」

「……」

 びくり、と身体が震える。

 どこの誰とも知らない声の主でもない。確かな肉声を持つ相手を前にした事で連の心は確実に揺さぶられはじめていた。逃げてきた。なんと格好悪い推定なのだろうか。

「しか」

 仕方なかったんだ、と連の震える口が言葉を紡いだ。

「しょうがなかったんだ。俺なんかじゃ足手まといなんだ。だって――だって、そうだろ!? 武器持った専門家みたいなアンタらでも、あの化け物相手にガンガンやられちゃって! なんなんだよもっと踏ん張れよ……嘘だろ、あんなの! おかしいじゃんか! あっという間に、俺と朧と鷹架だけになるなんて想像つくかよ……無理ゲーだろ……あんなのさあ……」

 そこからは怒涛の様に言葉が溢れ出した。

 無理だ。勝てない。化け物相手なんておかしい。そんな言葉が繰り返し発せられた。その言葉の数々を川蝉はただ淡々と聴いてゆく。

「……俺がいても、邪魔になるだけ。だからこうして、逃げ出しても仕方ないんだ」

「確かに、一般人が関わるべき戦いではありませんからね」

「で――ですよねっ?」

 その言葉に連の表情が僅かに明るくなった。

 川蝉の首肯が、自らの行動を肯定してくれている事による安心感。それが嬉しかったからだ。自分が逃げ出す事は仕方ない予め決められた事だったのだと。

「そうっすよね。後はあいつらがどうにかするべきですもんね! いやあ、俺みたいに何の以下らが無い奴が行ってもまた死ぬだけですしっ!」

 安堵の息を吐き出す様に連は口を開いた。川蝉は神妙な表情で、

「ええ。事実、休屋さんがいたところで状況は左右されないでしょう。貴方はなんの力も持たない一般人なのですから仕方ありません。こういった事は、力のある者が対処すべき事ですからね。何も出来ない貴方は何一つ悪くありません。貴方はただの被害者ですから」

「そう……そうっすよね」

 肯定の言葉が述べられる。

 それが嬉しい――嬉しいはずなのだ。なのに、何故だろうか。連は頭が冷えていくのを感じていた。嬉しいと思うべきなのに――頭の中は荒れ狂っていくようだった。

「なんでですか」

 気付けば口が開いていた。

「何で、とは?」

 淡々とした声が返ってくる。

「何で――なんでですかっ。俺――俺、本当言った後にだけど。言ってて気づかないけど、言った後に気付くばっかだけど……すげぇ格好悪いどうしようもない発言ばっかしてるんだよ。なのにどうして非難の一言も無いんですか?」

 先程から何一つ、連を責める様な言葉を述べていない川蝉。

 告げる言葉はどれもみな、真実ばかりだ。

「それは貴方も言っている通りですよ休屋さん」

 川蝉は告げる。

「貴方は被害者。この戦いの為に何かを犠牲にする必要はない完全なる被害者です。だから何か非難する様な事は無いんです。仮に怖くなって逃げ出してきたとしても、一度殺された相手に何の力も持たない一般人が逃げ延びる事を誰が避難出来ますか? その前からずっと嫌だと理を入れ続けた人が逃げて、それを誰が責めていいのですか?」

 つまりはそういうことです、と川蝉は息を吐き出した。

「貴方は責められるとかそういう次元に立っていないんですよ。強いて責めるとすれば、それは混乱した際にみせた暴言程度でしょう? それほど、貴方は一般人として別に誰かが責める様な行動を起こしたわけではありません。その結果、誰かが死ねば別ですが、それもない」

「……っ」

 怒られる資格が無い。

 そもそもの段階が違っていた。怒る価値も無い。そう言われている様な気分ですらある。川蝉はそんな連を一瞥しながら、

「休屋さんは一般人です。よくある怪獣映画を挙げれば、怪獣が現れて逃げ惑う民衆。怪獣の光線で焼き払われるその他大勢。言い方はアレですが、貴方の立場はそういったものです」

 護られるべき立ち位置。

 護られるべき力なき弱者。

 それが休屋連の立場。その他大勢と言う括りの中にいるもの。

 誰かが守ってくれる――そんな安心感に浸れる場所にいて、連もまたそれを望んでいる。

(だってのに何で!)

 連は困惑した表情で頭を抱えた。

 何故か浮かび上がる罪悪感。それが脳髄を刺激しているのだ。行っても無意味なはずなのに、下手な正義感があるわけでもない。自分が生き延びられればそれでいいと考えている。だがどうしても胸中に、悔しさが根付いていた。

 ――これはなんだ!?

 胸に湧く、その気持ちの悪さが少年に素直な喜びを与えてくれないのだ。

 そんな連の姿を見据えながら川蝉は再度口を開いた。

「だけれど、民衆と言うのにも多くのパターンがありますよね」

「……え?」

「一般市民が戦わず逃げる事はなんら悪い事ではありません」

 彼女が唐突に告げた言葉に顔を上げる。

 どういう意味だ、と言う視線を投げ掛ける連を見つめながら川蝉は、夜風と共に、言葉を乗せて連へと届けた。

「――」

 それは。連の心を大きく揺さぶる発言だった。

「けど、どうしようもないじゃんか!」

 ガン、と拳で地面を叩く。砂利が痛い。地面が痛い。拳が擦り傷を負った。

 そんな弱さが連だ。朧にも、理枝にも遠く及ぶまい平均値。弱さを嘆いているわけではない。そんな事でこんな苛立ちを示すわけもない。だからといって、川蝉の言う通りの事を実践する強さを自分はもっていない。

 きっとそうした形も、実際は普通より上だったからに他ならないはずなんだ、と。

「こう言った言葉がありますね。【弱いのは逃げる理由にはならない】、と」

 しかし、それは違うと彼女は告げる。

「弱いからには逃げ出すべき、なのです」

「え?」

「命がかかった場面でそれを成せるのは英雄の、勇者の特権です。一般人は、たとえ媚を売ってでも、背中に傷を負ってでも、後々に侮蔑が続くとしても、生きたいと願うならば生き恥を晒す事はなんら悪くありません。そう、何も悪くない。弱い事に罪は無いのです。罪があるろすれば、それは弱さを免罪符にする事だから」

「……!」

 弱さを免罪符にすること。

 弱いから逃げ出すこと。

 似た様なものでありながらどこか違う。だが、そうするならば、やはり自分は、と連は頭が痛くなるのを感じ始めていた。

「じゃあ俺は……さっきから……、なんかバカ言ってばっかり、で……」

 懺悔する様に連は蹲る。逃げれて嬉しいはずなのに、逃げれた事が苦しいのだ。

 まるで何かを置き忘れた様に。

「休屋さん」

 だからこそ川蝉は寸分たがわず言葉で射抜く。

「そもそも、貴方が今こうして言葉を取り繕っているのはもっと別の理由ですよ」

「は……?」

 きょとんとする連に対して川蝉は、真剣な顔でこう告げた。

「休屋さんが本当に恐怖しているのは、全部捨てて逃げてしまった自らの行動。罪悪感。友達を見捨て、自分の心を捨てて、走り出してしまった後に湧き出た気持ち。それが休屋さんの抱いている本当の恐怖の正体です」

 心臓が、飛び跳ねる気持ちだった。

(俺、は――)

 天魔が怖い。間違いない。死ぬのが怖い。当然だ。朧も、鷹架も皆も全員の足手まといになるだけだから逃げても仕方がない。理に適っている。何一つとして、敗北感こそあれど間違ってはいない。

 ならば、今こうして沸き起こる寂寥感は。

「休屋さん」

 川蝉が静かに口を開いた。

「一つ良い事を教えてあげましょう」

「なん、すか……?」

「先程も言いましたが、【特撮映画さながらに街中に怪獣が現れたならば、逃げるのが必定】と言う場面に於いて、一般人が浮かべる表情は驚愕、恐怖、そして続く怯え――震えて縮こまっていればいいのです。立ち向かう力の無いものは片隅で生き延びるべく、身を潜めていれば構いません」

 けれど、と川蝉は一拍隙間を置いて、

「今の休屋さんの様に――そんな顔を浮かべている人は膝を屈してはいかないのです。逃げてもいい。隠れていてもいい。だけれど」

 ――眼だけは背けてはならないんです。

 そう告げて、川蝉は懐から小さな手鏡を取り出した。

 そこには確かに映っている。

 休屋連のなっさけない面貌が。怯えと恐怖に苛まされた酷い顔だ。鼻水と涙に塗れた逃げ出した者の恐れた故の顔だ。しかし、確かに映っている。

 歯を食い縛る、その顔が。自責と悔しさを混ぜたその表情が。

 全身がカッと熱くなった。

 恥ずかしかったからもあるが、それだけではない。ただの敗残者の姿だと思っていた自分の姿に微かにだが、僅かにだが、あったからだ。口角が小さく吊り上る。ぐにっとした締まりのない口元に、それでも宿る活力があった。

 人生で逃げ出してはならない時があると誰かが言った。

 この局面がそうなのだろう。

(なら俺は逃げ出す)

 未来がダメになるとしても、そんな怖いものに立ち向かいたくはなかった。

 しかし、ここで賭けるべきは、そんな先の話ではない。未来の話ではない。

 これは――現在の話だ。

 一秒先に意識を割くな。休屋連が見るべきは。

「……川蝉さん」

「はい」

「川蝉さんは応援で今から駆け付けたりはしなんすか」

「最終手段ですね。私はここで結界を張る役割を担っていますから」

 結界。人目につきづらくする様に川蝉が何らかの手法で施した空間内。連達がいるのはそう言う場所だ。そしてそれがあるからこそ学校でドンパチ出来るのであり、川蝉がその場を崩せば近隣から人が騒ぎを聞きつけて溢れ出すだろう。

 それが川蝉が参戦できない理由だ。

「……ならやっぱ」

 自分で行くしかない。

 何が出来るかなんて考えを浮かべる事も出来ない足手まといでしかないが。

 それでも、

「――顔つきが少しマシになりましたね」

「……そうっすか?」

「ええ」

 川蝉は厳かに頷く。

 すると連に対して右腕をそっと伸ばしてきた。不思議に思いながらも彼女が何かを手渡そうとしているのだと気付いて、左手を差し出す。そこにがしゃりと、金属音が重なり響いた。

「休屋さん。これを」

「……これ、は?」

「…………校舎の鍵、ですね」

「なんであんの……?」

 先程とは違う意味で汗が噴き出す。何故、こんなものを川蝉が……と、訝しみながら彼女がチラリと向けた視線の先へ連の眼も追いかける。

 するとそこには一人の壮年の男性が学校の壁を背に、首をもたげて寝息を立てていた。どこかで見た顔だ。そう、連が時折、校内で見かけた事もある掃除などの雑務をこなしてくれている心の優しい方で――。

 用務員の太櫓さんが倒れていた。

「……」

「……」

「近づいてきたので、気絶と言う形を取らせて頂きました」

「川蝉さあん!?」

 やたら行動力が高いのは察していたが、行動に大胆さも合わせているのだなあ、と痛感する連であった。

「仕方ない事と割り切ってください。天魔の一件が人目につけば、大騒ぎとならざるを得ないですからね。最悪、一命を落としかねませんので」

「それは確かにそっすね……」

 実際に一命を落とした身の上だけあって、その危険視は正しいと連は頷く。

 遭遇し、相手が殺す気でかかってこられれば普通の人間ではまず勝てっこない。

「こちらの方は少しの間は起きませんので……お嬢様たちもその間に倒せると良いのですが。一目がいつ集まり始めるかもしれませんし」

「ですよね。……さて、それじゃ……」

「行くのですか?」

「一つ、思い至っちまったんで。仕方なく。本当は行きたくないけど、ですけどね」

「それでも立派ですよ」

 ふっと微笑を浮かべる川蝉の表情に照れ臭そうにしつつも、ぺこりと一回お辞儀して休屋連は手の中の唯一のアイテム。校舎の鍵を見定めた。

 連はようは死にたくない。そして足手まといになりたくない。

 そう言った思考が働いている。

「……そうだ」

 その思考が生み出した答えは、出来る事と下の下どころか、些末事に過ぎなかった。

 しかし、それでも休屋連は道を決めた。一回限り、今回限り、本当に今回限りでいいのだ――勇気を振り絞れ。

 ごくんと唾を呑み込んだ。

 震える膝を振るえるままに駆けだした。震える腕を震えたままで動かした。

 リズム感のない。不規則な呼吸を繰り返して、一切の余裕なく、緊張感に身を浸して。

 それでも連は走り出していた。

 手の中にある太櫓さんが携帯していた学校の鍵の束。これさえあれば、行動性に幅が広がる。少なくとも連にとっては何もなかっただけにありがたい代物だ。だが肝心な何をすべきかが見えてこない。手札の少なさが彼の弱点だったのだから。

 これを以て出来る事をしてみよう。それがどれだけ児戯に等しくとも。

 しかし欲を言えば、

(せめて何か一つ、決め手がありゃあな……!)

 ギリ、と歯噛みする。本当に、たった一つで良い。こんな他愛ない事のみではなく、しっかりと役立てる様な切り札が――しかし、それは自分にとって過ぎたる願いなのだろう。

 そしてそんな事を考えている連の脳内に響く声が再臨する。

 ――ようやっとそれっぽい顔になったじゃねぇか。

「何だ――まだ、いたのかよお前」

 ――まな。

 笑いを堪える様なくつくつとした声が脳髄に木霊する。その反応にむっとしながらも休屋連は目的地へ辿り着いた後に、小さく言葉を吐いた。

「そんで、お前は誰なんだよ?」

 ――なんだ? 誰かだなんて聞く気なかったんじゃねぇのかよ?

「なかったに決まってるだろ。関わり合いになりたくなかったんだから」

 けれど今は違う。

 踏み込むのだから、問い掛ける勇気は今、ここにある。

「正直今も関わり合いになんてなりたくねぇ。怖いんだよ全部。何でこんなことになっちまってんだよって叫ぶ気持ちばっかあんだよ」

 ――みてぇだねぇ。手、震えてるぜ?

「……ああ、マジだ。くそう。開け開け開け開け……!」

 その証拠とばかりに連の手はがくがくと忙しなく振動していた。鍵穴に差し込もうとする鍵がぶるぶると震えて鍵穴に差し込めない。怯えが、明確に少年の手を包んでいた。

「笑っちまうだろ。格好つけた割にこのざまなんだぜ?」

 ――なあ、鍵穴傷つくから落ち着いてから入れたらどうだ?

「せめて笑わねぇよ、とか爆笑ぐらいしろよ! スルーすんなよ!」

 ――やだよ、そんな常套句みたいな反応つまらねえ。

「本当、お前誰なんだよ一発殴りたいんだけど!」

 ――正体かい? 名前かい? まあ答えてやらなくもないぜ。嘘だけど。

「いや、そこは普通に答えろっ!」

 脳髄に響く声の主は「ははははは」と棒読みな笑い声を反響するだけで、まったく回答を寄越す気が無いのが連にはわかった。なんだこの人をおちょくる姿勢の誰かは。

 だがこうしていてわかるのは、声の主が確実に連とは違う特殊な存在であるという事である。テレパシーを送り、尚且つ、この局面で話しかけてくる相手など今回の騒動の無関係者と考える事は出来ない。

(だからこそ名前を明かさないって事なんかね……。いや、わかんねぇけど)

 頭の中がごちゃごちゃだ。

 天魔の目的が何なのか連は知らない。声の主が何者で何でここで話しかけてくるのか連はわからない。分からない事だらけなのだ。

 しかし、その中で明確に分かる事がある。

 一つは連の寿命が刻一刻と迫っており、存命方法を達成しなくてはならないこと。

 もう一つは、自分から、今回の騒動に足を踏み込むと決めた事だ。

 怯えていてもいい。逃げ出してもいい。川蝉はそう言った。

 しかし目を背けてはいけないのだ。川蝉はそう断じた。

 ならば、休屋連は胸に抱えた想いを賭して気張らねばならない。

(そうだ。この際、格好悪い良いなんて知るかよくそ……! 出来る事なんて本当は何一つねぇけど。行ったって足手まといなだけだけど。なら答えはそこにあるんだ……! 俺がやれる可能性はそこにしかねぇんだから……ッ!)

「開いたッ!」

 ガチャリ、と鍵穴から音が発せられる。

 ドアノブを掴めば、扉が開き真っ暗闇な校内が覗き込んだ。先程までの恐怖とは異なる、薄気味の悪さにゴクリと唾を呑み込みつつも、連は「お、おおおおおお、とこはどぎょう!」と震える声で自身を鼓舞すると、その暗闇の中への一歩を踏み込む。

 ――いいね。

 連には聞こえない場所でその男は小さく笑んだ。

 ――勇気なんだか、自尊心なんだか、見栄なんだかは判然としねえ。だが弱者なりに気張ろうって想いが湧き出た。そいつが好ましい。そいつを待っていた。やろうとしてる事も阿呆の極みで笑いが零れるってえなもんじゃないですか。

 パン、と柏手一つ鳴らして男は小さく頷いた。

 ――ようし、扉を開けた野郎に告ぐぜ。

 今度は少年の脳髄に響く声で。

 その男はニヤリと力強い笑みを浮かべた。

 ――挑戦者野郎に一つのギフトだ。お前を舞台俳優へ抜擢する為の力を、教えてやる。


        3


 休屋連が逃げ出した。

 その出来事が起きる、少し前。休屋連が逃げ出した。その場面へと遡る。

 鷹架理枝は一度だけ、心より憤慨した。

「あの、バカ男……!」

 ダン、と地団太を踏む。

 遠ざかっていった背中は何ともさびしいものだった。怒りすら湧かない程に情けない逃げの背中は見た者に寂寥感すら植え付ける程に――小さいものでしかなかった。

「フーム」

 顎に手を当てながら相対する天魔ヴァイスハイトは小さく零す。

「まあ、しょうがないんじゃねーんですかーい? ぷっちゃけ私の様な化け物目の前にしてこの不利っぷりじゃあ、一般人なら逃げてコレクト! って、言いたくなるかにゃーん!」

 HAHAHAHAHA! と、笑い声を発するヴァイスハイトに対して朧と理枝。二人の心境は何とも物寂しいものであった。休屋連が、罵倒と共に逃げ出した。その事が何とも複雑な感情として胸に響いているのだ。

 いや、理枝の方はまだいい。連と少しは会話もしたが、その程度。最近知り合った程度の関係性だ。しかし、朧は。

「……弓削日比」

 ヴァイスハイトが『空気重いなあ』と、呟いて体育座りしている横で、理枝は朧に向けて言葉を投げ掛けた。朧は連が去って行った方向を見据えながら、

「……別に、そんなに心配しなくていいよ理枝ちゃん。それよかさっきは俺のダチが何だか酷い言葉浴びせてごめんな」

「いえ。相当混乱していた様子でしたから気にしなくてよ」

「サンキュ」

「……それに責められるべきはこちらですしね」

 理枝は嘆息を浮かべてそう零した。

「休屋連――彼は一般人ですもの。正直な話、事情があるとはいえここへ連れ込むのも無茶な事だったのを理解していてよ。絶対に拙い事態になるって想いはあった。彼があんな風に逃げ出してしまうのも無理はない」

 そしてそうなる原因は自分達にあると理枝は感じた。

「私達が――この体育座りで空気読んでますアピールまでしているちゃらけた天魔さえ早々に討伐出来てさえいれば……」

「oh。何だか酷い矛を向けられた気分だぜい」

 膝を手でパンパン叩きながらヴァイスハイトが不満を漏らす。

「黙りなさい。シリアスな空気をどれだけ作っても貴方のおかげで台無しでしてよ!?」

「いやん、シリアスを求められるだけ、ふざけたいって気持ちがむくむくにょるん」

「ふざけていまして……?」

 ゆらぁ、と怒気を零す理枝を爆笑の渦にいるかのように手をぱんぱん叩いて爆笑するヴァイスハイト。光景だけみればどこぞのコメディを連想する。

 が、ここにいるのは明確なまでに敵対関係なのだ。

 そして現在の状況はかなり悪い。

 戦力として共に来た面子は全滅。戦えるのは朧と理枝の二人だけ。そして頼みの綱であった対天魔最高峰術式【祓魔十字(エクソルツィスムス・クロイツ)】は効き目がなかった。

「たく。こんなふざけた奴に【祓魔十字】が効かないなんてね」

「ええ。まったくでしてよ。【祓魔十字】は完全に天魔に対しては絶大な能力を発揮する術式だといいますのに、無傷だなどとは……!」

「まあ、世の中エクセプションってものがあるもんさー!」

 例外。【祓魔十字】が効かない天魔。

(なるほど、そりゃ確かにないわけじゃないんだろうさ)

 だが本当にそうなのか。朧は疑問視している。ここへ来る前に理枝は言っていた。

 天魔は【祓魔十字】を不得手とするが故に対策を講じるケースがある、と。

 ならばヴァイスハイトの発言はブラフ。そう振る舞っているだけで仕組みは存在するのではないかという憶測ながらも希望が成り立つ。問題はこの強き天魔相手にどこまで食らいつけるか。どこまで心が折れずにいられるか。

「休屋は逃げて正解でもありましてね」

 理枝が嘆息気味に呟いた。

 確かにそうだ。ここからは粗探し。一発勝負で蹴りがつく戦いではなくなった。ならば連はいるだけ危険でしかない。ただ憂うとするならば、

「心の方は、心配ではありますが。どうかしら、弓削日比?」

「そだね」

 心。あの去り際は確実に恐怖に苛まされたものの逃走だ。連が今、どんな気持ちでいるかは明確にはわからない。その後、どう行動しているのかも。

 ただ朧に言える事は、

「ダメかもしんないし、意外に落ち着くかもね」

「……どっちでして?」

 ゴメン、と可笑しそうに苦笑しながら、

「連はさ。戻ってくるかもしれないし。戻ってこないかもしれない。そんな奴だから」

「…………それ、本当にどっちなわけでして?」

(そこはこう……戻ってくるさ、的な発言が出たりはしないの……?)

 汗を垂らす理枝の表情に苦笑を浮かべながら朧は応える。

「だからさ。何て言うか――ホント、普通の奴だから、アイツは」

「普通……」

「ああ。戻ってくるかもしれないし、こないかもしれない。どっちを選ぶのなんかわからないよ本当、普通な奴だから。戻ってくるなら嬉しいし」

 戻ってこないならそれでもいい。朧はそう付け加えた。

「どっちに転んだっていいんだ。逃げ出すでも勇気を示すのでも――どっちでも」

 だけど、と朧は語気を強くする。

「肝心なのはれんきゅーの奴の明日が来ないかもしれないって現実だけだ。俺がダチとしてやるべきことはそれだけで、町の住民として戦うべきはこの街で好き勝手な事なんかやらかさせないって想い。その二つがありがたい事にお前に集約してんだぜ、オクゼンフルトさんよ」

「一石二鳥って奴っすね! グレイト!」

「や――やめなさい弓削日比!」

 ヴァイスハイトに対して拳を握りしめ前へと躍り出た朧の姿に理枝は憔悴を隠せない。

(拙い。止めなくては――)

 天魔ヴァイスハイトと言う強大な存在に一人で立ち向かわせるなど無謀過ぎる。一般の男子高校生である朧が立ち向かうなど尚更に無理だ。だがしかし、そんな理枝の表情を一瞥して朧は小さく笑った。

「大丈夫だよ、理枝ちゃん」

 すっと握り緊めた拳から人差し指だけを伸ばして、

「そんな簡単にはいかせないから」

「……弓削日比……?」

「ただ一つだけ、事前に言っておくんだけど……」

 朧はフッと瞳から光を消し去り、

「――れんきゅーの奴には内緒で頼んます」

 少年の体躯が虚空に消えた。

 ――え、と理枝の口からか細い声が思わず飛び出る。

 同時にヴァイスハイトが途端、獰猛な笑みを浮かべて筋肉を躍動させた。

「――かぁっ!」

 唐突に、天魔は巨大な拳を後方目掛けて振り抜く。何故、と理枝が思考する中で彼女の瞳がそれを捕えた。

 まるで闇を纏う様に、気配がうすらぼんやりと化した弓削日比朧。

 見覚えのある少年が天魔の背後高くに出現ししなるような身体の動きで殴打を回避し、その極太の腕に拳をつきつけている場面であった。その瞬間にヴァイスハイトが顔を顰めつつも微かに嬉しげな笑みを零す。

 その光景は実に目を疑う光景だった。

 暗闇の中で空を舞う様に跳躍を繰り返す朧は一撃必殺級の拳を続けざまに回避しながら、天魔の体躯へ拳を幾度となく打ち込んでいると言う不思議な光景。巨体が織り成す躍動感ある強靭な一撃を全て紙一重で回避する姿は見ていて驚き以外の何ものでもない。とてもただの男子高校生の動きでは無かったのだ。

(なん、なのこれ……? ――スポーツ? いえ、違う。なら武術……だけど柔道でも空手でもない動き……)

 そして驚くべきは、その特異性。

 理枝の眼から見て、その行動は異様だった。柔道や空手の様な体術には思えないし、かといってこんなスポーツがあるとも思わない。振り抜かれる拳を回避する風に乗った様な動きで度々殴ると言うよりつつくと言った印象のある体の動きは独特過ぎるのだ。地に足をついての体技ではなく平時、空を舞うかの様な攻撃。

「弓削日比……これ、いったい――」

 弓削日比朧。

 確かに変わった学生だとは思っていた。しかし、これは明らかに一般人のそれではない。

(いえ、それは初めて逢った時から……?)

 思えば、朧と初めて遭遇した時。あの時も彼の動きはただの学生ではなかった。なにより、自分が彼の元から離脱しようとしたにも関わらず、朧は理枝についてきたのだ。その時点で唯の高校生と思う事など出来ようはずもない。

 そして、最たるものがこれだ。

 宙を舞い、敵をつつく独特の攻撃。何故だろうか、見ているだけで背筋に怖気が走る程に異様なものに感じられる不気味な体技。

「貴方は……いったい……」

 理枝が感嘆の声を零した時、

「むぬふふふふ。これはまた珍しい技を使う少年だった様でですねーぇ。むぬふぅーっ」

「……え?」

 唐突に湧いたその声に理枝は驚愕する。

 脂ぎった中年オヤジの様な、その声に聞き覚えがあるからだ。

 半出来賄炉。

 天魔ヴァイスハイトの初撃で撃沈したはずの男がそこに血塗れで立っていた。

「……半出来」

「むぬふっ。今まで、意識が飛んでたようーでぇ、お恥ずかしいかぎーりぃ」

「……いえ。無事で何よりよ。てっきり五体バラバラになったとばかり……」

「そこまでのダメージは負ってないから怖い想像止めてほしーねぇ……」

 脂汗を多量に滲ませる半出来の姿に苦笑を零す。

(思っていたよりかは、大丈夫なのかしら身体?)

 ならば、ありがたい。

 なにせ今の状況は理枝たちにとって不利と言わざる得ないのだから。

「半出来。戦えそう?」

「寝覚めでぼけっとしてるかーらぁ、すこぉし、時間を貰えればーねぇ」

「そう。なら、少しだけ話でもしましょうか」

「なんぞーよぉ?」

 肩を竦める半出来に対して理枝は真剣な表情で問い掛ける。

「貴方。弓削日比の使っているあの体術の正体わかっているのでして?」

「……」

 その言葉に半出来は無言で首肯した。

「一応は。外に流出した体術ですかーらねぇ、ものは知っておりますーぅよぉ」

「……流出?」

「これを言うと何やら妙な勘繰り入りそうで困るのですぅーが……アレは暗殺拳の一種なのでぇーすよ」

「暗殺拳?」

 これはまた偉い物騒な名前が飛び出しましてね、と理枝は微かに眉を潜めた。

 そして二人は天魔を翻弄すべく奮闘する朧の姿を見据えながら、

「【暗殺拳・()】。それがあの体術の名前でぇーすね」

「……【蚊】?」

「イエス、モスキート」

 暗殺拳。もとい、憲法に様々な型式があるのは知っている。

 中国拳法に於いても蟷螂拳、鷹爪翻子拳と言う様な生物を模った武術がある事を考えれば決してないとは言い切れないと確かに理枝は考えが及ぶ事が出来る。

(でも【蚊】……)

 しかしインパクトの何という弱さだろうか。とにかく弱そう、と言うのが印象だ。

「今、弱そうと思いまーしたな?」

「ま、まあ、その……」

「それは大きなまちがーいでぇーすぞぉ」

「え?」

 半出来は重々しく頷くと、口を開いた。

「有名な話ですが、蚊とは世界で最も殺人を犯している虫です。感染病と言った病原菌の類を運ぶ病気の運び手。それが蚊、です」

「……それは確かに聞き覚えありますわ」

「【暗殺拳・蚊】はそぉーんな蚊を模った武術。常―にぃ人差し指を立てた状態で相手を突くと言う突き指の恐怖を常時持つ拳法でありぃーます」

「その説明で一層、ダメな拳法に感じてきましてよ?」

「でーえすが、それを乗り越えーた先に、【蚊】は完成するのだーと訊きます」

「完成……」

「えーえぇ。するとその指先はいかなものをもふにる事が可能な、自分よりも相手の防御を柔らかしてふにる打撃と化すのだと、聞き及びまぁーす」

「相手の防御を低下させるのは確かに驚きの技巧なのだけれど、ふにるって言い方以外になくて!? すごく、弱そうに感じてくるのですが!」

「さて、ここからが肝ですが、この【暗殺拳・蚊】はなんと――爪に仕込んだ毒をもって相手に毒素を感染させるのが主流だそうでぇーす。加えて、周囲を跳躍しながらの動きはまるで風に浮遊する虫に等しく――故に名付けられた名は【蚊】、といーう事でぇーす」

「では、つまり毒を殺す事を前提とした体術だと?」

「イエス!」

「……けど」

 理枝は訝しむ様に、朧と天魔の激闘を眺めながら、

「……毒を喰らっている様には見えなくてよ?」

「そりゃあ相手は天魔ですかーらね。毒が効かない可能性高しってなもぉーんですよぉ。まあそれ以前に彼が毒を持っていれーばな話でぇーもありまーす」

「……その可能性低そうでしてよ?」

 ここでようやく使う空気を見せた朧。しかも彼は周囲にそれを隠している様な素振りをみせていた。とすれば、毒なんて危険なものを保管しているのかも怪しい。

 それにしても、と理枝は呟く。

(暗殺拳……そんなものを体得している弓削日比はいったい? そもそもどこで習得したのか何のために習得しているのか……)

 謎だ。どうして体術ではなく暗殺術なのか。

 しかし。今、この天魔との戦いで活躍しているのは事実。ならば今はそうした素性の探りは些末なこと、何より探る権利もない。頼るしかないのだ。弓削日比朧と言う男の体技に――。

「……ところで半出来?」

「何か?」

「今の話を聞く限りでは、毒が無いと有効打が無さげに感じられるのだけれど……大丈夫なんでしてよね? 蚊は世界一の殺人犯なんですのよね?」

 その問い掛けに半出来は「はっはっは」と笑みを零して。


「それぇーは蚊だけーの話ですぅーね。人が使ったところーで、毒がなけれぇーば、ただつんつんふにられてくすぐったぃーか、かゆいーのどっちかなだけですぅーね」


 その言葉に。

 理枝は理不尽を承知のうえで、激昂した。

「弓削日比ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」



 わー怒られてる。朧は空を舞いながら、そんな感想を抱いていた。

(ま、当然だけどね)

 それにしても【暗殺拳・蚊】を知っているとは意外だった。この毒素がなければ、文字通り殺傷能力のない【ふにる】を極めた体術。相手の身体をふにりやすくし、ふにるという原理の説明が難しい体術は朧の十八番だ。

 問題点は毒物が間に合わなかったので、こうして、

(周囲を飛んで、ふにる。相変わらず毒がなけりゃうざい蚊なだけな体技だよなあ)

 さながら蚊が部屋を飛んでいる様なうざさを相手に与える体術。

 最も、それすらヴァイスハイトには通じていなさそうであったが。

「いやはや、中々に珍妙な技を使う少年だった様でバッドニュース!」

「これ以上喰らうのが嫌なら、諦めて御縄についてくれるとありがたいけどな」

「撤退はノン的な?」

「ああ。生憎と、お前を一度殴らないといけない奴がいるんでね」

「フレンドシップって奴か。だーが、残念! 悪いが御縄にはつきたくないお年頃なんだよにゃーん。後、一方的に殴られるのもお断りだーい!」

 相変わらずの何とも陽気な反応に毒気を抜かれると言うよりも、苛立ちが募る。どうやら捕縛される、大人しくする気はないらしい。万一にも撤退されてしまえば、街を護れど友を護れない。

 それだけはダメだ。

(とすれば――やっぱここで捕縛するっきゃ……)

 だが朧はそこで思考を挟んだ。

(――待て。それだけでいいのか? いや、よくはない……!)

 そもそもにして。ヴァイスハイトがここにいるのは何か目的を達成する為にいると言う事だ。しかしヴァイスハイトは余裕綽々で自分達の相手をしており、行動を起こす気配が見て取れない。それは何故なのか。単純に自分達を倒した後で起こす気なのか。

「なあ」

「ホワッツ?」

「今一度、やりあう前に教えてもらいたいんだけどいいかな?」

「ふむ。その口ぶりって事はまー……こっちの動向って事でよろしいのかなん?」

「ザッツライ」

「オーイエー。ならまあ、面白い戦い方見せてくれたことのおまけ程度にティーチングとでもいってみようかねーん」

「……いいのでして?」

「まねん!」

 キラッと星を発するウインクと共にヴァイスハイトは首肯した。

「言ってもいいかな、と思う理由は二つ。一つは、これを訊いたところで今からではどうしようもないんじゃないかのーんと思うからさっさー」

「……舐めてますのね」

「ヤハハハ、そう返されると思ったヨロレイホー!」

 豪快に爆笑を刻んだヴァイスハイトだったが、フッとその笑みを鎮めると何処か冷徹さの滲む声で天魔は語り始めた。

「まずこの学園――西洋学園はどう言った学園だったかにゃん?」

「どう言った学園って……いや、普通だけど?」

 特殊な話など盛り込めもしないごく普通の高校だ。

「この学校は別にお前らが何か訝しむ様な事のないただの学校、だぞ……? それとも何か? この学校に隠された何かでもあると? 生憎だが、そういうのならこの学校よりも、芳城ヶ彩って言う金持ち学校の方が――」

「そう。それだ」

「……は?」

 突然に指摘を受けた朧は思わず瞑目した。それだ、とは何の事だ?

「この神奈川に於いて芳城ヶ彩と言う高校は規模が桁違いだ。それこそ学内にて店を構える場所が多量にある事で市民が生活の場を確保できる様に、小さな都市として機能できる程に特殊な学院があの場所って事になる」

「ああ……それは知ってる、が……」

「そして肝心なのは、この芳城ヶ彩を囲む形で自然と形成された六校が存在する点だ。西洋学院含めた合計六校が、それぞれ過干渉にならない為に丁度同じ配分で配置されていると言う状態。これが肝ってやつでねぇ!」

「どういう事だ……?」

 訝しむ朧に対して理枝は何かに勘付いた様にぶつぶつと言葉を呟いていた。

 六校。等間隔の配置。

 まさか、と言う想いが膨れ上がり始める。

「そんな六校に対して我々天魔は実の所、六疋がそれぞれ出張っていてね。いやあ、こうして目的地に辿り着くまでに結構頑張ったんだー。描くのも大変だったっていうかさー」

「描く……――まさか、貴方、貴方達は……!」

「気付いた様で嬉しい限り」

 ニヤリと口角を吊り上げ、天魔は頷く。

「そう。等間隔、所在六点。自然形成されたとはいえ、こんな丁度良い形を使わない手は無いって事なんだよ、ガール」

「……なんだ、わけがわからないんだけど。理枝ちゃん?」

 何故か募り始めた焦りの感情を抱きながら急く様に朧は問うた。

「弓削日比。術式と言うものがあり、魔法陣と言うものがあるわね? 厳密には魔術陣だったり術式陣だったりいうのだけれど……」

「ああ、わかる。けど、それが?」

「そう言うのにはね。大抵の場合で星の紋様が使われるものなのよ。陰陽道に於ける五芒星然り。魔術に於ける六芒星然り。そして、それを発動させるにはある程度共鳴性が高い方が効力があるものなのよ」

「共鳴性?」

「ええ。六芒星の配置に於いて、都合六点。そのどれもがある程度類似した建造物だったり、木々や水辺である事は力の増幅に繋がる。そしてこのケースでは――学校と言う媒体。それも折よく存在するこの場所ならば……目印として優秀だし、利便性が高いのよ……!」

「えっと、それって……」

「わからないわよね。けど、こういう事よ。彼らは、六校をベースとし、芳城ヶ彩高校を中央とした大規模魔法陣を作成している――その力を持って、この街のみならず付近一帯に対して何かを仕掛けようとしているのよ……!」

「イエス。そしてそれこそが術式【英国覆い憑く腐廃濃霧(スモッグ・ディザスター)】だ」

「【英国覆い憑く腐廃濃霧】……?」

 朧が眉を潜める中で理枝が表情を厳しくさせ堪える様に叫んだ。

「やはり大量殲滅術式……!」

「その通り。名前通りにかつてイギリスで起きた事件をモデルとした術式だ。19世紀以降の産業革命、石炭燃焼による煙に煤と言ったものが空気中に散布し続けた結果発生したスモッグ。かつてロンドンに於いて一万人以上の死者を出した史上最悪の大気汚染。その逸話を媒体として創り出された近代型術式の一つだよ」

「近代型術式?」

「コイツの言った通りよ。世界各地で起きた何らかの事件をモデルとして、創り出された特殊な術式。太古から続く術式と比べれば日の浅い術式が近代型」

「だからスモッグ・ディザスターってわけか……!」

「ええ――けれど、ヤバイわね。この術式が起動するとなれば……!」

「想像に難くないだろう? かつてと同じ――いや、人間が引き起こした当時の厄災に比べれば、それよりも強い影響となって顕在化すると言ったところだ」

 その言葉に朧の身体がぶるりと震えた。

 想像が頭を駆け巡る。黒いスモッグに覆われた街。息をするのも過酷な空間。呼吸に異常を抱いて病院へ搬送される人々。増える骸の数……。文字通りに、廃街となってゆく朧が育った街並みが、頭の中に広がってゆく。

「――させてたまるかよ、そんな事をォッ!!」

 この街にはたくさんの思い出が詰まっているのだ。家族が、友人が、大切な人達がいる。瑠依が、妃奈が――そんな大事な人達がいるのだから。

(そんな術式は絶対に使わせるわけにはいかない……! 何としてでも……!)

 だが、どうするべきか。焦りが汗となって頬を伝う。

(問題なのはコイツだけじゃない。残り六体。天魔は少なくとも六体いる。その上、起動させれば後は、って話があるんだと考えると……困るって話じゃすまないよな、本当に……!)

 ここでヴァイスハイトを倒すだけで終わりでは無い。

 残り五体の天魔と戦う未来がある。いや、それよりも、残り五体で朧達が関わる前に事を成される可能性があるのだ。

(状況が拙い。本格的に――やばい)

 朧が汗を浮かべて思考するのとは別に理枝は何か不可解な感触を得ていた。

(やろうとしている事はわかりました。けれど、どうして一気に根絶やしにする術式ではなく、慢性的被害を及ぼす公害の術式を使うのかしら……)

 それが示すところ。何故、そんな手法を選ぶのか。

(天魔――貴方方はいったい、何を考えて……?)

 人を殺すのではなく、苦しめる方法を取っているのか。

「お嬢様」

「半出来……」

「熟考に耽るのはだぁーいじですが、今はそう言った事を考察してーぃる暇はないーかと存じ上げますーよ? むぬふふふ……、このオクゼンフルトと言う奴めが、成そうとしている事。その被害。今はそれだけを頭に食い止めんと武を振るーぅ。――それでじゅうぶーん」

 どうしてそんな行動を起こすのか。

 その事に頭を悩ませる理枝に半出来はそう言った言葉を投げ掛けた。確かに、その通りなのだろう。如何な理由が見え隠れするとしても、行動は人間を苦しめると言うものに違いは無いのだから。ならば、やるべきことは一つだけでしかない。

「半出来。戦えまして?」

「むろーん。体の調子も整ってきたとこですーぅね」

「なら――朧! 三人で攻めかかります! よくて!」

「オッケーだよ理枝ちゃん!」

 その会話を皮切りに三者三様の動きが成された。

 先程までの独特な圧倒を見せる朧がまずは、またしても幻影の如くぶわりと姿が闇夜に溶け込んでゆく。そこから生まれるのは実に素早くも胡乱とした奇特な体技。俊足で周囲を飛び跳ねて、多方面から相手を攻めかかる。ヴァイスハイトが拳を打ち込もうとしても、紙一重のところでふわりと逸れる妙なる動き。威力こそ緩慢なれど、その体捌きはまさしく、天魔と言う存在を翻弄していた。

(弓削日比が翻弄する隙間を――私が突く!)

 鷹架理枝もまた、ただ見守り続けるだけの傍観者ではない。

 吹き抜ける風の刀身、理枝の継承した宝剣【リベルテ】が風に溢れる。天使より賜ったとされる剣は轟々と風を渦巻いて、その刃に月光を乱反射させているかの様ですらあった。

 そんな剣を理枝は構える。

 ただし、その構えは普段の形ではなく、溜めこむ様な肘を折り曲げわき腹にくっつける様な構えであった。普段の【リベルテ】の風刃である【疾風刃雷(ラファール・リベルテ)】は、今は不適当だ。風の刃では朧の邪魔をする可能性が高い。

 故に、ここで発動すべきは、風を凝縮し突きに特化させた一撃。

「貫け【疾風勁槍(ラファール・リベルテ)】――――ッ!」

 ズドン! と、砲撃の様に風が直線状吹き荒れた。

 螺旋に渦巻きながら風の刃が槍の形へと転化した代物は触れれば、相手の体躯に風穴を開ける程に強力だ。その一撃をもって、天魔を倒す。

 されど、ヴァイスハイトと言う天魔は容易くない。天魔は周囲を飛び交う朧に対して「ふん!」と途端に膨張する力を破裂させ、空気を震撼させる。打ち震える大気がそのまま、朧の動きを阻害し彼を後方へ押し退けた。ついで手を校舎の壁面に押し付ければ「【錬金】」の一言と共に壁が盛り上がり、同時にコンクリートから鋼鉄へと変貌を遂げる。

 理枝の放った【疾風勁槍】はその鋼鉄の壁に衝突した。荒れ狂う風は、鋼鉄を前に苦戦をみせるが、それでも貫かんと断続的な金属音を発し、その壁に抉った様な確かな傷痕を残す。しかしそれは風の槍が貫けず潰えた事の証でもあった。

 自らの武器が防がれた事に舌打ちする理枝だが、そんな彼女の横で半出来が駆け抜ける。

 すれ違いざま「お嬢様は、【祓魔】の準備よろしくーね」と言う言葉を残して突貫する。

「さあ。一撃目で醜態晒す羽目になったお返しといこーうかねーぇ」

「そう言うな。ユーが一番、凶悪そうと見たからの行動なんだぜん?」

 二人の男が軽口を叩きあう。

 その言葉の意味に朧が軽く驚きを感じる中で、半出来賄炉は苛烈に燃え上がった。

「グルゥウウウウウウウウウウウウウビィイイイッ!」

 半出来の体躯が膨れ上がった様に錯覚する程の熱気が溢れる。

 そこから繰り出されるのは彼の武器、二艇の金槌による攻勢であった。ブンブン、と風を貫き振り回す勢いの乗った乱撃。しかして、その威力が凄まじい。校舎の壁面に触れれば、容易く粉砕し、周囲を粉々に変えてゆく一貫した破壊力。

「ソォイ!」

「む――るぁっ!」

 その一撃を巨腕で防ぎ、弾くと、すかさず天魔の拳が振り抜かれる。

 だが半出来はその一撃を金槌で下へと叩き落すと、続けざまに顔面目掛けて、金槌をかちあげた。天魔の顔面に金槌が微かに減り込み、天魔が僅かに苦悶を浮かべた。

「オウ――バイオレンスパワー」

「ハッハァ! 生憎と、パワーにプラーイドがあってねーぇ!」

 そうして半出来は休むことなく、その鉄槌を振りまいた。

 二艇の金槌が風を切り、相手の攻撃を墜落させ、肉を叩く。そのさまはまるで暴風さながらに天魔の体躯を苛んでいく。そんな光景を見据えながら朧は「こりゃすごいな」と小さく呟いた。

 破壊力。まず間違いなく、半出来賄炉の力はそれだ。

 自分よりも確かな火力で戦っているのである。全てを呑み込み粉砕する嵐の様に轟々と。こうした力量を見抜いたからこそ、ヴァイスハイトは第一に彼を仕留めると言う――、

(力を見据えたからこそ、礼儀として強い奴を一番先に叩いたってか……!)

 彼の性格を考えればそう言う事なのだろう。

 本当に食えない天魔だよな、と苦笑を浮かべて、

「俺も加勢する!」

 弓削日比朧もまた駆け出した。

 火力は無いが、翻弄は出来る。風に巻き添え喰らっても構わない。ただやれることをやらなくてはここにいる意味などないのだ。そうして少年は駆けだして、その戦場へ介入する。

 そこからは朧の翻弄する動きと、半出来の荒れ狂う動きの猛勢であった。

 空を舞う朧が、ヴァイスハイトの意識に邪魔を差し、地に足をつけて奮闘する半出来の火力が猛追する事でヴァイスハイトの巨体を追い詰めてゆく。

 そんな中で力を練り上げて口早に紡ぎ続けていた理枝が術式を完成させた。

「詠唱完了――双方離れなさい!」

 理枝の切り札が充電された合図である。

「半出来さん! 来るぜ、撤退だ」

「おっけぇーい!」

 二発目の【祓魔十字】。

(先程は効力が無かった――だけれど、おそらくは回避された。あるいは、効き目が薄かったと言うだけのはず。なにせ、この【祓魔十字】は天魔相手であれば、絶対に効力がある術式なんだから……! ――故にもしそうならないのだとすれば)

 盲信では無い。全幅の信頼の元に。

 この術式には確かなまでの実績がある。天魔であると言う以上は、この術式は得てして強大な火力として機能する。故に、朧と半出来が攻めた事により生じた隙を見逃さず、二人が僅かに天魔の傍から離れた刹那――射出した。

 己が思考を一つ乗せながら。

「【祓魔十字】ッ!」

 閃ッ! と、一条の清らかなる聖十字光が天魔目掛けて強襲する。

 その瞬間に、

「なんのっ!」

 天魔ヴァイスハイトはあろう事か迎撃の構えを見せると、その全身から白煙を撒き散らしはじめた。

 だが、それと同時に。

「グルゥビィーッ!」

 大地を強く蹴り上げ、切迫する半出来の姿が天魔の眼に、理枝の瞳に、朧の視界に入り込んでいた。

「半出来さん!」

 この局面でわざわざ突撃した半出来の行動に驚愕を示す朧を余所に、解き放たれている【祓魔十字】の神々しい輝きが校舎の中で皓々と炸裂した――。



 光が霧散しゆく。

 対天魔の為の一撃が、その輝きを鎮めてゆく中で、朧は眼前を見据えていた。果たしてやったのだろうか、と言う思惑を挟んで場を見守る。見れば、理枝は神妙な顔で天魔のいた場所を見据えており、果たしてどう言った結果になっているのかは判然としていなかった。

 そんな中で先程の白煙の中から煙を突き破って出てきた男性の姿があった。

「半出来さん……よかった」

 無事だったか、と一先ず安堵を零す。

 しかし理枝は突然、撤退から攻勢へ転じた半出来の行動に御冠なのか諌言を零していた。

「追撃はありがたいですが、深追いは感心できなくてよ半出来?」

「ノープログレェーム♪ すこぉーし、気になった事がありましてぇーね。……しかぁーし、さてさて、どういう結果になりましたかなーぁ」

 半出来のその言葉と同時に、溢れていた白煙は薄まってゆき、その中からは。


「フ、フハハハハ……今の【祓魔十字】は、危なかったーって感じだぜイエァ」


 生きていた。

 再び、【祓魔十字】を乗り越えて、ヴァイスハイトはゆらりと立ち上がったのだ。

 ――詰んだ。

 二度目の【祓魔十字】。決め手となるはずの唯一の術式が、またしても防がれた実態に朧は「くそ!」と床を殴りつける。しかし憤っていても仕方がない。ここで棒立ちのままでは意味が無いのだ。朧はすぐさまその場から飛びのいて理枝の元へと駆け寄った。

「効くはずじゃなかったのか理枝ちゃん?」

「いいえ。その目算は薄かったと言えましてよ。――正直、一発目が無傷な時点で二発目がどうなるかはわからないというのが前提でしてよ」

「なら何で二発目撃ったんだい……」

「まあ、その消沈の理由はわかりましわ。けれどね、弓削日比――微かに可能性が見えてきましてよ」

 その言葉に半出来が「むぬふぅ」と顎に手を添えて唸る。

「って言うと?」

「説明するわ。――半出来、防御を!」

「むぬふぅー、任されたねーい!」

 勇ましく前へと躍り出る半出来。稼げる時間はごくわずかだろう。

 だが、その時間をもって理枝は朧に情報を伝達しなくてはならない。この情報を共有する必要があるのだ。単純明瞭にすぐさまに!

「手っ取り早くいくわよ。先程の【祓魔十字】は確実に効いていましてよ。事実、先程は無かったはずの傷痕が天魔の身体に見て取れるでしょう?」

 朧がすかさず視認する。

(――ある。確かに、傷痕が!)

 ヴァイスハイトの腹部に血のにじむ箇所が見て取れた。それの示すところは即ち、

「効き目は、あった。ただし、効力が弱かった。はたまた、【祓魔十字】を数回軽減出来る様な技を隠し持っているか、と言うのが推論になっちゃうわ」

「……なるほど」

「そして先の一撃が通じたのなら、後一発。あるいは二発与えられれば――」

「可能性は、あるって事か……!」

 それはいけるのか?

 そんな思考がザッと脳裏を走るが、それ以外に手が無いのも実態だ。無理とはいえ無謀を起こさないわけにはいかない現実に直面している。朧は即座に決断を下していた。

 勝ちを掴むべく足掻き続ける。そんな根性論でしかない決断を。

 その先に希望があると信じて。




第九章 中篇:天魔の計略

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