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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
48/69

第九章 前篇:きっとそれは、花園へ至る想い ★挿絵あり

第九章 前篇:きっとそれは、花園へ至る想い


        1


 ――酷く無茶苦茶な事態だと思う。

 三刀屋(みとや)軍司(ぐんじ)は満天の星空を見上げ、愛用の煙草を一服しつつそう思った。

「けぇぶぅ……!」

「涙目で警部言ってんな。良いからキリキリ踏ん張れ」

 何に対してそう思うのか。

 まあ、焦る事もない。

 順に、要点だけ掻い摘んで述べるならばこうだ。

(まず俺達は、警察として逃亡を許した、許し続けている連続強姦殺人鬼マクシミリアーノ=ムンジュイックの跡を追っている)

 警察として実に痛い失態だとしか言えない事件だ。

 本来、捕縛していたはずの受刑者を護送中に取り逃がす。警察の沽券に係わる重大事件と言ってもいい。警察上層部などてんやわんやになったそうだ。大変だな、と素直に思う。流石に今回の事件で自分の首は飛ぶ理由が無いが、それでも今回の事件は拙い。

 更に問題なのが、取り逃がした受刑者が罪を重ねていると言う事。それも何度も、何遍もだ。死亡者数を鑑みれば異例の事態。ヤバイとしか言えない程にヤバイ。

「たく、受刑者一人のおかげで最悪な状況だぜ……」

「本当っすよもう! っていうか、追ってて思いますけど何であの人、捕まってたんすかねもう! 捕まえられた人も凄すぎません!?」

 その通りだと軍司も思う。

 マクシミリアーノが逃げ切れる理由。それは一重に、常軌を逸した身体能力の高さだ。確かに逮捕当時、彼を捕縛するのにかなり過酷だったと言うが、それを想い知らさせたといって過言では無い。銃弾を回避する敏捷性。人肉を抉り骨を砕く怪力。そりゃあ、逮捕が困難であっても仕方ないとなりはする。

「そんな奴が、刑務所じゃ模範囚だったってんだしな……」

 訊けば、刑務所では大人しかったらしい。

 それも今考えれば、大人しく身を潜めていた様なものなのだろうか。下手に周囲の警戒を招くよりかは余程、得策なのだろう。困った話だ、と軍司は呻く。

(んで、肝心のソイツの情報を匿名で入電があったからパトカー走らせてみれば……)

 マクシミリアーノを見た。

 もとい、潜伏先を発見したと言う電話を入手した警察はすぐさまパトカーを十数台出動させ目的地へと向かっているわけである。流石にこれ以上逃がすわけになどいかない。だから、こうして圧倒的物量で攻め入っているわけだが……。

「……ふぅ」

 そこで軍司は溜息を零す。

 まったくもって溜息くらい吐きたくなる話だ。

 何がどうして、

「……わけもわかんねぇ、黒い物体相手に通せんぼされんのかねぇ……」

 闇が、蠢いているのか。

 軍司が向ける視線の先ではゴポゴポと水が湧き出る様な音と共に漆黒の、影がそのまま実体化した様な醜悪な存在が、彼らの向かう通路を立ち塞いでいた。

「簡潔に言えば、おかしいだろふざけんなファンタジーじゃねぇんだぞ」

 汗だくだくで早口にまくしたてる。

 おかしい。いや、これは幾らなんでもおかしい。何がおかしいって、それは。

「幽霊、とかじゃねぇなあ……」

「幽霊の方がまだマシじゃないっすかね!?」

 傍で相方が怯えた表情で絶叫している中で再度煙草を口に咥える。

(霊気は、感じない。つまり幽霊とかじゃ、ねえ。だが霊力は、感じる。要するに、これはもっとこう、人が使役する様な類の代物って事だよなあ……)

 めんどくさいね、と渋面を浮かべながら内心に零す。

 三刀屋軍司は、少しだけだが、特異な力を、その行使するものを知っている。だから、わずかばかりではあるが理解を示している。目の前の存在が幽霊などのものではない別種の代物である事を。――まあ、それ以上はからっきしわからないのでどうしようもないんだが。

(何でこんな場所で、こんなもんがあんだよともかく!)

 自分達を塞ぐ異形。

 その存在の理由がわからない。何だろうか、この道筋に何が起きていると言うのか。わからない、と言うかそんなものに思考を割いているヒマは無い。

「仕方ねえ! ここでこの変なもん見張る部隊とムンジュイックを追う部隊に分かれんぞ! 今から支持出すから良く訊けお前ら!」

 こうなれば仕方がない。

 警察を二手に分けて行動する他にないだろう。流石にこんな奇妙なものが街中に存在していて警察が優先事項があるので先にそちらを、としてこれが後に被害を及ぼし始めたら目も当てられない始末である。

 そう、軍司が考えている最中に一人の警官が声を上げた。

「三刀屋警部!」

「何だ!」

 軍司の問いに警官は物凄く言い辛そうに、上ずった声を洩らした。

「……先程、一網警部が目的地へ向かおうとしたところ、見えない壁の様なものに阻まれて一定の範囲から外に出られないぞ三刀屋ぁ! ……と……」

「…………はあああああああああああああああああああああああああああああ!?」


        2


 ――酷く性質の悪い話だと思う。

 薄明り。人気のない夜の校舎で休屋(やすみや)(れん)はそう思った。

 一般人。凡人、凡夫にしか過ぎない自分がどうしてこうしてこうなったのだと言う思考は昨晩の出来事以降、ずっと警鐘を鳴り響かせている。当然だろう。何の力も持たない普通の人種足る自分が何故、深夜に学校で化け物と対面しているのかなんて言い出せば小首を傾げるどころか思考を停止したいくらいだ。

 何が性質の悪いなんて言い出せばキリがない。

 しかしこの状況を連は知っている。こんな手におえない出来事に衝突する事を言葉で表すのならば何が正鵠を射ているのか彼は知っている。

 理不尽。

 そう、示すならばそんな陳腐な言葉一言で十分な程に――事態は動き出していた。

 気付けば、横を颯爽と風が吹き抜けてゆく。

 疾風の正体が何であるのか連は自然と理解を示しつつも、頭が追い付かずに瞠目する。それはそうだろう。そんな速度で動く生き物を連は出会った事が無かったから。鳥類であるならばまだしも、鳥にしては巨大すぎる残影。

 風に続いて響いたのは何かが潰れる様な音と男のくぐもった声だった。

 すぐさま鼓膜に「半出来(はんでき)!」と言う焦った様な声が届く。何故、急に戦力として一緒に来てくれた男性の名前が叫ばれたのか連は理解が遠く及ばなかった。けれど、次の瞬間に轟く様に響いた破砕音の凄烈さに否が応でも理解する羽目となる。

「ヒューイ。まずはワーン!」

 調子の良いふざけた様な声がした。

 天魔――ヴァイスハイト=ナガーズ=オクゼンフルト。そう自身を称した怪物の声だったはずである。やけに長く、そして勇ましい名前だなと聞いた時になんとなしそう思った。そんな化け物が何かを数えたかの様に声を発している。

(――な。なに、なんだよ、なんだっての、何がどうなったんだよ、今の一瞬で!)

 何かが起きた。振り返れば理由がわかる。だが振り返りたくない。怖い。振り返れば起こった出来事を直視せざるを得なくなる。連は恐怖に恐れ戦くより他に無かった。

「おのれ! よくも半出来をッ!」

 振り返らざるままに事態が進展する。交錯する一分にも満たない世界で事態が次々に転換してゆくのが、まるで信じられない架空の出来事の様に思える中で、雄々しい男の声が怪物目掛けて振り抜かれる。

「ま――待ちなさい、西小物座町(にしこものざちょう)! 一度距離を、」

 眼前の理枝が憔悴した様な声を張り上げた。

 西小物座町東市(とういち)。あの頼もしさが滲み出ていた坊主頭の人だ、と連の警鐘に苛む思考が微かな灯に彩られる。あの強そうな大人の風格を発していた男性に相違ない。

(あの人なら強そうだし――いけるんじゃねぇの!?)

 怯えながらも、頼りになりそうであった男性像を思い出しながら連は僅かに顔を動かして後方へ横目がちに視線をやった。

「は――あぁああああああああああああああああああ!」

 そこには男が雄々しい猛りを震わす姿があった。坊主頭で鷹の様な鋭い眼差しを持つ男が何処から取り出したのか機関銃(マシンガン)を化け物にかざし、薬莢を何十発、何百発も廊下に転がしながら無数の銃弾をバラバラと放つ姿がそこにはあった。

 戦闘方法がマシンガンだったのに僅かに驚きを覚えつつも、その光景に希望を抱く。

(そうだよ。銃器とかなら――あんだけ銃弾当てれば――……!)

 勝てる、はず。

 そう拳を握りしめる連であったが、次の瞬間に彼の双眸に映った光景に絶句する。

(――は? いや、え、なんで、影が……)

 怪物の影が。

 ゆったりと。

 西小物座町の背後へぞわりと揺らめいていた。まるで陽炎の如くに。

「やったか!?」

 その事態に気付かぬまま西小物座町は息を切らせながら眼前を注視した――しかし、次の瞬間に何かに気付いた様子でバッと背後を振り向くと、

「――残像だ」

「なっ……!」

「――なーんてねん☆」

 と、言うヴァイスハイトの一言と共に彼の手刀が容赦なく西小物座町の背中を振り抜かんとする。

「やらせないよ!」

 寸前、その絶命必至の一撃が横から掻っ攫う形で回避される。長めの前髪で目元が隠れている女性、若咲内(わかさくない)山葵(わさび)の姿がやられんとしていた男を突き飛ばす様な勢いで横に飛躍し、強靭無比な一撃をギリギリで回避し、勢いよく廊下を転がり、もんどりうつ。

「がっ」、「つぅっ」

 二人の肺から息が零れ落ちる。そんな二人を心配する様に渋い風貌の男、雑魚田(ざっこだ)象兵(ぞうへい)が切迫した声を発した。

「大丈夫ですかいお二人とも!」

「こっちの事は気にするなでござそうろう!」

荷負(におい)! 前ッ!」

 命からがらの事態に安堵の息付く暇はない。

 回避された二人は後回しとばかりに、彼は二人の安否に刹那、気を奪われた面子の中に置いてホストの様な美青年、荷負(におい)重太郎(しげたろう)目掛けて瞬時に距離を縮めて剛腕を振るう。迫る拳を前にひきつった形相を浮かべた荷負は自らの武器――鉤爪を胸の前で交差させ防御に徹しようとする。

「――ッ!」

 と、思いきや寸前で汗を噴出させながら前方へ前転する形で拳を回避した。

「――ほう、流石、良い判断を下せるものだにょん」

 その動きに感心を示す様にヴァイスハイトがニッと口角を吊り上げた。

(え、何で?)

 連は訝しんだ。防いではダメだったのだろうか、と思ったが――、よくよく考えれば人を否応なしに吹き飛ばす拳だ。一撃喰らえばどれほどのダメージを患うのか恐ろしくて想像もしたくないくらいに。ともすれば、鉤爪程度の防衛力で防ぎ切れる代物ではないのだ、と遅ればせながら頭が理解を示した。

 理解出来るだけの理由がある。拳が恐ろしい程に威力を秘めているのだと理解出来る対象があるのだ。それは彼が振り向いた事で補足してしまった現実。

 連の、瞳が、捉えた。

 廊下の奥へと血反吐を撒き散らしながら血の海に横たわる中年太りの体型をした男。半出来賄炉の横たわる姿が月灯りにぼんやりと照らし出されていたから――、

「うぎっ、ぴぃいいいいいいいいいいいいいいい……!? ぼぇっ!」

 変な声が喉奥から溢れた。

 死体。

 実際には死んでいるのかどうかはわからない。生きているかもしれない。しかし、血の海に横たえる男性の姿を連は初めてみた。あそこまで生々しい恐怖を醸し出すものなのかと戦慄する。悍ましい。なりたくない、あんな姿になど。

 自分が前にあんな姿にされたと言う恐怖が込み上げて口の名から嘔吐感が再燃する。

「お――おい! ど、どうすんよ、どうずんよ鷹架(たかほこ)ォ!」

 恐怖からそのままに、乱雑に、この戦闘の要足る少女――鷹架理枝(りえ)に指示を仰ぐ。

 どうすればいいのか、と。

 すると予想外の光景が目に入る。なんと、肝心の少女は膝を折っていたのだ。

 廊下に片膝をつき、まるで祈りを捧げる様に少女は小さな声で呟きを洩らしている。その姿に連は口元をひくつかせ、彼女の肩を掴みかからんとする。

「何、座ってんだよ立てよ! なんかしてくれよ!」

 祈りなんかで何が出来るのか! もっと他にやるべきことがあるだろう!

(力あるんだろうが、もっと俺を助ける様な事とかたくさん!)

 死にたくない。その一念で連は彼女の事態を読めていないのではないかという振る舞いに憤慨し理枝に詰問せんと手を伸ばしかけたところで、

「あほったれい!」

 彼の顔面を親友の平手が容赦なく引っ叩いた。

「お――おびょりょ!?」

 何をすんだよ、と怒鳴ろうとしたところで、

「連。怯えるのは自由だがな。恐慌で状況を乱そうとすんのは止めとけ」

 その、冷徹な声が響いた。ふざけるでもなく、明るいでもない、普段の弓削日比(ゆげひび)(おぼろ)とは一線を画すピンと張りつめた空気の声。静かに怒気を零している――、そう気付いた時に連は「ひびっ」と怯えた様な声を零す。

 だが朧は、すぐに普段の陽気な表情に切り替わり。

「忘れちゃダメっしょー。ほり、理枝ちゃん初めに言ってたじゃん?対天魔用の術式を用意しているってさ。今しているのは、そう言う事。だから邪魔しちゃわりいって」

 小さい声で素早く紡がれた言葉。

 恐らくは天魔に聞こえない様に配慮された声の大きさを耳にしながら連は「あ」と間抜けな声を零して自身を恥じた。

(そうだった……。何、してんだよ、俺。初めからそう言う話だったのに、怯えて、恐れて、慌てふためいて……うおおお、格好悪い……!)

 何より言われない憤りを理枝にぶつけた部分が特に酷い。

 顔を手で覆いたくなる程の無知蒙昧さに歯噛みする。

「ま。怖いのはわかるぜ」

 そこで朧が小さく声を発した。

「今、あの人達が必死で攪乱してる感じだけど――見た目でわかる。数分も持たない」

「マジで?」

「見てて余裕ある風に見えるか?」

「……だよな」

 眼前に広がる戦闘風景はまさしくその通りだった。

 機関銃を乱射する西小物座町が左右に動きながら牽制し、荷負重太郎が鉤爪を用いて俊足の舞踏を披露しながら攻めているが一撃の重さが足りないのか斬撃はいまいち効力を発揮している風は無く、若咲内が弓矢を放つもヴァイスハイトは容易く手で掴んでは即座に放り投げてしまっており、

「ヒヤーッハッハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 雛子(ひなこ)はんぺんは日本槍を手にしながら狂気乱舞の有様である。

「……なあ、朧」

「なにかな、れんきゅー?」

「雛子さんってあんな感じだったっけ?」

 この窮地で尋ねるのもアレだけれど、と呟きながら。

「ああー、アレね。俺もちょっとビクった。よくわからんけど、武器握ったら人格変っちゃったレベルであんな感じになったんだよね」

「そ、そうか……」

 眼前にて雛子はんぺんの武勇を目にしながら思わず引く連である。

 血走った双眸で口は大きく吊り上げて獰猛な獣を思わせる佇まい。おおよそ、初めて対面した際に夜の学校が怖くて「うひゃぁぁぁぁぁぁ……」とか言っていたほんわかした空気の人とは思えない。

 現在の雛子は最前線にて機関銃の弾幕を機敏に回避しながら槍を突いて、振るうを繰り返している。曲芸師の如き軽やかさだ。

(けど――これなら、さ)

 いけるんじゃなかろうか、と連は希望の光を見出した。

 荷負重太郎が快速の働きで翻弄し。

 西小物座町東市が隙の見せない銃撃で攻め続け。

 若咲内山葵が微かに生まれた隙を射抜き。

 雛子はんぺんが軽快な動きと勇猛さで動きを束縛しつつ。

 雑魚田象平は何やら居合の構えで狙いを絞っている中で。

 鷹架理枝は必殺の体勢を整えている――!

 そして連がそう感じた時、傍で力が溢れ始めた。

「鷹架……」

 感嘆の息が零れ出る。

 そこには理枝がいた。

 鷹架理枝と言う一人の少女が悠然と佇んでいた。ゆらめく黄金の光に身を包みながら、眼前の敵を注視する聖職者の姿がそこにはあったのだ。

「鷹架……!」

 いける、と連が喉を鳴らす。

 コクリ、と理枝が頷いた。力強い首肯に連は歓喜する。

 膨れたその神聖な力を同胞は目視、感知の形でそれぞれ気付き、ボロボロの姿になりながらも勝機を見た! とばかりに獰猛な笑みを浮かべていた。

 そして、即座に距離を取る。

「む……」

 その動きをヴァイスハイトは眉を潜め、

「……ッ! ガール、その力は……!」

 次いで、驚愕に目を見開いた。

「気付いた所で遅くてよ天魔オクゼンフルト」

 神聖な力を前にする天魔に対して理枝は悠然と言葉を紡いだ。

「すでに準備は整っていますもの――喰らいなさいな」

「く――ッ」

 それは天魔を裁く力であった。

 天に傅く聖職者達の祈りの儀式にして破邪の嘆願。

 遍く、魔を滅する聖なる術式の最高峰にして、原初。おおよそ、破邪、退魔と言う名目に置いてこれを越える術式は存在しない。文字通りに悪魔祓いの術式として永劫足る頂点の力が集約されているのだから。

 十字架を翳す。

 祈りを終えた身の上は。

 神の御柱と共に悪鬼を打倒する聖剣と化す。

「術式――【祓魔十字(エクソルツィムス・クロイツ)】ッ!」

 神々しい輝きが暗闇に踊った。

 光の羽が舞踏を飾り、鐘楼の音が厳かに木霊を鳴らし、翳された十字架からは鮮烈な閃光が十字の形で前方へ照射される。鮮やかなまでの輝きが暗闇全てを打ち払い、辺り一帯を仄かに明るく照らし出す。

 その凄烈な一撃はヴァイスハイトの胸元を容赦なく突き抜けた――!

「ぐ、う、うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」

 バカな、とヴァイスハイトのくぐもった悲鳴が零れ出る。

「【祓魔十字】――退魔破邪の最高峰――ガール、よもや、これが使えるとは……!」

「当然でしてよ」

 厳しい形相で理枝は応答する。

「貴方方を相手取る以上は――我々もこれくらいの技量は備えて然るべきですから」

「が、はぁ……! 信じ、られん……! 私が、こんな、あっけなく……!」

「……貴方は強い。ですが【祓魔十字】は対天魔の最高峰。この一撃を前にすればその威力は計り知れないものでしょうね――さあ、」

 ――聖なる光に焼かれなさい。

 その言葉を最後に。

 眼前で凄まじい閃光が爆ぜた。

 同時に轟く天魔の断末魔。鮮烈なまでの輝きと絶叫が辺り一帯を迸った――そしてその雄叫びは徐々に集束してゆき、後には焼け焦げた様な黒ずみが校舎の廊下に残るだけとなっていたのだった。

 それが、示すところは。

「――や、やったか!?」

 連が拳を握りしめる。

 跡形もない。勝った! 勝ったのだ! 怪物を打倒すと言う偉業を成し遂げて――、


「……は?」


 そんな連の昂揚とは裏腹に、理枝は、茫然としていた。

「おい、なに呆けてんだよ鷹架! お前の技すげぇじゃん! 勝ったぜ、おい!」

「……そんなはずは」

「はあ? 見ろよ、この有様! 天魔木端微塵だぜ!」

「いえ、それはない。おかしい。ありえない。変よ」

「は、はあ?」

 怯え訝しむ様に理枝に対して連は不思議そうに眉を潜めた。

 折角の勝利に水を差して何がしたいのだと憤慨する。自分の予想以上の力が出て勝ったとかそういうのだろうと思わないのだろうか? と、連は不思議に感じた。

 だが理枝は即刻否定する。

「おかしいのよ。私の【祓魔十字】はそこまでの火力を秘めなかったはず。精々、相手に重傷を及ぼす程度であって消炭に出来るレベルの力は籠めなかったもの」

「え、ええと……。いや、だからさ? 威力が出過ぎたとかは……」

「貴方は馬鹿でして? そんな事するものですか! しっかり調整しましたし!」

「は、はあ? 何で全力でやらねーんだよ! 皆が全力で命がけの時に全力出さないとかアホなのかよ鷹架は!」

「貴方ねぇ!」

 理枝は憤慨と共に叫びを上げる。

「目的に、貴方の蘇生条件執行もあるのでしてよ!? それなのに、消してしまっては、貴方が存命出来ないでしょう!? 忘れたの!?」

「――あ」

 何と言うバカさ加減か。

 恐怖で言葉通りに忘却していた事実に唖然とする。

 そうだ。目的には【休屋連がヴァイスハイトに一矢報いて存命条件を達成する】と言うものがあったと言うのに忘我していたとは笑い話にもならないアホ加減。理枝はそれをすべく出力を落とした一撃を発した。

 ならば重傷を負って身動き取れない天魔の姿があってしかるべき。

 なのに消炭になっている。これはおかしい。

 つまり――、


「オーウ、見誤っちまったぜーい。まさか、そんな妙ちくりんな目的もあったとかヴァイスハイトさんマジうっかりさん!」


 額をペシッと叩いて、陽気に笑う天魔の姿が、そこにはあった。

 そう――、荷負重太郎の左隣に。

「しま――」

「スロウリィ!」

 ゴッ! と、鈍い音が響いて荷負の身体が校舎の壁にめり込んだ。コンクリート製の壁が凹み血飛沫が噴水の様に湧き出る血腥い音が生々しく響き渡る。

「荷負――」

「よそ見はあかんにょい」

 残像を残す程の速度が次いで若咲内の細い体を掴み乱雑に天井へ叩きつけて、

「んな……!」

 驚愕する雛子の腹を太い剛腕が即座に穿ち、振り抜かれると宙を舞い、傍にいた雑魚田の身体を巻き添えに廊下の奥へ凄まじい衝撃と共に吹き飛ばされてゆく。

「セイッ!」

 そして、仕上げとばかりに後ろで銃器を放たんとした西小物座町の顔面に軽く拳をぶつけると西小物座町の顔面は阿鼻叫喚の血に塗れて、そのまま後方へバタンと倒れ伏して、怪しい痙攣をしながら動きを停止させてゆく。

 僅か一分にも満たない。

 その時間の中で戦力が相次いで崩れ伏した。

「……ハハッ」

 嘘だろ? と、連が乾いた声を洩らす。

 余裕綽々だった。先程まで攪乱と暴風の様な攻撃に晒されていた時とは明らかに違う。暴風など知らぬとばかりに暴風の中を突っ切ってきた様な振る舞いは、純粋な膂力による代物としか思えない。

 つまり――先程までは遊びでしかなかったと言う事だ。

「なるほど、なるほど。そこのボーイがいる理由はそう言った感じか。そして【祓魔十字】の詠唱も随分と威力を求めていないと思っていたらそういうね……スイート」

 やれやれ、と肩を竦めながらヴァイスハイトは倒した六名は用済みとばかりに、こちらへと視線を向けてきた。

 連達の、方へと。

「ああああ……」

 その光景に、休屋連の思考は嫌な方向へ加速する。

 合計六名の大人があそこまで容易に打破された事実が恐怖心を駆り立てる。

 廊下の一番奥まで殴り飛ばされ、壁にめり込む程の痛撃を受けて、天井に叩きつけられスーパーボールの様に落っこちて、猛々しい拳に二人纏めて吹き飛ばされ、そして顔面を血塗れにする程の鮮烈な光景――その、どれもが死に直結する程に、恐ろしい代物で。

「あ、あああああああああああああああああ……!?」

 足ががくつく。

 腕が言う事を訊かなくなる。

 脳が震えて。

 瞳が血だまりに沈む六名を識別した瞬間に、連の身体がぞわりとびくついた。

「休屋――落ち着きなさいっ」

 その様子に焦った様子で理枝が声を発した。

 朧も同様に「れんきゅ、落ち着け!」と声を出すも、その二人の声が今は酷く事態を理解していない呑気な声に思えて、連はあらんかぎりの声を絞り出して絶叫した。

「うっせぇんだよ! こんな化け物の前で落ち着いてられっか!」

「休屋……!」

「どけぇっ!」

 そして理枝の肩を無造作に掴んで思いっ切り突き飛ばす。朧が「連!」と非難する様な声を発したが知った事では無い。喉元から怒号が溢れ出す。

「うっせぇな! 知るか知るか知るかァッ! こんな簡単に人をブッ飛ばす化け物どうしようもなかったんだよ!?」

「バカ言うな! 第一、ここで逃げようとしたってな――」

「黙れよ! こんなもんどうしようもねぇだろがっ! 朧だって、こんな怪物に立ち向かえんのかよ、ああ!? 出来る訳ねぇ! クソ、クソクソ! 死ぬんなら勝手しろ、俺を巻き込むんじゃねぇよ! 俺は一般人だ!」

 友人の手を無造作に振り払う。

 逃げねば。

 今すぐ、こんな恐ろしい場所から逃げ出さなくては――。

 募る想いはその一念。

 難しい理屈は全て投げ出して。休屋連は友人の制止を振り切って、恐怖心のままに皆へ背中を向けて全力で逃げ出していくのだった。

 化け物の眼光から逃れる様に、必死になって。


        3


 ――酷く理不尽な話だと思う。

 童女が感じるのはそんな思いだった。

 舞台は鵠沼伏見稲荷神社。

 鵠沼海浜公園近隣に存在する伏見稲荷を御祭神とする神奈川の神社である。古き日本の温もりを感じさせる境内に於いては風雅な本殿が厳かな空気を纏い夕闇にしっとりと佇んでいた。時刻は夜間と言う事もあり、人の話し声はせず、あるのはひっそりとした静寂のみ。

 しかし今宵は些か違っていた。

 確かに深々とした静寂があるのだろう。

 だが、此度のそれはまるで――、

「――ふむ、来たか狐」

 ――嵐の前の静けさ、と言う方がピタリと当て嵌まっているのだから。

 冷然と佇む一人の坊主。袈裟を纏うロングヘアーの男が細い糸目を微かに開き、静けさに僅かな音を差し込んだ者へと視線を向けた。

「来るに決まってるんだぞ。静流(しずる)を舐めるな」

「クク。そうか、それは失礼」

 ガサゴソと茂みの向こうから姿を現した一人の少女。白髪に黄緑色の瞳を持った童女が眼光に剣呑な気配を漂わせながら怜悧な声を零した。

 その姿勢には童女に似つかわしくない確かな敵意が感じられる。

 当然だろう。なにせ眼前の男は一族を根絶やしにした組織の構成員――破壊僧なのだから。

 して、その破壊僧は静流を一瞥し、周囲へ視線をやった後に小さく零す。

「一人で来たのか?」

「そうだぞ」

「ほう。畜生風情にしては殊勝な事だ。人間を巻き込まん姿勢は感心だ」

 フ、と嘲笑する様な声を洩らすと、静流がムッとした表情を浮かべる。畜生風情――、おおよそ最も神経を逆撫でする罵声であろう。しかし、静流は乗せられまいと豪胆に言い放つ。

「動物は恩義を忘れないからな。えへん」

「フッ、ものは言い様だな、畜生風情めが」

 怒気に塗れるではなく、首肯で意趣返しする静流の姿勢に破壊僧は僅かに口角を吊り上げた後に、手に握り緊めた錫杖を静流へ定めた。

「――さて、まずは褒めてやろうか。一人で来たこと。先も告げたが、少なくとも、人間を巻き添えにせん姿勢は評価してやろう。逃げずに来た勇気にもな。いや、私に勝てると言う埒外な理想に駆られたとするならば阿呆と一笑に付してやるがな」

「静流は阿呆になる気は無いぞ」

「……フン。阿呆であったか」

 暗に告げられる戦いの意思をつまらなそうに鼻で笑う。

「静流はお前に歯向かうぞバカ僧侶」

「大言、妄言を吐きおって。後で痛い目見るのは貴様だぞ?」

「いいや、お前だバカ僧侶。静流はお前を許さない。――ここに来るまでだって何度も道に迷って警察官に『君! 君! お嬢ちゃん、どうしてこんな夜中に外出しているんだ、しかもここどこだかわかってる?』って切迫した顔で追われたり、何かチャラい男に『お嬢ちゃん。三万円でお兄さんと楽しいとこへ行かないかい? お兄さんの上でぴょんぴょんすると楽しいんだよ! あ、お菓子食べる?』と言う恐怖と誘惑に打ち勝ってきたんだからな!」

「……お前はどういう路を通ってここまで来たのだ」

 とはいえ、童女が夜に一人で街中を歩けば変な輩に絡まれる事もあるだろう。

 それも間違えた道を歩けば高確率で変な事例に遭遇するし、警察官が保護の為に追いかけもすると言う話だ。問題無く、ここまで辿り着いた功績は確かにあるな、と微妙な気分で宝戒寺長徳は嘆息を浮かべた。

 そんな彼の様子に疑問符を浮かべながらも、静流は固い声で尋ねかける。

「……そろそろ、いい加減に答えてもらうんだぞ、バカ僧侶」

「ほう。何をだ? 折角、律儀に現れたのだ。問答くらいならば少しは付き合ってしんぜよう」

「そうか」

 なら話は早い。

 静流は自身の胸中を整理し、その疑問を口に出した。

「――どうして、静流の一族をストーキングするんだぞ」

「執拗に追いかけるんだ、と言え。せめて」

 嫌な表現に感じられたのか長徳(ちょうとく)は苦々しい顔で注釈を入れた。

「……だが理由は明確だ。妖魔根絶――それ以外に何があると」

「あるはずだぞ、何かがな」

 静流は厳しい声音で論じる。

「静流の一族は――温和なんだぞ。平和なんだぞ。お団子なんだぞ。人に危害を成す様な一族なんかじゃあ、無かったぞ。なのに一方的に皆を殺して……! そんなに妖魔が難いなら、もっと他にぶっ倒す相手はいるだろって静流は言いたいぞ!」

 妖魔とて一括りではない。

 静流の一族の様に平和につつましく生きる種族もいれば。

 眼前の男、宝戒寺(ほうかいじ)長徳が妖魔を憎んでもおかしくない程に悪辣で邪気に満ちた妖魔も存在するのが事実なのだ。人間、妖魔の垣根無く殺しにかかる妖魔も存在する。

 長徳があの日、語った様に正義を謳うならば、

「他に恐ろしい奴だっているじゃないか……!」

 人界に殺人鬼がいる様に。妖魔の世界にも殺人鬼は存在する。

 滅するならば、悪事を犯した側でいいではないか。何故、平穏に生きていた上弦狐の一族があんな悲惨な目に遭わなければいけないのか。理不尽な処遇に静流は激怒していた。

「――フ」

 対して。

 宝戒寺長徳は微かに嘲笑を浮かべていた。

「バカを。貴様らの輪に於ける善悪など些末。妖魔は存在が邪悪なのだ。貴様らの良い悪いに関係は無い。お前達は全ての存在が邪なのだ! お前達が平穏に生きていたなど、知ったことでは無い!」

「……っ!」

「――と、言っても堂々巡りだろうな。不毛だ。仕方がない。本当の事を言ってやろう」

「え?」

 唐突に零された一言に目をしばたかせる。

 肩を竦めて嘆息を浮かべた長徳は視線を静流から本殿の方へと睥睨すると、

「この神社。伏見稲荷に通じる系譜を持つ」

「ター……?」

 それはわかる。

 いや。

 わかる以前の問題であり静流にとっては根幹を成す事だ。この神社に近づくに際して、自分の力に補正が働き始めた様に、静流にとってこの場所は重要な場所として存在しているのだから。わからないわけがない。

 そこまで考えた所で何か嫌な予感が警鐘を鳴らし始めた。

 しかし長徳は気にする様子も無く言葉を続ける。

「そもそもにして。貴様等、狐と言う種族の妖魔は得てして存在の意味合いが大きい。妖魔で言えば轟く悪名、傾国の美姫――玉藻の前など日本人で知らぬものはまずおるまい。他に英雄、千命救の政木狐――突き詰めれば白面金毛九尾。妖魔であり、妖魔を越えた存在。日本三大妖魔と謳われる一角が狐なのは高名な話だ」

「……それが、なんなんだぞ?」

 静流はきょとんと首を傾げる。

 その事は静流も良く知る話だ。一族、妖狐の一族のみならず妖魔であれば、誰しもが理解する話題だろう事は明白だ。しかし解せない。仮にその偉大な妖魔が狙いであるならば、そちらを狙えばいい話だろう。

 だが狙われているのは末端足る妖狐の一族であり、九尾狐ではない。

 そもそも九尾狐は大半が現在、所在不明の存在だ。強大過ぎる力を潜めて、今は最早伝説に近い様な領域の存在。日本にいるかすら些か怪しい。

 とすると――、

「まさか……静流の一族を人質に……?」

 恐ろしい可能性に行き着いた。

 可能性は、ある。

 同族である自分達を虐げる事で彼等と言う強大な種族をおびき寄せる、と言う可能性は極めて高いのではないか、と戦慄する。

 そしてその答えは、

「正解だ」

「――!」

「ただし半分だがな」

「は……?」

 半分、正解。

 その意味がわからず静流はポカンと口を開いた。

「なに、人質と言うのは合っている。人質と言うより囮だがな。妖狐の一族を根絶やしにすれば同族殺しで怒り、事態が転化すると言う可能性は肯定しようか」

 だが狙いが違う、と長徳は告げる。

「九尾は確かに強大だ――その力を此方側が確保し、上手く制御できるならば、それで十分に全ての妖魔を滅ぼす力となりうるだろう」

 妖魔、妖狐の最高峰。頂き。

 その力を入手すれば確かに並みの妖魔など相手にならない。だが、長徳はその後に履き捨てる様に声を荒げた。

「だが、所詮は妖魔の力だッ! そんな邪知暴虐の類に力を借りるなど反吐が出るわッ! 我等は破壊僧――手段は選ばん。だが、そんなものに頼る気など毛頭ない!」

「なら、何を――」

「わからんか? 狙いはそんな邪悪な力ではない。もっと――崇高な力、だ」

 そう言いながら。

 長徳は。

 心から欲する様な眼差しを。

 神社の本殿へと見定めた。

「~~~~ッ!」

 理解する。

 理解出来た。

 わかった。

 合致した。

 狙いが。

 何を望んでいるのかが――、

「ば――バカなのか、お前ら……!?」

 静流が畏怖を露わとして蒼褪めた表情を発する。


「こともあろうに――稲荷神(いなりのかみ)……宇迦之御魂(うかのみたま)様を狙っているって事か……!?」


 男の口角が。

 歪に歪んだ。

(しん――信じられないんだぞ……! 妖狐の力が狙いとか、そう言う方がまだ、ずっとマシだったんだぞ! 九尾の狐を狙うとかそう言う話の方がまだ遥かに――!)

 伏見稲荷の神社に祭られる御祭神――宇迦之御魂神。

 文字通り、日本に於いて神の一柱に数えられるお方だ。

 妖魔と言う次元の低い存在ではない。高次元に存在する女神。格の違う崇高な存在。『穀物』を司る女神と聞いている崇高な存在だ。そして、その女神は『狐』を眷属として従えているお方であり――【弦狐(げんぎつね)】の種族もルーツをたどれば彼女の眷属の系譜である。

 稲荷神として知られる高貴なお方の――、

「だから……静流たちを……?」

「その通りだ。お前達、上弦狐もとい【弦狐】は純白の体毛を持つ、女神の眷属の末裔たち。ともすればお前達を殲滅していく行為、人質とする行為は女神の反感を買う。本来、対峙する事など敵わない高次元の存在が向こう側から接触する可能性を大きく持っている。そしてそれを続けていけば――、」

 荒御魂に堕天する可能性もあろう? と、長徳は冷徹な声でそう述べた。

「バカ僧侶……本気でバカすぎる……!」

 神を落涙させ、落天させる。正気では無い。気が触れているとしか思えなかった。

 自分達を使い、神の怒りをわざと買って、

(そんな手法あると思えないけど……こいつら、女神様の力を……手に入れる気だ……!)

 方法があるとは思えない。

 神の力を手に入れる術など。

 だが、そこまでバカげたことをやらかそうとしている以上は何らかの方法を画策しているのだと幼い静流でさえ理解出来た。

 確かに。

 九尾の狐の力は強大だ。

 しかし――狙いが神の力であれば、そちらを取るだろう。妖魔の最高峰とはいえ、所詮それは妖魔なのだ。超越者足る神々には遠く及ぶまい領域。恐ろしい。恐れを知らない愚行とさえ言える程に。静流は戦慄せざるを得なかった。

 だが、同時に覚悟も決まった。いや、違う。覚悟に加えて決意もだ。

 パン! と柏手を響かせた。

「ぬ……」

 長徳が眉をひそめる中で静流は勇ましく吼えた。

「許せない――」

 荒れ狂う胸中が雄叫びを上げる。

「許さない。静流の一族をそんな非道な理由でみんな、みんな、殺した事も。そしてそんな怖い理由で宇迦様を御降臨させようとしている事も――全て」

 ――女神様にそんな事はさせない!

 聖僧院の目的は理解した。

 要するに接触できない神の力を求めるが故に神々の逆鱗に触れる行いをしていると言う事なのだ。そして荒御魂として神の力を欲している。

 ――……させるもんか。

 ――絶対にさせるもんかッ!

 出会った事は無い。顔も知らない女神様だ。

 だが、狐の種族にとって最も尊いお方なのである。その女神を貶す彼らの姿勢は断じて許していいものではない。その激憤が、そして九十九と勇魚に対する想いを胸に、静流の妖気は膨大に膨れ上がり――爆発した。

 皓々と輝く真白い光が彼女の幼い体躯を包み込む。

(――上弦狐)

 妖狐の種族の一角。

 全体で呼称するならば【弦狐】と言うのが正しく、上弦、下弦、新月、満月と言う分岐を成した一族であり『上弦狐』は上弦の月――即ち、半月の時にその妖気を増幅させる白狐の種族である。

 そしてその状態であるならば、彼女たちは本来以上の力を、潜在能力を開花させる。

 静流が天高く見守る半月に吼えた。

 伴い、溢れ出る力が彼女の体躯を急速に成長させてゆく。童女であった姿が少女へと。おおよそ中学生か高校生の境程度の外見まで進歩させてゆく。

 未成熟だった体躯は年頃の少女らしい成長期の姿へと変貌を遂げてゆく。

「それでいい」

 長徳は嗤った。

「平時の幼子を、常時の狐共を狩っても微々たる力の消滅では、女神も動かんかもしれぬからな。ならば、少しはマシな力、強い力となった貴様を嬲った方が得策かもしれん。何より月の出る夜は感知がいい」

 スラリ、と錫杖を構えて長徳が獰猛な笑みを零す。

 そう言う事を言うと思った。だが、あえて変化をした。全てはこのバカな僧侶に己が信念を示す為に。その阿呆な企みに楔を打ち込む為に――!

「狐を舐めんな」

 童女の愛らしい声ではない。雅な少女の声がリンと響く。

「舐めてなどいない。見下げ果てているだけだ」

「なおムカつくな」

 その言葉を最後に、静流は両手に青白い火焔を生み出し放射した。

「コン――【狐火(フォックスファイアー)】!」

 猛火が迸り、

「悪霊退散――オン!」

 僧侶の言霊が雷鳴する。

 大事なものを護りたいと念ずる狐の少女と、邪悪を滅相せんと企てる破壊僧。己が目的、己が信念の為の戦いが炎と雷鳴に塗れ、激しい火花を散らし始める。

 それはまさしく苛烈な戦いであった。


        4


 ――酷く凄絶で、悲しい事件だと思う。

 その少年は誰に告ぐでもなく、そう感じている。

 帳の降りた夜。

 騒がしい街中の喧噪より隔離された様な街の一角。寂れた廃墟の空間ではいつにない切迫した空気と折り重なって熱気が静かに零れ出ていた。

 廃墟の一室にて青髪の少年、弦巻(つるまき)日向(ひなた)は手にする拳銃から火花を散らしている。

 相対する一人の男――マクシミリアーノ=ムンジュイックと言う男に対し、怒気ではない、純粋な闘気を迸らせ、血を撒き散らせながら相対する。

 その光景は傍から見れば無手の男に銃口を突きつける少年と言う通報ものの光景に見えかねないはずであった。しかし実際には真逆。この二人が眼光煌めかせ、相対してから二分弱が経過しているが、その間に銃口は数十発の弾丸を放っている。だと言うにも関わらず彼の銃弾は男の元へ一発も届いていない事態が如実に現実を物語っている。

 それも自分は現在、攪乱する様に相手の周囲を俊敏に動き回りながらだと言うのにだ。

 日向が再び、銃撃を走らせた。

 その銃弾をマクシミリアーノは左へ滑る様な動きで回避する。常人の動きでは無い。霞の様におぼろげに動く様は常人離れした動作と言わずして何と言おうか。

(――速い……!)

 憔悴に汗がにじむ程に日向は驚嘆をしていた。

 頬に汗を伝わせながら、彼の動きと相対する日向は自身の敵がどれほどに常人から逸脱しているのかを理解せざるを得ないのだ。銃弾を容易く回避するさま。それだけでも畏怖すべき事だが、それ以上に厄介なのは……!

(先程から防御一辺倒――いえ、回避一辺倒……)

 それは傍目には銃を前に攻め手をあぐねている様に思えもする。

 しかし実際には違う。銃弾を汗一つかかずに回避する敏捷性は明らかなまでに自らの拳銃を見切った末の動きではないか。銃弾を回避すると言うのは日向では到底無理な動きなだけに恐怖せざる得ない。

(銃口を見て回避するとか言う理論はあるけど――実際には、そんなの通じないはずなのに、この人はそれをやってのける……!)

 簡潔に言えば銃口など突きつけられればその瞬間でアウトだ。

 回避できると言うが、現実には三発か二発連続で放たれれば、回避しようもなく銃撃の餌食になるというもの。日向も無理して二発同時に放って攻撃もしたが、それを尽く回避されてしまう始末。

 速さも。動体視力も自分とはかけ離れている。

 焦りが湧き出る。憔悴が心を濁らす。

(――堪えろ。恐怖を抱きながら、耐えて、目を見開くんだし)

 グッと奥歯を噛み締めた。

 下手な怯えを抱いては失態を踏みかねない。そしてそこから否応なく瓦解する未来が確実に見えてくる。それだけはダメだ。ありえない。

 心の一端に冷静さを抱きつつ――日向は自らの速度をもう一段階跳ね上げた。

 呼応するように折れた左腕から血が溢れ周囲を鮮血に染め上げる。

 敵対者――マクシミリアーノにへし折られた左腕は重傷であった。骨が粉砕する程にへし折れた状態は大量の血飛沫を巻き上げる。この場に良識ある第三者がいたならば、その凄烈な光景に思わず目を背けるだろう程に血が噴いていた。

 そして見ればわかる様に――日向が戦える時間は長いなどとは口が裂けても言えない。

 出血による疲労は体を蝕む如く段々と近づいてきている。

(動けなくなる前に相手を行動不能にさえ出来れば……!)

 それでいい、と日向は断じる。

 後の事はどうでもいい。破滅的な形でも構わない。

 とにかく眼前の敵に食らいつき――へし折る。それを叶えなくては今、こうして立ち向かう事に何ら意味も見いだせず終わるだけ。それは断じて認められない。

 ありがたい事に――彼としてはありがたい事に、日向は痛みを感じていなかった。

 左腕の状態を鑑みれば、すぐさま病院で処置を施さなくてはならないレベルだろうが、逆を言えばそれだけ重症故に痛みが消し飛んでいたのが救いである。ここで激痛に苛まされ戦えなくなる方が彼としては問題だったのだから。

 動くうちに、マクシミリアーノを止める程に追い込む。

 その一念で日向は銃口を突きつけ、銃撃を放った。

 しかし、それも容易く回避される。

(銃撃じゃ――ダメなのか……? いや、僕がダメなんだ……!)

 グッと息が詰まる。

 速度が足りない。銃では無く自身の反応速度が間に合わない。

 銃撃。一撃当たれば相手を痛みで行動不能にしうる最善の手。これが当たれば、それで後は怒涛の勢いで追い込めると言うのに、当たらない。これほどに悔しい事は無い。銃弾がこれほどの距離で外れると言うのは尋常ではないのだ。

(かと言って、僕の拳足であの人に歯向かえるとは思えない――!)

 膂力と鍛練の差が大き過ぎるのだ。

 マクシミリアーノは恰幅の良い、そして明らかに武術に通じた強姦魔だ。おそらくはその圧倒的な武力で女性を難なく組み伏せる程に彼は強い。純粋に武道家として彼は淀みを残す形で強いのだろう。

 対する日向は華奢で小柄。

 女性と大差ない程に体が、骨格の作りが女性寄りなのだ。男性として矮小な肉体と言う次元ではない、厳密には女性の体躯だがギリギリ男性機能を維持していると言う姿形である。

 ならば日向が膂力で彼に勝てる要素はゼロ。

(銃でやるしか手段は無い――)

 そう己の手札を、己の弱小さを噛み締めた時、

「ふむ、大体理解出来ましたかな」

 眼前の男がニヤリと口角を吊り上げた。

(理解……?)

 何を言っているのだ、と訝しむも思考を挟む余地はない。

 日向はすぐに銃撃を放たんとトリガーを引き絞り、

「――ッ!?」

 驚愕に目を見開き、拳銃をすぐさま引き戻した。

 その表情を見据えながら、マクシミリアーノが――銃口の前に躍り出て眉間を銃口に就きだした男が不敵な笑みを零していた。

「なっ……! 何して……!」

「何をして、ですか」

 拳銃を引っ込め、後退する日向を追走する様に、ゆらりと影が揺蕩う様にマクシミリアーノがぬらっと日向へ詰め寄りながら口を開いた。

「貴方こそ――ただでさえ苦境でよくぞその判断を下せるものでございましょう」

「……!」

 嘲るわけではなく、驚いてさえいる声が日向の耳に響いた。

 日向はその言葉を切裂く様に拳銃で一閃、横へ凪いだ。鉄塊足る銃器であれば鈍器として用いる事は容易い。挙動により空いた距離感から銃口を構えて連射しようとした。しかしまたも銃の線上にマクシミリアーノは眉間を晒す。

「く――」

「ぬるい」

 そして次の瞬間に彼の右腕がぐおっと迫り、後方へ後退する日向とは対象に静かになびく彼の頭髪、伸ばされた二房の髪の毛を鷲掴んだ。ぐっと、その手が引き戻されると同時に頭にブヂブチと言う嫌な音が激痛と共に響き――、

「――」

 咄嗟に日向は銃を自らの髪に目掛けて連射し、銃弾で髪の毛を引き千切った。

「……ふむ」

 強姦魔は手に掴んだ青い鮮やかな頭髪を一瞥した後に床下へ乱雑に投げる。そのさまを日向は息切れ激しく見つめていた。無理に引き抜かれた大量の髪の毛があった場所からヅゥ、と赤黒い血が流れ出てくる。

(バカか、僕は……痛みで……今のは足に打ち込むチャンスだったのに……)

 ズグズグ、と頭部が痛みに呻く。

 痛みを回避するのに必死になってしまった。その事を日向は恥じる。

 対するマクシミリアーノは日向を見据えながら冷静に一言を発する。

「貴方は――撃つ気はある。ですが、殺す気がありませんな。微塵も」

「……」

「いえ。それ自体は些末な事でしょうな。殺す気がないのは、別に大した問題ではありませんし、君の様な少年がそれをやるのは些か頂けないでしょう」

 だが、と男は一拍隙間を置いて、

「その立ち振る舞いである以上は明らかに私へ、もとい相手へモーションが一歩遅れているのは理解しているでございましょうな?」

 その言葉は適確だった。

 遅れている。その通りだ。

 相手へ大まかに狙いを付けて射撃している即効性に富んだものではない。

 相手の致命傷とならない場所を狙い定めて撃っているのだ。

 その挙措は確実に弦巻日向の行動速度を一歩遅くさせている。マクシミリアーノが指摘するのはそこであった。

「実際、貴方の射撃は回避が容易い。いえ、回避ではありませんな。正確には、回避しない事が回避と言うべきでしょうな」

 見抜かれている。

 日向は僅かに渋面を浮かべた。その通りだからだ。

 相手を殺さない様に撃つ技術だけを持っている。相手の命を奪わない様に足を射抜くと言った技術に特化、もとい、それくらいしか出来ないしやらない。

 つまり、それは相手側が銃口に致命傷を差し出せば日向が引き金を引けなくなるのと同時と言う事である。実際に、その可能性を持つからこそ、日向は行動を一歩遅くし、相手の急所に狙いがずれた際に修正出来る様にしているのだから。

 言ってしまえば絶対的な弱点だった。

 それをされれば日向の銃撃は半分以上防げたと言って過言では無い。

 銃と言う選択肢を狭められた。自らの決定打が弱体化する。それをされれば、日向が引き金を引くのは途端に難しくなってゆく。

 しかし。そう言った行動を日向が予測できていないわけもない。

 その為に――彼は事前に試行錯誤をしたのだから。

「けど、銃撃だけが戦闘じゃないですよ」

 その言葉を皮切りに日向は懐から取り出した装置のボタンを押し込んだ。

 僅かな警戒――マクシミリアーノが刹那、強張った瞬間に彼の傍の天井からぼたりとナミ化が落ちて、着火した。すると激しい音がバラバラと鳴り響く。

「――ぬおっ」

 緊張感の隙間を縫った些細な犯行――爆竹が鳴り響く。

 生まれた僅かな隙を縫って日向は即座に銃口をつきつけ、連射した。

 三発の銃弾が空気を突き抜けて男へ飛びかかる。着弾地点は両足。これで確実に決まる筈だと日向は意気込んだ。単純明快な小さな出来事で隙間を生み出すのは常套手段。それによる好機を日向は容赦なく摘み取った。

 だがしかし、そこで日向の想像が裏切られる――!

「ふんっ!」

 膠着した体躯を即座に駆動させ彼は駆けた。

 虚を突かれた状態からの再起が早い――素晴らしい速度でマクシミリアーノは疾駆し、日向の銃弾からその身を回避させる。――想像以上の動きだ。だが、想定を超えたわけではない。

 弦巻日向は彼に勝ち目が薄い事を理解して仕掛けている。

 時間は短い。自らの全力稼動は限られる。その中で日向は爆発的に全力を振り絞る他にないのだ。左へ大きく走り抜ける強姦魔に対して日向は隠し持つ起動スイッチを二つ押した。

 瞬間、僅かな破裂音が部屋の隅にパンと弾けた。部屋の片隅に設置した風船が弾けた音だ。

 それにより微かにマクシミリアーノの意識が向かう。時間にして一秒にも満たないコンマの時間だ。だが十分。ついで設置された仕掛けこそ重要だ。仕掛けたのは火薬――場所は床下。ボンと言う音に伴い、マクシミリアーノが足をかけた部分の床板がガクンと大きく傾いた。

「ぬ――!」

「まだまだ!」

 そこからもう一つ仕掛けを作動させる。

 すると今度は部屋にあったベットの下がぼふんっと大きな破裂音を発し、中から大量のビー玉が転がってきた。それはもう――大量に。

「こんなに大量のビー玉をどこに隠していたんでごいざいましょうか!?」

 いない間にこっそり詰め込んでおいただけだ。

 あちこち駆けずり回って集めたビー玉二千個。火薬に風船と手に入るものとして大した事のないものばかり。だが速攻で入手できるものとしては通常販売されているもの程度が関の山であり、お金の関係もあった。

 流石に銃器を大量購入しても仕方ないし、意味が無い。

 だからこそ相手を翻弄出来る武器さえあればいい。

 後は――銃口をつきつけ、トリガーを引き絞るだけでいい。相手の動きを止めるのに御大層なものは左程いらない。銃弾一発で人の動きは止められる。

 大量のビー玉で足元を崩された男の両足目掛けて銃撃二発を解き放つ。

(これで――今度こそ終わりですッ!)

 乾いた銃声が響いた。

 幕が下りる。戦いの終結が来訪する。その期待を胸に抱いた。

 しかし、

「見くびり過ぎでございましょうな」

 マクシミリアーノと言う男は。日向の想像を超えて――想定も塗り替える。

 ズン! と、太い健脚がビー玉を虫を踏みつぶす如く雄々しく、ビー玉を踏みつぶし床に足跡をめり込ませた。そこから拳を握りしめ、目に見えて全身の筋肉がぐっと盛り上がる様に日向の瞳には映った。

 それが嫌な予感を想像させる。

「ずああっ!」

 男の咆哮が炸裂した。

 その声と共に信じ難い光景が目に映る。

 放たれた足への弾丸、それがようやく両足へと着弾した。


 そして――数秒遅れてポロリと床に転げ落ちた。反響音が虚しく静寂に木霊する。


 声が、出なかった。

「……」

 手にする銃器の重みが急に軽くなった様にすら錯覚する。

 自分は玩具のモデルガンでも使っていただろうか? いや、そんなはずはない。使っているのは本物の拳銃だ。否定のしようもない殺傷能力の高い武器だ。当たれば肉を穿ち、激痛に身を強張らせる凶器だ。

 着弾すれば、相手は痛みで動けなくなる程に。

 それが。

 そのはずが。

 そうなるはずが。

 表皮を少し抉った程度で――終わるだけだと?

 これが金属音を上げて弾かれたならばわかる。仕込んでおいた防弾服により無力化されたとか思えばそれでいい。しかし、目の前の現象は違う。銃弾は通じた。

 ただし、それは薄皮一枚抉った程度の些末事。

 効き目は確かにあった。だが――だが、そんな微小な威力では何の意味もありはしないではないか。この光景一つで理解せざるを得ないではないか。

(銃が……通じない……)

 焦りが心臓を激しく叩く。

 絶対の武器が何ら意味を成さない。成さない程に頑強な肉体。生来の素養ではない、あれはきっと長年の修練による純粋な肉体の機能だ。マクシミリアーノと言う男はただの肉体をもってして銃撃に対処したと言う事になる。それも初めての経験には思えなかった。すでに何度か似た様な体験をしたからこそ臆する事も無くやってのけた様に見えた。

「……希望を粉々に砕いてしまったようでございましょうな」

 憔悴する意識の中で男が憐れむような声を零した。

「初めから、貴方の武器など脅威には想っておりませんでした。ですが、貴方の気概に感銘を受けて勝負に臨んだ――結果は解り切っておりましたがな。されども、これが現実。貴方では私には勝ち目はないのでございましょう」

 勝ち目が、無い。

 その通りだった。唯一、殺傷能力のある武器を持ってしても、歯牙にもかからぬでは意味が無いのだ。火力不足――日向は完全なまでにそれを痛感させられた。

 勝てない。その言葉が脳髄を占領してゆく。

「さて」

 そんな日向に対して、マクシミリアーノは静かに拳を構えた。

 腰に対して水平に添えられた右の剛腕。ハッとする日向が即座にその場を飛び抜こうと鋭い速度で跳躍する――、

「が、ばぁっ……!」

「……」

 だが、遅い。男は無言でその拳を日向の胸に叩き込んでいた。胃の中の空気全てが体外へ弾き出される様な圧迫感。思考がまとまりを見せず右往左往し意識が飛びそうになる。

 それを、日向は、気合で踏みとどまった。

「――ッ!」

 ズン! と、右足を勇ましく大地に突き立てる。

「……ほう」

 痩せ我慢だとわかっている。だからどうした。一分一秒でもいいのだ。長く、長く、ここでサンドバッグにでもなれれば本望なのだから。待てば警察官が駆けつける。それさえ、待てば勝利なのだ。

 飛びそうな意識を無理矢理掴み、噛み締める。

 呼吸がままならなず、息が出来ないがそれもどうでもいい事だ。

「……感動すら覚えますな。よもや、今の一撃を受けて、意識を保っていようとは……」

「そこそこ、タフに、生きて、きましたし、ね……!」

「なるほど。……貴方も相応に苦労を積んできた様子」

 ふぅ、と男は嘆息を浮かべて、

「このままあと数発殴れば貴方の意識は飛ぶでしょうな。――そう、思いたいものですが、今の貴方は意地と根性で立っている様なもの。ともすれば、数発殴って意識があるのか、どうなのか、まあどちらにせよ……」

 と、そこでマクシミリアーノは不意に言葉を途切れさせ。

 何を想ったのか握り緊める拳に更に力を捻じ込んだ。血管が浮き出て、握る拳から血が滲み出す程の握力。何を考えてそれだけのパワーを込めるのかわからない――だが、脈々と力を鼓動させる拳に込められた威力は計り知れない。

 この拳で自身を殴打させては拙い――日向は腹につきつけられている腕を必死に両腕で放すまいと抑え込む。放さなければ、その一撃の威力は大幅に軽減される――、

「貴方に敬意を表しましょうかな」

(……え?)

「私が、これを使う形となった事へ――貴方の勇気を称賛して」

 その言葉の意味がわからなかった。

 だが、次いで違和感が胸を穿つ。何故だろうか。この音は。

「聞き及んでいないのでございましょうかな?」

 何故――自分の胸元付近にバヂバヂと――電気が弾ける様な音が――、

「私は――【電気蛭(エレクトリック・マーチ)】などと呼ばれている事に」

 瞬間。

 日向の全身を劈く様な雷電が走り抜けた。



 焼け焦げた匂いがする。

 人肉が焦げる――戦場で嗅いだ匂いがしていた。覚えのある匂いが。もう嗅ぐことは無いと安堵していた香りが――すぐそばで。今までよりずっと近くで。

「信じ難い話でございましょうが――私は電気人間の様なものなのでございます」

 男の声が耳に響く。

 日向はその声を漠然と聞き及びながら自らの状況を理解した。――せざるを得なかった。

 肉体は最早ピクリとも動かない。当然だろう。人間なんてスタンガンの電気一発で意識を十分に失えるのだ。先程受けた衝撃はおおよそ、人の意識を奪うには十分な電量。それを直接受けた――朦朧とだけ、意識が微妙に残っているのも偶然に近い。

 加えて度重なる負傷の数々。最早、日向の身体は限界を超えていた。

 だから、こうして床に倒れる事はなんら不思議な事では無い。

「貴方は雄々しく戦いましたな。強姦殺人鬼と言う私相手によくぞまあ、食らいついたと言うものでございましょう。圧倒的な地力の差。それを踏まえてよくぞといったところ」

 ですからもうそこで倒れていなさい、とマクシミリアーノは固い声でそう告げる。

「傷は深い。ですが、電撃も調整は致しました。死にはしないでしょう。なに、警察を呼んでいたと言う以上は即座に警察も駆け付けます。そこまで生きていれば――と言う話でございましょうがね」

 かけられたのは情けだった。

 自らに立ち向かった少年の勇気に対する憐憫であった。ただ殺さない程度に加減された攻撃であったのだ。もっと別の場面であったならば、それはありがたい話だったのだろう。

 だが今は日向にとって全身全霊を駆けた足止めの戦いであった。

 全力で行った妨害を――男は子供の遊びに笑う様な寛容な対応で返して除けたのだ。

 悔しさが滲み出る。

 弱さが絶叫を上げて悶え苦しむ。

 完全な敗北だった。

「さて」

 男は歩き出す。

「命が助かる事を祈る事としようものでございましょう。なに、君の武勇へのお礼です、彼女は低調に扱いましょう」

 男が去る。

 何処へ?

 何処へ去るのだろうか――いや、違う。去るのではなく……何処へ行く?

 この場所から何処へ。

 朦朧と沈む意識の暗闇の只中で男の言葉が反芻する。

 この男の目的は――決して見過ごしていいものではなかったはずだ。

 いや。

 そんな次元ではなく。

 日向が最も拒絶すべきものではないかッ!

 その途端に日向の腕が意識を越えて、ズォッと伸びた。

 少し遅れてマクシミリアーノの歩みがピタリと停止する。

「――驚きでしょうな。まさか、まだ動けたとは……」

「行か、せ、ない……」

 動く腕を必死に伸ばして掴んだ先。そこには男の足が、ズボンの端があった。

 指先でまず掴み、両腕で必死に男の右足に抱き着いた。逃がさない。無様でもいい。醜態でもかまわない。格好よさなど無くていい。ただ、こうして一秒でも長く足止め出来るならそれでいい。

「……放しなさい」

 マクシミリアーノが振り返らず端的に声を発した。

 嫌だ、と小さく首を左右に振る。

「放すのです」

「……お断りです……」

 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。

「放しなさい」

 その言葉に男は何処か苛立ちを滲ませながら咆哮した。

「私に貴方の頭蓋を踏み躙らせたいのでございましょうかッ!」

「……ッ」

 何なのだろう。この男は、と日向は思った。

 頭を踏ませるな、とそう告げている。振り解こうと思えば振り解けるだろうに。それでも告げているのである。自分に頭を踏ませるな、と。その怒号はまるで――汚辱を許さぬ騎士道精神の様に高らかですらあった。

 故に解せない。

 だからこそわからない。ちぐはぐに思えて仕方ない。

「止まってください……!」

 嗚咽と共に発露する。

 相手に懇願すると言う、情けない行為なのは理解している。だが、最早、全身が襤褸衣と化していた少年に出来る事と言えば縋りつき、許しを請う様な事しか残っていなかった。

「……それほどに、貴方にとって大事な少女と言う事か」

「一番大事、だし……!」

 目尻から溢れ出す落涙。想いのまま、本心をそのまま素直に口に出す。考えるまでもなく、即答で日向は心の底からその想いを間髪入れず絞り出した。

 そして、

「貴方は何なんですか……! 僕との戦いでは紳士の様に礼節を尽くすのに……! 被害者である彼女達には一切の容赦も無くて……!」

 行動と思考にズレがある様な歪さ。

 それがこの男からは感じられて何処か薄気味悪かった。

「何でこんなことするんだし……!」

 泣きそうな声で日向は絶叫する。今すぐにでも改心して止まってほしいと言う想いを込めて。

「何で? そんなもの――」

 マクシミリアーノが煩わしそうに頭を押さえて、

「そんな、ものは……」

 一拍を置いた後に――狂笑した。

「女性の肢体の芳醇さ、豊満さ、香しさ――一度喰らえば、虜となるあの清浄な味わいを、咽び返りたいと思う程に旨味に満ちた濃密な性の味わいを前に何を一々、小難しい理屈をこねくり回す必要がありましょうか。男は女を求め、喰らうッ! その尊厳を蹂躙し尽くす凄絶足る魅力を前に何を迷いましょうか!」

 狂気を孕む様な瞳が眼下に縋りつく少年を射抜く。

 溢れ出す狂人の気配に日向は渋面を浮かべると同時に――どこか不可解なものを見る様な視線をくべた。それが何であるかは日向ですらもわからない。

 しかし――、

「ああ、そうだ、致し方ないでしょうな。こうしましょう」

 そこで、日向の思考が男の声に途切れさせられる。

 唐突に。何かを提案する様な気軽な声で。

「私は今までの女性全てを堪能し終えた後は他のものの被害を受けぬ様に丹念に殺害してまいりました。――が、私と戦った貴方は特例と致しましょう」

「……え……?」

 止めて、くれるのだろうか?

 日向がぼんやりとそんな気持ちを抱いた時に。

 マクシミリアーノ=ムンジュイックは。

 強姦魔は。

 こう、告げた。


「私が彼女を喰らい尽くした後も、ちゃんと生かして返してあげましょう。なに、傷物にはなりますが、比較的綺麗な体のままで貴方の所へ、家族の元へ返しましょう。うむ、これはいい提案と言うものでしょうね。後は慰めとばかりに、優しく接してやればよろしい。そうすれば、コロリと落ちるのではないですかな、ファーストクラスな少女と言えども、ね」


 ――今、何と言った?

 一瞬、彼が――いいや、誰だ? 何だろうか。何をもって、眼前の人物はそんなトチ狂った様な提案をさも名案と告げたのだろうか。その感性がわからない。

 少年の心臓が早鐘を打つ。

 誰を喰い散らかし、誰を慰めてやれと?

 そんな最低最悪の侮辱を――誰に対して彼は言い放った?

 それは。

 絶対に。

 許せる発言などでは。

 ――無い。

 あの少女を。

 逞しく、綺麗で、美しい、咲き誇る大輪を思わせる、あの大好きな少女に向けて。

 到底、看過出来る発言の領域ではない。最低にして最悪だ。

 業火が揺らぐ様に。

 激流が迸る様に。

 大気が荒れる様に。

 そして大地が啼いた様に。

 弦巻日向の視界に燦然と怨敵を粛清する様な蒼穹の光が満ちてゆく。


        5


 普通の高校。

 普通の学校の夜。少し怖くて、怪談の種とかありそうな、そんな在り来たりな夜の学校って怖いよな、という話で済むはずだったのだ。だってこの場所は普通なのだから。

 あくまで普通の学校なんだ。悪魔で普通の学校じゃなくなるなんて思っていなかった。

「なん、なんだよもう……」

 学校の階段の踊り場で、休屋連が縮こまって丸まっていた。

 恐怖に身を震わせてただただ時間が過ぎるのを待っていた。悪夢が覚めます様にと念じながらひたすらに時の経過を待ち望む。

「きっと嘘だ、絶対に冗談だ、何の問題も無いに決まってる……」

 同時に胸を穿つ恐怖を一様に信じまいと呟いていた。

 鷹架理枝曰く【必滅覆す回天の剣(ブリーズ・キュラティフ)】――その効力は【二十四時間以内に相手に一矢報いる】と言う生存条件。それをまだ連は達成していない。だが、きっとそんなのしなくて大丈夫だと根拠のない事を考えてあの化け物の前に出なくていいと結論付ける。

 それが逃げである事を漠然と理解しながらも行動に起こす勇気は微塵も無かった。

 このまま此処で、

「ひっ!」

 そこで唐突にズゥゥゥゥン……! と、いう大きな音が響いた。

 朧達がいるはずの場所付近からだ――、と理解して連は「い、いやだいやだいやだ。今場所もう嫌だ。逃げよ、逃げよう、逃げるんだ!」と唇を震わせ、這いずる様に外へ通じる道を四つん這いで弱弱しく歩いてゆく。

 その時、カツンと何かが連の元から零れた。

 それは指輪だった。何故彼がそんなものを持っているのかと言えば、難しい話ではない。単純に来る途中で理枝に手渡されたものだった。何故渡されたかはわからないが……。

 指輪に、いい印象は抱けない。

 昨晩も、自分は指輪を手に入れて以降、あんな羽目に遭ったのだ。

 あの日、夜中に学校へ侵入なんて大それたことをしなければ。――そこまで、考えたところで連の眦からぽつりと何かが零れた。

「あ」

 涙だった。

 何の事は無い。涙なんてさっきから流している。

 なのに、どうしてだろうか?

 今、頬を伝った涙は――とても、悔しさを感じる涙だったのは?

「く、そぉ……!」

 理由なぞわかっていた。

 情けないからだ。今の自分が。友人の声を振り切り、女の子を突き飛ばし、果敢に挑んでくれた大人たちを見捨てて逃走の一手。作戦ではなく、純粋な恐怖心から逃げただけ。これを格好いいなどとは口が裂けても言えないだろう。

「俺……ちょー、かっこわりぃ……」

 歯を食い縛って、目をぐっと強く瞑れば涙がボタボタ零れ落ちる。

 弱い。

 休屋連は何の力も持っていない。弱者でしかない。だから逃げてもなんら、問題無い一般人の立ち位置だ。そこに疑問を介入する意味は無いし、いたところで足手まとい。そのスタンスは先程から一度も崩れていない。だから連に悪いところはない、はずだ。

 だけれど。

 悪いところなんてないけれど――格好悪いところはたくさんだ。本当の意味で。

 力があるなら駆け付けたい。連だって力さえあれば戦えるはずだ。皆の様に力が無いからこんな醜態を晒すのだ。力さえあれば、少しくらい格好いいところを見せれるはずなのだ。

 そんな理想を抱いて――連は自嘲する。

「ばっか、ありえねぇし……」

 力があっても、きっと連は今のこの自分と同じになっている気がしたからだ。

 骨の髄まで一般人から抜け出せていない。

 いても力になりはしない。

 だけれど、そんな連にだってわかっている事があるのだ。

 力なんて大層なものは望まない。

 立ち向かう勇気なんて大仰なものは似合わない。

 でも。

 それでも、一つ、この局面で求めるものがあるとすれば、


 ――つまぁーり、お前は何をしたいってことなんだい?


 何をしたいか、それは決まっている。

 自分の脳内だろうか。唐突に響く問い掛けに連は声を震わせながらも応答した。

 声が紡ぐ。

 ――ほう。なら、わかるよな軟弱野郎。選ぶ選択肢はどちらかって事がよう。

 体の中がジンと熱くなってくる。その熱が連に何かを与える様に。

 何を選べばいいんだよ、と連は目を瞑って叫び声を上げた。

 ――ようし、答えてやろうか。軟弱野郎が選べる選択肢はズバリ二つ! 一つは単純、このまま昇降口まで友人知人恩人見捨てて、ハイハイしながら脱走するっつー最低野郎の選択肢! んで、もう片方はひでぇ雑言吐いた場所へ勇気振り絞って頭下げに行く勢いの脱最低野郎の選択肢!

 どっちも最低野郎がつくんだな、と連は渋面を浮かべる中で。

 声は告げる。

 ――さあ、軟弱野郎? お前さんはどっちを選ぶ? 前者と、後者。選ぶのはどっちだ?

 そんなものは決まっていた。

 休屋連はその声に対して、迷いながら、震えながらも――その選択を掴み取る。

 何故ならば、それが休屋連なのだから。

「――前者に、決まってんだろッ!!」


        7


 戦いにならぬ戦いなどそこだけでは無かった。

 休屋連と言う唯の少年も、弦巻日向と言う勇気を孤軍奮闘の少年も。

 そして独断専行を決意した少女も、また。

「けほっ、こほっ! うぇ……がっ!」

 夜の冷気に冷やされた砂利の上。吐血を零し、体中に痛々しい傷痕を残す、狐の少女が苦しそうに空を仰いでいた。仰向けに倒れ伏す少女は無言で傍に佇む僧侶を憎々しげな目で睨むも僧侶は冷淡な眼差しのままに転がる少女の腹を一発蹴り込む。

「がうっ」

「ふん、まだそんな目が出来るか。ここまで痛めつけてやったと言うのに」

「……うう……!」

 ギリギリ、と歯を食い縛りながら少女の双眸が鋭く見据えるも、長徳に効果は示さない。

 圧倒的優位。地面を傷だらけで転がる少女の反抗など、無傷で悠然と佇む僧侶の歯牙にもかからぬ振る舞いだ。

 妖狐と僧侶の戦い。

 それは大人が子供を構う様な容易さで撥ね退けられた程に他愛ない戦果であった。ふたを開けてみれば、そこに妖魔の力は意味を成さず、逆効果とばかりに、一方的に疲労してゆく静流の姿しかなかったのだから。

 妖狐の十八番【狐火】。火焔を放出する変幻自在の技巧だが、それも精々静流と言う童女が手にする初歩的な技術のものでしかない。熟達した玄人の技と素人の技に隔絶とした隔たりがある様に静流の狐火は長徳の法力には通じなかったのだ。

 迫る狐火を長徳は言霊を使い弾き飛ばし、式符を用いて静流を徐々に徐々に追い詰めていった。大技はなく、小手先の技で淡々と弄ぶ様に。

 戦いにすらならなかったのだ。

「まあ、よく耐えた方か、とでも褒めてやろう」

「……ッ!」

 褒めてやろう。そんな大人みたいな台詞を吐くのが苛立たしい。

 そんな台詞を吐かせる自分の矮小さも憎々しい程であった。

「誰が……お前、なんかに……!」

「負けるものか、か? とうに負けている身の上でよく吐くものだ」

「あたしは、負けてなんか、ない……!」

「負けたのだよ」

 端的に、無慈悲に長徳は断言する。

 歴然とした差があった。その結果として敗北した。その事実は何ら変わらぬ真実だ。事実、静流にこれ以上成す術は無い。妖狐の力の底上げをされているこの状況で敗北した以上は勝率は最早ゼロと言って構わないのだから。

 砂利をその手で握り緊めた。手の平にちくちくとした痛みが走る。

 その痛みが敗北の味の様に感じられて、静流の眼からは涙が浮かびそうになった。

「泣くには速いぞ、狐」

 そんな静流の滑らかな白髪を長徳は無造作に握り緊め、グッと持ち上げた。

「づぁっ……! いつぁ……!」

 静流の口から悲鳴が零れた。

 髪の毛が持ち上げられ、毛根が酷く引っ張られる。ズンズンとした痛みが走って、静流の身体に尚更の敗北を刻み付ける様な光景だった。

「貴様の状況、貴様の今には価値がある」

「なに、を……!」

 射殺さんとばかりに睨む静流の面貌を長徳は悍ましい笑みを浮かべて覗き込む。

 ニタァ、と歪んだ口元が呪詛を吐く様に静流を苦しめる言葉を紡ぐ。

「上弦狐は貴様一匹だ。野放しなのはな。故に稀少価値が生まれてくる。お前の様な妖狐はその手の好事家は多いものだぞ? 良かったなあ? 畜生風情が、犬猫の様に人間様の寵愛に抱かれ愛玩されるのだ。さあて、どのような愛玩があるかはわからんがな。性奴か実験動物――なんにせよ、畜生にはお似合いの末路だろう」

「この、外道……!」

「外道だとも。だが化外よりかはマシであろうさ。フフ、ハハハ……!」

 狂気に触れた男の面貌がそこにはあった。

 滲み出る妖魔への嘲笑。恨み。憎しみ。そんな感情が渦巻いている様な男の顔。どうしてこおまで狂った笑みを零せるのか。静流にはわからなかった。だが同時に理不尽だとも憤る。だってそうだろう? 静流はこの男に何もしていないのに、一族を殺され、ここまで追いつめられているのだから……。

「さて、話は終わりだ」

 長徳は冷徹に話題を終了させる。

「ここで長く語る意味もあるまい。お前をさっさと聖僧院本部へ連行するとしようか」

 処遇はそこで決められる。

 力を使い果たした静流は成す術もなくその体躯を肩で担がれ、運ばれようとしてゆく。見知らぬ場所。恐怖と狂気の地獄へと。静流は連行されようとしている。

 敗者の末期だ。

(……勇魚(いさな)、ゴメン。九十九(つくも)も……ついでにゴメン)

 胸中で自嘲気味に謝罪を述べた。

 妖気を最大限使えば勝てるのではないか――等と言う妄想を抱き、立ち向かった。敗北は農耕だとも理解しながら抗った。結果は惨敗。当然の帰結だ。

 これで――自分はお終いなのだろう。

 九十九と勇魚を巻き込まずに終われる事だけが心から嬉しい。

 自分に姉の様に優しくしてくれた勇魚。

 筋肉がお父さんの様に逞しかった九十九。筋肉の記憶ばかり出てきて吹き出しそうな気持ちがふっと湧くのが何処か面白かった。

 そんな二人とこれでもう逢う事も無いのだろう。

(――さびしいなあ)

 ふっと。

 寂寥感が静流の全身を包み込んでしまった。

 それは考えてはいけない、思考に挟んではいけない気持ちだったのだろう。気付いた瞬間には二人にもう出会えない。そんな想いがぶわっと翼を広げて存在感を心に示してしまう。

 考えてはいけない未来が脳裏を過った。

 思うのはあの日の事。

 二人と共に街中を散策して、たくさんの楽しい思い出を紡げた事が色鮮やかに冴え渡り、

(――あ、そだ。海……見てないな)

 唯一つの心残りが。

 一個だけ、あの日叶わなかった目的がすっと記憶に舞い降りてきて。

 けど無理か、と少女は諦観の言葉をするりと落とし。

「……ばいばいだな、勇魚。ついでに九十九」

 静かに、瞼を閉じる。つ、と涙が一筋頬を伝った。

 焔魔堂町静流は交流を育んだ二人にそっと別れの言葉を零したのだった。


「一方的に別れを告げる奴ほど、手酷いバカはいねぇと思うぜ?」


 瞬間、朦朧としかけた意識が括目する。

 今、聞えた、声は、誰だ――!?

 次の瞬間には怒涛が舞い起こっていた。

 まずは耳元で長徳の「なに――」と言う切迫した声が響くと同時に彼の身体に激しい衝撃が伝搬した。その勢いが男の体躯を勢いよく跳ね飛ばす。ゴッ! と言う雄々しい音が鳴り響くと同時に男の腕から零れた静流の体躯が宙を舞う。

 何が――起こったのか。

 廻り起こる事態に静流の脳は慌てふためく。動乱する思考が事態を把握しようと動きはじめようとしたところで――彼女の身体は暑苦しい筋肉にぽすっと収まった。逞しい、父親の様な両腕が彼女の体躯を容易く抱っこする。

 力強く、触れるものを安心させる様な逞しい腕が自分を守ってくれている。

 月明かりを背後にした青年がからかう様な声を上げた。暗がりで顔は見えない。

 けれど、その表情はきっと温かく人を元気づける笑みなのだと静流は理解している。

「へっ。何だよ静流どうしたよ。ちっこいナリだったのに、何かデカくなってんじゃねぇか。筋肉ペチペチのおかげだな」

「……」

 響く青年の声に静流はパチパチと目をしばたかせ――しかし理解してしまった。

 何故ここに彼がいるのかと――そんなのは単純だ。きっとこのバカ街道を走り抜ける筋肉の塊はさも当然の様に自分を案じて追いかけてきたのだと。

 だが不思議でならない。どうしてこの場所がわかったのか?

「何で、ここに……?」

「俺じゃねーよ。勇魚だ」

「勇魚が……?」

「はい」

 声のする方へ目を向けた。

 大和撫子の様な少女――佐伯勇魚。大好きな姉の様な少女が目尻に涙を浮かべながら――微かな怒気を滲ませて、同時に心配そうな表情を浮かべて立っていた。

「勇魚……なんでここが」

「何でここがじゃありませんよ。私も一緒に聴いてたんですから、場所を把握してるに決まってるじゃないですか……」

呆れた様に少女は零す。

(言われてみれば……! 盲点だったぞ……!)

 確かに良く考えると――考えると本当に、あの日、場所に関しては三人一緒に聴いているのだ。単独で姿をくらましても、最終到達地点が一緒なのだから、落ち合うのが道理。

「なんだ……あたし、猛烈に恥ずかしくなってきたぞ……!」

 所詮、思考は子供である。そこに頭が回らなかったのだ。

 だが静流はまだいい。問題は……、

「肝心なのはむしろ、不知火君が場所を知らなかった事なんですがっ」

「フ、たまにゃー、そんな事もあるさ。ボヤの消し忘れって奴だ」

「度忘れですよね?」

 九十九が場所を覚えていないまま『静流ー! どこいったー!』と駆けずり回らんとした事だろう。あれは参った。よもや、場所を忘れていようとは……と勇魚は九十九の頭の出来に時折、頭を抱える羽目に陥ったのだ。

 だがそれは今はいい。

 大切なのは、

「静流ちゃんは後でお説教です」

「勇魚……」

 厳しい顔をする勇魚に萎縮する静流。

「まったく。一人で勝手に何処へ行っちゃうんですかって話ですよ静流ちゃん。夜中に急に置手紙とか普通に焦るし、心配するんですからね? そもそも女の子が、静流ちゃんみたいな幼い子が街中を一人で移動してこんな端っこの海岸沿い付近まで来ちゃって最早どうやってこんなところまでこれたんですかと詰問したいくらいですよ。ただ手紙だけ残して静流ちゃんがどうにかなったら私の後悔半端無い事になっちゃうんですからね、わかってるんですか? それもご丁寧にこんなに傷だらけで負傷していて……静流ちゃんはそんなに私を心配させたいんですか、不安に駆らせたいんですか、反抗期なんですか、かまってかまってなんですか?」

 怒気が、滲みでていた。背後に不動明王が『怒ってるけど心配してんだからな!』とプラカードを掲げている。

 静流は「うう」と申し訳なさそうに呻いた後に、

「……ごめんなさい」

 と、小さく零した。

「許しませんよ。こんな無茶な事をして」

「ター……」

 静流がしょぼんとする。

「……本当に許しません。こんなに心配させたんですから当然です」

「ター……」

 間近で静流の二次被害に怒気を浴びる九十九がしょぼんと怯えた。

「不知火君がその声で怯えられるとシュールなので止めてください……」

「ひでぇ!」

「ともかくです。静流ちゃん。ここまでずっと一緒にきたんです――最後の最後まで、この一件は私にも関わりがあるんですから……共にいさせてもらいますよ?」

「勇魚……」

「ああ、そうだぜ、静流。昨日の筋肉は今日の筋肉って言うだろ?」

「筋トレの事か?」

 相変わらず九十九は良く分からない。

「察せよ。俺もテメェの力になってやるってんだ!」

 静流の為に。勇魚の為に。

 二人の少女の為に――不知火九十九は此処に雄々しく立つのだ。

「さーて、空気読んでおまっとさんな宝戒寺……だっけ?」

「当たりだ。だがせめてさん付けはしろ目上だぞ」

 しゃらん、と錫杖を鳴らし、微かに腹部を抑える長徳が嘆息交じりにそう発した。

「さん付けなんざ、敵対するアンタにつけたかねぇよ」

「礼節のなってない奴め」

「生憎と礼節はあんま必要とされてこなかったもんでな。基本、筋肉なのよ俺の家」

「それはまた滑稽な家柄だな」

 目元を微かに厳しくさせた長徳は冷淡に吐き捨てる。

「どういうつもりだ?」

「どうって言うと?」

「何故、子ぎつねを追ってきた。来なければ、平穏にお前達は過ごせたぞ。関わらなければ、ここで私と矛を交える必要はない」

「仕方ねぇのさ」

 九十九は短くそう告げる。

「アンタの目的と俺の目的が真逆にぶつかりあった。目的地が同じだってのに反対側からな。そうすりゃもう喧嘩しかねぇだろ。競争して取り合うっきゃねぇだろう」

「……摂理だな」

 夜空を仰ぎ、溜息を零すと同時に長徳はそう述べた。

「なら、わかんだろ? 俺は静流をお前らに、聖僧院に渡さない。だが、お前らが奪いに来るって以上は拳と拳のぶつけ合いになるってもんだ」

「野蛮な――とは、口が裂けても言えんな。言う資格がない」

 だがわかっているのだな、と長徳は眼光鋭く光らせて告げる。

「この私に歯向かう以上は容赦はせんぞ。我が法力をもって、お前に人知を越えた力と言うものを学ばせてやる。そして二度と、歯向かう気概など起きぬ程に徹底的に――!」

 長徳の全身から覇気が溢れだした。

 ゆらめく法力が境内に荘厳な威圧を齎してゆく。勇魚がグッと言葉を詰まらせる。長徳の法力はそこまで巨大なものではない。だが、それ以上に彼の怒気が凄烈だった。

 御仏に歯向かう敵を容赦しないと――告げる様に、その破壊僧は構えている。

 そんな男を前に。

 不知火九十九は。

 徐に首元から何かを取り出した。

 それを首から外して、傍にいる勇魚へ放り投げる。

「佐伯。持っておいてくれ」

「え……?」

 何を、と思いながら勇魚は手に取る。

 手の中のそれを一瞥すると――それは勾玉だった。古びたものだ。だが不思議と錆びてはいない。勾玉はネックレスとして古代使用されたものだが……。

(何で不知火君、こんなものを……!?)

 そう――勇魚が疑問を抱く。

 ネックレスとかガラでは無いとかそう言う話ではあるが、それ以上に、これは――。

 そんな彼女の表情を見て九十九は小さく笑みを浮かべて、

「ま、心配すんな。全部すぐわかるさ」

 己が拳と拳を勢いよく突き合わせた。ガン! と拳から勇ましい音が奏でられる。

 武骨な音を響かせて――不知火九十九は燃え盛る。

「一つ」

 長徳は反面、冷え切った声で尋ねかけた。

「一つ、訊こうか。何故、妖狐を助けようとする? 利でもあるのか。はたまた幼女愛好家とかいう話なのか。――目的は、なんだ?」

「目的? そうさな――まあ、あるとすりゃあ……」

 九十九はニッと快活な笑顔を浮かべて、

「あのちっこい奴には、まだ海を見せてねぇからな」

「……は?」

 長徳が意味が解らないとばかりに眉を潜める中――静流は勇魚に抱き抱えられながら口元を小さく綻ばせた。海が見たい――と言う自分の願いを九十九は叶えようとしてくれていた事実に何とも言えず嬉しさがこみあげてくる。

 ――九十九は馬鹿だ――うん、バカだ。バカだな。バカだなあ……。

 可笑しさと一緒に心地よさがこみあげてきて。

 静流はその男の背中に右腕を振り上げて大声を上げる。

「任せた。やっちゃえ、九十九」

「任された。猛るぜ――俺のマッスルがッ!」

 少女の声援に男は応える。

 九十九が雄叫びを上げると同時に彼の愛用する執事服が隆起する筋肉により張り裂け、四方八方へ絹の切れ端が飛び散った。火山の様に灼熱する筋肉。ここへ辿り着くまでに浮かんだ汗が銀光を灯らせ、彼の肉体を熱気と共に輝かせた。

「大層な筋肉だな」

 長徳は錫杖をぐるんと回す。

「だが、その質量では重りにしかなるまいよ――そして、子が大人に噛みつく愚かさを。いいや、妖魔に絆される無意味さを。その全身に叩き込んでやる! 二度と、妖魔と言う邪悪にかどわかされぬ様にな――大人足る私がその身に教え込んでやろう!」

「言ってろ! 教えなんてもんは、大人に教わる事じゃなく、知らず教えられるものだって事を頭でっかちなテメェに見せてやんぜ!」

 そして両者の怒号は轟いた。

 雷鳴の如き雄叫びが。

 噴火の如き雄叫びが。

 真夜中の境内に轟々と響き渡る――それはまさしく戦乱の炎雷であった。


        8


 許せない事など、世の中にはたくさんある。

 許さない事は、世の中にはきっとそれ以上に存在する。

 そしてその二つが噛み合った時――人は本当の意味で、心の底から逆鱗を露わとする。

 その言葉を訊いて。その暴言を耳にして。

 弦巻日向の鼓動は沸騰していた。

「――ふざ、けるなし……ッ!」

 これほどの侮蔑を訊いて。

 ここまでの女卑を耳にして。

 何故、自分は床に倒れ伏している?

 無様に。醜く。成す術も無く。

 ただ、この男の蛮行を見過ごす木石の如く倒れ伏しているのか?

 言葉の吐けない、行動を起こせない、木石では無いのにも関わらずだ。

 彼女(エリカ)を護りたいと言う豪語を放った。

 彼女(エリカ)の為に頑張りたいと言う想いで此処に参じた。

 彼女(エリカ)と明日も笑顔で――あの温もりに飛びつきたくて。

 あの優しい女性に触れて、たくさんの気持ちを知りたいから。

 そこで不意に何かが産声を上げた。

(……何で、こんなにエリカさん中心なんだろ、ボク……)

 この局面だと言うのに、思わずポカンとしてしまう。

 新橋エリカと言う一人の少女をどうして自分はこんなにも思考に入れているのか。この暴漢を止めたいと言う気持ちは無論ある。犠牲になった女性たちを悼む気持ちもちゃんとある。これ以上の被害を出したくないと言う純粋な正義感もだ。

 だが、それらとは別――いや、別枠であると同時に最重要の様に弦巻日向は新橋エリカの安全を本当に第一に考えている――違う、考えたいと心がざわめいている。何よりも、彼女(エリカ)の事を一番に、思考がそう叫んでいた。

 嗚呼――そうだ。

 そうだとも。

 難しく考える必要などどこにも無かった。ただ純粋に日向は――、

「彼女の、とこへ、なんか、行かせるわけ、ないし……!」

 本心が。本音が。本当が――心臓を爆走させてゆく。

 鼓動が旋律を奏で、感情が楽譜を描いてゆく。

 ――それは少年が、長い時間の彼方でようやく芽吹かせた想いだった。



「……バカなっ……」

 そこで、初めて。

 マクシミリアーノの驚愕する声が聞えた。男が目を見開き、日向を見据えている。ありえない、と揺れる瞳で呟いていた。

(――限界を。とうに限界を超えているはずだ。負傷、感電、なによりも出血多量――それだけの傷を帯びてなお、立ち上がる。立ち上がれるはずが――、いや、そもそも!)

「死に絶えるでございましょう、それ以上動けば……!」

 目に見えた死が迫っている。

 あれだけの傷を負って尚も立ち上がる――否、立ち塞がる。その心中、度胸、気概の全てにマクシミリアーノは感動すら覚える程だ。これほどの負傷を負って尚、立ち上がれると言うのは最早、狂人の領域である。

 精神論――精神が肉体を凌駕したとしか言えない。

 それほどに日向の身体はズタボロになっているはずなのだ。それでも不屈の闘志で立ち上がる姿は蛮勇を飛び抜けた――勇壮さを放っている。

 待つのは破滅。それを本人が理解していないはずはない。

 死を覚悟した上での再燃だ。それも、先程までよりも、より爛々と燃え盛った炎を抱きながら彼は再び戦いを決意している。

「死ぬの、なんか、絶対――嫌だし」

「……」

 俯く少年の口元が震えた。

「死ぬのも殺すのも絶対、嫌だし。ボクが死ぬのも、貴方が死ぬのも、どっちも絶対に嫌な事だし……」

 けれど、と少年は口にする。

「そんな矜持を越えるくらいに……嫌な事が、今、あった」

 彼女を。

 新橋エリカをそこまで低く見られて。新橋エリカにそんな暴虐を働こうとする姿勢を見て。

 怒りを覚えないわけがない。

 だから、絶対にこの男を彼女の前へ行かせない。

「貴方を止める。なにより、エリカさんに絶対にこんな怖いおもいなんか、めぐり合わせたくないし……! ボクもまた……絶対に、生き延びて、やるし……!」

「――!」

 理解する。

(この少年……まだ諦めていない! 屈していない! 折れていないのか! ここまで満身創痍になってもなおッ!)

 驚愕に眉間を歪ませた。

 自分が死ぬかもしれない場面で未だ、マクシミリアーノを殺す覚悟で止めに来るわけではなく、あくまで確保を、生け捕りを目的としている。これほどに追い詰められてもまだ。そしてこの負傷を帯びた上でもまだ。極め付けには、その状態で事を成し遂げんとする上で、死ぬ気はないと大言壮語を吐き出す気合い――!

 そして。

 次の瞬間に。マクシミリアーノは全身が怖気立つのを理解する。



 それは今更に芽吹いたわけではない。

 とっくに萌芽は心に生まれていた。

 生まれていたと言う状態すら飛躍しながら。

 芽などではなく、その気持ちはすでに満開に花開いているのだから。

 一度も知らない感情だったから、わからなかっただけで――わかってしまえば何という事は無い程に単純で、純粋な想いだったのだ。

 問題なのは、その花が一輪では無いと言う事。

 大輪の花が咲いたと言うだけでは済まない事。

 花が芽吹けば、その種子が零れ、また新たな花を咲かせる様に。

 その想いだけは穢れる事も無く純真無垢に――荒野となっていた少年の心には。

 大輪の花でも、一輪の花でも、満たされる事など無かった。

 不毛の大地に、荒廃した大地にでも、花は咲く様に。

 今までの人生で疲弊してきた心に咲く想いは荒野に咲き誇っているのだから。

 曰く――、その花は痩せた土地にも、枯れ果てた荒野にも、その鮮やかな色を咲かせる程に忍耐強い花として知られている。

 だからきっと。

 弦巻日向の恋心には。


 ――辺り一面を彩ってしまうくらいに最愛の花(こいごころ)が咲き誇っていた。


 そしてその花畑は、まだ。

 莫大な大地の一角にしか過ぎない程に――想いは止め処なく咲き誇らんと待ち望んでいる。それが少年の無垢なる恋心だったのだから。

 待ち侘びた極彩色の世界が――やっと、来た。

 今。

 世界は輝いてゆく。



 崩れそうになる足を気合と根性と見栄でどうにか踏み止まらせる。

 ふらつく体を気概で抑え込み。

 朦朧とする頭を溢れ出る気持ちで何処か嬉しげにすらハッキリとさせた。


「なんだ、簡単だったし――ボク、エリカさん好きってだけ、大好きってだけ、だったし」


 バカだなあ、とくしゃりと柳眉を潜めて、可笑しそうに、嬉しそうに日向は微笑む。

 その気持ちの理由が知りたいなんて、難しい事を並べる必要は無かった。

 知らなかった感情に名前はついた。カチリと歯車が噛み合った事で曖昧と、漠然としかわからないままでいた感情が明確に色を帯びてゆく。澄んだ色合いが日向の心を静謐に染めて、ゆったりと微睡む様に広がってゆく。

 否定する理由も無い程に、彼女(エリカ)の色へと。

 そこまで理解して日向は僅かに黙考した。

 ならば、今こうして兇漢に立ち向かうのは果たして何の為なのかと。

 エリカの事を慮る気持ちの為か。

 それとも、エリカの事を他の誰かに渡したくないと言う独占欲によるものなのか。

 ――恐らくは、どっちもだ。

 どっちもであり、更に色々な感情が混じり合っているに違いない。

 エリカの為であり、自分の為でもあるのだろう。

 難しい感情が複雑怪奇に混ざり合おうとしてゆくのを日向は理解する。

 そして理解したからこそ――難しい事を考えるのを全部放り投げた。

(そんなややこしいのはどうでもいいし)

 日向はそう――エリカにまた逢いたいのだ。

 逢って、たくさん触れ合いたい。抱き着きたい。たくさん甘えたい。すりすりしたい。ぎゅってしたい。思う存分にエリカの温もりを堪能したい、独占したい――そんな想いがぽろぽろと心に生まれて花開いてゆく。

 死にたくない。

 また明日も。

 エリカと笑顔で、彼女の名前を呼び掛けて、自分の名前を呼んでほしい。

(だから)

 ゴチャゴチャ考えている必要は無く、ついでに時間も今はない。

 少なくとも――日向が今、至るべき結論は一つなのだから。

 逞しく咲き誇る花に惚れた。恋い焦がれている。欲している。

 その輝きと匂いが愛おしくてたまらないから。

 花畑の匂いに陶酔したくてたまらないのだから。

「陽だまりで、笑顔でいて欲しい。その為に――」

 さあ。

 花に恋焦がれる獣になろう。

 奥手な姿勢などいりはしない。事無かれ主義など御免被る。草食なんてもってのほか。肉食でなければ彼女の様な絶世の美少女に振り向いてなどもらえない。

 雄々しく偉大な獣へと。

 その身が邪と言われようとも生き抜く頑固な獣へと。

 獲物に絡みつき放さない獣へと。

 想いに身を焦がす獣になろう。

 彼女を護れる様な守護獣へ。

 小難しい理屈など必要ない。

 ただ純粋に――想いを貫く、自らの本能で光り輝く獣になりたい。

「今の貴方に醜悪な毒牙なんて、絶対に、へし折るし」

 ここで立ち塞がれなければ。

 この局面で牙を剥けれなければ。

 好きな女の子に非道を犯そうとする男の歩みを止められなければ。

 弦巻日向は自分自身を断じて許さない。

 その為ならば――、

「なんにだって、なってやるし……!」

 その時。

 日向の血流が戦火に彩られ――青い輝きが体躯を迸った。

 毛根が唸りを体現する様にぶわりと三倍近く突如として伸び、体に垂れ下がってゆく。

 そして少年は――面を上げて、敵対者を睨みつける。



 男の胸中に怖気が疾走した。

 おおよそ感じた事のない程に奇異な悪寒。恐怖ではなく、怯えでもない。殺気立っていると形容するのも憚られる――眼下の少年の雰囲気は正しくそれだった。殺気立っているわけではなく、あくまで純粋な清涼な闘気――それが何故だか鮮烈に恐ろしい。

 何故ならば彼はこの局面に於いても、まだ殺気を微塵も抱いていないから。

 ここまでの経過を見れば、どこか一つで確実に殺気立ってくる場面があったはずなのに少年はそれが無かった。徹頭徹尾、自らを阻まんとする精神を見せながらも、殺そうとする怒気は微塵も見せずにここまできている。

 それが何とも不可思議で不可解だ。

 これではまるで。

 目の前の少年の姿勢はさながら――、

「なんにだって、なってやるし……!」

 そこで。

 俯いていた少年が荘厳なまでの輝きと共に面を上げ、マクシミリアーノの瞳を己が瞳で射抜いた。

「――なっ」

 顔を上げた少年の面貌にマクシミリアーノは驚愕を零す。

 厳密には、その眼。

 皓々と輝く青の瞳――瞳が輝いていると言うだけでも、確かに驚きに値する。しかし、それ以上に驚きを禁じ得ないのは瞳に映るその眼だった。

 紺碧の網膜は色艶やかなままでに、しかし瞳孔は縦長のスリット状へと変貌を遂げている。その眼は男を毅然と見定め、男の心を射竦めさせるかの様ですらあった。

 まるで何かを語りかけるかの様に――、

(何だ――この少年は……! 瞳が……! それに髪も伸びて……!?)

 ズザ、と自然、右足が後ずさりした。

 化外――そんな言葉が脳裏を過る。立ち塞がる少年の凄烈にして清涼な空気を前に全身が何か不思議な警鐘を打ち鳴らしているのを理解する。それが何なのかは漠然としてわからない。だがしかし目の前にする存在の威圧感――いや、威圧なのだろうか? もっと別の何かと感じる心が大きい。

 わからない。

 だが一言言えるのは間違いなく、眼前の少年が普通では無いという事だ。

 普通では無い、それが脳髄に警報を鳴らしている。わからない、だが眼前の少年を仕留めろ、殺せ、打倒せと叫んでいる様だ。それはさながら異形の怪物に遭遇した人間の危機察知、本能が警鐘を鳴らしている。

 眼前の少年は化け物だと――、

(――バカな)

 その警鐘全てを、一笑に付す。

 マクシミリアーノの胸中に込み上げるある感情により、男は狂乱の面貌に毅然とした感情を織り交ぜた。多くを語る必要はない。口にする理由は無い。

 だが、強姦魔足る男は溢れ出る礼節を持って、拳を振りかぶった。

「さらばでございましょう――少年」



 眼前に巨腕が迫る。

 男の掌。獰猛な男の腕が命を摘まんと迫りくる。その一撃で確実に自分は今度こそ、大地に崩れ伏すだろう。――だが、そんなのは認めない。

「――ッッ!」

 咆哮を発した。

 怒髪の様に青髪がぞわっと逆立って獣の威嚇の様に顕現する。

 そして少年の牙は剥かれた。

 先に待つのは破滅――勝利も敗北も共に待つのは破滅しかないだろう。

 だが、それでも。

 生きる。と、奮い立たせて日向は獣の如く食らいつかんと――、


「――みゃふんっ!?」


 ――しようとしたところで、額をぶつけて勢いよく後ろに転がった。

 後方に勢いよく転がった日向は背中の痛みもそうだが、ぶつけたおでこの衝撃に不可解さを抱いて「が、がううう……!?」と、おでこをすりすりして涙目交じりに視線を向ける。

 すると、敵対者マクシミリアーノも同様に不思議そうな顔を浮かべていた。

 振るった剛腕が焼かれた様に薄い白煙を立ち昇らせている。

 つまり。この不自然な現象は両者に通じていると言う事実。

「な、何が……?」

 眼をしばたかせて日向は茫然と周囲を見渡した。

 何かが起こっている。自分の理解を越えた何かが。

 それは、唐突にして暗闇を払い除け、姿を現した。

「あらあら、その子の方にもぶつかっちゃいましたか」

 鈴を転がす様に雅な声音が響く。

 カツン、カツン、と言う靴の音が一定のリズムで心地よく暗闇に反響する。

「寸前で――その上、その子ときたら後先顧みない勢いだったので、急いで張っちゃっう羽目になってしまいましたからね。――まあ、でも、それくらいは御愛嬌かしら」

 悪戯成功♪ と、言う様な軽やかさで、その声の主は二人の元へ近づいてくる。

 厳密には――日向の元へ、

「何にせよ、そんな全身全霊を振り絞り過ぎるスタンスはまだ(・・)危険ですよ? 少なくとも今の(・・)貴方だと大変な目に遭ってしまいますからね」

 けれど、と何処か声に嬉しそうな色を滲ませて、

「ユウマ君と同じで――あの子の為に、そこまで本気で頑張ってくれたと言うのは素直に嬉しいものですから大目にみましょうか」

 ふわりと素敵な声を弾ませながら、

「後は、あの子の周辺が今後大変、尚且つ、面白そう楽しそうになると言う意味でも、素敵な事だと思いますしね♪」

 暗がりから、その女性は姿を現した。

 ロングの茶髪を静かにたなびかる女性はスレンダーながらもスタイル抜群であり豊満な胸元に、細くくびれた腰のラインと言う出る場所は出て、引っ込むところは引っ込んでいると言う神に愛された様な体躯の持ち主であった。そんな魅力的な肢体を包む衣装は――メイド服。高級感に溢れる、装飾過多ではない、機能性を重視しながらも故に高い質感を発しているメイド衣装に身を纏った一人の女性が躍り出る。

 誰だろうか。

 しかし、既知感に苛まされる。

 その見目麗しい容貌に聴き慣れた綺麗な声に良く似た声音。なにより鮮やかなブラウンヘアーが心をざわつかせた。しかし脳裏に過る少女よりも雰囲気が違っている。

 そんな女性がカツン、カツンと靴音を響かせて座り込む日向の顔を前かがみになってそっと覗きこんできた。

「――」

 香るストロベリーの様な甘酸っぱい匂いと、過った美しさに日向は世界が停止したかの様に感じる程だ。しかし世界は停止などせず、彼を刹那置き去りにして時を進んでゆく。

 女性が静かに、そして僅かに謝罪する様な声を奏でた。

「……酷い怪我ですね。やはり、もう少し早く駆け付けるべきでしたか……」

 いえ、と微かに首を振って、

「でも、もう大丈夫ですよ」

 その声の主は柔らかい笑顔を浮かべてにっこりと日向に笑い掛けた。

 安心してくださいね、と言う優しい言葉が鼓膜を叩く。

 同時に。


 ――。


 何かが脳裏を掠めた。幼い頃の何かが歓喜の声を上げながら、過っていった。

「……お姉ちゃん……?」

「はい?」

 無意識に零れ落ちた様な日向の言葉を拾った女性はクスリと微笑し「どうかしたんですか?」と可笑しそうな笑みを浮かべながら静かに立ち上がる。

 同時に、雲が途切れたのか月明かりが微かに暗がりを差して、女性の体躯を静謐に翳した。

「……あ……」

 女性の声音、女性の面貌を見た少年は理解する。


 それは一人のメイドだった。


 しかし、ただのメイドではない。少なくとも、その面貌を、美貌を、間近で見た日向は体中を真っ赤にし、顔は特に赤みを帯びて「わうっ!?」と、赤面して茫然となってしまう。

 ブロンドにも負けない様な明るみを帯びた綺麗な茶髪。

 その茶髪に彩られる女性の面立ちは女神の様に美しく――、同時に日向の脳裏に一人の美少女を連想させた。恋心全てを覆い尽くしてしまう様な懸想する少女の笑顔を思い出す。

「……頑張りましたね」

 ぺたりと膝を折る日向の額を綺麗な掌がそっと撫でた。

「けど頑張り過ぎるのは今はまだいけませんよ。それ以上やってしまうと、体が大変でしょうからね」

 女性は労わる様に綺麗な声を発して、日向の頭を軽くくしゃりと撫でる。

 その手の温もりが触れた瞬間、唐突に満ち溢れていた力が雲散し急速に体から力が抜けて疲労感が溢れ出す。だが、同時に込み上げるのは、安らぎだった。憧憬が溢れ出す様に、気付けば日向の眦からは零れ落ちる様に雫が落ち、その胸中には洪水の様に激流する安心感が自己を呑み込んでいくかの様だ。

 女性の温もりはそれほどに――心温まるものだった。

挿絵(By みてみん)

「ふふ」

 そんな日向を一瞥し、女性はコロコロと可笑しそうに、そして微笑ましそうに笑みを浮かべて彼の前へと躍り出る。

「あう……おねーさん、何を……?」

 その行動の意味が理解出来ず日向はぼやける双眸をこすって問い掛けた。

 ふわりと広がるエプロンドレス。メイド服を身に纏い、日向を庇う様に彼へ背を向ける女性は眼前の強姦魔に対して「貴方ですね、ムンジュイックさんと言う方は」と醸し出される余裕のある態度と共に尋ねかけた。

 余裕と言うよりも落ち着いた物腰が成せる仕草。日向にはそう感じられた。

 だがこの男相手にそれは大丈夫なのか、と日向が不安に駆られる中で、

「そう言う貴方は――何者でしょうかな? 私には些か――超越した気配が感じられて他ならないのでございましょうが」

 マクシミリアーノは畏怖する様に拳を構えた。

 まるで強大な存在を相手取るかの様な空気を滲ませて。その空気をメイド衣装に身を包む女性に一切の誇張も無く向けている事実に日向は内心驚嘆する。

 大袈裟ね、とばかりに女性は顔を綻ばせた。

「いえいえ。そんな御大層なものじゃありませんって」

 朗らかに。

 彼女は明るい微笑を浮かべながら、玲瓏足る声でこう告げた。

「――なんてことない、ただの通りすがりのメイドさんですよ♪」




第九章 前篇:きっとそれは、花園へ至る想い

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