第八章 後篇:人よ、怪物よ、開戦の号砲鳴らせ ★挿絵あり
第八章 後篇:人よ、怪物よ、開戦の号砲鳴らせ
1
ゴールデンウィーク。連休最終日の夜は静穏に終わろうとしていた。
「――ふぅ」
新橋家。エリカは自室にてばふっと自らのベットに横たわった。すでにお風呂上りな為、彼女はパジャマに着替え終えており、眠る準備は万端である。毎朝ランニングを欠かさない少女は健康的に早寝早起きの習慣がついていた。
しかし本日は連休最後の夜。いつもより数日長かった休みも終わりと言う事もあって、少女はこの日少しばかり色々と物思いに耽る心地にある。ちらりと一瞥したカレンダー。火曜日である事を認識すれば「明日からまた学校ねー」と明るい声で小さく零す。
学院では委員長も務める様に、彼女は真面目な性格もあり学院での日々は楽しい日々を過ごしている。学校は楽しい。そう思える彼女だからこそ休み明けが楽しみでもあった。
「……学校に行けば、アイツとまた逢うわけよね」
そんな学校を理想的に楽しむ少女が何やらこそばゆそうにポツリと零す。
脳裏に映るのは一人の少年。少年と言うには女の子の様で、そのくせ自分に対してどすけべと言うかくっつきたがって仕方ない、懐いてきてしょうがないと言う同級生――弦巻日向を思い起こす。
日曜日に初めてのデートを経験し、初めて抱き着かれたりしまくってる異性で、自分に対して好意的な発言連発して、何かあれば真っ赤になって好意を爆発させまくると言うのに肝心な事に気付いていないぶん殊更性質が悪いと言うエリカにとって悩みの種――恥ずかしかったりする気持ちを容赦なく噴出させてくれる厄介すぎるくらいに素直な少年の事を脳裏に浮かべてしまうのは、それを経験した者として至極当然と言えた。
あの日に体験した出来事は今思い起こしても気恥ずかしくなる始末だ。
「あーもうっ」
エリカは顔を朱色に染めて傍に転がる黒猫のぬいぐるみを抱き寄せて上気した頬を隠す様にして鬱憤じみた感情を発露させた。
「思い起こしても恥ずかしいわね、ホント。あのバカ、デート中好きとか大好きとか言い過ぎだし、抱き着いてすりすりしてくるし、わんこかってのっ! その上、頬にキスまで……」
そこまで言ったところでエリカは思わず頬に手を触れる。
未だにキスされた感触が頬に残っていて熱を微かに残している様な感覚に捕らわれるので本当に厄介極まりない少年である。一六年間生きてきて、キス以前に色恋に経験が無いエリカにとってあの好意の寄せられぶりはキャパシティオーバー寸前レベルであった。
「どうしよ……面と向かって話すの凄いはずいんだけど」
日向に好意を寄せていると言う事はない。
だがあれだけ存在を心に残されて気にならないと言う程に鈍感でもない。
「なにより、絶対アイツ休み明けはもっとわんわんになって甘えてくる気がするし……!」
一番問題なのは向こうが自分に逢ってどんな反応を示すかだった。
別れ際、自分の頬にキスまでしたがってきたと言う事は多分と言うかおそらくというか日向の中で自分の存在が少し大きくなってしまったのではないかという想像だ。
(何て言うかはじめと終わりで違った気がすんのよね……。でもそんな好意アップさせるような事、したかしらね私? いや、そりゃ間接キスとかする形になったりしたけど……! そもそも別に女の子らしくもない私がどうしてこんな……!)
好きになられているんだろう? とは、恥ずかしくて思考に挟めなかった。
エリカは真っ赤な顔を振り払う様にぶんぶん頭を振って熱を冷ます。
「あー、もういいや。明日は明日で頑張るもん。寝よ、寝よっ」
考えていても始まらない。
むしろ考えていたら泥沼に嵌るみたいに恥ずかしい気持ちのオンパレードだ。メリットがなくデメリットが多すぎるのである。こういう時は寝るに限る。
だと言うのにそんな時に限ってエリカの携帯電話が着信を鳴らした。
メールではなく通話だ。
「……こんな遅くに誰よ?」
とはいえエリカが早寝なだけであり、遅すぎると言う程では無い。
エリカは携帯電話を手に取りタッチパネルを確認した。
そこに記されている名前は『弦巻日向』とかあった。渦中の人物である。エリカが「なんなのかしらね、アイツは。私が恥ずかしくなってるタイミングでとか、狙ってんのかしらね」と赤い顔で怒気を滲ませた。
しかし電話に出ないと言うのも悪いだろう。こんな時間にかけてきたのだから、なにかしら理由があるのは間違いない。
「もしもし、私だけど」
通話をオンにして耳にかざす。
すると電話越しに聞き慣れた男の子にしては高い声が耳に心地よく響く。相変わらず声が綺麗なのよね、とエリカはふとそう思った。
「あ、エリカさんですー♪」
その声が好意が凄い感じられる声でなければ、もっと声音に余裕を持てる。そう心から思うエリカである。エリカは微妙に頬を染めながらも、恥じらいを隠す様に声に棘を持たせてみたりしてしまう。
「ん、そうだけどっ。何か用っ?」
「何かエリカさんつっけんどんですー」
「寝るとこにかかってきたからかしらね」
「あ、そーなんですか? ごめんなさい……! ――でも、つっけんどんなエリカさんもかわいーなあ、やっぱり……」
「……」
携帯電話はいけないかもしれない。
エリカはこの時そう思った。高性能さが音を余さず拾うものだから、日向が発した小声の感想までもれなく耳に『はいどーぞ!』とばかりに寄越してくる。訊かせる気のない発言なのが明確にわかってしまうぶん、エリカは思わず頬を赤く染めてコホンと一度咳払いした。
「べ、別に怒ってはないから安心しなさいねっ」
「ほんとーですかっ♪」
「ん、ほんとーよ」
「えへへー♪」
「嬉しそうな声出さないの」
「うー、でもうれしーです」
「はいはい。で、要件は何なのよ? かけてきたんだし、何か用あるんでしょ?」
「あ、はい、そーなんです……!」
エリカの言葉にぴょこぴょことした反応を示す日向がそこで微かに真剣みを帯びた声に切り替わった。さて、何があったのだろうか。
(……特に何かあったとかは無いわよね? 学院関係で思い浮かぶのは休み中の課題くらいだけど、コイツ課題はちゃんと頑張る奴だし)
じゃあ何か事件みたいなことでもあったのだろうか、と訝しむ。日向はどうにも不運体質なので何かしら面倒事に――という線も濃厚だ。だがそれにしては、声が明るい。そうエリカが思っている最中に帰ってきた彼の答えは、
「えと、その……エリカさんの声聞きたかったから電話しちゃって……!」
エリカが即座に無言になった。
日向の「うー……!」と言う恥じらいながらも物欲しくて仕方ないみたいな唸り声を耳にしながらエリカの顔は下からサーッと朱色に染まっていき、頂点まで真っ赤に染まったところで沸騰した。
「ば、バカっ! どんな理由でかけてきてんのよ、このバカわんこはっ! もうっ!」
エリカは夜中だが、堪え切れず大きめの声音で彼に返答する。
日向が「うわわっ」と、慌てた声が聞えた後に、
「うー……だって、エリカさん恋しーんだもん……」
「こ、恋しいとか変な事言わないのっ!」
「でも、エリカさんの声聞きたくて仕方なかったんですもん……かけるのダメでしたか……?」
「だ、ダメじゃないけどね。そんなこっぱずかしい理由でかけるなバカっ!」
「は、恥ずかしい理由でしたか? うー……確かに、寂しくてかけちゃうみたいで子供みたいかなーって思いはしたんですけど……」
「そ、それもあるかもだけどね? それとは別に……!」
「別に?」
「何でも無いわよバカッ!」
「なんでですかぁ!?」
電話越しの日向が「エリカさん、エリカさん、今なんで怒られたんですかー?」と一生懸命尋ねかけてくるが「自分で気づきなさいバカ!」とエリカは真っ赤な顔でつっけんどんと返すばかりである。
「わかんないですー」
「ふんだっ」
小首を傾げる様な声にエリカはそっぽむいて恥じらいを隠す。
「とにかく、声聞きたかったんなら、もう訊けたでしょ? 電話切っていい?」
「ヤですー。もう少しお話してたいです、エリカさん」
「ヤー、じゃないの。私もう寝るんだから。ただでさえ暑かったってのに、更に熱い羽目になるとかシャレになんないわよ、もう……!」
「? 今日そんな暑い夜じゃないですよ?」
「! ふ、風呂上りだからってだけよ!」
「お風呂上り……」
「そ、そう。それだけなんだからね熱いのは」
エリカは悟られまいと丁度いい理由で日向の意識を逸らそうと必死になる。
だがそれが悪手だった。
「うー……」
「……どうかしたの?」
何処か辛そうな声にエリカは不思議そうな声を発する。
「エリカさん、エリカさん」
「何よ?」
と、言いながらこの発言と返答の流れに何やら既知感を抱いてエリカは呟いた後に何やら嫌な予感を感じ取った。
「エリカさんのお風呂上りの姿、想像しちゃって何か今体があっついですよぅ……!」
「ちょまっ!?」
エリカの体温が更に跳ね上がる!
「ば、バカ! 何エッチな想像してんのよ、どすけべ!?」
「だって……エリカさんが湯上りの光景想像しちゃったんですもん……! エリカさん、スタイルいいし、髪の毛綺麗だから湯上り綺麗そうだなーって……!」
「そ、想像しないのっ! っていうかそれを私に素直に言う奴がいるか!」
エリカは頭を振って火照った頬をどうにか冷やそうと頑張った。ついでに手を扇代わりに軽くぱたぱたさせて対応する。
想像は――まあ男子なのだから仕方ないとしても、それを包み隠さず相手に話す。
その素直さが本当に厄介極まりなくて、その対象が何となく自分オンリーになってる気がしてエリカは真っ赤になって「想像止め! とっとと振り払いなさい!」と日向に指令を下すのだが「うー……」と何とも困った反応が返ってくるばかり。
「と、とにかくエッチな妄想は程々にしときなさいよバカっ。も、もう切るからね?」
こうなれば通話を切る他に路は無い。そう思い切ろうとするのだが、そこで日向が「あ、ま、待ってください!」と懸命な声を上げるものだからエリカは赤い頬を手で抑えつつも「……何よ?」と返答を返す。
「その……お願いがあるんですけど」
「お願い?」
「はい」
「……まあ、訊くだけなら訊いてあげるけど、無理な内容ならダメだからね?」
「それでいーです。ありがとーございますエリカさんっ♪」
「はいはい。それでなにかしら?」
「えと、ですね」
その……、と日向は恥ずかしそうにしながらも呟いた。
「……今日みたいに明日から……時々、こーしてエリカさんが寝る前に、電話かけてお話してもらったりしても、いーでしょうか……?」
どこか切実とした響きのお願い。
そんな印象を何故だか抱きながらエリカは、頬を軽く染めながら、
「……それがお願い?」
「はいっ」
「寝る前に電話相手になってほしいわけ?」
「少しの間でいーんですけど……その、エリカさんの声聞きたくて。電話だとエリカさんの声凄く近くて嬉しいから……その……!」
「だ、だから変な事言わないのっ」
「変な事じゃないもん。ボクにとって凄く重要な事だもん」
「微妙に拗ねないの、もう」
通話越しの日向に対してエリカは思わず優しい苦笑を浮かべてそう返す。どこか拗ねた様な可愛らしい響きに何やら可笑しくなってエリカは小さく微笑を浮かべた。けれどすぐに意味を理解して頬を真っ赤に染めて内心呟く。
(あーもー。本当、甘えんぼなんだからなあ、このバカときたら……)
自分と話をするのに、そんなに一生懸命になられるとどうにも気恥ずかしくてたまらない。本当にしょうがない奴ね、と何とも言えずエリカは頬を朱に染めた。
「……ま。別にいいわよ」
「え……」
日向の歓喜に満ちた声に対してエリカは先を続けて話す。
「頻繁には流石にアレだけど二日に一回とか、そんな程度の頻度ならさして苦でもないし、時間も手間じゃないから、かけてきてもいいわよ」
「ほんとーですかっ?」
「ほんとーだから安心しなさい」
「凄くうれしーです」
電話越しの相手が凄くほわぁっとしたのがエリカには良く分かった。
「そ、ならどういたしまして。じゃ、要件は終わりね。そろそろ切るわよ」
「はいです♪」
日向が嬉しそうな声を上げた事に何となく心が温かく感じながらエリカは通話を切ろうとした時に、不意に思い出した事があり「あ、そうそう」と声を発した。
「どーかしましたか?」
「ああ、うん。一応ね。アンタ知ってるっけ? そろそろ体育祭の時期迫ってるから、多分体育の練習とか始まるわよーって事なんだけど」
「あ、そーでしたか。へー、楽しみですー♪」
「ええ。けど、そんな楽しみなの?」
「はい! 身体動かすの好きですし、それに」
「それに?」
「その……体育だと、運動するエリカさん見れるの好きなんです。エリカさん活き活きしてて溌溂としててキラキラしてるから凄く見惚れちゃうんです、好きなんです」
「……」
エリカは顔を真っ赤にさせて頬を軽く掻きながら、
「……だから、そんなにジーって見てないのバカっ」
と、恥じらいながらそう零した。
日向が運動している自分にそんな印象を抱いているのは知っている。体育の時間にも散々熱烈な視線で見られているのだから気付かないわけがない。しかし、運動している時をそう評価されると何ともこそばゆくて反応にも困ってしまう。
「ま、まあ、そう言う事だから休み明け頑張りなさいよ、アンタも」
「はい♪ でもエリカさんも見てたいです」
「……見なくていいわよ、私は!? ジーって見てて気を抜き過ぎたら怒るからね!?」
「はいですー♪」
「わかってんのかしらね、このバカは……!」
「?」
「ああもう、ホントにこのバカわんこときたら……!」
エリカはいい加減熱でも発作しそうな程に体が熱くなってきたので「と・に・か・く!」とハッキリ言い放って、
「休み明け、また学校でね、弦巻。休み明けだからって遅刻しないようにしなさいよ?」
「わかりましたー♪」
「ん、連休ボケしないようにね」
「はい! 今日はお話してくれてありがとーございます♪ おやすみなさいですー♪」
「はいはい。アンタも早く寝なさいね。おやすみ」
そう言ってエリカは通話を終了させる――と、しようとした時にふと日向が声を発した。
「はい♪ エリカさん、エリカさん」
「ん? 何よ?」
「大好きですっ♪」
「――ッ」
容赦なくブツンと通話を遮断した。
最後に聞こえてきた終わりの言葉がよりにもよって『大好き』で。しかも声に凄い感情が詰まっていたのをエリカは理解出来てしまったが故に反射的に通話を切った。そして途絶えた画面を見据えた後にたまらず、ぼふんっ! と、顔を赤くして怒気を滲ませる。
「だから……人が恥ずかしくなる発言ばっかり本気で何度も言うなバカッ!」
その言葉を最後にエリカは電気を消してベットに潜り込んで必死に眠気を招き入れる。
(寝れるわよ……動揺なんかこれっぽっちもしてないしっ。すぐ眠れるしっ)
明日に学校が控える前日。よりによってその時に限ってかかってきた電話の内容にエリカは一人毛布にくるまれながら、もんもんとしつつ。
そうして新橋エリカの休日は一先ず幕を下ろしたのであった。
心臓の音を本人の意識とは裏腹にバクンバクンと高鳴らせながら――。
2
「はぅう……ひどい目に遭いました」
佐伯勇魚はすっかりのぼせた頭がようやく落ち着いてきたところで、先の出来事を思い浮かべて何とも言えぬ羞恥から頬を朱に染めながら不知火家邸宅の長い廊下を歩いていた。
用意して貰った自室へ帰る途中で、先程までは熱を冷ますべくバルコニーで軽く微風に吹かれていたのである。静流は「部屋にもどる」と言って先にすたすた行ってしまったので、早く部屋に戻ってあげたいところである。勇魚は頬の熱を仄かに残しながらも、自室へ向かって歩き進めていく。
「にしても驚きました……まさかあんな堂々と来るだなんて……」
何度思い返しても驚愕の一言である光景。
同年代の少年が包み隠さず真っ裸で入ってくるなど勇魚の人生では経験した事のない光景だったのは言うまでもない。幼い頃にはありはしたが、流石に年頃でそんな経験はない。特に発育が良かった彼女としては相当初期に男子とは関わりが薄くなっている。
そんな勇魚だからこそ、九十九の筋骨隆々とした男らしい肉体美は何とも見ていられない気恥ずかしさになったのだった。
(それにしても……矢矧さんが言うには不知火君は一般常識が欠けている部分が多いと言っていましたが……)
――それにしたって、アレほどなのだろうか?
幾分そう思う勇魚である。年頃の、同年代の少女が入る風呂へ気負わず入るなどとは一般常識が欠けるうんぬん以前に、
(そもそも女の子として意識されてたのかな、アレ……)
異性として認識されているのか。そこから疑問に思うくらい九十九は堂々としていた。
いっそあれが演技で女子と混浴する為の仮面ならば一周廻って感心すら覚えるが、当然のごとく不知火九十九にそう言った様子は見受けられない。
感じる気配はといい九十九は本当に、
「不思議……ううん、不可思議ですよね、不知火君て」
「おう、何がだ?」
「いえ、何というかその精神性が――」
そこまで言い掛けたところで勇魚はぎょっと目を大きく見開いて飛びのいた。
「し、不知火君!?」
「おうよ。何かあったん?」
「い、いえ、そんな別に何もないですよっ!」
「そうか? ならいいけどよ!」
ニッと快活に笑んでそう返答する九十九は相変わらずある意味少年的な男である。
そしてやはりというか悪気や悪意は一切感じられない。ともすれば完全に本人気にしていないと言う事なのか。
(……それはそれで女の子として複雑です)
別に九十九に好かれたいとか言う意識は無いが、それでも少女のプライドはズタズタにやられた感があった。何と言うべきか、最低限のラインを土足で踏み躙られたというべきか。
「まあ、いいや。それよか広間来ね? 美味いすいーつがあるぜ!」
「スイーツ、ですか?」
それはまた何と言うか九十九から一番縁遠い言葉に感じられてしまう勇魚だった。
彼が『焼肉食べね?』と言う方がまだしっくりくる。
「いや、大した事じゃねぇんだけど持って来てくれたからよ! 喰おうかなってさ」
ああなるほど、と得心がいった。
どうやら誰かが訪れた際にお土産でも置いていったのだろう。
「へぇ、そうなんですか? おすそ分け……ではないですよね。お土産でしょうか?」
この不知火家は完全に周囲と比べて独立しているし、おすそ分けと言う印象はあまりない。とすれば来賓が持ってきたお土産の方が正解だろう。
「おう。さっき昔からの知り合い奴が、なんだけどな。美味い杏仁豆腐持ってきてくれたらしくてよ!」
「へぇ、それはありがたいお話ですね」
勇魚は嬉しそうに綻んで答える。
彼女も杏仁豆腐は大好物なのでもってきてくれたと言うのは実に嬉しい話だ。
「なー。そんで一緒に食ってけば良かったのによ」
「……あれ? もうお帰りになったんですか?」
「ああ。不思議な話でな。初めはそう……顔に妙に赤みを帯びてたんで、てっきり普段みたく何かこう怒ってんのかなってビクビクしてたんだがいやに笑顔を浮かべながら『九十九。この杏仁豆腐美味しいですから食べませんか』って優しく言ってきたから杞憂かねーって思ったわけなんだよ。で、受け取った家に招いて、んで佐伯も呼んでくるわーって言った辺りで」
「言った辺りで?」
「何か怖くなった」
「怖く?」
「おう、佐伯の事に関して笑顔浮かべながらやけに聞いてくるもんだからよ。まあお前に迷惑かけない程度に濁して説明したんだわ」
「ああ、それはありがとうございます不知火君」
勇魚としてもあまり勘繰られるのは嫌なので九十九の差配に素直に感謝する。
しかし、その感謝も次の一言で瓦解した。
「――さっき一緒に風呂入って熱い想いを交わし合った仲だってな!」
「ぶふぉっ!?」
勇魚は思わず喉の奥から羞恥に彩られた感情が噴出された。
(い、言い方が! 言い方がもっと他にありますよね不知火君! 確かに大まかにはそんな感じでしたけど、そ、その言い方は何だか卑猥と言うか破廉恥というか……!?)
正直そんな免疫のない勇魚にとって九十九の妙にねじまがった表現に思わず真っ赤に染まり、同時にそんな発言が他人に向けられたと言う事案に羞恥で真っ赤に茹で上がっていく。
しかし流石は不知火九十九。気にしないも同然で話を進めていく。
「そんでよー。それ言ったらアイツ『え、え、……え? お、お風呂? 九十九が他の女の子とお風呂……?』って何かそこだけ妙に反芻した後に『ばーか、ばーか、九十九のばーかっ!』とか散々罵倒撒き散らしながら、去ってったんだよな。いやあ、相変わらず時々よくわからんぜあの幼馴染」
(そりゃよくわからなくもなりますよ、そんな不埒な事態! 私がそうですよ!?)
勇魚は「うぁぁ、うぁぁ、何ですか何なんですかどうしてそんな事になってるんですか変な子って思わたかもしれないですぅ」と真っ赤になって身悶える。
「何か大変そうだな、佐伯も」
「誰のせいですかぁ……!」
涙交じりにぼやく勇魚。
妙な形で伝染しただろう話をどうすればいいのか頭痛がしてきそうになる。
妙な議題に対して勇魚の脳内がオーバーヒートしかけそうになるのだが、幸運にも次いで不意に九十九が口にした疑問のおかげで羞恥の暴走がピタリと病んだ。
「ところでなんだけど佐伯。風呂場でさっきは詳しく訊けなかったんだが」
「は、はい……今度はなんでしょうか?」
「いや疑問に思っちゃいたんだが……何で静流は狙われてんだ?」
静流が狙われる理由。それが九十九には漠然としていてわからなかった。
「それは……私も多少疑問視している事なんです」
勇魚も先程までの恥じらいを潜めて途端に神妙な表情へと切り替わる。
「妖魔の中でも静流ちゃんは妖狐の類です。妖狐が世間一般に人気が高い様にコレクターが動くと言う可能性や、毛皮収集家が依頼する可能性はあります。特に月狐と言う名称を持つ、上弦狐の一族である静流ちゃんはそこそこレアです。里を下りてきませんからね、あまり」
「へぇ、そうなんか?」
「はい。妖狐姿は真っ白な綺麗な狐になるはずですから」
ただ、と勇魚は疑問を浮かべる。
「それ止まりなはずなんですよね。何も一族郎党皆殺しなんて暴挙に及ぶまでの事はないのではないか、と思いますから……。無論、聖僧院が語った様に妖魔皆殺しが目的ならば、それで終わりなのですが、それにしたって……」
確かに、と九十九も訝しむ。
なにせ妖魔の数は八百万なのだから。それを九十九は知っている。それを言い出せば撲滅なんていうのはおそらく人間を滅ぼしきるのの次に難しいくらいだろう。動物皆殺しを行おうとする暴挙、途方もない手間と時間。一言で言えば出来るわけがない。
だが、した。
何故そんな愚挙を犯す必要があったというのか。上弦狐を襲った理由は漠然としていて見えてこない。ただの快楽殺人の様なものなのか。それにしたってどこか釈然としないままである。そこまで考えて考えが行き詰った九十九は面倒くさそうに頭をかきむしる。
難しい事を考えるのはどうにも苦手なのだ。
しかし、それでも考えを停止してはいけない時があるのも真理だ。
「不知火君」
「何だ?」
「私ね。静流ちゃんの事、大事に思ってるんですよね。それは多分――妹が出来るなら、ああいう子が素敵かなーっていう我儘も含んだ大切と言う感情なんでしょうけれど。でも、あの子の境遇を知るからこそ、ひどい目には遭って欲しくないんです」
そして守りたい、と彼女は小さく呟いた。
「だから――勝手なお願いですけれど助けてください不知火君。お礼何て返せるものは、ありませんが、どうかお願いします。静流ちゃんの事――助けてあげてください」
九十九の隣で佐伯勇魚は頭を下げる。
そもそも、巻き添えでもなく巻き込んだでもなく、庇護下にある現状。不知火九十九は関わらずとも良かったはずの事件なのだ。それでも彼は寝床を用意してくれて、度々自分達に優しさを向けてくれている。恩義は十分――これ以上は欲張りだ。
だとしても、願わずにはいられない。彼の力強さに。
「頭上げろって、はじーな」
九十九は照れ笑いする様な笑みを浮かべた。
「言われなくたってやったらぁ! 静流は守るさ。俺の益荒男道がアイツを守らず見捨てるなんて道は許さないって言ってっからな!」
「不知火君……」
優しい青年だ、と心からそう思う。
こうしてただ爽快な程に心地よい返答を返してくれる清々しさはそうそうない、と。感激の心地で勇魚は小さく微笑みながら「ありがとうございます」と謝礼を発した。
「ハッ、どんな輩だろうが、相手してやんぜ!」
グッと力瘤を際立たせながら不知火九十九はそう断言する。
「けどまあ、とにかく今は杏仁喰おうぜ! 折角もらったしよ!」
「そうですね♪ ……あ、でも。あの、……その知人さんはいいんですか?」
「いや、いんじゃね? 昔から時々そんな感じだったし」
「は、はぁ……」
九十九の特に気にした風も無い態度に勇魚はそれ以上言えず小さく嘆息を浮かべた。
「んじゃ、数あるしよ。佐伯は悪いんだけど静流のやつ呼んできてくれね?」
「あ、はい。わかりました」
話題は一旦終了させ、折角なので杏仁をご賞味と言う形に行きつき、勇魚は柔和な笑みを浮かべながら静流を呼びに部屋へと早足気味に歩いて行く。そんな後ろ姿を見守りながら、九十九は「さて、杏仁の皿の準備くれーしますかね」と声を発したところで、
「アレと絡むのは、ほどほどにしておけ愚息」
瞬時にその重圧的な声は響いてきた。九十九の背筋に怖気が刹那ぞわっと立つも、すぐに収まり、代わりに冷や汗一つ頬を伝わせながら九十九は問い掛けた。
「――急に話しかけてきてなんだよ、親父?」
声の在り処は後方の曲り通路。影に隠れた部分である。
そこに一人の姿があった。影に隠れる形で容姿の判別が難しいが、その巨大な身長と、赤く爛々と輝く双眸は間違えるはずもなく、九十九の父親――不知火崇雲であった。
声の主、崇雲は微かに嘆息を吐いた後、厳かに呟いた。
「急にではない。初めから、だ」
「抽象的でわかりづれぇ」
「抽象も何もない。お前とて理解はしているはずだ」
その言葉に九十九は詰まる。
理解はしている――その通りだ。わかっている。父親が言いたい事など重々承知の上と言う話だ。
「関わるのはほどほどにしておけ。お前は唯一を得るべく不知火に生き、百点を叩きだす。それだけがお前の生涯だ。あんなものに関わるのは徒労。時間の無駄だろう」
相変わらずの情け容赦もない言動。変わらぬ父親の言葉に九十九は微かに肩をすくめる。
「時間の無駄かなんて俺が決めるぜ、親父。関わるって決めた以上はな」
「フン、くだらん時間を過ごしおって。その暇があるならば修行に励め」
「日夜励んでるっつーの」
九十九は上腕二頭筋をぐっと盛り上げてそう断言する。
「足らんな。――圧倒的なまでに筋肉が足りておらん」
対して崇雲も同じ行動をとった。その瞬間に九十九の額からは冷や汗が伝い、顔が強張る。その光景に思わず歯噛みし「……化けモンかよ」と声が零れる。
「何を今更」
「へ、一応尊敬してんだぜ、親父の事はさ」
「ならばさっさと強さを極めろ愚息」
「へいへい」
額の汗をぐっと拭いつつ九十九は虚勢を張ってそう返す。
「……修行って言えば親父」
「なんだ」
「アイツはどうなったんだ?」
修行と聞いて思い出したこと。それをふと気にした九十九は小さくそう尋ねかけた。
対する崇雲は僅かに表情を歪ませ舌打ちを放った。
「アレは失敗作だ。愚かしい。アレがあんな愚挙に及ばねば数多に至れたと言うのに嘆かわしい限りだ。もう修練は積ませていない。失敗作に時間はかけられん。余所に流した」
「おいおい……アイツはアンタや俺の」
「情で強さは得られん。何より使えぬ道具はガラクタに過ぎん」
九十九は何とも言えない様子で深いため息を発する。
「貴様はアレの様な醜態は晒すな。以上だ」
だがそんな九十九の様子は気にも留めず、ただ端的にそれだけを言って不知火崇雲はすっとその姿を消していった。後に残るのは静寂のみ。その中で九十九はぐっと拳を握りしめる。
「なんだかな……本当おかしな家だっての不知火家は」
この家が普通と違っているのは重々承知。
全ての根幹が何であるかはわかっているが、それ故に何とも複雑な心地になる。先程問い掛けた相手が今はどうしているのか、気にならないと言えば嘘になる。だが不知火に生きる九十九も不知火である以上――、
「ガー、難しい事考えてもわかるかッ」
そこまで考えたところで煩わしそうに九十九は頭髪をわしゃわしゃかき乱す。
とにかく杏仁だ。
杏仁豆腐だ。
知人が持ってきてくれた甘味でも頬張って気分転換といきたいところ。
そこまで考えたところで何やら駆け足気味に一人の少女がやってきた。
「しら……っ、しらぬ、いくん……!」
「佐伯? どしたんだ、そんな息切らせて?」
荒く呼吸を繰り返し胸元に手を当てて呼吸を整える勇魚。明らかに焦燥している様子に九十九は不思議そうな表情を浮かべて返す。対する勇魚は自分の膝に手を置きながら呼吸をどうにか整えながら、一枚の紙を九十九に手渡した。
それを渡された瞬間に九十九は猛烈な嫌な予感に駆られながらも確認しないわけにはいかず即座にそのくしゃくしゃになった紙を広げて中を一瞥する。
そこにはこう記されていた。
『たびにでる。さがさないでいーぞ。えんまどーちょーしずる。ぴぃえす? ありがとな』
全部ひらがなで記された置手紙。『ぴぃえす』の意味は九十九にもわからなかった。だが、しかしその文面から内容はすぐさま察する事が出来る。
「静流……あんのバカ……!」
静流は一人で消えたのだ。
何の為に? 答えは一つだろう。
聖僧院の輩と自分一人で決着をつける為に――二人の元を去ったのだ。
某所。辺りもすっかり宵闇に染まった時刻。
その少女――静流は一人疾走していた。妖魔としての利点を活かした早く滑らかな足運びで夜の街を駆けて行く。まずはなるべく遠くへと。二人が追い付いてこれぬ様に全力疾走して少女は一人孤独に染まる。
「ありがとな、つくも。ありがと、いさな」
ぽつりと少女は感謝の言葉を二人に向けて発露した。
自らの一族が全滅の憂き目にあって、途方に暮れていた自分を尼僧である勇魚は優しい姉の様に助けてくれて、そんな勇魚と自分を九十九は頼もしい力で守ってくれた。しかし、そんな二人をも脅威に晒す破戒僧が現れた。
何故、上弦狐の一族がこんなにも非道に晒されねばならないのか。
それは静流には幼すぎてわかった話では無い。
一族が理不尽に殺された恨み辛みは膨れてゆくばかり。自分にもっと力があったのならば、仕返しの一つでもしていただろうか。
だが、それは最早取り返しのつかない過去だ。
今、静流が求めるものは二人の安全。お世話になった二人があんな厄介な連中の危険にさらされない事だけである。その為には自分は不要。彼らは関係ない存在。
「静流は頑張るからな、ふたりとも」
故に歯向かえ、一対一の正々堂々。
死地へ赴くは一人で十分。これが焔魔堂町静流の戦いならば。
「殺されになんかいかない。静流が二人を守るから――」
その気合を以て静流は駆けた。
その気迫が見せているのか、少女の体躯は仄かな銀白色の光を零し始める。満たされていく自らの力を想いと寄り添わせて、孤独な少女は天に誓う。
そんな少女を見守る様に、見送る様に、夜空には静かな片割れ月が浮かんでいた。
3
横浜西洋高校校門前。
休日中、夜間と言う事もありその場所はシンと静けさが漂う静謐な空気が満ちていた。
だがそれにしたってどこか異様。静けさと言っても人の声が近くに反響すらしていないと言うのは如何に学校近隣とはいえ静かに過ぎるというものだ。それは果たして何故なのか。知るものからすれば自明の理。知らぬ者からすれば不明の理なのは至極当然。答えはこの付近一帯に少々にして異様な代物が張り巡らされているからだ。通常ではなく異常が漂っているからに他ならない。
「静かなもんですのね」
そんな空間に僅かにイントネーションに違和感がある口調の一人の少女――鷹架理枝が静けさを払拭する様に口火を切った。
「当然です。現在この周囲一帯には空間付随精神系統の結界が巡らされている様ですから。人が近寄りにくい、何となく近づいてはならない、と言う形式の代物です。気付かなくては自然通りかかる事すらありません。私どもの様に事前に相手を把握し、目的が明確な場合こそ、今の様にこの場所に赴いていますが」
理枝の言葉に相槌打って説明を加えたのは彼女の側近、川蝉だ。
彼女の存在はピシッと決まった黒のスーツを着こなして実に怜悧な空気を醸し出し、空気を程よく締め上げてくれている。
「天魔って凄いんだなー!」
「当然ですよ、弓削日比君。聖書、伝承に悪魔とされ存在し続ける者達ですからね。ですが結界としては弱い部類ですね」
「え、そーなんすか?」
「ええ。強い結界では別の輩に気付かれやすい為に、あえて大した程では無い術式にすませているのかと思いますが」
「なるほど」
再度その強さを認識する様に弓削日比朧は実に明るく相槌打った。
「……」
さて、そんな朧の朗らかさとは真逆に休屋連は全身をびくびく震わせて、周囲をきょときょと見渡しながらその両腕には一本の金属バットを握り緊めていた。昼に購入した一本二千円のバットである。それを持つのは日常に置いてある種力強さを演出するはずだが、肝心の持ち主の蒼褪めた表情は彼の余裕の無さを如実に物語っていた。
「れーんきゅ、そんな怯えなくても平気だって、多分」
「た、たぶんだろ? たぶんじゃねぇんだよ絶対がいいんだよ、くれよぜったい!」
連は気軽にそんな事を零す朧に対して悲鳴じみた怒声を放った後に急速に頭を抱えて蹲り始めた。そしてぶつくさ呪詛の様な言葉を吐きはじめる。
「あ、ああああ、あああああああああああ……ありえねぇって、なにこれ、しんじらんねぇよ、うそだろ冗談って言えよ、洒落になんねぇええええ……。俺普通だよ? 一般人だよ? 関係ない無辜の民だぜ? 守られるべき保護対象だろ、ねぇよ、こんなの。勇者じゃねぇんだからどうしてこんな怖い事に挑まなくちゃいけねぇんだよ本当。冗談とかじゃないのかよマジで。こんな場所にガチで連れ出すとかおかしいって。戦力外通告大好きマジ好き、誰か言ってくれよ諦めるからさあ。どうして一発あんな化け物攻撃しないといけないんだよ、そんなの土台無理だろ、あの化け物に攻撃入れるとか酔狂通り越して発狂してんじゃねぇのかよホントさぁ……。誰か俺を家に帰してくれよぉ……戦いたくねぇ、いてぇのやだ、死にたくねぇ。どうせ死ぬなら線路に落ちた子供助けて死ぬから、それでいいだろ、な? マジでねぇよ、こんなの」
「グダグダうるさくてよ」
「あだっ」
弱音を弱気発しながら吐き続ける連にいい加減苛立った様で理枝がぽかりと刀剣リベルテの柄で小突いた。連は痛みで呻きながらも涙交じりに理枝を見上げて、
「うっせぇな、お前に何がわかんだよ。俺の気持ちわかってたまるかっ」
と、怒りをあらわにした涙声で告げる。
「半々よ。だけどね、休屋。戦うのが怖いのは仕方ないし、逃げたいのもわかる次第ね。だけど此処で逃げたら貴方は助からない。それは死ぬ事でしてよ?」
「ぐっ……」
連は苦々しげに呻いた。
そうだ。ここで逃げては時間制限がやがてやってきて、彼女の刀剣『必滅覆す回天の剣』の効力は消散し、連の命は事尽きる形となる。
逃げたら死。抗っても死の危険性高い今回の事件。
「踏んだり蹴ったりじゃんかよ……」
「まあ、そこは同情してあげてね」
相変わらず微妙にイントネーションが違和感あるが、そこに指摘する余裕は連にはない。そんな連に肩をすくめつつ、理枝は「お守り程度に」と言ってキラリと光るものを連の手に握らせた後に毅然と告げる。
「だけどアンサーは立ち向かうしかない。これはもう決定事項。逃げても死ぬだけ。なら、腹をくくりなさいな」
「そうだぜ、れんきゅー。なにも三人で立ち向かうわけじゃねぇんだしさ」
「当たり前だろ。前回苦戦しまくってた鷹架だけなら俺だってここに足運ぶ勇気なんてあるわけねぇじゃんか。負け確定だしさ」
「ねぇ、さらりとアタシを弱い認定するの止めていただけて?」
こめかみに怒りマークを浮かべて笑顔を浮かべる理枝。
しかし連としては理枝の強さは何とも心許なかったのだ。確かに宝剣も持っているし強いのだろうが、相手が相手。風の刃を生み出す『リベルテ』に至っても、見事に弾かれていた記憶がある。今回は対天魔の武装を整えているわけだが、それでも三人は不安だ。
だが今は違う。三人だけではない。
「ま、安心しなせぇ、休屋さん」
渋い声が彼の肩に手を置く様な頼もしさで響いてきた。
「此度はあっしも油断はなく、慢心もありゃあしません。必ず、休屋さんの命を救ってみせましょうってなもんでさぁ……」
彼らの後方には合計六名の影があった。
その中の一人。スーツ姿にサングラス、煙草を愛用した顎鬚が伸びた何とも強くて頼り甲斐ありそうな四〇代程の男性がタバコ片手にそう告げる。
雑魚田象平。アークスティア構成員。先遣隊の一名だ。
ダンディと言う言葉がとてもよく似合いそうな風貌で頼もしさは半端無い。それを見れば彼がこの前、一撃でやられたのは何か不運な事故があったに違いないと連に希望を持たせてくれるほどではないか。
「そうだねぇ。しかも今回は雑魚田だけじゃない。スーパーなこの僕。荷負重太郎まで加勢済みだってんだから――敗因、なんてどこにもないっしょ☆ って、話じゃなーい?」
最後キラリンと目元に星を煌めかせる様なポーズで、頼もしい自信を見せたのは若々しくチャラいホスト風の美青年だ。イケメンなのが何とも悔しいがこの際、そこは目を瞑る。助けてくれるなら誰だっていいとばかりに連は「頼んだぜ」と声を発した。
荷負重太郎。雑魚田象平の相棒であるアークスティア構成員の一人だ。
「うひゃぁぁぁ……よ、夜の学校怖い……け、けど頑張らなくちゃ……ファイトだわたしっ」
更にその重太郎の隣には女性が一人。雛子はんぺん。年齢としては大学生を終了させた新社会人程度ではなかろうか。なんとも新鮮味溢れた空気の持ち主であり、容姿は普通だが雰囲気がなんとも小動物じみていて連としては微笑ましいタイプだ。
ただ頼りがいがあるかと言われればそうではなく、むしろ不安を募らせる。こんな奴で大丈夫かよ、と言う気持ちがむくむく湧いてくる感じだ。
「皆がついている。安心するでござそうろう」
だが、そんなはんぺんの弱弱しさ、頼りなさの様なものを拭い去るのが彼女の相棒だろう。つるりとした坊主頭に鷹の様な眼光をしたスーツ姿の男性が一人。西小物座町東市。腕組みしながら悠然と佇む姿にはある種の貫禄が滲み出ている。頼れる大人のオーラがばりばりだ。侍の様な風格漂わせる彼が弱いわけがないと連が一番内心頼りに感じている男性である。
反面、まったく頼り甲斐なさそうと認識しているのがこの男。
「むぬふふふ。夜の学校とはなーんとも、薄気味悪いものですねぇ。だが問題ありましぇんね。ミーが来たからには何を恐れる必要があるのかと逆に問い掛けたいくらいですねぇ、むぬふふふふふふふ」
同じくアークスティア所属メンバーの一人、半出来賄炉。
どう見ても運動には役立ちそうにない贅肉をたっぷり拵えた中年太りの具現化足る男性で戦闘が得意とはとても思えない。そして何故か自信満々なのも腹が立つ気分であり声が何とも嫌な感じで連としては好きになれない男性だ。
そんな賄炉の隣にいる女性は彼のうざったい明るさとは真逆に何故か目元を伏せており、根暗と言うわけではなく会話も明るいので不思議な印象のメンバー、若咲内山葵と言うそうだ。
「慢心が過ぎるとやられるよ。相手は天魔だ」
「むぬふふふ。心配ありがとう、山葵嬢。むぬふぅー、ふぅー、いやぁモテ男ってのは辛いなあ、辛いですなぁ!」
「うざい。すげぇうざい」
しかしこの遣り取りを見ていれば落ち込みたくなるのかもしれない。
どういう訳か、半出来は自分がモテモテだと言う自信を秘めているらしく女性に対しては自信満々だ。その相棒を務めているとなれば、結構面倒臭いのかもしれないと思えてくる。
しかし御覧の通りだ。
加勢六名。総勢十名の小部隊。
大人が七名も連達に味方として登場している。これは窮地に陥っていた連としてみれば願ったり叶ったりの状況である。勝ち目のない戦いと思っていた事態の一変、これは大きい。
「アークスティア日本先遣隊、合計八名」
理枝が川蝉と自分を含めた人数を再度呟く。
「他の場所に於いても天魔の存在が確認された事から、この場所へ集合できるとしては限界ですが、十分でしょうね。皆、集合サンキューね」
その言葉に対して六名が「なに、気にせんでくだせぇ」、「スーパーな僕がスーパーな職務を全うしないわけがないだろう?」、「お嬢様の頼みですし、駆け付けるに決まっていますよ~が、がんばりますねっ」、「人命がかかっているのだし殊更に、な」、「ま。ミーがいる以上は頼りにしてくれていいというものですなーあ」、「私も頑張るよ。お嬢」と口々に意気込みを吐露してくれる。
「日本先遣隊、か」
朧がぽつりとその光景を見ながら呟いた。
日本先遣隊。文字通りアークスティアが送った面子である。どうやら選抜基準は理枝曰く『日本語が堪能であること』と言う事から、日本人及び日本語が話せるものを選出したメンバーらしい。確かに海外組織ならば、言葉の壁をまずどうにかしなくてはならないのだから当然だろう。その為に理枝と一緒に来たのは、日本人構成員が大半となった様だ。
「さて、みんな。まず再確認するけれど、私達の目的は天魔の撃退――それはいいわね? だから皆が頑張ってもらいたいのは退魔術式の時間稼ぎ。力を練り上げる時間と詠唱の為の時間がいるわ。そんなにかからないとは思うけれどね」
「わかってるよ。その術式が天魔には有効打なのは基礎知識だからね。スーパーな僕が忘れるわけがない」
「だが、別に倒してしまっても構わんのでござそうろう?」
「大きく出たわね、西小物座町。けれどそうね。倒せるのなら倒してしまって構わないわ。そこの彼が一発殴れる余裕はいるけれどね」
連はうんうん頷いた。
倒すのはいいが、相手を殴れないままでは連の命が無い。西小物座町は「わかっているでござそうろう」と頼り甲斐のある声で答えてくれた。
「戦闘手段は各々連携を取って被害が少ないようにね。目的はあくまで時間稼ぎ――そして私がトドメを刺すわ。西小物座町の様に打倒せるならそれが最善だけれど、基本はそこを念頭に置いてほしい」
そして、と理枝は一言於いて、
「先程言った様に、他のメンバーは各地に散っている。それも感知できる気配をある程度発してと言う事はまず間違いなく行動を起こしているのよ、今夜に於いてね」
「そ、それが意味する事はつまりその……」
「ええ、そうよ雛子さん。天魔が動いている――明確な目的を抱いてね。私達は、それを是が非にでも止めなくちゃならない」
「なら――」
半出来賄炉がそこに神妙な声で校舎へ顔を向けた。
「向かわんといけなーいねぇ。この学校から立ち上る濃密な天魔の気配へ。善は急げって言うわけだーし、さくっと倒してこないとねーえ」
むぬふふふ、と相変わらずの気持ちの悪い笑い声に連は引くが、それでもそう言ってくれたことは間違いない。
「んじゃ、心決めようぜ連」
「嫌だここいる。見張り番してる」
「見張り番は川蝉さんがするから貴方は邪魔よ」
「何でだよ!」
「通行人が騒ぎに気付いた場合の対応です。休屋君は一矢報いないと存命出来ないのですから、怯えるのはそこまでにして行きなさい」
「嫌だあああああ」
最後まで泣き言を言っていたが連の命がかかっているのだ。
朧がひょいっと肩に抱えると「じにだくねぇ、じにだぐべぇ」と鼻水と唾液を撒き散らしながら駄々をこねるが彼の為だ。朧は心を鬼にして、
「んじゃ、頼みます皆さん。俺の親友の命もかかってんで」
と、決意を秘めた声で後ろの彼らに謝礼を発して、
「ええ、行きましょうか。天魔を退ける――そのために」
鷹架理枝の頼もしい声音を隣に休屋連は悪足掻きを続けながら弓削日比朧に担がれる形で自らの死地へと赴いてゆく。
4
その天魔は一人携帯端末のお笑い動画を鑑賞しながら侵入者に即座に気付いた。
いや、そう言うと語弊がある。気付いてはいた。だが敷地内に入るまで律儀に体育座りして待っていたのである。気付いたと言えば車が近づく時から気付いている。
「いやっふー、やっとカモンだにゃー」
欠伸交じりにそう零す。
ほぼ一日を隔てて襲来した面々に体をほぐす。この場所から離れるな、と言う待機司令を受けていた我が身としては暇を持て余していたところだ。天魔はおそらくやってくるだろうと踏んでいた者達の襲来に歓喜する。
あの少女――鷹架理枝は自分を狙っていた。獲物としてロックオンされ、場所を動いていないと見こされたのならば当然の事。ならばと悠々自適に待っていた。流石に何もないのはつまらないから腹筋や腕立て伏せなどのトレーニングをしつつ、文化の最先端、携帯端末でお笑い動画を視聴すると言う娯楽も楽しみにながら天魔は律儀に待っていたのだ。
「ただまあ、あのボーイまで来たのがワンダフル。いやぁ、命捨てに来たとしか思えないのだが、どういうこっちゃい? 折角生き延びた命でまた来るとか英雄志望なのかな?」
うーむ、と腕組みして天魔は頭を悩ませる。
窓から見た際に担がれていたと言う事は自由意識ではないのだろう。つまり連れてこられた。戦力外にも等しい人物を。それが意味するところはつまり――、
「何らかの理由があった。そう考えるのが妥当かにゃあ。しっかし、ともすれば何だろねい? 要因はおそらく、あの死者蘇生した剣じゃあないかにゃーんて思うけれど」
あれだけの宝剣がノンリスクとは考えづらい。
何らかの条件があるのだろう。それ故に連れてこられた――そう、考えるべきか。
そんな思考を巡らせていた最中、携帯端末が着信音を奏でだす。
「オウノー。めんどくちぇー上司が入電だー。ぽちっとな」
ふざけた様な態度で天魔は仕方なく電話に応じる。
すると何とも厳つい声が聞こえてきた。
「オクゼンフルト。私だが、そちらの首尾は滞りないか?」
「ナッシング!」
「ふざけているのか、殴るぞ」
「オウ、陽気な声で答えたのに怒鳴られた。何と言う不条理だろうか」
「単語一つで即答する奴がいるか。詳細に言え」
「あー、そうだのん。まあ、簡潔に言えば準備万端。時間待ち。ただし邪魔者が十名程度襲来しており排除の必要性あり、楽しそう。これでオッケイ?」
「よかろう。戦を楽しむのもありだ。だが、しかし、本分を怠るな? 戦いに集中していて本題を疎かにする事は許さん」
「任せてケロ」
「ふざけるのも許さん」
「手厳しいにゃあ、堅苦しいなぁ」
ゲラゲラ笑いながら返すと「全く気にした風が無いのだがっ」と言う怒声が滲み出た声が聞こえてくる。だがまあ彼もこういう反応になるのだろう。
都合六名の天魔で織り成す術式――それを起動させる事こそが、今回の遠征の目的の一つであった。もう一つの目的は残念ながら消息不明――昨晩、接触を遂げたものの霧の様に消えてしまった。
(本当、雲隠れの得意なお方って話だな)
内心憤慨と称賛を送りつつも、今はその事は端にでも置いておくべきこと。脳裏を過ったその事を隅に置いて、電話を続けた。
「ま、安心しといていいさ。目的は果たす。ただまあ、こっちがこうだからねえ。こう言っちゃ何だけど――他はどうなんかい?」
「……」
その問い掛けに電話の向こうの主はしばし沈黙を作り、
「同様だ。邪魔者はお前のところだけではない。他の五名の元へも妨害の為の勢力が何かしら、どこからかしら集まっているさ。厄介傍迷惑な限りだ。どこからあんな奴らが出没したのだかよくわからんよ。おかしな事だ、ここ横浜に集う勢力はな」
「ま、でしょな。なんせこっちも『アークスティア』なんていう組織が干渉してる次第だしにゃーん。いやあ、中々に厄介で愉快痛快!」
「言っていろ。苦労するのはお前だ。しかしアークスティアか……」
「おんやぁ、ご存じかにゃん?」
「いや、対しては知らんな。精々天使とコンタクトを取れていると言う組織の中の一つ程度の認識だ。記憶の片隅にある程度だ」
「そですかい」
「何にせよ気を付けておけ。特に対天魔術式にはな。お前の事だ、心配はないと思うが用心は怠るな。私はこれから、スウォンジーに連絡を入れる。切り替えておけ、とな」
「あー、彼女は優しいですからにゃあ」
天魔は納得納得とばかりに首肯を浮かべて、
「まあ甘さは斬り捨てなくちゃいかんですし。重い腰上げた以上は盛大に満喫する限りでしょう。ディスピアを。腹いっぱいに蔓延させてやりますよいってにゃー」
「期待している。では、切るぞ」
「ええ。他の奴らによろしく一報ですなぁ、サーソー隊長。ああ、それと一応コスタルデアの旦那にも適度にと」
「承った」
そこまで言って天魔は通話を終了する。
それでいい。
彼にとっての上司、サーソーとの通話は丁度良い時間つぶしになった。彼と近況を話し終える間に彼らはここ目指してやってきている。
ならば迎えなくてはならないだろう。
主催者として。客人をもてなすのが最大の礼儀と言うものだ。
迫る足音に対して、天魔オクゼンフルトはその巨大な体躯を動かし始めて、居座っていた教室の外へと、四階の廊下へと足を踏み出す。
そして天魔の視界が捉えた人数は合計九名。十名はいたはずだが――と、思ったがどうやら見張りに立っている様で少し残念に思う。だが、これだけの人数がいると言う事に楽しみを覚えよう。
見慣れた少年少女二名。
殺したはずの少年一人。
そして黒服の男女六人。
その誰もが独特の表情をしている。毅然とした表情、陽気そうに見えて奥に秘めた覚悟が滲んでいる表情、恐怖と鼻水でくしゃくしゃに歪んだ表情、憮然としたダンディな表情、自信家の表情、怯えながらも懸命にこの場に立つ表情、シンと静けさのある表情、尊大であり余裕のある表情、頭を垂らしながらもこちらを睨みつけている表情。どれもが独特――しかし、秘めている想いは同様に近しい決意である。
「はろーっす!」
オクゼンフルトは目元から星をパシッと放つくらいの明るい声であいさつした。
途端に眼前のほぼ全員がずっこけた。耐性があったであろう朧と理枝のみ「やっぱり凄い気安さよね……」、「うんうん。予想はしてたからよかったよ」と相槌を打っている。
「な、なんだかわたしの予想と大分違うのですが~っ」
しかしやはりと言うべきか初見では衝撃を受けるらしく、雛子がおずおずと挙手しながら『これでいいの?』と、ばかりに視線で訴えかけてくる。
「いやまあ、ええ、うん……」
理枝が『でしょうね』とばかりに気まずく視線を逸らす中で肝心の天魔は「予想外――それが人生ってもんだぜ、レディ!」と相変わらずの調子で語りかけている始末。
「やれやれ、随分と陽気な天魔な様だね」
「のようでござそうろう」
そんな何とも生温い空気に対して荷負はどこか不敵な嘲笑を浮かべ、西小物座町は視線を厳しくしながらも僅かに緊張感を緩めていた。
「いやあ照れるなあ」
「照れてる場合なのか?」
「いやだって注目されてるし、ハイテンショーンにもなるもんじゃないかにゃーん?」
「なるほどなあ」
「いやいや、弓削日比。貴方も何を天魔と親しげに談笑してるのですかっ」
挙句、朧は天魔と会話を挟む始末。
何とも言えない微妙な空間がそこにはあった。理枝は仕方なく、その空気を張り詰めるべく宝剣リベルテを抜き放つと、天魔に向けて切っ先を向けた。
「――天魔。おわかりかとは存じますが、アタシ達は今日、この場所に貴方を止めるべくやってきたと言う事を理解しておきなさい」
「オッケイ。重々承知の上だよーん。諸君が止めに来る――それを想定出来ないわけはなかったからねぇ。だが、同時に理解は示せよ? 止めに来る――イコール、それは戦いになると言う事を。――まあ、その心積もりの様子、だ、が」
さっと九名を一瞥しながら天魔はそう告ぐ。
事実この場にいるのは全てが戦いに――約一名除くが――激闘を覚悟の上で訪れた者達だ。
良い。実に素晴らしい。
「戦うのかと、問うだけ無粋でしてよ?」
「その通りだろうっさー。いやあ、バトルスピリッツびしびし感じるぜーキャッフウー」
「その余裕。何時まで続けられるのかしらね?」
「その大言。実現する瞬間を今か今かと待ち侘びるとしようか」
その言葉に理枝はぐっと息を詰まらせる。
調子づいた発言ではない。嘲りも無い純粋な渇望――戦闘意欲。自分を驚天動地させてみよ、と言う天魔の猛りが感じられた。
やはり、只者ではない。そう断言しうる天魔だ。
「さて、始める前に一つ尋ねておこうかにゃー?」
「何をでして?」
「なに、端的に――こちらを止める理由についてだなっしー」
「なら、至極単純に返せてよ? 貴方は人を襲っている。実害が出ている。ともすれば、それだけで理由は十分。並びに――何か画策している様ね。更に、此処で何かを求めている。誰かを探していると言うべきかしら?」
「ふうむ、大まかには推察は、出来ているってところかにゃーん」
顎を手で擦りながら天魔はふむふむと唸る様にそう零した。
「だが、具体的には判別出来ていない。そんな感じね、なるほどイエー」
「生憎と材料がありませんので。推定するには不足気味なまま、やってくる羽目になったと恥ずかしながら告げておくわ」
「いや、構わんよん。こちらへの賞賛として受け取っておくわ」
そう背筋を伸ばしながら告げた天魔は「さて」と声を零して。
「――やるかい?」
「当然」
理枝は端的に断言した。
「人に害成す天魔を退治する――それがアークスティアが此度帯びた使命ですもの。果たさずして何としましょうって話じゃない?」
力強い声を発する理枝は即座に後方へ向けて声を発露する。
「全員、臨戦態勢整えなさい! 火花散らすわよ!」
『了解!』
一斉に返ってくる都合六名の配下の言の葉。
それを力強く想いながら理枝は自らの言葉に力を込めた。
「吹き荒れなさい、リベルテ」
宝剣リベルテ。
自らの愛剣として機能する伝家の宝刀。纏いつく風は剣の刃そのものだ。さあいざ疾風のごとくに駆け抜けよう。
「――行」
「おっと、そうそう火蓋を切る前に一つだけ告げておく事があったあった」
そこで不意に天魔が手でポンと叩いて思い出した様に呟いた。
気勢をそがれた理枝が前のめりにこけかけた。
「何よ!」
と怒号を発するのに対して天魔は「割とマジでごめん」としょぼーんとしながら、素直に返すから何だか羞恥が込み上げてきて理枝は「倒す。絶対に倒す」と重ねて呟いていた。
しかし、その反面、天魔は神妙であった。
全員が訝しむ様な視線を向ける静寂の中で、天魔は静かに語り出す。
「折角の舞台――それをやれ『天魔』だ『天魔』だ種族で言われるのも味気ないにゃーって思う次第でがんすのよなあ」
だから、と天魔は口の端をニヤリと吊り上げてこう告げるのだ。
それは古のもののふ達がするかの様な高らかな名乗りと同じもの。
「教えておこうか、我が真名を。我こそは天魔が一疋――ヴァイスハイト=ナガーズ=オクゼンフルトッ! 如何なアンビリバボー精神を魅せてくれるのか心より楽しみにしているが故にッ! 勇猛を背負ってかかってこいやッ!!」
天魔――ヴァイスハイト。
眼前の魔物の名は九名全員の耳に届いた。天魔と言う抽象的な呼び名ではない、奴個人としての名で立ち塞がる。
如何な目的を抱くのか。
如何な理由で抗うのか。
なんら定かでは無い戦いが火蓋を切る。
されど彼らの目的を遂行させるつもりは毛頭なく、九名の肩には今文字通りにこの横浜に於ける人命がかかっているのだと察するが故に、高らかに告げ、高く聳える気迫を持ったこの天魔ヴァイスハイトを前に全員がいざ覇を競いあう。
「さあ夜の校舎で迷惑千万、若気の至りと騒ぎあおうかッ!」
巨体疾駆――!
ズォッ! と、勢いよく伸びる天魔の影が犇めくと同時に、その戦いの火蓋は切って落とされたのであった。
5
その少年――弦巻日向は携帯電話をジッと見つめていた。
表情は火照った様に赤く染まっており、瞳は潤んで、蒸気した頬がよくわかる。例え夜の夕闇に包まれていても、端末が放つ光に晒された表情は恋慕の情を否応なく照らしていた。本人はその事を全く自覚しないままに。
「うー……」
耳に残響する彼の耳が最も好きな音声に日向は思わず切なそうに目を瞑る。耳元でエリカの声が聞こえてくると言うのが予想のはるか上を超えて、日向の心を揺さぶっていた。
「わかんない」
ぽつりと零された疑問符。
「エリカさんの声……、エリカさんと話するの凄く好き。すごく興奮して……何だか身体熱い市……う~~~~……何なんだろう、あっついですー……」
日向は苦しげに、切なそうに、どこか嬉しそうに、様々な感情を滲ませた状態で体を感情にぶるっと震わせた。今まで感じた事のない高揚感。全身を包む多幸多福の彩色に、その理由がわからないままとはいえ、言いようのない幸せを抱いてぎゅっと目を瞑る。
体育座りで顔を埋めながら潤んだ双眸そのままに想いを吐露する。
「エリカさん、好き……、大好きぃ。う~~~~」
そんな言葉しか出てこないのが不思議なものだ。
感じた事無い感情に対して日向は不思議そうに「う~」と唸る。なんなんだろうと小首を傾げる。その感情の根源が何であるのか知りたくてたまらないのに、何であるのか彼は不思議な程にわからないままだった。
だが感情に浸り続けたくて、理由を知りたくて頭を働かせる――そうしつづけようとしたところで日向は突然に、その身体をバッと動かし、即座に思考を切り替えて、暗闇の元へ身を隠す。
突然の行動の理由は何か?
そもそもこの場所はどこか?
何故彼は此処にいるのか?
理由は明快。全ては今、この場所へ戻ってきた男に絞られている。
マクシミリアーノ=ムンジュイック。
大好きな女の子――エリカを毒牙にかけんとする暴漢。その存在をエリカに近づけると言う選択肢は日向にとって有り得ない。すでに出てしまった犠牲者達の被害を知る以上は、そんな憂き目の被害者をエリカもそうだが、これ以上出させるわけにはいかない。
(それで……)
物陰からそっと彼を識別しながら日向は小さく頷いた。
(ここがアジト……って言うか、潜伏先なのは確定みたいですね)
よし、と日向は強く頷いた。
ここ二日程度、日向は彼を追っていた。その際に少数の警察と衝突し逃げおおせる場面を数度目撃した彼はこのままでは難しいと判断し、まずはアジトを見つける事を前提と決めたのだ。結果として潜伏先は発見した。当初、不安視していたのは、ここが一時の宿かどうかと言う事だったが、こうして度々戻ってくると言う事は間違いなくここが潜伏先なのだろう。
場所は新橋家の所在地から少し遠くに離れた場所に存在する廃墟である。元々何かの会社が入っていたであろうコンクリート製一階建ての建造物だ。
(夜になれば帰ってくるかな、って思ってましたが……正解みたいです)
ならば準備は万端だ。後は彼が就寝さえすれば事前の予測で連絡を予め入れておいた警察がこの場所の確認に訪れる形となるはずだ。後はなるべく多めの戦力がいるだろうが、度々逃がしている警察の事だ。大勢を連れてくる事は確実だろう。
そうすれば後は一網打尽。
何事も無く恙無く達成を祈る日向である。
しかし――現実は非常だ。
それ以上に日向と言う少年は運気に恵まれない。
(あれ……?)
目視するマクシミリアーノは眠る様子を見せなかった。いや、むしろ――、
『よいせ、と。では、彼女を出迎える為に、赴かないといけませんでございましょうねぇ』
そう、喜色に富んだ笑みを零しながら手荷物をまとめ始める姿が、そこにはあった。
どういう事か、と日向が狼狽する。
――荷造り?
マクシミリアーノの行動は明らかにそれだ。元より荷物と呼べるようなものなどバックに詰め込んで終わり程度の量だが、確実に彼は荷造りしている。設置されていた置物も回収し、壁に貼り付けていた写真も回収していると言う事は。それの意味するところはつまり。
――ここを離れるつもりだ……!
間違いない。拠点として定めていた場所を後にすると言う事だろう。おそらくは別の場所に新たに拠点を構える為の行動と言う事。日向は焦る。拠点を動かれるのは拙い。
(警察が間に合わないですッ! 拙い。拙い拙い拙いっ!)
本来であれば警察の到着を待つのが最善策であった。
マクシミリアーノ。日向が戦地で生きた感覚から言って、彼は何か危うい印象を受けている。同時に何とも危険なのだ。戦地を経験したからこそ、わかる。彼は――、
「さてさて、そろそろ顔を出してみては如何ですかな?」
その言葉を訊いた瞬間に日向は身の毛がよだつのを感じた。
「いやぁ、隠れていても無駄ですぞ? ここ何日か、僅かに気配は感じておりましたからな。実に微々たるもの。中々気配を消すのは上手と言うものでございましょう」
いやしかし! と、彼は声のトーンを上げて、
「されど稚拙ッ! 熟練とまでの評価は投げられますまい。人より少し気配を消すのが上手い程度と言ったもの。未熟と言う領域からは脱していられない様でございましょう。まあ多少人と言うには異質な気配なもので感知が時折、曖昧ではありましたがね」
何やらよくわからない事を言っていたがそれを試行する余裕は今の日向には皆無だった。
此処に――此処に日向以外の気配は無い。
あるのは日向とマクシミリアーノの両名のみ。とするならば、マクシミリアーノは確実に、ほぼ確定的に自分を定めているのだろう。ならば隠れている意味は無い。バレた以上は逃走か、はたまた相対かの二つに限られる。
そして日向に逃走は無い。
逃走をしたならば、おそらく彼は見逃すだろう。場所を変えると言う行動を起こす以上ここに価値は無く、彼もまた小物に時間を取る意味も無い。日向は確実に見下しの元に逃走を許される。別段、そうなる事は構わない。下に見られた程度で逃げないと言う選択肢を選ばないと言うわけはない。
しかし、日向は逃げる気は無かった。
彼の目的を察するが故に、逃げると言う選択肢は自身の心意気が許し得ない。
おそらく――おそらくはと言う形で、日向は自分の結末を察している。
だが、だからと言って弦巻日向は背を向け、声を押し殺し、絡み合いそうになる逃げ足を晒すつもりは毛頭ない。この局面で逃げ出す事は、それが意味する事は、弦巻日向は理解するが故に及び腰は曝そうとも、逃げ腰に至るつもりは一切ない。
見つかっている。掴まっている。ならば後は心を決めるしか道は無いのだから。
深呼吸をただ一度。脳裏に浮かぶ幸福な情景。
おおよそ幸せと言うものを経験した記憶は数える程度。
その中でも、人生に於いてもっとも色鮮やかな虹色の記憶。極彩色に輝く心を持った彼女の事を耽美に脳裏は思いだす。
日向の心はそれで十分満たされてゆく。
――頑張ろう。
いざ魂に刻んだ、ただ一言の、言の葉を胸に秘め、少年は震える手をぐっと握り緊めながら面貌には気概を込めて、おどろおどろしき囚人の前へと姿を現した。
「ほほう」
囚人マクシミリアーノは何処か感嘆の吐息を洩らす。
「刹那、刹那、これはまた見目麗しい美少女であると誤認しかけましたなぁ」
「むっ。女顔で悪かったですね」
「ニョホホホホ、言われるのは御嫌なご様子でございますな。しかし難しいかと思いますよ? 貴方の風貌は、こう言ってはアレですがほとんど女性だ。体つきまで見紛いそうになったほどですからな」
彼の一言に日向は思わず恐怖とは別に拗ねた感想を抱いてしまう。
だが言う通り――弦巻日向は女顔だ。それ以上に線が細く華奢。声も高く、声変わりしても低い声になる気配は無く、幼少期からそれでいじめにあった経験もある。体躯に至っては、男子と言うよりもほぼ女子である事を気にはしているくらいだ。否定要素は皆無である。
「けど、その割には僕を男子って見ているみたいですね?」
「それは当然。如何に美少女の如き男であろうと、男は男。女装で取り繕いましょうが、生物の根幹、性別に対する拒絶など無粋の一言。例えどれだけ自分は女だ、自分は男だと取り繕いましょうが、女は女、男は男。そこは不動でございましょう。そして私の様な強姦魔足るもの、喰らうは子女のみ。男の興味の一言もありませぬ――と言うものでございましょう」
物凄く複雑な感情を抱く日向。
と言うよりこの際、男に見られている事うんぬんは放置しよう。日向がここで断言すべきはそんな事ではないのだから。
「何やら色々語ってくれましたが、貴方は…………いえ、貴方が行った事は強姦事件、婦女暴行、そう言った悪辣な事ばかりです。貴方は犯罪者――僕が言うのも烏滸がましいかもしれないけれど、それでも言いましょうか。貴方は許されない事をしていると」
自分がそう言うのは何とも心苦しくもある。戦地で人を殺さないまでも、銃弾を撃った事がある自分にそう言った事が言えるのか、難しい部分もある。だがここで一つの折り合いをつけてでも彼の蛮行に亀裂を刻まなくてはならない。
「理解していますとも。私は彼女らの尊厳を踏み躙った――ここから先も、延々と。彼女たちの尊厳を蹂躙する。貴方にはわかりますまいな、淑女らの柔肌を無理矢理に犯し尽くすあの快楽の甘味が」
「そんなの知らないです。それに女の子は守ってあげたり、寄り添ってやるのが男だって昔、ある人に教わりましたし!」
「ほう。それはまた素晴らしい教育者が幼少の貴方にはいた様ですな」
感心した声を仄かに上げる。
「しかし、生憎。私はその女性を守るべき事案に対する加害者でございます。ともすれば、ふむ、わかりあうのは不可能と言う事でございましょうな」
「……」
その言葉に日向は眉をひそめた。
(納得がいかない、と言う様な表情をされるのですな。若い、若い)
「青臭い少年ですな」
独り言の様なマクシミリアーノは小さく零した。
「尊厳を凌辱する快楽は幼子にはわかりますまい。泣き叫び許しを請い苦しみに断末魔を零す女性の艶姿――それに勝るセックスの形が他にあるかと言う話でございましょうよ」
「酷い事を女性にしている。その時点で貴方の行いはなんら正当性は欠片も無いんですよ?」
「正当性なぞ求めてはいないのですよ。罪を及ぼす淫靡な背徳――さながらスリルとでも例えましょうか。禁じられた摂理に、謀反を起こすその痺れる感触こそが好ましい、そう言うお話なのでございますよ、若き少年よ」
「諭すように何度言われたところで貴方の今の思考は理解出来ない下郎下劣だ。そんなものをこれ以上、蔓延らせるわけになんていきません。……ところで、セックスって何ですか? 数字の六のことなんでしょーか?」
「……」
マクシミリアーノが最後の言葉で押し黙る。
何故か淡々と緩慢な時間が経過し、コホンと咳払いをした後に彼は何かを切り替える様に「なんにせよ」と告げて獰猛な双眸を光らせた。
「私はこれから用があるのです。夕餉を味わうと言う耽美な目的が」
「察していますよ。察しているけれど今晩は是非、断食でも味わってください」
「今晩は飢えに飢えた日でございましてね。食欲沸き起こると言う時なのございます。それを邪魔されるというのであれば――」
言いたいことは分かるな? と言う様にギラついた眼光が日向の体躯に突き刺さる。
しかしそれを許すわけになどいかない。断じていかない。彼の目的を遂行させる事は日向にとってかけがえのない存在に汚泥を撒き散らすと言う事なのだから。
グッと握り緊めた拳を一度開いてから握り緊める。
憔悴の汗だろう。滲んだ感触が恐怖に苛まされている事は明白だった。
戦地で過ごした日々でも感じた恐怖感。それを唯一人の脱獄囚、たかだか一介の性犯罪者相手に感じると言う異様な気配に日向は動物的本能で抗えない畏怖を感じていた。
女性を強姦し、殺害する下劣畜生。
相手にするにはあまりにも下郎な輩。対峙するには正義を背負って余りある悪辣な男であると断じ得る程に。しかし弦巻日向はそんな格好良い存在ではない。戦地を生きたと言っても常に何かに怯え恐れて生きてきた様なもの。
そして最後は誰一人守れなかった言葉を背負う事すら出来ぬ敗北者。
だが。
けれど。
しかし。
だからと言って。
それでも。
そんな事実の羅列で諦めていいわけがない!
今日、此処に立つのは自分の中に存在する幸福論が、己を鼓舞し、どんな事であっても立ち向かえと心に定めた刹那が永劫語り続けているのだから。
気概を持って力強い声を発する。
「僕は貴方を止めますよ。止めなくてはならない――いえ、絶対止めると誓うから」
「ほほう。実に勇壮な事でございましょう」
マクシミリアーノは僅かにも嘲笑含めず素直にそう零した。
「おそらくは警察には連絡済なのでございましょうな。故に立ち塞がるのは時間稼ぎか。ニョホホホ、当然の行動ですな。だが、しかし解せませんな」
「何がですか?」
「実力差、と言うものでございますよ」
真剣な瞳を浮かべながら男は問うた。
「貴方は人より幾分腕が立つ――いいえ、違いますな。この表現はそぐわない。失礼ながら腕が立つと言う印象は左程ない。そう――言うなれば戦闘の経験がある様に見受けられる。戦いの恐怖を知っている。私の前に現れる際の時間の空き。それが物語っている。ならば私の実力をある程度察する事は出来るというはず」
「……わかってます」
日向は僅かに悔しげに呟きを発する。
「きっと――きっと貴方は僕より強い」
けれど、と少年は言葉に力を込めて、
「でもだからと言って、貴方の前に立ち塞がらない道理はない。僕は貴方が今、狙っているターゲットに予測がついている。なら、僕は全力で貴方に食らいつくぞ、噛みつくぞ。がおーって! 彼女の前に、貴方を引き合わせなんかしない。絶対に」
日向の言にマクシミリアーノは僅かに考え込む様子を浮かべた後、静かに口を開く。
「――ああ、そうか。そう言えば貴方はいましたなあ、あの子の隣に。なるほどなるほど」
それで囚人は察した。
眼前の少年は少女を守りたい理由を。
きっと少年は少女に対して想いを寄せているのだと。
故に悪漢から思い人を守りたいと立ち塞がっているのだろう。悪漢が少女に牙をむくよりも先に、事前に――、
「ぬっ……」
その時違和感が走った。
急に表情を変えた囚人に対して日向は思わず心配そうな表情で尋ねかける。
「? ……どーかしたんですか?」
「……いえ、なんでも」
それは微かに囚人の頭に表情をしかめる程度の電気が走ったかの様だった。今のは何であろうか。煩わしい。頭痛か。軽く頭を小突いて調子を整えた後に、マクシミリアーノは厳かに問い掛けた。
「それで。ならば貴方の目的は一つなのでしょうな。私を止める――ならばならば、ここで私と戦いあうと言う選択肢を選ぶのでしょう。私は止まらんです。淑女らの味を噛み締める。そしてもう誰にも汚されぬ様に私が殺害す。君が守りたいと勇気を振り絞った対象足る彼女もね」
「止まる気は無いんですね?」
目の前で情け容赦なく大好きな少女を犯すと断言する悪漢に対して日向は厳しさをたたえた表情で尋ねかける。その言葉に対してマクシミリアーノは冷淡なまでに「無論」と答えた。
日向は辛そうな表情を浮かべながらその言葉を彼に投げ掛ける。
「……ムンジュイックさん。自首する気はありませんか?」
「……」
日向の言葉に囚人は思わず眉を潜めて停止する。
ことこの場面に及んで自首を勧める――、それはおそらく彼が勝ち目のない戦いと踏んで生き残る為の術に提示した――等と言う逃げ腰の案では無いのだろうとマクシミリアーノは理解を示す。きっと、その発言には彼の生来の優しさが篭っているが故の発言なのだろう。
甘いと断じればそれまでかもしれない。
だがきっと少年は優しい子なのだろう。
しかし、それがどうしたというのだ。関係は無い。自分は道を踏み外れ続けるだけ。
「無いと言う話でございましょう」
「…………」
日向はその言葉を訊いて悲しげな表情を浮かべた後にかぶりを振って、すっと囚人を見定めた。先程までの優しさは気配を潜めて、あるのは決意に満ちた男の子の顔だ。
「――わかりました。なら僕がする事は一つだけ」
「それでよろしい。言葉は大切。何の言葉交じりもなしは無粋の極み。だが、この局面で私は引きませんからな。暴論ではなく暴力で応じて頂く他にない」
「ならボクは全力で貴方に牙を剥く。獣の如く食らいつく!」
覚悟を決め終えた瞬間に日向はロングコートをはためかせ、中から杖型の銃器を取り出した。迎洋園家技術開発部門作成の銃器シュピールドーゼ。細長く、ライフルにも拳銃にも変化する愛用の銃器を取り出して弦巻日向は牙を剥く。
その銃器が次の瞬間にべもなく粉砕された。握る左腕がバギンと嫌な音を響かせる。
左腕から血飛沫が舞った。千切れてはいない。折れた。骨折だ。それも粉砕だろう。肘付近から腕が嫌な方向へ折れ曲がり流血が迸る。
何が起きたのか。理解は早い。眼下に迫る男の姿があったからだ。
迅速。俊敏。疾走。地を這う如くその男は血を吸った。わずか一瞬、刹那の躍動。おそらくは銃器を取り出す場面ですでにマクシミリアーノは駆けていた。そして、その突進の威力そのままに日向の左腕に一撃を叩き込み、武器破壊と左腕破壊を成し遂げたのだろう。
速く強い。
「うがぁ……ッ。くぅ、うぁ、ツぅ……!」
即座な理解は痛烈な初手を鮮烈に脳髄へと事実を駆け走らせた。激痛が迸る。腕をここまで壊されて痛みを感じぬわけがない。
だがそれ以上に、今の痛み以上に危惧すべき事がある。それは強さが違っていると言う事実であり、違い過ぎる事に絶望感を抱きそうになる程だ。速度と威力の差が自分とはかけ離れている。日向は即座にそう断じざる得なかった。
「初動が遅かったですな」
初動を征したのはマクシミリアーノ。その影響は甚大の一言。
手始めに腕を折られるなど洒落にならない。
「さて――これで終いでございましょうな」
そして当然そんな好機を逃すわけもない。囚人はその刹那の言葉が耳に届く最中には次の行動へ移していた。腕を抑えようとよろける日向の腹部目掛けて――一閃――長い脚が腹にのめり込み、日向の小柄な体躯を吹っ飛ばす。
壁面にめり込む勢いで体は激突。肺の中から大量の空気がごぼっと洩れる。
「以上、終いでございましょうな」
その実力差は歴然だった。
戦いにしれみれば僅か数秒。三〇秒にも満たぬ時間で日向は屠られた。
壁からずるずると背中はずれおちて、床に腰を落とす。体中激痛で何が痛いのだかよくわからなくなるほどだ。
(やっぱ……こーなっちゃうのかぁ……)
視界に赤が過るなか、日向はその状況を受け入れていた。戦地で生きた経験が初めから物語っていたのだ。アラームを鳴らし続けていたのだからしょうがない。
自分は彼との力量差があり過ぎる、と。
勝ち目のない事は承知の上であった。時間稼ぎになるかどうかも怪しい事は重々承知であったのだから致し方ない。元より勝率はゼロに近しかった。地力ですでに敗北しているのは自覚している事である。
「今から病院へ行けば間に合うかとは存じましょうか」
男は何を想ったか敗者にである自分にそう語りかけた。
生かされたと言う形になるのか。元より生死はどうでもいいと判断されていたのかもしれないが、どちらにせよこれは無様な末路と言う奴だ。戦地で生きていたのなら、この局面で生きてたと安堵を示すのも悪くは無い。
勝ち目のない戦いに挑む事自体、度胸がいるのだから――、
(だからここで度胸を示せッ)
故に。
何度でも告げよう。弦巻日向は此度逃げはない。全身全霊不屈を以て、この局面に食い下がる事は有り得ない。食らいつくのだ、獣の様に何度でも。
その想いは体を動かし、折れていない右腕は即座にコートの中に秘めた、四角形の代物を取り出した。その中央にある青いボタンを即座に押す。
その瞬間に入口へと通じる通路がけたたましく轟音を奏でながら爆ぜた。
「な――ッ!?」
マクシミリアーノがその場所から思わず飛びのく。この場所を去ろうとした歩みを即座に後退させる出来事だ。いくら超人とはいえ、ガラガラと崩れ落ちる岩盤に埋もれれば死なないまでも身動きは取れなくなる。
その瓦解する様を唖然と見守りながら囚人は少年へ問い掛けた。
「爆弾でも設置していたのでございましょうか、貴方は……!」
その通り。
確かに日向の地力では遠く彼には及ばないだろう。
故に日向はこの状況をかなり、そうかなり、というか最悪の想定であり、若干震えながらも様々な工作を整えていた。地力で敵わないなら工夫するしか勝機はない。この場所をマクシミリアーノが離れている時間を見計らいすでにいくつかの仕掛けは張り巡らせた。
「火薬を少量。後は壊れやすい様にピッケルでカンカン頑張りましたっ!」
そう不敵に告げながら痛む体を気骨で立ちあがらせる。
すでに満身創痍。なんとも脆弱な事態ではないか。上等。それでいい。
「僕は貴方を止める。彼女の元へ向かわせないためなら何度だって噛みつくぞ、マクシミリアーノ=ムンジュイック!」
流血は覚悟の上。鮮血に彩られるのも決意の表し。
少年に必要なのは血潮を滾らせて立ち向かう事、それ一つ。
「さあ始めましょうか、ムンジュイックさん。連休最後の夜はこれからです。そして朝焼けはいつも通りに昇ればいい。誰一人、何一つも変わらないまま、明日になればそれがいい。僕は明日からもずっとエリカさんの傍でたくさんあのあったかーい気持ちになりたいから」
弦巻日向は微笑を浮かべて、断言する。
「がおーっ! って、貴方に牙を剥くんだ!」
獅子奮迅の勇気を以て。少年は終わりかけたはずの戦いを何度だって再戦する。
そしてそんな日向に対して、囚人は呟く。
「……愚直なお方だ」
嘆息交じりに、
「我が歩みを止めねば生きていた。立ち塞がらなければ存命出来ていた。それを投げた。命はいらぬ――そう言っているかの様な蛮勇でございましょう」
だからこそ、囚人はその腕をゆらりと構える。警察たちを足蹴にし、犯し殺した男の剛腕を以てして少年と相対する。
「だが心地よいかな、少年の勇壮さ。尻込みするより余程よい。すでに満身創痍引き摺って立ち向かう男の姿勢に背を向け立ち去るは私の様な強姦魔に何を言えるかと言う話ではございますれど、男の名折れに等しいでございましょうな――よきよき、よきかな。私は蛭と謗られた男。ならば貴方の生血全てを食んでゆこうか」
そして血塗れの戦いは幕を開く。
すでに血腥い程に鮮血に塗れた青の少年は「がおーっ!」と、勇ましくある為の唸り声を響かせながら呼びの銃器を手に疾走し、生血をすする毒牙の男は舌なめずりしながら狂気を孕んだ双眸を爛々輝かせながら疾駆する。
休日最後の夜更けは下りた。
さあ、語られる必要はなく、知られる必要の無き戦いを始めようか。
第八章 後篇:人よ、怪物よ、開戦の号砲鳴らせ




