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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
46/69

第八章 幕間:エロ・エローエ ~男の矜持~ 

第八章 幕間:エロ・エローエ ~男の矜持~ 


        1


 ――あの瞬間に垣間見たものは何だったのだろう。

 陽皐秀樹の脳内を疑問で埋め尽くすのは脳裏に刻まれたあの光景であった。

 明日香羽叶の背中に映し出された複雑な紋様の如き翼と思しきもの――あれは見間違いであったのか否か。いや、見間違いとは思えない絶対的な感覚を抱いてしまっている為にその自問自答はどこかばかげてさえ感じている。

 人の背中に翼が生える。

 それではまるで聖書の天使の如き景観ではあるまいか。

 生憎と天使に逢った事など無い為にわからないが――それでも翼が垣間見えるなど尋常な事では無い。ちらりと視線を横へ移す。

 そこには問題の少女――羽叶が夜空を見上げながら隣を歩く姿があった。

 独特の髪型がぴこぴこ動いている以外にはとりたてて特殊な事は無い。いや、髪の毛がぴこぴこしている時点でツッコミどころ満載なのは否めないが、それとは次元が違って感じられた以上そこはもういいと秀樹は断じた。

(明日香って……本当、なんなのかね)

 図書館にて読書を楽しみとする、どこか浮世離れした雰囲気を持つ美少女。

 ロッカーで初めて逢った時も本当に他人とは違う独特の気配を持っていたが、それにしたって関わるぶんだけ謎が深まっていくばかりな気さえしてくる。

 それだけ明日香羽叶と言う少女は謎に満ちていた。

 そしてそんな少女と約束したのだ。

 ――一緒に翼を探そうぜ、と。

 改めて思う。

(不思議な約束し過ぎだろう俺!)

 その場のノリが五分と真摯な想いが四分と、混乱が一分とは最早口が裂けても言えない。隣で嬉しそうに星空を見る少女を見ればなおの事だ。

 どうやれば悲願達成するのか謎で仕方がない。

 自分でもどうしてそんな約束を結んだのやら――と、思うばかりだ。

 だが。

 同時にこうも思う。

 この約束には十全とした価値があると。

 予感めいたものなのだ。

 今までの日常から一歩先へ歩み出せる様な――そんな不可思議で奇天烈で鮮烈な、新しい面白い事と巡り合える様な濃密な気配。思わずそこへ身を投じた様な高揚感。

 なんなのかはわからない。

 けれどそれを探すのはとても――楽しそうに秀樹は思えたのだ。

 ならば試しに探してみよう。そう思える。

「――なぁ、明日香」

「? なーに?」

「いやさ、今一度訊いておきたいんだが」

「うん」

「お前が求める『翼』ってのは結局どんな風な代物だと思うんだ?」

「……」

 羽叶は困った様に眉をひそめながら、

「凄い漠然な感覚。求めているものが、ある。けど、形が、よくわかんない」

「そっかー、まあ、そうだよな」

 自分自身ですら戸惑っていたのだ。

 そんな曖昧な感覚でしかないのだろう。――だからこそ他人と違う空気を纏う少女なのであろう。『翼』と言う曖昧なものを求める自分と周囲との差異を如実に感じているのではなかろうか――そんな疑念が生まれては消えていく。

「ひできは……」

「ん?」

「本当に、探してくれる? あいまい、だよ?」

 羽叶は不安そうに声を発した。

 やはりその『曖昧』さが懸念なのだろう。だが、

「みなまで言うなって」

 少女の頭をぽんぽんと撫でながら言った。

「目標なんて明確じゃなくたっていいのさ。漠然とした未来は不安かもしれねぇけどさ。探し始めはみんな曖昧なものを追っていくもんだと思ってる」

「そう、なの?」

「ああ。探していくうちに明確なものが見えてくる――親父の教えだ」

「おとうさん、の?」

「そそ、破天荒な親父でね。放浪癖まである始末だぜ」

「不思議そうな、おとーさん、だね」

「いやそれ明日香が言っちゃダメだと思う」

 不思議系少女である羽叶よりかは父親は普通だと思いたい。

 いや、あの父親は不思議ではないのだ。厳密には奇天烈な方であって。

 そうして、羽叶が「どんなおとうさんなの?」と問い掛けた時であった。

 事態が思わぬ方向へ急転したのは。

 一瞬――刹那の瞬間に秀樹は目の前でバヂ、と言う妙な音を耳にした。ついで黄色い光を感じたと同時に――ほぼ咄嗟に羽叶を抱き締めて、左へ跳んだ。

 するとっていた場所を丁度何かが掠めていく。

 そして立ち並ぶ並木林の一本に直撃すると激しい音と共に爆ぜた。その樹へ視線を寄越せばパチパチと火が少し燃え上がっているではないか。

「おいおい……何だ今の事故か……?」

 電気系統のトラブルか何かなのか――と、秀樹が思おうとしたその時に、声が響く。


「事故なじゃねー、故意に決まってるだろ」


 若い少年の声――おそらく同年代に近い。

 パチン、パチン、と指を鳴らしながら歩いて来る人影。暗闇でぼんやりとしていた視界が次第に鮮明に人影の正体を映し出していく。

 そこにいたのはやはり高校生くらいの少年であった。

 外国人なのだろう金髪碧眼にそこそこ整った顔立ちをしている少年だ。タートルネックに白のズボンと言うラフな出で立ちなのだが、唯一特殊なのは異国の貴族を思わせる赤い外套を羽織っている事か。

 少年は秀樹と羽叶を前に口を開いた。

「――テメェらだな」

「は?」

「惚けんじゃねーよ、テメェらだろうが。俺の事を、この空間内に閉じ込めてる術者は」

「……へい?」

 何を言っているのだろうかと頭に疑問符を浮かべる。

(いや空間内に閉じ込めたとか、術者とか……)

 中二病だろうか? と、率直に言って秀樹は思った。

「お前な。中二病は中二までに治しておかないと大変だぜ?」

「中二病? なんだそれは?」

「ちゅーにびょー?」

 疑問を浮かべる少年と羽叶。

「明日香もかい! そんで、ああ、そっか外人だもんな……!」

 日本特有の言語だ。

 外人にわかるわけもない。

「とにかく変な事言ってないで、な?」

 手を広げながら、落ち着く様に促すが、少年はそれがイラッとしたのか、手を秀樹の方へ向けながら怒気を孕ませた声を放った。

「何でお前が俺を諭すみたいに言ってやがるか! ともかく、惚けたところで俺の明晰頭脳は欺けやしない――テメェを倒してさっさと解呪させてもらうぜ!」

「いやいや、意味わかんねぇってさっきから! とりあえず落ち着いてさ!」

「黙れ! 今の俺は苛立ちでヒートだぜ!」

 その言葉を吐き捨てる様に言うと同時に少年はパチンと指を鳴らす。

 その際に人差し指をピンと伸ばした――すると少年の指先から何かが瞬時に放たれる。秀樹はその行動の違和感に対して思わず左手で防ぐ様に前に出してその何かを受け止めた。

 それが誤りであった。

「なん……? ――がっ!?」

 途端、伝達するのは鮮烈な痛みであった。

 全身をエビぞりにして後方へ途端に弾け飛ばされる。そうして後方の地面にゴムまりの様に一度跳ねた後に転げてしまう。勢いが止まった秀樹は、先程に受けた、その痛みに身を苛まされながらある事を思いだしていた。それは理科の実験だったと思う。クラスメイト全員で手を繋いでの実験――それで全員が痛みでわっと手を放した光景。

 そう、あれは――、

(せい、でんき……!)

 静電気の実験。そうだと思い出す。

 この体に響いた痛みはそれに酷似していた。

「ひでき!」

 羽叶が何時になく切羽詰まった様な声を発して、心配そうに駆け寄ろうとしてくる。

「明日香は、そこにいてろ! 動かない方がいい!」

 秀樹はそれを即座に牽制する。

 下手に身動きを取って羽叶がこれを喰らうなど見たくない光景だった。

「どうだ、痛かっただろう――これ以上喰らいたくなけりゃさっさとこの空間を解除しな。さもなきゃあと数発は喰らわせるぜ?」

「おいおい、静電気とかどっから自在に出してんだよ……その赤い服が何かの装置とか?」

「この服はあくまで服だよ。俺の所属『赤き鷹(ロート・ファルケ)』の特注品だ。まあ、ちっと加工は施されてあるが――じゃねぇ、そんな話で惑わそうとしてんじゃねぇよ。さっさと術式解除しろって話だ」

「だから知らねぇって、その空間とか術式とかさ!」

 意味が分からない、と秀樹は明確な意思で伝えた。

 だが少年は怪訝そうにしながらも、舌打ちをする。

「嘘こくな。この空間に入ってるって時点でテメェも何らかの関わり合いある人物としか判断できねぇだろうが」

「は? どういう意味だよ……?」

「……本当にわかんねぇのか?」

 少年は困った様な表情を浮かべた。

「だが、外部からの侵入にしても余程の実力がなくちゃ入れない……が、見た感じ、そんな実力者に見えるわけでもねー……。どうなってやがる?」

 いや、と少年は考えを改める様に間を置いた後に、

「つまり、術者はそっちの女か?」

 と、手を羽叶の方へ向けた。

「! 待て、明日香は関係ないって!」

「わかんねぇだろうが、そんなの」

「そいつは……そいつは、よくはわからんが、そんな人に害成す様な奴じゃあない!」

「だから? テメェがどんだけそいつの事を知っているかは知らないが、俺にしたらテメェもこの女もどっちも見知らぬ他人なんだよ。疑うべき対象だ」

「それはそうかもしれないが……!」

「だからまあ、まずは気絶させるとするぜ。その後で何の変化もなきゃ謝ってはやるよ」

 そう冷徹に告げると少年は指鳴らす様に親指と中指を合わせた。

 どうやらあの動作が大きな要因の様だ。

 しかしそんな事に感心しているヒマはない。秀樹は素早く駆けて羽叶を庇う形で前へと身を乗り出す。羽叶が不安そうに「ひでき」と名前を呼んだ。その声に「大丈夫だ」と強い声で返すと、少年は忌々しげに舌打ちを刻んだ。

「気に入らねぇな」

「何がだよ。勝手に出てきていきなり散々言うのは怒るぜ?」

「そっちじゃねぇよ――美少女とイチャイチャしてんのが気に食わねぇ!」

「そこ!?」

「俺なんかなぁ……俺なんかアイツに全く振り向かれないってのにさあ!」

「いや、知らないしお前の背景事情!」

「とにかく見ててムカつくから関係なくても気絶させてやる! 喰らえ!」

「なにこの最低な感じの加害理由!?」

 何故だか嫉妬で攻撃されようとしていた。

 しかし威力は笑えない。あの電気の痛みは何度受けても早々、慣れるものではない。その上で相手はどういうわけか静電気を自在に操れる少年――性質が悪い。

 だが、羽叶が関係ない理由で攻撃されようとしている――それは我慢ならない。

 なんとしてでも守り通す!

 秀樹はその決意で少年の眼前に立つ。


「そこまでだ!」


 その時だ。

 思いがけず――、全く聞き覚えのない、少しくぐもった様な特殊な声が響いたのは。それもどういうわけか上方の方からと思しき声だ。上から聞こえる声に少年共々視線を巡らせて声の主を探す。すると羽叶が「なーに、あれ?」と小首を傾げた。

 少年と秀樹は見た。

 近くの建造物の屋根の上。

 そこに月を背にしながら何やら人影が立っているのを。

 その人影は些か特殊な陰影をしていた。いやに尖っているというかゴツゴツとした印象があるのだ。普通の人間のフォルムではない。そして何より――風にたなびくマフラーが妙に印象に残る。

 三人ともアレは何だとばかりに目を見張る中で人影は高らかに声を発した。

「それ以上の狼藉の数々は見過ごせない!」

「ああ? 何だテメェは……」

「声が小さいッ! 遠いんだからもっと大きな声で!」

「ああ!? 何だテメェは!?」

 声が小さい言われて少年は憤慨した様に大きな声を出した。

(いや、確かに距離はあるけどさ……)

 秀樹がそこを言うのはどうなのかと若干項垂れる。

「私か。貴様の如き悪に名乗る名前は持ち合わせていない」

「よし、喧嘩売ってるのはわかった!」

「だがしかし! 名乗らずにいるは人としての最低限の礼節を持ち合わせぬ行為だッ! よって我が正義に従って名乗りを上げよう!」

「一々面倒くせぇな!?」

 名乗るのか名乗らないのかどっちだ、と少年が叫ぶが、謎の人影はそれをスルーして屋根の上でビシッ、ザッ、と様々なポーズを取り始めた。

「この世に蔓延る悪の気配! 無辜なる一般人に毒牙をかけんとする悪鬼羅刹の輩よ!」

 拳を力強く握りしめ胸の前でクロスに腕を交差する。

「私はッ! そんな貴様たちを我が魂にかけて断罪するッ! 悪を滅ぼす正義の牙ッ!」

ババッとその場で一回転した後に少年を指差したかと思えば、

「トゥッ!」

 と、勇ましい掛け声と共に全身をスクリューの様に回転させながら屋根の上から跳躍した。高さがあるぶん着地を心配したのか羽叶が「あ」と声を零すが人影は見事なフォームで弧を描きながら秀樹達の前へスタッ! と、着地する。

 その姿を見て秀樹は思わずほほぉ、と言う感嘆の息を発した。

 ボディスーツと思しきシャープなスーツの上に、白色をの装甲を纏っている。アクセントに入った金色のラインが高級感をかもしだし、その全身は月光を浴びて鎧に無尽蔵の輝きを灯していた。腕の装甲は手首にかけて膨らんで行く特殊な袖口。足も同様の形状の装甲であり、そんな独特の姿を持つ人物の顔はどんなものかと見てみれば滑らかなラインのフルフェイス。後頭部の辺りからギザギザと突起が生えておりどこかライオンの鬣を連想させる。そして首元から伸びる真紅の長いマフラー。

 さながらその姿はヒーローのそれであった。

「何者だ……テメェ……」

 少年が戦慄した表情で呟く。

 秀樹はきっと『変な奴が現れた』と怯えてるんだろうな、と言う感想が浮かんだ。なにせ秀樹自身『なんだこいつ……』と現在引いているので間違った反応では無い。唯一、羽叶だけが状況が理解出来ず疑問符をたくさん頭に浮かべる中、謎のヒーローは声高らかに宣言する。

「貴様と言う悪は今宵此処に尽きると思え!」

 少年を指差してヒーローはファイティングポーズを決めた。


「我が爪牙は悪を引き裂く正義の証ッ! 騎乗装士『ヴェネルディ』! ここに推参ッ!」


 とりあえず厄介な事に巻き込まれた――そう、思う陽皐秀樹のゴールデンウィーク最終日、火曜日の夜は騒乱と共に満ちてゆく。


        2


 そこは一言で言えばとても異風な場所であった。

 城壁や古い日本邸宅の様な城郭や塀で囲ったかのように陳列されているのは石というよりも岩盤と言った方が近しい。大小あれど無数の岩盤が土台として、壁面として武骨なまでに敷き詰められている様は壮観の一言。まるで海辺の岩礁地帯を思わせる様な風体だ。都会として名高い横浜の街並み、一般の邸宅が立ち並ぶ集合密集地をしても、その有様は少々異様に映るのは至極当然。周囲の近代化に乗り遅れたかの様に、そこだけは時間が、そして時代が遅延している様ではないか。

 しかしその場所を包む空気は一切の緩みも感知しえぬピンと張った空気がある。

 近づくだけで背筋を伸ばして畏怖の感情と共にあろうと自然そう思える空気は、それであってどこか懐かしく感じられる。それはこの場所がまるで日本に存在した城、古き日本の名家跡の様な峻厳さを滲ませている為だろう。

 そう、ここは岩盤だけの場所では無い。

 武骨な石段を踏みしめて歩いていけば、その先に見えるのは岩盤の武骨さと見事にマッチした日本邸宅であった。しかし柔らかさはほぼ感じ得る事は出来ない。そこにあるのは巌の如き屈強さ。滲み出る堅牢さそのままに、その家は造りが、そして空気が何とも重々しく、そして暑苦しかった。

 これぞ日本屈指の従家が一棟――名家・不知火家である。

 こと日本邸宅と言う意味では、同列名門に当たる土御門もそうだが、土御門家には存在する柔らかさがこの家の風体からは何とも抜けている、欠け落ちていた。

 峻厳さ。

 おおよそ不知火家を語れるものが語るならば、そこにあるのはその一言で語り尽くせると言うものだろう――そう、言われている程に。

 そんな家の中ではどのような空気が張り詰めているのか、如何に如何に――、



 のほほんとしていた。

「かゆいとこはありませんか、静流ちゃん?」

「たー……」

「そんな嫌そうに目瞑ったら泡入っちゃいますよ?」

「いさなのきちくー。静流これ苦手だぞ」

「そんな事言っても綺麗綺麗にしておかないとダメですよー?」

 場所は不知火家の誇る大浴場。

 一般宅にはまず有り得ない豪華な浴場はまるで温泉ホテルの大浴場の様にゆったりとした広いスペースと共に多くの設備が充実しており、個別のシャワーがある始末。今すぐ浴場を解放しても成り立つ温泉旅館の様であった。岩盤そりたつ露天風呂がある辺りが実に風情が滲み出ていると言えるだろう。

 そしてそんな空間にいるのは少女二人。

 当然にして全裸。見目麗しい容貌の少女二人は包み隠さず、一人はその豊かな肢体を露わにし、もう一人は未成熟故に成長性を感じられる幼い肢体を晒していた。和気藹々。その一言で言い尽くせる程に二人の空気はやわらかである。

「こんなのの何の意味があるんだいさなー?」

「んー、頭のかゆいのが無くなるんですよ」

「毛づくろいで十分だぞ」

「あはは、毛づくろいですか。それは確かにですね」

 不服そうな子ぎつねの妖女、焔魔堂町静流に対して可笑しそうに微笑みながら泡のついた手を動かして彼女の頭髪を洗っているのは佐伯勇魚。両名の姿がそこにはあった。

 普段の景色――不知火家の景色を知るものがいれば、まず『やわらけぇ……空気がやわらけぇ』と恐れお慄く事だろう。

 この二人、何故この場所にいるのか。それは単純明快な事である。

 簡潔に述べてしまえば何と言う事は無い。行先不定であった二人を初めて出会った際に不知火家の長男九十九が家へ招いた為だ。その日以降、二人はこうして不知火家にお世話になっている、と言うわけである。

「でもダメですよ。頭洗わなくちゃ許しませんから」

「うう……いさなのばか……」

「当然です。女の子なんですから、ばっちくしててはダメなんですよ静流ちゃん」

「静流は妖狐だし、水浴びだけでいいんだぞっ!」

「ばしゃーってするのも良いと思いますが、でも、シャンプーの効果も抜群ですよ?」

「目に入るとぎゃーってなる」

「おめめは瞑っていてください。前々からですが、静流ちゃんは瞑り過ぎです」

「怖いし」

「怖くないなーい、ですよ」

 ううー、と唸る静流に対して勇魚は「我慢我慢ですよー」と声を発する。

 相変わらずシャンプーが嫌いな少女である、と勇魚は微笑を浮かべた。妖狐だからか動物だからかお風呂に驚いたりする様も本当愛らしい素振りで可愛いものが好きな勇魚は何とも言えずほっこりとした心を抱く。さながら妹に対しての情がこういうものなのでしょうか、と思いながら、童女の頭に泡をたくさん泡立ててゆく。お風呂嫌い、シャンプー嫌いに理解は示しつつも、静流が女の子と言う事もあってシャンプーの良さを理解してもらいたいという自己の我儘であれど、願う想いであった。

 やがて、折れたのか静流はされるがままになり、

「むー、そっかぁ……」

「そうです。それに、シャンプー気持ち良くないですか、やったあと? だから頑張りましょう静流ちゃん」

「たー……仕方ないな、いさなの言う事じゃあ……」

「あれ、なんか素直ですね」

「いつもお世話になってるからな」

「あれ、何かこの場面で使われると何だか変な感じなんですが」

「そんな事無いぞ、静流の感謝はいっぱいいっぱいだ」

 日頃のお世話のお返しがシャンプー我慢するとはこれいかに、と思ったりもしたが愚痴を吐いても大人気ない。可笑しそうに「まあ、でも、ありがとうね静流ちゃん」と柔和な笑みを浮かべながら勇魚は彼女の頭に泡を生産してゆく。

 すると不意に静流の空気が僅かに変わった――かの様に感じた。

 そしてそれが間違いでない事に気付く。

「静流はなー、ほんとにいさなに感謝してるんだ」

 ぽつりと零す様に。

「それで本当に幸せなんだぞ。ありがた過ぎるくらいに。こうしてあったかい場所で眠れるのも、こうやって一緒にお風呂入ってるのも、昨日の色々な場所行ったりしたのも全部幸せだから……」

「静流ちゃん?」

「……みんな、もういないのに、静流だけ生き残ってて、一人ぼっちだったのに、こうして一緒に誰かがいるのがすごーく……何だかあったかいんだ静流は」

 その言葉にぐっと詰まりながらも、勇魚は小さく呟いた。

「ありがとうございます、静流ちゃん」

「たー♪」

 嬉しそうに笑う少女の後ろで勇魚は複雑な感情を抱いた。

 優しい――どうだろうか?

 自分は果たして優しい少女なのだろうか、という疑問を抱いた。こうして静流の世話を焼くのは確かに優しい事だろうが、そこに同情、憐憫の想いが潜在している事を勇魚は知っている。だからこれは優しさとは違うのかもしれないな、と。

 だがそんな自分の感情以上に勇魚は静流を切なく想った。

 里を失い、同胞を殺された孤独な少女。

 そんな彼女をどう守り抜けばいいのだろうか。自らの無力さに歯噛みを零す。

「いさな」

「……なんでしょうか、静流ちゃん?」

「もしも」

 背中越しに伝わる彼女の温かさを感謝しながら静流は告げた。

「もしもいさなとつくもが危なくなったりしたら……静流の事は見捨ててほしいぞ」

「え……」

 勇魚は一瞬唖然とした「後に、

「どうしてそんな事を言うんですか静流ちゃん」

 切迫した掠れた声で詰め寄った。

 しかし静流は物怖じする気配を見せず、力強くそう返す。

「それが一番よさそーだからだぞ」

「狙いは静流だけだからな。関わらなければいさなとつくもは被害なんてないはずだ。危なくなったら斬り捨ててほしいんだ」

「そんな……」

「静流の事なら心配いらないんだぞ? だって、静流は死んでもみんなのとこへいけるんだからさびしくもなんともないし!」

 一族大集合だ、と快活に告げる静流。

 それは本心も混じっていたのだろう。死ねば皆に逢える。一族郎党皆殺しにあった静流にしてみれば死んだ方がマシなのかもしれない。だけれどきっと――そこには自分達を気遣う気持ちも紛れているから。

「静流ちゃん」

「いさなー?」

 ぎゅっと彼女の小さな体を胸に抱いた。不思議そうにする童女の声が零れ落ちる。

「そんな淋しい事を言わないでください、静流ちゃん。死んでも平気なんて言っちゃダメなんですよ静流ちゃん。死んでしまうのは……悲しくて、辛いから」

「いさな……」

 悲嘆に染まった勇魚の声に静流は何とも言えず押し黙る。どう反応していいかわからないと言う様に身動きのとれぬまま。それは勇魚もそうであって、静流の言葉にどんな反応を示せばいいのか――互いに答えが掴めなかった。

 しんみりとした空気が厳かに流れてゆく。

 それは不安。この先どうなるのだろう、という少女らの先行きの暗雲に対しての畏怖がそのままに包み込んだ静寂であった。どうなってしまうのか、と不安がる童女に対して彼女を抱き締める少女はこの場面で力の篭った言葉を紡げない自らの弱さに唇をかみしめる。

 それでも何か言わなくては――、そう思った時だった。

 あの男はやってきた。

「話は聞かせてもらったぜ二人とも!」

「え?」

 そう。風呂場に彼は威風堂々と姿を現したのだった。



 事の次第は少しばかり時間を前に遡る事となる。

 彼――不知火家跡継ぎ足る不知火九十九は風呂場の扉の前にいた。風呂でも浴びようと、筋肉の鍛練を済ませて汗を流すべくやってきた九十九であったが、彼は風呂場に二人がいる事に気付いて『お、たのしそーじゃねぇか!』と思わず綻んでいた。

 女子同士邪魔するのも悪いと言う認識は九十九も持っている。

 二人が出た後にしよう――そう、考えた九十九はそうして足を返して風呂場を後にするつもりであった。しかし次いで聞こえてきてしまった声に足を止める。

 深刻そうな会話。

 おおよそ聞こえるには些か遠いだろう距離感も、九十九の聴覚をもってすれば容易に聞き届ける事が出来る距離であった。

 そんな彼の耳が手に入れた内容に不知火九十九は神妙な表情を浮かべている。

 ――なに、苦しい事言ってんだよ。

 ギリ、と歯噛みしながら拳を握りしめる。

 静流にそんな事を言わせるようではダメだろうと魂が九十九を叱責する。このままではいけない。こんな空気は求めてなんかいやしない、と。

「んな場所で突っ立って、どうかしたのか、不知火?」

 そんな時に九十九の背中に向けて声がかかる。何処か色気がある声音にも関わらず、粗雑な口調がどこか印象的。艶やかな金髪のブロンドを一房、三つ編みに結ったセミロング。面貌は日本人離れした白色の美貌があり、女子としては高めの身長を持ったプロポーションの良い美少女の姿がそこにはあった。

 この不知火家は従者三家と呼ばれる家柄である事から従者と言う存在は雇っていない。だがしかし彼女の服装は見事なまでのメイド服。不知火にあって不知火にそぐわない、その異国の血が混じった少女の名前は矢矧(やはぎ)=セントーレアと言った。

「矢矧か」

「風呂入りにきてみりゃ、こりゃなんだ。そこでなにしてんだよ?」

「何してるのか、か。そうだな……何してんだろな」

「は?」

 ポカンとするセントーレアだったが不意に彼女の眼にあるものが映った。少女二人の衣服である。セントーレアも不知火家に住まうもの。少女二人とは面識がある――と言うより、世話を務めているのが彼女であった。

 しかしそれは今はどうでもいい。今の彼女の心境は唯一つの疑惑に染まったものだ。

「……お前、まさか……覗きか?」

「はあ? 女子の裸見て何が楽しいんだよ?」

「そうか。安心と同時にお前の将来が不安になる返答をあんがとよ」

 それはないか、とセントーレアは納得しつつ、同時に彼を心配にも感じた。

 本当に――コイツは大丈夫だろうか、と。

 しかしそこを追及しても詮無きこと。

「じゃ、何してんだここで?」

「ああ……まあ、風呂場で会話を訊いちまってよ」

「……ほー、なるほど」

 その一言でセントーレアは大方察した。

 会話で何か心に触れるものがあったのだろうと。だから立ち止まって聞いてしまったという辺りなのだろうか、と予測をつける。

「アイツさ……静流の奴よ。やっぱ怖がってんだなって思ってさ」

「ああ……」

 それはそうだろう、と彼女は思う。

 不知火家に置いては同性と言う事もあってそう言う感情は、九十九よりも機敏に感じ取るのは彼女にとって至極当たり前の事と言えた。

「ま、当然だろね。なんたってあの子、まだ子供だからね。容姿で妖魔は判断出来ないけれど、あの子は確実にまだ子供だし。怖いってんなら当然ってやつでしょ」

「だよな。普段、メチャクチャ明るい癖してよ……頑張ってたのかね?」

「違うと思うよ、あたしは。ありゃきっちり楽しんでたね。楽しんでたぶん――今、ああして幸せが壊れる事を怯えてるんだよ、あの子は」

 壁に背中をつけた状態で腕組みしながら憮然と答える。

 セントーレアには、静流の様子をそのように感じられた。だから、思ったままに口にしてみただけだ。実際はどうかは無論わからない。だからこれは唯の推論。しかし、九十九は「そっか、そう言う感じか」とどこか納得した様な声を零す。

「あんがとよ、矢矧。おかげで得心行ったぜ」

「逆にこのくらいでわからねーっていうお前は不勉強だっての」

「へへ、みてーだな。女心は難しいもんだぜ!」

「いや、お前は女心が難しいどころかわかってさえねーでしょうが」

 何故だか頭を抱える様子で呟くセントーレアに対して九十九は「それは言い過ぎじゃね?」と不平不満を零している。だがセントーレアはそこは譲れない、むしろ譲りたいのに一向に譲れそうにない現状を嘆く始末だ。まあ彼女的にはそれはどうでもいいのだが。

 しかし、やはりどうでもよくない。

 この後の行動が彼女をそう決定づけさせた。

「さて、んじゃ俺もあいつに声かけてこねーとな」

「ん。励ましか。まあ、頑張りな」

「おう! 一っ風呂入ってくっぜ!」

「へいへい――いや、ちょっと待てダボハゼ」

 バッと上着を脱いで上半身裸になった九十九の肩を思わずガシッと掴む。筋骨隆々とした体躯に直接触れるのが微妙に癪に障ったが、この際それはいい。問題は別だ。

「お前、何、しようと、してるわけ?」

 汗を滂沱の如く流しながらセントーレアは尋ねかける。

 対する九十九はきょとんと、


「んなの、一緒に風呂して友情深めてくんのに決まってんじゃねーか!」


 そんな無知蒙昧を晒してくれた。

 頭痛がしてきそうになる。

「お前……不知火九十九、バカだバカだとは知っていたが、ここまで常識がねーとは……」

「ああん? 謂れのねぇ侮辱は流石に怒るぜ俺だってよぅ!」

「謂れがあり過ぎて困るっつのこっちは!」

「え、ええ、マジか……!」

「大マジだ。どこの世界に励ましの名目で、女が入ってる風呂場に突貫する男がいんだっつの! 逆ならまだいいさ、まだ然りだよ、相手も妊婦になる度胸でもあんだろうがよ! 逆はねぇよ! 古今東西、逮捕劇だよ!」

「ははは、大袈裟過ぎるぜ」

「ダメだ不知火家の教育がなってねぇ!」

 セントーレアは頭を抱えて絶叫に似た声を上げる。

 そう、問題なのは不知火九十九と言うよりかは、不知火家にあるのを彼女はおおよそ察している。だがしかし、この貞操観念の希薄さは何としたものか。

「えー、けどアイツは普通に入ってくるぜ?」

「アイツ……ああ、あの人はそうだろうがな。今回はもとい、その人以外はダメなんだよ」

 セントーレアは固くそう進言する。

 脳裏に浮かぶ知り合いこそ、九十九と一緒に風呂に入っても問題無いが、今現在風呂場にいる二人はダメだ。二人の健全――いや、いっそ静流の方はまだいい。幼いが故に兄妹感覚だろうが問題は勇魚の方だ。ピンチ過ぎる。

 しかしそんな思いとは裏腹に九十九は下半身を大気に曝していた。

「はぇぇよ!」

「何がだ?」

「何時脱いだ!」

「さっき」

 力強い声で断言する無自覚無頓着無防備の九十九に対してもうどうやって止めればいいのかわからなくなってくる程だ。

 その上、無駄に勇ましい声で彼は告げた。

「――よくわからねぇが、矢矧。お前が止めるって事は俺の行動のどこかしらに間違いはあるのかもしんねぇな」

「むしろ間違い以外に何もねぇし」

「だが言わせてくれ。それでも行かせてくれ、と。俺はこんな場所でただ二人の心の悲鳴を聞いてるだけなんて嫌なんだ」

「そりゃ理解は示すがっ」

「俺は――俺は男の中の男を目指してんだ。益荒男になる事こそが俺の生涯。ならよ、ここで女の助けを求める声を聞き逃したらダメだろう? 末代までの恥なんて堅苦しいもんじゃねぇ、不知火九十九の無恥って奴だ。そりゃなんねぇ。そんな醜態さらせねぇ。俺が俺である為に。不知火九十九が伊達じゃねぇ、傾いてみせなきゃ誰も安心出来ないだろうが」

「格好いい事言ってんのは分かるがっ!」

「見てな矢矧。男を見せるぜ不知火九十九ォッ! いってくらぁ!」

「何だろうな覗きを宣言してるだけみたいだし――って、ああ!?」

 妙な迫力に気圧されていたセントーレア。その隙を図らずもつく形で不知火九十九は男の街道を一直線に突き抜けた。

 恥も外聞も気に等しない。

 男の本分ここにあり。

 女子二人が素っ裸でいる空間へ何の萎縮もせずして、全裸の巨漢は突貫した。

「話は聞かせてもらったぜ二人とも!」

 扉を開け放った瞬間にセントーレアの耳に圧倒的無言がしばし漂った後に「し、不知火君!? どうして!?」と悲鳴じみた声と「おー、マッスルだなつくも!」と言うあどけない少女の声が聞こえてきた。

 ――もう止まるまい。

 そう判断した後にセントーレアはとりあえず傍観者に徹する事にして気持ちを落ち着ける事にした。そして不知火家の教育理念に対して改善の余地ありと深く考察する次第だった。



 佐伯勇魚は困惑していた。

 眼前には静流がいる。それはいい。問題無い。

 だが並んで九十九がいる。静流と楽しそうに湯で遊んでいるし、静流が九十九の筋肉をぺちぺちして遊んでいた。微笑ましい限りだ。

 それはいい。もっと前が問題なだけで。

(え、えっと……あ、あれ? 男女ってこんなアッサリお風呂入るものなんでしたっけ?)

 体中真っ赤になりそうな羞恥に苛まされながら佐伯勇魚は悶絶していた。

 年頃の男女が風呂場であっぴろげに裸体を晒して風呂に入っている。

 一行で示せばこんなものだろうか。

 さて、おかしい。そんな気安いものではなかったはずだ。

 目の前の微笑ましさマックスの光景を見れば、もしや一宿の宿代として体を求められているのだろうかという危惧も抱けない。なんだこれはとなる始末。

 実際、九十九がそう言う行動をする悪漢とは土台思ってもいない勇魚だ。

 故にこれはどういう事だ、となる次第。

「え、えと」

「お、どした佐伯」

「ど、どうしたと言われるとこっちが困っちゃうなーって感じなんですけど不知火君っ」

「はは、そんな固くなってんなよ変な佐伯だな。それよか離れすぎてね? もっとこっちこいよ静流だって寂しそうだしよ」

「え、ええ……!?」

「そーだぞ、いさな、どーしたんだ?」

「いやいや静流ちゃん……!?」

 ダボダボと汗が流れる。

 ――おかしい。これはおかしい。

 何がおかしいのかわからなくなる勇魚である。

(な、なんだろ……私が間違ってるのかな……?)

 九十九にテレは見受けられない。威風堂々。困るくらい威風堂々だ。タオルで腰元を隠したりもしていないくらい威風堂々だ。男らしい限りである。男らし過ぎて目を背けたくなるくらいだ。静流は反面天真爛漫無邪気一貫だ。言うまでも無く何もわかっていない。

 眼前の両名はまるで『勇魚がおかしい』みたいな表情しか浮かべていない。

 幼少期そんな視線に晒された事もある勇魚だがその時の辛さとは全く別の辛さである。

 ――御仏よ。この無体な仕打ちは私への試練なのでしょうか?

 そんな、言葉が思い浮かぶ程に佐伯勇魚は切迫していた。

 まあ、ここは慌てても仕方がない。端的に状況を整理してみよう。勇魚の思考は現実逃避の様に現状の再認識へと転化した。

 場所は不知火家の大浴場。

 その湯船に勇魚は全裸で浸かっている。

 前方には「おおー」とぺちぺちして楽しそうな静流のめんこい姿があり。

 その隣には「くすぐってぇぜ!」と、快活な笑顔を浮かべて筋肉をぺちぺち叩かせてやっている九十九姿。無論、全裸だ。タオルで隠す貧相な身体などしていない。誇れるマッスルだ。

 そして当然湯の色は無色透明。

 白く濁った湯などではない。見晴がよく素晴らしい限りだ。

「もう無理ぃ、お風呂あがるぅ」

 改めて認識した結果、勇魚が壊れた。真っ赤になって涙声である。

「いや、ダメだぜ佐伯。まだ出させるわけにゃいかねぇな」

「どうじでぇ!?」

「頼む。訊いて欲しい事があるからだ」

「それでしたら、お風呂あがった後に存分に聞きますが!?」

「ダメだ。こういう場所じゃねぇと話せねぇ」

「逆にこういう場面だと話せる話題って何でしょうか!?」

 真っ赤になって叫ぶ勇魚は必死に体を隠しながら問い掛ける。

「今から話すぜ。でもよ、その前にまずはもっとこっちこいよ」

「無茶言わないでください!」

「いさな、どーしたんだ? 顔真っ赤だぞー?」

「静流ちゃんも早くこっちきましょう! ね!」

「えー。折角、つくもも一緒なんだしたまには」

「ダメなんですー!」

 子供である静流は全く恥じらいがない。そうだろう。年上のお兄ちゃんと戯れる五歳児の少女みたいなもんだ。恥じらう要素がまるでない。ただその渦中に巻き込まれている勇魚のピンチは計り知れない。

「なんでだよ、佐伯。お前もマッスルぺちぺちしていいんだぜ?」

「ぺちぺちなんかしませんっ!」

 異性の身体にぺちぺち触れる度胸なぞ初心な勇魚にとっては接近が早過ぎて出来るわけがない。その上、目に入ってしまう九十九の肉体は男子としては物凄く筋肉質なのでぺちぺちすれば異性として意識してしまう事この上ない。

「楽しいぞこれいさなー。つくもの身体凄く固い。かっちかちだ」

「へへーん、筋肉だからな」

「でも、つくも。いさなの体は凄くやわらかいんだぞー」

「静流ちゃん!?」

 静流の零した感想に勇魚はガーンと衝撃を受けて真っ赤に染まる。そんな様子にはわき目も零さず「あー、確かに柔らかそうだよなー。女ってあんま筋肉つけねぇしなー」とマジマジ勇魚を見ながら感想を述べていた。

 肝心の勇魚はマジマジ見られながらの感想がそれなので「……何故でしょう、何だか女の子としてのプライドをメチャクチャにされた気がします……」と嘆きを発していたが。

「まあ、いいや。そのままでいいから聞いてくれよ。佐伯も、静流もさ」

「ん、なんだ?」

「……どうぞ、お話ください」

 どよーんとしながら勇魚は促した。色々悲しい気分である。

 だが九十九はその事には気に掛けず、真剣な顔でこう切り出した。

「まずは一言断言するぜ。心配なんかいらねぇ。お前らが助かる様に俺も全力を尽くす」

 大前提。二人が不安に抱いていた気持ちをまずは払拭せねばならない。勇魚の静流を守り抜いてあげたいと言う気持ちに答えて、静流の居場所を守ってやらねばと言う想いがある事をしかと伝えてやらねばならないだろう。

 その九十九の姿勢に静流が「……つくも」とどこか真剣みを帯びた声を発して、勇魚は「わかってますよぅ、言いたいことは。でもでも、どうしてこんな場所で……」とぶつくさぼやいていた。

「色々不安な事があるってのも知ってる。だが信じてほしいんだぜ。俺はお前らを守ってみせるってな。聖僧院――殊更厄介な奴らなのは重々承知だ。けど、力の限りに抗って絶対に守り抜いてみせる。そう断言するぜ!」

 九十九の宣誓。

 それは実に素晴らしいものだ。守り抜くために戦ってくれると言う彼の決意。元々無関係者であったにも関わらず手を貸してくれる。その優しさが涙がこぼれる程にありがたい。

 この風呂場でなければ尚更に。

「……不知火君」

「おう、何だ」

「あ、ま、マジマジとこっちに視線向けちゃダメですよぅ」

 勇魚は恥ずかしがりながら胸の前で腕を組んで隠しながらお湯に身を沈める。しかし無色透明なお湯なものだからちっとも羞恥が消え失せない。その上、九十九も堂々としているせいで目を向ける事が出来ない。破廉恥だ。

 だが恥ずかしさとは別に告げておくことがある。

「……わかってますよね? 聖僧院……彼らがどんな存在なのかを」

「当たり前だろ。聖僧院――滋賀を中心に存在する破戒僧の宗教で、目的は妖魔滅尽。門徒の数は千や二千を容易く超える破戒僧の派閥としては日本最大、か」

 実に面倒臭い相手だと思う。

 そもそも破戒僧とは戒律を破った僧侶と言うだけで妖魔を滅尽する為だけの存在では無かっただろうに、何時の間にそんなポジションを確立したのかと畏怖するものだ。所属する面々全てが妖魔を敵視している――そんな存在がいると言うのは妖魔にとって忌避すべき存在だろう。

 実に面倒臭い――そして難しい問題だ。

「……妖魔を嫌うと言うのは一概に無下には出来ない事です。古来の日本の伝承を遡っても妖魔に襲われた。喰われた、何て言う話は五万と出てくるでしょうし、恨み辛みを買わない存在とまでは擁護は出来ません――けれど、それは人も同じ。妖魔も良い妖怪は五万といますし、人と大差ないと思うのですが……」

「ま。人と違うってだけで嫌煙する奴もいるしな。その感性を一概に酷とは流石に言い辛いがそれにしたって何事にも適量ってのもはいるもんだ」

 九十九は嘆息を浮かべながらそう告げる。

「そんで俺からすりゃあ静流なんかは完全な被害者だろうよ。上弦狐って別に悪い妖怪とかじゃあねぇんだろ?」

「はい。静流ちゃんの一族は実に平和な種族ですね」

「そうなのかな? 静流にはよくわからんけど……。でもみんな一日中、団子作って町で団子屋やってたな。一日ずっと静流もお団子ぺちぺちしてた」

 平和過ぎて何も言えない気持ちになる二人である。

 むしろ良く生活基盤が整っていたものだと死んだ族長を褒めたいくらいだ。

「……そんな平和な種族なのにどうしてあんな……。そもそも、妖狐族は神聖な妖魔の一角ともされているのに」

「確かになあ」

 九十九も小さく首肯する。

 妖狐は偉大な一族なのだ。知名度は言わずもがな――と、そこで九十九はふと頭をよぎるものがあるのに気付いた。はて、と訝しむが答えが中々出てこない。苦手だが熟考でもしてみようか、と考えると知恵熱が発症しかけたのでやむなく止めた。

 小難しい事は領分じゃねぇや、と快活に笑い、

「ま。何であれ心配すんな。佐伯の願いは叶えるし、静流の事は守ってみせらぁ。どんと構えて立ち向かう。俺がすべきことはそれだけだ」

 胸板をドンと力強く叩いて彼は言った。

 その様子に勇魚は「……流石不知火君ですね」と、どこか浮ついた様な何やら危うい様なほわほわした声で感想を零す。そして渦中の童女、静流は――、

「つくも」

「お? 何だ?」

「ありがとな」

「……へっ、よせよせ。照れるぜ」

「ううん、うれしいぞ。静流は凄くありがたい。だから……」

「ん? 何だ?」

「いや、なんでもないぞ。ほんとありがとな、つくも!」

 はにかむ様に笑った静流に対して九十九は快活な笑みを浮かべて返すと照れ隠しのように、風呂からざばっと上がると「んじゃ、俺はもう出るぜ。二人はのんびりしてな。何か楽しい話でもして盛り上がれよな!」と明るい声を後にして去ってゆく。初めから終わりまで、歯に衣着せぬ言動を貫いた少年は清々しい気持ちと共に風呂場を去っていった。

 そして――、

「もう無理ぃお風呂熱いよぅ……」

「あれ、どしたいさな? ……いさな? いさな……?」

 残された少女二人のうち一人。佐伯勇魚遂ぞ臨界点に達したのか、ぷかぷかと湯船を浮かぶ末路を辿ったのだった。




第八章 幕間:エロ・エローエ ~男の矜持~ 

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