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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
42/69

第七章 前篇:休日唱歌

第七章 前篇:休日唱歌


        1


 暗雲立ち込める夕闇の下。街の灯りが照り付け、夜を払う街中で、その黒塗りの車両は駆動音を響かせながら車道を滑らかに疾走していた。道路の速度目一杯で駆け抜けている。

 しかし中にいる少女――鷹架理枝も法定速度を順守する姿勢は承知の上だが、心情的にはもっと早く走らせてもいいんじゃないかな、と内心愚痴を零していた。

 窓の外を特殊な術式を付与した目で見据えながら指先でとんとんとせわしげに自分の膝を叩いていく。

 そんな事をしていると、彼女の前――助手席に鎮座する何処か冷淡な女性の声が窘める様に響いてくる。

「お嬢様。焦ってもいい事はありませんよ?」

「……それは理解してんのよ」

「なら、もう少し落ち着かれた方が良いのでは?」

「……焦りもするのよ。一昨日、昨日と取り逃がしているんだから」

「心中お察ししますが、急いては事を仕損じる、ですよ」

「なにそれ?」

「日本のことわざです」

「どういうニュアンス?」

「急ぎ足で行った仕事はミスが多い、と言う事です。下手に動き過ぎて、警察に不審の目を向けられたらそれはそれで面倒事にもなりますしね。敵は天魔以外に、最近話題の脱走犯などいるのですから」

「……肝に銘じておきましてよ」

 確かに自分は急いでいる自覚がある。彼女の言葉は最もだろう。

 何故、急いでいるのか。それは今から数十分前の出来事――一昨日、昨日と逃げられてきたウシ型の化け物を発見し襲撃したからだ。襲撃と言っても近づいた途端に難なく配下と思しき魔物を放たれて手の平で遊ばれた様な醜態を晒す羽目になってしまったが。

(本当に逃げ足が速い……いえ、戦う様子を見せない辺りが嫌らしいわ)

 こちらが喧嘩を吹っかけても部下を召喚するだけですぐに逃れてしまう。

 今日に至っては、戦う理枝の姿を見ながら、

『何か一昨日といい、昨日といい、ご苦労さんだねーガール。美容健康大丈夫かい?』

 と、肌の心配までしてくれた始末。

 笑われているとしか思えない。殴ってやりたい衝動に凄い駆られる。

 無論、それを逃げ続ける相手に対してやるのは困難だ。しかし、今回に限っては理枝には手札が存在している。それが助手席で今日に間に合わせて合流をした彼女の言葉である。先程の交戦の折に彼女が把握した情報がカギだ。

川蝉(かわせみ)さん」

「何でしょうか?」

「再度確認するけど――間違いないのよね?」

「ええ。夜目は効く方ですから間違いはないかと」

「なら、何よりよ」

 理枝は深く息を吸ってそう呟いた。

 彼女、川蝉の情報が事実であれば今こうして車を走らせている事にはちゃんと意味を持てている。草の根を分けても探し出す、ではなく的確な場所目掛けてへと。

「待っていなさい、ウシ型の天魔……!」

 ぎゃふんと。

 ぎゃふんと言わせなくてはならんだろう。一昨日は小型の配下を相手にし、弓削日比朧がしつこく付きまとってきただけに逃した邪悪の権化を。

 昨日は探していたが見つからず何やら凶悪な気配を辿ってみれば、敗北寸前みたいな醜態を晒した蜘蛛の様な化け物とは関係性が見えてこない邪悪の権化と。

 そこまで考えて「……?」と理枝は首を傾げた。

 ちゃんと相対したのは今回が初めて――と言う事になるのでは……? そしてその割に数日の動きが知られている気もしてきた。

 しかしそれよりもまず、街中で妙な邪魔と言うか無関係者に手古摺り過ぎている気がしてきた理枝である。上役から『今の時期、横浜周辺大変だから頑張るんだよ?』と、言われた意味がだんだん解ってきた気分だ。

 なにやら面倒臭い事実を再確認したところで、助手席の川蝉が声を発した。

「ところでよろしいのですか?」

「え? 何がです?」

「いえ。驫木に聞く話によれば、一緒に行動している少年がいると訊きましたが」

「……驫木? 話したの?」

 ジト目を運転席にいる、強面の男性、驫木へ向ける。

 轟は豪快に笑いながら、

「はっはっは、まあ話のタネ程度につい! まあ、許してくだせぇ、お嬢様!」

「貴方ね……」

「それでいいのですか?」

「それで川蝉さんは何を言いたいのよ?」

 不貞腐れた様子を浮かべながら理枝が問い掛けると川蝉は平坦に、

「いえ。どうやらその少年もあの天魔を追っている様子ですし、共に行動されたのでしたら彼に発見報告しておかないのかと思いまして」

「……バカを言わないで。弓削日比――彼は無関係だもの。今日だって、あんまり遅くなっても一緒にいるから早く帰る様に促したわけだし」

「自分ももう今日は帰るから、と言った割にはその後すぐに気配を感知した場所へ出向きましたけどね、お嬢様。私が合流したのを確認してからすぐに」

「うっ。ど、どっちにせよダメですよ。遠いですもん彼の家からあそこまでは」

「それは確かに……。とはいえ、気配はこちらへ走っていく辺り、やはり拠点とする場所はこちらの様ですね」

「ええ。実際、今向かっている場所も……」

「はい。ですから一応確認を取りました。伝えなくていいのか、と」

「構わないわ。実際、『アークスティア』の仕事に彼を巻き込む気はないもの」

「そうですか。わかりました」

「ありがと。でも川蝉さんも所属して長いのに、どうしてそんなイレギュラーな事、一々確認してくるのよ?」

 仕事に一般人は巻き込まない。

 それは『アークスティア』のみならず、大概の業界が同じ事だ。なのに、組織ではそこそこ経歴が積まれている人材だと言うのにどうして、そんな一般人を巻き込むかどうかという話題を提示したのか理枝は甚だ疑問だった。

 その問い掛けに対して川蝉はただ一言。

「いえ。そう言う流れで拒否をした割にその後、自然と巻き込んでいたりしたケースを組織で見かけた事がありましたので」

 そんなよくわからない発言に理枝はただただ首を傾げる他に無かった。


        2


 温かな家庭。実家の安らぎ。

 暖炉があるとか、ストーブがたかれているとかそう言う話では無い。実家と言うその安心感が織り成す至福の空間――それが弓削日比家にもあった。

 一昨日の騒動後に理枝の言葉に食い下がらず昨日、今日と行動を共にしていた彼だったが、本日は流石に探していた時間も遅くなった事から『もう帰りましょう。今日はここまでにするわ』と言われた以上は仕方ない、と家へ戻った彼を出迎えたのは妹の『遅かったですね、にいさん』と言うふくれっ面と――、

「ああ……。至福だ。妃奈のメシは最高だよなー!」

 温かな夕餉であった。

 ずらりと並んだ夕飯のメニュー。回鍋肉に卵入りスープ。それに焼き魚と二人分の食事が白米の盛られた茶碗と共に彼を温かく包み込んでくれていた。妹のお手製。妃奈の淑やかな愛情が育んだ夜ご飯である。

「ありがとうございます、にいさん」

 照れた様に微笑を浮かべる妃奈を見ながら可愛いと何度も思う朧である。弓削日比家の長女は本当にいい子だと実感する毎日だ。妃奈ちゃんマジ天使。

「しかし、何も待ってなくて良かったのにな。こんな遅くまで」

「それにいさんが言いますか?」

「面目ないです」

 ジト目で睨まれて朧は素直に謝罪した。

 今は夕餉の時間。

 時刻は九時を回ったところ。

 遅い。明らかに遅い。夕餉の時間としては明らかに二時間近く回っている。

 無論、普段から弓削日比家の夕飯の時間がこんなに遅いわけがない。テーブルを囲む数が二人と言うのは日常の光景だが、時間がここまで遅くなる要因は当然ながら――朧の行動によるものだったと言える。

 瑠依を巻き込んだ牛の化け物――奴を探す関係で夜遅くになってしまった為だ。

 先に食べていてくれればいいと思ったのだが、妃奈は律儀に待っていたらしく、現在こうして自分と食卓を共にしていた。

「本当にもう……にいさん今度は何をしてるんですか?」

「いやあ何て言うか、牛追い祭というか」

「ここはスペインじゃありませんよ? それに現在は玉追い祭ですから」

「マジか。牛を追わない伝統行事にどんな価値があると言うんだ」

 スペイン。サン・フェルミン祭の伝統行事エンシエロが唯の玉ころがしにされた、と言う妹の情報に思わずショックを受ける朧である。運動会か。

「はぐらかさないでください。まあ、にいさんの事ですし女性絡みなんでしょうけど」

「うわぁ、よくわかるな流石妃奈。けどなんでむくれてるん?」

「べっつにー」

「妃奈が不貞腐れてる……!」

 とりあえずふくれっ面もとい膨らんだ頬をつついてみた。妃奈が恥ずかしそうに「つつかないでくださいっ」と赤面を浮かべている。可愛い。更につついてみた。妃奈が不貞腐れながら甘受する姿勢を見せ始めた。流石の天使妹である。

「……危ない事とかしてないですよね?」

「まあ、そこそこは」

「何ですかその不安になるアンサー」

「ま、大丈夫だよ。妃奈が不安がる事はないからさ」

「にいさんがよくわからない事に首突っ込むのが私の不安ですけどね」

「大丈夫、足しか突っ込まないよ」

「足も突っ込まないでください……」

 はあ、と妃奈は嘆息を浮かべる。

「本当に危険な事は止めてくださいね?」

「ああ、わかってるよ」

「夜中にウロウロしてて補導されたら、お父さん怒髪天ですよ、きっと」

「親父怒髪天か……それが一番恐ろしいな」

 警察の偉いさんである父親が『息子さん補導したんですが』なんて電話を受けたら、その瞬間に烈火のごとく怒り狂うだろうは目に見えている。確かに気にしてなかったが、そうなった時が一番恐ろしいと身震いする朧である。

「気を付けるよ」

「本当ですよ?」

 にいさんは仕方ないですね、と妃奈は柔らかく注意する。

「何に対して頑張っているのかはわからないですけど、自分の身の安全は何時だって第一なんですからね?」

「まあ、そうなんだけどさ。俺としては妃奈の方を優先したいしな危険な時とかは」

「――えっ」

「後は瑠依に生徒会長にクラスメイトの――あでっ!」

 そこで唐突に額目掛けて妃奈のグーパンチが飛んできた。

 朧は額を擦りながら「ど、どうした妃奈えもん?」と不思議そうに返すと「君は本当にバカだな、おぼたくん」と怒った様にふて腐りながらノリに乗ってくれる愛妹を一瞥する。

「俺、何か変な事言ったっけか?」

「別に。にいさんが朴念仁なのは今に始まった事ではありませんし」

「うわ、ひでぇ言い草だ妹が」

 良く分からないが、どうやら拗ねたらしい。

 こういう場面は瑠依もそうだが「なんなんだかねぇ?」と不思議そうに腕を組んで考えてみるが相も変わらずわからない限りである。

 と、そこで不意に服のポケットの中から着信が響いた。

「おんや?」

「電話ですね?」

「みたい。ちょい飯中で悪いな」

 妃奈に軽くそう零してから朧はポケットからタブレットを取り出した。画面を見てみれば、そこには『茶畑(ちゃばた)草刈(くさか)』と言う名前がある。連と朧の共通の友人の名前であった。

「もしもし茶畑(ちゃはた)っち? どしたん?」

「あ。もしもし、こんばんは朧君」

 通話越しに響いてきた相変わらずの物腰柔らかで丁寧な挨拶だった。

 男子生徒なのだが、女子の様な高めの声は電話越しでも変わらず響いてくる。

「あー……うん。ちょっと気にかかる事があって電話したと言うか……」

「って言うと?」

「実はさ。さっきれんきゅー君から電話があったんだよね」

「れんきゅーから? それがどうかしたん?」

「うん。実はね――」

 そこから語り出された内容を朧は「うん。うんうん。ほうほう」と相槌を打ちながら聞いていくと途中から若干笑いを含ませた様子を浮かべる様になっていった。妃奈はそんな様子を不思議そうに見ていたが、流石に事情はわからないので小首を傾げるばかりだ。

「とりあえず私、お風呂入れてくるね?」

「おう。ありがと妃奈ちゃん」

 小声でそっと遣り取りを交わした後に再び意識を草刈に向ける。

「けど、そっか。そう言う感じのねー……。でも、それ口止めとかしてなかったか?」

「うん、やっぱわかるよね? 『言うなよ? 絶対に言うなよ? 絶対だぞ? 絶対だからな?』と三度に渡り念を押されたよ」

「ははは、そっかそっか」

「笑っちゃ悪いよ?」

「いや、でもその発言は笑うって」

 テンプレの様なフリ的な発言に思わず苦笑を零す朧である。

 だが連がそこまで言ったと言う事はよっぽど普段と違う精神状況だったのではないか、と不思議にも思う。連だったら『黙っとけよ』の一言くらいで済ませそうだ。

 そんな想像をしつつ、朧はここで微かに様子を変えた。

「で、茶畑っち。それが本題じゃないんだろ? 結局何で電話かけてきたん?」

「あ、うん。それなんだけどね……」

「僕、何というか……伝えない方がいい情報まで洩らしちゃったんじゃないかって思ってさ。それでれんきゅー君が何するか不安になって……」

 ――やはり、か。

 草刈は人の恥部をわざわざ教えて話のタネにする様な人種ではない。ともすれば、何かあるのかと勘繰っていたが、やはりというか何か不安の種の方があった様だ。何があったのか。とりあえずそこを説明してもらわなくてはならないだろう。

「とりあえず詳しく訊こうか。はなしてくれ」

 そうして会話は続いていき最終的に「わかった。そう言う事なら俺がちょい、様子見て来るよ。なーに、平気平気。茶畑っちは安心しておけって!」と、胸を叩いて返した返答を訊いた草刈が「ありがとう。恩に着るよ、朧君」と言う安堵した様な声が聞こえてくるまで続いたのである。



 妃奈は台所のアラームが響いた事を確認すると、テーブルから立ち上がった。お風呂が沸いたと言う合図なのだ。彼女はそれを訊くとすぐに二階の自室に入っているであろう兄へ向けて階段越しに声を張り上げた。

「にいさーん! お風呂湧きましたよー!」

「おー、ありがとな。でも俺、ちょっと出かけてくるから、後でいいよ。先、入ってな」

「はい――って、え、ええ? にいさん、どうして玄関で靴を履きかえてるんですか?」

 そこまで言ったところで妃奈は普段、自然な流れで済ませられるはずの光景が今日は様式が変わった事にハッとして部屋へ入りかけた足を翻した。二階の自室ではなく、玄関で靴を履き終える兄の姿が見えたのだからしょうがない。

 何をしているのか、この兄は? と不思議そうに駆け寄ってゆく。

「もう十時ですよ?」

「うん。まあ、そうなんだけどさ。ちょい野暮用出来たっつーか」

「こんな時間にですか?」

 訝しむ様に見つめてくる妃奈に対して朧は苦笑交えて頬をかいてしまう。

「やー……別に変な事とかしようってわけじゃないぜ?」

「にいさんですし、変な事しようとしてるのは問題無いんですが……」

 ――妃奈ちゃんの理解力マジ理解力。

 変な事をしようとするのが自分とは流石、妹である。そしてそれを普通に甘受している辺りが微妙にやるせなくなったが、この際それは気にしないでおきたいところだ。

「夜道は危ないですし、気を付けてくださいね?」

「ま、気を付けるよ。けど、それ俺に言うか?」

 思わず苦笑を浮かべて返す。

 夜道を、夜を気を付けろと言われるのは未だにどことなくむず痒く感じる。しかし妃奈は穏やかな笑みを浮かべながら端的に一言を零した。

「だって、今はにいさんですし」

「……ん。そっか」

 そう言われてしまえば返す言葉などありはしない。朧は素直に頷いた。

「んじゃ、妃奈ちゃんも戸締り気を付けろよ」

「わかってます」

「不用心だと、空き巣とか入ってきちまうしさ。そしたら可愛い妃奈ちゃん目にしたら襲われかねないんだからな?」

「ちゃんと用心しますよ。あ、あと可愛くはないですからねっ」

 ――うむ、可愛い。

 まるで天使の様だ。真っ赤になってむくれる妹のなんと愛らしい事か。寝ているところにほっぺすりすりしたくなる程の可愛らしさだ。妹相手にそんな暴挙に出るわけはないが。

「ま。ともかく行ってくるよ。お土産期待しててな!」

「はい、行ってらっしゃいです。出来たら、早く帰って来て貰えると嬉しいので、お土産は期待しませんからね?」

 そんな他愛ない会話を交わした後に朧は玄関のドアを開いて外へと足を踏み出した。

 広々とした家の庭を歩き進めて、家の外へと通じる黒塗りも門の前へ足を運ぶと、軽く跳躍して門を一足飛びで飛び越える。一々、門を開け閉めするのも億劫だし手間がかかるので急ぐ時はこれでいいだろう。セーフ、セーフと内心呟く。

「さーて。れんきゅーの奴はどうしてっかな」

 草刈が通話越しに話してくれた連の慌て振りから察するにもう西洋学校へ向かっているだろう。

 問題は、その動転ぶりだ。それを鑑みれば致命的な事を連が見落としているのではないか、と言う想定である。おそらく、連にそれをどうにかする技巧は無いだろう――朧は仕方ないな、と溜息を吐き出しながら登下校に使う為の道を少し早めの速度で闊歩していく。

 十時ともなればすっかり夜の帳が降りており、真っ暗だが街灯が灯されているので安心して歩く事が出来る。無くても、自分の眼なら平気だが、やはり在った方が事故防止にも通じるので安泰だ。

「さっさと済ませて風呂入りてぇなー」

 妃奈に対しても幾分心配をしているだろうし、早めに帰らなくては。しかし連もまた発見が遅かったものだ、考えると思わず可笑しくなってくる。きっと鬼怒川先生とかの怒気の顔を想像して動転の末だったのは想像に難くない。

 ひんやりとした夜道を、そんな妄想で楽しみつつ歩いて行く朧だったが不意に怖気――の、様な感覚に捕らわれて思わずバッと顔を上へと振り向かせた。

 すると、そこには想像しなかったもの――なにやら、大きな異形の姿が月明かりに照らされシルエット状に浮かんでいた。見覚えのある禍々しいさま――それを見た瞬間に朧は強い焦燥感に駆られて足取りがぴたりと停止してしまう。

 すると向こうも目ざといのかこちらに赤い眼光を向けると翼をはためかせて、朧の傍へと、街灯の一つの上に軽やかな所作で乗っかってきたではないか。

「Oh――誰かと思えば、この間のボーイじゃあないか。ナイス・ナイトに出会ったね!」

 そして、あいも変わらずどこか拍子抜けする様な気軽さで接してくる。

 毒気を抜かれる様でいて、月明かりに浮かび上がる漆黒の禍々しいシルエットはそう言った予断を許さない様にも感じられ何とも歪、不可解な光景の様ですらあった。

 だが、今はそこを気にしている場合では無い。

「何で、お前がここにいるんだ……?」

「ふへっへーい。別に私がどこになうでもフリーダム・エンジョーイだろう?」

「うん。それは確かにそうだ」

「話がわかるじゃないか。今度、ワインでも一緒に飲もうか?」

「生憎と未成年なんでな」

「おっと、ソゥリー。これは失念していたよ。げげげげっ」

 可笑しそうに赤い双眸歪ませ、腹を抱えて笑いを零す化け物を前に、朧は中々気を抜く事は出来ない状況にいた。思わず緩みそうになる心をぐっと押し留めておく。気を抜いた瞬間に、何がどう変遷するかと考えれば、流石に不安は拭い切れなかった。

 そんな心を見透かしたのか眼前の化け物は肩を竦める。

「そんな気負いしなさんなって。別にユーをどうこうしたりする気は今はナッシングなのだからにゃーお」

「信じていいのか――と、疑るだけ野暮だから信じておくとするよ」

「げっげっげ! 本当に話が分かるなあ、ボーイ! うむ――まあ、今告げた通りに『今は』だから気は抜かないでおく事もオススメしておくがにゃーん」

「どっちなんだよ」

 からからと可笑しそうに笑って返す朧。この局面で、こう言った自然体が取れる事もまた実に彼らしい。常人にはなかなか難しい行為に、化け物は再び感心した様子で腕を組む。そうしてどこか神妙な面持ちでこう呟いた。

「ふむ。やはり、人は侮れんな」

 畏怖すら込めた様な言動――それを前に朧は事前に聞いていた、理枝からの情報と照合し、やはり、と改めて認識を取る。

「その発言――やっぱ、人外なんだな」

「げげげげげ――何を今更? 私のどこを見れば人だと思えるのかのーん?」

 バサッと大きな翼を広げて破顔一笑する怪物を前にしながら、朧は答える様にただ一言を発露する。『天魔』、と。

 その言葉を訊いた瞬間に怪物はピクリと反応を示した。

「『天魔』――ふむ、そのワードをノウと言う事はガールにティーチングされたと言う事か」

「その通りってやつかな」

「ふーむ。やはり関係者か……。いや、まあよい。その程度であれば、一般知識程度のことと言うのが相場だにゃーん」

 そう言いながら顎に手を当てて「ふむふむ」と軽く指でさする。

「とすると、問題はユーがミーにどこまで干渉してくるかと言う事になるわけだねーん」

「俺としてはお前らに一矢報いたいって思ってるよ」

「それはザッツライトでしょうなあ。私は君らに被害を被ったわけだし、歯向かってくるのも当然の権利だから相手になるぜ、何時でもバトルスタンバイさっ!」

 本当に気が抜けそうな態度ながらも、朧は確かに化け物の赤い目が放った覚悟――の様な感触を感じ取っていた。来るなら来い、正々堂々相手になろう――そんな気概の様なものが感じられたのが何処か不思議で可笑しかった。

「まあ、そう格好つけて言ってはみてもだにゃーん。ぷっちゃけ今は止めてほしいなあ。さっき私は『今は』って言った以上は今から君と戦うのは前言撤回みたいでやるせない」

「律儀なんだな。じゃあ、俺も『今は』止めておくよ」

「げげげげげ! センキュー!」

 グッとサムズアップで返す化け物。

 本当に能天気で明朗な姿勢に何とも好感すら抱いていく程だ。

 だがしかし、その後の言葉で朧は緊張を張り巡らす形になってしまった。

「だがまあ、機会は巡ってくるだろう。私の目的を止めに来るスタンスがそちらなのだろうから、すぐに戦いの場は整えられるはずだろうし。君が私を追う立場――というのなら」

「……今、なんて?」

 目的を止めに来る。

 そう言った。

 と言う事は想定ついてはいたが、やはり――彼らには目的がある。ないわけはないともわかっていたが、もしかしたらただ悪意を撒き散らしに来ただけの迷惑者、と言うだけの線もこの化け物の様な酔狂な相手にはあったかもしれない――と言う線は一先ず潰えた。

 ならば、その目的とは――?

「ふむ」

 視界の中の怪物は微かに眉を潜めた様子を浮かべた。

「そのぶんだと、そこまでは到達していない――と言う事か。まあノープログレム。目的があると言う端的な事は想定ついているだろうし、今の言葉に問題はナッシング!」

「それを話すってわけにはいかないのかい?」

「いやあ、それは流石にお人好しってやつだにゃー。下手に対策講じられて止められでもしたら面目オールクライシスだしにゃあ」

 外国人の様な高笑いを発しながら化け物はそう告げた。

 譲歩はしない。そう言う事なのだろう。

「ただ一つ言える事は」

 ピッ、と右手の人差し指を立ててそう口を開く化け物相手に「言える事は?」とオウム返しの様に緊迫感を纏わせた声を零す。対する化け物は面白可笑しげに、

「――最終的な到達目標は派手に、盛大にディスピアを蔓延させるって事かなーん! ただまあ、その前に、よりリアルでインスピレーションの湧く光景を直に感じたいところなのよー」

 どこまでも能天気な声でそう吐く異形の化外。

「そしてそれが私のやるべき事、だ」

 しかし最後に吐き出された言葉の威圧感にぶるりと朧は体が震えるのを理解した。

 言動はどこまでも道化の様な掴めなさがある。

 しかし反面、内包する感情は限りなく研ぎ澄まさされている様に感じられる。本気だ。何をする気なのかはわからない。だが本気をもってして、この化け物はここに存在していると言う事になるのだろう。

 そして言いたいことは言い終えたのか、怪物はバサッと翼を広げると空を浮かんだ。

「んじゃ、夜中に話し相手になってくれてサンクスだボーイ! 君の様な人間は嫌いじゃないぜ。ホントだよ? 蛮勇と偉い人は言うのかもしれないけど、昨今はそも蛮勇自体そうそう見かけないんだから眩しく映ったもんさあっ! んじゃ、グッバイ! 良い夜を!」

 フレンドリーな別れの挨拶を零すと、翼を羽ばたかせて再び形ある影から、夜空に浮かぶ漆黒のシルエットへと変動していく。黒い影はそうして瞬く間に何処かへ去って行ってしまったのだった――、

「――あ?」

 そこで不意に妙な感覚に捕らわれた。

 怪物が去ったのだから安堵感や、焦燥感に包まれるのどちらかかと思っていただけに朧は唐突に生れ出た感覚――違和感に思わず口元を手で覆った。

(何だ? 何で、今、こんな不安感を抱く?)

 化け物が去っただけ。

 嵐が去った後の安堵感が微塵もない。少なくとも無事にやり過ごせた。そのはずだ。なのにどうしてこんなにも異物を飲んだ様な感触が押し寄せるのか。

 と、そんな事を考えている最中になにやら一台の車がやけに速い速度で路上を『ギャギャギャギャギャ!』と打ち響かせながら坂道を走ってきた。

「何だ、夜中にあんな速度出して危ないな――って、あり?」

 すると丁度、黒塗りの車が横道に『ギギィ!』と、急ブレーキの音を鳴らして停車した。

 おや? と、訝しむ朧を余所に扉を開け放ち出てきたのは一人の少女だった。見覚えがある――というか、無いわけがない。ここ数日を共に行動を共にさせてもらっている少女の姿がそこにはあったからだ。

「弓削日比ぃっ! 何故、貴方がここにいるのですかぁッ!」

「あ。理枝ちゃん、やっははははぁい!」

 挨拶しようと手を上げる朧に対して物理的に手を上げてガクンガクンと襟元を掴み上下に揺さ振る理枝。それからすぐに手を離すと「説明! 三、二、一、はい!」とけたたましく促してくるが仕方ないので。

「夜中の散歩かな☆」

「ガッデム!」

 ぺしーん! と、左の頬を打たれた。これはひどい。

「夜中の散歩だよ?」

「貴方、この前襲われた身の上なんだから緊張感持ちなさい! また狙われてもおかしくないのですからね!? 特に私達が走ってきた道路線上をこの前のウシ型の天魔が飛行していったのですから――」

「あ。今、さっき話したよ?」

「ワッツ!?」

 目を見開いて信じられない、と言った様子で驚嘆する理枝に対して朧は隠しても仕方ないし情報を通じておいた方が良いので明朗簡潔に説明をすると「よくそんな度胸持ってますよね、貴方って……」と呆れた様なドン引きの目が返ってきた。

 そんな理枝に対して朧は「ははは、偶然なんだぜ、ただの」と、笑顔を浮かべて返した後に彼女の肩をポンと叩く。

「――で? 理枝ちゃんは何でここにいるわけかな?」

「え。……あっ」

 そこで理枝は『しくじった』と言う様な顔を見せた。

 それはそうだろう。なにせ、

「ここにいるって事は、もとい追いかけてきたって事はアイツと遭遇したって事だよね? 理枝ちゃん酷いぜ。俺だってアイツ追っかけてるのに連絡くれないなんて!」

「そ、それは貴方がそもそも無関係故であるからの配慮でありましてよ!」

 理枝は憤慨する様子でそう返した。

 実際その通りなのだろう。無関係者の自分を関わらせたくない。事実、朧は理枝にくっついてく形であの牛の天魔を追っているに過ぎない。

 しかし、一旦家で休息を取っている間にそのような形になるとは――もとい、彼女が更に追い掛けていたとは失念していた。てっきり同じように休憩を挟んでいるものだとばかり考えていただけに盲点であった。

「状況はよくわからんけど、追ってるんだろ? ついてくよ、俺も」

「はぁ!? ダメよ、貴方はこれ以上踏み込んでは――」

「生憎と理屈で止まる気はないよ、こっちも」

「ああもう……!」

 理枝が地団太を踏む様に嘆くが、朧とて引き下がるわけにはいかない。あの化け物を野放しにしておくつもりは微塵も無いのだから。

 と、そこで彼女が乗ってきた車から女性の声が発された。

「お嬢様。路上で口論している間に何か学校に仕掛けられるかもしれません。お早目に」

「わかってましてよ!」

 車の助手席に座る玲瓏な印象の美女が零した冷淡な声音に対して理枝は即座に反応を示した。朧が「うっひょー! 美人さんだ、だれだれー?」と声を上げたところ「ええい、のりやがれ!」と理枝は荒っぽい声を上げて後部座席に叩き込む。最早色々面倒になった様子だ。

「一緒に向かうのですね」

「向かうだけよ。状況次第では、車内で拘束しておいてちょうだい」

「承りました」

「しかし何だか誘拐みたいですなぁ」

「驫木。黙って運転」

「イエッサー」

 からかう様に口を挟む運転手の驫木に釘を刺した後に、理枝たちが乗る車はすぐさま路上の限界速度にまで達して発進する。

「あ。驫木さん、また逢ったっすね」

「よう、坊主。お前さんも物好きだなあ」

「まあね。正義漢だから、こう見えて」

「わはは、嘘くせぇ」

 豪快に爆笑しながら運転する驫木。この豪快な態度は朧としては実に好印象だ。

 そんな二人の様子とは対照的に、理枝はただただ打ちひしがれた様子で助手席の背凭れに頭を置いてずーんと陰気を発していた。

「ああ……。何でこんな事になってるのかしら……一般人巻き添え……」

「お嬢様。嘆いていても始まりませんよ」

「わかってるわよ、川蝉(かわせみ)さん……」

「へー。川蝉さんって言うんだ?」

「こんばんは、初めまして。川蝉と言います」

 そうして助手席から顔を覗かせたのは何とも美人な女性だった。大人の女性らしい風貌で黒のスーツが実にピシッと引き締まっており似合っている。日本人らしい艶やかな黒髪は大和撫子の様に艶やかだが、対して瞳は綺麗な水色で何とも玲瓏であった。

「初めまして。弓削日比朧って言います」

 そんな美女の手を気兼ねなく握って挨拶を交わす朧。

「気負いしないわよね……」

「え。何が?」

「いえ、なんでも」

 溜息を零す理枝が気にかかったが朧はそれよりも一つ気にかかる事があった。

 まずは、それを訊き出さなくてはならないだろう。

「んじゃ、理枝ちゃん。率直に尋ねるけど、あの天魔が出てきたって事は探し出して交戦したりしたって事でいいのかい?」

「大方その通りね。ただ交戦してはいたけれど、途中で一目散に飛ばれたのよ。『連絡が入ったのでここいらでおさらばだよー、アディオース!』と、ふざけたノリでね!」

「おお、なんて想像がつく光景なんだ……!」

 あの怪物ならばやりかねない別れ方だ。

 生真面目な理枝にとっては実にむかっ腹に来た光景だろう。

「ただ通話中の声を川蝉が耳に出来たらしく『西洋高校だな。オーライ』と言う旨の会話をしていた事が発覚した為に西洋高校へ向けて車を走らせていたと言う形ね。事実、走る間に天魔の移動がある程度補足出来ていたから――」

 そこまで訊いたところで朧が神妙な声を発した。

「……西洋高校?」

「弓削日比……ええ。貴方の高校だと言う事よ」

 母校が何故だかターゲットにされた。

 その事実を訊かされた朧が如実に顔面を蒼白にしたのを見て理枝は心を痛めた様子で優しい声を宥める様に発した。

「でも安心してほしいわね。大丈夫、必ず貴方達に危害は加えさせないから――それに貴方自身はおそらく大丈夫よ。接触したのに何もされなかったって事はアイツの獲物にカテゴリされているとか言う線は消えているから――」

「違う。そうじゃない。そうじゃないんだ」

「え?」

 真剣な声でそう呟く朧に対して何が『そうじゃない』なのかわからず、理枝は小首を傾げる形となった。だがしかし、その後の言葉で彼女は蒼褪めた表情を浮かべる形となる。

「――速度上げて。急ぐわよッ」

 そして理枝たちは可能な限りの限界速度を以て車を走らせた。

 考えうる限りあってほしくない可能性を摘むために――。


        3


 さて、それは今より少し前の事であった。

 資産家の車と言える黒塗りの車内でもなく、豪邸と呼べる家でも無い。見た目どこをどう見ても普通の家――休屋家。その家の次男の自室にて。

「あぁああああああああああああああああああああああああ」

 彼――休屋連は呻いていた。

 自室で頭を抱える形で蹲り床に額をこすりつけ唸っては転げまわる。そんな連の声が聞えた様で母親が下の階から『なに、連、なんかあったのー? うるさいよー』と、言う文句の声を上げているのでドアを開けて「なんでもねぇよ!」と大声で返答する。

 扉を閉めた後に連は再び行動を開始した。

 学校行のカバンを何度も漁っては確認する。机の上や引き出し、本棚も調べるが目当てのものは一考に出てくる気配が無い。その後も繰り返す様に一度調べたところを確認するが、やはり結果は同じ。

 そこまで至ったところで連は膝をついた。

「――無い」

 そして悲嘆の言葉を述べる。

「課題が、家に、ない」

 なんてことだ、と呟いて、

「ヤベェよ……課題全部学校に置き忘れた……!」

 そう。

 休屋連はゴールデンウィーク期間中の課題をほぼ大半、学校に置き忘れると言うやらかしたら拙いミスを犯していたのだった。

「どうすんだよ、くそ、間に合わねぇし……!」

 本日は5月5日。

 ゴールデンウィークの休みとしては残り二日、その最終日であった。連は前日二日間を見事なまでに遊び通していたのだ。最終日辺りでやればいいや、と言う考えの元で放置しており、三日目の夜なので『やっとかないとまずいかな』と言う思惑の元、カバンの中の課題に取り掛かろうとしたところ、なんとどこにも課題が無い。

 そこで膨大な冷や汗を噴出した連は大慌てで捜索を開始したものの課題の姿形はどこにも無かった。こと、そこで学校に置き忘れたのだと言う結論に行きついたというわけだ。

 問題なのはここからだ。

「どうせいってんだよ、休み期間中うちの学校開いてねぇし……」

 西洋高校はゴールデンウィークの期間中校門は開いていない。

 とすると校舎内に入る事は出来ない――つまり、課題は取ってこれないのだ。

 いっそのこと、全部諦めて休みを満喫してしまおうか、とも考えるが、

「ダメだ古典の鬼怒川の課題を忘れるなんて洒落にならない……!」

 うああ、と頭を抱える。

 確実に教卓前で粛々と説教を垂らされるに違いない。その間、周囲は気を使って沈黙するわけでそれが気まずい事を連は前に経験しており――二度とそんな経験はしたくないのだ。

(どうする? どうしたらいいよ?)

 怒られたくない。怖い。嫌だ。

 そんな感情が脳裏を駆け抜けていく。そこまで考えたところで、

(そうだ。朧に相談するのはどうだろう? ――ああ、いやダメだ。昨日あんな電話かけた辺りなんか爆笑されそうだし、それはなんか腹立つな……! ダメだ、これはダメだ)

 だがだとすればどうすればいいのか?

 明日取って来れたとしても時間が足りな過ぎる。意味が無いだろう。と言うかその頃にはもう諦めてたい連の心境である。

 そこで不意に思い出した事があった。

 あれは確か――と、思ったところで連は携帯電話を取り出して大急ぎで電話をかけた。

 数回のコール音の後に「もしもし、れんきゅー君?」と高い声が返ってくる。

「おお、クサカ? 連だけど」

「うん。それはわかるけど、どうかしたの?」

「いや、実はな……」

 そう零して連が話を伝えたところ草刈は「……うわぁ」と何とも気まずげな声を発した。

「なあ、どうすりゃいい?」

「どうすりゃいいって……どうしようも……。全部ってちょっと難易度高すぎるよ……」

「明日取りに行って間に合うと思うか?」

「んー、無理、かな。半日分以上はあったし……」

「ぐおおお……!」

 悶絶必死である。

 頭のいい草刈がそれならば、頭の良さも普通である連に勝ち目はない。半日以上。嘘だと言ってほしい。諦めていいはずだ。

 しかしそんな嘆願を台無しにする様に鬼怒川先生の笑顔が浮かんできた。

 体中がぞくりと身震いする。

「じ、じゃあさ! この前の話、アレどうだっけ?」

「この前?」

「そうそう。お前のとこのクラスメイトが教頭先生に怒られたってやつ!」

「ああ、アレ? でも何で急に?」

「いいから。ほら、なんだっけ? 夜中に男女三組で学校侵入してはっちゃけた所為でかなり怒られたって前に言ってたじゃんか!」

「うん、あったよ。あれは凄かったなあ。教室から六人消えただけで違和感凄かったもん」

「なんだってな。それで不思議なんだけど、どうやって入ったのかって話だけど。だって曲りなりにも学校の校舎内だろ? 良く入れたじゃんか」

「あー、うん。それはアレだよ。六人とも口を閉口してるから先生知らないけど――」

 そうして草刈は自分が又聞きした、学校のちょっとした秘密を口にした。

 連は「ふんふん」と鼻息荒く、確かにそれを聞き届ける。

 だが、不意に話をし終えた草刈が話しながら違和感に気付いたのかハッとした声を上げて連に向けて疑惑に満ちた声を発した。

「ね、ねえ。れんきゅー君? 僕の悪い想像なだけだといいんだけど、君、まさか――」

「ありがとな。恩に着るぜクサカぁっ!」

「あ、ちょっ、れん――」

 ブツッと携帯の電源を切ってすぐさま連は今着ている服装のまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。母親が「どうしたの急に?」と驚いた声を上げるが「ちょっと野暮用!」と大声を張り上げて玄関へと足を走らせると靴を即座に履いて「ちょっと夜遅いよ!」と言う声を「朧んとこ!」などと適当な言葉を盾にして休屋連はすっかり黒に染まった夜道を駆けだしていったのだった。


        4


 横浜西洋高校は比較的古い歴史を持つ。

 それだけ言えば、なにやら荘厳な気配がするが実態は校舎も古いと言う事に繋がる。無論、おんぼろなんて事はなく、むしろ清潔感のある白い校舎だが、少しばかり古いが故に面白い部分というものがある。

「確か旧校舎、一階の右から八番目が……」

 休屋連はそこにいた。

 一言で言えば学校に忍び込んだのである。

侵入の際に校門が高く苦労を強いられ、ミスって股間を強打すると言う悲劇に見舞われたりもしたが、現在は痛みも引いてしっかりと散策できる状態に戻っていた。

 さて、なにを探しているのかと言えば、

「おお、これだ!」

 ある一つの窓に注目する。

 持ってきた懐中電灯で照らしながら、確認すると連はゴンゴンと窓を叩いた。するとガタガタと校舎の窓を止める金具が揺れて外れたのだ。

「へへ、クサカに訊いた通りだな」

 あの電話にはしっかりとした意味があった。草刈が事件以降、軽く耳にした程度の話をうろ覚えだが訊いていたのが幸いである。

 それがこの窓だ。比較的古い建築物である為に所々に支障があるのだそうで、この窓はその被害を被っている場所と言う事だ。留め金具が緩くなるほどの年月が経っており、改修がされていない為に力強く外側から叩けば外れる仕組みとなっている。どこから発生した話かは知らないが、噂程度に生徒には広まっている様で、草刈の話以外にも、夜の校舎探検に活用したと言う話も耳にした事がある。

 連としては『不法侵入、くだんねー』と言う気持ちであったが、今現在に至ってはありがたい話である。窓をガラリと開けると連は身を乗り出して、中へと忍び込んだ。

「後は取ってくるだけだ!」

 力強く頷くと連は即座に自分の教室目掛けて駆け出した。

 何故駆け出したかと言えば――長居したくなかったからだ。平たく言ってしまえば不気味で仕方なかったと言ってもいいだろう。夜の校舎と言うのは正直な話、凄い怖いのだ。シンと静まり返った様が普段の熱気や活気と打って変わった代物である為にとてもではないが近寄りたくない。夜の校舎で肝試しなんかやった連中は凄いと思う程だ。

 先がとにかく暗い為にライトで照らしながら走るわけだが、なんとも不気味でたまらない。もし何か映ってしまったら、照らしてしまったら嫌だな、と思いながらも疾走する。

 そうして階段を合計四つぶん駆け上がって、三階へ到達し、廊下を走った。渡り廊下から新校舎へ赴けば後はもうすぐだ。

 ライトで上方を照らしながら走るとようやく『二年七組』と言う自分のクラスの標識が見えて速度を落とし教室前で停止する。

 後は、中から課題を取ってくるだけである。

「やっとだ、くそ。早く帰りてぇー」

 息を切らせつつ、扉に手をかけた。

 ぐっ。

「……」

 ぐっ、ぐっ。ガタガタ。

「……」

 開かなかった。

「当たり前だよなこんちきしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 こと此処に至ってようやく連は思い出した。

 そう、学校側が鍵を閉めるのは何も校門だったり出入口だったり、窓だったりだけではない事に。全ての教室の扉も閉鎖されているのだ。職員室だかで鍵を取って来ないと話にならないし、なにより肝心の職員室も開いてるわけがない。

 そしてそうするともう誰が開け閉めしているのか連にはわからなかった。

 つまるところ、

「無駄足かよ!」

 どうしようもなかった。

 まさか扉を壊すわけにもいかない。そんな事をすれば後日大変な事となる。隠蔽工作で窓ガラス全て叩き割って不良の仕業にする術もあるがそんな事出来るわけもない連だし、何より一人でそんな体力あるわけもない。

「んだよ、くそう、怒られる未来しかねー」

 悔しいながらも連は仕方ないとばかりに古典の鬼怒川先生に怒られる未来を選ぶ事とした。

 肩を落として帰ろうとする。

 と、そこで不意に足元にコン、とぶつかるものがあった。

「? なんだこれ?」

 連はさっとライトで廊下を照らした。

 すると光を反射してキラリと輝くものがあった。屈んでそれを掴み、持ち上げて確認してみればそれは指輪であった。

「……え、何で指輪? ルビー……か?」

 血の如き鮮やかな指輪。

「何でこんなところに?」

 学校に指輪。合わない。

 持ってくるとしても教師くらいだろう。生徒が持っているわけがないし高価過ぎる。母親の指輪を昔見たことがあるが、その宝石よりも随分大き目の粒だ。ただ装飾がなんとも雑と言うか豪快な――適当な感じなのがどうにももったいない。これだけ大粒のルビーだと言うのに、さながら名画が百均の額縁に収められているかのごとく、拙さを感じる出来栄えだった。

 このまま放置してもいいが――、放置して別の誰かがくすめると言うのも後味悪い。

 休み明けに忘れ物として提出すればいいだろう。

 そう考えてポケットに仕舞い込んだ――その時だ。

 不意に――本当に不意に寒気がした。

 ぞくっとする悪寒と思しき感覚。連はそれが何なのかわからないただの感覚的なもの、あるいは学校の空気が及ぼす恐怖心なのか。

 しかし、それらが勘違いでないと気付かされる。

 左手からズン、と言う足音が響いた。思わず視線が左方へ向く。

 暗闇の中――光り輝く紅蓮の双眸がゆらめいていた。

(……は?)

 地鳴りの音の様に響く足音を鳴らしながら徐々に闇が形となって姿を現していく。

 窓から入る月光が暗闇の主の姿を明確なものとして形作る。

 その姿は異形であった。

 角があり、翼があり、筋骨隆々とした巨躯はおおよそ人に非ざる代物。

「げげげ」

 声が――発された。

「げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげ!!」

 双眸を愉しげに歪ませて口から零れ出る笑い声。

 その不気味さ――そこまで認識してしまった段階で休屋連は無意識の形で右方へ足を伸ばし、そして瞬時に駆けだした。一目散に足を動かす。

「な、んだ……!」

 がくがくと震える口元から叫び声を発した。

「なんだよ、あれぇッ!」

 意味が分からない。

 何なのだアレは。

 頭が警戒音をガンガン打ち鳴らしている。アレに関わってはならないと本能がそう告げている。そう感じる程いアレは異端の代物だった。夢でも見ているのではないだろうか。そう思いたくなる程の人生で一度も出会った事が無い代物だ。

 だが走りゆく学校の風景は何一つとして夢では無い。

 思わず右手で頬を叩いたが、痛みが走るだけ。

(――夢じゃ、ない)

 ありえるのか。こんな事が。あんな怪物がいるものなのか。

 そう混乱の渦中にある連の後方では今もなお『げげげ』と言う不気味な笑い声を発しながら滑る様に闇を纏って巨体の怪物が接近していた。

「何で、俺を追うんだよ!」

 わけがわからない。

 今遭遇しただけなのだ。何か恨みを買ったわけでもない。憤りを感じざる得なかった。

 自分は何も悪くないのに――!

 だが休屋連はこと此処に至って気付けていない。

 例え本人が悪くなかろうと訪れるものは訪れるのだと――不条理と言う形で。

 今此処に、休屋連は人生最大の理不尽に遭遇したのであった。





第七章 前篇:休日唱歌

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