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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
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第六章 啓蒙成らずの追跡劇・後篇

第六章 啓蒙成らずの追跡劇・後篇


        1


 5月5日。淡路島姫海と鍵森恭介両名と時を同じくする形で、その日、一組の男女が街中を並列して歩いている姿があった。

 しかし明らかな程に隔たりのある二人でもある。

 手を繋ぎ、腕組みし歩く二人に対して彼と彼女はと言うと。

「ねー、理枝ちゃん。もちっとこっち寄ったら?」

「お断りなのよ」

「ええー」

「不服な態度で零してもアタシの決定は揺らがねーっての」

 距離感にして約五十センチ。近くもなく、遠いと言えばそうでもない。男女の友人関係程度の間がそこにはあった。女子側が警戒の態度そのままに威圧感を放っている点を見れば、友人関係が皆無なのは見て取れるが。あるいは喧嘩中のカップルか、はたまた揉め事で謝罪する男性の構図か――まあ些末な事は省こう。

 そんな少年と少女の名前は弓削日比朧。鷹架理枝の両名であった。

「第一に何故、ついてくるのかしらね、貴方は」

 ジト目で睨む理枝に対して朧は呑気にこう告げた。

「理枝ちゃんとお近づきになりたいからだよ☆」

「もぐわよ」

「服を? いやん、理枝ちゃんのエッチ。でもまあ、そんなに求められてるってんなら、男として吝かでもないかな。うひょひょー」

「違くてよ!? 何をボタンを数個外しているの!? くねくねしないで、喜色悪い!」

「大丈夫。もいだ先には裸の心がお出迎えするから――!」

「嫌な情報を伝えなくて結構っ!」

 知らなくてよ、と理枝は怒った顔でそっぽ向く。どうやら怒らせてしまったらしい。

 だがしかしそこは朧。女子を怒らせる事など日常茶飯事、へこたれなどしない!

「まーまー、カッカしてたらダメだぜ、理枝ちゃん? お肌によくないって言うじゃんか」

「肌健康に関して心配など無用よ! そもそも、第二に、私は目的があると貴方に伝えたでしょう? どうしてついてくるの!」

「そりゃあ理枝ちゃん一人じゃ淋しいだろうかなーって思って」

「保護者感覚!?」

「理枝ちゃん真面目系っぽいからね~」

「真面目のどこが悪いのですか!」

「美徳には必ず欠点が内在するもんだよ?」

 からからと笑いながら、そんな言葉を零す朧に対して理枝は「むう」と唸る。確かに真面目が過ぎるといけない、と皆から言われた覚えはあるが……それほど、自分は真面目が過ぎるだろうか? と、不満をあらわにする。

「ま、一番の理由は別だけどね」

「……と言うと?」

 どうせしょうもない理由でしょうけど、と思いながら理枝は問い掛ける。

 そんな理枝に対して朧は仄かな心配そうにする表情を見せながら、告げた。

「女の子があんな化け物に立ち向かおうとしてるんだぜ? 男なら心配にもなるってもんだってことだよ。ようは、俺の自己満足オア自己責任って奴だね」

「……」

 理枝はそう言われてしばし目をしばたかせた後に、

「……化け物相手に立ち向かう段階で普通の人はまず退避してるものでしてよ?」

「はは、それもそうだな!」

 ごく普通の。ただの少年なら、一般人ならばすでに自分の隣にはおらず逃げているはず。そう思いながらの発言を朧はどこ吹く風で答えてしまう。

 ――おかしい。不思議だ。

 そんな感想を抱かざる得ない。何故、恐怖を抱かず、ここにいるのだろうか。昨日の接触で普通は心に恐怖を植え付けられているはずなのに、朧は今ここにいる。

 恐怖心がないのか。

 不屈の精神でも持っているのか。

 あるいは、こう言った非日常でも体感した事があると言うのか――。

 わからない。だが、今、ここに立っている。自分が事細かに詳細を教えたにも関わらず、弓削日比朧は今日隣にいるのだ。不思議でないと言わずして何と言えばいいのか。

「まったく本当に……。何を考えているのかしら、貴方は? 私の目的は昨日お話したでしょう? それを知ったならば、手に負えぬ現実を知るもんでしょ? だと言うのに関わらず、こうもしつこく関与するとは、わからぬ限りでございましょう――」

「ところで理枝ちゃんって、日本語下手だよなー」

「唐突に失礼ね、貴方!」

 轟! と、怒号が発せられる。

 しかし朧は「いや、だってさ」と肩をすくめて笑顔で返す。

「理枝ちゃんは何か、口調が一定出来てないっていうか……語尾が多種多様になってるというか、粗雑だったり丁寧だったりするし」

「ぐ……!」

 そこで明確な程に狼狽した様子を見せる理枝。

 見た目的には日本と西洋――おそらくはハーフだろう。その点を鑑みれば、外国生活が長かった故に日本語が幾分、おそろかになってしまったと考えるべきところだろうか、と朧は推測をつける。

「し、仕方ないのよ……」

 そこで理枝が何処か淋しそうにポツリと零した。

「貴方も昨日の身の上話で想像ついてるだろうから言うけど……私は確かに日本とイギリスのハーフではあるわ。ただし、生まれてこの方ずっと向こうで暮らしていたんだし、日本語をわざわざ学ぶ必要はあんま無くて……そりゃあ、お父様が日本語を時折教えてくれたけれど、基本家にいなかったし……」

 そこまで訊いて朧は、しまった、という顔を浮かべる。

 どうやらあまり話したくない部分に踏み入ったかもしれない。なんにせよ、出会って日が浅い相手にすべき会話でも無いだろう。申し訳なさを抱えつつ、朧は明るい調子で言った。

「じゃあつまりさ。理枝ちゃんって日本初めてって感じかな?」

「え? え、ええまあ――そうなるわね」

「へー、来たの何時頃なん?」

「近くてよ? 今日が五日でしょ? 日日的には二日頃だもの。その間も手続きに追われていたし、忙しかったのですけれどね」

「ふーん?」

 手続き、と言う部分に朧は柳眉を潜めた。

 しかし手続きと言うからにはある程度、重要な事なのだろう根掘り葉掘りに訊くのも礼儀知らずというものだ。なにより、今はむしろ、

「要は日本ではほぼ何も楽しい事してないのかな?」

「楽しい事?」

「そーそー、映画館行ったりとか、遊園地行ったりとか、洋服でオシャレしたりとか」

「はぁ……弓削日比、貴方ね。私は昨日告げたでしょう?」

 私には使命があると、そう理枝はハッキリとした言葉で告げてきた。

 朧も重々承知の助だ。

 鷹架理枝には役割があり、使命を帯びていると。その役割が微妙に漠然としているのが、少し気にかかりはしたが、昨日に打ち明けられた内容に朧が異論を挟む箇所は存在しないし、蚊帳の外の自分が無理問答を言う気はない。

 だが、しかし。

「いけないよ理枝ちゃん」

「淑女の手を街中の往来でいきなり掴む奴が急に何を言ってるんでしょうねぇ!?」

 ぐっと両手を包み込む様に両手で掴み、真剣な顔を近づけてくる朧に理枝は、若干赤くなった顔で憔悴を露わにする。傍目にはまるで、愛の告白じみたシチュエーションな様で、道行く人がすれ違いざまに興味を覗かせた顔で歩いて行く。

「理枝ちゃん。君は花の女子高生なんだよ」

「確かにそうなりましてね。けども、放してもらえないかしら?」

「いいや、ダメだね」

「何故よ!」

「こういう事はちゃんと言っておかないとと思ってね」

 見物客が現れ始めた。早くこの場を離れたい。そう思う理枝である。

 しかし、朧にその想いが伝わる事は無く、彼は力強く断言した。

「ちゃんと遊ばないとダメなんだぜ? 友達とかとさ」

「余計なお世話じゃあ!」

 理枝、激憤す。

 遊ばないとダメ等と同年代の男に言われるなど、なんたる羞恥か。行き交う人々が「なーんだ、告白じゃないのかー」と残念そうに去って行くが、もういっそそっちの方がサッパリ出来た気すらしてくる。なんだこの心配は。

「だって、理枝ちゃん、使命がどうとか言ってばっかだしふわぁぁぁぁぁぁ」

「言うなら最後まで緊張感持ってよ! 何で最後欠伸したのよ! 最後まで説教垂れるんならキチンとしなさいな、ムカつくわね!」

「お、ちょっと待って理枝ちゃん。電話来たー」

「全くムカつくタイミングで邪魔が入りましてね、貴方!」

「そんな偶然だぜ? 気付いてるのに、わざとスルーしたわけじゃないから、許してよ」

 キリッと笑顔で言う朧に仕方なく「わかってるけど釈然としないのよ……」と愚痴を零す理枝だが、流石に仕方がない。流れ出る着メロを放置しておくわけにもいかない。ほら早く出て、と簡素に促す。

 朧は「ありがとね」と零した後に通話に出る。

「もしもーし、れんきゅーか? どしたん?」

「あー、大した事じゃねーんだけどさ。ゴールデンウィークも明日で終わりだし、遊ばねーかなーって思ってさ。どうよ、お前の家のゲーム」

「あー、いいな。それ。でもワリ」

「んえ? ダメなん?」

「おう。今、女の子とデート中でな」

「深淵の果てでのたれ死ね!」

 連の罵声が耳を劈く。「れんきゅー、声大きいんだが。耳いてーよ」と愚痴を零すが知った事かとばかりに怒声が零れ出てきた。「何でお前ばっか」、「そんな美味しい想い!」、「っていうか誰とだよ!?」、「ふざけんな、テメー!」、「いーさいーさ、新作ゲーム満喫すっからよ!」と立て続けに怒鳴り声が発されていた。

「ゲームもいいけど、課題も忘れんなよ、れんきゅー」

「んなの最後半日ありゃ終わるよバーカ!」

 そう言って終わった試しを見たことが無いが、と言うか迷ったが、そう判断を下すよりも先にブツンと通話が途絶えて断続的にツー、ツー、と言う音が零れ出るだけ。

「うしっ、通話終わり!」

「良かったの、友達との電話アレで? 怒ってなかったかしらね?」

 どこか不安げな理枝に対して首を軽く振ってやわらかく否定する。

「いーのいーの。むさい男とゲーム三昧と現在進行形のデートじゃ、デートを優先するのが、世の男の道理だからね。れんきゅーもわかってるさ」

「なにその理論」

「男が男のとこに女の子放って駆け付けるのは、その相手が女の子絡みで困った時くらいでいいの、いいの」

「結局、女の子じゃない、それ?」

「そだよ。友人の為に頑張るってのは、男なら背中蹴っ飛ばしてやる時だけさ。テメェで頑張れ男だろってね」

「……ふーん」

 よくわからないわね、と言う顔をする理枝に対して「ま、そんな気にしなくていいよ」と朧はへらっとした態度で軽く返す。そんなのでいいの? と、理枝は尚も不思議そうに、

「本当に危ない時とかも助けないわけ?」

「ま。どーかな」

 と、返されてつかみどころがない。本当に飄々とした少年だ、と不思議に感じる。

 だがまあ、それも今はどうでもいい。

 今問い詰めるべきは、一つだけだ。

「ならいいけど。それなら話を戻してもいいわね?」

「ん? なにかな、俺の服をもぐんだっけ?」

「いやらしい箇所に戻さないで頂けて!? そうじゃないのよ、そこじゃなく、アタシに対して講釈垂れた時の話を――」

「あ、理枝ちゃん。この辺、屋台的な店が多いんだけど、何か喰う? 御馳走するよー」

「絶対話題回避してんでしょ! 故意でしょ!」

「理枝ちゃん、そんな叫んでばっかだしお腹減ってるんじゃない?」

「叫ばせてるの誰が原因なんかしらねぇ……?」

 怒気を含んだ声を発するが理枝としても、確かにお腹は空いた。

 だが奢られるのは癪である。

「別に払ってもらわなくても、自分で払うわ」

「オッケー、こっそり二人分払うね」

「性質悪いわね、ホント!」

 まあまあ、となだめてくる朧に理枝もいい加減諦めた様子で肩を落とす。

「で、何食べる理枝ちゃん? 俺?」

「さり気無く一番食べたくないもの進めてこないでくれる?」

 眉間に怒りマークを付けた理枝は辺りを見渡した後に小さく一言発した。

「なーんか……パッとしないのよねぇ」

「って言うと?」

 いえね、と理枝は嘆息を浮かべながら、

「ラインナップがこの辺り、イギリスやアメリカと変わらないのよ。どこも見た事ある様な店構えっていうか……もっと、『和』って感じのものを期待してたんだけどな……」

「なーるほど」

 朧も納得した。

 確かにこの付近は露店が多いが、ラインナップとしては異国情緒あふれる、と言う西洋、欧米寄りの店が多い。理枝の様な外国人から見れば印象としては微妙なのだろう。

「ならさ、アレはど?」

「アレ?」

 ならば、と朧はある店を指示した。

 店の名前は『(けん)だこ』。マスコットキャラクターのなんとも、不愛想なタコのキャラが、不味そうに、商品を食べていると言う何故、そっちに寄ったのかわからないイラスト。しかし逆にそのスタンスが受けたのか客入り盤石で、チェーン店として高い知名度を誇る。

「たこ焼きさ」

「タ・コ・ヤ・キ!?」

 何やら理枝がいきなり、外国人オーラ満々になった。

 朧がうおっと目を見開く中、怒涛の様に理枝が目を輝かせて説明を求める様に饒舌になる。

「タコヤキ、言うとアレよね! まるーくて、アツアツで、ちっこいキュートなやつで、ソースをかけて食べるって言うのデスヨネ! ワォ、興味凄くある! 食べてみたい!」

 キャラ崩壊し過ぎではないだろうか? 片言さえ若干混じっている。

 そんな朧の驚いた様子に気付いたのか理枝はハッとすると、途端に顔を真っ赤にして咳込む病にコホン、コホンと咳払いを二回した後に元の表情に戻っていた。

「た、タコヤキね。知っていますとも、ええ。た、食べてみるのもいいかなと日本へ来る前に考慮していた一品ですし!」

「いやぁ、そんな無理して繕わなくてもいいけどね……」

「シャラップ。黙りなさい」

 襟元を両手で締め上げられ怒気に溢れた赤い顔で睨まれてしまえば、朧としても何も言えなくなる。「お、おーけー……!」と言う掠れた声を発した後に朧は頷き、赤い顔でそっぽむく理枝を引き連れる形で『険だこ』に入っていったのであった。



「デリーシャス……!」

 そこには目をキラキラと輝かせる外国人がいた。

 先程まで流調半歩手前程度に日本語を操っていたハーフの人は何処へいったんだろう? 最早英語で感想を述べて、頬をハムスターの様に膨らませ、熱いが美味しそうにはふはふと食べている始末だ。ちなみに注文したのは一番人気のノーマルな険だこである。

「タコヤキ……美味しーのね……!」

「気に入ってもらえたかな?」

「イエス。とってもデリーシャスねッ」

「うん、返答が完全な外国人さんだね」

 思わず苦笑が零れる。先程までのピンとした空気もどこか和らいでおり、日本に初めてきた外国人と対話しているかの様だ。それほどまでにたこ焼きは彼女のハートをキャッチしたのかオープンしたのか分からないが、今の様に和らいだ表情を見れるのは良い事だと思った。

 彼女とは昨日出会ったばかりだが、どこか戦前の武士の如く峻厳とした空気を張り詰めさせていた様に思えて、少しくらい気休めをしてもいいのではないか、と思っていただけに。

 そんな事を考えている間にたこ焼きは一個また一個と減ってゆく。

 ぱくぱくと消えていく光景を見ながら朧は柔和に笑んで話しかける。

「そんなに気にいった?」

「え? ま、まあ……それなりにはっ」

 食べ進めてある程度、冷静さが戻ったのか先程までの凛とした少女に戻り始めている。もっと肩の力を抜いたらいいのにな、と内心で零す。

「たこ焼きが気に入ったんなら、もっと日本寄りの食べ物めぐりでもしてみる? 確かにこの辺、ハンバーガーとかクレープとか、そんなん多いけど和風だって無いわけじゃないし」

「それは――」

 朧の言葉に理枝の瞳がふっと華やいだ。

 しかし次の瞬間には霧散してしまい、小さく首を振られてしまう。

「――いえ、いいわ」

「……そっかあ」

 朧は残念そうに呟いた。

 その表情に微かに曇った色を浮かべながらも理枝はこう返す。

「お心遣いはありがたい限りでしてよ。だけど、ダメ。アタシの目的はあくまでも、この地で果たすべき使命が第一だもの。道楽に身を費やしている時間があれば、任務を遂行するわ」

「おもっ苦しいなあ」

「任務なんて大概そんなものよ」

 確かにそれはそうなのだろう。

 気負わず挑む任務なんてのは、舐めているとしか受け取られない事なのだろう。だが、理枝はまだ年端もいかない少女である。朧と同年代程度の少女がそんなに気負いすぎる必要はないのだ――朧はそう知っている。

「んー。じゃあさ、こういうのはどうかな?」

「こういうの?」

 不思議そうに柳眉をひそめる少女に対して朧は「おう」と力強く頷いて答える。

「例のアレ――牛の化け物が片付いたら、次回までの余裕は出来るんだろ?」

「……まあ、そうね。アレが大物の一つの様だし」

「なら、決定だ」

「なにが?」

 よくわかっていなさそうな、理枝に朧は笑顔で告げる。


「その一件が一先ず片付いたらさ――、面白い事や楽しい事にでも出かけようぜ。この近所見る場所いっぱいあんだからさ」


 始めは。

 始めは何を言っているのだから理枝は解りかねた。

 しかし、その言葉の意味を吟味する様に脳内が回転を開始しだすと、途端にその意味に行きついて理枝の顔は微かながら朱に染まって、不満そうな表情を浮かべ始める。

「何、チャラい事言ってまして、貴方は……。そ、それはつまり、アタシと、で、デートに行きたいとでも、そう言うつもり――?」

 対する朧は「そだねー」と気安く返答してくる。

 あまりにもあっさり肯定するものだから理枝は頬が熱くなるのを感じた。

(この男本当にアホなの? アタシをデートに誘うとか……)

 デートに興味がないわけではない。男嫌いでもない。かといって貞操観念が欠如していると言う事も無論ない。しかし、彼女は男女交際の経験など至極皆無の人生を帯びてきた。

 故に、彼の発言はある種彼女の心に衝撃を及ぼすもので、

「あ、でもデートとか大層なもんじゃないな!」

「…………へ?」

「いやさー、もっと気楽に。ウチの妹とか幼馴染誘うから、それで楽しいとこでも行かない? って感じだよ! ほら、昨日、俺と一緒に助けてくれた子がいたっしょ――って、アレ?」

「……」

 なにやら不穏な空気を纏った理枝がそこにいた。

 おかしい。

 何が彼女をここまで暗雲に至らしめたのだろうか? 朧は『さては烏がフンでも落としたな?』と顔を上に向けてみるが、鳥一羽いやしない。青空が澄み渡っていた。

 そして次の瞬間衝撃が走り視界がぶれた。

「ぐぼっ」

 この衝撃には覚えがある。アッパーと言う奴だ。そしてその犯人が誰であろうかもすぐに理解が及ぶ。

「何すんの、理枝ちゃん!?」

「シャラップ、キル・ユー」

「一気にデットエンド!?」

 顔を憤怒に染め上げた少女が虚空に手を翳して何やら光を発生させ始めた。昨日、会話に出てきた宝剣だとすればシャレでは済まない。朧が焦った調子で「理枝ちゃん! それ基本秘密なんでしょ!? 出しちゃダメなんでしょ!?」と必死に訴えかける事数分。ようやく、理枝は落ち着きを取り戻した様子で文字通り矛を収めた。

「……」

 しかし、ギラリとした眼光が変わっていない。

 まるで男に弄ばれた女の怒りの様だ。

「えと……何かあった理枝ちゃん?」

「ええ。悪い男にひっかけられかけました」

「ええー」

 意味がわからない。誰か変な男でも通ったのか? それとも烏のフンが落ちた事を誤魔化した比喩表現だろうか? いや、それもない。結論、朧にはわからないままだった。

(そう言えばこういう時、れんきゅーとか『死ねダボ』とかって罵倒してくんだよなあ……)

 なんでかねー、と朧は小首を傾げる。

 そんな自分の様子を見ながら理枝は「ジーザス」と尖った語気で告げてくる。どうやら怒らせたらしいのはわかるのだが、如何せん理由がわからない。わからない以上はわかってからでないと謝罪の意味も半減だ。

「なんかごめん」

 だが、とりあえず謝罪は欠かせないのである。

 意味は不透明であれ、謝罪は欠かせない現実がそこにあった。案の定と言うべきか理枝は訝しげな視線で「……理由わかってます?」と冷たい語調で尋ねかけた。当然、朧はいい笑顔を浮かべて首を左右にふるふる振ってみる。殴られた。

「わからんなら、謝らないでくれる、ムカつくんで」

「うん。まあ、そうなんだけどさ……」

 顔面を抑えながら、朧は言葉を濁し気味にそう零す他にない。

 なんだろうか謝罪の定義とは。結論今のは殴られる結末しかない気がして、どうにもこうにもやるせないものがきた。

 ――何が癪に障ったんだかなあ。

 頭を悩ませながらも、気を取り直しつつ、朧は再度口を開いた。

「でもさ。考えてはみといてくれよ」

「……」

「俺の友達でれんきゅーってんもいるんだけどさ。そいつも普通にいい奴だし、他の友人も気のいい奴らばっかだからさ。皆で行くの絶対楽しいって」

 初めて日本に来た少女がやれ重い使命ばかりは何とも味気ないと朧は思う。

 楽しいひと時くらいあったってバチは当たらないじゃないか、と心から思うのだ。そうして僅かばかりの時が過ぎ去った頃に理枝の口から何処か複雑そうな溜息が零れた。そして続けざまに小さな一言がぽつりと呟かれる。

「……考えてはおく」

 その言葉に朧は微笑ましげな笑みを浮かべて「おう」と頷いて返した。

 実際どうなるかはわからない。何か予定外のことが起きて破綻になる未来もあるのかもしれない。しかし、それでも朧は約束を交わしておきたかったのだ。自己満足なのかもしれないが、何時か必ずそうした楽しい思い出を交わせる様にと――。


「――!」

 そこで、突然に、理枝がその美しい双眸を大きく見開かせた。


 あまりにも唐突に身を強張らせた様は不可解の一言。しかし、その理由足るものが何であるのか、ある程度事情を話してもらっている朧からしてみれば明察がいく。

「……なにかあったのか、理枝ちゃん?」

 理枝は重々しく首肯を示してから、ぽつりと呟いた。

「何かしらね、コレ……。すごく禍々しい。天魔――天魔とは違う……だけど、危険な感じがするわね……それが唐突に出現した仰るべきか」

「何処だ?」

「こっちよ」

 そう言うと理枝は即座に駆けだした。

 ついて来るなと言っても朧はついてくるだろうから止めはしない。自己責任と銘打った以上はその覚悟を尊重しよう。

 しかし――これは何だ?

 禍々しいの一言に尽きる。天魔の気配に似ているが、妖魔に近い様にも思える奇天烈さが内在している。しかし良くない代物である事は明白だった。ならば、理枝は役割を担う者として立ち向かう必要があるのは違いない。

「本当、日本って。神奈川って。横浜ってどうなってるわけでして?」

 奇怪な気配が次々に。邪悪な気配から、聖廉としたものまでマイナスからプラスまでの力の幅が尋常では無い。

 普通ではありえない事だった。

「ホント――気張りがいがありましてね」

 ぐっと心に力を込めながら理枝は入り組んだ街中の路地裏を走り抜けていく。

 朧が彼女に追走しながら、問うた。

「ところで理枝ちゃん!」

「なんです?」

 振り向きざまに理枝が疑問を投げかける。

「場所わかってんの?」

「ええ。結界がないからね」

「え、そうなの?」

「ええ。ですから前回の牛の化け物とは別物です」

「化け物多いなぁ!」

「まったくでしてよ」

 何にせよすぐさま感知できたのは、牛の化け物と比べて結界を張っていない為に、力がダダ洩れとなっている為だ。これほどの力が漏れていれば、すぐさま駆け付ける事が出来る。そう認識しながら理枝は、すぐ近くから湧き出る嫌な気配目掛けて一気に走りぬけていった。

 するとわかるのは近づいていけばいくほどに濃密さを増す、その存在に対してだ。

 まるで先程生誕したばかりの様な状態と言えるだろうか。徐々に形成されていっているのだろう力の増幅が次第に増量されていっているのが肌で感じ取れる。

「即座に仕留めた方が良さそうね――」

 力が完成する前に辿り着く。

 その意識の下に走った先に、理枝は見た。

 蠢く闇を。気味悪くひしめく魔物を。不気味な笑い声の様なものを上げており『くひひ』と甲高い少女の様にも、老婆のしわがれた声の様にも重なっているのが、とてもおぞましく感じるものだ。

 だが、そんな恐怖は関係ない。

 いざ、ここで仕留めん――!

「――演舞踊れよ鎌鼬」

 その言葉を紡いだ瞬間に虚空から光が形成され、剣の形を模してゆく。

 現実離れした幻想的な光景に朧は思わず見惚れる程だ。

 スラリ、と手には壮巌な深緑を思わせる色合いの柄をした一振りの剣を、彼女は手に握り緊めて秘める鞘から解放する。

疾風(ラファール)――」

 ぶわっと鞘から剣にかけて纏う様な風が舞い踊った。

 昨日の事件の後に、理枝から説明され、実際に見るのは二度目――こうして目にしても驚きで胸中がいっぱいになる程の輝かしさを誇る宝剣の力が、今、解き放たれようとしているのだ。

「――刃雷(リベルテ)ェエエエエエッ!」

 カン、と鋭く引き抜かれた刀身から放たれるは迅速なる疾風の剣閃だった。朧が襲われていた場面を助けた舞風の様な美しい閃きが一条、空を駆け抜けていく。

 魔物はそれに気づいたのだろう。ずりゅ、と不快な音をさせながら、縄で出来た足の様なものを振り上げて――その刃を弾き壊した。雲散霧消する風の刃の最後に朧が「マジか……」と小さく茫然とした声を零す。

 頼みの綱が効いていない――それを理解したのか魔物は都合八本の足をゆらめかせた。縄が幾重にも絡んで出来た様な薄気味悪い代物だ。

「ヤバイな……。どうする、理枝ちゃん。その剣、効き目薄そうだけど――」

「……」

「理枝ちゃん?」

 返答がなく訝しむ。まさか初手がやられて戦意喪失とかではなかろうな――と、思いながら朧が理枝を振り向くと、

「……あ、あう……」

 涙目で蒼褪めてる少女がいた。

 手がガクガク震えてる。

 怯えてた。めちゃくちゃ怯えてた。

「理枝ちゃああん!? どうしたの!?」

「く、く、くくくくくくく、も…………!」

 あわあわと涙目で零す少女に威厳は何もなかった。眼前で蠢くその存在を前に、まず間違いなく――心が即座に屈していたのは一目でわかるほどだった。

「理枝ちゃん。まさか、蜘蛛、苦手?」

 コクコク頷いて返すだけ。

 言葉も吐いてくれない。これはダメだ。

 初手を放てたのは、まだ形が蜘蛛じみてなかった為だろう。

「なら、しょうがない撤退だ!」

 理枝に向けて即座の後退を進言する朧。

 しかしそれよりも先に赤い瞳が二つ、二人を見抜いたところで、

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!!???」

 鷹架理枝が声にならない声を上げて宝剣の名前を連呼し、やたらめったらに振り抜き始めたのである。

「理枝ちゃあん!? うおお、あぶなっ!」

 涙目で『来ないで! 来ないで!』とばかりに振る剣閃に筋もへったくれもあるものではない。メチャクチャに振るわれたそれは唯の凶刃だった。しかし一番厄介なのは、その斬撃が一振りする度に風を纏い刃を放出すると言う性質であったものだ。

 振るう為に剣閃は風を纏って縦横無尽に周囲を翻っていくではないか。

 故に朧は地面に這いつくばってやり過ごす以外に道は無かった。

「理枝ちゃん! 理枝ちゃん! りーえーちゃん! 落ち着いてー!」

「いやぁあああああああああああああああああああああああ!!!!」

 制止を呼び掛けても止まる気配は微塵もない。唯一の良心は斬撃が大半ちゃんと、魔物目掛けて向かって行く事くらいだろうか。魔物も無数に飛来する疾風には対処を手古摺らされるようで苛立たしげな反応を露わにする。

 しかし、次の瞬間に怒気を孕ませた声で、

『じょみゅあああああああああ』

 と、吼えたと同時に腕の一本を二人とは無関係な方向目掛けてドシュッ! と、勢いよく伸ばしていった。ずりゅずりゅと這い寄っていくかの様に伸びている事だけがここから識別できるが、それが何の意味を持つのかまるでわからない。

 そうして数分程度、火力の砲台と化し止まらない理枝。それを防ぎつつ、伸ばした足を引き戻す動作を行う魔物。斬撃回避に専念しつつ、理枝に冷静さを促す朧と言う構図が続いていた。しかしその拮抗は一つの形ですぐに崩れ去る事となる。

 ずりゅんっ。と、戻ってきた魔物の足に拿捕された、それを見てだ。

 青年――そう、青年だ。朧とそう歳の変わらない。足状の縄で捕まっている為に容姿の判別は微妙にしか出来ないが、大まかにはそう判別出来た。

(――一般人)

 そう判断出来た以上は、朧の選択は限られるものとなった。

 人質なのか、何なのか。ただわかる事は理枝の斬撃が狙った場所以外に向かう現状を鑑みればこのままでは彼にも当たりかねない。

 だがどうやって止める?

(こういう時のセオリーはショックを与える事だ。胸を揉むか! 尻を揉むか! はたまたスカートをめくるか! キスをするか! がばっと抱き着くか!)

 ライトノベルでそう言う止め方を見た覚えがある!

 過度の興奮状態で暴走を開始するヒロインを止めるべく、主人公が普段やらない様な淫乱な手に出る、その手の御約束。ショックを与える事でヒロインを大人しくさせる妙なる手札。キスで衝撃を与えたり、胸を揉みしだいて抑え込むなど手法は様々!

 総じて言えば!

「出来るかぁ!」

「わぷっ!?」

 チョップを下した。脳天に。

 始めからこうすれば良かったのだ、と後になって気付かされる朧を尻目に「な、なにをしまして!」と真っ赤になって頭を抑える理枝が見れたので、よしとしよう。

「何をしましてじゃないよ、理枝ちゃん。状況状況」

「え……。あ、うわ……っ」

 理枝はサーッと蒼褪めていく。

 周囲に見える斬痕の数々。明らかに宝剣が乱舞した影響に他ならない。それだけでも醜態だが、今は更に厄介事がある。

「しくった……人質まで……!」

「ああ。このままじゃ全面的に不利だ。どうする理枝ちゃん」

「難しいわ。く、蜘蛛は怖いので直視を避けないとだし……何より厄介なのは、あの人質をどうするつもりなのか等色々ありますが――」

 そう言いながら理枝は再び剣を構えた。

「理枝ちゃん!? 当たるの、それ?」

「当ててみる――見たくないと思う場所目掛けて放ってみるわ!」

「な、なるほど」

 確かに一周廻って見たくない場所目掛けて振ればいける、かもしれない。

 なによりそれは必要なのだ。何故ならば魔物が足の一本をこちら目掛けて振り抜かんとしているのだから――、

「『疾風刃雷(ラファール・リベルテ)』ェエエエエッ!!」

 風が逆巻いて怒涛を奏でた。幾重にも折り重なり解き放たれる烈風が魔物の足に直撃しその攻撃を押し留める拮抗状態。こちらの勝ち目は薄いが負ける線もまた薄い。

 肉薄した戦いが繰り広げられる事となった。

 しかし、その拮抗も仄かに瓦解の憂き目にあう。

「……ッ」

 理枝が微かに辛そうな顔を見せた。

「理枝ちゃん?」

 どうした、と心配の声を発する朧に対して理枝は「アレ見て」と簡素に促す。

 何を――、と思いながら視線を向けた先にいるのは例の人質だ。だが、おかしい。苦しげな呻き声を零しているのだ。そしてそれだけではない――なにやら黒い霞の様なものが漂い始めて体から魔物へ吸い込まれているではないか。

「なんだありゃ?」

「わからないわね――けど、一つ言えるのは――やばそうって事かしら」

 仕方ない、と理枝は語気を強める。

「可能性があるかどうかしらないけど――更に疾走していくわよ」

「疾走って言うと?」

 朧が呼び掛ける声に対して理枝はフッと小さな笑みを浮かべた。

「御大層なもんじゃなくてよ。要するに、フルパワー……火力で押し切ってみるわ。そしたらアイツの手が緩んで人質を手放すかもしれない」

 一つの可能性を理枝は相手の動きを許さない勢いの斬撃を幾度も浴びせながら呟いた。

 その内容のなんと杜撰なる事か。

 要するには完全なまでの力押し。相手が人質と言う存在を度外視しなくてはならない程に疾風乱舞の限りを尽くすと言う策ともいえないダメ押しの攻撃をすると彼女は告げたのだから、呆れの一つも零れ出よう。

 だが、この限られた空間。加えてこんな化け物をここから外部に出さない様にするには、最早その手法しかないのかもしれない。

「現状、そう言う荒技しか、こっちにゃないか」

「ええ。本当は結界の一つでも張れればマシだったかもしれないけれど、生憎と紡ぐ時間がないし、余裕がないもの。ですので甚だ遺憾ながら、不作法の限りを全うし、隙を作れる様に尽力を行うわよ。だからもし、手が緩む様だったら――お願いしましてよ、弓削日比」

「おうよ、了解! 任せておけ!」

「グレート! 頼りにしてんだからね!」

 その言葉を合図に理枝は剣を振るう速度を飛躍的に増加させ、その風を剣に纏わせるかの様に乱舞を放った。そしてそれだけではない。宝剣の刀身が輝いたかと思えば溢れる風の質量も膨大なものへと変化していく。その二つが織り成すのは、まさしく荒れ狂う竜巻の如き風であった。かの姿は紛れようもなく竜巻の槍。

「逆巻きなさい、『疾風勁槍(ラファール・リベルテ)』――!」

 轟ッ! と、前方へ爆発する嵐の突撃槍。

 触れれば肉を削ぐ様な斬撃の暴風は情け容赦なく、かの魔物へ目掛けて直進する。それとほぼ同時に別方向では、莫大な大火が産声を上げて灼熱の奔流を巻き起こらせた。されど、負けは許されぬ。理枝はアークスティアより使命を帯びた守護者の身。その一身は、ここで果てる程に安っぽい輝きでなどありはしない。前方で憤怒に破裂す黒き闇も、突如として顕現した名も知らぬ破滅の大火も、まとめて吹き消す程の風を齎すのが彼女の使命なのだから。

 そうして鷹架理枝の巻き起こす風は闇夜と火焔を突き抜けて終焉へと疾走する。

 刹那、上空には力全てが集約するかの様な輝きが馳せ参じて――。


         2


 ここで恭介と姫海がデートを満喫する陰で起きていた一連の実に億劫極まりない事態の起因足る元凶を明らかにしておくとしよう。

 それは一人の少女の休日の一幕から幕開けした。

 貪欲なまでの愛情と、執着的なまでの劣情を、ある青年に抱く少女。

 名前は北流(ホクリュウ)(イバラ)――鍵森恭介の幼馴染である。

 漆黒の夕闇を梳いた様な艶やかな黒髪。同色の瞳は黒曜石の様に輝いており、瞳の縁は淡く濃緑色の円環が輝いているかの様だ。そしてそれらのパーツを収めている少女の面貌は実に麗しく深層の令嬢を思わせる。花の女子高生らしい、華やかな服装を纏った姿も実に印象に残りスレンダーな体型に見事に合致しており、その見目麗しい容貌はいかんなく魅力を発揮して男達の視線を振り返らせるだけのものを確かに持っている。

 しかし――だ。

 そんな彼女の胸中は艶やかな印象とは裏腹に暗雲渦巻いていたと言って過言ではない。

 と言うより黒雲迸っていたと言う方が正しい。男達も愚鈍ではない。雷鳴轟く雲を見かけて『わーい、くもだー♪ おっきー♪』とばかりに無邪気に近づく事が無ければ、下心を持って近づく勇気もありはしない。触れれば火傷する放電現象に近寄るメリットなど存在しないのだ。しかし、ともすれば、どうしてそんな状態になっているのか?

 その理由全ては目前の逢瀬にあった。

 見慣れた姿――長身で程よく引き締まった体躯が感動的であり、声から容姿に至る全てがまさしく至高の男性。茨が恋い焦がれる幼馴染、鍵森恭介である。

『高校も一緒にしようね、恭介。だって恭介と茨は離れられない運命なんだもの。あー、楽しみだなあ、凄く楽しみ。高校でどんな噂立てちゃおっか? 結婚前提の許嫁―とか、言っちゃったりしちゃったりして。きゃー、もう、やだやだ恭介ったら気が早いんだからー♪ あ、けど、それでも言い寄ってくる女とかいるよね。恭介格好いいもん、嬉しいけど困っちゃうな。いっそ恭介の顔を潰したら寄らなくなるんだけど、格好いい恭介を傷つけたくないもんね。あ、でも愛するが故にってのも愛なのかな? え、違う? 止めてくれ? くひひ、恭介がそう言うならしないでおくね、私だってしたくないもん。今は。あー、もう楽しみ楽しみ。高校生ってなったらもう健全とかしなくていいもんね、どうしよっか、恭介? 高校になったら私の身体、むさぼり放題、食べ放題だよ? おっぱいも、おしりも、唇も、ぜーんぶ。恭介が好きなだけ食んでいいからね♪ 私も同じくらい恭介食べちゃうから。高校生活待ち遠しいなぁ。恭介もそう思うよね? 心臓なんかこんなにドキドキしてて……恭介ったら、なに興奮してるの、もーやらしいなぁくひひ。待っててね。もうすぐだよ。そしたら孕んであげるからね、恭介の赤ちゃん。恭介と茨の愛らしい男の子の赤ちゃん。何人でも、何十人でも、何百人でも、何千人でも。キャー♪』

 と、言う約束事を交わしたにも、関わらず突如所在を消した幼馴染であった。高校も一緒に行こうね、と約定を交わしたにも関わらず、三月付近で唐突に所在不明。以降、自分に音沙汰なく、行方知れずの幼馴染だ。

 いや、幼馴染等と言う括りは止そう。最愛の男性だからである。

 心配した――それはもう、凄く心配したのだ。

 恭介がイケメン過ぎて誘拐を企てた常識知らずの埒外でもいたのではないかと心中穏やかではなかった程に。妹である鍵森(カギモリ)礼愛(レイア)に尋ねかけても返ってきた答えは、やっぱり所在不明。いったいどうしてしまったのかと常日頃、心配していた。その間はもう保存しておいた恭介の使用後のワイシャツを着て、嗅いで、洩らして、一日中過ごさなくてはならない程に。

 そして今日もまた彼を探して彷徨っていた。

 そんな彼女の努力は遂に報われたのだ!

 考えうる限り、最悪の結末として――。

 ――なにあの女。馴れ馴れしい。茨の恭介と手なんか繋いじゃって。ありえなくない? ねぇ、なによあれ。媚売って、ハッ、ちゃんちゃらおかしいっての。ちょっと胸が大きいくらいで調子乗ってんなやブス。ふざけんな、マジふざけんな。恭介に手を出す売女が、なに男受けする様な顔してひっついてんの、離れろや。

 茨はこめかみに青筋を立てながら括目して、その光景に見入っていた。

 大好きな大好きな青年が他の女と手を繋いでいる様子など、到底信じられるものではない。それも恭介の側から手を差し出される等と言う夢物語、尚更にありえない。

(茨だってまだなのに。茨が手を繋ごうとしても、彼恥ずかしがってダメなのに。どうしてあの女はそうなってるわけ、信じられない。ああああ、そんな汚泥の様に穢れた手で恭介の手を汚してんじゃない、彼が可哀そうじゃないの!)

 こうなったら心苦しいが、後で恭介の掌の薄皮を剥がしてあげないといけないだろう。熱湯消毒もいるだろうから、傷が残らない様に細心の注意をしなくては、と胸に誓う。

 しかし口惜しい。

 恭介の側から握られるなんて物凄く羨ましい事だ。

(思春期になってから恭介、手を繋ぎたがらなくなったからなぁ……。昔は何度か繋いでもらえてたのに……茨も嬉しくなって、手の平にボンドつけて繋げば、一生一緒だねって笑い掛けたらそれ以来……ああああ、私のバカ! 思春期にそんな事言えば、男の子なんだもん恥ずかしくなるに決まってるのに!)

 それ以来手を繋ぐ時に警戒される様になってしまった。

 可愛いと思う反面、切ない乙女心である。

 そんな事を思いながら、二人の後をずるりと追尾する茨だったが、ここで衝撃の事実に直面する事となる。

 は? と口をぽかんと半開きさせ、こめかみに青筋をビシバキと立てた。

(恭介を誘った癖して――予定が決まってないだ? 気兼ねなく誘える?)

 そこまで訊いた所で沸々と煮え滾る様な憎悪が込み上げてきた。

 前方で姫海が「僕が体が弱いのは知っての通りだろう?」と言葉を発し会話を始めたところだが、茨の心中は呪怨渦巻いており、平常ではなくなっていた。

(ありえない。ありえない、ありえない、ありえない、ありえないぃいッ! 恭介を好き勝手に連れ回そうってそう言う事!? その上、気兼ねなく誘えそうとか、ふざけるな雌犬。茨の恭介がそんな簡単に逢瀬に誘える様な下手物と一緒にしてんじゃない……! 恭介とのデートなんていう輝かしい時間、私だって一度も経験した事がないのに、どういう事よ? 恥ずかしがり屋な彼が私とのデートの時間だと、すぐに近所のお巡りさんに場の取り持ち役を頼もうとするくらいなのに、二人で和気藹々とそう容易く出来てたまるものかッ!)

 歯軋りがガチガチとなる程に茨の脳髄は赤に染まっていた。

 どうしてくれよう、あの女――。そんな気持ちがムクムクと膨れ上がって、すぐさま駆け付けて、恭介の手を穢している女の頬を引っ叩きたい衝動に駆られる。だが、それをするとどういうわけか恭介が敵意を漲らせて向こう側の弁護を図るのだから、やるせない気持ちになる。無論彼の幸せを思う茨にしてみれば愛の鞭だが、そう何度も恭介に敵対なんてさせたくない。だって彼は誑かされているのだから――。

(恭介って完璧超人なのに、そこが困ったとこよねぇ。でもでもぉ、そう言うお人好しなところもやっぱり好きって言うかぁ……♪)

 いじいじと恥じらう乙女の様に傍の建物に油性マジックで二人の名前を描き、相合傘のマークで締める。建物のオーナーから文句が来たりした事があるが『二人の愛の象徴です♪』とそれはもう懇切丁寧に説明をしたところ『あ、もういいです……』と理解を示してくれたケースしかないので諦めない愛の布教活動である。

(にしても、恭介も珍しくあんな可愛いだけの女に誑かされちゃって……)

 高校生と言う時期特有の隙の生まれなのだろうか?

 普段の恭介は可愛いだけの女になんか決して靡かない清い男なのだ。また危ない女にも決して隙を見せないので茨としては安泰であったのだが……。

「一番初めにあんなサクラ三人使って弱さアピールだとか、ふざけてるよね。なにあれ、しょーもな。私、ナンパされちゃうくらい可愛いんですーってか? なよっちいのよきめぇ。恭介を誑かしやがって……! 茨の恭介なんだよ? 茨の傍でずっとずっとずっとずっと運命的に育ち続けた運命の相手なのに、なんでそんなに馴れ馴れしいわけ? 茨の事知って無いわけ? 恭介の将来のお嫁さんだよ? 許嫁に手を出すとか埒外過ぎるマジ許さない」

 当初からサクラ三人で自分は男の子に守って貰わないとアピールをするなどとは、本当に許せない話ではないか。恭介の傍にいる女は自分の身は自分で守れる強い茨が好ましい。そう、茨以外に選択肢なんてない。ギャルゲーに例えるならば攻略対象全員、北流茨と言ったところだろう。登場人物全員にしても過言ではない。それだけ恭介の人生に自分は欠かせないのだ。

「はーあぁ。幼馴染って近すぎるから想いに気付かないって言うけど、ホント恭介はもう」

 自分の気持ちに早く気付いて欲しいものだ。

 恭介には茨しかいないんだと。自分の事を潜在的に恋しているのだと言う事実に。

 そして茨以外の女性なんか目にしてはダメなんだと。

「刳り抜いちゃおっかな……」

 嘆息と共にやたら物騒な事を呟く。

 しかし、ほぼ単なる冗談なので当然ながら本気では無い眼球は恭介の目元にあるからこそ、輝かしいと言うのを知っているので、そんな愚挙に及ぶ様な茨さんではないのだ。そりゃあ刳り抜いてホルマリン漬けにし、ひがな一日うっとり眺めている光景に陶酔は覚えるが、それでもやはり感情を帯びた行動をする眼球の方が好ましい。

 だからどうかお願いだ。

「茨だけを見てよ、恭介」

 動悸が荒くなり、心拍数が刻む速度を加速させながら、茨は盲目的に濁った眼差しで恭介の後ろ姿を見つめ続けた。

 ひたすらなまでの幼馴染への愛慕の念。

 それを活力に、茨は彼らの後を追い掛ける。恭介の足跡を辿り続ける。

 どこまでも、地平の果ても、運河の端までも、地獄の深淵だろうと、微笑んで。


        3


 ――甘えやがって、牛乳女が。

 握り緊めた拳から鮮血がぽたり、ぽたりと地面に吸い込まれていく程に怒気を滲ませた少女は眼前で広がる光景に対して、信じ難い程の衝撃と怒りを覚えていた。

 まるで恭介の懐の深さに甘えるかの様な振る舞い。

 可愛さアピールだろうか、笑わせてくれる。そんな女の子らしい様な弱さを見せた振る舞いを見せたところで、本性などすぐに恭介の眼力は看破すると言うのにあざといことこの上ないではないか。

 ベンチの上にぐだる名も知らぬ少女を見ながら茨は一重にそう怒った。

「おかしいでしょ、あの女。なに媚売ってるわけ? か弱い女の子演じて、茨の恭介にかまってもらおうとか反吐が出るし。一人称もさっきから訊いてれば『ぼく』とかキャラ付してんじゃねーっての。一人称に自分の名前言う奴くらいあざといったらありゃしない。そんな奴に茨の大好きな恭介が揺り動かされるとでも思っているの? ねぇ? ねぇ? ねぇったら?」

 微かに聞こえてくる声からいくつかの情報を算出する。

 とりあえずわかった事は、彼女の口調が特徴的と言う事と、彼女の名前くらいだろうか。『淡路島』と言うらしい。変わった名字だ。後で調べればすぐに判明するだろう。

 しかし全身から可愛さの様な着飾ったものを振りまく彼女はなんと薄汚いのだろうか。

「そうやって、媚売って、男かどわかして……サイテー」

 子女足るもの、唯一人の男性を慕ってこそと言うものだ。

 気安くデートに誘う辺りが実に売女らしい、と茨は嘲笑を浮かべる。容姿こそ確かに茨も認める美少女だが、心の在り方の清浄さが比べるまでもないではないか。

 だが、問題は、

「恭介の方が問題かもね……。騙されてる、珍しく」

 あの幼馴染が珍しく彼女の本性を見抜けていない。

 あの外面通りの可愛い女の子であるわけがないと言うのに。はてさて、どうすれば恭介の心は気付く事が出来るのか……茨は頭を悩ませた。

 やはり、ここで仕掛けるか――そう考えて顔を上げた矢先「あれ?」と眉を潜める。

 いない。二人がいない。

 いったいどこへ――?

「嘘、どこ……?」

 見失ったのか。先程までベンチにいた以上はすぐに見つかるはずだ。見失ったと言う感覚が色濃く映れば焦りにも至るが、時間的にそう遠くにいるはずはない。しかし。しかし、だ。仮にその数分に、あの女狐が恭介の唇を奪ったりなんて展開になっていたら、それはもはや許される事態ではないではないか――。


「ねえ」


 と、そこで不意に服の袖を引っ張る感触が感じられ茨は恭介らを追う眼差しをふっと声の下方へと向けた。

(なに、こんな時に?)

 イラッとするも、袖まで摘まんでくる声に対応しないわけにもいかない。面倒事なら拒否の姿勢を貫けばすむのだから、それでいいだろう。そう思いながら顔を向けてみれば、声から予想はついていたが、やはりと言うか、そこにいたのは一人の少女であった。

 中学生くらいだろうか。森を思わせる深緑色の頭髪をした、ボサボサとした、何とも不気味で不格好な佇まいの褐色肌の少女であり、伸びた前髪から覗く眼光は、殺されるのではないかと思う程にどぎつい。

 しかし、茨は臆する暇なく、むしろ苛立ちから気にせず対応した。

「なに? 茨、今忙しいんだけど?」

 これが子供ならまだしも、二歳年下――精々後輩程度の意識だ。

 迷子と言うには、中学生なら頑張れと言いたいし、もっと大人を頼るスタンスでいいだろうとも思うので茨の口調は少しばかり辛辣なものだった。

 だが、眼前の少女は気に留めた様子も無く。

「時間取らせてすまねーけど、ちょい話訊いてほしー」

「だからなに? さっさとしてくれると助かるんだけど」

 わざわざ袖まで掴んできて何を訊きたいのか、と想い面倒臭い内容だったら困るなあ、と考えつつも茨は会話に応じた。苛立っているからと言って人の話を無下にするのは、アレだし、なにより恭介ならこういう時は話に応じるだろう。

 何故なら――彼女から微かに困っている様なオーラを感じたのと。

 どこかで似たような人物を見た様な覚えがあるからだった。

「え――人を探してんだけどね」

「人?」

 それならこっちだって捜索途中だった、と言いたくなるのを軽く抑える。

「見た事ねーか? こう黒髪で褐色の、威風堂々って感じのイケメンなんだけどさー」

「……生憎だけど、そんな特徴的な人は茨、見覚え無いわよ」

 特に威風堂々って何だ、とツッコミを入れたい。

 しかし、茨の言葉を訊いて「そっかー」と少女はわしゃわしゃ頭を掻いてから、大きく嘆息を浮かべた後に「わかった。あんがとよ」と、年上に対しては随分と礼節なってない言葉遣いのままに謝礼を述べた。

 そうして傍にいたやけに、印象の薄い少年。地味と言うか物静かと言うか、とにかく大人しそうな少年の傍により「そっちどー?」、「生憎。ダメだったよ」と会話を交わした後に、少女の方は茨に頭をぺこりと下げた後に少年と二人で雑踏に紛れていってしまった。

「……何だったのよ今の?」

 人探しなのだが、やけに特徴的と言えば特徴的な二人に絡まれたものだ。

 そんな事を考えていた茨だったが、すぐさま恭介の事に切り替えて視線を巡らせる。

 すると、今度はすぐに姿を見つける事となった。今までどこにいたのかはわからないが、それでも迅速に発見出来た事は素直に嬉しい。人探しで相手したのが良い事として報われたのだろうか、と思った茨だったが、

「あの女、恭介の手、引いてる、ざっけんなッ」

 涙目になりながら、少女の手に引かれて優しい表情を浮かべている恭介を目視する事は良い事でも何でもない完全なる悪い光景だった。


        4


 茨は最早何度目になるかわからぬ憤慨を抱いていた。

 恭介にしなだれる様にして、トイレまで寄り添ってもらった少女に対しての怒り、そして羨ましさは尋常ならざるものだった。あれほど優しく手を引かれ、あれだけ慈しむ様に寄り添われるなどとは何度頬を引っ叩いても済む話では無い。

 そしてトイレに入るなどとは何と言う恥知らずだろうか?

 自分が今から排泄行為をするから、それで男を興奮させようとするとは、その策士の如き悪質さは侮蔑を敷いて他ならない。恭介相手にそんな醜態を晒すなど、淑女のやる事ではないだろう。

(そりゃ、もちろん、恭介が茨のそんなマニアックシーンを見たいってお願いしてきたら、しちゃうっちゃしちゃうけど、言われても無いのに、そんな行動を起こすなんて、これをビッチと言わずして何て言うのよ、ほんとありえない)

 気付くのだ恭介。

 お前が今日付き添っている女の異常さに。おおよそ、付き合っていきたくない類の人種である事を見抜くべきではないか。距離を置くべき色情狂だ。

 そんな時に男子トイレから水が流れる排泄音が微かに響いてきた。

「排泄シーン見たかったな……」

 男子トイレ付近を通り過ぎようとした青年が、入り口付近に佇む茨の言葉に突然びくりとした反応を示してそそくさと去っていったが、茨の盲目故か、それに気づく気配は無かった。そうしている間に時間は過ぎていき、恭介がトイレから戻ってくる。

 ここで『きょーすけっ♪ 偶然だね、こんな場所で出会うなんて! 運命だね、赤い糸だね、血管で繋がってるに違いないよ、恭介と茨は! 血液が混じり合うぐらいに、引き離せない関係としか思えないよね、もうさ! くひひ、こんなとこで恭介と鉢合わせるなんて、なんて、なんて、なんて、ハッピーなんだろう、私! そうだ、この際本当に小指から血管引きずり出して互いに結んでみちゃおっかー? なーんてね、冗談だよ♪ こんにちは、恭介!』と、でも偶然を装って話しかけようかとも考える茨だったが、彼の聡明さは嘘を暴く。

 そしてそんな形で恭介からの印象を悪くしたくない茨は務めて冷静に身を潜めて、憎々しい女との関係性に更なる探りを入れるのだった。



 店内を微かに覗く少女の姿がある。

 そして述べるまでもなく、茨は御冠だった。怒髪天を衝く気分だ。実際に頭髪が逆立ち、神話に語られるメデューサのごとくゆらめいているから、笑えた話では無い。

 さて、当然ながら彼女が怒気蔓延の至りになっている理由は饒舌するまでもなく、明快な答えしかないだろう。

 問題の女が恭介とランチタイムと洒落込んでいる――プラス、イチャついている。

 ――ファック。流産してしまえ。

 おおよそ、子女にあるまじき発言、いやさ、人にあるまじき暴言だが茨は気に留めない。

 加えて言えば、少女が妊娠しているかどうかも知るわけがない。だが女として最も最悪極まりない呪詛を呟かずにはやっていられない話だ。ちなみに言えば、本当に妊娠していて、それが他の男との子供だったりすれば『おのれ、恭介を弄んだなクソがッ!』とばかりに噛みついただろうし、仮に恭介との子供が出来ていたら、噛み千切っていただろう。何処をとは想像するに難し過ぎるが。

 なにせ考えてみても欲しい。

 二人が雑談し、昼ごはんを楽しむ場所は【トラットリア遊佐】――茨が良く知る、イタリアンレストランだったのだ。幼少期より良くしてもらった店である。恭介と訪れた事も何度となく存在する。その際に、毎回恭介が知り合いと称して休暇中の知人警察官を同席させた事に関しては本当に恥ずかしがり屋よね、と朗らかに苦笑を零し頬を赤らめてしまう茨である。

 そんな格好良くも可愛い恭介が。

 よもや、こんな状況顧みぬ愚挙に及ぼうとは――、

(でもお店の良さを知るお客さん増えたら遊佐のおじさん喜ぶしなぁ……)

 茨は不満を零しつつも、嫌々ながら――真に、本当に、ガチで嫌々ながら渋々とそこは折れる事とした。食事処は客数が命。そこに通うお客がこの店にこんな奴来てほしくないと言ったって、それは我儘の限りだ。

 お客さん増えて良かった、と思うのが人情と言うものだろう。

 しかし困った事に、中に入れないのが難点だった。流石に入れば店側が気付くだろうし、範囲的に近すぎる。事前に店にいたならば手はあったが、仕方がない。ここは気付かれぬ様に万全を期して外で待機といこう。

 そう判断すれば茨は早かった。

 すぐさま恭介達がもっとよく見える場所まで密かに足を運ぶ。しかし、何故だか知らないが見える一角の一つに男女四人が窓越しに店内を覗き見しており、騒ぎ立てているのを見て眉をひそめた。

 ――窓から店内をあんなジッと見るとか、ちょっと無神経じゃない?

 どのような事情があろうが、人が食事を楽しむ光景を邪魔する様な振る舞いに、茨は微かに不快感を覚えた。まったく、とんだ恥知らずである。そんな事を考えながら茨は身を軽やかに壁に張り付かせ、窓枠に対し逆さにぶら下がり呪怨に塗れた双眸で目を凝らす。

 完璧だ。

 人は、上方をそうそう見るものでは無い。

 気付かれなければ完璧のポジションであると自負している。

 さあ恭介らがどう行動しているかを、いざ確認しようではないか。

「たっのしそうにペチャクチャペチャクチャ……、よくまあ、そんなに饒舌が回るわね、クソ女。人の男に手ェ出してデートしてんのが最高に楽しいってかドブス。メニュー広げて、恭介と雑談、談笑、その楽しみが売女に過ぎた幸福だってのに、どーしてわからないかねぇ……。ちょっと可愛い面してるからって調子こくな、もぐぞ、そのデカ乳」

 したら、途端湧き出るのは容赦ない罵声、怒りであった。

 何が楽しいのか会話が弾んでいる様子で恭介もまた楽しげだ。自分に対してもそうそう見せない表情を、あの女相手に見せている――恐ろしい程の誑かしよう、騙しようだ。あの少女はやはりか弱いふりをしながら、恐ろしい程に臓物は腐りきっているに違いない。男をかどわかす女狐なのは最早疑いようもなかった。

 それだけならばいい。捨て置いた。

 だが手出ししてはいけなかった男に手を出したものである。茨の恭介に対してだ。

 必ず引っ叩いてやる。絶対にだ。

 そんな事を怨念、憎悪振り撒きながら、窓ガラスに指を立て、ピシリと鳴らす茨はふとある事に気付いた。なにやら会話がよりよく弾んでいる気配――。

 そうして二人が声を揃えて何かを口にした。

 なんとなく少女の唇から言葉を把握する。三文字だ。

「う、い、あ……ういあ?」

 母音だけは読み取れた。

 何だろう? と、小首を捻る。口で「ういあ」と何度となく発声した。すると、恭介に対して博識な頭脳が明察を生む。

「そっか、スイカか」

 確かに恭介はスイカが好きだった。果実全般好きだが、特にそれが。

 なんとも微笑ましいではないか。ただ、その言葉が浮上した経緯がわからず、頭を悩ませるが、まあそれはよしとしよう。

「恭介ってスイカ好きだもんね。茨も好きだよ。スイカ。美味しいもんね。くひ、一緒だよ。茨の好物はぜーんぶ恭介といっしょ。ずっと、永遠に、絶対に。シャクシャクした歯触りで、見てると心が嬉しくなる真っ赤な色の果肉――見てるだけで本当好き。ぐしゃぐしゃって音がして、ピチャピチャって音が心地よくて、そんなスイカを恭介が一心不乱に食む姿なんて、たまらないもん。大好き、だーいすき、スキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキ」

 ――嗚呼、なんて愛らしい。

 彼を想える世界の美しさは留まる事を知らないだろう。歓喜の渦に呑まれたいのだ。

 だと、言うのに。

「はもるとか、本当ムカつく」

 恭介の好物とはもるとは。スイカ好きはまあ仕方がない。世界を探せばさらっと出てくるだろう、人の好物にケチつけるまでみっともない真似はしないでおこう。

 しかし、はもったのは許し難い。

 まるでラブラブの恋人の様ではないか――。

「――ッ!」

 瞬間、血液が沸騰する様な感覚を茨は覚えた。何度目かは覚えてないが。

 許し難い蛮行。侵し難い愚挙。人の恭介に手を出した悪辣な女。

 どうしてくれようか本当に――!

 そう、憤る茨に気付かず。

 店内ではその後、更なる燃料灯火が開始されようとした。店員であり知人の遊佐蕾が料理を持ち運んで以後の、展開――そして映る出来事。恭介に『あーん』をされ、恭介に『あーん』

をすると言う、あってはならない。あってはならない光景を見たのである。

 そこで遂に北流茨の臨界点はサクッと突破した。


        5


 足が意識より先に前へ出る。

 腕が普段より早く振り切れる。

 歯噛みする気持ちは苦渋の味より、血の味が深く。

 目を伏せるよりかは、血走らせて。

「新オープンです、よろしければどうぞー」

 明るい声で近寄ってくるティッシュ配りの女性を茨は煩わしさから、体で押し退ける様に全身した。瞬間、女性がくたりと倒れ込みかけ、近くにいた男三人組が焦った様子で支えに入るのを気にも留めず茨は歩いていく。

 ――今の茨に話しかけるな。

 怒り心頭。心頭滅却する余地もなし。話しかけてくる方が悪いと思って欲しい程に。だから申し訳ないが、吸わせてもらった次第である。

 後方から男三人の一人が「おい、アンタ! 今なにがあったんだよ!」と声を上げて走って来るが、そんなものを気にする余裕は微塵もないのだ。

 茨は走った。とにかく、適度な場所を求めて。

 誰にも気づかれぬ場所を目掛けて赴くままに。横浜の地理――路地裏に関しては大体頭に入れてある。故にそこまで迷うことなく適所足る場所へと足を運ばせた。途中、長身痩躯の男にぶつかりかけた際に「オウ、ガール。こんなダークネスゾーンに来るのはガールとしてアレだと思うぜ――って、怖ッ」と、驚嘆を発したが、その通りだろう。

 なにせ、自分はこれから恭介の為に悪鬼に至るのだから。

 心を時として鬼にしなくてはならぬ、とは良く言ったものだ。

 そうして遂に訪れた路地裏のスペースで茨は一つの縄を服の下から取り出した。普段は亀甲縛りで隠している愛用の縄である。その色は黒。それをぶわりっと空へ広げた。今から行う事――それは、随所を端折るが俗に言う呪術、黒魔術に類する類のものである。

 恭介に近寄る女をどうにかしたい――そんな茨の神への祈りが通じたのか古書店で探していたところ、頭の上から飛来した一冊の書物。


咒法(ずほう)黒縄術(くらただしのすべ)


 そう明記された書物には素晴らしい内容が記されていた。恭介に近づく女どもに、身の丈を思い知らせ、恭介自身を適度に抑える事が出来る、魔窟の呪術――。

 ――早い話が、愛の鞭。

 おぞましい程の愉悦の笑みを零しながら茨は嗤う。くひひ、と嗤う。

「待っていて、きょーうすけぇ。今から――助けてあげるからね……」

 媒体足る黒縄で自身の身体に巻きつける様に縛り上げた茨は、そこから書物に記されていた言葉を口ずさんでいく。さながら童謡の様な、歌に近い詠唱は長く長く紡がれていく。この詠唱が幾分、長い事もあり人目を避ける必要がある。しかし、その詠唱の成果は徐々に徐々に、その効力を発揮し始めるたのだ。

 溶ける。溶ける。溶ける。

 黒縄が溶け出したのだ。縄が金属が熱で溶けるのと同じ様な溶け方をするなど通常ではまずありえない。しかし現実に黒縄は溶け、彼女の皮膚に染み入るがごとく、沁みこんでいく。

 すると少女の体に変化が訪れた。どろり、と内側から黒い汚泥の様なものが膨れ上がり――暴発した。体中をどんどんと呑み込んで行く。

「くひひひひひひひひひひひ」

 恍惚が零れ出る。恭介を助けられると言う意思が湧き上がって放さない。

 ――さあ救い出そう。

 ずぽり、と黒い縄が絡まり合った一本の大きな足の様なものが左方から生えた。次いで都合三本が右方に湧き出る。合計八本。そこまでいけば一先ず完成だ。そしてそうなれば、この足は触覚として機能し、遠距離の対象を掴みあげ『搾取』と言う力が使役できる。

 そうなれば――、

 そこまで考えた瞬間にバチン! と、激しい衝撃が体を走った。

(なに……?)

 突如襲った衝撃に茨は眉を潜めた。

 おおよそ知る筈もなかった衝撃。自分の身体に帯びた微かな痛みに肌をさすりつつ、何が起きたのかを把握しきれずにいた。そうして僅かに茫然と時間を置いた後に、仕方なく、意識を恭介以外に割いて、その方向を一瞥する。するとそこには男女一組が存在した。片方――少女の方が剣を持っており、こちらに振り抜いていた後だった。

(は……? っていうか、へ、な、なに……? か、刀……いや、剣……? へ? は? な、なによ、あれ……。――バッカ……バッカじゃないの!? 銃刀法違反! なにやってんの、なにしてんの、なんでこんな怖い女いるの、やだ助けて恭介……!)

 ガクガクと身が強張る。

 まさか世の中に剣を持った少女がいようとは現代日本を鑑みれば信じられない事実だった。その上、自分目掛けて、それを振ったと言う事実が殊更、信じ難い衝撃を与えていた。女の子に、あんな刃物で危害を加えようとするなどとは正気の沙汰ではない。

 そう思って身を竦ませる茨であったが、次の光景はそんな風に怖がっているだけでは済まないものとなっていた。

 なんと、少女が再び剣を振り抜いてきたのだ。隣の少年が制止をするように行動していたが、それを振り切って刃を駆け抜けさせる。瞬間、距離が離れているにも関わらず、その刀身が空気を纏い、自分目掛けて刃を放出した。

(は、はい!? な、なんなんコレありえなくない!?)

 風を放つ剣など、どんなファンタジーだ。

 そんな現実離れした代物があっていいのか、と問いを投げ掛けたい気分になる。

 されど、そんな思考を放棄せざる得ない程に事態は進行した。続けざまに迫りくる複数の風の刃。一撃喰らえば、皮膚にざりっとした痛みが走る。女子の柔肌目掛けて何と言う無粋な攻撃をしかけてくれるのか。

 剣を持つ少女が泣き叫ぶ様に吼えているが、泣きたいのはこっちだ。

 だが何よりも言いたい言葉は別にある。それは、

『邪魔ぁああああああああ!』

 黒縄術を用いた際に発声機能が僅かに、くぐもって聞こえる事を知っているが、それでも叫びたい想いがある。どうして私の邪魔をするんだ、と。

 ――茨はただ恭介からあの女を引き剥がしたいだけなのに!

 お前には関係ないだろう。見知らぬお前には。名も知らぬ少女がいったいどうして自分に絡んでくるのか到底予測つかなかった。

 だが一つ言えるのは間違いなく、少女が邪魔と言う事実。

 しかし同時に、それだけの理由で攻撃に転ずるのは茨の良心が呵責を上げる。

 ならば、とばかりに茨は攻撃の嵐に身を晒しながら、自らの目的を遂行する。幸いにもかすり傷程度にしかならぬ、黒縄がほぼ全てを受け止めていてくれるからこそ、傷らしい傷も起きぬ状態がそれを成し得た。

 行け。

 その一念が腕の一本をずりゅっと路地裏の路を駆け抜けはじめた。

 求めるは一つだけ――あの女だ。この状態になった茨の空間把握能力と、恭介がデートコースで誘うだろう道筋、恭介の行動基準を精査し彼らの現在地を割り出すのだ。――と言うのは実際難しい。故に二人の所在を突き止めるのは、もっとこの姿に見合った要素で十分だ。

 黒魔術。呪術。

 ならばこその怨念と執念。恭介への執着心、少女への憤慨を糧として茨の腕は幽鬼のごとくゆらめきながら路地裏から表通りへと抜けていく。

 ――みぃつけたぁ。

 そして彼女は至り、愉悦を零した。

 ああ、ああ、ああ、いたいた。いるではないか。

 それも自分に対して見せつけるかの様な形で、

(腕絡ませて恋人気取ってんじゃないわよ、この下手物風情がァッ!)

 なんと焦燥を駆り立てる様な振る舞いを見せてくれるのか。自分とて、そんな嬉し恥ずかしい事は未経験だと言うのに、よりにもよって、あのような売女が先んずるとは激憤に駆られてもなんらおかしくない現実だ。

 故に掴む。その頬を引っ叩いてやらなくては。

 深く、深く、深く、押し込む様に懸命に。

 くひ、くひひひひ、と内心で笑いながら少女目掛けて触手を伸ばす――捕えた! 女の位置だ。茨は即座に足を引き戻す。恭介にばれるよりも先に糸を勢いよく引っ張る様に。ぐんっと勢いよく引き戻す。

 さあ、いざご対面だ。

 憎らしいあの少女と、恭介の将来のお嫁さんこと本妻が――。

(…………誰?)

 引き戻した腕に掴むものを見て、茨は唖然と呟いた。

 誰だろうか、この男は?

 精悍な顔立ちをしている少年だとは認識できた。だがそれはいい。どうでもいい。問題なのは何でこんな男がいて、少女ではないのかという事だ。なんなのだ、これは、肝心の女はどこに身代わりした――。

(どこにいったのよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!)

 憤怒はそのまま癇癪を起こし、少女は足の一本をのたうつ如くに振り抜いた。

 問題の少女と違う。何故別人が。色々思ったが、それより早く切り替えねば。この男はどうでもいい、はやくもう一度少女を探さねば、恭介を助けねば――そう思った矢先、先程振り抜いた足に今度はちくりとした鋭い痛みが断続的に走った。

 見れば、その足目掛けて剣の少女が先程よりも更に手数を増やした斬撃を飛ばしてきているではないか。流石に煩わしさが胸中に巣食う。

 こうなれば牽制程度に追い払ってやろう。茨は、そう考え力の底上げをすべく、握っている少年の身体から『搾取』を開始する。

 途端に身に浸る異様な力――これこそが、原動力。

 果たして何を搾取しているのかは全く持って知らないが、どうでもいい。些細な事だ。茨が恭介へ向ける愛と、恭介の存在に比べれば全てが些細の一言で済む。だがしかし、だからこそ叫びたい想いがあるのだ。

『邪魔しないで、どーして、恭介ぇええええええええ!』

 何故自分に対してここまで邪魔者が湧くのか。はやく彼の元へ行きたいのに。

 無関係の一般人なんか相手取るのも面倒くさい。怪我をさせないよう、尽力しつつ、逃げ切るのがどれほど厄介かわかっているのだろうか、さっさと消えてくれと嘆願発すると言うのにまるで消える気配がない。

 せめて剣を持つ少女がいなくなりさえすれば――、淡い期待を抱く茨であったが、そのすぐ後に自分が更に面倒臭い事態に置かれた事を理解する。

 ぞくり、と。

 文字通りに身の毛がよだった。

 この身に湧き出る何とも妙な不快感――天敵に遭遇したかの様な嘔吐感に茨は表情を厳しくさせる。それ故に感覚的に理解を示した。

 アレは危険だ。

 黒縄術は呪術である。ならばその特性から逆算するならば、可能性として高いのは退魔の力と言ったものだろう。それはいけない。自分の目的にまだ一歩も差し迫っていないにも関わらず阻害の憂き目に遭うなど言語道断だ。

 ――うざい。うざい、うざい、うざい、うざああああああいっ。

 茨の心中は物凄く苛立っていた。悪寒よりも苛立ちが募っていくのを理解する。

 どうして目論見全てに邪魔が入るのか。おかしい。有り得ない。どうして人の恋路にこんなにも横槍が入るのか。バカなのか。アホなのか。すかぽんたんどもめ。

(黒縄術を半分解放して、いざ行かんってしようとしたら、刀持った女が唐突に斬撃飛ばしてくるし! それを防ぎつつ、あの泥棒猫だけでも締め上げてやろうとしたら、全く知らない男がひっついてくるし気持ち悪い! 茨の腕に抱かれていいのは恭介だけって決まってるのに何なのこの男気持ち悪い! 握り潰してやろうか、クソ……! ああああ、何で邪魔するの、茨はただ恭介の幸せを願っているだけだってのに……! あんな女より、茨の方が何千倍も恭介を愛しているし、何千倍も恭介を気持ちよく出来る、そうに違いないのに、あの女ァ……!)

 今すぐにでも彼を助けに行きたい。

 その後、よく助けてくれたな、と言う恭介の腕に抱き締められたい。

 なのに、どうしてこうも邪魔ばかり!

 あの女の所為で恭介の純潔が微かにでも穢されたらどう責任を取るつもりなのだ。誰が取ってくれるというのだ。

 ――茨だ。他に誰がそんな愛情を注げると言うのよ? そう茨しかいない。ありえない。

 穢された彼を愛してあげられるのも、また茨しかいないのだ。いてはいけない。心底そう思う。だがしかしそれは最悪の結果の末だ。出来うる限りならば、彼にそんな悲しい想いはしてほしくない。無論、恭介の涙を舐め取る価値も、苦しむ声に耳を寄せるのにも、お金に替え難い価値があるがそれでもやはり彼の最高に素敵なのは笑顔なのだ。

 自分へ向ける純然な愛こそ真なる美!

 北流茨は爛々と輝く灼眼を煮え滾らせながら『邪魔をするな!』と叫ぶ。

 どうすれば、この状況を回避できるのか。

 面倒臭いこの事態に唸り声を零しつつ問答を打つ。

 ――やっぱり、双方ぶっとばして行くしかないかな。

 出来れば攻撃は、あの泥棒猫に限りたかったが仕方がない。こうなれば、と茨は腹を決めて大事に至らない程度に双方へ向けて攻撃の意思を示す。

 まず仕留めなくてはならないのは男二人が庇う形で守護する少女だ。

 危険なのは、男二人に守られる形で佇む少女だろう。

 とても嫌な感じがする。自分とは対極の様な厄介そうな感じを。故に二本の足を一気に伸ばして迎撃に転じる。ずぉっと伸びる足で彼女を絡め取り一旦意識を奪うのだ。

「させんぞぉ!」

 だが、その二本の足は巨漢の青年が両脇に抱える形で押し留められてしまった。

 これはひどい。恭介の脇の下に挟まるならばまだしも、あんな汗臭そうな筋肉ダルマの脇の下に足を挟まれるなど蕁麻疹が浮かびそうになる。鳥肌を擦りながらも、邪魔する巨漢の男から茨は『搾取』を開始する。すると途端に「うぉおお!」と苦しげな呻き声を零し始める。

 そんな友人を守ろうと隣の優男が「させないよ――喰らえッ」と言い掛けたので、何かする前に足の一本で掴んでぎゅっと縛り上げる。「くえっ」と言う声を上げて静まった。やった。

「都祁村、貴方ね……」、「おのれ、よくも都祁村を!」

 友人が呆れと憤怒を匂わせる中で、いざ最後の女を捕えにかかろうとする――、そこで茨は今までと比べるととんでもない質量の寒気を感じて停止した。

 ――なに……?

 訝しんで、意識を割いていた、もう片方。そこまで危険視していなかった側へ意識を向けて絶句を余儀なくされた。

 なんだ、アレは、と。

 轟々と渦巻く巨大な剣。有に三メートルはあろうかと言う風の柱。

(なによその、ファンタジーみたいなの! 反則でしょ!)

 ことここに至って茨は危険を感じ取る。アレを喰らうのは流石に怖い。ヤバイかどうかよりも、あんなインパクト多大な代物を受けるのは普通に嫌だ。茨は都合八本足を持って対応にかかる。握っていた男も、二つの足を抱えている男からも、すでに『搾取』するものは大体取ったから用無しだ。後はこの風の大剣を防ぎ切る事に徹する他にない。

 されど――、

「だけどまあ、ご苦労様ねぇ二人とも」

 その逆境にもう一つ、一石を投じる少女がいる事を茨は忘れたわけではない。。

「なんやかんや、貴方達が時間作ってくれただけあって、私も覚悟決めたの詠み終えたわ」

 決意を秘めた双眸を向けながら、彼女はその右腕を自分目指して向けてくる。

「準備完了――行くわよ」

 もう一方の少女の腕に燃え盛る火焔。ゴウゴウと燃ゆる焔が妙に嫌な感触を匂わせている事も踏まえて言えば――茨は思わざるを得なかった。

(本当にさあ……なんなわけよ。茨の恋路を。恭介のピンチ救出を。それら一切合財、途端に現れて邪魔するとか、ガチでうざい。んでもって――)


「咒式――『大火ノ快進撃(タイカノカイシンゲキ)』ッ!!」

「逆巻きなさい、『疾風勁槍(ラファール・リベルテ)』ッ!!」


(アンタ達一体全体、どこの誰なのよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!)

 前方の焔。左方の風。不運な事に相乗効果で荒れ狂う爆炎の大嵐と化し行く絶技を前にしながら茨は心からの叫びを上げつつ、その口を突いて出たのは轟く咆哮、『黒縄術・大噴黒煙』を解放したのであった。そしてそれに触発されたかの様に上空には強大な力が集束して――、


        6


 噴煙埃立つ、路地裏に漂う静寂。もくもくと立ち上る灰色がかった土煙がなんとも、場の緊張感を匂わせて、微かな時間を粛々と刻んで行く。

「……ぐ」

 まず静寂を破ったのは一人の少女の声であった。

「たたぁ……」

 ひりひりした痛み――そう、微かな痛みが体を走っているのを感じながら、むくりと身体を起こすのは、涼子の姿であった。しかし、同時にそれだけである事を起き上がりながら実感と同時に驚嘆していたのである。

「――どういう事かしらねぇ?」

 いやに全身の痛みが無い。痛覚が遮断されているとか言う意味では無く、純然たる事実として彼女の身体に傷らしい傷はほとんど見受けられなかった。敷いて上げるならば服が多少、傷を受けている程度で、腕付近の肌が微妙に露出しているくらいだ。

「少しくらい傷らしい傷を負う覚悟だったんだけれどねぇ」

 女の子なので負わなかったなら負わなかったでありがたいが、火焔系統の陰陽術では上位級の術を持って立ち向かったし、なにより別方向からは嵐みたいな現象が起こった事も相まって正直もうダメか、とさえ思った割には被害が無さ過ぎる。

 ――そう、被害が無さ過ぎた。

「……ここ」

 ――こんなに綺麗だったかしらぁ?

 視界に映ったのは化け物と激戦を起こした路地裏の空きスペース。来た時に見た場所だ間違いない。だが、おかしいのだ。暴風が起こした爪痕も、化け物が壊した破壊痕跡も何一つなく傷痕らしい傷痕は皆無に等しいではないか。

「ええ――?」

 わけがわからない。狐につままれた気分だ。

「起きたか」

 そこで訊き慣れた声が響いた。

 声のした方へ向いてみれば智實の姿がすぐに視界に収まる。

「あっ、無事だったのぉ?」

「無事と言われても、何が起きたか良く分からんのだがな」

 難しい顔で唸る。確かに男三人は化け物の手により意識を失っていたのだから、事態の把握には難しいものがあるだろう。

「貴方達は何時起きたのかしらぁ? 二人の姿も見えないけれどぉ……」

「鬼一よりかは早いな。大方、先に気絶していたのが原因だろうが」

 なるほど、時間差になってしまったわけか、と涼子は納得する。

「情けない限りだがな。だが逆にそのおかげで跡を追えている」

「跡って?」

「寝ぼけたか? あの化け物だ」

 その言葉にぐっと言葉が詰まる。

「そっかぁ……アレって夢じゃ、無かったのねぇ」

「悪夢のようだがな」

 智實が思わずと言った様子で肩をすくめた。

 同感だ。涼子も陰陽師として時折、俗に言う妖怪には出会ったし、幽霊と言う存在を認知してはいるが、あそこまでしっかりとした怪異を見た事はそうそう無い。なにより、アレが妖怪だったのかどうかも定かでは無いのだ。

 なにせ――陰陽師の感覚が違和感を告げていたのだから。

「なんにせよ、お前が気絶している間に我等三人で跡を追い、先は二人に任せた。そして戻ってきたところで丁度お前が起きていた、と言う感じだな」

「そうなのぉ……あら、って事は意識失ってた時間って短いのかしらぁ?」

「ああ。おそらくは一分も無いな」

「……あらあらぁ」

 意識を失うと言う感覚に時間間隔は当てにならない、と言うが本当なのだなと実感する。

 数秒と五十年間の差が意識を失う状態では全く同じとは不思議なものだ。

「ともかく体に大事が無い様なら急ぐぞ鬼一」

「――ええ。そうねぇ」

 智實の言葉に涼子が奮起する。

 なにせ――自分達はあの化け物を追跡しなくてはならないのだから。

 アレがどんな形であっても、『姫海』を襲おうとしたのは事実。眉白が早期に即断したから彼が代わりになったが、本来の犠牲者は姫海だった可能性が高いのだ。ならば、化け物が逃げたとすれば、むしろ姫海を狙う可能性が高いのではないか、と二人は行きついている。

「上等じゃないのぉ」

 ゆらり、と怒気を零しながら涼子は立ち上がった。

「ああ。全くだ」

 智實もまた同様に。

 今日はデートなのだ。姫海の。相手の如何に関わらず――その行いの妨げになる事を四人衆は決して許容しない。彼女に害を成そうとしたならば尚の事。

「雁多尾畑と都祁村に合流する。行くぞ」

 智實の厳粛な言葉に対して峻厳な姿勢を持って涼子は頷き路地裏を走り出す。

 全ては主の警護の為に!

 そうして化け物に対する尾行は開始されたのだった。


        7


「――大丈夫だったかよ、理枝ちゃん?」

 少女の隣を並走しながら朧は疲弊した様子で、そう零した。

「ええ。なんとか」

 理枝は若干疲労感を浮かばせながらも、しっかりとした言葉で返答した。

「たく、何だったんだ本当……! 十字路で塞がっててよく、見えなかったけど、もう片方の炎の奴は……どんな化け物だっての」

「まったくね。あの黒い奴に引き寄せられてやってきたのか、どうか知らないですが……それにしたって凄まじい火力でした。この剣の性質が『風雲』でなければ、どれほどの被害がこちらに及んでいた事やら……」

 呟きながら理枝は剣を収める鞘を撫でつつ虚空へと収納する。

 確かにその通りな状況だったと朧もそう思う。

 火焔とよくわからない黒いオーラ。あの二つを双方取り込んで前方へ吹き飛ばす風の力が無ければ自分達の方への被害は計り知れなかった。

 ――でも本当にそれで無事だったのか?

 と、朧は当然ながら考える。

 いくら突風が全て吹き飛ばしたとしても返し風の原理でこちらに余波が来る可能性もある。そうすれば最低でも体を吹き飛ばされていた可能性を無下にはしきれない。だが気付けば、特に被害らしい被害は無く、

「――ですが、一番驚きだったのは、人質にされていた人が普通に前を『まちやがれテメェー!』と走り去って行った事でしてよ……」

 どうなってんのよ、と理枝は頭を抱える素振りを見せる。

 そう、それも不思議だった。

 別方向から発生した火焔ですでに人質の安否は絶望的だった状態だと言うのに、無事生存してピンピンしながら去って行ったのは驚きの一言である。

 幸運な事に、自分達に気付かず走り抜けていった事で、後は戻ってくる前に自分達もこうして退避に徹底したおかげで姿を見せずして済んだが、なんとも不思議な顛末だった。

「まあ、生きてたって事を喜ぼうぜ」

「……そうね。アタシのミスでああなった事は釈明の余地がないことですし……」

 と、重々しく嘆息を浮かべる理枝。

 一般人を巻き添えにしたのが相当ショックだった様だ。

「そこらへん次回への反省ってやつだよ、理枝ちゃん」

「そんな事貴方に言われなくてもわかってるわよっ」

 むすっとした返答を返す理枝。

 しかしその反抗的な態度が今は心を安心させてくれる。ミスはミスだが人死にが出ていなかった事は大きく心に食い込む形にはならなかった様で安心した。それがトラウマとなって後後に響かない事は大きく幸するはずだ。

「にしても、どうしたもんかね」

「何がです?」

「そりゃ、化け物の事だよ。正直、牛だけで手一杯だったとこに、蜘蛛まで出てきたってなると手におえないって感じじゃあないの?」

「……一概にそうとも言えないわね。確かに強敵だけれど、各所に散らばっている仲間で一気にかかれば可能性もあるわ。…………それと、何より蜘蛛に関しては、深追いしなくても良さそうですし……」

「え? どゆ事?」

 理枝の口から出た放任とも取れる言葉に朧が如実に訝しむ。

 対する理枝は「それはね」と前置きして、ある事を朧に告げた。それを訊いて朧は一先ずとばかりに胸を撫で下ろす。

「しかし、そんなに喰らったもんなのか?」

「さあ……だけど、アレだけ集中砲火の様な事態に陥れば何らかのダメージは負ったと見るべきじゃないのかしらね」

「そっか。なら、それはそれでいい」

 先程の蜘蛛の如き魔物が負傷を患ったと言うならそれで十分だ。ともかく表舞台に現れられない状態になったならば、それで報われる。

 ならば、朧達が動くべき事は当初の方へ限っておいていいはずだ。

「とりあえず車を呼びます」

「そうしてくれると、ありがたいかな」

 体に伝達する疲労感。苛まされる感触は日常生活では、おおよそ味わうはずのない痛みだ。踏み込む必要の無かった疲弊感だ。しかし、それでも弓削日比朧は踏み入った。土足のままで踏み入った。きっちりとツケは払わせる為に。

 そうして二人は路地裏から表通りへと歩みを進めていく。今は撤退に全てを置いて。

 それ故に彼らは気付かなかった事だろう。

 近接する高い建造物の上から、二人を確かめる様に見下ろす人影が、ふっと消え去って言った事に。


        8


「はっ、はっ、はぁ……!」

 少女は、まるで水を滴らせるかの様に水滴が落ちる音を奏でながら黒い外套を纏っていた。さながら滴る墨汁の如く艶やかな液体が足跡の様に滴り落ちる。少女、北流茨は路地裏を苛立ちと共に疾走していた。

 身に纏っていたはずの黒縄の外套は先程までの魔物、黒い蜘蛛の様な代物からは一転しており普通の黒い衣服の様に変化を遂げている。問題の魔術書を読み解いた茨にしか、その仕組みは何たるか判別には難しいが、今は衣服がどうこうよりも彼女の胸中を締める話の方が意義が大きく存在していたのだ。

「あー、もう、ガチで何なのよ、ありえなくない?」

 わけのわからない二つのグループに急に襲われた。

 何と言う理不尽さだろうか。一人の少女を不意打ち同然に攻撃にかかってくるなどとは言語道断の振る舞いではないか。自分は恭介を誑かす少女を闇討ちして折檻しようと考えて行動しただけなのに不条理の一言に尽きるというものだ。

「その上、わけわからん力使うし……バカじゃね? ファンタジーの見過ぎじゃね?」

 自分が黒魔術に通じていなかったらどうしてくれるというのか、と愚痴を零す。

 色々地団太踏みたい気持ちはあるが、止まるに止まれぬ事情がある。後方から追手が二人向かって来ているからだ。ああ、本当に腹立たしい。力が使えれば気絶に追い込むのだが、まことに不可思議な事に、

「何でまったく、反応しないのよイラつく……!」

 黒縄術はうんともすんとも言わなかった。

 こそげ落ちてしまったかの様に疲弊している自分の状況にむかっ腹が立つものだ。なんにせよ今の自分はか弱い乙女に過ぎない。武器として鉈を隠し持っているが、それだけでは心もとないので戦闘は控える。

 しかし、その程度の力でも恭介を誑かした女は狙えるはず。

 殺しはしない。■■■■するだけだ。簡単である。

「くひっ」

 その光景を思い双眸は歪み、少女は窮地にいながら笑みを浮かべる。

「くひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」

 逃げ切り、愛しの少年の元へ向かう。

 少年を誑かした女を折檻した後は、彼への愛をささやく為に。北流茨はどす黒いオーラを発散しながら光が差し込む表道へと駆け出した。

 勢いよく駆け出したものだから道行く青年の一人と危うくぶつかりかけるも「邪魔ッ」と怒声を上げて「うぉっと」と驚いた声を上げさせ道を譲らせて、街中の雑踏へと紛れていく。

 だが、そんな事は許さない者達がいる。

 すぐさま表道へ現れた二人。例え茨が早くても男の歩幅。おいそれと引き離されはしないとばかりに現れた勇三九と眉白は傍にいた銀髪の青年に声をかける。

「悪い! 今ここを真っ黒い奴が通ってかなかったか!?」

「真っ黒い女の子なら走ってた様だぜ?」

「女子……!? あれ、女子だったのか?」

驚いた様子で勇三九と視線を交わした後にすかさず「どっちだ!?」と尋ねて「向こうだね」と言う返答に「サンキュ!」と礼を言って二人は雑踏に紛れた女を探すべく走り出していく。人探しは難しいが、あれだけ漆黒の人間なら目につくはず。

 何よりも――彼女は主を狙って行動している。

 要するに真っ黒い女を探し出すか姫海を探し出すかの選択肢だ。加えて真っ黒い女も姫海をまだ発見出来ていないはず。そう希望的観測を浮かべて二人は駆け出していく。


        9


 その頃。

 とある洋服店で鍵森恭介は、あるものを物色しながら携帯電話をかけていた。

「どれにするかね~……」

 うーむ、と唸りながら物色するものは暖かそうなカーディガンであり、その色合いに悩んでいる様子である。暖色系がベストだが、どれにするか、と思いつつ「早めに済ませないとだしなー」と時間の都合を覗かせていた。

 そうこうしている間に通話が繋がった様子で向こう側から音が零れてくるのを認識する。

 重厚な声で「もしもし!」と忙しそうな声が返ってきたのを確認すると、

「よ、五郷海老済」

「鍵森か! 何だ貴様この大事に!」

「ああ、やっぱ大事なのか」

 恭介がそうなったか、と頷きながら返答する。

「…………おい、やっぱとはどういう事だ貴様」

 結果、当然ながら困惑気味の声が聞こえてきた。

 恭介は頬を掻きながら申し訳なさそうな声を発する。

「いや、悪いな。その可能性もゼロじゃねーかなとは思ってて」

「どういう事か説明しろ、貴様」

 どういうことと言われると面倒臭いのだが、と思いながら「やっぱ水色だな」と決定を下した恭介は仕方なく簡潔に答えを述べた。

「説明の暇がないから簡潔に言うが――嫉妬に狂った幼馴染の蛮行だ」

「…………」

 とてもげんなりした空気が伝わってくる。実に申し訳ないと心からそう思った。

「……それで大方の事情を察せるのが物凄く面倒臭いのだが」

「ありがとな、理解してくれて」

「ツケを回された気分だぞ!」

 それは確かにそうだろうな。そう思いながら恭介は選んだカーディガンをカウンターに置いて会計をお願いする。

「あっはっは、全くもってその通りだな」

「笑っている場合か!」

 それで、と間を置かず声が零れる。

「かけてきた以上は何かあるんだろう? 何だ?」

「とりあえず俺の方で茨が手出しにくい状況を常に張った行動をしているところだ。アイツの思考回路はこっちの方が読めるからな。だから危害の面では安心してくれ。ただ、お前らの助力も欲しい。なので場所を今から言うぞ」

 智實の声の焦り様から自分達を見失ったのは想像つく。おそらくは茨もだろう。ならば自分達の所在を告げて智實達をこちらへ引き寄せておいた方が姫海の安全は保障される。

 恭介はすぐさま現在地を告げ、今後の、おおよそのルートを算出し述べた。

「――了解した。すぐ向かう」

「ああ。ありがとな」

 そこで通話が切れた。

 ――まあ。

 可能性として一つ――事の関係が一切無い場所へ全員振り切って逃げると言う案もあるが、それは姫海が承認するか次第だ。どちらにせよ未定なので使わなければ使わないだろうが、いざ使う時は説明不足で後で怒鳴られるかもしれない。

 が、それくらいは大目に見てもらおう。

 恭介は姫海がお願いした内容をちゃんと安全かつ楽しく最後までやり遂げる義務と気概があるのだから。それは四人衆が理解し――幼馴染が台無しにしようと画策する事案だ。

「本当に困った幼馴染だ」

 嘆息を浮かべて肩を垂らす。

 何時からあんな狂った事になってしまったのやら……。

 なんにせよ。

「ご購入ありがとうございましたー」

「ええ、ありがとうございます」

 会計を済ませて、袋に入ったカーディガンを受け取った恭介は携帯電話をポケットへ仕舞い込みながら瞳をギラリと輝かせる。

 ――茨よ。例えお前だろうが、本日の邪魔は一切させないぜ。

 ほぼ後始末を他者に任せる形となったのが心苦しいが、やれる限りの事を最大限やり尽くして姫海を安全かつ面白可笑しく最後まで満喫させてやる。

 そう胸に誓うから。

鍵森恭介は外で待つ待ち人の元へ、想いを片手に戻っていくのであった。


        10


 結論を述べるならば、その日は疾風怒濤の出来事を飾って夕闇は降りて行く結果となった。

 顛末へ至る経過を語れば、大好きな幼馴染に群がる少女を折檻しようと殺意を爆発させながら迫りくる少女は近衛四人衆と鍔迫り合いの時間を味わった後に、悔しさを滲ませながら撤退を余儀なくされ。

 そんな魔物の様な幼馴染から主を救った四人衆は涙と共にやり終えた充足感に浸っていたところ、さて主の姿もデート相手の姿も何処にもない事に気付いて四方八方を散策し終えた後に海を満喫してきたと言う知らぬ間にどっかへ逃避行遂げていた奴へ『何かされなかったか!?』と二重の意味で問い掛けたりして。

 慌ただしい四人と間接的に関わりを持った様な二人組は、新しく入ってきた情報から行動を開始する形となって。

 その二人が狙う相手と遭遇した青年は街に起きている以上の元凶かもしれぬ存在を追う形で夕闇へと姿を消した。



 夕闇は過ぎて帳は降りた。時間は刻々と夜に更け、十時と言う時間を指している。

 鍵森恭介。弓削日比朧。鷹架理枝が狙う、本物の化け物はと言うと。

「げげげげ」

 視界の先で青白い血がすっと引いた様な顔で、茫然と佇む少年。

 赤いルビーの様な輝きを放つ指輪を握るごく普通の少年を見据えながら、歓喜に満ちた不気味な笑い声を零していた。

 げげげげげ。げげげげげげげ、と。



第六章 啓蒙成らずの追跡劇・後篇

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