第五章 海辺へ寄り添う勧進木・後篇
第五章 海辺へ寄り添う勧進木・後篇
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二人を案内する見目麗しい少女は店主の京一の愛娘、蕾だった。一家で運営する、『トラットリア遊佐』店内に於いて、彼女の立ち位置はウェイトレスだ。
そんな彼女に案内される形で二人はテーブル席へと案内された。ふかふかのソファーがなんとも居心地よく、座って早々に姫海はほへぇ、と脱力していた。
「――ふぅ、お店の中は居心地がいいね、やっぱり」
「疲れは平気か?」
「くたくたさ。全く融通の利かない身体だよ」
苦笑交じりに姫海は肩を竦める。
「なら、後で手洗い行くんだな。バックの中に入ってるんだろ?」
恭介の見抜いてる発言に思わず姫海は顔を朱に染める。
発言の意図は理解しているが、なんとも気恥ずかしい実態だからだ。
「そうだね、そのつもりだよ。ただ、こういう事情が男の子の君側に筒抜けって言う状態はぼくの精神衛生上は芳しくないなあ」
「初めにお願いしてきたの、そっちだったろ? 諦めとけ」
「それはそうなんだけれどね。流石に、恥ずかしさは諦めきれないよ」
ぐてーっと腕を交差させながら、机の上にだらしなく突っ伏す姫海は赤くなった顔から、こちらへジト―ッとした視線を投げかけていた。
理由は明確で、平たく言えば恭介は姫海の下着事情に詳しいのである。
何故、そんな事になっているかと言えば、そこまで不埒な理由は介在しない。単純に一日に過剰な運動量に及ぶと大量に汗をかく事となる姫海は体調次第で下着を替える必要性がある事から、替えの下着を多く持っていると言う事を知っているだけだ。決して不埒な理由と言うものは何一つ介入なんかしていやしない!
そう全くないのだ、と恭介は力強く首肯する。
実際そんな事を考える余裕もないくらい、病人の世話と言うのは悪戦苦闘必死なのだ。
一日の間、歩き回ると言う行為のおかげで相当汗をかいているのだろう。
だから定期的に下着を替えなくてはならないし、休憩を挟まなくてもならない。
「大袈裟に言って丁度いいくらいなんだから、気にせず諦めておけ」
「それでもぼくの女子の尊厳は壊滅的だよ」
「安心しとけ。俺は別に女子を神聖視してるわけじゃないからな。生々しさに鼻息荒く出来る普通の高校生男児さ」
「なにその否定し辛い感じの高校生男児」
まあぼくも男の子がそう言う興味関心あるのわかってるけどさ……と、存外理解を示した発言が返ってくる。
「ま、それは冗談としても、お前の身体の状況は大袈裟じゃないんだから、恥ずかしいにしても頼れる状況は保っておけよ?」
「うー、まあ、仰る通りだけどさ。普段は鬼一さんが大半だし……後は家のメイドさんとかかなあ」
学友やメイドに理解がある相手がいるなら、それに越した事はない。
恭介の場合は何故か異性関係飛び越えて面倒見ていたりするが、それも一重に手際の良さと過去のアルバイト諸々の経験である。
(それと――なんか、コイツの事、目を離してらんないんだよなあ……)
面倒見とかではなく、何故か理由は分からないが、目を離してはならない様な気がして、気付けば色々手を差し伸べているのだ。
それが不思議でないと言えば嘘になるが、同時に感じる居心地の良さが何故か好ましく、今もこうして一緒にいるのだ。
「どうかしたかい?」
そんな事を黙考し始めた所為か姫海が不思議そうに小首を傾げてきた。
その様子に「いや、少し考え事」、「ふーん?」と言う短い遣り取りを終えた後に、テーブルの上に置かれているメニュー表を手に取った。
「ともかく、さっさと、注文しておこうぜ」
「それもそうだね。何を頼もうか?」
二人してパラリとメニュー表を開く。ずらりと並ぶ写真つきの料理名をざっと見終えたところで恭介は姫海に尋ねた。
「淡路島はどんなのが好みなんだ?」
「ぼくかい? そうだねー……、海鮮パスタ辺りかな」
「海鮮か。じゃあ、この海老と帆立のトマトソースなんか、いいんじゃないか?」
「確かに、美味しそうだね。うん、これにするよ」
にこり、と小さく笑みを浮かべながら姫海は頷く。
「鍵森君は?」
「俺は鶏肉とアスパラガスのクリームソースパスタにしておく」
「そっか。それじゃ注文だね」
ベルボタンを押してやってきた店長の娘である遊佐蕾に対して注文を終えると、しばし暇な時間が過ぎ去った為に二人して蕾が片づけてくれたメニュー表を再度見始める。
「いや、何て言うかメニュー表って見てると楽しくて、つい、な」
「うん。片づけてもらっておいて、アレなんだけどね」
可笑しそうに互いに微笑を零す。
ずらりと並ぶ料理の写真はどれも美味しそうで料理が来るまでの間に、なんとなく見て面白がったりしてしまいそうになる感性はどうやらお互いだったらしい。
「淡路島」
「なにかな?」
「パスタが普通に食えそうなら、デザート頼むか?」
その言葉に姫海はじーっとメニューを凝視した後に、
「……そうだね。折角だし、パスタは基本的にそんな量もないし、注文しようかな」
と、綻ぶ様な笑顔をみせた。
基本的に小食な姫海は時間を置かないと、多くは食べられない為、そういうところは大変だろうな、と恭介は思うものだ。
「ああ。折角だし喰えそうなら喰っとけよ」
「ありがとう。じゃあ、何にするかな……」
顎に手を添えながら難しそうな顔で唸る姫海。
しかし、その表情はどこか嬉しそうな色合いを帯びていた。
「今の時期はやっぱりイチゴが多いね、鍵森君」
「旬だからな。それで言えば夏みかんのゼリーも捨てがたいが」
「どれも美味しそうで困ってしまうよね」
くすくす、と嬉しそうに笑う姫海。メニューが多いと言うのは、なんとも迷う。けれど同時に選択肢が多いと言うのはなんとも嬉しかった。
「でも、そうだな。ぼくはメロンのミニパフェにしておくよ」
「へー。そういや、メロンも時期か。おお、美味そっ」
だろう? と、得意げな笑みを浮かべる姫海。
物凄く美味しそうだ。
「メロン美味そうだな」
「なら、鍵森君も同じのにするかい?」
「いや、イチゴ喰っておきたい気分だし、そっちにしとくわ」
そう言ってメニューにある、イチゴのムース軽く指差した後にメニュー表をぱたんと閉じて元の場所へと戻しておく。
やはりデザートを頼むと言うのはウキウキとした心持になるものだ。
「それにしても、やっぱりアレだね」
「何だ?」
「いや、鍵森君はフルーツ系のデザートが好きなんだなって思って」
「……その発言は的を射ているが、よくわかったな?」
恭介は感心した様子で目を見張る。
確かに恭介は果物系のスイーツが好みだ。と言うよりフルーツが好きなのだ。しかし姫海が気付いているとは思わなかった様子で目をぱちぱちさせていた。
「なんてことないさ。学食で頼むデザートや、飲むジュースが度々果実系だったから、ああ果物好きなのかなって思っていただけだよ」
「なるほどな」
確かに学食で頼むデザートは全てフルーツ主体だったし、飲むジュースも同様だ。前に後輩である日向へと手渡したジュースも桃のジュースである。
けれど、
「だが、それを言えば淡路島。お前も果物好きだろ?」
「やっぱりわかっちゃうかい?」
「まあな。学食での流れは同様だ」
姫海もまた恭介と似たような一連の流れだった事を恭介は記憶している。実際、今注文したのもメロンだ。恭介同様に果物が好きなのだろう。
実際、次に姫海が浮かべた笑顔は、本当に輝く様な笑顔だった。
「ご指摘通りさ。ぼくも果物は大好物なんだ」
「へー、親近感湧くじゃないか。ちなみに一番好きな果物はなんだ?」
「一番かい? それを言ったら一つしかないかな」
「そうそう。一番って言ったらアレっきゃねぇよな」
互いにうんうんと頷き合いながら笑顔で同時に告げ合う。
「「――スイカ!」」
同じタイミングで零した発言に思わず二人は目をしばたかせた。
てっきり、別々のものが口から飛び出てきて、その互いの頂点と言うべきフルーツで口論し合うと感じていただけに、恭介も姫海もお互いに顔を見合わせていた。
しかし、やがてどちらともなく肩を震わせ始め――それは、爆発した。
「ははっ、ぷははは、あははっ! 鍵森君も、なんだ?」
口元に手を当てながら軽く涙交じりの姫海は心底可笑しそうに笑いを零しだす。
「くく、なんだよ……たくっ! てっきりイチゴやらマンゴーやら飛び出てくると思ったらお前もスイカかよ!」
恭介も同じ思いだった。可笑しそうにお腹を抱えて笑いあう。
フルーツ好きは一緒だと考えていたが、まさか一番好きなフルーツまで一緒だったとは、なんとも奇遇な事ではないか。恭介も姫海も楽しそうに爆笑する。
「だって、スイカ美味しいじゃないか。ぼく、夏場はスイカがあるからたまらないんだよ?」
「全く同意見だ。いやはや、涼しい縁側とかでスイカ喰い始めると『風流!』って具合で止まらないよな」
「うん、ホントだよね! そもそも、緑と赤の色彩が素晴らしいと思うんだ」
「確かに、あの食欲をそそる色合いは化け物だよな」
緑と黒の島縞模様の皮の中には真っ赤に熟した赤の果肉。あのグラデーションの夏らしさ、輝かしさは個人的に果物の王様だとすら二人は思っている。シャクシャクとした歯触りの素晴らしさには脱帽だ。
「イチゴもマンゴーもいいけど、ぼくはスイカかな。日本って感じがするんだ」
「わかってるな。そう、まさしく風物詩だ」
うんうんと恭介は力強く首肯する。
スイカは日本の風物詩。その在り方にあれこれ解釈を入れる事など野暮の一言。その為、恭介はただただ頷いて返すのだ。そうして互いにスイカの事に関して小一時間話し合う様な勢いで会話しあっていると、いつの間にか時間はそこそこ過ぎた様で、
「まだ五月だし気が早いよ、お二人さん?」
と、言う一言と共に蕾が注文したパスタをテーブルに運んできたところだった。
湯気が立ち上る二種類のパスタはどちらも美味しそうで、恭介のパスタは白いクリームソースに浸ったスープ寄りのパスタ。姫海の頼んだ海鮮パスタは鮮やかな赤寄りのオレンジに彩られていた。
蕾へ追加注文でメロンのミニパフェを告げた後に、二人して料理へ向き合う。
「ん、美味しそうだ……! 量もそんな多くないし」
「俺の方も美味そうで何よりだ。さて」
ちらりと姫海を見やる。彼女も小さく頷いて返してくれたところで、互いに手を合わせると『いただきます』と、声を零してからフォークでパスタを絡め取り始める。
丁度一口分の量を絡めて口へ運ぶと姫海は「美味しい……っ」と、華やいだ表情を見せてくれた。どうやら口に合ったらしい事を見て恭介は小さく微笑を浮かべた。
お互いに口の中に花開く幸福感を噛み締めながら、談笑を交えつつ食べ進む。
そうして、しばらくしたところで姫海が少し気恥ずかしそうに呟いた。
「鍵森君。少し、構わないかい?」
「お、どした?」
「その……意地汚いって思われるかもしれないんだけれど……一口、君のも味見してみて構わないかな?」
「何だそんな事か」
恭介は微笑を零す。
一口食べてみたい――そんな些細なお願いだったらお安い御用だ。それに普段から食事は多く食べられない姫海を学院で知っているので、こういう機会であれば喜んで頷こう。恭介はそっと姫海の方へ皿を押し出しかけたところで――ピコンと閃くものがあって押し出そうとした手を留めた。
「? あ、ぼくのフォークじゃ嫌だったい?」
「いや、美少女の唾液つきフォークを拒否する程、変態じゃないから安心してくれ」
「そっか、ならよかったよ――じゃないよ!? 変態だよね、それ!?」
「ははは、ジョークだよ。ともかく一口だな?」
姫海が「嘘くさいよ……!」とジト目で睨んでいたが、やがて呆れたのか諦めたのか嘆息を浮かべた後に、柔らかい表情を浮かべた。
「うん、出来たら食べてみたくてね」
「よし、任せろ。折角のデートだからな」
恭介が快く首肯したのを了解と認識した様子で姫海は「ありがとう、じゃあ一口頂くね」とフォークを静かに更に伸ばし掛けたところで、
「あーん」
「……」
「あーん」
無言の姫海に再度試してみる。
「んな……!? か、鍵森君!?」
恭介は『ほら』と、言わんばかりの気安さで姫海へ向けて自分のパスタを絡めたフォークを彼女の口元へ差し出していた。
その光景に慌てた様子で姫海がわかりやすく狼狽する。
そんな姫海に柔らかな笑顔を浮かべながら、恭介はなおもフォークに絡みついたクリームパスタを彼女に差し出す。
「どうした、淡路島。ほれ、食べてみたいんだろう? ――俺の白くて熱い濃厚な液体を」
「最後の一言余計だよね!? 確実に狙ってるよね!?」
「はははは」
これ見よがしに笑う恭介に姫海は真っ赤な顔で「むぅ」と唸る。
そして少しの間逡巡した後に、姫海は思いもよらない行動をとった。
「あーん♪」
「……なに……!?」
真っ赤な顔の姫海から差し出されたのは、彼女のパスタだった。フォークに絡んだ微かに湯気を立ち上らせるパスタはなんとも美味しそうである。――そんな事はどうでもいい。まさか姫海も同様の行動で仕返ししてくるとは、と恭介は驚いた。
彼女の性格からこんな恥ずかしい事を出来るとは思いもしなかったのだ。
それ故にさしもの恭介も額からつぅー、と冷や汗を垂らす事となってしまう。
「正気か。淡路島」
「無論、正気だとも。気が触れたわけじゃないさ」
「そうか。――だが、その行為の及ぶ意味をお前は理解出来ているのか?」
「当然だとも。折角のデートなんだ――カップルらしい事を楽しもう、と言ったのは鍵森君だったんじゃあなかったかい?」
「ははは、そうだったな」
互いに目が笑っていなかった。
顔は真っ赤だと言うのにそれを隠す勢いで双方闘気の様なものを滲ませていた。一歩も引けない――いや、引いた方が痴態を晒す事となるのは目に見えていたからだ。引けば、後はからかいの対象として今日一日、弱い立場になる。
――そんな事は断じて認められない!
意固地と意固地のぶつかりあいである!
「いいぜ。たっぷり味わえよ。俺の熱く漲った迸りをなッ!」
「上等だよ、喰らいつくすとも。た、食べてやるとも! そっちこそ覚悟を決めなよ!」
互いに若干膝小僧が笑っていたがテーブルの下に丁度隠れている為に双方気付かない。
「何を張り合っているんだろう……」、「と言うか、窓の外が憤怒に塗れていて怖いんだが」、「不思議なカップルねぇ」と、恭介と姫海以外の店のお客たちは不思議そうな視線をちらほら向けていたが渦中の二人は全く気付く気配がないまま、闘争心を激化させていく。
「勝つのはぼくだ」
「いいや、勝つのは俺だ」
互いに火花を散らしあう二人。
おおよそデートで飛び交うとは思えない勝利宣言を互いに放った後に、
「はぐ」
「あむ」
互いに相手から差し出されたパスタを口に含む。フォークから吸い取る様にすぃっと口に取り込んだパスタは実に美味だった。本当に美味しかったのだろう。
――味何かわかりゃしないが!
「――」
「~~ッ!」
お互い、真っ赤になるのを堪える様に机の上へ突っ伏した――かと思えば顔を上げて、さも平静を装い始める――視線が泳いでいたが、見事に平静を務める二人だった。
「むー」
「ははは……」
店を出た後の姫海の態度は見事にふてくされていた。
ふてくされていたと言うよりかは羞恥からか拗ねている様にも見える。そんな態度に視線を逸らして苦笑いを零しつつも「ま、まあちょっとしたジョークってやつかな、うん」と恭介が言い訳がましく呟く。止せばいいのに、その後にデザートで二回戦を繰り広げたツケも起因して大変ご立腹だった。
「ちょっとしたジョークで鍵森君はクラスメイトにあんな辱しめをやったと言う事かい?」
「すいませんでした」
ここは素直に謝っておいた方が良さそうだ。
「店主のおじさんにもからかわれたし」
「安心しろ。それは俺もだ」
そう言いながら恭介は京一の楽しげな笑顔を思い出す。
『いやあ、連日よかもんば見せてもらったばい』、とあなたはどこの出身でしたかと疑う口調になっていたが、そんな旨の言葉を発していた。他にも『意外と年貢の納め時かもしれなくて、おじさん安心したよ。あんな鍵森君は初めて見たねえ』などと散々からかわれたのだから。
「だが、お前だってやったじゃないか。おかげで俺も相当こっぱずかしい気持ちを抱く羽目になったんだぜ?」
「そ、それはそうなんだけれど……!」
姫海は真っ赤になってあわあわとしながら、
「だ、だって、ああでもしなくちゃ、ぼくばかりが恥ずかしい気持ちになって不公平じゃないか。それに負けるみたいで悔しいし……」
「なら、お相子で許してくれよ」
「それはお断りさ、鍵森君のすかぽんたん」
ふくれっ面で姫海は罵倒してきた。可愛い、と思ったが指摘すると怒られる気がしたので恭介は内心にとどめておく事にしない。
「はっは、仏頂面しようが、可愛いだけだってお前じゃ」
「それは侮蔑かい? それとも賛辞かい?」
口元をぴくぴくさせて姫海が怒りマークをこめかみにくっつけていた。
純粋に可愛いと言ったつもりだったが、お気に召さなかった様だ。恭介は肩を軽く竦めながら「賛辞だよ」と小さく零してから、不敵な態度で尋ねかけた。
「じゃあどうしたら許してくれるんだお姫様は?」
仮に『あーん対決』の様なこっぱずかしい展開が来ても、もう屈しない。何故ならば勝負に勝つのは自分なのだから――。
どんな事が来ても不動ですよ、と言わんばかりの様子に姫海はむっとしながらも何かを思案する様に腕組みしながら考えた後にちらりと恭介の左腕に視線を寄越す。
「……?」
若干頬が赤らんだ様子に恭介は何やら汗が噴き出してくる。
ちらちらと自分の胸元と恭介の左腕を交互に見やり恥ずかしげな態度の姫海に対して、おいまさかやめろ、と内心で祈りながら呟いた。
「おい、まさか淡路島さんよ……」
「いいね、その余裕が崩れた感じ」
キュピーン、と瞳を怪しく輝かせて姫海はさっと恭介の左側に身を寄せる。
文字通りに、身を寄せた。
厳密に言ってしまえば、彼の左腕に全身で抱き着いたのである。途端に恭介は左腕に尋常では無く柔らかいものを感じる事となる。そもそもとして運動をあまりしない姫海はやせ形だが、出る所は出ていると言う世の女性が羨む体型をしている美少女だ。特に胸部の凹凸の激しさは半端では無く左腕を胸元に見事に挟まれた形となってしまう。そしてなにより姫海の美しい面貌がかなり近くにやってきた。今までも散々近距離の事はあったが、それでもここまで至近距離になった事は早々ありはしない。
「ふふふ、どうかな、はひもりふん?」
姫海は傍目物凄く真っ赤ながらも不敵な笑みを崩さないでそう問い掛ける。
言葉が後半崩壊しまくりだったが、それすらも大したことでは無い事態に歯噛みするくらいの気持ちである。
「淡路島……テメェ……!」
恭介が冷や汗をたらーっと流しながら口元を痙攣させた。
「さっきあんなに恥ずかしい事をしてくれた仕返しだとも。これなら鍵森君だって恥ずかしくなるに違いないと思ってね……!」
姫海の言葉に恭介は反論を持たない。
恭介だって普段飄々と余裕に構えているが男子なのだ。ここまで美少女にくっつかられて何の反応も見せないなどという草食系ではない。微かにカチンコチンになりそうな体を必死に脈動させ普段通りを振る舞う。
「見事に体を張った仕返ししやがってからに……!」
「耐えられるかどうか実に見物だよ鍵森君」
何ていやらしい目つきだろうか。
顔中真っ赤な癖をして目つきだけは悪戯っ子の様なあくどさだった。だが、おいそれと流されるつもりはない。恭介は不敵に微笑を浮かべる。
「そう言うお前こそ、何時までこう振る舞ってられるか実に見物だなぁ?」
「言ってくれるね」
姫海は心配無用だよ、とばかりに笑うが腕から伝う心音の高さを指摘してやると、ぐっと言葉に詰まった様子だったが、すぐに不遜な態度で笑みを浮かべてきた。
「ふふふ」
「ははは」
「ふふふふふ……!」
「ははははは……!」
交わす視線がバチバチと火花を上げる。
周囲のカップルが『あのカップル、美男美女ですげーラブラブそうなのに何であんな宿命のライバル同士みたいな白熱した緊張感に包まれてるんだ!?』と言う様な表情でそそくさと二人から離れて歩行していく。
君子危うきに近寄らず――とは良く言ったものである。
そんな二人であったがしばらく歩いたところで姫海がポツリと呟いた。
「……ところで大丈夫そうかい?」
「何がだ?」
「いや、歩き辛かったら申し訳ないかなーって」
「そこは恥ずかしいなら申し訳ないかなーって感じて欲しかったな」
「ははは、まさか。――それが目的なんだから譲歩なんてしないに決まっているよ鍵森君」
「この悪戯猫が……!」
にまにまと口を猫の様に『ω』の形にしながら悪い顔になる姫海にピキリとこめかみに怒りマークをくっつけながら恭介は怒気をゆらりと放った。しかし姫海は動じた様子も無く、怒りを煽るかのごとく続けた。
「だって、これは君への仕返しなんだから僕が引き下がるわけがないじゃないか。歩き難かったら止めようかなーとは考えたけれどね」
「歩き辛いんで離れてもらっていいか、淡路島」
「あはは、お断りかな」
「満面の笑顔のお前を今物凄く殴りたいな!」
殴られるのは流石に嫌かなー、と呟きながらも姫海は離れる様子は無い。行き交う人々が視線を向けては姫海が美少女なのを理解して恭介に嫉妬を放ってくる。
(野郎、恥ずかしい想いと同時にこれが狙いか……!)
恭介は畏怖した。
何と言う悪戯猫か。ネコ目がちの眦も相まって姫海に対する印象に悪戯猫もプラスする恭介である。病弱なのは否定しようもないが、まさか悪戯好きの素養もあったとは侮れない少女であると感じて戦慄する。
その時チリッと何か違和感の様なものが過った。
(……あん?)
何だ、と思いながらも特に何もない。気のせいか、と一人ごちる。
そんな恭介の様子を見ながら姫海が少し心配げに、
「どうかしたのかい?」
と、問いを発した。恭介は「いや、特には」と前置きした後にキランと瞳を輝かせて。
「淡路島とイチャイチャ出来て幸福感で昇天しかけただけだからな」
「んなっ」
姫海はしゅぼっと真っ赤になるもすぐに不貞腐れた様な表情に切り替わって、
「本当手強いなきみは」
と呟きながらぐっと更に体を寄せてきた。
途端、大きな胸がむにゅむにゅと歪に変形して、その柔らかさを強調してくる。
「この悪戯猫……!」
再び悪戯をしかける猫の様な悪い笑みを浮かべる姫海。
よもやここまで対抗してくるとは、と恭介は恐れながらも、
「お前な……こんなくっついてきて相手がその気になったりとかは考えないのかよ?」
と、嘆息を発する。
こんなにくっついてこられれば普通の男は微塵の容赦もなく勘違いするだろう。傍目いちゃついているが内面では熾烈なバトルだと理解する現状は別として。
だが姫海は小さく首を振る。
「生憎とぼくだってこんなにくっついたのは初めてだよ? 内心ドキドキさ」
「ドキドキなのはまあ、わかるが……」
「そうなのかい?」
「ああ、一応な」
胸が腕を包んでいる為にもれなく心拍音が直に伝わってくるとは、皆まで言うまい――、
(……あ、いや、言えば良かったな。恥ずかしがるだろうし。ちっ、タイミングしくったな俺とした事が……!)
と、思ったが姫海の羞恥を誘うと言う意味合いでは、いった方が良かったかもしれない、と恭介は若干タイミングを逸した事に地団太を踏む。そんな恭介の様子に気付いた様子は無く、姫海は恭介から視線を逸らす様にしながら小さく呟きを零した。
「なら、そういうことだよ。ぼくだって恥ずかしいけれど頑張っているんだからね」
「頑張り方を変えないか淡路島お嬢さん」
「それは出来ないさ。こうして鍵森君に恥ずかしい気持ちにさせて――鍵森君から勝利をもぎ取ってみたいからね、試しに」
「勝利か……その前に俺は命をもぎ取られないかが不安だよ」
「?」
きょとんとする姫海。
嫉妬関係は計算外で気付いてない可能性が浮上した。
しかし行動の余波でもれなく周囲の視線がヒートアップしているのは何と言う理不尽だろうか。おそらくは羞恥を誤魔化す為に一所懸命こと腕に抱き着くのに熱心故に気付いていないのだろうと恭介は理解しながらも、この光景クラスメイトに見られてたら俺やられかねないよなぁ、と今後の事について少し寒気を抱く。
「俺への勝利の為によく奮起される限りで」
「並大抵じゃダメそうだからね。まあ、それと……」
「それと?」
それとなにかあるのか? と恭介は不思議そうに視線を向けた。
その視線に姫海は小さく頬を染めながら軽く照れた様子を浮かべる。
「こういう恋人っぽい事も人生で一度はやってみたかったなーって、気持ちがあるからさ」
その言葉は何処か複雑な色を孕んでいた。
歓喜か、はたまた諦観か。どちらにせよどことなく切なさと幸福感に彩られた言葉。
「生憎とぼくは病弱だからね。正直結婚とかも出来ないと思うんだ。この体じゃきっと相手にいづれ迷惑を被ると言うのがお医者さんに言われるまでもなく僕が実感しているんだ」
「淡路島……」
達観――いや、現実として、事実として、姫海と言う少女はそれを理解していると言う事になるのだろう。自身の体調を鑑みての結果をきちんと理解しているが故の言葉に恭介は思わず言葉を詰まらせた。
その様子に苦笑を滲ませつつ姫海は呟く。
「特に子供とかはダメだろうね。出産以前の問題で死ぬだろうし――だからね鍵森君」
「……なんだ?」
硬い声で相槌を打つ恭介に対して姫海は小さく小声でこう零した。
「ここだけの話だけどさ。ぼくは恋人を作らない――そう決めているんだよ」
――そういうことか。
恭介は思わず納得してしまう。
姫海くらい可愛い女の子ならば高校で一年間、多くの男子生徒に告白されただろうに付き合ったりとかの話題が一度も浮上しなかった要因はそれなのだろう。男嫌いや恋愛に興味が無いではなく、
(興味はある。だけれど相手を慮って付き合う事は無いってわけか)
ただの病弱ではなく。
明日とも知れぬ命だから。それがあるから淡路島姫海と言う少女は誰とも付き合わずにいて、けれどもやってみたい事がたくさんあるから――、
(今日俺にデートを提案したって事なのかね……)
相手役に選ばれた事を嬉しく思うべきか複雑に考えるべきか。
刹那迷った恭介だが、考えるまでも無いと気付かされる。
(――バカめ、嬉しくおもうべきに決まってるじゃねぇか)
初デートの相手役に選ばれた――なんと光栄な事か。この優しい悪戯好きの少女と今日こうして歩いている事実は紛れもなく宝物だ。
ただ、
「……そういう事俺に言っても良かったのか?」
姫海としても先の発言はとても重要そうに思えてそう問い掛ける。
「鍵森君は人の大事な事を軽々しく口にする様な人ではないだろう?」
微笑と共に語りかけられたその言葉に僅かに沈黙をおいた後に、
「そうだな。胸に秘めておくさ、安心しとけ」
と、笑顔で返答する。
「けど口が堅いかだけで、誰かに言わない方がいいんじゃないのか?」
「話せる相手がいないしね、誰かに話して楽になりたかったとかいう悪い趣旨の発言だよ」
「卑下すんなって。それくらいなんてことねぇさ」
「……そう言ってもらえると助かるよ」
苦笑じみた微笑を浮かべて姫海が小さく瞼を伏せた。
「――ただ、そう言うのは正直建前に過ぎないかな」
「建前?」
「うん」
不思議そうな表情を浮かべる恭介に対して姫海はコクリと頷く。
「鍵森君になら話しても平気――そんな気がしてしまってね」
恭介はほほうと軽く頷いた後に。
「それは関係一ヶ月の浅い間柄だから特に気にしてないと言う……」
「ややや! そう言う感じとは違うよ?」
焦った様子で姫海は小さく首を振った。
「そうかそうか。だとしたらまあ――」
――男相手にその発言はなるべく止めておけ。
恭介は静かに言葉を発しながら姫海から視線を逸らす。姫海は少しきょとんとしながら目をしばたかせると不思議そうにポツリと零す。
「――もしかして照れてるのかい鍵森君……?」
「ははは、何の事やらさっぱりだぜ」
「その割には顔が赤い様に思えるんだけれどね?」
「信号機の所為じゃね? 見ろよ、赤だぜ」
「赤信号のライトがそんなに強いなんてぼくは初めて知ったよ」
いやあ勉強になったなー、とニヤニヤしながら語りかけてくる姫海に対してこめかみにぴきりと怒りマークを浮かべながら若干赤い顔に怒気を孕ませた恭介が悔しそうにしながら返答する。
「テメェな。俺だってまだ高二だっての。ンな事言われれば多少ないし意識もするわ」
「あはは、そうなんだ多少なりびっくりだよ」
くすくすと楽しそうに笑みを浮かべる。その表情は面白いものを見たかの様に朗らかな表情の姫海であった。そうして次に浮かべたのは意外そうな表情だった。
「それにしても鍵森君って実際のとこは女性に免疫無いんじゃないかい?」
「は? 何をバカな事を言ってるんだかな」
恭介はやれやれと苦笑じみた嘆息を浮かべる。
「家族関係でいやあ妹だっているし、親戚関係でも女性陣多いと言えば多い方だし」
「へー、そうなんだ?」
「ああ。遠いとこで親戚には普通に女子はいるし、女の幼馴染もいる――まあ、コイツは少し危ない奴なんだが……後は妹だな。それに中学時代にも普通に女友達はいたし、女に免疫ないとかって事はないさ」
「ふぅん? ぼくとしては意外だな」
「何がだ?」
「だってその言い草だと女の子に免疫高そうじゃないか」
「まあ、普通にはな」
恭介が女性に免疫無いと言う推測はどうやら外れている。確かにそれだけ親戚知人に於いて女性がいれば、トラウマものの事態でも無い限りは女子が苦手と言う事はないだろう。
「その割に、ぼくなんかに意識した反応とかは見せてくれるんだね?」
「は?」
恭介はポカンとした表情を浮かべた後に、こともなげに口を開いた。
「お前な。そりゃあお前くらいの美少女じゃこんだけくっついてくりゃ、俺だって多少ないし動揺の一つでもするってもんだろう?」
「……」
恭介の発言に姫海はポカンと口を開いた後に、しばし口をもごもごさせていたが、やがて諦めたように口を開き、
「……きみは本当に何気なくそう言ってくるから手におえないよ。ぼくを悶絶死させるのが、そんなに楽しいのかい?」
と、顔を背けてジトッとした目つきで睨んできた。
その顔は実に真っ赤に染まっており、その事を指摘すると本人は「見なよ、鍵森君。赤信号だよ」と上手く言い逃れられてしまう。
勉強を教えるものじゃなかったぜ、と恭介は肩を竦めたのだった。
2
その後、二人は再び足並み揃えて街中を散策していく。
途中休憩を合間合間に挟みながら、二人は華やかな商店街を練り歩いた。途中恭介が急に進路方向を変えたりする事に姫海は「あれ、こっち向かうんじゃなかったんだね?」と言葉を発しては「なんとなくな」とお茶を濁す様な発言があったが、極めて順調にデートは進行していく形となった。
すると不意に恭介が洋服店に用があると言いだして入店すると、僅かな時間で戻ってくる。店の外で「すぐ戻るから待っててくれ」と言われていた姫海は「本当早かったね」と驚いた様に呟きながら、彼の手元にあるビニールの大きな袋に目をやった。
「あれ、何か買ったのかい鍵森君?」
「ん、ああ。ちょっとな。妹に似合いそうな洋服があったんで」
「そうなんだ」
妹さん喜ぶといいね、と優しい笑顔を浮かべる姫海に「そうだな」と、軽く頬を掻いた後に零す。姫海はそんな態度を見て微笑ましく思えた。デート中に他の女性への手土産を購入すると言うのは些かモラルに反するだろうが、妹さん相手に気を配る姿勢は彼が兄なのだな、という実感を抱かせてくれる。
「けど、重くないかい? 重かったらデートは少し早めに切り上げるので構わないけれど」
「それは心配ないし気を遣わなくていいさ。衣類だから、軽いしな。この程度は難なく持ち歩けるもんさ」
「そっか」
なら心配せずに楽しませてもらうね、と零す姫海に「ああ」と力強く首肯する。
そうして再び歩き始め、談笑を交えさせながら、時に互いにからかいあいながら、弄り合いながら、弄びあいながら、罠に嵌めあいながらを繰り返す二人はやがて口論を繰り広げていた。
「絶対、左の道だね。紅茶屋さんがあるんだよ?」
「いいや右だな。玩具屋の臨機応変さを舐めるなよ!」
と言う他愛ない鍔迫り合いを幾度も、似たような小競り合いを何度も交わしながら互いに火花を走らせながら進んでいく。
「がー、口論疲れてきたぜ。この気まま娘の所為でな!」
「なにさ、その言い草。ぼくが言う言葉だよ、それは」
「バームクーヘン専門店なんて行く意味あるのか? あれパサッパサで別段美味くも何ともないだろうが」
「どうやらきみは、本当のバームクーヘンを知らないみたいだね、鍵森君。しっとりふわふわのバームクーヘンを食べた事が無いみたいだ」
「んだと?」
「なにさ?」
ぐぬぬ……! と、互いに怒気を散らせていたが、両者突如として、
「ふう。口論し過ぎて喉乾いてきたな」
「うん、そうだね。何か飲みたいね」
と、先程までのにらみ合いは嘘の様に霧散し、二人の間には平和そのものの空気が漂っていた。行き交う人々が『さっきまでの喧嘩はどうしたの!?』と言う目で見てくるが、そんなものは気付かない二人である。
「なら、どこかでお茶でもするとしようか?」
「うん、それはいいね。けど、どこがいいのかな?」
生憎とそう言う店事情には精通していない姫海はきょろきょろと視線を巡らせて何かいい店舗はないかを探し始める。そうして少し歩いた先、店の角を抜けた先に見えた光景に姫海だけではなく恭介も「お」と嬉しそうな声を上げた。
さながらハワイのコテージの様な造りをした空間の中に移動販売車と思しき大き目の車が一台屋台としての機能を起動させていた何とも見る者の目を楽しませる景観。
「ひんやりスイーツ専門店『アロアロ』か……」
「美味しそうだね……どうだい、鍵森君? ここにしないかい?」
問い掛けながらも何やら目がキラキラ輝いている。
どうやら余程行ってみたいらしい。そんな姫海に思わず苦笑を零す。とはいえその心境を理解出来ないわけではない。確かに美味しそうだし心地よさそうな雰囲気が漂う場所と言う事もあって恭介自身興味津々だ。
「よし、ここにしようぜ。俺も寄ってみたいしな」
「うん……!」
パァァと輝く笑顔を見せる姫海。
「はしゃぐのはいいが、あんまし冷たいのはダメだからな?」
「わかっているとも。そうだね――アイスは難しいとしても、クレープなんかなら大丈夫だと思うからそれにするよ。ただその……」
「はいはい。わかってるって」
軽く右手をひらっとさせて了解の意を示す。
そうして恭介は姫海と共に『アロアロ』店内へ足を運ぶ。すると下は芝生の様でさくさくと心地よい草木の感触がして姫海が「おぉ」と、感心の声を上げる。そうして歩いて数人が並ぶ列の後に続くと恭介はおもむろに尋ねた。
「で、淡路島はどれにするんだ?」
「うーん……」
姫海は興味深そうに店舗のメニューが記載されている大きな立て看板に目をやった。
看板に記載されているメニューはバリエーションが中々豊富な様で思わず恭介はどれにするか迷ってしまう。クレープ、ドリンク、アイス、フローズンヨーグルトと美味しそうなメニューが数多く写真として掲載されていた。
「そうだね……、僕はチョコバナナホイップにしておこうかな。甘くて美味しいのは確実だろう?」
「お前、甘いの好きだからなぁ」
その辺りも何とも女の子らしい、と思う次第だ。
「なんだよ、鍵森君だって甘いのは好きじゃないか。僕ばっかり甘々みたいに言うのは失礼というやつじゃないかい?」
「けど甘いの大好物だろ? ――よし、俺はフレッシュフルーツにしておこう」
「……何かさらっと受け流されたのが腹に立つよ」
頬を膨らませる姫海に対して「へいへい、わるーござんした」と適当な相槌を打つ。
ますます姫海が拗ねた。
なお、そんな二人を後ろにする前列の男性陣は陰ながら歯軋りをしているが、絶賛精神面のバトルに勤しむ二人は全く気が付かないのであった。
そうこうして意外にも店の回転率が速い『アロアロ』は順番が早めに廻って来て恭介と姫海はいよいよ注文に差し掛かる。
「いらっしゃいませ♪ ご注文お決まりでしたらどうぞ♪」
そうして出てきた女性に姫海は思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ……綺麗な人だ……!」
姫海の言葉に恭介も内心で頷いた。
間違いなく今まで見てきた大人びた女性と言うものでは上位に食い込む美人である女店主に対して、
(道理で。そりゃあこんな美女が店主やってりゃ男どもがずらっと並ぶわけだな)
と、言う感想を抱く。
並んでいた際にやけに男性客が多いとは感じていたがそういう事かと納得する。
むしろカップルが少ないのは女性側が危機感を抱いた為かもしれない。これだけの透明感のある美女がいればこの店に寄るのは危険と本能的に察知したのではなかろうか、と。
その証拠に店内を見渡せばいる女性客と言えば総じて美女美少女を連れたカップルだったり、そんな事を気にしないラブラブカップルだったりと言った光景ばかりである。
ただ周囲に視線を配れば女性客も見受けられる。
そう言った人達は椅子に座らず食べ歩きの形を取っている様だがその表情にはふわっとした笑顔が見受けられる。
(男女とも何とも甘酸っぱい店だな)
思わず苦笑を零しながらも女主人に注文を寄越す。
「フレッシュフルーツ一つ。それとチョコバナナホイップ一つお願いします」
「かしこまりました。出来上がるまで少々お待ちくださいね」
女主人はにこやかな笑顔で対応すると手馴れた手つきで調理を開始した。
「甘さ控えめも出来ますが、如何致しますか?」
「普通でお願いします」
「かしこまりました」
穏やかな笑顔を浮かべながらクレープ用の丸い鉄板の上にさっと生地をひいて焼いていく光景を見ながら恭介は小さく呟いた。
「何か何度見てもクレープづくりって面白いよな」
「え?」
「いや、あの生地さ。あんな薄く焼くんだなーって一番初めに見た時は結構驚かないか?」
「ああ……。確かに面白いかもしれないね」
姫海がなるほど、といった様子で頷く。
恭介はクレープづくりの光景がなんとも面白いなーと思う事が多かった。なにせあの丸い鉄板の上で薄く大きい生地を焼いて包むのだ。なんてことないものかもしれないが、妙に楽しいというか心の琴線に触れる光景に感じられた。
そうこうして女主人は驚く程の手際の速さなのに丁寧な仕事でクレープを作り終えると、
「お待たせ致しました」
と、清涼感溢れる笑顔で注文の二品を恭介と姫海へ手渡してきた。
店を見る限り一人で切り盛りしている様で大丈夫だろうか、と些か心配だった恭介だがこの手際の良さを見る限り杞憂だった様だ。
「空いているお席でごゆっくりどうぞ♪」
「ええ、ありがとうございます」
女主人が手で示した場所が丁度空いている様で恭介はそこに座る事とした。「行こうぜ」と軽く口にして姫海と共に席に座る。
「優しそうな雰囲気のする店主さんだったね」
「ああ。道理でデレデレしながら注文する男達が多いわけだ」
並ぶ列を見ながら思わず苦笑を零す。
そんな恭介に対して姫海は少し目を細めた。
「その言い分だと鍵森君はどうなんだい? 君もデレデレしていたんじゃないのかい?」
「いやぁ、隣に可愛いデート相手がいるから」
「そんな事言ってぼくを喜ばせようとしてもその手には乗らないからね」
頬が赤くなっている奴が言っても信憑性無いぞ――とは言わない恭介である。
「ま、なんにせよ喰おうぜ」
「うん、そうだね。いただきます」
姫海は嬉しそうに顔を輝かせながら一口小さく頬張った。
途端にキラキラと輝く笑顔が炸裂する。遠巻きに何か一瞬興奮する様な歓喜する様な声を抑えた様な叫びが耳に届いたのだがとりあえず気にせず恭介も一口。
「ん。こりゃ美味いな」
食べた後に恭介は思わず眉をひそめる程に驚いた。
おおよそ新鮮と言うレベルではない果物の自然な甘味に感激する。ホイップクリームも余程上質なものを使っているのか爽快感すら感じる。雲が一気に弾けて青空に切り替わる様に清涼な味わいだった。
「美味しいよ……今まで食べたクレープではダントツじゃないか、これ……! まあ、そんなにクレープ経験してるわけじゃないんだけどさ」
「説得力薄いなあ、おい! けど、これは、クリームも上質――余程の牛乳じゃないとこの味にはならんぞ?」
「果物も凄くいい甘さだよ……!」
「ああ。余程拘っているなこりゃあ」
クレープ屋で何度か働いた事のある恭介であったが脱帽の美味しさであった。
今まで何度か同じ作業をしたことはあるが、女主人の方が一段上だと認めざるを得ない。
「ふむ、また今度寄ったりしてみるかね」
穏やかな笑みを浮かべながらまた一口。良い店を見つけたな、と思いながら恭介は食べ進めていく。そうしてしばらくした頃に姫海が少し残念そうな表情を浮かべる。
「そろそろか?」
「うん。そうだね、食べきれないわけじゃないけれど今日はもう結構お腹に入れちゃったしここらへんにしておいた方がいいかもしれないね」
そう申し訳なさそうに呟きながら食べ掛けのクレープをテーブルの上に置く。
姫海は小食だ――と言う事では無い。
むしろ食べたいが食べ過ぎると体が受け付けないと言うデメリットを持つが故に大好物でも全て食べきれる事はそうそうない。その辺りはここ一ヶ月で十分理解している恭介である。
「その鍵森君、残すのは申し訳ないから……」
「ああ。そんくらい気にしなくていいさ」
「ありがとう」
微笑む姫海からクレープを手渡されると恭介は「お前も色々難儀だよな」と同情ではなく話のネタとして進む様に笑顔を浮かべながら食べ掛けのクレープを食べ始めた。
「そうだね。特にこういう美味しいのを前にだと少し、しょんぼりしてしまうよ」
「まあ、その分、太らなくていいんじゃないか?」
「太りはしないけど、その分体も細いままだし……大丈夫なんだろうか、ぼくは。この体型って実際どうなんだろうね? 世の中の女子の平均と比べて些か痩せすぎているんじゃないかと不安に思ってしまうよ」
「まあ、確かに細いからなお前」
病院生活が長かった為、姫海は全体的に華奢だ。
その割にスタイルが異様にいいと言う点では世の女性から嫉妬を買いそうだと恭介は思わなくもないのだが。特に胸部の発育は一般女性の比では無いだけ、余計に買いそうだ。
「ただ、お前はそっちよか今のこっちを気に掛けるべきじゃないのか?」
「こっち?」
「これこれ」
「クレープかい?」
「そうそう」
「何故かな? ひょっとして食べ掛け食べるのは嫌だったかい、やっぱり?」
申し訳なさそうな姫海に対して恭介は苦笑で返す。
「いや、そう言うわけじゃなくてだな」
気付かないままに手渡していたのかと思いながらも恭介はニヤリと笑みを浮かべる。
「間接キスだな」
その言葉に姫海は最初きょとんとしていたがやがて下の方から真っ赤になって「ああ!?」と頭を両手で抑えて動揺を露わにした。
「だ、ダメだ鍵森君! それ以上食べるのはダメだ!」
「悪いな、淡路島。そうは言うがお前が口づけした領域は全て堪能し終えた後だぜ」
「うわわわわ……!?」
どんどん顔を赤らませていく姫海。
このまま体温上昇で体を壊すのではなかろうか。そうなったらなんともものかなしい結末だなあ、と他人事のように思いながらあえてエロティックに、舌で舐め取るごとく食べ掛けのクレープを食べ進めていく恭介である。
「何でわざわざそんな官能的に食べるのさ、君って奴は!」
「感動的な美味しさだからだろうな」
「そんな舐める様に食べるなよぉ……うぁぁぁ」
姫海は取り戻そうと手を伸ばすが恭介が「食べたいなら返すぜ」とこれまで以上の笑顔で手渡すと姫海は食べられた後のクレープをしばし凝視した後に「……食べてしまっておくれよ、最後まで」と真っ赤になりながら手渡してきた。
(――勝った!)
噛み締めるのは、勝利の美酒の如き深い味わいだった。何の勝負なのかわからない節はあったが、勝負は勝負だったに違いない。優越感による愉悦の感情は沸々と湧き上がり、恭介の心をガッツポーズと高笑いによって占められていく。
多幸に彩られながら、彼はそうして最後までクレープを食すのであった。
「しかし甘いもの食べたぶん、飲み物欲しくなってくるな。淡路島も何か飲むか? 今なら列が空いているみたいだぞ」
指についたクリームをペロリ、と舐め終えると、恭介はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、最後に口直しに何か飲むだろうか、と提案を発する。そんな勝者の余裕を浮かべる恭介に対して、不服そうに顔を赤らめながら、姫海はぽつりと小さく呟いた。
「ぼくは今とても冷たいものを欲しているよ……」
「ははは、またまた。冷たいものが食べれないくせしてなー♪」
「誰の所為なんだい、誰の?」
羞恥による怒気を孕んだ上目使いで睨んでくる姫海。可愛いだけであった。
と、そんな姫海であったが、何かに気付いた様に目を見開くと、何故だか挑戦的な――自暴自棄と言う意味でも挑戦的な表情を浮かべながら「じゃあ、それ買ってきてもらえるかい?」と指で示した。
「ああ、いいぜ――いっ!?」
簡単に了解しようとした恭介であったがその看板を見たと同時に――顔を強張らせる。恭介は信じられないものを見た、とばかりに顔に驚愕の二文字を張り付けながら、姫海と看板を交互に見やった。そんな彼に対して姫海は一言呟く。
「ぼくらってやりゅときはやりゅことをみしぇてあげるよッ」
「呂律廻ってねぇけどな!」
そうして。
二人の前に悠然と佇むドリンクが置かれていた。
恭介はそれを前に確認の為に呟く。
「……本当にやるのか?」
「当然だとも」
硬い声で姫海が応答する。
そればかりか微かに震え声だと言うのに、頑なに引く気配は見せない。これはもう引けないのだろうか、と恭介は押し留めるべく声を発した。
「……自棄はよくないぞ淡路島」
「自棄になんかなっていないさ。それとも鍵森君はこういう事が恥ずかしいのかい?」
あからさまな姫海の挑発。乗ってはいけない。
いけないのだが――何故だろうか。恭介は眼前の少女に屈する事がどうしてだか物凄く嫌だった。負けたくない――そう、想える感情はそのまま闘争心に火をつけた。
「ははは、何を言っているんだかな淡路島さんは。俺がこの程度の事で恥ずかしがるピュアボーイだと思っているのならばお門違いの筋違いもいいとこだぜ?」
姫海が微かに全身を震わせた。
挑発した側とはいえ、お互い後に引けない状態と化してしまった故の誤算である。しかし、ことここまで来てしまっては進退は極まった――その帰結に至る他にない。故に二人は剥き出しの闘争心と恥じらいの元に断言する。
「なら――証明してみせるといいよ」
「上等――泡吹いて倒れるがいいさ」
そんな光景を見守るのは女主人のお姉さんであった。
あはは……、と苦笑を浮かべながらその光景を傍観している状態である。
恭介と姫海の前にあるのは――巨大なドリンクグラスであった。二人分の量が注ぐことが出来る代物であり、ストローも交叉して中心でハート形を作ると言う特殊なもので――有体に言ってカップル専用グラスである。
そんな代物を前に姫海は何故か姿勢を正しくしながら「ふふ、鍵森君、腰がひけているよ?」と赤い顔で不敵に微笑んでいる。なお異様にグラスから顔が遠い。
「お前こそ怖気づくなら今のうちなんだぜ?」
テーブルの上で頬杖をつきながら何時になく焦っているのか汗を垂らしながら、余裕のようでいて余裕などない恭介はやはり不敵に笑っている。なお何故か視線が全く関係のない方向へ泳いでいた。
「えと……大丈夫ですか?」
そんな光景を女店主は苦笑を零しながら見守る事とする。
店にあるメニュー『ラブラブカップルドリンク エクスタシー』。とある友人が『ハワイアン足るものこれがなくてどうするか!』として勝手にメニューに加えられた代物だ。本当に売れるのか不安だったが時折売れる代物――ほぼネタ商品として機能している代物であった。
ただこのカップル大丈夫なのかな、と思って少し様子見に来た女店主である。
予感は的中する。
恭介と姫海から発せられるのはラブラブオーラではなかった。何故だか互いに不敵なオーラを漂わせて視線で火花を散らせているさまはおおよそ恋人専用ドリンクを前にしたカップルの光景などでは足り得ない。
両者共に、どちらが勝つかの鬩ぎあいであった。
剥き出しの闘志はいざ花開かんとしている。
そして――、
「行くよ、鍵森君」
「来いや、淡路島」
数秒後。
そこでは、またしても両者、真っ赤な顔で机に突っ伏しながら身悶える、思春期の少年少女の健全な姿が目撃される事となった。
3
「いや、恥ずかしかったな」
明後日に視線を送りながら恭介は呟いた。
「言わないでくれないかい、鍵森君」
真っ赤な顔で俯きながら「あああ……、動転していたとはいえぼくはどうしてあんな恥ずかしい事をしてしまったんだ……! しかも二回目だし……!」と嘆く姫海の姿もあった。そこを恥ずかしがるならそれ以前に腕組みも相当恥ずかしいと思うのだがどうやら違うジャンルらしい。
「まあ、そんな気落ちするなって。俺としてはお前の意外な面が見れて楽しかったぜ?」
「意外と言うならぼく自身が意外さ」
むぅ、と赤い顔で不貞腐れながら姫海は呟く。
「負けず嫌いは昔から――なのは自覚していたけれど、それにしたって今頃再燃する事があった事自体驚きだよ。もうずいぶんナリを潜めていたんだけれどね」
「初デートで浮かれてくれたのかな?」
「そ、それは――少し、いや、初めに言った通りにかなりそうなんだけれどね――って、ああ! そんなニヤニヤした表情しないでおくれよ、恥ずかしいじゃないか!」
「へいへい」
「反応が何かムカつくなぁ」
相も変わらず不貞腐れる姫海の前を歩きながら軽く振り返りつつ。
「で、次はどうするよ? 何処か行きたいところあるか?」
「え? ああ、うん、そうだね……」
どうしようか、と悩む素振りを見せる姫海。
すでに洋服店だったり、ランチだったり、カフェだったりと概ねは済ませた為に悩むところなのだろう。時間的に少し遠くだったりは可能な時間だが……。
「それじゃあ鍵森君……ちょっと遠いけれど構わないかい?」
「いいぜ。どこだ? 遠出なら丁度都合もいいしな」
恭介の都合がいい、と言う発言に違和感を覚えつつも問題が無い様なので言葉を続けた。
「ええっとね――」
そうして姫海は少し躊躇いがちに呟く。
――海が見たい、と。
4
そうして海を目指す為に、電車に揺られて二人が訪れたのは八景島付近にある大きな海浜公園であった。
浜辺から見える光景は本物の海で、そよぐ磯の香りが何とも風情を感じさせる。日光降り注ぐ青空のきらめきが一層、大海を輝かせる様はなんとも壮観だ。
その光景を前にしながら姫海は思わず帽子を外してそよぐ潮風にその綺麗な藍色の頭髪をそよがせた。
「そよ風が気持ちいいなぁ……!」
目を瞑りながら海の波音を耳に佇む少女は何とも魅力的であった。
「それにしても五月だって言うのに意外と人が多いんだね。びっくりしてしまったよ」
「今の時期は潮干狩りで訪れる客が多いからな」
「なるほど、そうなんだ」
得心が言った様に姫海は頷いた。
そうした後に海辺から岸目掛けて『ヒートだぁあああ!』何を言っているか判別出来るくらいの声を張り上げて泳ぐ男性の姿を指摘しながら、
「じゃああの海を泳いでる人とかは?」
「季節が何時でもああいう奴はたまにいるもんさ」
時期外れでも思わず泳ぐ輩と言うのは得てしているものだと恭介は姫海に納得させる。変な奴もいるものである、と言って言葉濁す他に道は無いのだ。
浜辺には二人だけではなく多くの人影があった。それもあって、恭介はなるべく姫海と一緒に人のあまりいない場所まで足を運んでいた。
――なんとなくそうするべき、という気がして。
そうして二人してしばらく海岸沿いを当てもなく砂場に足跡を残した後、恭介は不意に姫海に語りかける。
「――淡路島は海が好きなのか?」
姫海はしばし水平線を一望し「そうだね。ぼくは海が好きかな」と零す。
「名前だって海がついてるしな」
「あはは、名前関係あるのかい?」
コロコロと鈴の音を鳴らす様な笑い声で姫海は微笑んだ。
「名は体を表すとかよく聞くじゃねぇか」
「なるほど。一理あるね」
そよそよとそよぐまだ五月の春風に身を任せながら砂場に足跡を残していく姫海は不意に青空を見上げると、静かに足取りを停止した。
蒼穹の青を仰ぎながら、風に身を任せる様に佇む姫海の姿に恭介は不思議そうな視線を彼女の背中へ向けている。何か声をかけるべきか、と悩む程の空気がそこにはあり、恭介が思わず口を開きかけた、その時である。彼の言葉に被せる様に、いや、彼よりも先回りする形で姫海が一言零した。
「――今日、白い帽子を見ただろう?」
「……」
恭介は一瞬眉をひそめながらも、街中で見かけたあの帽子の事だろうと察して「ああ」と頷いた。あの店のやつだよな、と確認を取ると、そうそれ、と簡素に肯定の意が返ってくる。
「なんだ? やっぱり欲しかったんじゃないのか? 帰りに寄っていくか?」
「いや、いいさ」
「……遠慮しなくてもいいんだぜ?」
「遠慮とかではないよ。デザインから何まで気に入った帽子ではあったけれど――ぼくは多分アレを被らない様な気がしているからね」
「被らない?」
それはまた不思議な発言だ、と恭介は不可解に感じた。
「うん。帽子の役割は被る事だ。それを成さずに置物にしてしまうなんてことはあってはならないと思わないかい?」
それは言えている。
資産家の家でならコレクションでそう言う帽子集めもあるだろうが、姫海は確実に日用品として外出用に被るだろう。それを考えれば彼女の今の発言――買っても被る事が無いのでは買う意味合いが無くなってきてしまう。
「……確かに、そうかもしれないな」
しかし不思議な発言だな、と苦笑を零して恭介はそう答える。
「けどなんで被らないなんて言えるんだ?」
その質問に姫海は少しだけ困った様な表情を浮かべた。
「なんでかな。自分でもよくわかんないや」
「おいおい」
呆れたように零す恭介に姫海は自嘲気味の苦笑を零した。
「だって本当によくわからないんだから仕方ないだろう? 多分感覚的に何かあるんだと思うんだけれどね――それが何なのか全くわからないから困っているんだ」
「難儀な話だな」
「まったくだね」
あはは、と姫海は困り顔で笑った。
しかしその後にどこか言い知れぬ様な――複雑そうな表情を浮かべて、姫海は独り言を吐く様に呟き始めた。
「――帽子を見かけた時、鍵森君は尋ねたよね。『帽子が好きなのか』ってさ」
「ああ」
「それで僕は『帽子が好きだ』って答えた」
「そうだな」
「けれど『何で帽子が好き』なのかって問われたら――ぼくはどう答えるんだろうね」
「淡路島……?」
何を言いたいのか、と思わず眉をひそめる。
だが確かに子供の頃、被ってから、と言う話は訊いているが、それはほぼ愛着の話であって、厳密には何が起因しているのか、と言う理由の意味では訊いていなかった事に気付く。
「いや、幼少期に何かが好きかの理由なんて案外他愛ないものなのかもしれないけれどね。特に意味なんてないけれど感覚的に好きになっていた――なんてものかもしれない。あるいは好きだけれど理由なんてとっくに忘れているだけの事なのかもしれない」
「まあ、そうだな。特にお前の場合小さい頃から、らしいもんな」
「だね。だから忘れちゃってるだけなのかも」
けどね、と姫海は呟いて。
「帽子第一号って言える帽子が家にあるんだ」
「第一号?」
「そうそう」
姫海はどこか可笑しそうに笑いながら話した。
「本当にそうなんだよ、『第一号』って裏面に名前と一緒に書いてあるんだ。子供の頃とは言え、帽子に一号とか昔のぼく、どーなんだい? って感じで」
「子供っぽくていいじゃないか」
思わず恭介も破顔して応答する。
「そうかな?」
「そうそう」
「ふふっ、ならそうしておこうかな。――それでね、その帽子が昼間見た白い帽子にそっくりなデザインだったんだって事なんだよね」
「へぇ、サイズが合わなくなったそれと?」
「そうなんだよ。だから思わず目を惹かれてしまってね」
「第一号って事はお前が初めて気に入った帽子なんだろう? そっくりな帽子があったんだったら購入しておけばよかったじゃないか」
「ぼくも多少は思ったんだけどね」
――少し、違う気がしたんだ。
姫海は風に吹き消されそうな小さな声で呟いた。
どうにか耳に出来た恭介は「違う?」と疑問を浮かべる。
「うん」
姫海は小さく頷いた。
「アレは似ていたけれど――何か違うかなーってさ」
「ほう?」
「それが何かって言われると困るんだけれどね。だから本当に感覚的な問題なんだ。アレを被るのは――欲しかったけれど違うなー、これじゃないなーって感覚がどうしても拭い切れなくてね。欲しかったけど思わず止めてしまったよ」
「そうか」
確かによくある事かもしれないな、と恭介は呟く。
大半気に入ったけれど――何か微妙に違うと。デザイン一つがなんとなく足踏みさせる。よくあることだと思った。そういうのを姫海も感じたのだろうと。
「そう感じたなら買わなくて良かったと思うぞ。そう言う違和感は嫌な齟齬として、徐々に不快感に通じてしまうもんだからな。代わりの効かない存在の代わりを探すみたいな、そんな苦しんじまうみたいな選択だ」
そうだね、と姫海も同意見の様子で頷いて返す。
「ぼくが仮に帽子好きになったならおおよそ第一号の帽子が原因なんだろうなって思うんだ。そう考えると本当に大切に思えてきてしまってね」
「それじゃしょうがないな」
恭介は苦笑を浮かべて返す。
「それだけその帽子が特別ってんなら――それはそれでいいことだろう」
「……うん」
姫海はそうだね、と頷いた。
けれど「ただ」と間を置いて、
「ぼくはもしかしたらその事を忘れているんじゃないかって思えてしまうんだ」
「その事って言うと……帽子を好きになった理由か?」
「うん」
姫海は神妙な表情で答える。
「その時期頃にぼくは病気にかかる様になったからね。その際に高熱の所為なのか、どうもその近辺の記憶があやふやと言うかほとんど覚えていないんだ」
「覚えてないって……それ相当危なかったんじゃないのか?」
「らしいよ? 何て言ったって生死の境を彷徨ったって訊くからね」
苦笑を浮かべる姫海に恭介は「お前本当に大変だったんだなぁ……」と何とも言えぬ眼差しを浮かべて返答した。
「幸い、かかったお医者さんが凄腕だったから生き永らえているけれどね」
「そりゃお医者さんに感謝しねぇとな」
「本当だよ。今でも両親共々頭が上がらない相手さ。けど、そこからの入院生活は色々辛かったなぁー。同年代の子なんてほとんどいないんだもん」
「確かに。それは飽きそうだな」
「まあね。一時期はぼくと同じく通院していた一つ年下の子が遊び相手になってた事もあったけど、その子もすぐ退院なりなんなりしたのかな? 今じゃ顔も覚えてないしね。他にも同年代の子が数名――いたりはしたけれど、結局親の転勤だったり、馬が合わなくなったり、自然に離れていったりで……アレは何だかんだ淋しかったなあ」
「そんなに逢わなかったのか?」
「まぁ、恥ずかしい話ではあるんだけれどね。実の所、ぼくは病気になる前はそれはもう悪戯っ子だったらしいよ――ってなんで可笑しそうに笑うんだい鍵森君?」
くく、と声を洩らす恭介を不満げに睨む姫海。
そんな姫海に対して悪い、と呟きながらも。
「いや、悪戯っ子だったに納得してしまってな。確かにお前は悪戯っ子な上に負けず嫌いの性質があるかもなー、とな」
「笑われて不快だよ、まったくもう」
ぷすー、と拗ねた様子を見せる姫海。だがそんな表情も、やはり可愛いだけであった。
「ともかくそんな僕を両親は『悪戯子猫』なんて呼んでたそうだね」
「現在は『悪戯猫』になっただけだがな」
「その呼び名は鍵森君が今日付けたんじゃないか。まあ、そう呼ばれてたらしいね。記憶はほとんどうろ覚えだけれど確かに当時はお転婆だったかなあ、と思う光景があると言えばあるんだ」
「あるのか」
「まぁね。今では考えられないけれど、それはもうはしゃぐ女の子だったって」
「へぇー」
昔と今では大層違う様だ。
驚きを抱くと同時に、ああそうなのか、と言うある種の得心が行った感触が心に広がる。
とするならば、
「そういうのもあって両親が心配するのは当然以上なんだろうな……」
「淡路島……」
「だって、そうだろう? 生まれながらに病弱な子がそのまま生きてきたよりかは――生まれた時はなんともなかったのに生まれた後に大病を患ってしまった子は大層親の心配を買ってしまうとも。――だって両親は元気な子だなって安心してくれていたんだからさ」
その通りなのかもしれない。
生まれた時はなんともなかった。けれど、生まれた後に大病を患って、その生き方も大きく激変してしまった一人の女の子。昔と今では大きく異なってしまった――そんな子供を心配しない親はいないだろう。
「誰かに迷惑をかけずに生きていく人なんてこの世にはいない――」
姫海はそよ風にそよぐ髪を抑えながら呟いた。
「けれどね」
と、間を置いて。
「――普通の人より多くの迷惑を周囲にかけてしまうぼくは、なんだか色々な人に申し訳ないなってさ。たまに思い悩んでしまう時があるんだ」
それは少女の弱音だったのかもしれないし――懺悔だったのかもしれない。
「皆そんな事気にしなくていいとも言うし、実際その気持ちが伝わってくるんだよね。なのになぜだろうね――わかっているのに弱音というのが消えてなくならないんだ。今もこうして慰めを欲しがるかの様に弱音を零してしまっているじゃないか」
――本当に女々しいなぼくは、と自嘲気味に苦笑を浮かべた。
自分が病気で弱いから、と言う事を自覚するが故に少女は悩みを抱えていた。
そんな少女を見ながら恭介は理解する。
――嗚呼、コイツもそうなのか、と。
胸の奥から湧き出る言葉を恭介は理解しするも、あえて押し留めながら呟いた。
「女なんだし、女々しくてもおかしくはないんじゃないか?」
「言葉的には合っているんだけれど、その言い方はそれはそれでどうなんだい?」
姫海は可笑しそうに微笑んだ。
「と言うか、そこまでわかっているなら――自覚しているなら、俺がわざわざ返答するまでもないだろう。弱さも脆さも、その本質的な意味もお前は理解しているじゃないか。悲劇のヒロインを気取るでもない。大事な部分を理解しているなら、後はお前次第だろ?」
誰かに慰めを貰いたくて呟いているのかもしれない――、そんな言葉を吐露している時点で姫海は自分を理解している――なにより強さを持っているとそう感じた。
「そしてそんなお前だからこそ皆慕っているわけだしな」
「そう、なのかな……?」
「当たり前だろう。ただ病弱な女の子ってだけならあんな皆して構いやしないさ。これが私は病気で大変だから優しくしてね、なんていう構ってちゃんだったら、むしろ怒鳴り散らすだけだろうしな」
「あはは、確かにそれはそうだね」
「お前の芯がしっかりしているから真に皆慕っているんだと――俺は思う」
姫海は小さく微笑みながら「ありがとう」と感謝を零した。
「ま。何にせよ、俺はお前が病気前だろうと病気後であったとしようと対応はそんなに変わりゃしないから安心してくれていいさ」
「そんなに、なのかい?」
「そりゃまあ、病気の子無理矢理連れ回したら親御さんに怒られるだろ?」
肩をすくめて恭介は苦笑を浮かべる。
「それも確かにそうだね。特にぼくの親なら憤怒ものだろうし」
「怖そうな親御さんだな」
からからと笑い声を零して恭介は静かに海を眺めた。
来た当初は青空であった空も次第に茜色に染まり始めていた。
「すぐ夕暮れになっちまうかな」
「そうだね。夕焼けが綺麗で見ていたいけれど、遅くなってしまうのも困るかな」
柔らかな笑みを浮かべながらそよぐ髪を抑えて茜色へ染まりゆく姫海の表情は先程までよりもずっと明るかった――そして幻想的にすら思える程美しいとすら――恭介は思った。
「……どうかしたのかい?」
姫海が恭介が視線を向けてくる事に対して不思議そうな顔を浮かべる。
「いや」
思わず見惚れていたなんて言えない気がして恭介は言葉を濁す。
「なんでもないさ」
そうして足を元来た方向へと向けた。
「帰ろうぜ」
二人して特に会話する事も無く浜辺の道を静かに歩き進んで行く。
その途中で恭介が小さく声を零した。
「――帽子」
「え?」
きょとんとする姫海に対し恭介は軽く頭を掻きながら、横顔を向けて優しい表情でそっと言葉にして語りかける。
「何時か、納得できる白い帽子かぶってさ。またこういう海辺を歩ける日が来たらいいよな、と思ってな。――絶対、似合う様に思えたからさ」
姫海はくすりと花咲く笑みを浮かべながら。
「白いワンピースでも着てみてかい?」
「――そうそう」
和やかに。
二人して他愛ない将来への期待を込めた雑談を零しながら、二人はこの一日をしめやかに、同時に微笑ましく終えようとしていた。そう、それで終えるはずだったのだ。
唐突に響くこの声に驚かなければ。
「ハルフー!」
その時、姫海も恭介も驚いた様子で足を止めた。
いきなりそんな不思議な鳴き声が聞こえたから――で、足を止めたわけではない、それだけならば『何か変な声しなかったか?』と軽く話す程度にとどまっただろう。
しかし声が聞えたと同時に背後から眩い発光現象が起きたとなればどうか。
突如後方に光り輝いた現象に恭介は足を止めると同時に、姫海を庇う様に立った。
「鍵森君、いったいなんなんだいこの光は……?」
「わからん。――が、一応用心しとけ」
小さく頷く姫海を背に恭介は見た。
海辺、海面に輝く不可思議な光の現象を。何が何だかさっぱりわからない。日常でこんな奇妙な現象が起こるとは恭介にも予想外であった――が、ごく数日前に某下着泥棒の少女が奇妙な御業をやっていた事もあって姫海程驚く事なく冷静に勤められていた。
少ししてパァァァ、と輝きに満ちた光が徐々に収まっていく。
そして光が完全に収まるとそこには――、
「ハルフー♪」
『……』
――何かいた。
真っ白な体毛を生やして水色の不思議な紋様が入った体躯。ぺちぺちと海面を叩くヒレにあどけない無垢な表情。そう、それはまるで、
「……鍵森君、ぼくあざらしを間近で見たの初めてだよ」
「……そうだな。確かにあざらしだな」
あざらしだった。
ちっこいあざらしだった。
おそらくはあのもふもふの体毛から言えばゴマアザラシだろう。
しかし鍵森恭介は騙されない。
「しかしだ、淡路島。あの現れ方した時点で普通じゃないからな?」
姫海に警戒を促す。
光り輝いて出てくるあざらしなどただのあざらしではないだろう。
「鍵森君、この子もふもふだよ、可愛いよ……!」
「ハルフー♪」
「お前、意外と行動全般速かったりするよな!」
だが姫海はいつの間にかあざらしの頭を撫でていた。
存外行動力に富んだ少女であった
「だって鍵森君! あざらしだよ、あざらし!」
「まあ、確かにあざらしは可愛いが」
「ぼく、球磨川のくまちゃんとかニュースで出た子しか知らないし、リアルで見たの初めてなんだ。こんなに可愛いものなんだね」
「俺、くまちゃん、未だに熊に思えて仕方ないんだけどな。それと俺が知ってるあざらしとこの生物違うんだが……」
あざらしにしてもここまで漫画ちっくな生物だっただろうか?
デフォルメされたみたいに、ぬいぐるみ的な可愛さがそこにはあった。そもそも紋様が入っているは、頭部にアホ毛みたいのがひょこひょこしているは、到底あざらしとは思えないのだが、姫海は嬉しそうに笑顔を浮かべているので何とも言い辛い。
「とりあえず鍵森君も触ってごらんよ?」
「……」
恭介は少し悩んだ後に、
「……少しな」
うずうずとして手を伸ばした。恭介もあざらしは初体験だ。
ぺしっ!
「……」
もう一度手を伸ばす。
ぺしぺしっ!
触れるな! みたいに叩かれた。
「……鍵森君、この子に何をしたんだい?」
「何もしてねぇよ!」
「けど叩かれてるよ?」
「ハル、フー!」
確かに足元でぺしぺし叩かれている。痛くないし可愛いだけだが、地味に精神的にダメージを及ぼしてくれる。くそう。
そんなあざらしを姫海は「よいしょっ」と抱えながら、
「どーどー、そんなに痛くしたらいけないよ?」
「ハルフー……」
「何故、淡路島には素直なんだお前は」
オスなのか、と思って少し視線を向けてみるがメスだった。
「まあ、何にせよあざらしを見れたのは良い体験だったな」
「そうだね。ぼくも棚から牡丹餅みたいな素敵な気分になれたよ」
それじゃ、とあざらしの頭を撫でる手を止めると姫海は海面にちゃぷんとあざらしを戻した。
「親元から離れたのかわからないけれど海へお帰り」
「いや、光り輝いた時点でそれも怪しいが……ま、海へ帰すのがベストだろうな」
「ハルフー」
しかしあざらしは姫海の傍へ近づいていってキラキラ目を輝かせていた。
「……お前こそ何したんだメチャクチャ懐かれてるぞ?」
「ぼくが知るわけないだろう、初対面なんだから。けど、嬉しいなぁ、可愛いなぁ」
ほわーっと和んだ笑顔を浮かべる姫海。
「ま、とにかく行こうぜ。あざらしだって帰りはついてこれないだろうしな」
しかし流石にあざらしを連れ帰るわけにもいくまい。
乱獲は禁止されている生物で国の承認なしにはペットにするのも不可能な動物だ。順当に海へ還す形で促すのが一番だろう。目の前の生物があざらしに酷似した別の生物と言う線も登場の仕方からして拭えないが、傍目にはあざらしなので国際法を適用させておこう、と恭介は頷いておく。
「そうだね」
姫海も理解しているので寂しそうながらも頷くと「ばいばい」と声を発して恭介の隣を歩きはじめる。
どうしてあざらしが出現したのかわからない。
けれど、海で別れてしまえばそれまでだ――普通ならば。
「ハルフー」
あざらしは海面から浮上してふよふよ空中を漂いながら姫海の後を追い掛けてきていた。
驚く姫海を傍らに恭介は盛大に叫ぶ。
「お前もう絶対あざらしじゃないな!」
4
結果。
「……」
姫海の胸元には抱き締められる形で熟睡中のあざらしがいた。騒ぎになると困るので姫海が『大人しくしていておくれよ?』と諭すと見事にあざらしのぬいぐるみと化した。お利口さんである。その後、今の様に眠りこけてしまったが。
連れて帰ってきて良かったのかとも思う恭介だが、姫海が嬉しそうにもふもふしていたので何か言う気も失せたと言うのがあった。
(しかしコイツ本当にどういう存在なんだ?)
恭介は眉をひそめる。
光り輝いて出現したあざらし。――到底ただのあざらしではないだろう。空を漂った時点でただのあざらしではない。
(いや、そう言えば秀樹が飛ぶイルカ見たとか言ってた気もするが……)
そこまで考えて首を振る。
何だか泥沼にはまりそうな気がしたのだ。とにかく考えは一先ず置いておこうと結論を下すと恭介は眼前に広がる光景を見ながら背筋を伸ばしながら声を発した。
「どうにか暗くなる前に帰ってきたぜー!」
「いやー、電車が緊急停止した時は焦ってしまったよね」
「俺はソイツが鳴きださないかが不安だったが」
「それはぼくも同意見かな」
姫海は苦笑する。
場所は昼間歩いた商店街。
多少なり時間はかかったものの二人は暗くなりすぎる前に街中へと帰還した。うすらぼんやりとした黒でも白でも無い空模様の中で姫海は恭介の後を続く形で歩き進める。
「まあ、停止した間に淡路島が休憩出来たと言う意味では良かったとしようか」
「う。確かに遠出で少し疲れはしたかな……。最中椅子で眠ってしまったみたいだし」
「ああ、それはもうぐっすりだったな」
うんうんと恭介は数回頷く。
姫海は心配そうに、というか恥ずかしそうに、
「もしかして寝顔見られたりとかしてしまったかい……?」
と、呟くが、
「何を今更。淡路島の寝顔なら保健室で何度も見ているからな」
「ぐはっ。なんだか自滅した気分だよ、ぼく」
顔を朱に染めて姫海が悔しそうに呟く。
病弱故に保健室直行及び看病があるのだから当然であった。
「まあ、代わりと言っては何だが」
「代わり?」
「向かいの席の老人夫婦に『可愛らしい恋人さんですね』と褒められてはいたな」
「ぼくはなにをしたんだい!? 寝ている間にぼくはどういう状況に陥ったんだい!?」
「だから俺は肩に頭を預けて眠りこけるお前に恥ずかしい想いをさせるわけにもいかないんで『でしょう? 俺の新妻ですからね』とイケメンスマイルで答えておいた」
「冗談はよしてくれないか鍵森君。信じられたらぼくは致命的な恥ずかしさを見知らぬ老人夫婦の記憶と共に植え付けられた事になってしまうよ!?」
「大丈夫だ、寝ている間に仲良くなって名前も知っている仲だぜ? ちなみに婦人の方は『あらあらまあ。オホホホホ♪』と楽しそうに笑っていらしたな」
「きみのコミュ力の高さにぼくは脱帽するよ。そして反応で赤面するよ……」
宣言通り姫海は俯いて真っ赤になっている始末。
「フ、勝負は俺の勝ちだな」
「くぅ……!」
悔しげに姫海が呻く。本当に悔しそうであり恭介はドヤ顔を浮かべた。
「……次は絶対ぼくが勝つよ鍵森君」
「ハッ、やってみるならやってみるがいいさ悪戯猫」
視線で再び火花が炸裂した。
行き交う人々が『あのカップルは腕を組みながらどうして臨戦態勢なんだ……!?』と戦慄の表情を浮かべながら道を開けて遠ざかって行くがやはり本人達は気付かない。
「最後の最後で隙を取られてしまったけれど今度は負けないよ」
「本当かねぇ? なら、老人夫婦の名前教えておこうか?」
「構わないさ。電車の中で逢ったご夫婦に再び行き会うなんて事はそうそうないよ」
「そうか。降りた駅、ひとつ前だけどそれならよしておこう」
「待つんだ鍵森君、それって凄くご近所なんじゃないのかい!?」
姫海が「やっぱり教えておいてくれないかな、心の準備と弁明の準備が確実にいると思うんだ……!」と腕をぐいぐい引っ張ってくるので恭介が「なら教えておくな」と呟いた、その時であった。
前方に男三人が立ちはだかったのは。
「姫海お嬢様ぁあああああああああああああああああああ!」
「はわわ!? ――って、ごごう君……?」
整備されたとはいえ道中で見事に四つん這いで足元にやってくる智實に対して姫海は驚きながらも後ずさる。ついで「淡路島ぁあああああ!」と叫びながら雁多尾畑眉白が、冷静にどさりと倒れる様に都祁村勇三九が現れた。何故か三人若干ボロボロであった。
だがそんな事は気にしない様子で三人は姫海を見上げて、
『何か変な事はされませんでしたか!?』
と、声を揃えて大声で問い掛けてきた。恭介が「おい。……おい」と呆れ交じりの視線を向けて難色を示すが、三人はどこ吹く風で気にしやしない。
「……君達、どうしてここにいるんだい?」
そんな三人を訝しむ様に逆に問い掛ける姫海。
三名はピタリ、と静止すると『いえ、守護者をやっておりました』と答えた。
「……要約すると後をついてきていたって事でいいのかな?」
こめかみに少しだけ怒りマークをつけて姫海から微かな怒気が零れた。
デートをついてこられた事に若干腹を立てている様だ。
「私はまあ、よしときなさいなって言ったんだかれどね~」
そんな姫海にそう告げるのは鬼一涼子であった。彼女も何故だか少し服に傷痕がある。
姫海が不思議そうに問い掛けると「気にしないでぇ」と気だるげに答えるばかりであった。ただし姫海が抱き抱えているあざらしを見て「可愛いぬいぐるみねぇ」と目を輝かせていた。後日ぬいぐるみでないと知った時の反応が気になる恭介である。
「まあ、気持ちはわからんでもないが、そんなに怒らないでいいんじゃないか淡路島」
「鍵森君……きみはそれでいいのかい?」
「正直、クラスの中であんな堂々と告げてきた時点で何名か来るのは予測ついてたからな」
「……そう言われると確かにぼくに不備があるね」
気まずげに頬をかく姫海。
そうして「僕の方も浅慮だったよ、ゴメンね三人とも」と謝罪する。
「いえ、我々も後を追ったわけですので……」
「ただ、どうしても心配でして……お倒れになられないかと」
「そしたら案の定、鍵森は、淡路島と一緒に遠出を……! しかもお前さりげなく我々を振り切って行っただろう!」
「何の事かサッパリだな」
笑顔で返答する恭介。
「まあ、我々もその後に色々あったのでアレだが……」
「その傷痕とかはそういう事か?」
「まあな。ただ大した事ではないから気にする必要はない」
はぁ、と溜息を発する智實。
涼子が「実際はそこそこ大変だったのよぉ」と愚痴を姫海に訊かせていた。姫海はそうなんだ? という様子できょとんと首を傾げている。
「ただまあ、丁度いいな。悪いんだがお前ら、姫海を実家まで送るの頼めるか?」
「無論、構わんが。鍵森、貴様は何かあるのか?」
「いや何かって程じゃないんだが――」
恭介は若干困った様に頬をかきながら、
「俺が送るともれなく、親父さんとかに鉢合わせする予感がしてな……」
『ああー』
五人揃って納得の表情を浮かべる。
一同納得の様子であった。今まで話していた限り、姫海の父親は娘を溺愛しているのだろう。とすれば姫海を恭介が単独で家まで送り届けたら――もれなく波乱とか諸々起きる気配を事前に察した恭介である。
その点を踏まえれば友人四人の方が何事もないであろう。
「ふむ、貴様の魂胆確かに察したぞ」
「察されちまったよ。んじゃ、ま、そういう事なんでよろしく頼むわ五郷海老済。皆もな」
「おう! また休み明け学校でな、鍵森!」
「ちなみに次にデートとか在った時は今回の様にはいかないからね」
「アンタらまた後着いてくつもりなわけぇ?」
涼子がしょうがないわねぇ、的な表情で嘆息を浮かべる。
そんな光景に苦笑を浮かべながらも恭介は五人とここで別れる事とした。
「ただ、その前に、と」
しかし、そこで恭介はそっと姫海に向けて大きな袋を手渡す。
それは恭介が妹用と言って購入した袋の中から出てきたものだった。
「? なんだい、これ?」
「ま。日常品かな」
肩をすくめてそう呟く。
姫海は差し出された袋をおずおずとしながらも手に取って中身を確認すると、そこから出てきたのは鮮やかな水色が基調となったカーディガンであった。
「わあ、綺麗なカーディガンだね……!」
「体冷えたりしない様にな。ま、普段セーターばっかりだったしな、お前の厚着」
「鍵森君」
あの時、購入した品物はこれだったのか、と姫海は感謝の表情を輝かせながら彼の名前を呼んだ。しかし恭介はなんてことない、と、照れ臭そうに頭を掻きながら不愛想に返すだけだった。
「ん。じゃ、また今度な淡路島。――次の時はもう少し別のプレゼントでも贈ってやるさ。楽しみにしておけよ悪戯猫」
ビッとつきつけられる人差し指。なんと無礼千万か――、そんな挑戦状にもにた言葉に姫海は思わず表情を綻ばせて「了解したよ」と頷いて返す。
「なら、よし」
「ふふ、そっか。ありがとう――そして容易くはいかないとも」
カーディガンの入った袋を胸元で抱き締めながら――淡路島姫海の一日はこうして可愛らしい花咲く笑顔と共に今日一日と言う名前の船出を終えたのだった。
5
五人と別れた恭介は一人街中を歩いて、訓子府家へと帰路の途中であった。
うすらぼんやりとした街並みを闊歩しながら恭介は思いがけずに様々な想いを巡らせる。
淡路島姫海とのデート。
それは思いのほかに鍵森恭介にとって琴線に触れるものがあった。それも相まってその心中は様々に心揺れるものがあり――だからこそこうして一人で風に吹かれたくなったのかもしれない。そこまで思って恭介は呟く。
「俺はどこのセンチメンタルだ」
風に吹かれたいとか何時の時代だよ、と自嘲気味に言葉を発する。
だが、同時に姫海の事に関して複雑な胸中であると言う事は否定しようもない事実として到来してきている。そう、それは――、
「アイツも、か」
空を仰ぎながら恭介は感慨に耽る。
その胸中に渦巻くものを他者に見せようとは思わない。その思念からか自ずと人通り少ない道筋を闊歩し始めていく。
だがそこで唐突に恭介は歩みを止めた。そうして都会の喧騒とは打って変わって静寂であるはずの路地裏の方へ視線を寄越す。
(――今何か妙な感じがしなかったか?)
恭介は何か違和感の様なものに気を取られ、そしてそれを確かめる意味でも恭介は一気に走り出す。何故だかはわからないが妙な胸騒ぎを感じながら曲がりくねった道筋をひた走っていく。微かに聞こえる声――いや、ほとんど音の域でしかない。しかし、それを頼りにしながら恭介は次第に大きくなってゆく声の方へと。
そしてそこで恭介は思わぬ人物に遭遇した。
「はっ……! はっ、くそ洒落になんねぇ……!」
そこにいたのは一人の青年であった。
何処かで見覚えがある――と、思ったところで行きついた。
「お前、今朝のナンパ三人組……?」
恭介が呟いたその声に姫海に散々ナンパをふっかけていた男三人の一人、筋肉質の男であったと記憶している。
その人物が女性に肩を貸しながら傷だらけになって歩いてくる――と言うのはなんとも唖然とする光景であった。正直なところ何がどうなっているのかさしもの恭介にも全く想定がつかなかったのである。
「お前、何があった? どうしたんだ、その怪我!」
そう声を掛けた時ようやく筋肉質の男はハッと顔を上げた。
血が額を伝って片目が流血で開けられない程の怪我だ。
「お前、朝の……!」
「ああ、そうだが――お前一体何がどうして……」
「何がどうしたかなんて何一つわかりゃしねぇよ! と言うか俺としてはお前が、いや、誰かがここに来てる事自体が驚きっつーか……!」
体中震わせて筋肉質の男は怯える様に呻き声を上げる。
「とにかくお前、この人任せたぞ!」
「は?」
困惑する恭介に無理矢理男は肩を貸していた女性を押し付ける。意識が無い様だ。
「その人連れてさっさと離れろよな!」
「離れろって――お前何処行く気だ?」
「どこもなにもねぇよ、あいつらがまだ――」
筋肉質な男がそう呟いた時だ。
その不気味な声が鳴り響いたのは――!
「げげげげげげげげげげげげ!!」
同時に恭介は筋肉質な男の後方に真っ黒な影をみた。
青年の方も声を訊いてぞくりと身を震わせる――だが、雄叫びを上げて、あるいは絶叫であったのかもしれない。けれど振り向き様に拳を握った。
「スロウリィ」
しかし遅い。
風を突破する様な弾ける音を打ち鳴らす速度の拳が容赦なく青年の体を真横へと吹き飛ばす。眼前にいた青年が一気に掻き消える程の速度を見ながら恭介は畏怖した。
(なんだ、こいつ――!)
何が何だかさっぱりわからない。
だが脳裏にはつい先日遭遇したキューピット=アルルと類似した感覚を掻き抱く。無論、あの破天荒娘とは違い鳥肌が立つような悍ましさが肌を刺激するが、現象としては似たようなものであろう。
ただし問題なのは――この眼前の存在が明らかに危険と言う事か。
「げげげ――連日、根を張っていれば、まさかのビーサプライズ。ディスはいったいどういう事なのか? ホワッツな気分は拭えないと言えようか。フーアー・ユー?」
その威圧感とは裏腹に眼前の漆黒の巨体は実に陽気な口振りで問いを発した。
とりあえず恭介が言える事は、
「……悪いが何を言っているのかよくわからないな」
口調的な意味も含めて、この事態も踏まえて、恭介は事態の混迷さに眉を潜めた。
対して漆黒の巨体を持つ何者かはおどける様に肩をすくめながら反応する。
「オウ、そうなのかい?」
「ああ、俺は単純に路地裏に来ただけなんでね」
「フーム、そうなのか……。それは些か可笑しな話なのだけれどな」
顎に手を添えて不思議そうに唸る。
「……何がおかしいと?」
「いや、ただの一般人が『ここ』に侵入してくると言うのが特殊な話なんだけれどね――と言う話なんだが、最近は一般人もバカに出来ないからにゃー……。あるいは君が特殊と言う線もあるにはある、が」
そこで一拍隙間を置いて。
「されども、ノー・プログレム。何者であれ脅威に感じるレベルでもない。ならば、ここでキル・ユーしてしまえばことはそれまで」
バキン! と、鋭い爪の生えた指を鳴らして怪物は吼える。
その挙動に恭介は思わず後ずさりしそうになるが――、
(いや、ダメだ!)
感覚的に逃げ切れないとそう告げてくる。
このまま逃走をしようとしても難しい。
(ならば)
恭介は拳を握り緊めた。
事態は全く掴めていない。状況も唐突にして絶望的だ。だが、先程の男が庇い立てしていたのであろう女性を託された状況下で逃げるのは何とも鍵森恭介らしくない。
まったくもって意味不明な現状ながら――恭介はこの状況で果敢にも眼前の化け物に挑みかかろうとしていたのだ。
「げげげ」
化け物は笑みを浮かべた。
しかし嘲笑では無い様に感じる。
「先の三人といい――ユー、といい――、歯向かう奴に度胸があると言うのは何とも痛快というものだ。エクセレンッ!」
「生憎と称賛される様な状況下じゃねぇよ――むしろ、投槍だっての」
そんな軽口を思わず叩きながら恭介は拳を振るわんとした。
しかし、その時だ。
妙に体の熱が静まったのだ。まるで冷気に当てられたかのように――と感じたと同時に眼前の化け物が表情を歪めた。
「オウ――シット」
チッと舌打ちを刻んだ。
「どういうわけだ――わからん。しかし、この力は……!」
「……どうしかしたのか?」
訝しげに視線を寄越す恭介に対しておどけながら化け物は返答を返す。
「運のいいボーイだぜ。生憎と小僧に関わるには厄介なのが感じられちまった。ソーリーだが俺はここで引かせてもらうとしようか。いやもー、マジなんなんありえへんわー。――ってな、くらいにご近所舐めてかかれにゃーよねー!」
「……なに?」
引く。
つまり撤退すると言うのか。何故、と恭介は訝しむも、先程彼が言った『厄介なの』と言う言葉に思わず眉をひそめる。そんな様子にフッと微笑を浮かべながら化け物に後退してゆく。
「勝てない勝負ってのにも燃えるタイプではあるんだがな――今回は事情がアブノーマルなもんでね。やられるのは少しばかり問題ってやつなのさい」
後ろに下がりながら化け物はバサッと音を上げて翼を広げた。
翼。そう、翼だ。角に巨体な時点で人間じゃないと理解してはいたが致命的なものを背中に生やす様に恭介は思わず冷や汗を垂らす。
「ああ、それとボーイに一つ忠告だ」
「……忠告?」
「そう。血気盛んも義憤の心も買うが――勝てない相手には生き延びられる為の行動選択を残しておかない限りはおすすめしやしにゃーよ。自分でもわかってる話だろーね?」
げげげ、と声を零しながら怪物は闇の中へ紛れる最中最後にこう零した。
――やりあったらグロッキーな事にしかならなかったねぇ? と。
そうして鳥が飛び去る様な音を聴きながら、恭介はグッと拳を握り緊めた。
幾何ばかりの苛立ちを掌握しながら。
「言ってくれるじゃねぇか、怪物」
と言うか、と呟いて、
「前々からだが――横浜で何がどうなってんのか、いよいよサッパリだぜ、くそ」
自分が住む都市で果たして何が起こっているのか、起きようとしているのか。
昨今はそんな場面ばかりに遭遇する。
故に鍵森恭介は許容しない。自分の生きる街で、狼藉を働こうとする輩がいるのならば、全力を以て相対さなくてはならないだろう。
「何が起きてんのか――状況は全くもってわからないってか」
――しかしだからこそ。
その言葉を最後に鍵森恭介は女性を、そして筋肉質な男を担いで街中の喧噪が騒がしい方へと戻っていく。
そうしてしばらくした後に。
鍵森恭介は主人である訓子府うるき宛に一文のメールを送った。
『件名:センチメンタル 「本文:今日は……帰りたく無いんだ」』
その一文を最後に鍵森恭介は怪物同様にその後夜の街を駆けだしていくのだった。
なお。
当然の如くとしてその後、携帯のメールを確認したうるきは叫んだ。
「なんだこの乙女なんだか大人なんだか判別し辛いメール!?」
どんな時も余裕を失わない鍵森恭介であった。
第五章 海辺へ寄り添う勧進木・後篇




