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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
37/69

第四章 後篇:微睡む日向に燃え盛る焔

第四章 後篇:微睡む日向に燃え盛る焔


        1


 九十九達と同日、お互いに気付かないまま同じ店へ来店していたもう一組の男女。輝く様に綺麗な明るい茶髪をしたスタイルのいい美少女、新橋(シンバシ)エリカは感心する程に呆れていた。

「全く本当にアンタときたら……」

 呆れている対象は今日、自分を誘って連れ出している女顔の少しだけどこか日本人離れした面貌を持つ青髪の少年、弦巻(ツルマキ)日向(ヒナタ)に対してである。

「ちょっと目を放した隙に何でこうなってんのかしらね?」

「あうー……」

 しょぼんと肩を落としながら、唸る日向の頭頂――何故だか乗っかるガラスのコップ、真下目掛けて放出した清涼水にずぶ濡れとなった様を見ていた。

 軽くお手洗いへと足を運んだ時間に何があったのだろうか?

 尋ねても本人『よくわかりません』と悲しげに零すので本当によくわからないままこうなっただろう事は明白だ。ただし店員の蕾は『え、えーと……何でだろうねーアハハ。まあ、たまにはあるよ、こういう事も、うん』と視線を逸らしつつタオルを手渡してくれた。エリカは何かしら関わっているが蕾本人『よくわかりません』状態っぽかったので文句は言わず、感謝を述べておいた。

 ただ『やっぱり彼氏のお世話は彼女さんじゃないとね!』とニヤニヤ笑顔で渡してくれた事に対しては反論したのに通じなかったのが無念でならないが。

「とりあえず頭拭かないとね」

 そう言ってエリカは店側が手早く用意してくれたタオル片手にそう零す。

 日向の頭の上のコップを退けて、ふわりと濡れた頭にタオルを被せる。

「ほら、こっち向いて」

「え?」

「え、じゃないわよ。濡れて風邪引いたらシャレになんないわよ」

「あ、や、そうじゃなくて……」

 日向は少し頬を赤らめながら、

「――エリカさん拭いてくれるんですか……?」

 そう言われてエリカは微かに挙動を止める。

 ――確かに。

 日向自身に渡してしまえば、それで自分で出来るだろう。わざわざそこまで面倒を見るのは男が嫌いな自分としては多少歩み寄っている節があった。しかし目の前でこんな悲しげな様を見ていると何もしないのもアレだし、また日向がどうにも放っておけない感じが相変わらずするのでエリカは軽く頭を振った後に、

「一応それくらいはしたげるわよ。今日は色々してもらってるしね」

 そう頬を軽く染めながらつっけんどんに発する。

「それとも自分でする?」

「あう、えっと……してほしーです。エリカさんに、してもらいたいです。エリカさんだから、してもらいたいです」

 真っ赤になりながら頷く日向の様子を見ながら、その好意的な発言にエリカも若干自棄気味に「……りょーかい」と簡素に答えると濡れた髪の毛をわしわしと拭きはじめる。『エリカさんだから』とまで言われてしまい物凄く心拍数が危険数値だが、それでも平静に勤める事とした。決して動揺など微塵もしていないと自分に言い聞かせるようにしながら作業を熟す。

「力加減、こんなもんでいい?」

「……」

「……弦巻、訊いてんの?」

「……あ、はい、なんでしょうか?」

「だから力加減平気? 強過ぎたりしない?」

「……」

 また無言。

 エリカは小首を傾げながらちらりと日向の顔を覗いてみると、そこには陶酔した様なぽけーっとした顔があった。夢見心地と言うのか、顔を真っ赤にした少年の顔があった。

「アンタ大丈夫!?」

「ふわっ!?」

 エリカの声にびくりと肩を震わせると、

「ど、どーかしましたか、エリカさん?」

 日向は慌てながらそう尋ねる。

「どうかしましたかじゃないわよ、何か凄く真っ赤だったんだけど……」

 怪訝そうにエリカはそう零した後に、日向は再度赤くなると俯いて、

「……だって、気持ち良かったし嬉しかったんですもん」

 そう白状した。

「エリカさんが頭拭いてくれて嬉しかったし、仄かにオレンジみたいないい匂いがしてくるから何だか凄く幸せな気持ちになって……」

「なっ」

 エリカは途端真っ赤に染まる。

(だ、だから、私が頭拭いたってだけで何でそうなんのよ!? っていうか、人の体臭で毎度毎度、そんな反応してんじゃないわよ、本当に恥ずかしい……!)

 そんなエリカの様子には気付かないまま、日向は言葉を続けた。

「けど、何だかエリカさんにお礼返しなのに、面倒見てもらっちゃってます……」

「……このくらいは、まあ、気にしないでいいけどね」

「でも……。あ、そうだ、僕も今度エリカさんの髪の毛拭きます!」

「え?」

 エリカはきょとんとした後に、

「別にいいわよ、ユウマがやってくれてるしね」

「そーなんですか?」

「ええ、お風呂上りにね」

「むー、凄く羨ましいです……!」

 日向が少し羨ましげにしたのを見て、エリカは困った様に苦笑した。

「別に、そんな羨ましがることでもないでしょうに」

「そんな事ないです。僕も、エリカさんの髪の毛拭いたりしたいです。それに、その……」

「ん?」

「エリカさんの髪の毛さらさらで綺麗だから触れてみたいです」

 恥ずかしそうに零す日向にエリカは思わず赤面する。

「だから、そんないいもんでもないってのに、アンタは、もう……」

「だって、触ってみたいです。たくさん」

 たくさん、と言う部分に妙に想いが込められているのを感じてエリカは気恥ずかしくなってくる。確かに普段自分にいっぱい好意を示しているのだから――そう言う想いで言っているのだろうという事はエリカにも流石に理解出来るので何とも気恥ずかしいのだ。

 だからエリカはつっけんどんに返事した。

「だーめ。アンタには触らせてあげない」

「あうー……触りたいです」

「イヤよ。女の子の髪の毛って大切なんだからね?」

「わかりますけど、でも触りたいです」

 恥ずかしそうに零すエリカに、頑張って食らいつく日向。

(本当にもう……そんなに、私に対して一生懸命になるなってのに、毎度毎度本当に恥ずかしい気持ちになるんだから……!)

 本当、この素直精神をどうにかしなければ精神衛生上拙い気がしてくるエリカである。

 そうこう会話をしている間に日向の頭髪は大分乾いてきたので「このくらいでいいかしらね」と呟いてタオルをそっと放す。日向は物凄く残念そうに「終わっちゃいましたー」と呟くもので、エリカは「ホントに、もう……」と真っ赤な顔を隠す様にプィッと視線を背けた。

「けど、ありがとーございますエリカさん♪ 頭拭いて貰えて凄く嬉しかったです♪」

そんなエリカの様子に相変わらず気付かないまま、立ち上がって席を動こうとした際に日向は誤って体勢を崩してしまった。丁度後方へ倒れ込む様な形で。

 必然、背後にはエリカがいるわけで、

「ふわっ……!」

「え……!? なっ……!」

 ぽよんっ。ふよふよ。

 日向の後頭部を信じられないくらい柔らかい衝撃が走り抜けた。

 手で、顔面で、すでに何度か接触していると言うのに何度触れても相変わらず信じられないと言う言葉が付属する程の大きくてやわらかい感触と白桃の様に甘い匂い。思わず頬ずりしてしまう。だが、自分の行動そのすべてに既視感があった日向は思わず顔を真っ赤にする。

 日向が倒れ込んだ後方では、エリカも同様に顔を羞恥で真っ赤に染めていた。

 なにせ自分の胸元に日向の後頭部が埋まっているからだ。胸元がぐっと強調する形となり、日向がまた似たような事例を起こした事に関してエリカは体を真っ赤にして震えると、

「あ、あの、エリカさん……!」

 日向が若干蒼褪めながらも、エリカを下から見上げてきた。

「え、えっと……」

「……」

 無言の重圧を放つエリカに対して日向は慌てながら、

「凄く大きくて柔らかくて甘い桃みたいな匂いが仄かにするから、凄く好きですエリカさんのおっぱい……! 大好きです!」

 と、正直な心のままに率直な感想を漏らした。

 当然ながら新橋エリカの反応は、

「言動もとにかく、まずはさっさと離れなさいっての!」

 怒号とドゴッ、と言う鋭いアッパーカットの冴えを見せる結果となったのである。



 それから少し間を置いて、エリカは水を飲みながらジト目で日向を睨んでいた。

「あう……」

 日向はそんなジト目にたじたじと縮こまる。

「その、ごめんなさいです……」

 しょんぼりと謝罪を述べる。

「このどすけべおっぱい大好きバカ」

 顔中真っ赤に染め上げたエリカがジト目で睨む。

「がふっ!」

 エリカの否定しようもない指摘に日向は思わず胸を抑えた。

 そんな日向を呆れた様な表情、同時に羞恥を織り交ぜながらエリカは零す。

「本当、女の子みたいな顔してる癖に性欲って言うか、何て言うか……女の子に興味津々って感じと言うか……このどすけべ」

「すけべじゃないですもん……」

 せめてもの反抗の如く言えども語気は弱かった。

 そんな日向に対してエリカは顔を真っ赤に染め上げながら、告げる。

「なら、私にしてきてる散々の出来事は何だってのよ、バカっ」

「それはエリカさんに好意満々になっちゃってるからなだけですもん」

「けほっ」

 エリカは軽く咽る。

 そんなエリカの様子に慌てた様子で日向は心配を投げ掛けた。

「エリカさん、だいじょーぶですか?」

「だ、大丈夫だけどっ。アンタは何でそう随所でそんな発言ぽろっと出てくるのよ!」

「だってエリカさん好きです。大好きです。とっても好きです♪」

「さも三拍子みたいに言わないでよね!? しかも自覚無さそうだし!」

「自覚って何の事ですか?」

 きょとんとする日向に対してエリカは「ぬあああ、もぉおおお……!」と顔を両手で覆って赤面に苛まされる。

(コイツもう、どうにか自覚させといた方がいいのかな……! けど、それしたら、何というか更に厄介になっちゃう気もするし……! ああもう、本当にどうして私にこんなに好意的になってんだ、このどすけべは……!)

 内心の動揺を包み隠しながらエリカは告げる。

「とにかく、少しは自重しなさいよね。エッチな行動全般」

「あう……。頑張ってみます……」

「……そこで返答が頑張る、かあ」

 エリカは呆れ交じりに顔を真っ赤に染め上げた。

 それはそうだろう。なにせ返答が『頑張る』と言う事は努力する――つまり、自分に対して頑張らないと自制出来てないと言う事の裏返しである。

(私の事を好き好き言いまくる奴だから、そんな気はしてたけど……本当に、もう! そんなシャワーみたいに好き好き言ってくんなバカ……!)

 怒気交じりに睨むも、日向は真っ赤になりながら恥ずかしそうに釈明を零した。

「だって、その……エリカさんの体、いい匂いして、柔らかくて、気持ちいいから……エリカさんに触れるの凄く興奮するし、好きなんです……」

「ぬぁ……!」

 エリカは面と向かって言われて顔中真っ赤にしながら怒った様に返答する。

「ば、バカ! エロ! どすけべ! ほ、本当にもう、そうしてそう言うとこは男の子してんのよアンタはもう! し、知らないわよそんなの! 何度も言うけど!」

「うー、だって本当に大好きで仕方ないんです、エリカさんが。一緒にいると何だかとっても心臓ドキドキして、同時にほわーってあったかくて」

「だから、そんなに懐かないのバカ! 本当にバカ! バーカ! 私なんかにそんな事言っても別になんとも思わないんだからね!?」

「ヤですー、僕、何か想って欲しいですエリカさんに……!」

「は、はい!? ホント、何言ってんのアンタ!?」

 目の前で顔を真っ赤にしながらも果敢に、必死に攻めてくる日向相手にエリカはそれはもう一生懸命に相対す。そんな攻防がひとまず収まるのは注文した料理が届くまでかかったのであった。


        2


「つくも、帰ったぞー」

「ただ今、戻りました不知火君」

「おう」

 お手洗いを済ませてきた二人を九十九(ツクモ)は満開の笑みで迎えた。対する二人も笑顔を花開かせる。特に静流(シズル)は一際目を輝かせていた。

「たー、うまそー……!」

「だろ? 今来たばっかだぜ!」

「ほかほかだ」

 何故かと言えば、紛れも無く目の前に広がる湯気を立てながら美味しそうな匂いを漂わせるパスタ料理と大きいピザがある為だ。三人ともそれぞれ別々のパスタを選んでおり、九十九が頼んだボリューム満点のミートソースパスタに勇魚(イサナ)の和風な明太パスタ、それに静流が選んだ海鮮パスタの三種類は実に華やかであり、マルゲリータピッツァもまた彩り豊かで美しい。

 これは実に美味しそうだ。

 勇魚は横に立つ静流に笑顔を向ける。

「冷めないうちに早く頂きましょうか、静流ちゃん」

「何やってるんだ早く座ろ、いさな」

「行動早ッ!」

 さっきまで隣に立っていた静流が席に着席して、スプーンとフォーク、ナプキンまで完備している姿と速度に勇魚は若干驚いた。

 それだけ楽しみにしていると言う事なのだろう。

 勇魚もいそいそと席に座る。

「んじゃ、揃ったところで、メシにすっか! いただきますだ!」

 九十九の元気のいい声を復唱し『いただきます』と笑顔で告げて二人はフォークでパスタを絡めて食べ始めた。勇魚は経験がある様子で手馴れた手つきだが、静流は見よう見まねで一生懸命の様子でフォークにパスタを絡めていた。

 その光景が微笑ましいと思いながら、パスタを口に含んだ際に零した「おいしいなー」と言う満開の柔らかな笑顔を見て「良かったな」と快活な笑みを浮かべる。

「口が汚れちゃったら、そこのナプキンで拭くんですよ静流ちゃん」

「たー、なるほど」

 二人の和らいだ空間の温かさを見守りながら、九十九もパスタを口に押し込み、その味わいを噛み締めながら、温かい輝きを瞳に灯す。

(本当、良かったぜ)

 その言葉が示す意味。

 それはどうして不知火九十九が佐伯勇魚と焔魔堂町静流の二名と今、こうして一緒にいるかのところまで遡る。



 ――さて、実に六日前の出来事へ遡る事としよう。

 その日、不知火九十九は芳城ヶ彩にて主である大地離家の長女こと――大地離(オオジバナリ)(ヒツギ)に呼び出された、その帰り道での事であった。主である柩は美花赤に通う学生の為に学校間の移動をしなくてはならない為に若干以上に手間取った。まあ手間自体は問題ではない、問題なのは……。

「あー、柩嬢の奴あんな事でわざわざ呼び出すとは思わなかったぜ……人使い荒いんだよなあ相変わらず……」

 肩をコキコキと鳴らしながら、シラヅキへの帰り道を歩くその時、彼は遭遇した。

 厳密に言えば、激突したのだ。

「うがっ!」

「――くっ」

 目の前の鬱蒼とした森林地帯から二人の少女が弾き飛ばされる様に出てきたのは。

 林から転がる形で出てきた二名は互いに傷を負っている様子であり、地面を転がった為か衣服に汚れも見て取れる。しかし腕に刃物でつけられた様な傷痕を持つ黒髪黒目の美少女だけならば九十九も驚きは薄かったはずだが、出てきた両名共に大きな特徴を持っていた。

 まず黒髪の美少女はその手に錫杖を持っている上に服装が袈裟姿と言う事。

 そしてもう一人の小柄な体躯をした銀髪の少女で年齢は十に満たないと思われるのだが、彼女があまりにも目を惹いた。なにせその頭部と下半身。その二つに大き過ぎる特徴を持っているのだ。

 まるで狐の如き耳と、尻尾。

 それを少女は付属させていた――その時点でおおよそ目を疑う光景であろう。コスプレと言う線もあるが、それにしては遠目にしたって付け耳ぽさを感じなかった。

 そんな外見的特徴に驚きはしたもののそこは後回しだ。

 九十九はその様子に驚きながらも駆け寄った。

「おい、大丈夫か? 何かあったんかー?」

 芳城ヶ彩の特異性を考えると獣にでも襲われたのかもしれない。

 熊が出る山岳地帯もあるくらいなのだから、と二人へ近づくのだが黒髪の少女の方が近づいてくる九十九を見ると大きく目を見開き切羽詰まった様な大声を上げた。

「来てはダメです!」

「は?」

 その声とほぼ同時にザザッ、と葉っぱが擦れる音を鳴らして林の奥から人影が飛び出す。

 身にまとう装束は袈裟姿。有体に言って僧侶と言った風貌であったが、頭髪を逆立たせたボサボサ頭に顔につけた稲妻の様なペイントを見てしまうと、僧侶と言うよりも持っている三味線と相まってロックバンドのギタリストを連想させた。

「オイオイオーイ、嬢ちゃんらよー、何とも歯応えありませんのーい」

 三味線を構えながら男はだらんと舌を出して挑発的に声を発する。

 黒髪の少女は「くっ……!」と悔しげに声を発し錫杖を杖替わりにどうにか立ち上がってみせるもその腕が微かに震えている事に九十九は気付かされる。

「えと……何が起きてんだ?」

 九十九は思わず疑問符を発した。

 帰り道に起きた唐突な出来事に思わずわけがわからず腕を組む。そんな九十九に対して黒髪の少女は表情を引き締めながら緊迫感に満ちた声で九十九に促した。

「お気になさらないでください。――それよりも早くこの場から退避を」

「いや、そうは言われても目の前にこんな事が起こってるってなるとな」

「御気持ちは感謝の念が堪えないものです。ですが、関わってはなりません。この場から離れて何も見なかったことにして――忘れてください」

 そう言いながら少女は錫杖を前方へ構えた。

 相対する男は軽く舌なめずりして、

「いいね、いいねぇ。反抗してくれなくっちゃあつまらねぇや。そうして屈服させた後に犯し尽くす事こそ醍醐味ってなも0んだもんのい」

「下卑た事を言われるのですね――御仏に仕える者の身でありながら」

「逆だろ。今は盛大な我慢タイムだからこそ溜まっちまうってもんなんだよのい」

 ふひひ、と嫌らしい笑みを浮かべる男に対して黒髪の少女は眼光に厳しい色合いを浮かべ、明確な怒気の篭った声と共に口を早く動かして、ある言葉を唱え始めた。

「オン・ハンドマダラ――」

 日常会話では、そうそうお目にかかれない特殊な響きの言葉であった。

「アボキャジャヤニ」

 英語ではまずない、通常の日本語とも違う。

「――ソロソロ・ソワカ!」

 その言葉の独特性を九十九は知っている。

 それは仏教で言われるところの真言と呼ばれる言葉であった。

 黒髪の少女が早口でそれを詠唱し終えると、不可思議な現象が巻き起こる。彼女の背中から神秘的な金色の光が輝いたかと思えば錫杖の先端に紡がれ、そこから更には輝きを放つ捕縛縄が放たれたのである。その真言は九十九の記憶によれば仏教に於ける天台宗、六観音に数えられる不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)の真言だ。人道を救済するとされ、その御仏が操る縄は鳥獣魚を捕える捕縛の縄であったと聞き及ぶ。

 何もないところからそんなものが出てきたとなれば大抵の人物が驚くだろう。

 だが眼前の男は驚いた気配もなく、むしろ嘲笑を浮かべて見せた。

「オイオイオーイ、不空羂索観音の真言だぁ? やる気あんのかぁ?」

 男はそれが到底理解出来ない様に不快感を浮かべながら、錫杖を振るった。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!」

 その言葉と共に男の背から同質の光が零れ出ると三味線を通じて言葉は焔と化して具象化すると少女が放った捕縛縄を容赦なく燃やし尽くしていく。真言から把握するに、まず間違いなく不動金剛明王の慈救咒。唱える事で災いを払うとされる火焔の顕現だ。妖魔の類に劇的な効果を及ぼす代物である。

 その熱量のため、少女が辛そうに渋面を浮かべた様子を見てニタァ、と口元に笑みを浮かべると男は大きくその場から跳躍した。

「攻撃性もねぇ真言をこの後に及んで使うとは――尽く甘ちゃんだのい!」

 そして勢いよく鈍器代わりに三味線を振り被った。

「っ……!」

 その攻撃を少女は錫杖で防ぐも勢いづいた一撃を殺しきれずに錫杖を弾かれて後方へ吹き飛ばされた。「かっ……!」痛そうな声を発しながら、少女は地面への衝突を覚悟して思わず目を瞑りそうになるも、不意にその体を頼もしい力に支えられた気配に目をしばたかせる。

「……え」

「うへー、何かわかんねけど平気か?」

「あ……」

 少女は自分の体を九十九が支えてくれている事に気付く。

 飛ばされる方向へ先回りして庇ったのだろうとわかる。

(けどあれだけ激しく吹き飛ばされた人の体を受け止めてこんなに平然としているなんて――そもそも、この人、さっきまで離れた所にいたのに間に合ったの……!?)

 しかし、とっさの判断として実行するには些か以上に厄介な場面だと言うのに、間に合わせた九十九の速度と力強さに思わず驚嘆を浮かべていた。

 そしてそんな二人の様子を見ながら男は舌打ちをして、

「何格好つけてんだお前は? と言うか、さっきからいたがお前誰だのい?」

「俺か? 俺は通りすがりの――筋肉さ」

「本当に誰だのい!?」

 返答の意味がわからず叫ぶ男に対して今度は九十九が怒気交じりに質問をぶつける。

「テメェこそ、何なんだ? どうして女相手にこんな事してやがる」

「あぁん? それテメェに関係あんのか?」

「あるさ。一応通りがかりで関わっちまったからな」

「……正義面は得しねぇぜガキ?」

「損得なんざ求めた事ァねぇんで知らねぇな」

 九十九がそう言うと「ヒーロー気取りのガキが……!」と忌々しげな表情を浮かべながら錫杖を構えた。その姿を見て少女がすぐさま立ち上がって九十九の前に立つ。

「何やってんだ危ねぇぞ?」

「危ないのは貴方です! 先程の光景を見ていなかったんですか!?」

 焦燥に駆られた様子の少女。

 無関係である九十九が関わってしまった事への焦りが、自分への心配と言う感情で向けてくれている事に気付いて九十九は微かに微笑を浮かべた後にニッと笑顔でサムズアップする。

「見てたぜ! 凄かったな!」

「凄かったな、じゃなくってですね!? ここにいるのは危険と言う話でですね……!?」

「じゃあ一緒に逃げようぜ!」

 九十九の発言を楽観的ととらえたのだろう僅かばかり渋面を滲ませながら首を振る。

「追手がいる以上、逃げるのは困難です。巻き込んだ以上は、私が時間を稼ぎます。ですからそこで倒れている彼女と一緒に逃げて頂けませんか……!」

「ええー。じゃあ一緒に戦おうぜ!」

「何故そうなるんですか……!?」

 少女は無理です、と言いたげに涙目で首を振った。

「一般人の貴方にはわからないかもしれません。ですが、今から言う事を与太話とせず信じた上で訊いてください。あの男は先程から見ての通りに法術という御仏の力を戦闘で操れる僧侶です。マジックでもドッキリでもない、本気の死闘です。巻き添えを食えばただでは決してすみません。今ならばまだ逃げればそれで済むんです! ですから早く逃げてください――!」

「んー、みたいだな」

 アレは中々派手だった、と頷く九十九。

「感心していないで早く逃げてくださいってば!」

「いやぁ、女残して逃げるとか恰好つかねぇわー」

「そう言われましても……!?」

 拙い、と少女は思った。

 このままでは彼も巻き添えにしてしまう、いらぬ被害を及ぼしてしまう、と。それだけは許されない。どうにかして男を抑えなくてはと錫杖を強く握りしめる。しかし、男を倒す、もとい傷つけると言う選択肢は少女にとって辛い選択であった。

 だがこのままでは――、

「――ウダウダ駄弁ってる暇ァねぇのい」

 そこで少女は膨れ上がる焔の力を察した。

 前方では先程と同じく炎が激しく迸っている。蓄積されているのだろう威力が徐々に火力を上げているのが感じ取れる。その威力――おおよそ、周囲一帯を火で包むくらいはわけがないだろうくらいに。

「待ってください! そんなものを放っては……!」

「なぁに、火傷で痛めつけるってのも一興だしなぁ」

 それに、と男を呟いて、

「テメェが守護に力を回せばどうにかなるんじゃねぇかのい?」

 そう呟きながら男は錫杖を一回転させてその炎を解き放つ。

 少女は間一髪で間に合うかどうか――、守護に当たる真言あるいは詠唱を唱えんとする。しかし果たして間に合うのか否か。

 ――そこでフッと横を通る影があった。

 九十九だ。巻き添えにしてしまった少年が前方へ躍り出たのだ。

 男はその姿を見て嘲笑う。

 ヒーロー気取りの現状を理解出来ていないバカが――!

 しかし、

「ふんぬらばぁああああああああああああああああああああああああ!」

 九十九は上方から迫り来る火焔に対して裂帛の気合いと共に痛烈なアッパーを放った。通常ならば炎に拳を放っても巻き込まれるだけのはず――しかし、九十九の一撃は風を間に、それを左右に掻き分けながら文字通り炎を裂いて散り散りに吹き飛ばしたのである。

「バッ……!」

 その馬鹿馬鹿しい程ありえない光景に、男は目を剥いて困惑を動揺と共に浮かべた。

「あちちー、熱いなやっぱ流石に」

 熱い。

 それだけで済むわけがない。火傷一つも、していないなどおかしい。自分の炎をその身に受けて、何もないなどとは有り得ない。どういうわけだ。男は驚愕を顔に張り付けながら怒号を上げた。

「馬鹿な! ありえねぇ! 火を得手とする不動明王の真言だぞ!?」

「そりゃあ知ってるけどよ」

 知っている。

 その発言に後ろの少女は微かに目を見開いた。通常、真言等と言うものは仏教に携わる者でなければ蚊帳の外の様な話題なのだ。それを知っていると言う事は彼は神社の息子か、はたまた真言マニアの様なものなのか、あるいは……。

 しかしこの場面に直面したのは偶然に過ぎない。

 たまたま通りがかった青年がこちら側の人間と言う数奇な運命があるのだろうか。

 少女は思考しかけたが、今、眼前には男の憔悴の怒声が響き、意識を今へと戻した。

「ならわかるはずだ! 火焔では最強の力なんだぞ? それをお前パンチ一発でって……!」

「だからな、それは知ってるんだよ」

 けどな、と九十九は呆れ交じりに告げた。

「――テメェの火は全面的に温いだけだっての」

「んな……!」

 男はこめかみをひきつらせる。

 自分の力が弱い――そう言われたに等しい為だ。コイツに何がわかるのか、と男はぶち切れ寸前となりかけ――否、なった。

「言ってくれるじゃねぇかガキ! テメェが何者かしらんがのい! 俺を怒らせた事を散々に後悔させてやらぁって話になっちまったのい!」

 そう言いながら男は三味線を構える。

「拙いです……!」

 少女が怯える中、九十九はきょとんとした表情を浮かべる。

「また殴るのか?」

「はっ、殴るだけの武器じゃねぇんだよ、この三味線はなぁ!」

 そう叫ぶと同時に男は大声で怒鳴る様に告げた。

「術式発動『戦慄せよ破壊の轟音(サラスヴァティー)』!」

 ドゴン! と激震が引き起こされる。

 その言葉と共にまるで砲撃の様な巨大な轟音が響く。耳をガンガンと打ち付ける様な凄まじい轟音に少女は耳を抑えて蹲ってしまう。耳だけではない、腹部に振動が打ち付けられ気持ち悪さを感じる程だ。太鼓を間近で訊いた時の音を何倍にも不快にしたかの様な――!

「ははははは! どうだ、このとっておき! 音ってのぁ舐められねぇだろうのい!」

「だな。それもよく知ってるぜ最近は」

「――は?」

 けれど。

 不知火九十九はそんな不協和音の中を多少嫌そうにしながらも闊歩し男の傍へ迫っていたのである。男はそれが信じられない様子で唖然とした表情を浮かべながら――、

「マッソォ!」

「ごぼへぷろ……!?」

 ズドン! と言う重厚な衝撃を腹部に逆に打ち鳴らされた。

 減り込む九十九の拳を勢いを緩めずに男の体躯にひねりすら加え、

「そげぷよろしぺふらぺちの――――!?」

 怒涛の勢いを以て横向きの竜巻のごとく錐揉み状に吹き飛ばされ、近くの岩石に激突する。

 岩に大きな破砕痕を残して男はずるずると崩れる様に大地へ膝から崩れ落ち、やがて前のめりに地面に伏した。

 そんな男を見ながら少女は「すごい、です……」と驚嘆の声を零し。

「いや、わりぃな。最近は轟音にも慣れてきたんだぜ」

 九十九はガッツポーズを作りながら不敵な笑みを放つ。

 それが九十九が佐伯(イサナ)勇魚との出会いであった。



 ――と、言うのが4月28日の事であった。

 あの日は今思い出しても中々に拙かったなあ、と思う九十九である。なにせ戦闘中に相手があれだけの轟音を発したのだ。一部には爆発音と誤認された気配もあったらしいし、壊れたものもあったそうだ。騒ぎにならないかと九十九の仕える主の家系の当主、大地離疆はひやひやしたらしい。

 幸いにも別方面で同日痴漢騒ぎだか何だかが起きていた為に九十九の方はそこまで騒ぎにならなかったそうなのが救いであったらしい。

(まあ、日向達が関わってたーってのは後で知ってすまねってなったりもしたが)

 なんかよくわからんが大変だったらしいが、こっちも勇魚たち絡みで動かねばならなかった為に手助け出来なかった事に関しては若干申し訳なく思うが……。

 しかし仕方ねぇよな、うんうん、と頷く九十九である。

 そもそもにして事態が終息した痴漢騒動と比べて、九十九達は未だ、事件解決と言う事態には至っていないのだ。ことがことだけに日向や秀樹に頼る事も出来ないし、なにより頼るには申し訳も無かったと言える。

「どうかしたんですか、不知火君?」

 そこまで記憶を遡っていたところで勇魚が不思議そうに声をかけてきた。食べる手が止まっていた事に疑問を抱いたのだろう。

「いや、まあ色々考えててよ……」

「そうなんですか?」

「まな。それに――静流が明るくなってて良かったなーって思ってさ」

 九十九が零した一言に静流は一瞬、身を震わせた後に静流を一瞥し「……そうですね」と小さく、そして嬉しさを滲ませながら答えた。

 六日前のあの日。

 勇魚と静流を助けた九十九は、その後に色々と行動を余儀なくしていたと言えるだろう。彼女達の保護等があったのだが、そこが問題だった。

 まず佐伯勇魚。

 彼女は住居を持たず日本各地を転々と巡っている旅の僧侶と言う事だ。しかし世俗に疎い上につい最近に日本へ足を運んだばかりで、生まれて以降はずっと中国に滞在していたと言う。九十九が訊く限りは、僧侶で言うところの『行脚』と言うものだろう。

 次に焔魔堂町(エンマドウチョウ)静流。

 彼女は初めて出会った時に見せた通りに『狐』である。

 そんな『狐』が人間と遜色ない容姿を以て共にいるのは、当然ながら尋常では無く、その理由は、この童女が妖怪と区分される存在に違いないからだ。勇魚曰く『上弦狐』と言う妖怪の種族に該当するそうで、本来は山奥の山村に生息する妖怪の一族だそうだ。

 そんな少女がここにいるのは何故か。その理由を訊いた時を思い出し九十九は歯噛みする。


『――上弦狐の一族は皆殺しにされ、最後の生き残りが静流ちゃんなんです』


 それが勇魚の言葉だった。

(家族、同胞を全員殺されて、命からがら生き残った最後が、こんなちっちぇ女の子とか……きついよなあ、そりゃあ……)

 九十九は静かに目を伏せた。

 話を訊けば、その後、逃げ延びたはいいが、意識不明となっていた静流をたまたま通りかかった行脚の途中の勇魚が保護して共に逃走を続けていたと言う流れになるそうだ。しかし意識を取り戻した後に人間嫌いとなっていた静流とかなり揉めに揉めたらしく、信頼を得るのは難しかったと訊いている。

(事実、俺も相当めんどっちかったからな)

 相手が狐だけに、ひっかかれるわ噛まれるわを経験する羽目になったくらいだ。とはいえ助けた功績と勇魚の言もあり、生来の静流の優しさも相まって現在は落ち着いている。

 そうした難儀な事情を抱えている二人を不知火家で保護し、追手の存在への対応策を検討しつつも、折角の休日な上に静流が行きたい場所があると言う事で九十九のスケジュールは見事にオーバー状態だったが別段気にしない彼である。

(まあ、一番オーバーなのは親父の機嫌だが……そこは置いておくか)

 ぽりぽり頬を掻きながら気まずそうに鼻白む。

 勝手に勇魚と静流を家に招き入れた事に関して実父、崇雲はまったく良い顔をしなかった為である。そこまで考えたところで九十九は自嘲気味に苦笑を浮かべた。

(――まあ、親父が良い顔した時なんざ見覚えもねぇけどよ)

「……不知火君?」

 そこで心配げに勇魚が顔を覗きこんでいるのがわかってハッとすると同時に「わりーな、考え事してたぜ!」と溌溂とした声を上げると大急ぎでパスタを呑み込む様に食し始める。

 静流が「つくも、すごいな」と感心した声を上げる横で勇魚は、

「そんな大急ぎで食べたら喉に詰まっちゃいますよ、不知火君?」

「安心しな、俺の喉は特別性だぜ!」

「不知火君が頑強なのは知っていますけど、早く食べるのはおすすめしませんよ?」

 困った様に微笑みながら勇魚はそう諫言を発した。

「おう、気を付けるぜ。それよか、どうするよ?」

「どうする、とは?」

「この後だよ、この後。ほれ、電車が何かトラブルか何かで動かせないって言ってるしよ」

「ああ……」

 そうなのだ。海へ行こうとしたところ、電車に何らかのトラブルがあったのか乗る事が出来ずに本日は立往生してしまったのである。ならばバスかタクシーという手もなくはないが、いささか距離が遠すぎる。帰りが遅くなりすぎる可能性があった。

 また一番の問題として、

「『聖僧院』の問題もあるし、下手に動き回るわけにもいきませんしね」

 聖僧院。

 それが勇魚と静流を悩ませる元凶足る組織の名前だそうだ。勇魚も諸国行脚をしている最中に接触した事が数度あるらしいのだが、これがまた危険な理念の組織である為に、九十九も眉をひそめた程である。所属するのは僧侶――しかし、ただの僧侶ではなく『人外滅殺』の理念を掲げる『破壊僧』と呼ばれる者達の巨大組織だそうだ。

 そんな危険な組織が相手として立ち塞がるのが現状なのだから、気を抜く事は出来ない。

 とはいえ気を詰めていても仕方がない為に街中を誘き出しと言う形でも散策してみたところ怪しい気配は無かったので今ではすっかり休日の遊び気分になりかけているが……。

「何にせよ警戒しながらっきゃねぇな。あいつらを意識して屋敷に引きこもり続けるなんてのは解決策としてありえねえし」

 静流の現状を考えるならば、籠城しても意味が無い。

 どうにか敵を打倒あるいは撤退に軌道修正しない限りは常に静流に危険が迫る可能性もある上に、勇魚だってここまで随伴した時点で目の敵にされている可能性がある。敵の一人をぶん殴ってしまった九十九も同様だ。

 如何にして、聖僧院を退けるか――それを思案しなくてはならない。

 そして静流のささやかな願いも叶えてやらなくては男が廃る話である。

「……お、そうだ静流」

「ん、何だつくも?」

 ぱくぱくとパスタを美味しそうに頬張る静流が唐突に九十九にかけられた声に反応して不思議そうに小首を傾げた。

「ほれ、今日は海まで行くの無理っぺーって言ったじゃんか」

「たー、そうだったな。残念……。うみ見たかったんだけどな」

 うみが見てみたい。

 それが静流のお願いだった。

 山村奥深くに住む静流だからこそ、海と言う場所をなんと一度も見たことが無かったらしい。その為に行きたいと言うのが彼女の希望だった。しかし今日は叶いそうにない。

「だからよ、代わりにっちゃ何なんだが――水族館行ってみるか?」

「すいぞくかん?」

 不思議そうにする静流とは裏腹に「ああ、なるほど!」と、勇魚は両手を合わせて納得した様子の笑顔を浮かべた。

「何だ、いさな。水族館て」

「海みたいな場所ですよ、静流ちゃん」

「湖ってやつか? それなら山でも見た事あるな……」

 海みたいな場所から湖を連想した様だ。しかし九十九は不敵に笑い否定する。

「違えな。甘いぜ、静流」

「なぬ……?」

「水族館ってのは、湖なんぞとはくらべものにならねぇ。何故なら、そこには大量の魚が泳いでいて、小さな海の如き景観になってんだからなあ!」

「バカな……! うみは一つしかないと訊いているのに……!?」

「考えてみな。山がありゃあ、人は砂場で泥を集めてちっせー山を作って遊ぶ幼少期。なら海を眺めた大人が海を作って遊ぼうって発想になるのくらい――わきゃねえぜ!」

「確かに……!」

 激震の静流を余所に勇魚が「規模が違い過ぎる気がしますけど、まあ大本は一緒なんでしょうか……」と苦笑を浮かべていた。

「その、すいぞくかんってのはどこにあるんだ、つくも……!」

「そりゃあな……意外な事にこの近隣なのさ!」

「そんな……海なんて見えなかったのにか……!」

「おう。今からテメェを連行してやるぜ――その小宇宙ならぬ小海原へな!」

 わくわくとドキドキの瞳をキラキラさせる静流目掛けて九十九は宣言する。

 目的地は決まると、三人はパスタとピザを美味しく平らげた後にデザートを注文し、美食を満喫した後に意気揚揚と店を後にしたのだった。


        3


 時間は大分過ぎてすっかり辺りが暗くなった頃。

 イタリアンレストラン【トラットリア遊佐】を後にし、水族館での楽しいひと時を済ませた三人は近隣の大きな公園へと足を運んでいた。

 九十九と勇魚、静流の三人は公園のベンチに腰掛けながら、自販機の飲み物を飲みながら穏やかな一時を過ごしていた。

「すごかったなー、広かったなー、アレが水族館かぁ……!」

 静流はキャッキャッと可愛らしい声ではしゃぐはしゃぐ。

 それだけ水族館が楽しかったと言う顕れである。

「水族館、凄かったですね、本当。上を魚が泳いでいく光景は壮観でした……♪」

「なー♪」

「佐伯も水族館初めてだったのか? その満足げな顔はよ?」

「いえ、私は今まで数回寄り道した事があります。でもお魚は好きなので」

「名前に魚ついてるもんな!」

 九十九がそうにこやかに告げると勇魚は苦笑交じりに「そうですね。ただ、勇魚の名前は魚由来ではないんですが……」と小さく訂正を入れてきたが、途中静流が興奮した様子で喋るもので綺麗に掻き消されてしまう。

「特にイルカはかしこかったなー!」

「おお、アイツもいい筋肉してやがったぜ。ジャンプがすげぇよな」

 その為、名前の由来を言おうとした勇魚は「哺乳類なんですよー……」と若干寂しげに呟いていたが二人の耳には届いていなかった。

 そうして少し静かに時間が流れて言った頃に静流がぽつりと呟く。

「今日、たのしかったな」

「お。そうか?」

「そうだ」

「それなら良かったですね、静流ちゃん」

「ん、いさなもありがとな」

 ニコリと笑顔を浮かべて静流は頷く。

「――こんなに楽しいのは久々だ。ウカ様に、いさなとつくもに出会えた事を感謝しないと」

 微かに哀愁を漂わせながらも口元に小さく笑みを湛えながら静流はぴょんっとベンチから立って、夜空を見上げた。

「んー、やわらい風だな。それにあたかい夜だ」

「静流?」

「今は話しかけちゃダメだからな、九十九。ウカ様へご報告なんだから」

「ウカ様……?」

 九十九が不思議そうにしながら勇魚を向くが勇魚も「亡くなった上弦狐の長、とかかもしれません」と独自の推測を述べるが、月夜を仰ぎながら祈る静流はどこか神秘的に輝いている様で話しかけるのもためらわれる程に静謐さを醸し出していた。

 だがやがて夜空の月を見ながら、

「きれいだなー♪」

 きゃっきゃっとはしゃぎ出すのを見て九十九は苦笑を浮かべる。

 なにせ都会の夜空はあまり星が見えないのだ。静流の様な山深くの場所の方がよほど、月夜は輝いて見えるだろうに。

「月なら山の方が良く見えそうなもんだけどな?」

「そうですね」

 けど、と微笑ましげな表情を浮かべながら勇魚は言った。

「やはり彼女達の様な上弦狐の種族にとってはどんな場所であれ月夜と言うのが特別なのではないでしょうか?」

「かもしんねぇな」

 そう言いながら二人は夜空を見上げた。

 真っ黒な宵闇の中にはぷかりと浮かぶ真ん丸な月が儚げながらも神々しく夜空に色彩を齎していた。その風情ある輝きは何時の時代も感動を禁じ得ないものだ。

 九十九は海を見ながら喜ぶ少女を見ながら、思った。

 また連れてきてやりてぇな、と。

 そして今度こそは昼間の青く爽快な海を見せつけてやろうと言う子供の如き反抗心を僅かに覗かせる九十九でもあった。


「――いやはや、呑気なものだな」


 そこで不意に、しゃらん、と言う清涼な音色が響いた。

 その音を耳にすると同時に九十九は即座に後ろを振り向く。

「仮にも命を狙われた身でよくもまあ、今こうしてはしゃいでいられるものだ」

 そこには一人の男がいた。

 僧侶がいた。袈裟姿の黒髪をロングヘアーにした顔立ちの整った男性だ。しかし目は鋭く細い糸目で何とも威圧的な感覚が拭い切れない。そして何よりも――嫌な気配がしてくるのだ。

「テメェ……」

 九十九はその装束を見ながら吼えた。

「聖僧院か!」

「如何にも」

 その言葉を皮切りに隣にいた勇魚は静流を後ろに庇う形で錫杖を構えた。九十九も二人を背にする形で拳を握り緊める。

「――やるつもりか?」

「当然」

「やめておけい。私は業平(ナリヒラ)よりも強いぞ?」

「そんな事知ったこっちゃねぇな。――そもそも業平が誰だか知らねぇや」

「……業平め、名乗る前に負けたのか、あ奴め」

 そこでその男は情けない、と言わんばかりに眉をひそめた。

寂光院(ジャッコウイン)業平――お前が倒した破壊僧の名だよ」

「へぇ、あの男そんな名前だったんか」

「おうとも。聖僧院の中でも格下なのは否定せんがな」

「へっ、道理で大した事ねぇはずだぜ」

「故に多少なり手強い一般人に負けたとて驚きはせんが――」

 だがしかし、と男は錫杖を突き付けながら、

「あ奴と私は相性の良い相棒でな――故に相棒を倒された礼くらいはしておかねばなるまいて」

「アイツと気が合うって時点でテメェの性根が知れるってもんだぜ」

 あの悪漢と相性が良い等と言う男の事だ。

 理知整然とした容貌と言動を併せ持とうが、その根幹はなにやらキナ臭い――そう直感で感じる九十九であった。

「随分な言われ様だな――我々は人に仇名す害虫を成敗する正義の集団であるぞ?」

「仇名す害虫だぁ?」

「そうとも」

 男は小さく頷いた後にその口元に凄絶な笑みを浮かべる。

「妖魔――百鬼夜行。奴ら魑魅魍魎の類は総じて悪だ。人の世に蔓延る病原菌の如き悪辣極まりない世界の腫瘍。古来より人々に汚らわしい毒牙を向ける悪逆卑劣の輩よ!」

 なればこそ、と男は呟き――高らかに告げる。

「我等『聖僧院』が存在するのだ! 古今東西その全ての悪鬼羅刹の畜生共を尽く! この聖なる法力を持ってして撃滅する! それこそが我等『聖僧院』と言う諸人の安寧を守護せし百戦錬磨の高僧共よ!」

 そう語る男の表情には確かな使命感――そしてその理念を崇高と信じる故の狂気による愉悦が滲み出ていた。

 なるほどな、と九十九は思う。

 勇魚から又聞きでしかなかったが――確かに語る目的には反吐が出ると感じる。それすなわち『妖怪を全て殲滅する』と言う事に集約するのだろう。なんとも過激な正義ではないか。

 そしてなによりも、

「ふざけんな」

「なに?」

「妖怪を全部撲滅するだ? 別に悪さばっかする妖怪ばっかってわけじゃねぇだろうが!」

「何故そう言い切れる?」

「言い切れるさ――いい奴もいりゃあ悪い奴もいる。一概に一括りになんざ出来るわけがねぇだろうが、どんな種族であろうとな! 事実、お前らが追ってるそこの静流だって見てみやがれ! こんなちんまりした、ちっさくて、ちっこくて、ひょろっこい、こぢんまりしたガキに何が出来る!」

 件の静流が若干こめかみに怒りマークを浮かべたが気付かない九十九である。

 同様に眼前の破壊僧もそんな事には気に掛けず、嘲笑で返す。

「邪知の輩だぞ? その見た目に惑わされるな――容姿以上に実年齢は高いだろう。そもそもにして妖怪が人をだまくらかすのは世の常よ。貴様謀られているのではないか?」

「んだと?」

「だから騙されているのだよ。そのあどけない容姿に心緩め、いい様に使われているに違いないと言うものだ」

 その言葉に静流が目尻に涙を浮かべて叫んだ。

「違う……! 静流、そんな事する気ない……!」

「いいや、信用ならないなぁ! 貴様ら妖魔はそうやって何人をも欺く悪辣の輩よ! 貴様たちの言動何一つが信頼に足るに値せんわ!」

 男はその表情に明確な嘲りを色濃く浮かべて言葉で叩き伏せる様に罵倒を吐く。

「その容姿で何名をだまくらかしてきた女狐よ。何名の男に媚を売った? いやいや、体も売ったか? その幼女の体躯を好む物好きもいるだろうからなぁ。はてさて何も知らぬ小娘の如き振る舞いをしながらいったい何人の男の味を知っているのやら――」

 その言葉一言一言で静流は目尻に涙を溜めていく。

 静流は幼い――そんな事は接していればわかるはずだ。しかし男は耳を貸す気配は微塵もない。その容姿は全てをだまくらかす道具にしか見ていないかの様に。そしてそんな男の言動に対して不知火九十九は――拳で持ってして答えた。

「加減に――その口、閉ざすんだな――この野郎がッ!」

 鋭い跳躍で一気に距離を縮め、その剛腕を力強く振り抜いた。

 しかし男は迫る拳に表情を変化させる事も無く、錫杖を軽く振った。

 そして短く一言。

「喝ッ」

「ごあっ!?」

 瞬間、九十九の全身をビリビリとした衝撃が駆け走った。空気がそのまま壁となって、そこに衝突したかの様な現象。それを前に九十九は辛そうに呻きながらも後方へ砂埃を巻き上げながら後ずさる。その様に些か僧侶は怪訝そうに眉をひそめて呟いた。

「……ふむ? 意外と強く通じたな。そこまで法力を込めたわけではなかったが……」

「いでで……今のは」

「言霊の一種です。気迫と言い換えても相違ないものですが――それでも中々に力が込められている様ですね……!」

 勇魚が九十九を心配する素振りを見せながら、何が起きたのかを説明する。

 言霊。即ち言葉の威力の具象化と言うわけだろう。それに法力を込める事で敵を跳ね除ける壁の様に展開したのだ、というのが勇魚の言だが。

 それだけであれだけ防がれるものなのか。

(わかっちゃいたけど、やっぱヤベェ敵だな……俺にとって)

 九十九は額を伝う冷や汗を拭い、眼前の敵の厄介さを、自分と言う存在に対して天敵とも言っていい程の存在であると密かに認識しながらも悟られまいと不敵な笑みを口元にたたえる。

 僧侶は呆れた表情を浮かべながら呟いた。

「なんだ、まだやる気か?」

「たりめぇだろう」

「――貴様が倒した業平から貴様の事は訊いている。どうにも些か常人離れした少年ではあるという旨をな」

「へぇ、喋れるぐらいには回復してたんだな」

「当然だ。六日もあれば自然回復である程度はな。そうでなくても法力で治癒も可能だ」

「その割にはその業平は一緒じゃねぇみてぇだけど?」

「生憎と私と業平のどちらもあれだけ大怪我までは治癒出来んでな。総本山の治癒専門の僧侶を呼ぶ形に留まったわ」

「何だ、回復使えないのかよ」

 勇魚とは大違いだな、と内心呟いた。

 彼女は見事な回復術の使い手だったからだ。癒しの御手と言うべきか――静流が怪我をしたときにも九十九の時でも温かな光と共に癒してくれた。それに対して正しく彼らは真逆。

「構わんさ――癒しなど私達には必要ない」

 何故ならば、と男は隙間を置いて告げる。

「我々は妖魔を殲滅するのがお仕事なのだからなーァ!」

 そこで途端に男は豹変したかの如く歪で醜悪な笑みを浮かべた。

 同時に所持していた錫杖が光を放つと、まるで鍍金が剥がれるかの如く弾け飛び、中から全く別種の代物が浮かび上がる――その姿は直刀と呼ばれる代物であった。

「おいおい、錫杖どうしやがったんだよ!」

「フハハ、アレは上塗りに過ぎん! あんな棒でたたくよりも、妖魔にはこの鋭く冷たい刃でその出自自体が業である事を理解させねばなるまいて! 肉を削ぎながら、骨を取り出し、狐の口に咥えさせしようか!」

「テメェも下劣な感性しやがって!」

 憤慨しながらも九十九は舌打ちを浮かべざる得ない。

 錫杖ならばまだしも獲物は刃物と化した。拳で普通に防ぎ切るのは難しい――否、厳密に言えば防げなくはないが不確定要素が多すぎた。故に彼は普段の戦いからから防戦の形へと変化せざるを得なかった。

「フハッ、やはり刃物は怖いか民間人!」

「俺としては喜々として刃物振ってくる僧侶が嫌で仕方ねぇかな!」

「言ってくれるじゃあないか!」

 そう言いながら男は懐から四枚の御札を取り出すと九十九目掛けて投擲した。

「オン!」

 そして男の言霊を受けて札は焔へと姿を転じる。

 しかし九十九はその炎に対して拳を握り緊め「ドラァ!」と吹き飛ばした。

「ふむ」

(火炎系は効きが悪いな、どういうわけか――業平の慈救咒も弾かれたと言うし。それは不思議な事だが、まあ、たまにそう言う性質の奴がいないわけではない)

 他に手もある事だしな、と男は内心で呟いて。

「オン・バザラ・ヤキシャ・ウン――」

「! ヤッベ……!」

 紡がれた真言を耳にして九十九は焦りを浮かべた。

 確か、この真言は――、

「火はまだしも、これならどうだ小僧」

 瞬間、眼前の男の所有する剣に雷鳴が轟いた。背中から放たれた光は雷を帯びて、その刀身に顕現する。刀身からは青白い雷電がバヂバヂと迸っていた。

 そして雷撃を纏った刀身が九十九目掛けて振り抜かれる――!

「チィ――ッ!」

 九十九は額に汗を浮かべて焦りを顔に滲ませた。

 この真言は拙い。ただでは済まない。

「させません!」

 そこで二人の間に一人の少女が割って入った。勇魚だ。

 彼女はその手に錫杖を携えると同時に、

「――喝ッ!!」

 祈る様に力強い叫びを発した。

 その轟く様な声に「ぬぐっ――!」と男は雷撃の剣を防がれ、仰け反った。そうしてその防壁の堅牢さに競り負けて後方へ吹き飛ばされる。

「ぐおおお……!!」

 しかし地面に手をついて跳躍し寸前で地面に転がる事だけは回避し体勢を立て直し、男はすぐさま眼前の勇魚を睨みつけた。その顔には驚愕の二文字が張り付いていた。

「貴様……!」

 只者では無い――そう感じた。

(私以上の言霊の威力。おおよそ逃げ回っていた少女とは思えないだけの力。確実に潜在能力と言う意味では上位の法力僧に劣らぬ実力を秘めているだと……!)

 息を切らせて汗を流す勇魚を見ながら忌々しげに渋面を浮かべる。

(なによりも金剛夜叉明王の言霊を込めた剣を防がれた――喝一発で。とんでもない法力ではないかこやつ――!)

 今までは、そんな片鱗見せてもいなかったと言うのにだ。

 土壇場に来て潜在能力の片鱗を開花させたと言う事なのか。はたまた――、

(いや、我々に追われながらも逃げ延びてきたと言う事ではさもありなん、か)

 予定が狂ったかもしれないな、と男は舌打ちする。

 簡単な殲滅作業であったはずだいらぬ手間を取られる形となりそうな気配に苛立ちが募ったが、かといって退くわけにもいくまい。

 ならば、と男は予定を変更した。

「よかろう。貴様の往生際の悪さに免じて多少猶予をくれてやろう」

「猶予……?」

 この案は通る筈だ。

 何故ならば少女は自分の攻撃を弾いたにも関わらず自信の様なものが伺えない。火事場の馬鹿力――一刻の奇跡に近いものと意識しているのだろう。

「ああ、猶予だ。本来であれば優勢な私が慈悲をくれてやると言っているのだ」

「……私は……!」

「まだやれるとでも? 手が震えているぞ? 酷い汗が出ているぞ?」

「っ……!」

「それに貴様は気付いていない様子だが――」

 男はそう言いながら勇魚の後方を指差す。

「頼りの男は今のに巻き添え喰ってのびているしな」

「不知火くぅん!?」

 ガーン、と勇魚が愕然とした。

 見れば確かに九十九が仰向けに転がって口から魂みたいなのが抜け出て『マッソォー!』と嬉しそうに力瘤を作っていた。男としても見ていて切ない光景であった。なにせ『喝ッ!!』と言った瞬間に男も弾かれたが九十九はボディブローを喰らった様な表情で吹き飛ばされたのだから。

(そう言う意味で未熟と言うものなのだろうがな)

 爆発的な力を放った代償と言うべきか。全体に言霊を発生させてしまったのだろう。

「わかったろう? 貴様に後は無いぞ?」

「……!」

「故に情けだ。――そこの狐といる時間を後二日だけくれてやろう」

「後、二日だけ……?」

「巷はゴールデンウィークと言う奴だからな。丁度よかろう」

「……何故そんな事を……?」

「情けだよ。みっともなく妖魔なんぞを守る奴の気など知れんが、それでも逃げ延びた事には敬意を表してやろうじゃあないか」

 そう言いながら男は呪文を唱える。すると剣に光がまとわりついて、はじめと同じ、錫杖の形へと変わっていった。

「だがな。逃げても無意味だと心得ておけ。なにせ、業平がやられた時点で別の応援も要請しているのだからな――その狐は死ぬさ。確実にな」

「そんなこと……!」

「させん、か? 出来るのか貴様の様な弱者に」

「っ……」

 悔しげに唇をかみしめて俯く勇魚。

 確かにそう言われても仕方がないと思ってしまった。逃げてばかり、守るにしたって未熟な若輩者なのだ。良し悪しの分別を除けば眼前の男は中々熟練した僧侶だろう。とすれば自分に勝利の目が無いのは――至極当然であった。

「そこの狐。貴様にも言っておこうか。妖魔が――人に――迷惑をかけるんじゃない屑が」

「え……」

 その言葉に静流が表情を蒼褪めさせる。

「貴様が関わった所為で、この女にそこの小僧が戦っているのだろう? いい御身分だなぁ、守られているというのは。そして二人がやられればトンズラでもしようと企んでいたのだろうが、当てが外れたなぁ? 貴様は逃げられんぞ?」

「そ、そんな事、静流は考えてなんかない……!」

「どーだかなぁ? 妖魔の言葉に信憑性は無いしなぁ、嘘っぽいなあ」

 歪な笑みを浮かべながら男は嘲笑を浮かべる。

「それ以上そんな罵倒を吐く事は――」

「許さないか? 許さないならばどうする? 私を倒してみるか、出来るのか、おじょーちゃーん? おやおやおや、腕が震えているぞ? 怖いのかなー?」

 あからさまに嘲った物言い。

 何と言う侮蔑だろうか。しかし、腕が震えている事実は紛れなく否定出来ようも無いもの悲しい現実で、

「私は……!」

 ――情けなかった。

 こんなに言われても何もできない自分が至極情けなくて目尻に涙が浮かんでしまう。泣いてはいけないのに――勇魚は今にも膝を崩してしまいそうな気持ちになる。

 そのすんでの所で、彼はその手を掴んだ。

「お前は情けなくなんかねぇんだぜ佐伯」

 その言葉にハッとする。

「不知火君……気が付いたんですか……?」

「おう、悪いな。ちょっと腕立て伏せしてたみてぇだわ」

 こんな局面でも九十九らしいセリフに少し微笑しながらも、申し訳なさそうに頭を下げながら勇魚は呟いた。

「いえ、私が加減出来なかったせいで……」

「へへ、確かに凄かったぜ。おかげで結構喰らっちまった」

 快活な笑みを浮かべながら九十九は勇魚を安心させるような笑顔を向けた後に、キッと視線を鋭くさせて男の方を見据える。

 男は嘆息を浮かべて呟いた。

「生憎だが、小僧今夜はこれまでだ」

「逃げるのかよ」

「ふん、満身創痍と言った風体のガキに言われても何とも思わんな」

 それでも追おうとする九十九を勇魚が心配そうな表情で押し留める。

 九十九は振り切ろうか迷ったが、その純粋な心配の表情に何かをいう事は出来ず、渋々と引き下がった。

「さて、では二日後にまた逢うとしよう。逃げは許さん。必ず、そこの狐を連れてこい。そうすれば貴様らは放免としてやろう。――我々はあくまで妖怪退治の正義集団なのだからな」

「テメェ……!」

「その呼ばわりも気に障るな。いや、そう言えば私も名乗っていなかったか」

 男は不敵な笑みを口元に浮かべて名乗りを上げた。

「私は『聖僧院』所属、破壊僧の宝戒寺(ホウカイジ)長徳(チョウトク)――妖魔を殲滅する正義の僧侶だ」

 しゃらん、と音を鳴らし男は次の言葉を最後に去って行った。

「場所は鵠沼伏見稲荷神社――そこで待つ。必ず来る事だな」

 残された九十九は唇を噛み締めて拳を激憤に握り緊める。

 何と言う無様な敗退か――懇願された願いに応えるにも能わない戦績に自噴に苛まされながら――しかし、それでも九十九は立ち上がる。

 まだ何もしていない。まだ力の限り立ち向かってなんかいないのだから。

「つくも……静流は……」

 不安そうに寄ってくる童女の頭に手を置いて、その大きな掌で優しく撫でる。

 静流は弱弱しい表情ながらも顔を上げて――彼の表情を仰いだ。

 悔しそうな顔をしていると思った。

 怒った顔で怒鳴るかとも考えた。

 だけれど、その面貌に宿る意思は全く違うもので、

「心配すんな。お前を、あんな奴らの好きになんかさせねぇよ」

 心強い声と意思を湧き上がらせながら彼は静流の顔を見定めていた。

 そして九十九は拳を握りしめる。

 幼い少女に恐怖と災禍を撒き散らした、連中を叩き伏し、そして少女の笑顔を守る為に。

 夜天の下で鬼気迫る決意を放ちながら。


        4


 同日夜。

 市内に於ける様々な激闘が交錯織り交ぜる中で、この場所、迎洋園家邸宅内部では一人のメイドが電話相手と談笑を交えていた。

「あら、ひじきさん。こんばんは♪」

 電話相手の声は実に美しく軽やかな声色をしている。その声を裏切らず、彼女自身の容姿も抜きん出て美しい事を、このメイド――親不孝通(オアフコウドオ)批自棄(ヒヤケ)は知っていた。

「よっす」

「今日は何か?」

「何かっつーか確認的な? まあ、今日街中でばったり出会ったついでに久々電話でもかけてみっかねー的なもんよ」

「あら、そうでしたか♪」

「ま、後は途中手伝ってもらったお礼も含めてな。あんがとーさん」

「いえいえ♪」

 律儀ですねー、と言う言葉に「だろ?」とふてぶてしく返す辺りが何とも彼女らしい。

「まあ、気にしないでくださいな♪ 私も前々から気になってはいた子を見れましたしね♪」

「おー、そうか。そりゃあ何よりだ。どーよ、ユミクロの感じは」

「そうですねー、面白いくらい素直な子って印象でしたね、あれはまた」

「からかえよな」

「承りました♪」

 ここで『からかって遊ぶなよ?』と苦言も示さずむしろ推奨するのが批自棄らしく、相手もまた実に豪胆な返答を寄越す女性であった。さりげなく日向が窮地に立たされていく。

「けれど本当に日向君、アレはまたエリカにとっては厄介極まりない性質の子で面白かったですねー♪ まさかエリカがあんなにたじたじに追い込まれるとは……♪ まあ、押しには弱かったりする子ではありますが♪」

「まあうちの龍之介とは別の意味で素直な奴だかんな。って言っても、私自身、アイツが恋愛事になるとあんなに好意を撒き散らして相手が終始一貫して真っ赤にされる程に厄介な奴だったとは微塵も思っちゃいなかったわけだが」

「ですねー♪ 天然も入っている辺りが更に性質悪いですね、あの子は♪」

 それにエリカに色々しちゃってるみたいですし♪ と、鈴の音転がす声でからかう様な言葉が発せられるが文字通り事実である。

 電話相手は学院で先日起きた出来事を事細かに知っているし、エリカがどんな事態に遭遇したのかも全て知っていた。誰かに聞いたわけでもないのに、自力で自在に出来事を理解してしまうオーバースペックを持つ彼女故の御業であると批自棄は思う限りだ。

 自分の様な特性とはまた別種の特性が電話相手にはあるのだ、と。

「何にしましても、エリカと関わり深くなりそうな子ですし、近いうちに私も少しお話してみる事としましょうかね」

「おお、そうなのか。まあ、適度に揉んでやってくれや」

「そうですねー、あの子楽しそうですし。エリカも一緒にいると尚、良さそうなんですが♪」

「悪戯好きだな、相変わらず」

「嫌ですね、そんな事ありませんよ♪ そう言うひじきさんは意外に過保護でしたけど♪」

「過保護じゃねーよ、ケッ」

「あら、照れてます?」

「うっせ」

 批自棄は怒気を含ませた声で照れ隠しにそう零す。

「まあ、今回に関しては過保護くらいで良かったと思いますけどね。いやー、驚きましたよ、街中でひじきさんを見かけた時は。学院の生徒数名を器用に暗殺暗殺……」

「暗殺じゃねーし、殺してねーし。のしただけだし」

「漫画みたいに山積みになってる場面は笑ってしまいましたよ?」

 微かにくすくす、と言う声が電話の向こうから零れてくる。

 電話相手が言う様に、批自棄は今日ある作業をしていたのだ。

 それは弦巻日向のデート完遂と言う作業であり、日向を陰ながら守っていたのである。何からと言えば実に多岐にわたるのだが、主な面子は日向のクラスメイトで嫉妬に駆られた数名、及びエリカに好意を抱き日向に害を成そうとしていた数十名にその他諸々……と、二人が洋服店に入る段階まで裏で行動していたのだ。その後は、先手を打てる形となり日向達から離れて影から不意を衝く殺法で仕留めていくという――。

 その最中に丁度買い物帰りで通りかかった電話の相手に遭遇したと言うわけだ。

 通話相手は批自棄の作業を少し助力した後に「それはまたちょっと見て来たいですね♪」と告げて独自の探索技術で居場所を特定し去っていったので、どんな場面を見たかはわからないが、この反応だと拙い場面等は無かった様子でほっとする批自棄だ。

 二人とも互いに二人それぞれの保護者的な立場故の行動と言う事になる。

「しかし、良かったですよ。エリカが親しく出来る男の子がいて♪」

「あー、まあ、男嫌いって訊くもんな新橋エリカは」

「ええ。まあ、日向君は随分と優しい子みたいだから良かったですが」

「そりゃ何よりだ」

 ニッと鋭い笑みを浮かべて批自棄は頷く。

「――っと、もうこんな時間ですね。私はそろそろ仕事へ戻らないといけませんので、そろそろ切らせて頂きますが……」

「ん、そうだな。こっちもそんなくらいだ。じゃあな、咲城。話せて良かったよ」

「いえいえ。こちらこそですよ♪ それでは♪」

 その言葉を最後に通話が途絶える。

 批自棄は軽く息を吐いた後に、

(咲城もユミクロに一定の関心あり、か。まあ、当然として……さて、逢ったとしてユミクロはどんな反応示すのかね)

 正直極めて楽しみである、と内心零す。

 咲城――彼女と顔を合わせて日向がどんな顔をするのか、実に面白そうだ。

 そこまで考えて批自棄は「ふむ、確かに若干過保護じみてっか」と自己判断してふっと微笑を浮かべた。

(――ま、ああいう放っておけないタイプが近くにいると私もおもしれーってなるのと同時に……ちょい、面倒みてやっかーってなってんだろうな精神構造的に)

 日向を取り巻く環境がどうなっていくのか何とも興味深い。

 記憶喪失と言うものを抱える自分にとっては現在が全て故の弊害か何かかもしれないな、と考えて思わずくすりと口の端を吊り上げた。

「ま、ご挨拶頑張れよユミクロ」

 事態を加速させる厄介な上司は端的にそう告げながら、

「――で、それはそれとして、YAはいったいどこで何油喰ってやがんだ?」

 柳眉を潜めてそう零す批自棄の視線の先には一通のメールがあった。

 差出人『ユミクロ』とあるメールにはこう書かれていた。

 ――ひじきさん、すいません。僕少し用事が出来てしまったみたいなので数日お屋敷に戻らないと思いますけど、心配しないでくださいね!

 まさかデート初日にデート相手の家に止まる程に進展したと言うわけでもないだろう。

 ともすれば、このメールの意味は果たして何なのか?

「ま」

 批自棄は素っ気なく携帯端末をポケットに入れながら呟く。

「どんな事態だろうが、踏ん張れる限りは踏ん張れよ、ユミクロ」

 その言葉を最後に批自棄はその部屋を後にするのだった。





第四章 後篇:微睡む日向に燃え盛る焔

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