第四章 前篇:朧に舞う理の枝、街並みに錯綜する喧噪
第四章 前篇:朧に舞う理の枝、街並みに錯綜する喧噪
1
ゴールデン・ウィークと言うのは実に華やかな連休だ。
街中へ繰り出して、少し目線を左右に逸らせば数人で行動する女子グループは楽しそうにはしゃいでいるし、動揺に男子のグループも休日を満喫していたり可愛い子を見つけては顔を振り向いたりと男の性をいかんなく発揮している。
そんな光景を一台の黒塗り警察車両からぽけーっと見守る男の姿があった。
(青春時代だねぇ……)
友人と共にある光景を煙草片手にしみじみ思う辺り、自分も歳喰ったものだ。
行き交う人々の姿に腕を組んで歩くカップルの姿をちらほらと見かければ、それもまた自分の学生時代を連想し想いを馳せ、草臥れたロングコートに身を包む警部、三刀屋軍司は小さくぽつりと呟いた。
「教職について女子高生と甘酸っぱい恋愛ってのも良かったかもなぁ」
「何、一発退職必然の夢、語ってんですか警部」
「あ。栗林」
「『あ。栗林』じゃないっすよ本当……」
警部補、栗林泗水は目の前で煙草の煙を吐き出す軍司の零した発言に呆れた様な苦笑いを浮かべながら「警部、買ってきましたよ」とコンビニの袋を手渡す。
「ん、サンキュな」
「まあ、買い出しくらいは何てことないっすけどね」
「そうか。たださ……」
中身をがさごそと漁りながら軍司は一言告げる。
「中身、全部アンパンと牛乳ってお前相変わらずなんなの?」
「警部。三刀屋警部。時代が変遷しようと警察ってのは何時だってその二つこそ至高ってことを忘れちゃあいけません」
「刑事ドラマの見過ぎだ阿呆」
愚痴を零しながら包装紙をびりっと破いて中身のふわふわとしたアンパンを取り出す。
美味しそうである。実に。だからこそ若干ムカつく軍司だが。
「……相変わらず変わり映えしねえ味だよな」
「そこがいいんすよぉ!」
口の中に広がるパンの素朴な味と餡子の美味しさは調和の取れた黄金の味だった。そこは軍司も認めよう。焼きそばパン、コロッケパン同様の世界にいる益荒男なのは首肯の一言で飾ってやっても過言じゃない。
そう、問題はアンパンではないのだ。
軍司の不満はそこではない。
(……栗林の奴、張り込みとか聞き込み調査の時、これしか買ってこねぇからな)
彼とコンビを組んでしばらく経つ軍司だが、泗水に任せると朝食も昼食も夕食も間食もアンパンと牛乳だ。アンパンに余程こだわりでもあるのか有名店の高級アンパンとかは一切買ってこずコンビニの大量生産品なのが泣けてきそうになる。牛乳だけ多種多様に買ってくるがアンパンは一度もない。
(まあ、俺自身、煙草吸ってる時点で味覚は壊滅的なのかもしんねぇが)
そう思えば味の違いは微々たる扱いになってしまうのやもしれないな、と自嘲を含めつつ軍司は牛乳を胃に流し込むと泗水へ一言投げ掛けた。
「で、どうだった聞き込みの方は」
「どうにも。見かけたうんぬんはあんま無いですねぇ」
「むしろ叩かれた、か?」
「……考慮してるんなら訊かないでくださいよ」
「悪い」
煙草を一つ取り出しながら軍司は悪びれる様子もなくそう零す。
若干疲労感漂う泗水の様子から大体察する事は出来るのだが、やはり多少は気を揉む羽目になった様だ。理由は言うまでもない。警察の失態――脱獄犯を取り逃がしている現状への叱責と言う奴だ。
事実、ここ最近一緒に行動して聞き込みをすればそういう場面は多々あった。
「だが一つくらい有益な情報は無かったのか?」
「特にはありませんでしたね。『大鎌持った男を見かけた』とか『大剣持った優男を見かけた』とか『魔女みたいな奴を見かけた』やら『綺麗な金色の馬見かけた』等々ありましたが」
「いや前半二人は銃刀法違反でしょっぴけそうな気配がするが……」
「僕もそうは思ったんですが、ほら最近横浜近辺ってその……色々いるでしょ警部? そのなんと言いますか……検挙とかスルーしときたい雰囲気のが」
「……そう言っちまえば確かにそれまでだな」
軍司は思わず肩をすくめた。
そう昨今になって横浜市周辺では目立つ風貌の人物が多々目撃されているのだ。何やら武器らしいものを所有している姿も目撃されたケースがあるらしいが、その対象は何でも動きが一般人ではなくさくっと逃げられてしまうとか言う噂が署内を跋扈している始末。
何時から横浜はそんなに混迷しているのだろうか、と思わなくもないが――、
「それでも警察として諸々対応しねぇとなんだよな」
「当たり前ですよ警部」
「で? 他は何か情報は無かったのか?」
「そうですね……ああ、そう言えば『ワンダホーがどうにかしてくれる』とか言う期待に満ちた感じの発言もありましたね」
「『ワンダホー』?」
なんだそりゃ、と軍司は眉をひそめるも、泗水自身「僕も良く分からないんですけどね」と一拍置いた後に、
「どうやらヒーローらしいです」
「……」
「正義のヒーローだそうですよ」
「……」
正義のヒーローと言うとアレだろうか。スーパーがつく男だったり、コウモリっぽい男だったりしているアレなのだろうか。いや、まさかな。軍司は眉間を抑えて頭を振った。
神奈川で何が起きているんだろうか。
三刀屋軍司は本当に深々とそう思ったのだ。そしておもむろに書類に目を配って「さってムンジュイックの奴はどこにいるのかねぇ」と完全に話題修正に入り始めた。
泗水が「スルーするんですね。まあ、いいですけど」と自分も若干明後日の視線を浮かべながらもコホンと咳払いした後に書類に目を通す。
そうして一言。
「しかし恐ろしい奴っすねムンジュイックの奴は」
「そうだな。見事に痕跡を残していないときたもんだ」
「ええ。見かけたとか言う報告はあんま見受けられないですからね」
肩を自分で軽く叩きながら泗水は悔しそうに呟く。
現在追っている脱獄犯にして連続殺人鬼マクシミリアーノ=ムンジュイックは、穏便に済む相手ではない事が察せられているのだ。護送車両から逃走して以降は足取りが実に難しいのである。端的に言ってしまえば重要な痕跡を残さない。
それであって強姦殺人は何件も起こしている始末の悪さ。
目撃情報と言えば一番初めに殺人容疑とは別件で起きた洋服店での窃盗、万引きくらいだろうか。そこで衣服を入手して姿を晦まして以降、金品は殺された被害者のものを使用していると思われる。
つまりは殺しの痕跡で追うしかないと言う後手の対応に歯噛みするのが現状なのだ。
「せめてアイツが殺す女の法則性でもありゃ先手を打てるかもしれないんだがな」
「それも無理そうっすよね」
軍司は小さく首肯する。
「今のとこ殺害されている被害者の特徴に類似性は全くない。つまりは、手当たり次第にいい女をひっかけてるってわけだな。何て女の敵なんだこの蛭野郎は」
「同感すけど、何人も愛人作ってる警部には言う権利ないっすよ」
泗水の言葉を華麗にスルーしつつ、軍司は改めて被害者の写真が掲載された資料に目を向けて特徴を確認していく。
「なんともな……どの女も綺麗系ばっか狙いやがって……もったいねぇな本当」
「ですねー……。ああ、いいな僕なんかじゃ手の届かないレベルに美人だ……!」
隣で泗水が若干恨めしそうに唇を噛んだ。
そんな様子に軍司はまさか、と思いながら、
「栗林、お前恋愛経験あるか?」
「片思い経験ならバリバリっす」
「両想い経験は?」
「警部。片思いってのが一番最高な状態なんすよ」
「告白経験は?」
「フ、告白なんて当たって砕けろ的な話なもんで」
「ふにゃちんが」
「黙れ二〇又!」
激昂された。
この様子は彼女いない歴=年齢と言う病状を患っているに違いないなあ、と軍司はしみじみ思いながら「婦警の娘とかどうよ。気になる奴いないん?」と書類に目を配りつつ尋ねると「婦警の皆さん……可愛いどころは全員彼氏持ちっすよどぐぞう……」と泣き言を零し始めた。
(婦警の一人、俺の愛人だぜ羨ましいだろ、とか言ったら刺されるか、この流れだと)
下手に火種を撒くまい。
そんな泗水が知ったら銃口が火を噴くぜ、的な事態になりかねないくらいメソメソしているので自慢しないでおこう、と小さく内心で頷いた。
「……ん?」
「どうした?」
そこで涙を零す泗水が不意に眉をひそめた。
「え? ああ、いえ……」
「歯切れ悪いな」
「ああすいません警部。ただ写真見てたら好みあるんだな程度の話で……」
「好み?」
「はい。まあ捜査に関して進展見込めないと思うんですけどね」
「まあ、一応話してみろ」
泗水は「ええと……」と小さく前置きして、
「資料にある女性全員まあ共通点は美人って事は間違いないです。年齢特徴共にバラバラでしいてあげるなら年齢は一〇代後半から三〇代前半くらい」
「そうだな。後は他に特筆する点は無いが」
「ええ。ただ何かぺらぺら捲ってたら被害者の女性全員何て言うか――気の強そうな美人ってイメージが湧いてきて……」
「なに?」
訝しげに眉をひそめつつも軍司はぱらぱらと書類を捲ってみる。
すると、
「……なるほどな、確かに」
軍事も納得いった様子で顎に手を添え呻いた。
被害者の写真を見ていくと、それはなるほど確かに泗水の言う通りの印象だった。写真からもどことなくわかるというべきか気の強そうな印象がある。目元がすっとしている為にそう言った印象を抱くのだろうか。
「気の強い女が好み、って事はないですかね警部!」
「それはあるかもしれねぇな。まあ、だとしてもそんな好みの問題上げても、捜査にゃあ対して意味がねぇが」
「ですよね」
泗水もわかっている様で苦笑を浮かべた。それはそうだ。気の強そうな女など探せば五万と出てくるだろうから。
「しかし好みの女狙いってのは違いないか。強姦魔ならなおの事」
何気なく軍司はそう零す。
個々人の異性の好みとなればマクシミリアーノもまた好みの女性を襲っていると言う線はあながち否定出来ない――と言うよりも、こんな事件を引き起こす殺人犯なのだ、むしろそういう事なのだろう。
「――問題は気の強そうなだけの女って事じゃない辺りが二重の意味で厄介だが、な」
「え?」
「見ろ」
そう言いながら軍司は被害者の資料に記載された文面の一つを指差す。
泗水は指差された先を見て「まじですか」と空笑いを浮かべていた。
「殺された女全員、武道経験者だ」
「嘘でしょう……」
そこに明記されている内容は、被害者の経歴だ。剣道、柔術、空手……と、それぞれの人物が護身用だろうか何らかの武術に通じている様だった。
愕然とする泗水の横で軍司は大きく息を吐く。
「当時、ムンジュイックを捕えた警官隊も相当苦戦を強いられたって訊いた事があるが……、こりゃあガチでヤバイ相手かもしれねぇな……」
被害者全員武術の経験者。
無論、修練の差は各人あったのだろうが――それでも一般男性よりかは強いだろう事は想像に難くない。
ともすれば。
そんな被害者達を強姦殺人などに持っていけたマクシミリアーノと言う男は。
(……ただの犯罪者よりもよっぽど強い危険人物ってか)
笑えねぇ、と言葉を吐き捨て歯噛みする。
そんな時にザザ、と言う機械音が車内に響いた。
車内に搭載してある無線機からの音である。
そしてその無線機から伝達された内容は、『マクシミリアーノの目撃情報及び潜伏先として怪しい場所がいくつか特定された』と言う旨の内容であり――その事を訊き終えるよりも先に三刀屋軍司は車のエンジンをかけ、現場へ向かっていたのだった。
2
街中の喧噪にぎやかな中。行き交う群衆の中に、とある一組の男女の姿があった。
どこか鬱屈とした表情でしょぼんと肩を落とす可愛い面立ちの少女に眼鏡をかけたハンサムな面貌の少年。安曇野瑠依と弓削日比朧の二人だ。
苦笑交じりに隣を歩く朧に対して涙目を浮かべつつ瑠依は言葉を発した。
「あうー……怖かったね、つきりゅ君……」
「そっかぁ? 別にそこまで怖いわけでも無かったんじゃないか瑠依?」
「そんな事ないよ怖かったよとっても!?」
絶対怖かったもん、と拗ねる瑠依に対して「あーはいはい」と苦笑を浮かべながら朧はなだめるべく頭を軽くぽんぽんと撫でる。
彼女が言う『怖かったね』と言うのが何を示すかと言うと、二人が見た話題のホラー映画の話であった。連休と言う事もあり、二人して午前早くから見に行った帰り道が御覧の通りの結果と相成ったというわけだ。
「って言うか怖い癖してなんでホラー映画が好きかな、瑠依ってばさ」
「うっ」
瑠依は気まずそうに視線を逸らしながら、
「だって、その……気にはなるじゃない的な?」
「怖いもの見たさって奴か」
「うー、まあ、そんなかんじかな多分……!」
瑠依は恥ずかしげに首肯する。
よくあるパターンだ。怖いけれど気にはなってしまうから見てしまう。軽度の好奇心と言える代物だろう。
「ま、映画ならいいけどね。ただ実物の廃墟とか行かない様にしとけー?」
「そんなとこいかないよ!」
行かないよ、というよりかは『いけないよ』が正しい様子だ。涙目で蒼褪めながら首を必死に振る様子は見事に瑠依の怖がりを表現していた。
「どーだかな。でも本当行くなよ? 行って祟られたんじゃ~って体験談良く訊くからさ。まあ興味本位で行くのはダメって話だよな」
「そうだね。相手も怒っちゃうだろうし……」
瑠依は頷いて返す。
こういう素直な優しさは相変わらず和むよなあ、と思う朧であった。
「……どしたの、つきりゅ君のほほんとして」
「いやあ、瑠依のキュートさにかわゆいなあ、と和んでるよーん」
「か、可愛くなんてないよっ」
そう言って真っ赤になった瑠依は否定する様に胸元の前で両手を必死に振ったりして、
「ほ、ほら私なんかよりよっぽど素敵な娘とかたくさんいるしね!」
と、あわあわしながらあっちこっちを指差しで示しだす。
華やかな茶髪の綺麗な少女だったり、しっとりとした鴉の濡れ羽色のロングヘアーをした美少女だったり確かに美少女と断言出来る姿が街並みにちらほら目撃された。実際、この辺りでは美人、美少女と言った女の子は結構目撃事例があるので、納得である。
「けどさ、瑠依も凄いって」
朧が頭をぽんぽんと撫でながらそう零すと「凄くないやい」と頬を膨らませながら返事が返ってきた。真っ赤だ。
「つきりゅ君の女たらしさんめ」
「フ、ハートキャッチの達人だからな。なんちて」
おどけてそう言うも「否定要素無いからね」とジト目で言われた。
何故だ、と朧は思ったが毎度の事なので深く考える事も無いだろうと区切る。
「まあ、その辺は冗談としてさ。この後どうする?」
「どうって?」
「いやあ、折角出掛けたんだし他にどっか行くとか、もう帰るとかさ」
「うーん、そうだね……」
「あ、ラブホ寄ってく?」
「コンビニ感覚で寄る場所じゃないよ!?」
そう怒鳴られた上で「ら、ラブホとか簡単に言うのは不謹慎!」、「え、エッチなのはいけないと思うんだよつきりゅ君!」、「……それとももう誰かと行ったりしてるの……!?」等々説教されたり怒られたり病まれかけたりしたので思わず「なんかすいません冗談した」と平伏する事となった朧である。
そうして一頻り終えた後に瑠依はぷんぷんとむくれながら、
「ほんとにもう、つきりゅ君も男の子なんだから」
「いやあ、男の性は仕方ないすんよ姉御」
「どんなキャラになってるの!? と、とりあえずそう言うエッチなとこ禁止! 言うのも禁止だよつきりゅ君! 特に妃奈ちゃんの前では教育的にもね!」
「へーい」
本当に了解してる……? と、疑い深げな視線を送られた朧だが「してるしてる」と一応の手振りで対応する。その後に改めて告げた。
「けどさ、結局どうする? 帰るか?」
「んー、そうだね……お昼が近いけど、お昼前には家戻りたいかもだし……」
でも折角お出かけしてるもんね、となにやらぶつぶつ呟く瑠依だったが不意に、
「そうだ!」
と明るい表情を浮かべて。
「決めた! つきりゅ君、洋服屋さん見に行ってもいい?」
「洋服屋?」
「うん、新しいお洋服でも探そうかなーって……ダメ?」
手を合わせながら上目使いにそう零す瑠依に「いや、いいよ」と朗らかに首肯する。
「ありがとうねー、つきりゅ君」
「いえいえ、ルイルイの為とあらば、この朧粉骨砕身の気概ですよってなもんさ」
「わー、騎士様みたいつきりゅ君ったら。……けどその綽名進行中だったんだね……」
「ところでサービスシーンはどれくらいオーケー?」
「そんなの無いよ!?」
「馬鹿を言うな、女の子と一緒に洋服屋! 着替え! そんなシチュエーションに直面するって言うのにそれがないと! あ、ちなみに今バストどれくらい?」
「もー、バカバカバカ、つきりゅ君のエッチさん! いいから行くよーもー」
真っ赤に染まった瑠依はぷんすかとしながらスタスタ歩き出してしまった。
恥ずかしさで若干怒らせてしまったらしい。
「そんな怒るなって瑠依」
「怒ってないもん」
「怒ってるじゃん」
「……だってつきりゅ君が破廉恥な事言うんだもん」
ぷぅ、と頬を膨らませ瑠依はいじけた様に告げる。
「えー。だって可愛い女の子の下着姿とか見たいのが男の性だからな」
「ドヤ顔で言う事じゃないよ、もー……」
恥ずかしげに顔を背けながら一人前をスタスタ歩いて行く瑠依を追う朧だったがふとある事に気付いて制止を促した。
「おい、瑠依。そっち裏道入っちまうぞ」
「いいもん、近道だもん」
「近道て、お前な。不良とか出るぞー」
朧が困った様子でそう零す。
こう言った裏道に入ると結構不良が屯している事があるのを朧は知っている為だ。と言うのも昨今この周辺では不良の影がちらほらしている為に遭遇率が比較的高いのである。
「不良さんなら、つきりゅ君に任せるね。べー、だっ」
可愛らしいあっかんべー見たと和みながらも朧は少し困っていた。
別に一般的な不良程度ならそれは穏便にあるいは手際よく対応する事は難しくはない。
問題は不良の元締め存在であるごく数名と遭遇する事が危険なのだ。
裏道が近道と言うのは間違いないだろうが、やはり安全に行ける場所こそ至高である。仕方ないとばかりに朧は追い掛けながら、
「――お化けとか出そうだよな、若干暗いし」
そう小声で零したら、ひぅっ、と言う小さな悲鳴が前方に響いた。
勝った。そう確信した瞬間である。
瑠依は若干蒼褪めた様子で前後左右をきょろきょろ目配せする。路地裏と言う事もあって多少暗がりとなっている事も相まってなるほど確かに不気味と言えば不気味である。
「へ、変な事言わないでよぉ、つきりゅ君……!」
「やだな、俺から変な事言うを取ったら何が残るのさ☆」
「つきりゅ君のバカぁ!」
ともかく今の一言で体が硬直した様で停止した瑠依の傍へ朧は近づきながら「まあまあ、そう言う訳でさ。さっさと街中に一旦戻ろうぜ」と手を広げながら近づいていく。
――その瞬間、言い知れぬ見えない壁をすり抜ける様な違和感に直面した。
「ん?」
肌にぴりっと駆け走った感触に朧は思わず眉をひそめる。
同時に何かが途端に変わった感覚を抱いた。
それは同時だった。
安曇野瑠依が唐突にふらりと力なく意識を失うのと同時。
「瑠依!?」
朧は即座に瑠依に駆け寄ってその身体を抱き留めた。アスファルトの地面に意識なく倒れると言うのは危険だった為に倒れる前に抱き締める事が出来たのにほっとする。
(けど何だ!? 何が起きた!? いや、起きてるんだ!?)
それは空気の一変っだった。
ただ普通に歩いていたはずの道の変質。陽光降り注ぐいつも通りの道筋が突如として色彩を明暗塗り分けて顕現する。明らかなまでにいつも通りからかけ離れて肌に感じっる何とも薄気味悪い感触に思わず朧は額から汗を一筋伝わせた。
「瑠依、瑠依」
幼馴染の名前を数回呼ぶも返事はなし。外傷があるわけではない、眠っているだけだ。だがしかし突如として眠りに陥るなど尋常な事では無い。ナルコレプシー、過眠症と言う突発的に睡眠に落ちてしまう奇病が存在はするが瑠依にそのような病状があったとは聞いた覚えはない事から、結論はやはり不可解の一言に尽きる。
ならば何が起きたと言うのか――。
「げげげ」
そこで耳に劈く様な声に朧は気付くと、即座に声の在った方へ振り向いた。
視線を向けた先は建物の三階相当の部分であった。店の看板として取り付けられている場所の上に腰を下ろしながら頬杖をつきこちらを見据えている。暗闇――と言う程では無い。しかし建物の影がうすらぼんやり差し込んでおり顔と思しき部分には影が差しこんでいた。
朧は瞬時に心を平静に切り替えて問い掛ける。
「――アンタ誰だい?」
敵愾心は僅かに潜めながら状況を確認する意味で尋ねかけた。瑠依がこうなった原因は相手側にあるのは状況的に間違いないにしても下手に刺激して事態が悪化するのは好ましくない、と朧は考える。
対する影は愉しげに笑いを堪える様子を見せつつ、パチパチと些細な拍手をした。
「ワオ、意外にもソー・クール。もっと挙動不審なボイスが飛ぶかと考えていたが」
「冷静じゃいられなくなる場面でこそ、冷静にってのが大事なのを知ってるからかな」
「げげ、成程成程。そいつは殊勝な事だ、グレイト」
サムズアップしながら相手は楽しそうにそう発した。
「まあ、納得と言えば納得だ。この空間内でそうやって眠りもせず対話も出来ている時点で、ユーはちょっとばかり外れている様子だからな」
その言葉に僅かばかり、朧は眉をひそめた。
そんな様子に相手はニッと口の橋を吊り上げる。
「ソーリー。今のは多少、ノンタッチだったかい?」
「いや、あんま気にしてはねーよ。ただ――それを訊いた時点で、あんたがやっぱ只者じゃあないってのを理解した。――だから俺も更に気張っとかないといけないねーと実感したまでの事だ」
朧はそこまで告げると静かに拳を握りしめた。右腕は拳を握りしめ、越本で構え、左腕は軽く手を開きながら相手へ向けつつ、気迫を練り上げる。
(――ふーむ、良いフォームだ。グレイト)
顎に手を当ててそう内心に零す。
(見た限りでは武術の心得があるのは間違いナッシング。空手寄りか――まあ、どちらにせよ鍛えられていると言ったところ)
朧から感じる気配に対してそう解釈をつける。
ただ、それだけではないだろう。武術に通じている――と一言で蹴りをつけるには、どうにも気になる節が影に潜むこの男にはあった。
(しかし一々気に掛ける必要性もまたナッシング)
なにせ、相手が如何に武術に通じていようとも、
(我が配下だけで十分に蹂躙されるというだけの話)
その言葉と同時にパンッと柏手を鳴らした。
「采配・配下招来」
瞬間に虚空に歪が浮かび上がると黒ずんだ穴が出現した。すると中からずるりと五体程の影が姿を現す。
「なっ……!」
朧が口元をひくつかせた。
見れば眼前に現れたのは化け物としか形容できない生物の姿であった。形容するならば牛が近しいのだろう、その怪物は牛にしては嫌に鋭い牙を生やしている上、妙に全体からまがまがしい気配を放出していた。
「さあ、ボーイ」
汗を伝わせる朧に対して男は大仰に両腕を広げた。
そこから滲み出るものは――悪意に彩られた力に他ならない。
「君が今から体験するのは否定のしようもない絶望だ。君は何も悪くない。この空間に足を踏み入れてしまった事も、そちらの少女が気を失っている事態も何もかも悪いのは私だ。今この場に置いて存在するのは性質の悪い通り魔に出会う様な不運、不幸でもない。これは運気に左右されるものではなく、純粋無二に私の悪逆卑劣としか言えない出来事だよ――そう、本当に悪いのは私であってユーは哀れな被害者に過ぎないのだボーイ。――さあ、何の説明も無しの理不尽をエンジョイするといい」
文字通り、脚色なしに説明不足の未知の事態。
「最高のディスピアをよろしくねーん!」
非道な事態を男は物凄く気に障る陽気な声で引き起こしたのだった。
合図とばかりのその声と同時に朧は瑠依をお姫様抱っこしながら駆け走った。後ろからは五体の怪物が『ヒャッハー!』とやけにテンション高めに追いかけてくる。
(くそっ。唐突に何ぞこりゃあ!?)
朧は瑠依を連れて走るも事態の把握に難儀していた。
先程まで談笑に勤しんでいただけのはずが、いきなり命の危機である。その内面の焦りは無理も無い事態であった。しかし、朧は、その自体であっても冷静さを手繰り寄せて状況の把握に奔走する。
(――状況整理だ)
逃げ道は何処か。朧が把握する限り、それがあるかどうかも怪しい。なにせ朧と瑠依はこの場所へ入った際に明らかに先程までと切り離されたかの様に突如静寂に切り替わったのだ。ともすればこの場所が普通の空間とは思えない――それはあの男が先程零した内容からも推論を浮かべられる。そう考えるならば逃げ道と言うのがあるかどうかは難しかった。
その上、今朧は瑠依を抱えて逃げているのだ。
それはつまり瑠依の安全を保障しつつ逃げ切ると言う難易度の高いの状況である。相手がおおよそ正体の把握もつかない存在――と言うよりも、漠然としかしていない状況では分が悪いことこの上ない。
(だが逃げてても意味がないってのがなぁ……! どうせ燃費切れ、速度負けでジリ貧だ!)
奥歯をグッと噛み締める。
朧は一般人よりも確かに鍛えている自負がある。
だが追いかけてくる化け物五体を相手にすると言うのは難しい。なによりも人と動物相手で同じ戦闘方法など通じないからだ。二足歩行の人間を柔術で投げ飛ばす事は可能だろうが、四足歩行動物を柔術で投げ飛ばすのは別の技量の話になってくる。
故に現状、弓削日比朧が取れる選択肢は多くない。
一般人より多少強くはある朧だが人一人を守る形で逃げ延びると言う選択肢を得られる強さでは無い事を自覚しながら、行動を見据える。
(なにか――何か打開策はないか。あいつはさっき『この空間』で言っていた以上は、漫画の見過ぎかもしれないが、結界じみたものがあると推測した方がいい。なら逃げる事は可能か否か。――否だ。なら、瑠依だけでも守り切る事は可能か否か。――否だ。それなら、この怪物どもを倒せる見込みはあるか。――くそ、最後の選択肢しかねぇか!)
しかし、それも瑠依を抱えていなければの話だ。
即ち、得られる選択肢など皆無に等しい。
しかし怪物たちは容赦なく迫りかかってきていた。五体の怪物が向かい来る中で、朧は滑り込む様に怪物と怪物の隙間へ走り込むと、一体の怪物の横っ腹にすれ違いざま、蹴りをお見舞いした。
(固……ッ)
ダメだ。こんな体勢の蹴りじゃ通じない。
やはり厳しいなんてレベルではない。そもそもこんな戦い方は朧には不向きなのだ。
そして朧が蹴りを弾かれた事で致命的な空白が生まれてしまっていた。戦闘に置いて生まれたその隙間に一体の怪物が背中から突貫にかかる。
(やべ……! やっぱ無理かよ……!)
頬に汗を垂らし歯噛みする刹那の瞬間。
朧はいつも浮かべていた余裕の表情にさっと切なそうな色合いを灯した。その時、朧は本気で死を覚悟したからだった。走馬灯――そう、呼べるものがざっと脳裏を駆け巡ってしまったのだ。これはいけない、とこの場面なのに朧は苦笑を零していた。
そして――口をついて一言が零れかける。
「ごめん、よ――」
しかしその言葉は凄まじい輝きと共に一刀両断される事となった。
――突如閃いた、それは雷鳴の嘶きにも似た疾風だった。
朧が覚悟を決めたその最中、見開く眼前にて繰り広げられたのは五体の怪物達の一体の体が真っ二つに寸断されゆく光景だ。切断面は鮮やかの一言で文字通りの真っ二つ。切り裂かれた怪物の一体は悲鳴も無く、屍へと変貌する。そこから更に続けざまに二体目掛けて鋭い斬撃と思しきものが頭上より降り注ぎ、その身体を寸断する――だが、二体は先程の一体の様に一撃では屠される事はなく、見事な足さばきを以て足一本程度の負傷で後退する。
しかしあからさまな警戒の姿勢は崩さず五体満足の残り二体も威嚇する様な警戒さを見せている。そしてそんな怪物たちを解き放った男はと言えば何やら斬撃が迫った方向へ視線を一瞥させると声も無くふっと闇に潜んでしまった。
――逃げたか。
朧がそう断じると同時に、上空から人影が一つ舞い降りてくる。
あれだけ上空からの飛来にも関わらず、人影はスタッという軽やかなまでの着地と同時に朧の目の前には薄暗闇に置いても輝きを誇る新緑の頭髪はふわりと待った。
こちらに向く端正な横顔は少女の損なわれぬ美しさが輝いており、不思議な色彩と形容できるだろう瞳は毅然とした力強さを秘めている。まさしく深層の令嬢と言えるだろう白のワンピースに黒のスカートはフリルで着飾っており、少女の高貴さを見事に表している。
そんなおおよそ一般人とは違う一人の美少女。
その容貌に朧は覚えがあり――少女はあの時と似たような表情で今度は朧へ対して言葉を投げ掛けてきたのだった。
「怪我はないかしら?」
「ややっ、君はこの前の御嬢さん! 相変わらず麗しいね!」
「うん、無さそうね」
朧のこの局面でのどこか間の抜ける返答にしらっと彼女――鷹架理枝は視線を怪物四体へ向けながらそう零す。
「まさかこんな所で出会うとは! これって運命かもしれないね理枝ちゃん!」
「こんなところで出会ったのはアタシも同感ではあるのだけれど、チャラチャラした態度は改めてもらえないかしらね?」
「メアド交換する?」
「呑気ッ! さっきまで窮地だったとは思えない程呑気ッ!」
携帯電話を取り出す朧をそう叱りつけてから「とにかくそちらの方を放さない様にしながら自分の身を守っていることです」そう毅然とした声で理枝は朧に告げる。
「この雑魚共は――アタシが狩り尽くすから」
その言葉と同時に理枝はすっと剣先を翳す。
何をか。――それは一振りの剣であった。厳かな森林を思わせる荘厳な深緑に彩られた見目鮮やかな剣。それを四体の怪物目掛けて水平に構える。
そこから流麗な動作の元に鋭い一閃を振るう!
「キシャア!」
それを見事な体捌きをもってして一体の怪物は左腕を負傷しながらも受け流してみせた。
「……」
「……」
まだやれる! と、ばかりに威嚇の体勢に入る怪物。
そんな光景を見ながら朧は一言。
「……狩れそう?」
「狩れるに決まっているでしょう!?」
そうは言うものの化け物一体だけでも中々見事な戦闘ぶりである。
事実、理枝は「手は抜きませんよ」と鋭い眼光と共に緊迫感を一際強く発した。彼女自身どうやら気軽に倒せる程に雑魚と言う存在ではないらしい。
そしてその言葉と気迫通りに理枝が携える刀剣からは一際激しい煌めきが放たれ始める。
「――行きます」
その言葉を以てして鷹架理枝の体躯は鳥の如く舞い踊った。
文字通りに飛躍すると大地に構える三体の化け物目掛け刀剣を閃かせた。一度ではなく六度に渡り断続的に繰り返された斬撃は疾風に身を包みながら唯の剣閃ではありえない距離までその斬撃を解き放つ。
上方から舞い降りる烈風はアスファルトの地面を穿つ程の勢いで土煙を撒き散らしながらけたたましい騒音を爆発させた。
「おいおいコレ、周辺大騒ぎになったりしないよな?」
朧が「うひゃー、たまげたー」と拍手しながらそう零すと「心配してる素振りじゃないわよね、それ」と着地しながら理枝はジト目で睨みつつそう零した。
「んな事ないよ心配してるって! それと理枝ちゃんかっくいー!」
「ちゃん付けされる覚えないのだけれども……そう言っているヒマもないわ、ねッ!」
若干不服げではあったが理枝は前方から迫る怪物相手に数度斬撃を放った。
一撃目はいなされるが、二度三度と渡る斬撃に『こなくそー!』とばかりに踏ん張ったが四度五度と繰り返し飛来する斬撃を受けて哀れにも怪物はまた一体蹴散らされる。
そして残された一体は仲間が全員やられた事で動揺した様子だったが、果敢にも「キシャアー!」と獰猛な叫びを上げながら突貫してくる。
対する理枝も同様に怪物目掛けて突進。
交錯する視線に互いの意思が介在し――怪物はその強靭な角を理枝目掛けて直進し、理枝はそれを刃でいなす。
そうして生まれた隙を容赦微塵もなく、連続する斬撃で穿ち貫いた――!
怪物は断末魔を上げると同時に地面を力なく数度転がって、やがて止まる。
痙攣するその体躯を見据えながら理枝は剣を携えて近づいていく。
「……キシャ、ア……」
体の半分以上が損壊しているがそれでも腕を力なく振るうさまにどこか感心を覚えながらも敵は敵だ。更にはもう絶命必死なのは間違いないだろう。生かしておく事自体、無慈悲と言えるだろう程に傷を負わせた。
「……これで最後ね」
理枝は簡素に呟きながら残された最後の一体にトドメを刺す。
それまでの一連の流は、傍から見ればまるで現実味の湧かない光景だった。何より倒された怪物達の死体が地面に溶け込む様にしみこむ様に消えていってしまう為に殊更、現実味を帯びない出来事だった。
しかし実際に彼女は剣を振るい、自分達を救ったのは言うまでもない現実。
朧は鈍く輝く剣の輝きに注視しながらも、瑠依を腕に抱えながら理枝の元を歩いてゆく。
対する理枝は少しばかり緊張、気まずさの様なものを滲ませながら、
「……無事?」
と、小声で尋ねかけた。
「うん、そりゃもー五体満足怪我いらずさッ☆」
「……」
返ってきた返答は実に陽気な反応だった。その先程までの緊迫さなど微塵も関係ないかの様な楽観の言動に理枝は思わず深々と嘆息を浮かべる。
「……貴方ね。もう少し、こう大仰な反応だったりしないものなの?」
「え。何で?」
「何でじゃないでしょ。アタシ、この通り剣振るってたわけ。どう考えたって普通とはかけ離れてるしさっきまで化け物相手にしてたし!」
「ああ、もっと怯えてるもんでしょ的な!」
ポン、と手を打って朧が納得を示す。
理枝はその通りだ、とばかりに首肯を示した。
「ええ、そうよ。それが駆け付けて声掛けたら嫌に気安いわ、反応も何かものっそ軽いわで気勢が削がれそうになりましたなわけよ!」
緊迫した空気の中に大急ぎで駆け付けてみれば助けた本人妙に反応が軽い気安い。
現在も剣を以て化け物をざっくざっく殺したと言う後の自分に対して臆した様子もまるで見せていない始末だ。
(バカなのか、大物なのか)
思わずこめかみに軽く手を当てる理枝に対して朧は「なーんだ、そんなこっちゃかー」とからから笑いを浮かべていたが、
「なら気にしなくていいさ」
ふっと声のトーンが少しだけ変化する。
「助けてくれた奴に怯えるなんて失礼な真似、俺はしたくないからね。理枝ちゃんが怪物倒した事なんてかっくいー、と思えども怖いなんて全く思ってないよ」
その言葉に理枝は目を見開いて刹那驚愕を露わにした。
自分が敵を殺戮する場面を目前で見て於きながら、微かにも怯える気配を見せなかった朧に対して理枝は少なからず驚いてしまう。一般人ならば、こんなシーンを見せれば大概後ずさり微かな畏怖を示すもの。
それが全く感じ取れないとは――、
「……なんか変わってるのね、貴方」
「よく言われるよ、うひょひょい☆」
「ほんっとー変わってらっしゃるわよね……」
侮蔑する様な理枝の視線に「はぁん! 理枝ちゃんの見下したような視線たまんない! うへへへへへ」と言う声を零す朧を尻目に理枝は朧が抱き抱える瑠依に一瞥すると、
「この子は?」
簡素に詳細を尋ねかけた。
「俺の幼馴染だね。安曇野瑠依」
「そ、安曇野さんね」
そう零すと理枝は静かに瑠依に手を翳した。
「『分析』」
その一言を起因として理枝の掌に光り輝く八芒星魔法陣が出現する。その八芒星が瑠依の体を巡る様に動くさまを見て朧は不思議そうに呟いた。
「何だい、こりゃ?」
「詳しい事は省くけれど、そうね。端的に言えば身体に異常がないかの検査みたいなもの、と例えるのが手っ取り早いのかしら?」
「なるほど」
つまりは身体検査。病院に於ける異常が無いかのスキャンの様なものなのだろうと朧は理解する。そこに組み込まれているのがどういったものかまでは流石にわからないが、魔法に近しいもののようだ。
「……驚きが少ないのね?」
そんな平成とした様子に理枝が小さく呟く。
「まあ、斬撃が飛ぶ剣を見たからさ。こういうのくらいあるかなーってね」
「騒がれないのは煩わしくなくていいけれど、逆にこうも反応が薄いとそれはそれで驚きを禁じ得ないものね」
まあいいわ、と零し、
「この子には特に何らかの異常はないみたいね」
「そっか。そいつは何よりだな」
朧は安堵の息を発した。
外傷と呼べるものは確かに喰らわせていなかったが、自分が目を放した一番初めがあっただけにその時点で何かされていた、という可能性は無下には出来ずにいたが、理枝の一言にようやく胸を撫で下ろせるというものだ。
しかし、それは一息つくというものでしかない。
「それでさ理枝ちゃん」
朧が不意に発した声が明確に重いトーンに変化している事を理解して神妙な面立ちを浮かべながら理枝は静かに反応を示した。
「……何か?」
「あいつら――いや、あいつは何者か知っているのかい?」
「……」
理枝は数秒の間、沈黙を守った後に、
「さっきまで戦っていた化け物然り、先に姿を消した本体然りで言わせてもらえば――」
その言葉を発した。
朧を明確に非日常へと踏み入れさせる、その単語を。
「――『天魔』。それがあいつらの正体」
朧は真剣な表情を浮かべながら「……天魔?」と言葉を復唱する。
「ええ。そして私達――アタシは、その『天魔』を狩る者、と言う感じですかしら」
あの化け物を、か。
朧はおおよその予測をつけていたとはいえ、改めて語られてしまうとなんとも日常からかけ離れた様な内容なのに動揺を抱く。あの配下の怪物ですら、相当強靭な、人間を軽く殺せそうな存在だったのに対して本体はおそらく更に上――ともすると、目の前の少女は、鷹架理枝と言う少女は一体どう言った存在だと言うのだろうか。
そして何よりも、
「いったいこの街で何が起ころうとしてるんだ……?」
あんな化け物が出現するとはただ事ではない。朧は額から汗を伝わせる。
何か確実に厄介な事が起ころうとしていると言う予感が沸々と湧いてくるのだ。
「それに関しては、まだ不明でしてよ」
そう言いながら理枝は持っていた刀剣を鞘へ押し込める。
「並びに、これ以上は関与しない方がいいわね、貴方は。現時点は被害者――その立場のまま今の出来事は忘れて普段通りの毎日へ戻った方がよくてよ」
「いつもへ、か……」
「ええ。あの天魔の事は私達に任せなさい。安心して。必ずどうにかしてみせるもの」
そう心強い笑みを浮かべながら理枝は静かに歩き出していく。
その背中をこっそり追随していく。
「……」
「……」
「……何故、同じ方向へ歩いてくるの?」
「いやね、理枝ちゃん。まことに申し訳ないんだけど、理枝ちゃんの一件に関わらせてもらいたくってさ」
「バカを言いなさい。常人の手に負える事では無くてよ?」
理枝が明確に不服そうな表情で朧へ諫言する。
しかし朧は首を振って、
「いや、そう言う訳にはいかないよ。なんせ瑠依が危険な目に遭ったのは間違いないし、今までの話を総合すると、この街で何か危険な事が起こる予兆があるってんなら――俺は守らなくちゃならない。自分の住むこの街を、さ」
真剣な光を瞳に灯しながら、そう告げる朧。
しかし理枝はそれでも首を左右に振って否定する。
「いえ、ダメね。貴方が関わっても死ぬだけよ」
「死ぬ覚悟で挑めばどうにかなったりは――」
「しなくてよ?」
「だよねー」
あっけらかんとした反応の朧に対して理枝は大きく溜息を吐いて、
「何を言ったところで一般人の貴方を巻き込む選択肢は無いわ。だから悪いけれど――この辺りで姿を晦まさせてもらいましょうか」
そう零した瞬間に理枝は大きく飛躍した。
そしてビルの壁を数回跳ねて屋上まで一気に到達する。相変わらずだが常人に出来る技では無い事に感心を覚えてしまう程だ。そうして屋上へ上った理枝は「貴方の心意気は受け取っておきましょう。とても勇敢であったと。それじゃあ」と、零して去って行ってしまう。
――なので必死に追いかけてみるのが朧であった。
「まあまあ、そう言わずにさあ☆」
「――は!?」
思わずバッと振り返った。
自分の後方から声が聞こえる事態に理枝は驚愕を浮かべて振り返ると、そこには瑠依を抱えてにこにこ笑顔の朧がいた。
(――おかしい。ありえない、いくらなんでも。そこまで高くないビルとはいえ、一般人が昇ってこられる高さじゃないし、こんなにも早く昇ってこられるわけがない……!)
「貴方……いったい、どうやって……? 何者……?」
「何者か……」
フ、と口元に微笑を浮かべて、
「今この時より、理枝ちゃんのストーカーだよ、と宣言してやるとも!」
「はい!?」
そうして。
その後、街中を必死で逃げる一般人を危険な目に合わせない崇高な精神を抱く少女の理枝と、瑠依を担ぎながら追いかける話に加えてくれと主張する朧による実にシュールな追いかけっこの構図が展開される事となるのであった。
3
街並みから、そう遠くない解体工事が近い廃墟ビル。
周囲の明るさとは、一つ変わって仄暗さを纏った、この場所では五十名近くの警察官が集っていた。その中には、マフィアの様な面貌の刑事である軍司の姿もある。隣にはもう一人別の警部と思しき姿もある。
そんな中で一人の警察官が先程、駆け付けた軍司に告げた。
「警部。此処が連絡があった廃屋です」
泗水の言葉に軍司は「如何にもって感じの場所じゃねぇか」とタバコの煙を吐き出しながら厳しい表情で呟いた。
「昼間っから発情してやがる蛭が」
「人質がいる可能性は高いと思われますけど、どうしますか?」
「生きてるんなら最優先――死んでるんなら冥福を祈るっきゃねぇな」
悔しげに渋面を浮かべながら軍司は告げる。
ここで見かけたと言う情報を元に足を運んだわけだが、中に女性が監禁されていると言うケースを無下には出来ない。一人二人、連れ込まれていると言う可能性があるからだ。
「だが足踏みしててもしょうがねぇ。お前ら、突入するぞ」
「応援を待たなくても構わんのか?」
隣の刑事が確認の言葉を発する。その意味を理解しながら、軍司は頷いて返す。
「応援待っている間に気付かれても困らぁな。それに人数自体は多すぎても仕方がねぇ」
ざっと見渡せば駆け付けた警察官が五十名はいる。
おおよそ最低ラインの人数である。これ以上は流石に行動を気付かれかねない。その為にパトカーも警察車両もここより少し離れた場所へ置いてあるのだ。同様に他の警察官もここより離れたところに待機してもらっており逃げられた場合に備えている。
「お前達は裏へ回って包囲しろ。俺達は突入する。もし窓から飛び出てきたら確保だ」
『ハッ!』
数名の警官を建物を包囲する形に配置させた後に、軍司は拳銃を取り出した。
「行くぜ、栗林」
「了解っす」
警部補の言葉を聞き届けると軍司は足音を立てない様に静かに建物内へ潜入すると早足で内部を駆け走った。次々と警察官の突入部隊が後を続く中で、軍司は一つの扉へと辿り着く。そこに耳を当ててみると微かな声が漏れているのが感じられた。
ジェスチャーで仲間を呼び集めると、指を三本立て合図を送る。
そして一本ずつ減らしていき――、
「警察だ!」
その怒声と共に雪崩込む様に警官隊が部屋の奥へと侵入した。
その声を聞き届けると同時に「オヤマァ」と言う声が響く。
「ビンゴ……ムンジュイックだな?」
そこには件の受刑者、マクシミリアーノの姿があった。
だがしかし――それだけではない。それだけでは、残念ながらなかった。彼のすぐそばには服をひん剥かれた女性の姿があった。柱に磔にされる形で白目を浮かべている――が、まだ息はある様子だ。しかし。息はあったとしてもその無惨な在り様には目を瞑りたくなる程に苛烈な暴行の痕跡がある。指は数本折られており、片足も骨折、腹部周辺にはおびただしい血の痕跡があり、胸元は大きく引っかかれた様に血が滲んでいた。軍司は冷静さを保ちながらも人として義憤の感情をそのままにマクシミリアーノへ向けた。
「如何にもでございます」
相対するマクシミリアーノは穏やかな笑みさえ浮かべて恭しく礼をする。
「私が逃げ出した後に発見した警察は貴方達が初めてでございますよ」
「そうかい、そりゃあどうもな」
拳銃を構えながら軍司は告げた。
「ともあれ、まずはそこの女性を解放しろ」
「解放ですか――それは無理な話でございますな」
そう言うとマクシミリアーノは僅かな迷いも無く、女性の顔面に手の平を叩き込んだ。そのあまりにも自然な――迷いすら浮かべない動作に警官隊が戦慄を浮かべる。しかし、何よりも揃強いのはその剛腕だ。
「嘘だろ……」
アイアンクローの様な手の形で叩き込まれた女性の顔面は――四散していた。
最早女性の顔とは識別出来ない程に肉塊へと変貌してしまっており、全身はひくひくと歪な痙攣を起こしていた。それだけの膂力で叩き付けたという事なのだろう、だがしかし、ただの一般人に出せる様な破壊力ではない。人間の頭部、頭がい骨の固さは並大抵ではないはずだ。
「私が処女を奪った以上は私のモノと言うものでございましょう? それを解放せよなどとは無粋極まりない申し付けではありますまいか?」
そんな自分勝手な弁を述べながらぬちゃりとした音を滴らせ、陥没した顔面から手を引きぬいた。その手には頭蓋骨の破片と思しきものが突き刺さっている事から、彼が人間であると言う事を確信させると同時に――畏怖を禁じ得ない気持ちになる。
下手に人間離れしていないだけ戦慄を煽った。
「――容赦はしねぇぞムンジュイック」
「何がでございましょう?」
怒気を孕ませた言葉にマクシミリアーノは平然とした佇まいで眉をひそめる素振りを見せつつ、さも不思議そうなワザとらしい様子で尋ね返した。
その事に憤りを抱きながらも冷静に勤める努力をしながら怒号を発する。
「人質として生きていた女を殺した! その時点でお前を守るものなんざ何もねぇと言う事を理解しやがれ! 撃つぞ!」
「撃てばよろしいかと思いますよ?」
ですが、と人差し指をちっちっと振った。
「一つ誤解を解いておきたいのですが、私を守るものは、得てして、何も人質等と言う無粋なものにはございませんよ――警部さん」
その言葉を残して――マクシミリアーノの姿はフッと軍司の視界から、まるで陽炎のごとく消えうせた。
「なに――!?」
「警部! 左へ跳んでくださいっす!」
「ちぃ――!」
それは泗水の言葉を信じての行動であった。耳にした声を信じて軍司は左へ跳躍する。すると見えた。理解した。軍司がいた場所目掛けてまるで地面を這う様にいっそ滑らかささえ感じる動きで滑るごとく床すれすれを移動するマクシミリアーノの姿がそこにはあった。
「この人間離れの変態蛭が!」
チャキ、と銃を構えて二発発砲する。
「それは思い違いと言うものにございます――貴方は人間の限界を知らないだけでございましょう? 人間と言う生物が至る事が出来る領域の奥深さ。深淵の底知れなさを――」
しかし、それをマクシミリアーノは両手を恐ろしい程素早く平泳ぎの様に水を掻き分ける動作で振り抜くと同時にギンガン、と言う弾丸が、何かに弾かれた様な音が二つ奏でられる。
「銃弾弾きやがっただと!?」
「警部!」
泗水がその様子に汗を浮かべて憔悴する。
「常人の動きではないな。構わん、発砲しろ!」
もう一人の警部が指令を下す。
警官隊も尋常では無い動きの受刑者が恐ろしいのだろう、即座に拳銃を構えて発砲する。しかし恐ろしい事にマクシミリアーノは「ニョホホホホホホホ」と言う笑い声を上げながら滑る様な動作でその銃撃を回避してみせた。
「速い――え、消えた?」
「消えたんじゃねぇ、俺の時と同じだ逃げろ栗林!」
「貴方は些か遅いですなぁ」
「え――」
栗林はその声が聞えた方へ視線を――真下へ視線を向けた。
そこからはフッと突き上げてくる掌底の影があった。
そして襲い来る顎を打ち抜く様な打撃。
「栗林!」
「ニョホ、意外と頑張りましたかな?」
「――!」
しかし褒められるべきは泗水の咄嗟の動作であった。
あの剛腕の一撃を喰らわない為に寸前で自分から顎を跳ね上げたのだ。それにより衝撃と言うものは大半こなかった。しかし余波の様なダメージが顎を襲って思わず目じりに涙が浮かぶもこれだけで済ませられた事には幸いであったと言えるだろう。
「ムンジュイック!」
軍司は一発発砲する。
「ニョホホホ」
しかし当たる気配はなくマクシミリアーノは後方へ回転しながら避けてみせた。
その上で再び鋭い跳躍をすると今度は軍司へ迫り来る。
(何なんだコイツの異様なまでの鋭さは……!)
一介の殺人犯の動きを越えている。
軍司はそう評した程だ。視界の隙を衝く様な地べたを滑る動きといい、ただの殺人犯の動きでは無い――そう戦闘慣れしているとさえ思えた程だ。
「ひょわっ!」
そして寸前まで迫られてしまい攻撃を許す。
喉仏を狙う一撃を軍司は右手を犠牲に防いだ。その瞬間に右手に酷い鈍痛が走るが、直撃していれば、重傷だったのは想像に難くない。絶命の危険性も無下に出来ない程だ。
「ぐっ……!」
「おや」
マクシミリアーノは意外そうに目をしばたかせた。
「てっきり腕が爆ぜるくらいは行くかと思いましたが――なんとその程度で済むとは」
「ハッ、おまわりさん舐めんなよ犯罪者」
「ですな。やはり中々舐められない御仁と言うのは多いもの。相手取るのも手間でございますしなあ、ニョッホッホッホ」
その言葉を紡ぐとマクシミリアーノは軍司の肩を掴むと、力いっぱいに警官隊の方へ放り投げた。しまった、と軍司の口が動く。
「ではごきげんよう」
その言葉の意味するところが理解出来てしまう。
マクシミリアーノは軍司が警官隊に衝突して生まれた隙をついて部屋の窓へ走ると、窓を突き破って外へと跳躍して逃げ出したのである。そしてついで聞こえるのは発砲音と警官の悲鳴であった。
「俺に構うな!」
その声に警官隊はすぐさま窓際へ向かうが、
「ターゲット、いません!」
「くそ! どんだけすばしっこいんだアイツは!」
返ってきたのは逃げられたと言う事実だけ。
負傷した腕を抑えながら軍司は地団太を踏む。
(そして何者なんだアイツは……あんなのを捕まえた警官も何者だって話だし……だあ、くそ考えてても仕方がねぇ!)
頭を振って軍司は指揮を出す。
「お前ら追え! 速いと言っても人間だ、バテもするはずだ。近くにいるうちに探し出すしかねぇ、行くぞ!」
軍司が発した、その声と共に警官隊は各々頷くともう一人の警部主導の下で廃屋から外へ一気に駆け出していく。
そんな彼らの背中を見据えながら軍司は隣に寄って来た泗水を一瞥した後に小さく呟いた。
「無事か?」
「ええ、なんとか。けどあれだけ強いって反則っすよ……」
「ああ、俺も驚いた。武術でもかじってやがったのかアイツは?」
「どうでしょうね、そういう経歴は調書にありませんでしたが」
「なら我流か」
なんにせよ強敵だ。
他の捜索している警官隊でもどうなるかわからない。玄人に挑む素人の様にあしらわれてしまったと言えるだろう。しかし、それでも。
「警察がヘタレちゃいかんよな」
「ですね」
「行くぞ、栗林」
警察の矜持がある。
軍司は泗水と共に再び犯罪者の追跡を始めるのだった。
「――やれやれ」
ゆらり、と影を纏うかの様な流麗な動きを以てして歩くマクシミリアーノは仄かな苦笑を口元に浮かべながら両肩をコキコキ、と鳴らす。
「相も変わらず、警察と言うのは全く舐めてかかれませぬなあ」
居場所を突き止めた事自体もそうだが、自分の動きに翻弄されつつも喰らいついてきた辺り、やはり日ごろの鍛錬の賜物だろう。日本の警察は優秀だ、と小さく笑む。
「まあ、初期行動が杜撰と言うケースも多々ありますが――」
始めの一手で失態を犯すと言うケースも多量にある。
だが流石、今回の様な警察の失態を拭う為の行動は素早いものだ。自分を確実に捕縛する為に随分と大量の警察官を配置しているのは言うまでもない。事実多少、視線を巡らせてしまえばところかしこに警察の影があったのを、ここ数日で認識している。
(ですが、ものはやりよう、と言う言葉もありまして)
そう内心で零しながらマクシミリアーノはすっと顔に手を当てた。
すると滲み出る狂気は霧散し、手を離した時には、その顔には人のよさそうな柔和な笑顔が浮かんでいた。まるでごく普通の一般人の様な穏やかさだ。
常に狂気に走った雰囲気を纏わせて潜伏するわけではない。
髪型、顔の雰囲気を変えてしまえば、面識のない相手には、テレビで映る犯罪者の写真とは比較しようもない事となる。
後は街中の雑踏に紛れて、また周囲を攪乱し、気に入った獲物を狙い澄まして、喰らう。
そこまで考えながら彼は歩いて行き、街角を曲がると、そこで不意にドン、と言う軽い衝撃に見舞われた。瞬間ふわりと香る柑橘系の香りに「おや」と訝しむ様な表情を浮かべてしまうが、自分が誰かに衝突したのだと理解して思わず鼻白む。
しかし、目に飛び込んできた光景を見てなんとも微笑ましい気持ちに切り替わった。
そこにあった光景は自分が衝突してしまった少女を庇う形で抱き留めていた少年――若いカップルの光景だった。鮮やかな茶髪を持つ綺麗な少女に、女性的な面貌だが、彼女を抱き締めて顔を赤らめている辺り男の子なのだろう青髪の少年の姿があった。
その少年は自分を見ながら何故か小首を傾げているのが、僅かに気になったが臆面には出さないで自然体を維持する。可能性は低いが自分が犯罪者と気付かれている確率を考慮した。
対する少女は抱き締められている事に気付いて沸騰するかの様に真っ赤に染まりながら「あ。すいません」と申し訳なさそうに謝罪してくる。
恥ずかしいだろうに、すぐ離れない辺りは思考が追い付いていないのと、少年が抱き締めてて離れられない気恥ずかしさによるものなのだろう、と理解して微笑してしまいそうになる。そんな事を考えながらマクシミリアーノはそっと頭を振りながら会釈する。
「いえいえ。こちらこそ申し訳ございませんなデートの最中に」
折角のデート中に悪い事をした、と。
「ぶつかってしまって真に申し訳ございません」
そう、零しながら軽く会釈をしてから「ではこれで失礼を」と述べて、その場を去る。
背中を向けた後方からはカップルの和やかな会話が耳に届いてきて、随分と初々しいカップルなのだな、と微笑を再度浮かべた。
そしてその表情が微かに恐ろしさを伴って変貌する。
(実に微笑ましいカップルでございました。――そして実に美しい少女だ)
陽光に華やぐ生来の明るい茶髪の色彩。
透ける様な白い肌に、ハリのある肌、整った面立ちに、素晴らしいスタイル。まず間違いなく自分が犯してきた女たちと比べて一つ抜きん出た容貌の美少女だった。あの年齢ですでに、と言うのはなんとも素晴らしい。
(なにより、あのどこか強気そうな印象がまた、いい。実にそそられる)
それが恋人と共にいて、そしてとても幸せそうにしているのならば。
光り輝いている――と、形容して十二分。
そこまで思考してマクシミリアーノは即断する。
――次の標的は、あの少女にするとしましょうか。
脳は暴走し、体躯は震え、その在り方は醜悪に飲まれる。
血の一滴まで飲み干す、痺れる毒を持った蛭と言う狂気の産物へと。
男は陽炎揺らぐ様な悪辣さを滲み出しながら周囲の雑踏に紛れて、消えて行った。
4
その光景は傍目に見てしまえば、さながら何処にでもある家族の様なものだった。
楽しそうにはしゃぐ一人の童女。その下で童女を支える逞しい体躯の巨漢の青年。そして青年の横で微笑ましそうに、同時に苦笑をふと浮かべている貞淑な妻の如き和装の美少女。孫う事無く休日のいい家族の様であった。
しかし実際は、
「ター、つくもっ、つくもっ。アソコは何だー?」
「おー、あそこか? ありゃあゲーセンだな」
「げーせん? 何か派手でいー感じだな!」
「寄ってっか?」
「んー、……いい。外から眺めてるだけで満足っ」
「はは、そこはそうなんだな」
「静流ちゃんもまだ騒がしいのには慣れていませんから」
「だろな。それに静流ちっせーし、迷子になるかもだもんな!」
「た、たー。迷子なんてならないっ」
「どうだかな。迷子にならねーよう手繋いでおかねぇとかもな」
「あ、では、私も♪」
「たー、いい、恥ずかしいからやめよ?」
見たまんま和やかの一言だった。
一人の童女に対して接する一組の男女のさまは実に和やかであった。
青年の肩に跨る白い和装の少女は焔魔堂町静流。きゃっきゃっとはしゃぐと言うよりはどこかわんぱく小僧のそれを感じさせるあどけない顔立ちで、大きくくりくりとした瞳の色は鮮やかな黄緑色。そしてその頭髪は脱色したものでなければ染めたものでもない天然の白髪だ。
「そんな事言っても、私と出会った時も迷子同然でしたし平気でしょうか?」
「ター、それ言うな、いさなっ! 静流の鼻を甘くみるなーっ!」
「はいはい、そうでしたね。ふふっ♪」
横に控える少女は花の様に笑う。
将来確実に花開く容貌を持つ静流もそうだが、彼女もまた稀有な美貌の少女だった。黒く艶やかな黒髪は微かに青みを帯びており宵闇を思わせ髪の一房を真っ白なリボンでゆるく縛っていた。同色の瞳もまた吸い込まれる様な輝きを放っており、整った顔立ち、そして服の上からでも分かるスタイルの良さを持っており特に胸元は服の内側をなだらかな曲線を描く形で大きく持ち上げている。
少女の名前は佐伯勇魚。
勇魚と静流。その二人の容貌は真逆と言える白黒の色だった。それだけ容姿が異なる事からわかる様に二人に血縁関係と思しきものは感じられない。だが彼女二人がいるだけならばそれは近所の仲の良い年の離れた女の子程度で済んだだろうが、そうはならないのはやはり彼が静流を肩車しているか為だろう。
不知火九十九。
普段の執事服とは違い完全な私服姿――胸元に『筋肉!』と書かれた漢字二文字のTシャツと逞しく筋肉が盛り上がった太ももをこれでもかと見せている短パン姿。筋骨隆々とした体躯のおかげでわんぱく小僧のごとき服装もぱつんぱつんに生地が張りつめていた。
静流。勇魚。九十九。
この三者が今こうして街中を休日の仲良し家族さながらにぶらついているのは何故かと言えばそこにはある理由が存在している。
「つくもー、つくも」
「あん? どうした静流?」
「お腹減った……」
「ありゃー」
九十九はそうか、とばかりに快活な笑みを浮かべた。
「メシか」
「たー、めし」
「腹減る頃だもんな。俺もだぜ」
「つくももか」
「おう。じゃあメシにすっか」
「たー!」
嬉しそうにニパッと笑みを浮かべて数回頷く静流に微笑を向けながら、勇魚が「ご飯ですか。どこにするんですか不知火君」と尋ねる。
「そうだな。ここはガツンと焼肉屋――」
「いたりあんがいい!」
「――え?」
途中挟まれた歓喜の声に九十九は思わず「うげ」とした声を発した。
イタリアン? イタリアの料理とな? と、九十九は渋面を浮かべるも、頭上のキラキラした笑顔はそんなものおかまいなしに輝いていた。
「えと、静流ちゃんはイタリアンがいいんですか?」
「たー、静流はパスタ食べてみたい」
「それはまた、どうして?」
「都会って感じがする!」
その言葉に勇魚はなるほどとばかりに首肯した。
確かにイタリアンパスタはオシャレだ。都会っぽさが感じられると言えば間違いない。
「焼肉屋……」
「あはは……。静流ちゃん、ずっと田舎暮らしだったらしいですからね」
生まれてこの方、ずっと田舎で育ってきたが故に都会の様々なものに興味関心があると言う事になるのだろう。だから肉を焼くだけ、と言う料理よりかは折角なので都会っぽい料理――イタリアンを堪能したい意識がある様子だ。
典型的な田舎っ子である。
「なら、しゃあねえか」
九十九は仕方ないとばかりに断じながらも、どこか嬉しそうに破顔した。
「ありがとう、不知火君」
「気にすんな。たまにゃあいいさ」
きまり悪そうにする勇魚にそう返答する。
イタリアンと言えばパスタとピザが定番だが、どちらも量的には満足いかないので九十九としては左程寄りつく場所ではない為に少し複雑だが、折角の申し出を無下に叩き折るのも静流が可哀そうなので了承するのに躊躇いは無かった。
「しかし、なら、どこがいいのかね。言っちゃ何だが、俺、パスタの店とか詳しくねえぜ?」
「ですよね。私もこの辺りは全く詳しくないですし」
頭上で「パスタってどんなやろな、楽しみやなぁ」と口調が変わるほど目をキラキラさせている童女を一旦置いておいて、肝心のイタリアンレストランを探す二人。
いや、問題はそこではない。
ここは横浜市内だ。イタリアンレストランなど探せば、簡単に何件かは目についてくるはずなのは間違いない。問題はどの店が良いのかと言う知識が無い事。こと食事に関しては九十九は野生児のごとき嗅覚を発揮できるが、それは肉が絡んでこそ。パスタやピザで発揮出来るとは限らない。
しばし黙考した末に九十九は携帯電話を取り出した。
「不知火君? どうする気なんですか?」
「生憎、イタリアンなんかにゃ詳しくねぇからよ。なら俺に出来る事は一つっきゃないってわけだ佐伯。――詳しそうな誰かに訊く。それだけだ」
そう告げて九十九はタッチパネルを操作して、インターネットに接続する。そこから検索をかけて、とあるサイトを開いた。その中身を見て、勇魚は少し驚いた様子で目を見張る。
「あ、コレ、チャットですか?」
「おうよ」
機械系統細々して苦手そうなイメージがあった九十九なので勇魚は出来るんだ、と失礼ながらそんな事を感心した。しかし、その事実は間違っておらず、想定通りに九十九は機械系統は細々していて苦手である。
それでも検索かけて調べものして、くらいの基礎的な事が出来ないわけではない。
「今時は、他にもSNS色々あるっつーけどさ。ここはすげぇ古くからある場所なんだぜ」
「へぇ、そうなんですか。長続きしているんですね」
感心している様子の勇魚の隣で九十九は文章を打った。
――筋肉さんが入出しました。
【筋肉】誰か、いい店知らね?
【縞泥鰌】唐突になんだよww
【仙女】店って言われても何が何やらさっぱりさね。
【大博士】まずは状況を的確に述べ給え。
【社畜】店探ししてんなら一番は現在地な。
「お、今日は結構いい面子がいるな」
「……どなたたちなんですか?」
「わかんね。顔も合わせた事ねーし」
チャットなどそんなものだ。
「このチャットルームは『甘美なる至高の円環』っつってな。端的に言えばドーナツが好きな奴らが集う場所なんだ」
「また不思議なチャットルームですね……」
「へへ、でも見てろよ」
そう言って九十九が現在地を詳細に記載するとすぐさま反応が返ってきた。
【大博士】なんだ横浜か。ならイタリアレストランなんて掃いて捨てる程ある事だろう?
【社畜】まあ、そうだわな。アレか、入りやすい的な感じか?
【仙女】高級過ぎず安過ぎずって事さね? つまりは一流レストランではなく、かと言ってチェーン店でもないくらいの中間付近って辺りさね?
【縞泥鰌】そんな事よかドーナツ食えよ。
「使えねぇな、【縞泥鰌】」
「ま、まあドーナツ愛好家の場所ですからね」
【筋肉】そんな感じでよろ。筋肉腹減ったんで手早く頼むわ。
【縞泥鰌】筋肉筋肉言ってると旅先で出会った筋肉の奴思い出すなぁ……。
【社畜】なんだその意味不な奴は。
【仙女】脱線してるさね。それで横浜のその付近で美味い、いい店ってなると誰か知ってる? 生憎と私はその辺行った事が無くてわからんさね。
【大博士】私は一応知っているがどの店も高級店が大半だな。
【縞泥鰌】羨ましいッ!
【社畜】ドードー、落ち着け。あーまあ、俺が一応知ってるからそれでいいなら教えておくぜ? 確かその近くなら『トラットリア遊佐』って店があったはずだ。あそこの店主いい人だし、デートには結構いい感じだと思うからおすすめ。
【縞泥鰌】デートとか筋肉が悲しむ事言うなよ、社畜さん。
【筋肉】お、そうなのか。じゃあコイツ連れて行ってくっぜ! あんがとよ、社畜さん!
――筋肉さんは退出しました。
【縞泥鰌】待て筋肉ぅうううううううううううううううううううううう! コイツって誰だデートには最適って流れから何に発展した、いや、そもそも何でそんな場所をチョイスする話になってたんだ素直に吐け、テメェええええええええええええええええええええええええ!
【大博士】独り身乙ww
そんな残りの会話を見る事もなく九十九は晴れやかな笑顔を向けた。
「って事で探し出せたぜ」
二カッと強い笑みを零し、九十九は勇魚の手を引いて、いざ目的の場所へ足を運んでいく。
5
イタリアンレストラン【トラットリア遊佐】。
その店内へと足を入れる二人の少女の姿があった。少女と言っても大人びた容姿を持つ美少女であり、気品あふれる佇まいがなんとも魅力的な二人である。金髪に真紅の瞳を持ったグラマラスな体型の少女は迎洋園テティス。並びに彼女に付き従うのは紫色の頭髪に同色の瞳を持った従者、土御門睡蓮の両名だった。
可愛らしい美少女が「いらっしゃいませー♪」と出迎えを担当し席へ案内されると二人して空いていたテーブル席へ腰を下ろす。その後メニューを一瞥して手早く決定すると、ベルボタンを押して店員を待つ。
店員がやってきたのを確認するとテティスと睡蓮はそれぞれ注文を済まし、店員が恭しくお辞儀して「ごゆっくりどうぞ」と笑顔を浮かべる様を見届けると、ようやくといった様子で深々と息を吐き出した。
「いやもー……。何と言うか仕事疲れ半端無いですわ……」
「毎日お疲れ様です、テティス様」
「まったくですわ」
テティスが愚痴る様に零すのを睡蓮は苦笑で返す。
事実、最近の睡蓮の主は色々と忙しい身の上だった。ミカアカの学生であると同時に、テティスは迎洋園の跡継ぎである事から祖父の仕事の継承作業が続いているのだ。
「呑気に学生時代を謳歌していた頃が懐かしいですわね……」
「テティス様、何歳ですか的な発言ですよ」
可笑しそうに睡蓮は呟く。
「ま、私は一応、イギリスの方で高校は卒業していますからね」
故に美花赤には通わなくとも高校卒業の実績が残っているのだが、折角なので言う事で通う形とはなっている。何れ迎洋園の全てを引き継ぐときには退学する可能性もあるが、今のとことは学院で日々を謳歌する形となっているのだ。
「まあ、学院でも学友は出来ている事ですし、それはそれで嬉しいですけれどね」
「それは間違いありませんね」
睡蓮はテティスに学友がいる事に嬉しそうに微笑んだ。
なにせ美花赤は一癖強い女学生が多いのだ。端的に言えば名門お嬢様での派閥争い。美花赤の理事の娘と言う事でテティスも注視される場面は多々あるのは中々一息つけない事も時折あるくらいだ。
それを考えると共学である真白月の校風の緩さが羨ましくもある。
そうシラヅキの事まで思い至ったテティスは不意に自身の従者を思い浮かべた。
「日向も学校が上手く行っているといいですが」
「それに関しては問題ないでしょう。弦巻君、毎日嬉しそうに通っていますし、陽皐君と言う友人が出来ていると親不孝通りから訊いています。先輩とも交流を持てている様子ですよ?」
「へえ、そうでしたか。それは何よりの吉報ですわね」
つい先日ややこしい事件が起きたと訊いていたので肩の荷が下りた気分である。なお、その事件を訊いてテティスが若干ムッとした場面も二カ所あったが……。
「何にしても良かったですわ」
「ええ、本当に」
睡蓮と二人互いに微笑を浮かべながら頷き合う。
「日向がシラヅキで順当に馴染んでいる様子ですし……学院を紹介した側としては胸を撫で下ろせる結果と言えますわね」
「ですね。最近は本当に楽しそうで微笑ましい限りです」
「全くですわ。私が思っていたよりもずっと。毎日楽しそうに登下校していますしね」
「はい♪ 弦巻君、本当に嬉しそうですもんね。それにあの喜びようだと――」
睡蓮は穏やかな笑顔を浮かべながら、
「――ひょっとしたら学院で好きな娘でも出来たりしたのかもしれませんね」
ぴしィッ!
比喩じゃなく、そんなひび割れた様な乾いた様な音が響いたのを睡蓮は知覚した。笑顔を浮かべたまま頬に冷や汗を一つかきながら『あら~……?』と言う内心である。
そして音が発生した方向――テティスはと言うと、
「……」
無言だった。なのに笑顔が輝いていた。こめかみ付近に怒りマークが浮かんでいたが、輝く笑顔は実に麗しい。パーフェクトお嬢様スマイルである。
「えーっと……て、テティスお嬢様?」
「日向が、なんて?」
メキリ、っと握るコップに亀裂が入っていた。
音これだったのかぁ……、と睡蓮が地味に感心しながら、
「いえ、その、何と言いますか……普段からの弦巻君の喜び加減を見ていると、アレは学校が楽しい以上に……えー、その、誰か気になる相手でも出来たんじゃないのかなぁ、と」
ほら芳城ヶ彩って綺麗な娘多いですし、と睡蓮は付け加える。
そんな睡蓮に対してテティスは左右に首を振った後に毅然とした態度で頷く。
「日向がそんな容易く誰かを好きになるなんてありえませんわ」
「いや、弦巻君も普通の男子高校生ですし、高校生活で気になる相手くらいは……」
「いいえ、彼はモテモテになる事はあっても、自分から相手の女性を好きになるなど……! そのような栄光を得られる女性など……!」
「歯軋りする勢いでそこまで断言するんですか!?」
睡蓮は流石に困惑を示す。
要約すれば『モテモテだけど相手には物凄くなびかない』と言う事だろうが……。
(いやぁ……むしろ、真逆的な子な気がするんですけれどね……?)
モテていないと言う事はないだろう。
男らしい顔立ちではないが、西洋の血縁でもあるのかクォーターっぽい顔立ちで女顔だ。その上、素直猛進の勢いであり、いい意味で素直な部類の性格をしている。おそらくは同年代の母性やら面倒見がいい相手、または年上の相手が好意を示しそうなタイプの少年であると同時に好意を抱く様な子であると睡蓮は見ている。
そしてなにより本人が人懐っこいのだ。
以上の事から言っても、テティスが言う様な印象とはかけ離れているとしか思えない。
睡蓮は僅かに黙考をした後におもむろに口を開いた。
「あのテティス様」
「? なんですの睡蓮?」
不思議そうな表情のテティスに対して睡蓮は僅かに逡巡するものの、やはり尋ねておいた方がいいのだろうと判断を決する。
「前々から気にはなっていたのですが……テティス様はどうして弦巻君をそんなに気になさるんですか?」
そう問われるとテティスはどこか恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに口元を緩ませて笑みを浮かべた。
「それはまあ……昔、色々ありましてね。――睡蓮に話していなかったかしら?」
「ええ、全く存じておりませんね。過去の事で何か訊くのは無粋ですからね、基本」
主従の関係性では互いの信頼、その過去を知っておくのはまず間違いなく重要な事だが生憎と迎洋園と土御門の間柄では少しばかり例外となるのを睡蓮は知っている。なにせ父親から散々そう窘められている為だ。
(若輩の私が現時点で過分に知り過ぎても仕方ありませんからね)
土御門家当主である父親ならばテティスや彼女の家族の内情にも詳しいのだろうが、睡蓮が知るのは彼女の趣味嗜好など適度なボーダーラインに於けるものだが、それでもある程度彼女と信頼関係は築けている為、問題はない。
それはそれとして。
今肝心なのは主の感情の在り処だ。
「訊きたいかしら?」
「訊けるものでしたら、まあ」
と言うかそんな訊いて欲しそうにキラキラした瞳を向けられては訊きたくないとも言い辛い感じだった。
想像通り「ならば話しても構いませんわ」とドヤ顔になるテティス。
「テティス様が弦巻君に抱く感情に関しては従者として頭に置いておいた方がいい事柄ではないかと思えますので」
「そうですわね……彼の為にも理解者は多い方がいいかしら」
「と言うと?」
「実の所は二人だけの思い出と言うものに浸っておきたかったのですが」
テティスは頬に両手を添えながらうっとりした表情を見せるが、その後すぐさまどこか影の差した表情へと変わってしまう。
「――今の彼を見ていると無性に悲しく思えてしまいましてね……」
「……悲しい?」
「ええ。今の彼はいつもどこか怯えている様で……私が出会った時とはなにもかも違う為に昔を思い返して欲しい――とも思うものなのです」
睡蓮はその哀愁漂う主の表情と彼女が胸に抱えるその記憶は果たしてどういったものなのかと不可思議に思いながら先を促す。
「今の彼はテティス様の知る彼とは違うと言う事なんですか?」
「ええ。今の彼とは真逆ですわ。昔の彼はもっと明るかったのです。様々な意味合いで」
「はぁ……?」
様々な意味合いで、とつけ加えた事が気にかかりはしたが、日向が昔明るかったと言うのはなんとも――、
「――いえ、今も結構明るいですよ? 暗くなる時もありますが」
出会った当初から失敗して落ち込む事はあったが、頑張り屋なのか結構明るいのタイプである事を思い起こしながら睡蓮は零す。
「そう言う明るさもそうなのですが、もっとこう元気が良かったと言う感じでしょうか」
「もしや……ガキ大将的な意味で、と言う事ですか?」
日向にはそぐわないなあ、と思いながら口にするとテティスは睡蓮のニュアンスに、
「……そう、ですわね。傾くならそっちよりと言うところなのでしょうか」
「本当ですか?」
にわかには信じ難い話だった。
睡蓮の認識では日向は素直ないい子ではあるが、おおよそ幼少期に子供達のリーダー的なポジションが似合うタイプではない。簡潔に言ってしまえば勝気な子では無いのだ。
「まあ、今の日向を見ている限りは到底思えませんわよね」
苦笑交じりにテティスがそう零す。
「けれど、彼は昔は本当にもっと勝気でしたのよ? 自分についてこい! みたいな?」
「今の弦巻君からは想像全くつきませんね」
日常的に何もない場所ですこんと転んだり、ものを割ってしまったりを繰り返すドジっ子を地で行っている節がある少年を見ていると、ついていくには下が支えないといけないと凄く思える子なのであえる。そう昔に自分で言っていたのなら自分を顧みない子である色々な意味で、と睡蓮は思えてしまう始末だ。
「それで結局、お二人の御関係は一体なんなのですか?」
「そうですわね……」
テティスは深く瞼を閉じた後。
「――恩人、と言うものですわ」
静かに、厳かに、響いた声音。
その言葉に潜む感情の濃密さに睡蓮はなんとも感嘆に暮れる程であった。恩人と言う響きと同時にさながら恋慕――いや、敬愛の様なものさえ滲み出ている。
だからこそ、全く日向と印象合致しませんね、とは口が裂けても言えないが。
そう、思うと同時にその言葉のニュアンスを使った事に驚きを禁じ得ない。
「恩人……それほどなのですか?」
「ええ、遜色なく」
彼女は力強く首肯する。
「日向は紛れも無く私の恩人ですわね。幼少期、彼は私を救ってくれたのです」
「救ったとはどういう……?」
「……これはまだ睡蓮に話すのは難しいのですが、まあ、迎洋園の御役目、と言えば察しはつくかしら?」
「……」
ふむ、と睡蓮は目を瞑り、頷く。
迎洋園の役割と言えば間違いなく土御門家も既知である事案だろう。ならばそこに現在深入りする事はまだない。
そんな睡蓮の配慮に感謝をくべつつテティスは話を続ける。
「そういうわけで私は知っているのです、彼の幼少期を。誰かを助け、導く精神を持った少年の姿をね」
「幼少期の弦巻君何者ですか」
睡蓮はテティスの賛辞に、思わず、と苦笑を零す。
「だって本当に格好良かったのですわよ? 私が本当に辛かった時期に彼は颯爽と顕れて掬い上げてくれたのです」
「まるで王子様の様な存在なんですね」
「ええ。事実、彼は女性の心を射止める存在なのです。私は……幼少期の彼の鮮烈さに眩暈を覚えるほどに陶酔したものですもの。――嗚呼、こんな格好いい男の子がいるのか、と」
テティスは頬を真っ赤に染めながら嬉しそうにはにかんだ。
その様を見ていて睡蓮はこれは見事な惚の字だ、と感心すら覚える程だ。
「大好きなんですね、弦巻君のこと」
「そう面と向かって言われると照れますが……」
ま、そうですわね、と恥ずかしそうにだがしっかりとした声で頷く。
「そうでしたか……」
日向を雇うと言う当初からいやにゴリ押し気味に事を進めていたが、惚れた相手なのなら仕方がないし納得と言うものだ。道理でテティスが必死になっていたわけだ。
しかし、それを考えると、
「……けれど、日向君の方は全く覚えてる様子がありませんよね?」
「ええ。そこは凄く悲しいですわ……」
テティスはさめざめと泣く様な切なさで呟いた。
「ですが、彼の挙動を想えば、私など助けた女の子の一人に過ぎないのかもしれませんわね」
「弦巻君どんだけスペック高いんですか」
むしろ今は低すぎて大変だと言うのに。思い出補正でもかかっているんじゃないのか、と睡蓮は若干不安になる。
「だって、最強の格好よさでしたのよ、当時の彼は!」
「はあ、そうなんですか……」
「あ、けど、この話を日向にしてはいけませんわよ、睡蓮。こう言った事は何時か、本人が思い出してもらわないと何だか虚しいですもの」
「それは了承しましたが……」
本当に好きなんだな、と睡蓮は主に意中の相手がちゃんといた事に安堵する。
恋愛事に興味が無いのではないかと勘繰ってきただけに、昔からの想い人がいたと言うのは初耳だったが、その関心を従者として嬉しく思った。問題は弦巻日向が一般市民よりも、よほど貧民的な境遇にある事だが、睡蓮の知るテティスの祖父ならば、そのくらいは問題無く受け入れてくれる事だろう。
恋愛関係が上手く進めば――だが。
「とにかく日向が好きな子を作るはずなどありえませんわね。彼が色々な女の子を侍らせる光景ならまだしも納得しますが」
「テティス様のイメージ像本当に凄いですね」
「睡蓮は昔の彼を見ていないからそう思うのですわ。過去の彼を見ていれば一人の女性にくびったけになるなど想像もつかないとね。なにせ、彼ほどの男が一人の女の子に、そんなデレデレになるなど醜態を曝すわけがな――」
そう――テティスが言い掛けた時であった。
「こちらのお席をどうぞ♪」
「ありがとうね、遊佐さん」
「ありがとうございます♪ えへへー、エリカさんと一緒にご飯ですー♪」
「あー、はいはい。はしゃぎすぎないの」
「エリカさん、エリカさん!」
「……何よ?」
「だって大好きな娘と一緒に、ご飯うれしーです♪」
「だからはしゃがないのっ! 本当バカ! そんなの言われたって知らないんだからねっ!?」
嬉しそうな聞き慣れた少年の声が少女の声二つと共に響いたと同時にテティスは声の方向へ首ごと顔を向けると同時に『ぶはっ』とティーカップの紅茶を噴き出した。
睡蓮は「ちょ、どうしたんですかテティス様――って、あらまぁ……」と口元に手を当ててぽかんとしていた。そんな横で驚天動地の少女は「な、なななななななな、んな……!」と目に見えて狼狽していた。
そして睡蓮に向き直ると小声で叫んだ。
「アレはいったいなんなんですの!?」
「いやー、どう見ましても弦巻君ですね。あの青髪は」
「それは分かっていますわ! も、問題は……! どうして日向がお、おおおおおおおお、女の子とデートを……! それもあんなとびきり綺麗な方と……!」
「本当に凄く綺麗な娘ですね、髪もさらさらで……。記憶に寄ると確かに弦巻君、今日は予定があるからと親不孝通りが言っていたかと存じます。まあデートとは、思っていませんでしたが……」
「あ、相手は誰なんですの!?」
睡蓮は「ふむ」と唸りながら外見的特徴を把握していく。
そして親不孝通りとの会話や日向が前に言っていた内容など照合していくと――結構簡単に、と言うかそれ以外思い当たらない人物が該当した。
「新橋エリカさん、ではないかと。綺麗な茶髪でシラヅキでもトップクラスの美少女の一人として有名と訊いていますので」
「新橋……ああ、新橋兄妹の……!」
テティスも納得した様子で頷く。
そしてその顔に苦渋を滲ませる。
「おのれ泥棒猫が……!」
「テティス様、言葉が苛烈で怖いですよ!?」
嫉妬に狂った女さながらの表情に睡蓮は慄く。
しかし睡蓮には目もくれず「いったいどうして、どういうことですの……!? 茶髪が好みだったのかしら……? それとも胸かしら……けど、大きさはそんな違いませんし……! ああ、でも確かに綺麗な方ですし――けど、日向がああなる等どんな御業を使えば……!」と、憤怒と困惑に悲嘆を織り交ぜながら嫉妬に駆られていた。
そんなテティスだったがすぐに涙目に切り替わって、
「だってだって信じられませんわ。だって日向ですわよ? 複数の女性を侍らせ酒池肉林の世界に生きるではなく、一人の女の子にあんなにデレデレになって夢中になっているザマなど信じ難いですわ……」
「ザマって言う辺りがさりげなく酷いですねテティス様」
それだけ過去の日向が格好よく、その為にギャップの大きさに狼狽えていると言う事なのだろうか。睡蓮にはわからない現実だ。そして酒池肉林のハーレムを許容する辺りが本当に、この主恋愛思考がダメかもしれない、と思った。
「とりあえず聞き耳を立てますわ」
「戸惑い無くまたアレな事を実行されますねテティス様」
「睡蓮は黙っているのですわ」
涙交じりの眼光で睨まれてしまっては制止も言い辛い。
睡蓮は仕方なくテティスに同調する事とした。
(会話内容次第ですね……さてさて)
嘆息交じりにテティス共々耳をそばだて、目を凝らす。
その結果、エリカが彼女扱いされて恥ずかしい想いの旨を訊けば、
「恥ずかしいとか何ですのその羨ましいシチュエーションは……!」
「弦巻君ほわほわとまあ嬉しそうですねー」
日向がエリカが彼女ならどうかと尋ねられれば、
「じ、人生で一番嬉しいですって……!?」
「まあ、あれくらい美少女な方が恋人なら男の子として嬉しいのは間違いないでしょうし――ってテティス様、抑えて、抑えてください!」
エリカが日向にデコピンする光景を見ては、
「デコピンしましたわ、日向に! 何ですのあの照れ隠し!」
「何か見てて初々しいですね、本当」
二人が店のメニューを手に取れば、
「ああ、何だかまた日向が嬉しそうな顔して……! メニュー見ながら何だか楽しそうですわね……なんですかあの楽しげな表情は……!」
「まあ、メニュー選び楽しいですからね」
「あ! 店員さん邪魔ですわ! 隠れてますわー!」
「またサッと来てサッと去っていく方でしたね……」
その後も日向とエリカの傍目イチャイチャとした光景を見ながら一喜一憂する形となっていくテティスだったが、話題の方向性が多少変わった空気を遠目で感じると、しばし意識を二人から外して適当にデザートの類を注文し時間を潰す。
語るエリカが優しい表情で述べているので訊いてもそれほど問題は無いのかもしれないが、プライベートな内容なのは大体想像がつくため訊かない様に意識をとどめる事とした。
そうしてエリカの話が穏やかな空気で終わった辺りで日向が感化された様にぽつりと呟きだす。それはまず間違いなく彼自身が抱える悩みなのだろう。
「声が小さくて聞き取りづらいですわね……!」
「止めませんかテティス様?」
「止めませんわ」
モラル的に、と言う後続の言葉は全く言わせない速度の切り伏せだった。
無駄に毅然とした態度で言われて実に始末が悪い、と睡蓮は口元をひくつかせる。
「と、言う訳で睡蓮、『水行・五官』を」
「そんな『睡蓮、お水』みたいな軽いノリで、諜報術式頼まれましても……」
テティスの言う『水行・五官』とは陰陽道、五行思想に於ける水行項目の一つ。五官である。五官に於ける水行は聴覚、耳に通じるもので、テティスが望んだのは要約すれば『聴覚強化』と言う術式になるのだ。無論、この場面で使用する睡蓮ではないが。
「何ですの睡蓮はもう。日向の話気にならないんですの?」
「気になると言えば気になりますが」
なにせ普段から『素直なドジっ子』の立場を確立し始めた日向である。反面、悩みと言うものはおおよそ家族関係くらいしか聞いた事が無い――と言うよりそのほかに色々あり過ぎてこれといった重大な悩みがなんであるのかの線引きが効かないのだ。
ともすれば今、彼が語っている内容は、まず間違いなく重大な悩みなのだろう。
同僚としてケアの面では訊いておくべきことなのかも知れないが、この形では苦渋が滲む。
「テティス様。この形で訊きましてもあまり意味は無いかと……。そもそも、弦巻君も男の子ですし訊かれて恥ずかしい想いとかあると思うので無理に諜報するのは頂けません」
「……ふむ、それはその通りですわね」
ここで即断の納得を下す辺りが地味に冷静な様で溜息が浮かぶ。
つまり気が動転して強行に走っているわけではなく、冷静に勤めている部分が大きいと言う事なのだろう。流石我が主である、と額を抑えた。
「しかし結局どう言った話の内容でしたのかしら……、微かに新橋さんから居場所を失わせないと言う旨の発言を耳にしましたが……」
大体推測は立つが推測の域を出ない。
ただ、そう言われた時の日向が満開の笑顔を浮かべる事に対してテティスは思わず胸が苦しくなった。
(……あんなに嬉しそうな表情見た事ないですわね)
上気した赤い頬に涙を弾け飛ばす様な笑顔と明るい声。
本当に嬉しい事を言われたのは間違いないだろう――見ている横顔からは様々な感情が読み取れてしまいテティスは切なくなった。
「と言うか、涙拭ってあげたりとか羨ましいですわね……!」
「傍目本当ラブラブな光景ですからね……」
「ああああ、ひ、日向に大好きとか言われてますわ……!」
「弦巻君、素直ですねー」
「睡蓮とは大違いですわね」
「私が何か♪」
笑顔で対しつつも、エリカに対して素直な日向に睡蓮は思わず感心してしまいそうになる。
あそこまで素直にぽろぽろ零すのは睡蓮には気恥ずかしくて仕方ないくらいだ。
そしてここから一体どんな発言を零すのか睡蓮は主が傍にいる状況では気が気では無かったが致し方ない。心を無にする心積もりで共に聞き届けよう――、
「お待たせ致しましたー♪ チョコレートカシスパフェとストロベリーチーズケーキになります♪」
「ありがとうございます♪」
「美味しそうですわねー……!」
そこでお待ちかねのデザートが到来した。
王道のチョコレートパフェにカシスソースをまぶした事で爽やかな酸味を零す目に鮮やかなパフェをテティスは嬉しそうに受け取り、ストロベリーによる桜色のチーズケーキを睡蓮も目を輝かせて手に取った。
そして互いに一口頬張り、
『美味しい……♪』
うっとりした表情でほわぁ、と頬を緩める。
だが一息ついたかと思えばすぐさまバッと日向達の方へ振り返った。決してスイーツ効果に負けたのではない、と両者自己弁護しながら、再度視線を向けてみたところ、その結果として目についた光景は相変わらずの日向がエリカにデレデレな好意を示し、エリカが真っ赤になって、つっけんどんに対する必死の攻防戦を繰り広げている最中であった。
そうした光景を再確認し、テティスが一言。
「アレなんなんですのよ、もぉ……! 日向ってばデレデレして……! 子供の頃はあんなに俺様主義だった癖して今は女の子大好きな子にでもなったんですの?」
机の上に突っ伏してずーんと沈み込んでいた。
「幼少期と比べて色々変わったと言う事ではないですか?」
「あの性格がそう容易く変わるなんて信じられませんわ……! なんてことですの……」
うああ、と呻きを洩らす。
そんなテティスを一瞥しながら睡蓮は肩をすくめた。
「やれやれ、仕方ありませんねテティス様は」
「だって……」
テティスの悲しげな眼に肩を竦めながらも睡蓮は大人びた意見を発する。
「迎洋園家のお嬢様としての普段の毅然とした態度はどうされたんですか?」
「私だって一人の女ですもの……嘆きもしますわよ」
涙目でいじける様を見て何とも可愛らしいと思う反面、テティスも恋愛関係ではまだまだ子供のそれなのだと認識する。もう少し大人らしい態度で動揺しない方かと思っていただけに少しばかり驚きであった。
「まったく。好きな相手が他の娘を好きになっている様だ、と思ってもそこで動揺せずにしっかりと対応してこそですよテティス様――」
「それはわかっていますけれど――」
「ひゃっほう、メシだぜメシ!」
「たー、パスター♪ パスター♪」
「二人とも、静かにしないとお店に迷惑になってしまいので注意してくださいね?」
その時、睡蓮が驚く程に俊敏に首を日向達のいる席とは真逆――左側へ振り向いた。
あまりの速度にテティスが「お、おお」と若干戦慄しているが、そんな事は気に留めていられる睡蓮では無かった。今聞えた訊き慣れた声に対して意識を注ぎ込まなくてはならないのだから、そんなものにかまけているヒマは刹那も許されない。
「たー、つくも。メニューどこだ?」
「ほらよ」
「たー♪」
「うわぁ、たくさんありますね♪」
「肉系は流石にねぇかな……ああ、でもこのパスタ、トンカツ乗ってる上にミートソースで美味そうだな。俺ぁコレにすっかな」
「たー、どれも美味しそう」
目をキラキラ輝かせてメニューを見る白髪の少女。
そんな少女ともう一人に対して微笑ましそうに花咲く笑みを浮かべる黒髪の美少女。
そして二人と共にいる見慣れた赤髪の青年の姿――九十九に間違いない。
目の前の光景をそこまで理解した辺りで睡蓮が愕然とした様子で言葉を発した。
「な、なななな、んなななななな……な、何で、どうして……!?」
指が震え、声が震え、体が震えている。
そんな彼女の様子にテティスは驚きながら、視線を向けて「あらまぁ……」と驚嘆した声を上げながら同情的な視線を睡蓮へ向けた。
「残念でしたわね、睡蓮。まあきっとすぐまた新しい相手が――」
「何の話ですかっ!」
頬を赤く染めながら睡蓮は器用に小声で怒声を発した。
「第一、アレはそう、絶対に、何かの間違い的な光景です! 大方、九十九の妹でしょうね!」
「貴女、彼の幼馴染でしょう? 往生際悪いですわね」
「何の事かさっぱりですねッ!」
睡蓮は明らかに虚勢と言える様な態度でつっぱねると、再び視線を三人へ向ける。
「静流ちゃん、決まりましたか?」
「たー、待ってほしい、いさなー。たくさんあって迷う……」
「ふふ、ゆっくり決めてくださいね」
「ほれ、佐伯。お冷、お冷」
「あ。ありがとうございます、不知火君」
なんとも微笑ましい光景である。
初めてのレストランで戸惑う子供を見守る母親の様な母性の少女に、そんな少女を気配りする青年の姿。年齢がもう少し高ければ、さながら家族の様なシチュエーションだ。
「あンの雌豚……!」
「睡蓮、言葉が激烈ですわよ!?」
泥棒猫と発言した少女もびっくりの蔑称である。
「そう言ったって、信じ難いですよテティス様!? だってあの九十九がですよ!? 女子と一緒にレストランとか似合わないにも程がありますわ!」
「確かに焼肉屋が似合う不知火ですものね……」
言いつつデジャヴを感じるテティスだ。
「ええ。九十九と言えば大喰らいです! パスタ店などで腹が膨れるキャラではありません! それなのに何故こんなチョイスを……! まるでデートみたいじゃないですか……!」
「まんま、デートなのではなくて?」
「あの呑気な顔に水を叩きかけてやりましょうか……!」
「さっき私を制止した方の台詞とは思えませんわね!」
ギシギシ、と軋む程コップを握り緊める睡蓮を今度はテティスが諌める形となっていた。
その混乱ぶりと怒り――いや、怒りとはいえ感情の分類が難しいが――、
「睡蓮、とにかく不知火九十九を取られたからと言って嫉妬せずに、落ち着いて」
「は。嫉妬? 誰が? ねぇ、誰がですかテティス様? ちゃんと見て言ってます? 嫉妬って誰が誰へ対してなんでしょうかね? テティス様、コンタクト変えた方がいいですよ?」
「何時になく痛烈な態度になってますわね、ええ! しかも私視力高いですし!」
従者のキツイ口調に思わず引くテティスである。
どうやら相当に混乱している様だ。普段の余裕がまるでない。さっきまで自分に説教かまして恋愛教鞭垂れていたとは思えないメイドの有様である。
「ともかく落ち着きなさい、睡蓮。騒がず冷静に、ですわよ?」
「大丈夫です、テティス様。御心配なさらずに。私なら上手く、水をかけられますので」
「無駄にその技量があるのが厄介ですわね!」
そう言いながら睡蓮が取り出した代物を見てテティスは焦る。
(アレは……確か簡易術式の『火行・炸裂』……!? 発動と同時に爆発をするっていう、小型術式の式符……!)
「これをコップの敷いて跳ね飛ばします!」
「地雷か何かですの!?」
取り押さえるも睡蓮は涙目で「やるのー、やるんですー、九十九のバカー」と零していて止まる気配がない。
「やったらコップ自体が爆発して危険だと思いますから止めるのですわ、本当!」
「平気です火力調整されている微々たる威力ですので!」
「だとしても不知火さんに当たるとは限りませんし!」
「そこは手動調整で如何様にもなります!」
ダメだ、やる気満々だ。
今はお互い無意識的な小声での討論だから周囲から『どうかしたのかな?』的なちょっと気になる程度の反応が微かに示されるだけだが、そんな事なったら目立つ。するともれなく色々気付かれるし、手間取る羽目になる。
それはいけない――、と思った時、テティスの服のポケットが震えた。
着信を見れば、饒平名銀次郎とある。
「もしもし」
「お嬢様。そろそろお時間が迫っておりますので、お急ぎでお戻り頂けますかな?」
「わかりましたわ」
即座に返答し、睡蓮の手に持つ式符を奪い取り、適当にテーブルの上に置きながら「睡蓮。時間ですわよ、仕事に戻りましょう」と告げて彼女の腕を引っ張る。
「うう……! 仕事なんて……!」
と、泣き言を零しつつも、流石はメイド。拘束力でもあるのか、仕事と言うと仕方なさそうに肩の力を抜いてテティスの引っ張る腕についていく。
「泣きたいのはわかりますが、我慢なさい。私だって同じ気持ちですもの」
「テティス様のは失恋ですが、私は違います。家族的な意味でなだけです」
「失恋言わないでもらえますかしら!? そもそも、まだ限りませんし! 私だって、まだまだ勝ち目十二分にありはずですし! そしてこの局面でも否定する辺り、貴女本当アレですわね!?」
そう、零しながら会計を済ませて、二人は互いに言い合いをしながら店を出て行った。
なにかあったのかね、と不思議そうに店の店主である京一は訝しんでいたが、客のプライバシーには関せずが一番なので頭を振った後に、娘の蕾に指示を出した。
「蕾。テーブル頼むぞ」
「はいはいー」
そう軽く答えながら蕾は睡蓮とテティスが座っていた座席へ足を運ぶ。
テーブルに足を運びながら、先程のお客の容姿を思い浮かべて、
(けど、メイドさんもいたし本当のお嬢様みたいだよね、今のお客さん)
と、感心を抱きつつも、こと神奈川県横浜市でお嬢様等の比率は高いので、見かけると言えば見かけるものであり、そこまで珍しがることでも無いのか、と思い至り「それはそれですごいね……」と呆れた様な表情を零しつつも作業に取り掛かる。
そしてテーブルの上の食べ終えた食器等を手際よく片付けにかかるのだが、
パシュン!
と、言う不可解な音が手元から響いて蕾は「ん?」と視線を向けた。
「……あれ、おかしいな。確かコップここに置いたのに」
置いたはずのコップがない。これはどういう事か。そう思いながら、蕾は不思議なものを見た。なにやら筆で書いた様な文字で『炸裂』と書かれた一枚の紙だった――が、次の瞬間にシュボっと発火したかと思えば消えてしまう。
「え、え!? なに、今の!?」
驚きの現象に目を見張る――と、同時に近くでバシャリ、と言う水がぶちまけられた様な音と共に「ひゃわぁー!?」と言う悲鳴が響いた。
「…………え?」
なにがなんだかわからない。
そんな心境で蕾は目を点にしたのであった。
ちなみに近くで顔見知りの少女二名が散々騒いでいたり、蕾が唖然となっている頃に渦中の人物たちはと言えば、
「たー」
「? どうかしましたか静流ちゃん」
「いさな」
「はい?」
「おしっこ洩れそう」
「早く言っておきましょうね静流ちゃん!?」
童女が唐突に尿意に侵された為にあたふたとした様子で席から立ってお手洗いを探し始めると言う和やかな光景が展開されていた。
第四章 前篇:朧に舞う理の枝、街並みに錯綜する喧噪




