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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
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第三章 後篇:エリカがいろいろ ★挿絵あり

第三章 後篇:エリカがいろいろ 


        1


 飼い猫を探す少女、紗奈(サナ)との出会い。

 泣きじゃくる少女を放っておく事など出来ず、日向(ヒナタ)とエリカは一緒に行動して色々なところを探して歩いていた。

 街行く人に尋ねた白猫が目撃されたと訊いた場所を所々探して歩く。ただしそうして発見した白猫は皆、黄色い目だったり、青い目だったりして特徴的な赤い目は中々見つかる事はなかった。

 そうして探し始めて二時間近くが経過した頃に、三人は近場の公園のベンチに腰を下ろして休憩の飲み物を煽りながら、嘆息を浮かべていた。

「――中々見つかりませんねー……」

 オレンジジュース片手に日向が困った様に溜息を吐く。

「まあ、猫探しだし、難しい話なんでしょうね。中々見つからないって訊くし」

 エリカも難しい表情で頷いた。

 猫探しは難しい。なにせ特徴合致や行動範囲で困難なためだ。そもそも部屋で失くし物をした時点で難しいのだから比較にならない程に難易度は上がっている。

「るる……見つからないのかな」

「大丈夫よ、絶対見つけてみせるから」

「本当?」

「ええ、本当よ。それよりお姉ちゃん達も不安になる様な事言ってゴメンね」

「んーん、気にしてない」

 小さく首を振りながらもるるを心配し涙を浮かべる少女の頭をエリカは優しく撫でた。

「……お姉ちゃん達もゴメンなさい、つき合わせて……」

「そんな事気にしなくていいのよ。好きで付き合ってるんだから」

「……本当?」

「本当」

「お姉ちゃん、やさしい人だね……っ」

 紗奈は涙を弾く様に小さく笑みを浮かべた。

「別に普通だけどね」

「そんなことないよ」

「そっ? まあ、ありがとね」

 エリカは柔和な微笑を浮かべた。

 うん、と少女は嬉しそうに頷いた後に僅かに表情を「でも、るる、本当にどこにいるのかな……」と不安そうな声を零した。

「紗奈ちゃんは本当にるるって猫が大事なのね?」

「うん、おにーちゃんがくれた大事な猫さんなの」

「へー、そっか、お兄さんがねー……」

 兄、と言う単語でエリカも共感を覚える。

 どうやら紗奈は兄の事が大好きらしく、そう零す時にとても優しい笑みを浮かべてみせるのだ。相当兄が大好きらしい。

「お兄さんと猫で何かあったんですか?」

 日向は和やかな会話がなりそうで紗奈を落ち着ける為にも、少し話を促してみた。

「うん、おにーちゃん、私の為にるるを拾ってきてくれたの」

 紗奈は笑顔を浮かべて答えた。

「出会いはよくわからないんだけど、偶然、公園で遭遇したって言っててね。自分は面倒みれないからーって私に『コイツはるるだ! 紗奈、るるの面倒はお前が見るんだぞ!』って私に預けてきてくれたの」

 ――それは押し付けたのではないだろうか?

 そう思った二人であったが空気を呼んで発言を回避した。

 ――その後の発言で回避して良かったと心からそう、思った。

「おにーちゃんねー、ずっと白いおっきな建物ににゅーいんっていうのをしてて、時々咳込んだりするといつも辛そうにしてて自分じゃ面倒みれないからって、紗奈にそう言ったんだ」

『え……?』

 二人が少し茫然とする中で紗奈は続けた。

「おにーちゃん、よくわからないけどぞーきって言うのが凄くボロボロだったんだって。紗奈は覚えてないんだけど、前のおかーさんが……しゅらん? さけぐせって言うのが悪かったって言ってたかな? お酒飲むと何だか酷かったんだって。それでそんなおかーさんから紗奈を庇ったりしたから体がボロボロになっちゃったりしたーって話してるの昔訊いたの」

「そ、そうなんですか……」

 日向が汗だくで相槌を打った。

「そのあとねー、紗奈のお父さんとお母さん離婚したって言ってたの。それから紗奈とおにーちゃんは新しいおかーさんって人のとこ……これが今のおかーさんなの。おにーちゃん『紗奈良かったな! これでやっと紗奈、お前は幸せに暮らせるぞ!』って嬉しそうだったんだ。おおげさなおにーちゃんだよね」

 紗奈は苦笑を浮かべてそう零す。

 日向は「ど、どうでしょうかねー」と返すのが精一杯だった。エリカも何故だか紗奈の頭を撫でる手が止まる気配を見せていない。

「ただ、その後に紗奈のおにーちゃんけんさにゅーいんってのしたら急に病院から帰ってこれなくなっちゃったんだ。にゅーいんって言うらしいの」

『……!』

 エリカが「おにいちゃん……!」と堪える様な声を零した。

「紗奈ねー。よくわかんないけどおにーちゃんのとこに『おみまい』って言うのを何度もしたんだよー♪ その度におにーちゃん笑顔で迎えてくれたんだー♪ 白いお部屋でとってもきれいな場所なの。そんな部屋でおにーちゃんいつも白いベットで寝てて紗奈いいなーって羨ましかったりもしたんだ」

 ――羨んじゃいけない。

 そう思う二人だったがあえて口には出すまい。と言うか出せなかった。

「そんな綺麗なベットなのにお兄ちゃん口から吐いて……なのかな? 度々汚しちゃってそれでおみまいも途中でとりやめになっちゃったりしちゃうの」

 エリカが紗奈を撫でる手が一瞬だけ硬直した。

「それである日ね。いつもより長く一緒にいていーよって白い服の男の人が言ってくれて、その日はずっとおにーちゃんと一緒だったんだ。そしたらねー、おにーちゃんが紗奈と一緒に外でお散歩してくれたの。『逢わせたい奴がいるんだ』って言って」

「……それが、るるって猫?」

 エリカが震える声で尋ねると紗奈は笑顔で頷いた。

「病院の御庭でねー、草が綺麗な場所で待ってたら真っ白な猫さん抱き抱えておにーちゃんがやってきたんだ。おにーちゃん、なんだか格好いい表情で紗奈にこう言ったの」



 それは少女の記憶だった。

 晴天が広がる空に無造作に掏った様な白がさっと広がり、そよ風がそよそよと樹をそよぐ。そんな穏やかな気候の中で、緑が茂った芝生の上での記憶。

 芝生を歩いて現れた紗奈の兄はドヤ顔を浮かべて、こう切り出した。

 ――紗奈、見て見ろよコイツ。真っ白ですげー綺麗だろ?

 幼心の紗奈は目をキラキラ輝かせて答える。

 ――うん、白くてキレー! どーしたの、おにーちゃん?

 ――前に出掛けた公園で見つけたんだ。無理言って洗ってもらってさ。それで今日、紗奈にコイツの事を任せようって思ってたんだ。

 ――紗奈に?

 猫の面倒など見たことがないので紗奈は困ってしまう。

 しかし兄の頼みを無下にしたくない紗奈は表情には出さなかった。

 ――おう。紗奈は猫さん嫌いか?

 実は引っかかれた記憶があって嫌いとは言えず、紗奈は答えに窮すが、

 ――鳥さんの方が好き。

 と、答えを濁した。

 その答えに兄は豪快に笑う。

 ――ハハッ、参ったな、鳥さんの方が好きだったかー。けどさ、折角、俺、コイツと友達になったから紗奈にコイツの事を任せていいか?

 兄にしては無茶を言うものだと思いながら、大好きな兄の頼みを断るつもりもなく、紗奈は仕方なしに頷いた。

 ――おにーちゃんが言うならいいけど……お名前何て言うの?

 ――コイツはるるだ!

 ――るる?

 兄にしては妙に可愛いネーミングだと若干思った。

 ――そう、るるだ! 紗奈、るる面倒はお前が見るんだぞ!

 ――わかった、頑張ってみる……!

 猫嫌いだし、面倒見た経験も無いので本当に『頑張ってみる』だった事をおそらく兄は全く理解していないだろう。

 ――おう、けっこー歳くってるジジィだから介護って奴だな!

 ――かいご?

 ――ああ、大切にしろって意味だ!

 ――そうなんだ?

 小首を傾げる紗奈を見ながら兄は微かに目尻に涙を浮かべた。その際に微かに白いものが剥がれ落ちる。事前に赤くなった目元を必死で隠そうとした痕跡が雫によって流れかけたのを兄は必死で拭い去った。

 ――紗奈、ソイツの面倒しっかりみろよな! 俺の分まで……俺がいなくなっても、しっかり、面倒みろよな!

 一番言わないでおこうと決意していた言葉だったのに何故だか口をついてしまい、兄はこんなもんか、と自嘲を零す。けれど言っておいて良かったと少しだけ思えてしまった。

 幸いにして紗奈は勘違いを浮かべてくれた。

 ――おにーちゃん、どっか旅行行くの? ずるい。

 ――へへっ、いーだろ。でも紗奈はいかせてやんねーんだ。人生初の旅行はにーちゃん一人で満喫してきてやるぜ! だーっはっはっは!

 人生初の旅行だ。

 妹を置き去りにするのは心苦しかったが、それ以上に連れていかずに済んだ自分の今までの頑張りを評価してやりたいくらいだ。紗奈がどこぞの川を渡るなんて結末にならなくて心底良かったと兄は思い、全てに対して笑い飛ばす様に豪胆に爆笑する。

 最早痛みすらわからなくなった、その身体で。

 ――むぅ、おにーちゃん本当ずるいよー……!

 不満げに零す紗奈に兄は一つの提案をした。

 ――ふふん、まあにいちゃんのお願いを叶えてくれたら今度連れてってやるぜ?

 ――ホント?

 ――……ああ、ホントだ。

 その頃にはきっと紗奈は幸せになってるといいな、と胸中でそう吐き零した。

 ――何したら一緒に連れてってくれるの?

 その言葉に兄として少し悩む。

 だが答えは一つだった。

 自分が守ってやらないとダメで、泣き虫だった愛する妹に何を望むか。

 ――紗奈ってさ。基本泣き虫だろ?

 ――そんな事ないもん。

 ――あるだろがダァホ。その泣き虫克服する為に頑張ったら連れてってやるさ。その為にまずはソイツの面倒を見るんだ!

 無茶苦茶超理論で兄は告げた。

 ――……それで泣き虫って治るの? 紗奈は泣き虫じゃないけどね。

 それは兄も思う。ただ無理を押し通した。

 ――意地っ張りの愚妹がよく言うわ。けどまー、治るぜ。るると一緒に過ごして、それできっとるるも俺と同じ日が来た時に、紗奈がその時どう思うかでさ。

 ――よくわかんないよ。

 ――今はな。

 だから、と兄は呟いて。

 ――るるの事よろしくな。ソイツがいりゃあ紗奈絶対毎日楽しいぜ? それで何時かきっと今日の話を理解する時が来るからさ。大切なのは何に出会い、何を感じ取るかだ。

 一期一会って言うんだっただろうか。流石に詳しくは覚えていない。

 ただ――出会いが少なかった自分としては多くの出会いを経験してほしかった。

 そんな自分もここで素晴らしい先生に出会えたのだから僥倖なのだ。

 ――おにーちゃん、話こむずかしくてわかんない。

 ――いいんだよ先見の明なんだよ。

 使い所合ってるかな、と思いながら誤魔化す様にそう答える。

 そんな兄に対して「ふーん」と頷く紗奈はふと気にかかった様子を浮かべて、

 ――それでおにいちゃん。

 ――あん?

 ――旅行は何時、一緒に連れてってくれるの?

 兄は視線をしらっと逸らしながら、心からこう返答した。

 ――……………………百年後かな。

 ――おにーちゃんの大言壮語ッ!

 ――何でお前そんな四字熟語だけ知ってんの!?

 それが紗奈が兄と交わした最後の会話だった。



「――って、いう経緯で紗奈はるるの面倒を見る事になったの」

 そう言いながら紗奈は二人を一瞥し心配そうに眉をひそめた。

「お姉ちゃん達、どうしたの……?」

「い、いえ、別に何でもないんです……!」

「ただ、想像したらダメージが大きかっただけで……!」

 日向とエリカは互いに見合わせながらぽろぽろと咽び泣いていた。

 なにこれ重い。

 偶然出会った女の子語った過去がさりげなく切なかった。日向はまだしも、特に兄の事を心から大切に思うエリカなど自分と重ねあわせて結構な衝撃を喰らっていた。

「紗奈ちゃんがるるを大切に思う気持ち伝わってきたわ……ヤバイわね、これ」

 目尻の涙を軽く拭いながらエリカはそう零す。

「紗奈ちゃんのおにーさん、格好良かったです……!」

「うん、格好いいんだよ、おにーちゃん。るるを渡した後に白衣の男の人から『もう会えないんだ』って言われたけど、きっとまた逢えるって信じてるの♪」

「弦巻ちょっとハンカチ貸してくれない?」

「と言うか背中貸しましょうか、エリカさん……」

 ぐすっと言う声が聞こえるエリカにそっと背中を貸す日向。

「それでねー。今は紗奈、おとーさんと今のおかーさんと、新しく出来たおねーちゃんと一緒なんだ」

「そうなんですかー……!」

「うん、特におとーさんはねー、大分前にえーゆーてきこーどーって言うので新聞に載って大活躍したんだって! その後見なくなっちゃったんだけど、おかーさんは『お父さんは、英雄だからね。ヒーローなの、だから多くの人を助けに行ったのよ?』って紗奈を抱き締めながら言ってたなー。凄い震えてたけどおかーさん感動し過ぎだよね」

 何か泣きそうになってきた。

 苦笑交じりにそう言う紗奈を見ながらかなりしんどくなってきた。

「それで今は紗奈、おねーちゃんと、おかーさんと一緒なんだ」

「そうでしたかー……」

「おかーさん、優しいんだよ。おねーちゃんも変わってるけど、優しいの。それでるるは皆と同じくらい大事な家族なんだ」

 紗奈にとってるるは大切な家族となっていた。

 だから子供一人で探しているのだろう。

「……紗奈ちゃんはるるとの事をお二人に話した事は」

「? ないよー?」

「……そうですか」

 猫がいなくなった事で熱意の差があったのかもしれない。

 だからこそ探しているのは紗奈一人なのではないだろうかと日向は危惧する。

「紗奈ちゃんも早く帰らないと怒られちゃいますよね」

「最近はいつも『一人でどこ行ってるの』って怒られてて……」

「そうですか」

 なら、と日向は呟いて、

「今日中に探し当てましょう――絶対に」

 その言葉にエリカも呼応する。

「ええ。絶対見つけ出すわよ、るるを」

 決意は新たに固まった。

 ありがとう、と零す少女の声を胸に二人は再び少女の大切な猫を見つけるべく歩き出す。



 再び探し始めて数分が経過した頃。

 そうして街中を歩き、行き交う人に軽く話を訊きながら二人は前を歩く紗奈を見ながら、感嘆の息を零した。

「何と言うか猫探しが予想以上に本気になった感がありますよね」

「全くよ。――でも見つけてあげなきゃね」

「はい。猫が――もといペットは家族ですもんね」

「うん」

 エリカは力強く首肯した。

「雑貨屋さんの時にも言ったけど、私も家にブルドックのゴン太がいるもの。ゴン太も大切な家族だって思ってるのよね。ペットってやっぱり――大切な家族なのよ」

「僕も友達みたいなペットがいますから紗奈ちゃんの気持ち多少わかるんですよね」

「弦巻もペット飼ってるの?」

「飼ってた、でしょうか。海外へ行く際に何も告げずに出ちゃいましたから、今はどこにいるのかもわからないです……。カトルって名前の蛇なんですけどね」

「へー、蛇なんだ? 意外な動物飼ってたのね?」

 エリカは意外そうに目を見開いてそう零す。

「はい、それで、かわいーんですよカトル」

「そう。どんなとこが可愛いの?」

「えっとですね」

 日向は嬉しそうに頷き、笑顔でこう述べた。


「青白い毛がふわふわしていて、羽ぱたぱたして空を飛ぶところですね!」


「それ絶対蛇じゃないわよね!?」

 エリカにそう言われると日向は少し眉をひそめた。

「……やっぱり、そーなんですか?」

「……自覚はあったのね」

「他の蛇とは違うなーって思ってました」

「その時点で気付きなさいよ……」

「でも鳴き声は『しぃ~』でしたから」

「それも微妙に普通の蛇とは違う気がするわね……」

 エリカは羽の生えた体毛ふさふさの蛇を想像しながら、

「けど、そっか」

 と、優しい声を零す。

「アンタもペットの大切さは理解してるわけね」

「はい、エリカさんも」

「ええ」

 だから、とエリカは力強く頷いて、

「紗奈ちゃんに見つけてあげなくちゃいけないわよ、絶対」

「――当然です」

 見つけて安心させてあげなくては。その意識で二人は待ちゆく人に声を掛けて、白い猫の事を尋ねかける。

 だが見つかる気配は無く刻々と時間が過ぎていってしまう。

(どうしよう、このままじゃ――)

 何れ、日が暮れてしまうのも時間の問題だ。ジリ貧と言っていいだろう。

 そこまで考えたところで不意に日向の脳裏に掠めるものがあった。

「――あ」

 その声にエリカは不審げに眉をひそめて問い掛ける。

「どうかしたの?」

 エリカの声に日向は逡巡した。

 脳裏に引っかかった情報に苛立ちを募らせて僅かに頭を掻く。だが可能性としては無下には出来ない。日向は悩んだ挙句にエリカに問い掛けた。

「エリカさん、そう言えばなんですが」

「うん」

「猫ってこういう事を訊いた覚えがありませんか? 『猫は死期を感じると、飼い主の前から姿を消す』っていう話を……」

「確かにそれ結構有名よね――って、まさか……!?」

 エリカは愕然とした表情を浮かべる。

 日向の言わんとする事を理解してしまった為だ。

「アンタ、それは……!」

「わかっています。でも、可能性が高い様に思えます。それと――」

 日向は苦しげな表情を浮かべながら、紗奈へ尋ねかけた。

「紗奈さん」

「なーに?」

「……るるがいなくなったの何時ですか?」

「えっとこの前の金曜日なんだ」

 五日前。

 その事を訊いて日向は悲しげに目を伏せた。

「なら尋ねるべき内容は少し違ってきますね」

 日向はそう零すと、エリカが神妙な顔で尋ねかけた。

「どういう事よ?」

「猫が五日間、姿を見せないでいて、仮に体力も限界であったとするならば――真っ白な毛も薄汚れている可能性があります」

「あ……」

 だから尋ねるべき内容は。

 日向は理解しながら、街中を歩く黒髪をしたイケメンの青年に声をかけた。

「あの、すいません」

「ん。なーにかな、僕に何か用かーい?」

「はい、お尋ねしたいんですが――」


        2


 そうして辿り着いた場所はとある病院近くの公園だった。

 緑が美しい広々とした公園。その場所へ踏み入ってしばらくして、三人は目当ての存在をその目にしたのだった。

 綺麗だったであろう白毛は僅かに薄汚れてパッと見ではグレーに見えている。

 しかし瞳の色は鮮やかなルビーカラーをした壮年の猫だった。

「るる……」

 紗奈は戸惑いがちにるるを呼び掛けた。

 るるはぴくりと耳を動かすと視線の定まらない様子を浮かべる――目はもう見えていないのかもしれない。

 此処へ辿り着いた理由は先の青年の言葉だった。

『白い赤目の猫は見てないけど、確かにさっき寄った公園で汚れた感じの赤目をした猫は見たかーなぁ。今にも死にそうな感じだった様子だーしねぇ』

 その言葉に従って辿り着いた公園がここだった。

 そこにるるはいた。

 芝生の上に横たわり静かに一生を終えようとしている姿で。

「るる……」

 そう声をかけられるとるるは重たい腰を上げて頼りない足取りながらも紗奈の元へと歩いてくる。そして小さく前足を上げると少女の差し伸べた手を軽く叩いた。

 まるで『見つけにきちゃダメじゃないか』と言いたげに。

「こんなとこじゃ寒いよ? 一緒に帰ろ?」

 少女のその声にるるは小さく「にゃー」と鳴いた。

 だが動く気配はない。帰るつもりは無いと言いたげに。紗奈は悲しげに零した。

「おうち、帰ろーよ、るる」

 その言葉にるるはプィッと顔を背けて紗奈とは反対方向へ歩き出す。紗奈が「るる!」と悲壮な声を上げた。

「どうしてなのかな? どうしてるる一緒に来ないの……?」

 ぽつりと漏らす紗奈の声にるるは止まる。けれど振り返る気配はない。

 その緊張した空気の中でエリカは日向にしか聞こえない程度の小声で呟いた。

「……自分が死ぬ場面を見せたくないのかしらね?」

「……」

 日向は切なげに目を伏せて、

「――おそらくは。僕だって、自分が死ぬ場面を大切な人には見せたくない気持ちがありますからね。何となくわかります。きっとるるさんは……」

 二人は何となく察していた。

 るるが彼女の元から消えていた理由。

 それは『猫は死期を悟るといなくなる』と言う理由以上に。


 紗奈に『死』を理解させて悲しませたくなかったのではないか、と。


(お兄さんを失くして――、おそらくはお父さんも死んでいる。そんな紗奈ちゃんに身近な自分がいなくなる事まで体験させたくは無かった……そんな理由なのかもしれないわね)

 病気で亡くなったであろう兄。

 事故で亡くなったであろう父。

 そして余命で亡くなるであろう自分。

 そんな立て続けに悲しい事を紗奈に味あわせたくなかったのではないだろうか。

(多分、るるが死ねばそれはもう避けようも無く引き金になる。きっと兄と父の二人もそうだったんだろうって紗奈ちゃんは理解してしまう。しないまでも――連想はするかもしれない)

 まだ父と兄にまた逢えると思っている少女にそれは酷だ。

 しかし、

「……るるさん」

 日向はそれでも口にした。

「お兄さんは――悲しい事から目を逸らし続ける為に貴方に紗奈さんを任せたんですか?」

「……弦巻」

 エリカが日向を見やった。日向は微かに苦笑しながらも頷いて返す。

 動物に話しかけて伝わるかどうか――それでも伝わると日向は信じたかった。

 紗奈が不思議そうに日向へ視線を向ける中で更に語りかける。

「貴方の友達は紗奈さんに楽しい日々を生きて欲しいと願って貴方が紗奈さんと一緒にいる事を願った――それは間違いないと思います」

 だけど、と呟いて、

「それだけではないでしょう? 死の実感は誰しも避けようも無く、何時か必ず理解が訪れるはずです。貴方の友人はきっと貴方もいつか自分と同じ場所へ来てしまう――そう考えるからこそ紗奈さんに乗り越えるべき試練として友人として貴方を託したんじゃないんですか?」

 その言葉にるるは微かにぴくりとした。

 紗奈の兄は言っていた。

 泣き虫を乗り越えろ、と。

 それはきっと自分と同じく何れやってきてしまう猫に託したお願いだったのだろう。自分の死を妹が何時か理解し、そして永遠の別れと言うものを知るためのもの。

「……どういうことー?」

 紗奈が難しそうな表情を浮かべた。

「るるとは……もう一緒にはいられないの?」

 問い掛けられたエリカは僅かに逡巡した後に、

「……うん、そうなの」

 と小さく首肯した。

「どうして?」

 そう尋ねる紗奈に対してエリカは身を屈ませ、彼女と同じ目線の高さになると静かに語りかけていく。

「るるはね、もうすぐ――頑張り終えちゃうのかな」

「頑張り終えちゃう?」

「ええ、頑張って生きてきた事に胸を張って、眠っていくの」

「ねむいの、るる?」

「ええ。だけどね。そしたらもう、目を覚まして紗奈ちゃんと遊んだり、傍にいたりする事はもう出来なくなっちゃうの」

「……なんで?」

 じわっと目尻に涙を浮かべる少女の頭を撫でながら、エリカも微かに涙を浮かべた。

「るるはさ――死んじゃうのよ、紗奈ちゃん」

「死んじゃう?」

「ええ」

「死んじゃうと、るるもう一緒にいてくれないの?」

「そうね、死んでしまうともう一緒にはいられないの」

「そしたらもう……るるとは会えないの?」

 その言葉にエリカは悲しげに目を伏せながら頷いて返す。

 紗奈は目から大粒の涙を零し始めた。

「やだぁ……! るる、いなくなるのやだよ……! おにーちゃんも、おとーさんもどっか行っちゃったけど、るるはずっと一緒だったもん……!」

 少女にとってるるはかけがえない存在なのだ。

 父がいなくなり、兄がいなくなっても、それでもまだるるがいた。だから笑顔で笑っていられたのだ――なのに、そのるるもいなくなってしまう。

 それは紗奈にとって耐えがたい事だった。

「どうにかならないの? るる、死んじゃう、するの?」

「どうにも出来ない事なんです、紗奈さん」

「どうしても……?」

「どうしても、です」

 紗奈の懇願に日向は震える声で、けれどしっかりとした声で返した。

「紗奈何も出来ないの……? るるの為に何も……!」

 消えゆく命を前にして日向とエリカに出来る事は無い。

 殺されるでもなく病死でもなく事故でもない――自然の摂理だ。時が訪れた。唯それだけ。

 しかし、それでも出来る事はある。

 二人には出来ずとも、るると過ごしてきた少女には。

「紗奈さんは、何時もるるさんと何をして過ごしてきましたか?」

「え?」

 突然に意外な事を問われて、きょとんとする紗奈。

「そんな特別な事はしてないよ? ただ、遊んでるだけで……」

「なら――そのいつも通りを過ごさせてあげる事が紗奈さんの出来る事だと思います」

「え、でも……」

「紗奈さん」

 日向は優しく語らい掛ける。

 少女が理解出来る様に言葉を吟味しながら。

「るるさんは、このままの紗奈さんじゃ心配になってしまうんです」

「どうして……?」

「るるさんは自分がいなくなってしまったら紗奈さんが泣いてしまうかもしれないなって。だからそうならない様に紗奈さんの所から離れていってしまったんです」

「でも、それじゃ紗奈がるるの事心配だよぅ……」

「そうですね。だからお相子です」

「おあいこ?」

「ええ。紗奈さんはるるさんが心配で、るるさんも紗奈さんが心配だから、お互いに心配しあって今こうしているんです」

 捜す者と隠れる者。その気持ちの重なり合いがそこにはあった。

「でも、それだけじゃダメですから」

「ダメ、なの?」

 涙を浮かべる紗奈に向けてエリカが優しい声で告げていく。

「そうね。このままじゃ悲しいだけになっちゃうと私も思うの」

 だからね、と呟いて、

「るると最後まで一緒にいようって頑張ってみて、紗奈ちゃん。きっともうすぐ『死んじゃう』って事を知る事になる――けれど、それから目を背けないで、接してあげること。それが紗奈ちゃんがるるに対して出来る最良で最高の事なのよ」

「私がるるに……」

 神妙な表情で紗奈はるるを見つめた。

 日向がるるへ向けて語りかける。

「それが――きっとるるさんの友達が紗奈さんとるるへ願った願い事、想った日々なんだと思います」

その言葉に対して静かにるるは日向の方へ歩み寄る。

 そして静かに日向の手元に手を伸ばして――引っ掻いた。『そんな事言われずともわかっとるわい』とばかりに引っかかれた。手元から血がにじむ。

「……」

 何故か扱いが日向だけ酷かった。

 涙を浮かべる日向をエリカは軽く肩をぽんと叩いて慰めつつ、厳かな静謐なる空気を漂わせる二人を見守った。そして静かに少女と猫は近づいてゆく。

 少女の双眸は涙に潤んでいた。

 けれど同時に決して目を背けない様にしようという意思が内在しているのがその雰囲気から感じ取れる。だから少女は告げるのだ。

 茜色の陽光がそよぐ葉の隙間から零れ出るこの空間で。


「るる――、一緒にあそぼっ♪」

「にゃー」


 ――そうして最後の遊戯が始まった。



 それから十数分の間に少女と猫は戯れていく。

 少女と猫。二人が織り成す幕引きの舞台。猫じゃらしを振って、楽しそうに穏やかに過ぎていく遊戯が差し込み始めた空模様の下で。

 その光景をエリカは感慨深い表情で見つめていた。

 少女と猫を逢せてあげられた――それは素直に嬉しい。最後の時を過ごさせてあげられている――それも心から嬉しい。けど、同時にそれ以上の事は出来ない。

 わかってはいるけれど――僅かに心淋しくもあった。

「……他に出来る事があったら良かったかもしれないんだけどね」

 わかっている。寿命なのだ、仕方ないのだと。

 それでも――、とエリカは思った時に手の甲の血を洗いに行くついでに買い物があると言って何処かへ走って行った日向が超高速で帰ってきた。

「ただいまですエリカさん」

「……おかえり。けど、どこ行ってたのよアンタ?」

 エリカは不思議そうな目で見つめる。

「ちょっと近場の本屋さんへ行ってましたっ」

「本屋?」

「はい!」

 日向は笑顔を浮かべてエリカにそっとそれを見せた。

 何の変哲もないスケッチブックに、鉛筆だった。

 けれど、日向の事を知るエリカは理解した様に明るい顔を浮かべた。

「――ああ、そっか!」

「はい、僕、絵は得意な方ですからね」

 そう言って日向はくるんと削り終えた鉛筆を回す。

「――この光景を絵に残すくらいなら」



 そうして少年は戯れる一人と一匹を見据えながらさらさらと筆を走らせた。

 大まかにつけた輪郭に微細な線で徐々に形を成していく。

 さながら魔法の様に徐々に線が温かな光景を模写していく様を見てエリカは和やかな表情を浮かべながら感心した声を発した。

「流石なもんね。凄く上手じゃない、アンタ」

「本当ですか?」

「うん、上手上手」

 エリカにそう言われて日向は嬉しそうに表情を綻ばせた。

「恩師の先生に比べるとまだまだなんですけどね」

「そうなの?」

「はい」

「恩師ってどんな人なわけ?」

「僕に絵の道を示してくれた人なんです。優しくて頼り甲斐のある先生なんですよね」

「へぇー」

 エリカは興味深そうに相槌を打った。

 日向がこうして絵を描く様になった根源である人物なのだろう。どんな人なのだろうかと興味を抱いた気持ちは否定出来ない。

「優しくて頼り甲斐のある人なんです」

「そっか、大好きな先生なのね」

「はい、憧れの恩師なんです」

「いいわね、そう言う憧れる人がいるって」

 エリカは優しい笑みを浮かべてそう零す。

「はいっ♪ エリカさんにもいますか?」

「そうね、お姉ちゃんとかお母さんとか……私もいるわね憧れる人が」

「なら素敵だと思います♪」

「ん、ありがと」

「それと僕はエリカさんの事も大好きです♪」

「……作業に集中しなさい」

 大好きな恩師を挙げたからエリカの事も大好きと言ったのだろうが、エリカは「本当度々言うんだから」と小さな声で赤くなりながらそう零した。

 そんなエリカに日向は穏やかな表情で返答した。

「何だか凄く不思議です」

「何が?」

「エリカさんが傍にいるってだけでドキドキします」

「バカ言ってないの」

 頬を朱に染めながらエリカはむすっと呟く。

 本当に口を開けば自分の感情を揺らす様な無自覚の言動には未だに慣れない。生涯、慣れないだろうとエリカは思ってしまうくらいに。

「本当なんですよ? でも同時に凄く心地いい気持ちで筆を走らせる事が出来るからびっくりです。穏やかって言うのか安らいでるっていうのか……凄くふわふわな感覚がします」

「……そっ」

 エリカはほんのり頬を染めながら小さくそう零した。

「傍にいた方が描くの捗りそう?」

 日向は逡巡した後に恥ずかしそうに頷いた。

「なんかいい感じがするので出来るならいてほしーです。一緒にいてほしーです」

「……仕方ないわね」

 エリカは困った様に柳眉をひそめながら嘆息を浮かべた。

「アンタが絵、描くとこ見てみたいし、しょうがないから傍にいてあげるわよ」

 優しい声音でそう言ってくれたエリカに対して日向は心から嬉しそうに破顔した。



 時間にして一五分程度が経過した頃。

 るるの動きは目に見えて少なくなってきていた。猫じゃらしを求める動作も次第に緩慢になっていき、体も徐々に横になっていく。そんなるるを見守りながら紗奈は涙を浮かべながら問い掛ける様に言葉を紡いだ。

「るる、眠いの?」

 にぃ、と小さく言葉が浮かんだ。

「おねむ、する?」

 微かに首が頷かれる。

「もうすぐ――お別れ?」

 しばしの間を置いた後に小さく首肯で返した。

「そっかぁ。もう……逢えなく、なっちゃうんだね」

 震える声で呟く少女の膝をぽんと右手で触れた。肉球の柔らかい感触が伝わってくる。

 まるで『ずっと一緒にいるよ』と言わんばかりに伝わってくる。

「るる、やさしいねー」

 苦笑する様な声で告げるとるるは『当然だ』とばかりに微かに目を開いた。

 そして――、

「にゃぁぁぁ……」

 掠れる様な鳴き声を最後に目をそっと閉じた。

 思い出すのは昔の光景――自分を友人の様に扱った少年の姿を思い起こしながら、るるは静かに体から力が抜けていくのを実感し――、

「……るる」

 紗奈はぽつりと零した。

「紗奈ちゃん」

「おねーちゃん」

 声をかけるエリカに紗奈は儚い笑顔を浮かべて問い掛けた。

「るる――紗奈の事心配してないよね?」

「ええ――、だって」

 エリカは一拍隙間を置いて答える。

「紗奈ちゃんの腕の中でそんなに安らいだ顔で寝てるじゃない。だから、きっと、大丈夫よ」

 その言葉を最後に。

 猫を抱く少女は堰を切った様に嗚咽を零した。



 それからしばらくすると――和やかな時が優しく訪れた。

「何だか恥ずかしい場面を見られたっ」

 目の前で恥ずかしそうに不貞腐れる少女に日向とエリカは苦笑を零す。

 涙をとめどなく溢れさせて、しゃくりあげる姿を見られた紗奈は若干恥ずかしそうだった。初めに出会った時も泣いてたよね? とは言わないのが年上の優しさだ。

「でも、ありがとう。るると最後に逢えたの、おねーちゃんたちのおかげだから……!」

「大した事はしてないわよ。探しただけだもの」

「そんな事ない……本当に、嬉しかった。紗奈に話しかけてくれたのおねーちゃんたちだけだったからさ……」

 ベンチの上で困り果てている所を助けてくれたのは二人だった。

 だからこそ紗奈は感謝を示す。

「るるが『死んじゃう』事も……おねーちゃんたちが教えてくれたから……おねーちゃんたちが傍にいてくれたから頑張れたんだと思うんだ」

「紗奈ちゃん……」

「……」

 紗奈は僅かに逡巡した後に、

「おにーちゃんも……おとーさんも、そうだったのかな……」

 その言葉に二人は言葉を吟味する。

 何と答えればいいのか咄嗟には思いつかなかった。

 けれど、

「うん、大丈夫。きっと――きっと、そうなんだとしてもね」

 紗奈は笑顔で頷いて、

「るる、心配させたくないから――紗奈頑張れるから!」

 幼いながらに煌めく笑顔にエリカは優しい笑みを浮かべながら「……そっか」と頷く。

 そしてその後にエリカはトンと肘で日向をつっついた。

「ほら、渡しなさいよ」

「でも平気でしょうかエリカさん……?」

「大丈夫。私が太鼓判押してあげるから。ね?」

 そう言われると意を決した様に日向は紗奈に向けて一枚の紙を手渡した。

「これなーに?」

「紗奈さんに僕から贈り物です」

 きょとんとしながらも紗奈はそれに目をやって、

「――あ」

 紗奈は体を震わせた。

 視界の海に吹き抜ける春風の様な輝きが感じられた。温かい、優しい風の感触がゆっくり浸透する穏やかな清流の様にゆるやかに感情の海となって満ちていく。

 その手には一枚の絵があった。

 鉛筆で書かれた、白黒の絵だった。けれどだからこそ温かみを感じる絵でもあった。

 そこには一人の少女と一匹の猫の絵があった。


 それは猫と戯れる少女の絵。


「私と――」

 るるだ、と震える声で零した。

「るるさんとの記憶は何もかも紗奈さんに残っていると思います。だからお節介かもしれませんが――、それでも紗奈さんに形あるものとして残してあげたかったんです」

「……」

「……ご迷惑でしたか?」

 その問い掛けにふるふると首を左右に振った。

「そんな事ない! 凄く――嬉しい……!」

 宝物の様に胸に抱き留めてじんわりと涙を浮かべた。

 その様子を見てエリカは「良かったわね」と優しく零して、日向は「よかったです」と嬉しそうに呟いた。

「ほら、じゃあ暗くなる前に帰らないとね紗奈ちゃん」

「うん」

「お墓……自分で作れる?」

「がんばるっ」

 力強く頷いて腕の中で寝息も無く眠り続ける、るるに目を向ける。

「自分の力で作ってあげたいから……!」

「そっか」

「それじゃあ、そろそろ行くね……!」

「ええ。けど本当に一緒に行かなくて平気? 送ってってもいいのよ?」

 エリカは少し心配げに問い掛けた。

「平気! 家までそんな遠くないし!」

 幸運な事に自宅までの道のりは遠くない様だ。

 確かに小学低学年の少女がそれほど距離を歩けるわけもない。

「そっ。じゃあ、ここでお別れね」

「うん!」

 紗奈は頷いた後に少しだけ苦笑しながら、

「今日は付き合ってもらってゴメンね、お姉ちゃん達。それと――本当にありがとうございました……!」

 と精一杯の感謝の感情を示した。

「気にしないでいいわよ。好きでやった事だからね」

「ですね」

「お姉ちゃん達、本当優しいねー♪」

 キラキラ輝く可愛らしい笑顔を浮かべて少女は「さっ、それじゃ――帰ろうか、るる」と腕の中の猫を小さく揺すると、駆け出した。

「気を付けて帰りなさいよー!」

「また逢えたら逢えましょうね!」

 その背中に手を振って二人はそれぞれに声を発した。

 紗奈は「うんー!」と力強く首肯して、


「またいつかね! 綺麗なおねーちゃんに、絵の上手なおねーちゃん!」


 そう、告げて走って行く。

 その言葉に日向が、戸惑い気味に呟いた。

「……絵の上手な、おねーちゃん?」

 エリカは「そう言えば」と思い出す。

 出会ってからずっと――『おねえちゃん』と言うワードは出てきたが、一度も日向に対して『おにいちゃん』と言うワードは出ていなかったではないか。終始『おねえちゃん達』で一括りだった記憶がある。

 つまり――紗奈はずっと日向を女の子と認識していたのだ。

 そこまで考えてエリカは吹き出してしまい、可笑しそうに笑いを零した。

「……ぷっ、くくっ、あはは……!」

「あう!? え、エリカさん、何そんなに肩震わせてるんですか!?」

「ご、ゴメン――けど……!」

「うああ……! と、とにかく紗奈ちゃん見えなくなるまで手振りましょうよ!」

 恥ずかしげに赤くなりながら手を振る日向同様にエリカも笑いを抑え込み、手を振る。

 不思議そうにしていた紗奈だったが、ぺこりと頭を下げると茜色に染まる坂道を再び走り出した。

 笑顔を浮かべて、時折振り返っては手を振りながら。

 そんな少女を二人は、少女の姿が見えてなくなるまで手を振って穏やかな笑顔で見送っていく。そうして遂に姿が見えなくなった頃、ふっと手を下ろして日向は呟いた。

「――僕の絵で良かったでしょうか」

「……何が?」

 神妙な、複雑そうな表情の日向にエリカは尋ねかける。

 日向は少しだけ柳眉をひそめながら、

「いえ、僕の絵は少しは役に立ったのかなって思ってしまって」

「立ったじゃない。紗奈ちゃん笑顔だったわよ?」

「けど、僕まだ未熟ですから……この場にいたのが先生だったり、他の人だったらって思ったら僕の絵は――ふみゃ」

 そう呟きかけた日向の頬を軽くエリカはつねった。

「そんな卑下しないの、自分をね」

 小さく微笑を浮かべながらエリカはこう告げる。

「この場にいたのが自分じゃなかったら、なんて考え程に無為な事はないわよ、弦巻。そこにいたのは恩師の先生でも美術部の先輩でもなく、アンタなんだから。アンタが全身全霊で取り組んだ――それ以上の成果なんてものは世界に存在しないのよ」

 だから、とエリカはトンと日向の胸元を軽く右拳で叩く。

「胸を張って誇りなさい。あの子が最後あんな素敵な笑顔を浮かべられたのは確かにあの子自身の力だってあるでしょうけれど――アンタの力でもあるんだから」

 ね? と、優しげにそう諭す様に告げられて日向は「……はい」と若干涙声で呟いた。

 そんな日向にエリカは苦笑を零す。

「なに、泣いてんのよ、アンタは全く」

「だって凄く嬉しい事言われましたー……!」

「変な奴ね本当にアンタは」

 可笑しそうにエリカは笑った。

 そんなエリカを見ながら恥ずかしそうにしながらも日向は答えた。

「僕の絵、まだまだですけど凄い嬉しかったんです」

「そっか、まだまだか」

 エリカは「なるほどねー」と零しながらエリカは何度か頷いた後に「……本当に仕方ないんだから」優しい声で零した。日向が不思議そうに彼女の背中を見つめる中で、エリカは穏やかな声でこう告げる。

「ならさ、仕方ないから、私も応援してあげるわよ」

「え?」

「アンタ唯でさえ自分を下に見過ぎなんだもん。だから、アンタが少しでも自分を誇れる様に応援してあげる」

「応援、ですか……?」

 トクン、と日向の胸が仄かに鼓動を打つ。

 それに互いに気付く事は無いまま、エリカは「そっ」と簡素に応答した。

「絵を頑張って描き続けられますようにってね」

「どーいう意味でしょうか……?」

 それはまるで早鐘の様に鼓動を打っていく。

エリカの声が、言葉が日向の心を騒がせていくのだ。

 その様子に前を歩くエリカは気付いていないまま、

「そんな大した事じゃないとは思うんだけどね」

 そうエリカは苦笑を零しつつ言葉を続けていく。

「私もアンタの絵のファンになってあげる。ああいう素敵な絵を描く姿を見てたからね」

 その言葉に日向は全身が感激に打ち震えるのを実感した。

 前を歩くエリカはそれに気づかないままに、ふわりと吹き抜ける春風に長く綺麗な髪をたなびかせながら、日向の方へ、くるりと身を翻しつつ、

「だからさ」

 その言葉に続く形で、新橋エリカはここ一番と言えるくらいに優しく素敵な声色を響かせ、


「――私は大好きになったわよ、アンタの絵」


挿絵(By みてみん)

 静謐に染まる茜色の空をバックに綺麗な茶髪を陽光に煌めかせながら、少女はくるりと日向の方へ振り返って、至高の優美を浮かべ、大輪の笑顔を綻ばせた。

 それは少年が見てきたどんな笑顔よりも綺麗で。

 それは少年が向けられてきたあらゆる表情よりも優しくて。

 それは少年が出会ってきた全ての記憶より彩やかで。

 ――少女が家族の事を語る時の優しい表情に、何処か、似ていた。

 うあ、と少年の喉の奥から声が零れる。

 笑顔の威力に全身全霊が気圧された。ザ、と片足が後ずさりまでしてしまう。

 心臓が破裂するんじゃないかと思う程に鼓動を打った。

 日向は心の底からその時思ったのだ。


 ――どうしてエリカさんは、こんなに反則的なくらい可愛くて綺麗なんだろうか。


(あう……!)

 次の瞬間には日向は全身が真っ赤に爆発したかと思う程赤くなった。

(うあ……!? な、なにこれ、なんだろう、これ、わかんないですよぅ……! なんなんだろう、なんなんだろう、何でこんなに体中沸騰するみたいに熱く――!)

 全身の血流が暴走したかの様に感じる程に体全身が熱くて仕方がない。

 今にも卒倒してしまいそうな激動だと言うのに、なぜだか、それが心地よくて仕方ないのもまた驚きであった。思わず笑いを零れ出てしまいそうになる様な複雑な感覚に陶酔し、そのあまりにも膨大に過ぎる感情の奔流が何なのかわからず日向の内面は大車輪の如く稼動を続け出してしまい、なにがなんだかわからなくなっていく。

「? 弦巻、どうかした?」

 エリカが不可解そうに柳眉を潜めながら小首を傾げた。

 その小首を傾げる姿だけで沸騰しそうな程に顔が熱くなる。

「……アンタ本当にどうしたの? 私、何か変な事とか言っちゃったりした……?」

 怪訝そうな表情を浮かべるエリカ。

 そんなエリカに対して「うあ……!」と顔の赤みをどうにか抑えようと手で拭う素振りをしながら日向は真っ赤な顔でエリカを見つめる。その顔を見るだけで心が落ち着かなくなっていくのがわかる。

 日向は堰を切った様に呟いた。

「何でエリカさんそんな反則なくらい可愛いんですかぁ……! なんでそんな振る舞いや仕草の全部が輝いて仕方ないくらい綺麗なんですか……! どーして、どーして、どーして、そんなに心臓をドキドキさせちゃう様な事ばっかり言うんですか! 反則過ぎて、可愛過ぎて、反則でもうなにがなんだかわかんないですよぅ……!」

「は? ――はい!?」

 唐突にそんな事を言われてエリカは仰天した様子で困惑する。

「な、何がよ!? って言うか急に何言ってるわけアンタ!?」

 そして顔全体を朱に染めて後ずさりながら恥ずかしさと共に叫んだ。

「だって可愛いのも綺麗なのも優しいのも魅力的なのも全部が全部反則なくらいじゃないですかぁ……! っどーして、そんな可愛いんですかエリカさんはッ!」

「そんな逆切れ気味に言われたってねぇ……!? か、可愛くないわよ!」

 可愛くなんてない。自分の様な男勝りな女のそんな風に言う等エリカとしてはおかしな話で信じられない反応ばかりに思えていた。

「かわいーです、大好きです、やさしーです!」

「間に変なもの挟むんじゃないバカッ!」

「間に挟まないと照れちゃいますもん僕ー……」

「ちょなっ!? な、何、おかしな事言ってんのよバカじゃないのアンタ本当に!?」

 やけに恥ずかしい事をカミングアウトされてエリカは真っ赤になって狼狽する。

「だって性格が凄く好きなんです……!」

「せ、性格を好きってのはありがたいけどさ……!?」

「その上で容姿も凄く素敵で、スタイル抜群で、胸も大きくてふかふかで大好きな匂いとかもして、柔らかくて、大好きですし……!」

「ば、バカ何言ってんのよスケベ! 変態! その事は忘れなさいよ!」

 前にも胸の事を言われたりした事を思い出し、匂いが柑橘系で好きと言う事も思いだし、なんだかもうエリカは羞恥心を煽りに煽られまくっている心地で怒りをあらわにしようと頑張るのだが場の空気が恐ろしく怒りを和らげる様な独特の感触に動揺してしまう。

 そしてそんなエリカに尚も日向は真っ赤になった顔でエリカを見つめ続けた。

「エリカさん、好きです、大好きです、なんだかもう、どうしようもなく好きで好きで、大好きになってきますよぅ……!」

「な、懐き過ぎ! 懐き過ぎないの本当にもう! このバカ! バカ子犬! そ、そんな何度も何度も人の事す、す、好きとか言わないの!」

 真っ赤な顔でエリカは首を左右に振ってどうにか言葉を振り払おうとする。

 とにかく子犬が懐いている様なものなのだろうが、とエリカは考えるも怒涛の勢いで恥ずかしさが波打つために動揺はどうしても拭い切れなくなっていってしまう。

「エリカさんの髪の毛、光でキラキラして本当綺麗です……」

「真っ赤な顔で何を言ってんのよ!?」

 挙句、頭を振って否定してる為に揺れる髪の毛を褒められ真っ赤になるエリカ。

「それとそもそも声が大好きなんです……」

「ぬぁ……!?」

 遂には声まで褒められて更に真っ赤になっていく。

「エリカさんの声、凄く好きですー……」

「が、あ、ば、な、は、はぁ……!?」

 エリカは混乱の渦中にあった。

 急に、突然に日向が真っ赤になりながらそんな好意的な発言を連発し出した事に混迷の極みにあり同時に何が引き金となったのかまるでわからず動転する。

(こ、声まで好きとか本当にバカか――って、ああ、そう言えば美術部行った時にそんな様な事を言ってた気もするけど――ああ、もう、とにかく!)

 思考がぐちゃぐちゃになりかけたところでエリカは気をしっかり持とうと決意を改める。

 そして日向の手を握った。

「あう……!」

 その感触に日向は真っ赤になっていく。

 エリカはそうなると理解してはいたが、仕方がない。

「あ、赤くなるんじゃないバカッ! ほら、さっさと行くわよ!」

「ど、何処へですか?」

「何処へじゃないわよ、にゃーことぺろ太がお腹すかせて待ってんでしょーが!」

 ぬいぐるみはお腹は空きません。

 そんな事わかっているはずのエリカだが脳内がゴチャゴチャで些細な事にツッコミを、もとい考慮を入れる余裕は微塵も無かった。

「ほら、さっさと歩く! 夕日が沈む前に帰るんだからね!」

「わ、わかりましたー……!」

「よし、じゃあ行くわよ!」

「ところでエリカさんの手って握るの嬉しかったですけど、さっきまでと比べてもっと嬉しいのとドキドキするの何でなんでしょうか――」

「黙って歩く! 無駄口叩かないッ!」

 そんな日向の言を全て封殺。

 言論など弾圧すべきなのだ、とエリカはこの時だけそう考えた。

 そうして喋る日向の口を「ばかばかばーか!」と大声で吹き消しながら、二人は茜色に染まりゆく街並みを歩いていくのであった。

 そしてそんな二人が歩いた後に小さくぽつりと雫が降った。


        3


 預けたロッカーを取ってくる為に帰路についた二人は意外な障害にぶつかっていた。

 二人して預けたコインロッカーの場所で見事に立ち往生している様に。

「……いや、予想外だったわね」

「予想外でしたねー」

 狐の嫁入りと先人は言うそうだ。平たく言えば、天気雨と言う奴になる。

 幸いなのは大振りではなく歩いていても少々濡れる程度の小雨だった事だろうか。

「天気雨に降られるとはね。ま、こういう時もあるか」

「ですねー。冷たくて気持ち良かったからいーですけど」

「……ホントよ。気持ちいいくらいに感じたのが腹立たしいわよ」

 笑顔を浮かべる日向に対してエリカは不貞腐れる様にそう零す。

 冷たい程――と感じると言う原因は大半、日向の言動の所為で顔が真っ赤になるわ、体が熱くなるわは原因だったのだから不貞腐れもしようというものだった。

(ただ、まあ、こいつの頭を冷やしてくれたのもあるしお天気雨ってありがたいわね)

 うんうんとエリカが頷いている内容を日向は知らず不思議そうに見ている。

 が、不意に日向の顔が朱に染まってエリカは不思議そうに小首を傾げた。

「……何、どうかした?」

「あ、いえ、その……」

 日向は恥ずかしそうに赤面を浮かべながら、

「雨に濡れたエリカさんが何て言うか水も滴るいい女って感じで……何か艶めかしくて綺麗だなって思って……」

「ば……っ!?」

 エリカは一気にまた顔が火照るのを実感した。

「バカじゃないの本当にアンタはもう! ど、どこ見てるわけ!? ま、まさか服どっか透けてたりしないでしょうね!?」

 焦った表情で衣服を見るが透けるタイプではない事にほっと胸を撫で下ろす。

 しかし、

「いえ、その髪の毛が水に塗れて何だか色っぽいなって……」

「どんな目で私を見てんのよアンタは――ッ!」

 思わずにゃーこで日向の頭部を叩いた。ぼふんっと言う軽い衝撃が走る。

そうして「すいません……」と、零す日向に対して「もうホント知らないからねっ!」と真っ赤な顔でエリカはそっぽ向いた。日向が「エリカさん」と会話したそうに話しかけるもエリカはツーンとそっぽを向き続けた。なにせ散々自分に対して異性を見る目でガンガン見られているのだからたまったものではない。その上妙な程純粋な為に対応に悩みエリカはとにかくツンとすました。そんなエリカを見ながら赤い顔で「あう、後ろ姿まですごい綺麗ですやっぱり……」と、好意の視線が注がれているがエリカは必死に言葉をスルーし続けた。

 そうしてしばしザーっと振る天気雨を過ごした後に日向がぽつりと呟いた。

「雨、何時上がるでしょーか?」

「……さあね。けどそのうち上がるでしょ」

「雨、上がったら見れるでしょーか……」

「何が?」

「虹です」

「……虹、か」

 エリカがそこで微かに複雑な感情が篭った様な声を浮かべた。

 しかし日向はそんなエリカの機微には気付かないまま言葉を続ける。

「虹、大好きなんです僕」

「……。……虹なら大半の人が好きでしょうが」

「ですよね」

 日向は微笑を浮かべて頷いた。

「けど、僕虹は特に大好きなんですよね」

「……。……そうなんだ?」

「はい。ずっと昔――子供の頃、虹を好きにさせてくれる同年代の女の子に出会ってそれ以来なんですよね」

「……ふーん」

 エリカはそっけなくそう返答する。

 そうして髪の毛の先を指先で弄りながらエリカは問うた。

「……。……その子の事、覚えてるわけ?」

「ちっちゃい頃でしたから、あんまり。でも凄くかわいー子だったな、って記憶してます」

「……そうなんだ」

「あ、でもエリカさんも凄くかわいーです」

「……何度も言わないのバーカ」

 ぺしっと指先で髪の毛を払い除けながらエリカはそう呟く。

 そうしてしばらくの沈黙が続いた頃に雨はやがて晴れ渡り、晴天が架かりゆく。雲間からは光が差しこんで茜色の空を幻想的に彩って行く。

 そしてふとあるものが見えた時に日向は嬉しそうに尋ねかけた。

「――エリカさんは」

「ん?」

「好きですか? 虹」

「……」

 その問い掛けにエリカはふっと視線を空へ向けた。

 そして絶対に日向には聞こえない様に小さな声で呟く。

「――雨上がりって素敵だから」

 その光景に優しい瞳を浮かべながらエリカは恥ずかしそうにしながらも、日向の方へ視線を向けて、柔らかな声でこう答えた。

「私だって好きに決まってるわよ、虹」

 その言葉に日向は嬉しそうに顔を綻ばせたのだった。

 そんな二人が見上げた空には――茜色の空に架かる綺麗な虹が映し出されていた。


        4


 日向とエリカ。

 二人が帰路についたのは茜色の空が沈みゆく、夕闇が間近に迫る時間帯であった。

 その腕にエリカはにゃーこを、日向はぺろ太を抱きながら、足を進めていく。

「良かった、夕飯前には帰れそうね」

「今日は遅くまで、ありがとーございましたエリカさん♪」

「いいわよ、別に。服とか高いもの買ってもらったりしたしね。それより、いいの? わざわざ家まで送ってもらっちゃって」

「はい。エリカさん一人で帰すわけにはいきませんから!」

「別に一人だって全然へっちゃらよ?」

「でもエリカさん女の子なんですから遅い時間に一人で帰すなんて僕、ヤです。何かあったら大変ですもん」

「……私にそんな事言うの本当アンタくらいよ?」

「そーなんですか?」

 ほにゃんとする日向にエリカは「まぁね」と恥ずかしげにそっぽむく。

 一人で大丈夫だと言うのに『女の子だから』と言われて一緒についてくる男子など滅多にいなかったエリカである。

「私、武術とか習ってるしそこらの変質者とかなら本当平気なのに」

「でもエリカさん凄く可愛いですし」

「だから可愛くないわよっ!」

「そんな事ないです可愛くて……凄く、綺麗で大好き、ですし……」

「だ、だから、真っ赤になりながら変な事言わないのっ!」

 赤くなって俯きながらそう零す日向にエリカは赤くなって怒鳴った。

「声も匂いも性格も容姿も好――いいですから、やっぱり心配になっちゃいますし……」

「それ全部アンタの主観でしょうが!? って言うか何言い掛けたのよもう!」

「どーしてそんなに可愛いですか?」

「知るわけないってか可愛くないわよ!」

 エリカは尚の事真っ赤な顔で怒鳴りながら、声を落ち着かせるとこう呟いた。

「と、とにかく送ってくれるのは感謝しておくわよ」

「あ、はいです♪」

「……っていうか、もしかして私の家が知りたいとか言う魂胆は無いでしょうね?」

 ジト目で睨むと日向はハッとした様子で、

「あ、そう言えば……!」

「……頭には無かったみたいね」

「……どう挨拶したらいいんでしょうか……!?」

「別に普通でいいんじゃない。――その前にアンタは家に上げないけどね」

「……」

 日向はしばし沈黙した後に、「……どーしてですかぁ……?」とか細い声で問い掛けた。

 エリカは若干頬を染めながら「……どーしてもよ」と答える。

「あううー……エリカさんの家……」

「悲しそうな声上げてもだーめっ」

 エリカは恥ずかしそうにツンと言い放つ。

「せめて理由知りたいです……!」

「理由?」

 エリカはふっと冷笑を浮かべて、

「――私が大変な事になる気がすっごいするからよ」

 と、本日最後にしてやけに悟った様な表情を浮かべた。

 日向は不思議そうに呟く。

「なんでですか?」

「何でって言われたら、そうなる気しかないって直感かしらね」

「そうなんですか……? エリカさん、ご自宅凄い好きみたいでしたけど」

「ええ、新橋家は大好きよ。けど、アンタが今来たら絶対に私は部屋に篭る未来しか想像できないのよね。だから絶対――アンタは家に上げてなんかやらない」

「エリカさん冷たいです……!」

「ふん、何とでも言うがいいわよ!」

「でもそれ以上に大好きです♪」

「ゴメン、やっぱ何とでも言わないでくれるかしら?」

 顔を右手で半分覆いながら真っ赤な顔を浮かべるエリカ。

 しかし理解する。やはり日向を家へ招いてはいけない、と。招いたが最後、

(絶対、父さんも母さんもユウマも厄介な反応する光景しか浮かばないわよ……!)

 からかわれる未来は確実だ。

 限界点が近いのだ、臨界点が遠くないのだ。これ以上そんな顛末は耐えきれない。

「でも残念です。エリカさんご両親にお会いしたかったです」

「……そうなの?」

 はい、と日向は頷いて、

「エリカさんが絶賛するご両親だから逢ってみたかったです」

「ん、まあ、最高の両親なのは本当そう思うわね」

「でもエリカさん上げてくれません」

「うっさいバーカ。上げて欲しかったらせめて、言動どうにかしてからにしなさいよねっ」

「言動……え、もしかして僕言葉遣いとか変でしょうか?」

「そう言う事じゃないわよ、もうバカ」

「そうなんですか?」

「ええ。アンタはもっと自分の言動に自覚を持ちなさいよ。バカの上にスケベなんだから」

「だってエリカさん前にするとどうしようもなく興奮してしまうんですもん……」

「知らないわよもう本当にエッチなんだからバカっ!」

 頬を朱に染めながらエリカは釘をさす。

 今日一日で何度恥ずかしい想いをされただろう。

 新橋エリカにとって今日の記憶がどれだけ厄介になるかわからないくらいだった。

 対する日向は「善処してみますけど……」と不思議そうに思考していた。

「頑張って善処することね」

「はい。でも、エリカさん、エリカさん」

「何よ?」

「善処したらエリカさんのご自宅伺ってもいいんでしょうか?」

「……そんなに家上がりたいの?」

「上がってみたいです♪」

 エリカは恥ずかしげに頬を掻く。

「……また何時かね。とにかく今日はダメなのっ」

「うー、わかりましたぁ……」

 とにかく今日だけは確実に拙い。

 本音を零せば今日に限らず一年中拙い。だが、それを言うと日向が凄く悲しい顔を浮かべそうな気がするので流石に言えないエリカである。

 そこでエリカの視界に見慣れた屋根が見えてくる・

「……あ、家見えたわね」

「どれですかー?」

「アレよ」

 指差した先に視線をやって日向は感心した様に声をあげた。

「結構大きい家なんですねー……!」

 芳城ヶ彩に通うだけあってエリカの新橋家も相当大きい家の様だ。少なくとも一般の邸宅に比べれば格段に大きい。豪邸とまで大きい家ではないが立派な邸宅と言うニュアンスが正しい家であった。清潔感のある白の建造物で屋根の色は綺麗な赤の三階建ての建物だ。

 アレがエリカの家なのか、と思うと日向は何となく素敵だな、と思った。エリカにユウマが育った家――きっと素敵な家なのだろう、と考えると何とも感慨深い。

 同時に何故だかふっと胸中を過ぎ去る感情があった。その感情が不意に口をついて出る。

「……あの、エリカさん」

「ん? なに?」

 きょとんとするエリカに日向は顔を赤くしながら呟いた。

「最後に少しだけお話いいでしょーか?」

「いいけど? まあ、少しくらいならね」

 そう訊くと日向は赤い顔を嬉しそうに綻ばせる。

「今日、来てくれて凄く嬉しかったです」

「そう? まあ、約束だしね」

「はい♪ それで、その……エリカさんと一緒にいるの凄く楽しかったです」

「……ま、私もそこそこ楽しかったわよ」

 照れる様にしながらエリカは顔を背けながら呟くと日向は嬉しそうに「本当ですかー♪」と尋ねてくるのでエリカはか細い声で「……まぁね」と返す。

「それでですね。一緒にいると凄く安心出来たんです」

「そうなの……?」

「はい。心がぽかぽかあったかくて、凄く嬉しくて安心するんです♪」

「……そ、そう」

 髪の毛の先の指先で軽く弄りながらエリカは少しだけそわそわしてしまう。

「それで、その……」

 日向は言葉を口の中で何度も転がした。

 何を言うのが正しいのか吟味する。しかし口をついて出たのは――考えを越えた本心からの言葉ばかりだった。


「これから先も――ずっと一緒にいたいです、一緒がいーです。一緒にいて……いーですか?」


 エリカが凄く咽込んだ。

 顔を真っ赤にして叫ぶ。

「なっ、ちょ、あん、バカっ、っていうか、は、はぁ!? アンタ唐突に何を言ってんのよ!?」

「だってエリカさんと一緒にいたいですっ」

「い、一緒がいいって言われたってね……!?」

 あたふたとするエリカ。

 むぅ、と『いいって言うまで引きません』の様な何処か拗ねた様な表情を浮かべながら日向はそう零す。その発言に果たしてどこまでの思慮が含まれているかエリカには判別出来なかったが、発言の意味は流石に察してしまう。

「な、なんでそうなんのよ本当に……バカぁ……!」

 何を言えばいいのかわからずエリカはぷしゅーと湯気を発した。

 そんなエリカに対して「だって、その」と赤い顔で日向は告ぐ。

「エリカさんと一緒にいれば何なのかわかるかなって思いまして」

「何なのかって……何がよ?」

「その……今日の僕なんか色々変で、それがわからなくて」

「アンタが変なのは今に始まった事じゃないでしょうが……!」

「あう、それはその確かにエリカさんを前にするとずっと変な感覚があるんですが。と言うかずっとそうだったわけなんですが……」

 むー、と難しそうに唸る。

「エリカさんと一緒にいるとぽかぽかして何だか凄く心地いいんです。不思議な感覚が湧いてくるといいますか――これが何なのかずっとわからないままで、今日もそれが凄く湧き上がってきちゃって、でも気持ちいい感触で……今までこういう感情になった事もないのでよくわからなくて不思議だなって……でも、エリカさんと一緒にいればわかる気がするんです」

「……」

「だから一緒にいてほしいなーって――エリカさん? 何で顔向けてくれないんですか?」

「こっち向いたら怒るから」

「何でですかぁ!?」

「っていうか向いたら口きかない、話しない、無視するから」

「うぇ!? じ、じゃあ向かないです……」

 しょぼんと落ち込みながら顔を左へ向ける日向。

 その右側――右を歩くエリカはもうどうしようもなく顔を赤一色に染め上げていた。

(何で――)

 心からそう思う。

(何でそんな恥ずかしい事カミングアウトされなきゃなんないのよ私!?)

 純粋な好意を向けられる事が恥ずかしくて仕方ない――が、今日向が言った言葉の意味は少しに見えて大きく違っているものだと言うのがエリカだって流石に理解出来る。

(そこまで――そこまで言ってる時点で自覚とか持ちなさいよ! ああ、でも、そうなったらそうなったで、何か大変そうだし――ああ、ほんとにもうコイツときたらっ!)

 放たれた言葉の意味が理解出来てしまいそうになる為にエリカは顔の熱がまるで引かない。

 しかし!

(別に何てことないし! 子犬に懐かれてるだけだし!)

 精神を強くもってエリカは顔の熱を冷ますべく尽力する。

「でも全部本当なんですよー……」

「黙ってなさいっ、喋るなバカっ」

「あう……でも、昼間エリカさんがナンパされてる時は何か異様にムッてきちゃったりしましたし僕何だか色々変なんです……」

「アンタは本当にもぅ……!」

 喋らないのって言ってんでしょうが、と消え入る様な声でエリカは零しながら頬の熱さを拭おうと努力する。風が涼しいはずなのに一向に冷める気配が無いのが苛立たしい。

「エリカさん、エリカさん」

「ああもう今度は何よ!?」

 何かこの遣り取り何度目だろうかと思いながらエリカは自棄気味に反応した。

「その、お願いしてもいーですか?」

「……何をよ?」

 真っ赤な顔で「内容によるわね」と律儀に答える。

 日向は赤面を浮かべながら懇願した。

「その……また今日みたいに一緒にお出かけしていーですか?」

「……え?」

「ただ、そのお礼返しとかじゃないから、デートしてほしいって話なんですが……。また今度デートに誘っていいでしょうか?」

「なぁ……!?」

 エリカは真っ赤になって後ずさりそうになる。

 だがやはり手を握られているので軽く後ずさるしか出来なかった。もう手を握るのが厄介すぎて仕方ないと思えてくるエリカである。

「ばっ、も、もう、何変な事言ってるのよ! デートとかなら他の女の子を誘いなさいよ!」

「エリカさんがいーです」

「だ、だからね、そう言って私限定にしてないでさ……!」

「だって、エリカさんと一緒にいると好きな感じがしてエリカさん以外じゃ意味ないです」

「この素直バカはぁ……!」

 ここまで言っておいておおよそ自覚すら無いのが理解出来るだけエリカはきつかった。

 と言うかどうしてここまで言っておいて本人自覚ないのかが甚だわからない程だった。

 そしてそんな言葉を近距離で散々言われ続けるのだからエリカの精神はたまったものではない。むしろ、こんな素直を相手にして頑張ってる現状を褒めて欲しいくらいな気持ちだった。

「ダメですか?」

「だ、ダメに決まってんでしょバカ!」

「お願いです……!」

「そ、そんな事お願いされたってね……!?」

「エリカさんと一緒にいる時のあったかい気持ちもっと知りたいです!」

「あ、ああもう……!」

 エリカは顔を真っ赤っかにしながら目尻に涙さえ若干浮かべているくらいに赤い顔をする羽目になっていた。握った手は無意識なのか放してくれる気配がないし、瞳は真剣で、どこか不安に揺れる様に自分を見つめてくるわ、声は自分を求めて止まないわでエリカの進退は窮まれりな現状だったのは言うまでもない。

 そしてエリカは「うぁぁ……!」と喉の奥から声を発した後に、

「……わかったよバカ」

 不愛想な言葉を赤い顔を日向から逸らしながらつっけんどんにどうにか発した。

 ――ああ、了承してしまった。

 エリカは自分で言った言葉が今後生み出すだろう事態を予期して実に複雑な気持ちになってしまう。果たしてどうなる事か――厄介過ぎて仕方がない。

 しかしその言葉は日向に心からの祝福を投げ掛けた様に彼を笑顔にさせた。

「うれしーです♪」

「そ、そっ。な、ならよかったわね」

「はい、エリカさん大好きです♪」

「わ、わかったから何度も何度も変な事言わないのっ!」

「本心ですもん、変な事言ってないです」

「うぁ……!」

 しゅぼっと顔を赤くなりかけたところで、

「じ、じゃあ、もういいわよね? 私もう家入るから! ま、また休み明けにね」

 そう言ってエリカは軽く手を振って日向の握る手を優しく振り解く。

 顔が真っ赤なのも見られるわけにはいかない――エリカはバクバク鼓動する胸を抑えながら日向に別れを告げて家の中へ入ろうと踵を向けた。

「――あ――」

 だが、そこで不意にぎゅっと手が握られる。

 放し掛けたはずの手が再び握り緊められてエリカは一瞬きょとんとなるが、手を再び握られた事に気付くと「な、ななななななぁ……!?」と動揺を浮かべたるも、

「な、なに? どうかした……?」

 と、平静を装いつつ尋ねかけた。

 何故再び手を握ったのか――何か用がこれ以上あるのだろうか? と、エリカは不思議に思いながら顔を日向の方へ向けると、そこには俯きがちにエリカの手を放さない日向の姿があって思わず頭に疑問符を浮かべる。

「あ、や、その……」

「なにか他にあるの?」

 怪訝そうに問い掛けるエリカに対して日向は上目使い気味に顔を上げた。

 その表情は何故だか困惑しているようにも見える上にどうにも顔が赤い。そしてその表情の日向には今日だけでもかなり覚えがあった為にエリカは思わず身構えてしまう。

「どうか、したの……?」

「えと……呆れられちゃうかもしれないんですけど」

「うん」

「……エリカさんと別れるの寂しいなーって思ったら、ついまた手を掴んじゃって……」

「……」

 その答えに思わずエリカは言葉を窮した後に赤面する。なんだそれは、と。

「ば、馬鹿じゃないのアンタはもうッ。休み明けにまた逢えるでしょうがッ」

「は、はい。それはわかってるんですけど……何か手を放し掛けた瞬間に何か淋しく感じちゃって思わず……」

 すみません、と小さな声で縮こまる様に呟いた。

 そんな事を訊きながらエリカは困惑して頬が蒸気に染まりそうになるのを必死で堪えていた。そんな自分と離れるのが切なそうな表情を浮かべられてどうしろと言うのだと言う想いでとにかく顔を背けたくなってしまう。

(ああ、もう本当にこのバカはぁ……!)

 一向に手を放そうとしない。放したがらない日向にエリカは真っ赤な顔でどうしようかと案を浮かべる。なにせこのままでは家に入らせてくれないどころかこの妙な空気が延々と続く事になるだろう。

 しかも時間は茜色の空が浮かぶ夕暮れ時なのだ。

 帰路につく人だって行き交う可能性は多大ではないか。特に見られたくないのがご近所さんである。見られたらアウトだ。

 そんな逡巡の果てにエリカは、軽く俯いて朱の染まった頬を隠す様にしながら尋ねた。

「……アンタ何したら手、放してくれるのよホント」

「よくわかんないです……」

 日向は柳眉をしかめて頼りない声でそう返事する。

 困った返答だ――エリカはそんな感想を抱きながら嘆息を浮かべて問い掛けた。

「……そんなに手、放したくないの?」

「放したくないわけじゃないです。エリカさんだって家入らないとですし……」

「……けど、放す気配無いじゃないアンタ」

「だ、だって……!」

「だって?」

「エリカさんの肌の質感好きで……」

「……バカ」

(確かに手の感触だとか抱き締めた時だとかにそんな事を言っていた気はするけど、一々そんな素直に発言しなくてもいいでしょうが……! そりゃ私だって弦巻の肌結構好きな質感だなって思う事はあるけど、面と向かって言うんじゃないっての……!)

 どうして逐一そこまで素直に訊いてもいない好感度まで吐き出してくるのか。日向の異様なまでの素直さにエリカは正直もう頬が熱くてたまらなかった。明日熱になっててもおかしくない気すらしてくる。

「どうしましょう、エリカさぁん……!」

「そんな事私に言われたってねぇ……!?」

 涙交じりに訴えかけられてもどうしろと言うのだろうか。

 訴えられかけてもエリカの全神経と集中力は現在、鋼の精神の方へ回しているのだ。日向の問い掛けに答える為の思考を費やす余力なんてほとんど余っていないのである。

 だからだったのだろう。

 新橋エリカはそんな状況から脱する為にこんな言葉を吐いてしまったのは――。

「だったら例えば――アンタが心残り? みたいに思ってる事をやったりすればいいんじゃないかしらね……?」

 多分、日向は何かし足りないのだろうとエリカは分かってはいた。

 それが何であるのかはわからないが、繋いだ手から感じるのは困惑と躊躇の様な感情である事は伝心していたのだ。ならそれで満足さえすれば多分日向は笑顔で手を振って『また休み明けに』と去って行くだろう――と、そう感じられた。

 日向はエリカにそう言われて「心残り……?」と小首を傾げた。

「……特にないわけ?」

「わかんないです。なんか引っ掛かりはあるんですけど……」

 自分でも何が未練なのか心残りなのかわかっていない様子の日向にエリカは赤い顔を上げてジト目で睨みながら呟いた。

「いい加減何がしたいのかハッキリしなさいよっ」

「うーん……」

「……五分以内に何もないなら家入るからね私?」

「ヤですー」

 首をふるふる振って手を放したがらない日向にエリカはますます顔を赤くする。

 何でこんなに懐いてんのよこのバカは、とか細い声で吐露した。どうにもこうにも言動が素直過ぎてその相手である自分にガンガン跳ね返ってくる様だ。

 とにかく早くこの妙な空気から逃走したい。

 エリカがそんな事を考えていると不意に「あ、そっか」と日向が明るい声を上げた。

 その声に再度顔を上げて、

「なに? ようやく何か思い浮かんだわけ?」

「はいっ♪」

 ほわほわ笑顔で首肯する嬉しそうな日向の表情に若干ホッとしつつも、エリカは同時に少し憮然とした態度を取りながらも、こう告げた。

「なら、さっさとしたい事あるならしなさいよね。道端でこんな立ち止まり方する羽目になってる私の気持ちも考えなさいっての」

 正直凄く気恥ずかしいのだ。

 同時に何かお願いごとみたいな事をされる気は濃厚な様子がするが、今更どんな態度で返されてきたとしても耐える自信は満ち満ちているのだ。今日一日の終始一貫した恥ずかしさを考えれば最後の一度くらいは多少気恥ずかしい事であろうと、それこそ鋼鉄の精神で対応してみせようではないか――エリカがそう考えた時だ。

 不意に左の頬に濡れる感触がしたのは。

 瑞々しささえある柔らかな感触が優しく頬に触れる。冷たくは無い、むしろ温かみのある感触で覚えがある様な無い様な、そんな優しい感触。

 同時にエリカは異様に日向の顔が間近にある事に驚いた。

 今日一日でもここまで接近した事は無いくらいに日向の顔が近い。近すぎる。

 と言うよりこれはゼロ距離で――、


 日向に頬を口づけされていた。


「――!?」

 そこでエリカの全身が沸騰するかの如く爆発的に加熱した。

(え、待ちなさいってのコレ何がどうなってんの!? 何でこんな事――)

 普段よりも加速した思考が警報を打ち鳴らす。

 心臓が破裂しそうになるくらいの羞恥にエリカは手で跳ね除ける事すら出来ないくらいに意識が吹っ飛びかけてしまう程だ。

 時間にして数秒。

 体感時間にして一〇分くらいにも感じた一瞬はフッと過ぎ去って、

「ん、何かいい感じですっ♪」

 と言う嬉しげな日向の声にハッと意識を取り戻す。

 エリカはキスされた左頬を手で覆いながら、

「あ、あ、あああああああ、あん、アンタは……何して……!?」

 と後ずさろうとするのだが、よりによって日向が手を繋いでいる所為で全く離れられない。手を振り解かなければと思うのだが腕に力が篭らない。それよりも全身が熱くて、腕から熱が伝わってしまわないか本気で不安になるほど――エリカは恥ずかしくて仕方なかった。

 が、そんなエリカの様子に日向は気付かないまま返答する。

「えと、エリカさんが言う心残り解消しただけですけど……?」

「そ、それがどうしてほっぺにキスになるのよ!?」

「何となく、こうしたいなーって思った事をしてみましたっ!」

「アンタは本能で生きてんの!?」

 にぱっと笑顔を浮かべる日向にエリカは真っ赤な顔でツッコミを入れた。

「だ、第一頬にキスしたいとしても普通する!? 私一応女なんだけどね……!?」

「? エリカさんが凄い可愛い女の子なのは知ってますよ?」

「だからそう言う返しは止めなさいってのに……!」

「それとしたいならしていいよーみたいに言ってくれましたので」

「数分前の迂闊すぎる私を今心の底からぶん殴りたいわね……!」

 そんな事を容認した所為でこの顛末である。

 よもや頬にキスを喰らう事になろうとは予想外過ぎたのだ。

「それにしたってもう少し躊躇いとか持ちなさいよ……!」

「でも外国でこういう事する場面何度か見かけましたからいいのかなーって」

「外国帰りって発言がここで無駄に効果発揮しやがってこのバカはぁ……っ!」

 確かに戦地帰りとは言っていた記憶がある。

(だからって日本なんだし! アンタ日本生まれでしょうが……! そりゃあ海外の血混じってる感じはあるけど、そこはもうちょっと融通効かせてなさいよ……!)

 心中が動転して忙しなく乱れ狂うのがわかる。

 始めの衝撃が徐々に和らいできてしまうからこそ、頬にキスされたと言う実感がどんどん篭ってきてしまってしょうがなくなる。その上、

(キスの感触って残るって言うけど、ホントにそれなんだけど……!? 何か頬にされた時の感触が凄い残ってるって言うか、あああああああああああ、もぉおおおおお……!!)

 頬に残る温かさが拭えない程に実感篭り出すのがわかるのだ。

 洗っても落ちない様な独特の感覚に苛まされる。

 ――これ以上こうしてなんていられない。

 新橋エリカは意識を即座に切り替えた。

(もうこうなればゴリ押しってか供応突破で別れ告げて家に篭るしかない……!)

 入るから篭るにフェードチェンジしたエリカはいざ別れの言葉を切り出そうとして――、

「それにしても、エリカさんやっぱり好きな匂いしますー♪」

「……」

 おかしい。家が妙に遠い気がする。エリカは心からそう思った。

 そんな――そんなどうでもいい感想が浮かぶくらいにエリカはもう恥ずかしさで思考回路がどうにかなりかけていたのかもしれない。

 なにせ子犬がじゃれつくみたいに日向にじゃれつかれているのだから。

 無論、犬ではなく日向である為にほとんど抱き着かれてすりすりされているみたいな状態にあるのだがよりにもよってというか日向本人にその自覚が無いのか本当に匂いが好きですりすりしてしまっているみたいな優しい表情を浮かべていた。

「だからもう何なのよバカぁ……!」

 エリカは肩を震わせてどうにかそう呟いて日向に必死に叫びかけた。

「第一こんなことしたって特に何もないでしょう!?」

「でも、僕こうしてると嬉しくてほわーってなります♪」

「知らないわよ、ばかばかばかぁ!」

 必死に首を振った。

 と言うか匂いと言うのは体臭の事だ。そんなものを嗅がれてしまっては流石のエリカも赤面必死なのである。ことそれを良い匂い言われたらもう恥ずかしさでどうしようもない。

 挙句に、

「何かこうするのクセになりそうです……♪」

 とか零されても「なぁ!? な、なな、なるんじゃないわよ、バカーっ!」と必死に、それはもう必死になって叫んで否定し論破を頑張る。

(本当恥ずかし過ぎんだけど……! っていうか、これもう殴っていいわよね!? いや、決めたわ絶対殴る!!)

 そして最終的にぶん殴る事に決めた。エリカは拳を握る。

 とにかくそれで引き剥がさなくては――!

「エリカさん本当色んな好きな要素があるから大好きです♪」

 また。

 頬に先程と同じ感触がした。

「……」

 エリカは拳を握る力を緩める――否、力が入らなくなった。なんかもう諦観の姿勢に近いもので力が霧散してしまう。そうして「~~~~ッ」と言う声にならない声を零す。

 そしてその様子に気付かない日向は満足したのか、パッと体を離した。

「えと、エリカさん色々ありがとーございました!」

「……あ、うん」

 やっと体の自由がきいたエリカは右手で自分の左腕を抱きしめるようにしながら、下を俯きながら小さく首肯する。

「エリカさんに言われて、そーだ僕エリカさんに今日一緒に来て貰えた嬉しさを伝えられてないなーって気付いたんですよね。伝えられて良かったです♪」

「……あ、そうなんだ」

 何やら声に力がこもっていないエリカである。

「それとエリカさんの頬何かほんのり甘く感じて美味しかったですー♪」

「そんなわけないでしょバカぁ……!」

「けど杏仁豆腐みたいで好きですっ♪」

 そこまで言われてエリカは語気をようやく強めて声を発する。

「杏仁豆腐の味なんかしないわよバカじゃないの本当に!?」

 頬に味なんかしてたまるものか。

 本当に恥ずかしい気持ちばかりになる。今日一日で何度好きやら何やら言われたかわからないし、声も容姿もスタイルも性格も匂いも何もかも褒められて気恥ずかしい想いもしたし、あまつさえ頬にキスまでされる始末だ。日向といると微塵も容赦なく甘えられてしまい、その羞恥は留まる気配も見せてくれず、エリカは今日何度目になるかわからない赤面を幾度も繰り返す。そんなエリカに対して日向は嬉しそうに、

「エリカさん、エリカさん」

「だから今度は何よ!?」

 満開の笑顔でこう告げた。


「僕もうどしようもなく、たまらないくらい――エリカさん、大好きですっ♪」


 その喜色満面で純粋にして――無自覚なままの素直な本心の発言を面と向かって告げられてしまいエリカは刹那、目を大きく見開いたかと思ったら本日最大と言えるくらいに顔中を真っ赤にして湯気が立ちそうな程に赤い顔になってしまう。

「な、は、は!? ば、バ、な、なに、言って、し、しらない、わよ、ば、バーカッ」

「あう……でも、エリカさんに何か伝えたかったんです」

 日向は少ししゅんとするも恥ずかしそうにそう零す。エリカは「~~~~ッ」と感情を抑え込む様に俯きながら拳を震わせた。

 そんなエリカに対して日向は「それじゃー、エリカさん」と明るい声でくるりと来た道へ翻りながら小さく手を振って、

「僕は用があるのでこれで! また明日学校で絶対逢いましょうね!」

 そう、零しながら朗らかに弦巻日向は去っていく。

 その背中を見送った後にエリカは震える肩を両手で抑えると軽く家の壁に背中を預ける。

「……うぁぁぁ……」

 そして辛そうに掠れた声を零した。

 見れば、口元は微かに震えており、目尻には涙がうっすら浮かんでいて、その綺麗な双眸は潤んでおり、なによりも――その美麗な面貌は果ても無い程に真っ赤に染まり上がっていた。

「あのバカ……。あそこまで容赦なくそんな事言わないでよ、本当に……」

 エリカは素直に言葉を発露しまくった少年を思い浮かべると、いっそ憎らしそうに、けれども優しさの感じられる表情でぽつりと呟いた。

「こんな顔じゃ……家、入れないじゃない……」

 せめて誰かが道を通らない事を心から願いながら。

 新橋エリカは茜色の空に架かる空の橋を真っ赤に潤んだ双眸で見つめながら、しばしの時間、静寂に身をゆだね続ける形になってしまう。

 そうして結局、少女が自宅へ入れたのは、それから一〇分が経過した頃であった。


        5


 玄関の扉を開く音がして丁度、夕食の準備をしていた新橋ユウマは玄関へ足を運ぶ。

 その際、居間にいた母親が「あら、エリちゃん帰ってきたみたいね」と嬉しそうに声を発して一緒についてくる。同級生の男子と出かけていると言う話は知っているだけに興味津々のご様子だ。

 そうして玄関へ顔を出すと、そこには妹の姿があった。

 しかし見慣れない服装をしている事にユウマは「へぇ」と感嘆の息を零す。母親もまた「あら♪」と嬉しそうな声を発した。

「お帰りエリカ」「お帰りなさい、エリちゃん♪」

 その声にエリカは「うん、ただいまー……」と何処か気抜けした声で答える。

 不審に思うユウマだったが、それとは別でわかりやすく気付く点があり、そこに眼を惹かれた。一目でわかる程に見目麗しくなったその服装だ。隣の母など「あら、あら♪」と目を輝かせて嬉しそうな笑みを浮かべている様にノースリーブの上着に青いロングスカート姿となっており実に女性の魅力が跳ね上がった服装となっていた。

「服、弦巻に買ってもらったのかな? 似合ってるじゃん」

「ええ、アイツがね。……そか、ありがとユウマ」

「本当にねー。うんうん、凄く綺麗じゃないエリちゃん! 今度フリルたくさんのも着てみるかしら?」

「それは恥ずかしいからいいかなー」

 そう零しながらエリカは玄関で靴を脱いでから家へ上がるのだが、若干ふらついている。

「……何かふらふらだけど大丈夫?」

「へーき」

「……そっか」

 確実に平気じゃないな、とユウマはその時思った。

 俯きがちな顔が揺れる前髪から覗いたのだが、

(……大丈夫なのかってくらい真っ赤だったな……)

 弦巻に何を言われたのやら、と内心で苦笑を零す。

「エリカ、ご飯は食べるんだよね? ハンバーグ作っておいたよ」

「ええ。ユウマ、ありがとね。部屋で着替えてくるのと、少し休むから、ご飯になったら呼んでくれると助かるわ」

「わかったわ♪」

 母親の了承の声を最後にエリカはふらふらと自室を目指す。

 しかし不意に足を止めると、

「ユウマ」

「ん? なに?」

 不意に自分に向けて告げられた声にユウマは不思議そうな様子を浮かべた。

 そんな義兄の様子に背を向けたままのエリカは淡々と零す。

「ユウマも、天然で素直な奴には……気を付けた方がいいわよ」

「……」

 逡巡した後に「……そっか、貴重な意見ありがとねエリカ」と返すとエリカはふらふらしながら腕の中のにゃーこを抱き締めながら部屋へと今度こそ足を運んでいった。

 その後ろ姿を見ながらユウマは、可笑しそうに零す。

「……本当に何を言われたんだろうね、弦巻に」

「ユウ君、ユウ君」

「ん、なに母さん?」

「エリちゃん、大丈夫かしらね? 初デートで疲れちゃったのかしら♪」

「大丈夫かしらね言いながらすっごい喜んでるよね母さん、さ」

「だって、エリちゃんが女の子らしい服装して、腕にぬいぐるみ抱えてる姿なんて凄い貴重だから心配以前に気になっちゃって♪」

「確かにそれは言えてるかな」

 あのエリカがあそこまで女の子らしい事になっているのだ。

 関心が湧くと言うのは否定しようもないと言うのは同意見だった。

「ユウ君はエリちゃんのデートの相手って知ってるの?」

「ん、まぁね。同級生だし面識もあるよ。まあ、同級生にしては年下みたいなイメージがある奴なんだけどね」

「へー、どんな子なのかしら?」

「青髪だから結構目立つよ。それで女の子みたいな顔立ちの奴でね」

「性格はどういう感じなのかしら?」

「性格、か」

 ユウマはその問い掛けに僅かも迷うことなく答えられた。


「素直に素直を足して超素直を掛けたみたいな奴かな」


 その答えに母親はどこか楽しそうに笑みを零した。

「それはエリちゃんにとって大変そうな男の子ねー♪」

「うん。アレはエリカも苦労するよ」

 ユウマも穏やかな微笑と共に可笑しそうにそう返した。



 自室の扉を開いて、電気を付けたエリカはふらつく足取りで部屋へ入る。

 いつも通りの自分の部屋。自室と言う安定感と安心感がエリカの今日一日の疲労を癒すかの様に出迎えてくれた事にエリカは感謝しながら、胸元のネクタイをしゅるりと解くと適当に机の上へ放置する。大胆に解放された胸元から涼しい風が入り込んで、エリカは熱気が放散されていくのを自覚しながらも、熱が次第にどんどん高まって行くことに頭が沸騰しそうになる。

 服を着替える事もなく、ばふんっと柔らかな自分のベットの上に倒れ伏す様に寝そべった。そして次第に小刻みに身を震わせると、

「ああ、もう……!」

 頬を左手で抑えながら震える声を零す。

「バカ、バカ、本当にバカ……! いきなりほっぺにキスとかしてくる奴が何処の世界にいるってのよアホかぁ……! 女顔の癖して本当にエッチだしスケベなんだから、あの変態素直バカ子犬は……!」

 潤む双眸に熱気が火照る頬を抑えながら身悶える様にエリカは体をしならせた。

 恋人でもない相手に好意の証として――頬に口づけしてくる男子がいるとは思っても見なかった。しかも隣の席の男子だ。全体的に逆ではなかろうか。普通、こういう想いをする羽目になるのは逆なのではないだろうかとエリカは思う。

 だが、実際にいるのだから――こんなに頬を熱くさせる元凶がいるのだから現実はなんとも奇をてらうものである。

 仮に恋人関係があったとしても、だ。

「本当、デートって何よ、世のカップルとかどうなってんのよ!? こんな恥ずかしい事よくもまあ度々出来るわね!? 土日で死ぬ気なの、自殺願望でもあんの、バカじゃないの!?」

 こんな恥ずかしい想いを彼らは散々実行できているのだと考えると最早尊敬の念すら覚えるくらいだ。恋人関係でも何でもないクラスメイトとのデートでこうなるのだから恋人同士と言うものは正気では無いとエリカは失礼な事を想うくらいに。

「とりあえず休み明けに殴ろ」

 本気で殴ろうとは思わないが、それでも八つ当たり気味にエリカは赤い顔でそう零した。

 それはともかくとして、今はそれ以上に重大な案件があるのだ。

「あぁぁぁぁぁ……どうして、私ってば承諾しちゃってんのよ、バカぁ……!」

 日向に乞われた事。

 また今度デートに誘っていいか、という願い事。エリカは胸中でふざけるな、と恥じらいと共に吐き零すとベットの上へ右拳を勢いよくばふんっと叩きつけた。

「こんなものに今後も誘われるとかどないせぇってのよバカァッ!」

 また今後今日みたいな想いをする羽目になるのか。

 心臓がやばかったと言うのにだ。心筋梗塞にでもなれと言うのだろうか?

「あんな……あんなに、好意ばっか示す奴とどうしろってのよ本当……」

 近場に転がるにゃーこのぬいぐるみを抱き締めながらエリカは真っ赤な顔で呟いた。

「人の事散々好き好き言いまくるし、物欲しそうな目で散々見てくるし……。私の事、そんな女の子として意識しまくらないでよ、もう……! そのくせ、自覚ないわ、子供みたいに無邪気で思わず面倒みちゃいそうになるわとか……ああ、もう……!」

 自分に向ける感情が激しくて逐一動悸が走ってエリカとしてたまったものではない。

 真っ赤な顔で溜めこんだ羞恥の感情を暴露してしまう程にエリカは今日一日で尋常では無い恥ずかしさを被った気分であった。

 その時、不意にカバンが激しく振動する。携帯の着信音だと気付いて、エリカはバックからスマートフォンを取り出して画面を確認した。

 そこにはメールの着信があって差出人『素直バカ』と書かれていた。

「む」

 どうして今かかってきたのだろうかと少し想いながらメールを開く。

 そこにはこう書かれていた。


 ――今日は本当にありがとーございましたエリカさん!

 ――一緒にいられて凄く嬉しかったです♪

 ――エリカさんと一緒にいられるの、やっぱりとっても幸せだなーって思いましたー♪


 エリカは文面を目で追った後に、

「メールまで恥ずかしい事ばっか寄越すんだからアイツは……」

 と、恥ずかしそうに頬を赤くして少し怒った様に呟いた。

(いや、むしろメールで更に凄い事が出ないだけマシなのかしらね?)

 秘密の遣り取りになるだけ普段言えない様な事が出てくる可能性も高い。

 しかし、その普段言えない様な事をぽんぽん発言する天然さと素直ぶりを持つ相手なだけにその懸念は無いか、とエリカは考えを改めた。――同時に頭を抱えたくなった。メールで素直な方がまだ恥ずかしさが少ない気がしたからだ。

(実際何て言うかメールより本人と直接の時の方が恥ずかしい事ばっか言ってくる気がするしなぁ……内心を自転車の鍵落としちゃったみたいに気軽に零すなっての……!)

「けどまあ……素直な奴は嫌いじゃないけど……」

 素直過ぎるとああも厄介なのよね、と真っ赤な顔でエリカは腕で目元を抑えて嘆息を零す。

 人生で生きてきてあんな素直バカには逢った事が無かったエリカである。

 すると、メールに続きがある事にふと気づいた。

 スクロールして最後の文面に目を通す。

 すると、そこには、


 ――それで、その……エリカさん今日楽しんでもらえたでしょーか……?


 と、言う不安そうに、心配そうに打ったであろう文面が現れた。

 きっと問い掛けるのが怖かったのだろう文面だ。

 そう言えばそこを尋ねられなかったわね、と今日一日を振り返って苦笑を浮かべる。

 ――さて、どう返したもんかしらね?

 エリカは逡巡した。

 素直に返すべき――と、思ったのだがどうしてもダメだった。日向相手にそんな風に返す事が出来ず、そんな自分に戸惑いながら、しばし赤い顔で言葉を吟味する。

 そうしてエリカは指を走らせて文字を打った。


 ――ま、悪くは無かったわよ。


 そんな簡素な一文を返す。実にそっけない文面だ。

 なのに日向の反応が手に取る様にわかるのでエリカは「……むぅ」と真っ赤になって片方の頬を膨らませながら送信を押す。

 そして少しするとすぐに返信が返ってきた。


 ――本当ですか!? わーい、やりました、うれしーです♪ エリカさん大好きです♪


 予想より随分喜んでいた。

 エリカは「ああもう、だから恥ずかしいわね本当!」と怒った様に携帯に向けて叫ぶ。

 次いでメールで『またほっぺにキスしていーですか?』とか言う文面まで来るものだから「だ、ダメに決まってんでしょバカ!」とエリカは怒鳴りながら返信を繰り返して。

「――本当に」

 携帯の画面を見ながらエリカは頬を赤く染めながら呟いた。

「本当に仕方ない奴よね弦巻って……バーカっ」

 その顔には何とも優しく照れる様な微笑を浮かべていて。

 何か不思議な感慨に浸りながら、穏やかな表情を浮かべながらエリカは内心で零す。


 ――ホント、変な奴なんだから。


 そうして日曜の茜色の夕闇は夜の帳へと静かに変遷していく。

 新橋エリカの初デートはこうして穏やかに幕を閉じていく。

 けれど同時に何かがゆっくりと響く音も心地よく、素晴らしき日々として開幕をもたらす気配もまた――優しい色彩と共に来訪を予期させていたのであった。

挿絵(By みてみん)


第三章 後篇:エリカがいろいろ

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