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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Quatrième mission 「ヒーローと休暇」
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プロローグ ライフスタイル・ギアチェンジ

プロローグ ライフスタイル・ギアチェンジ


 息が切れる。心拍数が跳ね上がる。辛い。苦しい。

 そんな感覚に陥りながらも少年は走る事を止めるわけにはいかなかった。ここでその辛さを手放してしまえば後はもう楽な事だろう。息絶えると言う意味で極楽な事だろう。だから息が切れると言ううちはまだ気楽なものだとすら思えてしまう程だ。

 ここで諦めれば終わり。

 そんな言葉がいとも容易く脳内を反芻していく。実質的に終わる時なんて、そう簡単には来ないんじゃないかと平穏無事な日常を緩慢と過ごしていた少年からしてみれば、脳内をそれだけ多くの『諦めれば終わり』と言う文字が埋め尽くしていく事になる日が来るなどとは夢にも思っていなかった。

 足をもつれさせて転がっても、コケても終いだ。

 八方ふさがりとも言うべき場面に於いて少年が出来る事はただひたすらに校舎を走り抜けていく事だけでしかない。何が少年をそこまで駆り立てるのか――単純だ。人が本能的に生きたいと願って全力を出す瞬間なんてものがあるとすればそれはある場面が最も正答率が高いと言う話だろう。

 命の危険。

 少年が陥った場面は文字通り、そうであった。言葉通りにそれであった。

 だからこそ少年に諦めの二文字は撤廃され、撤退は許されない状況に徹頭徹尾追い込まれているのだ。ことこの事態に陥って普段の様にだらけている余裕など微塵もありはしない。だが、だからこそ少年はもわけがわからなかった。

(何でだよ、何でだよ、何でなんだよ! 何で俺がこんな目に遭っているんだよ……!)

 事態が全く呑み込めなかった。

 どうして自分がこんな状況に陥っているのかがまったくもってわからない。

 何か悪い事をしたでもない。良い事をしたでもないが、それだってここまでの不条理を叩きつけられる覚えはない。何か目立つことをしたでもない。かといって何か悪目立ちする振る舞いをした記憶もない。事故か何かならばわかるが、それでもこれはない。

 16年間平穏無事に過ごしてきたにも関わらずこれはどういうわけなのか。

 お願いだから誰か答えてほしいと強く想う。

(俺、何もしてねーじゃん……! 何もしてないんだから何も起きるわけないじゃんか、何もしてないのにどうして何か起きるんだよクソッタレ! しかも何だよ、これ、ああ!? どうして最悪の事態みたいのが実態伴って現れてんだよリアル!)

 誰かを罵倒したかった。

 しかし誰を罵倒すればいいのかもわからないし、なにより声を出す気力すら逃走に回して気力を補いたく思った。だから罵倒は後回しだ。今考えるべき事は唯一無二。

 ただひたすらに生に執着するという事。

(明日は好きなアニメだって、あるしもうすぐマイフェイバリット・ラノベだって発売されんだぞ、何で俺こんな理不尽にあってんだよ! って言うか気付けよ誰か! こんな化け物が学校にいるんだぞ!? 来る途中にだって誰か気付くべきだろうがよ!)

 警備がザラなのかなんなのか知らないが、とにかく少年は憤慨する。

(死にたくなんかねぇ……!)

 そして泣き悔やんだ。

 毎日、退屈で鬱屈していた事は認めよう。だがいざこういう状況に陥ったらサブカルチャーでも読み耽って妄想にのめり込む方が遥かに有意義であったと気付かされる。だから必死で死にもの狂いで走り抜こう。

(あんなわけのわからない奴に殺される最後何てたまるかよ……!)

 少年は100メートル走14秒5の速力で駆け抜ける。

 そんな少年の後方ではまるで少年の醜態を楽しむかの様にゆったりと滑らかに滑る様に迫り来る何者かの姿があった――人では無い。おおよそ、人とは呼べない異形をしていた。角がある様に見える。羽がある様に見える。なによりもその巨躯は人とは到底思えない代物であったことを認めよう。

「ひっ、ひっ、ひぃ……!」

 喉の奥からは嗚咽が零れ、眦からは涙が溢れ、鼻からは鼻水が滴り、少年はまさしく切羽詰まった表情を浮かべながらわき腹を必死に抑えて今にもへたれこみそうな足の頼りなさながらも未だ懸命に足掻いていた。

「誰か助けろよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! ちっきしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 口の中に思わず混じり込む、涙と鼻水のあまじょっぱさに思わず吐き気を催したくもなるがすでに胃袋がガンガンに緊張に苛まされている所為か、嘔吐を零す様にはならないだけマシかもしれなかった。

 しかし文字通り絶体絶命。後方の化け物が「げげげげげげ!」と言う悍ましくなる様な笑い声を零す。耳障りだった。不愉快とか、ムカつくとかではなく、まるで飛行機に乗った時の気圧の変化なみに耳障りな感覚であった。体中耳の中から揺さぶられそうになる――!

 そんな時だ。

「レンキュー!」

「……え?」

 名前を叫ぶ声がした。その声に思わず薄れかけていた希望が灯となって燃焼する。

 まさか、だがアイツなら――そんな期待感が胸を圧迫して鼓動を力強く叩き鳴らす。鼓舞される様に少年は涙で滲んでいた視界を手で無理に拭って前を見た。

 そこには見覚えのある顔の少年がいた。

 自分にとっては親友であり、同時に嫉妬の対象でもあり、憬れの偶像。

 爽やかに切りそろえられた短髪を風に揺らし、普段は何処か余裕めいたというか緊張感のない顔を驚く程真剣な色に塗り替えてこちらへ目掛けて走ってくる背の高い少年の姿があった。

「おびょりょ……!」

 声にならずくぐもった声が発せられる。

 アイツが来たところで何がどうと言うわけではない。

 自分よりも運動も勉強も出来るが、それだって超越しているわけではなく、万能型みたいなところだが、少なくとも後方の化け物を退けられる程の手腕を持つ奴ではない。だが、彼は駆け付けた。どうして駆け付けたのかは全くわからないが、間に合った。

 そんなアイツならば――と言う期待感が胸を押し寄せる。


「フレンドの前でベストフレンドと思しき少年をキール・ユー。げげげ――これはこれは何ともデスペレイションではあーりません、かッ!」


 しかしその期待を胸に抱いたと同時に少年は胸を大きく抉られた。

 胸元から突き出したその暗黒の腕を見ながら少年の瞳は焦点を合わさないかの様に大きくぶれた。それもあってか少年には理解しえない。

「……え、いや、なんよ、これ……。笑えないって、なあ、こんな傷どこの病院なら診てもらえるもんなんだって、ハハハ、おい、ちょっと待てよ。しかも俺今まで胃がきりきりして仕方なかったってのになにこれ、どゆわけ、すっげぇ胃が痛くも何ともなくなったっていうかさ。え、いや、だからこれどういうわけなんだって、俺なんかした? 俺ってこういうよくわかんねー最後迎える様な極悪卑劣漢じゃないんだって、なあ神様……。神も仏もないとかそんな事思っちまうぞ、おい、ふざけんなって、なあああああああああああああああああああああ」

 血反吐を文字通り吐き零しながら少年はがくがくと顎を揺らしながら叫ぶ。

 濃密な血の匂いが充満した。濃厚な胃液の酸っぱさが放散した。混じり合った匂いは余程の悪臭となって満ちているのか少年を刺し貫いた腕の主すら「oh――シット、ボーイ、今わの際にエクスクレメントまでこなすとは何と言うコンプリート精神……」と鼻を曲げる様に柳眉をしかめさせながら呟いた。

 実にふざけた態度でそう呟く怪物であったが、ふと次の言葉を吐く時には一転して何のふざけた様子もない発言であった。

「だがまあ最後に教えてやろう――神も仏もこの世に居ようが、彼らは手を伸ばしはしない」

 小さく零れ出た様な悲嘆さえ滲んだ言葉を耳元で聞き届けながら、少年は意識を静かにゆるやかに手放していく。

(――ああ、俺死ぬんだ……)

 死の間際と言うのは存外安らいだものだとラノベで目にした事がある。

 だが随分と違うものだと彼は思った。

(童貞で……死ぬんだな、俺……)

 未練たらたらに、16年間恋人無しの立場と言うのは――後悔が凄まじく残るものであった。

 あるいは死の間際で何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまった故の考えのとりとめなさか何かでも起きたのかもしれないが――それは今わの際の彼さえもうどうでもいい話だ。

 そんな彼が最後に耳にしたのは、

「ユー、グットなディスピアーだったぜ。グッドラック!」

 と言う殺した張本人のイカした弔いの言葉と――、

「レン、キュー……」

 親友の愕然とした声と、


「なら神に代わってアタシがこの場に手を伸ばしてあげようじゃない」


 唐突にして響き渡った美しい少女の音色であった。

 彼はおかしくなって口元をひくつかせながら冷たい廊下に自分が流した血のカーペットの上へ水しぶきを上げて倒れ伏す。

 最後の最後で幻聴まで聞こえ始めたか――。

 そんな事を思いながら、少年・休屋(ヤスミヤ)(レン)は意識を鎖す。

 それが彼女いない歴16年の少年のものかなしい末期であった。

 だけれど同時に――、


 それは『幸福へ至る日々』へ巻き込まれる始まりの一歩であった。







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