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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Troisième mission 「進退す身辺」
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第七章 優しさと茜色の空に包まれて ★挿絵あり

第七章 優しさと茜色の空に包まれて


        1


 昼飯時(ランチタイム)だった。

 これはもう以下も無く以上もなく昼飯時であった。弦巻(つるまき)日向(ひなた)のお腹は頼りなく腹の虫を鳴らそうとする寸前であったと言えるだろう。鳴らないのは一重に恥ずかしいので我慢しているだけであり授業中の苦労は今、定時に鳴り響くチャイムにより解放されたのだ。その解放感がわかるだろうか? 授業終了まで残り十分と言う段階に於いて腹が鳴らない様に耐えきった日向の感慨は一塩だ。なにせ登校に際して一揉め起こった為に体力を削られていたのだ。

 ――四限目で、良かった。

 うんうんと頷きながら日向は自身の忍耐を自画自賛する。

 ――いや、もう隣エリカさんでお腹鳴ったりとかすっごい恥ずかしい気がしますしね……!

 チラリ、と隣を窺えば授業が終わったと言う事で腕を伸ばして体を解す茶髪の美少女である新橋(しんばし)エリカの姿が見て取れる。しかし一挙一動絵になるなあ、と日向は感動すら覚えていた。

「? どうかした?」

「いえ、なんでもないです」

 すると視線に気づいたエリカが一声発してきたのでサッと視線を逸らす日向。何とも女の子慣れしていない節のある少年である。エリカは「そっ」と大した関心を見せる気配もなく「さてお昼どうしようかな……」と声を零した。日向もその声で改めてお昼について考える。

 お昼。

 ランチタイム。

 まあ即ちとして昼飯時だ。

 此処で日向が考えるのは『どうしましょうか?』と、言う実に漠然とした状態であった。なにせ今日は高校に初めて通った日の当日なのだ。ともすれば日向には選択肢がたくさん存在すると同時にどんな選択肢があるのかが分からないのである。

 ――定番としてお弁当、と考えましょう。

 お弁当。やはりお昼の定番中の定番だろう。うむ、実に高校生らしい発案だ。これを昼に食べる事は実に学生らしい光景ではないだろうか。しかし、だ。

 ――ですけど問題はお弁当、僕、持っていないと言う事でしょうかね!

 問題外であった。そもそもそとして日向は現在お弁当を持ってきてなどいないのだから。即ち選択肢としてお弁当等あるわけもなかった。

 ――まあ、小中でお弁当を食べた記憶なんてほぼゼロですけどね……。

 ふっと自嘲気味に明後日の眼をしながら日向は内心で愚痴を零す。事実、お弁当なんて日向とは基本無関係な産物であった。

 ――父さんは当然として……母さんは死んでるし、あの人も……。

 思い出す自分に近しい間柄の人物達の顔を浮かべても、弁当は絡む気配など微塵も見せなかった。ならば自分で作ればいいと言う選択肢もあるわけだが当然にして、弦巻日向は料理技術に優れていない。作れるのは鍋料理だけであり、他に至っては錬金術の領域だ。

 すると、お弁当と言う選択肢を完全に廃した後に日向が辿り着くもう一つの選択肢は学生として当然にして真っ当なものに至るのは至極当たり前な事であった。

「よし、学食です!」

 拳を握りながら力強く頷く。

 学食。いいではないか、学食。素晴らしい。出来立てほやほやのご飯が味わえる学生特権である。値段もリーズナブルと聞き及んでいる。

「中学校ではほとんど食べた記憶もありませんからねぇ……」

 しみじみと呟く日向。

 記憶では学食に行ったのは数回だ。数回だけ良くしてくれた恩師が奢ってくれたりなどの経験がある。それを考えれば今はとてもありがたい状況にいるのだ。なにせ資金面ではお小遣いとして迎洋園家もとい親不孝通(おやふこうどお)批自棄(ひじき)が配布してくれている。その為に日向のお財布はかつてない重さとなっていた。正直金庫にしまって置こうか迷うレベルである。だが批自棄から『……頼むから一万円でそこまで思わないでくれねぇか?』と可哀そうなものを見る目で見られたので仕方なく諦めた経緯がある。それと金庫は高かったので買えなかった。

「まあ、とにかくお金はありますし……いざ、学食へっ」

 そうして立ち上がろうとした最中に日向は気付いた。

「…………学食って何処でしょうか…………?」

 少年はある事実に直面する。

 学食の場所を知らなかったのだ! 当然と言えば当然である。なにせ初登校であり、芳城ヶ彩の校舎の構造に関して詳しくないのだから。

「……まさか、辿り着く前に敗れようとは……がくっ」

 誰かに尋ねようにも九十九はさっさと姿を消してしまった。窓から。『メシだぜやっはー!』と叫んで飛び降りていってしまったのだ。隣の秀樹も『メシだメシぃ!』と嬉しそうに何処かへ去って行ってしまった。

 そして日向は机に突っ伏した。学食への経路が分からないものの末路である。

「いやいや、アンタ何をさっきから一喜一憂してんのよ……」

 そんな日向に声を掛けてきたのは隣席のエリカであった。その表情は若干呆れている様子だ。隣にはクラスでも目を惹く美少女の一人である刑部(おさかべ)真美(まみ)もいた。

「エリカさん……ご飯が、食べたいです……」

「そんなバスケがしたいですみたいに言われてもね……」

「つまりは学食か購買に行きたいと言うわけかな、弦巻君は」

「はい、その通りです刑部さん」

 強く強く日向は頷いた。

「――それで学食って何処にあるんでしょうか?」

「学食は校内を適当に散策すれば結構見つかるんだけどね……。手際よく見つけようと思うんならこれ使った方が早いわよ?」

 そう呟きながらエリカが取り出したのは生徒手帳であった。

 だが芳城ヶ彩の生徒手帳は一般とは趣が異なっている。端的に言って電子――タブレット端末なのである。学院に於いての学業、事業などの情報に無駄に広大な敷地面積に於ける地図などのサポと情報が事細かに掲載されている。芳城ヶ彩の科学部も開発協力をしている事もあり通常の電子機器を一段階飛び越えた高性能さを発揮する生徒手帳だ。またアプリの読み込みで機能が更に強化されると言う事情を含めてエリカから解説された。

「で。学食に関して言えば私達の学院周辺にある近場の場所って言うとこの三か所かしらね。一番ポピュラーな食堂『ルポゼ』に少し値段が高くて学生アルバイトとかもしてる喫茶『ベルカント』、それと高級料亭の『大十(だいじゅう)』――この三か所ね」

「ふむふむ。エリカさんたちは何処に行くとこなんですか?」

「私達は『ルポゼ』に行くところだね。……どうする、エリカ?」

「む」

 真美に暗に問い掛けられたエリカは少し唸る。

 どうする、と言う意味は簡単に理解出来た。要は『弦巻君も一緒に誘うかい?』と言う事なのだろう。エリカとしては流石に男子を一緒に誘うのは少し腰が引けたと言う側面は否定しようもない。だが同時にここで放っておくのも後味が悪い、と感じもした。

「……ま、別にいいわよ今日くらいなら」

「と、言っているがどうする、弦巻君? 一緒に学食まで行かないかな?」

「そうしてもらえるとありがたいです、正直。地理がよくわからなくて……」

「では決定だね」

「それじゃさっさと行きましょう。学食混むといけないし」

 そう告げてエリカは踵を返して目的地へと歩み出した。そんな彼女の後を日向は嬉しそうに「はい、ありがとーございます!」と追い掛けてゆくのだった。



 さて芳城ヶ彩三校が一角『シラヅキ』周辺に存在する食堂の一つ。

 学院第二食堂『ルポゼ』はシラヅキから出て少し歩いたところにある。綺麗に舗装された道路を歩いてゆくと青々とした天然の芝生がそよそよと風に揺れていて何とも心地よい空間を作り上げている。この暖かさの光景が新橋エリカは何とも好きであった。そうして道を歩いていくと見えてくるのが洒落た建造物――白を基調とした中々大きな建物だ。四角形を基本とした造形でありその場所を出入りする学生や人々の姿が見て取れる。シラヅキの周辺では一番リーズナブルであり同時に人気の高い食堂である『ルポゼ』だ。刑部真美は四月にここへ足を運ばせて以来、ルポゼの食事がとても好みであった。学食の門をくぐれば中は何とも清潔感に溢れており四人掛けの丸机や十人掛けの長机など様々に目が付く。内部にある席数は相当多いがそれでもそこそこ埋まってしまう辺りはルポゼの人気が窺い知れると言うものであった。そんな光景を見ながら日向は時折混じる殺意に汗を流しながら二人についていくのだった。

「? どうかしたのアンタ? 何か汗出てるけど……」

「今日、そんなに暑かったかな?」

 エリカと真美が不思議そうに声を掛けてくる。対して日向は、

「い、いえ。そう言う意味合いではないんですが……。何だろ、この悪寒……中学時代にも味わった事ある類の悪寒だ……!」

 日向が怯えるのも無理はない。

 なにせ今、日向は新橋エリカと刑部真美と言う極上の美少女二人と一緒に行動しているのだ。傍目には美少女二人に囲まれている男子にしか見えていないだろう。実際は病院で美人ナース二人に付き添いされている男子でしかない――否、どちらも大差が無かった。

 ただ問題なのは二人が自身の容貌に無頓着であると言う点。双方、絶世の美少女だと言うのに無自覚である。加えて日向の『自分が嫉妬されるはずがない』と言う思い込み――二つが混ざり合った結果の何とも珍妙な状況である。

 つまり、

「ま、いいからさっさと食券買うわよー」

「そうだな」

「あ、食券形式なんですね、ここ」

 三者共に最終的にスルーの傾向を示したのはある種当然であった。そんな三名を多くの男子達がエリカと真美を見ながらざわめき立ち、日向を見ては憎悪を、一分日向の女性的容姿に吐息を荒くする益荒男がいたりもするが――結果的には三人は券売機の前へと歩いていくのであった。

「あれ、弦巻?」

 と、そこで券売機に並ぶ列から一人が声を発した。

 昼休みが始まったと同時に姿を消した陽皐(ひさわ)秀樹(ひでき)であった。

「陽皐君だ! 陽皐君も此処に食べにきたんですか?」

「まあな。って言うか、シラヅキの生徒は大半ここだっての。それよか弦巻もここに来るんだったのか。執事だしてっきり主と一緒に『ベルカント』とかかと思ったぜ」

「僕の主ってミカアカなんですけど……」

 第五学区のシラヅキから第九学区のミカアカは学区的には近いが当然にしてバス等を使わなければ辿り着くのにとても時間がかかるのだ。

「ああ、そうだったか。わり、それならお前と一緒に飯にくりゃ良かったな。すまん、すまん」

「本当ですか! じゃあ次から一緒していいですか陽皐君!」

「おう、いいぜ! でも、驚きだな、ルポゼは道は難しくはねぇけど初めの頃は色々迷うとこもあるだろうに――」

 そこまで呟いて秀樹は目を見開いた。

「新橋? それに刑部……?」

「や、陽皐君」

「陽皐もいたんだ?」

 二人の極上の美少女――その二人を確認した秀樹は反射的に日向の双肩を掴んで――揺らした。それはもう盛大に揺らした。

「どういう事だ弦巻ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」

「ちょわ!? ひ、陽皐君……! そ、そんなに、揺らさないで……! あばばばば……!?」

「お前、ちょ、なあ!? どういう経緯で新橋と刑部何て言うクラスでもトップスの女子二人とお食事会なんて決め込んでんの!? バカなの? 死ぬのか?」

「死にたいわけないですよ!? っていうか、ちょ、揺らさないでくださ……ッ!」

「お前……怪我してるからって初日からそれは羨まし過ぎるぞチキショ――――!」

「そんな事を言われましても!?」

 がくんがくん、と双肩を揺すられ首を上下に振られながら日向は懸命に弁解を試みる。その間に秀樹は「後ろ通るなー」、「何か騒いでる今がチャンスだ!」と告げて列からはみ出しているのに気づかず、折角並んでいた時間は無慈悲に過ぎ去っていくのに気づかず。

「……とりあえず並ぼうか、エリカ」

「そうね」

 男二人の騒ぎを呆れた様な眼差しで一瞥しつつエリカと真美は少なめの列に並び始めた。

 それから少しして日向の弁明である『別に特殊な事とかじゃなくて道がわからないから教えてもらった程度でして』と言う言い分でようやく落ち着いた秀樹は最終的にエリカ達が並んでいた場所へ周囲の理解を得て入れてもらう事となった。

「本当、初っ端から何してんのよアンタは」

「僕、悪くないと思うんですけど……」

 ジト目で睨まれつつも日向は申し訳なさそうにエリカに頭を下げる。

「陽皐君も列からはみ出したら意味が無いよ? 幸い、後ろが理解ある男子だったから君達を入れさせてもらえたが」

「面目ない。ただ、後ろは理解って言うかお前が話しかけたのが理由だと思うんだけどな。見てみろよ『俺、刑部さんと話しちゃったぜ、ヒューイ!』って叫んでるから。ヒューイって何だよって言いたくなるくらいに」

「……私なんかに話しかけられて何か嬉しいのか?」

「嬉しいのかってお前な……」

 やはり自覚ないのかと秀樹は少し眉を潜めて呆れた様子を浮かべた。

「けどまあ、良かったじゃない。陽皐と約束取り付けられたんなら、アイツと一緒にご飯出来るだろうし。折角だし話とかしたら?」

「そうします。……あ、でもエリカさんは……」

「ん。陽皐がいるなら私達は別にいいんじゃ――」

「……一緒にいちゃダメですか……?」

「何でそこで凄い悲しそうな顔するわけ!? いや、いいわよ! 乗りかかった船になってきてるから一緒にいてあげるわよ今くらいは!」

 対してエリカは見事な面倒見の良さを発揮しつつ。

 男二人、女二人にお説教を受けつつも列は進んで行く。

 券売機は学生の多さに対応して四台が設置されており、並ぶと言っても比較的スムーズに進んで行くのは実にありがたいと言うのが秀樹の考えだ。そうして次第に数は減ってゆき、いよいよ日向達の番が回ってきた。

 日向は券売機を見てまず一言。

「凄い充実してますね」

「だろ?」

「この学院ってメニュー多いのよね、本当」

「飽きが来ないって意味ではいいんじゃないかな?」

 券売機がまず中々大きい。故にメニューはかなり多岐にわたっているのがわかる。メジャーなメニューである『カツ丼』、『カレーライス』、『ラーメン』と言ったメニューもあれば『から揚げ定食』やら『焼き魚定食』と言った定食メニューに『ステーキ』、『三大珍味盛り合わせ ―さらば諭吉ぃいいいいい!』と言った高価なメニューも下の方に並んでいる。

「でも多すぎて逆に選ぶの迷いますね……。皆さん何かおすすめありますか?」

 こうも多いと選択肢に迷う。

 慣れない自分より食べ慣れている面々に尋ねるのが手かと考えて日向は問い掛けた。

「おすすめねぇ……。ラーメンとかここ美味しいわよ? 何でもラーメンの達人って人が作ってるらしいし」

「私はうどんをおすすめするよ。コシが強くてのど越しが素晴らしいんだ。うどんの鉄人って言われている人が打っているそうだな」

「俺はカツ丼だな。肉料理を極めた匠が拵えてるらしいぜ」

「料理人凄いですね!?」

 エリカが少し苦笑気味に応えた。

「この学院色々おかしいでしょ? だからなのか、厨房の中は世界各国から集めた料理人とかを雇っているらしいわよ?」

「色々なとこに力注いでるんですね……」

「ま、それはいいからさっさと選んだ方がいいわよ? 後ろ並んでるし」

「あっ、それは確かに……! む、むう……どうしようかな……」

 日向は少し困った様に悩む。

 だが数秒考えた後にちらりとエリカを一瞥した後お金を入れてから『味噌ラーメン』と書かれたボタンを押す。すると『お買い上げありがとうー!』と言う声が流れたかと思えば取り出し口に『味噌ラーメン 300円』と書かれた食券が落ちてくる。

「食べられます様に……」

「何、妙な事願ってるのよ……?」

 不思議な祈りにエリカは柳眉をしかめるも、日向に続く形で「ラーメンにしとこ。ラーメン、ラーメン言ってたら食べたくなってきちゃったし」と『醤油ラーメン 300円』と言うボタンを押した。続く形で真美が『天麩羅うどん 400円』を、秀樹が『カツカレー 400円』を購入した。

 食券を購入した一行は注文ブースへと足を運ぶ。

 受付嬢と言う言葉が似合いそうな綺麗な女性に食券を手渡してから少し待つだけで四人の手元には購入した品が到着した。トレーの上に乗せられた品を見て日向は思わずと言った様子で驚きを露わにした。

「……これが300円……?」

 ちと、信じ難い心地であったと言えるだろうか。

 トレーの上に載った味噌ラーメンはかなり豪華に見えるからだ。無論、トッピングは至って普通だろう。だが芳しい匂い、麺の艶といい、明らかに一流ラーメン店が提供しそうな程に輝いて見えている。食器との取り合わせもある意味で素晴らしかった。高価そうな食器ではなく、至ってシンプルな装飾だ。言ってしまえば『豪華すぎて気後れしない』くらいに整えられた整然さが醸し出されている。

「わかるぜ、弦巻。俺も初めて見た時は衝撃受けたからなぁ……」

 一般高校の出自であればある程にそれが理解出来る。

「ま、流石に一ヶ月すれば慣れてきたけどね。とりあえず席探すわよ――っていうか陽皐も一緒に来る流れになってんのね……」

「いいんじゃかよ、弦巻だって誘ってんだし! 一人はさびしいんだぜ。な、弦巻?」

「いや、そこで肩抱かれて賛同求められても……。それとラーメン危ないので衝撃あまり加えないでくれると助かるんですが」

 エリカは諦めた様な嘆息を浮かべながら、

「まあ、今更かぁ……」

「まあまあ」

 真美が苦笑を浮かべつつエリカの横を歩いていく。

「しかし席はどこにするか……。時間が少し経ったら結構埋まってしまったしな……」

「そうね――」

 エリカが席の方へ視線を巡らせたその時である。

 ふっと、彼女の後ろに影が通った。

「きゃっ!?」

 衝撃自体は大きなものではない。だが思いがけず到来した衝撃と言うのは得てして実際より大きな影響を及ぼす事となる。右肩辺りに走った衝撃からエリカは前のめりにつんのめってしまう。拍子に当然ながらバランスを崩した醤油ラーメンが宙を舞った。

 エリカは前のめりに倒れかける寸前、脳裏で『ヤバっ……!?』と意識的に感じ取り思わず目を瞑る。倒れる際の衝撃と、もしかしたらかかってしまうかもしれない熱湯に刹那の恐怖を感じて。


 けれど、そのどちらの衝撃も何時まで待ってもやってくる事は無かった。


 むしろ逆に予想もしない優しい衝撃に身を包まれる。

 暖かく守る様な感触にトクントクンとした小刻みの鼓動。何が起きたのだろう、と新橋エリカは不思議に思いつつ目を開けた。時間にして結構経った様に思えたが実際には僅か数秒の出来事の最中、何が起きたのやらと。

「――無事ですか、エリカさん?」

「へ?」

 思いがけず自分の上からかかってくる声にエリカは顔を上げた。

 すると異様に近い場所から彼の――弦巻日向の声がかかってきているのだと気付かされる。目と鼻がくっつく程に――なんてことは流石にないが、それでもかなり近い。なにせエリカの顔は今丁度日向の胸元にあった為だ。

 そこまで理解してエリカは思わず顔を赤らめる。

 そして、理解した。

 自分が今、日向に抱き締められている状態にある、と。

「ちょっ……!? や、放して……!?」

 理解してしまうと恥ずかしさが急速に頭に昇ってきた。エリカは思わず日向の腕から抜け出そうともがく。

「うわととと!? ま、エリカさん、待って! 放します、放しますけど、少し待ってくださいスープ零れます、スープ!」

「は!? …………は?」

 何を意味の分からない事を言っているんだろうかコイツは――エリカがそう思ったところで日向の行動に気付いて一瞬ぽかんとなる。

「……曲芸じみた事やるな、弦巻君は……」

「仕方ないでしょう、刑部さん! 僕、手が片方ふさがってるんですから!」

 今、日向がエリカを抱き締めている状態は片腕だけによるものだ。

 ならばもう片方――杖をついている腕はどうしているのかと言えば、御覧になれば一目でわかるものだろう。それはまるで皿回しであった。長い杖を使い、トレーに乗ったラーメンごと見事なバランス感覚を持ってして留めているのだ。

(皿の割れる音も、熱湯がかかる音も無かったのってこれかぁ……)

 奇妙奇天烈な対処方法にエリカは思わず唖然とする。

「片腕塞がってるとはいえ杖でってアンタ……」

「仕方ないんです! 滑稽な光景なのはわかってますけど! 咄嗟の事だったのでもう杖に頼るしかなかったんですよ! お湯がエリカさんにかかるの嫌だったですし!」

「いや、滑稽とかは思わないけど……」

 器用な奴ね、とエリカは思った。そもそもよくもまあ杖で対処したものだと思う。

 と、そこで驚いているエリカの後方から声が上がった。

「咄嗟の対応にしては見事だったと俺は思うけどな。なんせ、その娘を庇いつつ、空を舞った器を杖で一度軽く小突いてトレーの上へ、そしてトレーと一緒に杖で受け止めて――なんだから雑技団顔負けの技量っぷりだったぜ?」

 エリカが転びかけてしまった追突してしまった人物だ。

 ただまあ、とその人物は一拍隙間を置いて。

「その娘とその娘のラーメン守る為に、自分のラーメン犠牲にしそうになった辺りはどうなのかなと思わなくもねぇけど――ぶつかっちまった俺が言える事でもないわな」

 苦笑を浮かべながら、その手に味噌ラーメンを持つ青年。

 日向が羨む様な美青年であった。濃い茶色の頭髪を肩に触れるかどうかと言う程度の長さまで伸ばしたシャープな顔立ちのヘアバンドをした美青年だ。切れ長の目は夜空の月を思わせる美しさを放っており華麗にシラヅキの制服を着こなしているイケメンであった。

「あ、僕のラーメン……!」

「前に飛んでくるから焦ったぜ、流石に。ほら、静かにそのラーメンそこの台の上に置いておきな。それから渡すからよ」

 促されるままに日向は杖を自在に使ってエリカの醤油ラーメンを近くの台の上に静かに着地させた。スープが一滴も零れていない辺りに彼の奇妙な技量の高さが伺えると言うものである。その後にずっと抱き締められていたエリカが、少し焦った様子で身を離す。

「い、何時までも抱き締めてんじゃないわよ、もう……!」

「あ! す、すいません、すいません!」

 思わず平謝りする日向。事故から庇うとはいえ咄嗟に抱き締めてしまっただけあって後後になって日向も思わず恥ずかしくなった。同時にエリカの女の子特有の柔らかさを思い出して赤面しそうになる。咄嗟故にあまり感じる余裕が無かったのが救いであり残念でもあった。

 そんな気恥ずかしそうに平謝りする日向に対して「はぁ」と溜息を零しながらも、

「けど……ありがとうね」

「え?」

「いや、ほら、その……守ってくれたのは事実だし。転ぶこともスープがかかる事も無かっただけすっごいありがたいって言うか、結果的に何も被害無かったわけだし――だから、まあありがとう、弦巻……」

 恥ずかしそうに顔を赤らめながらエリカは言葉を紡いだ。

「……はい、どういたしまして♪ エリカさんが何事も無かっただけで嬉しいですよ」

「……バーカ」

 ツンと恥ずかしげにそっぽ向くエリカ。

 そんな光景に青年が「何だこのラブコメは」と楽しそうに笑っており「ラブコメじゃありませんよっ」と真っ赤になってエリカが否定する。青年は「悪い悪い」と謝罪しつつ、日向の方へトレーを差し出した。

「ほら、味噌ラーメン」

「ありがとうございます……。うわぁ、咄嗟に前に投げてたとか僕阿呆か……」

「俺が相手だから良かったよ。突然だったが受け止められたしな」

 それで、と間を置いて。

「そっちの娘には悪かったな。ジュース買いに行った帰りに誤って衝突しちまったみたいで……怪我はないか? それと本当すまないな」

「ええ、大丈夫です。怪我とかもないし……」

「守ってくれたそっちの男の子に感謝だな。俺も何事も無くて感謝だしよ」

 頬を軽く掻きながら悪びれる男子生徒。

 青年は腰に手を当てながらエリカ達四人を一瞥する。

「全員、一年生か。って事は後輩だな」

 学年カラーを見て察したのだろう。見れば確かに青年のカラーは二年生のものであった。

「良ければ、なんだが……お詫びも兼ねて一緒にメシでもどうだ? メシの後のデザートでも奢らせてくれ」

「……エリカさんどうします?」

 日向は目で軽く訴えかける。エリカは少し迷った。

 奢ると言うのはまあお詫びも兼ねているのだろう。それはわかる。だけれど生憎とエリカはこの先輩の事を知らないので何とも判断を下しにくいのだが……。

「ああ、ちなみに男所帯に招こうとかって事はないから安心してくれ。連れは二人いるが両方女子だからな。ほら――あそこに見える二人だ。丁度、席も空いているし都合いいと思うんだが――」

 そう告げながら窓際のテーブルに指差す青年。

 その指の先へ視線を送った四名は一様に『……ん?』と何かに気付いた気配を見せた。



「あれ、エリカ? それに真美に陽皐君と弦巻君も一緒だ。珍しいねっていうか、どうして皆と一緒にいるのっ?」

 兎を連想する真っ白なウサミミ帽子を被った小柄な美少女――間違いない。遠目に見たが間違いなかった。初音(はつね)=クローリク。エリカ達のクラスメイトだ。そしてエリカと真美が親しくしている同級生である。

「何だ、初音の知り合いなのか?」

「うん、同級生なんだけど調月(つかつき)先輩っ」

「また偉く大所帯になって戻ってきたわね……。ちょっと、(うたげ)? どういう経緯なのか説明してもらえるんでしょーね?」

「ああ、まあ掻い摘んで話すとなんだけどな――」

 宴、と呼ばれた青年は初音と一緒にいる美女――美少女と言うよりかはあふれ出る色気から美女と言って過言ではない、くすんだ金髪に艶やかな碧眼を湛えた女性相手に経緯を説明していく。その間に日向達は空いている席に座り、初音にも真美が経緯を説明した。

 そして最終的に美人の先輩が心配そうにエリカを見やる。

「何かウチの宴が迷惑かけたみたいでゴメンなさいね? 本当、怪我とかなかった? スープがかかるって洒落にならないし……本当平気だった?」

「ええ、大丈夫です。幸い一滴もかかりませんでしたし」

 事実、怪我が無かった事に関してはエリカもほっと一安心だ。ラーメンが台無しになる可能性は大ありだっただけにスープがかからなかったのは素直に日向に感謝している。

「それなら良かったわ。女の子に火傷なんかさせたら宴をコテンパンにしなくちゃだったし」

「返す言葉も無いな今回は」

 お手上げとばかりに手を広げる宴。彼もそうしたら流石に洒落にならないと思っているが故だろう。

「けど珍しいわね。宴がそう言う時にミスるなんて」

「ミスったわけじゃないが、ラーメン取るより先にそっちの少年の行動が早かったからな。下手に手を出すよりかは任せた方が良さそうだったのがある」

「なるほどねぇ」

「ま、今更何か言っても仕方ないけどな。とにかく今回は本当に悪かったな。この通りだ」

 そこまで呟いてテーブルの上で頭を下げる。

 エリカは「本当何事も無かったから気にしないでください」と首を振る。

「ありがとな。いやー、久々に緊張したぜ本当に……。それと自己紹介まだだったな。全員初音のクラスメイトなのか?」

「ええ、そうなりますね。そっちから新橋エリカ、弦巻日向君、陽皐秀樹君、それで私が刑部真美と言います」

「新橋か……新橋は訊いた事があるな」

「私もあるわね。新橋兄妹で有名だし」

「え、嘘……?」

 エリカが信じられ無さそうに呟いた。だが次に「あ、でもユウマがすでに有名だし……」と何やら呟いて何処か納得した様な様子を浮かべていたりもする。

「それと陽皐……陽皐――どっかで訊いた様な気がするんだが……」

「それは気のせいじゃないっすかね? ははは」

 次いで宴が秀樹を一瞥しながら何か記憶に掠めるのか注視するが秀樹は何処か乾いた笑いを零しながら否定する。日向はそんな秀樹を不思議そうに見ているが当然ながら何が何だかわかるわけもない。

「でもエリカさんって有名なんですか? まあ、これだけ可愛くて綺麗なら納得ですけど」

「納得の理由おかしくない!? 綺麗でも可愛いでもないわよ?」

 エリカが飛び起きて反論を放つが「いや、十分可愛いでしょ……っていうか肌艶すごっ」と美人の先輩が羨んでいる始末だ。

「いや、お姉ちゃんだってすっごい美人だけどね……ガサツだけど。実態はすっごいガサツだけど」

「何か言ったかしら、初音ぇ♪」

「んーん、何もっ。それよりお姉ちゃん達も自己紹介しなよっ」

「あ、それはそうよね」

 確かに、と初音にお姉ちゃんと呼ばれた美人な先輩は頷いた。

「初めましてね。私は紫音(しおん)=V=クローリク。流れでわかったかもしれないけど、初音の姉って奴ね。よろしくねん♪」

 ウインクを織り交ぜて色香溢れる笑みを向ける紫音。秀樹がすでに「色っぺー……!」と感動を露わにしていた。対して日向は「わー、初めましてー♪」と秀樹とは見事に対照的な反応である。エリカと真美は同様に挨拶を交わした。

「初音に姉がいるって訊いてたけど、この人がそうなんだ……」

「うん、そだよっ」

「明るいお姉さんだな……」

 同時にある意味対照的だとエリカ達は思った。

 小柄で小動物的な初音と対照的に紫音はとてもグラマラスだったからだ。ロシア系の血筋とは聞いているがまさしくそれで、高身長であり爆乳。身体的な特徴だけ言えば実に対照的だがやはり姉妹の様で顔立ちはかなり似通っていた。

「で、こっちのエリカちゃんに大変ご迷惑をおかけしたのは、私の後輩ね」

 後輩と言う言葉に四人が一様に学年カラーに目を向けた。成程、確かに三年生――つまり初音とは二歳差があると言う事なのか。

 そして後輩と呼ばれた宴は。

「二年の調月(つかつき)宴だ。今日は本当悪かったな。メシ喰い終わったら、デザート奢るぜ。お詫びと入学祝も兼ねて先輩面一つさせてもらうな」

 どうやら全員に奢ってくれるらしい。

 ぶつかった後の対応も含めて本当に事故なのだが、誠意を見せてくれる辺りいい先輩なのだろうと四人は同様に思った。初音がこうして一緒にいるのもそれを認識させてくれる。

「にしても凄い人に出会ったな……調月先輩とはな」

 そこで秀樹がぽつりと言葉を零した。

「知ってるんですか?」

「まあな」

 秀樹は簡素にそう答える。

「けど今は野暮だ。後で話すさ」

 その言葉を最後に秀樹は「ま、自己紹介も終わったしメシ食べましょうよ先輩方! いい加減腹減ったんで」と提唱する。

「それもそうだな」

「ええ、じゃあ頂きましょうか♪」

 その言葉を皮切りに『いただきます』と一同唱えて食事を開始する。

 日向は目の前の味噌ラーメンを前にして一瞬躊躇いを見せたものの「いただきます!」と唱えてラーメンにがぶりつく。――がぶりつけた。

「……食べれた、だと……!?」

「え、何でそんな驚いてんの?」

 隣でスープを一口飲んだ後にエリカが奇怪なものを見る様な様子で問い掛けた。

「いや、その……ラーメンが暴れなくて……」

「暴れるラーメンって何よ!?」

 激震の日向に対して「本当奇妙な事を言うわよね、アンタは……」とエリカは不思議そうにしながらも醤油ラーメンを食していく。相当、美味しい様であり箸が進んで行く。日向も同意見だった。学食で提供するには美味し過ぎるラーメンに舌鼓を打つ。

 ルポゼの食事は相当美味である様で皆一様に楽しげな顔を浮かべていた。

(……何かいいなあ……こういうの)

 そんな笑顔に囲まれながら日向はふと穏やかな表情を浮かべていた。

 胸中に走る想いがあったからだが――今は考えるまい。

 と、そこでふと思った。

「ところでデザートってどうやって注文するんですか? 食券見た時はそう言うの無かった様な気がしましたけど……」

「そこそこ」

 宴がそう呟きながらテーブルの端にあるメニュー表らしきものを指差した。さながらファミレスの様な設備だ。

「何ですか、これ?」

 食券を置いているのに何故こんなものまであるのだろうかと日向は不思議に思った。

 なにせ呼び鈴であると思われるベルまであるのだ……。

 ぺらっとめくってみるとそこには多種多様なデザート各種が記載されていた。

「まさか……」

「そう、ルポゼは通常の食事とデザートは別枠なんだよ。デザートを頼む時は、このベルを鳴らしてみな。すると――店員が注文取りに来るって仕組みだ」

「完全ファミレスですよね!?」

「デザートメニュー、結構凝ってるのよね。だから多分、作るのに少し手間かかるんだと思うわよ?」

 隣のエリカがそう推測する。日向は「なるほど」と頷いた。

「さ、食べながらでも決めてくれ。何がいい?」

「うーん、どうしようかしらね……。どれも美味しいからなールポゼのデザート」

「太るぞ先輩」

「いやん、宴ってば死に急ぎぃ♪」

「手の甲を抓るなよ……! と言うか、俺が奢るのは一年生だけで――」

「え、私もいいのっ?」

「しまった、初音も一年生だった……!」

「ねぇ、宴? 初音はよくってお姉ちゃんの私に何もないとか酷くない?」

「…………全員、好きに頼んでくれ……」

 調月宴はヘアバンドで目元を隠しながら諦めた様だ。

「あはは……すいません。でもお言葉に甘えますね」

 日向は少し嬉しそうに呟いた。正直なところこういうのには縁が無かったので食べたい気持ちが結構あるのだ。しかし……。

「本当、メニュー多いな……どれにしましょうか」

「スイーツにも拘ってるからな……おい、この『激辛殺人パフェ』とか『ねっとり濃厚ピーチ』って誰が頼むんだ……?」

 王道メニューから変わり種まで。日向ですらおかしいと思う様なものまで様々だ。

 本当にこの学院は妙なところに力を注いでいる様である。

「うーん……僕はこの『パイナップルとマンゴーの南国アイス ~ライムソース仕立て~』にしてみます。サッパリしそうですし何か」

「フルーツ系アイスか……。私は甘いのそこまで得意じゃないからなぁ……うん、この『フルーツタルト』にしておくわ。前に食べたけど甘さ控えめで丁度良かったし」

「エリカさん甘いの苦手なんですか?」

 そうなんだ、と日向が何となしに声に出す。

「甘すぎるのはね。くどくなるのもアレだし。だからまあ、甘さ控えめのケーキとかタルトにゼリー系の方が好みかしらね」

「へー……」

 日向がなるほど、と相槌を打つ。

「ふむ、エリカはタルト……じゃあ私はこれにするか。エリカと比べると甘いものは好物だし『チョコレートケーキ ラズベリーソースがけ』にさせてもらいます」

「んじゃ、俺は調月先輩の財布を殺しにかかってみるか。『マウンテンパフェ・ギガンテス』で」

「待て陽皐、お前何を頼んだ……!?」

 戦慄する宴。

 それから食事を終えてデザートを注文し皆和気藹々と食事を楽しんだ。秀樹の頼んだ『マウンテンパフェ・ギガンテス』の到着により宴が『3000円っておい……』と嘆いたり、秀樹が『あれヤベェ、何か量が予想以上に多いんだけど……』と蒼褪めたり。真美がエリカに『一口食べてみるかい、エリカ?』と差し出したのをエリカが物は試しに食べてみて『甘ッ!』と叫んでお茶を飲んで中和したり、紫音が宴に『はい、あーん』として楽しんでいたり、初音がその光景を見て顔を赤らめていたり。

 日向にとっての初めての学食での昼食はとても楽しい記憶として記憶に残ったのであった。



 昼食を終えた後、先輩二人と別れた日向達は教室へと足を運んでいた。

「満腹だ……満腹通り越してもうだめだ俺……」

「あんなの食べるからですよ……」

 うっぷ、と口を押え腹を抱えて歩く秀樹に日向は思わず苦笑する。

「大量だったからなあ、あのパフェは」

「むしろよく食べきったわよね、陽皐……」

「学食でも上位の大食いメニューだもんねっ……」

 女子三名は呆れた様な表情で秀樹を一瞥し苦笑する。

「それと弦巻はどうだった、学食?」

「凄かったです! 美味しくて安いし! 驚きましたよ何かもう色々……!」

「今度一緒に制覇しようぜ」

「サムズアップしてますけど、暗に僕を巻き込む樹ですよね陽皐君?」

 腹を抱えて蒼褪めながらやられてもこれの巻き添えを受けるかと思うと実に恐ろしい。

「けど、エリカさんも本当にありがとうございます案内してくれて! 一人だったら多分……何か起きてたと思うんですよね……」

「何かって……ああ……」

 エリカが納得する様に息を吐いた。

 なにせ一か月前にはマンホールに吹っ飛ばされ、その後、足を骨折した少年だ。食堂までの距離でも十分何か起きえるのだろう。

「後は放課後だな。エリカは放課後、どうするんだ?」

「……どうするって何がよ、真美?」

「いや……」

 刑部真美は一拍隙間を置いて。

「先生から色々任されているだろう、弦巻君に関して? だから放課後に校舎案内とかするのではないかと……」

「あ、あああ……! 言われてみれば確かにそれがあった……!」

「弦巻君も地理に詳しくないだろうしな」

「う、うう……」

 エリカはしばし呻いた後に。

「……ちなみに真美は一緒に来たりとかは――」

「……すまない、私は所要が出来てね。少しそっちで話しつけてこなくちゃならない様だ」

 にべもなくそう告げる真美。

 普段と比べて嫌にその背中にゆらりとした怒気が感じられるが――何かあったのだろうか? エリカは不思議そうに思ったが、今は日向の方の問題だ。しばらく躊躇いを見せるエリカであったが最終的には、諦めた様に声を零した。

「……はあ、まあいっかぁ……ここまで来たらもう……」

「な、何かすいません……面倒事に関わらせちゃった感じで……」

「いいわよ、もう……こうなったらやるだけやったるわよ……!」

「あはは……ありがとうございます。けどエリカさんに案内してもらえるのはとっても嬉しいですよ♪」

「……フン」

 エリカはプィッと顔を背ける。どうにも日向が純粋でやりにくかった。


        2


 さて時間は過ぎて授業も終わり放課後がやってきた。

 授業が終わった事で帰宅する生徒、寮へ足を運ぶ生徒に部活を目指す生徒。お昼時以上に人の行き交いが増えており外は多くの声に賑わっていた。

 その中で日向の席の前には鞄を持ったエリカが立っていた。

「それじゃあ私は隣のクラス寄ってから来るからちょっと待ってなさいよ?」

「はい、わかりました♪ ……けど、何で隣のクラスへ?」

「ユウマ――ああ、私の兄なんだけど新橋ユウマって言うのよ。ユウマに今日少し遅れるから夕飯任せて平気か確認捕ってこないとなのよね」

「エリカさんって、お兄さんいたんですか?」

「ええ、まぁね。まあすぐ済むと思うから待ってなさい」

 それだけ告げてエリカは教室を出て廊下へと姿を消す。

(エリカさんってお兄さんいたんだ……どんな人なのかな? エリカさんの兄ってくらいだからこう……やる気に満ちた人なのかな? あるいは対照的とかかな……? それにしてもあの口振りだとエリカさん料理も熟せるっぽいよね……凄いな本当色々)

 本当にハイスペックに完璧な少女である。

 手料理も食べてみたいが……それは夢見がちだな、と日向は首を振った。なお、そんな日向は残った男子生徒達から殺意と憎悪の篭った「アイツめ……俺達が選出したとはいえ……!」、「いざ目にすると殺したくなってくるな……!」、「夜道に気を付けるのは顔が良い奴は何時でも同じ運命だしな……!」と言う視線が飛来しているのだが気付いていないのは幸運であったかもしれない。

 そうして数分が経過した頃に「待たせたわね」とエリカが戻ってくる。

「平気そうでしたか?」

「うん、まあね。『わかった、任せていいよ』って即答返ってきたわよ」

「それは良かったですけど……」

「良かったけど……何よ?」

「いや、何かちょっと怒ってる様な……?」

「気のせいよ。別にユウマに何か言われたとかないし!」

(何か言われたんだ)

 まあ本気で怒っているとかではない様子なので日向は言及は止めておく事とした。エリカは「ユウマってば、からかうんじゃないわよ全く……!」と声を上げているが何の事か良く分からないのでとりあえず静観しておこうと日向は考える。ただこのままではいけないので先を促す事にした。

「それでエリカさん。どこを案内していただけるんでしょうか?」

「え? ああ、うん、そうね……」

 エリカは少し悩む素振りを見せた後に。

「――わかってるとは思うんだけど、この学院は尋常じゃなく広いわけよ。だから単純に言って一日じゃ廻り切れないのよね」

「一日どころか一週間でも無理そうですもんね……」

「ええ。だからとりあえずシラヅキ周辺――アンタにとって必要になりそうな場所だけ散策していく事にするけど、それでいいかしら?」

「はい、それでお願いします♪」

「オッケー。それじゃあ時間も押してるし、さっさと行くから適当についてきなさい」

 その言葉と共にエリカは歩き出す。

 そんな彼女の背中を日向は鞄を持って追走するのであった。



 校舎内をエリカに続く形で探索していく。

 芳城ヶ彩のシラヅキは大まかに言って上から見れば四つの校舎から成り立つ四角形だ。

 どうやら内部の構造は何処の学院も似た形の様だ。一つ一つの教室は通常よりゆったりと大き目に造形されていると言う点を除けば、通常と変わらない。化学室や音楽室も普通だ。ただしそれは校舎内、と言う観点に於いての話だが。

 それと一概には一般の校舎内t変わらないシラヅキであったが、日向達の第一校舎とは向かい側に位置する第四校舎が特殊であった。

「自由校舎、ですか?」

「そ、自由校舎」

 エリカ曰く、

「何でも端的に言って器物破損とタバコとかそう言う悪質なものさえなければ自由に使っていいってお墨付きの場所らしいわよ? だから休み時間に鬼ごっこしたりかくれんぼしたりする生徒が存外多いらしいわね」

 また珍妙な設備である。自由な校風と言うか波乱万丈な校風に思えてくる日向だ。

 その後も様々な教室を案内され続ける形となったが途中になって、エリカは遂に学校から外へと繰り出した。

「体育館ですか、次は?」

 と尋ねる日向に対して、

「それもあるんだけどね……まあ、来なさい」

 その言葉のままについていくと大きな建造物がすぐに現れた。校舎からそう離れた距離ではない場所――シラヅキの右手に存在するドーム状の建物だが……。

「……ん、やってるみたいね」

 そう呟いてエリカは口元に人差し指を当てながら入っていく。

 不思議に思いながら入る日向であったが入ってみて納得した。

「……これはまた」

 感嘆の息が零れる。

 鮮やかな赤の布に彩られた木製の数多の客席。おそらくは音を反射し拡大する事で十全に機能するである建築様式。広く森然とした気配すら感じる広大な大森林を思わせる厳かな空間。間違いなくこれは紛れもなく――、

「シラヅキの音楽ホールよ。時々、授業場所此処になったりするのと、行事とかで使ったりするから覚えておきなさいね?」

「音楽ホールって……」

 音大か何か何だろうかこの学院は、と日向は思った。

 しかもシラヅキ専用のホールであろうから尚更豪華さが拭えない。エリカも「とことん色々手を出してるみたいだからね」と苦笑を浮かべている。本当に全てに力を注いでいると言う事なのか。

「……それじゃ次に行くわよ。長居はあまりしたくないしね」

「ですね。邪魔しちゃ悪いですし……。――ただ数名、気にかかる発声の人がいますが」

「気にかかるって……?」

「いえ、なんでもないです。それじゃあ次をお願いしますね」

 不思議そうにしながらもエリカは音楽ホールを後にする。

 そうして次に二人が向かったのはシラヅキの左手に建立したドーム状の建物――だがこちらはデザインが多少異なっていた。日向は先程が音楽ホールであった事を考えるとこの建物に関しては想像は難くなかった。

「大きな体育館ですね……!」

「でしょう? 広いから本当のびのびしてるからね。別名は『蒼穹』って言うドームで、私は見たことないんだけど、開閉スイッチで上の天井が開けたりするらしいわよ?」

「それはまた何の意味があるんでしょうか……?」

 強いて言うならば青空の下でスポーツが出来る爽やかさなのだろうか。

「でも気になるのは人が少ないって事でしょうか? てっきり部活の人であふれているのかと思ったんですけど」

「それは私は前は思ったんだけど、ほら、部活で場所争いとかってあるでしょ? そう言うのこの学院だと敷地広いから起き辛いわけで――部活とかはそれぞれの体育館や施設で活動するそうよ?」

「贅沢ですねぇ……!」

「私もそう思うわ」

 場所争いが起こりづらい様に施設を提供するとは流石お金持ち高校と言うべき幅の広さであると断じざるを得ない。

「じゃあ体育館は以上でいいわね? 次は……一応、プールがあったか……。けど、あそこは今の時期案内するのはアレよね……」

「何かダメなんですか?」

「ええ……。先生が前に今の時期は汚れててヤバイって言ってたのよね」

「ああ、そういう……!」

 でも、と日向は不思議そうに。

「この学院なら、そう言う掃除、スタッフさんとかやっちゃいそうですけど……」

「そこはこの学院の特徴みたいなんだけど、教室やプールの掃除とかそう言う所は生徒達に任せているらしいわよ? 椋梨先生何か『プール掃除を俺達が済ませるとか青春の一ページ台無しにするしな。それはいけない、いけない』とかわけのわからない事を言ってたけどね……」

 何とも色々わかっている先生である。

「でもエリカさんはプールとか得意そうですよね。運動が凄く出来そうですし」

「……」

 あれ? と、日向は汗を垂らした。

 何故かエリカが強張ったからだ。何故だろうか……?

「あの、エリカさん、僕何か拙い発言でも――」

「別に。何も無いわよ」

「え、でも何だか声が……」

「あるわけないでしょ」

「あ、はい。そうですね……!」

 声に妙な威圧感を感じて引き下がる。

 理由はわからないが、触れてはいけない気配を感じた。

「プールよりも重要な施設とかあるもの。第一、夏場だし、遠いもの。そもそも私達には関係ないし。今は他の場所こそ最優先よ、わかってる?」

「は、はい……!」

 とりあえず他を優先する様だ。

 ことプールに関しては日向も中学時代に授業で、もとい彼に関してはもっと大きな形でかかわっているので実の所得意分野で楽しみでもあるのだが……諸々夏に期待を残そうと日向は考える。

(にしても夏か……その頃になればプール……。あれ? って事はエリカさんも水着姿とかになってるわけで……)

 そこまで考えて日向は顔をぼふんっと赤らめた。

 エリカが水着姿。高校の指定水着とはいえ――それはとても刺激的な気がしてしまったからだ。そんな日向をエリカが「どうしたのよ――って、本当どうしたのよ真っ赤だけど!?」と驚いていたのをどうにか回避しつつ――、

(夏かぁ……ちょっと楽しみ、かも……)

 夏場に向けて思春期男子高校生らしき期待に胸膨らませる日向であった。

 ちなみに。


「ああ、それとプールって言っても、体育で水泳やらないから私達一般生徒は関係ないからね?」

「……え?」


 との一言により日向の淡い期待は文字通り淡く泡沫に消えたのであった。



「それじゃあ次は『クロック・バベル』のとこに行くわよ」

「……はい」

「いや、何をそんな落ち込んでるのよ?」

「何でもないです……」

「そう? 元気無さそうに見えるけど、そう言うならまあ……」

 そう言ってエリカは日向を連れてシラヅキの校門へと足を運ぶ。クロック・バベルへの道筋は三校全ての中心故に連なっているのだ。

「それでプール以外はどう言う設備があるんですか?」

「設備ね。まあ他にも色々あるみたいよ? 私は見に行ってないけど第二学区には科学部の巨大な科学設備とかあるらしいわね。後は、この学院、料理特進科の『V』クラスがあるから凄い調理設備とかも整ってるらしいわね」

「なんていうか流石の設備なんですね……」

「ええ、もう溜息しか出ないくらいぶっ飛んでるわよ、色々ね」

 エリカが肩をすくめながら歩を進めていく。

「この学院、私が知る限りでも設備多いもの。校舎内にエレベーターとか置いていたりは普通になってるし……」

 そう、エリカが解説している最中だ。

「――おお、新橋の妹君ではないか。珍しき事よ、兄以外の男と連れ立っていようとは」

「明日は雨ではなかろうか。いやさ、雨に違いない」

 唐突に声が発せられた。

 男性と女性の声。そして何処か古風な響きを感じる声だ。ただ不可思議なのは、

「え、ど、どこから声が――?」

 日向が周囲を見渡す。だがどこにも声の主らしき姿形は何処にも見て取れない。

 混乱する日向とは対照的に「ああ、そう言えばコイツらがいたわよね……」おエリカはこめかみ付近を手で抑えながら呟いた。

「コイツらってエリカさん? この場所には今誰もいませんけど……」

「いえ、一応いるのよ。ほら、そこにね」

 そう告げながらエリカは指を指す。

 そこは校門だ。日向は不可思議に思った。だが見ていて『まさか……』と言う想いに駆られていく。そう言えば、四郎兵衛終左衛門に連れて行かれる最中にも、この付近で同じような声を訊いたが……。


「もしかして……この石像二体、とか……?」


 日向がわなわなとしながら呟いた言葉にエリカが端的に「ええ」と答えた。

「愉快よな。やはり、面白き事よこの反応は何時見ても」

「明日は快晴ではなかろうか、いやさ快晴に違いない」

 校門に設置された左右の彫像――狐の姿を持つ二体の石像。まず間違いなくそこから声が発生されていた。彫像として動く気配はない。口もそのままだ。故にスピーカーから声が発せられている様な感じなのに流調に喋っている様で違和感を拭い切れない。

「石像が喋ってますよエリカさん!?」

「ええ、そうね」

「ツッコミしないんですか!?」

「もう慣れたのよ……」

 疲れた様に呟く辺り、このツッコミ気質の少女だ。

 きっととてもツッコミを叩き込んだのだろう。日向だって同様になりそうだ。

「一応説明しとくとわ……左が『ミョウブ』、それで右が『サグジ』って言う名称らしいわよ? 何でも学院のセキュリティシステムの一環らしいわね……。私は科学部があるから機械か何か何だと思ってるんだけど」

「絡繰り仕掛けとは心外な。それはセイゼンの方と言うものぞ」

「明日は落雷か。いやさ、落雷に相違ない」

 楽しげに不満を零す辺り機械仕掛けではないと言う事なのだろうか? ただ、エリカは「アンタらって本当何なのよ……」と呆れた声を零している。そんな彼女に対して、

「我等の事よりも新橋の妹君。良かったではないか」

「明日は晴天か。いやさ、晴天に相違ない」

「は? 何がよ?」

 エリカの不審げな言葉にサグジが呼応する。

「いやいや、彼氏が出来るとは暁光、暁光。青春よのう」

「…………は!?」

 エリカが真っ赤になって叫んだ。

「明日は赤飯ではなかろうか。いやさ、赤飯に違いない」

「いやいや、何勘違いしてんのよ! 彼氏とかじゃないからね? ほら、見なさい、怪我してるでしょ! 今日、登校してきて勝手がわからないから案内してるだけで別段そう言う感情も関係も一切無いからね!?」

 そんな事を思われてはたまらない、とばかりにエリカは大声で反論した。

 後ろの方で日向がしょぼんと項垂れて「や、まあ、その通りなんですけど……」と悲しそうな声を零しているがエリカが気付く気配は全く無かった。

「ほうかほうか。それは勘違いをば――だが珍しいではないか兄以外の男と二人きり等とは」

「明日は雹ではあるまいか。いやさ、雹でしかないに決まっている」

「なに戦慄してんのよ! 降らないわよ! 私がユウマ以外と行動しているだけで天候が左右されてたまるかーっ!」

「何を言うのかブラコ――兄以外の男とは対して関わりのない女子がのう」

「明日もブラコ――兄と登校ではあるまいか。いやさ、ブラコ――兄と登校に違いない」

「アンタ達、今何を言おうとしてんのかしらねぇ……!!」

 めらっと炎が燃え上がった様に感じた。

 そんな様子のエリカにも動じた気配を見せずどこかからかうような口調を止めないミョウブとサグジ、そして怒るエリカを日向が「と、とりあえず落ち着きましょうエリカさんってば!」と必死に宥めるのであった。

 そして数分後。

 エリカと日向は何と元来た道を逆に歩いていた。

「……えっと、エリカさん。クロック・バベルは……」

「明日」

「あ、明日ですか……」

「そうよ。良く考えたらアンタも通学路だろうし見てるだろうからね。見る機会もたくさんあるし。それを考えたら誤算だったわ。道のりを計算に入れると結構なタイムロスだもの。先に他の場所を見ておきましょう。――別にミョウブとサグジは関係ないからね」

「あ、は、はい……」

 日向の脳裏には最終的に『アンタらのとこなんて通らないわよー!』と顔を赤くして逆走するエリカの姿が目に焼き付いている。だが指摘すると凄い怒られそうだ。なので心にしまって何事も無かった事にする二人である。

 まあ帰り道で必ず通る羽目にはなるのだが……。

「……あ、そうだ。アンタに一つ訊いて無かったわね?」

「何でしょうか?」

 ふと思い出した様子で声掛けるエリカに対して日向は小首を傾げた。

「いえ、私は入ってないんだけど部活とかって興味あるの? あるなら場所くらいは案内出来ると思うんだけど」

「あ……!」

 そこで日向はパァッと顔を輝かせた。

 どうやらあるようだ。

「あー、そうですね……。本格的な見学は後日としても少し顔は出しておきたいかな……良ければいいでしょうか?」

「いいわよ、別に。時間も取っておいたしね」

「じゃあ、その……――部なんですが」

 その日向の言葉を訊いた時。

 新橋エリカは少し意外そうに「へぇ」と声を零し、そこへの道筋を確認し歩き始めた。



「……ここね」

 エリカはタブレット端末で位置情報を確認しながらそう小さく呟いた。

「な、なんか……予想以上に凄いですねこの場所……」

 彼女に案内を任せる形で付いてきた日向は思わず、と言った様子で驚きを示す。エリカもまた同様だ。

「全くよ。私、来た事なかったけど……美術部も例に洩れず相当にびっくり箱っぽいわね」

 そう、美術部。

 弦巻日向の要望に応えて新橋エリカが付き添う形で訪れた場所は芳城ヶ彩の美術部であった。その事を日向が伝えた際には『アンタ美術に感心あるの?』と少しばかり驚かれたものだ。日向が美術に感心を持っているとは思いもしなかった故の反応だろう。

 しかしエリカは律儀に美術部の部室をタブレット端末にて検索。

 日向を連れる形でここまで辿り着いたと言うわけである。

 そう、この――、

「そもそも周囲が森林って時点でアレですよね……」

「ええ……。流石、芳城ヶ彩よ本当にね! 第三学区のみならず第五学区も探せば普通に森林地帯出てくるもんだからびっくりよ!」

 芳城ヶ彩の美術部。その場所は何処かと探したところ、最早教室内部にさえ留まってはいなかったのだ。学院からしばらく進んだ先にある小規模の森林地帯――そこにひっそりとたたずむ形で美術部は存在した。

「ログハウスですね」

「本当、見事なログハウスね」

 二人は口を揃えてそう呟く。

 眼前に佇むのは木造建築のログハウス。看板には『アトリエ・アミティーエ』と言うカラフルな文字が彩られている。タブレットで確認を取ったが部活名であるらしい。最早大学のサークルを思わせる部活名だ。

「そこそこ歩くのはいいわ。けどログハウスって何よ! 美術部どうなってるわけ!?」

「美術ですから多分、雑音や騒音から離れた場所に――みたいな思惑なんじゃないでしょうか、多分ですけど……!」

 しかしだからといって校舎内にログハウス。

 流石は芳城ヶ彩だ、と二人は思わざる得なかった。一部室までもがそれっぽい装いに包まれていると考えていいだろう。

「にしても大きいログハウスですよね……」

「この学院、敷地面積大きいから余ってるんでしょうねー」

 嘆息交じりにエリカは呟く。

「けど、まあ。見つかったのに越した事はないわね。ほら、入るんでしょう?」

「はい! ……にしてもどんな部室なんだろう、中学時代と違い過ぎて想像が出来ないや……」

「どこの中学の部室も参考にならないと思うわよ?」

 確かに、と日向は首肯する。

 部室がログハウスと言う段階ですでに並大抵の中学の部室では相手にならない気がした。本当に予想を斜めに超えてくる学院だ、と考えながら日向は扉へと向かっていく。歩く最中にふと視線を巡らせれば周囲には実にアートな造形物が並んでいた。彫刻、前衛的美術、絵画といった品々がざっくばらんと転がっていた。

 中にはどこかの美術館で見た覚えのある作品も目につき日向は心を躍らせる。

 そんな心境を抱きながら弦巻日向は扉の前に立つと深呼吸を数回、そうして扉をコンコンと二回叩いた。

「すいませーん」

 声を発して少し待つ。

 そうして三分程静かに待つが。

「……反応無いわね?」

「……ですね?」

 特に何の反応もない為に日向は再度挑戦した。

「すいませーん! 見学したい者なんですがー!」

 今度は声を張り上げて扉を叩く。しかし何の反応も返ってこない。

「すいませーん……!」

 やっていないのだろうか、と日向は少し残念になりつつ扉を叩く。

「あのー……!」

 消え入りそうな声で呟きながらコンコンと言う音を立てた。

「入部希望なんですが――」


 その瞬間に弦巻日向が扉の奥から複数の腕により引きずり込まれた。


「…………は!?」

 早業だった。あまりにも早業であった。しゅるりと何かが伸びたと思ったら次の瞬間には『うわぁー』みたいな表情を浮かべた日向の末路が視界に焼き付く始末。なんと後味悪い光景であろうか。エリカは一瞬唖然としていたが「え、なに、何よ、今の!?」と混乱しつつもこのまま放置するわけにもいかないと感じて扉に手を掛けた。若干ホラーじみてて怖いが仕方ない。

(女は度胸よ!)

 何とも逞しい少女である。

 幸い、鍵は開いている様で易々と開く。

 そうして瞬時にアトリエの扉を開け放ったエリカの視線の先にはある光景が映し出されていた。

「さあ、少年よ。賛美するといい。我が麗しき芸術作品をッ!」

「いやいや入部希望者よ目の保養こそが真理。網膜に焼き付けるのだ、このアートを!」

「無理ですよ! って言うか、何ですかこの二者択一!? 何で自画像と春画なの!?」

 そこには二人の男子生徒に板挟み状態で――ほぼ脅迫に近い様な構図で絵を突き付けられている弦巻日向の姿があった。引き込まれて僅か数分に過ぎないと言うのになんと窮地に陥った構図であることか。

「……何やってんの、アンタ……?」

「あ! エリカさん! 助けてください!」

「助けてくれって言われてもね……?」

 事態がいまいち呑み込めない。

 何が起こっているのやら、だ。

「えーっと……貴女も入部希望の子……かしら?」

 そんな困惑状態のエリカに話しかけたのは北欧風の綺麗な女生徒であった。くすんだグレーの頭髪を艶やかに伸ばしたどこかおっとりとした印象を受ける綺麗な生徒だ。年齢は自分よりも上と言う事は学生服の学年カラーで判別出来た。

「ああ、いえ。私はアイツの付き添いみたいな奴です」

「ああ、そうなの? 何だ、恋人さんだったのね」

 ほんわかした笑顔で手をぽんと打って納得した様子を浮かべる外人さん。

 それは別に構わない。ただ後半がおかしい。

「違いますからね? 別にアイツの彼女とかじゃないですからね!? って言うか勘違いされまくりなくらいなのは何でよ!」

「あら、そうなの? ゴメンねぇ、早とちりしちゃって」

 申し訳なさそうに柳眉を下げる、どこかほんわかとした様子の先輩。

「一年の新橋エリカって言います。で、あっちで何かわけわからない状況に追い込まれてるのが弦巻日向って言うんですけど……アイツに何が起きてるんでしょうか……?」

「新橋……ああ、新橋さんね! 学院でちょくちょく話題に上がるから聞き覚えあるわね~。まあ、それは置いとくとして……アレはそうね。一言で言えば『お前のやつより俺の奴の方が何倍もいいに決まっているだろう!』的な張り合いね……。ついさっきまでお互いに目から電流放ってるんじゃないかってくらいバチバチ火花散らせてたのよ? 私もそれを横で見てたから迂闊に動けないところに丁度、あの見学者の弦巻君が『入部希望』って声を発したものだから即座に反応した二人が連れ込んじゃってね……」

「……つまりどっちの絵がいいか評価しろ、的なやつってこと?」

「ええ、文字通りそう言う事になるわねぇ……」

(それはまた面倒そうな争いに巻き込まれたわね……)

 しかし、とエリカは不思議に思った。

「それならもっと早い段階で連れ込まれるんじゃないんですか? だって、アイツ、もう少し前から部屋の扉叩いていたし」

「うん、知っているわ。私も聞いてたし。けどね? あの二人両方の見識が『品定めするなら美術の世界に足を踏み入れている者』でなくちゃならなかったのよ。早い話が、ただの素人にとやかく言われる筋合いは無いって奴かしら。途中まで冷やかしか何かだと考えていたんじゃないかしらね? ウチの美術部、そう言うの多いから」

 その言葉を訊いてエリカは僅かに柳眉をひそめた。

 そう言うのが多い――と、訊いて何か脳裏を掠める記憶がある気がした為だ。本当に掠める程度――噂話程度でぐらいの記憶であったとエリカは思った。

「さあさあさあ! 少年よ、もっと良く見て評価したまえ我が芸術的自画像を!」

「芸術的自画像って言われましても!? そもそも自画像を賛美する様に提唱するって若干痛くないんですか先輩さん!」

「思わないな。何故ならば私こそが至高の芸術品だからねっ」

「自画自賛しててください、もう!」

「そんな奴にかまってるなって少年! そいつの意味不明な自画像賛美なんかよりも、俺の春画を見ながら萌えようぜ! な!」

「な! ――じゃないですよ!? そもそも何で春画書いてるんですか!? そして僕、流石に春画なんてよくわからないですよ!? って言うか見せないで!?」

 改めて、客観的に見て、この二人は独特だとエリカは流石に断じざるを得ない。

 おそらくはナルシズムを感じさせる端正な顔立ちをした艶やかな黒髪の美青年――それだけ言えば日本人だが、顔立ちが違う事からスペイン系ではないかとエリカは予測する。そんな彼は先程から全く変わらず自画像を賛美し続けている事態。

 対して春画をおっぴろげに提唱している青年――春画は流石に目に入らない様に視界から切り離すエリカであるが――こちらもまた堂々と春画を公表す始末。

「……あ」

 この二人だけでエリカはある噂を思い出した。

 そう、確か廊下を歩いていた時に偶然耳に入ってくる、そんな些末な噂話。

 今日まで確認する意識なぞ全く無かった故の直面と言う形の弊害。


(芳城ヶ彩の美術部と美術特進科は切り離して考えた方がいい――だったっけ……)


 エリカは思い出していた。

 芳城ヶ彩には美術特進科、クラスで言えば『Y』と言うクラスが各学年に存在し、そこでは美術講師による次世代の芸術家育成を行っているクラスがある。そこに在籍する面々はやはり選出されただけあって素晴らしい才能の持ち主ばかりが存在するとのこと。

 だが美術部は別だ。別格であり、別枠だ。

 奇矯、奇特、奇妙――そんな言葉が似合う変人集団。有体に言って一風変わった面々が存在すると言う部活――その才能は紛れもなく、トップス集団だが変わり種と言う意味でも上位に食い込む絵描き達――それが美術部なのだ。

「……何か厄介な場所に来た気がするわぁ……」

「ゴメンねぇ……普段なら、もうちょっとマトモな面々がいるんだけど今日に限って……」

 女子生徒二人が何とも物憂げな表情を浮かべる中。

「少年! いい加減、採択をするべきだぞ! 選びたまえ、僕の芸術を!」

「男だろ! なら春画に見出すものがあんだろ! 選択しろ俺の美術を!」

「だから僕は知りませんってばぁあああああああああああああああああ!」

 弦巻日向はやはり何とも面倒くさい状況に追い込まれ続けている始末。

 だけれど、それは一人の救世主の登場によりようやく終わりを迎えるのであった。

「ただいま戻ったよ。――って、何事だい、これは!?」



 結果として。

 弦巻日向は最終的にどちらも選ばずに安息を得ると言う形に行きついたと言えるだろうか。先程までの大騒ぎは終息し、室内には見事なまでの安寧が戻っていた。――部屋の片隅に先程まで言い合っていた男子生徒二人らしき残骸が転がっている点を除けば、であるが。

「いやぁ……何ともすまなかったね、二人とも。うちの変人二人が多大なご迷惑をかけた様で心から謝罪申し上げるよ」

 申し訳なさそうに頭を下げる西洋人と思しき美貌の青年は日向とエリカに謝意を示していた。

 あの騒ぎから数分にも満たずに帰ってきた美術部一行は室内で騒ぎ合う二人と見慣れぬ生徒二人を確認した後に強面巨漢の男子生徒が騒ぐ二人を連行、仕置きし片をつかせたのである。

「いえ……助けてくれた、だけで……もう、十分です、けども……」

 それまで耳がキーンとする程大声張られた対象である日向は若干ふらふらであった。

 エリカが「アンタ、大丈夫なわけ……?」と流石に心配そうな声を発している。

「エリカさんの声って綺麗ですよね。ずっと聞いてたいです」

「どんだけ大声に打ちのめされてんのよ……」

 この状況に於いてそんな発言が出てくる辺りは存外無事かもしれない。エリカはそう思ったのでとりあえず平気だろうと結論づけた。目がくるくるしてるが多分平気だろう。

 ただし眼前の青年は納得いかない様子で再度頭を下げて謝罪を示した。

「いや、部長として体たらくっぷりを晒して申し訳ない」

「いえ、本当に気にしなくていいんですが……部長さんなんですか?」

「そう言って貰えるとありがたいが……。ああ、そうそう自己紹介していなかったね。俺は美術部部長を務めているザガリア=オーベルヴィリエ。よろしくね」

 柔和な微笑でそう告げると軽く日向と握手を交わす。

「それで私は副部長を務めているエリザベト=ドラーケンブルクって言います。ザガリア、こちら一年生の新橋エリカさん。それに、弦巻日向君だそうよ。――ん? 弦巻、日向君?」

 続く形で副部長のエリザベトがエリカと握手しながら二人を交互に見やり、二人に代わって紹介を促した――ところでふと柳眉をしかめて何処か何かを思い出す様に唸る。

「弦巻日向……、へぇ」

 対してザガリアは興味深そうな表情を浮かべて日向を注視した。

 エリカは何故二人がこんな反応を示すのだろうか、と不思議に思って尋ねようかと考えたところで日向が目を輝かせながら声を上げた。

「あの、オーベルヴィリエ先輩ってもしかして風景画のオーベルヴィリエでしょうか……!」

「風景画?」

「はい! エリカさんは知らないかもですけど、僕達に近い年齢でオーベルヴィリエって言えば風景画の天才って言われているくらいなんですよ?」

 そうですよね、と疑問を目を輝かせながら投げ掛ける日向に対して少し照れた様に苦笑を浮かべながら「そんな御大層なものじゃないよ。俺が描くのは俺が見ただけの世界なんだから」と返す。

「でも僕はオーベルヴィリエ先輩の絵画は感動しましたよ? 見ているだけでその風景に遭遇したかの様な立体感、匂い、情景が叩き込まれる感覚がしますから!」

「よせやい、照れるぜ」

 からからと破顔を浮かべるザガリア。

「ああ、それとオーベルヴィリエは長いからザガリア先輩って皆に呼ばれてるんだ。それでいいよ。ちなみにエリザベトはエリーザって呼ばれているね」

「うん。私もそれでいいわよ~」

 ニコニコ笑顔で語るエリザベト。

 ただしその後困った様に微笑を浮かべながら、

「それはそれとして、二人とも? 新橋さん、置いてけぼりじゃない。絵で興奮するのは性みたいなものだから仕方ないと思うけど」

「う。それは申し訳ない……」

「あ、あの決してエリカさんを置き去りにしようとしたわけじゃ……!」

「わかってるわよ。絵が好きなんでしょう? 見てて何か楽しそうだったしね」

「はい! 後、エリカさんと一緒にいるのも好きです!」

「はいはい、ありがとね」

 軽く受け流されてしまった日向である。

 もちろん校舎案内してもらえたりでとても好意的に思っていると言うのが内面だが。

(何か犬に懐かれた気分ね。って言うかそう思ってないと素直過ぎて気恥ずかしいし流石に……!)

 素直にこうも接されると何とも調子が狂うエリカである。

 特にこと彼女に至っては『男子と普通にこうして一緒にいる』と言う事態がある種イレギュラーであるのも原因と言えるのだろうか。

(……本当、何で私コイツの事放っておけないのかしらね……)

 わけのわからない内面に思わず自嘲じみた嘆息を浮かべてしまう。

 と、そこに、

「新橋さん♪」

 と、エリザベトが明るい声で話しかけてきた。

「はい、なんですか?」

 エリカは不思議そうに顔を上げる。

「いえ、ここに座ってても絵画バカの会話に巻き込まれるだけだろうから――もしよければだけど二階に上がってみない? 絵がたくさん飾ってあるから美術館とか、展覧会みたいな場所になっていてね。暇つぶし程度にはなると思うわよ?」

「へぇ、そうなんだ……」

 確かにそう言う場所が合ってもおかしくないだろう。

 そしてここにいても話に参加できる気もしないので、ただ隣に座っているよりかはエリザベトの言う通りに二階で鑑賞でもしているのがいいかもしれない。

 ただ、気になるのは……。

「あ、ちなみに春画とか自画像とかそう言うのは一切展示してないから安心してね」

「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

 即決である。

 そりゃあそうだ。好き好んで女子であるエリカが変なものを見たいわけがない。端っこの方で『何故だ……我が美貌こそ展示すべき……!』、『エッチなものを見て赤らむ女子もまた格別と言うのに……!』と言う魂の声みたいのがボソボソ零れていた様だが、美術部部員にして巨漢強面の堅志田(かたしだ)(うしお)により再び、トドメを差されていた。

 そうして「じゃ、話が終わるまで二階で絵、見てるから」と言い残してエリカはエリザベトと一緒に二階へと続く階段を上がって行った。

「……ははは、女の子の扱いは未だ、女の子にしかわからないなあ。俺は新橋さん置いてけぼりを失念していたよ、うん」

「僕こそですけどね……。エリカさん、美術関係詳しくないだろーし……」

 申し訳なさそうに頬をかく。

「でもやっぱり驚きました……。っていうか、ザガリア先輩って芳城ヶ彩の学生さんだったんですね」

「まあね。流石に通う高校はあまり明かさない様にしているから……ある程度調べられるとわかっちゃうんだけどね。人の口に戸は立てられないさ」

 肩をすくめながらザガリアは嘆息を浮かべる。

 だが次には何処か面白そうなものを見つけた様な表情で言い返した。

「けれど、俺はそれよりも君が芳城ヶ彩に来た事が驚きかな。一か月間、気配も無かったから他の美術専門の学校に行ったものかと思っていたよ。水の綾とかね」

「あはは……」

 日向はたまらず苦笑を零した。

 そう、弦巻日向は本来は水の綾に行くはずであった。ただし手続きミスで現在芳城ヶ彩の恩恵に当たっている次第だ。ただし、そこの事情を説明するには些か恥ずかしいので日向は濁す様に「ちょっと色々ありまして」と言葉を発した。

「ふぅん。まあ、そこはあまり聞かないでおこう。けど、こうして君と会えて嬉しいよ」

「そうなんですか?」

「そうとも。君は俺を風景画で評価してくれた様に、俺だって君を結構前々から評価しているからね」

「へ?」

 不思議そうに眉をひそめる日向に対してザガリアは微笑を浮かべながらこう告げた。


「君が中学時代に描いた作品――『少女と七色の丘』」


 その発言を耳にした瞬間に日向の脳裏にはふわりとカーテンが揺らめいた。そしてその奥に立て掛けられた自分にとって一番大切な絵画が鮮明に脳裏に浮かぶ。

「君が初めてコンクールに出展した処女作――アレを見て以来、ファンの一人ってやつだ」

 ニッと快活な笑顔を浮かべながら告げるザガリアを前に弦巻日向は「うわぁ」と堪え切れない様な声を零した後に「ありがとうございます……!」と嬉しそうに頭を下げたのであった。



 さて、その頃『アトリエ・アミティーエ』の二階では二人の少女が会談していた。

「本当、全部凄い上手い絵ばっかりなのね。流石、美術部」

「ふふ、お褒めに預かり光栄ねー」

 エリザベトは『湖畔と調べ』と言う題名の前に立つエリカに対して嬉しそうな声を零しながら彼女を案内していた。なにせ二階に飾られた絵画の枚数は結構な多さなのだ。

「本当、プロみたいな作品とかあるし……」

「凄いでしょう? だってそれプロだもの。ゴッホさんよ!」

「ガチで有名な奴じゃないの……」

 どうやら時折本物が混じっているらしい。

 ただし、それら全てを除いたとしてもエリカから見て『上手い』と感じる絵画はたくさん存在している。美術部と言う肩書は伊達では無い様だ。

「本当、上手いのばっかあるわね……」

「仮にも美術に携わっているからねぇ」

 これくらいは当然ね、とエリザベトは呟く。

「……ただ、あるのはただ上手ってだけのばかりが、はびこっちゃうのよね」

「え?」

 今、一瞬だけ聞えたトーンが一つ下がった声にエリカは不思議そうに声を零した。エリザベトは「あ、ううん! 何でも無いのよ」とおちゃらけた様に反応する。そのあからさまな様子にエリカは(……何かあるのかしら?)と思いつつも、自分があまり干渉するのも気が引けたので疑問を投げ掛けるのは置いておく事とした。

 変な態度を取ってしまうのは避けたいのでエリカは次の絵画に目を移す。

「……あ」

 すると見つけたのが先程のザガリアの絵画であった。

 先程、日向は言っていた。『風景画の天才』と。芸術にそれほど精通しえいるわけでもないエリカにもその意味がわかった。

(息吹って言うか……芽吹きかしらね? 見ているだけで何ていうか春を感じさせるって言うか……こういうのを生きている絵って言うのかしら……)

 題名『春鳥、風そよぎ』と名付けられた絵画には鳥など一羽も描かれてはいない春の田園風景だ。だがエリカは描かれた風がまるで鳥の様に舞っている――そんな印象を抱いた。そして何よりも今まで見た絵とは何処か違う感覚を抱く。――生憎、それが何であるかまではエリカにはわからなかったが、それでも違う何かを感覚的に抱かされた心地だ。

「……凄いでしょう、ザガリア君の絵画は」

「……なんていうか……何て言うのかしら、妙に生きているって感じがしました」

「彼の絵を見た人結構そう言う感想言うのよね。それで合ってると私も思うわ」

「弦巻の奴が興奮するのも何となく想像つくわね……」

 絵画に興味が左程抱いているわけではないエリカでも少し興味を抱けた。

 とするならば絵に感心を持つ彼にとっては憧れの様な領域の人物であったりするのかもしれない。はたまた有名人に逢う心地だったりしたのだろうか? と、疑問を浮かべるエリカであったがふと、そこで気になった事が浮上した。

(……そう言えば、逆にオーベルヴィリエ先輩も弦巻を知ってる風な感じだったわよね。って言っても初対面っぽかったし……だとすると弦巻の方も絵画の世界で有名だったりするのかしら……ね?)

 何となく思い浮かんだ疑問。

 弦巻日向が絵画に興味を抱き、そしてもしかしたら有名なのではないかという問いかけ。

「あの、アイツなんですけど……」

「ん? 何かしらぁ?」

「もしかして結構有名な絵描き――とかだったりするんですか?」

「んー……。私は分野違いだから、そこらへん詳しくないのよね。ただザガリアは知ってるはずね。私は彼から名前や作品とかしか聞いてないし、見てないんだけど……何て言ったかしらねあの作品……」

 んー、と悩む様子を見せるエリザベト。

 エリカは「ああ、そんな悩まなくていいですよ。少し気にかかったくらいですから」と苦笑しながら感謝を示す。エリザベトは「ごめんねぇ」と苦笑を零す。

「そんな謝らなくていいですよ、ほんとに」

 エリカは申し訳なさそうに返した。

 実際、ふと気になった程度に過ぎないのだ。だからそんなに探る事でもない。

(……ま、そんな気にする事でも無いか)

 とりあえずそう言う疑問があったなー、程度に頭の片隅に置きながら新橋エリカは鑑賞を再開した。その後五分程度を過ぎた後に、下の階から日向の声がかかってきてエリカは一階へと降りていくのだった。



 美術部の面々に別れを告げた二人は揃ってある場所へと足を進めていた。

 厳密には足を進めているとは違う。何故かと言えば二人は現在、学院のモノレールを使って移動している為だ。学区と学区を結ぶ移動車両は学生であれば自由に乗車可能。今から向かう場所は第五学区の一つ隣と言う場所だが、距離がある為にモノレールで時間短縮を図った形となっている。

「で、どうだったわけ、美術部は?」

 エリカは何となしに隣に腰かけた――席が一つ分くらい空いているが――弦巻日向へと問い掛けた。日向は「そーですねー」と呟いてから。

「有意義でしたよ。部長さんもいい人でしたしね」

「みたいよね。マトモだったし。変人が多いって噂があったみたいだけど……」

「多分、変人は多いと思いますよ? ……部屋のいくつかから人の気配感じたんですよね。あのぶんだと出てきてない人が多いと思います。逆に表だって話してきてくれる人は常識的なんではないかと」

「なるほどね……」

 だとしたら部長と副部長は大変そうね……、とエリカは思った。

「それで結局入部とかは考えてるわけ?」

「一応は。ただ屋敷の事とかありますから、幽霊部員になる可能性も否定できませんけど。まあ……僕がいない方が屋敷の仕事は捗るんですけどね……ははは……」

 乾いた笑いを零す日向。

(確かに――確かに、コイツ、執事の仕事とか向いて無さそうな感じがあるっちゃわるわよね……。手先も器用だし、結構色々やれそうなんだけど……何か向いてないって言うか……)

 そこまで考えてエリカは内心首を傾げた。

(っていうか、そもそも何でコイツ従者とかやってるのかしらね?)

 何と言うか何処か『そぐわない』感じを抱かせるのだ。服装自体が似合ってないとかではなく、職種事態が似合っていないと言うべきか。

(……ま、私が深くつっかかる事でもないわね)

 自分がお節介に関わる事でも無いだろう。だから新橋エリカは言葉を呑み込む。代わりに別の言葉を吐きだした。

「ま、私は事情なんて知らないけど、頑張りなさいよ? あんまり情けないって言うか卑下する様な言葉はダメだからね?」

 説教を交えて鼓舞の言葉を紡ぐ。

 その言葉に日向は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を崩して、

「そーだよね。情けない事言ってしまった。はい、頑張ります! ありがとうございますね、エリカさん」

 ふわりと柔和な微笑を浮かべた。

 その時だ。その時――何故だろうか? 新橋エリカはその表情と声色に何か不思議な色合いを見た――そんな気がしたのだ。

 それが何かはわからない。だが感覚的に、何か不可思議なものを視たかの様な……。

『第四学区大図書館前~! 第四学区大図書館前に到着致しました~! お降りの方はお忘れ物の無い様に~』

 不意に車内のスピーカーから声が零れた。

「あ、着きましたよ、エリカさん!」

 何かに意識が辿り着きそうなところで不意に感覚が途切れる。日向の声にエリカは「え、あ、うん、そうみたいね……降りましょうか」と心ここにあらず、と言った感じながらも言葉を紡いで、モノレールから降りて行く。

 エリカは何処か釈然としない感覚に陥ったが、それを振り切る様に駆る首を左右に振って、外へと歩いて行った。

 モノレールから降りた二人を待ち受けているもの。

 それは第四学区と言う存在そのものであった。

「……すご……っ」

 日向が思わずと言った様子で声を発する。

 それだけ眼前の光景があまりにも雄大と言う事を意味しているのだ。


 芳城ヶ彩第四学区の全て――大図書館だ。


 全てと言う言葉に過言は無い。

 何故ならば、

「ここ第四学区は学区そのものが図書館施設で構成されている場所だそうよ。国立図書館にも引けを取らない程の貯蔵量……芳城ヶ彩の集大成の一つらしいわね」

 エリカの言う通りにこの場所全ては図書館で出来ている。

 最早軽い街並み全てが図書館だ。巨大すぎる図書館故に大図書館。果たしてどんな光景が待っているのだろうか。本にそこまで興味を持つわけではない日向ですらドキドキする気持ちが湧き上がるのだから相当だ。

 入ってみよう――そう考えたところでエリカが日向の足を止めた。

「ねぇ……」

「? 何ですかエリカさん?」

 不思議そうに日向を問い掛ける。

 エリカは少し迷った後に、

「まあ、時間的にここで最後になりそうだけど……その、どうだった? この学院をまあ色々見て回ったわけだけど……」

「どうだったって言いますと……」

「その……アレよ。変なとこも多いけど、まあいい場所も結構あったかしらって言う感じの質問、かしらね……」

「エリカさんは……」

 この学校の事好きなんですね、と日向は微笑を浮かべて問い掛けた。

 エリカは「んー……」と苦笑を浮かべながら、

「好きって程まだいるわけじゃないしわかんないし、変なとこも多いけどね。それでも真美とか初音とか友達も出来てるし……あったかい空気もあるのよね、実際。だからまあ愛着は少しずつ生まれてるのかしらね」

 それで、と一拍置いて、

「……アンタ、幸先色々悪かったみたいだからさ。何だかんだ言ってもまあ……心配になったところもあるのよね」

 ――ああ、そうか。

 と、日向は得心がいった。エリカはずっと自分の事を気にかけてくれていたのだと理解する。事故で結構な負傷を負ってしまった日向を彼女はどこかで気にかけて、心配してくれていたのだろう――そう言う心優しい少女なのだろう。

 だから文句を言いつつも、最後まで自分と関わってくれていたのだ。

 芳城ヶ彩に、シラヅキのいいとこ変なとこ悪いとこ全部紹介しながら。

 そんな優しい少女に向けて日向が言う言葉は自然と胸から出たものだった。

「色々気にかけてもらってありがとうございます、エリカさん」

 優しい声音で笑い掛けながらそう呟く。

「僕もこの学校の事は結構好きになってきていますよ」

 だって、と呟いて。

「一か月間近くも病院生活で、来るのも遅れた僕をあんな暖かく出迎えてくれたんですもん。ありがたくて泣きそうになりましたよ」

「うちのクラスメイト、何だかんだで親身なとこあるものね」

 クラスの面々を思い出してエリカは思わず吹き出す様に笑顔を綻ばせた。

「全くです。普通もう少し距離感空きそうなのに一気に詰め寄られましたからね。それだけで凄い心が救われましたよ」

「そっか。……なら、良かったって感じかしらね?」

「はい♪」

 満開の笑顔を浮かべて、静かに問い掛けるエリカに日向はそう返す。

 友人が、友達が出来るか不安だったし一ヶ月も遅れて平気だろうかと言う意識は綺麗さっぱりと払拭されていた。嗚呼、大丈夫だ。ここでならきっと平気だ、と思えたのだから。

 ただ――、

「けど一つ反論するんですけど」

「え、何に……?」

 少し眉を潜めるエリカに対して日向はこう言い放つ。


「そもそもエリカさんがいた時点で僕、幸先凄く、幸福ですよね?」


 きょとんとした表情でそう告げる日向に対してエリカはしばしポカンとしていたが、

「――――はっ!? はぁ!? はぁぁぁあああああああああああああああああ!?」

(何言ってんのよコイツ!?)

 顔をしゅぼっと赤面させて何度も意味が分からないとばかりに声を吐き出した。

 そんなエリカの表情には目もくれず、唸りながらも日向は言葉を紡いでいく。

「いや、だって……エリカさんみたく綺麗で素敵な娘と出会えて、こうして色々案内されてる時点で僕、相当に幸福な状況にあると思いますし……。本当、あの日にエリカさんと面識持ってて良かったなーって思えますもん」

 うんうん、と一人頷きながら杖をつく日向。

 そこで隣を歩くエリカが不意に立ち止まった気配を感じて日向は「あれ?」と思い、後ろを振り向いた。立ち止まって顔を俯かせているエリカを見て、少し不安に思いながら日向はエリカの傍へ寄ってゆく。

「あ、あの、エリカさん、どうかしましたか……? もしかして僕こう失礼な事とか言ってたりしましたか……?」

 と不安げに声を発する日向に対してエリカはしばし肩を震わせていたが――次の瞬間に日向は突然、眉間にデコピンを喰らった。

「いつぁ!?」

 思いのほか強力で思わず仰け反る。

 そんな日向に対してエリカは地獄の底から轟く様な――実際に日向はそんなイメージを持った――気配を纏わせた声でこう紡ぐ。

「足を怪我してた状況に感謝しなさいよ……! でなかったら絶対、拳骨放ってたからね私は……!」

「え、何でですか!?」

 理不尽です! と、叫ぶ日向に対してエリカは顔を真っ赤にしてこう叫んだ。

挿絵(By みてみん)


「うっさいわね! アンタといると私、全面的に恥ずかしいのよ! 何なのよ、アンタの素直さは! はずいわッ! 一緒にいて気恥ずかしいのよ、バーカ!」


「えええ!? いや、確かに一緒にいて恥ずかしいダサい男かもしれないですけど……! そこまで言わなくたって……!」

「うっさい! そこで理解しない辺りがアンタアレでしょ? 天然ジゴロとかそう言う類の人種でしょ!?」

「違いますよ!? 僕、そんな特殊な人じゃないですからね!?」

「黙りなさい、天然ジゴロ。ほら、さっさと大図書館行くわよ! 時間無いんだからとっとと歩く!」

「そりゃ歩きますけど! でも何故に唐突に自棄っぱちっぽい感じになってるんですかエリカさん!?」

 杖をついて見事に健全な一般人と同じ速度で歩行する日向は前をガンガン進んで行く新橋エリカの後をすぐさまついていく。何かしてしまったのかと不安になって顔を見ようとしても「ふんっ」と即座に顔を背けてしまう。取りつく島も無いとはこの事だ。

「本当、どーしたんですかエリカさんってば……!」

 何かしたのだろうか――と不安になりながら追い掛けて行く日向を横目で一瞬だけ一瞥して新橋エリカは嘆息交じりに、ただただ一言こう呟いた。

「……バーカ」

 そうして日向とエリカの二人は、大図書館へと続く通り道を騒がしく言い合いながら歩き進めていく。丁度、茜色に染まる時刻の出来事であった。


        3


 学院が茜色に染まるころ。

 その人物があろう事か、学院に存在する森林――その樹の一本の上に佇んでいた。大きく聳える樹の上に平然と立っている。それだけでその人物の異状性は窺い知れるというものだ。樹の上にこうして直立不動と言う時点でバランス感覚か、はたまた別の何かが起因していると考えるのは想像に容易い。

 全身を襤褸衣の様なコート、顔をターバンの様なもので隠している何者かは、口元の布をすっと下へ手で下げてニヤリと笑みを浮かべた。

「――オパパパ、よきかな、よきかな。ようやっと今年の情報は集まったと言うもの」

 手元に何やらタブレット端末――そこに掲載された資料の様なものを一瞥しながら何者かはくぐもった声を零す。

「今年もこの学院の生徒は素晴らしい――滾る漲る昂る事よのう!」

 体を震わせて何かに歓喜する謎の影。

「待つがいい、新入生諸君! 時期はそうさな……最終調整含めて一週間後と言ったところか。一週間後……その時に始めよう! おうとも、開催しようではないか! カルネヴァーレの幕開けは目前ぞ!!」

 そして茜色に染まる空の下で甲高い何者かの声は不敵に響き続けるのであった。

 下で数名の生徒が「なんか変な声しないか?」、「って言うか聞き覚えある様な……」、「どっからか聞こえるんだけどなぁ……」と言う声には全く気付かずにただただ高らかに笑い声を茜色の空へ響かせていた――。














第七章 優しさと茜色の空に包まれて

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