第六章 慈悲の少年、運命の少女に巡り会う・前篇
第六章 慈悲の少年、運命の少女に巡り会う・前篇
1
カツン、と言う小さな金属音を鳴らして、その少年はその場で立ち止まった。
眼前に広がる壮観なる大景色。
一学校とは到底思えぬ程の広大さを誇る学院――芳城ヶ彩共同高等学院。その学院を前にして少年は思わず感涙を零しながらじっと見据えていた。都市の様に整備、拡張された街並みに田舎の山間部を持ってきた様な緑の大自然も遠目に見て取れる。遠くて見えないが、ここを真っ直ぐ歩いていけば自分の望む建物にも出会えるのだろう。
そう、一ヶ月前に見たあの校舎に再び足を踏み入れられるのだ。
水色の襟元程度までの長さの頭髪を微風に揺らし、目元の涙により同色の水色の瞳を微かに潤ませる形で揺らしている何処か英国辺りだろう血が僅かに混じっているのではないかと思わせる整った顔立ちは何とも言えず女性的でさえある少年。
退院間もなくな為か少し細くもなっているのがより中性的なイメージを際立させている、その少年こそ弦巻日向であった。
しかし今の彼を知る人は変わったのは少し痩せたのと髪がぐんと短くなったことだけではない事を理解するだろう。
右足のロフトストランドクラッチ――日本風に訳せば前腕部指示型杖と言うものだ。
脇の下に挟む形で使用する松葉杖とは異なり、言ってしまえば片手専用の医療補助器具がこのロフトストランドクラッチである。
当然、そんなものを使っているのだから日向の足元を見れば一目瞭然に、彼がそれを利用している意味がわかるというもの。見れば、彼の右足は膝下から見事に包帯で巻かれたギプスを晒していた。
その為今の彼にはこの杖が必要不可欠と言う事である。
だがそんなハンデは一切感じさせない明るい顔で日向は左腕を持ち上げて高らかに叫んだ。
「やっと――芳城ヶ彩に着きました――――!」
嬉しさを放散して『わーい、着いたー♪』とばかりの笑顔を浮かべる日向である。
そんな日向の隣では「そーだな。一応、着いたっちゃ着いたな」と何とも死んだ魚の眼で彼の上役である小柄な体躯をした襤褸衣の様なメイド服を着用した何処かギラリ、とした印象の強い迎洋園家のメイド、親不孝通り批自棄が佇んでいた。
そんな批自棄を横に日向は「はい、よーやくですよ!」と笑顔を浮かべている。
冷や汗を一つツゥ、と垂らしながら。
「なぁ、ユミクロ」
「何でしょうか、ひじきさん!」
妙に高らかな印象がする声で反応する日向に対して批自棄は愚痴る様に告げた。
「――私らさ。お前を確かに二時間前に学校に届けたよな?」
う、と呻き声を零して日向が硬直する。
そんな日向を無視して批自棄はなおも語った。
「まあ、届けたって言ってもな? あくまでクロック・バベルの場所までだけどよ。なんせ三校すべてに通じる場所が丁度あそこなわけだから」
「そ、そうですねー。クロック・バベル綺麗な建物でした!」
「そこから私らは洋園嬢と土御門が学院の路線バスでミカアカ方面へ向かっていくのを見送ったわけなんだよな」
「そうでしたねー。主様、久々に逢ったご友人と楽しそうに談笑しながら向かわれたのでとても微笑ましい気持ちになりましたよ」
「そうだな。臼杵の嬢ちゃんは相変わらずサバサバしてて好感が持てる限りだ」
日向の主、迎洋園テティスは美花赤二年生。
日向にとって先輩に当たると言うのを日向は訊いている。彼女の側近、土御門睡蓮もまた美花赤の二年生として学校に同行しているとのことだ。そして臼杵と言うのはテティスの学院での友人の一人であった。
「ただ、問題はミカアカじゃねぇ。なーユミクロー?」
何時になくニッコリと笑顔で語りかけてくる批自棄に日向は冷や汗を流す。
可愛らしい笑顔なのにどうしてその奥に不気味に笑う影が垣間見えるのか不思議でしょうがなかった日向である。
「は、ははは……」
乾いた笑いを零す日向に対して批自棄は淡々と話を続ける。
「その後な。私はキッチリ見た筈なんだがな? シラヅキへ手を振って登校していくお前の姿をさ。それが丁度二時間前だ」
「おかしいですね。もしかして入口が次元干渉で停滞していたりとかするかもしれません」
「話を逸らすな」
「はい」
緊張した強張った声で頷く日向。
そんな日向に対して批自棄は容赦なく、事実を突きつける。
「なのにさ――何故、お前は依然学院へ辿り着いていないんだろうな? どうして現在もクロック・バベル周辺で留まっているんだろうなあ!」
おかしいだろう、と言う批自棄の叱責に思わず身を萎ませる。
「そ、それはその……何と言いますか……」
「さぁて、詳しい説明をしてもらおうかユミクロ君よ」
ドスの効いた鋭い声に日向は蒼褪めながらも言葉を紡ぐ。
「ぼ、僕だってよくわからないですよ! 朝に送ってもらってここまできたら、何か黒服のヤクザみたいな人たちが凄いガン飛ばしてきたかと思うと追い掛けられたんですよ急に!? 特に和服来た片目に傷ある男の人なんて刀もってましたし! 何がなんなのかなんて僕の方が知りたいですよ!」
その涙交じりの発言に批自棄は思わずため息を零した。
そう、間違っていないのだろう彼の発言は。それがわかるからこそ批自棄は嘆息の一つでも浮かべようものなのだ。
そもそも批自棄が此処にいる理由は日向に助けを乞われた為である。
今朝、送り届けたはずの日向から数分前に電話がかかってきて、
『あのひじきさん……助けて欲しいんですが……』
と、言う旨の発言が携帯から流れたわけだ。
当然『は?』と、想いながらも学院へ向かったわけである。そうするとまさかのまだ学校に辿り着けていない日向の姿が校門の傍の草薮の中から飛び出してきたのだ。それこそ『あ! 野生の日向が飛び出して来た!』とエフェクトをつけても問題無いだろう構図で。
「山羊の被り物したYAを見た時、私は何なんだと思ったぞ」
「追われている様だったので、その……カモフラージュを」
「街中に山羊がいる方が問題だろう! なんだよ、この無駄にリアルな山羊の被り物! こんなの何処に売ってた!」
「第十一学区のお店で買いました! 五百円です!」
「お手頃だなぁ! 誰が買うか知らねぇけどよ!」
どうやら存外気に入っている様で頭の上には山羊の被り物が再び乗せられていた。なんともリアリティ溢れる一品なので軽く引く程である。
「しかし、本当なんなんだかな……? YAお前、誰に狙われてるんだ?」
「いや、あんまり想像がつかないんですけど……」
「そうか」
「候補が多すぎて……」
「……そうか」
さらりと自然にそう呟かれて批自棄としても少し困る。
そこで批自棄は思い出した。彼にはあまり問題は無くとも、彼の父親関係で恨みを買っている可能性が高いと言う事を。
「――そう考えると怨恨の線もあるか」
小さくぽつりと呟いた。
日向は「ひじきさん?」と不思議そうに小首を傾げたがひじきは「いや、気にすんな」と軽く流す。
「まあ、仕方ねぇな。私が同行してやるよ」
「そうしてくれると助かります……!」
「ああ、頼りにしてな。――ただなユミクロ。これだけは言っておくが、あんまりこういう場面で私を当てにし過ぎるなよ? 同僚に同伴してもらいながら学校へって傍目、かなり情けないからな? 精神的にくるもんがあるぞ絶対」
「う。で、ですよね……」
日向もそれは嫌なのかしょぼんと項垂れる。
「明日は頑張らないとだなあ……」
「おう、そうしな」
溜息を吐く日向の背中を軽く叩いて鼓舞した後に批自棄は日向を連れる形で歩き出す。
運転手である饒平名銀次郎が車を発進させ屋敷へ戻っていくのを見届けながら、批自棄はある事を考えていた。
(――けどまあ、どっちにしても肝心の黒服ヤクザどうにかしねぇと二の舞だよな。どこの家の者かを明らかにしとかねぇと色々面倒くさそうだしよ)
そうしなければおちおち日向は学院にも行けなくなりそうだ。
学院への道を記憶してれば逃げながら学院へ行けるだろうが、なにせ一部難解なルートもあるのがこの学院だ。記憶するまでは少し苦労もするだろう。
(仕方ねぇ。対処してやっか――)
つくづく甘いな、とそんな自嘲をしながら批自棄は日向を連れて通学路を歩いていくのであった。
と、そこへ。
「『確認』――一つ尋ねるが、貴殿は弦巻日向で相違はないか?」
唐突に背後から聞こえてきた男性の声。
妙に堅苦しさの感じる若い男性の声だ。通常であれば変わった口調だな、くらいの事を思うものだが生憎と聞えてきたのは背後。背後から突如投げ掛けられた声に日向はびくっと身を震わせてすぐさま後方を振り返った。
そこにいたのは一人の青年であった。
目元が多い隠れる程に深く赤いバンダナを被った枯れ草色のロングコートを羽織った黒髪の青年が佇んでいるのだ。
それだけでも正直インパクトは強い。
だが一番インパクトがあるのはある意味、彼が肩に乗せている右手に掴まれている獲物――巨大なハンマーだ。背丈以上は確実にある。
「え、だ、誰――?」
見た事のない人物としか言えない。
その特徴的な服装はかなり印象に残りやすい――故に初対面であると言うのがわかる。変に動揺せず済んだのは日向の眼に映る青年のロングコートの下がキチンとした礼装――日向とは違ったタイプの執事服であったからだ。
「あのな。唐突に現れたらびっくりするだろうが、時瀬の執事さんよ」
何処か緊張した空気を壊したのは批自棄であった。
彼女は腰に手を当てて苛立ちと共に呟いた。
「……時瀬の執事?」
日向が聞き取れた言葉の中で印象に残ったのはその単語である。
時瀬、と言う家の執事と言う事になるのだろうか。
批自棄は「まあな」と軽く応えて。
「この男は時瀬家執事――いいや、執事長の四郎兵衛終左衛門。ま、私もちっと知り合い程度の男かな」
「『回答』――まあ、面識があると言う程度だな。それはともかくとして、こちらは何故、お前も一緒にいるのかが少し疑問だが」
「気にすんな。大したこっちゃねぇよ」
手を軽く振って批自棄は億劫そうに呟いた。
「あの、それで結局……四郎兵衛、さん? 四郎兵衛さんはどうしてここに?」
不思議そうに日向は問い掛けた。
自分に話しかけてきたのだからまず間違いなく目的があるのはわかるのだが。
それに対して終左衛門は僅かに嘆息を浮かべて。
「『嘆息』――お前な。お前を探してきたに決まっているだろう?」
「……へ? ――あっ」
日向も思わずと言った様子で声をひきつらせる。
理解出来ただけ救いがあるか、と終左衛門は呟きながら、
「本日、学校に来る手筈の病院から退院した生徒が、時間になっても職員室に現れず、その上迎洋園家から連絡は何もなし――とすれば、通学路で何かあったのではないかと言う懸念から私が探していた、と言う事だ」
「そ、それは何と言うか……申し訳ありません……」
「見つかったからいいがな」
しょぼんとする日向の頭を軽くぽんと撫でて安心した様子で吐息を吐く終左衛門。
「……けど、何で四郎兵衛さんが探してたんですか?」
「……何故、とは?」
「いえ。だって四郎兵衛さんは執事みたいですし……」
教師が探しに来るならわかるが四郎兵衛はコートこそ羽織っているが執事だ。
故にどうして執事である四郎兵衛――それも時瀬と言う面識のない家柄の執事がここへ出向いてくれたのかが見えて来ない日向である。
「四郎兵衛は学院のスタッフだからだよ」
そんな疑問に答えたのは批自棄であった。
スタッフ? と、疑問を浮かべる日向に批自棄は答える。
「この芳城ヶ彩は敷地面積が広大過ぎるからな。だから各方面で結構、トラブルとか発生しちまうのは仕方ねえのさ。だから学院側はそう言う面倒事を対処する為に、教師とは別に学院の守護者であるSPみてぇなスタッフを大量雇用してんだよ。主に名家絡みでな。四郎兵衛終左衛門もそんな学院スタッフの一人として時瀬家から選出されてんのさ」
「ちなみに芳城ヶ彩のOBでもある」
と、終左衛門が言葉を引き継ぐ。
「そうなんですかー……」
確かにこの大規模の学院の統治を考えたら教師や警備員だけでは不足するだろう。
その分を補う為に家々からスタッフとして派遣されている執事もいると言う事なのだ。
「……言っておくが、お前の所のフティオティダも学院スタッフで派遣されているぞ?」
「えっ。先輩も何ですか!?」
「そう言えば言って無かったな」
ポン、と手を打って思い出した様に言う批自棄に日向は「先に教えて欲しかったです」と愚痴を零す。
「ワリーワリー。って言うかてっきり本人が言ってると思ってたぜ」
「いえ、病室に何度か『ハッロー、つるまっちゃーん! 元気してたKAI? それと美人なナースさんとかいたか? なぁなぁ、教えろよー? 揉んだ? ドサクサに紛れて胸揉んだりした?』って感じばっかで自分の事語る気配は微塵も無かったんですけど……」
「ああ、アイツらしいな」
苦笑を零す終左衛門。どうやら先輩の姿は何処でも変わらない様だと感じて肩を落とす日向である。そんな彼を哀れに感じたのか終左衛門はフォロー程度に「まあ、キャラこそアレだがやる時はやる男だよ、フティオティダはな」と告げてくる。
「さて。ここで立ち話していてもアレだな。早速、学院側へ向かうとしよう」
「あ、そうでした……!」
「そうだな。また出会って因縁つけられちゃあ適わんしな……。さっさと学院に向かうとしようか」
批自棄はそう進言する。
今でこそ山羊に扮した日向が戦場で培った隠密スキルが発動しているが、何時また見つかるかわかったものではない。さっさと学院へ向かった方が得策だろう。
「『質疑』――因縁とは何の事だ、親不孝通り?」
「大したこっちゃねぇ――って言うか実態が掴めてねぇ話だから話せる事はほとんどねぇよ。ああ、でも一応訊いておくけど、四郎兵衛、YAは学院内で片目に傷ある和服男見たか? ここ数時間の間に」
「目に傷がある奴等結構いるが……」
――結構いるんだ。
個人的にはそこが驚きの日向であった。
「ただ、つい先程、此処へ来る途中でお前達の方へ向かう五人組には牽制をかけておいたぞ。敷地内で刃物は御法度だからな」
そう言いながらハンマーを軽く持ち直す。
「どうだ?」
どうだ、とは間違いなく追い掛けてきた面々を指しているのだろう。
「……多分、間違いないと思います。他四人が黒服だったなら」
「当たりの様だな。軽い牽制のつもりが思わず効を奏した様で安心した」
フ、と微笑みを浮かべて男前にそう答える。
――かっこういいなあ……!
日向は思わずそう思った。まさか話す前から事態を解決して対処してくれているとは。男前で有能な執事に思わず情けなさが募ったりもする日向であった。
「ふーん。じゃあ私がわざわざ一緒に向かう必要はなさそうだな」
そこで批自棄が頭の後ろで手を組みながらそう発言した。
「え。ひじきさん……帰っちゃうんですか?」
「そりゃな。なんだ、寂しいのか女々シストめ」
「女々シストって何ですか!?」
「女々しいやっちゃの事だよ。だけどまあ、こうなりゃあ必要ねぇさ。四郎兵衛なら安心できるしな。私がこれ以上世話焼くのはただの過保護ってなもんさ」
それだけ眠たそうに欠伸をして告げると批自棄はおもむろに元来た道を戻ってゆく。
「――あ」
その背中を見ながら日向は小さく会釈した。
「御足労かけちゃってすいませんでした、ひじきさん。それとありがとうございました!」
「ん。まー気にすんな。心配なんざかけられるうちにかけまくりゃいいさ」
ギラリ、と鋭い笑みを浮かべて相変わらずの頼もしさを見せつける。
そうして彼女は背を向けたまま。
「――じゃ、今度はしっかり学校行くんだぜユミクロ」
背中越しに手を振って彼女は去ってゆく。
その背中を最後まで見送ろうかとも思った。
だが。
「さ。清々しい別れの最中にすまないが、時間無いぞ弦巻君」
「ですよねー」
大手を振って去っていく背中とは別に慌ただしく走ってゆく背中もある。
弦巻日向も親不孝通り批自棄も相変わらずの平常運航であった。
カツン、カツン、と言う杖の音を響かせながら日向はひたすら学院への道を駆けてゆく。
あれからバスを隔てて時間は過ぎ去り。
そうして日向と終左衛門の二名は学院へと続く道のりの最後へ辿り着いていた。
整備された歩道の奥、学院へ連なる門の左右には狐の石像が飾られており、見た目、景観を何処か神聖なものにしているかの様であった。
「着いたぞ」
終左衛門の言葉と同時に眼前に広がっているのは実に壮観な景観であった。
白を基調とした清潔感のある、されどその城の如き装飾から学校であれど同時に屋敷の様な厳かさも感じられる立派な建物――真白月共学高校――通称、シラヅキだ。
日向の涙腺が思わず緩む。
目の前の光景が懐かしくて仕方がない。
あの日、テストを受けに来て、網膜に焼き付けた光景そのもの。今日日、浮き足立って学院に向かったものの紆余曲折が起きた結果、もう拝めないのではないかと不安にすら感じた程の光景が今、まさに広がっているのだ。涙せずにはいられない。
試験当日は緊張感もあり、どこかを見て回る余裕も殆ど無かったが故に今こうしてこの学院の生徒として余裕を――いや、遅刻中なので余裕とは程遠くかけ離れてはいるものの――改めて見ている日向の気持ちはとても感慨深いものがあったのはまず間違いない純然足る事実であったと言えるだろう。
「シラヅキか……皆何かもが懐かしい」
「『苦言』――その台詞は出番終了の引き金になりかねないと言っておく」
「だって四郎兵衛さん! 僕、本当にようやくたどり着けたんですよ!? もう一生辿り着けないかと思ってましたもん!」
「『理解』――その心中は察するがな。だが郷愁に浸っている時間は無いぞ弦巻君。見給え――すでに二時限が半分終了している」
「わわっ! そうでした、僕遅刻しているんでした……!」
日向は終左衛門の取り出した懐中時計の針を見て慌てだす。
辿り着いた事に安堵を零してこそいたが、実際にはすでにアウトな事態にいるのだ。急がなければどんな事になるか日向には想像も付かなかった。
「少年よ、落ち着けい。深呼吸だ。そして疾く疾く駆けてゆくが得策ぞ」
「急がなければならないではなかろうか。いやさ、急ぐしかないに違いない」
――へ?
そこで不意に訊き及びのない声に出会った。
片方は実に渋い男性の声。もう片方は女性的だが何とも古風な貫禄のある声であった。そのどちらにも日向は聞き覚えが無かった。そして更に、
――ど、何処から? え、誰かいる……?
何処にも、誰の姿も、存在しなかった。人らしい人の姿等何処にもない。一体どこのだれが今自分に声掛けたのかまるでわからず日向は思わず周囲に視線を配るも答えは浮かばず。
「『了承』――ふむ、ミョウブとサグジの言う通りだな。急ぐぞ、弦巻君」
ただ日向とは違ってその声に心当たりがあるのか終左衛門はひょいっと日向の体躯を肩に担いだ――いや、肩に担いだと言うよりも肩にぶら提げていた。日向の足首を掴んでタオルの様に肩に乗せているに過ぎない。そして空いた手の方には片杖を握っていた。
ハンマーは何処に、と思ったが近場に立て掛けられているのがチラリと見えた。
「え、あの四郎兵衛さん? 今の声はいったい――」
「悪いが今はそこに構っているヒマはない」
「冷たいのう、終左衛門めが。いけずじゃ。まっこといけずじゃ」
「抗議するべきかいなか。いやさ、抗議はめんどうくさい」
「また聞こえた! って言うか、四郎兵衛さんも聴こえているって事は空耳じゃないんですよね!? そして今更ですが、この持ち方はなに!?」
「『回答』――知っているが教える程の事では無い。君が学院で過ごせばすぐに知り得る知識だろうからな。そして持ち方――変か? 右足は握っていないが」
確かに握っていない。骨折した足に対する考慮はしっかり行き届いている。
しかし、そもそも。
「変って言うか――頭に血が上る……!」
「そうか。だがまあ、すぐに終わる。それまで踏ん張ってくれ。――では行くぞ」
その言葉を最後に四郎兵衛は土埃を舞わせたかと思えば一目散に駆け出していた。疾風の様に滑らかにキレのある走りで疾駆してゆく。
その背中で風に揺られながら日向が蒼褪めた顔で口を押えていたがまるで気にする様子もなく、そうして二人は風と共にシラヅキの方へと駆けて行った。
2
椋梨六義は安堵と共に苦笑を零していた。
それは目の前の光景が、二人の人物が理由と言って差し支えない。
「椋梨教師。1-D生徒、弦巻日向の発見、連行を完了した旨を報告致します」
一人はバンダナにロングコートを羽織った、姿勢の正しい時瀬家の執事長。
「……」
もう一人は蒼褪めた表情で床にボロ雑巾の如く転がっている迎洋園家の従僕。
(……何で山羊の頭を被っているのかが不思議っちゃ不思議だが……けどまあ、変わった生徒が多い学院だし弦巻が変わった服装してても問題ないっちゃないか)
それでいいのか、と言う理論の元、山羊頭を片付ける六義である。
それにしても立場的に見ればかなりの差がある二人は、これはまたかなりの差を見せた様子で六義の前に現れた始末。片方はすでに保健室に叩き込むべきかどうか迷う有様だ。
「……もう少し負担の無い運び方とかは……」
「したつもりだが。迅速かつ丁寧に」
「ああ――うん、まあ、そうだったな。お前は事情が事情だからなあ……」
目の前のバンダナ執事に対して表情を一瞬しかめるも仕方ない、と言いたげに苦笑を浮かべてから日向の方へ視線を向けて問い掛ける。
「おーい、無事か弦巻?」
「すでじぶ」
「言葉が逆さまになっちゃいるが大丈夫そうだな、よかったよ」
汗を頬に一筋垂らして苦笑いを浮かべてしまう椋梨教師。
目がぐるぐると廻っている有様だ。果たして本当に日向は大丈夫だろうかと心配に思わざる得ない。
「足はどうだ? 痛みはないか?」
「……地味に持ち方が上手かったので全然平気なんですよね」
ただ頭に血が上りました、とだけ愚痴を零す日向。
確かにあの持ち方は相当頭に血が上るだろうと椋梨は頷く。彼は四郎兵衛終左衛門が比較的効率的に運ぶためにあの運び方をするのを知っている為に想像は容易につく。
「ま。とりあえず無事なら何よりだ」
怪我人の運び方ではないが、終左衛門程の執事になれば運び方も達人の域になる事を重々承知である為にまずは一段落とホッと息を吐き出した。
「四郎兵衛。お前はお前で仕事残っているだろう。もう戻って構わないぞ」
「『感謝』――実際、私も忙しいですからね。では、急務も終わった事なのでこれで私は失礼させて頂きます。――ではっ」
それだけ告げると終左衛門はコートをはためかせて職員室から出て行った。きっと扉を開けるともう姿形も近くには残っていないんだろうな、と六義は何となしに思った。
そうしてそれから数分が経過した頃。
残された椋梨教師は日向の様子が落ち着いた頃を見計らって話をかける。
「さっ、そろそろ落ち着いたか弦巻?」
「どうにかですけどね……」
くらくらしていた頭も元に戻った様で軽く頭を抑えながらも日向は立ち上がる。
そんな日向に「無理せず、椅子使え椅子」と隣の開いている席を指でさす。
日向は少し迷った様子だが最終的に「じゃあ……」と言葉に甘えて着席した。
「さて、何から話そうか――。いや、まずはコレだな」
「コレ?」
「ああ、コレだとも。初めて逢った生徒への発言は一つしかないさ」
六義はニヤッと快活な笑みを浮かべる。
「入学おめでとう、弦巻日向君。真白月共同高校は君を歓迎する。これからの君の高校生活が極彩色に溢れる豊かなものとなる事を我々教師陣は心から願うよ。改めてもう一度――入学本当におめでとう」
そう優しい声で唱えて柏手を数回鳴らして微笑む。
その優しい台詞に。
その素敵な心遣いに。
その素晴らしい振る舞いに。
日向は胸打たれた様子で目尻に涙を浮かべた。
「おいおい。学校初日で泣く奴があるか」
「ないでばぜんよ」
涙声で目から滝の様に感涙しながらも日向は精一杯の見えを張った。
六義の告げてくれた『入学おめでとう』――その台詞は、入学式にも遅れてしまった自分には縁遠いものになってしまったかもしれないと悔いていただけにとても日向の心に染み込んでいったと言っていいものだった。
「ないでばぜんからね」
「泣いてないならその涙の滝をどうにかしてほしいもんだが――まあ、しょうがない。ほらティッシュやるから涙拭け」
日向は小さな声で感謝を告げるとティッシュ箱から無造作に数枚抜き取って目を拭う。
「やっぱり泣いているじゃないか」
と、可笑しそうに六義がからかうと、
「違います、これはココナッツジュースです」
「南国!?」
日向は変な見えを張ったりする。
仕方ない奴だな、と苦笑を零しながらも六義は学院の説明に入った。
説明と言っても生憎、そう言う時間はあまりない。する事と言えば、かなり限られた説明になるだろう。つまり今伝えられる基本的な内容だ。
「泣いているところ悪いんだが時間も詰まっているし、必要事項だけ伝えて於くからよく訊いてくれ弦巻」
そう言うと小さく数回こくこくと頷いた。
「よし。まずお前のクラスは俺が受け持つ1のDだ。ここがお前のクラスになる」
「1のDですか……」
「そう」
「……どんな人たちがいるんでしょうか……?」
「そうだな――こればかりはお前が見て感じるしかない。良いも悪いも含めてな」
「先生の意見だとどんな感じでしょうか?」
教師としての観点からならばどんな風に捉えているのだろうか。
日向はそこが気になって自然に問い掛けたが、六義はふっと微笑を浮かべて快活にこう答えたのである。
「――すげぇ曲者揃い、だなっ!」
「それ笑顔で言う事なんですか!?」
「ああ、いや。でも安心するといいぞ弦巻。お前の隣は良識的だからな」
「そうなんですか?」
「ああ。――双方、ツッコミ気質だ」
「双方!? 両隣が!? って言うか良識的=ツッコミ気質と言う判定が下されたクラスメイトの現状はいったいなんなんですか!?」
「いやあ、だからそれを自分の眼で確かめなさいと言っているんだ」
はっはっは、と肩をバシンバシン叩いてそう促してくる。
――不安だ……!
不安で堪らなくなってくる。教師をしてこう言わせてくるとは果たしてどういう面々がクラスメイトなのか結構心配に思えてきてしまう。両隣が常識的とは言うが、果たしてどんな人たちなのだろうか。
生憎と、弦巻日向にとって芳城ヶ彩は馴染が無い。
故に未知の領域と言って過言ではないのだ。知人――そんなものいるとは到底思えない。
――知人どころか友人だってほとんどいないんですからね。……ま、まあ元々ほとんどいないですけど友達……。
とても冷静に内心でそう推察する。
悲しい事に友達が少ない事に関して日向は悲しみを抱けない程になる寸前間近の状態であったのだから仕方がない。
――一人、親友はいるけれど多分学校には通ってないだろうしなあ……。
基本悪い意味合いでの自由人である自分とは正反対のタイプのいい意味で自由人な少年の後ろ姿を思い出しながら何とも言えず嘆息する。今思うのは友達が出来るだろうか、と言う当然にして必ず抱く願いであった。
「ええと、教科書、教科書……と」
日向が少し落ち込み気味な最中に六義は傍に置いてあった段ボールの中身を弄っており、その中から束になっている塊を取り出した。数十冊の教科書である。
「よし。これで全部だな」
そう呟いて机の上に置く質量は傍目に見てもやはり重たげに見えた。
当然だ。千を超える紙の束なのだから。ただ日向は段ボールの中身を一瞥し思わず小首を傾げた。何故かと言えば、まだ中身があるからだ。それも一人分。日向の分は六義が持っているのだから確実に余りと言う事になる。
――先生用のか、もしくはただの余りか、あるいは……。
そこまで日向が思考した所で日向の肩が叩かれた。
「行くぞ」
手招きで示す六義。
時間は丁度休み時間と言う事もあって廊下は生徒の姿がまばらに見て取れた。
日向は立て掛けた杖を手に取ると、再び実に器用に歩き始めた。
その熟達した杖使いに六義が思わず目を見張る。
「おお、何だ弦巻。お前、杖使っているとは思えない程の滑らかな歩きだな?」
「はい! こう見えても杖ついて歩くのは自信があるんですよ? 僕、結構高確率で骨折とかしていましたからね! むしろ足負ってない時期の方が短いかもしれません!」
「……すまん、先生が悪かった弦巻……!」
「号泣!? いえ、そんな男泣きする程の事じゃないですよ!?」
何故急に泣き出したのか分からず慌てふためく日向。
何か変な事を言ったのか――と、考えても流石に自分の発言に不可解なところを抱けずただあくせくとするしかない。対して六義は思わず泣けてきた。自分からいっそ誇らしげに『足を折るのは得意なんです!』とばかりの発言が飛び出して来た生徒に対して正直なところ憐みを抱かずにはいられなかった。
「足を折るのは日常茶飯事みたいなもんですし! それに杖も慣れてますし! それに小さいころは無理やり気味にお医者さんに通院する羽目になった時期もありますし! ――あれは怖かったなぁ……」
その間に、日向は何やら弁明らしきものを必死に述べていた。
訊いていてどれも若干切なくなった六義である。
その何とも言えぬ感情のままに吐き出された言葉がコレである。
「学校、楽しめよ、弦巻!」
「急に!? いえ、まあ努力しますよ、ええ! だから、あの泣き止んで欲しいかなって言いますか……! あ、それと教科書運んでくださってありがとうございます」
「気にするな。こんな程度の重さ大した事はない。――かといって、怪我人に持たせる重さでもないから教師が持って当然だけどな」
何時までも教え子の前に泣いてはいられない。六義はグッと涙を拭うと一気に元のイケメンぶりを見せた。目元は赤いが最早涙の雰囲気は一切感じられない。
そうしてから職員室の扉を六義は閉めると日向を連れて歩き始める。
周囲の生徒が松葉杖をつく見慣れぬ生徒にちらほらと興味の視線を向けてくる。
「椋梨先生、その子だれー?」、「俺の生徒の一人だよ」、「うっわ、また美少年だよ! 女の子みたい!」、「椋梨先生、女の子みたいな子ってどこでしょうか? 見当たりませんね?」、「自分の容姿に関して現実逃避をするな弦巻……」。
途中、他愛ない会話を交わしながら歩みを進めて行くと途中で六義はふと足を止めた。
「――っと、そうだった。コレだけは今少し見せておかねぇとな」
「コレ?」
「ああ、コレだ」
ふと思い出した様子で言葉を発した六義から手渡されたのはクリアファイルに収められた一枚の用紙であった。そこには『教卓』と言う文字、そして『担任:椋梨六義』と言う文字が記載されているが、重要なのはそこではない。
「コレって……席順ですか?」
「そうだ。今見て覚えておけ――ってのは難しいかもしれんが、とりあえず一通り見ておけばいいだろう。せめて両隣くらいは覚えておくといい」
「確かにそうですね。ありがとうございます、椋梨先生!」
「お礼言う程の事じゃねぇぞ?」
律儀だなお前、と可笑しそうに六義は苦笑を零す。
日向としてはその心遣いは素直に感謝である。担任としては当然の振る舞いなのだろうがやはり親切にしてもらえるのは嬉しい気持ちでいっぱいだ。そうして日向は六義から手渡されたクラスメイトの席順をまじまじと見つめ始める。
――僕は四の列の三番目か……。
自分の名前を探してみれば目につきやすい場所に見つけた。
真ん中付近の席の様だ。黒板はとても見やすそうだ。そして授業中居眠りでもしたら教師の眼からとても逃れる術はない様な座席でもありそうで日向は少し苦笑しながらも楽しげな表情を浮かべていた。
「それで隣の席は……新橋さんに……陽皐君ですか……」
「おお。どっちもいいツッコミ持ってるから安心してボケていいからな」
「む。何か僕がボケキャラみたいに言われて不服です、せんせー」
「そりゃあ悪かった。――だがな、弦巻。先生には何となくお前が天然ボケに回りそうな奴に思えて仕方ねぇんだな……」
――なんですか、それは。
不満そうにジト目で見つめるが六義は何故か察した様な悟りの表情を浮かべている。その事に日向は不満であった。何故ならば自分はむしろツッコミ役だと考えているからに他ならないだろう。
実際はツッコミとボケでボケに大きく配分が偏っているとは本人露知らぬ話である。
さて、席順を見て行くと学院の特徴が何となく見えてきて日向としては流石だと感じる部分が浮上してきた。
「……何か留学生多いんですね、やっぱり」
ぽつりと感想を零す。
その声に六義は「そりゃあ、芳城だからな」と簡易に応えた。
名簿を見ると外国人の名前が少なくとも三名は存在する。うち一名は名前の感じから言ってハーフだと推測するが、それを含めて四名程になるわけだ。中学時代と見比べてみても外国人の人数が多い様に思える。
――日本の中でも有数の名門校だけあるって事か。
異国からも資産家、貴族、時に王族と言った由緒正しい家柄が集うこの学院の特性を考えると何とも場違いな場所に来たような感じがして眩暈でも起こるんじゃないかと思ってしまうくらいだ。
――ホントにやっていけるのかな……。
多少、不安になる。
中学時代とさして変わらないとは思うのだが、それでも高校生。それをこんな舞台で過ごすとなると心穏やかにいるには中々どうして難しい気持ちがしてくる。だが日向は奮起した。なにせ迎洋園家の支援で通わせてもらっているのだ。下手な事は出来ない。したくない。
そんな思いを胸に秘めながら六義の後に続いて階段を一階登り切り、そして数分をかけてその場所へと辿り着いた。
そこは一つの教室の前であった。
扉の上にあるプレートには『1-D』と言う黒い文字が刻まれている。
日向の教室だ。
思わずごくりと唾を呑み込み緊張に身を強張らせてしまう。
どんなクラスメイト達なのだろうか。自分はここでやっていけるのだろうか。下手な事をして変な空気にならないだろうか。受け入れてもらえるのだろうか――そんな様々な感情が渦巻いてしっちゃかめっちゃかな思考。
そんな日向の肩を六義が学生簿で軽く小突いた。
「そう気負うな。獲って食おうって場所じゃないんだ。もっと気楽にいけ」
「で、ですけど……」
にこやかにそう告げられても緊張と言うものは得てしてしてしまうものだ。
「そうか。じゃあ別の事を言おう」
「……別の事?」
フッと穏やかな笑みを浮かべると六義はこう述べた。
「――多分、半日もすれば色々諦めると思うから安心していい」
「どういう意味で!?」
全く意味がわからない。わからないからこそ不気味で仕方が無かった。
だが六義は嫌に優しい笑顔を浮かべて『まーまー』と宥めてくるだけだ。いったい、どんなクラスメイトが待ち受けていると言うのか。日向が説明を求める声を上げるも、意に介さずに六義は《ガララッ》と教室の扉を開ける。
「ああっ!」
日向が『まだ心の準備が出来てないのに!』とばかりの声を上げる。
「安心しろ。弦巻はまだここで少し待っていなさい」
そう言って日向を廊下に残して六義は教室の中へ足を入れる。
「おーい、お前らー! 全員いるかー?」
当然六義は気にした風もなく開け放った扉の先――自らの生徒一同に向けて声を発する。
その声に引き寄せられた様に一斉に集まる感覚があった。視線だ。六義の声を耳にした瞬間に一番傍から波紋が広がる様にざわめきが収まっていく。
生徒の一人が「先生遅かったじゃん」と呟きを零した。
「おう。遅れてすまなかったな」
「ちぇー。自習だと思って期待してたのにー」
「そりゃあ残念だったな。ま、いいから座れ、鴇崎」
そう言うと「ちぇー」とぼやきながらもギャルっぽい少女は自分の席へと戻っていく。
「お前らも席に戻れー」
六義の言葉に生徒達は各々の席へと戻ってゆく。
「自習だと思ったんだけどなー」、「あ、アレじゃね? 復学する生徒のやつ」、「ああ、そう言えば何かごたついてるって俺の友達が言ってたな」、「なあ、ところで学院で山羊が出たってネットで呟かれてんだけど」、「山羊ぐらいいるだろこの学院。クジラもいるんだし」。
そんな生徒達の口々のつぶやきも次第に収まりを見せて行く。
六義はある程度静まった事を確認しながら教卓に立った。
「さて。少し想定外の事態で遅れちまったが皆に話がある」
「もしかして今日来るって言うクラスメイトの事っすか?」
「おっ。陽皐冴えてるな。その通りだ」
ニッと笑みを浮かべて六義は告げる。
「今日からこのクラスにその生徒がやってくるぞー!」
その言葉にわっと歓声が上がる。
「やっと来るのか。随分待たせるよな」、「仕方ねぇって。怪我してたんだしさ」、「何にせよ迎え入れてやるのがクラスメイトとしての務めであろう」、「固いって鬼山は。もっと気軽に迎えりゃいいんだって」と言う男子生徒達の声もあれば「イケメンかな? 美少年かな? どっちにしてもかっこいいといいなー」、「夢見過ぎじゃね? どうせなよっちぃ奴だって」、「いよいよか。隣の席としては気になるんじゃないか?」、「別にそんな気にしてないわよ。世話焼きで少し関わるだけだろうし」と女子の気にする様な声もちらほらと零れてくる。
やがて最後尾の一人の女子が、
「せんせー。その子って格好いい子ですかー?」
「格好いいってタイプとは違うかな。前も言ったが中性的――女寄りな見た目だしな」
「やった、美少年じゃん!」
「美少年って言えば美少年だろうな。容姿は結構いいぞ。ま、何にせよ、百聞は一見にしかずだろ。おーい、もう入っていいぞ!」
その声に日向はビクリと体を震わせる。
――ここからだ。
緊張していてほとんどクラスメイトの会話を聞き漏らしていた日向であるが、六義の言葉によって体に走った緊張感を静かに解きながら、若干震える指先で扉を静かに開けてゆく。
ちらっ。
『……』
視線がたくさん来た。
ぴしゃっ。
「待て待て待て」
思わず扉を閉めてしまった日向であったが即座に扉を開けた六義が姿を現す。
「放してください、先生!」
「テンパったのはわかるから落ち着け。ほれ、どーん」
「気楽なノリで何をさらっと!」
六義は微塵も容赦なく、教室に日向を叩き込んだ。この際に足に注意を走らせた日向が杖を使える程度の押し出しにした技量が何とも心憎い。だが、時間が押しているのだ。
「あ」
そして日向はクラスメイト全員の前に姿を晒される。
一瞬の静寂。
それは日向が杖をカツン、と響かせた事で失われた。その音を皮切りに生徒達が席から駆け寄ってきて楽しそうに語りかけてくる。口々に話しかけられて、反応する余裕すら無い程に。
「おお、おお! やっときやがったか弦巻!」、「へーお前が弦巻って言うのか。先生言ってた通り女みたいな奴だな」、「ヤベェ、女子の制服すげぇ似合そうじゃね?」、「って言うか普通に美少年じゃね?」、「美少年だけど私はイケメンの方がいいなー。ま、可愛いから歓迎すっけどね」、「怪我は大丈夫だったの?」、「快気祝いに今度僕が美味しい料理作ってあげるねぇ弦巻君」、「…………息災だった様で何より」、「よくきたなー、体大丈夫か?」。
だがその言葉はどれも優しい声音のもので。
緊張して二の足踏んだ自分がバカに思えるくらいに気軽に話しかけてきてくれた事実に日向は内心で感謝し感涙しそうになってしまう。
「おお、杖。かっけぇな」
「はい、特注なので!」
「足平気か?」
「全然大丈夫です! ありがとうございます!」
そんな言葉の押収は少しの間だけ続いていく。
「お前達―、今はそんくらいにしとけー」
そうして場が盛り上がりを見せ始めたところで六義が高く上げた両手で柏手を数回打った。
これ以上騒がしくなると収拾がつかないと踏んだのだろう。
「紹介はキチンとしてやるから、まず一旦席ついて落ち着け」
その言葉に『はーい!』と素直に返事をしながら生徒達がわらわらとそれぞれの席に着席していく。座るのにそう時間は掛からず、これと言って大騒ぎを起こす事も無く皆、それぞれが持ち場へと戻った。全員の着席を確認すると六義は「よし」と一度頷いてみせる。
「さ。それじゃ弦巻。いよいよ、出番だぞ。前に出て黒板に名前書いてみなさい」
「は、はい……!」
押し寄せた群衆の勢いに呑まれかけていた為に胸の心拍数が普段より幾分多く刻んでいた日向であったが六義の声に答えると僅かに緊張感に苛まされながらではあるが黒板の前に辿り着いた。そして備え付けの青のチョークを一つ、取ると慣れた手つきで深い緑色の黒板に四文字を書き記していく。
「ほお、中々綺麗な字を書くもんだな」
「そうですか? ありがとうございます!」
確かに日向が黒板に書いていく文字は中々に流麗な字体であった。
少し嬉しくなりながらチョークで続けざまに名前を記していく。
「……弦巻日向」
ふと、後方から何処かで訊いた綺麗な声色が小さく響いた。
だが日向は振り向かなかった。いや、振り向けなかった。声が気になりはしたが正直なところ今の彼は振り向く余裕が無かった――なにせ内心緊張感でいっぱいいっぱいであった為である。黒板に書く手が震えていないのが幸いなくらいではないか。
そして一度だけ深呼吸した後に日向は今度こそ振り返る。
いや、振り向いた。
自分がこれから在籍するクラス。そのクラスメイト達へ向けて堂々と。
チラリ、と六義に一瞥を送る。
六義は小さく頷くだけの返答で応答した。それを合図に日向は口を開く。
「えと……。皆さん、初めまして。今日からこのクラスで一緒に勉強する事となりました弦巻日向と言います。入学前の事故で見ての通りと言いますか、御覧の有様ですけれど不自由と言う程の事はありませんので普通に接して頂ければなーと言うところです。一ヶ月遅れになってしまいましたけれどこれから一年間、皆さんよろしくお願いします!」
柔和な挨拶を持って、その最後は小さくお辞儀で持って示す。
日向としてはミスは特にないと考える挨拶であった。
そしてそれはクラスメイト達に好印象なものとして映っていた。
別段特筆する様なものはない。――けれど懸命さは伝わっていた。そしてしばらくシンとした静けさが教室内に漂った後、静かであった空気の中に微かにから徐々に、そして明確に響いてくる小さな拍手の音があった。
まずは一人の女生徒が何処か仕方ないわね、と苦笑を浮かべ始まりを鳴らしていた。
次いで近くの席の青年が波になる形で笑顔を浮かべながら後に続く。教室の隅っこからも拍手が響いてきた。それらは次第に何処からも聴こえる様になってゆき――やがて教室中を高らかな拍手が響いていた。そしてそんな音の最後を引き継いだのは六義であった。
日向はちょっと感動した面持ちでクラスメイト達を見つめていた。
嬉しかった。素直に嬉しかった。思わず感涙してしまいそうになる気持ちをぐっと堪えてクラスメイト達に内心で感謝した。まずは受け入れてくれたのだ。
「えへへ……ありがとうございますっ」
照れ隠しの様な破顔で緩んだ頬を隠す。
そんなほにゃほにゃとした豹所を見て思わず苦笑を零しながら六義は、
(良かったな、弦巻)
と、内心で優しく語りかける。
同時に自分の教え子達に対して優しい気持ちを抱いていた。そうして拍手の音が徐々に静まって行った頃になってから六義は口を開く。
「さて、今訊いた通りだ。今日からクラスに復帰する事となった弦巻だが、皆よくしてやってくれ。本人も言っていたが足の怪我は歩行に関してはそれほど問題無いと言うのは俺も確認済みだから、まあ無理させなきゃ大丈夫の様だな」
「はい、サッカーも出来ますよっ」
「そうか。ただサッカーはほどほどにしておこうな弦巻。そしてお前の席なんだがさっき渡した名簿で確認取れているだろうが……そこな。新橋と陽皐の間だ」
そう告げながら六義は教室内で空いている座席のうち中央付近の席を指差した。
「ああ、そこ……」
日向もここで初めて緊張が程よく抜けきった事もあり、六義の指差す方向に対してそっと視線を向けた。改めてこうして教卓から見てもわかる様に目につきやすい席だと思う。そんな他愛ない事を考えた日向であったが、
「……あれ?」
思わず小首を傾げた。
自身の席の隣に頬杖をついて軽くプィっと顔を横に逸らしている少女の視線だけこちらへ向ける目と目が合った。その表情が「う」と小さく『拙い』と言わんばかりの色に彩られる。
その顔に弦巻日向は見覚えがあった。
胸元までの長さをした綺麗な茶髪のロングヘアー。ツンとした目元に髪色と同色の鮮やかな茶色の瞳。とても綺麗に整った顔立ちをした均整のとれた素晴らしいスタイルをしている美少女の姿に日向はとても見覚えがあった。
そう、ある日、街中で。
人混みの中で、人々の隙間から見た印象に残る程の美貌を持った女の子の姿に。
「貴女は……」
途端にパァァ、と輝かんばかりの笑顔が溢れた。
とても純粋な混じり気のない清楚な輝きだ。その表情を見た時に少女は「何よ……!?」と表情の変化に微かな驚きを示す。とても嬉しそうな表情になったのに引いた様だ。少女だけではなく「アレが! アレが男だってのかーっ!」、「いいですねぇ実に……♪ 掘り甲斐がありそうで素晴らしい……♪」、「ふーん、何かナヨっちぃ男の子だねー」、「くそ、何でアレで男なんだ……!」、「それだけじゃなく新橋の隣の席ってずるすぎるだろう……!」と、クラスメイト達のざわめきも訊いて取れる。
そんな空気を意にも介さず二パッと微笑を浮かべて日向は、
「――エリにゃんさんですよね!」
とても嬉しげな笑顔を浮かべて彼女に爆弾を手向けたのであった。
第六章 慈悲の少年、運命の少女に巡り会う・前篇




