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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Troisième mission 「進退す身辺」
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第四章 小悪魔な彼女と森の目覚め。

第四章 小悪魔な彼女と森の目覚め。


        1


 静かな光が暗闇を薄く、薄く、照らしていた。

 窓を覆うカーテンの向こうから顔を覗かせた陽光の為だろう。ほんのりと明るく、薄暗い空間の中で何とも妙な息苦しさを覚えた青年がいた。まず気付いたのはその奇妙な感触だ。ふわふわとしており羽毛の様に顔を包む柔らかさ。だが生憎と羽毛入り枕は彼の頭の下にあるわけで毛布も同様。この感触の正体では決して有り得ない。

 息のし辛さから青年は止む無く目を覚ます。

 まぶたを開くと驚きの光景がそこにはあった。

 ……驚いたな。真っ暗じゃないか。

 開いたはずなのに、開く前の世界と何ら変わらない光景がそこにはある。

 それを理解すると青年は思わず、内心で苦笑をふっと零した。そうして起き掛けで、少しだるい左腕を動かし、そっと自らの顔へ――正確には顔の前に手を触れる。

「うっさーいっ」

 これはまた怒ったかの様な言葉が響いた。けれど、それは怒っていると言うよりかはくすぐったがって吐いた様な和やかな鳴き声であった。同時に手の平にはふわふわとした柔らかな感触が伝わる。手に馴染みのある感覚に対して青年は出来る限り優しい力加減で掴むと、そっとその物体を上へと持ち上げた。

「――よぉ、朝早いなぁ、うさばー」

 気軽な雰囲気、気安い声で青年は目の前の存在にそう語りかける。

 すると目の前の物体は「うっさーい!」と嬉しげに声を上げた。そんな物体に対して青年はぽんぽんと頭の部分を軽く撫でた後に、徐に上半身を起こす。そうして感触の素敵な白のベット。柔らかな毛布に別れを告げると彼は立ち上がり、窓の方へと歩き出すと窓を覆う高品質なカーテンを勢いよく左右へと分けた。

 一時だけ目を瞑る。

 瞑ると言うよりかは視界が白黒に明滅したかの様であった。そして目が慣れてきた視界の先にはこの屋敷の巨大な庭園が――そして空に昇る美しい太陽の景色が見えていた。そしてそんな太陽を包むコントラストの空模様もまた。

「上々だ」

 ……何度目の朝なのか。それでも変わらず澄み渡った青空。始まりを告げる朝だ。

 恭介は続けて内心で唯、一言を呟き胸の内にとどめる。

「――いい快晴っぷりで何よりだ、な」

 しばしして、ふっと微笑を浮かべて青年は嬉しげに眼を細めた。

「うっさーい」

「ははっ。こんな時くらいは怒鳴るなっての」

 自分の足元に近づいてそんな鳴き声を零す存在に対して面白可笑しそうに笑いを浮かべながら、青年は軽く背伸びをした。太陽に照らされた青年の顔立ちはとても良く整っていた。小さく整った顔立ち、光に艶めく茶色の髪は短すぎず長すぎず切り揃えられ、全てを見透かす様な瞳は深い紅色に輝いていた。

「始業式日和ってやつだな」

 ふわりと笑う青年の顔は子供の様に明るく輝いていた。

 そんな青年の名は鍵森(カギモリ)恭介(キョウスケ)

 高身長、イケメンと言う高いスペックを誇る青年であった。そして彼が呟いた始業式とは文字通りの意味と捉えて構わない。本日は四月七日。学校が始まる始業式当日なのである。そして針が差す時計の時刻は五時半丁度。中々の早起きをしている。それは当然ながらこの日の為に――と、言うのもあるが普段からなのでそれほどの苦労は無かった。恭介は部屋中のカーテン全てを開けると、次に洋服箪笥へと足を運ぶ。そこにあったのは当然、衣類である。

 けれど、唯の衣服ではない。

 紺色の落ち着きのある色彩に赤のネクタイ。燕尾服の様な装飾も施されているが、ただの燕尾服ではない。これはそう――彼にとっての、今後の彼が纏う特別な衣服であった。

 執事服。

 寝間着をそれこそ一瞬で脱ぎ捨てて、ズボン、Tシャツ、ワイシャツと言う順番で恭介はこの仕事に於ける戦闘服に身を包んでいく。

「うっさー!」

 そんな恭介に向けて『かっこいいねー!』とばかりに感嘆の鳴き声を吐く生物がいた。

 その正体はもしも近しい生物を挙げるとしたら――ウサギに他ならない。

「ん、どうした、うさばー? 俺ならもう起きたぜ――って、言うか良く考えたらお前、主の傍にいなくていいのか?」

「うさー?」

「わからなそうな顔してるなあ」

「さーいっ!」

「自信満々に『わからないよ!』と告げているだろう事だけか。わかるのは」

 耳で勝利のV字を作ってドヤ顔を浮かべている辺り、後先顧みずは間違いない。

 初対面を果たした当初と比べれば、随分と意思が読み取れる様になったものだ、と恭介は自分を褒める。自分で褒めても遜色ない程の事である。なにせよくわからない生物なのだから至極、当然な事であった。恭介の眼から見てこの生物はウサギだ。

 ……だがまあ、大福もちみたいな体型と「うっさーい」なんていう鳴き声のウサギはまず見かけた事がねぇからな。他にいさえすれば認められるんだが。

 かじれば美味しそうなシルエット。アニメ声で鳴いている様な独特な鳴き声。これを前にしてウサギと結びつけるには中々小難しい話であった。

 と、そんな時に恭介はぴくりと小さな反応を示して、ドアの方へ視線を移した。

「――」

 何やら微かな声が聞こえてくる。

 その声はどんどんと大きくなってゆく様だ。その理由を恭介は容易く察していた。

「ああ、きやがったなみたいだな」

 半眼で諦めた様な表情を浮かべて苦笑する。

 足元の生物が「うさい?」と頭に疑問符を浮かべたのと、同時に執事服の上着を着終えると恭介はくるりと扉の方へ視線を向けていつでも動きだせる準備を整えた。

 その三秒後。


「うさばぁあああああああああああああああああああああ! きょーすけ、うさばー、知らねーか? 何処行ったんだよ、うさぎるばーとぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 唐突に扉が《バンッ!》と、言う音と共に開け放たれると同時に凄まじい速度で一人の少女が突貫してきた。少女は大声を発しながら部屋の中へ躍り出ると同時に残像を残すかの様な滑らかな動きで直線状に滑っていく。すべては彼女保有のスケートボードのおかげだ。だが、しかし、そんな速度を発しながら直線すれば当然の様に彼女は前方に存在する物体――部屋中央に備え付けられたテーブルの椅子の一つに衝突し――彼女はそのままの勢いで空中をくるくると前転しながら吹っ飛んでゆく。

 恭介の開けた、窓の、外へ。

「新鮮な外の空気やはーっ」

 少女は咲き誇る様な笑顔で外気とこんにちは。

「アホかっ!」

 そんな少女を恭介は即座に襟首の後ろを掴み、屋敷の外へ――高さにして四階分はある外の広大な地面へ自由落下させまいと確保に成功する。万全を期せる様に構えて於いた結果は見事に発揮されたと言えた。完全に万全を期すのであれば正面に構えて於いて突進を受け止めればいいのだが如何せん、彼女の自由奔放な行動とはその選択肢は相性が悪いのだ。

 そして、恭介に襟首を掴まれ朝の涼やかな外気に身をさらされ、宙ぶらりん状態と化している少女はシュピッと敬礼の様な動作をし、見事なドヤ顔を浮かべた。

「はよーだな、きょうすけ! ぐもーにん! 今日も朝から見事な救援活動感謝するぜ!」

「被害者様の救援に携えて何よりだよ」

「そんでうさぎるばーともはよーさんだ!」

「うっさーいっ」

 ぴこぴこと両耳を動かして反応を示すうさぎ的な生命体。『うさぎるばーと』。それが先程まで恭介と戯れていたうさぎ的な生命体の名前である。そしてうさぎるばーとは現在進行形で外気に晒されているこの少女のペットなのであった。

 朝から幼気な少女と一匹のウサギの和やかな挨拶は見ていて和む様な光景だろう。

 だが、

「――朝からヒヤヒヤさせるなよ、うる吉」

 ヒヤヒヤと恭介は言うが実際には呆れにも似た諦めの感情があった。

 ベットに飛び込む時もあれば、壁にぶつかる時も、今回の様に外へ吹っ飛びそうになる時もある。その時その時でころころ変わるのだから対処が実にし辛かった。その為、遠距離から全体を見据えて即時行動が望ましいと恭介は知っていた。

 手に掴む少女は「いーじゃんか、あたしはきょうすけならきっと上手くやってくれるって信じてるしさ!」と相変わらずドヤ顔で語っている。後で頭を小突くかどうか本当に悩む限りである。そんな少女は壁面傍を微かに揺れながら目を細めて一言。

「ところでさ」

「何だ?」

「やっぱ外涼しいんで、さっさと部屋に戻してくれるかな?」

「なら初めから外に吹っ飛ぶなよ」

 嘆息を浮かべながら片腕でひょいっと――小柄な少女とはいえ片腕で容易く持ち上げる辺り彼の腕力の逞しさが伺える――カーペットの上に少女を戻す。少女は背伸びしながら、

「ん~~~~っ! でも、やっぱ、いいな早起きは! 背筋がぴーんってなったぞ、やったぁ」

「実際はだらーんってぶら下がってただけだがな」

「きょうすけもやるか?」

「俺がやろうとしてもお前が俺を支えらねぇだろうから死ぬわ!」

「大丈夫だ。きょうすけならここから落ちても多分死なない!」

「多分かよ! 死んだらどうする気だ、全く。――まぁ、死なないけどな」

「……死なないんだ……」

「そこで茫然と引き攣った苦笑浮かべられるのは若干イラッとくるな、おい」

 ……吹っかけたのお前だろうが。――まぁいい。

「にしても、だ。――お前にしても本当に早起きだったな、今日」

 何時までも呆れる素振りも、気だるげな様子を見せられない。恭介は起き掛けからキリッとした様子で少女の言葉に感心を持って返す。普段、朝早起きの少女ではあるが、この時間よりも一時間程は遅い為に彼女は今日を楽しみにしていたのだとしっかり悟る。

 そして少女は予想通りの反応を返した。

「そりゃあな! なんせ入学式だぜ? テンション上がらないわけがねぇもん!」

 ニカッと笑顔を浮かべる少女。

 本日より高校一年生になる少女だ。その心持はおそらく相当にハイテンションな事に違いあるまい。嬉しそうに破顔しながら「そうか」と笑顔で返す恭介は彼女には悟られない様にこう思った。思っても口に出さない事をしっかり思った。

 ……見えねぇけどな、高校生には。絶対。

 短く切り揃えられた赤毛の頭髪にくりくりとした大きな黒い瞳。先月まで中学生だったことを鑑みてもあどけさの残った――むしろ残りまくった幼い顔立ち。150にも届いていない身長に凹凸の無い体躯――どこからどう見ても小学生にしか見えなかった。

 少女の名前は訓子府(クンネップ)うるき。

 恭介が執事ならば少女うるきは紛れも無い主。

 訓子府家の主従。それがこの二人――訓子府うるきと鍵森恭介の間柄であった。

 そんな恭介の小さな主は懐から取り出したうるき御推奨である森光製菓の商品。棒についた球体上の飴玉が有名な飴菓子である『ファンタスティック』を取り出す。カラフルな包装紙に包まれた中には、これまたカラフルな食べるのに手頃な大きさの飴が包まれている事だろう。

 それ自体に問題はない。ただ、別にあるのが、

「お前な……。また朝っぱらから飴玉喰うなよ」

「ふんっ。うっせ。何時、キャンディー食おーがあたしの勝手だろ、きょうすけ」

「まぁ、そうなんだがな。朝飯どうせすぐ用意されるぞ」

「それまでには舐めきってみせるぜ!」

 ふふん、とドヤ顔で告げるうるき。

 朝飯前に飴玉一個完食するだけの事でよくもまあここまで見事なドヤ顔を浮かべるものである。恭介も一応、注意はするのだがどうにも飴が大好きな――元よりお菓子が大好物な主はこの部分では後退はまずありえないのだと知っている。

「へいへい。ま、だったらちゃんと制限時間までに喰い切れよ? ミッション・スタートだ」

「朝食までに喰い切れって事だな? りょーかいだぜ!」

 ほにゃほにゃ笑顔で口の中に甘味を転がすちびっこが一人出現した。

 ……ダメだ、和む。

 間食は良くないよ、と言う注意を自分の同僚達が中々出来ないでいる理由を何度目になるかわからず納得する恭介であった。

「で。今回は何味舐めてんだよ、うる吉?」

「んー?」

 くるくると回りながらころころと飴を口の中で転がす少女はふと視線を恭介へ向けた。

 恭介がこう尋ねてくる理由はとても些細な理由――何味の飴なのか。と言うだけの本当に些細な理由――なのだがこのキャンディー『ファンタスティック』は一概にそれで済ませられない。何故ならばその名前の通りにこの菓子は。この飴の味は予測つかないものばかりであるからだ。

 なにせ初めてうるきと恭介が出会ったあの日にうるきから手渡された飴を舐めた恭介が当たった味はまさかの『チョモランマの頂き味』と言う感動と同時に凄絶な寒気を味わった味わいであったしその後リトライした場合には『むさ苦しい男の汗味』と言う吐き気を催す味わいであったのだから――危険を感じてもおかしくはない。

 そんな恭介の平常を取り繕いながらも内心ではさぁ何味がくる! と、ばかりに待ち構えている様子をさして気付くわけでもなくうるきはあっけらかんと言い放った。

「『ホワイトハウスのトイレの芳香剤味』だってさ!」

「未知の味としか言えやしないじゃないか」



 訓子府家の家の装飾は和洋織り交ぜたものである。

 木造建ての屋敷の廊下はどこか樹の暖かさを感じさせるものであり、そんな道をレッドカーペットや絢爛豪華かつオシャレなシャンデリア。そして名画と思しき絵画が壁面には飾られていた。窓の外に見える景色にも脱帽だが。

 ……窓の外から見えるこの場所の景色の方が更に脱帽なんだよな。

 なにせ外の景色よりもこの場所の景色の方が圧巻であろうことを恭介は知っている。

「どうかしたのか、きょうすけ?」

 そんな恭介を不思議そうに横目で見上げてくる視線。口の中で『ホワイトハウスのトイレの芳香剤味』の飴玉を転がす、うるきだ。

「いや。別に何でもない」

「そうか? ――あ、まさかゆーふぉー見つけたとかじゃないだろうな!?」

「朝からUFO見かけてたまるかよ。アレ別の縁起がいいとかとは縁遠いぜ?」

「それもそっか。遭遇して宇宙の連行されてかいぼーとかにされたらヤだもんな」

「そうそう遭遇しても厚遇されず冷遇されるのがオチだろうさ」

「礼遇は望めないってのがきょうすけの推察ってことか。なるへそ」

「そうなるな」

 恭介は肯定する様に頷いた。

 気のせいか、その顔にはどこか渋い色が仄かに浮かんでいたりしたがうるきが気付く事はなかった。うるきも一人納得して、すると今度はふと思い浮かんだ様子で問い掛けてくる。

「それで恭介、入学式って何時だ?」

「ん?」

 忘れた、とかではないだろう。うるきが今日を楽しみにしていた事は恭介が良く知るところだし時間を忘れると言うのはまずありえない。――ともすれば確認の意味が濃厚か。

「九時だな。だから十五分くらい前に着ければ大丈夫だと思うぞ」

 だよな、よし、と言う小さな声がうるきの口から洩れる。

 記憶違いではない事を確認出来てほっと安心と言ったところだろう。

「って事は後、ほぼ三時間くらいはあるんだな」

 若干もどかしそうな表情を浮かべて唸りながら飴を口の中で転がすうるき。

「数日前から頑張って待ってただろ? あと少しの辛抱だぜ、うる吉」

「わかってんよ。わかってんだけどさぁ……早く九時になんねーかなあ」

 まるでクリスマスのサンタを待つ子供の様な様に思わず微笑してしまう。

 恭介はそんな主の頭をぽんぽんと軽く撫でた後に明るい声で言った。

「そんな不貞腐れるなって。朝飯食ってテレビでも見てればすぐ時間になるだろうからな」

「不貞腐れてなんかないぞ、あたしはっ。……そうか、残り時間まで不貞寝してれば……!」

「今から寝るなよ! お前、ベット入ったら絶対九時までに起きられないからな?」

「心配するなってきょうすけ!」

「いや、普段のお前を知っている分、安心できる要素は無いんだが――」

 うるきは見事なドヤ顔でこう言い放った。


「そんなダメなあたしを起こしてこそ執事じゃねーか!」


「ダメな方面に自覚持つなよ!」

 ……確かにそれをされると執事として仕事が増えてある意味いいのかもしれないが! お前、まったくそう言うキャラじゃねぇし!

「なんだ、きょうすけは朝のあたしの色香溢れるねぼすけシーンとか見たくねぇのかよ?」

 ニヤニヤ顔でうりうりと肘で小突いてくる主。

「色香溢れる? ……色香……溢れる……?」

「なんでそこでそんな『お前から最も縁遠い言葉じゃね?』みてーな表情なんだよ!」

「いや、パンダパーカーを寝間着にしてるお前が言っても説得力がないぞ?」

 そう、この少女――寝間着がパンダのパーカーなのだ。より厳密にはフード付の寝間着なのである。そんな状態で眠る彼女に愛くるしさはあれども――色香は無い。全くない。

「むぅ。パンダを馬鹿にしやがって……きょうすけのあんぽんたんめ!」

 ふくれっ面のうるきによる可愛い罵倒を華麗に受け止め、目的地の部屋の扉を開けながら恭介はうるきの言動に返答を示した。

「安心していい。俺が馬鹿にしてるのはパンダじゃなくてうる吉だからな」

「なんだ、そっか。それなら良かった――じゃねぇ!? あたしかよ! あたしの方かよ! 主に対しての礼儀どこいったよきょうすけぇ!?」

「安心していい。元からそんなもの抱いた覚えも無いからな」

「なんだ、そっか。それなら良かった――じゃ、まったくないぞ!? そっちの方がある意味大問題だぞきょうすけぇ!?」

 ガビーン、と大声で絶叫する主を尻目に「ははははっ」と炸裂スマイルで前を歩いてゆく恭介である。そんなやり取りをしながら部屋へ入ってくる二人の姿を確認して苦笑を零す女性がいた。相変わらず主導権を握った様な恭介にその後を付いてくる大声で叫ぶちみっこい少女の姿を見つけて朗らかな声を発するのは一人のメイドであった。

「今日も相変わらず仲のいいはたまた和気藹々との様子のことね、お二人は」

 その声の主に一瞥を向けると恭介は軽く片手を上げて明るく挨拶を返した。

「ああ。おはよう、跡永賀(アトエガ)

「ええ。おはよう、鍵森恭介。うる吉もおはようのことよ」

「ああ、はよーだぜぃ、かなっち!」

 綺麗な姿勢でお辞儀する一人のメイド。それは目の覚める様な群青色の輝きを放つロングヘアーに碧眼と言う蒼い印象の美少女であった。訓子府家の証である黒を基調としたメイド服にその色は良く映えていると言っていい。

「それにしても今日はまた随分早起きのようね、うる吉?」

「へへんっ。いつもよりもう一段階上を行ったあたしだぜ!」

「早起きして良い子であることよ、うる吉は。さわ……さわさわ……」

「へへへ~……♪」

「頭撫でる効果音にしても普通に『なでなで』でいいと思うんだけどな」

 ……何ださわさわって。無性に気になるぞ。くすぐってるみたいじゃないか。

 そんな恭介の疑問などお構いなし、と言った様子でうるきは訓子府家のメイドである美少女の跡永賀カナンの頭なでなでをほんわーっとした様子で甘受していた。撫でているカナン本人も中々にご満悦の様子だ。

「それはともかくとして……俺も色々最終確認しないとな」

 そう呟くと、恭介は部屋中の様子をさっと確認する。

 汚れ、埃、壁の様子、カーペットの配置と言った点をくまなく瞬時に確認をしてゆく。そうして時間にして五秒にも満たずして恭介は感嘆の息を零した。

 ……流石。どこも完璧なままだな。

 部屋の整備はまず完璧だ。なにせこの屋敷には恭介だけではなく、他に複数名の従者が存在するのだからそうそう部屋が荒れる事は無いのである。うるきさえ入室しなければ。

「とすると……全部屋のチェックとかはいっそ今は後回しにするすれば……今やっとかなければならないものは……」

 ……メシか。

 恭介は朝飯がどうなっているかを知る為にこの食堂の広間の奥――厨房へ視線を向けた。

 鍵森恭介は料理下手では決してない。むしろ得意な方だ。故に料理をしうるきへ朝食を提供する事になんら問題は無い。本来であったならば、と言う話だが。

「……今、アイツはいないか」

 ならば調理してしまおうか? と、言う考えがふと思い浮かぶが。

「制止はたまた止めて置いた方が得策なのよ、鍵森恭介と忠告はたまた注意するのよ」

 朗らか笑顔を浮かべつつぽん、と軽く恭介の胸元に小さく握った拳を触れさせてカナンが面白そうな様子で間に入った。

「やっぱ、まずいかね?」

「そりゃあまぁ? なんたって厨房はさーたんの聖域よ? 下手に弄繰り回したら多分、大変な事はたまた恐ろしい結果を招く事になりえないのよ?」

 くすりと楽しげに微笑みながら物騒な事を告げてくるカナン。

 そしてそのカナンの発言内容があるからこそ恭介もむやみやたらに訓子府家の厨房へ足を踏み込んだ事は無かった。訓子府家の厨房はまさしく彼女――訓子府家専属料理人の領域であるからこそ足を踏み込める場所では無い。

「なら止めておくことにしよう。それにアイツの事だから今日は色々と手間暇かけた料理を用意してそうな気がするしな」

 恭介はパッと降参の様に手を挙げて軽くその場から距離を取った。

 そんな引きの良さにカナンはふふっと微笑を浮かべる。

「またまた。初めから入る気なんか無かったでしょうに」

「それを言うなよ。俺もそう簡単に死にたくないだけだしな」

「確かにそうね。それに、実際さーたんの事……『祝! うるきお嬢様入学おめでとうスペシャル! ――結婚可能年齢まであとほんの少し――』と言う具合にお祝いの準備はたまた用意くらいは軽くしていそう」

「ああ、まず間違いなくな。昨日も夜にソファーの上で『うるきお嬢様が明日から高校生……制服のお嬢様……ハァハァ……くんかくんかぁ……!』って寝言言ってたんで、仕方ないから部屋に運んでベットに寝かせておいたくらいはしゃいでいたからなあ」

「さーたんの個性をさらっとスルーしつつ事を成す辺りは流石、鍵森恭介よね」

「一々、驚いてたらここの執事やってられないからな!」

 限りなく本音に近い声を発する恭介。

 一癖も二癖もある訓子府家の従者達と近く接していれば自然、彼自身かなりの対処スキルが身についている話である。そうね、と楽しそうに同意する目の前の美少女に関しても同義である。彼女も恭介の視点から言って十分、個性の強いメイドなのだから。

「まぁ、それはいいとして――朝飯の支度もあるだろうし、さっさとアイツもお越しにいかないとだよなあ」

 時間こそ早い事だが、朝食の用意に関しては。と言うよりも訓子府家の食事全般の指揮は一人が執り行っているのもあってほぼ彼女任せ。もしも時間がかかる料理があるのであれば、彼女を起こしに行った方が得策だろう。

 ただ、男の恭介が女子の部屋に入るのも――昨晩仕方なく運搬したのを考えるともうやってしまっているのだが――入るにはやはり女性の方がよろしいことだろう。

 そう思いながらふいっとカナンへ目配せする。

 カナンもそこは同意の様子で快く頷いてみせた。

「――ああ、だったら私が起こしにゆこうというものよ」

「サンキュ」

「まぁ、さーたんは食に関しては職業の次元だから時間に関係はたまた価値があればゾンビみたいに起きてくるはたまた這いずってくる子だから特に問題無いとも思うのだけれどね」

「言わないでくれよ、そこ。それで俺、就任二日目にゾンビと戦う気分満喫したんだぜ?」

「あら、そう。さーたんの方は『朝起きたら、食の道を阻む愚鈍な輩がいた。朝から不愉快な気持ちで厨房へ向かう羽目になったが、うるきお嬢様テラかわゆすはぁはぁ』って言ってたのはその事なのね」

「最終的にお前中和されすぎだろう、うる吉に!」

「解毒はたまた浄化のことよ」

 クスクスと楽しげにカナンは微笑を浮かべる。

 わかりきっていた事だがやはりあの料理人は色々と危ないと再確認する恭介だ。

「アイツの事はいいや……考えるだけ疲れる……」

「賢明はたまた良き判断よ、鍵森恭介」

「そりゃどうも。……それはそれとして、跡永賀」

「なにか?」

「いや、もう若奥様は起こしたのか?」

「ああ、若奥様?」

「それと、アシュメダイ執事長はどうしたよ? あの人、いつも俺が起きる前には起きてるような人だろーに見てないんだが?」

「ああ、それね……」

 カナンがここでちょっと影の差した弱弱しい表情を浮かべた。

 これはおかしい、と思わざるを得ない。

「どうした? 何か問題でもあったのか?」

 恭介は少し真剣な様子で再度問い掛けた。空気を察したのか、それとも耳に入ったのか食堂のテーブルの椅子に先程まで足をぷらぷらして『あさめしまだかなー』と呟いていたうるきも「どーかしたのか?」と何時の間にやら傍へ寄ってきていた。

「かなっち。何かあったのか?」

「……仕方なきことね。うる吉にここまで何度も問い詰められては……限界ね」

「限界早いな、お前。まだ一回聞かれただけだぞ……」

 恭介の残念なものを見る目も華麗にスルーしてカナンは神妙な面持ちで口を開いた。


「若奥様は……迷子になって今、アシュメダイ執事長が捜索中なのよ」

「「またかっ!」」


 ここで反応が『何で!?』ではなく、『またか!』と言う時点で悲しい話である。

 恭介は顔に手を当てて「朝から何でだよ……」と言う顔を見せているし、娘であるうるきに至っては「そっかー。ならしかたないなー」とむしろ戦地で散り散りになった戦友と長年に渡り音信不通であったのにある時偶然再会したかの様な安らぎに満ちた安心感さえ漂わせているではないか。

「一応、詳細はたまた事情を話す事可能だけれど……訊く?」

「大体想像つくがそうだな……これも仕事だ。訊こう」

 うるきは恭介に「ちゃんと聞いとくんだぞ」と腰の辺りをぽんと叩いた後にテーブルの方へ戻っていってしまう始末。母親とはそんなものである――とさえ思わせる程あっさりだ。

「で? 迷子の理由はなんなんだ?」

「まず初めはたまた冒頭部分にね――若奥様は『娘の晴れ舞台! 明日はうるちゃんより早起きして「おはよう、いい朝ね!」って言わなくっちゃね!』との流れから始まった様子よね」

「ほう。そりゃいい心がけだな」

 ……日頃、ぐーすかぴーとばかりに昼まで寝てるあの人としては殊勝な心がけだな。

 恭介の脳裏には平日、休日関係なく自分の好きな時間まで寝転げているこの屋敷の若奥様の姿がありありと思い出される。そんな彼女だが娘の入学式ともなればやはり一緒に行ってやる気満々だった様だ。

「けれど若奥様はこう想定はたまた考えたようね。『はっ! なら明日の朝までずっと起きてればいいじゃないの!』と。これが丁度昨日のお昼の発案ね」

「その時点で止めろ! それ確実に昨日の昼から仮眠無しで続けたんだろう?!」

「よくおわかりね。そう、当然それをすれば一日中起き続けてるのと同じはたまた類似――結果、若奥様ふらふらになりながらも『娘の為、娘の為』と寝言を呟きながら頑張って耐え忍んだのよ」

「それ寝てるじゃないか!」

「そしてそのまま体は寝ているに関わらず覚醒している意思だけが若奥様の体躯はたまた全身を使役し、当然寝ぼけている為に時間の感覚などわからず今朝方『うるちゃん、入学式たのしみねー♪ うふ、うふふふ……』と呟きながらふらり、ふらり、と外へ出て行かれた」

「誰か見たら怯えるぞ確実にその光景! と言うか見ていたんなら捕まえろよ……」

「捕まえようと私もアシュメダイ執事長も動いたに決まっているわ。けども、私たちが腕を掴もうと手を伸ばしたとき――すでにそこには影も形もなかったのであった」

「そこで最後にあの人のよくわからない迷子の資質発動か!」

「これが事の顛末はたまた終局よ」

「ああ、ありがとう。よくわかった、いつもと変わらんようで何よりだ」

 訓子府家の若奥様――うるきの実母はとても面倒くさいレベルで迷子の達人だ。それはもう気付いたら迷子になっていたと言うくらいの代物である。その捜索に付き合った事がすでに七五回ある恭介にはよく理解できる話であった。

「……という事は、アシュメダイ執事長は現在進行形で迷子探し真っ最中か」

「そゆることよ」

 うんうんと頷くカナン。

 ……あの人も大変だ。

 黒色の肌をした黒髪の執事長の姿を思い浮かべて恭介は早く見つかる事を祈るばかりだ。執事長であるアシュメダイであれば比較的速やかに発見もしてくるだろうと思うところだが。

「……入学式までに引っ張って来れるといいが」

「大丈夫でしょう、おそらく。アシュメダイ執事長であれば」

「だといいが」

「平気はたまた問題無しよ。私が『そんな準備で大丈夫か?』と問い掛けたところ『ノープログレムだ。問題無い』と男前な答えが返ってきたものね」

 ……それは大丈夫なのだろうか? だがアシュメダイ執事長の事だし……きっと平気なのだろう。おそらくは。

「いや、アシュメダイ執事長にそっちは任せておくとしようか。意地でも入学式までには連れて来るだろう、あの人なら。こっちはこっちでうる吉が入学式遅刻なんて結果にならないように全力を尽くすだけだ」

「そうね。では、鍵森恭介。私はさーたんを起こしてくることすることよ」

「ああ、よろしくな」

 その言葉を最後にカナンは部屋を出て行き、使用人であり料理人である少女を起こしに。そして恭介はうるきの傍へと足を向けた。

 うるきは絢爛な装飾の椅子に座り、テーブルに肩肘つきながら実に何ともない様子で傍に寄って来た恭介へ向けて問い掛けてきた。

「で、結論は?」

 飴を口の中で転がしながら他愛ない話の様な空気を発するうるき。

 けれど、尋ねてきた内容は母親の迷子事情と言う少しは焦りを見せてもおかしくないものなのだがうるきは焦った様子を見せはしない。最早慣れたと言うのが一つ。

「例によってアシュメダイ執事長が探してるってよ。本人曰く『問題ない』ってさ」

「そっか」

 うるきは飴を転がす口元にニンマリと笑みを浮かべた。

「――なら、問題ねーな。おかーさん時間までに連れてきてくれよ、艦長」

 艦長、と言うのはアシュメダイに対するうるきの付けた綽名だ。

 強い確信の様なものを感じさせる表情。

 母親が現在、迷子――だけらなばともかく高校の入学式に間に合わないのではないかという不安感など微塵も感じさせない。

「若奥様が入学式に来れなくて泣くなんて事ねぇよな?」

「ふん、たりまえだろきょうすけ。おかーさんがもしかして来れなくて入学式が終わったとしてもあたしが泣くわけなんてズビビっ」

「そんな涙目で言っても説得力ねぇぞ」

 ……想像だけで泣くなよ、まったく。

 恭介はポケットから取り出したティッシュをうるきへ手渡す。うるきは「はりふぁと」とお礼と思しき言葉を零した後にチーン、という音と共に鼻をかむ。

「嫌な事を想像するって悲しいもんだよなっ」

「想像だけでマジ泣き寸前にまで至るお前も相当なもんだよ」

 苦笑を浮かべる恭介を見てむすっとふくれっ面を浮かべながらもうるきはどこか自信に満ちた様な言葉を述べた。

「だけど、まー。アレだ。おかーさんの事は問題ない。絶対」

「絶対、か?」

「ああ、絶対、だ。なんたって艦長が追ってくれてるんだ。あの人は今までもこういう局面でおかーさんを必ず時間までに間に合わせてくれたからな! 小学校の体育祭の時も! 中学の入学式の時も! 卒業式の時も! いつも!」

「若奥様……想像ついてはいたが、やっぱそうなのな……」

 最後の『いつも』と言う発言から推察する辺り、やはりあの若奥様の迷子っぷりは常軌を逸したものの様だと恭介は嘆息しがっくりと肩を落とす。

 ……だが、そうなると多分慣れてるだろうから……、やっぱ、俺が成すべき事はしっかりコイツを学院まで送り届けるって事なわけだな。

 若奥様が時間内に入学式に間に合ったとしても。

 訓子府うるきが道中、不測の事態で間に合わなかったでは話にならない。そしてそれを成し遂げるべきが訓子府家、うるきの専属執事である鍵森恭介の役割なのだ。

「とはいえ、朝早くから焦っても仕方ないし……テレビでも見るか」

「そだなー。ニュース、ニュース」

 けれども現在の時刻は朝のかなり早い時刻。

 今からあくせくしても仕方ないし何より朝食係がまだ起きてもいない。学校へ行く用意は昨晩しっかり終えてしまった以上は後で少し再確認をして忘れ物がないかどうかを調べればいい程度だろう。その事から、二人は余裕を持ってゆったりとした朝を送る事に決めた。

 その為の暇つぶしと言えばやはり朝のニュースであった。

 リモコンが何処にあるか軽く視線を巡らせる恭介であったが、ふとうるきがテーブルの上の花瓶の陰に隠れているのに気づいてひょいと手に取るといつも視聴するテレビ局の数字番号ボタンを一押し。

 そして即座に真っ黒だったテレビ画面は色彩に彩られ映し出された光景には数名の人物が鮮やかなスタジオで語り合う光景。ニュース番組『HIP!』だ。だが様子を見ている限りでは今は娯楽性を重視した場面でありニュースは一段落した後の様だ。とはいえ少し経てば再度やる事もあるだろうから恭介達は番組内での娯楽に興じつつ最新情報を待つこととした。

「んー、これも朝から笑えてオモシレーけどニュースまだかなー?」

「まぁ、待てって。五分も経てばまた始めるだろ。それよか、どうする? 朝飯は無理だが、コーヒーか紅茶辺りなら入れてやるが?」

「お、マジか? さんきゅー、じゃあ、あたしミルク・オ・レな」

「素直にミルクって言えよ!」

 ……ミルクにミルクを混ぜて何がしたいんだ、お前は。

 だがうるきは恭介の口上が気にくわぬ様子で憤慨を表しどこかきょどりながら反論を述べる。

「ミルクじゃねーし、ミルク・オ・レだもん! べ、別に背を伸ばしたいとかは一切関係ねーんだからな、きょうすけ!」

「はいはい」

 後半で見事に誤爆しているが気にかけても仕方あるまい。

 せめてもの主の意思を汲むべく恭介は俊足で厨房の冷蔵庫から訓子府家御用達である江釣子(エヅリコ)家から調達している巷でも美味しいと評判高い『えづりこ牛乳』に市販の牛乳である『「美味し過ぎる」――そんな言葉しか浮かび上がってきやしない。なんだこの深い味わいはいったいなんだと言うのか。美味い、美味すぎる。……あ、いえ別に決して自画自賛とかじゃないんですよ? そうそう。断じてナルシズムとかではなくてですね? え、クドい? クドかったでしょうかこの広告文? 長すぎる? あ、確かに長すぎはするんですけれど、それだけ自信を持ってお勧めできる出来栄えに仕上がったと言う自負の表れでしてですね――え、文言はいいからさっさと商品名決めろ? いや、ですから初めに言ったのが商品名でして、すでに銘柄は決まっているわけでして……ええ!? ここまでの流れ全部、商品名でいいよもう!? いやいや、そんなわけにはいかないでしょう、ここまでってもう唯の会話文』と言う何やら商品名の名付けであった出来事が実に事細かに細々とした文字でパック全体に明記されている市販牛乳である通常『自分語ミルク』と愛称が付けられたミルクである。ちなみにそんな流れが生まれただけあってパッケージは実に細々としていて読みづらいと評判だが味の美味しさに関してはしっかりしているのでネタにされる意味でも話題のミルクと『えづりこ牛乳』を二つ、混ぜ合わせてみる事とした。

「お、おおう……! ミルクとミルクが混ざってやがる……!」

 隣で慄いた表情のうるきがいるが自分で言い出した事だ。うるきにはしっかり味わってもらおう。『ミルク・オ・レ』と言う代物を。それにしてもクリーミーだ。

「ほら、出来たぞ」

「お、おう」

 二つのミルクの混ぜ合わせ。

 何の意味があるのか良くわからない飲み物が入ったウサギマークの入ったマグカップを手に取りつつ深呼吸を繰り返した後にぐっと一口煽った。

「……ミルクだっ」

「当たり前だろ」

 ぽわっとしたうるきに対してくつくつと口元の笑みを右手で隠しながら一言発する。

「でも何だろ……何かすっげぇ違和感もあるミルクだ……」

 何かお気に召さない味わいを微妙に舌に感じながらもうるきはミルク・オ・レを飲み進めてゆく。その隣で恭介は自分様に用意したコーヒーに舌鼓を打った。上出来だ。

『急ごう、カナン! 鍵森恭介とうるきお嬢様を二人きりなんて状況――けだものの鍵森恭介が何時、うるきお嬢様に手を出すかわかったものじゃない。ああ、わかったものじゃないさ!』

『そうねえ。もしかしたらすでにうる吉は……オヨヨ』

『なに? なんだその反応は……? ……まさか、鍵森恭介、あの男もうすでに……! 許せるものじゃない。ああ、許せるものじゃあないさ!』

 ……何を煽ってくれているのだろうか、あのメイドは。

 廊下の方から聞こえてくる会話に恭介はつらりと頬に冷や汗を一つかく。ただでは起こしてこないとは言うのだろうか。なんと厄介な。

 そして扉を切り刻み破壊し現れた主君を重んじる女料理人と話し合いと仕合を織り交ぜての朝の挨拶を交わす羽目となった恭介。「朝から面白おかしい事よね」と愉快そうに笑うメイドを内心で悪魔かっ! と、罵りつつ。

 そうこうしている間に『HIP!』の内容も気付けばニュースに移っていた。

「さて、今日はどんなニュースがあるのかね」

「若干、ぼろぼろのきょうすけも本日のニュースだけどな」

 ……言ってくれるな。

 執事服が若干ズタズタだったりするが予備があって何よりだと恭介は諦観姿勢で安堵する。

 例え若干疲労気味でも朝の場面はとても大切だ。

「最近はほんとー事件多いからな」

 なんつったって、と隙間を置いて。

「一日経てば新しい事件とか起きてる始末だもんな」

「そうだな」

 ……その通りなんだよな。

 ……いや昔から引き続いて『最近は物騒』と言う文言は存在していたわけだが、うる吉も言う通りに最近は本当に物騒だ。なにせ一日経過するたびに何らかの事件が起きていたりする。大小あれどニュースが。ニュース番組が視聴者を飽きさせる事は無いと言うくらいに大量に起きている始末だ。

「最近は物騒だからな」

 ……知って置いた方が良い事がたくさんだ。

「なー、横浜も物騒になったもんだよなー」

 うるきも何処か諦めた様にぐてんとしながら賛同する。

「こと最近に至っては本当にな。――四月一日にも近場であったしな」

「ああ、あたしもそれ知ってる。近所で起きた爆発事件ってやつだっけ?」

「そう、それだな。五階建てビルのやつ」

「じゃ、当たりだ」

「なー。驚いたもんだよ、爆発事件だしよ。事故じゃなく事件性が高いって判明してるみてーだしな……。幸いにして怪我人は少なかったらしいが……それでも三人だ」

「うち二人が重傷って訊くし……あの日はサイレンとか凄かったよな」

 二人神妙な表情で話しこむ。

 そうしている間にも画面に映る綺麗な顔立ちをした女性キャスターが、

『それでは最新のニュースです』

 と、語り始めた。

『本日、午前四時半頃の時間帯に神奈川県横浜市西区みなとみらいの「日本丸メモリアルパーク」の帆船、日本丸が何者かによって強奪されると言う事件が起こりました』

「「なんでだよっ!」」

 ……本当に一日経過する度に事件起こり過ぎだろう!

 日本丸とは神奈川県横浜に存在する帆船だ。みなとみらい地区で最初に整備された港湾緑地であり『日本丸メモリアルパーク』と呼ばれている。『太平洋の白鳥』とまで呼ばれる日本丸は県外問わず観光客に人気な有名観光地と言える。

 恭介とうるきが驚くのも無理はない話だ。

 なにせ、その『太平洋の白鳥』が何者かによって強奪されたなど――観光名所がぶち壊されたと言ってしまえる事態。そもそもどうやって日本丸等と言う目立って目立って仕方ないものを盗めたと言うのか。

『実行犯と思しき数百名は警備員を拘束した後に帆船に燃料を注ぎ込み、日本丸に乗船する形でその場を去ったとの事です』

「「実行犯多ッ!」」

 数百名――と、言うからには数百名なのだろう。

 ……それにしたって多すぎやしないか?

 わかるのは計画的犯行と言う事――これに至っては突発的犯行でそんな事を出来る人物がいるとは思えないしやるとも思わないが――つまり大人数で警備を突破し船を奪ったと。

 ……いつの時代だ。

 出鱈目なやり方に思わず頭を抱えそうになる恭介。

『第一発見者は近所でランニングの最中だった120代の男性であり、「何か騒がしいなと思って近くへ行ったみたら、おったまげたもんだぁ。なんたって、日本丸が夜明けへ向けて羽ばたこうとしてたんだからなぁ。思わず『がんばってきなせぇよぉっ!』ってな具合に応援送っちまったくらいじゃったわい」と驚きの声をあげていた様子です』

「「おじいさんギネスっ! それと呑気ッ!!」」

 確か恭介の記憶では絃記録保持者は119歳であったと記憶している。

 番組側が『120代』と明言する辺り、120歳から上なおだろうが、その時点でギネス記録を越しているのではないだろうか。

 ……って言うか、何か不意に記憶を掠めるものがあった様な。

 ふと何か脳裏を過るものを感じたが今は置いておこうと恭介は決定した。今、重要なのは日本丸の一件だ。120代のおじいさんと言うのも相当気になるが致し方ない。呑気に手を振ったであろう船出も気に掛けては仕方ないだろう。

『――なお、現場には実行犯の残したと思われる文章が残されており、神奈川警察からの情報によりますと「大航海時代の幕開けだ」と言う言葉と人物名、主犯格と思しき「ローリー=マーマデューク」と言う内容が記されていたとのことです。現在、警察は日本丸の行方を追っており、自衛隊海軍との全面協力の元、捜索を進めて行くとの事です』

「「海賊行為ッ!」」

 二人の脳裏には某有名海賊漫画の光景しか思い浮かばない。

 大航海時代など随分昔の話を現代日本に呼び戻すつもりなのだろうか主犯格は。

「っぷはぁ……」

 うるきは心底びっくりした様子で大きく息を吐き出して、

「――なんつーか、世の中本当びっくりする様な奴が多いもんだな……」

 テーブルの上で頬杖をついて呆れた様な声を零す。けれど、その声にはどことなく面白そうな色も含んでおり――複雑そうな色を浮かべていた。

「そうだな……」

 恭介も判断に迷う。

 なにせ犯人の思惑がわからない。不明だ。

 その突飛な行為を褒める事はとても出来ないし、何よりも今頃このニュースを訊いて神奈川県民が怒り心頭だろう事も想像するに難しくない。

 けれど何かを壊す振る舞いに一種の清々しさすら感じる辺りが実に複雑だった。

「現実的に考えりゃ……最低一週間もありゃあ捕まるとも思うがな」

「それもそっか」

 うるきも同意する。

 なにせ自衛隊も協力しての活動だ。海が広いとはいえ今の御時勢に帆船だ。目立たないわけがない。そして武装船でもないのだから、捕縛はそう難しくは無いだろう。

 ……ま、懸念はいくらかあるがな。

 幾つかの可能性を考えると長引きそうにも思えるが――そこは警察の力を信じる他にないだろう。そんな二人を余所に女性キャスターは淡々と……いや、実際には『何か最近事件多いなぁ』と言う表情が強かったりするも、次のニュースへと移る。

『――続いてのニュースです』

「あ、そっか……」

「まだ一つ目だったな、そういや……」

 もうお腹満腹の二人だ。

 日本丸強奪事件だけで十分な事件だ。まぁ、一つ目のインパクトが大きかったおかげもありこの後は驚く事も無く淡々と見て進められる事と思うが。

『昨晩の午後10時きっかりに、東京千代田区内幸町の帝都ホテルで開催されていた「古代土器展覧会」にて出展されていた「イヌ文明」解明のカギともされていた「ハンナリ土器」が全身黄色のタキシード、シルクハット、マントに身を包んだ男性の手によって奪われたとの事です』

「「どこの何がどちら様にッ!?」」

 二人、びっくりである。

 今度は見事なまでに事態が呑み込めない。日本丸強奪事件と言うのは状況が明確に見えてきてしまうからまだいいのだが、今度は不明瞭にも程がある。

「きょうすけ……イヌ文明って何だよ……」

「俺だって知らないぞ?」

 とりあえずわかるのは文明解析に重要な「ハンナリ土器」と言うのが奪われたらしい、と言う事くらいである。何だそれは。

『なお、土器を奪って去った20代前半と思われる男性に関しては東京で最近、巷で食い逃げの連続事件を起こしている人物と該当する事から同一人物と思われ、警察当てに事前に届いていたとされる予告文から「怪盗アスファル」と言う名前であると思われ――』

「「また怪盗かっ!」」

 ……また新たに怪盗出現とか世の中は最近怪盗でも流行っているのかと言いたくなる。

 ……神奈川でもそうだし、東京でも……次は千葉辺りにでも現れるのか?

 恭介の嫌気がさした結果の憶測。けれども、神奈川に限ってそうであった事態が東京も同じ被害に遭うとはと思わなくも無い。そう、神奈川にも怪盗が存在するのだ。どんな御時勢に突入しているというのか。

『怪盗アスファルの一件に対して警察は全力で対応に当たるとの事です。さて、次のニュースですが……』

「警察、全力多いな」

「特に最近は一段とな」

 警察の苦労が窺い知れる。

「日本丸強奪に……ハンナリ土器? だっけか。何か事件多いな、もう」

「最近は本当物騒だよ」

 だけれどここまで来てしまえば本当この後は驚かずに済みそうだ。

『昨晩午後一一時頃に宮崎県延岡市北方町八峡にて切断された遺体が発見されたとの事です。遺体はバラバラに切断されており、身元の確認を急いでいるとの事です。犯行の手口が近隣の二件、沖縄県での一件に似通っている事から同一人物ではないかと目されており――』

「「ホントに……物騒だなぁ……」」

 物騒でしかない事件に思わず身を引く両名。

 先の二件の強奪事件も色々と驚かされたりはしたのだが――ただ純粋な殺人事件と言う事もあって『物騒な』と言う感情しか湧いてこない。

 そんな雰囲気の中でうるきは思い出した様に呟いた。

「うちの近場でもあるよなきょうすけ、こういうの。何だっけ……そうそう、『カマイタチ』なんて呼ばれてたっけ……」

「ああ……、確かにな」

 恭介も知っている名前――と言うよりかは綽名だ。誰が付け始めたのかは知らないが。ワイドショー等でも取り上げられ世間を恐怖に落としている切り裂き魔『カマイタチ』。事件現場がそう遠くない事もあり恭介やうるきでなくても知っている事だ。

「……ま、『カマイタチ』ばっかりじゃねぇけどな。そういう事やるのは」

 恭介は言葉を濁す。

 そういう事を行うのは一人や二人ではないと知っているからこそ。言葉に宿した思いは実に面倒くさく複雑に絡んでいく。恭介はそんな空気を払うように明るく告げた。

「何にせよ、朝から辛気臭いのはやめておこうぜ。仮にこういうの現れたとしてもしっかり守ってやるからさ」

「おう! 頼りにしてんぜきょうすけ!」

 うるきはペカーと言わんばかりに明るく頷いた。信頼。そんな二文字が良く現れている表情であった。そんな二人の想いに答えるかの様にテレビの女性キャスターも先程までの深刻そうな表情はナリを潜めて一転して明るい色を浮かべている。

『続きまして――日本国首相、靖方総理大臣とアストルバーグ都市国家間に於ける交渉の席が持たれ両国の会談が六日二時に行われた件につきまして、アストルバーグの政界代表フルヴィエール代表との会談に於いて両国での新たな輸入輸出、及び国交間に於ける進展が見られたとの事です』

「――へぇ」

 恭介は素直に嬉しそうな笑みを零した。

「進展か……何だろうな、きょうすけ?」

 うるきもまた嬉しげに言葉を発する。

「わからないな、流石に。何分、色々初めてだからな、ことアストルバーグに関して言えば」

「だよなあ」

 うるきも何度となく頷いた。

 恭介にもこの国交がどう影響していくかは予想がつかない。

 ……あのアストルバーグ、だからな。

「今の所、靖方総理がこれまた傑物だからな。関係も大幅に――ここ数年でかなりいい方面に飛躍的に伸ばしたんだ。それを考えれば、いい方向へ進んでいると思いたいところだよな」

「あたしだって楽しみだっての」

 何時か、行きたいしな、とうるきは待ち焦がれる様に。心躍る様子で破顔する。

 恭介も同じ思いだ。

「俺も……行ってみたいもんだよ、本当」

 大食堂の天井を仰ぎながら感慨深げに恭介も呟きを洩らす。

 何せ二人にとって――『アストルバーグ』とは未知の世界なのだから。

「二人とも」

 そんな二人を見ながら何処か微笑ましいものを見た表情で近づいてきたのは跡永賀カナンだ。両手にはお盆を持っており、その上には美しさすら感じる料理が乗っていた。

「アストルバーグもよろしいですが――」

 その料理を実に丁寧に流麗に食卓へ並べてゆく。

「まずは、新しい学生生活と言う未知の世界に立ち向かってからにするようにね?」

 ふわりと花咲く笑みでカナンは優しくそう告げる。

「……そうだな」

 一拍置いた後に恭介は小さく呟いた。

 まずは学生生活だ。

 一年送ったとしても、恭介はうるきと似たり寄ったり――新しい学生生活とさして変わりない。未知の世界と言えばその通りだろう。そしてその場所へ赴くにはさっさとこのテーブルの上の料理を味わった後の話になる。恭介はナイフとフォークを華麗に持ちながら、用意された朝食メニュー、オムレットにフレンチ・トーストと言った美味な料理に意識を向かわせる。

 向かい側の席で左半分をうるきに対しての発情笑顔、右半分を恭介に対しての威嚇笑顔を器用に浮かべる料理人の姿に苦笑を零しながらも。

「いただきます、と」

 鍵森恭介は静かに爽やかに朝を始める。


        2


「いざ、出陣だぜきょうすけ!」

「なら、さっさとその鎧武者スタイルをここに脱いでいけ」

 時間は現在八時を指している。

 訓子府家の屋敷の外。玄関付近に佇む小柄な鎧武者に対して恭介は容赦なくそう口火を切った。なにせ鎧武者なのだ。気分なのはわかるが、これはない。うるきは口をアヒルにして「ちぇー」と呟くも流石にネタだった様でいそいそと脱いでいく。

「では、鍵森恭介。うる吉共々、行ってらっしゃい。気を付けるべしよ」

「ああ、わかってるさ。まー、そうそう危険もないとは思いたい――思うけどな」

「仮に何かあれば全身全霊、身を粉にして尽くすべきよ」

「了解だ。執事だからな」

「あ、ちなみにこれは失敗したら身を粉みじんにして太平洋のサメの餌にすると言うわけではないので勘違いしなくとも平気とのことよ」

「考えもしなかった心配をありがとう。――恐ろしいぞ、おい!」

 くすくすと笑っているが笑えない。とても。

「何はともあれフォローは任せることよ? なにせうる吉にとって初めての高校生の体験」

「略して初体験……ハァハァ……」

「黙るのよ、そこの料理人。――まぁ、失敗があれば上手くフォローする事を願うことよ」

「出来る限りはやってみるさ。ただまあ、あまり期待はするなよ? おもに物理的な理由で」

 恭介は素直に本音を出す。そう、やれる限りはやりたいところだが、物理的な意味合いでの障害が大きいのが問題だ。しかし、カナンはそれでもなお面白そうに、

「そこをどうにかしてこそ執事なのよ」

 と、無茶を言い放つ。

「楽しげに言うなよ。まったく。――まぁ、アフターケアくらいはしてみるけどな」

「それでいい。その程度がいいことよ」

 そう呟くとカナンは満足した様に目を伏せた。

 そうしてからカナンはうるきの方へと体を向けた。そうして彼女の口から放たれた言葉どこまでも優しく、とても暖かく、そうして優しく紡ぎだされた。

「それでは、うる吉。――楽しんで行ってくるべきことよ」



 そうして現在、二人は訓子府家の誇る黒塗り高級車両『デス・ブラック号』に乗車していた。

 運転手のネーミングセンス丸出しの名前に当初こそ恭介は口元をひくつかせたものの最早ツッコミを入れるのも面倒くさいと認識してきた話だ。

「おせぇ。さっさと乗れ穀潰しども」

 目の前に立つ人物がタバコを咥えながら淡々とそう発言する。

 本当、この屋敷の従者、主人に対しての礼儀全くないな。と、恭介は再度の認識を示す。

「モルダーは相変わらず口悪いなー」

「ハン。何が悲しくてガキ相手に敬語使わなきゃいけねぇって話だろうが」

「流石、モルダー。ぶれねぇな」

「こびへつらう性格じゃねぇしな」

 そう頷きながらうるきは後部座席に腰を下ろす。

 訓子府家専属運転手、モルダヴィア。純潔のロシア人である彼女はブロンドの長い髪を風になびかせ意志の強そうな水色の瞳をいつも通り不服そうな色を宿させている。だが特筆すべきはその小柄な体躯であった。うるきと大差ないと言えてしまう程の小さな体躯。だが、これでも訓子府家の運転手を務めている事から成人を済ませている女性だというのだから恭介は驚いたものだ。

「シートベルトしっかりつけやがれー。つけねぇと御上に逮捕されんのウチっちなんだから迷惑かけんじゃねぇぞ?」

「へいへーい、了解ですよーだ」

「うっさーい!」

 気の抜けた様な返事を返しながらもうるきは後部座席のシートベルトを引っ張って自身の体をしっかり安定させてゆく。ペットであるうさぎるばーとはその隣にぽすんと鎮座した。その様子を確認すると満足した様で「ん」と呟くと目の前の訓子府家の運転手はその容姿に似つかわしくないタバコを携帯用灰皿に火を消して押し込めると、恭介へ向けて軽く手招きをする。

「ほらよ、カギ公。お前もさっさと乗りやがれ」

「相変わらずエテ公か何かみたいな呼び方だよな」

「文句あんのか?」

 いや、ねぇよ。と、一言だけ発して恭介は素直に後部座席へと乗り込む。

 そうしてシートベルトをしっかりと装着する。

「したかー?」

「ああ、問題ねぇぜ」

「なら、よし」

 モルダヴィアは小さく頷くとキーを差し込み車のエンジンをかける。震える振動が体躯に伝わり車体が起動を始めた事を身を持って実感する。

 その小柄な体躯から運転に支障はないのかという不安はない。

 なにせこの『デス・ブラック号』はモルダヴィア専用に受注された専用車両だ。故に小柄な彼女の体を全面的にサポートする形でこの車は全力を発揮しているのだ。

「んじゃ、行くぜ。振り落とされねぇようにしっかり捕まっておきな」

「逆に言おうか。後部座席から振り落とされる運転とは如何なものなのか、と」

「ダァハハッ。細けぇツッコミはなしだぜカギ公。で、どうする?」

「ん? どうするって言うと」

「安全運転重視か暴走運転重視のどっちがお好みだ?」

「そこは前者以外にありえないだろう」

 大きな声で頼むから今日くらい安全運転で行けよ、と目で語る。

 モルダヴィアは「ちぇー、つまらん。――ま、今日くらいはしゃーねーか」と何時になく素直に応じた。うるきの入学式と言う効果は絶大だと恭介は悟る。普段だったら多少なりとも激しい運転をしたことだろう。法定速度ギリギリで。

 そうして数分後に『デス・ブラック号』は物静かに動き出した。

 その安定した巧みな運転技術に恭介は思わず感心する。

 ……モルダヴィアの奴、こういう運転もちゃんと出来るんだな。

 記憶の中の彼女とのドライブはどれもこれも実に過激だった事を記憶する鍵森恭介としてはモルダヴィアの周囲への迷惑を一切かけない様な運転技巧に感嘆を浮かべた。そうしてくるとこちらにも余裕が生まれてくる為、うるきは楽しそうに『なぁなぁ、モルダヴィア? 学校どんな感じかなー?』と後部座席から会話を投げ掛けていた。モルダヴィアは顔を前に見据えたままで『学校? ウチっちが言うのもアレだけど破天荒とカオスを煮詰めた様なものだぜ?』と楽しそうに返答している。

 そんな中、鍵森恭介は主の会話を邪魔するのも野暮と思い、普段――主に徒歩では距離があり、また車では過激運転で余裕がないためじっくり見れない窓の外――風景に対して視線を走らせていた。

 広がる光景は大森林と言ったところか。訓子府家の庭園とは、また違った壮観な光景に思わず目を奪われてしまう。風に揺れ、揺れる木々のざわめきが時折、日光を宝石の様に輝かせて実に清涼な情景を奏でている。

 車の動きと共に遠ざかってゆく訓子府の邸宅。

 遠目で見ても、何度見ても、この屋敷には目を見開いて驚くばかりだ。

 ただ、大きいと言うのではない。

 訓子府うるきが寝泊りするこの訓子府家の別宅は得てしてただ大きなだけのお屋敷と言うわけではないのだ。

「ん? どーした、恭介? 窓の外ばっかり見て」

「いや、大した事じゃないんだが……」

「だろーな。だってあたしん家しか見えてねーし」

「それが大した光景ってなもんだぜ、おじょーさまよ」

 恭介の感情を察した様子で苦笑いを浮かべているだろう様子でナタリアが賛同の言葉を発する。彼女の言いたいことも恭介はよくわかる。そしてこの破天荒な少女もきっちりと名家のお嬢様なのだと理解するのに容易い。

 なにせこの訓子府家の屋敷は純和風の邸宅なのだ。

 いや、厳密には和風でこそあれ『邸宅』でも『屋敷』でもないと言えた。


「何度見ても……この家、『城』だよなぁ……」


 訓子府うるき、及びその実母の住まう住居の名は訓子府家別宅『黒星城(こくせいじょう)』。

 純和風と言い切る通りにこの屋敷でも邸宅でも無い家は神奈川に建つ名家の中でもひときわ目立つ『城』なのだ。姫路城、大阪城と同じく神奈川に建つ黒星城である。

 世間からは本当に奇異な視線を仰ぎ、時に観光名所と勘違いした外国人にも対応しなくてはならないケースも存在したと言う稀有なお屋敷だ。

「なのに中身は和洋混同とか……近代化だよな」

「そう言うな、カギ公。厠とか古風にし過ぎると不便だからしょうがねーんだよ」

 屋敷の内装を知る恭介としては純和風の城の中身が和洋織り交ぜたものというのは何とも違和感を抱くものだ。ただし、モルダヴィアの言う様に洋風の方が利便が良いと言う場所も数多いので文句などあるわけもない。

「ま。俺ン家のグレードアップみたいなもんか」

 恭介は一人呟くと視線を遠ざかった黒星城から外す。

 訓子府家の森林地帯も潜り抜けて見えてきたのは見覚えのある街並み。神奈川の街並みであった。恭介の家は近所でもなく通学路上にも無い為、見える事はないが。

「しかし車で移動してもこれだから……やっぱデカいんだな、あの屋敷は」

 屋敷、と呟くたびに違和感が募るのも相変わらずだ。

 モルダヴィアが愉快そうに賛同した。

「まぁな。訓子府くれぇになりゃあそりゃあ無駄に豪勢な建造物にもなるってもんだぜ」

「だけど俺としては相変わらず驚く話だぜ? うる吉がお嬢様ってのはまだいいが、屋敷が白ってのは意外性抜群だったからな」

「そりゃ驚く事だろうな。まー、アレだカギ公。THE・お嬢様のお屋敷っぽい邸宅が見たいってんだったらお勧めは迎洋園(げいようえん)家や時瀬(ときぜ)家なんか代表的だぜ。後は記念寺(きねんじ)なんかも昔はあったんだけど、あそこはもうねぇしな……」

 何処も恭介はそこまで知らない家名ばかりだ。

 ある程度、裕福層へ食い込んではいる鍵森だが、生憎と今の世代の鍵森ではそうはいかない為に恭介は名家と言うのがどれ程あるのか。それは今後の課題である。

 けれど迎洋園。その名前に関しては記憶に新しい。

「迎洋園か……、訓子府と同列の家柄だったな」

「そそそ。中々の屋敷だからな、あそこ」

「なぁ、訊いてもいいか?」

「何を訊きたいのかは大体わかるから構わないぜ。ウチっちにわかる範囲に限るがな。うるきの嬢ちゃんも何かありゃあ到着までに質問しろな」

「ん。オッケー」

 うるきが了承を簡素に示す。

 んじゃ何が訊きたい? と、軽く左手を振ってモルダヴィアが身振りする。

「訓子府と同等の家柄と言うのは迎洋園、加えて大地離と言う家でいいんだよな?」

「ああ。厳密には昔馴染みって方がしっくりきそうだがな。各上の家柄も存在するし、今となっちゃ同列の家が数個ないわけでもねぇし」

「そうなのか? まぁ、そこはいいんだ。俺が訊いておきたいのは、迎洋園と大地離の子息子女も学院に通っているのか……と言う話なんだが、どうなんだ?」

「ああ、それな。通ってるぜ、事前に言っておくけどな。えーっと、確か……迎洋園の子女の方はミカアカの二年で、大地離の方は長男がセイゼンの二年、長女の方がミカアカの一年生として今年入学するわけだから」

「あたしと一緒だなっ」

「そうなるな」

 嬉しそうにはしゃぐうるきに対して軽く微笑を浮かべてモルダヴィアはそう返す。

 対して恭介はなるほどといった面持ちで頷いた。

 ……なるほど。つまり御三家の子息子女の分配はミカアカとセイゼンの二通りみたいな事になっているわけなのか……。とすると、そんなに遭遇率は高くはなさそうだな。心配なのは御三家って言うくらいだから若干、敵対関係とか無いかと勘繰った部分もあるが事前に跡永賀に訊いていた辺りそれも心配は無さそうだし……。

 そう考えると恭介が心配するべき事は今はあまり無さそうだ。

 さして心配するところとしては主であるうるきに友人が出来るかどうかだが、そこのこの少女の事だ。天然で上手くやることだろうから不思議と心配の感情はない。

「それじゃああと一つ訊きたいんだが、御三家に仕える家柄と言う『従三家』に関してはどんな感じなんだ?」

「ああ、従家の連中な。そうだな……確か、迎洋園の従家、土御門は主と同じミカアカの二年生として通ってるな。大地離の従家に当たる不知火は今年、シラヅキに入学する時期のはず。従家じゃない従者に関してもあったとは思うが……」

「そうか。まぁ、『従三家』に関して訊ければ今はいいさ」

「なら、いいが――ああ、そうそうカギ公、お前知ってるか?」

「何がだ?」

「今年のシラヅキの一年に、迎洋園家の新従僕が入学するらしい。着任時期がお前と同じ頃くらいだからもしかすっと気が合うんじゃねぇかなと思ってさ」

「へぇ」

 恭介は少し興味を示した様子で目を軽く見開いた。

 自分と同じ時期に着任したと言うからには――そう言う事なのだろう。ともすれば話が合うかもしれないと恭介は少し楽しみに感じる。

 ……今年入学って事は一年生と言う事だろうが、そこは俺と、ある意味において大差はないだろう。俺だって似たり寄ったりなものなのだから。

「お、きょうすけ少し嬉しそうだな」

「まぁな」

 ……俺はニマニマとした笑みを浮かべるうるきに素っ気なくそう返した。コイツ、俺が友人出来るかどうかでちょっと浮かれているとか思っているな? ……その通りだから否定出来ない辺りが何とも言い辛いが。

 ……にしても。

 やはり、と言うべきか恭介はモルダヴィアの口から従家のもう一つの家柄が出てこない事を理解する。土御門、不知火に続くもう一つの家柄。

 訓子府家の従家とされる『赤滝家』。

 その家柄だけが口にされていない。

 事実、恭介の知る限りでも訓子府家の従者の中に『赤滝』と言う姓の人間は誰一人として存在しなかった。そしてモルダヴィアの口から出てこない辺り、赤滝家の人間は当然ながら学院に通ってはいない様子だ。

 その時、恭介がそんな事を考えている最中、隣に座るうるきが窓の外に視線を熱中させている事に気付いた。何か面白いものでも見つけたのだろうかと推測する恭介だったが、彼女にしては何処か切ない色を灯した瞳、寂しそうな表情に訝しみ恭介は小さな声で語りかけた。

「何を見てるんだ、うる吉?」

「え? ああ……うん。ちょっとな」

 うるきはか細い声で反応を示しただけだった。うさぎるばーとも「うさー」と何処か悲しげな声を零すなばかり。

 恭介はうるきの視線を追ってその光景を目にする。

 その光景は一言で言えば華々しい程に壮観な様だった。高い丘の上へと続く石造りの階段を桜が幾重にも折り重なり桜並木として顕現している。その階段の先には何やら和風造りの家屋と思しきものの屋根がちらりと刹那、見えたが全体像は掴めなかった。

 綺麗な家屋ではあったが、何か意味も無く注視するわけもなく。

 鍵森恭介はうるきの視線の意味が何を意味するのか漠然としか掴めなかった。

 そしてそんな二人をバックミラー越しに一瞥し、複雑な表情を浮かべながらもナタリアはただ淡々と車を学院へ。彼ら二人をこれから先、重要な場所となるであろう場所へ向けて走らせていくのであった。


        3


「んじゃ、ここから先は好きに行きな」

 モルダヴィアはそう簡素に告げて、元来た道を見事なまでに爆走して行ってしまった。余程溜まっていたのかその法定速度ギリギリの速度を注意する事も出来ず、ただただ見送るしか選択肢が無かった事は致し方ない。

 ただ唯一、去り際にモルダアヴィアが、

「ああ、それとフォーマルハウトの奴が挨拶に来るかもしれねぇってだけ伝えておくぜ。じゃな」

 と、告げた所うるきがぴくりと反応を示した事が気にはかかるくらいだ。

 ……ま、そこは今あんなに気にする程でもないか。

ナタリアが置き去りにした場所から少し歩いたところ過去に少しだけちらりと見覚えのある場所へ辿り着いた恭介。入学式と言う事で人がごった返し――と言うのが比喩では無いくらいに所々に人がいる。入学式に向けての一年生、始業式に向けて二年、三年生。加えて保護者と思しき姿があちらこちらに見えている。それとは別に案内の係りの様な人が数十名存在している。

 けれど学院事情に左程詳しくない恭介はと言えば、

「しかし好きに行けと言われてもな……」

「なー、何で行くよきょうすけ?」

 途方に暮れる、と言う事態を実感せざるを得ない恭介である。隣では両腕で胸に抱く形でうさぎるばーとをぬいぐるみの様に抱きかかえるうるきが早く行こうとばかりに急かしていた。

「行くのは構わないが、俺はこの学院そこまで詳しいわけじゃないんだぜ? むしろ、知識を貸してほしいもんだぜ、うる吉に」

「えー。そりゃつまらないぜ、きょうすけ」

「何でだよ」

 恭介の不服そうな声にうるきは無駄にえっへんと胸を張って答えた。

「予め何か知ってたら面白味ねぇからなっ! あたしは予習一切無しでこの学院の高等部に来たに決まってんじゃねぇか!」

「ならせめて中等部の知識を活かしてくれないか?」

 新鮮味を感じたいと言う意思表示は伝わってしまう為、怒るに怒れないのが複雑な恭介である。

 ……右往左往するのもまた醍醐味だが、流石に入学式の日に右往左往は大変な事になるんだぜ、うる吉。

「まー、大丈夫だろ。なんくるないさだ、きょうすけ!」

「なんくるないさになると良いけどな、本当に」

「仕方ねーなー、きょうすけは。まぁ、任せろ。この学院でなら歩けば何か有益なものに衝突するからよ!」

「なんだそのわらしべ長者みたいな理屈は」

「まー、見てな。今からあたしがこの某小さくなった名探偵御用達のスケボーで何かあるか探してきてやっからよ」

 そう言い切るとうるきは何処からともなく取り出した黒を基調としたスタイリッシュな外観をしたスケートボードを取り出す。某発明博士が作ったのかどうかはさておき、確かにそのスケートボードがただのスケボーではない事は恭介は織り込み済みだ。

 だからこそ、

「いや、待て! こんな場所で急に走り出すと危な――」

 風が、吹いた。

「ぎゃっぽろん!」

「あぶそぴぇんっ!?」

「回収早いな、おい!」

 まさに瞬殺。

 訓子府うるきは僅か三秒前後の時間にして見事に男子生徒と思しき少年と衝突を起こしていた。言わんこっちゃない。

「おい、大丈夫か、お前」

 恭介はすぐさま駆け寄り、少年の方へ手を伸ばす。

 後ろで「きょうすけ~……あたしの心配は……?」とぷるぷると震える少女が手を伸ばしているが「お前はただの自業自得だ」と切り捨ててみると「がふっ」とノリのいい反応を示して大地に突っ伏した。そんな少女の頭をうさぎるばーとが右耳で「うさ、うささい」とつっついているのが見える。何処か楽しそうだ。

 そんな中でうるきの犠牲者となった紫紺色の短すぎず長すぎない長さに切り揃えられた頭髪をした男子生徒。その服装を見る限りではシラヅキ。そして年別カラーを見る限りでは一年生だろう。恭介は入学式当日の通学路で事故にあった少年に内心で静かに黙祷を捧げる。

「な、何が起きたんだ……」

「幼女がぶつかっただけだ。傷は浅いぞ」

「マジか……。トースト加えた女の子じゃなく、スケボー走らせた幼女がぶつかってくるとは斬新だな……ぐほっ……」

「怪我は無いか?」

「ああ、不思議と全くないぜ……。むしろ体調がよくなった様にすら感じる始末だ……」

 痛そうな挙動を見せながら反応を示す。ノリのいい性格の様で安心だ。

「そいつは、何よりだ。俺も経験があるからわかるが、この幼女は衝突する際にほぼ百パーセントで血行促進のツボを突くと言う天性の才能があるからな」

「何だその無駄な才能!?」

 少年が驚きに目を見開く。恭介も同意見だ。初めてその事に気付いた時には何だその無害な破天荒さはと呆れもしたものだからだ。「ま、まちやがるんだきょうすけ……! 幼女って言うのだけは訂正するんだ……!」と後方で呻き声が聞こえるが恭介は気にしない。

 ちなみにうるきが乗りこなすスケボーは衝撃緩和素材というもので出来ているらしく、ぶつかってもゴムの様なものらしい。開発者に天晴れと褒め称えたいものだ。

「いつつ……別に痛くねぇけど……って言うか本当子供にぶつかられたくらいな衝撃だったな」

「だろう。見た目も子供、中身も子供だからな」

「おお、なるほど」

 ポンと相槌を打つ少年。

「いや、待てきょうすけ! あたしは中身はれでぃーだ! 見た目はあと二日で追いつくんだからな! 絶対、訂正させてみせるんだからな!」

「急成長を望み過ぎだぞ、お前は」

 後ろで立ち上がった主にさらりと否定を加えつつ。

「それとぶつかった事には謝罪を入れておけ」

「うっ。それはそうだな……」

 うるきは素直な性格なので衝突した自分が悪いと言う自覚はしっかり持っている様子で素直に衝突した少年へ向けてぺこりと頭を下げて「ごめんなさい」と口にする。少年は片手を軽く振って気さくな調子で「いーって、いーって。俺も風でめくれそうな女子のスカートに気を取られて不注意だったしさ」と明るい返答を返す。

「謝る気を失くしたぞ、今!」

「冗談だよ、真に受けるなよ!」

 ……冗談だったらしい。

「ま、いいや。ぶつかられた事に関しちゃ気にしてねーから、いいよ。で、お前は……中等部いや初等部だよな? 何で初等部の生徒が高等部の制服着てんの?」

 ……だがこれは冗談ではなさそうな質問だ。

 案の定、うるきはこめかみにぴくりと青筋を立てて、

「……誰が初等部だって?」

「え、お前だけど……まさか、そのナリで高校生……なのか……?」

「どっからどう見てもこうこうせーだろ!」

「うっそっ!? 全然見えないぜ!?」

「なにをぅ!?」

 ヤカンが沸騰する様に怒りを露わにするうるき。

 そんな様を恭介は可笑しそうにくすりと笑みを零す。

 ……ぶつかったのは不運だったが、これは面白そうな奴にぶつかったもんだな。

 ぶつかられた少年はうるきが高等部なのを信じられない様子でうるきの着用するミカアカの深紅の制服を感心した様子で鑑賞してゆく。貴族令嬢のドレスの様に作られた制服はとても人の眼を奪うものでもあった。

「へー、んじゃ本当にミカアカなのかよ。いいなー、女の園」

「ふふん、あたしの高貴さをこれでもかってくらい出してるだろ!」

「いや、全然。七五三かと思って笑うっきゃねぇんだけど」

「ぬぁんだとぅ!?」

 くつくつと少年が主をからかっている光景が良くわかる。

 そうして少年はすっと恭介の方へ視線を向けると、年別カラーを注視して、

「で、そちらさんは……俺と同じシラヅキで……二年生だったか。先輩さんっしたか」

「まぁ、書類上はな。そうは言ってもあんまり、一年とか二年とか意識しなくていいぜ? 一年生と似たり寄ったりな心境だからな」

「どういう意味なんすか? ……ひょっとして飛び級、とか?」

「いや、そういうわけじゃあない」

 恭介は苦笑を浮かべる。

 飛び級出来ない事もない彼だが、その心境はさして目の前の少年と変わらないだろう。

「ま。ここで逢ったのも何かの縁だろう。よろしくな、新入生」

「んー……よくわからないっすけど、こちらこそよろしくっす」

 恭介はその言葉と共に静かに右手を差し出した。目の前の少年は一瞬驚きに目を開きながらもニヤッとした楽しげな笑みを浮かべてその手を握り返す。

 一期一会。そんな言葉が脳裏を過りつつ、恭介は目の前の少年へ向けて告げた。

「ああ、よろしく。訓子府家の執事を務める、鍵森恭介だ」

 その言葉と共にサァ……っ、と柔らかな風が芽吹いた。木々が静かにざわめき、花弁がふっと光を煌めかせながら空を漂う。

 四月七日。


 その日から、少年少女の学生生活は幕を開けてゆく。














第四章 小悪魔な彼女と森の目覚め。

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