第三章 感情帰せずして
第三章 感情帰せずして
1
迎洋園家、従僕雇用試験。
あの日から一夜明けての三月の最終日。
従僕試験に対して戦闘能力3と言う評価以外はオール1と言う字的には格好よく、現実には物凄く窮地な数字を叩きだし、結果雇用が危ぶまれた少年は、33億と言う借金を抱える為に仕事を無くしたら本格的に絶体絶命に至るであろう、少年の進退は果たして、どうなったのかと言えば……。
「いいかね、弦巻。弱火で慎重にやるのではない。強火で一気に仕上げるのがコツだ」
「わかりました執事長! ……でも、どうして混ぜてたらゆで卵になるんでしょうね?」
「私にもわからないな、そこは。どうして茹でてないのに、ゆで卵が出来たのか本当に不思議でしょうがないかな! 殻を割って、フライパンに出していたと言うのに!」
「ともかく強火でさっと! ですよね!」
「そう、強火でさっとだ。火を止めるタイミングも肝心だからね」
「了解です執事長!」
「うむ、その調子その調子……」
「ぴよぴよ」
『!?』
現在――早朝にて料理修行に励んでいた。
調理しているのは簡単な卵料理であるスクランブル・エッグ。朝のメニューの定番である一品であるのだが、現在ではどういう原理かは不明だが、パン、イースター・エッグ、イクラ、ゆで卵と言う順番に来て、現在はひよこがフライパンの上で踊っている状況であった。
別にイクラやパンをフライパンに予め置いたわけではない。卵をスタートに始めたのは間違いないはずであった。卵以外を使った記憶すら二名にはない。
そんな光景を見ながら、弦巻日向の教育係、親不孝通り批自棄は溜息づく。
「だから、どうしてユミクロは料理で錬金術師じみた事を発揮するのかねぇ……」
彼女は料理場にある椅子の上に足を組んだ状態で座っていた。
「だ、だってひじきさん……。何か気付いたらひよこが!」
「孵化させんなよ、高温で」
「僕だって孵化させたくて料理してるわけじゃないですよ!」
それはそうだろう。
そもそも売られる卵はそうそう孵化はしないはずなんだがな……、と批自棄は不思議に思うものだが。
「ユミクロは器用何だか不器用なんだか、わかりゃしねぇな」
「すいません……」
気まずげに視線を逸らしつつ、謝罪の弁を発する日向。
「しかし、本当に料理技術が無いものだねぇ……。教え甲斐があるものだが、中々驚きを禁じ得ないよ私は」
「鍋料理なら自信あるんですけどね……!」
「はっはっは、確かに君の作る鍋は絶品だったよ! アレは美味かった!」
せめてもの誉れとばかりに反論する日向の肩をぽんぽんと叩きながら穏やかな笑みを浮かべる執事長バーガンディ=バトラー。彼はお世辞で美味いとはそう言わない。弦巻日向は料理全般が壊滅的であったが――鍋料理だけは絶品の領域にあると実際に食して認めている結果が今の発言であった。
「本当、鍋だけは最高なんだよなぁ、ユミクロ」
「昔から鍋ばっか作ってきましたからね!」
踏ん反り返って自信満々に答える日向。
不敵なドヤ顔だが、ここまでうざいと思えないドヤ顔も珍しいよなぁ、と批自棄は思う。
「――鍋に他のスペック注ぎ過ぎたから、こんな低スペックになっちまったんだろうなって思うくらいにな……」
「低スペック!? 低スペックって何ですか、ねぇ、ひじきさん!?」
憤慨する日向を尻目に批自棄は自分間違った事言ってませんよとばかりにせせら笑ってふんぞりかえる。鍋に対して自分のステータスを注ぎ過ぎたから色々アレな結果になってしまったと――凄く失礼な仮説を一つ生み出す彼女であった。
「まぁまぁ。親不孝通りもそう煽るな」
「煽っちゃねーよ、青いだけさユミクロが」
「確かに髪の色青いですもんね、僕」
「相変わらず面白いな、ユミクロは。呆れる程に」
「どういう意味ですか!?」
「落ち着きなさい、弦巻。まぁ、鍋料理に限らず、他の料理もそのうち上手くなるだろう。何事も繰り返しが大切だからね。練習するうちに上手くなるさ」
「でも執事長、僕料理して目的の品が必要な材料で作れた記憶が無いです」
「……きっとどうにか出来る、そう思って励みたまえ……!」
汗だらだらでどうにかそう返すバーガンディ。
彼だって知っている。
彼、日向が如何に調理の錬金術師であるのかを――必要な素材を使ったにもかかわらず、目標の一品とは全く違う料理を生み出してしまう厄介なスキルを。フライパンの上で生卵がいくらになった時点で確定している事実であった。
そして自覚しているからこそ、日向もまた溜息づくのであった。
「……何時に成ったら普通のスクランブル・エッグ出来るのかなぁ」
そうぼやきながら、見つめた視線の先には一皿の料理が置かれていた。
純白の皿の上に彩る黄色の料理――輝く様な煌びやかさをオーラとして発散しているのは日向の目指す品と同じく、スクランブル・エッグであった。けれども、その見た目は一般的なスクランブル・エッグとは大きく異なる。一見しただけではまるでオムレツの様ですらあった。だがしっかりとスクランブル・エッグであると同時にとろりとクリーミーな味わいですらある一品――一口だけ味わったが、ぼーっとする程に味わい深かった。
ふわふわとした触感が口の中で濃厚な卵の香りを広げながら溶けてゆく、あの味わい。
とてもではないが日向には及び付かない味の深さであった。
迎洋園家料理長――佐良志奈菜箸。
迎洋園家専属料理人である菜箸によって作られた一品なのである。
故に、初心者――それも料理下手な素人と言う立ち位置の弦巻日向とは雲泥の差と言い切って差し支えない味の奥深さを生み出していた。そして、そんな味を迎洋園家に提供する菜箸の力量には素直に感服せざるを得ない日向であった。
何時か、こんな料理を作れたらいいな――と憧れを感じる。
だが、同時にこの領域には天才しか至れないであろう事を日向は自然な事の様に受け入れてもいた。何にせよ、そんな夢を抱くには彼が普通のスクランブル・エッグが出来てからの話であった。
「こういう簡単な料理くらいはっ、出来る様にっ、なりたいですねっ、っと」
高温のフライパンの上で箸を使い卵を掻きまわす。
「なに。これくらいなら今日中には基本を抑えるくらいであれば、どうにか――」
「あ。蒸発しました……」
「何がだね!?」
「黄身だけが……」
「どうして黄身だけ!?」
フライパンの上で黄色い光の粒子の様になって霧散していく光景にバーガンディも目を白黒させて困惑する。そんな奇異な光景を図らずも生み出してしまった日向もスクランブル・エッグがただのスクランブル・シロミになってしまった事に落胆する。
これではただの白身の混ぜ物ではないか。
「どうしましょう、執事長、ひじきさん」
困った顔で助けを求める日向。
「いや、私に言われてもな……」
椅子に座ったまま苦笑を浮かべる批自棄。
「ケラケラ――しつじちょー、こりゃあ教育は苦労が溜まりそうだよなー」
「そんな事はないさ、と返したいが確かにそのようだな……」
呆れる様な――けれど優しい微笑を浮かべて困った様に小さく手を広げるバーガンディ。
「うっ。す、すみません」
話題の発端――原因である日向はしょんぼりと頭を下げる。白身がいつのまにか秋刀魚に変わっていたのは最早つっこむ気力も湧かない。フライパンの上で『おぉっと! アチチーだぜぇ! 燃える鉄板の上でオイラの体がヒートしてるぜぇ、HUー!』とばかりにピチピチ跳ねているが上司二人は秋刀魚の季節には遠いしなぁ、と感慨深げな表情を浮かべている。
彼の料理技術は最早錬金術の様だ。
上手くなるといいのだが、と少しばかり眉をひそめた。
「だが、まぁ、次の料理修行の時には今よりも上達している事だろう。何せ、教育係がきっと、確実に、絶対に鍛え上げてくれる事だろうからね」
「ちょいと、執事長。さりげ私の仕事にプレッシャーかけねぇでくれるか?」
「君がプレッシャーを感じるとは意外だな」
「いや、感じないけどな」
プレッシャーをこの程度で感じる批自棄ではない。単純に面倒臭いだけだ。
それでもまぁ面倒見のいいメイドの彼女は確実に日向の面倒を見る事はまず間違いない事なのだが。相変わらず捻くれた返答を返すメイドに対してバーガンディは素直にならないものだ、と内心で困った様に微笑を浮かべた。
「何にせよ、私は総合責任者だが――しばらくは親不孝通り。君が彼の責任者なのだから、しっかりとみてあげるのだよ?」
「ケタケタケタ――言われなくても了解ってんだよ。と言うか、ユミクロの性質見てる限りじゃあ私が監督してねーと危なっかしいのも事実だしな」
「?」
不思議そうな表情を浮かべる日向。
そんな様子に批自棄は小さく嘆息した。
バーガンディも苦笑いを浮かべる。
この少年の、弦巻日向の見ていて面倒見ないと危なっかしくて不安になると言う性質に。
自分でわかっているのかわかっていないのか――どちらでも大差ないと言うのが何とも物悲しいものだが。
「――ま、何にしたって今ユミクロが目指すべきは、志すべきは、YA自身の成長にあるって話だぜ。なんつったって――ユミクロは今、研修期間中なんだからな」
その言葉にピリッと日向が気を引き締めた表情を浮かべた。
その頃、フライパンの上で何故かアジフライになってしまった秋刀魚。どうして秋刀魚からアジに変わってしまったのかがとても不可思議だが、三名の従者はそんな事気にしない。
研修期間――。
それは弦巻日向に定められた彼の新たな目標の一つであったと言えよう。
事の始まりは昨晩に戻る。
それは従僕から愛玩動物に従者順位が格下げされる――と言う、某メイドの謀の結果なのだが――主に唯の悪ふざけの産物であり、悪意に塗れた彼女の容赦のない振る舞いっぷりなのだが――そこはひじきさんと言う事で日向は最早反論する気力も無く諦めた。
尚、結果として日向は現在愛玩動物にはなっていない。
助かった話だ。
日向としては『もっと早くに役職として作っておくのも面白かったですわね』と言うお嬢様の無情な一言に背筋が震えたりしたがお嬢様なりの冗談なのだろう――そう、信じて、盲信を猛進させる事で現実逃避しておく事に決めた様だ。
だが、そうすると日向の所在はどうなってしまうのか――。
その答えを。結論を告げたのは執事長。
バーガンディ=バトラー、その人であった。
「先ず、予め告げておきましょうか――弦巻君。君はここで働きなさい」
拒否は認めない。
何故だか、そんな威圧的な雰囲気すら感じる声でバーガンディは愛玩動物の役職から逃げて一同に宥められた後に、そう告げられた。
「それは、僕としてはとてもありがたいですけど……いいんですか?」
「良いも悪いもないさ。君を此処で働かせる――私の我儘で言っている様なものだ」
何故、我儘になるのだろうか?
日向はバーガンディの言葉が不思議でならなかった。
その言葉は日向だけでは無く、主と他の従者たちも気になった様で不思議そうに問い掛けた。
「我儘――と言うのは少しおかしいのではないかしら、バトラー?」
テティスの発言を肯定する様にうんうんと頷く日向。
「この試験結果がどうであれ、日向を働かせると言うのは確定事項なのですし」
主の言葉に同意する様にうんうんと頷いて――、
「……え?」
今、何と言いましたか? と、ばかりに首を即座にテティスの方へ向けた。
それはもう、首がグキッと嫌な音を立てる程に。
そんな様子をさして気に留めた風も無くテティスは優雅に微笑を浮かべている。
「試験に於ける評価が如何なものであれ、今後の成長を見据える為に、一時的に従者として雇うと言う……言ってしまえば研修期間制度の様なものがありますもの――。仮に日向の評価がどれほどに残酷な穀潰しレベルの結果でも、最後の救済措置がありますもの」
「そうだったんですか!?」
そんな事を言ったら自分の苦労は何だったのだ――と少しだけ思わなくも無い日向である。
バーガンディへ向けて淡々と迎洋園家の内情の一つを――今だからこそ明かしているわけだが――さらっと語るテティス。同時に日向は穀潰しと言い切られた事に対してどよんと沈んだ表情を浮かべている。何が悲しいと言えば反論材料が何も無いのが何より切なかった。
だが、雇用がまだ終わっていない――その事実は日向の心を救うに等しい発言だ。
どういう事なのか落ち込みかけたメンタルを復活させ、会話に集中する。
「その通りだよ、弦巻君。我が迎洋園家では従者を雇う際には研修期間を設けているのだ」
「へぇ……。一般企業みたいですね」
研修期間がある方が自然と言うか普通なのだが、ここはお金持ちの家の従者と言う職種だ。
通常の仕事とは違い、礼節が求められる職業である。
特に個人のスキルが高い事に越したことはない。
そう言った意味でも、日向は試験に落ちたらダメなのだと思い込んでいた。
「試験内容に『主への礼儀』と言う項目があっただろう?」
「はい、確かに……」
上杉龍之介。アキリーズ。親不孝通り批自棄、と言った三名にはその項目がついていたが、日向はそれを受けていない事を思いだす。
「アレは端的に言って――主への普段の振る舞いだからね。一度だけの試験で評価を下せる内容ではないのだよ。故に、研修期間を設ける事で弦巻君の従者としての資質を見定める――そう言う意図があるのだよ」
「なるほど……」
確かに主への従者の礼儀など一度きりの試験ではとても見定めるものではない。人に仕えると言う職業が一度きりの目利きでわかるとは到底思えないものだ。
だが、それを考えると不安な側面もあった。
「けど、それだと……大丈夫なんですか?」
「何がだね?」
「いえ……その手法だと迎洋園家に不埒な考えを抱いて従者として潜り込んできたり――とかありそうな気がして……」
「へぇ。ユミクロにしちゃあいい着眼点だ。二点やるよ」
「少なっ!? それ以前に何の点数!? そしてやっぱり何かあったんですか!?」
「ひじきさんポイントだ、とっておきな。ちなみに一億点満点な? おお、ユミクロの不安的中――って、奴が昔何度か、な」
「シリアスな表情浮かべてますけど、前半で台無しになってますからね! ひじきさんポイントって貯めると何があるんですか!? そして満点まで遠すぎますよ!?」
「貯めりゃあいーい事があるぜ? 頑張りな」
ケラケラ、と楽しげな笑顔を浮かべる批自棄。
だが、ふっと表情を引き締めて彼女は呟いた。
「――ま、昔あったんだよな。洋園嬢の期待を裏切るっつー奴がよ」
いったい、どんな事があったのだろうか?
だが無暗に訊いてはいけない気がして日向は口を紡ぐ。
同時にテティスの顔を見ない様に日向は務める。もしかしたら、悲しげな表情を浮かべているかもしれない。だが、自分にはどう声をかければいいのかわからないから――日向は口を紡ぐことを選んだ。
批自棄はそんな空気を払う形で、
「何にせよ昔の話だ――ユミクロは気にしないでいいぜ」
「……はい」
けど、と呟いて、
「それで大丈夫なんですか? 何かあったら大変だと思うんですけど――」
と、問い掛ける。
何分、前例があるのだ。対策程度は立てていると思うが……。
その問いに批自棄は不敵に笑って返した。
「や、そこは平気平気。不埒な事をしようとしても――二秒後にゃあ私や執事長って面々がとっても迅速ですごーい罰を与えてボロ雑――対応するからな」
それはとても心強い。
後半に聞こえた単語に内心汗だらだらだが、批自棄の実力を知っている日向としては納得する他に無かった。生憎と執事長バーガンディの実力は見ていないが、迎洋園家の執事長ともなれば相当に凄そうだと言う事で納得する。
「まぁ、とりあえず僕はもう少し雇用期間があるって事で理解しましたけど……」
「何か質問があるのかね?」
そう問い掛けるバーガンディに対して日向は逆に問い返した。
それは先ほどのテティスが抱いた疑問と同じ。
話を訊いて理解したから故の疑問であった。
「さっきの主様と同じ質問ですけどね――何で僕の雇用が続く事が執事長さんの我儘なんて発言に繋がるのかわからないんですけど……」
日向は不思議に思った。
自分の雇用は迎洋園家のシステムの一環でしかなく、バーガンディがわざわざ着手する様な事ではないからだ。雇用は普通に継続するにも関わらず、どうしてバーガンディが『我儘』なんていう発言を出したのか――日向はそれが不可思議でならない。
その答えをバーガンディは実に――、
「ああ、それかね」
実に、
「それはな、弦巻」
その瞬間、日向はふと違和感を感じた。
……あれ、君付けが無くなってる?
そう、思ったのと同時に日向の両肩にゴツゴツとした老齢の執事の手が置かれる。
苦労を知ってきた男の手。若者には辿り着くまでどれほどの経験がいるのかもわからない程の穏やかな優しさも内包し――同時に厳しさも併せ持つ手がぐっと力を込める。
そうしてバーガンディは――まくしたてる様にその本音を吐露した。
「――君の様な若者を外に一人で出すのが私には不安で耐え難い――と、言うよりも見てて危なっかしくてならんのだ! せめて基本的なスキルは身に着けてからでなくては屋敷の外に出すのは大人としての矜持が許さん!」
「……へ?」
対してきょとんとする日向。
バーガンディの日向の雇用理由は実に簡単な話だ。
そう――心配でならなかった。
この世間で通用しないんじゃないか、と言う不運な少年をこのまま雇用もせず、外に突き放すのは彼の面倒見の良さ、子供好きな側面、そして大人としての思考がとてもではないが弦巻日向をこのまま屋敷の外に投げ出すと言う選択肢を生まなかった程に。
こうして弦巻日向の雇用情勢は何だかんだ言いながらも――、
「そ、そんな事ないです執事長! 僕は確かにダメダメですけど、世間に出ても恥ずかしくない程度の知識は有しているわけですから! 先の発言の撤回を求めます!」
「いや、無理じゃねユミクロ? 所々致命的だし」
「だろう、親不孝通り? ここまでのダメっぷりを見せられては最早、屋敷の外へ追い出すなんて選択肢は消えうせたと言って過言ではない――むしろしっかり教育しなくてはならないと言う気持ちばかりだ」
「良かったな、ユミクロ。執事長が鍛えてくれるってよ」
「何か個人的に釈然としない理由で雇用が決まってくんですがっ!」
「いいじゃねーか、今就職氷河期だぜ? 素直に喜んでおけって」
「喜び辛いですよ!?」
「ああ、そうそう。弦巻、今後は私の事は『執事長』と呼んでくれて構わない。私の方も、しっかり君を部下として『弦巻』と呼ばせてもらうからね」
「あ、ああ、はい。そこはそうですよね――」
「――そして君は何としてでも! 総合評価を平均4の従僕になってもらうぞ!!」
「何か目が凄く怖いですぅーっ!?」
そうして日向の不服はどこ吹く風として過ぎ去り。
弦巻日向は雇用問題をどうにか繋ぎ止める事に成功したのであった。
そして現在。
一夜明けてからの明朝。弦巻日向はバーガンディ=バトラー執事長付添いの元に、朝食の品を作る練習を行っていた。主である迎洋園テティスの食事はすでに料理長である佐良志奈菜箸が済ませている為に問題無く、心置きなく厨房を使用しているわけだ。
昨日の会話内容のままに、日向は従者としての――それ以前の段階でこそあるが教育を受けている最中である。執事長と専属教育係の二人に見守られながらの四苦八苦の料理修行を行っていた。……残念ながら結果は見ての通り、散々。スクランブル・エッグ一つすらマトモに作れていないと言うのが現状だ。正確には作っているものが別の形で成功したりしてしまう――と、言うのが実態に近い。
それでもめげずに挑戦をする辺りは二人は好意的に捉えているが。
……それでも道のりは険しそうだわなぁ……。
嘆息する批自棄。
良い子ではあるのだが結果が伴わない――そんな典型的なタイプの片鱗があるのが日向だ。
果たして本当に従者として成長していけるかどうか。
……ま。それでも手間がかからない奴よかは面白味があるか。
成長を楽しみに見届けてやるか――、そう考えながら批自棄は思考を切り替えた。
「なあ、ユミクロ」
「なんですかー、ひじきさん?」
フライパンの上でチャーハンを華麗に炒めながら日向は料理に意識を集中させながら返答する。先程まで確かにスクランブル・エッグの練習をしていたのに何故炒り卵を用いたチャーハンを作っているのかとか、米はそもそもどうしたのか、とか問い詰めたい気持ちはあったが、隣で死んだ魚の様な目をしている執事長の存在感の薄い姿を見る限り訊かない方が良さそうなので、そのまま会話を続ける事に決めた。
「いやな、一つ訊きてーんだけど」
「はい、なんでも構わないですよー」
ポップコーンをフライパンの上で躍らせながら日向が答える。
だからチャーハンどこいったよとかまさか米がポップコーンになったとか言わないよな、とか頭の片隅で考えつつも訊くのも面倒くさいので批自棄はおもむろに切り出した。
「YA、高校どうすんだ?」
「え。……高校、ですか?」
きょとんとした表情を浮かべる日向。
フライパンの上で香ばしい匂いを放つ焼きトウモロコシが美味しそうだ。ポップコーンどうしたとかツッコミ入れる気もしないくらい美味しそうだ。
色々釈然としない気持ちのまま批自棄は「ああ」と呟いた。
「もう明日から四月だからな。ユミクロも来年から高一の年齢だろーが。高校に関してはどうする気なのかなーって思ってよ」
「はぁ……」
何やら不可思議そうな表情を浮かべる。
「? 何だ、その反応?」
批自棄が眉を潜めた。
「いえ、その……。ちょっと面食らったと言いますか」
「何でだよ?」
「いや、批自棄さんなら僕の来年通う高校くらい調べついてるかなーとか思っていたものですから……」
日向が不思議に感じたのはそこだ。
迎洋園家に現在、日向は従者として通っているわけだが、大まかな情報はどうやら土御門睡蓮が調べ上げているらしく、迎洋園テティスにも伝達しているとの事だ。それは別に問題無いだろう。流石に身元不明なものを従者に加えるのは危険過ぎるのだから。
ただ、その調べた情報の中には日向の小学校時代、中学校時代の情報も当然ある。
だからこそ、日向は不思議に思った。
そこまで調べてあるのであれば自然、高校の情報も捉えているものだと思っていたからだ。
けれど、それが不明――の様な言葉を発した為に面食らったのである。
何故だろうか? と、日向は不思議に思いながら肝心の質問に対して返答した。
「まぁ、いいですけどね。僕は高校は『水の綾高校』に進学する事にしているんですけど」
水の綾公立高校――。
この辺りではそこそこ名の知れた高校だ。
それこそ苦手な勉強面に於いてでも相応の苦労をして掴み取った進学先である。故に日向は恥ずかしがる事無く、そう告げられる事を誇りにさえ感じている。数少ない彼の達成した証なのだから当然だ。
僕もそこそこやるでしょう、とばかりにドヤ顔で批自棄の方へ振り向く日向。
「――そこ進学出来てねーみてーだけど、ユミクロ」
とても。
それはもう――とっても真顔で批自棄はそう返すしか無かった。それこそ脊髄反射のレベルで批自棄は思わず返してしまったほどであるから恐ろしい。
対する日向は一瞬ポカンとしていたが、数秒の後にハッと意識を取り戻すと苦笑いを浮かべて困った様に呟いた。
「いやですね、ひじきさん。冗談キツイですよ? 僕、ちゃんと合格しましたもん」
確かに合格通知は届いていたのだ。
ならば問題無いはずなのに批自棄は何を言っているのだろう、とばかりに日向は何故だか噴き出る嫌な汗を無視しながらどうにか反応を示す。
その反応に批自棄は何とも複雑な表情を浮かべ、どこかやるせない様な様子を見せながらもどうにか言葉を発した。
「……悪ィ、ユミクロ。私が言ってることは本当だ。ガチで言ってて、冗談なんかこれっぽっちも吐いちゃいねぇ。すまん、真面目に冗談じゃないぜ」
何時になく真剣みを帯びた声。
普段の嘲りも余裕もふざけた気配もどこにもない。微塵もない。絶望的な程にない。
「ユミクロ――YAは春に、水の綾に進学は出来ねー……。進学先がねぇんだよ、文字通り。ギャグでも冗談でもなく大真面目にな。だからこそ――私は訊いたんだ。『進学先はどうするのか』ってな」
「――ッ!」
頭を鈍器で殴られたかの様なショックが体を駆け巡った。
進学先がない。
そんな馬鹿な。その言葉が日向の脳内を余すところなく空白尽く満たしきる。満たしきって行ってしまう。何でそんな事に、と言う疑問がわき起こってくる。
日向のそんな様子を見ながら批自棄は少し予想外の――最悪な形の想定外に心を痛めた。
批自棄がこの話題を切り出した理由は、昨晩――深夜に主と同僚との会話が起因だ。
――日向君は高校をどうする気なのでしょうか?
土御門睡蓮は日向の調査書類を見ながら眉をひそめそう呟いた。
……本来なら従者の慣例に従って、問題は無いわけだったが――ユミクロの奴は途中から加わった従者の上に訓練も積んでねぇ。その上、時期も時期だから、進学先はすでに決まっているだろうから、そちらを尊重して――って話だったんだが。
これは厄介な流れになったかもしれねぇな、と批自棄は頭を抱えた。
睡蓮の調査で日向が『水の綾公立高校』に進学するべく、試験を受けていたのはわかった。
それならばそれでいい。
そう考えていたのだが――、
「ユミクロ……YAさ」
何ですか、と困惑で一杯の日向は視線でそう返すしか無かった。
言葉を吐くのも辛そうだ。
それはそうだろう。目標としていた学校が今、急にふっと消えてしまったのだから。日向の事であろうし、それはもう相当な苦労を持って掴み取った進学先なのだろう。それがわかるからこそ、理解を示すからこそ親不孝通り批自棄は言葉を濁すべきかに刹那悩む――が、それが意味のない配慮である事は自明の理であった。故に彼が今どんな精神状態にいようが。
それでも言わなくてはならないだろう。
無慈悲なその一言を。
「ユミクロさ――入学手続きし忘れただろ?」
「……」
見ていられなかった。
批自棄の心情はその一言に尽きる。
始め何を言われたのかまるでわからないと言った様子が数秒経過後にハッとした様子を見せたかと思えばポロポロと切ない涙を流し始め現在放心にまで至る少年の姿など――とても見ていられるものではない。
それもあの様子では水の綾に合格した事を日向は誇っている様子だった。
それはつまり希望して選んだ進路なのだ。
それが落ちて負けた――ではなく、入学手続きし忘れて不戦敗――みたいな結果になったのだから少年の胸中は推し量れない程の未練に溢れている事だろう。
「ここからは私の予測だが――」
ぴっと人差し指を立てて批自棄は気まずげに言葉を紡いだ。
「ユミクロは約三か月前に戦地へ向かったんだよな」
「……ええ」
「でもって、水の綾の試験結果発表も大体、その辺りの時期だと記憶している」
「……でした」
「つまり――ユミクロは親父さんに戦地へ向かわされ、そして戦地での怒涛の三か月間の間に入学手続きの開始と終了が経過してしまった――と言うのが私の仮説だが……どうだ?」
大当たりですよぅ……、と言う掠れた声を発したと同時に日向が崩れ落ちた。
やはりか――と、批自棄が額に手を当てて天を仰ぐ。日向は真逆の様に四つん這いで地面を食い入る様に見つめて涙を落とす。声を抑えているのだろう、ひきつる様な声が断続的に聞こえてくるのが実に切ない。
「今、調べてみましたが……時期切れですな。流石に、これは」
執事長が唸る。会話に参加しないと思っていたら手元の携帯端末で情報を調べていた様だ。
「何とも……残念だね。水の綾は中々いい学校だけに……」
「そうなんすよねぇ……。まぁ、私としては日向が水の綾を進学先にしてたって事にすこーし驚いたけどさ……こうなっちまうとなぁ」
状況が状況だけにここから先を話すべきなのか何とも言い難い。
結果を鑑みれば、日向に対しての批自棄の考える提案は最後の希望――となるかもしれないが自分からその進学先を諦めたではなく、何とも凡庸なミス一つで――ある意味人生にとって時折起こり得る現実故に何とも言い難いが、批自棄は決断する。
「ユミクロ」
自分へ付けられた変わった綽名。
それを優しげに呼ばれて涙交じりながらも日向は静かに顔を上げる。
「これから私が話す事がお前の希望に叶うかなんざは知らん。流石にそこまで責任は持てんし今回の事は半分はお前の予期せぬ不手際だ。誰も責めようのない自己責任だからな。精々、親父さん恨んでおけ」
いつも通りの批自棄の声。言葉。
面倒くさそうながらも何処か温かみのある言葉だ。
「YAに一つだけ――迎洋園側から選択肢を与えようじゃねーか」
「選択肢……ですか?」
若干ぐずり気味な声で不思議そうな表情を浮かべる日向。
「ああ。――その選択肢だが……、今のお前が選ぶことが可能な唯一の進学先だ」
「え……?」
ここで日向が不思議そうにしたのも無理はない。
何せ本日は三月の最終日。
明日は四月だ。
こんな時期に何処の高校が今なお、生徒を受け付けると言うのだろうか?
「そんな場所があるんですか……?」
「あるさ。お前も知っている超有名高校だぜ?」
ニッと頼もしい笑みを浮かべて親不孝通り批自棄は告げる。
日向に残された最後の選択肢を。
「――芳城ヶ彩共同高等学院」
思わず、と言った様子で日向は目を見開く。
日向も知っている、と言う批自棄の発言は正しい。芳城ヶ彩共同学院を知らない者等いないだろう――と言うレベルで彼の高校は有名なのだ。東大、京大と同じレベルで知名度は群を抜いている高校なのだから当然だ。
学力水準の高さ――だけではなく、その巨大さからも。
建物自体が大きい――と、言う以前にあそこの広大さに於いても知らぬ者はいない。
「それが最後の可能性って奴だな」
「え、けど……!」
それはおかしい、と思った日向は反論する。
「あの芳城だって期間は過ぎていると思いますよ!? 僕もそりゃあ神奈川に生まれたわけですから、存在も知ってますし受けようと思った事もあったので入学案内見た記憶あるわけですから!」
だからこそ知っている。
確か記憶によれば期間は過ぎているはずだ。何もかも。
尚、日向が入学を試験前に止めた理由は、他の高校と比べて割高な授業料に入学費と言うのがあった為に水の綾に変えたと言うのが理由である。
さて、そんな日向の真っ当な反論に対して甘いな、とばかりに批自棄は告げる。
「甘々だぜ、ユミクロ。あのぶっっ飛んでふざけ過ぎたノリの塊みてーな巨大高校を舐めてんじゃねーよ」
「と、言いますと……?」
「ユミクロも知識程度は得てると思うが、あそこの理事長は七名の超金持ちによる私立だ。その上、生徒も比較的金持ちが多いときてやがる――そんな高校であるが故に、あの高校には入学システムに一つだけ特例があんのさ」
「特例?」
首を傾げる日向に批自棄は不敵に宣言する。
「不定期従者入学制度――言ってしまえば金持ちに対する特例であり特権だな」
「何ですか、それ?」
訊いた事も無い制度だ。
「この制度はよ。名家が従者を学院に入学させる為に準備してある制度なんだよ。名家の子供の気まぐれで従者に招かれたりとかそういう事例が過去に何件かあってな。それ以来、学校側がそう言ったケースに対応できる様に依頼されればすぐに準備を整えて、新しい従者に試験を受けさせて合否を決定するっつーシステムがあるんだよ。まー、そもそもは少し別の理由で作られたものでもあるんだがな」
「……つまり、それを使って合格すれば……?」
「水の綾には残念ながら入学出来ねーが――芳城ヶ彩が迎え入れてくれるはずだぜ」
ぽんっと日向の胸元を小さく握った拳で鼓舞する様に批自棄は叩き、微笑を浮かべそう告げる。そして日向はその言葉に活路を見出した気持ちであった。
水の綾に対する道筋は寸断されてしまったが――、芳城ヶ彩の可能性が生き残っている。
そうすれば自分は高校へ進学出来るのではないか――。
「……あっ、でも良く考えたら進学費用……」
しかし、唐突に思い浮かんだ事実に気持ちが萎む。
現在は借金まみれであり、良く考えれば進学費用すら返済に回すのが正しい事態だ。そもそも、芳城ヶ彩に進学出来る程のお金を日向は持っていない。
「そこは安心しな。学費は迎洋園が負担する」
だが、その不安を批自棄は淡々とした言葉で払拭する。
「え、でも……」
迷惑過ぎやしないか、と日向は思ったが、
「そこは気にする必要はないぞ、弦巻よ」
と、バーガンディが言葉を遮って日向の不安を一蹴する。
「学生の従者に対しての学費負担は迎洋園ではよくよくやってきた事だからね。君が気負う事は何もない。むしろ、学業に励んでくれたまえ、と言いたいくらいだ」
「執事長……!」
差し延ばされた手を思わず取ってキラキラとした感動の瞳を浮かべる日向。
その少年の肩をぽんぽんと叩いて鼓舞するバーガンディ。
しかし――その内心では経費がダメなら自費ででも通わせたい一心である。
何故ならば芳城ヶ彩はその特性から従者に対する教育の一環も担っている。それ以前に学校としての教育システムの日向にとって望むべきものだ。故にバーガンディとしては是非にでもポケットマネーになってでも通わせたい一心であった。
実に面倒見のいい上司である。
「それにな、ユミクロ。これほとんど慣例なんだよ」
「……慣例?」
どういう事だろうかと首を傾げる日向に批自棄は腕組みしつつ答える。
「何か特別な事情でもねー限りは従者は主の傍にいた方がいい。だからよっぽどの事情がねー限りは洋園嬢の通う芳城ヶ彩に従者も通わせるってのが普通なのさ、迎洋園のな」
「ああ、そうなんですか……! ……と言うか、主様、芳城ヶ彩だったんですね?」
確認の言葉を吐く日向。
トルコで大地離疆がそう言った発言をしていたのをふと思い出して、そう言えばそんな事を言ってましたっけ、と一人納得する様に内心でうんうん頷いた。
「ああ、今年から二年生。だから、ユミクロが入学すりゃあ先輩になるな」
「へぇ……」
内心では主の年齢を知らなかった日向は冷や汗である。
「まぁ、だからユミクロはそんな迷惑とか心配する必要はねーよ。水の綾から転校させる案だって一応浮上してたくれーだしな。嫌なら断っても良かったが……こういう事態だからな」
「……はい」
「あー、ただ、その、なんだ……。弱み漬け込む様な感じで若干わりーかな、とか思ったけどよ」
少し気まずそうに頬を掻く批自棄にふるふると首を振って日向は答えた。
「……そんなわけないですよ。水の綾の事はほんとショックでしたけど……進学先が無い可能性を考えれば……むしろ、ありがたいです。一縷の望みが出てきた様なものですもん」
「……そう言ってくれりゃあありがてーけどよ」
微笑を浮かべながら批自棄は肩をすくめる。
本当に何だかんだでありがたい上司だ――と、感じ入りながら日向は問い掛けた。
「それで、そうなると質問なんですけど」
「何だ?」
「試験って何時頃になっちゃうんでしょうか?」
そこが日向の不安の種であった。
生憎と日向はお世辞にも勉強ができる方ではない。むしろ努力一筋でどうにかこうにか切り抜けてきた様なものであった。勉学面ではそれはもう必死に勤しんだのだから。だが、最近まで戦場にいた日向。
故に勉強をし直さないといけない部分も多々にある事だろうと自覚する。
その為には果たしてどれ程の猶予が自分に残されているのかを確認しなくては――、
「明日だぜ」
「……」
「明日な」
「……」
日向はしばしオーギュスト=ロダンの代表作『考える人』のポーズを取った後にバッと頭を上げて叫んだ!
「――明日ぁっ!?」
……早くないですか!?
飛び出た大声に鬱陶しそうにジト目をする批自棄。
「声、でかいぜ?」
「でかくもなりますよ! え、明日? 明日? 明日なの? イェスタディ?」
「んな、リアリー? みてーな発音で問われてもな……明日だぜ?」
「何でですか!? 速すぎますよ!?」
「速いに越した事はねーかなって」
「越し過ぎてません!?」
往生際の悪い日向の様子にやれやれと頭を振って批自棄は答える。
「あのな、ユミクロ。少し考えりゃ納得すると思うぞ? 今日は三月最終日だぜ? ともすると、如何に芳城ヶ彩でも今の時期、そりゃあもうフルスロットルで新学期の準備してるんだよ。――まぁ、あそこ有能なサポーターも多いし大丈夫だとは思うが――それでも時期を考えれば明日が限界だろう。さもなきゃ、中途半端な時期の転入みてーな形になるぜ?」
「うっ。それは……嫌ですね……」
「だろ? 多分、友達もつくりづれーと思うしよ」
「そうだ友達も……! 高校のクラスメイト皆、僕とは高校違うし……!」
「ああ、そうだったのか……。…………。……つーか、ユミクロ友達いんのか? 正直、日本帰国してからお前が友人のとこへ向かうの見た記憶一度もねーんだけど……」
「い、いますよ、ちゃんと!」
「へぇ、どんな?」
「え、えっと……一応、話しかけてきてくれる仲良しグループの人達が……」
「それってYAとは別グループなんじゃねぇよな?」
仲良しグループに加わっているのと、仲良しグループに話しかけられている、では話はかなり違ってくる。
「だ、だってあそこは完成してるんですもん! 入る余地無いんですもん!」
若干涙目で手をワタワタしつつ弁明する日向。
その姿に批自棄は彼に友達がいないのだと無慈悲な決定を下す。
批自棄の推察眼がまた新たに日向の切ないスペックを暴いた瞬間である。
そんな批自棄の視線の意味に気付いたのか日向は更に弁明した。
「で、でもですね? 校外では友達一人いるんですよ? 結構、神出鬼没な面が強いから逢えたり会えなかったりで今、何処にいるのかまったく分からないですけど、明るくて強気な印象のある金髪の男の子ででしてね――」
「あーへいへい、わかったよ。いいエア友達だな」
「信じて!? エア友達じゃないんですってば、そんな残念な子じゃないんです、ひじきさん、僕は――」
「まぁいいや。それよかユミクロ、金出すから今から携帯買ってきな」
「唐突に何故!?」
差し出された右手に握られている十万を見て日向は唐突な指令に驚きを示してしまう。
そんな日向に対して手を前に数度押し出す様に、催促する形で批自棄は答えた。
「いや、私は芳城ヶ彩に今から連絡入れるからよ。早い方がいいからな。なんで、お前は今から携帯購入してきな。この付近ならコマダ電機がいいか――場所わかるよな? 昨日のルートで通ってるはずだしよ」
「え、はい。確かに通りましたけど……」
「んじゃあ問題ねーな。ま、今後の事を考えると洋園嬢もそーだし、私からも連絡入れる時があると思うんでな。YAも携帯もっといた方が無難だ。金は迎洋園家が出費するから買ってくるといーぜ」
「は、はい。ありがとうございます……!」
突然過ぎる申し出でこそあったが、日向は嬉しそうに頷いた。
弦巻日向は携帯電話を持った事が無い。
理由――当然ながら余計な出費だからだ、彼にとって。
当然それで交友関係に支障が生じなかったと言ってしまえば嘘になるが、それでも数万規模の出費は日向にはかなり痛いと言っていいだろう。
その為、初の携帯端末購入に日向はほわぁっとした笑みを浮かべる。
「それじゃ私の方も手続き取っておくから買ってきな。……最高の買うんだぞ? 貧乏だったからとか他人の金だからとかで古い機種買うんじゃねーぞ? 最新機種買ってきやがれ、これは上司命令だ――って事で、じゃあな」
日向の襟元を掴み、すごみながら、まくしたてる形で批自棄はそう告げると、言いたいことを言い終わった様ですぐさま扉の方へ歩いて行く。
「それとエア友ばっかじゃなく、しっかりリア友出来る様に携帯も活用して努力すんだぜ?」
と、置き台詞を残して……。
パタン、と閉じられる扉の音と「ふむ。では、行ってくるといい」と言う穏やかな言葉を告げたと同時にふっと姿をかき消すバーガンディを見送った後に、ぷるぷると震える日向はやがて大声で絶叫した。
「僕、ぼっちじゃないですってばぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
その際、扉の前を丁度、通過していた我那覇蹂凛は悲しい絶叫に「ぼっちでありましたかー」と言う手酷い感想を抱いたのであった。
2
家電量販店コマダ電機。
デフォルメされた犬とCを思わせるイヌの鼻のロゴマークが有名な黄色を基調とした建造物が目につく有名な家電量販店だ。
この名前は確実に家電の店として代名詞になる程の店名であろう。
全国に店舗を構える日本最大の家電大手。総資産は二兆円を超える程の大手である。そして店内には様々な家電、電化製品がズラリと立ち並んでいた。テレビ、エアコン、パソコン等々錚々たる顔ぶれだ。フロアは五階。その上は立体駐車場となっている。中では数多くの店員が客からの質問に受け答えし、製品のアピールを行い客寄せを任される――そんな賑わいに溢れる光景が広がる中。
彼、弦巻日向はと言えば――、
「……」
唖然!
ショーケースに立ち並ぶ各種携帯の姿を見てただただ唖然としているばかりであった!
……え、これどれがいいの……?
日向の史実上――彼はクラスメイトの携帯端末こそ見た記憶はあれど、実際には携帯など縁遠いと思い見に来た記憶は無かった。見たら欲しくなってしまう気がしたから必死に視線を逸らし続けた結果――彼は携帯の事がちんぷんかんぷんな少年になっていた。
であるからして彼の知識に携帯の知識はほぼ皆無。
それどころかどれが通話できる携帯なのかな、と意味不明な疑問を浮かべている程である!
そんなこんなでいつでも迷子として連行されてもおかしくない辺りをふらふら歩く少年を見かねたのか――なにせすでに一時間が経過している――一人の店員が汗を一筋垂らしつつ、声をかけてきた。
「あ、あの……お客様?」
「へ!? あ、は、はい、なんでしょう!? 万引きはしておりませぬよ!?」
「え、ええ。万引きをしていないのはよく存じ上げておりますから……」
何せ先程から店員数名ちらちらと様子を窺っていたのだから当然だ。
年齢はおそらく二〇代と思しき女性。長い黒髪をポニーテールにした黒目の美人である。人の良さそうなお姉さんに声掛けられた事で日向はほっと落ち着く――、
……おじさん店員カムッ!
わけがなかった!
むしろ、綺麗な女性店員に話しかけられた事で日向の内面は大慌てである。これならば人の良さそうなおじさん店員に話しかけられた方が落ち着いて対話出来る様なものを――女性に対してと言うよりも年上女性に免疫が無かった日向は中々に慌てていたと言える。
……困ったよ、困りましたよ! 主様や睡蓮さんとはそんな年齢離れてないし、この前の茶髪の綺麗な女の子は何か話してみたかった部分あったからとして、ガーデンベルトさんに関しては最早テンションの問題で気にかからなかったとして――年上の女性って言うとあの人くらいだからなあ、絡んだ記憶あるの……!
日向が内面で慌てふためく。
記憶の中に存在する日向の出会った女性陣。
そして自分にとって重要な相手達を次々に思い浮かべて慌てつつも、日向はどうにか心を落ち着けてゆく。
「で、では何用でしょうか! どうして僕に!?」
「あ、ああ、はい。何かお探しなのかな、と思いまして……」
営業スマイルを張り付けながら目をくるくる回す少年に女性店員な何とも言えず苦笑している事は言うまでもない。
「あ、ああー、なるほど……!」
対する日向は目的が判明した事で些かの安心感を抱いて落ち着きを見せる。
「はい。それで、どちらをお求めでしょうか、お客様?」
店員もその様子を感じ取った様で落ち着いた対応を始めた。
「えと、ですね……」
ここで考えたのは『どう言えばいいのか』と言う事だった。
携帯端末に対して無知な日向は何を言えばいいのかまるでわからない。
「通話出来るのはどれでしょうか?」
「は?」
お姉さんがきょとんとした。
瞬時に日向のこれまでの経験が拙い事を言ったと理解する。
「えーっと……こちらにあるのは全て通話可能ですが……」
「で、ですよね! ちょっとした冗談ですよ、えへへー!」
「あ、ああ、そうでしたかー!」
「……」
「……」
とてもではないが言い繕えていない空気に気まずげに視線を逸らす二人。
このままでは拙い。主に印象が。
そう考えた日向は最終手段とも言うべき発言を発した。
「それじゃあ、その――一番いい奴ください!」
「……」
助成店員は見事に理解を示した。
(ああ、この子、携帯の事よくわかってないのね、やっぱり……)
日向が知ったらやはり涙ぐんであろう事は言うまでもない。
それから一時間弱が経過した。
コマダ電機の二階フロアを歩く少年の体は疲れた様子を見せるが、その表情にはどこか嬉しそうなものが感じられた。頬が緩み気味であったのだからまず間違いない。
「手間はかかりましたけど……買えました……!」
手提げ袋の中身を一瞥し嬉しそうに破顔する。
機種の説明と通話の方法、ネット環境等々携帯端末に必要な事を女性店員に散々説明されてそれはもう頭がパンクしそうになった日向であったが説明書も貰い、基礎的な部分はどうにかなったと実感する。
手間は本当にかかったものだ。
途中、女性店員と話していたところで見知らぬ老人が現れて『ハッハハ、坊主、そんなのよりもワシおすすめのコッチがいいと思うがの!』とスケボーに乗りながら何か携帯端末の様なもの宣伝し始めたと思ったら、後方から『またおぬしかご老人! 店内で何やってるのじゃあ!』と何故か爺口調の男性店員が駆け付けて鬼ごっこを繰り広げていた関係でツッコミに関しても手間がかかったのは実に記憶に残るものだ。
それでも『ああ、いつもの事ですのでお気になさらず』と、言う女性店員はサクサクと話を進めてくれた関係でどうにか話は済んだ。
右手に持つ袋の中にはそんな彼の一時間弱の成果の結晶体。
ソフトウェア開発などを着手する有名なナップル社の製品である『ハイフォン』の一機種である。世代は色々あったが何となく第三世代――と言うのを購入してみた様だ。それでも高品質なのは間違いない。カラーリングは落ち着いた色合いの明るいブラウン。日向の好きな色合いなので文句なしだ。
「これで僕も初、ケータイかー……! やりましたっ」
思わずガッツポーズも飛び出る程である。
何にせよ、これで主からも同僚からも連絡手段を得たと言えよう。
「それじゃあ後はさっさと帰って――」
そう呟きかけた日向がふと言葉が途切れる。
しばし黙考した後におもむろに視線を遠くの方へと向けた。
「……行くだけ、行ってみよう――かな」
そっと腕時計の時間を確認し。
弦巻日向は歩み出す。
けれど、それは屋敷の方へ、ではなく――ある場所へ向けての一歩であった。
しばらくして日向が辿り着いた場所はある学校の前であった。
ごく普通の校門の奥に建立している校舎はまさしくごく平凡な学校と言った出で立ちであり、特筆して目につくものはほぼ存在していない。どこまでも普通の校舎。見渡す限り普通の校内が目についた。
言の葉雫中学校。
この場所は日向の通っていた中学であった。
父親である赤緯の無理強いにより約三ヶ月程の日数を飛ばしてしまった経緯から、日向は残念ながらこの学校での卒業式も、終業式も終わっていない。
きっと卒業アルバムでは左上隅に一人だけ浮いた形で表示されるだろう。
その事が切なくて少し涙ぐんだ。
幸いな事として挙げれば、中学が義務教育と言う事と休んだ日数がギリギリ評価には響かない限界の日数前後であっただろう――と言う事くらいなのだろうか。
だがどんな形であれ――弦巻日向はすでにこの中学の卒業生だ。
……卒業したって気がまるで全然しませんけどね。
寂しそうに、達観した様に内心で呟いた。
他の皆は、クラスメイト達はしっかり卒業したのだろうか?
だとしたら嬉しいが……、卒業を経験出来なかった日向は何処か行き場のない複雑な心地のままで校門を見つめていた。この場所を通って羽ばたいていった生徒たちは大勢いただろうに、自分はその頃、海外だ。
もしも仕事が傭兵とかでなければ即座に引き返して卒業式に出ただろうか。
どちらにせよ最早過ぎ去ってしまった日々だ。
「はぁ」
諦めた様に。
手放した様に。
跡を濁した気持ちしかしない。
これで未来が見据えられていればまだマシだったかもしれないが――日向が望んでいた進学先はもう申請不可能になっている以上は後先真っ暗な結果しか残していない。
「どうしよっかな、ホント……あーもー……!」
苛立たしげに頭を掻いた。
旅立つ前に申請届しておけば良かったと後悔しても後の祭りでしかない。
「うー……先生に相談出来れば良かったんだけど、先生夏休み明けに転任しちゃってるから、もういないしなぁ……」
誰かに事情を相談しようにも相手がいない。
信頼している友人もどこにいるかわからないし、言の葉雫で日向が最も敬愛する先生も転勤しておりどこにいるのか覚えていない。本当に日向は全く手出し出来ない状況に陥っていた。
そんな時である。
「――ちぃくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
「っ!?」
後方から凄まじい声量が鳴り響いてきた。
そして《ドドドド……!》と、言う地鳴りする様な音を上げながら猛スピードでこちらへと向かってくる人影が目に取れた。若い少年の姿だ。
黒髪黒目。短く切りそろえた短髪の少年の姿。グレーのパーカーにダメージジーンズを着た日向と同年代と思しき人物がそれはもう早足で駆け走ってくるではないか。
その少年は日向のいる場所から約四メートル程離れた地点で唐突に、
「何でかわいい子にはもれなく彼氏がついてんだよぉおおおおおおおおおおおおおお! 死ねよぉ、死んでくれよぉ、頼むから死に絶えろよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお! くっそぉおおお、ドント・マァアアアアアアアイィイイイイイイイイインドッ!!」
膝を地面について、両腕をやり切れない感情の奔流のままに何度も叩き付ける!
拳から血が滲んだが少年はそんな事まるで気にしない! 気に掛けない!
彼が気に掛けるのはこの世の理不尽。不条理だ。
それにしても物騒な発言である。日向は徐に数歩引いた。
「おっかしぃだろ! 何でだよ! 何でさぁ! 何でかわいい女の子にはもれなく彼氏とかいんだよ、おかしくね? 俺の方がぜってぇ、顔イケメンなのにどーしてこうなんのよ! あんな冴えない奴よかよっぽど俺のがイケてんだろぉおおおおおおおおおおお! くっそ、ちっくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
更に数歩引いた。
唐突に出現して学校前で実に騒がしい男である。
どうやら恋愛絡みで何かあった様だが、そうなると若干面倒くさい事になりかねない。日向はここで下手に話を吹っかけられても迷惑なのでとりあえず愚痴の矛先に狙われる前にこの場を去ろうと決意した。
そうなると行動は速い。
「誰か……! 誰でもいい! あ、いや、出来たら女の子がいい! あーけどブスはダメ! かわいい子! 可愛い女の子重視! ブロークン・ハートな俺の為に癒しをしてくれる可愛い女の子いませんか!? 何卒、話を――って、あり……?」
迅速に身を翻し、その場を去る。
「ウェイト!」
肩を掴まれた。
思わず舌打ちを零したくなる日向。
代わりに出来るだけ冷徹な瞳で視線を返してみた。
「何ですか? 僕、急いでるんですけど?」
「いやいや、待てって」
「今、唯でさえ寄り道気味なんで早く帰りたいなーって気分なんですが」
「つれない事言うなって! っていうかむしろ俺としてはどうしてお前が此処にいるのかが今、すっげぇ気にかかるんだけどさっ!」
「何の事でしょうか、さっぱりです」
「いやいや、他人のフリすんなって! ――弦巻よぉ!」
名字をつげられた以上、日向としても無視できなくなる。このまま他人のフリを通して、さっさと迎洋園家に帰宅しようと考えていたのだが、そういうわけにもいかなくなった様だ。
溜息を気だるげに吐き捨てながら日向はジト目で振り返り、言葉を発した。
「毎度問わずのご近所迷惑はウンザリですよ――長万部君」
弦巻日向は、アホの子だが同時に良い子でもある彼が容赦なく見捨てて帰ろうとした理由。それは彼が日向にとって知人の関係にあったからだ。だが、別に逢って嬉しい知人ではない。むしろ逢わなくても逢っても別にいいが出来るなら逢わない方でいいや――と言うどうでもいい間柄程度の知人であったからだ。
長万部擡。
この言の葉雫中学で同級生であった少年であった。
少年は日向を見ながら嬉しそうに破顔して、有効の証とばかりに日向の肩を抱く。人差し指、中指、薬指、小指、最後に親指、と静かにねちっこく。
「弦巻――お前、相変わらず可愛いよなぐべっふぉっ」
とりあえず、右頬に膝蹴りを叩きいれてみた。
「い、いきなり何をすんの、ちょいと……!?」
「あ。すいません。生理的に――膝が滑って」
「どういう文脈と意味!? 膝が笑ってなら訊いた事あるけどよ!?」
「肩に回してきた手が――手つきがいやらしかったんで」
「おいおい……」
長万部は苦笑を零し、呆れた様な表情を浮かべ、
「――そりゃあ、いやらしく触ったんだから当然だるべっしゃ」
即座に顔面につま先を減り込ませてみた。
長万部擡は痛そうに呻きつつ立ち上がると不満そうに口を結んだ。
「お前さぁ……相変わらず、スキンシップが痛いんだけど」
……逆に彼はそれ以外のスキンシップをしてくれる相手と思っているのでしょうか?
「僕だって、長万部君がバイじゃなければ、もっと普通なスキンシップ取りますけどね」
さらっと驚愕の内容を吐く日向。
「……え、マジで? ……ど、どんな……?」
「赤面してドキドキしてる男には言いたくないですけどね」
顔を右手で抑えて重々しく溜息づく日向。
そう彼――長万部擡は男女共に愛するのだ。
厳密には誰でもいいと言うわけではないし。
そもそも昔はもっと普通に唯のエロが好きな中学生だったという事を日向は知っている。よく、知っている。
あの日、までは。
思い出したくない凄惨な事件――『お雛様事件』までは。
……語ると長くなるし、思い出したくないので割愛しますけどね。
日向は軽く首を振る。
それにしても想定外であった。この場所で長万部擡に出会うとは――それで言えば、別に長万部のみならずという一面こそあれど……ああ、どちらにせよクラスメイトと会うのは別に素敵な事でも無いように思えてきて思わず落胆する日向であった。
「って言うか、どうして長万部君ここに――あんな叫びながら来たんですか? 一人ですか?」
だが不意に気にかかったのはどうしてこの場所にいるのかと言う事であった。
いや、別にそこまでおかしくはない。
母校なのだから出現しても別段おかしいと言う事では無い。日向の様に感慨深げに訪れたと言う線も無きにしも非ずなのだから。ただ、先程の大声でここまで来たこと自体にはおかしいと――別の意味でおかしいと言えるだろうか。
「ん? ああ、それはだな――」
口を開く擡。ただ、その声は意外な事に――ある種では当然の事にだろうか?
長万部擡ではなく、別の声で判明する事となった。
「やっと、追いついたぞ長万部後輩!」
「あ。やすだ先輩」
「『あ。やすだ先輩』――ではないぞ、急に走り出すな長万部後輩!」
全身から溢れ出す無駄な『キリッ』とした風格。自身の応援する野球チーム『読買ギガンテス』のエンブレムがついた野球帽子を被った燃える様な赤のジャージを着た太い眉が特徴の精悍な少年の名は生振安打。日向と同じ中学の一つ先輩に当たる。即ち四月からは高校二年生になる高校生であった。その左腕には木製バットが握られている。
生振安打は叱る様な顔つきで、
「あんなに急に走り出してどうする! 赤信号に変わる寸前の交差点もあったんだぞ? もっと状況を冷静に観察しながら発狂しないか、せめて!」
「うぃーす……以後、気を付けやす……」
「って言うか、それはもう別に発狂してないんじゃ……」
冷静に観察できるならむしろ発狂しないでほしいものだ。
そしてそんな日向の言葉を耳にしてぴくりと眉をひそめた生振安打は視線をふっと日向の方へ移動させた。その目が驚いたように見開かれる。
「君は――弦巻後はぼってぃらばっ」
「のぐそっぷぃえ」
「……」
ただ、無言ですっと横に逸れた日向。すると日向が立っていた場所にまず長万部擡が地面に前のめりに倒れて潰される。その背中にはおもりの原因となったのは確実であろう生振安打が白目を剥いてのしかかり、更にその上には目の上で遠くを見る様に手を翳した少女が、生振安打の首の後ろに左手を押し込んだ状態で背中に乗っかっていた。
「Wow! 遠くで見てたら見知った顔とかなんとか思って近づいてみたら、予想通りとかなんとかに弦巻君じゃないの! Hello! おひさぁ?」
二パッと笑顔を浮かべる少女。
反比例の様に首を抑えられ顔が青ざめていく生振安打と押し潰されて表情が伺えない長万部の両名がいたりするが彼女は気にしない。
そんな少女に口元をひくつかせながら笑顔を保つ日向。
「え、ええ。お久しぶりです鶉先輩」
「Yes! おひさぁ、ね! 元気してた、心配してたとかなんとかよ、弦巻君」
輝く笑顔で死に絶えそうな二人を更に追いつめてゆく無邪気な害悪っぷりを発揮するのは若干日本人離れした容姿を持つ少女であった。年齢は日向より一つ上。サンドイッチの具にされている生振安打と同年代なのだから当然だ。
彼女の名前は鶉比美子。
名前こそ日本人だが、実際には八分の一が英国人と言うワンエイスの少女である。
比美子は感心した様な瞳の色を見せて喋りかけてくる。
「いや、本当驚いたわよ。偶然とかなんとかかしらね? 今日、弦巻君を発見する事になるとはちっても想定してなかったとかなんとかね」
「それを言えば、僕も驚きましたけどね鶉先輩。しかし、長万部君にやすだ先輩。それに鶉先輩ってくると――」
何となく予感めいたものを感じて思わず冷や汗じみたものを流す。
そしてその予感は、当然のごとくと言わんばかりに的中した。
「ああ、嘘、弦巻君!? どうしてここに!?」
「驚きだよね。まさかこんな日に君と再会する事になるとはだよね」
……やっぱりか!
予想通りの声が聞こえてきたと同時にほっと胸を撫で下ろす。
少なくとも、これ以上事態をしっちゃかめっちゃかにする人物たちではない事に一先ず、安堵を覚えた日向であった。そんな彼の視線の先には一組の男女がいる。
片方は黒いジャケットに黒い帽子を被ったメガネの少年。私服が実にさまになっている中々格好いい少年と、もう一人の少女はショートカットの髪をした特筆して目立った様子のない普通の少女であった。淡い水色のパーカーに膝までのスカートを履いている。
「九品寺君に伊伝居さんもですか……」
先程まで学校の皆がどうしたかな――とか思っていた少年としては若干多すぎる面々が集った事に内心驚きを浮かべる。かと言って、長万部オンリーでは日向は彼を倒して逃亡を図らないといけなくなるため、来てくれた事は今となっては実にありがたいと言えた。
「冷静な様だよね。――けど僕としては驚きだよね、弦巻君。君とこんな場所で偶然会えた事に驚きを禁じ得ないよね」
九品寺蕗。日向の同級生だ。
「だよね、ですよね! 私も会えて嬉しいよ、弦巻君」
にっこりと優しい笑みを浮かべる少女も、また突然の同級生との再会に興奮した様子だ。
だが、それとは対照的に病んだ瞳を浮かべ日向は反応を示した。
「会えて、嬉しい、ね」
「……ど、どうして相変わらず私を前にするとジリジリと距離を取るのかな? 何でかな?」
「……相変わらず捻くれた思想を……!」
ギリリ、と歯を食い縛る。
「だからどうして私に対しては弦巻君敵意剥き出しなのかな、不思議かなぁ!?」
涙目な少女に対して基本、お人よしな少年は内心『うっ』と罪悪感に駆られるが、態度を改める気配は見せない。見せたらダメだ――それが弦巻日向の長きに渡る、この元クラスメイトである伊伝居昼顔への対応なのだから――。
そんな二人の反応に「相変わらずとかなんとかね」と苦笑を浮かべる鶉先輩が場をとりなすようにパンパンと手を叩いて仲裁に入り始めた。
「はいはい。そこまでにしとこ、弦巻君。そんなジリジリ下がっちゃOutよー?」
「……むぅ」
仕方ない、とばかりに息を吐くとそっと元の位置へと戻る。鶉比美子を挟む形で伊伝居昼顔に対して距離を保ちつつ。昼顔が「九品寺くぅん……」、「あーはいはい。いつもの事だから諦めて号泣して醜態をさらすといいよね、街中で」、「昔と比べると対応がすっごい雑になってないかな、なってやしない九品寺君!?」、「毎度の事で面倒くさいのだよね!」と口論をしていたが、基本、伊伝居昼顔と長万部擡には距離を置く日向の耳には入ってきやしない。
むしろ彼を猫に例えるならば常時威嚇状態である。
その様子に弱弱しい空笑いを零す比美子であったが、こればかりは当人同士の問題と区切りをつけると改めて日向に向き直った。
「しかし本当久々とかなんとかよねー、弦巻君。元気してた?」
「はい。元気かどうかで言えば、何とかですけど」
「そりゃあ良かったとかなんとかよ! 君があの日、急に学校に来なくなったもんだから心配してたんだよ? 長万部と伊伝居が」
「その二人に心配されてたと言うのが複雑なんですが」
冷淡な反応を見せる日向に九品寺蕗の傍の昼顔が「私、長万部君と同族扱いされてるぅ!?」と悲鳴染みた声を上げているが日向はそんなもの気にしない。
「いやぁ、そこは素直にThanksと思おうよ、弦巻君。どんな形であれ――心配してくれてたわけだしさ」
「うう。まぁ、確かにどんな歪んだ形であれ――心配してもらったのは……」
比美子のそう告げられて少し申し訳なさそうに下を見てしまう。
実際、心配してもらったのは嬉しい事だ。
ただ、日向がツンデレとか関係なしに彼らに関わりたくないだけで。
「ま。そこはともかくとして」
その様子を見て反省と反論を浮かべているのだろう事を見抜いて比美子はそこで話を着る事にした。そこに関しては追々話せばいいだろう。と言うか比美子は訊きたい事があるのだ。
「なぁ、弦巻君。君、三ヶ月どこで何してたとかなんとかなのかな?」
「……」
気になるのは空白の三ヶ月だ。
流石に数ヶ月も学校に来ず――その上、そのまま学校は終わって卒業式も滞りなく終了してしまったのだから何とも如何ともし難いではないか。後輩である少年少女らだけではなく、彼らの周囲も気にしていた様子なのだから。
「誰に訊いても消息不明だったそうだしね。教師陣は何か知ってたっぽいんだけど」
「え、ああ、そうなんですか……。先生たちは……」
「だけれど訊いても『か、家庭の事情――だ?』としか答えてくれなかったらしいし」
疑問形の上に言葉が詰まっている様子。
もしも教師陣が日向がいなくなった理由を知っているのならば――大方、理由は父親が通達しておいたとか答えは限られるが――そりゃあ昨日までただの学生だったのが『戦地に赴きました!』なんて言えるわけもないだろう。先生も説明し辛かったに違いない。日向だってとてもじゃないが言えない。
そのあやふやな対応があったからなのだろう。
こうして鶉比美子が問い掛けてくるのは。
当然、日向が卒業式にすら出なかった理由は父親の行動によるものだ。その事を話せないわけでもないのだが。
……話したところで信じてもらえるかなぁ?
と、言うのが日向の不安である。学校に来ないと思ってたら何をやってたんだ――から、戦地で傭兵やってました――など、普通の中学生の行動ではない。特に日本なら尚更。
そんな風に日向が悩んでいたからだろう。比美子は少し困り顔で、
「……ごめん。聞いちゃいけない事情とかなんとかかな?」
申し訳なさそうに呟いた。
「ああ、いえ、別にそう言うわけではないのですが――」
……如何せん、その後の説明が……!
実に説明がし辛い。いや、正確には語ると長くなる――と言うやつで。こんな場所で話すには流石に随分長い事情になる気がしていけない。何より――訊いて楽しいものでもない。
こんな同級生と先輩が集まった場所で話しても空気を壊すだけになるだろう。
日向は言葉を摘むんだ。
「まぁ、そこはまた何時か追々にしましょうよ鶉先輩」
「なんとか君……」
「神妙な顔なのは流れ的にいいですけど、口癖で僕の名前忘れた風になってるんですけどね!?」
……コホン。
「それよりも、僕の方が気になるんですけど」
「ん? なんだい?」
「二つほどなんですが、いいですか?」
「うん、全然構わないよ?」
……ではご厚意に甘えさせてもらうとしましょう。
日向は一度大きく頷いてから問い掛けた。
「……つい先ほどの長万部君の発狂についてなんですが……」
「ああー……それね」
脱力した気配が伝わってくる。
最早、恒例と化したとはいえやはり毎度呆れざるを得ないのだろう。比美子の後ろの方で長万部擡が「っていうか発狂で通さないでくれる!?」、「何を言うんだ長万部後輩! 弦巻後輩の言う様に発狂していたではないか! アレは発狂以外有り得ないと断じよう!」反論した様子だが生振安打により見事に一刀両断されているので問題ない。
その様子を耳で聞きながらやれやれと首を振る比美子。
「いやはや、長万部は本当面倒くさい奴とかなんとかってね」
そんな比美子に対してキリッとした顔でズビシッと生振安打が、
「いや、面倒臭さで言えば君もだがな比美子!」
そんな私的に対して伊伝居昼顔が呆れ顔で、
「……面倒くささで言えばやすだ先輩も同列だと思います、思うんですが!」
メガネを指先で直しながら九品寺蕗が、
「私から言わせれば君も似たようなものだよね」
四名が数珠繋ぎに指摘してゆく。
……うん、同感です僕も。
日向も頷かざる得ない。面倒くささで言えば長万部擡も鶉比美子も生振安打も伊伝居昼顔も似たようなものだ。九品寺蕗が常識人で本当に良かったな、と思うグループなのだから。
「何を失敬なーっ」
ぷんぷんと怒った素振りを見せる比美子だが、彼女も先程出現と同時に長万部と生振を押し潰した辺りが実に厄介なのだから。時に周りが見えていないのは長万部と同じである。
「あー、それで鶉先輩。長万部君が発狂してたのはいつも通りの?」
怒っていた素振りなだけあって、日向が話しかけると素振りはぱっとどこかへ消えうせて、比美子は「ん? あ、そう、そう」と肯定を示す。
「コイツってばまたナンパしてたのよねー。しかも案の定、振られて」
くくく、とお腹を抱える素振りをして笑いを浮かべる比美子。
その様子に長万部はカーッと顔を赤くして怒鳴る。
「し、仕方ないっしょ、鶉先輩! だーってめっちゃ可愛かったんすよ? 金髪のブロンドで! おっぱいボーンってでっかくて! その上ツインテールが可愛いと言うね! あ、アレでもツインテールっつーのかな……? 一部だけだったし……」
「私も見たけど、アレはツーサイドアップの方だったわね。可愛かったのは認める。おっぱいが大きかったのは殺したい」
「女の嫉妬は見苦しいっすよ」
ぷー、くすくす、と嫌みな笑いをした長万部が顔面に痛烈なひみこパンチを喰らって地面を転げながら「痛いよ、痛いよ」と呻いているが自業自得である。一部だけは日本人離れした、どころか日本人にも負けるレベルである意味おくゆかしい鶉比美子はその事を指摘されると容赦ない攻撃が飛ぶのを重々彼は理解しているであろうに。
呆れた様子を浮かべて日向は苦言を呈した。
「ダメですよ、長万部君? 鶉先輩の貧乳に関して触れちゃあ、そりゃあ殴られますって。先輩、貧乳の事気にしてるみたいですし、極力触れないのがセオリーですよ?」
次の瞬間、日向も顔面に痛みを伴うと同時に無念ながらも長万部の仲間入りを果たした。
涙目で転げまわる日向に対して上の方から「つるまきくーん。君もそのアホを兼ね備えた素直さをどうにかしないと生きてけないぞ」と楽しそうな声が聞こえてくる。あまりにも楽しそうな声過ぎて逆に怖くて仕方がない。
ちなみに横から日向より先に復帰した長万部が、
「本当に可愛かったのにさ! 話しかけてたら彼氏来たんだぜ? やってられっかよ、あんな展開! しかも容姿並みだったし! あんな可愛い子にはもったいなさすぎるだろってくらいだよ、もうさ!」
等と、愚痴を零してばかりだ。
未練たらたらである。
余程可愛い子だったのだろう。それが完全ノックアウトに終わった為に憤りがある様子だ。彼本人も理不尽な事を言っていると言う自覚はあるだろうから何も言わないでおく日向だが。
……まぁ、僕も同じ事があったらそんな理不尽な事思いそうですしね。
より正確にはここで彼を責められない気がしたから――と言う保守的な理由でもあった。
と、そんな風に何とも言えない表情をしていると比美子が、
「それで、弦巻君」
と、声をかけてきた。
「? 何ですか?」
「何ですか、じゃないよーもう。another one、あるんでしょ。訊きたいこと」
「……あ、そうでした」
顔面パンチで忘れかけていた事に気付く。
……訊きたいって言ってもまぁ、大した事じゃないんですが……。
「先輩たちは、何でここにいるんですか?」
理由は正直、訊かなくても何となく察しがついている。
だが尋ねたい。
始めに長万部にも尋ねて――日向もまた問われた事だ。
比美子はふっと柔和な微笑を浮かべた後に優しい声でこう言った。
「理由なんてのは多分――弦巻君と、そーそー変わらないとかなんとかだね」
「……そうですか」
その言葉に日向も優しい表情で相槌を打った。
わかりきっている事を訊いたものだ――。
……なにせ、今日は三月の最終日なんですからね。
明日は――四月。
だとすれば自分が此処へ来たのと同じような理由なのだろうと、日向には推測がついた。より、正確には来たかったのは鶉比美子でも生振安打でもなく、伊伝居昼顔に長万部擡、それに九品寺蕗なのだろう。
四月から彼らは――高校生だ。
正確には四月七日辺りだろうが、それでも丁度いい区切りだろう。明日からはもう月が替わるのだから――彼らは母校である中学に別れを告げに来たのだろう――改めて、の形で。
日向は少し違った。
卒業式に出れなかった日向は別れを告げるにしても何とも違和感がある。まるで飛び級してしまったかの様な突飛な違和感だ。実際には進学先不明なのだから自嘲してしまいそうになるが、それでも目の前の校舎を見つめた。――やはり、卒業と言う気分は些かも湧いてこないから困りものだ。後後になれば何か感慨深いものが湧いてきてくれたりするのだろうか。
……けど、今は――こうやって校舎を後にするので精一杯ですね。
切なかった。
まさか外国とは思わなかったから――頑張れば帰国出来るだろうと高をくくっていただけにツケは大きい。この中学を去るんだ――と、言う実感が湧き辛いのが困りもの。
だから、日向小さく校舎へお辞儀した後に徐に歩き始めた。
「……あ、弦巻君、何処行くの、行っちゃうの?」
こちらを向いて昼顔がそう問い掛けた。
「うーん……目的は達しましたから――後は帰るだけ、かなって」
当初の目的――それはこうして自分なりに学校へ別れを告げる事だった。
期せずして同級生に先輩と言った面々と出会ったのも多少は効果があったのかもしれない。おかげで思い出が浮かぶから、日向は少しだけ中学を卒業したと言う実感を抱けた。
そんな日向の様子に寂しげに笑いながら昼顔は、
「……そっか。高校が違っても、また逢えると嬉しいな」
「……どの口が……っ」
「だから、どうして弦巻君、私に敵意剥き出しなの、なんでなの!?」
……無自覚を振る舞うとは恐ろしい人です……!
日向はそそくさとその場を立ち去る決意をした。
が、
「まぁ、何にせよ――」
小さく呟かれた声。生振安打の声が日向に届く。
「高校が変わっても――皆、友達だ。弦巻後輩も何処かで逢った時は楽しくやろうじゃないか。なっ?」
「……そうですね」
ふわっと笑みを浮かべる日向。その表情はとても優しいものだった。
何故なら――日向も同意見だからだ。
ギスギスした再会なんて求めていない――逢った時は笑顔で合う事が素敵だから。
そう言う意味で、
「長万部君の躾をよろしくお願いします、やすだ先輩」
「あー……うむ、そうだな。任せておけ!」
「はぁはぁ……はぁはぁ……日向の今の笑顔、マジ美少女みてぇ……やっべイケるわ普通に今のはさ……はぁはぁ――って、やすだ先輩!? しつけってなんすか!?」
……わからないならわかるまで躾けられるだけですよ!
内心で怒鳴り気味の日向であった。
「それじゃね。Goodbye、弦巻君」
そんな日向の怒りが和らいだのは一重に比美子の困った様な苦笑と別れの言葉であった。
小さく手を振って反応を返す日向。
後方でめげずに伊伝居昼顔が「私も友達だからね、弦巻君!」と便乗し小さく拳を握り緊めて発言していたのでサーッと顔を青ざめた日向は一目散で駆けだした。後方から「だから何で!?」と言う雄叫びと九品寺蕗の「あーはいはい」と、言う気のない宥めがを背に。
弦巻日向は今度こそ屋敷へと向けて走り出して行った。
……あ。
走りながら日向は思いだした様に呟く。
……しまった。折角逢ったんだから、先生の事とか色々尋ねておくんでした。
あのグループのメンバーが全員いない事とか色々ありはしたが、今更戻るのもアレだろうと思い未練を断ち切ると日向は流石の足の速さで屋敷へ、主と同僚の元へ駆けてゆく。
「遅かったな。おかえり」
出迎えてくれたのはやはりと言うべきか批自棄であった。
気になるのは何故ソファーの上で頭だけ使った逆立ちをしながら用紙の束を見ているのかと言う事だが、おそらくはコレが日向に必要な学校の書類なのだろう。なお、逆立ちに関しては尋ねてみたところ「気分」と言う二文字が返ってきたので何もいう事は無い。最早、諦観の姿勢の日向である。
ただしすでに三〇分以上続けているらしいので、頭に血が上ったりしないのかと尋ねた所、返ってきたのが「私の血液は何時でも健康第一で巡ってるからな」という返しが来る辺り、やはり彼女は何者なのだろうと訝しむばかりだ。
「それでその書類が……僕の?」
「ああ、そーだぜ」
批自棄は逆立ちから「よっと」と、体勢を直すと数枚の書類を日向へと手渡す。
「必要事項は記入しといた。洋園嬢と私でな」
その言葉通りに視線を這わせた紙面には日向が書く必要のある部分を除ききっちり処理がなされていた。流石に基本的な部分は日向が書くべきなのはわかる。
ただ、不思議なのは……。
……保護者の欄、これ誰なんでしょうか……?
書面に記載された名前に見覚えが無かった。やけに長い名前だな、と思いつつ印象的な名前故に思い出そうとするが思い出せないでいる。
流石に保護者の欄、これ誰ですか? 等と問えるわけもなく。
……まぁ、主様とひじきさんが問題無しと判断した様子ですし僕が気にする程の事でもないのかな。
そう考えて多分問題は無いと結論付ける。
本来ならばこの欄には間違いなく『弦巻赤緯』の名前を記載すべきなのだろうが、確かにあの父親だ。保証人にはならないだろう。子供を戦地に置き去りにした程度には厄介な父親である。
……そう考えると別の後見人とかなのかな?
そう考えると少し日向は嬉しくなった。親戚とかには逢った事も無い――存在するかどうかもわからないのだから、彼女――この名前の主が親戚ではないにしても日向の後見人として名義貸しかもしれないが承ってくれていると言うのは実にありがたいものだった。
「……なに、ニヤけた面してんだ? はよ、書けよユミクロ」
「うぇっ!? あ、は、はい。ただいまっ」
……いけない、いけない。
確かに入学届ならまだしも受験届を見ながらニヤニヤしたら変に思われるだろう。受かってもないのに受かった気でいると思われたかもしれないと思うと若干羞恥が生まれる。そんな気持ちを払拭する様に日向は紙面上にペンを走らせた。
氏名、住所、電話番号等。
書類を記載しながら日向は強く想った。
……ここまでひじきさん達がしてくれるだ……絶対合格しよう。
心から、強く。書類の処理も学校側への対応も学費も――この屋敷にいる事を許してくれる事全てを踏まえて――今までの自分の不運を薙ぎ払うかの様に幸運なのだから。のたれ死んで終わりみたいな存在であった自身がこうして手を差し伸べてもらえているのだから。
……絶対、合格しよう。そして仕事も頑張ろう。
丁寧に、丁寧に記入してゆく。
そうして必要書類にすべてを書き終えた日向は再度、書類を確認し、
「いいのか?」
と、小さく問い掛ける批自棄へ向けてこくりと頷いた。批自棄は書類を素早く目を通してゆくと「りょーかいだ」とだけ零して徐にソファーから立ち上がると、
「んじゃ、私はこれを芳城に出してくっから」
「はい、お願いします、ひじきさん」
抑えた声。けれど力強い声で日向は彼女へ頼む。
「気にすんな。それよりも――落ちたらひじきさん怒るぜ? すごーく、な」
だから、と隙間を置いて、
「絶対、受かってみせろよ? 試験はすぐ――明日になるだろうからな。明日の午後くれーになるだろう。だからユミクロは頑張って、その間に詰め込めるだけのもんを詰め込んでおくといいぜ」
それじゃな、と批自棄は呟くと同時に左手でぴっと一枚の用紙を飛ばしてきた。
それを日向が掴んだと同時にすでに扉の向こうへ批自棄は去ってしまっている。受験届を学院側へ提出しにいったのだろう。批自棄へと向けていた視線を彼女から手渡された紙面へ向けてみると、そこには入試科目の事項が記載されていた。
そして学院に合格する為の偏差値も――また。
「うっ」
思わず呻き声を零す。
流石は名門校だ――かなり高い。
だが、しかし。
日向は自らの両頬を勢いよく両手で包む様に叩いた。
ビリビリとした鮮烈な痛みが走る。頬も赤くなった事だろう。だけれど。
……偏差値なんて問題じゃない! 高いからってだけで諦めたら、ひじきさん達に顔向け出来ないですから――ねっ!
喝を入れる様にぐっと拳を握り緊めた。
そして握り緊める用紙片手に日向は「よぉしっ」と、言う掛け声と共に屋敷内を歩いてゆく。
勝負は――明日。
四月一日。
その日が日向の決戦の日だ。時間なんて半日あるかないかだ。
水の綾がそこそこ高い偏差値であった関係でどうにか届きそうと言うのが唯一の救いか。
頑張ろう。日向は何度もその言葉を意識して。
自室への扉を開いた。記憶していたもの取り戻すべく、彼は机へと向かってゆく――。
一日が経過した。
四月一日。
試験当日。
肩に触れるか触れない程度に伸ばした黒髪の男性が校門前で近くの壁に背中を預ける形で腕を組みつつよりかかっていた。男性は少年の姿を確認すると軽く手を挙げて、
「良く来たな」
と、朗らかな笑みを浮かべた。
「んじゃ、行くぞ――」
男性の後を付いてゆく形で少年、弦巻日向はその学院へと。
自らの進退を決める、その教室へ、その場所へと向かってゆく。
日向はポケットの中のお守り。合格祈願と書かれたお守りを手に長く遠い、その道のりをその男性に続く形で歩いていった。
そして時間は飛んで四月七日。
大切な日の朝に彼は自室のベットの上でそっと目を覚ます――。
とても清らかな朝の陽射しを感じながら。
第三章 感情帰せずして