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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Troisième mission 「進退す身辺」
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第二章 錯綜し廻り往く少女達 ―ミッション・フェイルド―

第二章 錯綜し廻り往く少女達 ―ミッション・フェイルド―


        1


 日向(ヒナタ)の進退に後退の二文字は最早選び取れる選択肢では無くなっていた。

 目の前に立つ、三人の不良青年――日向よりかは一つか二つ年上なのは、まず間違いない事だろう。ただし、問題なのは彼らが不良は不良だけれど、決して孤立やはみ出し者であるというだけの話ではない事だろうか。

 暴走連合とも不良連合とも言われるチーム『死塵牙破魔(シチリガハマ)』。

 神奈川県、近隣に存在する不良チームの中でも飛び抜けて有名な三大勢力の一つに数えられている程の不良グループこそが、その『死塵牙破魔』であり、日向らは知る由も無いが神奈川三大勢力として鬩ぎ合っているグループの一つと言うのがソレなのだ。

 詰まる所。

 彼らは有名な不良グループの一員であると言うのが実情だ。

 そんな彼らに『あの、すいません。ちょっといいですか?』――と、怯えながらでもなく、むしろ朗らかささえ感じる声で話しかけた日向に対する周囲の感想はこうだ。

 まず明らかに悪そうな奴らがいるな、と思い内心びくびくしつつ距離を取って、われ関せずを罪悪感抱きながらも行っていた一般人諸々はナンパ中と言う不良三人に怯える気配も無く、話しかけた少年に対してまずその中性的な容姿から勝てるか否かで心配すると同時に、その勇気に称賛を送る事となる。

 次いで、街中で店先に一人佇む美少女を見かけ、『うひゃっほう』とばかりにナンパして意気揚々の心地であった不良三人はどうせ誰も邪魔しないだろうと高をくくっていたにも関わらず怯える気配すらなくにこやかに話しかけてきた少年に対して『あ゛?』、『邪魔すんじゃねぇよ』と言う感想の他に日向の顔立ちがそこそこ整っている点でも結構な嫉妬を滲ませる始末。

 そして当の本人は実に間の悪い事に話しかけた相手がナンパ中の不良と言う『間違えました』と言う暇すら最早無いであろう相手に対して――これがせめてナンパ中でなければ無事謝罪して逃げおおせたやもしれないが――周囲の視線、不良達の敵意、そしてなによりも女の子がナンパされて困っている――というよりかは面倒くさそうにしている事態に対して人並みながら正義感のある日向は最早見過ごすと言う選択肢は何一つ無かったのだ。

 唯一、日向自身が気にかかる点と言えばナンパ男達に先ほどまで囲まれていた――現在は怒りを買って自分がガン付けられて囲まれているわけだが――その少女の少し意外そうと言うか、物珍しそうと言うべきか、こちらを見る瞳に少し不思議な感覚を抱いたと言う事だが、生憎と即座に囲まれてしまい、こっちからでは彼女の姿が最早視認出来ない感じになってしまっているので、何とも言えない。

 さて、そんな考察を終えた所で日向に視点を戻すわけだが、生憎と弦巻日向はこの状況下に於いて慢心の一つも出来ずにいるのが現状だ。別に不良三人を相手取る事に不安は無い。なにせ紛争地にて傭兵を相手取っていた日向だ。日本の不良程度に後れを取るほど、彼は弱いわけではないのだ。

 だが、日向には確信めいた予感があった。

 何かこう……嫌な予感がひしひしと全身を駆け巡っている事に。

 その予感が何なのかは生憎と分からない。

 だが、こういう時は慎重に動かなくてはいけないと言うのが長年の日向の経験になるだろうか。本来であれば矢鱈に行動しない方がずっといい。

 けれど女の子がナンパされて迷惑そうにしている――そう言う時に行動しないのは日向の正義感が許さない。そういう風に自分は叩き込まれたのだから。

 昔、ある時。

 とある女性に。


 ――いいかい、日向。男ならね――女の子が困ってるときは必ず手を差し伸べてやりなさいね。怖くても勇気を奮い立てな。さもなきゃ――私が日向を屠るからね♪


 体が思わずぞくぞくっと身震いする。

 記憶に浮かべる必要の無い事まで記憶に浮かべてしまった事を若干後悔しながら、日向は眼前に立つ男三人を前に毅然と佇む。記憶に浮かぶ、あの声に恥じない様に。軽く息を吸ってからおもむろに日向は不良三人を相手に話しかけた。

「ひゃのですね」

「んん?」

 初っ端にして噛んだ。

 緊張解けよ自分! と、内心で壁に頭をドンガンぶつけながら叫ぶ日向。コホン、と咳払いを一つしてから再び意気込んで問い掛ける。

「あのですね。こんな公衆の真っただ中で――ナンパとかはあんまり良くないと思いますよ? そちらがお知り合いの方でしたら、アレですけど、この感じですと違う様ですし」

 先程に少女を見れたのは一瞬だったが、煩わしそうにスルーしている様子であったと記憶している事から考えて知人同士ではないだろう。初対面で街中でかわいい子を見つけたから寄って来たと言うところではないかと考える。何より、周囲が寄付かない事態がそれを明確に表していた。

 そして不良三人の中の一人。

 今時でも絶滅していない事に内心軽く驚きを禁じ得ないリーゼントヘアをした、これまた分かり易い黒髪を染めた薄汚い金髪で黒目の男は日向の言動に不快感を露わにする。

「テメェなぁ……。いきなり話しかけてきたと思えば急になんだっつーのよ。そもそも初対面でナンパのどこが悪いっつーのよ。むしろ知人関係でナンパの方がしねぇっての」

 苛立たしげな様子で右の拳を握る――大きな握りこぶしをまざまざと見せつけて暴力的な雰囲気で威圧を示してくる。けれど、日向にとって暴力を――町の不良程度が見せる威圧程度では僅かにも揺るぎようがない。

 そんなものは今までの日常の範囲内でしかない。

 一切の表情を変えず、ごく自然体のままで握られた拳をひょいっと払いのけた。

「確かに知人関係でナンパは何か違和感ありますかね……。知人関係で恋愛模様が生まれたとしたら、ナンパなんてなりませんし」

 そんな日向の落ち着いた態度に何処か驚いた様子と感心した様子を見せながら、リーゼントの不良は「そうそう」と頷いた。

「その通りだぜ。知り合いの女どもをナンパなんざけし掛けられるわけがねぇから、こうやって街中で出会ったイケてる女、捕まえるってわけよ」

「確かに言葉通りにナンパですけど、迷惑になるナンパはダメだと思いますよ?」

「ケチくせぇ事言うんじゃねぇよ。いいだろ、そんくれぇ?」

 不貞腐れた様子でリーゼントの不良はそう文句を零した。

 そんな言葉にぼそりと小さな声で呟きが聞こえた。

「私としては迷惑なんだけどね」

 溜息交じりに耳に届く面倒くさそうな声。凛とした女性の声。まず間違いなくナンパ被害に遭った女の子の声――なのだろうが、屈強な男三人に阻まれて日向には微かに声が届く程度であったが、それが相手側の意思なのであれば日向として食い下がるわけにはいかなくなる。

「ほら、相手の子も嫌がってるみたいですし……」

「んなの照れてるだけだっつの」

「いえ、ただ面倒くさいだけなんだけど」

「ほ、ほら……! 相手の子も面倒くさがってるみたいですし……!」

 困ってる、嫌がってる、弱ってるよりも面倒くさいと言う返しが来る辺り、何か場馴れしているという経験がひしひしと伝わってくる。ちらりと見たときも日向から見てかなりの美少女だった様だし、ナンパされる経験が多い子なのかもしれない。

「という事で本日のナンパは失敗と言う事で諦めて頂いて――」

「ああん、誰が失敗したってんだテメェ!? まだやり切れてもねぇよ!」

「そう言われましても……。話訊いた限り知り合いに女性はいるっぽいですし、そっちの方に思い切って当たってみると言うのはどうでしょうか?」

 これぞ名案! と、ばかり日向は提案するも、

「ふっざけんなよ! 俺らがあの女どもに相手されるわけがねぇだろうが! 一六年間、童貞フィーバーなんだぞ、俺らは!!」

「だから何ですか、そんな事言ったら僕だってどーてーだし! わーい!」

「なんでそんな嬉しげに言うのお前!?」

 周囲の聴衆が『ああ……彼らそのタイプの少年たちなのか……』、『と言うかあの女顔の子もそうなんだ……』、『不憫だなぁ』と言う視線を向けてくるが気付く気配はなく、リーゼントの不良は怒鳴る様に告げた。

「第一な! 俺らの知り合いの女ってのはヤベーんだよ!」

「ヤバいって……何がですか?」

「威圧感っつーか、君臨っつーか……まぁ、アレだ」

「ああ、わかったし!」

 ポン、と手を打って納得した様子で日向は呟いた。

「扱使われている、と」

「簡単に述べてくれてんじゃねぇぞ、オルァ!? い、今はアレなだけだ。ちょい、俺達の健康管理が上手くいってなく、毎日健康第一みてーな身体能力のアイツらが買っているだけで……」

「尻に敷かれている、と」

「さっきからズバズバ言わねぇでくんねぇかなぁ!?」

 そう言われても仕方がない。力関係で女性に負けているのが悔しいと言う事なのだろうが、現在進行形で女性に主導権を大概持って行かれてきた日向からすれば女性に負けていようが何だろうが「凄い女性だなぁ……!」で憧れ目線を向けるのだから、彼らとはプライドの質が異なっている為に羞恥の感情がわからないのである。その思考に至る理由が自らを卑下した結果であると言う実態もあるが……。

「とにかく、これ以上は迷惑行為なだけですし、止めましょうよ。ね?」

「ね、じゃねぇよ! ハッ、こんだけ上玉、男として逃がすかっての!」

「確かに凄い綺麗で可愛い子なのはわかりますけど……きれー」

 でも困ってるんですから、と苦言を呈す日向だが、リーゼントの不良は、

「うっせぇよ、テメェみてぇに出会いがありそうな奴に言われる筋合いねぇっつの!」

「ゲハゲハハ! まぁ、確かに不良よか需要かなりありそうな奴だしなそちらさん」

「テメェ、うるせぇぞ苅宿(カリヤド)!」

「おお、怖ェ怖ェ」

 剽軽な態度を取る黒髪黒目の髪を逆立てた不良はへらへらとした笑いを浮かべる。名前は苅宿と言う不良らしい。

「でも実際、こういうとこじゃないと出会いないよねぇ」

 続いて見事にオールバックにした頬にハートの入れ墨がある青年が手振りを交えて発言すると、リーゼントの不良はその通りだとばかりに反応を示した。

「全くだ! 女どもに扱使われてる俺らが、知人関係に手出しするかっての! したら殴り飛ばされるのがオチだから、こうして見知らぬ美少女に手ェ出そうとしてんじゃねーかよぉおおおおおおおおおおおおおお!!」

「何か号泣交えた心からの叫びになったっ!?」

 周囲から「いや、それはそれでどうなんだよ」、「と言うか尻に敷かれてんのかよ……」、「尻に敷きたくもないがのう、あのような汚物」と言う声が聞こえてきた何とも切ない。切ない――が、ナンパして相手の迷惑になるのと、それは別の話。

「事情は少しわかりましたけど、それでもこんな場所でナンパは良くないです。さっきから凄い交通の邪魔になってますし」

「つまり路地裏に連れ込んでナンパするべきだって事だな?」

「違いますよ!! 何、自信満々に言ってんですか? そっちの方が性質が悪いですからね、助けが来なさそうな分!」

「男ならグイグイ行ってナンボだろうが!」

「場所と加減を弁えろと言ってるんですよ! そりゃあ僕も一目見て見惚れるくらい可愛い女の子だったのは認めますけど、通行の邪魔になり過ぎず、かと言って相手が恐怖心を抱く様な人通り少ない場所でもない、相手が対応できるくらいの場所と加減が必要でしょう、相手の為には!」

「そんな小難しい場所何処をチョイスしろってんだよ!?」

「市民プールです!」

「即答!?」

「それと引き際ですね!」

「ハン。ヘタレただけじゃねぇか!」

「とにかくですね! 僕が今、話した大前提以前に、女の子が貴方たちみたいな、傍目分かり易い程の不良三人に囲まれてたらそれでもう迷惑になってると思ってくださいよ!」

 日向の眼から見て、一人の少女を三人で囲ってナンパと言うのはいい構図とはとても言えないものだ。逃げ場だって封じられてしまうし、対応も相応に難しくなる――それも不良相手となれば厄介さはこの上ないだろう。

「つまりテメェはこう言いたいのか? 不良をまず止めろ、と」

「別にそこまでは言いませんよ。何かしら理由あって不良の道に走っちゃうとか言うケースもあると思いますし……、けど相手の事をもう少し考えてナンパするべきかと思うんです」

 日向は別にナンパが悪い事とは言わない。

 当然、良い事とも言えないわけだが、それでも悪い事と言い切れるものではないだろうし、例えとしてお祭りで見かけたかわいい子に思わず声かけるのだって一応、ジャンルの一つに含まれるのだから悪い事ばかりではないだろう。ただし、今回のケースに関しては相手側も迷惑している様だし、三人で一人を――と言うのもあまり良くはないと思うから。

 しかし、どうしてナンパの是非について議論を交わす羽目になるのだろうか。こんな街中で人目に付く形で……そこだけは実に不思議だ。道行く人々が足を止めて見物客となっているのが、どうにも恥ずかしい。

 そんな視線が集中する中で、僅かに視線が多いなと恥ずかしがる日向と比べて、流石不良と言うべきなのか、視線が来ることなど慣れていると言うべきなのか、何にせよ。あるいは周囲が見えていないのやもしれないが――不良三人は日向の文言等、完全に蚊帳の外とする事に決め込んだ様だ。

「なぁなぁ、いいだろ少しくれぇ? 付き合ってくれてもよぉ、嬢ちゃん?」

「嫌に決まってんでしょ」

「硬い事言わずによぉ。いいだろ、つれねー事言うなって」

「だからお断りよ」

 面倒くさそうに腕組みしながら茶髪の少女は頭を振って拒否を示す。

「っていうか、アンタらいい加減どっか行ってくれないホント? 動けないんだけど」

「へっへへ。そりゃ大変だなぁ~」

 下卑た笑いを浮かべるリーゼントの不良。

 やはり三人で取り囲んでいる事で動けない様にしている様だ。

 日向は眉を潜めて、リーゼントの不良の肩に手を置いて諭そうとする。

「彼女、困ってるじゃないですか。止めましょうよ」

「るっせぇな! テメェにゃ関係ねぇだろ! この女顔!」

「関係は無いですけど、困ってる女の子見過ごせるわけないじゃないですか! って言うか、誰が女顔ですかっ、ちょっと男っぽくない顔立ちなだけです!」

「だぁ、うぜぇ!」

 ブンッ、と力任せに日向の静止を振り切ると、リーゼントの不良は茶髪の少女の腕をいきなり掴んだ。

 その瞬間に少女の眼がすっと鋭く細まる。

「……離してくれる?」

「んだよ、うっせぇな。何時までも往生際悪くしてねぇでついてこいってんだ!」

 威圧感のある怒気の篭った表情を浮かべて男は茶髪の少女を無理矢理連れて行こうと観衆を掻きわけて歩き出そうとする。その際に掴んだ腕が嫌に重いと感じて、反抗しているのか、と感じ取った男は苛々とした様子で少女の方へ振り向きざまに――、

「見苦しいぞ、オイ! いい加減、大人しく――」

 彼の言葉はそこまでで唐突に途切れさせられた。

 次に吐かれた言葉途切れる様な「ゴッ」と言う呻き声だった。

 何が起こったのか一瞬わからなかった。

 だが、ビリビリとした衝撃が顎に走っているのだけは理解出来た。

 視界がぐらぐらと揺れる。覚えがある光景だった。これは昔、自分が『死塵牙破魔』の現女幹部であるある少女にぶん殴られた時と同じ光景であった。そしてガン、と言う音と共に背中に響く衝撃。ガードレールに背中がぶつかった様だ。

 思わず、日向は呟いた。

「すご……っ」

 蹴りの冴え――と、言うものが美しかった事にも、少女の意外な強さにも、思わず目を見張る程の魅力を覚えてしまう程に。

 そしてそれは衆人観衆も同様に『おおっ!』と言うどよめきを零している。

 そしてリーゼントの不良は、

「て、テメェ……!」

「――へぇ、耐えたのね」

 振り上げた足を戻す茶髪の少女。

 何が起きたかわからなかったが、今はわかる。

 この少女に蹴り飛ばされたのだ。

 そして驚いたのはその蹴りの威力だ。たった一撃で体力大半持って行かれたと思う。だが、同時に先程までナンパしていた女の反抗――それは男のプライドをへし折られるものであったと言えよう。リーゼントの不良は頭に血が巡るのを感じたと同時に叫んだ。

「ふっざけんなよっ! ナメやがって! テメェらやっちまえ!」

 仲間である二人を少女へ対して一気にけしかけた。

「え、暴力はちょっとゴミン被る的な?」

 と、片方は右手を嫌に振りながら返答し、もう片方の不良は涙交じりに爆笑しながら反応を示した。

「ゲハゲハハ! っつーか、寸沢嵐(スワラシ)。テメ、無様!」

「お前ら何、傍観してんだよ、やれよ! 女にナメられたまんまでいいのかよダボ!」

 だが、しかし意外な事に他の不良二名は曖昧ながらも手出しを拒む姿勢を見せた。

「えー……、でもお前に頼まれて、三人で囲う的な事まではやったけどよ、逃げられねぇように」

 相変わらず右手をかくかく振りながら返答を示す。

「唯女一人に対して三人がかりとか、すっげダセェし。ゲハゲハハ!」

 片方の馬鹿笑いしている方が嗤い過ぎて涙出す程なのが若干気にかかるが。

「……お仲間の助けは無いみたいね。じゃ、私はこれで」

「!」

 そんな空気の中、他二人が関わってくる気配を見せなかった事で、茶髪の少女はスタスタと歩き出そうとする。その少女の背中に自分が馬鹿にされた――等と言う被害妄想を抱いた、リーゼントの不良はぷるぷると拳を握り緊め――。

 同時に、ある反応を見た日向はハッと気づいた様子で一気に駆けた!

 その瞬間には実に多くの事が同時に起きていたのである。

「下に見てんじゃねぇぞ、クソアマ!」

 唸り声を挙げて拳を振り抜かんとするリーゼントの不良がまず――。

「――ッ」

 鋭いキレのある少女の回し蹴りが左ほほに見事なまでに炸裂し、その意識を一撃で刈り取られると言う決着がついたと同時に――、

「なぁーんてっねぇーっ!」

 ニヤついた笑顔を張り付けて少女に向けて左から羽交い絞めにしようと差し迫る不良仲間の一人の行動が起きていた。片方の不良が「ああ、聞き分けいいと思ってたら、やっぱだまし討ちする気満々だったんかよ、モロの奴」と言う呆れた様なしかめっ面を浮かべてその結末を見届けるべく手出しをしない姿勢を見せる。

 同時に、彼が欺こうとしていた事を寸前で気付いた日向が彼の行動から、茶髪の少女を守ろうと身を乗り出した。加えて、茶髪の少女は自身の反応速度を活かして、だまし討ちにも的確な対応を示し、回し蹴りからすでに次の動作へ移る段階へ入っていた。

 そして。

「――甘いわよ」

「げぶぅっ!?」

「――もだぷらぺこひゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?」

 だが、しかし、事態は予想外の顛末を迎える!

 まず頭に驚愕と疑問符を同時に浮かべたのが観衆と茶髪の少女並びに独特な笑い声の不良達であった。茶髪の少女のキレのある蹴りが不良の顔面に炸裂し、先程のリーゼントの不良同様に意識を刈り取った。ここは理解できる。

 だが、ほぼ同時に起きた出来事がまるで理解出来なかった。

 それは――日向が唐突に彼らの視界から消えたからだ。

 消し飛んだからだ。

 彼らは一瞬、文字通り彼が突然消えたと思い込んだ。

 だが、実際には違う。

 彼は消し飛んだのではない――ぶっ飛んだのだ。

 故に彼は今――上空数十メートル上で叫び声を上げている最中だ。

 何が起きた?

 その答えは彼らの視線が錯綜する事で瞬時に理解した。


 弦巻日向はマンホールの爆発で上空へ吹っ飛ばされたのである。


 理解が追い付かないのも当然だ。だが、日向が茶髪の少女を守ろうと駆け出した先には――彼が丁度足を踏み込んだ場所には設置されたマンホールの蓋があった。それが先程、不意に、唐突に爆発し日向は上へと吹き飛ばされたのである。

 わけがわからない。

『いや、何が起きたんだよ(のよ)!?』

 事態を見守っていた観衆全員が同様の言葉を吐く。

 その言葉に僅かに遅れる形で――弦巻日向は泣き叫ぶ声と共に、

「どっふぁらっ」

 潰れた蛙の様な声を零してアスファルトの地面に上空数十メートルから叩きつけられた。

『……』

 頭から打ったのか、だくだくと鮮血が路上へ流れ出る……。

『……ええ!?』

 そして周囲が事態に追いついた。

 そこからはどよめきの連続である。口々に「大丈夫なのか!?」、「っていうか何でマンホールが飛んだのよ!?」、『おい、急げ!』、「血が出てるって! 救急車、救急車!」、『何か被害あったっぽいぞ!』と言う声が大小問わず聞こえてくる。

 思わず硬直していた茶髪の少女だったが、我に返ると即座に――、

「ちょっ、アンタ、大丈夫――!?」

 と、我先に駆け寄った。

「……」

 と、同時にムクリと日向が起き上がった。

『……!?』

 相当なダメージを受けたはずなのに起き上がった少年に対して周囲がまたも硬直する。

 そんなピシリ、と固まった空気の中日向は口を開いた。

「役に立てなくてすいません……!」

 目をぐるぐる回しながらふらふらとした様子で少女に向けて、そう話しかけた。

 少女は一瞬、何を言っているんだろうかと停止したが、口にした言葉の意味に気付くと、

「……いや、私の事はいいから……」

 はぁ、と呆れた様な声を洩らした。

(――コイツ、自分の怪我よりも、私を助けるのに何の役にも立てなかったことの方に意識向けてるじゃない)

 自分の怪我の状況わかってんのかしら、と額を抑えて溜息を発する。

「それとナンパはこれ以上、させませんぞー」

「お、おう。生憎、これ以上関わる気はねーよ? つーか、兄ちゃん、手当した方がいいぜ、何か目が回ってんぞ?」

 くるくると目も体も回しながら話す日向に対して冷や汗を垂らしながら、残された不良は少し後ずさりながら心配をする。どうにも二人の不良と比べて、彼はこれ以上関わってくる気配はないらしい。

 そう、判断すると茶髪の少女は、スマートフォンを取り出してくるくる回る日向の腕を掴みながら、

「アンタはちょっと大人しくしてなさい」

「何でですか?」

「うん、思考が回らなくなってるみたいだからね。ちょっと待ってなさい、今、救急車呼ぶから、それで――」

「それはダメです!」

「は!?」

 一気に語気が強くなった日向が少女のスマフォを取り上げんと手を伸ばす。

「救急車はダメなんです!」

「いや、ダメって何がよ? アンタ、自分の流血具合わかって言ってる? 頭何て、血が大量に流れる場所なんだからこのままにしとくわけにいかないでしょっ!」

「こんなに全然平気ですよ、だから救急車だけは止めてください!」

「はぁ!?」

 すでに血が溢れて顔中血塗れになっているにも関わらず救急車を拒否する日向に対して茶髪の少女は何を言っているんだとばかりに食い下がらない。そんな折、観衆の中から「安心しろー、救急車、俺が呼んでやっといたぞー!」と言う声が響く。

 日向はさーっと青ざめた顔を浮かべた。

「アンタ、本当何でそんなに……」

 訝しげに茶髪の少女が心配そうな表情を浮かべる。

 そんな中、唯一、生き残った不良青年は喧噪の中、不良二人をせっせと担いでいた。

「で、アンタは何をしてんのよ?」

「ああん? イヤイヤ、救急車来たら必然、俺らも何か割合わねーもん、喰らいそうだからなぁ、主に警察とか警察とか警察とかな」

「だから逃走準備ってわけ?」

「そーいうこったな、ゲハゲハハ! 追ってくるかい?」

「追う訳ないでしょ。っていうか、今はこっちで手がいっぱいいっぱいよ!」

 そう怒鳴る様に言いながら、茶髪の少女は逃げ出そうともがく日向を押し留めていた。

「ゲハゲハハ! そりゃそっだな! んじゃ、頑張れよ!」

「うっさい。って言うか、ほかの二人にもう関わってくるなとでも言っておきなさいよね!」

「ゲハゲハハ! あいよ。一応な。改善するかどうかしんねーけどな! んじゃ、ばいなら!」

 それだけ告げると男二人抱えているとは思えない速度ですたこらさっさとばかりに不良三人の姿は遠のいて行った。

「じゃあ僕もこれで……」

「アンタはダメだからね!」

 そしてそれに便乗しようとした日向の襟元を掴んで逃げられないように抑える。

「何でですか救急車来ちゃいますよ!?」

「それが目的なんだから当たり前でしょうが!」

「ダメです、救急車はダメなんですって!」

「いや、アンタの怪我の方がダメでしょ!」

「こんなのよくある怪我ですからいいんです!」

「頭部出血をどんな頻度でやってんのよ!?」

「それと今は急いでるんです、だから……!」

「急いでる?」

「……はい」

 しゅん、と大人しくなった日向に対して茶髪の少女は「急いでるって何が?」と優しい声で問い掛けると日向はしばし無言を貫いた後に小さな声で答えた。

「『マリアンヌ・フレール』って店に……早く行かなくちゃで……」

「紅茶の店に対して何で急いでるのよ、そんなに!」

「それはその……」

 言葉を濁す。

 そんな様子をしばし見守っていた茶髪の少女であったが、やがて諦めた様に息を吐き出した後にぐぃっと日向の手を引っ張った。

「え?」

「本当なら、今すぐにでも救急車に叩き込みたいんだからね?」

「えと……」

「『マリアンヌ・フレール』だっけ? 仕方ないから連れて行ってあげるわよ。って言うか何でそんな近場の店で困ってるんだかわかんないけど……」

 近場、と言う言葉に日向は少し意識を引かれたが、茶髪の美少女のその言葉に対して「……ありがとうございます……」とか細い声で感謝を述べた。

「顔馴染の店じゃなかったらとてもじゃないけど、連れてかないけどね……」

 そして茶髪の少女は自分の行動に複雑な思いを巡らせながらも、日向の腕を引っ張って駆け出して行った。



 近場、と言う言葉は文字通りそうだった様だ。

 茶髪の美少女に手を引かれる形で、辿り着いた先――生憎と目に血が入っておぼろげにしか視界が機能しないがモダンなデザインの店が立ちそびえていた。頭には少女から手渡されたハンカチで流血を押え付けており――日向がタフなのかはわからないが、すでに流血は停止していた。

「あの、すいません……ハンカチ……」

「いいわよ、あげるから」

「洗って……」

 血塗れのハンカチ洗って返すのどうなのかな、と不安に感じて言葉が出てこない。

 別に気にしなくていいから、と抑え込む様に茶髪の少女は苦笑した後に、

「ほら、ここよ」

 と、言いながら、店の方へ軽く視線を送った後に日向の方へ視線を戻した。

「うー……此処なんですか?」

「そっ」

「やっぱり血塗れで良く見えませんね」

「当たり前でしょうが!」

 何か繋いでいる手から力がふっと一瞬抜けた。どうしたのかな、と日向は思うが彼の美9得ない眼前の少女は何処か呆れた様な表情を浮かべていた。日向のある意味なマイペースっぷりに脱力している様子である。とはいえ、このまま血塗れの少年にしておくわけにもいくまい。止血はしたが、手当は出来ていないのだから。

「本当、アンタが素直に病院行けば早い話なんだけどね……」

「あうー……すみません。でも、病院だけはダメなんです! 僕、保険入ってないし、お金も持って無いですし……」

 しょぼんと項垂れる日向。

 それを見て茶髪の美少女は「はぁ」と複雑そうな表情で溜息を零すと、

「ま、いいわよ。色々あるんでしょうしね」

「ありがとうございます……!」

 理解のある人で助かった!

 普通、少しは尋ねてきそうなのだがあまり問い詰めては来ない女の子の様で一緒にいて実にありがたいというのが日向の心情であった。

「ともかく、病院はダメとしても……、血を洗い流すくらいはしないとダメでしょうね。そんな血塗れでいさせたら次は警察に捕まるわよ?」

「御上は許してください」

「アンタはヤクザか何かか!」

「でも警察は苦手なんです、ずっと昔に『ジソー』と言う怖い響きの場所に送られそうになった事があるんですよ? 怖い語感でした。『ジソー』……多分、お地蔵様に類するものだと僕は考えていますけど、今に至る過程で悪意に塗れた存在と化しているのではないかと思います。昔の言語が訛ったものじゃないかと考えていまして、『児葬』――おそらくは、字体はそう言ったものだと思います……! 今、思えばあの警察たちは本当に警察だったのか否か……不思議な話です」

「確実に警察だったと私は思うわよ!? それもかなりいい警察だと思うんだけどね? って言うかアンタ、そこは普通に送られた方が幸せだったんじゃないの!?」

「無茶言わないでください、怖いですよ『ジソー』」

「アンタの勘違い色々修正加えないと大問題じゃない!」

 尚、当然の様に日向が恐れる古き悪しき宗教儀式的な何か――と思い込んでいるのは無論、児童相談所の事であり、周辺住民から『マンホール下で生活している子供がいる』と言う通報を受けた警察官が救出に向かったが、警察の告げた『児相』と言う言葉を語感で畏怖するものと判断してしまった日向が最大出力で逃走――結果、彼は保護される機会を失った――というのが真実であったりするのだが今日まで生き続けた彼には最早縁遠い話である。

「とにかく、僕は警察はともかくジソーだけは金輪際、関わりたくないんです」

「そう。けど、児相の人たちが可哀そうな認識だけは何れ改めさせたいのが私の本音かしらね――ああ、けどここでその口論してても仕方ないか。何かさっきから道行く人たちがアンタの血塗れ姿見て目をぎょっとさせてるし」

「僕としては顔が真っ赤なの隠せて今は、ほっとしてるんですけどね」

「は? 真っ赤? 何でよ?」

 不思議そうに問い掛けてくる茶髪の少女に対して日向はとても自然に、何処か不思議そうに首を傾げてこう返した。

「だって綺麗な女の子と手、繋いでますし……」

「……」

「……」

「……」

「……あの、どうかしました……?」

「……別にっ! 何でもっ! 無いわよっ!」

「あ、ちょっ、手が……!」

 ギシ、ミシ、と鳴る日向の手。先程の脱力とは違い、強くなったり激しくなったり荒々しくなったり……と握り具合が変化した。

 対する茶髪の美少女は、

(何かコイツと話してると時々無性に恥ずかしくなるわね……! あそこでも何か可愛いとか連呼してたのもあるし……ああ、もう!)

 と、空いている片方の手で仄かに朱に染まった頬を隠し「ほーら、さっさとお店行くわよ!」と強行する様に日向の手を引き摺って行った。

 そうして店――『マリアンヌ・フレール』に二人は足を運ぶ。

 眼こそぼんやりとした見えないが、耳は自動ドア特有の《ウィーン》と言う音を捉えた辺り、店内へ入れたのだろう、と日向は推測する。唯、気にかかるのが……。

(……何か普通に入って来ちゃいましたけど血塗れの僕がお店来て平気なんでしょうか?)

 と、言うもっと早い段階で気付いておくべき事柄であったのは言うまでもない。

 すると店内へ入るやすぐに「ちょっと待ってなさいよ?」と言う言葉を残して日向の手を離して茶髪の美少女は日向を一度、その場に置いて店のカウンターの方へと足を運ばせる。

「――でね。――いんだけど――かしら―」

「――ほど――わよ――」

 ぽつりぽつりと会話の内容が断片的に耳に届いてくる。

 日向は自分の事に対する説明をしてくれているんだろうな――と判断しながら、約数分待っていると足音が戻ってきた。

「訊いてきたわよ。怪我の手当していいって」

 朗報だ。優しい声を耳にしながらほっと胸を撫で下ろす。

「でも本当にいいんですか? 血塗れなのに……」

「そりゃあね。普通のお店なら理解求めるの大変だし、即救急車呼んで病院送りは間違いないわよ、そんだけの怪我してたら」

 けどまぁ、と隙間を置いて、

「ここは一応、顔馴染のお店の一つだからね――だから何とか話が通ったわけだし」

「そうなんですか……!」

「? ……何でちょっと嬉しそうなのよ?」

「何となく嬉しかったんです」

「ふーん……?」

 何でかはよくわからないですけど、と首を傾げて返す日向。

「とにかく、さっさと顔――って言うか頭、洗ってきなさいよ。流石にこのまま此処に突っ立ってたら出入りする人みんな、びっくりするでしょうし……」

「それもそうですね」

 見る人みんなデンジャラスな光景を見るのは間違いないだろう。

 日向はうんうんと頷くと即座に洗面台のある場所へ目掛けて走り出す!

「ありがとうございます、では行ってきまはぐぁああっ!?」

 何と、途端に側頭部に衝撃が!

「目が見えない状態で走ってったらそうなるわよ!」

 アホかッ! と言う声に反省するも、

「凄い、目が見えないだけで世界が縮まったみたいです」

 当然ながら変な感心を示す。

 このままではゾンビのごとく歩く事になりかねない。

 日向がそう考えている矢先、日向の右手が温もりに包まれる――再び少女の手に握られていた。少女は目を細めながら本当に呆れた様な心配した様な溜息を発する。

「アンタ、本当に見てて危なっかしいわね……」

「これでも戦場では頼られた方なんですけどね」

「は?」

 手を握る少女もまさか最近まで戦場を生き抜いた傭兵――的な立場にいた少年とは露程にも思ってはいないだろう。

「とーもーかーく。さっさと洗面台で洗ってきましょ? いい加減、目痛くない?」

「血が入って初めから痛いです」

「……うん、素直に初めからいいなさいよ」

「男はやせ我慢が大事なんですっ!」

「道理で見てて心配になる奴だと思ったわよ……」

 茶髪の美少女は額に右手を添えて頭が痛いかの様に何度目になるかわからない溜息を吐く。


「ふっふーん☆ イシュリナさんとしてはぁ、やせ我慢は上手く使い分ける事がラブポイントだと認識しているよん☆」


 そこで突然に紡がれた別の女性の声――。

「……誰?」

 目が見えない日向が不思議がるのは当然――いえ、目が見えてても不思議がるのは当然でもあるのだが、唐突に聞こえた女性の声――いやにテンション高めな声に疑問を浮かべる。

 声の主は日向の方へ視線を――向けたのだろう。向けられたのかぼんやりとしか見えないが声の主は独特の青い髪色をした――と言う程度しかわからない。

「ほほぅ――ほほぅ、ほほぅ、ほほぅ、ほほぅ、ほほぅ」

「フクロウですかっ!」

「にっは☆ ごめちょりん☆」

 謝ったのだろうか――今のは果たして謝罪に類する言葉なのだろうか。

「何か相変わらずね……って言うか、何しにきたのよ、ガーデンベルト?」

「何をしに――とな。ふふん、訊かれたならば以下略ッ!」

「以下、略!?」

「甘いぜぇ……ごはんのおこげよりも甘いな少年!!☆」

「それもう甘くないです! 美味しいですけど甘くはないです!」

「この私が何故、どうして以下略――てんちょーのお言葉足る『あのね、イシュリナちゃん。あちらのお客様がちょっと大変みたいだから、お手伝いさんしてきてあげてもらえるかしら?』に従いまして馳せ参じた次第なのだよん☆」

「ああ、また何か略された!?」

「テンプレだからね。別に最後まで言わなくてもいっかなーってさ。ま、安心めされよ、一応こう見えて――見えてないか。こう聞かれて、手助けにきてやったんだよん☆」

「初めからそれだけで済んだ話よね……まぁ、アンタらしいけどさ……」

「無駄な事を無鉄砲に話すのがイシュリナさんメリットなんだよん☆」

「はいはい。とにかくさっさとコイツ洗面台へ連行するから、手伝いよろしくね」

「オッケー☆ んじゃ、大きめなタオル必要だねん☆ ナイロン、ナイロンっと……ポリエステルでもいいんだけど予備あったかなん」

「素材から用意しなくていいからね」

 後方で「てへっ☆」と言う効果音を発する少女を後に(何か、疲労感二割り増ししただけな気がしてきたわね……)と思いながら茶髪の美少女は洗面台の方へと日向を連れて向かって行った。

 やってきたのは店内奥の従業員用の手洗い場であった。

 普通に来客専用の一般トイレがあるのだが、血塗れの少年と言う構図が存在するのも問題だし、女の子である彼女が男子トイレに入るのも、男子である日向が女子トイレに入るのも問題と言うわけで裏に回されたわけだ。そこで少女に手で引かれた日向は白い洗面台の所にぽやっとした視界ながらも近づいてゆく。

「ここ――ですよね?」

「そうよ。水は自動みたいね――手早く洗っちゃいなさいよ」

「そうします」

 ざばーっと後頭部に降り注ぐ激しい勢いの流水。血塗れになった頭はどうにも熱気がこもっていた気がするのでこれは実にありがたい。冷たい水が頬を伝い血が取り除かれてゆくのは日向としては気持ちよかった。傍目見ていた少女は「洗面台が中々真っ赤になってくわね」と赤い水に満たされる光景に少し冷や汗を垂らしていたが。

「にしてもアンタ、男なのに随分髪長い方だから……乾くのに時間かかりそうなのが問題かしらね?」

「かもしれません」

 水で洗い流しながら日向は小さく呟く。

 歩いて来る最中に頭髪の三分の一程度に血が付いているだろうから、結構本格的に水洗いしなくてはならないわけで。そうすると必然、乾かすのには時間がかかる。つまり手間もかかるわけで……。

 そこまで考えた所で日向ははたと気づいた。

 水の切り間に見える視界で少女が時折時間を意識している事を。

「もしかして――用事あります……いえ、多分ありますよね?」

「あーうん……」

 少女は少し申し訳なさそうにしながら「用事と言うか何と言うか、って感じなんだけどね」と小さく呟きを零した。

「でしたら、僕の事はもう大丈夫なので行くださってって構わないですよ?」

「私としては若干不安が残るんだけどね……」

 安全地帯とはいえ、ここまでの遣り取りで十分不安になっており、最後までキッチリ面倒見た方がいいのではないか。そう感じる逸材であった――弦巻日向は。

「むぅ。大丈夫ですよ、へっちゃらです!」

「そう? なら……悪いけど、私はこの辺りでちょっと行かせて貰うわよ?」

 腕を組んで少しためらいがちに反応する。

 良い人だなぁ、と日向は心からそう思った。

 別に申し訳ないと思う気持ちなんて必要ないだろうに。彼女はお礼代わり――と言ってくれたが正直お礼する義理はほぼ無いし。なにより事故で吹っ飛んだだけで彼女が迷惑と手間を被っただけだと思うし……。ネガティブに成りそうな心を抑えて、日向は出来るだけハッキリとした声で答えた。

「はい。ここまで連れてきてもらって本当ありがとうございました!」

「別にお礼言われる様な事じゃないけどね」

「そんな事ないですよっ。……ただ、洗面台で顔洗いながらと言う現状が物凄くシュールな別れを演出している気がしてアレですけど……」

「ええ、そこは私も少し思った」

 くすりと微かに微笑を浮かべた後に「じゃ、悪いけど」と告げて少女は体を翻して元来た道を歩いていく。その彼女の背中に向けて「今度会ったとき、お礼絶対しますからね~」と左腕をぱたぱた振って見送った。そんな言葉に軽くひらひら手を振って――少女は去って行った。

 そうして日向は思う。

「だよなぁ……また、逢いたいなぁ」

 再会できると嬉しい、と思う。

 お礼がしたいし、面倒事だったろうに手を貸してくれた彼女にまた会いたいと願った。

 そしてそう感じるからこそ――日向は思った。

「……タオル、まだかな……」

 洗い流したので早く、頭乾かしたい、と。



 自動ドアの静かに閉まる音。

 軽く吹き抜けるそよ風に綺麗な茶色の髪の毛を揺らしながら、

「……ふぅ」

 少女は徐に息を吐き出して、そっと肩から力を抜いた。

「んー」

 リラックスする様に手を組んで腕をぐっと前に突き出した後に、微かに店の方を一瞥して何処か複雑そうな表情を見せる。

「何でここまで面倒見ちゃったかな、私」

 いや、まぁ放って置けなかったって部分もあるけども。と、小さく呟いて。

 助けられた――と言うよりも、むしろ助けた恩義の方が生まれてしまったしここへ至る経緯でも助けてもらったお礼――お礼と言うには助けられたわけではないし、ただ助けようと言う行動を示した事へのお礼だが――けれど、実際には見てて危なっかしい為に思わず、手を貸してあげた――みたいな結果に集約したのはあるのだが……。

(それにしたって何か普通に話せ過ぎた感はあるわよね……)

 それが変――と言うわけではない。

 だけれど少女は少しばかり、男と言うものに対して拒否感を持っている少女であった。拒否感と言うよりも距離感を置いている――と言うべきか。まぁ、どちらにせよもう済んだ話。完了した結末である。

 少年がこの後、どうなっていくのかは彼女には関係ないのだし他人同士で少し交流をした程度と言うだけの今日日の内容だ。もしかしたら後日思わぬ場所で再会したりとかするのかもしれないが、それはもしかしたら程度だ。見た感じ同年代であったが、だからと言って運命的に同じ高校なんてオチにもならないだろうし、と少女は簡素に区切る。

 それより、何より。

 少しばかり時間を割いたが、少女にも少女の目的――奇しくも少年と同じく母親から少しばかりお使いを頼まれて、街中を歩いていたと言うのが実態だ。あの母親の事だから遅くなっても理由を察してくれるだろうが、それでも外出して結構経過している。不良に絡まれたのも問題ではあっただろう。まぁ、その事で少年と関わりを持ったわけでもあるのだが……。

 それにしても本当に一緒にいると世話のかかる少年で――。

 気恥ずかしくなるようなことを言う奴だったな、と感想を抱きながら、

「さっさと帰ろっと。お母さんも待ってるしね」

 手に提げた袋を軽く持ち直し、少女は茶髪の髪を風になびかせて静かに歩き出す――。

「――わふっ」

 不意に衝撃とも言えない衝撃が『ぽふんっ』と言う音にもならない様な音と共に、少女の足元――左足首付近に感じられた。少女は足元に感じる異様なまでのふわふわ感と小さく響いた音に一瞬頭の上にクエスチョンマークを浮かべた後にそっと目線を下へ下げた。

「……えっと」

「ふぅー」

 まず初めに抱いた感想は丸っこい綿毛が何か動いてる、と言うものであった。

「ふー、わふー」

 次いで毛づくろいする様に頭の上を数度、前足と思しきものでくしくし撫でている姿にとりあえず生物なのを理解した。

「……犬?」

 記憶の中で一番該当する答えは正しく日本に数多く存在する動物『犬』であった。

「ふ? わふー」

 何か小首を左右に軽くふわふわ振って否定する。犬では無いらしい(※本犬談)。

 確かに犬と言っても様々な犬種がある。

 もし一番近しい種類を上げろと言われたらポメラニアンかボロニーズ辺りを答えるところだろうが、生憎とそのどちらにも該当しない容姿目の前の子犬的生命体はしていた。体がとても小さい事を考えればポメラニアンだが似ていない。ぬいぐるみの様なボロニーズと比べても更にぬいぐるみチックだ。だから例えるならばまぁ……子犬、なのだろうか。

「わぁふっ、わふーっ!」

 そして問題はやたら自分を見て嬉しそうに飛び跳ねていると言う事か。

(どうでもいいけど、跳躍力凄いんだけど、この子……!)

 この小柄な体躯で自分の胸元辺りの高さまで平然とふわりーんっと跳ねている辺り、尋常な犬ではない。それも軽く観察しててわかるのだが、足で跳んでいるわけではなく全身でスーパーボールの様に跳ねていると言う方が跳ね方として正しい。

「あー、うん……。何か嬉しいのは分かったからちょっと落ち着いて。ね?」

「わふっ」

 素直に応対し即座に縮こまって地面に座る辺りが良い子だと感心する。

 お座りを健気にしてくれた子犬的生命体を相手に少女は静かに身を屈めて、軽く頭を撫でたりしながら様子を観察した。

「んー……まぁ、とりあえず野良じゃないわね。清潔だし。とすると飼い主がいると思うんだけど……」

「わふー?」

 そんな少女の様子を見ながら子犬的生命体は不思議そうに小首を傾げた。

「ああ、うん。アンタの飼い主さんは何処なのかなーって。近くにいるの?」

「わふ?」

 口元に右手を当てながら不思議そうに頭の上にハテナを浮かべる。そりゃそうか、と少女は当然ながらそう思う。犬が言葉を理解するわけもないし――、

(……いや、ここまで何回か理解してた節があるんだけど……!)

 思い返すと会話が結構通ってたはずなのだが……。

 と言うかこの流れは迷子を助けた事に咥えて、迷い犬の飼い主探しもしなくてはならない流れに身を投じてはいないだろうかと少女は少し内心汗を浮かべた。まぁ、道に迷った少年に道を教えた事は些細な出来事だし、迷い犬一匹くらいなら平気だが……!

「まぁ、こんだけ特徴ある子なら、飼い主もすぐ見つかるかしら」

 何で今日こんなに道案内してるんだろうと思いつつも、関わってしまった以上は飼い主探しくらいやってあげるか、と少女は決定を下した瞬間である。

「いた――――っ!!」

「!?」

 左方から唐突に耳に飛び込んできた高い綺麗な声。歓喜を発する高めの大きな声に一瞬、少女はびくっと身を震わせながらも声のした方へ視線を向けた。

 そこには一人の少女がいた。

 深々とナイトキャップを被った小柄な少女。白を基調としたワンピースにゆったりとしたグレーのロングカーディガンを着ているが、服を下から押し上げる膨らみが激しく自己主張をしていた。頭に被るナイトキャップの下に覗く頭髪は銀色の混じった紫のセミロング。可憐な雰囲気をした一人の少女の姿が急ぎ足で駆け寄ってくる。

 少し息を切らせながら、帽子を右手で抑えながら苦笑交じりに彼女は呟いた。

「もー、勝手にいなくなるから何処行ったのかと心配しちゃったじゃない」

「わふー……」

 ちょっとしょんぼりとした様子で耳をふにゃっと力無く倒す子犬的生命体。

「ダメよー、気持ちはわかるけど、勝手に走ってっちゃあ……」

 優しい声でそう諭しながら子犬的生命体の頭を二、三度軽く撫でた後に少女は視線を茶髪の少女の方へ向けた。身長差から必然、見上げる形になる。

「え――えっと、貴女がこの子捕まえててくれたの?」

「捕まえてたって程じゃないけどね」

 肩をすくめて茶髪の少女はそう返す。

 嬉しそうにやってきたから軽く相手をしていた程度だ。茶髪の少女としてはそこまでお礼を言われる事でも無い。

「でもその分じゃ、この子一人でここまで……」

「うん、そーなのよね。勝手に走り出して行っちゃったと言うか、ね」

「そうなんだ?」

「あ、あははー……。急遽疾走しだしちゃったと言うか、何というか……ね」

 視線を逸すようにして気まずげに呟く少女に対して茶髪の少女は苦笑しながら、

「今度は逃がしちゃダメよ?」

 と、気さくに笑い掛けた。

「努力するわよ。……ただまぁ、この子の行動抑制出来る自身は左程無いけど」

「こら」

 ふいっと気まずげに横を向く仕草。

 少し可笑しくて茶髪の少女はくすりと微笑んだ。

 可愛らしい反応に思わず反応してしまう。

 今日は何だか色んな人に逢う日ね、と茶髪の美少女は何となくそんな事を思ってしまう。普段とは少しだけ違う光景であった。とはいえ、前半はやけにデンジャーな出会いであり光景となっていたりしたが。

 そして後半である小柄な体躯の少女はちらりと腕時計を一瞥すると少し慌てた様子で、トトンッ、とリズミカルで身軽な所作で歩き出した。

「あ、それじゃあ私はこれでね! わふー、捕まえてくれてホントありがとね!」

「ええ。それじゃあ」

 茶髪の少女も軽く手を振って朗らかに見送る。

 その言葉ににこっと破顔しながら、帽子の少女はナイトキャップを右手で抑えながら、嬉しそうに言葉を返した。

「うん、ありがと! 貴女も今日、この日が幸多からん事を願ってるわよ」

 そうして走り去ってゆく小柄な背中。

 接していると心が爽やかになる様な女の子だったな、と印象に思いながら、彼女とは違って一緒にいると危なっかしくて世話やきそうになる男の子の事も脳裏に思い浮かべながら、今日は色々あったけど何か面白くもあったなと感じながら、茶髪の美少女は自らの家へと足取り軽く綺麗な茶髪を静かに揺らしながら、彼女の姿もまた遠のいていくのだった。



 水洗い。

 止血も終了。

 流れ出ていた流血も今はどこぞへと去った頃、

「うん、さっぱりっ!」

 輝かんばかりの笑顔を浮かべて日向は純白のタオルから顔を離した。

「乾かせたかなん?」

「はい、どうにか!」

「そりゃ良かったねん☆ あ、ここに飲み物あるから水分補っておくといーよん☆ それとこれお願いされた地図ね☆」

「あ、ありがとうございます!」

 そう言ってテーブルの上にはペットボトルの『Oh! お茶』と、コップ。それと彼女の手書きと思われる地図用紙が一枚乗っていた。

「ふふん、崇めるといいよん☆」

「真にありがとうございました。やー、凄いですねこのタオルふわっふわでした!」

「ふふん、イシュリナさんお手製タオルだからねん☆ ふわっふわでしょ☆」

「はい、ふわっふわでした!」

「出来立てほやほやだからねん☆」

「なるほど――……本当にナイロンから作ったんですか……?」

 さて、どうでしょう? と、言わんばかりの表情だ。その顔を日向は知っている。気にしたら負けだ――よくよく身近な上司が浮かべたりしている分類の表情だ。

 さて、そんな目がしっかり見える様になった日向の前に立つ女性店員――先程まで、茶髪の美少女と会話劇を繰り広げていた少女でまず間違いない。耳に覚えのある独特のハイテンションさは否応にして忘れがたい。唯、驚いた事は日向とそう変わらない年齢――一つ、二つ上だろうという若さ。少女がため口で話していたのも頷ける。

 実際には日向の想定とは違う理由から彼女はため口を訊いていたのだが……。

 そして次いで驚いたのはその美貌であった。

 先程まで話していた茶髪の美少女も超美少女であったのは間違いない。しかしこの女性店員も相当に美少女であった。彼女と同じくモデル体型であり、彼女以上に胸の自己主張は激しいだろう。濃い青色の頭髪に何処か不思議な色彩の瞳。整った顔立ち――と、相当な美少女であった。日本人とは別種の美しさだ。胸元にあるネームプレートには片仮名で『イシュリナ=ガーデンベルト』と明記されている事から確実に外国人だろう。イギリス辺りだろうか? 何にせよ相当な美女。そして、それゆえに――。

「およ? どうしたのかな、そんなに視線を送ってきちゃって? むむっ、ポンポコポーンと来たよ、さてはアレだね? イシュリナさんに見惚れちゃったね、しょーねんよ☆ はっはっはー、罪深いなぁイシュリナさんの美貌も☆ だが、しかぁし、惚れちゃダメだぞ☆ そんな事をすれば彼女が泣いちゃうよん☆」

 このキャラは見事にそれら全てを蹂躙しているなぁ、と日向は思った。

 美人なのだ。それも、かなり。

 だがこのある種うざいまでのハイテンションと唯我独尊は者見事に彼女から美貌と言う二文字をぶっ壊している感はかなり強かった。その上、日向はなんとなく感じる。この人は関わったらかなり疲れる相手であると――そう、身近な人たちと同じように!

 そんな失礼な事を考えている日向もまた同様に別の意義で周囲を疲れさせるキャラであるのだが――彼はその事に気付く気配は無かった。

 それよりもむしろ気にかかったのは――、

「すいません。彼女って何の事でしょうか?」

 首を傾げて問い掛ける。

 彼女の唯我独尊自画自賛の後に呟かれた言葉が覚えが無くて気にかかったのだ。

「それは当然――君をここまで手引きした彼女の事だよん☆」

「ごほっ」

 勢いよく咽た。特に何もないのに咽た。

 そして真っ赤な顔をして日向は叫ぶ!

「いやいやいやいや!? 違いますよ!? あの人は迷惑かけちゃった相手であって、彼女さんとかそういう関係では無いんですけど!」

「んー、そーなの? 珍しいんだけどなぁ」

「珍しい?」

「そだよん☆ やー、彼女が男連れでお店来ることなんて見た事ないからねー、お兄さんと一緒に来たりはあっても、ねん☆」

「そうなんですか?」

「そそそ。浮いた話が無い子でさー、ホント☆」

「へー、そうなんですか……」

(あんだけ美少女なら彼氏さんとかいておかしくなさそうなんですけどね……。そっか、浮いた話がないのか……。…………。……よしっ!)

「何故、ガッツポーズなのかなん?」

「……? ……何ででしょうね?」

 不思議そうに小首を傾げる。確かに、何で小さくガッツポーズしてるんだろう、と日向は思って握り拳を解くと、

「まぁ、とにかくですね? 僕は迷惑かけちゃっただけで、あの人とそう言う関係と言うわけではないんです」

 改めて訂正を入れる。

 変な誤解をさせたままでは彼女にも迷惑になるだろうし、と言う日向なりの判断であった。

 その言葉に店員は、

「うん、知ってるよん☆ お店に来たとき、いの一番で同じ事吹っかけて呆れながら対処してたからねん☆」

「じゃあなんで僕に尋ねたんですか!」

「いやー、あの子が本心で言っているのか……私なんかの眼で見た程度じゃあわかりっこないからねん☆」

『キラッ』と言う効果音が鳴りそうなウインクを放つ店員。

 そしてその表情のまま続けざまにこう述べた。

「それと彼女の反応がつまらなかったので、純情そうな君に同じ事尋ねたらどうなるかなんという悪意に淀みまくった悪戯心からかなん……☆」

「この人性質悪い!」

「いやはや、中々初心な光景を見せてもらってイシュリナさん腹一分程度に満足だよん☆」

「酷い! 僕の純情、全く価値無い扱い受けてる!」

 訊かれて結構恥ずかしかった日向としては不貞腐れ気味に唸った後にタオルで頭髪に残された水分をわしゃわしゃと拭うべく奮闘する。

「うーん、やっぱり長髪だけあって、乾くには時間いりそうだねん。ドライヤー使ったら?」

「いえ、いいです。時間無いんで……帰る間乾くと思いますし」

「そっか」

 簡素に呟いて頷くと、女性店員イシュリナは表情を少し店員モードへと切り替える。

「それじゃあ、お仕事の方の話だけど――迎洋園家の使いで来たんだっけ?」

「はい、その通りです」

「なる。となると……迎洋園家が事前に注文している、これを持って帰ればいいはずだよん☆」

 そう告げて手渡されたのは銀色の缶であった。ここが紅茶店であり、先程までのやり取りを見ればまず間違いなく中身は紅茶であろう。銘柄は『オリジナル・ブレンド』とこの店のシンボルマークと共に記載されていた。

「それが迎洋園家が注文する品だねん☆ 当店特製ブレンドだよん☆」

「へー、おいくらなんでしょうか?」

「七千円☆」

「……」

 何か凄い高額を言われた気がする。これがお金持ち御用達の茶葉と言う事なのだろうか。何か癪残としない気持ちのまま、日向は現金で七千円を支払うと、イシュリナは「んじゃ、包装するからちっと待っててねん☆」とこれまた豪華な紙袋に詰め込んでゆく。

 そんなイシュリナに対して日向は店員としての手馴れた仕事手つきを感心しつつ――その内面ではある事をふと思い出し、さり気無く訊く機会を窺っていた。そうしてものの四十秒程度で包装を終えた品物を手渡される際に日向は徐にこう切り出した。

「あの、そう言えばなんですけど……」

「ん? 何かなん?」

「その……僕を此処まで連れてきてくれた女の子の名前とかって……わかりますか?」

「当店ではお客様のプライバシーを尊重し、個人情報の開示等は行わない様に心掛けておりまして――あ、申し訳ございません少し110番をかけさせて頂いても?」

「よろしくないです!」

 持ち上げられた受話器を即座に元の位置へ戻す。受話器が『なんでぇ、おっさんの出番ねぇべかよ、つまらねぇだぁ』と語りかけてくる様だが気にしない。対しイシュリナは「ゴメン、ゴメン、ちょっとした悪意だよん☆」と謝罪になっていない謝罪を返す。

「いきなりシリアスモードにならないでくださいよ焦りましたよ……!」

「ごわっす!」

「それは謝罪の意味が篭る言葉ではないですけどね!」

「にははん☆ ――けどねー、名前訊かれたらなるべくはこういう行動取るよん? なんたって、彼女、超美少女だからねん☆ ストーカーとかナンパ野郎とか勘違い野郎とかだったりしたら事態が大変な事になっちゃうからねん」

「あう。それは確かに……」

 初対面の女の子の事を間接的に詳しく知ろうとするのは確かに客観的に見て危険だった……そう気づいて日向は項垂れる。

 そんな彼を見ながらイシュリナはそっと苦笑した。

「ま、大体察しはつくけどねん。さっき聞こえてきた限り――お礼したいんだねん☆ ……それ以外はまぁ、危険な感じも受けないし……そうでなくても、彼女が行動共にしたんなら危ないって事もないか」

「え、それじゃあ――」

「名前だけだよん?」

「はい、それだけで構わないです!」

「そっか。じゃあ教えておくけど――彼女の名前はエリニャンだよん☆」

「エリニャンさんですか……!」

 可愛い響きだ! と、日向は胸にその名前を刻み込んだ。

 それが訊ければ後は問題ない。名前と声を頼りに――そうでなくてもまた何処かで合えるかもしれないし――その時にお礼を返そう。

「それじゃあありがとうございました、ガーデンベルトさん!」

 踵を返し、軽く早足で店を後にしようとする。去り際に軽くイシュリナに向けて感謝を述べながら。イシュリナは軽く微笑みながら、

「ん☆ エリニャンに逢ったら頑張りなよん☆」

 そう、小さく手を振って彼を見送った。

 そうして『マリアンヌ・フレール』の店内から少年の姿が去った後に。

「くふぅ~……! 純粋で鵜呑みしやすい面白い子だねん!!☆」

 思いっきり嘘を叩き込んだ彼女は今後の展開に期待大で目を輝かせた。

 そんな彼女の背後では一人の十字架のネックレスを首に掛けた金髪碧眼の綺麗な女性が「……いえ、何をしているのですか、貴女は」と呆れる様な視線を送っているのであった。



 弦巻日向は何処か嬉しそうに足取りを弾ませていた。

 言わずもがな、恩人の名前を訊けた事に由来する――流石に街中でスキップかますのが一般的な事では無いのは承知済みである事から、彼の内心はまさしく浮き足立っている、と言えよう。

「残念なのはチラリとしか顔見れてない事なんですよね……」

 その後も血が目に入ってた事もあってぼんやりとしか認識出来なかったし、と残念そうに呟いた。そこが案とも心残りだ。洗面台の時は髪の毛が水で張り付いていたのもあって、人に頭下げられる状況ではなかったし……。

「でもエリニャンさん……声、綺麗だったよなぁ」

 女の子に優しくしてもらえて若干ほわほわ状態の日向になっていた。

「……でも、良く考えたら名字教えてもらってない……まぁいっか」

 それ以前に本名でもないのだが基本アホの子である日向は正しく鵜呑みにしていた。

「それはそれとして。思考切り替えないといけませんよね、うん」

 ぱんぱん、と頬を両手で軽く叩いて、浮ついた心を仕事モードへ切り替える。

 迎洋園家から仰せつかった仕事は一つではないのだ。

 一つ目は『マリアンヌ・フレール』に於ける買い物。

 それに加えてもう一つ、買い物の指令が出ているのだ。事前に渡されたメモ用紙には『La Paix』と言う店名が表記されている。追記を見る限り、バーであるとの事だ。そこでワインを購入してくる様に、とある。

「ワイン……」

(……僕が買ったら犯罪にはならないだろうか?)

 そう思い文章を読み進めてゆく。

 ――いいか? バーに行ったらやる事は一つ。ワイン買ってきな。

「いえ、未成年だし購入出来ないと思うんですが……」

 ――犯罪なんて恐れるな!

「いやいやいやいや、犯罪確定してるじゃないですか!」

 ――大丈夫、バレなきゃ平気だって。

「それ最悪の考え方ですよねぇ!?」

 ――なんだよ文句ばっかかよ、うるせぇなユミクロは。

「わかってはいたけど、この文章やっぱ書いたのひじきさんか! って言うか先読みされてる!?」

 ――あ、ちなみに『La Paix』のバーテンダー、未成年に酒絶対売らない人だから安心な。

「なら、はなからワイン買えなんて無茶振りしないでくださいよ!」

 ――って事でユミクロにワインは買えない。正確にはその店で純国産高級オレンジジュース買ってこいって課題だからよろしくな。やー、切らせちまったんだよな、昨日私が一人で飲んでさ。

「何だろうしわ寄せを受けただけに思えてきた!」

 実の所、今回の買い物はバーガンディの考えでは紅茶を購入するだけだったが、丁度切れてしまったものがあった為に批自棄がプラスアルファしたのがこの買い物なのだが――当然、日向が真実に気付くはずもない。

 何にせよあの批自棄が容赦ないのはいつもの事――日向は嘆息交じりにメモ用紙を折りたたんで、手にした地図を一瞥し歩き出す。

「うん、イシュリナさんに地図書いて貰ったのは助かったな……わかりやすい」

 地図が山羊に食べられた不運があったが、イシュリナにお願いして書いて貰った地図は実に明快でわかりやすかった。あの人、地図作りの才能ありますね、と素直に感心する。

 見た感じではどうやらそう遠く離れていない様だ。

 イシュリナがこの地図を書いている時に呟いていた。

 ――小笠原のおじさんもこの店、結構来るからねん☆ 近場何だよん☆

 と、言う旨の発言は正しいらしい。

 どんなお店なのだろうか。

 日向は少し楽しみにしながら横浜の街並みを歩き出す。

「エリニャンさんに案内してもらった『マリアンヌ・フレール』もいい感じのお店だったし、迎洋園家も良く足を運ぶって言うし……きっといい店なんだろうなっ」

 訪れた『マリアンヌ・フレール』は実に雰囲気のいい店であったと日向は思う。

 イシュリナも嫌にハイテンションでこそあったが良い人物であったし、店長も会釈した程度だが人柄の良さそうな女性だった……色々驚きはあったが――まぁ血塗れの少年がやってきた段階でそこまで驚かず洗面台を貸すと言う段階で中々凄い店ではあるよなぁ、と何となしに感心もしてしまう。

 ああいう雰囲気のお店はくつろぎ易くてありがたく――故に、『La Paix』もどのような店なのか少し楽しみに感じられた。次の店へ向かう日向には先程の迷子状態と比べて心のゆとりが多きく持てていたのであった。

 茶髪の少女に何だかんだ言われつつも面倒見てもらえた事、無事買い物を済ませられた事、そして地図を貰え、更には近場の為に地図を記憶出来た事も大きい。これで仮に無くしたとしても道順は問題無くなった。

 そうなると久方ぶりの横浜の街並み――歩きながら景観を楽しむ程の余裕も生まれてくる。

 やはり都会だけあって飲食店、洋服店、デパート、スポーツ用品店、本屋と幅広いジャンルの店が立ち並んでいる。そんな中で目についたのが家電屋の『コマダ電機』だ。一階層に展示されている何台もの展示テレビに映る内容に対してふと目が喰い付いた。

 喰い付いたと言うよりは、待ちゆく日向と同年代程と思われる青少年たちの注目が集まっているのも大きな要因だった。

 何だろう、と思いながら足を止め、そこで視線を向けてみるが、

 ――それでは元となるシステムはすでに完成されている、と言うわけですか?

 ――ええ。そうなりますね。すでにフェアで公開した様に仮想現実ダイヴシステムである『BS』は大まかには完成しており、後は肉付けを補って完璧なものに仕上げていく段階に入っているわけですからね。

 ――そうなりますと、残る問題はソフトの方ですが――

 ――ご心配なく。すでに弊社の方でプレイヤーの皆様の満足の行く出来栄えのものを構想し制作を進めております。極秘ですので、詳細は控えさせて頂きますがね

 テレビ画面の中ではソファーに座った二人の男女を中心とした六名程の人物による会話が成されていた。男性に質問している女性はアナウンサーなのだろう。

 問題は受け答えしている男性の方か――。

 三〇代と思しき黒髪に銀色の瞳をした日本人男性だ。画面越しに見ていても何か引き込まれる様な力を感じる――カリスマと言うものなのだろうか。ただ、日向にはいったい何を話しているのかがサッパリわからなかった。周囲の集客が一様に『おお……』と感嘆の声を上げている事から凄そうと言うのは伝わるのだが……。

(やっぱりよくわかりませんね)

 んー、と目を瞑って内心お手上げする。

 話題が何なのか、流行が何なのか相変わらず乗りこなせないものだ。日向は丁度、後ろの人が良く見たそうに体を左右に動かしていたので、その人に場所を譲って、横へ歩き出す。ふと、別のテレビに映っている画像が目を惹いたので見てみれば、音楽番組が放送されている様であった。

 世情に左程詳しくない日向でも知っている有名な音楽番組だ。

 相変わらず、司会を務める真紅のサングラスを掛けた男性は荒ぶる名司会者っぷりを発揮しているのが何とも勇ましいと思いながら、流れてくる歌声は何処までも透き通ったクリスタルヴォイス。

 綺麗な声だ――。

 映像に映し出されていたのは歌手――と言うよりも歌姫だ。

 日向でも知っているメジャーな人物、世界の歌姫とまで言われる世界的歌手『CRANE(クレイン)』――歌っているのは『Dear Your Heart’s』と言う曲だと記憶している。客席に座っている人物も見覚えのある人が実に多かった。ソウル・ロックシンガーと呼ばれる『日守(ヒモリ)ユウク』。大人気アイドルグループ『ピスタチオ』に、孤高のミュージシャン『笛吹(ウスイ)吟遊(ギンユウ)』と言った大物面子がそろい踏みだ。画面右端に『すぺしゃる!』と銘打っているだけの事はあるなぁ、と日向は感心した。

 その他にもテレビでは大型新人アイドルの宣伝も熟している様で、流石はアイドルを志すものたちと納得する様な美少女がCMでCD告知を大々的にしていた。『津花波(ツハナハ)聖紫花(セイシカ)』、『愛冠(アイカップ)たんぽぽ』、『神流(カンナ)結月(ユヅキ)』……等々。

 音楽業界は相変わらず黄金期驀進中ですね、と一人ごちる。

 少ししてテレビに意識を向けて寄り道しているのも飽きた――と言うか、買い物途中であるのでこれ以上時間を喰うのも問題だと思い、街並み見学もひと段落させて、日向はおもむろに歩き出す事とした。

 待ちゆく景色。

 過ぎ去る人々。

 時折、仲の良さそうなカップルを見て少し羨ましいと思いつつ、自分には縁遠い話と嘆息を浮かべながら日向は寄り道せずに足を進めて行く――。

 そして歩く事五分。

 日向の前には一件の厳かな店が構えていた。

 落ち着きのある深いグレイの色に包まれたバーであった。看板に書かれた店名は『La Paix』とある。間違いなく日向の探していた店の名前だ。扉に手を当てて、果たして未成年の自分が此処に入って平気だろうかとか少し考えたが考えても仕方ないと断じて、日向は静かに扉を開いた。鈴が鳴る様な、ベルが鳴る様な音がしたと同時に鼻に感じ取ったのはお酒のふわりとした香りであった。

 店内の客層はやはり大人の男性が大半を占めている。

 所々に女性客も見えるが、やはり男性が大半だ。

「……?」

 そこで不意に日向は眉を潜めた。視線が嫌に突き付けられている――そんな感覚だ。誰かが見ていると言うのに気づき、ふと視線を、視線が来る方向へ向けると、店内の一番奥の席。そこには一人の男性がいた。暗め茶髪に黒の瞳――と普通の人物だが体格はかなりいいし、何より何処か似通ったものを感じる――と言うのが日向の第一印象であった。

 そして同時に何か見覚えがある様な……と日向は記憶を探ろうとしたが、

「いらっしゃい」

 と、渋いミドルな声がかけられた為に思考を中断した。

 その声の方へ顔を向ければ、そこはカウンターの中――体格のいい見事なやせマッチョを体現した男性がいた。口髭を生やし、何処か人生を悟った様な雰囲気すら感じるナイスミドルな四〇代前半と思しき男性だ。

 彼の名は小笠原(オガサワラ)諸冬(モリトシ)

このバー『La Paix』を切り盛りするバーテンダーであり、マスターである。付近の住民からは『小笠原さん』と親しまれる男性だ。

「そこの席が空いてるよ」

 告げられた席は丁度、先程視線を向けていた男性のカウンター席の隣であった。やはりどこかで逢った様な気はするが思い出せない。まぁ気にする程でもないのかなと考えながら、そこに座る。隣の男性は軽く座り方を直して、席に余裕を持たせてくれた。

「御注文は?」

「マスター。バーボンをロックで」

 やれる限り『キリッ』っと言ってみた。

「牢屋までご一緒するよ」

「すいません、冗談です」

 弦巻日向の『人生で一度は言ってみたかったシリーズ』が一つ達せられた瞬間であった。

「とりあえず、オレンジジュースでも飲むかい?」

「はい。それじゃあ、それで」

「了解。…………。……お待ち」

「ありがとうございます」

 寡黙な店主の慣れた手つきで注がれた黄金色にすら思しきオレンジジュース。差し出された一杯を受け取ると、日向はそっと口に含んだ。瞬間、口の中に爆発する香しさ、甘さ、酸味が混然一体となって口中を、体中を潤してゆく様な爽快感であった。

「凄い、美味しい……」

 あまりの美味しさに思わずぼーっとなる。

 これが批自棄の独り占めしたと言うオレンジジュースであれば納得だ。

 そこで日向は当初の目的を切り出した。

「あの、すいません」

「こちらが当店の誇る純国産百パーセントオレンジジュースになる。これを持ち帰ればいいはずだ。持っていきなさい」

 間髪入れず、目標が目の前に現れた。

「……」

 日向は少し唖然としつつ、目の前でグラスを拭く店主に向けて、

「……まだ何も言ってませんけど!?」

 と、盛大にツッコミを入れた。

「目的はこれじゃないのかね?」

「いえ、これですけど。これで間違いないんですけど……!」

「何か問題が?」

「問題と言うか、僕まだ何も言ってないんですけど! 言う前に全部言われて出てきたんですけどマスターはエスパーですか!?」

「エスパーなんて大層なものじゃない。唯、お客の事がわかる。それだけでしかない」

 そう言う問題なのか。そういう問題なのだろうか?

 日向は釈然としないものを感じながらも出てきたオレンジジュースのボトルを受け取ると、指定された金額を支払い、マスターにお辞儀する。オレンジジュースの金額にかるく衝撃を覚えながらも商品を手に席を立った。

「……」

 その際に軽く隣の席の長身の男性が再び視線を一瞥してくるが、やはり何も言ってくる気配はない。考え過ぎかなと断じて、日向は店主にお礼を言って店の扉を開ける。

「それじゃ、本当にありがとうございましたー」

「ああ。お買い上げありがとう」

 相変わらず寡黙なマスターはコップを磨きながら日向を見送る。

「またのご来店をお待ちしております。……それと片方、修行が足りないぞ、右腕」

「?」

 何の事だろう、と不思議に思いながら――日向はそっとその場を後にした。



 外に出て購入した二品を手にやり遂げた感がマックスな、軽い足取りで元来た道を歩いてゆく。間違いなく屋敷へ戻るべく歩き出していった彼を見守りながら彼女は呟いた。

「全く、まだまだだな、ジョースケは。窓越しに右肩から半分見えてたぜ?」

「確かに自分とした事が迂闊ではありました。ですが……」

「ですが? 弁明しても良い事ねーぜ?」

「それは自分も男らしくないとは思っております。――ですが、それでも店の真向かいに立つビルの五階にあるカフェの窓際席にいるのにどうして気付かれたのか納得はしかねます!」

「いやぁ、そこはアレだよ。小笠原さん相手だし、そりゃあ落第点もつくって」

「毎度、思うのですが、あの店の店主も何者なのか……! それに、この距離で声を訊けているひじきさんも何者かと言う話なのですが……」

「いやぁ、そこはアレだよ。ひじきさん相手だし、そりゃあそう言う事にもなるって」

 後はメイドだし? と物凄くかったるそうに返す批自棄。

 上杉龍之介は(やはり自分はまだまだだ! もっと精進せねば!)と一人決意を新たに考える。

 そんな龍之介を余所に口にストローを咥えつつ、批自棄は満足そうにニヤリとした笑みを浮かべていた。当初は、あの乱闘騒ぎで手助けがいるかと思ったし、血塗れになった事でも危ないかと思ったがどうにかこうにか熟せたようで何よりだ。

 理解力のある店員達に恵まれたのも大きいだろう。

 買い物も済んだし、このまま帰還すれば、まぁ買い物に関しては及第点は間違いない――そう感じて上司として実に嬉しくなるものだ。

 さて、ともすれば残る事は途中まで今まで通り追跡し、そこから屋敷で出迎えられる様に先回りを果たす――それだけだ。

「やっとだぜ、ったく」

 批自棄はわしゃわしゃと髪を乱雑にかきわけながら、

「予想外に色々起こり過ぎてヒヤヒヤしたっつの」

「ですね。特にマンホールの事は……」

「全くだぜ」

 ひらっと両手を広げて疲れましたよ、とアピールする批自棄。

 ただ、少し気がかりな事が彼女的にはあったりもしたが……今は、日向の試験に関して考える方が優先である。

「んじゃ、さくっと熟そうぜ、ジョースケ」

「はい!」

 テーブルに手を置いてすっと立ち上がる。その表情はしてやったり――と言った様子の凶悪な笑顔でもあった。相変わらずの笑顔だな、と思いながら苦笑しつつ上杉龍之介も立ち上がる。

 そして二人は途中まで日向の身辺警護をそれとなく、しつつ屋敷へ無事帰還したのであった。


        2


 何で最後まで見守らなかったのかなとか凄く後悔した。

 結論から言えば『遠足は帰るまでが遠足』なのである。

 それは即ち、ここまでくればもう安全だろうと言う考えも、予想だにしない場所であっけなく崩れ去るのに似たようなものであり――、

「……」

 絶望の表情を浮かべ涙目で震えながらボロボロになった従僕服を身にまとう、さっきまで確かに平穏無事であった少年に対してどう声をかけたものか熟練の従者たちも唯々、無言で視線を送って冷や汗を垂らす他に無かった。

(何で!? 何で!? 何で、残りあと少しくらいの距離でコイツここまで事態が絶望方面へ逆転してんだ!? さっきまで確かに順風満帆みたいな感じだったのに!?)

(ひじきさん。自分は彼が不憫でならないのですが!)

(いや、わかってるよ! 頭からオレンジジュース被ってて、服もボロボロになってて着れたもんじゃなくなってる紅茶の袋も取っ手だけ残して無いっつー現状を見れば、ユミクロが不憫なのは重々承知だっつの!)

 そんなどうにもし難い空気の中、まず動いたのは――執事長バーガンディであった。

 彼はコホンと咳払いを一つした後に、

「え、ええっと……弦巻君。話したくないかもしれんが……何があったのかね?」

 と、出来る限り優しい声で問い掛けた。

 すると、日向は涙目でぷるぷるしたままどうにか語りだした。

「途中まで無事に帰ってたんですけど、途中で黒塗りの車が目の前で停止して何だろうって不思議に思ってたら中から強面の人たちが現れて何か一通り喋った後にいきなりガンつけられ初めて、突然大声で怒鳴られて蹴りを加えられ始めて、それで持ってたオレンジジュースが破裂して頭から被っちゃって、やばいと思って逃げようとしたらどっからか取り出した日本刀で切りつけられて紅茶店の袋、取っ手から下が切り落とされちゃって、けどどうにか逃げたはいいんですけど隠れながらお屋敷に帰還するしかなくて気付いたら洋服もズタボロになってて、それで……こんな、なってて……」

 バーガンディはぽんぽんと頭を軽く撫でた後に両肩に手を置いて「大丈夫、大丈夫だから。もう安心だからな」と涙ぐみながら優しく諭した。

 そして批自棄達は……。

(いや、どんな事態だっつの怖ぇよ! 何が起きたんだっての!!)

(どうして喧嘩をふっかけられたのか自分には全くわからないんですが!)

(と言うか……不憫ですね、日向君本当に……)

(ええ、ホントですわね……ここまでとは……)

(で、ありますな……)

 同情的な視線が数多く寄せられる中――。

 弦巻日向の従僕試験の現時点での持ち点。

 現在、『買い物1』である。



 さて、時間は約40分程、経過した。

 日向の衣服――ズタボロになった衣服と、体中のけがの手当てを済ませた後である。

「不幸な出来事がありましたな、と同情禁じ得ませんが……まぁ試験は試験。公平にと言う事で……そこ、お嬢様方軽くブーイングをしていない。仕方ないでしょう、ここは公平になさなくてはならないのですから……」

 そう若干説明し辛そうにバーガンディは述べた。

 彼とて同情はしている。

 しているが――試験は別だ。買い物はしたが、その後の商品を一品も持ち帰れず、更には破損した上に従僕服も台無しとくれば評価は一点しか与えようがない。途中までは成功していたから一点を与えられた――様なものでゼロ点でもおかしくない程だ。

「弦巻君も。モチベーションはきついだろうが、まだ諦めてはいけない。頑張りなさい」

「はい、もちろんです!」

 ただし、そんなバーガンディの心配とは裏腹に彼は結構モチベーションが下がっている様子には見えなかった。存外、精神面が強いのかもしれない――と思うのだが、熟練した従者たちにはわかる。

『アレは自己評価最低の結果、逆にハイになってるだけだッ!!』、と言う事に。

 諦め過ぎて壊れてるようなものだ。

 危険だ……と感じながらも試験は続行せねばならない。とりあえず変な事にならなければいいが、と言うのが周囲の見解である。

 暴走し過ぎない程度に歯止めとしても気を配らなくては……。

 そう考えながら従者たちは次の課題へと意識を移した。

 その課題とは――、

「次の試験はズバリ、料理試験ですな」

「料理……」

「そう、料理」

 人差し指を立てながら一度頷く。

「とは言えども、我々はあくまで執事。主の身の回りのサポートが仕事であり、正直なところでは執事に料理と言う分野は必要ないものとも言えますな。事実、我が迎洋園家には熟練の料理長もいる事からさして料理をする必要はありません――がッ、しかし料理も執事の身だしなみの一つとして習得する必要性がある、と言うのが私の見解になりますな」

「なるほど」

 確かに料理のできる執事のイメージはかなり大きい。

 執事の身嗜み程度には――日向も料理が出来る様になっておかねばならないと言う事だろう。だが日向はあえて思う事がある。

(詰んだぁああああああああああああああああああああああ!!)

 いや、事前に料理試験が来るのは理解していたけれども。

 やはり、いざ直面すると実感が湧いてくる。

 料理――自分にとって未知の世界である。無知に満ちた様な料理技術しかない日向から言わせて貰えばとてもではないがバーガンディの期待に添えるものは出来ない気がした。

 はたと目線を批自棄の方へ向けてみれば、

「……」

 見事なまでに「諦めろ」と言う旨の表情をしている。

 万に一つも勝ち目が無い事を理解しているのだ。

 そんな二人の内心を当然、知る由も無いバーガンディは穏やかな表情を浮かべて、

「なに、そんなに緊張する事はない。頑張ってやり遂げる姿勢を見せてくれればそれで構わんさ。何も、料理長や学院の料理科の生徒の様な力量を求めているわけではないからね。普通でいいのだよ。それほど気負わず、頑張りたまえ」

「……は、はい……」

 委縮した様な日向の様子。

 その普通が出来てねぇんだよ、とは批自棄は言わなかった。

「それで、執事長。僕は何を作ればいいんでしょうか?」

「ああ、題材の事だね。それは今から私が実際に披露するので、安心しなさい」

 そう呟くとバーガンディは何処からともなく、仮設の調理器具を料理台と共に運んでくる。その台の上には具材と思しき食材がずらりと並んでおり、特に目を惹くのが多種多様なチーズに束となって用意されている黄金色の細長い食材――。

「本日のお題は、代表的なパスタ料理の一つ――スパゲッティ・カルボナーラだ」

「……え?」

 あ、詰んだ。

 そんな言葉が日向の脳内を埋め尽くしたのは最早言うまでもない事であった。



 バーガンディの洗練された調理技巧――それはまさしく流麗と呼ぶに相応しい光景であった。白く輝くパスタソースが麺全体に浸透した、その美しさは素晴らしいと言うに他に無く、その味わいは従者たち、そして主である少女も納得の美味であった。

 そして、その光景を勉強し、調理へと立ち向かった青髪青目青い顔の少年は果たしてどうなったかと聞かれたならば――、

 ぼろっ。

 等と言う効果音が実に似合いそうな程に――牢獄で鞭打ちの拷問に晒された後の様に部屋の中央で両手首をパスタに縛られ両ひざを床下について項垂れていた。

「何が起きたのか、さっぱりわからんのだが!」

 バーガンディが大声で叫ぶ。

 目の前で起きた出来事に思考が追い付いていない様だ。

「やはり、こうなったか……」

「親不孝通り、君はわかっていたのかね?」

「まぁな。題材がパスタ――麺類であった時点で、コイツの敗北は決定していた……ただ、それだけだぜバトラー執事長」

「何と言う事だ……」

 神妙な表情で。

 愕然とする両名。

 そんな二人を残して周囲は更に唖然とした様子を見せていた。

「と言うかまたボロボロですねぇ……」

「いえ、睡蓮。私は何が起きたのか良くわからなかったんですが……」

「テティス様。訊くのは止めてあげるべきです」

「え、ええ。そ、そうですわね……。……そうなんですが、何が起きたんですの本当!?」

「とりあえず、私としては日向君の従僕服が何着必要になるかが心配ですねぇ……」

「すでに先程のはズタボロで着れたものではないでありますからな」

 そう言って日向が帰還した際の最早原型を留めていない衣服を両手で摘まみ上げて見せつける蹂凛。加えて、今現在のカルボナーラの麺に鞭打たれて、白く汚れた従僕服――洗濯がいりますね、と睡蓮は溜息交じりにそう思った。

 そうこうしてカルボナーラに束縛され、鞭打ちの刑に処された日向を救出に要する事、約三分が経過した後に料理試験の評価が下された。

 評価『料理1』。

 題材が麺類であった時点で決定していた様な点数であったのは言うまでもない。



 時間は刻一刻と過ぎ去って。

 その後の日向の試験評価も買い物、料理と遜色なく散々足る結果を生み出していき――。

 その仕事ぶりは実に目を見張っておかなければならない出来栄えであったと言えよう。監視と言う意味で……。

 例えば、洗濯。

「ていていていっ」

「弦巻君!? 何の確認も無しに洗濯機に衣類を詰め込んではいけないぞ!?」

「それで洗剤を使うわけですねっ!」

「うん、その通りなのだが! その通りなのだが――ああ、やはり入れ過ぎだ! ――っと、やはり泡がッ! 泡が立ってきた! 親不孝通り、鎮静を手伝いなさい! 何をシャボン玉を楽しんでおるのだ君は!? いや、お嬢様『綺麗ですわねー』とかではなくて!」

 大量に詰め込んだ衣服。大量に注ぎ込まれた洗剤。大量に同時投与された異物で、洗濯機は許容量をオーバーし、見事に爆発。

 結果、洗濯室はシャボン玉の乱れ飛ぶ幻想的な空間へと仕上がった。

 この時点で『洗濯1』の評価が下される。

 次に掃除。

 トルコの屋敷でも異様を見せた日向。

 その為に親不孝通り批自棄の予測通りの結末が発揮されたのはまず間違いなく。

 初めこそ一級品の如く整理整頓されていた迎洋園家の一室は知らぬ間廃墟と化していた。確かに日向は普通に掃除していたし、前回の反省点を踏まえて慎重に二次被害も無いように気を配って掃除していたはずである。だが悲劇は起きた。

 日向があらかた掃除し終えて壁に寄り掛かったところ、なんと持っていたモップを思わず取りこぼし、あわや近くの置物の壺へ衝突――と言うところを回避したはいいが、背中から床に倒れた衝撃で別の置物が下へ落ち、近くにあったバケツに衝突し、バケツがまさかの転倒、流れ出る水が悲劇を拡大し、不運に不運が重なった結果――廃墟が出来上がった。

 このわけのわからない現象に関して申し訳ないながらも仕方なく『掃除1』と言う評価を下さざるを得なかった。

 そして最後の試験――。

 分野、戦闘。

 すでに心身共にボロボロな日向が辿り着いた場所は迎洋園家の鍛練場であった。学校の体育館の様に広いが、床は畳が敷かれていたり、コートになっていたりとスポーツの様々な分野を詰め込んだ様な空間になっている。

 その中で一番シンプルなコートへ案内された日向。

 その目の前に立つのは、

「正々堂々――立ち振る舞いましょう、弦巻君ッ!」

 ぐっと握り拳を作る少年、上杉龍之介。

「えっと、これは……」

 龍之介と戦え――そう言う流れでいいのだろうか、と日向は視線をバーガンディへと向ける。その通り、とばかりに彼は頷き返した。

「執事足るもの、主を守れる程度の武力を持たねばなりますまい――、この試験では君の戦闘能力を測るものと考えて構わない」

「それで相手が上杉君ですか……」

「不満かね?」

「不満と言うわけではないんですが……」

 首を傾げる気分ではあった。

 確か、龍之介の先頭評価は1であったはずだ。その相手をぶつけて先頭評価を判断下せるのだろうかと悩む部分ではあった。それとも評価が一続きだった事から、戦闘もダメと判断を下されたのだろうか? それはそれで憤然とする日向である。

 仮にも戦場に生きた経験がある日向。

 戦闘能力であれば、決して劣っているわけではないと言うところを見せなくてはと決意を胸に抱いた。とはいえ、それ以前に――、

(っていうか、ここで高評価得ないと後がないよ、もう!)

 と、言う至極真っ当な焦りも多分に含まれていたが。

 そんな日向の一抹の焦りを余所に――執事長バーガンディは戦いの火蓋を切った。

「では、両者準備はいいかね? 戦闘終了は私が見て判断する。それまで互いに全力を尽くし、相手に立ち向かう事」

「はい!」

「承知しました執事長ぉっ!」

「うむ。では両者いざ、尋常に――」

 ――始めッ!

 その言葉を皮切りにまず動いたのは弦巻日向であった。

 爆発的な跳躍で一気に龍之介目掛けて迫る――かと、思いきや瞬時に日向の姿が掻き消えた。

 速い。龍之介が抱いた第一評価は正しくそれだ。目前にいた姿が残像を残してぶれて消え去る――中々の速さだと龍之介は評価を下した。だが、しかしそれは。

「ふんっ!」

「!」

 目で追えぬ速度では無い。

 右から繰り出された日向の必殺技『日向キック』は見事に龍之介の力を引き締めて盾のごとく頑丈になった右腕に防がれる。自身の蹴りが防がれ、驚いた様子の日向に対して龍之介はニッと口元に笑みを称えて、左拳を握った。

 下から上へと――突き上げる破壊の一撃。

「バースト・ドラゴン・アッパー!」

「うぉわっ!?」

 顎の下目掛けて迫った拳を龍之介の右腕を蹴った衝撃で身を捻り回避する日向。空気をズドンと打ち振るわす程の風圧が駆け抜けた。その拳の力の具合を見て日向は即座に判断する。

(かなりのパワーだ! 多分、僕じゃとても出せないくらいの……。だけど、拳の威力に対して速度が出てないから、躱す事は可能!)

 そして龍之介の放った『バースト・ドラゴン・アッパー』なる技は平たく言えばアッパーカット。力を込めたこの一撃の特性上、大きな隙を生み出す技である。そこを狙い、日向は地面に這いつくばる様に身を屈めたかと思えばそのままの姿勢で、鋭い回し蹴りを放った――足払いである。

 だが。

「うぇっ……!?」

 蹴りは確かに龍之介の脛付近に炸裂した。

 が、しかし当の龍之介が微動だにしない。

「狙いはいいですが――威力が足りないですね弦巻君」

 ふふん、とドヤ顔を浮かべる龍之介。

 威力が足りない――それはそのままその通りの事であった。

 そんな二人の先頭を見ながら、テティスは感心した様子を見せる。

「やはり、流石ですわね――龍之介の『Gスペック』は」

「はい、それはもう。そう簡単には上杉を倒す事は出来ませんからな」

 バーガンディが微笑を浮かべてそう返す。

「上杉龍之介――ジョースケの真価は一概に戦闘力で測れねぇからな。YAの真価はむしろその卓越したタフさにあると私は見るよ」

「ですね。龍之介君の凄いところは並大抵の攻撃では微動だにしないと言うタフさなんですよね。防御力が高いわけではないですからダメージは普通に蓄積していくわけですが、それをおくびにも出さずに耐えきるタフさが評価に値しますからね」

「ああ」

 睡蓮の発言に批自棄は全面的に賛同する。

 この戦いを見てわかる様に、正直龍之介は強くは無い。

 速さだって左程ではないし、技のモーションも大きい。言ってしまえば鈍足と言ってしまっていい様な戦闘スキルだ。そんな彼に攻撃をガンガン与える事自体は難しくない――けれど、それを補って余りある、タフさが上杉龍之介の凄味であった。

「しかし、対する弦巻君――なるほど傭兵をしていただけあって、戦闘技能はそこそこ高めですな。戦闘スキルとしては典型的なヒット&ウェイ――速度重視の戦い方の様だが」

「ああ、その通りだぜ執事長。ユミクロは完全なる速度重視の奴だ。俊敏な動きで相手をかく乱し、確実な一撃を与えていく」

「ただ……」

 見た感じ火力が足りませんね、と口を零す睡蓮。

 そう、日向には火力――パワーが致命的に足りないと言うのが従者たちの見解であった。速さはそこそこ速いし、相手の隙をつくのも長けている。ただ、一撃の威力が低いのだ。

 その理由の大きな理由が、

「ユミクロは拳銃使いだかんなぁ。普段の先頭も銃器を鈍器代わりにしてるって事も言ってたしな……多分、アイツ素手での戦いが出来てねぇんだな」

「ああ、道理で……」

「それで間違いないだろうな。見て見なさい、土御門。先程から弦巻君は一度も手で殴ったりはしていない。ベースは蹴りで一貫している。アレは恐らく、普段銃器を武器として使う為に補助的に足を用いてきた影響だろうね」

「ふむ、そうなると……」

 睡蓮も、批自棄も、バーガンディもテティスも……。

 ここまでの流れでかなり見えてくるものがあった。

「はぁっ!」

「甘いですよ弦巻君! どらぁっ!」

「たわらばっ!? こな――くそっ!」

「軽い軽いっ! こんな程度じゃ自分は倒せません!」

「なら――これはどうですかっ!」

「連続蹴りですか――考えはいいですが、それは必然力を分散している技。自分には通りませんよ弦巻君――これで決まりです!」

「遅いですよ! そこだっ!」

 ジト目の批自棄は徐に語りだした。

「……オイ、しつじちょー、これ決着つかねぇぞ絶対」

「……うむ。だろうね」

「ですねぇ……」

 コート上で激戦を繰り広げる二名を見ながら睡蓮も同意を示す。

 片方は速度はあるが威力が無い者。

 片方は威力はあるが速度は無い者。

 両者、決め手がない。

 そんな二名が戦いを繰り広げたとしても、それは確実に最終的な結末は――、

「スタミナ切れで両者ドローの結末しか見えてきませんからね」

 そんな従者と主の明確な未来予想図を余所に……、従僕と従僕。

 二人の戦いは周囲の予想通りにどっちも決定打を見せられないまま、決着がつかない勝負として執事長の「――両者、そこまで!」と言う合図が発せられるまで続いたのであった。

 そして戦闘終了後。

 時間にして約5分の休憩を挟んだ後に、日向には運命の時が訪れた。

「では……結果発表と参りましょうか」

 白い一枚の用紙を持ちながら、バーガンディは正座で待機する日向に視線を向けた。

 緊張している――と言うよりも青ざめている。

 当然だろう――ここまでの段階で得られた評価は低評価――と言う事を本人が良く理解している事だろうから。

 ただし、バーガンディとしてある思惑があった為に、そこを気にしている必要も無い、と言うのが執事長の考えで合ったりするのだが。

 まずは行った試験結果を公表するのが筋だろう。

「では、発表させて頂きましょう」

 淡々とした声で、日向がせめて四、四、と祈る中、バーガンディは文面を読み上げた。

「弦巻日向君の評価――『買い物1』、『料理1』、『掃除1』、『洗濯1』――『戦闘力3』以上ですな」

 戦闘力3。

 そう告げられた瞬間に日向はがくりと項垂れた。

「さん、かぁ……」

 評価を全てが大きく下回っている。

 お世辞にも――お世辞も出来ない程に散々な結果だ。弁明の使用もない。規定である四に、唯一可能性のあった、戦闘力でも辿り着けていない。そんな中、テティスが不安そうにバーガンディに問い掛けた。

「……特殊評価とかはありませんの……?」

 特殊評価――日向は初耳だが、それは規定では確定出来ない一面を指す。例えるならば、龍之介の様に『戦闘能力は高くないが、戦闘に於けるタフさは評価に値する』と言う一概に評価を下しづらい部分だ。

 バーガンディはその質問に対して「ありますな」と言葉を返した。

「まず事前申告による鍋料理――これは親不孝通りが認めている辺り、特殊評価を与えて構わないと思う次第です。それと戦闘力ですが……」

「戦闘力がどうかしまして?」

「ええ。一対一では弦巻君は評価3ですが、彼の戦場で戦ったと言う経験から言えば、障害物等を利用した戦闘が得意でしょうから、評価は一概に下せないと言う結論にも至っております」

「でしたら――」

 大目に見てもらえないか、と言う発言が出る前にバーガンディはただただ言葉を被せた。

「ですが、それを持ってしても、買い物、掃除、洗濯などの使用人スキルが壊滅的な部分が大きく響いておる、と言っていいでしょうな」

「っ……!」

 そこが問題であった。

 弦巻日向は見事なまでに……家事がへっぽこ性能であったのだ。従者としての資質はかなり壊滅的と言い切って過言ではない程に。

 より、正確には――予測しない形で結末を切ってしまう事に。

 抗い様の無い事態にテティスは悔しげに俯いた。

 その様子を見て日向は心の底から申し訳なく思った。自分に仕事を与えてくれたと言うのに、その期待を完全に裏切る様な結末に――何も達成出来なかった自分が惨めで、矮小で、弱弱しくてどこまでも情けなかった――。

 従者になれない。

 現実にそうなって日向は辛かった。色々期待して、鍛えてくれたのにこんな評価で批自棄に対しても申し訳なかった。ふと、脳裏を借金どうしよう、と言う事も過るが、この空気の中では主君と上司――二人の顔を見るのが辛くてならなかった。

 そんな空気の中――バーガンディが言葉を紡ごうとした時に動いたのは批自棄であった。

 無言でテティスの傍に寄っていき、何かを手渡す。

 テティスは小さく「ありがとう、親不孝通り」と簡素に零した後に日向の方へ歩み寄る。

 頭に疑問符を日向が浮かべる中、テティスは、

「こうなっては仕方ありません――日向、第二案を実行しますわ」

「……第二案?」

「ええ――こういう事です」

 周囲が疑問を呈する中テティスは穏やかな表情で――、


 ――ガチャンッ


 鋼鉄の首輪をかけた。

 日向の、首に。

『……』

 周囲が『……!?』と言う空気に包まれる中、テティスはあの日見せた――、自分を従僕として迎え入れると言う時を連想させる笑顔を浮かべてこう告げた。

「貴方には本日付で――迎洋園家のペットとなってもらいますわ」

「いや、待ちましょうか主様」

 思わず冷静にツッコむ日向。

「何か?」

「何か、じゃなくてですね。何が起きたのと聞きたいんですが!?」

「残念な事に日向のランクがフットマンからペットマンになっただけですわ」

「ペットマンって何!? って言うか、それランクダウンどころじゃ済まないんですけど!」

「大丈夫。これで万事解決ですわ」

「何処が!?」

 困惑する日向。だが同じく困惑し、汗を流すバーガンディも同様に。

「ええ……お嬢様? これは一体どういう……」

「貴方の評価通りですわ。お世辞にも日向に従者の素養は無い――ですが、日向の今後の借金うんぬんを踏まえますと、日向を退職させるわけにもいきません――故に、私は保険の策を考えておりましたの」

「それが……ペットとな?」

「ですわ!」

 キュピーン、とドヤ顔で語るお嬢様。

 いや、ドヤ顔で語られても困惑するだけですぞ、と言うのがバーガンディの心中であるのだが……。

「ですが、ペットにしたからと言って何がどうなると――」

「では説明しましょう、バトラー」

 テティスは一度目を閉じた後に――すっと見開いて告げた。

「主の世話をするペット等この世にはいないという事を」

「……」

 一瞬、何を言っているんだろう、と言う様なバーガンディ。

「……」

 そしてその前でこの人たち、何を言っているんだろう、と呆けている日向。

 だが数秒の後、主君の言わんとしている事に対してはっと気づかされる。

「……ま、まさか!」

「そう! ペットは主の世話など致しません――むしろ逆ッ!」

「た、確かに……! ペットならば主にはむしろ迷惑をかけるのが当然……! ――否、迷惑をかけないペット等ペットに非ず――!」

「待って下さい、バトラー執事長!? その納得はしないでください!?」

 話の流れが意味不明ながらも自身の尊厳に関わるものになっていく気配を敏感に感じ取った日向が思わず反論を述べようとするも――、

「いいんですか、仕事にありつけませんよー?」

「……」

「涙目ですねー♪」

 土御門睡蓮の笑顔の発言に目に涙を溜めながら硬直する日向。

 そんな最中でも、主君と執事長の会話は進んでいき――、

「仕方ありませんな……。ペットと言うのであれば、私も二の句は告げられますまい……」

 諦めた様な形の執事長の承諾の言葉が……。

「……ぐすっ」

「更に涙目ですねー♪」

 そんなドSメイド、睡蓮の言葉を遠い異国の言葉の様に思う心境の中……、弦巻日向の職業は『ペット』として再就職と言う形で幕を閉じるのであった。

「……いやだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!?」



 その後、現地逃走し所在不明になった日向を約20分後屋敷トイレで発見・保護。

 冗談だからそんなに泣かないで、と宥めるのに小一時間掛かった。

 尚、

「――っ! ――っ!」

 腹を抱えながら、『日向、ペット案』を主君に提出した悪乗りの塊である教育係は壁に寄り添いながら肩を震わせていたのであった。















第二章 錯綜し廻り往く少女達 ―ミッション・フェイルド―

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