第九章 終幕。そして新たな日場へ
第九章 終幕。そして新たな日場へ
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最後の最後。
このトルコでの冒険譚も一先ず、まずまずの成果を残して終結を迎える頃合いであった。
始まりは大地離疆の一言から始まったこの冒険。
アララト山の『トルコンクエスト』と言う失敗率百パーセントされど死亡率〇パーセント等と言う異端のクエストでの旅路は終幕を迎える。始まりは一二名の冒険者達であった。金銭の為、刺激の為、誘われた身の上、保護監督の立場から、面白そうだから、等々理由は様々にあるけれど。大地離疆筆頭の元に集った冒険者達。
不知火九十九、親不孝通り批自棄、弦巻日向、ディオ=バンガー、加古川かがべ、灘佃煮、海味山道、ギュンター=オーバーザルツベルク、サッチ=バルケスィル、アムジャド=ジレ、アクバル=イズミットの一二名。彼らの旅路の閉幕は近い。
第一関門『目に見えた落とし穴』にて日向が唐突に墜落し脱落。
そして【プロテイン】から派生した【ウィナー】の辿った道筋では。
第一〇関門『三首るな!』にてサッチが脱落。
加えて【プロテイン】から派生した【ルーザー】の辿った道筋では。
第一〇関門『壁に虫あり小路に見張』にてアクバルが脱落。
第一一関門『底抜け』にてアムジャドが脱落。
第一二関門『胎児と対峙』にて山道が自滅の形で脱落。
第一三関門『士剣官』にて九十九、加古川、佃煮、ギュンターの三名が脱落。
残るは三名。
第一一関門『猛毒蛇』にて孤軍奮闘の武勇を魅せるディオ=バンガー。
第一二関門『時系会議』にて暗号解読に頭を動かす大地離疆、親不孝通り批自棄の両名。当然と言えば当然の様に【ウィナー】の名を冠するチームの三名が生き残る事となった。約一名、大蛇に呑み込まれて生死が危ぶまれる少年もいるが、ああなっている以上は彼も脱落を余儀なくされている事だろう。
さてさて現在。
そして。と、形容する方が正しいか。末尾も末尾に至った現在では『時間』と言う概念をこれでもかと突き付ける様な空間。ドーム状の空間には百を超える時計が並び駆動し、床は巨大な時計盤。一番奥に待ち受ける暗号文の記載された台に五色の時計と言う正しく『時間』に纏わる空間にて。
彼女は「さて」と呟いた後にニヤッとした笑みを張り付けて右手の人差し指をぴんと突き立てた。
「こんな異空間みてーな場所に何時までも、何時までも何時間も居たら気が触れちまいそうだからな。さっさと、解くとするから説くと訊いておきな、YA。私なりの解答をな」
ケタケタケタ。
そう、不気味な笑いを零しながらズタズタのメイド服を歩くたびに風にたなびかせながら少女は腕組みしながらとことこと気楽に歩く。そんな少女に質問をぶつけるのはメガネを掛けた理知的な男性――疆に他ならない。
「さて。では、よろしくお願いしますよ、親不孝通り君、これは」
「あいよ。任しておきな」
柔和な。されど真剣みを瞳に帯びた疆に対して横顔を向け、眼光に何処か嘲笑うかの様な色を見せながら、批自棄は周囲を一度見渡して、更に床下をジッと見据えた後にカツカツとブーツの音を高く鳴らしながら暗号の記載された台に近づき、両手を置く。
右手の人差し指で暗号文をつぃーっとなぞりながら彼女はこう切り出した。
「まずはYAに質問しておくぜ。折角だからな」
「おやおや。謎解きは私も巻き込まれるのですね、これは」
「当たり前だ。私が瞬時に解いただけじゃ、今回の『トルコンクエスト』の価値が無くなっちまうぜ? それに」
「それに?」
柔和な表情で苦笑を浮かべる疆へ向けて挑戦的に批自棄は述べた。
「この暗号が解けなかった様なら、この奥にもし存在する宝物は私が貰っちまうぜ?」
「……ふむ」
指で何かを刻む様に少しだけ動かした後に鋭い眼差しを批自棄へ向ける。
「それは困りましたね、これは」
声に這いずる様な悍ましさが篭る。その様子を見てああ、と確認できた。
やはり何かを探し求めている。そしてこの先に待つのはおそらく高確率――高い可能性で疆の探し求めるものである可能性が高いのだろうと予測付ける。だからこそ、譲れない。譲るわけには一切行かないと言う感情が批自棄にはひしひしと伝わった。
「なら、頑張って頭動かしな、YA」
「そうさせて頂きましょう、これは」
互いに語気は左程も変えず。
冷静な口調のままに会話を繰り広げ、話を続ける。
「まずは再確認だ。暗号文を今一度確認といこーぜ」
「『御用はこちらから承ります♪』
一日の終わり、黄昏に染まった頃合いに少女の甲高い声が響き渡った。
深緑の草木が生い茂る森林の深奥。
ペルシアの林檎の樹の下、永遠の命と称されし花々が咲き誇る傍に悲劇は起きた。
唇の色もすっかり変色した少女の惨劇、鮮血の赤が横たわる死の少女を彩っている。
九月の最後の日に随分と項垂れる出来事だ。
駆けつけた神父は死別した死体に向けて、そっと胸元で十に字を切った」
台の上に刻まれた暗号文。それを見据えながら批自棄は問い掛けた。
「まず必要な着眼点は何処だろうな、YA」
「そうですね……」
顎に手を当てながら疆はジッと見据えた。明記された文面の違和感を辿ってゆく。
(正直なところ、違和感だらけの文面ですね、これは……)
「文面の内容だけ鑑みれば、書かれている事は『一人の少女が死んでしまった。その少女の悲鳴を訊きつけた神父が追悼の念を捧げている』……と言う内容ですが」
「実際問題、それは関わりがあるとは言えねーな」
「ええ。少女が果たして何故、死んだのか。死因は何なのか、事故か他殺か、はたまた熊にでも襲われたのか全くもって情報が無く、此処で神父が唐突に現れる事もおかしい」
「そう。暗号文の中で少女の役割は特にない。神父は別の役割の為に駆り出されただけ」
「別の役割?」
「そりゃま追々な」
で、と隙間を置いて。
「文面で気にかかる所はあるかよ?」
「ええ、一応ね」
「そっか。何処だ?」
何処、と聞かれれば数点挙げる事は可能だ。その中で疆はまず最も目立つ違和感。そこを指摘する。
「この文面には……色が使われ過ぎているんですね、これは」
「その通り」
コクンと批自棄は満足げな表情を浮かべながら頷いた。
「内容自体は悲壮感漂うものだが暗い色合いを払拭するかの様に色の名称が所々に存在していますからね。黄昏。深緑。鮮血の赤。色鮮やかな色彩がパッと見で三点あります、これは」
「ああ。初めから見て行けばかなりの色使いだぜ、本当に」
そう呟きながら暗号文の第一文を指で辿る。
「一日の終わりと黄昏を同時に使っている時点でこの二つは別の意義で使われているんだろうな。加えて少女の甲高い声とあるが『甲高い声』と言うのは『黄色い声』とも言う。この場面で正しいのは『断末魔の叫び声』とかに関わらずこう記した辺りは『黄色』を意識させているんだろう」
続いて第二文に指を走らせながら告げてゆく。
「『深緑の草木が生い茂る森林の深奥』。これに関しては紛れも無く、『緑色』を連想する様な単語ばっかりだ。加えて『鮮血の赤が少女を彩っている』なんて告げている文面も『赤色』を示している事だろーよ」
「『黄色』に『緑色』、それに『赤色』ですか……」
三色の色が文面に浮かび上がる。
そして脳裏に浮かび上がる考えはすぐさま眼前に浮かび上がる光景――五色の時計を指示している。暗号と時計が関わりあると考える事は容易い。何故ならば、疆の見る五色の時計は暗号文に出てきた三色と同じ色彩のものなのだから。
「つまりこの三色の時計を如何にかするべきなのか……?」
思いついた事を何となしに呟く。だが何も妙案は浮かばない。
「いやいや、ちげーよ。早計はダメだぜ、サカイさんや。まだ暗号文は解け切ってねーんだからさ」
「ふむ。やはりそうですか」
だろうな、と疆も当然考えるところだ。解けたのは三つの文章だけ。
それならば答えは全ての文章を解かなければ見えて来ないのだろう。そして此処からが本題と言うわけだ。
「まず私から言っておくのはYAも気付いた通りにこの五色の時計と暗号文の関係性だ。これはサクッとバラしておくが想像通りにかなり重要な関係性だな。気付いてるだろーけど、色が時計と関わっているわけだ」
「ええ。だとすると残り二色も……」
「ああ。それが……この二文だな」
「『ペルシアの林檎の樹の下、永遠の命と称されし花々が咲き誇る傍に悲劇は起きた』と『唇の色もすっかり変色した少女の惨劇』ですか……。前者は暗号らしいものですが、後者はこれは何と言えば……」
「暗号ってか謎々の要素もあるんだよな。そして後者に関して言えば、この意味不明な記述こそが答えなんだろーよ」
「これがですか? まぁ、私から見てもかなり珍妙な違和感の大きい文面ですからね」
「そう」
批自棄も同意見だ。この文面には明確なまでの違和感が存在する。
「言っちまえば、遠回し過ぎるんだよな。もっと明確に『蒼褪めた』とか『土気色の肌』とか『血の気の引いた』とかそういう死体に関しての単純な語句があるのに使ってない。これはある意味色を隠したかったんだろうな。『蒼褪めた』を使わない辺りも意味がある」
「……ふむ。確かに……そもそも『唇も変色した』等と言う文賞では死体の表現としても若干弱弱しいものですからね、これは……」
「そこだ」
批自棄は疆をビシッと指差して告げる。
「『唇が変色した』。そんな寒かったら見かける様な文章になっていることこそが変な話さ。だがそこが正解。『唇が変色した』色が肝心なんだよ。人は死んだら真っ白とか青ざめたとか、土気色とか言うが、唇は違う」
「成程。チアノーゼですね?」
チアノーゼ。
血液中の酸素が欠乏する事による皮膚や粘膜が紫藍色に変化する事を言う。局所の血行障害で起こり、四肢末端、唇等に強く現れる。また心臓病、肺炎、肺結核でも同様であり、別名は『紫藍症』とも言った。
「その通りだ。肌色が蒼褪めるとかそこではなく反応が良く現れる唇を指しているのもチアノーゼによる変色――唇が紫色になっている――とかいう表現を示しているんだろうな」
「つまりは……『紫色』の事を指示しているだけですね、これは」
「ああ」
四色目。紫が文面に姿を浮かび上がってくる。
疆は時計を見た。五色の時計。これに照らし合わせるのならば、まだ文中にはピンク色が存在しているはずだ。そしてその可能性は間違いなくこの一文にある。
「『ペルシアの林檎の樹の下、永遠の命と称されし花々が咲き誇る傍に悲劇は起きた』……この文面に最後のピンク色が隠れているわけですか」
「ああ。しかし色を探す事自体は簡単なんだが、関係性を見抜くのが面倒くさい話だけどな」
「と言うと?」
疑問符を浮かべる疆に対して何でもない事の様に批自棄は告げた。
「なぁ、ピンク色っと他にはどんな表現がある?」
「は?」
「いや、だからピンク色の有名な別の表現」
「そうですね……厳密な色合いは微細に異なるでしょうが、石竹色、又は桃色が有名なところでしょうか、これは」
「そう。その辺が有名だな。で、その中で桃色――もとい、桃の学名何だ?」
それはまた妙な事を訊いてくる。と、思いながらも疆は素直に述べた。
「Amygdalus persica.これが桃の学名ですね、これは」
「そう。だが学名の『persica』。これの意味が肝心だ。桃の古い学名は『Malum persicum』。これの意味するところは『ペルシアの林檎』だ」
「そうか……!」
疆はハッと気づいた。
「『ペルシアの林檎』とは即ち桃の別名……。即ち、『桃色』の事を示していたわけですか、これは……!!」
「その通りだ。だがまー、このままだと唯の『ピンク色』の発見ってだけで終わっちまうんだよな、これが」
「? いえ、これで十分なのではないですか、これは?」
「いや、まだ駄目だ。後半部分の文章『永遠の命と称されし花々』の部分が補足と言うか、このままの捉え方では回答できないと告げているんだろうな」
「『永遠の命』ですか……」
悔しいところだが該当する答えが浮かび上がってこない。疆は他者よりも頭の働きが良い方なのだが繋がりが見えてこなかった。その様子を見守りながら溜息交じりに批自棄はその繋がりを露わにしてゆく。
「ま。ここら辺が事前知識が無けりゃ見えてこねーって言った辺りなんだよな」
そう告げて批自棄は目を閉じて何かを復唱し始めた。
「『この草の刺はバラのようにお前の手を刺すだろう。お前の手がこの草を得るならば、お前は生命を得るのだ』。ある叙事詩の一節だ。有名な奴だからサカイの旦那ならわかるだろ?」
その言葉。その語られた内容に疆は即座に見当がついた。
かつて大英雄が親友の死を契機に、不老不死を求めて旅立つ物語。世界最古の叙事詩とされている彼の有名な一説だ。
「『ギルガメシュ叙事詩』ですね、これは!!」
「そう」
にたり、と笑みを浮かべて批自棄は告げる。
「この『ギルガメシュ叙事詩』にはある花が明記されている。紀元前2000年前の内容にも関わらず記されている花の名前は薔薇だ。そして同時にこの叙事詩には『バラは永遠の命』と言う内容も記載されている。それが即ち……」
「この『永遠の命と称されし花々』と言う文面なのですね、これは?」
「そうだ。この一文は『ピンク色』――否、『桃色』と『薔薇』の事を記すために記載されている一文と言う事だな」
「成程。これで五色……」
「そしてこっからが本当に知識がいる問題なわけだぜ。参る、参る」
気だるげに呟きながら批自棄は後半の文章に目を配った。
その様子を見守りながら疆は五色の時計を見つめる。色は全て出た。だがこの五色の繋がりは果たして何なのか。先程批自棄は『蒼褪めた』と言う単語を使いたくなかったんだろう、と言う言葉を零していた――その言葉から答えを導き出す為に頭を振り絞る。
「残る文面は二つ……。この『九月の最後の日に随分と項垂れる出来事だ』と言うのも何かを示しているのでしょうね、これは」
「それだけじゃないっていうか、全部が全部示してるけどな」
「しかし九月の最後……そうなると……九月三〇日の事を指しているのでしょうね、これは」
「ああ、そこは間違いないな」
「ですが、その日と言うと……何かありましたかね、これは?」
思いつくものは幾つかある。
日本で言えば一五七一年の織田信長の延暦寺焼き討ち。一九四六年の財閥解体等々。またはクルミの日とも、クレーンの日とも、交通事故死ゼロを目指す日ともされている。海外に目を向けるならば一三九九年イングランド議会によるランカスター王朝の始動、二〇〇九年スマトラ沖大地震等々はたまた一九六六年イギリスからボツワナが独立した記念日……。
(だがどれも違う気しかしないッ!!)
そして頭に浮かべた全てを疆はズバッと否定する。
仮に歴史上の記念日に纏わるものだとしても、九月三〇日に起きた出来事の中には目ぼしいものは見つからないし、何より範囲が大き過ぎてどれが該当するのかまるで不鮮明だ。
ならば必定――そのヒントは最後の一文に隠されていると言えるだろう。
「『駆けつけた神父は死別した死体に向けて、そっと胸元で十に字を切った』……この一文の中に何かが隠されていると見るべきなのでしょうね、これは」
最後の一文。これもやはり違和感の強い一文だと思う。
「文章としてあらぬ単語が使われているのが気にかかりますね……」
「お。気付いたみてーじゃねーか、やるな」
ニヤッとした笑みを浮かべる批自棄に目もくれず、口元だけを動かして、
「大地離の当主ですからね。舐めないでください、親不孝通り君、これは」
「それは失礼したぜ。で? どれだよ?」
「ええ。可能性としては……可能性と言うよりも違和感ですか。この文面の中の『死別した死体』とありますが、これがおかしい」
「具体的にはどんな理由でだ?」
「そうですね。端的に言えば意味が噛み合っていない気がしますね、これは。『死別した』とありますが、そもそも『死別』と言う単語が使われるのは配偶者や友人関係がある場合だけ。この文章中に果たして誰と死別したのかと言う問題。登場しているのは神父だけです。彼と死別した、面識があったのかこの内容ではわかりませんし、『死別した死体』と言う言葉もそう使われる表現ではない。違和感の残る文脈です。この場面で『死別』と言う単語を用いるのは何処か無理があると私は感じますね、これは」
「……」
「親不孝通り君はどう考えますか、これは?」
腕組みしながら口元に笑みを浮かべている批自棄へ向けて疆は問い掛ける。問い掛けるまでもなかったのかもしれない。疆はこの文章の違和感を如実に感じていたし、それは何より批自棄の反応からも見て取れた。
「正解だよ」
そして批自棄は吐き出す様に簡素に一つの単語を発した。
「だけれど、それだけだと違和感程度に収まるだけだ。『死別』がおかしい。だからどーしたっつー話にな」
「その通りですね、これは」
ですから、と隙間を置いて疆は後半の一節を目で追った。
「重要なのはこの一説。『胸元で十に字を切った』。これは違和感と言うか口の中で言葉を反復すると簡単にわかる違和感ですね」
「おお。そこもしっかりわかってんじゃねーか」
嬉しそうにケラケラ笑った後に批自棄がギン、と眼光を鋭く光らせる。
「神父が十字を切る追悼の行為はおかしいもんじゃねー。だが、この文章はおかしい。それが何なのか明確だ。今、私が告げた通りのことなだけ」
「『十字を切った』、ですね、これは?」
「その通り! ――おかしい内容だぜ。ったく」
そもそもな、と手を軽く広げながら。
「『十に字を切った』なんつーのは余計だ。神父の表現として明確なまでに『に』の一字は邪魔者でしかない。普通ならこう明記するはずだ。『十字を切った』ってな。ここで、あえて『に』を加えたって事は必要な一字であるからと言っていいだろう」
「それは即ち」
「ああ」
メガネの奥で瞳が、影差した表情の奥で眼光が同時に鋭く輝いた。
「この文面はこう言ってるわけだ。『十二時を切った』。ってな」
批自棄は最後の一文の違和感を払拭する。
彼女の思う所だが、口の中――脳内で反復しても思い当たる結果だと推察する。神父の前置きを置いてある為に当然の行為の様に思えるが実態には『十二時を切った』と読めてしまう繋がりだ。そしてそれが告げている答えは一つだけ。
「文章中の日時は『九月三〇日』。にも、関わらず『十二時を切った』と言う文脈から推察するところ、文章が本当に告げている日時は『一〇月一日』って事だ」
「私もそう考えます。ですが、それを鑑みると午前か午後かも問題では?」
「そこは第一文に戻る話だな。この場面で『一日の終わり、黄昏に染まった頃合い』なんてあるが、この場面で明らかに初めの『一日の終わり』ってのは意味が薄い。『黄昏』とは別の意義を持たせているとしたら、午後を示す為の一文だったと考えるべきだろうな」
「なるほど。ですが、そうなると真に考えるべきは一〇月一日に起きた出来事と言えますね、これは……」
「まな。一〇月一日って言うと中々どーして出来事は多いもんだ。紀元前331年ガウガメラの戦い。1791年フランス革命。1869年ウィーンで世界初の郵便はがき発行。1946年ニュルンベルク裁判の終了。1949年中華人民共和国建国。1958年アメリカ航空宇宙局設置。……後は1957年、初の五千円紙幣の発行等々か」
「どうして最後にそれを持ってきたのでしょうね!?」
まぁいいじゃねーかとケラケラ不気味な笑い声を零した後に、
「で。そっちはどーだい? 何か思い当たる事はあるかよ?」
「そうですね、これは……」
疆はうーむと唸りながら考えた後に、
「一〇月一日と言えば独立記念日が三国ありますが……ナイジェリア、ツバル、パラオ。この三ヵ国がこの日に独立していると言うくらいしか目ぼしいものは無いように考えますが」
「まぁ、確かにな。この日を指しているんだとすりゃー考えるのはこの日に起きた出来事だ。だが生憎と私がさっき挙げた例の中にもサカイの旦那が挙げた例の中にもありゃしねー」
「そうなると、この例は一体何を示しているんですか、これは……?」
「そのヒントって言うか結びつきになるもんが――これだ」
そう告げて指差す先――批自棄が示すのは五つの時計。五色の時計だ。
だが、今までに挙げてきた例の中にこの五色が結びつくものは一つも無い。そうなると批自棄が何を見据えているのか。疆にはそこが気になってしょうがなかった。そうして批自棄は解読した文面、そして五色の時計を照らし合わせた後に溜息を吐き出して告げた。
「ソコなんだよな」
頭を軽く掻きながら、
「ソコこそが事前知識っつーか予備知識って言うか知っておかねぇと辿り着けねー部分なんだよなー本当に」
「と、言いますと?」
疆の疑問の含まれた視線を受けつつ批自棄は五色の色を見比べながら告げた。
「出てきた色は合計五色。黄色。桃色。赤色。紫色。緑色。この時計と関連する五色と一〇月一日っつー日付に関係性が含まれていやがる。そしてこれがまた知らない奴は知らないだろう内容でな。この五色には関係性が明確に存在してやがるのさ。特にそれを如実に私に連想させたのが『桃色』の件でな。後続として『薔薇』を明言している辺りがほぼ間違いないだろうと踏んでいる」
「『桃色』に『薔薇』、ですか。……ふむ、薔薇……五つ……そして一〇月一日と言うと……」
そこまで呟いた瞬間に疆はハッと目を見開いた。
止まっている五色の時計を見比べる。批自棄の告げる答え。それは疆も知り得るところであったのだ。
(色を告げるだけならば『桃』で足りる所を、わざわざ薔薇と言う単語を使ったという事はつまり――)
ごくり、とつばを飲み込んだ後に口を開いた。
「――ソビエト歴の事を指している、と言う事ですか、これは?」
批自棄は一拍間を置いた後に小さな声で返答する。
そうだ、と。
「ソビエトにてロシア革命直後、当時の大統領はユリウス暦からグレゴリオ暦への改編を行った。その手法がまた結構な方法で一九一八年二月一日から一三日までの日付を飛ばす事で実現したそうだ。そして肝心なのは此処からだが、その大統領の死去後に引き継いだ大統領の手によってソビエト連邦政府は一九二九年の『一〇月一日』にソビエト歴と言う独自の暦を使用し始めた。それは従来の一週間。今でいう月火水木金土日と言う七曜制ではなく、五曜制と言う初の試みを実行した。その五曜日の名称が『黄曜日』、『桃曜日』、『赤曜日』、『紫曜日』、『緑曜日』と色分けされた曜日だったそうだな」
「そして日曜日の廃止が行われたと訊いていますね、これは。代わりに国民全員に色で曜日が割り振られ、その日が個々人の休日とされたそうですが、そのために家族で休日が合わない事態が発生し不平不満が大きく非難されたと訊いていますが……」
「らしいな。まぁ、そんな暦だった為にその後、一九三一年に六曜制が導入されたらしいが、そっちも七曜に慣れた国民には合わず自ずと廃止の方向へ向かっていったそうだが……」
「つまり……親不孝通り君。この暗号はそんなソビエト歴の五曜を示していると言う事ですか、これは?」
「私はそうだと踏んでいるぜ? ソビエト歴で五曜の中に唯二つ。『桃曜日』と『紫曜日』だけは色と言うわけじゃなく厳密には『バラ曜日』、『スミレ曜日』って言う単語が割り振られているわけだからな。それを言えば初めからヒント塗れだったわけだぜ。分かれ道の折になーんで『バラ』と『スミレ』なんて名称つけていたかと思えばこーゆーこったってわけな」
「成程……」
あそこでの分かれ道もこの関門の暗号文に思い当たる為に用意されていたと言う可能性があるわけだ。確かにあの場面であの二つの花を示すのは何処か場違いだ。
しかし、そう考えると……。
「初めのこの一説。『御用はこちらから承ります♪』と言うのも……」
「ああ。私が若干イラッとした原因そこな。多分、それ『五曜はこちらから承ります♪』って答え言ってるんだよな。馬鹿にしてんのか、とイラッときたわー」
「……成程」
確かに初めからヒントは散りばめられていたと言うわけだ。
しかし、疆はそうなると再び考えなくてはならないものがある。
「それで、ソビエト歴に辿り着いたからと言って、此処から先はどうするべきなのか、と言うのが問題なのですが……」
「いやー、そこは後はもう簡単だぜ」
「簡単、と言うと?」
「簡単さ。なんせ此処に書いてあんだろ? 『十二時を切った』ってな。即ち、十二時を切らせる必要があるんだろーな。答えの時計の針を十二時ちょっと前にセットしておく。そういうこったろ」
「そういう事でしたか……! ですが答えと言うのは?」
「まさか、五色の時計全部十二時ちょっと前にセットしとけってのはおかしいからなー。だから私の考えだと、サカイの旦那がさっき違和感に感じた『死別』の単語がキーだろーな。『死別』即ち『紫別』――紫は特別なんだろーよ」
「最後の最後に洒落みたいに掛けてきましたね、これは……」
そんな呆れた様な表情を浮かべる疆を余所に批自棄は台の奥、上に設置された五色の時計をいそいそと弄り始めた。長針を指で動かして、短針も同様にずらしてゆき長針を『12』の少し前、同様に短針も『12』の少し前に合わせてゆく。
その作業が終了した後、批自棄は疆の手を掴むとぐいぐい引っ張り始めた。
「ちょっ。親不孝通り君、何処へ連れてゆく気ですか、これは?」
「何処じゃねーよ。あのセットだけじゃたりねーの。サカイの旦那も気付いてたと思うけどな。床この巨大な時計盤。ここに数字が刻まれてただろ? 三字か四字くらいな。アレも重要みてーなんだよ」
「重要、と言いますと?」
だからさ、と簡素に呟いて。
「『九月の最後に随分と項垂れる出来事だ』。この一文も関与してる――正確には『項垂れる』って部分がな。『項垂れる』って事はつまり『下を見ろ』って事だろう。それは即ち」
そこで批自棄は唐突に言葉を切り、そして足を止めた。
疆は少し困惑しながらも立ち尽くすその場所の数字を確かめた。『930』と明記された足場である。それを見てなるほど、と疆は手をポンと打った。
「『九月の最後に随分と項垂れる出来事だ』と言うのは即ち『九月三〇日の地点で下を見ろ』と言う事なのですね、親不孝通り君、これは?」
「憶測だがな。厳密には下を見て、立ち止まれって告げているんだと私は思う。そして考えが正しければ、おそらくは――紫の時計が十二時を切った瞬間、この場所に立っていれば」
その言葉を切る様に。
彼らから離れた場所。五色の時計が並ぶうちの一つ。紫色の時計がカチリ、と言う音と共に12時を切った。
途端に。その瞬間に。空間が激変してゆく。
巨大な何かがずれ動く様な大きな物音を鳴らしながら世界が改編してゆくのだ。前方『1001』の数字が刻まれている床を中心に時計盤の床が黒い大穴を開ける様に開いてゆく。周辺をドーム状に囲っていた時計の群れ――疆が今見ればこれにも意味があった様だ。
「数は恐らくですが……365個程と言ったところの様ですね、これは」
「だな。そして、その中で二月一日から二月一三日の時計、合計一三個だけ機能していないところもソビエト歴に辿り着くヒントの一環だったんだろーぜ」
そんな言葉を吐きながら囲んでいた大量の時計の行く末を眺める。まるでベールの様に、オーロラの様に、はたまた羽の様に一二列の帯は広がりを見せてゆく。恐るべき事にあれだけ巨大であった足場はもうない。厳密には、『930』の地点を除いて全てが真っ黒な床となってしまった。疆は批自棄の推察が当たっていた事に感謝する。
(もしも、この場所に立たなかったら落下して脱落していた……と言う事なのでしょうね、これは……)
最後の最後で気を抜けないものだ。正確な地点に立っていなくては正当な道筋を正々堂々に正道として歩む事も出来ないという事だ。そして床が二名の立つ場所を除き、全てが真っ黒に染まった瞬間だ。
奥の五色の時計に変化があった。
五色の時計全てが唐突に光の粒子に変化した。眩い五色の光は互いに絡まり合い、はるか上空にて昇り上がった後に円を描く。その円の中に一三個の数字が配列した。まるで時計の様だが、相変わらず、不可思議に疆は感じた。
(何故、一三個なのでしょうね……。その上、『0』の数字は他と比べて色あせていますし……)
そんな事を思っている最中にも時計盤は変化を示してゆく。中心を軸に出現した二つの針が互いに数字の中の『Ⅰ』を示した。一時五分という事を示しているのか。
そしてその瞬間に最後の変動が齎される――。
「これは……!」
「へぇ……!」
目に見えた変化だ。先程まで真っ黒に染まっていた床が唐突に白い清潔な、神々しさすら感じる純白の輝きを放った。かと、思えば彼らの佇む場所を中心とした螺旋階段を構造する。木製の楔が隅から隅まで用いられた中央軸の存在しない螺旋階段。
「これはまた……ロレットチャペルの奇跡の階段の様な景観ですね、これは」
ロレットチャペルの奇跡の階段。
それは主軸を、根幹を、支える支柱が無いにも関わらず螺旋階段として人が登れ、そして壊れないと言う物理法則を無視したかの様な螺旋階段とされている。現段階に至っても何故アレが螺旋階段としての機能を維持しているのか、どうやって作り出されたと言う技術なのか定かではないとされている階段だ。
「ああ。見覚えが何かあると思えばアレか」
「ええ。図らずも、あの螺旋階段に似た造形に思えましてね、これは」
「確かに。わからなくねーや」
二人して納得した様な表情を浮かべながら下へ奥へ深奥へと続く螺旋階段をゆっくりと降りてゆく。何故だかもう焦りは一切無かった。何と言えばいいのだろう。
疆は何とも言えず――これが最後ですよ、と告げられているかの様な心地だったからだ。
歩を進めてゆく。階段を下りてゆく。
下へ、下へ、下へ――。
辿り着いた先は石造りの厳かな雰囲気の壁面に囲まれた木製の扉が待ち望む場所であった。薄暗さはない。周囲に松明が焚かれており――何故か近づいた瞬間に自動的に点灯した辺りがすでに異様だが――周囲は目に見える程に明るい空間であったと言えよう。
「しかしあんだけ異空間みてーな場所の次が此処までダンジョンっぽさ満点とはこれいかに」
「もう考えてもしょうがない気がしてきましたがね私は」
批自棄の視線の先、石の壁にキラキラ光るクリスタルの結晶と思しき物体を見て疆は苦笑を浮かべる。だが内心ではかなり心臓がばくばくしていたと言えよう。
此処まで来れたと言う事に。
それ以上に、此処まで来る間の、このクエストの異質性に。
(かつてない手応えだ)
今までのものとはまるで違う。全然違う。全く型破りだ。
吸い込まれる様に、引き寄せられるように、待ち構えていてくれる様に。そんな感覚が体全身を巡っている。この先にある。探し物がこの先に存在してくれている。そんな感情を胸に秘めながら、疆はこれ以上堪え切れない様子で木製の扉を開いた。
初めは思わず目を瞑る行為だった。
ついで閉じた目にも分かるほどの輝きだった。
豪華絢爛と言う言葉が似合う程にそこには――財宝があった。金銀宝石の山積みとでも言ってしまうべきなのか。信じ難い光景だ。まるで海賊船や埋蔵金を発見したかの様な光景が眼下に広がっている。
「ガチでありやがったか……」
批自棄は少し信じられないと言った様子でぽつりと呟く。
疆としてもこんな非日常な景観は信じ難いものがあった。だが、疆はその中でただ一つのものに目を奪われていた。それが視界に。一番奥で台の上に置かれたそれを見るなり一気に駆け出した。
「アレは……ッ」
会話を繋げる余裕も無く、一目散に駆け寄ってゆく。
「あっ、おい!」
批自棄の声すらも無視しする形で疆は走る為に批自棄も後続する形で追い掛けた先には一つのあるものがあった。
「これって……いや、何でこんな場違いなものが?」
批自棄は不思議そうに呟いた。金銀宝石の中で唯一、場違いとしか思えないものだ。木製の造りである事は目に見えて明らか。絃の張られた、装飾の美しい一艇のバイオリンとしか思えなかった。特徴的なのはスクロールの部分やテールピース、紋様と言った箇所が鐘の様なデザインの造りになっている事くらいだろうか。
疆は台座に記された一文を確認し、次いで自らの手帳の文面を確認し顔を綻ばせた。
「間違いない……! 『鐘楼提琴』だ……!!」
「アルス……?」
批自棄は思わず眉をしかめた。
アルス・パウリナ、と言うのはまず間違いなくこのバイオリンの名前なのだろう。疆自身がバイオリンを見ながら、そう告げたのだから。ただ、わからないのは疆の見ているネームプレートと思しき場所に明記された字が批自棄にも分からない様なものだった事だ。正確には欠かれている字はわかるが、その意味がどの言語とも該当していない事だった。
「それで、サカイの旦那さんよ。これがあんた等が探してたもので合ってるって事なのか?」
そう問われて疆は少々口籠った後に小さく呟いた。
「……ええ。詳しい事は離せませんが……間違いなく、私の探していた宝物に間違いありません、これは」
そう呟きながら。
感動の色を色濃く浮かべた表情で大切なものに触れる様に優しい手つきでそっと疆は台座の上に置かれた『鐘楼提琴』を掴み取る。
「素晴らしいです。素晴らし過ぎる成果ですよ今回は。目当てのものも見つかって。その上に雇った方々の求めた財宝も周囲にたくさん……。本当に素晴らしい戦果を挙げられました」
「そりゃ何よりなこって」
「ええ。親不孝通り君のおかげですよ本当に。そして……皆さんの」
そう告げて、疆は『鐘楼提琴』を持ち上げる。普通のバイオリンと左程差のない重みが手にしっかりと伝わった。
ようやく、この手に出来た。
そんな感情が今にも溢れ出してしまいそうで、思わず目じりに涙すら浮かびそうになってしまうのを堪えて、大地離疆は自らの求めた宝物をその手に収める。
――フフフ、ようやく、一つ目入手になりますね♪
「!?」
その瞬間だ。疆の耳に柔和な男性を連想する様な声が響いたのは。
誰だ、と周囲へ視線を走らせても誰もいない。何もない。
「……」
すると視線を感じた。けれど、特別な人物の視線ではない。批自棄の何処か非難がましい様なジト目だ。何故、そんな目をしているのかわからないが……。
「親不孝通り君。今、誰か男性の声がしませんでしたかね、これは……?」
「男性の声? いや、してねーけど……」
批自棄はしていないと断じた。
ならば、先ほどの声は妄想か何かの類だったのだろうか……。だが、疆の思惑を遮る形で批自棄は言葉を続けた。
「いや、それよりも見ろよ、サカイの旦那―」
「ん? 何をでしょうか?」
不思議そうに眉を潜めて疆は批自棄の示す手振りの理由を――理解せざるを得なかった。
「……」
「……」
宝物、消失。
煌びやかだった光景が一瞬にして消え去っっていた。あったはずのものが法則を無視するかの様に何処かへ消え去る光景。幻想だ、と言ってくれた方がありがたいが、先ほどまでの光景はどうしたって本物だろう。
批自棄はどうにか口を開いた。
「……えっと、どういう事かなー、サカイの旦那―っ」
「……わ、私に訊かれても困りますと言うか……!」
「……まさかとは思うが、この場所、そのバイオリンか財宝の二者択一しかねーとかいわねーだろうな?」
「で、でしたら事前にそう明記しておくべきで私の所為ではないかと思いますが!?」
「いやいや、どーすんだよ。他の奴らにバイオリン入手したら他が全部消えちまったとかゆー説明で通ると思ってんのか!?」
「そこはほら……よし、親不孝通り君辻褄合わせましょう、ここは!」
「やだよ、めんどくせーっ!!」
大声と大声。
鍾乳洞の様な静かな空間に反響する声は最後の最後で焦りの声と面倒くさいと叫ぶ声ばかり。歓喜でもなく感動でもなく、この場にきてのそんな声であった。
されどその手に宝物を、掴みて。
『トルコンクエスト』は見事、達成されたのであった。
2
体中にぬるりと言う何とも生暖かい液体が這いずる様な感覚で纏わりついているのを全身で理解しながら、真っ暗であった視界が刹那、赤い光に染まったかと思えば、次第に明確化する景色を懐かしむ。
そんな彼の久々――と言う程ではないシャバの空気を吸いながら聞こえてきた第一声は男の渋く力強い印象の声であった。
「うぉーい。無事かー日向の坊主―」
「……」
くてん。
そんな効果音が良く似合いそうなのを自覚しながら引きずり出された――大蛇の口の中、より正確には胃の中から救出された日向は全身紫色のジェルの様なものに取り込まれた形でぬめぬめと言う感覚と共に再臨した。
再臨とは言っても、君臨出来そうにない程に彼の体力はゼロであった様子だが。
「返事が返ってこねぇな」
すいません。もう気力が無いんです……。
日向は内心でそう弱弱しく呟く程の事しか出来なかった。頭上でディオが先程から声をかけてくれているのだが全く反応出来ないでいる。
何か体全身ぴりぴりするなぁ……、と達観した様子で内心頷く。
「ダメだ、致命傷クラスじゃねぇか、オイ」
ふーむ、と困った様に唸りながら「まぁ、こんな猛毒喰らっちゃお陀仏寸前になるのも当たり前って奴かねぇ」と呟きながら日向救出の際に手についた紫色のジェルの様な物体を一口、口に含んで味わいながらうんうんと頷いた。
なら喰べないでくださいよ、と凄くツッコミを入れたいところだが力が出ない。
「つっても致命傷って段階でストップ出来る辺りは、当たり前だが流石ってところだが」
ディオは僅かに口の端を吊り上げてニヤリと微笑を浮かべて告げると、徐にズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
そして誰もが安堵する様なにこやかなスマイルを浮かべてディオは告げた。
「問題は、このままじゃ埒が明かねぇからな。待ってろよ、日向の坊主。今から、医者を呼んでやるからな」
(いや、無理ですよね!? 医者を呼んだとしても、此処まで絶対に来てくれないと思うんですけどね!?)
「安心しろ、名医だぞー」
(名医とか関係ないんですけど!?)
それよりも出来たらこのジェルみたいなものを体から剥がして欲しいんですが……! と、日向は瞳にそんな思いを込めて熱望する様にディオに視線を向け続けるが。
「大丈夫、死にゃしねぇって」
(死なないかもですが痛いんですよ!)
「ほれ、医者も言ってるだろ? 何かあった時は絶対安静、ってよ」
(今、安静にしてても意味が無いんですが!?)
「ちなみに俺は金ねぇから、支払頑張れな?」
(そしてそれがあったあ!! お金、どうしようだったです!? 治療費の問題確かにあったよ、って言うか僕、バンガーさん以上にお金無いんですが!!)
紫色のジェルっぽい何かに包まれた状態で今後の進退に関して汗をだらだらと流す日向。すでに約三十三億円と言う規模の借金を抱えている段階で、加えて治療費……頭の中をヤバイと言う言葉が楽しそうにスキップする。
どうにかならないでしょうか、とディオに懇願の視線を向けてみるが……。
「もしもし、俺だがよ。えす・おー・えーすっ」
背中を向けて通話中だった。
「……」
最早一縷の望みは無い。
弦巻日向は医者が来てくれても地獄。医者が来てくれなくても地獄と言う板挟み。助かりたくないわけじゃない、だけれど助ける対価が自分には過ぎたるもので。全身疲労感と虚脱感、痛みに襲われながらも心の一部で『救急車はいりません!』と叫びたそうな気持ちを抱くのが何とも切なくなってゆく中……最終的には彼は流れに身を任せる様に安らかな表情を浮かべて――頬に一筋涙を伝わせて、
「……ふっ」
凄く哀愁漂う笑みを一つ零すのであった。
そして皮肉にも、そんな時である。
彼の悩みをどうでもいいよとばかりに打ち消す様な大きな音。奏でられる大音量のファンファーレが天井付近から盛大に流れ出したのは――。
そして場内アナウンスの響く声はこう語っていた。
『――皆さん、真におめでとうございます♪ 先程、最後の部屋にて目標達成! 「トルコンクエスト」攻略成功です!!』
歓喜の渦に呑み込まれてしまいたかった程に嬉しい吉報が男性と思しき声で耳に届くのを理解しながらコテンと転げて「うぁぁぁ……終わっちゃいましたぁ……僕、何にも役に立たないで終わっちゃいましたよぉぉぉ……!」と言う無慈悲な道を歩んでしまった少年の最後。
対して、
「何で俺がそんな下まで行かなくちゃいけねぇわけ?」
「ガッハッハ! いいから、早く来てやんなって。坊主、苦しんでるんだぜ?」
「ガキが、ね。って言うかだからお前、事情説明まずは済ませやがれっての」
と言う、電話越しに面倒臭そうな男の声と今更ながらに触れられる大蛇を倒した男の気楽そうな声が鳴り響くばかり。攻略したと言う達成感はまるで感じられない様に――ディオと日向の『トルコンクエスト』はこれにて決着したのであった。
3
『トルコンクエスト』から二日が過ぎた頃。
三月二七日の朝。
茶色を基調とした壁面、清潔感のある木造を模した部屋で彼は目を開いた。
「ん、んんん……」
くぐもった声を零しながら、ふかふかとしたベットの上で上体をゆっくりと起こす。
「ドーナッツ!」
「起きて早々やかましいですよ、これは」
「……ん? ありゃ、大地離の旦那……? ドーナツは……?」
「何を典型的な寝言を零しているのですかね、これは」
聞き覚えのある男性の声が耳に届いた。
疆だ。不知火家の代々仕える大地離家の現当主である彼がベットの近くのテーブルの傍にある椅子に腰かけて新聞を読んでいる最中であった様だ。九十九はトルコ語がわからないので嫁はしないが、一面の写真には倉庫の様な場所と薬の写真。また夜空を背にヘリコプターで空を舞うと言う良くわからない写真もあった。。
そんな疆は「はぁ」と安堵なのか呆れなのか区別のし辛い溜息を吐き捨てながら何とも言えぬ表情を浮かべている。だけれど九十九にとって自分に向けられる、そんな表情は結構な頻度で見られるものだから今更気にしない。
そんな九十九の視界に映る男性はおもむろに新聞を折りたたんでテーブルに置いてから。
「まぁ、何にせよ起きた事は安心しましたよ、これは。起きて早々に寝言でずっこけかけましたがね」
「寝言? ……って事はあのドーナツが全身の毛穴からにゅぷりって生えてきた夢の様な光景は夢だったって事なのかよぉおおおおおおおおおおおおお!?」
「ええ、夢ですよ寝てましたからね。けれど、それは悪夢の部類ではないですか九十九!?」
「何言ってやがんだよ、大地離の旦那ぁっ! ドーナツが全身の毛孔から無限に噴出してくるんだぞ? あんな何時でもドーナツ食べ放題みたいな光景が悪夢なわけがあるかッ!」
「いえ、絶対悪夢だと思いますが!? 気味が悪いですよ!」
むすっとした表情を浮かべて九十九はおもむろに良い夢だとばかりに腕を組んで主張するが疆には悪夢としか思えないのだから致し方ない。
実際に体の毛穴からドーナツが拭き出したとしても、それは角栓か汗の類と一緒の場所からなのだから出てきたとしても、とてもではないが食欲はわかないと思うし……。
「ともかく。ドーナツの話題は置いておきますよ、九十九」
「えー。たべてーよー、ドーナツ」
「後で好きなだけ食べさせてやりますよ、ドーナツくらいでしたら」
「ホントか!」
「ええ」
「嘘ついたらパンチ百発のめり込ますんだからな! 絶対だぞ!」
「絶対に食べさせたくなりましたよ、唐突に! 針百本も相当ですが九十九の怪力では確実に死にますからね私!!」
「当たり前だぜ! ドーナツを奢らない主何て主に非ず、だからな」
「その理論は誘拐し易い子供の用で不安でたまりませんがね、これは!」
「で? 結局、『トルコンクエスト』どうなったんだよ? 皆は?」
「そして唐突に話が脱線もしてないまま本題に入るんですね……」
疆は僅かに疲労を浮かべた表情をすっと収め、メガネを右手で整える。そうしてテーブルの上に置いてあったティーカップやポットを一瞥する。
「ところで何か飲みますか、これは? 丸一日は寝ていましたから異に優しいものがいいかもしれないと言うのが常識ですが」
「ココア頼みます」
「だと思いましたよ。全くタフなのですから君は……」
呆れた様な苦笑を浮かべる。
不知火九十九のタフさは中々に異常だ。三日程度寝続けて起きたとしても、すぐに食事に移れる事は明白だろうくらいに。あまりに食事が遠のけば胃が弱ってしまうケースもあるが、今回は丸一日程度。加えて九十九だ。
問題ないのは確実と理解している疆はテーブルの上に置いて於いた美味しそうなココアのパッケージが載っている有名で九十九も好きな『森光ココア』を手に取り、危なげない手つきココアパウダーをカップに入れ、さっとミルクを混ぜてココアを仕上げてゆく。
「ほら、熱いですから気を付けるのですよ」
「おう! ありがとな、大地離の旦那。でも温いぞ、これ……」
「文句言わないのですよ、これは」
若干ぬるくなってしまったようだが、これくらいが丁度いいと言うものだろう。
そして湯気が仄かに昇るココアをがぶっと飲み込んで「ドーナツまだかなー」と言う声を零す九十九を僅か数秒程見守った後に疆は話を切り出す事とした。
「さて。それではまずは何から話しましょうか……」
「何も何もねぇだろ大地離の旦那。何よりまずはアレだろ。見つかったのか? 何か前々から探していたっていう……楽器―……だっけ?」
うろ覚えの記憶をどうにか呼び起こして言葉に浮かべる。
確か。本当に確か程度の記憶の中には幼少期から疆が九十九の父である崇雲と共に探し続けていたと言う楽器の名前が思い浮かんでいた。それを訊いた疆は意外そうに目をぱちくりさせて信じられない様な声音で問い掛ける。
「いや、驚きましたね……九十九がまさか、その辺りを記憶していたとは……」
「へっ。スゲーだろ!」
「ええ、前々から『結局なに探してんだっけー、大地離の旦那―?』と問われる度に『それはですね。ある楽器を探しているのですよ、これは』と返し続ける事数百回……全く記憶してくれていないとばかり思っていましたよ……」
「そんな愕然とする程かよ!? 俺だって肝心な事は覚えてんだぜ!?」
「ええ。見直し……まし、た?」
「何か凄い納得いかない表情浮かべてるのが気になるんだが!」
拳を握り緊めながら、頬を膨らませて不満を訴える。
疆は軽く手をひらひら振って「それは、すいません」と悪びれる様子無くニコニコ笑顔で誤魔化そうとしている様だ。
「まぁいいけどよー。それで結局見つかったわけなのか? 例のソレ」
「それはですね……」
そう呟くと疆はゆっくりと自分の座る椅子から、一つ隣の椅子へ手を伸ばした。
椅子の上には一つのバイオリンと思しきものが背もたれに立て掛けられている。唯、見ているだけで感じ取れる不思議な空気、感覚を発している代物であった。九十九は居合わせたわけではない故に知る由も無いが、それこそが疆の探し求め――探し当てたものだ。
「この通り。どうにか発見する事に成功しましたよ、これは」
随分長く手間取ってしまいましたがね、と苦笑を浮かべる。
だがその表情には隠しきれない喜びが目に見える様であった。手に持つバイオリン。それに注がれている疆の眼差しはキラキラと微かに輝いている様である。九十九も見ていて凄いバイオリンだと感じる。人の手で作り出せるものなのかと疑う様な言い知れぬオーラが感じられる一品であったからだ。
「それ売ったらドーナツ何個買えるんだろうな……」
「いや、売却しませんからね!?」
「冗談だよ、冗談。売る気なんて全くないって」
「それはヨダレを拭いてから言いましょうか!」
「おっと、いけね」
そうぼやきながら九十九はじゅるりとヨダレをふき取った。
これは早めにドーナツを買ってきた方がいいかもしれない。そうだ、この後すぐに提に買ってきてもらおう、と疆は内心で即座に決心した。……高そうだからと換金したケースの値段から好物を買う思考に至らないで欲しいものだが。
「ともかくです。これが私――いえ、大地離家が代々探し求めた『鐘楼提琴』と言う五種の楽器のうちの一角だとされているのですよ。……全く、一つ探し当てるのに随分とかかってしまったものです本当に……」
「そうなのか。……まぁ、確かに親父の頃もだったしな」
うろ覚えだが祖父も同じ行動をしていた様子だし、本当に探し続けたのだろうと九十九は思った。何か先ほど『五種』と言っていた辺り、頭の悪い自分でも分かる事だが他に五個あると言う事なのだろうか? それはかなり面倒臭そうだ。
「本当嬉しくて溜まりません……溜まりませんが、コレ、私の世代だけで他は見つかるのでしょうか、これは……。娘も息子もことこれに関して全くやる気ない様子ですし……!」
面倒臭そうだ、と言う九十九の思考は図星の様だ。
肝心の大地離疆から感じる諦観オーラも中々くるものがある。確かに面倒臭そうな上に九十九から言っても、彼の子供らは両者共に自由に生きていて探し物はとてもやらない気がするのだし。
「って言うかさ、大地離の旦那」
「? 何ですか、これは?」
達成感と不安感。そんな二つをブレンドした様な空気の疆に対して九十九は何となしに問い掛けた。
「それ結局何に使う訳?」
率直な疑問をぶつけてみる。
あんなダンジョンの奥地にあって、更には大地離家と言う名家が探し続けた宝物なのだから唯のバイオリンではないと思うところだが、どれほどの価値があって、何に使うのかがまるで九十九にはわからない。
「……」
軽く視線を一瞬逸らした後に疆は返答した。
「……まぁ、そこに関しては今はまだ九十九に語るには早いでしょうかね。何も伝えられなくて申し訳ないところですが」
「そっかぁ」
すんなりと九十九は引き下がった。
別に率先して知りたいわけではない。大地離家が特質的なのも九十九は理解しているし、父親にも話せない内容があるのならば根掘り葉掘り聞くなと言う事を訊いている為に疆が口を閉ざすのであれば踏み込む必要はない。
「でも、それならせめて、どんな音が鳴るのかだけ聴きてぇんだけど、それはダメか?」
「音、ですか」
「そう、音。きっとスゲー綺麗な音が鳴るんだろ?」
「……」
おや、様子がおかしい。
疆は閉口をまたもや続けた。黙秘権の行使をそんなに連発しないでほしいものだ。しかし、おかしな話だと九十九は思った。秘密を訊きたいわけではなく、音を聴きたいだけなのに、どうして音を鳴らしてくれないのだろうか? ケチだ、と内心拗ねてみせる。
「音は……そうですね……また、今度。そう、広々とした外で聴かせてあげましょうか」
「何でだよー……」
「何ででもです。それに今、隣の部屋に別で怪我人がいますから大きな音は控えたいのです」
「別の怪我人? 加古川達か?」
「ああ、いえ。彼らとは違います。提がどうにも連れてきた様でしてね……。九十九より年下の少年の様なのですがね、これは。結構手酷い傷を負っていましてね……」
「そうなのか。提さんが、ねぇ……」
音を聴かせてもらえないと言うのは不平不満を漏らすところだが、別で気になる事が出てきた。提樹仰。彼が怪我人を連れてきたと言うのも、また少し驚きである。
そっちも気になる話なのだが、九十九自身は先ほど自分の口から洩れた内容の方が先だと感じて疆に問い掛ける。
「それで、そうだよ、そうだよ。アイツらは? 加古川達は……チーム【プロレスラー】の皆はどうなっちまったんだ、大地離の旦那!」
「【プロテイン】ですよ」
訂正を入れておく。どちらにせよ筋肉と関わり根深いが。
「では面子を順を追って話していくとしましょうか。まずは何よりも加古川君達が、九十九としては気にかかるところなのでしょうね、やはり」
「そりゃまぁな。俺は最後、アイツらと一緒にいたんだしよ!」
「加古川君からもそう訊いています」
「……で、どうなったんだ。アイツら? 無事なのか?」
「無事ですよ。安心してください。怪我一つ負っていませんから」
「……は? 怪我一つ……?」
そんなわきゃねぇだろバッキャロイ。
「今、内心で凄い罵倒しませんでしたか……?」
「気のせいに決まってるぜ、ヤダナー」
しかしおかしな話だ。九十九は信じられない気持ちだった。何故ならば、傷一つなんてそんなわけないからだ。加古川はあの時、あの男――斎院寸鉄との戦いで負傷したはず。加古川だけでなく灘佃煮も自分も同様であったはずだ。それなのに傷一つ無いとは……。
「本当に……無傷、だったのか?」
「ええ。無傷でしたよ。まるでダンジョンに何か入っていなかったかの様なレベルで無傷だったのですよ。加古川君。それに灘君の両名もね」
「マジかよ……」
「ああ、ちなみにですが。君達――私含めて数名以外は皆、同様にいつの間にか外に倒れていたそうですよ? 私とバンガーさん、親不孝通り君、弦巻君以外は」
「そっか……」
九十九は重々しく頷きながら考え込む。
もしかしたら――運び出したのはアイツかもしれない、と。
斎院寸鉄。
あの場所で自分達を外へ搬送出来るのと言えばアイツくらいしかいない気がする。そもそも何故、彼はあんなところにいたのか――謎だが今は考えていると頭がパンクしそうなので諦めた。
「致死率〇パーセント。『トルコンクエスト』がそう噂されている理由がはっきりとわかってそしまったと言うものです、これは」
「それなら! それならさ……、加古川達は今どうしてんだよ?」
怪我が無いと言うのなら今頃は報奨金でドーナツ三昧でもしている頃だろうか?
なんにせよ怪我が無いと言うのは良かった。
もしかしたら最寄のハムスタードーナツにいるのかもしれない。話を訊き終えたらすぐにアンカラ西店へ足を運ぼう。そこで盛大に祝宴を上げたりしたいものだ――九十九はウキウキした気持ちを抱きながら、疆の言葉を待つが、返ってきた答えは意外なものだった。
「それなのですが……。生憎と加古川君達はすでにトルコを出立してしまっているのです」
「……うぇ?」
思わず間抜けな声を洩らしてしまう。
もう出立した。疆の言葉が信じられない気持であった。
「九十九が中々起きない間に祝宴が一度開かれていましてね……。まぁ、皆さん色々思う所あった様で、それにこちらも準備していましたから開催したのです。九十九がそのうち起きてくるかと思ったのですが、やはり疲れていたのでしょうね」
「そうなのかぁ……何か仲間外れな気分だぜ……」
「そこは申し訳なかったですね。ただまぁ、出たら出たで更に疲れたかもしれませんよ、これは? ……何せ二大派閥が論争を繰り広げて、危うく仲間同士の激戦が起こるところでしたからね……」
「は?」
「いえ、何でもありません、これは……」
そうは言うが疆は頭を抑えながら「きのこが」とか「たけのこが」等と何故だか繰り返している。祝宴で何が起きたと言うのだろうか……?
「ま、まぁ、つまりアレだな? 加古川と灘……それに海味か。アイツらはもうトルコにはいないって事なんすか?」
「そうなりますね。加古川君はこう言っていましたよ。『湿っぽい別れって苦手なんすよ。だからアイツが寝てるうちに出立します』とね」
「そっか……。アイツらしいな」
「それと九十九が起きたらよろしく言っておいてください、と言う伝言と一緒に。ええ、と、何処でしたかね……確かポケットに……」
疆はがさがさと上着のポケットを手で漁る。そうして出てきたのは一枚の白い封筒であった。疆は封筒から一枚の用紙を取り出すと「どうぞ。九十九宛ですよ」と手渡した。
手早く折りたたまれた用紙を開くとそこにはこう書き記されていたのだった。
『◎』
「……」
「……」
……ぶわっ。
「!?」
目尻を抑えて瞳の奥。否、感情の深奥から溢れ出す熱き滴を抑える!
喉の奥から込み上げる感情がくぐもった音となって嗚咽の様に声となった!
「加古川……テメーって奴は味な言葉を残すじゃねぇか……! くそう、感動しちまったじゃねぇかよ、バカヤロー! 加古川……加古川ぁああああああああああああああああああ!!」
「感動したんですか!? これで!? え、これで!? これを見て!?」
「ったりめーっすよ!!」
「当たり前なのですか、これは!? 私には唯の二重丸にしか見えないのですけれど!?」
「大地離の旦那の眼は節穴かよ!!」
「節穴は手紙の方だと反論しますがね、これは!?」
「ここに書かれている『◎』の言葉がどうしてわからねぇんだよ、それでも男か!」
「言葉と言うよりも記号しか見えないのですが!?」
「記号じゃねぇよ、ハートだよ!」
「ハート!? どう見ても『◎』なのですけどね!?」
ああもう! 何でわからねぇんだよ、大地離の旦那はさ! こんなにも。これほどにも加古川かがべの言葉が記されていると言うのに関わらずだ。こんな明確な文章でどうして伝わらないのだろうか。
俺にはわかるのに、賢いこの人がわからないなんて事あるのだろうか?
此処にはこう書かれているのだ。
『なぁ、不知火。人生ってやつはさ。ドーナツに似ているよな。おぎゃーって生まれてアバヨって死ぬまで俺達は歩き続けるんだ。輪っかを描くみたくさ。真ん中に自分の夢をあてはめながらその周りを迷ったり、困ったりしながら歩いてゆくんだ。それで自分の壁を突き破れた奴の前に、俺達はドーナツの真ん中に夢を思い、夢に馳せるんだよな。そして人はまたドーナツみたく人同士のつながりを持つんだ。ドーナツは輪っかだ。千切れる事無く輪を描く。おぎゃーと生まれた場所が、お前と初めて出会った日だ。だから別れたってまたいつか必ず出会えると俺は思ってるぜ。探すんでもなく、偶然にな。自然によ。だから別れは言わねぇ。今日別れたってまた会えると俺は信じてる。お前とは特にな。そん時にでも勝手に出立した事を謝るくれーはしてやるよ、へっへっへ。だからオメーとまたいつか、何処かで偶然に逢える日を心待ちにしてんぜ。俺達は川だ。定まった場所にありながら定まらず流れゆく川だ。だからこうしてまた旅に出るぜ。その間に、さ……お前はもっと逞しくなれよブラザー。ドーナツみたいにカッケー男になれよ。じゃあな。加古川かがべより。P.S 真のドーナツ好きならばクーポンになんて頼るな! ムスド繁栄の為に原価で支払え!』
……ってな。
「ああ、わかってるぜ……。金のある時は必ず……!」
「何の話ですか……!?」
相変わらず大地離の旦那は困惑していた。
無理もねぇかもしれないな。この人は……クーポンなんてそもそも知ってるかどうかわからねぇ様な大金持ちなんだからよ……。でも、それが無意識でムスドに貢献している事に繋がるんだから……。
「本当、アンタはすげぇや……!」
「何ででしょうか、この視線の意味が私にはまったくわからない!」
「サカイさんの人生って……ドーナツの為にあったんすね」
「どうしてでしょうか、今この瞬間に私の人生目的が大きく変動されてしまった様なのですけれど!?」
「気にしないでください。無知は無知のままでいいんで」
「バカにされているのかすらわからないですと……!?」
大地離の旦那が苦悶の表情を浮かべている。拙いなと思うぜ。
気付かれてもしクーポンでも使われたら厄介だ……!
そう、考えた九十九はドーナツを、加古川達に対しての別れを内心できっぱりと告げる事とした。そう、彼らの思いを無駄にしない為にだ。
「それで、加古川達の行方はわかったんでいいんですけど……。じゃあ、他の奴らはどうなったんすか?」
「釈然としませんが……。まぁいいでしょう」
不思議とむすっとした表情を浮かべてサカイの旦那は椅子に座り直す。
「ではほかの方々……、そうですねオーバーザルツベルクさん。彼は故郷ドイツへ戻って行ったとの事です」
「故郷、か……」
ふむ。里帰りの資金でも欲しかったのだろうか?
加古川達なら……何か知ってただろうか? 生憎と俺何も聞いてねぇや。
「次にイズミットさん。彼は再び冒険の地を探して旅に出て行った様ですよ、これは」
「おお、すげぇな! 『トルコンクエスト』達成したばっかだろうに……!」
ある意味男だな、その度胸は!
そう考えると若干悔しくすらあるぜ。なんつったって、俺がチーム【ルーザー】と合流した際にはすでにリタイアしてたみてぇだし。多分、凄い格好いい最後だったんだろうなと俺は思ってるぜ。次はどんな場所に行ったのだろうか……。
もう出立しちまったってのが残念だ。
「それで、次にジレさんですね。彼は何か『……僕ちゃん、まだまだだったんだどん……今一度鍛え直してくるよ……』と悲壮感漂う様子で去っていきましたね」
「何があったんだ!?」
「さぁ? こればかりは加古川君達も口を閉ざしていましてね……。軍へ復帰する、とだけは聞いていますが」
軍と言うとトルコ軍か。
しかし、何があったジレさん。アンタの意気揚々さはどうしやがったんだ! っつーかイズミットの奴と比べると真逆みてーな結果に思えるぞ、鍛えようとしてるだけネガティブじゃねぇけどよ! ……こりゃ、相当の敵に当たって自信を失っちまった、とかなのかもしれねぇぞ……!
「また銀細工師のバルケスィルさんですが……彼も何故か旅路へ」
「何でだよ!?」
意味がわからねぇんだけど! トルコで店構えてたのにどうして旅路に出てんだよ!? 店で銀細工作ってろよ! 旅に行かずにさ!
「『インスピレーションが足りない』とは言っていましたが……」
「アレ以上のいるんかい!」
怪物と戦う以上のインスピレーションってなんだよ……! つーか、銀細工で武器が作れたり、化け物相手臆せず立ち向かったり、あの人も結構謎な人だったよな本当に……。いや、本当に色々な意味で謎に終わった人だったな。
と、ここで俺は残っている人物に気付く。
バンガーさん。ひじき。そんで日向だ。面子の中でも気になる奴らになる。正直なところ、一番気にかかるのは日向だな。なんつったって、アイツ早々に消息不明になっちまったんだ。心配じゃないと言ったら嘘になっちまう。
逆に他二人に関しちゃ心配がおこがましいレベルじゃね?
「そして最後。バンガーさん。弦巻君。親不孝通り君達はと言いますと……」
そこから先。
大地離の旦那が語った内容を耳にした瞬間に俺はベットの毛布を剥いで、一目散にドアの方へと駆け出していた。
4
いや、暑いな今日。地球温暖化舐められねーわ、マジで。
そんなどうでもいい――いや、どうでもよくもねぇのかな。温暖化問題は世界的に見れば大問題なわけだし、どうでもいいって言っちゃ失礼か。なら私らしく、どっちでもいい、と言い換えておくか。これもこれで失礼か。まぁいいや。失礼な振る舞いは私のモットーみてぇなもんなわけだしよ。
取り繕うのも、見繕うのもめんどくせーんだから横暴に振る舞ってればそれでいい。
さて、私ことひじきさんがどうして日中、こんな暑い日ざしの下で佇んでなくちゃいけねーのかって言えば、大半が目の前のこの筋肉の塊の様な――いや、いいや筋肉で。
「オイ、さり気無く酷ぇぞ批自棄の嬢ちゃん」
汗つらーと流して筋肉が無駄に勘の鋭い文句を言う。と言うか心を読むな。
しかし私は少し不便とも感じた。
だって筋肉は他にもいるのだから。身近に。多分、今頃一日ぶりくれーに起床して大地離の旦那に事情を訊いて駆け付けてくる最中だろう筋肉がいるのだから。それを考えるととてもではないが目の前の男を筋肉とは呼べない。ごっちゃになって困惑するのは必然だ。
仕方ないからここは仮としてフリーター・ディオと呼んでおこうと思う。
「別の意味でヒデェな、オイ」
「ハッ。こんな暑い日ざしの下で見送りしてやってんだから、むしろ感謝しろおっさん」
「つっても、オメー汗ほとんど掻いてねぇじゃねぇか」
そこは諸事情でな。おかげで夏場でも汗掻かなくて便利だよ、こちとら。
「ま。見送ってくれるって辺りにゃあ感謝してるけどな。あんがとよ」
「一応に適当にはな。っつか、頭撫でてんじゃねー」
「ヌッハッハッ! いいじゃねーか、すり減るもんだし」
「ならダメだろ」
そう告げるとフリーター・ディオは仕方ないとばかりに頭をぽんぽん叩く感じで撫でる方向性へ変えてきた様だ。いや、ムカつくな、揚げ足取りみてーで。死にてー。
「バンガーさん。荷造り完了しましたよ」
私が頭を撫でられると言う光景を何か微笑ましいものを見たかの様な表情を浮かべて軽く横を通り過ぎる銀髪の青年。名前はルーク=シエルだったか。シエルが通り過ぎると同時にフリディオ(※長いので略した)は軽く手を挙げて答える。
「いってらー」
「軽いな、オイ! もっと別れを惜しめよ、オメーさんは」
そう言われてもな。惜しむ程の感情は私は持ち合わせてねーんだけどな。むしろどこへなりと勝手に行って来いなんだけどな。あるとしてもちょっとくれーよ、ケラケラ。
と、そこで私の近くにいる部下であり下っ端である少年が少し苦笑交じりに呟いた。
「そうですよ、ひじきさん。バンガーさん行っちゃうわけですし、一言くらい……」
「いってらー」
「言ってはいましたね、うん! ですけど、もうちょっと違う奴をお願いできません!?」
「そうは言うがよユミクロ君。これが一番素っ気なくもあり、親しみやすくもあるっつー、呟き文化の象徴なんだぜ?」
私はそう不敵に告げてやる。
隣の部下。弦巻日向ことユミクロ君へ向けてな。今回の『トルコンクエスト』で株を上げるどころか逆に株価暴落が起きたんじゃねって次元の役立たずっぷりを披露したユミクロ君だぜ、皆さん。いや、それを言い出せば足である『運船』を破壊した辺りでも片鱗を見せていたと言えるだろうが、今回に至っては何の活躍も無かったユミクロ君だ。
ちなみに株価暴落はともかくとして、洋園嬢からはこってりと。それはもうこってりと色々あったと言う旨を一応、明言しておくとしよう。
「ですけど、ひじきさん。お世話になったんですから、もっとこう……」
「確かに少しはなったけどな。だが、そういうのは、とってもお世話になったユミクロ君に託す事とするぜ私は」
「はぐっ」
短い呻き声を零し汗を流すユミクロ。
それはまあ当然ってもんさ。なんつったって、大蛇に食われた自分を助け出してくれたってのが目の前のフリディオのおっさんなんだからな。そこらへん、私は全面的に任せたから何を言うでもねーけどよ。
「ヌッフッフッフ。確かに盛大に貸を作っちまったからな、弦巻の坊主が俺によ」
「う、うう……! 否定できない……!」
手に汗握る――嫌な汗だろうけどな。
ユミクロ君は頭を抱える様に困り果てた様子だ。
「本当に、助けてもらった事には感謝してます……」
「オウ。んじゃ、例の方もよろしくな、弦巻の坊主」
「……せめて、そこまけてもらえませんか……?」
「弦巻の坊主。世の中はな……非情なんだぜ」
「ニタニタしながら言わないでもらえます、苛立つので!? でも、くそう……残り三分の一どうしよう本当に……!」
「ま。期限はそこそこ設けてやらぁな。次逢った時にでも、とかな」
「僕、バンガーさんとは二度と会いたくありません」
「別れ際におっさんスゲー手酷い発言されるのな」
「だって逢ったら僕の寿命が縮むんですもん、逢いたくないです」
「ガハハ、そっか。だが、そりゃ無理だな」
「何でですか!? 会わない様に努力しますよ?」
「そこは別の努力をしようぜ、弦巻の坊主!? ま、頑張るこった」
「くぉぉぉ……!」
「いやぁ、本当に。報奨金で三分の二賄えて良かったじゃねぇか」
「……」
そして最終的には拳を握ってぷるぷる涙目になるユミクロ君。いや、一任した私が言うのも何だがかなりまたアレな事になっているご様子なこって。
……一千万報奨金で三分の二賄えたって事は、つまり千五百万か……? ユミクロの奴、私の知らないところで、どうしてこうも借金と思しきものが増加していきやがるんだ……? いや、詳細はわからねぇし的外れかもしれないが、私の考えではおそらく総額五百万の借金増えてるんじゃね、とか思うぜ、ああ……。
……いや、別にメンドクセーとか決して思ってねぇよ? 私、教育係だし。全く思ってねーぜ? うん。
「うう……僕の報奨金がぁ……」
そしてやはり予想通りみてーだな。確実に借金増えてるぞ、これはユミクロ君。
千五百万増加マイナス一千万イコール五百万か。本当に借金に好かれてやがるな、ユミクロの奴は……。返済はすげー時間かかりそうだな大真面目に。
「さて、と」
ズーンと項垂れるユミクロを余所にフリディオのおっさんはくるりと背を向けた。
「行くのか?」
「おうよ。長居しててもしょうがねぇしな」
「長居ねぇ……」
確かにトルコで金が尽きてアルバイターやってる――とかいう話らしいが。この二人もいったい、どんな目的で旅なんかしてるんだかな。とやかく詮索するべきことでもねーから、根掘り葉掘り聞く意味もねーけどな。
「……寂しくなりますね」
「ガッハッハ! 嬉しい事を言ってくれるじゃねーか弦巻の坊主」
「そりゃあトルコのモディバでバンガーさんの陽気っぷりは名物みたいなものになってましたから。出会って数日くらいですけど」
「本当に出会って数日なのに記憶に印象付き過ぎて嫌になるぜ」
「そしてひじきの嬢ちゃんは本当に容赦ねぇのな」
ガッハッハ、と腹を抱えておっさんは爆笑する。
「でも、実際インパクト強いですからね。住民の皆さんも昨日の送迎会では別れを凄い惜しんでいましたし……!」
「ああ、昨日の飲めや歌えのドンチャン騒ぎで警察まで出動した大騒ぎな。その関係で二大派閥の論争が勃発するし、最早モディバとは思えない様な惨状になったアレな」
「……」
「……」
いや、自分は関係ありませんよみてーに視線逸らしてんじゃねーよ。
テメェら二人含めての、チーム【プロテイン】含め地元住民含めてのあのはっちゃけ放題大パーティーの影響に関して言ってんだよ。いつの間にか『きのこ』と『たけのこ』含めての盛大な大論争に発展したんだぜ、テメーらよ。おかげで事態収拾にどんだけ苦労したと思ってんだっつの。
「ま、まあアレだな。やっぱ宴は派手じゃねーとってこったな!」
そう言うアンタは事態の先頭で先導して率先しながら事態を拡大していった元凶の一つみてーなもんじゃねーかよ。
「そ、そうですね! パーティーはやっぱり賑やかが一番ですもんね!」
ユミクロ君よ。テメーはテメーで落ち込んでいるから騒ぎに加担しねーと思ってたら、予想外に泣き上戸と化して夜道を爆走しながら泣き喚きの限りだったじゃねーか。そもそも、誰だコイツに『唯の金色のお水』を与えた奴は。
そんな他愛ない事を考えながら私は溜息を零す。
怒鳴ってやりて――いや、疲れるからしたくないんでジト目を送るだけに留まっておくんだけどよ。それにまぁ、私も鬼じゃねぇしな。騒ぎたくなる理由がわからなくはねーさ。羽目を外し過ぎだって面はかーなーりっ、あったけどな。
ケタケタケタ。
周りの奴が不気味だってよく言う笑い声を零してコイツらの眼を逸らす話題を水に流す。そう、見なかったこと程度にはしといてやるさ。昨日の盛大なパーティーに関してはな。
それにまあ……。
「そんな最中――いや、実際一番別れを惜しんでるのは私らでも住民でもなく、昨晩から若干しょげ気味のユルギュップだからな」
私は嘆息交じりに後方をちらりと一瞥する。
そこには一人の姿があった。
ラナー=ユルギュップ。トルコの病院【命のオリーブ】で働く奴の姿があった。
「……」
その表情は何処と無しに暗い。
まぁ、当然なんだろうな。付き合いの浅い私らと比べれば、このおっさん達と交流を深めていたユルギュップの反応は妥当なものなわけで。
「おいおい。そんな湿っぽい顔で送り出すつもりか?」
「……」
此処へ来てから、先ほどからずっと会話に参加せず押し黙ったまま突っ立っていたユルギュップはそっと顔を上げてくしゃりと苦笑を浮かべた。
「あはは……わかってはいたんですけどね。やっぱ、いざお別れってなると寂しいもんだなーって思っちゃって……」
「ったく。別に今生の別れってわけでもねーのに大袈裟だなぁ、テメーは」
「でも、次に会う日が何時になるのかなんてわからないし……」
はぁ、と溜息を零す。その顔は別れを嘆くと言うよりかは別れを惜しんで引き摺っているくよくよした気持ちを嘆いているって感じに見えた。
「今日はこの後に、弦巻君達も行っちゃうわけだから何か尚更に……はぁ」
そして近いうちにくるバンガーとシエルの別れに関して予めある程度覚悟していただろうユルギュップがこうも表面に感情を示すのは少なからず私らが関係しているんだろう。最近になってトルコに嫌に面子が集まってたからな。昨日までのにぎやかさと。今日の別れの寂しさのギャップが激しくて嫌でも別れを意識せざるえねーんだろうな。次いで言っちまえば、ユルギュップの言う通りに私ら迎洋園家も飛行機で出立する手筈になっている。
「そうなんですよね……。てっきりもう少しゆっくりしてから帰るのかな、と思っていたんですけど主様、今日中には日本へ帰国するって言ってましたし」
不思議そうに顎に手を当てて考え込むユミクロ。
「あー、それはだなユミクロ。まぁ、さくっと語っちまえば元々、トルコには数日間の滞在だったから予定的には初め通りだったんだぜ? むしろ、ユミクロが『トルコンクエスト』やら、色々と状況に絡んでた辺りで滞在期間むしろ少し伸びたくれーだしよ」
「そうだったんですか?」
「まな。つっても、目の前のおっさんが出立する様に『トルコンクエスト』の報奨金で旅立てるようになった辺り、時期が被ったってのはあるけどな」
トルコに集った面々が此処にきて同時期に散り散りになっていく――みてーなもんだ。
「って事は日本帰国は当然のものって事になるんですかー……」
「そういう感じだな」
ただまあ。
「それだけが理由ってわけじゃねーんだがよ」
「へ?」
不思議そうにきょとんとした表情を浮かべるユミクロ。
その顔は文字通りなーんにも推察してはねぇことだろう。別にな。当初の予定通りに帰国するってのは嘘じゃねーんだ。だけれど、トルコに滞在する時期は結構余裕もってたんだぜ? なんだけれどユミクロの一件があるからこそ私らは当初の予定通りに帰国するって流れになったんだよ。より正確には、なるべく早めに帰国しといた方がいい――そう言った方向性に向かったってわけなんだよな。
まぁ、今ここで語るべく内容じゃねぇけれど。
かと言って秘密主義にするほどのことでもねーんだけれど。
空気読んで今は語らないでおくとしようか。どのみち、帰国後すぐにわかる様な些細な変哲のない他愛ない話であるわけだからな。だからまあ、私の口から語るよりも、洋園嬢の口から語ってもらった方が早いんだが、私の発言に疑問を覚えたユミクロが口を開きかける。
そして私に向けて、疑問を呈そうとした、ちょうどその時だ。
「まぁああああああああああああああああああああああああにあぁあああああああああああああったぁあああああああああああああああああああああああ!!」
ガンガンと。
やかましい。けたたましい。騒がしく、慌ただしい限りだ。
野太い大声を発しながら爆走してくる奴が約一名。全速力の走りで駆け寄ってくる。同年代の男子と比べれば明確な程に逞しい筋肉。あろう事かこの場にマッスルが二名も揃ってしまう。なんとむさ苦しい光景になっちまうのか。
「だー。ボリューム下げてきやがれってんだ、ヤコーの奴め」
「不知火さん!?」
「あれ、ホントだ。不知火君だね?」
「おっほ。元気いいじゃねぇか不知火の坊主」
「メンドクセー程にな」
全員が声の方向へ顔を向ける。ぐんぐん近寄ってくる、その姿はまず間違えない。不知火九十九の姿だった。負傷と疲労で一日中寝てる奴だからな。この場に現れたって言う辺りには少しばかりの驚きを禁じ得ない。……そこで考えれば一つ不思議な話なんだが、私らはあのダンジョンを達成後、怪我は完全に無くなっていたにも関わらず、ヤコーとユミクロだけは負傷したまんまだったんだよな。まぁ、ユミクロの方は軽傷――擦り傷が若干残ってる程度だから問題ねーし、ヤコーに関しても寝てただけで傷何て他愛ないレベルだが。
そうこうしているうちに、ヤコーの姿が傍まで駆け寄ってきて、額の汗を腕で拭うと一つ大きく息を吐き出した。
「いやー、あぶねーあぶねー。何とか間に合ったぜ!」
「間に合った……バンガーさんの見送りに来たんですか?」
「オウよ!」
「そいつぁアンガトよ、不知火の坊主」
「いいってことだぜ!」
「でも怪我はもう平気なの不知火君。うん、平気そうだね、良かった」
「何か自己完結早くねぇかユルギュップ!? いやまぁ、平気だけどよ!」
「いや、訊くだけ無駄だねって思うくらい怪我全く無くて……肌の感じも問題全くないみたいだし……」
タフだからな。
ユルギュップの奴も呆れの色を見せて当然なくれーにヤコーはタフだからな。わかる、わかる。気持ちはわかる限りだ。
「にしても意外だな」
「あん? 何がだよ、ひじき?」
「いや、な。テメーが急いで見送りに来るなんて事自体が驚きでな。私としてはお前は確かに義理を通す筋は持ってるけど、こういうケースなら、どっちかってと『そっか。もう行っちまったのか。また会えるといいな!』くれーで済ませそうだからよ」
『ああ……』
私の言葉に他の面々が納得した様な声を洩らす。
ああ、別に見送りの機会があればすると思うぜ? だけれどな。運悪く時間があわねーって時なら、残念がりはするけどむしろ次の再会の時を期待して終わらせる――くらいの感じだと思うんだよな。だから、こうして大急ぎで現れた事が私としては意外っちゃ以外なんだよ。
そんな私の言葉にヤコーは不敵な笑みを浮かべて返した。
「へっ。甘ェな、ひじき。ゴーヤよりも甘ぇぞ」
「不知火さん、それむしろ厳しい気がしますけど……」
「第一前提が間違ってんのさ、ひじき!」
「は?」
第一前提? 第一前提から覆るって事か? この見送りに関して、ヤコーが駆け付けた事がなのか? ……と、そこまで考えて私はまさか、と言う思いに駆られる事となる。
「お前、それつまり……」
「ああ。俺は見送りに来たんじゃねえ! むしろ、ストップを駆けにきたんだぜ!」
「え?」
「は?」
「あ?」
ユミクロ、ユルギュップ、フリーターのおっさんが各々間抜けな声を零す。
いや、かく言う私も内心そんな感じだけどな……。
「と言う訳で、だ」
ヤコーはズン、と一歩踏み出しておっさんの前に立つ。
おっさんは『え? 何だこの流れ?』と言う様子で顎に手を添えて考え込んでいる。そんな戸惑いを見せるおっさんに対して、ヤコーは徐に右腕の袖を捲り――ぐっと力瘤を作った。
「……ふむ」
おっさんが小難しげな表情を浮かべる。
そして。
「わっりーな、ヌッハッハッ!! 俺様、弟子とか取る気ねーんだわ、メンドクセーから。んじゃあ、アバヨ――――!!」
「待てーっ! 待ってくれ、バンガーのおっさぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっっっ!!!!」
『……』
唖然とするユルギュップとユミクロを余所に、『ハッハッハッハ』と言う爽やかに白い歯を輝かせながら優しいスマイルを浮かべながらおっさんは風流な事に馬車の荷台に積まれた藁束の上に寝そべりながら、ハイスピードで去ってゆく。そしてその後を手を伸ばして待ったを必死にかけるヤコーと言う構図を私はしょーもな、と思いながら見守った。
いや、それにしても……。
「馬車まで動かせるとはシエルって野郎、中々スペックたけぇな」
「そういう問題なんですか!?」
「今の一連の流に疑問は抱かないのひじき君!?」
考えるだけ頭痛がするだけの話だぜ、テメーら。
なんせ力瘤作ったら弟子入りを断られる何ていうボディランゲージ……ああ、いや、どっちかって言えばマッスルランゲージの次元なのかね? この局面でそんな伝達方法選んだ筋肉も相当アレだが、正確に伝わったおっさんも相当じゃねーか。何で伝わるんだよ。力瘤イコール弟子入りか何かなのかよ。
と言う具合にだ。
考えるな。感じるんだ。
……みてーな次元の事に関して説明も何もあったもんじゃねーし、あるまいしなんだよ、どっちかってと私が訊きてぇよ。いや、訊きたくねーけどな。どっちでもいいんだ、正直。考えるだけ無駄だと思うから。
「さーて、見送りも済んだし、変えるぞユミクロ」
「え、ええ……? 見送り……済んだんでしょうか?」
確かに。
別れの言葉も挨拶も、何も言ってねぇけど。ハイスピードで去って行ったんだからしょーがねぇじゃねーか。だからいいんだよ。
「私らも帰り支度あんだから。さっさと済ませた方がいいってもんだ」
「ああ、それもそうでした……」
でも、と呟きながらユミクロはヤコーを一瞥する。
「ちきしょう……! あの場所であんだけ筋肉の輝きを見せたあの人に弟子入りすりゃあ俺の筋肉はより一層輝けると思ったってのに……!」
四つん這いで沈むヤコーの姿を。
お前は何時の間に師として仰ぐ心構え固めてたんだよ。素振り全く無かったじゃねぇか。まぁ、わからなくはねぇけどな。筋肉を第一前提とするヤコーとしちゃあ自分を越える筋肉の姿に尊敬の念の一つくれーは抱くんだろう、多分。
それにしたってちょいと不可思議に私は思うが、まぁいいか。
「それとユルギュップ」
「ん。何かな?」
「私達はこれから帰り支度すっけどな」
まぁ……アレだ。
「そう悲観してんじゃねーぞ。また近いうちにごく自然に再会する――人同士の出会い、再会なんざ縁も所縁も奇異で喜色で気ぃ抜いてたらふと出会う――そんなもんなんだからな」
だから今はいつも通りに別れるだけ。
いつも通りに別れて、今まで通りにまた何時か再開するだけだ。
「結構定期的にトルコに来てんだから、何時になく物憂げにしてんじゃねぇっての。まったくもって」
「……」
ユルギュップは刹那きょとんとした笑みを浮かべた後に。
やがて、可笑しそうにくすりと微笑み。
「……うん。そうだね、ありがとひじき君」
「別に礼言われる事でもねーぜ?」
「そうかな? でもありがとうだよボクとしては」
「そーいうもんかね」
「そーいうものだよ。でも何というかアレだよね」
「アレ?」
不思議そうに首を傾げる私に対してユルギュップはふわっとした笑顔を浮かべてこう言ってきやがった。
「相変わらず、何だかんだ優しいよねってさ。お人よしだよねーって」
……ふむ。
「……熱は無いよ?」
みてーだな。手で触れてても全く熱くねぇ。
「なら尚重症じゃねぇか。素面でそういったって事は見識がおかしくなっちまってるって事だぞ、ユルギュップ」
「いやいや」
苦笑して手を小さく振って否定を示す。
だが、私としちゃあこっちが否定してーよ。ケタケタケタ。
「勘違いしてんじゃねーよ」
すっとユルギュップの隣を通り抜けて歩いてゆく。
そしてニマァ、と笑みを浮かべて私は小さく口を動かしてこう述べた。
「私は唯、私の為にしか行動しちゃねーんだからな」
捨て台詞残すみたく。
いつも通りの笑みを顔に張り付けて、私は外にそっと吹き抜ける風を心地よく感じながら、おっさん達が去った方向へ手を振るユミクロ、加えて直立して何か『次逢うまでにもっと筋肉に磨きを掛けるぜ!』と燃えているヤコーを背にしつつ、その場から離れるのだった。
……ただし、若干微笑ましいものを見る様なユルギュップの眼差しが気に食わねぇけどな!
5
広々とした地平線の彼方には青く伸びる水平線。
潮風を心地よく感じて髪を少し抑えながら、私は磯の匂いに何処か哀愁を抱きながら、周囲を――この場に集まった私の従者たち。そして知り合いの顔を一瞥します。トルコ、イスタンブールの港。そこには一隻の巨大な船が着岸しています。
当然ながら我が迎洋園家の船の一隻であり『タルシシュ・オーシャン号』と言う名の青と白と言う我が家の象徴の二色で形成された豪華船。総トン数225,282トン。全長361メートル。幅、65メートル。高さ71メートルと言う数字通りの巨大船になりますわ。
「何か忘れ物とかはありませんか?」
扇子を広げながら、私は迎洋園家別宅に備え付けられた港にてそう問い掛けます。
「ええ。大丈夫ですよ、テティスお嬢様。全部エプロンドレスにしまっていますので♪」
「さも当然に言っていますが、睡蓮。それは普通ではありませんよ、毎度の事ですが」
相変わらずメイドと言うのは――知り合いのメイドの方々含めて、どうしてこうもエプロンに全部仕舞い込めるのかその質量問題が気になって仕方ない話ですわね……。
今更、そこを言っても仕方ないのは前々から思ってますが如何せん疑問に思うものです。
「私も大丈夫であります。バズーカ砲もしっかり持っております、お嬢様」
「それは何よりですわね」
忘れたら忘れたで問題ですものね。
「幽の倉沢の奴もしっかり、アタッシュケースに入れておいたし、完璧であります」
「そこはダメですわよねぇ!? 道理で見かけないと思ったら荷物扱いになってたんですの、あの子はまた!?」
「本人所望でありましたので」
「あの子は……また……」
思わず頭を抱えますわよ、もう!
何なのですかあの子は! アレですの、狭いところが大好きでもありますの!? いえ、わかっていますけれども! 自虐趣味多い娘ですから、どうせまたアタッシュケースに詰め込まれるもを快感に思っているんでしょうけれども!
「全くアイツの自虐趣味にも参ったもんすねー」
「ええ、本当に……。ただ、貴女に言う資格はありませんわよね、親不孝通り?」
「嫌っすなー洋園嬢は。私のは唯の死にたがりです」
「なお、性質が悪いですわね!」
性質が悪い上に本質が悪すぎるから何事も無いですけどね貴女の場合は……。
「と言うか、親不孝通りは忘れ物とか無いんですの?」
「大丈夫っすよ。忘れてたら、また来るまでです、迎洋園の金で」
「相変わらず貴女は主従関係とか足蹴にしてますわねぇ!?」
いえ、別に痛手では無いのですが! トルコの距離でしたら何度でも往復してくださって構わない様なものなのですが、それはそれでどうなのですか!?
「まー、実際大丈夫なんでご安心くだされってもんだぜ?」
「その言葉を信じたいところですわね」
「オッケーだから平気っすよ。忘れてても向こうからいつの間にか手元に何か不思議な経緯を辿って戻って来るから私の所有物は」
「器物ですわよね!? 器物に対しての話ですわよね!?」
軽くホラーですわよ、その現象は最早……!
そう言っている間にも屋敷の方からは地べたをずりずりと這いずって見覚えのある彼女の、親不孝通りの匕首が襲来すると突如、彼女のエプロンドレスの中に飛び込む様に収まっていく光景が映し出された――怖いですわよ? ええ、普通に怖いんですが! 「な?」って言われても信じ難い光景なんですが! と言うか、貴女それ易々と忘れていい代物でしたの!? 確かダンジョンでも使ったって日向から伝聞で訊いていますが、それ忘れていいものでしたの!?
私が二重の意味で戦慄を覚える最中にくいくいっと青のドレスの裾を引っ張る感覚がやってきた。顔を向ければ、そこには見慣れた双子の姿がある。
「ねーねー、テティス様―♪」
双子岬幹。彼女は相変わらず背中同士を双子の咲とくっつけ合わせながらくるくると回っている。何とも可愛らしい光景ですわね。
「私達荷物ちゃんと詰め終わったよー♪」咲に次いで幹が「偉いでしょー♪」
「ええ。偉いですわよ」
思わず顔を綻ばせてなでなでと彼女たちの頭を撫でる。はふぅ……相変わらず和みますわねこの子達は……♪
「ふにふにー♪」幹と咲が交互に「ぷにぷにー♪」
お返しとばかりに私の両頬を触ってくる姉妹。
何と言うかくすぐったいですわね。和むので別に構いませんが。
そんな私の姿に親不孝通りが「いや、相変わらずちっちゃい奴には甘いよなー対応が」とぼやいておりますが、まぁ、これくらい低学年のメイドになるとね。何となしに可愛がってしまうものですわ。
「さて。それじゃあ双子岬姉妹は問題ないとして……ネーヴェ。貴女の方は問題ありませんの?」
「……」
こくりと無言で頷く色の白い肌をしたメイド。
ネーヴェ=ダッハシュタイン。
相変わらず蒼褪めたと形容出来てしまいそうな肌色をしているのが少し心配ですわ。
「そう。でしたら、おじい様の所へ戻った折にはよろしく伝えて於いてくださいね」
「……」
再度、無言でこくりと頷くネーヴェ。
彼女は現在はおじい様――私の祖父と言う事になりますが――祖父の専属と言うわけではありませんが、繋がりがある為に私達とは別ルートで私の祖父の元へ向かう手筈となっており、一旦向かってもらう事となっています。
そして最後に。
私のこのトルコで出会った新たな従者。弦巻日向は準備は出来たのかしら?
そう思って目を向けてみると、そこにはロングヘアーを後ろで結び、そして初めて逢った時に来ていたコートを腕にかける形で持っているかなり軽装備の日向の姿がありました。
「準備万端ですよ、主様!」
「そうですの? それにしてはいやに……」
軽装備……ですわね、何度見ても。
そんな私の視線に気づいた様子で日向はにこっと笑顔を浮かべた。
「あ、問題ないですよ? だって、僕所有物とかほとんどありませんからね! 大半は昔、父親に質売りされて無いですから、これで持つもの全部です!」
「そ、そうですの……」
悲しいのですが!? それをさらっと笑顔で返す辺りが空しいのですけれど!?
「まぁ、一番大事なものは肌身離さず持っていますし……。愛銃に関しては修理してもらえるとかで船に積んでいますので」
「そうですか。それなら確かに忘れ物は無さそうですわね」
日向の言う通り、彼の銃は迎洋園家の技術力で修理する手筈の為、既に荷物として運び入れている。
「でも、迎洋園家って本当にすごいんですねー……! 自家用クルーズ船まで持ってるなんて驚いちゃいましたよ!」
「ふふん。でしょう?」
自信満々に私は胸を張って答えます。……何故、今日向が一瞬顔を赤らめたのか不思議ですが……、ともかく迎洋園家でもトップクラスの船である『タルシシュ・オーシャン号』は自慢の一隻ですからね。褒められればうれしくもなりますわ当然!
……まぁ、大き過ぎて通れない港とかありますが、それはそれです。
「でも船で帰国するんですね。てっきり飛行機とかかと思ってました」
「大地離家は基本飛行機ですが、我が家は海外へはもっぱら船になりますからね。どうしても無理な場合は自家用機を使ったりしますが……」
「そうなんですか……! でも凄いなー、大きいなー……! 僕、こんな大きな船初めて乗りますよ!」
「でしょうね、貴方は。まぁ、中には色々施設を整えていますから、楽しみにしているといいですわ。存分にはしゃいで構いません」
「おお……!」
日向が感激した面持ちで目を輝かせる。
この船には公園、プール、温泉、ゴルフ場、映画館等々盛り込んでいますから、まず飽きる事なく生活できる程ですからね。
……ちなみにですが、我が家が旅客機等を使わない理由としましてバズーカ砲やら匕首やら銃器を摘んでいる以上は検査が一々面倒くさいからでもありますわ。そして……。
「ふわぁ、楽しみだなー……♪」
丁度、傍に約一名不法入国者がいますからね!
そりゃあ一般の船や飛行機は仕えずに自家用機や船を使うしかないと言う話ですわよ!
従者の荷物が毎度危険すぎますわね本当に……。
そんな事を思っている私に対して聞き覚えのある声がかかります。
「テティス君」
「ユルギュップ」
穏やかな微笑を浮かべて傍に寄って来る現地の知り合いの姿。現地……以前の知り合いですけれどね、私にとって……。
「また、何時でもトルコに来てね」
ふわりとした笑顔でそう告げて右手を伸ばす。
昨日あたりから若干寂しそうな様子でしたが……、どうやら拭い去ったみたいですわね。顔に気力が満ちていますから……安堵しましたわ、全く。
私はそんな彼の手を握り返して一言。
「ええ。また来年には来ますわよ。もしかしたらもっと早くかもしれませんが」
「うん。楽しみにしてるね♪」
弾むような声でそう笑顔を浮かべてくれる。
まったく……。
一年前にも定期でトルコには来ていると言うのに、今回に限ってナーバスを少し発揮しているのですからね、ユルギュップは。次回なるべく早めに来てあげるとしましょうかしらね。
そうして私は静かにユルギュップとの握手を放す。
「では。もう行きますわね」
「うん。またねテティス君。皆も♪」
ひらひらと手を振るラナー=ユルギュップの笑顔に見送られる形で私は皆の先頭を歩く形で船へ乗船してゆく。そして開いていた扇子をパシッと閉じて、
「さ。皆」
これからの心機一転。
日向と言う新たな従者も加えての心機一転ですわ。
「いざ、日本に帰国しますわよ!」
『はい(ええ)!』
にぎやかな笑顔と、明るい声と共に。
私達は日本へと航路を取る。
そして、そこで。弦巻日向の新しい生活は始まりを迎える事となるのでした。
6
汽笛の音が聞こえる。
俺にとっちゃあ何とも心地の良い調であり導だ。海岸線から一隻の巨大な船が出港する合図みてぇだな。にしても随分と大仰っつうかデケェ船じゃねぇか。見ていて心躍る光景って奴だと俺は思う。そんな俺は海岸を見渡せる場所――イスタンブールのとある高台の上であぐらを掻いて頬杖つきながら見守っていた。
俺は――暇人だ。
同時に知っている奴なんか限られてるだろう、おっさんでしかねぇのさ。
言ってて悲しくなりやがらぁな、オッラッラッラ!
しかし暇になっちまったもんだな。
つっても、まだ。まだ、やり残しが幾つかあるから、フリーターではあれど、この場を離れるにはまだ早いんだけどな。ったく、ここ数日あくせく苦労したもんだなぁ、俺も。
「何を一人でぶつぶつ呟いていらっしゃいますの、気味が悪い」
そんな俺の後方。偉く丁寧に偉く尊大な口調の女の声が背中に当たる。
「オッラッラッラ。こいつぁ珍しい奴がいるじゃあねぇか」
「何を仰いますか」
俺の座る位置の少し後ろに近寄って佇み、黒い軍服を風にはためかせながら、呆れを含んだ声で俺に対して言い放つ女が一人。アッシュブロンドのロングヘアーを風に揺らす黄色い瞳ををした端正な顔立ちの女だ。見目大体20歳前後。俺よりも二〇歳以上は若ぇ事は確実だろう。
「貴方の方が珍客みたいなものじゃありませんの、艦首さん?」
「皮肉めいた口調あんがとさん」
俺は口の端をニンマリ吊り上げてこう返す。
「だが艦首じゃねぇ。ゴンザレスと呼びな、オッラッラッラッラ!!」
「だから貴方のゴンザレス美化は一体何なのですか?」
ジト目で射抜いてくる呆れの眼差し。
どうしてわからねぇかねぇ。このゴンザレスと言う名前のパワー、格好よさが!
「しっかし、どうしてお前みてぇな奴がこんな場所にいやがるよ、ヴィースバーデン。『遥頂』の方はどうしやがったんだよ?」
「別に『遥頂』の方は問題ありません、早々にはですが。まぁ、それでも最近は【BX4】の問題があるから所々問題は無きにしも非ず、と言う形になりますが……」
「そりゃ大変そうなこった。ま、頑張りな」
「言われなくてもそのつもりですけれどね」
はぁ、と溜息交じりに女――ヴィースバーデンは息を吐き出した。
「疲れてはいるみてーじゃねぇか」
「ええ、まぁ」
つい先日も一仕事してきたばかりですの、と肩を右手でぽんぽん叩きながら応える。
「ふん……アイツ絡みか?」
「ええ。当の本人は今頃何処でどうしているかわかりませんけれどね」
そういう時のコイツの顔は何処か物憂げだ。
理由は知っちゃあいるけどな。
「オッラッラ、相変わらず行方知れずってわけかい。寂しいねぇ」
「さ、寂しく等……!」
「ま。そこはアイツの性分なのかもしれねぇな。まぁ、ピンピンして何事も無く戻ってきたりするだろうよ。……いやぁ、本当何処で何してんのか、さっぱりわからねぇが……」
「ええ、何処で何してるのか行動の予測がつきませんが、まぁ大丈夫だと思いますの」
そこらへんは変な信頼が生まれてるもんだ。
ことアイツに限って言えば、別に心配する様な事もねぇからなぁ……。
「それで貴方の方はここで……何をしていますの?」
「俺か?」
向けられる視線を一瞥して、俺はあぐらをかきながら、ふむ、と顎に手を添えて考え込む。どうしたもんかね、答えたもんなのかどうなのか……。
「相変わらずどういう原理で貴方のウサ耳は動いているわけですの……?」
何かぶつくさ呟く声がするが熟考する俺の耳には届いていない。
そして俺は少しばかり考えた後に、
「なぁに。まぁ、少しばかり『W』やら『M』……もののついでに『一六』に関して目を配っていた――それだけだぁ」
「……は?」
何を意味不明な事を言ってるんですの、と言いたげな様子だ。
だが、わからねーならわからねーでいいのさ。これが伝わるなら納得して頷いた、ただそれだけの些細な違いでしかねぇんだからな。そして良くわかっていない様子のヴィースバーデンを余所に俺はゆっくりと立ち上がる。コートについた汚れを軽く叩いて、
「よいせっと」
んじゃ、と呟いて。
「俺ァ、そろそろ行くぜ。船で軽く漁に出ねぇといけねぇんでな」
「あら、そう? それじゃま……私も戻るとしましょうかしらね。部下が一人一緒だったんだけど、適当に撒いてきちゃったから探してあげなくてはなので」
「ホウ、適当にね。鳥に帽子でも捕られて追っかけてるうちにとかじゃねぇんだな」
「!? な、何で貴方がその事を……!?」
カァァ……! っと、真っ赤になるヴィースバーデンを余所に俺は「オッラッラッ!」と高笑いしながらその場を離れてゆく。いやぁ、此処へ来る最中にそんな様な話を小耳にはさんだもんでな。推測すると大方帽子でも捕られたんだろう。
「くっ……!」
事実、今軍帽を必死に抑えて顔を赤くしているのがいい証拠じゃあねぇか。
「ま、待ちなさいっ、ゴンザレス! 何処で知ったと言うんですの本当に!?」
「オラララ! さーどこだろうかなぁー?」
「ま、待って、本当に何故知っているんですの……!?」
そんな焦った声――次に適当な誰かに逢った時に酒のつまみとしてくらいしか語る気なんてねぇ俺の後を走って追いかけてくるので年甲斐も無く爆走しながら俺は高笑いを続ける。
そして丘の上から見える水平線の彼方。
すっかり小さくなった船の影を一瞥しながらニヤァと口元に笑みを浮かべる。
彼方へ向けるその笑みの。
彼一人が浮かべるものではない、その表情の。
意味を彼方の彼等が知るのは――まだ彼らは知る由も無い話であった。
第九章 終幕。そして新たな日場へ