第五章 罪負いし共、道を往く
第五章 罪負いし共、道を往く
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アララト山。トルコ語ではアウル・ダウと言うトルコ東端の火山である。イランとアルメニアの国境近く、アルメニア高原の山岳であり二峰に分かれた山だ。直径40km、標高は5185mと3927mの巨大な山岳。山全体は安山岩質の火山岩、黒曜石から成り、火山砕屑物並びに溶岩に覆われているが歴史的噴火は知られていない。東部、北部はアラスト川の沖積平野、南西部にはバヤズィト平原が広がっている。
そして今回の目的地は小アララト山のカバノキの向こうに存在する。
現地人の案内に誘われて大地離疆の一行は支柱に掲げられた横断幕の複数の種類の中の一つの文字『トルコンクエスト』とカタカナで書かれた部分が示す場所へ足を運ばせた。
この際、何故に片仮名と言うツッコミはしないでおこう。
初めこそ、その文面のバカにしてやいないかと言う文に戸惑いこそ感じたがいざ、その場所へ近づいてみれば馬鹿に出来ない場所であるという事を肌で感じ取る。周囲をカバノキで囲まれた石造りの洞窟。闇へ続く道筋には下へ降りるのであろう階段が視認出来る。そして肌にビリビリと張り付く様な不思議な感覚。文面こそ馬鹿馬鹿しさが伺えるが、ここは神聖な空間でもあると言う事を理解する。
「トルコン、クエスト……」
日向は自らの言葉を噛み締める。
穴の向こうは闇に覆われていて何も目視出来ない。
ちらりと視線を大地離疆へ向ける。本当にここに入るんですかと問いかけた。当然です目的地ですからねと穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「早速入るんでいいんですか?」
「心の準備が出来ているなら入っても構いませんよ、これは」
そうだな、と加古川かがべが呟いて、
「準備もしっかりしてきたしな。このままこの荷物持って突入もオッケーだろ」
「ふふん。素人め。獅子王子が宣言しよう。お前は敗北し女装しここから出てくる羽目になるだろうとな」
「ま。要は弦巻、テメェの腕っぷしでどんな苦難も乗り越えろって話でよ――」
「訊いてっ!?」
涙目で加古川かがべの足に縋り付く『師子王子』ことギュンターをかがべは面倒くさそうに振り払いながら日向へのアドバイスに徹する。洞窟探検に対する注意点等を伝授してもらう事となった最中にサッチが日向の横を通り過ぎる最中に一言注意を発した。
「ただ用心すべきで存じ上げましょう。この中には侵入者防止のトラップが多数存在していると経験者達はこぞって語ると存じ上げます。それも其々違うトラップを喰らったと言う証言もある事からランダムに変化しているのやもしれないで存じ上げましょう」
「何か凄い忠告を訊いてしまったんですが!?」
ダンジョンが毎度変化する。聞くだけでビックリだ。とても古くに作られたであろう場所とは思えないし、そもそも近代でも作れる仕様なのか不思議に思う。
それを言い出せば片仮名の横断幕ってどうなのだろうかや、トルコ近隣なのだし調査隊とか派遣されてすでに解明されていたりしないのだろうかと不可思議に思うところもあるのだが……。
「生憎、政府も頓挫したダンジョンだからだよ、ユミクロ君」
そして批自棄さんは普通に読心してこないでください、と日向は内心呟いた。
「コホン。でも国が……ですか?」
「らしーぜ。政府としても昔から存在する、このダンジョン攻略を成し遂げるべく先遣隊とか選抜隊とか送り込んだらしーが全滅ならぬ、社会的滅亡の末路を辿って路頭に迷って投身自殺に行きつく勢いの輩もいたそうだから諦めたって話だよ。まー、実際問題そっとしときゃー何も害がねーしな、此処」
「触らぬ神に畳無しって奴ですね」
「祟りな。畳無い程度だったら全く問題ねーからな」
素で何か覚え違いしている様子の日向に釘を刺して、教えを正して、批自棄は足を進めて『トルコンクエスト』の入り口へと近づいてゆく。
「入るのか、ひじき」
九十九が腕組みしながら首を少し後ろへ向けて何気なしに尋ねかけた。
「入る為に此処へ来たんだろーが」
まぁつっても、と呟いて。
「ここで鬼が出るのか蛇が出るのかわからねーぶん……」
わくわくすっけどな、と口をニマァと歪ませて微笑んだ。
相変わらず笑い顔が悍ましいっての……、と九十九が冷や汗流して乾いた笑いを浮かべる。相変わらず不規則で不遜な態度で不足気味なスリルを否定し、踏んだり蹴ったりな結構なスリルを求めているものだ。
「ンじゃ。さっさと入れよヤコー」
「……」
「おい、どうしたよ?」
「……え、俺?」
「お前以外に誰が先陣切って先見するんだっつの」
冗談は筋肉だけにしてくれよ、と呆れ気味に批自棄は呟くが九十九は何で自分が一番最初に入る流れになっているのかがまるでわからない。そんな様子を見抜いて批自棄はしょうがないなとばかりに語りだした。
「今回の仕事は……依頼っちゃ依頼の分類で、分不相応ながらも私らも引き受けたわけだ」
「まぁ、ひじきが一緒なのは驚きだけどよ」
「ただな。この仕事の根幹はまー深入りしねーけど大地離家としての仕事な面が大きいってわけなんだろうな。だからこそだ。雇った奴らを一番に行かせてもーだろうが、今回に限っては私は違うんだろうなーって思ってて、見守ってるつもりなんだよ、テメーをな」
「何で俺?」
「『何で俺?』じゃねーよ。ヤコー、お前な? 今回が初めてだろう、危険地帯っつーか未経験地帯っていうのか」
「ま、そだな。今までは親父が一緒だったしよ!」
「普段のお前のお嬢様とは別行動の上に、ご当主に連れてこられたわけだろう? って事はご当主含めて、オメーの親父さんも同様に今回、お前に経験積ませて詰まる所が研鑽を煮詰めさせるつもりなんだろーよ」
「『九十九、頑張れよ! 父ちゃん応援してるぞ!』って感じか!!」
「いや、お前の親父さんがそんな事言ったら気味が悪い、薄気味が悪い、言い方が悪いがな」
ともかくだ、と右手の人差し指を立てながら批自棄は顎をしゃくって軽く洞窟の入り口を指し示す。
「今回はお前への試練も含んでいるっつーとこだろ。大地離家の執事としてな」
「……」
「だからよ。格好いい所の一つでも。否、否、主の守護者として一丁、私が安全をご確認してきますってな具合にやってこいよ。執事だろう、オメーはよ」
無理強いはしねーけどな、と不遜な表情で呟いて。
九十九はなるほどな、と頷いてしばし黙考する。そんな光景を見ながら見守りながら見つめながら日向は、自分と同年代の少年の執事としての育成の姿を感心深く見守っていた。そんな日向の傍で九十九の仕える家の当主、疆が優しい笑みと共に呟いた。
「相変わらず、注釈の上手なメイドさんですね、彼女はこれは」
「あ、大地離さん」
「ぽけっとしてどうしましたか弦巻君。まぁ……大体は察していますけれどね、これは」
「ええ、まあ少し……」
おもむろに腕立て伏せをし始めて黙考から行動に移して如何した結果になっているのだろうかという九十九を見守りながら日向は小さく問い掛けた。
「あの、今回は九十九さんの修行が含まれるって言うひじきさんの見識は……?」
「ははは、正解ですね、これは」
言葉を濁すでもなく、曖昧に風に流すでもなく、疆は肯定した。
「実際、今回の旅では九十九が経験を増やす事を目的とした旅路であり冒険であり体験ですからね。彼――、不知火九十九の実体験を目的としております。何せ、九十九は次代の不知火家当主が確実ですからね、これは」
「そうなんですか……! 凄いなあ……!」
日向の言葉に疆は曖昧な笑みで答えた。
何か複雑そうな表情を浮かべている……けれども、それは深入り出来る事では無く、聞かなかった事にすべき内容だった。とはいえ、幸か不幸か、いや不幸にも日向はそんな疆の様子に気付けず、九十九の方に少し尊敬の眼差しを送っている最中であった。
そんな視線の的となっている九十九が腕立て伏せを済ませて走りながら疆の傍へ寄って来る。疆はどうしましたかと尋ねた。
「御当主! 俺が先陣を切るけど、それでいいっすか?」
毅然とした表情で九十九はそう述べた。彼と同職の者達が訊いたなら『相変わらず主への口の訊き方がなってないなあ』と苦笑を零されるか、呆れられるか、怒られるかの言葉遣いだったが疆は気にした様子はなく唯一言。
「構いませんよ、これは」
「サンキューっす! そいじゃあ、俺は、あの中の安全を確かめて来ますんで……!」
ぐっとガッツポーズで喜びを表すと不知火九十九が元来た道を逆走してゆく。否、逆走に加えて爆走してゆき、そのまま『トルコンクエスト』の横断幕が掲げられた場所の更に奥の洞窟の中……即ち、トルコンクエスト生粋のダンジョンである、その中まで走り続ける。傭兵として雇われた面々の見守る中で、九十九の姿はどんどん洞窟の方へと近づいてゆき……。
まるで水面に飲み込まれる様に波紋を広げて姿を消した。
「おいおい……超常現象じゃねぇかよ」
加古川かがべが口元をひきつかせて呟いた。
実際、入り方が特殊だ。何だ今の科学技術で説明するには中々以上に厄介な侵入方法は。呑み込まれたと言う表現がしっくりくるような現象。実際には自ら入り込んだのであるから飲み込まれて行ったと言う方が正しいのだろうか。
「ところでいいのかどん?」
そんな光景に周囲が驚きあるいは面白がっているかどうでもいいといった様子を見せる多種多様ぶりの中で開口一番に口を開いたのはトレジャーハンター、『二丁殺虫剤』のアクバル=イスミットであった。アクバルの困った様な様子にどうかしたんですか、と日向は尋ねる。
「いやぁ……」
頬をぽりぽりと掻きながら、
「確か俺どんの下調べでは『トルコンクエスト』はその性質上、一度入口から入ったら敗北か達成するまで出られないわけだから……、安全確認とかして戻って来られないはずだどんっていうね……」
「……」
シンと周囲が静まり返った。冷静な疆ですら硬直状態にある。
だが何時までも直立不動の停止状態になっている時間はない。疆は持前の精神ですぐさま復帰するとアクバルに問い掛けた。
「……そうなのかい、これは?」
「そうらしいどん。いや、正確には、入った以上戻って来たもとい出てきた者がいないだけって話だから真偽は不明なんだどんけれど……」
どうやら一度入ってから、攻略に踏み切る猛者が多い為に入ってすぐ出てこられる場所なのかと言う観点が不明の様だ。実際、侵入した者達は恐れて口を開かないケースもある為に情報が所々不足しているが……。
「そこを考慮しておくべきでしたね、これは……」
「と言うかひじきの嬢ちゃんは知らなかったのか?」
動じた気配も無く、責める素振りもなく九十九を先陣切って走らせた批自棄へ向けてディオ=バンガーは尋ねかけた。批自棄はお手上げの様に手を挙げて。
「生憎とそこまで此処に詳しくはねーんだよ、私はな。第一……」
スリル求める私が情報に拘ると思うかね? と悍ましい笑みを浮かべて告げた。
周囲が『お前ね……』と頭を抱えて冷や汗を垂らす。
「とはいえ、そうなるとチンタラここで立ち尽くす暇はありませんね、これは。さっさと九十九の後を追い掛けた方が良い様ですねぇ、これは」
やれやれ、と言った様子で疆が雪道をサクサク音を響かせて洞窟へと向かっていく。その足取りと様子に九十九の身を案じた気配はあまり感じられないし、出られないと言う事に恐怖を感じている様子も少ない。
「流石は場馴れしてるねぇ、大地離の当主はよ。くっくっ」
批自棄が楽しそうに笑った。
「場馴れしているって……何がですか、ひじきさん? と言うか、不知火さんの事を心配しなくていいんでしょうか……」
「そこは信頼だな。伊達に不知火九十九は大地離家に仕えているわけじゃねーんだよ、ユミクロ。お前はむしろ自分の心配をしておきなっての」
「うっ」
確かにと思った。九十九の実力がどの程度なのかはまだ片鱗程度しか見ていないからわからないが、『ムスド』で見せた実力を考慮すると、むしろ自分の方が自分自身の身を一番に案じていた方が正解なのやもしれない。男としてメイドこと女性である親不孝通り批自棄の身を案じる……必要も無いだろう、否むしろ心配される側だろう今は。批自棄のスペックは日向から見て異常と言えるものなのだから。けれど、言っては悪いがインテリと形容するのが一番しっくり来る大地離疆は平気なのだろうか?
名家の当主となると何となくのイメージでは危ないのではないかという懸念を抱くが……。
「お前ね。自分の主を思い出してみろっての」
「……」
「か弱いか? 洋園嬢」
言われてああ、と納得する。か弱くはないな主様はと……。いや、普段はどうだかわからないが、槍術を用いている際の戦闘能力は確実に自分よりも各上であった。そうすると彼、大地離疆もまた超人の様に、達人の様に強いのだろうか……。そして今更もうどうでもいいが批自棄は読心しまくりだなと日向は嘆息した。
「諦めな。まー、補足するとアレだしな」
「アレ?」
「ああ。大地離の当主はな……。ま、一言で言えば冒険慣れしてんだよ」
「そうなんですか?」
「考古学者でもあるからな。今までにこういった情報不足なダンジョンを数多く、挑戦してるって話なんだよ。まぁ、それでも今回みてーな入ったら攻略か失敗まで出られないーみてーなダンジョンは初めてなんじゃねぇかと思うけどな」
なるほど。
だからこそあの余裕……いや、違うなと日向は思った。歴戦の猛者が抱くは落ち着きの様にあれは余裕があるのではなく、落ち着きを持っているのだろう。慢心とは違う冷静さを持っているからこそあの自然体な歩き方でダンジョンの中へ進んでいけるのだろう。とすれば勢いのままに突進した九十九は無謀なのか勇気なのか果たしてどちらか。
対する自分のちょっとした恐怖心は二人と比べてどうなのか……。
「情けないな、僕……」
「何がだ」
批自棄がくだらない事を訊いたかの様に、どうでもよさげに問い返した。
「いえ、正直、中に何があるのかって思ったらちょっと」
「ドキドキわくわくってか」
けらけらと笑って批自棄はサクサクと雪を踏んで進んでゆこうとする。いや、びくびくガクガクなんですけどね……、と日向は訂正しようと思ったのだが『まぁいいや』と断じる事とした。それは批自棄の発言寄りの方が面白そうな気がしたからだ。
怯える事よりも、僅かに好奇心を抱いて突き進む方が……。
そう思うと僅かに足取りが軽くなる感覚を抱いた。あの人もポジティブなのかネガティブなのかよくわからない二面性だなと苦笑しながら洞窟へ小走りで近づいてゆく。そんな日向の肩をトンっと小突く相手がいた。ディオ=バンガーだ。
「面構え、楽しそうじゃねぇか日向の坊主」
ニカッと快活な笑みを浮かべている。
そんなディオに対して日向はふにゃっと軽く笑みを浮かべて、
「内心ちょっとビクビクですけどね」
「そんなもんでいいさ。恐怖心一つ微かに抱いていりゃあ早々、危ない橋は渡らねぇしよ」
「とりあえず皆さんの足を引っ張らない様に頑張ります……!」
「だな。足を引っ張らない程度に手を借りな」
ニヤッと力強い笑顔を浮かべて、ディオの巨体が、ズンっと鈍く響く様な太く大きい脚を大地に踏みしめさせ、ディオは唸った。
「さっ! 行くぜ!」
「ええ!」
ディオの掛け声に勇気を貰い、批自棄の言葉に胸を高鳴らせ、疆の誘いに気分よく乗りて弦巻日向は一直線に未知の冒険の道へ足を踏み込ませて、
「ぎゃふんっ!」
雪に足を取られて盛大にコケた。ぼふんっと言う音と共に真っ白な雪が舞い散り、純白の大地に人型の凹みが浮かび上がった。否、凹み下がった。
「……」
ディオが冷や汗を垂らしてその場で制止する。
そんな彼らの気配を余所に傭兵たち。加古川かがべ、灘佃煮、海味山道は意気揚々と洞窟の方へ向かっている。
「灘、海味! 一千万、目指して働いてくんぞ、オオ!」
「了解だ。そして報酬で大量のドーナツを平らげる!」
「山道に賛同するぜ俺も! 行こうぜ、海味、加古川!!」
三人一組『三川衆』は己が目的を果たすべく勇気凛凛、食欲沸々の様で洞窟の向こう側へと消えて行った。その三人に次ぐ形で、次々に、
「『師子王子』を六番目に据えるとはいい度胸よ。まあいい、活躍は一等賞、いの一番としてわが力を見せてくれるねぇ!」
ギュンター=オーバーザルツベルグが草刈り鎌を両手に掴みながら。
「僕ちゃんのティッシュ護身術で誰も彼も僕も守り通してみせちゃんだよ!」
次いで『散紙高官』のアムジャド=ジレが背中にティッシュが大量に詰まっているのであろうカバンが角でパンパンになっているバックを背負って続き、
「やれやれ護身術だけじゃ無理だし、俺どんが一緒じゃないと全員危なっかしくて仕方ないどん、まったくどん」
溜息零しながらも楽しそうな表情を見せて『二丁殺虫剤』アクバル=イスミットが腰に二丁拳銃の様に差した殺虫剤スプレーを所有しながら素早い足取りでふっと洞窟に消えた。
「さて私は一一の星に何を見るのやら……。とんとん拍子に進むか否か、足取り濃厚に後に続くと存じ上げましょう」
トランプ占いでもしているのだろうか、パラパラとカードを手の中で弄りながら仕事へのインスピレーションを求めているそうなサッチ=バルケスィルもまた同様に消えて行く。
そんな光景をディオはふーっと溜息を零しながら見つめた後に、雪に埋もれる迎洋園家の新人従僕、弦巻日向に対して言い放つ。
「出鼻をくじかれたっつーか。出足でくじいちまったな日向の坊主よぉ」
頬をぽりぽりと掻きながら雪の中で微動だにしない日向に何とも言えぬ表情で語りかけると日向は……いや、日向の埋もれる雪の中からはくぐもった声が聞こえた。
「……」
ディオの距離でしか聞えない様な情けないと自嘲する形の声。そんな声にディオはただ一言、彼の背中をぽんぽんと叩きながらしんみりとした様子で呟いた。
「坊主も中々、不幸だな」
その後、約三分。
日向が復活するまでに要した時間は寒空に粛々と物悲しく流れ過ぎていった次第であった。
提樹仰はトルコ、イスタンブールの街並みを目に手に買い物袋をぶら提げて歩いていた。トルコと言う異国の地で彼はいつも通りに周囲の目を惹いている。引いているのか惹いているのかは判断下しづらいが。日本人故に目立つのではない。直垂にアフロと言うファッションに否が応でも人々の眼が集まっているだけだ。ただの興味関心。故に、自らこのファッションを好んでいる樹仰は別段、視線を気にした様子も無く進んでいた。
彼が街中を歩く理由は端的に、主の勅命である『買い物を任せた』だ。
何故、買い物をしているのかと聞かれれば、ある程度ながら想像はついている。どちらへ転んだとしても疆は実行する事だろうし備蓄しておかなければならないだろう。提の男も不知火の男と同様に大柄な家系。故に買い物袋一〇個程度であれば問題なく、指で持てるだろう事から荷物持ちとしては大活躍だ。
樹仰はぴらりと一枚の用紙……買い物リストを見ながら次の店へと足を進ませていた。
「ふむ……スナック菓子やらお菓子やらが大量にあるのが気がかりだが……」
健康的に如何なものか、と僅かに頭を悩ませた。
とはいえ主の要望を、この程度の要件に一々異を唱えているのも徒労であるし何より疆は時々しかこういったものは買わないわけなのだから、たまに羽目を外す程度目をつぶって然りだろう。樹仰は用紙を片手で器用に折りたたみ直して、手頃なスーパーマーケットへと足を字運んだ。『メグロス』と書かれた看板のある店に足を運ぶ。
店内の光景は、まさしくスーパーと言った様子で果菜や食品、肉、魚と言った日常的に食される食べ物、雑貨品等がずらっと立ち並んでいた。しかし樹仰はそれを後回しとして目もくれずに目的地……菓子売り場へ辿り着く。日本人が良く立ち寄る場所の影響か日本のお菓子もいくらか並んでいた。また同時にトルコの菓子もずらりと整列している。
「ふむ」
長方形の菓子の箱を手に取って樹仰は僅かに悩んだ。
「たけのこときのこ、どちらを買っていったものか……」
彼は危惧していた。この某チョコ菓子のどちらを購入すべきかを。疆から手渡された用紙にはどちらを購入してくる様にとの明確な記述は無い。困った事に片方だけ買ったなら波風も立ちそうだし、両方を買ったならば闘争が起きそうな気がしていた。たけのこ派ときのこ派の戦いを繰り広げるのは忍びないところだが欠かせない。問題なのは疆が両方とも好き故にどちらか選ぶか悩むところという話だ。
だが樹仰は何時までもその事で悩んでいるわけにもいかないと考え、機能面重視もとい食べる際に手が汚れにくいと言う理由からきのこの形状の菓子へ手を伸ばした。
「きのこがそんなに好きなの?」
びくっと樹仰は思わず手をその場で静止した。
思わずと言った感覚で硬直し、静かに、恐る恐ると言った様子で背後を振り返る。そこには一人の少年と思われる姿があった。真っ黒なパーカーのフードを深く被ったくすんだ様な色素の薄い長い黒髪がゆらりとフードの中から垂れている。
思わず感想を抱いた。
誰だ!? と。
そんな樹仰の認識を読み取っているのか、いないのかはわからないが、少年はフードに隠れていない口元を動かして発言する。
「そんなに手を汚さない道を選びたいの?」
その声には微かな怒りが、押し留める様な声が込められていた。
まだ間に合うよ。戻れるよ、と。
樹仰に向けて告げているかの様な牽制の発言であったのだろう。けれども、樹仰はしばしの閉口の末にようやっと口を開き反論した。
「……当たり前だ。誰だって……、自分から自分の手を汚したくはない」
出来うるならば手を汚さずに生きていたい。そう考える者はいる事だろう。手を汚してしまった結果は洗い去るのに手間が要る。ならばこそ間接的な、手を汚しにくい術を選ぶのだ。予め深く差し込まれた一本の棒きれに感謝を施し、食材に贖罪する事にもならずに済むのだ。
だけれどそんな発言を彼は一言で切り捨てた。
「詭弁だね」
「詭弁、だと……?」
そうだよ、と名も知らぬ少年は言った。
「手を汚さない。成るほど、その利点は絶賛しよう。歎美しよう。褒め称えよう。だけれど、それでいいのか? 手を汚す事を恐れて辿り着けないままでいいのか? 手を汚さない様に生きていく辛さは……、手を汚す覚悟をして生きていく強さとどちらが重いんだろうな」
少年はパーカーのポケットに突っ込んだままだった右手をそっと外へ出し、樹仰の方へ近寄ってくる……否、樹仰ではない。その向こう……、彼は樹仰が選ばなかった道を。手を汚す覚悟の道を選び、そして掴み取った。
そして樹仰を一瞥してフードの少年は小さな声で告げる。
「手を汚さずに生きていくならそれでも構わないさ」
「……」
「だけれど予め言っておいておくよ。手を汚す覚悟を決めた者にしか理解出来ない領域というものが存在している事をね」
手に持った長方形の菓子箱をカゴの中へ落とし入れて再びポケットの中へ右手を入れ直すと少年はその場から次第に離れてゆく。手を汚さない道を選んだ者を置き去りに。樹仰をそのままにして自らの道を掴み取り、颯爽と去ってゆく。
だが一度だけ二メートル程離れた位置で停止すると少年は背中越しに語りかけた。
「面倒くさがるな。手を汚す道を」
樹仰の位置は背後。背中越しでは……、そもそもフードの所為で初めから顔は判別出来てはいないが、樹仰は思った。彼はどんな顔で今、語っているのであろうかと。真剣なこの声はどんな表情で語りかけているのだろうかと。
「怯えるな。恐れるな。震えるな。この手が汚れるとしても……、掴み取ったこの手の中には未知の世界が。……いや、覚悟無き者は知り得ぬ世界が広がっている事を理解しておけ」
その言葉を最後に少年は菓子コーナーの道を真っ直ぐに歩いてゆき、コーナーの角で右へ曲がった。そして当然ながら少年の姿は目視出来なくなり……、覚悟の末の道を歩いて行った。
残された樹仰はしばし茫然と膠着状態にあった。
何だ? 自分はどうすればいいのだ? と。
額に嫌な汗が流れるのを感じた。
拙い。この流れではきのこを選ぶわけにはいくまいと断じた。たけのこを選ばなければ大人として示しがつかない。あんな年端のいかない少年がたけのこを選んだのだ。きのこを選び自分だけ安全圏でいいものなのか。樹仰の心は揺さぶられた。どうしたらいい、どうすればいいのかと内面が渦巻いて選択すべき答えを遠くへと流していってしまう。
だが、ああまで言われて引き下がるわけには行かない。樹仰は選んだ。
先程までとは真逆の道を。
似て非なる道のりを選び、樹仰はその手に持った。たけのこの写真がプリントされた長方形の菓子箱をぐっと掴み取る。
「高みを目指せればそれでいいのか貴殿は?」
そこで壮麗な男の声が響いた。
持っていたはずの菓子箱を思わず取り落としてしまったが、幸運にも床へ落ちて粉々な未来を辿る事も無く、菓子箱は元の位置へストンと収まっていた。その事に内心僅かにほっとしながらも樹仰は思わず振り返ってしまった。そこにいたのは先ほどの少年ではない。当然か。先ほどの少年であったならば今の自分を押し留めは決してしないだろう。手を汚す覚悟を選んだ自分の道に横入りするわけがない。
そして振り向いた先にいたのは壮麗な声の印象通りに、壮麗な青年であった。銀色の瞳に薄く緑がかった長い黒髪の端正な顔立ちの青年。威風堂々とした佇まいの青年は轟々と輝く様な相貌で樹仰を見据えているではないか。
なお、やはり思う事は一つ。
だから誰だ!? と。
そんな内心動揺して仕方がない樹仰を気にした風も無く、青年は嗜める様な口調で語りかけてくる。
「貴殿が手を汚してでも、その道を選ぶ理由は何だ?」
「……」
「何だ、と尋ねている。答えてみろ」
有無を言わさずといった様子で眼前の青年は問い詰めてくる。何故か上から目線な口調なのが気にかかるが正直、このお菓子売り場でここまで出会いが連続すると何と言葉を発するべきなのかも悩み吹けるものである。
そして樹仰は思った。二大派閥の争いは予想以上に巨大なものの様だと。まさかお菓子を、二つの宿命づけられたライバルの様なお菓子を選ぶ際にここまで労苦が重なるとはさしもに思っていなかった。だが、とりあえず疑問に思った事を尋ねておかなくてはならないだろう。
「……君の言う高みとは、何の事かな?」
「……」
青年は押し黙る。
目を伏せて何かを考え込む様にしばしの静寂が流れたが、しばらくしておもむろに口を開いて青年は告げた。
「たけのこ、と言うものを考えてみれば分かる事なのだがな」
まぁいい、と小さく呟いて。
「たけのこは勝者の証に似ている」
「……」
さて、どう反応すべきか、相槌を打つべきか悩む次第だ。
「たけのこ。それは今は上を仰ぎ見る事しか出来ないが、ものの数ヶ月の月日にして誰よりも天へ、空へと駆け上がっていく覇者の証だ。周りの者どもを引き離す、その勢い足るや、圧政力足るや……恐ろしいものだと俺は思う」
呟きながらたけのこの写真がプリントされた菓子箱を手に取り何とも感慨深げな眼差しで青年はしげしげと、手の中の菓子箱を見つめ続けながら言葉を続ける。
「何者をも引き離す速度、手の届かぬ高みへと……、加えて手を汚すと言う実態。深いものだな、このたけのこは本当に。現実にもこれに於いても、手を汚さねばならない。手を汚す事で手に掴め、そして頂を掴まんとして伸び続ける。選ばれるわけだ。きのこを引き離してしまうわけだ」
「いや、それは深読みし過ぎなだけでは……!」
汗が止まらぬ。
考察が深読みされ過ぎていて、尚且つ問題は相手は真剣に語り過ぎていて下手なツッコミが全く出来ないと言う異常事態にある。何故、たけのこからそんな成功者の話へと飛躍してしまうのだとツッコミたいながらも青年の視線は自分ではなく、傍にあるたけのこときのこの背比べとも言うべき売上勝負の結果……、現地の言葉で『たけのこVSきのこ 勝者はたけのこ!』と言うどちらが店で売れている人気なのかを物語っていた。
たけのこか。
きのこか。
二者択一の現実は何時の世も世知辛く、濃密に鬩ぎ合っているのだ。だがこのままではいけない。この流れだと今度はきのこを選択しなければならなくなる勢いだ。どうにかしてもう変な流れを遮断せねば事態は混迷を極める事だろう。故に樹仰は告げた。
「たけのこにも……!」
魅力をいざ、語り明かそうと、
「そういう意味で、俺はきのこに憧れてしまうものでな――」
話を訊け!
樹仰の切実な叫びも空しく、眼前の青年はたけのこの菓子箱を元の棚に戻して、隣にそびえるきのこの写真がプリントされた菓子箱を手に取った。
「きのこはいい。別に手を汚さないと言う点を評価するわけじゃない。そもそも汚しにくいと言うだけで汚れないわけじゃないからな」
「まぁ、それはそうだろうな……」
「俺が褒めるべき点は、形状にある。このクラッカーのチョコをしっかりと支える姿。その期待に応えると同時に支えてくれていると言う安定感、信頼からなる安心感。互いに信頼しているからこそ、剥き出しの姿で、ありのままの姿で佇んでいる。そして、まるで傘の様にも見える、その形。チョコは何時でも矢面に立ち、下の全てを守っているかの様だ」
「……」
とりあえず後半に至り何を言っているのかわからなくなってきた。
相変わらずどう反論すべきなのか、肯定すべきなのか、相槌打つべきなのか樹仰は八方ふさがりの様な心地がして何とも言えずして唯々青年の言葉を清聴しているほかになく、青年もつらつらときのこの魅力を一通り語って聞かせてくる。
そして彼なりにあらかた話終えたのだろうか。
そっとカゴの中に手に持ったきのこの菓子箱を置くと、すっと樹仰の隣を通り過ぎる。その最中に青年は小さく告げた。
「手を汚し、高みを目指すのか。矢面に立ち、皆を守るのか。どちらの道にせよ、熟考して決める事だな」
それだけ呟いて、長い黒髪を動作と共に後ろへ靡かせながら青年は菓子コーナーの角を左へ曲がって、その場から去っていく。その後ろ姿はもう、見えない。それを認識すると樹仰は嘆息を吐いてから深呼吸、そして準備運動の様な体操を一通り行った後に。
「どうしろと……!!」
若干キレた。
クラッカーにチョコの菓子を選ぶべきか、ビスケットにチョコの菓子か、その二つのどちらを選ぶべきかで何故こうも人生相談みたいに語り聞かせられ悩まなくてはならないのかまったくわからない。そもそも全く知らない二人にだ。何より癪に触るのはおかげで意識してしまって選択に悩むと言う話だ。
正直な話、結論はあの二人の発言から言えば出ている。
自分はあくまで日陰者……もとい、仕える者だ。ならば、矢面に立ち、主を守る存在でいればいい。故に……、と考えるのだが同時に手を汚す役割は自分にあるという考え方からも悩んでしまうのが異様にムカつく。
「いや、そもそも何故悩んでいるのだろうか私も……」
馬鹿馬鹿しく思えてくるも、頭を抱える気分でもある為、そんな現状もどうにも馬鹿馬鹿しい話だ。そこまで考えて、樹仰は原点へ立ち戻った。
そう、きのこのお菓子だ。
「初めはこちらを選んだのだ。わざわざ変えるべくもないだろうて……!」
たけのこのお菓子には悪いが、ここは原点回帰にして、あの不可思議な忠告も煙に巻いておく事としたいところだ。菓子一つ、いや二つでここまで悩むのもどうかしていると、息を落ち着かせて樹仰はがしっと菓子箱を掴み取った。
「ほう。きのこを選びたまうのか」
「きのこ寄りですか。選りすぐりですか。中立的では無いですが、まぁよろしいですか」
二人の男性の声が聞こえた。
「でぇい、今度は誰だあッ!!」
そして樹仰は若干怒りを滲ませながら、大声で叫んだ。振り返ってみた先にいるのは約二名の男性の姿。三人目のどちらかの派閥が来たかと思えば今度は二名。まさかきのこ、たけのこの両方の派閥が登場したのだとすると予想以上に面倒くさいのだが。片方は眉目秀麗な青年。とはいえ、先ほどの黒髪の青年と比べれば年下の印象。もう片方の青年は二十歳くらいであろうか、燕尾服に身を包んだ執事……いや、秘書の様な印象の青年だ。
だからこそ敢えて思う。
何で菓子選びに連続、続々と苦情めいたものが絡むのだと。難癖が付くにも程があると言うもので尽きて終わってほしくて仕方がない。若干息を荒く怒号を発する樹仰に対して二名の青年は少し引き気味に、
「ど、どうした言うのだ? 落ち着きたまえよ、事情は知らぬ存ぜぬだが」
「初対面の印象が悪く映りでもしたのですか」
片方は驚いた様子で手足を逸らして若干引き気味に対応しており、もう片方の青年はかなり冷静に……足を震わせて怯えていた。その様子を見ていかんいかんと内心の野獣を宥めて樹仰は心を落ち着かせ、沈めて、咳払いし、
「あー……、私に何か用かね」
と、静かな語調で問い掛けた。
「たっはっは、用と言う程の事はないがな! なーに、雰囲気的に気にかかった、気に入った程度の些細な他愛ない、なんとなく語りかけてみただけに過ぎぬのだ許したまえよ!」
途端に腰に手を添えてふんぞり返ってそんな事を言う始末。ならば何故話しかけたのか小一時間問い詰めたかったがそれはかなりの労苦なので最早ツッコミを諦める事とした。
「……そちらは?」
「いえ、なに。性分ですが。それだけですが」
「尚、意味不明だな貴方の方は!」
性分と言われても何の性分なのだかサッパリだ。
きのことたけのこの論争に一石を投じたい性分か何かなのだろうか? だとしたら、事態は更に混迷を極めるので物凄く止めて欲しいと樹仰は切に願った。
「まぁまぁ、此処で逢ったのも何かの奇縁と思いたまえよ」
「楽しそうに奇縁と言う時点で妙な出会いに他ならないがな! と言うか、私としては君たちの名前も全く知らないのだがな!」
「しかし、貴様はきのこ派なのだな。私の友人はたけのこ派だぞ!」
「それは良かったな!」
「何が良いのか教えたまえよ?」
「うむ、まぁ何が良いのか確かにわからんか! そうだろうな、会話が面倒で投槍放っただけであるから当然なのだがな、汲み取れ! 汲み取ってくれ!」
「逢って間もない相手にツッコミ連続ですか。印象悪く映るですが」
「それはすまなかったなあ! だけれど、生憎私は連続で難癖つけられて若干イライラ気味でな、すまないなあ!」
正確には苛々と言うよりかもゴチャゴチャと派閥争いが脳内で起こって面倒くさい域に辿り着いているわけだが。なお、その間に会話が面倒とぶった切られた件の青年はしょんぼりと床に『ふ』の字を描いていた。何故に『ふ』の字なのかツッコミ入れたいところだが、生憎と入れられるものはいなかった。
そして絶好調に地団太を踏むしかない樹仰に対して秘書の様な青年は軽くメガネを指で押し上げた後に、
「どうやらストレスが溜まっている様ですか」
「ストレスと言うか何と言うかな……。まぁ、近くはあるかもしれないが」
「とすると今の貴方との会話は危険性高いですか。危険人物ですか」
「ふむ、まあ不用意な発言を零す可能性は無きにしも非ずだな。そしてそこまでわかっているのであれば危険人物と言い放ったその言葉にも気を付けて欲しかったところだな!」
「申し訳ないですが、配慮が欠けておりですか」
「気にしてはおらんから気にするな」
実際、一過性の、一時的なイラつき程度に過ぎない。それよりもこの秘書の様な青年、変わった喋り方をするなと何となく思った。
「さて、お騒がせかけた次第ですが。一つご提案ですが」
「……何かな?」
指をピンと立てた後に提案、と言う言葉を述べた秘書の様な青年に対して訝しむ様に樹仰は頭の上に疑問符を浮かべて、眉をひそめた。そんな表情を気に掛けた風もなく……、と言うよりも先ほどから偉く無表情なので気に掛けたかどうかも判別が難しいのだが……。
「パーティーをお開きになるのであれば両方購入した方が朗報と貴方の主は考えるですか」
そう告げられて樹仰は内心驚いた。
提案に、ではなく自分に主がいると言う事とパーティーを開くと言う二つの事に関してである。執事の衣服を身にまとっていれば、自分が従者の様な存在であると判断つくかもしれないが生憎と自分は直垂の服装であり、加えてパーティーを開くと言う事は言っていないのだから読み取られた事に僅かながら驚きを覚えた。
けれど秘書の様な青年は気にした風もなく菓子売り場をスタスタと去ろうとする。
「大した推察ではないですが」
ピン、と左手の人差し指を立てながら、
「宴会か何かを開く事は貴方の大荷物を見れば一目瞭然ですが」
「……ならば何故私が従者に近い存在だと?」
厳密には従者と主の狭間の様なものに当たるが。提家の当代とはそういう立ち位置に存在しているのだから。当主でもあり従者。提家に限った話でも無いが。それはそれとして樹仰としては彼が自分を従者と見抜いた事が興味深かったのだが……。
秘書の様な青年はふむ、と顎に手を添えて、
「そうですか……。ふむ、そういう雰囲気を感じた……と言う程度の曖昧なものですが」
「唯の勘、か?」
「五割当たりですが」
厳密には違うかの様に若干意味深な事を告げて、秘書の様な青年は、
「それではこれで失礼ですが」
去り際の一言を述べて菓子コーナーの先んじて現れた二人とは真逆の道の左コーナーへと曲がって、その姿を消した。そんな何とも言えない若干の空しさの様なものを感覚として感じながら樹仰はジッと棚に並ぶたけのこときのこのパッケージを見据えた。
そして視線を向けないまま。
「……」
床で相変わらずしょぼんとしている眉目秀麗な青年に一言投げ掛けた。
「なあ、青年よ」
「……何だー?」
語調に弱弱しさが滲み出している。そんなにメンタルが打たれ弱いのか何なのか……。ただ、フォローを入れると再びテンションが復活する様な気がするので淡々と問い掛けた。
「参考までに尋ねるが、君はきのこ派とたけのこ派のどっちかね?」
「私か?」
「そうだ。参考程度に尋ねておきたい」
内心は最早多数決で済ませてしまえ、というものだった。現在、たけのこ一票、きのこ一票、両方一票だ。ならばもういっそ他人任せはアレだが傍で暇を持て余す、床で玩ぶ青年にちょっと尋ねて決定してしまおうか、という内心だった。
菓子売り場、目的の菓子目前で立ち尽くす樹仰の存在を背後に眉目秀麗な青年はそうだなぁ、と顎に手を添えた後に、
「実は私はチョコが苦手だから、どっちも喰わないのだ。知りたまえよ」
「……」
頬をぽりぽり掻いて気まずそうに、そんな第四の意見を述べるのであった。
閑話休題。
何故だか知らぬが、お菓子を買いに来ただけで心底披露した感が拭えないままに提樹仰はスーパーのレジにて会計を済ませている途中であった。その後の事として語る事は特に多くは無い。たけのこ派な少年、きのこ派な青年、チョコ食べない青年、両方買ってしまえな青年の意見を全て無視して樹仰はきのこもたけのこも両方購入していた。なお、当然ながらそれ以外の菓子類も大量に購入している。秘書の様な青年の意見通りではないかと思われるかもしれないが、正直彼の意見を参考にしていないため、と言う話である。
とどのつまりは面倒くさいからもう適当に買ってしまえばいい、と言う大人買いの精神でカゴには大量に箱が並んでいた。後はレジの四〇代程と思しき店員の仕事が済めばレジ袋に入れて屋敷へ戻るだけの簡単なお仕事――、のはずだった。
「アンタ、正気かい?」
レジの女性店員が信じ難いものを見る様な目で尋ねかけてきた。
「……」
嫌な予感しかしなくて無言を貫く決意を固める。
「黙ってちゃわかんないよ? アンタねぇ……こんな暴挙が許されると思うのかい?」
「……」
「ホラ、何か喋りな」
「……」
何故、自分はスーパーの万引き犯の様な扱いをされている気がするのだろうか。堂々と大量に品を買って購入している最中だと言うのに関わらずだ。仕方なく口を開いてあー、と間延びした声を漏らした後に促した。
「手早く会計を済ませて頂けますかな?」
「何を言ってんのさ。冗談じゃないよ。このままにしちゃあ……、アンタのとこで戦争が起きるだろう事は明白じゃないか……!」
「いえ、蚊帳の外の事ですのでどうかお気になさらず」
「そういうわけにはいかないね。ウチの店の商品がお宅に迷惑かけたなんてあっちゃあ店員として恥さらしだからね!」
「御迷惑はおかけしませんので何卒……!!」
本当に切に願っていた。
戦争勃発とか気にしなくて構わないから早くバーコードを読み取ってくれと言うのが切実な実情である。戦争を止めるべく活動する平和主義者の出番はこの際願っていないのだから。けれど日本で言う親切心に溢れたレジのおばさんは目の前で戦争の引き金を引こうとしている一人に男に対して厳しい声で語りかけた。
「止めておくんだよ、きのことたけのこの両方買いなんて。買うならどちらか片方さね。この二つは水と油……! 互いに相いれない存在にして、互いに多くの消費者に愛される存在なんだよ。その為に今までどれほどの論争が繰り広げられてきていると思ってるんだい?」
「ならば決着をつける時が今なのでしょうな、きっと」
「ふざけるんじゃないよ!」
怒られてしまった。
理不尽過ぎて嫌気が差す。と言うかお願いだからバーコードを、バーコードを読み取ってくれと心から樹仰は切実に願い続けた。そもそも両方買う事の何がそんなにいけないのだろうか。何か店的に片方購入しても、両方購入しなくても何か言われてくるような気がしてくるのは果たして自分の思い過しか何かなのか……。
「あ、すいません。ちょっと通らせてください」
そんな事を思っているうちにも背後では少年と思しき若い声がレジをすり抜けて通りっ過ぎて外へ駆けていくし、レジのおばさんは大声で如何に戦争が非道なものなのかを鬼気迫る表情で熱弁しているし、待ちくたびれているであろうレジ待ちのお客の人々は何故だかすでに、きのこたけのこに対して論争をおっぱじめているし。
「あの二つのお菓子の聖地か何かかここは……」
げんなりした小さなか細い声で誰にも聞こえない程度に呟いた。
もうこうなったらレジでの計算が済むより前に、バンッと大金を置いて、この場からさっさと去ってしまおうかと思い悩んで、懐の財布に手を伸ばしたところ。
「……ん?」
提樹仰は思わず眉をひそめた。
「……んんん?」
懐で何度手を振ってもスカスカと空を切るばかり。先ほどまで確かにあったはずの重さが焼失している。別の場所に終っているのかと思って即座に仕舞う場所へ手をつっこみ入れるがどこにも財布と思しき感触も重量も無い。
その様子に怪訝な様子を見せたレジのおばさんが、
「どうかしたのかい?」
と、心配した様子で声を掛けた。
「いや、その……財布が……」
「無いのかい?」
「ええ……。確かに持っていたはずなのだが……!」
額にじわりと脂汗が滲む。確かに持っていたはずなのだ。
このままでは……と様々な事態を想像して僅かに青ざめる様子の樹仰に対してレジのおばさんはハッと気づいた様子で、
「あんのバカ……!」
苦虫を噛み潰した様な表情で僅かに怒りを顔に滲ませた。
「バカ、とは?」
「ああ、多分だけれどね」
レジのおばさんはピシッとスーパーの自動扉の方を指差して、
「さっきアンタの背後を黄緑の髪した男の子が通ったろう? って言ってもアンタからじゃ容姿が見えたかはちょいとわからんけども……。あの子は近所じゃ有名な悪ガキ……と言うか良くスリをするガキでね。おそらくだけど、あの子がアンタから財布を掏ったんじゃあないかと私は睨むよ」
そう訊いた瞬間に提樹仰の眼光は鋭く光った。普段適度に放つ温和な輝きはふっと消えて燃える様な眼光が瞳に煌めく。レジのおばさんに「後で取りにくる。残しておいてくれ」と低い声で告げて。
「どこの悪餓鬼かは知らぬが……」
いい度胸だ、と重々しく鈍く呻く様に言い放つ。
そして直垂の袖を疾風にひらめかせて、提樹仰はスーパーを後にして駆け走ってゆく。
2
大自然。その光景を一言で表すならば、それが一番しっくりくる事だろう。
そんな感想を抱きながら大地離の一行。総勢一二名の洞窟探検は始まっていた。初っ端から相当な戸惑いを感じながら、ではあるが。独断専行と言う形式に偶発的になってしまった先陣切った九十九の後を続く形で疆、批自棄、かがべ、灘、佃煮、ギュンター、アムジャド、アクバル、サッチ、ディオ、日向の順に突入した後に広がるこの大自然に数名はただただツッコミを入れていた。
「洞窟の中が大自然っておかしいだろう!?」
佃煮が頭を抱えて大声で叫んだ。
「ですよね、ですよね!? 灘さんから見てもおかしいですよね、この光景!?」
日向が目をくるくる回しながらわたわたと慌てた様子で叫ぶ。
「その通りだどん! 日光が差して入らない閉鎖空間でどうしてこんなに樹木、草木が実っているのだどん!?」
何故か殺虫剤二個でジャグリングをしているアクバルも同様だ。
「まー、確かにおかしいっちゃおかしいが……世の中不思議なことだらけって事なんじゃねぇのか?」
加古川かがべは植物が生い茂る事にはさして動揺した気配も無く頭を傾げた。不思議なことだらけで済ませていいのかは甚だ疑問で、花々咲き乱れるこの場に関して、そんな適当に相槌打つ程度の様子でいいものなのか。
数名が頭を悩ませる――、いや、頭をこんがらがらせている中で疆が小さく呟いた。
「ふむ。これだけ巨大な洞窟となると……どこかの場所が上と、いえ正確には地上とつながっているのかもしれませんね。洞窟を貫く様な穴が開いているのかもしれません」
「そー考えるのが妥当だろ。それにこんだけ植物実ってる原因としちゃあ、おそらく水も流れてるんだろうよ」
「水はわかりますけど……、本当に洞窟内で植物ってこんなに育つものなんでしょうか……?」
日向が疑問に呈するのも思う事も当然だ。この場所のすぐ上に穴が開いていて光を通しているのだとすれば、なるほどそれは実に幻想的な光景になる事だろう。だけれどここは違う。光なんて自分達の用意したライトの明かり程度であり、育成環境が整い切っているとは全くもって思えない。どうして思えようかと言う語りだ。
大地離疆は顎に手を当てながらふむと唸る。
確かに光の少ないこの場所でどのようにして日照権を植物たちが得ているのかは暗いこの場所では謎な話だ。
「例としてメキシコのゴロンドリナス洞窟に、ベトナム中部のソンドン洞窟が挙げられますが……あそこは縦穴式洞窟であり、この場所は横穴……普通の洞窟ですからねぇ、これは」
「ご、ごろんどりなす……? そんどん?」
日向は小首を傾げた。
そんな様子を一瞥して批自棄が唐突にして淡々と端的に解説を入れた。
「ゴロンドリナス洞窟ってのはメキシコの熱帯雨林地帯サン・ルイス・ポトシっつー場所に存在する直径55m、深さ400mの世界最大級の縦穴式洞窟。ソンドン洞窟ってのは二〇の洞窟が連結している高さ200mは最大であるっていう、これまた最大級の洞窟だな。どっちも互いに天井が崩落した事で植物の種子等が降り注ぎ、大穴からの光によって成長を成し得た世にもロマンティックにスリリングに冒険出来る名所だぜユミクロ君よ」
そうなのか、と素直に感心した。
洞窟と言うと薄暗く、真っ暗でもあり、じめじめと水が、上には蝙蝠がと言った印象ばかりであったが存外、何事にも例外的に自然の栄える洞窟は存在していたらしい。
だけれどそうなると尚、わからない。
どうしてこの場所は光が全く差していないにも関わらず、しっかりとした自然形成を成し得ているのだろうか。時折、リスの姿を見かける程度にこの場所は大自然が鬱蒼と茂っているのだから。
「考えてわかるもんでもねーかもしんねーぜ」
「え?」
唐突に独り言を呟く様に、批自棄は日向に語りかけてきた。
「考えてもみな。入口の時点で非科学的な現象が起こったんだ。この場所も水と、光以外の何かで育つ事が出来ていると言う可能性も十分に、十二分に存在している可能性だってなくはないって誇大妄想よ」
「……」
唯の妄想話。そう、批自棄は断じた。
だけれど事実的には目の前に如実に困難な事実が実在し、存在し、混在している。この実態を、この実体をどう解明すべきなのか。少なくとも植物学者でもなんでもない、探検家の様な立場の自分達には今現在、関係のない話である。
目的は植物研究でも、地質研究でもなくて。
ダンジョンクリアと言う前者の方が遥かに現実的な、遊び心満載な目的だ。
実際的に自分達はすでに一つ遊んだ様なもの。
一度入れば攻略か失敗かまで出られない入口の空間。あそこの存在だけでも実に珍しい経験を覚えてしまったと言える事だろう。日向は軽く後ろを振り返って、見た目だけには光の差し込む入口にしか見えない――、普通の洞窟にしか見えない光景に不思議な感覚を抱いて仕方がない。その感覚を知る者は同様に興味深い体験であったと頷いて賛同してくれる事だろうと日向は考えている。実際的にはどうだか知らないが。
「では皆さん、一度集まってください、これは」
その時、疆の手をぱんぱんと叩く音が響いた。
どうやらこの光景を見てはしゃぐ者達……、と言うかはしゃぎ騒いだ面々つまりは日向も含めてだが――、騒ぎが収まる頃合いを見計らって一度集める事にした様子だ。大方のところ目的は全員が無事に集ったかどうかの点呼であろう。
疆の呼びかけにまばらに散っていた一一名は続々と一度集まってきた。
指で一人一人をささっと確認してゆく。一人でも知らぬ間に欠けていたら大問題であろう事から一々面倒くさいと愚痴を吐く姿はどこにもない。そうして疆が全員いる事を確認すると、
「それでは皆さん」
しっかりと響く声で告げた。
「いよいよもって、万全を期して、我々は『トルコンクエスト』に乗り込んだわけです。この場所に何があるのか。それは全くもって不明です、財宝であれ罠であれ。確実なまでに未知な道筋を辿る事になります、これは」
だろうな、と傭兵含めて日向達は一様に頷いた。
自分達の今いる場所は全くの未知の領域なのだ。気は抜けない――抜いたからと言ってここで死ぬ事もまあ実際無いのだが――ともかくとして敗北は社会的な死を意味する以上は一一名の顔に油断は無い。時折慢心はあるかもしれないし余裕を持ちすぎてしまうかもしれないが。
「そのため、一つの提案としては大人数での行動を心掛ける事になります。一斉に脱落者が出てしまうトラップ相手では――、と言う危険性も危惧するかと思いますが私たち程になるとそういうケースに対しての対処は熟知しているのですからさして不安要素ではありません。問題はやはり単独行動にあります。単独行動で罠にはまり、脱落したとあっては目も当てられません、目に映る間に行動し救助せねばなりません、これは」
冷静な佇まい。そして冷静な言葉。
大地離疆は決して一人で行動する事だけは避ける様に……、そう語っていた。大多数が洞窟探検あるいは冒険を経験している者達の中で例外的には九十九と日向か。二人は内心でお互いにそれぞれに思っていた。不知火九十九はどんな時でも筋肉で成し遂げてやるぜ、と意味不明な自信を持って抱いて、弦巻日向は内面で離れない様に足を引っ張らない様にしなくてはと含んで孕んで、互いに思っていた。
その辺りで、無謀とも勇気とも。冷静とも臆病とも。
明確な差が出たのは二人の性格の差、以上に経験の差であろう。
不知火九十九は一言で断じるならば筋肉馬鹿――にして後先考えない、言ってしまえば行動派な少年である。それは一重に彼が己が力を過信――ではないにせよ信頼している事から成る勇気と言えるし、筋肉だけを信頼している実態は無謀とも取れる。だけれど、今までの彼の経験から言って、その筋肉は実に多くの出来事を成し遂げてきた。故に、彼が今回の洞窟探検でも自信に満ちているのは、自身に満ち満ちているからであった。
弦巻日向を一言で断じるならば役立たず――、と言い切ってしまうには流石に不憫に至れりな為に彼の性質を語ってしまえば情に厚く、お人よしで、だけれどドジを踏んでしまう。実戦経験もそこそこ踏んでいる事から冷静な観察眼を持っている。だけれど彼には生来の不運が、いや厳密には幸運から逸れた道筋にいると言うべきか。そんな少年だからこそ、故に彼には最終的な自信が無い。一人で逆境を乗り越える程の事実が無い。漠然とながらも本人もその事に気付いているからこそ、そして不運であるから故に彼は足手まといになりたくはないと考えるのであろう。
その為に大地離疆の踏み出す一歩。
洞窟探検に於ける先陣切って歩み出す一歩、その一行の配置に於ける二人の立場は中々明確に表れた。最前列である、互いに。だからと言って平行に、二人そろって仲良く最前列と言うわけではない。先頭を九十九が、その後を続く疆の傍に日向がと言う構図で一行は歩み出してゆく。
この選択を行ったわけは前述通りに不知火九十九は自信を持って行動している形から先陣を切っている――、文字通り行動通りに。比べて日向はあらゆる局面に於いて対応出来る配置につく事を選んだ。誰かを即座に救援に迎えて、自分が窮地であれば助けられる者がいる配置に即ち両者が互いに手を取り合える配置である。なお、そんな彼の教育係を務める脅威のメイドこと批自棄はあらゆる事態に動ける配置であり責任感ある配置である最後尾に就いていると言うのだから流石の判断であると言えた。
さて、そうして進む大地離の一行は非常に順調に進んでいると言えるだろう。
狭い通路、ぬかるんだ地面、足場の悪い岩盤と洞窟特有の歩きにくさを実感しながらもサクサクと進行してゆけるのは傭兵達の冒険者としての性質として立場故にだろうか。一二名の探検者達は互いに手を取り合い、時に足を引っ張り合いしながらも道なき道を邁進してゆく。
「予想以上に深い洞窟ですね、これは」
そうしてしばらく進んだ頃、周辺に危機たる危機が。
平坦な平らな道筋に、広間の様に真昼間の様に明るい場所を行進する最中に疆が感嘆の息を零した。深く、長い。ここはそんな場所であった。
「凄い長いですもんね」
「俺としちゃあ何もなくて何か張り合いねーけどな」
日向と九十九がここまでの感想を述べた。相槌程度に意見を述べる日向に比して九十九は何もアクションが無い事を――、それでもここへ至るまでにすでに適度に過酷な探索であったともいえるが彼からしてみれば大した事は無いのであろう。その辺りは日向も少し共感が湧く。体を鍛えている日向としてもそれほど過酷とは思っていない。
「九十九。何もないからと言って不貞腐れないのです、これは」
苦笑気味に疆が嗜める。
「だってよー。それでも何かこう……ゴーレムとか期待するじゃんか」
「いや、そんなの期待しないでくださいよ……!?」
ゴーレム等期待されても困る話だ。
実際、そんなもの存在しないとしても仮に出現したら太刀打ちが出来ないではないか。九十九のそんな文句に疆は苦笑を浮かべたまま。
「ははは、ゴーレムですか、これは」
「そ。門番とか出てこぉいって感じだぜ!」
「でも出てきたら出てきたで勝てないですよ、そんなの……!?」
「何を言ってんだって、日向。俺の筋肉さんが土くれの人形風情に負けるわけがねぇだろうがあ!」
「九十九さんの筋肉どんだけ凄いんでしょうね!」
力技でゴーレムを倒すと宣言しているものだ。いや、現在進行形で袖をまくって力瘤を作っている、その膨れ上がる肉体美が絶賛して然りなのだが、もしもファンタジー等に登場する存在が出てきたら負ける気しかしないのだが……。
そんな日向の感想を読み取ったのか――、いや、彼にそんな機敏な反応は行えるわけもないので実質的には日向の顔に出ていたと言った方が正解だろうが、九十九はむすっと拗ねて、
「なんだよー。日向は俺の筋肉さんが負けるって言いたいのかよー」
「いや、何と言いますか……」
発言に少々吟味を重ねる。正直なところ筋肉が負けると考えるのは見ていないからに他ならない。実際、九十九の本気がどの程度のものなのかなんて日向は知りもしないし、微かに見た程度にしたってあれも本気ではないだろう。
実感が湧かない――その程度の話だ。
日向はしばし熟考した結果、
「うーん……。とりあえず見る機会があってから判断させてもらっていいですか?」
と、至極普通な意見を述べた。
百聞一見にしかず。
言葉通りに見なければわからない。
「おう! それでいいぜ! その時がきたら頼りにしてくれよな!!」
九十九はハキハキとした声で嬉しそうに応えた。
実際、その時がどんな形で来るかなど日向には皆目見当もつかない話であるが、それでも九十九がこれほど自信を抱き、そして疆も何も言わず傍観している――従者としての守護者としての資質を認めているからこそ口を出さないのであろうと日向は憶測ながらも推測した。
その時、後ろから、
「おーい、筋肉の事から俺様も頼りにしてくれて構わねーぜ!」
巨体に似合った武骨な声で右拳を天へ向けて突き上げる褐色肌の男ディオ=バンガーの姿が見て取れた。筋肉の話題に喰い付いた様子で――そして彼もまた筋肉の凄まじい男であるからして納得の台詞である。
「はい、バンガーさん! 頼りにしてます!」
「私はすんなよ、めんどうくせーから」
「教育係としてそれはどうなんでしょうか!?」
「甘ったれるなユミクロ君や」
「うん、まあ了解ですが!」
何故か最後尾の少女から拒否権が侵入した。教育係として面倒見る立場にあるメイドの発言としてまさしく獅子は子を戦陣の谷に突き落とすと言うが、それを体現したかの様である。
それはそれとして。
筋肉の資質から言えばディオ=バンガーの肉体は凄まじいと日向は思った。何せ九十九や体格の良かった提樹仰すら凌ぐ肉体をディオは兼ね備えている上に、主こと迎洋園テティスに加えてラナー=ユルギュップがナンパの憂き目にあっていた際に絡んできたナンパ男二人組をいともたやすく払ったのはディオであるのだから。
その点で言えば、九十九といいディオといい出会い方が何か似ているな、と日向は何となしにそう思った。それを考えると色々絡まれる日向もテティスも色々複雑に思うべき心境があるのだろうが、テティスの美貌に対して日向は不運なのだからがっくりときてしまう。
まあ、そんなネガティブな事を案が得ている気も無いし、何より間もないし日向はそこで話題を打ち切って、九十九に対して話題を振った。
と言うよりかは意見を振りかけた。
「あの不知火さん、ちょっと聞いておきたいんですが」
「肉食うといいぜ!」
「いえ、すいません。『どうしたらそんな筋肉になれますか?』的な話じゃなくて、執事って仕事に関して訊きたいんですけどね!?」
「何だよ、だったらそう言えよ」
「すいませんね言えなくて! 僕もまさか一足飛びにそこへ行きつくとは思ってなかったものでして!」
「日向。お前、知ってるか? こんな諺をさ」
「諺?」
「『全ての道はマッスルに通じる』。……いい、諺だよな」
「想像はしてましたけど、やっぱそうきましたか!」
さて、当然であるが一般常識であるが、訂正を入れるならば正しくはローマである。
何故九十九の脳内でそういう変換が起きたのかは至極明快に存外わかりやすい範疇だ。
「後は『筋肉良ければ全てよし』とかもいいよなー!」
「何でしょうね一気に体鍛える人にしか使えなくなりましたね、その諺!」
終わりよければ全てよし――、文字通り筋肉で終着すれば全てよしとも言える九十九を体現した似非諺と言えなくもない。
「ともかく、諺はいいので従者の事に対して尋ねたいんですけど……」
「おお、それな。いいぜ、何だ?」
素直に何でも訊いてくれて構わない、と言った様子の九十九にまずは感謝しながら日向は参考程度に尋ねてみた。
「いや、何というか漠然とした質問なんですけど……、執事ってどんなかなーっていう」
「本当に漠然としてんなあ」
若干呆れ交じりに九十九が少し困った様な表情を浮かべる。
執事とは何か――、言い換えてしまえば仕事はどんなものかと問われている様なものであるからこそ語るに長く、物語るに難しく。特に執事と言う特色的な職務に関しては説明をいざせよと言われれば難題だ。
だけれど、九十九は少し腕組みし考え込みながら、
「……」
ショートした。
「不知火さぁん!?」
頭から湯気が噴き出てロボットの様に断片的な金属音と言うか雑音を零すではないが不知火九十九はショートした様子ながらも右手で顔を抑えながら呻く様に呟いた。
「や、ヤベェぜ……! 真面目に考えたら……拒否反応が……!!」
「拒否反応!?」
「真面目に考えるとか俺、今キャラ壊しちまったって絶対……!」
「いえ、執事服着てますし、壊れてはないと思いますよ別に全然!?」
普段から学ランの様に着崩してはいるが。
到底、執事服と思えない程度に着崩しているわけではあるが。不知火九十九が大地離家執事であると言う事実は実体として揺らがない。
「そ、そっか……! なら、良かったぜ……! 俺の筋肉さんが自爆しちまうんじゃねーかってヒヤヒヤしちまったぜ……!」
「いや、僅か数秒で爆散しないでくださいよ……!」
「ヘヘ、わりぃ、わりぃ」
悪びれる様子は見受けられないが九十九は片手ですまんと謝ると、
「それで改めて訊くんだけどよ。執事って仕事の……何だ? 俺としての意見を述べればいいのかね?」
「そんな感じでお願いします。仕事内容とかは大体、想像はつきますので」
「へぇ、すげぇな。俺、仕事内容さっぱりだわ」
「すいません、僕としてはその発言内容が信じられないんですけどね!?」
バッと視線を疆へ向けると疆は疆で視線を気まずそうにさっと逸らしてしまう。その最中、最後尾の批自棄が口パクで何かを語っている。
『だ・か・ら・ま・え・に・い・っ・た・と・お・り・だ・ろ』
呆れた表情でそう告げていた。
成るほど、確かにその様子だ。と言うよりも、大地離家の――否、不知火家の執事としての体制が日向の想像よりも違っていると言う事なのか。不知火家は武力面、即ちボディーガードとしての特性を強く発揮すると言うが、その通りに九十九はそうあるのだろう。
勉学ではなく武門を徹底的なまでに。
「……そうすると、大地離家は書類仕事とかって……」
「大抵、御当主任せだな!」
「……」
大見得切って言う事では無い気がする。
執事だけれど書類仕事等は精通しておらず、当主――大地離家の人間が全般をこなす形になっていると言う事か。執事もある程度手伝いそうなものだが……。
「まあ、俺が手伝うともれなく大惨事ってのもあるけど……、それ以前に俺の主も御当主も書類仕事っつーかデスクワークの方が格段に得意ってのがあるんだよな」
「確かに、大地離さん知識人って感じですもんね」
「照れますね、これは」
朗らかな微笑を浮かべながら疆は頬を軽く掻く。事実、大地離家の当主として活躍している以上は教養も知識も人並み以上に兼ね備えているのだろう。
「まあ、私の場合は私に長年仕えてくれた現在の不知火当主、崇雲が不知火の男としては高い教養を身に着けていたと言うのも大きいですがね、これは」
「そうなんですかー……!」
「まあ、そう言う流れで言えば……私の娘は……」
そう呟きながら九十九を見る。九十九は不思議そうに頭に疑問符を浮かべた。
「ああ……」
日向は察した。
心配なのだろう。娘が。
馬鹿を体現した九十九の存在を傍にどれほどやっていけるのか――、と言う一抹の懸念があるからこそ、現在こうやって九十九を育成中――いや、再教育中なのかもしれない。日向は自分の推察が九十九に対してかなり失礼に値する事はわかっていても疆の娘の今後が少し心配になった。
なお、実のところこの推測は大きく間違っていたりする。
否、ある程度合っているのだが正確には五割であり、日向は大地離疆の娘を勘定に入れていなかった事も含めての心配が疆の不安要素であったのだが――この辺りは今話す事柄でもない為に割愛する。
「そう言えば、弦巻君」
そこでふとした様子で疆が問い掛けをした。
「何でしょうか?」
日向は小首を傾げながら反応を示した。
何気ない質問だろうと思っての対応。それが日向にとっては思いがけず、核心をつく質問であるとは流石に気付く事は適わなかった。前フリの片鱗も見せていなかった事から本当に『ふと』思った程度の話題であった為だろう。
「気にかかったのですが……、君はどこの学校に通っているのですか?」
「えっ……」
言葉が喉の奥で急速的につっかえる。
質問内容に対して色々思考を巡らせて待ち構えていた日向の斜め上を軽々と、自然に、そうして身近に突き刺さる話題であった。動揺する内心を抑えながらも何とか言葉を発する。
「ど、どうしてそんな事を……?」
「いや、少し気にかかりましてね、これは」
穏やかな視線を日向に向けながら――、しかし幾分真剣な感情も含まれている目で疆は日向へ向けて問い掛けている。
「名家の一角、迎洋園。私にとって――と言うより大地離にどって同胞であり同峰であって朋友の存在にして好敵手とも言える間柄です。それだけの名家の執事見習い――ああ、いえ正確には迎洋園では従僕でしたか。そう言った職務に、いえ、そうあらなくてはならない職務に就いた以上は主の近くにいるのが当然と言ったものでそうか、これは」
「まぁ、俺も一応……あいつとは同じ学内にはいるしなあ」
九十九がうんうんと頷いた。
学内と範囲を嫌に大きく見積もったのは、敷地内としては同じだが校舎としては言い難いと言う若干小難しい理由からなるものだ。ただし、そんな九十九の発言は曖昧に、蒙昧に、耳に触れるか否かの程度であって、日向の意識は全般的に疆の話に喰い付いていた。
要するところ。
様するところは『主と共にいるのが流儀であり道議』。
疆が言っているのはそう言う従者として当たり前な事だった。
それはわからなくはない――、いやむしろわかり過ぎてわからないところがない程に明快だった。日向としても従者ならばそう言うイメージであるし、そうであるべきだろうと知識は適度に偏っているながらも理解するところだ。だからこそ、わかる。
この後に疆が言わんとしている事は単純明快な話なのだ。
「つまりですね、日向君。君が迎洋園君の従僕を務めるに当たっては、君は出願していた高校とは別の高校に移らなくてはならない、と言う話ですよ、これは」
結論、そういう事だ。
主――この場合は日向の主なのだから迎洋園テティスに他ならないわけだが、疆の語る様子からテティスは現在高校に通っていると言う事になるだろう。そうすると必然的に、従者である自分もその高校へ移る必要が……と言うより進学する必要が出てくる。
従者が主の傍にいないなどあってはならない――。
そういう話だろう。
とはいえ、大地離疆自身も知る様に、そのあってはならないを実行して老齢な執事等には煙たがられている存在も時折存在しているケースもあるのだが……そこは何事にも例外ありけりと言うだけの話だ。
だがあくまで例外。
大地離疆の思い描く執事像が在り来たりであって至極当然な姿であるのだから日向に対しても必然そういう道を今、こうして促すのも当然であろう。
「もうすぐ四月ですからね、弦巻君も当然ながら進路として高校受験をしたのでしょうから……それを考慮すると目指す進路と違う道を選ぶ事、となってしまいますが……」
「いえ、そこは問題無いんですが……」
「? ……もしや、高校進学はしない、と言う考えでしたか、これは?」
「いや、将来的に見ても高校進学は必須でしたから進学を考えて受験とかしましたね。実際受かった高校もありますから」
日向は教養に歪な欠片、日々に罅こそ入っておれど知識に亀裂が強烈に刻まれている箇所があったりすれども社会不適合者とは違う立場にある。だからこそ高校受験も一日前から校門前に張り込み無事受験する等、不運回避の対策を練りに練って成功させた結果等が多く存在している。だからこそ合格に思い入れこそあれど、学び舎でまだ何一つ学んでいない今は何も思い出深い事などありはしない。
唯、問題なのは。
「一つ尋ねるんですけれど……」
「何でしょうか、これは?」
日向は一泊間を置いた後に。
「主様――、迎洋園さんの母校って何処でしょうか……?」
そこが肝心である。転校であれ、転入であれ、進学であれ大事なのは学力に他ならない。
学力。別に自信が無いわけではないのだが、日向はすでに推測していた。
迎洋園テティス。
迎洋園家。大地離家。不知火家。名家に名家が立ち並ぶ、そんな現状なのであるとしたら高校に疎い日向でも想定がつく。名家がこぞって進学する場所の有名どころと言ったら近隣では数か所しか存在しない。
例えば、お嬢様高校と経営困難により合併して出来上がった【清栄学園】と呼ばれる高校。
あるいは、【清栄学園】とは対極的に肩肘張り合って生まれたと言う例の――、
「ああ、それですか。私も経営に参加している【芳城ヶ彩共同高等学院】ですね、これは」
明るい笑顔で疆はそう告げた。
芳城ヶ彩共同高等学院――、と。
清栄も相当に有名な高校だが、芳城ヶ彩を日向が知らないわけもない。お嬢様高校と言うよりかはお金持ち高校。通う学生は皆、資産家やら政界の息子、娘やらとにかく有名所が集まった様な高校だ。七名の理事が存在すると言う巨大な高校と有名である。
「あの高校の体制的には『共同』よりかは『協同』と名指したい所なのですがね――、いかんせん、そもそも『共同』と言えるのかどうか」
苦笑いを浮かべて頭を掻き苦笑する。
その反応から見ると件の高校が建設された理由は話通りなのだろうと考える。
だが。
日向にとって重要なのはそこではないのだ。学力。その一言に尽きる。いや、正確にはあそこがお金持ち高校であると言う理由から避けるしかなかったわけだから、日向としては一生関わり合いの無い高校と断じて行く事すら無い始末。オープンキャンパスでも、覗きに行ったのは栄朔高校に対してくらいであり、その時は不運に不運が重なっての結果に終わってしまった事も踏まえて思い出すと涙が出る。
「まぁ、何にせよですね。弦巻君も従僕となった以上は、主の傍――芳城ヶ彩に転入しておく事をお奨めしておきます、という話ですね、これは」
「そう、なりますよね……」
困ったな、と日向は思った。
もう学校も始まる頃合いだと言うのに転入する様な形になる。四月初期にしてすぐに転入。入学式までに間に合わせろとでも言うのだろうか。そもそも最近まで戦場を駆けまわっていた関係もあって勉強も疎かになっている事だし……。
合格出来るのだろうか?
そこが一番不安で堪らない。昨年受験を終わらせたばかりだと言うのにまたも試験である。心が若干ぺきりと折れてしまいそうな気持ちだ。
「ああ、ちなみに」
そんな不安に駆られている日向に対して右手の人差し指を立てながら笑顔で疆は言った。
「お勧めは、セイゼン――、青善雪男子高校ですね、これは。活気のある少年達がたくさんいて、とてもにぎやかな高校ですよ、これは♪」
「は、はぁ……」
曖昧に返事するしかなかった。
つらつらと青善雪男子校の魅力を語る疆を横目に適当な相槌を何度か打つ。日向には疆がこれだけ青善雪を押す理由は大体、想像がついていた――。大方、それが大地離家の絡む高校であるからだろう、という形で。早い話が勧誘になるのか。
饒舌に男子校を語られるが、正直、男子校よりかは普通に共学とかでいいと日向は思う。漠然とながら男子校には危険を感じたから――と言う日向自身、不思議な感じであったが。
そして一人魅力を語る名家当主を後目に日向はこそっと九十九に尋ねた。
「ちなみに、不知火さんはどちらの高校なんですか?」
「俺ァ、シラヅキだな! ちなみに、主の方はミカアカだけど」
そんな学校絡みの話題を呈しながら。
大地離の探検調査隊は前へ奥へ深々と歩んでゆく。
執事が何たるかに九十九から回答らしき快答を得ていない事に日向が気づくのはもう少し後の事であった。
執事が何たるか。
その答え――と言うか体現者は誰一人いない場所。従者が何たるかを語れる者こそいれど執事が何たるかでは語るに違う話。例によって寛ぎをお届けする事に定評のある、好評なコーヒーチェーン店『モビーディックバックス』では日常の様に、平常の様に、常々とした面々が今日もコーヒーの味わいに優雅にほろ酔いしている頃。
店員は大忙しであった。
てんやわんやの大忙し。
それも仕方あるまい話。
何せ今現在――、
「やー……。大変そうだねえ、シエル君も……」
「そうですわねえ……、現在進行形で注文取って、料理熟して、会計処理して、店内清掃し、お客様の要望にお応えして、スマイルサービスして、女性からのラブコールをやんわり断っての繰り返しですからね……」
ディオ=バンガーの連れ、ルーク=シエルと言う青年が店内を駆け巡る――、それもお客様の気分を害さない程度騒がずに執務をこなしてゆくその光景は惚れ惚れする程に忙しない様だったが世話しない働きぶりでもあった。
あいつ一人に任せておきゃあ平気だろう。
そんな様な事を言っていたが、本当にそんな様な出来事だ。ただし、流石に余裕めいたものはほとんど感じない程に忙しないが、店がいつも以上に混雑しているのも大変慌ただしい事だがルークはあっちへ行ったりこっちへ行ったり大忙しだ。
とはいえ、それはそれ。
テティス達にはさして関係も関わりもない話なので、大変だなと思いながらも彼女たちは会話を続行している最中であった。
会話の題材。
当然と言うか当たり前と言うか、それは今回の『トルコンクエスト』に絡む事であった。
専属メイド、土御門睡蓮は言った。
「今頃、どこら辺でしょうかねー。弦巻君、大丈夫でしょうか?」
「まあ、平気ではないかしら? 本人は不運ですが生きる意志は随分強い子ですし……何よりも大地離さんに、一応、親不孝通りも一緒ですから」
「親不孝通りだと何か面倒だから放置して育成ーとかやってそうな気もしますが……」
「……否定出来ませんわね」
主従関係に於いて主従関係を放り投げる事も間々ある親不孝通り批自棄ならば獅子の如く日向を崖へ――、いや、洞窟の中へ叩き落とすくらいはしそうな気がする。と言うのが同僚と主の失礼極まりない感想であった。事実としても。
ラナーが苦笑を浮かべてやんわり口を挟む。
「まあまあ。ひじきくんはああ見えて面倒見のいいメイドさんだし――、日向君が本当に窮地に陥る前には手を掴むんじゃないかな」
「それはまあ、そうですわね」
その言葉に扇子をパシッと開いてテティスは当然の様に反応を示した。迎洋園家の人間として親不孝通りに対して信用していると言う表れでもある。
「ただ、問題はやはり、あそこが未知の場所……、という点ですか」
「睡蓮は行った事ありまして?」
「いえ。興味も無い場所でしたから特には……」
「ですわよね。私も行こうが行くまいがどっちでも構いませんし」
ただまぁ、と呟いて。
「この御時勢にダンジョンと言うのも中々奇々としたものがありますから……、今回に関しては日向の修行の意味でも少し楽しみですわね。それに攻略したらしたで何があるのか楽しみですし」
「失敗したらしたで日向君の女装姿……と言うわけですね」
「ですわね……!」
「そこ頬を赤らめてちょっとワクワクしてない!!」
扇子の上から見える顔が赤らんでいるし、メイドに関しては何か笑顔が楽しそうだ。こういう時のノリは性質が悪いなあ、とラナーは苦笑を浮かべた。まぁ適度に弄って、適度に本気なのだろうからさして心配もしていないが。
日向的には攻略をした方が身の安全が保障出来ると思うけれど、とラナーは思いながら。
「けど本当に今頃はどこら辺まで辿り着いているものかなー……。あそこ、すごい広い空間っても訊いてるからさ……」
「でしょうね。僅かに当時の事を語れるメンタルの人の発言によれば相当広かったと言うのが検討付きますし……」
「何だよね……。僕も気になったから午前中に色々調べてみたけれど……」
「どうでしたの?」
「それが判断付き辛いんだよね。探検した人たちの語るトラップ――、遺跡にトラップって訊くけど、ここまで高性能なものだと本当かなっても思うのと、明らかに数が多すぎるし……どうもランダムで発生しているんじゃないかとかさ」
「ランダム……」
テティスは考え込む様に扇子を閉じて目を伏せながら、
「一概には信じられませんわね。最近ならいざ知らず、随分昔から存在している洞窟にそんなハイテクシステムが健在しているとも、どこの映画ですかと言う感覚ですし」
「……ま、だよね」
そう同意を示しながら手に持った資料の束をばさっとテーブルの上に落とす。
「そもそも、大地離さんが何を探しているのかも、そもそも探してるものがあるのかもボクらには分からないわけだけれど――」
凄い体験になりそうだよね弦巻君、とラナーは何とも言えない苦笑に近い表情を浮かべる。
その感想にはテティスも賛成だ。洞窟内部でどんな事が起きるのか、どんなことが起こり得るのか等は、『モディバ』でお茶をしている能天気な自分達にはわかるまい。
何事も――体験。
従者としてこれで研鑽が積まれるとはあまり思っていないが、滅多に出来ない経験でもあるのだろうから。
「頑張りなさい、日向」
小さく、誰にも聞こえない程度、口の中で音を奏でた。
凱旋を願う様なそんな響き。
そして彼が丁度行っている場所の資料――、そこに書かれている事はどれも不可思議なものばかりであり、軽く指先で用紙を持ち上げてぺらぺらとページを流し読んでゆく。ありとあらゆるトラップの経験やら何やら。
だけれど一つ目を惹いたのは。
『気絶した自分達を誰かが運んで外へ出した』。
その一文に思わず苦笑した。そんなわけもあるまいに。何百年も経過している洞窟の中で未だに誰か住んでいるのかどうなのか――どちらにせよ、どっちにしても。
何とも珍妙な遺跡が存在するものですわね――。
テティスは従者の検討を祈りながらそっと空を眺めた。
3
「いやはや、本当にハイテクなトラップシステムもあったものですね、これは」
疆は大層感心した様子で頷いた。
「だわなー。いや、全くもって仕掛けが凝ってやがるってなもんだぜ。ヌハハ!!」
バキッ、と音を立てて横から突き出した大量の槍をディオ=バンガーはへし折りながら楽しげな笑顔をもって言い放った。
「全くだっつの。横から槍が出てくるなんざ、とんだ横槍入れられたもんだぜ」
そうぼやく加古川かがべの足元には彼の木刀『木賊』で叩き折られたと思われる槍の穂先がいくつも転がっていた。
「その前の天井から矢が降り注ぐ仕掛けも相当に危険であった、と俺は思うぞ、加古川。むしろあっちの方が厄介であった」
そう呟く登山家の格好をしている灘佃煮は手に持つ金剛杖を使って、加古川かがべと同じ様に大量の槍を破壊している様子だった。
「ふっ、加古川も灘もまだまだだな」
「「俺たちの陰に隠れてる奴に言われたくねぇがな(けどな)!!」」
そして何もせず仲間に守られている海味山道は不敵な笑みを浮かべている。
「生憎とどれだけ槍が来たとしても……、この僕ちゃんのティッシュ護身術を穿つ事は出来ないって事だね……!」
大量の散紙を蓄蔵する――いや、埋蔵し〝埋蔵听〟するアムジャド=ジレは大量のティッシュに包まれた太ったミイラの様な姿で存在していた。槍は貫けずに停止している程に大量。
「いやぁ、申し訳ないと存じ上げましょう。私がトラップのスイッチを押してしまったばっかりに」
そして頭を掻いてぺこりと詫びるサッチ=バルケスィルは皆より先の場所に立っており、彼の立つ場所はガコン、と一部分が凹んでいた。起動スイッチであろう。
「気にしなくていいどん、俺どんらは無事だったしどん」
全身切り傷塗れのアクバル=イスミットが朗らかな笑顔でサッチの肩を叩く。
「いやぁ、お前の発言、説得力ねぇぞ、なあ……?」
天井に太い蔦で張り付くギュンター=オーバーザルツベルグが口元をひくつかせながら乾いた笑いを零している。
「つーか、こんな初期のトラップで手古摺ってんなや、ヤコーもさー」
整備ミスなのか何なのかそもそも、槍が彼女の佇む配置だけ一本も飛び出していない場所で親不孝通り批自棄は槍を全身の筋肉で押し留めていると言う鉄より硬いと言う事実を変なところで発揮した不知火九十九は平然としている――、実際何もなかったのだし平然としていて当然の少女に向かって、
「うるせえ! それよりもコレどうにかなんねーか!? 地味に痛ェ!」
「あ?」
「いえ、何でもありません、助けてください、おねげーしやす!!」
滅茶苦茶下手に出ている有様だ。
そして大地離疆はと言えば幸運と呼ぶべきかトラップ起動範囲よりも後ろの位置でトラップに感心を示しながら、
「四つ目のトラップも相当……地味に危険ですね。第一のトラップの落とし穴とは比べ物にならない程に巧妙な隠し場所ですね、これは」
「そりゃまーな。第一のトラップなんてわかりやすすぎ得て引っ掛かり用が無かったんだが、第二のトラップ、規則性により足場を決めなくちゃいけない通路と、第三のトラップ、突如天井から矢の雨が降り注いで、第四のトラップは横から横槍入れられる始末だぜ」
やってらんねー、とばかりに批自棄は首を振った。
地味の様にも、派手の様にも見えるシステムだが人間は脆い。迫り来るトラップだけでも十二分に殺傷能力が存在したのは否定出来るところではなく、本当に死人が出なかった事が驚きのトラップばかりだ。
「気を抜くつもりは無かったが――、気を引き締める心積もりは必要だな」
けらけらと面白くなってきたものだと感じて批自棄は哂った。
武者震いとは違う快感の様なものであり――、批自棄の様に若干狂った理由ではなく冒険者、探検者としての意識の高さからか雇われた傭兵達は口々に注意を呼び掛けあっている。
「今後から更に強力なのが来る可能性が高いんだどん!!」
「だな。獅子王子とは言え俺も気を引き締めないとならんようだな……!」
「みたいだね」
ティッシュの中に埋蔵されているアムジャドが同意を示す。生憎と先ほどからくぐもって聞こえにくいのに本人が気づいていない様子だが。
「ここから先は……果たしてどういうトラップが待ち受けているものか。受け付けるべきものなのか謎と存じ上げましょう」
サッチは相変わらず良く分からない発言ばかりだがトラップで心が折れる気配は見せていない様子なので良かったと思いながらトンと九十九の肩に手を乗せて疆は真剣な顔で告げる。
「九十九。無理はしない事。いいですね?」
「へ?」
「いやはや、死者がいないとはいえ、死なない可能性が無いわけではない様子ですからね――。危なくなったら何時でも……」
「平気だって。それに危なくなったら守るのは俺の役割の方っしょーが、御当主」
ニカッと快活な笑みを浮かべて不知火九十九は大地離疆の肩に置かれた手を振り切って、前へと進んでゆく。その姿にしばし時間を置いた後に何処か嬉しげに疆も九十九の後を続く形で歩いて行った。
その様子を見ながら批自棄は僅かに嬉しそうな顔を見せた後に、今後のスリルにわくわくしてメイド 服をひるがえしながら後へと続く。
雇われた者達もまた続々と。
雇われた以上に――、冒険心で。
乞われた以上に――、探検心で。
目的のものがあるかどうかなど全くもって定かではない。だけれど、この特殊で異質な空間の存在は幼き日の冒険心を思い出す様に楽しげでもあり多分に怪しげでもあった。
そうだとしても皆は進む。
目的意識が何であれ。先にどんな罠が待ち構えているとしても、進んでゆく。
一一名の探検者達は進みゆく。
第一の罠で、すでに弦巻日向がひっかかっている等とは露程も思わずに――。
奥深く。
深く、深く、深い場所。真っ暗闇に染まった空間では何故だか滝の流れる音がした。実際に滝が流れているのだろう――暗くて目視ではまるでわからないが。
だけれど滝だけではない。
滝の中に何か――、
「……」
いや、誰かがいる。
座禅でその場所に居続ける、滝行と言う時代錯誤な修練を行っている様子であろう誰かがいる。暗い空間であれ目があれば白目に僅かに輝きが灯るものなのだが――、生憎それも見えてこない。滝の只中に佇む何者かはゆっくりと顔を――、顔かどうかは判別出来ないが、位置的に顔を上げた様に思える。
何者かはしばし静寂の中、静止したままであった。
だが徐に腰を上げると何者かは滝の傍にあった長い何かを二つ取って、腰へ差した様子だ。
そして何者かは滝のあるその空間から足を歩ませ離れてゆく。
この広場の空間事態から去ってゆく。何処かへと。
その最中小さな声でポツリと呟いた。
「来るにせよ、届かぬにせよ」
参るとするぜよ、と。
言葉を零し、姿を紛らわし、男の声を発した何者かはゆらりと影に消える。
果たして何者かが何者であるか等とは――全くもって分からず仕舞いであった。
第五章 罪負いし共、道を往く