第五話『責任』
早朝。まだ太陽も昇らず、あたりが薄暗い中、鳳郎は島の中央にある祠に居た。
いつものように祈りの言葉を口にする訳でも、供え物を持ってきた訳でもない。ただ目を瞑り、静かに祠と向き合っていた。
「父上……」
鳳郎がしばらくそうしていると、三番目に生まれた息子鳥――名前を博という――がやってきた。
鳳郎がそちらに顔を向けると、不快そうな表情をしてこちらを見ている。博は、鳳郎が祠に祈るのを良く思っていないのだ。
「やはり、ここに居ると思いました」
「予想が外れて欲しかったという風な顔をしているぞ。そんなに私がここに来るのが気に入らないか?」
「父上がこの場所に来るのを止めるのはとうの昔に諦めております。……嫌悪感を抱かずにすむようになるには、まだまだかかりそうですが」
博の言葉に、鳳郎は思わず苦笑する。それだけ自分の今の姿は不気味に見えるのだろう。
鳳郎は昨日の凰子とのやり取りを思い出す……。
* * *
「新しい島を探す……? なぜそんなことをする必要があるのですか?」
鳳郎の『新しい島を探す』という突然の言葉に、凰子は困惑した。
「前々から思っていたことだ。このまま家族の数が増えていけば、間違いなく食料が足りなくなってしまう」
今島には十羽の鳥が居る。現時点においては、食料が足りないなどということはない。むしろかなり余裕がある方だろう。
仮に、今凰子が温めている卵すべてが孵り、そのすべてが順調に育ったとしても、まだ食料は足りると思う。
しかしその先になると苦しくなってくる……。その前に、何か予想だにしない事件が起こり、食料が急に足りなくなるということも十分考えられる。そうなることは何としても避けたい。
「食糧問題は重要だ。食べ物が無くなった時、十羽もの子供達をどうやって育てる? 私達には、子供を作った以上は育てる責任がある。その責任を果たすためにも、新たなえさ場と住処は見つけておいた方が良い」
「ですが……まだ余裕はあるのですから……」
「お前の気持ちも分かる。島を探すということは、海の上を飛ぶということだ。それには間違いなく危険が伴うだろう。しかし、だからこそ余裕があるうちに取り掛かりたいのだ」
現段階では余裕がある。だからこそ、危険な『新島探し』にも慎重に取り掛かれる。危険なことはせず、安全を第一に考えて行動できる。
これが追い詰められるとそうはいかない。一日も早く新島を見つけなければと焦り、結果危険なこともしなくてはならない。そうなれば犠牲が出る可能性が高くなってしまう。
「それに、私達には女神様が付いている。きっと加護を与えてくれるに違いない」
「………」
凰子の表情が曇る。女神の存在を信じているのは鳳郎くらいだ。だから女神の名前を出しても、安心させるどころか不安を煽ってしまうのだ。
「鳳郎……。あなたが何を信じていても、何を拠り所にしていても私は文句を言いません。しかし、私には信じられないのです。女神などという存在が本当にいるのでしょうか? あなた以外……あなたさえも、一度しかその姿を見ていないのですよ!? それも夢うつつとも言える極限状態の中で一度きりです。私にはそんな不確かな存在が、加護を与えてくれるとはとても思えません! そんな根拠のないお守りを持たせて、危険な海の上を飛ばせる訳にはいきませんッ!」
凰子は必死に訴えかけた。やはり安心させるどころか、錯乱させてしまったようだ。
鳳郎はなだめるような口調で言った。
「そうだな。きっと女神様は私達を守っては下さらないだろう。お前の言う様に、存在自体も怪しいのは確かだ」
「だったらッ!」
「だがな、そんな不確かな存在でも、心を落ち着かせることくらいはできる。実際に守ってもらえることはないかもしれない。……だが、それでいいのだと思う。神や仏というのは、信仰することにより心の不安を和らげ、安心することができる。もし祈るだけで加護が与えられるなら、それに頼って堕落してしまうかもしれない。だから、心が安らかになるくらいが健全で良いんだよ」
鳳郎は女神の存在を信じてはいる。だが、その女神が実質的に何かをしてくれることをあまり期待していない。
女神は静かに見守ってくれている……。見えない所で……実感のない所で助けてくれている。そう信じて心を落ち着かせることこそが女神の役割。だから、女神が存在しているか存在していないかは大した問題ではないのだ。
そんな鳳郎が今でも祠に出向いて祈るのは、加護を与えて欲しいというより、感謝の念を伝えたいという気持ちが大きい。女神に出会ったあの日に、自分が幸せを手に入れられたことは間違いないのだから。その後、加護が与えられていなかったとしても祈りをやめる理由はない。
「無理はしない。実は半年前から体力を付けているのだ。ちょっと海の上を飛んでみるだけさ……」
「……本当ですね? 危ないことはありませんね?」
鳳郎になだめられ、凰子はやっと納得する。鳳郎の言う食糧問題が重要なのは凰子も分かってはいる。近い将来、食料が不足することが分かっているなら、親の責任として子供達のために多少の危険を冒さなければならない。
「ねぇ、パパ、ママ……」
話がまとまると同時に、後ろから声をかけられた。
声をかけてきたのは、七番目に生まれた息子鳥――名前を智一という――だった。その表情を見ると、今の会話はすべて聞かれていたらしい。
「パパお出かけしちゃうの?」
「そうだよ、このままでは島が狭くて住めなくなってしまうからね。ご飯も足りなくなってしまうかもしれない。そうなるのは嫌だろう? そうならないためにパパはお出かけするんだ」
「でも、危ないんでしょ?」
智一は、心配そうな表情をして父親を見つめる。
鳳郎と凰子は、危険だから決して島から離れてはならないと教えられている。海の天気は変わりやすい。海で飛んでいる時に突風にあおられて、海に落ちてしまったら命を落とすことになる。
そのことを強く言いつけられているから、その海に向かって父親が出かけることを心配しているのだ。
「大丈夫だよ。パパは海の上を飛んだことがある。そんなに遠くまで飛ぶことはないし、絶対に帰ってくるから」
「………」
鳳郎は必死に慰めるが、息子の不安そうな表情は和らぐことが無い。
「新しい島を探すんだよね? でも、そんなことをしなくたって、パパとママが住んでた場所に行けばいいんじゃないの?」
智一の指摘に、鳳郎と凰子が息を飲む。
「パパは言ってたよね? パパの住んでいた所はとても綺麗な所で、自然がたくさんあって空気も澄んでる。食べ物だってここよりたくさんあって、食べ物に不自由したことはないって言ってたよ。ママも言ってたよ。ママの住んでたところは、パパの住んでいた場所より遥かに広い場所だったって。何処までも何処までも陸地が続いて、まだ見たことが無い場所の方がずっと多いんだって」
鳳郎と凰子はどう答えたものか少し悩む。子供たちの素朴な疑問の一つが、父や母が住んでいた場所はどんな風で、そこでどんな暮らしをしていたかだ。
しかし、鳳郎も凰子も自分達が住んでいた場所がどんな風だったかについては語っても、そこでどのような暮らしをしていたかについては話そうとしなかった。
それも当然だろう。毎日毎日生きるのに必死。仲間を持たず、他の鳥達からは迫害されてきたのだ。鳳郎は逃げるように、凰子は追い出されるようにしてこの島にやってきた。
そのことを知れば子供達は間違いなく傷つく。自分達は嫌われた生き物だということを知れば、誰だってショックを受けるのは当たり前だ。
だから鳳郎と凰子は、『ここでの暮らしが楽しすぎて、昔のことは忘れてしまった』と答えてお茶を濁している。知りたがりの子供達が、それで納得する訳もないが……。
「……そうだね。確かにパパとママの故郷に行くのも一つの選択肢だ。でも、パパとママの故郷は危険なことも多いんだよ。だから、お前達が大きくなるまでは、安全な場所で育ててあげたいんだ。そのためにパパは出かけなくちゃいけない。分かってくれるね?」
「………」
苦しい言い訳だ。しかし、鳳郎の諭すような口調にしぶしぶ納得したのか、智一はそれ以上何も言わずに、どこかへ飛んで行ってしまった。
「……ごめんな」
飛んで行く我が子を見ながら、鳳郎は小さくつぶやく。
自分達の故郷に行く。それも確かに選択肢の一つだ。どうしようもなくなれば、その選択を取らざるを得ないだろう。
そもそも、鳳郎や凰子が差別されていたのは、仲間を持たなかったからだ。今は十羽の仲間が居る。体も大きい、か弱い存在だという訳ではない。だから、今家族全員で故郷に帰れば、前のような扱いは受けないかもしれない。
それに、他の仲間を探したいという気持ちも再び生まれた。こうして鳳郎と凰子の間に子供が生まれたということは、二羽は同じ種類だったということ。世界のどこかには仲間がたくさんいるのかもしれない。何かの間違いで、鳳郎と凰子ははぐれてしまった可能性が高い。
仲間の群れを探すことができれば、子供達も立派に独り立ちして、相手を見つけ、愛をはぐくみ、子孫を残すことができるようになる。
しかし、まだ早い気がする。好き嫌い感情というのは根強いものがある。今故郷に帰れば、言われない迫害をもう一度受けることになるだろう。もう少し家族を……仲間を増やしてからにしたい。これだけ臆病にならざるを得ないトラウマが、鳳郎と凰子にはあるのだ。
「鳳郎……きっと帰ってきてくれますね?」
「ああ、必ず帰ってくるよ」
凰子は最後にそう尋ね、必ず帰ってくることを約束した鳳郎に、それ以上何も言わなかった。
* * *
「父上?」
「ん? ああ、すまない。考え事をしていた」
博の声で、鳳郎はやっと回想から帰ってきた。
まだ日も昇っていないくらい早い時間なのだ。わざわざ起こしてまで、凰子に旅立ちの言葉をかけることもあるまい。
鳳郎は出かける前に、もう一度祠に顔を向ける。
「女神様、私はこれから新しい住処を探すために旅立ちます。さして長い時間ではないでしょう。ですが、海の上を飛ぶのは常に危険が伴います。もし熱心な信者である私を思ってくださるのなら、無事に飛びきる加護をお与えください……」
「………」
鳳郎がすべてを言い終わるまで、博は顔を背けて聞いていた。やはり来なかった方が良かったかもしれないと後悔しているのだろうか?
「お前の嫌いな時間が終わったぞ。すまないな、せっかく見送りに来てくれたというのに……」
「私が好きでしていることですので、気にすることはありません」
危険な所に旅立つと知っていて、黙って送り出すことはできない。自分は同行できずとも、せめてしっかりと見送りたいのだ。
「後のことは頼んだぞ。そう長くは留守にしないと思うが、何かあったら兄弟で力を合わせて母さんを守ってくれ」
「任せてください」
「心配すんなって、親父!」
明るい声と同時に、兄妹の中で四番目に生まれた息子鳥――名前を文哉という――がやってきた。
「生まれたばかりの目の開いてない赤ん坊じゃあるまいし、一日親父が居ないくらいで問題が起こったりしないって! それでも何かあった時は、俺達一年組がなんとかするからさ!」
一年組とは、一年目に生まれた子供達のことを言う。成長の早い鳥達にとって、一年の差は大きい。有事の際には一年組と鳳郎が解決することになっている。
「……お前の言葉はいつも軽い。そんな調子外れの言葉では、父上を心配させてしまうじゃないか」
「へぇーへぇー、兄貴の言葉はいつもいつも重たくってよろしいことですね。あんまり重たくって心まで沈んでしまいそうですよ」
この文哉は楽天家だ。何でも気楽に考え、重たい空気を和ませてくれる。二女の茜とよく気があう。
「フフ……。それでは後を頼んだぞ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってら~」
文哉が博に小突かれるのを見ながら、鳳郎は海に向かって飛び立っていった。
* * *
鳳郎が飛び立ってから数時間が過ぎた。太陽は完全に登り、広く海上を照らしている。
鳳郎が死ぬために飛び立ったあの日とは違い、空はどこまでも晴れ渡り、雲ひとつない心地よい空だった。これなら嵐にあうことはまずあるまい。海の天気は変わりやすいため、そう楽観視もできないが……。
「………」
鳳郎はかなり高めに飛ぶ。そしてゆっくりと首を振りながら、何か変わったものが無いかを探す。
しかしこれまでの間、島はどころか、小さな岩や木の板すら見つけることは出来なかった。360度見渡しても、何処までも水平線が続いており、波は静かに揺れている。
「まあ、こんなものさ」
鳳郎は特に焦りもせず、冷静に海を見回している。
実際のところ鳳郎は、今日中に島が見つかるなど微塵も思っていない。
焦る必要が無い様に、余裕があるうちに行動を始めたのだし、今日のところは海の上を飛ぶ感覚を覚えようとしている要素が強い。今のところは、潮風に煽られても疲れることなく、心地よく飛ぶことができている。
「少し神経質になりすぎていたか?」
今のところ大きな危険はない。これなら子供達のうちの数羽を一緒に連れてきても良かったかもしれない。
子供達は長距離を飛ぶことに慣れていない。島が見つかっても、そこまで飛んで行くことができなければ結局意味が無いのだ。ならば、長距離を飛ぶ訓練をさせる意味でも、連れてきても良かったかもしれない。
「そのあたりも含めて、家族で話し合ってみるか。あまり凰子に心配はかけたくないしな……ん?」
鳳郎が考え込んでいると、水平線の近くに何かを見つけた。ぼんやりとしてはっきりとは見えないが、それは影であるように思われた。島の影のように……。
「まさか……こんなに簡単に?」
むしが良すぎる。新しい島を探すために飛び立ったその最初の日に、目的のものが見つかってしまうなど……。
「とにかく行ってみよう!」
もしかしたら、凰子の住んでいた大陸かもしれない。これほど遠くから見えるのだ、その可能性は大いにある。
鳳郎はできるだけ高く飛び上がり、その影に向かってはばたき始めた。
しかし数時間後経っても、その影が近づくことはけしてなかった。
なぜだろうと首を傾げていたが、やがてその正体に思い至った。
「……蜃気楼だ」
それに気付くと一気にだれた。鳳郎は蜃気楼というものを見たことが無いが、蜃気楼によっては鮮明な町が見えたりもするのだという。島の影くらいなら当たり前にあり得るだろう。
蜃気楼だと気付くと、島の影がゆらゆらと揺れているのが分かった。それに気付かなかった自分が非常に愚かしく思えた。
「引き返すか……」
鳳郎は一言呟いて方向を変える。気力は萎えたが、鍛えたおかげで体力はまだまだ残っていた。蜃気楼のせいで、自分の中の予定より遥かに長い間探索していたが、自分の限界を知ることもできた。落ち込んでばかりいないで、前向きに考えることにしよう。
帰り道に道しるべはないが、道に迷ったりはしない。方向感覚は他の鳥にも引けを取らないくらい優れている。だからこそ、恐れることなく飛び立つことができたのだが……。
探索と同じだけの時間をかけて、自分が今来た空を戻る。すると、今度は別の奇妙なものを見つけた。
「大きな雲だな」
黒々とした巨大な雲。運が悪いことに、その雲は鳳郎が今向かっている方向にある。
あれだけ巨大な雲なのだから、その下は激しい嵐になっていてもおかしくない。雷に打ち落とされてはかなわないし、あの方向にあるということは、島を直撃することも考えられる。早く帰って嵐に備えなくては……。
鳳郎は羽ばたく翼に力を込めて、帰り道を急いだ。
島が近付くにつれて、その黒い雲も近づいてくる。そして、相当な距離まで近づくと、鳳郎の中に疑問が湧いた。
「あれは……本当に雲か……?」
雲にしてはおかしい。もくもくと空に向かって立ち上って行き、雷の光がまるで見えない。その黒い雲以外には雲が見当たらず、相変わらず快晴だ。雲というよりは……。
「煙……なのか? あれは……」
煙……そう考えればそのように見える。
煙……煙……煙……。
煙の発生する条件は何だ? もちろん火だ。何かが燃えている時に煙は発生する。それは常識。
ならば……何が燃えているのだ? 間抜けな人間の船が、料理をしている途中で火事になってしまったとでも言うのか? それならば傑作だ。近くまで飛んで行って笑ってやりたいくらいだ。
しかしあの煙の量……人間の船が一隻燃えたくらいではあの量の煙は発生しない。
それならば……。
「まさか……まさか島が……島が燃えているとでも言うのか?」
最悪な想像が鳳郎の頭をよぎった。
そして……その想像は鳳郎のことを裏切ってはくれないのだった。