第十話『会話』
「……あれは何だ?」
鳳郎が海の彼方を眺めていると、一艘の船がこちらに向かってくるのが見えた。
海に浮かぶ物の正体が船だと分かると、「ああ、いつもの漂流船か……」と一瞬気を緩めたが、良く考えると不審な点があった。
今日昨日と、海は全く荒れずに穏やかだった。それになのに船が難破することなどあり得ない。嵐にあって小舟ごと海に放り出される状況になるはずがないのだ。
ならばあの小舟に乗っている人間は、わざわざ大きな船から小舟に乗り換えてここに向かってきていることになる。しかし、周りを見渡しても他の船は見つからない。かなり遠くに船を止めているということか?
なぜそんなことをする必要が……? 警戒しているということか? たった一羽で幾万の人間を殺した赤い凶鳥を?
「ならば……敵か……?」
鳳郎は緊張して小舟をさらに注意深く見つめた。鳥の視力は人間の数倍はある。あちらからはここが見えなくても、こちらからは海の上に浮かぶ小舟が良く見える。
「………?」
鳳郎は船を注意深く見てみると、そこには予想に反したものが乗っていた。
人間は乗っている。ただ、その人間は明らかに老人だった。
顔を見ると、どうやら男であるようだった。見るからに弱々しいという感じではないが、特別力強いとも思えなかった。せいぜい、歳の割には元気なお年寄りといった程度だ。
状況が異様だったのは、乗っていたのが老人だったというだけではない。その老人が着ている服が真っ黒で、所々に宝石が散りばめられており、しかも体中を覆うような服を着ていたのだ。
今は夏だ。そんな恰好をすれば辛いはず。なのにわざわざそんな恰好をしているのが、鳳郎には理解できなかった。
さらに不思議だったのは、船だ。小舟には老人一人しか乗っていない。そしてその老人は、船を漕いでいないのだ。それにも関わらず、船はまっすぐと島に向かってきている。
「面妖な……」
鳳郎はそう呟きながら、どうしたものかと頭を抱えた。百年この島で生きていて、こんなことは一度もなかった。どう対処するべきか即決できない……。
鳳郎が悩んでいるうちに、小舟は島に上陸しようとしていた。島の内部にまで入られるのはまずい。とりあえずあの船が上陸した海岸まで行き、相手の出方を待って対応しようと考え、鳳郎は木や崖に隠れるように飛び立った。
「相手の出方を待ってか……少し前なら考えられんだろうな」
以前までなら、怪しい怪しくない関係なく焼き払っていた。悩む必要などない。自分には女神から与えられた最強の炎の力があるのだから。
鳳郎は、そんな自分がおかしくなって、少し笑うのだった。
* * *
鳳郎が、海岸が良く見える木の影まで来ると、すでに老人は上陸していた。
いつもならここで、島の中に入るなと警告する所なのだが、今日は相手の出方を見る。何もせず引き返せばよし、何か妙なことをするようなら……力を持って対応せざるを得なくなる。
しかし、老人はどちらもしなかった。というより、本当に何もしなかった。
老人は島に上陸した後、じっと森の奥を見つめ、静かに立っていた。
ただただ立ち尽くしている老人に対して、鳳郎はどう対応するべきか悩み、追い払うことも、攻撃することもできなかった。
膠着状態が続く。その場には風が木の葉を揺らす音と波のざわめく音以外何も聞こえない。
そのままの状態で、一時間が過ぎた。
老人は相変わらず立ち尽くしたままだったが、二度三度周りを見渡した後、目をつぶって俯き、一言二言呟いた。
すると目を開き、意を決したように叫んだ。
「この島に住む強力な力を持った赤き鳥よ! 聞いているか?」
鳳郎はびくりとして耳を澄ます。やはりこの老人は自分に会いに来たのだ。そして見張られていることを知っている。油断してはならない……。
「私は神林王国からやってきた呪術師で、相崎忠政というッ! どうか姿を現してはくれないか?」
鳳郎は一瞬驚いた。神林王国と言えば、鳳郎が生まれた島にある国だ。四国のうち、最も資源と食料が少ない小国だった。しかし、人材だけは豊富で、大陸まで名前を轟かすほどの人間も居た。
そんな国の呪術師が、一体何の用があるというのだろう?
「何用か?」
鳳郎は目の前の人間が自分の故郷の人間であり、老人一人では何もできないだろうと思い、呼びかけに答えることにした。
鳳郎の答える声が聞こえると、相崎と名乗った老人はその場に跪き、敵意がないことを示した。
「先ほども言いましたが、私は神林王国の呪術師です。たくさんの弟子を抱え、四国の中でも五本の指に入るほどの力を持っていると自負しております」
「お前が何者かなど聞いていない。何をしに来たのかと聞いている。用がなければ早々に立ち去れ! 島の奥に入りたいというのなら、力を持ってお前を排除するぞ」
鳳郎は語気を強め、やや脅し気味に相崎にそう告げた。まだ警戒を解く訳にはいかない。相崎の言っていることが本当かは知らないが、実力を持った人間なら油断ならない。
「あなたの話は、幼いころからずっと聞かされていました。大海の途中にポツンと浮かぶ孤島に住む、残酷非情な赤い鳥。まだ若く、好奇心が旺盛だった頃の私は、いつか自分の手で退治して、手柄をあげたいと思っておりました」
「ほう……ずいぶんと正直だな……」
鳳郎はいつでも炎を生み出せる体勢をとった。
見たところ、相崎はずいぶんと歳をとっている。このまま老衰で死ぬのでは満足できず、どうせなら悪名高い赤い凶鳥と一騎打ちして殺されたいとでも思ったのかもしれない。
どれほど力を持っているとは言っても、人間では寿命にも力にも限界がある。まさか鳳郎が劣ることはないだろう。ならば、一瞬のうちに勝負を決めず、少し演武をしてから殺してやってもいい。
鳳郎はそんなことを考えて相崎の話に耳を傾ける。
「しかし、ある時から孤島に住む赤い鳥のことを、色々と想うようになりました」
「何?」
「赤い鳥はなぜ誰も訪れない孤島に居るのだろう? それだけの力を持ちながら、なぜ世に羽ばたこうとしないのだろう? なぜ人間達を襲うのだろう? 感情はあるのだろうか? 知性は? 何か島にいなければならない使命でもあるのか?」
鳳郎は首を傾げた。自分が思っていたのとは違う雰囲気になってきたからだ。
赤い鳥のことを想うようになっただと? この老人が何処に話を持って行こうとしているのか分からない。
「私が幼い頃は、近づく者すべてを焼き払う残酷な鳥というのが、あなたに対する世間の一般的な認識でした。しかし、数十年前から自分に危害を加えない者に対しては、島に一時的に上陸する者に対しても攻撃をしない鳥という認識に変わって行きました。ある男が、島から生還したという話が広まってからです」
恐らくその男は、嵐の夜に小舟に乗って流されてきた男だろう。あの後人間達から再び攻撃があったくらいだから、それなりの衝撃を与えた出来事だったのかもしれない。
「その男は、国に戻るとあの島から生きて帰ったという話をして驚かれました。そして、変わった言葉を残しています。『なぜか、鳥の言葉が悲しいものに聞こえた』……と」
その言葉には鳳郎も驚いた。
確かにあの時は、それまでの自分の行動を思い返し、感傷的になっていたかもしれない。しかし、言葉にはそのことを出さなかったと思う。ならば想いか。言葉の節々にその時の自分の感情が混ざり、男はそれを感じたのかもしれない。
「後にも先にも、鳥が悲しそうに感じられたと言ったのはその男だけでしたが、私の中で赤い鳥に対する想いは深くなりました。鳥は悲しんでいる。なぜ? 島に留まる理由がそこにあるのだろうか? 島に訪れ、直接話ができればそれが分かるのだろうか?」
気付くと鳳郎は、相崎の話に真剣に耳を傾けていた。この百年間、自分を他人に評価してもらったことなどない。ただただ孤独に島に居て、人間達と戦う毎日だった。そんな鳳郎にとって、他人と会話をするのがなぜか重要なことに思えたのだ。
「島に行きたいと思いました。しかし私にはまだ守るものが多すぎた。私を頼ってくる弟子達、私の身を案じてくれる友人達、私をしたってくれる者たちも大勢いるのです。なので、なかなか島に来ることはできませんでした」
敵意を持たないものに対しては大人しくなったらしいという話も、絶対ではない。現に昔は近づく者には容赦なく攻撃していたのだ。
そんな鳥の住む島に上陸して、しかも話がしたいなどというのは非常に危険と言える。己の鳥に対する想いを満たすためだけに上陸するのをためらうのは当たり前だろう。
「しかし見ての通り、私はこのように歳をとり、守るものは少なくなりました。私の開いた修行場も、すべて弟子に引き継ぎ、親しくしていた者達には別れのあいさつを済ませてきております。後は死を待つのみの身となった私です、灼熱の炎に焼かれて殺される覚悟はできています。死の間際、あなたの話を少しでも聞かせてもらえれば。死後の世界に持っていく土産には十分すぎるでしょう」
覚悟。鳳郎は、目の前の人間からかつてない強い覚悟を感じた。相崎は、身の回りのすべてを片付け、殺されるかもしれないことを分かった上で、たった一人でこの島にやってきている。それも、たかが鳥一羽の話を聞きたいがためだけに……。
「姿を見せてください! 幼いことから最も身近で、最も遠い存在だったあなたの姿を!」
空を飛べば後ろ指をさされ、声をあげれば不気味だと罵られた自分の姿。百年経ってもいまだに癒えることのない心の傷。
それを今……鳳郎は乗り越える……。
「なんと立派な……」
相崎は思わず感嘆の声を漏らした。
鳳郎は力強く羽ばたき、相崎から良く見える木の枝にとまった。太陽の光を受けて、鮮やかに映える赤い羽根。翼を広げ、尾羽や冠羽を揺らしながら大空を飛ぶ姿を見れば、誰もそれを醜いなどと罵ることはないだろう。
「特に面白みもない長い話だ。しかし、私にとってはとても重要な話だ。お前にとって意義のある話かは分からないが、付き合ってもらえるなら私はそれを嬉しく思う……」
鳳郎は目を細め、相崎にそう告げた。相崎は何も言わず、こくりと頷いた後身を正した。話を聞いてくれるということだろう。
「私が生まれたのはお前の国だ。あれは百年ほど前、その頃私は……」
淡々と、しかし思いを込めて鳳郎は語り始めた。生まれてから今までの生涯を、相崎はやはり何も言わず、それを静かに聞いていた。
* * *
「……これで、私の話はすべてだ」
鳳郎はすべてを話し終えた。百年の時間があるとは言っても、そのほとんどは復讐で埋め尽くされている。語る内容はそう多くない。太陽がすっかり傾く頃には、鳳郎の話は終わった。
相崎は話を聞き終わると、おもむろに自分の胸に手を伸ばし、首飾りを鳳郎に見せた。どうやら開くようになっており、中には人の絵が入っているらしかった。
「妻の絵だ」
相崎はそう言って鳳郎にかざしてきたので、鳳郎はその絵をしっかりと見た。まだ若く、とても美しい女性の絵が描かれていた。
「美しい女性だ」
鳳郎が正直にそう口にすると、相崎は一度頷き、大切そうに胸にしまった。
「妻は数十年前に事故で亡くなってしまったたんです。まだ結婚したばかりでしてね、子供もいなかった。その後何度か見合いの話も来たがすべて断りました。私は生涯妻以外の女性を愛することはしなかったし、出来ませんでした」
鳳郎はそれを聞いて顔を伏せる。相崎も愛する者を突然奪われた経験があるのだ。
「墓は家のすぐ近くなんです。だからよく花を持っていきます。そして墓の前に立つたびに、涙が溢れそうになるんです。だから……私はあなたの気持ちが良く分かる……」
相崎はそう言って、一筋に涙を零した。
「ありがとう!」
しかし、すぐに顔をあげて鳳郎を見た。その顔は穏やかだったので、鳳郎は相崎の中で愛する人を失った話は、過去の物になりつつあるのだと感じた。
「私の話が、何かの役に立てたのなら幸いだ」
これで相崎の要件は終わっただろう。自分は語るべきことはすべて語ったのだから……。鳳郎はまた永遠の生をこの島でひたすら過ごすことになる。
「赤い鳥よ、あなたは自分の罪から解き放たれたいとは思いませんか?」
相崎は突然そんなことを言い出した。
「どういう意味だ?」
「女神はあなたの不老不死は罰であると言ったのでしょう? 確かに私もそう思います。永遠に生き続けることが、幸せであるとは思えない。私が老人で、体のあちこちに不調が出て苦しんでいるからかもしれませんが……」
そうとも、不死は自分にとっては罰だ。死にたくとも死ねない。解放されたくとも解放されない。家族の……愛すべき者達の後を追いたくとも……追えないのだ……。
鳳郎にはそれが良く分かる。だがそれがどうしたというのだろう? 『罪から解放されたくはないか』とは?
「私には、優秀な力を持った弟子たちがたくさんおります。呪術師の力……それは祈祷、占い、呪い……そして封印です」
「封印……」
「祈祷は魔を払い、占いは未来を知り、呪いはある事象を起こします。そして封印は、何かしらの力を封じ込めることができる」
先ほど、漕いでもいないのに相崎が乗った船が海を進んでいたのも呪術の力だろう。そして封印は、力を封じ込めることができるという。
「私一人では神の罰を封じ込めることはできないでしょう。しかし、私の弟子達と力を合わせれば、あなたを解き放つことができるかもしれません」
鳳郎は、相崎が言わんとしていることを理解した。
「私を……殺すことができるというのだな……?」
相崎はこくりと頷く。
「危害を加えるつもりなどない。話を聞きに来ただけだという私が、こんな話をするのを疑うでしょう。ですが私の話に嘘はありません。あなたに危害を加えるつもりなど全くない。ですから強制はしません」
相崎は鳳郎の顔をまっすぐとみる。その顔は使命に燃えているようにも見えた。
「ですが、私は思うのです。あなたはこれ以上苦しむ必要があるのでしょうか? 家族の仇討をするために力を求めたら、それは罪だと言って理不尽に罰を与えられ、永遠に休むことができない。百年という時間のほとんどを、あなたは戦うことに費やしました。体に幾千幾万もの傷を付け、幾千幾万もの罵声をその耳で聞いた。あなたはもう十分苦しんだはずではありませんか? そろそろすべてから解放されてもいいはずです」
相崎が嘘を言っているとは思えない。演技ならあれほど感情のこもった言葉は言えないだろう。
それに、鳳郎は生に対して特に執着はない。そもそも死ねるものならとっくに死んでいたかもしれない。騙された上で殺されたところで、それがなんであろう? しかし……。
「私は墓を守らなくてはならない……」
家族の墓。これが今でも鳳郎をこの島に……この世界に繋ぎとめている。それを放棄することなどできるものか。
「……埋葬とは何でしょうか?」
「何……?」
相崎がまた話を変えた。
「私は妻を失った時、埋葬は死者のためにするのだと思いました。どのような生であったとしても、最低限生きた証として墓という形で残してやりたい。そう考えてするものだと思いました。しかし、歳をとるうちに別の側面もあるのではないかと考えるようになったのです。それは、残された生者のためです」
「生者のため……」
「死は悲しいものです。ですが悲しむのは死者ではなく生者です。墓に埋葬するというのは、もちろん死者に対してするという意味合いもあるでしょうが、生者を慰めてやるという意義もあるのではないでしょうか?」
鳳郎はそれが何となく理解できるような気がした。そうとも、凰子達は埋葬してくれなど一言も言わなかった。鳳郎がそうしたかったからしたのだ。それによって、幾分か自分の悲しみが紛れた気もする。
「別れはつらい。だが、墓に行けばまだそこに居る。声は聞こえずとも、姿は見えずとも、そこにいるという気持ちになる。生者はそれによって悲しみを紛らわせる。その時墓は、誰のためにあると言えるのでしょうか? 死者のためではない。生者のためです」
「……お前の言いたいことも分かる。だが、それでなんだというのだ?」
相崎は意を決したように口を開いた。
「あなたが死ななければ、あなたの家族も永遠に死ぬことができないのではありませんか?」
「なッ!?」
鳳郎は相崎の一言で衝撃を受けた。何か自分の中の心を見透かされたようなそんな衝撃を……。
「失礼なことを言いましたね……。気に障ったのなら謝ります。私がなにを言っても、あなたの生き死にを決める権利などありません。ですがもし……」
そう呟いて、相崎は懐から玉のようなものを取り出してその場に置いた。
「もし休みたいと思ったのならこの玉を割ってください。すぐに駆けつけて迎えに来ます。……ただ、私も長くはないと思いますので、決心されるならお早めに……」
相崎はそう言って一礼をしてから小舟に向かって歩き始めた。
「……待ってくれ!」
鳳郎はそう叫んで相崎を呼びとめた。
「……決心はついた。確かに私は家族のためと言いながら、自分のことしか考えていなかったのかもしれない……」
「では……」
鳳郎は目を瞑り、少し間を置いてから相崎に言った。
「私を、殺してくれ」