八話 (視点クィム)
周囲が暗くなり始めて、ようやく酒場 Humo Azul (ウーモ・アスール)が開いた。
ナサン殿に続いて中に足を踏み入れた瞬間、奥から中性的な歌声が流れてくる。
酒場に似つかわしくないほど澄んだ声だった。
――ロドリゴ殿の言っていた、歌姫。
あの声は、訓練や命令では決して生まれないものだった。
誰かに選ばれて与えられた立場ではなく、自分自身の力で立っている声。
劇団員から熱烈なスカウトを受けているという話も、誇張ではなさそうだ。
ステージに一番近い席へ向かおうとした、そのときだった。
ナサン殿に腕をつかまれ、静かに引き止められる。
「まだ店が開いてから時間が経ってない。店主に見つかったら、ガキの俺たちは追い返される」
そう言われて、ハッとする。
「人混みができるまで待て。まぎれて動いたほうが、楽だろ」
そう言われ、私たちは入口近くの陰に腰を下ろし、様子を見ることにした。
徐々に人が増えてきた。大声で話す男たち、酒の匂いとたばこのにおいが混ざり合い、燻した肉の強い匂いも分からくなるような空間だった。それでも、時折奥のステージで歌姫が歌えば客たちは静かになって綺麗な歌声に聞き入る。
「いつか、私たちもこのような場所を楽しむような日が来るんでしょうか?」ふと気になってナサン殿に聞いた。もし、大人になったら私はどんな立場にいるんだろうか……そんなことが不意に気になってしまった。
「さぁな……。ところで、劇団員らしいやつに気付いたか?」とナサン殿に返される。
「……ナサン殿は、気付いたんですか?」と声を潜めて聞くと、ステージ付近の席に目を向けたナサン殿は「あそこにいる女、あいつが多分劇団員だ。」
確かに男性ばかりの酒場で浮いているが、なぜ彼女を劇団員だと思ったんだろうかと不思議そうにしていると、ナサン殿はため息をついた。
「分かんないか?あの女の服はここの客の中でも特にきれいだ。」と言われて服を見比べてみると、確かに彼女の服はきれいでおしゃれな気がする。
「それに酒場なのに酒を飲んでない、肉じゃなくてナッツ類を食ってる。多分体型でも気にしてんだろ。だからたぶん、あの女がロドリゴの言ってた劇団員のバレエダンサー。」と小声で教えてくれる。
「しかし、私たちの席から離れてますよ?どうやって接触するんです?」と尋ねた。
「気付かないか?さっきから歌姫とやらにちらちら見られてる。」とめんどくさそうに頭を掻いた。「え?」そう言ってステージに目を向けたら歌姫とバチっと目があってしまった。「多分もう少したら、あいつからこっちに来るだろうから、何とかしてみるか。今下手に動いたら、真っ先に酒場から追い返されて劇団に近づくチャンスがなくなる。」とナサン殿は少し考えがあるようだった。私は、何を考えているかわからない彼の動きに少し警戒するしかなかった。
その瞬間、歌姫の歌が、ぴたりと止んだ。
静まり返った酒場で、彼女ははっきりとこちらを見た。その視線には、こちらを品定めしているような鋭さがあった。
「……来るぞ」
ナサン殿のその一言で、背筋が冷たくなった。




