四十八話 (視点クィム)
テントを飛び出していったナサン殿を追いかけると、レロフ・デ・スエニョスの洗い場にいた。頭から水でも被ったんだろうか、上半身はびしょ濡れで、今にも消えてしまいそうな雰囲気がある。正直、近寄りがたい。
意を決して「ナサン殿……。」と声をかけるとこちらを振り返ることなく「……その呼び方、やめろ。」と返ってくる。
「……いや、違う。その……」と口ごもるナサン殿にゆっくりと近寄った。
「風邪をひきます。戻りましょう?」と声をかけても、彼は動こうとしない。
私は隣に座って「では、ここにいます。」というと、ナサン殿は驚いた顔をする。
「……やめろよ、何も面白くもないだろ。」と言うナサン殿に「戻れと言われても戻りませんよ。」と構わずにただ座っていた。
しばらく黙って座っていた。
お互いに喋らず、遠くから聞こえる劇団員の練習の声に耳を澄ませていた。
「……俺さ。」と不意にナサン殿が口を開いた。
「……何にも言えなかった、じいさんに。」と俯いたままのナサン殿に「……はい。」と返事しかできなかった。
「だって、普通に元気だったんだ……。もしかしたら食い扶持に困る日が来るかも知れないとは思ってたよ……。
まさか魔法使いだなんて思ってなかった……。
じいさんにも考えがあったのかもしれない。いつだってじいさんは言葉が足りなかったし。
それでもちゃんと、俺と話す時間が欲しかった……。」ナサン殿はしゃがみ込んだ。
肩を震わせ、自分の服を固くつかんでいるナサン殿に「……普通の家庭のことも、壁の街のこともよくは知りませんが、私も……陛下と、父親と呼べる人と話せる時間が欲しい……。欲しいですよ……。」と気付けばそんなことを言っていた。
ナサン殿は目元を赤くしたままこちらを向いて「……王子様でも、そんなことを思うのか?」と言った。
「実を言うと……陛下と面と向かって話したのは、あれが二回目です。」と答えれば、ナサン殿はどこか拍子抜けした顔になる。
「……初めて話したのは、数年前……8歳のころの上流階級の子供たちが集まって……所謂デビュタント……というより、社交界の練習のような集まりです。
いうなれば、上流階級の子供のお披露目の場、といったところでしょうか。
大人たちはホールでお茶会をして、子供たちは庭園で遊んだり、話をしたりするんです。その会場に行く前に、陛下に呼び止められたのが初めての会話でした。」と話をすると、ナサン殿は俯いて「どんな話をしたんだよ、国王様と。」と呟いた。
「ただ一言……“王子として恥じぬ振る舞いを”と。」と、私は笑って答える。すると、ナサン殿は立ち上がって「……言葉が足りない親を持ったら、お互い苦労するよな。」と振り返った。
「……そうですね、全くです。」と私も立ち上がる。
「……皆さんが待っています。戻りましょう、ナサン殿……いえ、ナサン。」と二人でテントに向かって歩き出した。
夜風はまだ冷たかったが、不思議と先ほどよりは寒くはなかった。




