十六話 (視点クィム)
イグナシオ殿下は、各々がソファーや丸椅子に腰を下ろすのを待ってから、背もたれに身を預け、話し始めた。
「クィム第二王子殿下が言った通り、私は王弟……イグナシオ・ラミエル・ド・アレンカールとして長年生きてきた。
でも、もうその名は捨てた、だからイゴールと呼んでくれ。……その名は嫌いでね。」そう言って目を伏せた。
「じゃあ、イゴール……どうして急に居なくなるなんてこと……天使の名前があるってことは、その……」とナサン殿は隣で口ごもっている。多分、クィムと違って天使の名前を持つ正真正銘の王族なのに……とそう言いたいのもあるのだろう。
「……まあ、まずはそこだろうね。私は機械技師になりたかった……でもそれ以上に、貴族社会が嫌いだった。
朝から晩まで微笑みを貼り付け、それでも飽き足らず、腹の底では互いの首を値踏みする。
あの場所にいると、息の仕方さえ分からなくなる。」殿下がそう言った途端、ナサン殿は目を見開いて膝の上で硬く手を握り締めていた。
なぜ、そんなに簡単に——そう思っているんだろうと、予想はついた。ずっと壁の街で生きてきたナサン殿には、あの汚い世界は分からないのだから……いや、分からなくていい世界なのだ。
あんなものを知れば、人は二度と世界をまっすぐな目で見ることができなくなる。
「貴族社会は嘘と欲に塗れている。それを空っぽの言葉で塗り隠し、決して相手に本性を見せてはいけない……おまけに私もクィムも、“王族たるもの一切の本心を表情に出すな”そう言われて育つ、そんなものは——生きているとは言えない。だからクィムもあの街へ行ったのだろう。」そう言って殿下は私を見た。
私は首を振り「私があの街へ行ったのは、噂を聞いたからです。」と答える。すると殿下は顔を険しくした。
「ある天才機械技師が残したもの、それがあの街にあると聞き、急いで城を出ました。そこで偶然にも、その天才の弟子であるナサン殿に接触できました。
……バプタイズ・ラファエル・ド・バルボーザ。
聞き覚えがありますね?」
その名前に、ナサン殿は息を呑み、殿下はわずかに眉を動かした。ずっと不安そうな顔で話を聞いていたマルセラ殿とガブリエル殿も、驚いた表情を浮かべた。
「教えて下さい、何があって劇団長をしているのか。ロドリゴ殿とエンリケス殿から話は聞いています。あなたは、一体何を預かっているのですか?」そう詰め寄ると殿下は深くため息をついた。
「……先ほど言った通り、私は機械技師に憧れていた。だから、兄にも使用人にも隠れてバプタイズに会いに行っていた。
そこで知ったのは、バプタイズが帝国から来た大魔法使いであるということ、そして……彼の理念と、王族として生きるよりも遥かに重い覚悟だった。」




