逆光に呼ばれて
死ぬ理由は見つからなかったけれど、生きる理由もまた、どこにもなかった。
毎朝、同じ電車に乗り、同じ景色を眺め、同じ席を取り合う。
吊り革にぶら下がる広告には「夢を叶えよう」「輝く未来」と書かれている。
けれど、その文字を見ても心は一ミリも動かない。
会社のフロアに着けば、パソコンの画面が支配する世界。
メールを開けば叱責が並び、電話を取れば謝罪が並び、会議に出れば無意味な沈黙が並ぶ。
上司は怒鳴り、同僚は疲れた顔で笑い、僕もその輪に加わって「大丈夫です」と空っぽな声を吐く。
昼休みに食べるコンビニのパスタの味は、もう何年も変わらない。
夜になれば居酒屋で愚痴の応酬。
「この会社もうダメだよな」「転職したいよな」「けど俺たちにできるわけないし」──そんな会話を、ビールで流し込む。
笑い声と煙草の煙に包まれながら、みんな同じことを考えている。
逃げたい。でも、逃げられない。
終電に乗り込み、窓に映る自分の顔を見る。
そこにいるのは二十五歳の社会人のはずなのに、まるで知らない誰かのようだ。
覇気のない目。乾いた唇。クタクタに緩んだネクタイ。
「これが、大人になるってことなのか」と思った瞬間、吐き気に似た感覚が喉の奥にこみ上げる。
死にたいわけじゃない。
けれど、生きていたいわけでもない。
そんな曖昧な想いを抱えたまま、今日も帰宅した。
ワンルームの部屋。六畳の狭い空間。机の上にはコンビニ弁当の空き容器、ペットボトル、読みかけの本。
誰もいない空気が、重くのしかかる。
スマホを開けば、SNSには同級生たちの結婚や出産、昇進の報告が並んでいる。
眩しすぎて、直視できない。
ベッドに身を投げ出し、天井をぼんやりと見つめる。
頭の片隅に浮かぶのは、十年前の夏。
あの日、渡せなかった一通の手紙。
ただそれだけの些細な出来事が、いまもなお僕の胸を締めつけ続けている。
──彼女に言えなかった「好き」の一言。
なぜだろう。
就職活動の面接よりも、初めての仕事のプレゼンよりも、あの瞬間のほうがずっと怖かった。
封筒をポケットに忍ばせた手は、微かに震え、
呼吸さえもままならないほどに、心臓は激しく高鳴った。
そして結局、僕は一歩も踏み出せずに立ち尽くしていた。
彼女はその後、別の男子と笑いながら歩いていた。
僕が勇気を出せなかった代わりに、彼が彼女の手を取ったのだ。
その光景を見た瞬間、世界が崩れる音がした。
──あの日を境に、僕の時間は針を進めることをやめた。
***
深夜、気づけばマンションの屋上に立っていた。
眠れない夜、無意識のまま足を運んでいたらしい。
ドアを開けると、ひやりとした風がシャツにまとわりつく。
ネオンに染まる街の灯りは、きらびやかで、でもどこまでも遠かった。
あの中に僕の居場所があるとは、どうしても思えなかった。
柵に手をかける。
鉄の冷たさが、汗ばんだ掌をあっけなくはじき返す。
下を覗けば、道路は遠い光の帯となり、車たちは蟻の行列のように流れてゆく。
ここから落ちれば、すべてが終わるだろう。
仕事も、孤独も、悔恨も、そして、生きるということさえも。
その瞬間、視界が揺れた。
光が滲み、街の灯りが夕焼けに変わる。
目を焼くようなオレンジ色の逆光。
その中に、制服姿の彼女が立っていた。
風が頬を撫で、胸の奥に熱が灯る。
声をかけようと口を開いたが、その音は喉の奥で凍りつき、一歩も外へ出られない。
彼女は振り向かない。ただ逆光の中で、変わらぬ笑みを浮かべている。
十年前と同じ、あの日の放課後に僕を縫いつけるように。
私は思う。
どうしてあの時、一歩を踏み出せなかったんだろう。
どうして、ただ見送ることしかできなかったんだろう。
社会人になってから、手にしたものなどひとつもなかった。
ただ、こぼれ落ちていくものばかりが増えていった。
それでも胸の奥底にだけ、この痛みが残った。
奇妙なほど鮮明で、ひどく美しい痛みが。
その痛みは、呪いのように僕を生かし続け、いま、静かに死へと導こうとしている。
「……君に会いたかった」
かすれた声が夜に溶ける。
返事はない。
彼女はただ逆光の中に立ち、笑顔をこちらに向けない。
世界がゆっくりと揺れる。
屋上の風景と、夕焼けのグラウンドが重なり合う。
現実と記憶の境界が消えていく。
もう一歩。
その一歩を踏み出せば、彼女の隣にたどり着ける気がした。
──それが夢であっても、幻であっても。
歩みの先に救いがあるとは思えないのに、私は前へ進まずにはいられなかった。