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その祝福は恋を許さない

作者: ハムジン

1

春。

それは、花粉と睡魔と、新たな出会いへの少しばかりの期待の季節。


「いやマジで、昨日の配信見た? ラスボスの奥義、まじ理不尽だったって!」


「寝ろ。そんなに文句言うならさっさと寝ろ蓮。」


「寝てたら観れねーだろ! 人のロマンと布団の誘惑、どっちを取れってんだよ。」


くだらない会話。

春野蓮は、いつも通りの朝を、いつも通りの友人──藤井陽翔と過ごしていた。


教室の窓から差し込む朝の光。

二年生になっても、特に何かが変わるわけでもなくて、相変わらずの、少しだけ眠たい日常だった。


──キンコンカン。


チャイムが鳴る。


それが、「はじまり」の合図になるなんて、思ってもいなかった。


「おーい、席つけー。今日から転校生が来るからなー」


教室のドアがガラリと開き、担任の坂本先生が入ってきた。

そのすぐ後ろ。

一歩遅れて、足音も立てずに、彼女は現れた。


黒髪。

けれど陽に透けると、わずかに紫がかった光を帯びる、やわらかい髪。

均整の取れた顔立ち。澄んだ瞳。けれど、その表情は、どこか冷たい。


「紹介する。今日からこのクラスに入る綾瀬紗月さんだ。綾瀬、自己紹介頼む。」


彼女は一歩前に出た。


「綾瀬紗月です。よろしくお願いします。」


一礼。

それだけで、教室の空気が静まり返る。


不思議だった。

誰もが彼女を見ているのに、どこか近づけない空気があった。

美しいだけじゃない。彼女には、「何か」があった。言葉にできない、“決して触れてはいけないもの”のような。


蓮は、彼女を一目見た瞬間から心臓の高鳴りが止まなかった。

蓮は初めての出来事に戸惑いを感じながら、右前の席に座った彼女から目が離せなかった。


---


昼休み。

誰よりも目立つ転校生なのに、彼女は誰とも話さず、どこにも混じらず、まるで最初から世界と切り離された存在みたいだった。


蓮にはなぜだかその背中が、少しだけ寂しく見えた。


「──綾瀬さんって、何者なんだよ……」


彼女と、目が合った。

ほんの一瞬。

けれどその瞬間に、心臓の音が再び跳ねた。


“その日、世界は何も変わらないはずだった”


けれど──


僕は、あの時もう気づいていたのかもしれない。

彼女に恋をした瞬間、僕の世界は、変わり始めていたのだ。

教室がざわめく中、蓮は彼女のことが頭から離れないでいた。


---


放課後。偶然──いや、必然かのように──蓮は紗月と同じ屋上で出会う。


「春野くん、で合ってる? 朝からずっと、視線感じてたんだけど。」


「っ……あ、ごめん! いや、決してやましい意味じゃなくて、ただ……綾瀬さんが、気になって……その……」


「ああ、よかった。“当たっただけで頭痛が治った”とか言われたら、ちょっと困るから。」


「……は?」


紗月は肩をすくめて笑った。


「たまにあるんだよ。私って自分で言うのも何だけど、凄い幸運なの。その幸運が漏れてるのか、私に触れたりした人の体調が良くなったりすることがあるんだ。」


「それって、すごく……いいことなんじゃ?」


「うん、そうかもね。」


不意に彼女の目が、陰った気がした。


その時、蓮はまだ知らなかった。

その笑顔の裏に、どれほどの痛みが隠されているのか。

そして自分が、その痛みの中心に、踏み込んでしまうということも──


2

昼休みを知らせるチャイムが鳴ると同時に、教室にざわめきが戻ってきた。

食堂から漂うカレーの香りと、机を囲んで弁当を開く音。生徒たちの笑い声が、校舎のあちこちで反響している。


そんな中、窓際の席──綾瀬紗月は、静かにうつむいたまま教室の喧騒に溶け込むことができずにいた。


彼女が転校して来て、初対面の生徒たちに向かって自己紹介をしたときも、どこか淡々としていて、距離のある雰囲気だった。

何人かの生徒は彼女に声を掛けていたが、彼女

が壁を作り、拒絶しているように見えたのか、今では誰も彼女に話しかけることはない。


「なあ、蓮。パン買いに行こーぜ。」


そんな空気をよそに、藤井が蓮の机にどかっと腰を下ろす。

相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべながら、売店への遠征を提案してきた。


「いや、今日は弁当持ってきた。」

「えっ、まじで? 珍しいな!」


そんなやりとりにくすくす笑いながら、もう一人の少女が近づいてくる。

蓮の幼なじみ、日高さくら。明るい栗色の髪をポニーテールに結び、ぱっと咲いた花のような笑顔を向けてくる。


「蓮がお弁当作るなんて、明日雪降るんじゃない?」

「さくら、お前な……母さんが作ってくれたんだよ。」

「なーんだ、やっぱりお母さんか!」


さくらは冗談を言いながら、笑い声で場をなごませる天才だった。

明るくて、誰とでもすぐに打ち解けられる。そんな彼女は、ふと窓際の席に目を留める。


「……あの子、1人だね。」

「綾瀬さんだろ。ちょっと浮いてるよな。」

藤井が言う。


蓮も思わず紗月の方へ視線を向ける。彼女は机にシンプルな弁当を広げ、弁当を食べようとしていた。


さくらが小さく息を吐き、ふいに立ち上がる。

「ちょっと、声かけてくる。」

「え、おい……」


蓮が止める暇もなく、さくらは軽やかに紗月の席へ歩いていった。


「ねえ、綾瀬さん。よかったら一緒にお昼食べない?」

その声は教室のざわめきの中でもはっきりと響いた。


数人が一瞬そちらに目をやるが、すぐに関心を失ってそれぞれの話題に戻る。

しかし、紗月は驚いたように顔を上げた。


「……わたし?」

「うん。ひとりより、誰かと一緒のほうが、楽しいと思うよ?」

さくらは柔らかく笑う。その無邪気な明るさは、どこか太陽みたいだった。


紗月は戸惑いながらも、やがて小さくうなずいた。


「……ありがとう。でも、迷惑じゃない?」

「そんなわけないって!」


そうして、さくらに手を引かれるまま、紗月は蓮たちの席へと連れてこられる。


「紹介するね。こっちが春野、で、そっちが藤井。ふたりともアホだけど、いいやつだよ。」

「おい!」

「こら!」


蓮と藤井の抗議を受け流しながら、さくらは笑う。紗月は小さく会釈して、ぎこちなく蓮の隣の席に座った。


蓮の胸の奥が、ふわりと熱くなる。


「ねぇねぇ、綾瀬さんって、どこから来たの?」藤井が話しかける。

「……神奈川のほう。父の転勤で、こっちに。」

「そっかー。じゃあ、こっち来るの不安だった?」

「……うん。でも……」


紗月は少し間を置いて、そっとさくらの方を見た。

「優しい人がいて、よかった。」


さくらは照れたように笑う。


「でしょ~? わたし、けっこういいやつなんだよ?」


紗月は蓮にしか聞こえない声で

「ね、私、運がいいでしょ。」

と囁き、蓮は

「あぁ、そうだな。」

と答えた。


さくらは2人のやり取りに、若干の嫉妬を感じていた。

「なになに?何の話〜?」

「何でもないよ。」

蓮はぶっきらぼうに答える。


窓の外、春の空はどこまでも青く、どこか遠くで風が校舎の隙間を抜けていった。


3

教室の窓から差し込む午後の日差しが、少しずつ傾き始めるころ。

放課後のチャイムが鳴ると同時に、生徒たちは一斉に席を立ち、高校最後の大会に向け、部活動に向かう者もいれば、大学受験のため、塾に向かう者等それぞれが準備を始めた。


綾瀬紗月は、まだ鞄を手にしていないまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。

ここ数日、彼女の日常は静かに変わり始めていた。

特に――春野蓮、藤井陽翔、日高さくらの三人と昼を共にするようになってから、心のどこかで少しずつ何かが和らいでいた。


「紗月、帰ろう。」


そう声をかけたのは、さくらだった。

その隣には、鞄を肩にかけた蓮と藤井もいる。


「……うん。」

紗月は小さく頷き、鞄を取って彼らの輪に加わった。


こうして4人で帰るのも、もう何度目だろうか。

さくらの無邪気さが場を繋ぎ、藤井の軽妙なツッコミが空気を整える。

蓮はあまり多くを語らないが、いつも一歩後ろで周囲に目を配っているような存在だった。


そんな彼らのやりとりに紗月はまだ完全には馴染めていない。

けれど、心の奥のどこかで、ほんの少し――その輪の中にいることが嬉しいと感じていた。



「それでさ、あの英語の先生、昨日“グッジョブ!”って親指立ててたの、マジで笑ったんだけど」

藤井が軽口を叩くと、さくらが爆笑する。


「それ見たかった~! 蓮、見た?」

「うん。あれ、たぶん先生なりに褒めてたんじゃないか?」


そんなやりとりに、紗月はくすっと小さく笑った。

その笑みに気づいたさくらは嬉しそうに紗月の腕をそっと取る。


「ねえ紗月、今日どこか寄っていかない? アイスとか!」

「……うん、いいよ」

「やった!」


楽しげな空気が、夕暮れの通学路を照らしていた。


そのときだった。


「君たち可愛いねえ。そんな奴らじゃなくて俺らと遊ぼうよ。」


背後から聞こえた、チャラついた声。

四人が振り返ると、路地の影から現れたのは、数人の不良だった。


くわえタバコに、ダボついた服。

目つきの鋭いその男たちは、さくらと紗月に視線を固定していた。


「そんな奴らより、俺らと遊んだ方が楽しいって。」

「怖がらなくていいって、な?」


さくらの顔から一瞬にして笑みが消え、紗月はその場に立ちすくんだ。

藤井が一歩後ろに引きながらスマホを手に取り、さりげなく何かを操作し始める。蓮は紗月とさくらの前に立ち、腕を広げた。


「あんたらは関係ないだろ。どっか行けよ。」

「なんだお前、イキってんのか?」

「調子乗んなよガキが!」


男が蓮の胸ぐらを掴もうとしたその瞬間――


藤井の声が冷静に響く。

「GPSと位置情報付きで通報済み。あんたらの顔も録画してる。今から逃げても間に合わないかもな」


「……チッ!」


男たちは顔をしかめ、舌打ちしながらその場から去っていった。

その背中が完全に見えなくなるまで、四人はその場に立ち尽くしていた。



しばらくして、歩き出した帰り道。

何も言わずに歩く蓮に、紗月がそっと声をかけた。


「……さっきの、ありがとう。でも……」

彼女は少し迷ったあと、小さく言った。


「……私、前に言ったでしょ。運が良いって。

危ないこと起きそうになっても、結果的にはなにも起きないの。

だから……なんで、助けたのか分からなくて……」


蓮は足を止め、紗月に向き直る。


「……運が良いとか悪いとか、そんなの関係ないよ。友だちが危ない目にあってたら、助けるのが普通だろ。」


その言葉は、決して飾られていなかった。

まっすぐで、率直で、だからこそ――心に刺さった。


紗月の胸が、小さく跳ねたように痛んだ。

初めて聞くその“まっすぐさ”が、自分のなかの何かを揺らしたのだとすぐに分かった。


けれど、彼女はその感情に気づかないふりをした。


「……そう、ありがと。」

彼女は静かにそうだけ言い、先に歩き出した。


その後ろ姿を見て、蓮は何かを言いかけてやめる。


そして――

その一部始終を見ていたさくらは、立ち尽くしていた。


彼女の笑顔の裏側に、誰にも見せたことのない色が広がっていく。

まっすぐに、無意識に、紗月を見つめているその目。


(あんな目で……私のことを、見たことなんて、一度もなかった)


誰にも言えないその感情と共に、さくらは胸の奥がひりつくような痛みを感じていた。


4

季節は、ためらいなく夏へと突入した。


朝から蝉の鳴き声が耳にまとわりつき、制服の袖口にはうっすらと汗がにじむ。

教室には扇風機の音が虚しく響いているだけで、熱気を追い払うには心許ない。


そして、その教室の蓮の右前には、以前と変わらず、いや、以前よりも気になる存在になった彼女がいた。


綾瀬紗月。

誰にでも等しく丁寧に接する彼女。

だが、誰に対してもどこか一線を引いているような彼女。

あの日、彼女が発した言葉が、蓮の心のどこかでくすぶっていた。


──私は運が良いの。何か悪い事が起ころうとしても、結果的には何も起きない。

なのに、何故——。


彼女の瞳には何か深く、触れてはいけないものが宿っている気がした。

それでも蓮の視線は、彼女から離れることはなかった。


紗月は、あの日のことには一切触れてこなかった。

まるで初めから、何もなかったかのように。


「春野くん、今日の宿題、やってきた?」

「え? あ、うん。たぶん」


「“たぶん”じゃなくて、“やってきた”のか、“やってない”のか、はっきりしてくれる?」

「……やってきた、と思う。」


紗月はあきれたように、でもどこか楽しそうに笑った。



「ねえ蓮、明日さ、またみんなでゲーセン行こうよ。」

「また? この前も行ったじゃん。」

「だってあのぬいぐるみ、あと少しで取れそうだったんだもん!」

「その“あと少し”が3回続いてるんだけど。」


「今度こそ俺が取ってやるよ。」

藤井がさくらにアピールをする。

「お願い、あのぬいぐるみどうしても欲しいんだぁ。」


そのぬいぐるみは、蓮とさくらが幼い頃に一緒に良く見たアニメのキャラクターの物で、さくらにとって大事な思い出のキャラクターだった。



「くそ、なんで取れないんだよ。」

藤井はイライラしながら、再び100円玉を投入口に入れる。

「ねぇ、もう諦めたら?お金がもったいないよ。」

紗月が内心

(運の良い私が一緒に居ても取れないんだから、一生取れないかも)

なんて思いながら藤井に言う。

「でも、さくらがどうしても欲しいらしいからさ。」

「こんだけやって取れないんだから諦めるよ。ありがとね。」

「よし、じゃあ俺が最後に1回だけ挑戦しよう。」


蓮が100円玉を投入口に入れ、挑戦する。


「え、うそ、うそ、取れるんじゃない?」

「まじ?よし、このまま行け!」


あれだけ、掴んでは途中で落としてを繰り返してきたのが嘘かのように、しっかりと掴まれたぬいぐるみはそのまま景品口まで運ばれた。


「ほら、やるよ。」

蓮はぬいぐるみをさくらに差し出す。

「いいの?蓮のお金で取ったやつじゃん。」

「いいんだよ。これ、ガキの頃に一緒に良く見たアニメのキャラクターだろ?さくらあのキャラクター好きだったもんな。」

「え?覚えてたの?嬉しいなぁ。一生大事にするね!ありがとう!」

さくらは満面の笑みを蓮に向ける。

「一生って、大げさだなぁ。」


藤井はそんな2人の会話を、寂しげな表情で見ていた。

「藤井くんだって頑張ったんだよね。」

そんな藤井を見かねてか、紗月がさくらに注意するように言う。

「そうだよね、藤井もどうもありがとう!大事にするね!」


藤井に対しても笑顔を向けるさくら。

その笑顔を見ただけで、藤井は先ほどまでの寂しさ、そして、親友に対して抱いてはならない嫉妬心は吹っ飛び、努力が報われた気がした。



----

「高校最後の夏休みだ。大学を目指す奴らはしっかりと勉強して後悔のない夏休みにしろよ。」

担任の坂本先生の指導が終わり、いよいよ夏休みが始まる。


藤井は実家の酒屋を継ぐことになっており、さくらは、夢だった看護士を目指し、県内にある看護大学の校内選考をクリアし、12月の推薦試験を受けるだけだった。


紗月は県内の国立大学受験に向け、毎日塾に通い、勉強していた。

蓮もただ何となく大学には行きたいと思い、塾に通い、周りの雰囲気に圧倒されながら勉強をしていた。


連日のように一緒に遊んでいた4人だったが、流石にこの時期になると遊ぶという雰囲気ではなくなっていた。


そんなある日、花火大会が開催されることを知った蓮たちは、息抜きという名目で花火大会に行く約束をした。



花火大会の日。

最寄り駅の改札前で、蓮と藤井は連れ立って待っていた。

駅前には浴衣姿の人々が行き交い、どこか浮き立った空気が漂っていた。


「さすがに遅いな、女子チーム。」

「まぁ、色々準備があるんだろ。……って、来た。」


視線の先に、ふたりの人影が現れた。

淡い色合いの浴衣をまとった少女たち。


桜色の浴衣に髪をまとめた日高さくら。

藍色の市松模様をあしらった、涼しげな綾瀬紗月。


——風景が、一瞬だけ止まったように思えた。


蓮は紗月の浴衣姿に思わず息を飲んだ。


「な、な……」


言葉にならない声を呟く横で、藤井もまた、さくらから目を離せずにいた。


さくらはそんな二人の様子を見て、わざと拗ねたように口を尖らせた。


「ねぇ、何か言うことないの?」


「あ、えっと……めっちゃ似合ってる!」


蓮と藤井が同時に言い、さくらはくすっと笑った。


「よろしい。」


その笑みの裏側に、わずかな影が差していることに、誰も気づかなかった。


 


祭りの会場は、溢れる人波と色とりどりの屋台で賑わっていた。


金魚掬い、ヨーヨー釣り、りんご飴。

賑やかな音と匂いの中、4人は非日常の祭りの雰囲気を楽しんでいた。


だが、ふとした瞬間——


「……あれ? 紗月ちゃんは?」


さくらが不安そうな声をあげた。


「え? さっきまで隣にいたよな?」


辺りを見渡すが、その姿はどこにも見当たらない。


さくらの表情が見る見るうちに青ざめていく。


「どうしよう……紗月ちゃん、迷っちゃったのかな……」


「電話も繋がらないな……」


「大丈夫。俺、探してくる。」

「えっ? でも——」


「さくら、藤井。二人でここにいて。俺、一人の方が探しやすいから。」


そう言って、蓮は人混みの中へ駆け出していった。


紗月を見失ったことへの不安ではなく、彼女を探しに行く蓮の背中が、さくらの胸を強く締め付けた。



——迷いもなく、あの子のために走っていった。


さくらの胸の奥で、どうしようもなく黒い感情が芽を出し、熱を持っていた。


5

ざわめきの渦中で、蓮はひとり駆けていた。


祭りの喧噪は背後に遠ざかり、彼の足音だけが夜の地面に落ちていく。

紗月がいないと分かった瞬間、胸の奥がざらついた。

心配、という言葉では追いつかない、焦燥に似た感情。


——何でこんなに必死なんだろう。


自分でも分からなかった。

でも、体は迷うことなく動いていた。


視界の端に、屋台の明かりが切れる場所が見える。

その奥には、夜の闇に飲まれそうな石段と、ぽつんと佇む鳥居。


なぜか、そこだと思った。


理由はない。ただ、胸の奥に残ったかすかな温もりが、あの神社を指し示していた。


 


階段を登りきった先、古びた境内に、ひとつの人影があった。


 


風に揺れる髪。

夏草の匂いに溶け込むような浴衣姿。

その輪郭は、夕暮れに差す一筋の光のように、静かにそこにあった。


「……綾瀬」


呼びかけに、紗月が振り返る。


その顔には、少しだけ不安と、少しだけ安堵が混じっていた。


「春野くん……」


瞳が、ふっと緩んだ。


「ごめんね。いつの間にか、はぐれちゃって。皆を探したんだけど、見つからなくてさ。

何となくだけど、ここに来れば……誰か来てくれる気がしたんだ。……皆は?」


蓮は、乱れた呼吸を整えながら、わざと軽口を叩いた。


「しっかりしてそうで、意外と抜けてるよな、綾瀬って。」


「え……」


「まぁ、見つかって良かったよ。

皆で探して、また誰かが迷子になったら意味ないだろ?

だから俺が探す係で、藤井とさくらは、綾瀬が戻ってくるかもしれないから屋台のあたりで待ってもらってる。」


そう言いながらも、蓮の胸の内では別の音が鳴っていた。


——無事だった。

——笑ってくれた。


それだけで、心臓がひどくうるさく跳ねていた。


紗月は微笑んだまま、少しだけ蓮に近づいた。


そのとき、夜空を破るようにして、最初の花火が上がった。


ドン、と遠くで鳴る音が、空気を震わせる。

赤、青、紫、金色——音の余韻に続いて、色彩が夜空に咲いた。


2人は無言のまま、並んで空を見上げた。


 


境内から見える花火は、木々の間から覗くように咲いていた。

それは、喧噪から切り離された、特別な景色だった。


蓮は隣に立つ紗月を見た。


ふわりと風に揺れる髪。

打ち上げられた光がその横顔を照らし、輪郭が淡く浮かび上がる。


ただ見ているだけなのに、胸が締めつけられる。


——ああ、俺、綾瀬のことが好きなんだ。


ようやく、自分の中の気持ちに名前がついた瞬間だった。


 


一方、紗月もまた、花火を見上げながら、ひそやかに胸の鼓動を感じていた。


(……何で春野くんが探しに来てくれて嬉しいんだろ)


あの日、自分の言葉に迷わず返してくれた彼。

今夜もまた、迷うことなく自分を見つけてくれた彼。


(嬉しい……嬉しいけど)


胸が高鳴るのは、誰かと二人で花火を見るのが初めてだから。

緊張してるだけ。そう自分に言い聞かせる。


——これは恋なんかじゃない。

——私は恋をしちゃいけないんだから。


紗月は、心に掛けた鍵を少しだけ握り直した。


 


空に咲く花火の音が、しばし二人を包んでいた。


寄り添うにはまだ遠く、離れるにはもう遅い。

そんな微妙な距離を、夏の夜だけが静かに見守っていた。


6

人混みのざわめきが、花火大会の熱気と混ざり合っていた。


「さくら、藤井。二人でここにいて。俺、一人の方が探しやすいから。」


 蓮のその一言を聞いた瞬間、さくらの心は小さく軋んだ。

 気がつけば、蓮の背中が人混みの向こうへ消えていく。


「……行っちゃったね。」


 藤井が横でぽつりと呟いた。

 けれど、さくらはうなずきもせず、じっと蓮が消えていった方向を見つめたまま、何も言わなかった。


 なんで――蓮はあんなに必死だったんだろう。

 迷子になったのが私だったら、あんなふうに走ってくれたのかな――。


 胸にわきあがってくるこのもやもやは、何?

 さくらは自分の胸に手をあてる。


(……そっか、これって……)


 ようやく、はっきり言葉にできた。

 これが、嫉妬。

 そして、自分が――蓮のことを本気で好きだったんだと、今さらのように気づく。


 


「さくら、座ろっか。ずっと立ってるのも疲れるし。」


「あ、うん。そうだね……」


 藤井の言葉に促され、ベンチに腰かける。

 横に座った藤井は、どこか緊張しているようだった。


(藤井くん、優しいな……)


 さくらはそう思った。こんな時でも、自分のことを気遣ってくれる。でも、ただ優しいと思っただけで、胸の高鳴りは全く感じなかった。

 それは、自分の心が今ここにいないからだとわかっていた。


 


「花火、楽しみにしてたんだよな?」


「うん、楽しみ……だったよ」


 だった。過去形。さくら自身も、自分がそう言ってしまったことに少し驚いた。

 言葉の後ろに、見え隠れする本音を、藤井はどう感じただろうか。


 少し沈黙が落ちて、やがて、さくらがぽつりと口を開いた。


 


「ねぇ、藤井……。蓮ってさ、紗月のこと……好きなのかな。」


 そう言ったとき、自分の声が震えていることに気づいた。

 冗談っぽく言おうとしたのに、まるで――確かめるような、祈るような声音になっていた。


 


 藤井は少し驚いた顔をして、それから視線を宙にさまよわせた。


「……どうだろう。わからないけど、たぶん、うん。好きなんじゃないかな。」


「……そっか。」


「なぁ……俺……」


 藤井が何かを言おうとした、その瞬間、パァン――と、夜空に大きな花火が咲いた。

 見上げるさくらの瞳に、その花びらのような光が映る。


 けれど、彼女の心には何も咲いてはいなかった。

 むしろ、何かが静かにしぼんでいくようだった。


 


 一方の藤井は、さくらの横顔を見ていた。

 浴衣が似合っていた。頬に反射する花火の光さえ、まるで物語のワンシーンのように綺麗だった。


 けれどその瞳に、自分が映っていないことがわかっていた。


(……俺は、君の隣にいるのに)


 そう思っても、何も言えなかった。

 せめてこの夜くらいは、隣にいることを、許されたいと思った。


 


 空に咲いては散る花火が、どこか儚げに見えた。


7

夜空を染める花火の光が、間断なく弾けていた。


 神社の境内。石畳の上で、蓮と紗月は並んで座っていた。

 風が少し涼しくなって、浴衣の袖がそよいだ。


 


「皆の所に、戻らなくて大丈夫かな。」


 紗月がぽつりと口を開く。


「戻らなきゃだめだろ、普通は。でも、今はちょっとくらい……いいんじゃない?」


 そう言って、蓮は空を仰いだ。

 花火の光が、まるで誰かの記憶を照らし出すように、紗月の横顔を映し出す。


 


 ――綺麗だと思った。


 見とれるような美しさじゃない。もっと、ずっと静かで、どこか脆くて、だからこそ目が離せなかった。


 蓮の胸が、また音を立てて鳴った。


 自分は、この人のことが好きだ――

 あの時、転校して来て、顔を合わせた瞬間から。今では、それを疑いようもなく思っていた。


 


 一方の紗月も、蓮の視線に気づきながら、そっと目を逸らす。


(……だめだってば)


 何度もそう言い聞かせてきた。

 気持ちが生まれそうになるたびに、蓮の優しさに触れるたびに、自分を無理にでも引き戻してきた。


 けれど。


 あの時、迷子になった自分を探して、まっすぐに駆けてきた蓮の姿。

 自分がいるはずだと信じて、ここまで来てくれた、その真っ直ぐさ。


 心の奥で、小さな感情が芽吹いていた。


(嬉しかった……。でも、ダメ。私は恋をしちゃいけない……)


 そう、言い聞かせるように空を見上げる。


 


「綾瀬ってさ、強いよな」


「……え?」


「だってさ、普通だったら不安になるし、怖くなると思うのに、あんなふうに笑ってさ。俺だったら絶対パニックになってる。」


「……そんなことないよ。わたし、強くなんかない」


 紗月の言葉は、どこか遠くを見ていた。


「ただ――こういうの、慣れてるのかも。独りでいることとか。置いていかれることとか。」


 ぽつりと零れた言葉に、蓮は一瞬、胸を締めつけられるような思いがした。


「……それ、さ。もうやめようぜ」


「え?」


「これからは、そういうときは、俺が迎えに行くから。綾瀬がひとりでいても、絶対に見つけ出すから。」


 紗月は、返事をしなかった。


 ただ――

 唇をきゅっと噛んで、胸に何かを押し込めるようにして、静かに笑った。


 


 花火が終わり、やがて人波が緩やかになった。


「……戻ろっか。」


「うん。」


 紗月は立ち上がり、蓮と並んで神社の階段を降りていく。

 


 屋台通りへ戻ると、さくらと藤井がベンチに座って待っていた。

 さくらは紗月の姿を見るなり、ぱっと立ち上がった。


「紗月ちゃん! 大丈夫だった?」


「うん、ごめんね、迷惑かけて……」


「もう、心配したんだからね!」


 その声にはどこか安堵と、そして微かな棘が混ざっていた。


 


「よかった……ほんとに、よかった……」


 藤井も笑い、ほっとした顔をしていた。


 けれど、誰も言わなかった。

 さくらが蓮の視線を追っていたことも。

 紗月がそっと視線を逸らしたことも。


 


 4人は再び並んで歩き始める。

 祭りの夜が終わりを迎えるころ、それぞれの胸に灯った小さな火は、まだ誰にも知られず、そっと燃えていた。


8

花火大会の翌日からも、夏は続いていた。

照りつける日差し。セミの声。どこまでも青く広がる空。

――そして、会えば笑い合える、4人の時間。


だが、紗月の心の中では、ひとつの小さな音が鳴り続けていた。

“あの夜”、神社で蓮とふたりで見た花火。

その時に感じたあたたかな鼓動は、まだ胸の奥に残っている。


(…ちがう。あれはただ、初めて男の人と二人きりで花火を見たから。びっくりしただけ。)


そう自分に言い聞かせる。

認めてしまえば、すべてが終わってしまう。

なのに――。


「紗月、今日も塾?」


さくらの声が、現実に引き戻す。

いつものファストフード店。テーブルには、ポテトと紙コップが並んでいる。

夏休み中も、4人で時折集まってはこうして遊んでいた。

まるで“高校生の夏休み”そのものみたいに。


「うん。夏休みに追い込みかけたいんだ。」


「真面目だなー、綾瀬は。さくらなんて、推薦もらって遊び倒してるのに」


「ちょ、藤井、それバラすなー!」とさくらが笑いながら抗議する。

その様子を見て、蓮も「まぁ、さくららしいよな。」と苦笑する。


その笑顔が、眩しかった。


紗月は、自分がその笑顔を好きになってしまいそうで、怖かった。



---


夕方。駅前の自転車置き場。

塾に向かうため、紗月はひとりで帰ろうとしていた。

すると、背後から声がかかる。


「綾瀬、ちょっといいか?」


振り向くと、蓮が立っていた。

制服の襟はゆるく、髪が夕焼け色に染まっていた。


「この前の花火さ。…一緒に見れて、嬉しかった。」


「……うん。私も。」


言葉を返しながら、胸がまた、高鳴る。

ダメだ、と紗月は思う。こんな風に、気持ちを許しては。

自分が彼に恋をすれば――


だから、蓮が笑いかけてくるのが、怖い。

やさしくされるたびに、自分の弱さを知ってしまう。


「また、皆で遊ぼうな。夏休み、あと少しだけどさ。」


「……うん、そうだね。」


別れ際。

蓮が何気なく差し出した手を、紗月は一瞬だけ見つめて――結局、取らなかった。


代わりに、笑顔を返した。

それは“祝福された運命”が作り出す、完璧な笑顔だった。


でも、その奥で、彼女は確かに――泣きたくなるほど、揺れていた。


9

夏休みも終盤に差しかかった八月の午後。

強い陽射しと蝉の声が交差するなか、蓮たちは、地元の市民プールに集まっていた。


「いやー、夏って感じだな!」

藤井が声を張ると、さくらが「うるさい」と笑いながら軽く肩を叩く。

その隣には、日傘を閉じた紗月が、サンダル越しに熱を帯びた地面を見下ろしていた。


プールの水面は、光を受けて眩しく揺れている。

蓮は、肩まで水に浸かっている紗月を何気なく眺めていた。

透き通るような白い肌に、水滴が光っている。

心臓が、ひとつ跳ねる。


「綾瀬、泳げんのか?」

「ん、少しだけ。溺れたりはしないよ。」


紗月はそう言って、ぷかりと水に浮かんだ。

その姿はまるで、何かを背負いながらも、水の中だけは自由でいられるように見えた。


一方、藤井はさくらに水をかけようとして、盛大に反撃されていた。

笑い声は響くけれど、さくらの視線は時折、紗月と蓮のほうに向けられる。

目を細めているのは日差しのせいではなかった。


──私、こんなに分かりやすく嫉妬してる。

そんな自分に呆れながらも、感情は止まらない。

いつも隣にいた蓮が、ほんの少し遠くに見える。

その距離が、胸をきしませた。



プール帰り。

四人はコンビニに立ち寄ってアイスを買い、公園のベンチで涼を取っていた。

藤井とさくらが自販機のゴミ箱に向かうのを見送り、蓮と紗月がふたりきりになる。


「今日は楽しかったな。」

蓮が何気なく言うと、紗月が微笑む。


「うん。なんだか、普通の高校生って感じ。」

「……普通が一番だろ。」

「そうだね。」


しばしの沈黙。蝉の声が遠くでけたたましく鳴いている。


「なあ、綾瀬。」

「なに?」


蓮は一歩、口を開きかけた。だがその先の言葉が出てこない。

思いは確かにある。だが、それを形にしてしまえば、何かが壊れそうな気がしていた。


そんな彼の気配を察してか、紗月がゆっくりと口を開く。


「……ごめんね。私、誰かと付き合うとか、恋するとか、そういうの、しないって決めてるの。」


静かな声だった。

それは告白ではなく、拒絶でもなく、自らに課した祈りのような防衛線。


「え……なんで?」

「理由は……言えない。でも、そう決めての。」


蓮はそれ以上、言葉を重ねなかった。

けれど、紗月の声に微かな震えがあることに、彼は気づいていた。


**


その夜。

自宅のベッドに横たわりながら、紗月は天井を見つめていた。


──嬉しかった。蓮が優しかった。

でも、それ以上はダメ。私は誰かを好きになっちゃいけない。


祝福という名の加護。

どんな災厄も、彼女には届かない。

けれどその代償として、誰かに恋をすれば、その人はこの世界から「存在ごと消える」。


だから、どれだけ心が惹かれても、想いを育ててはいけない。


「……私は、大丈夫。」

誰にも届かないように、そっと呟いた。



翌日、さくらは塾の帰り道、スマホの画面を見つめたまま立ち止まっていた。


“今日、楽しかったね。また行こう”


蓮からのメッセージに、素直に「うん」と返せない自分がいた。


──やっぱり、蓮は紗月が好きなんだ。


自分だって気づいてる。もう、分かってる。

なら、どうする?


彼女は夜空を見上げ、息を吸い込んだ。


「……私だって、負けたくない。」


胸の奥に宿った“恋”は、もう戻らない。

そしてそれは、やがて誰かの運命を、大きく動かすことになる。


10

蝉の声はまだ鳴り止まなかいが、空の色がほんの少しだけ鈍色に傾き始めた頃、夏休みが明けた。


廊下を吹き抜ける風も、教室に流れ込む陽射しも、ほんの少しだけ角が取れているように感じる。それでも、受験を控えた三年生たちにとって、二学期は気の休まらない季節だった。


進路希望調査。模試。過去問。塾の講習スケジュール——


騒がしかった夏とは違う、張り詰めた空気が教室を満たしていた。


「おーい、蓮~、英語の小テストの範囲ってどこだったっけ?」


蓮は、藤井に声をかけられ、曖昧に笑って答える。その視線は無意識に、前方の席に座る一人の少女を追っていた。


綾瀬紗月。


夏の終わりに見た浴衣姿。神社での花火。夜空の下で見せた、あの儚げな笑顔——


思い出すたび、心臓が騒がしくなる。


けれど、二学期に入ってからの紗月は、どこかよそよそしかった。

話しかければ、笑顔は返ってくる。でも、それ以上は決して近づいてこない。


それは、優しい拒絶のように思えた。


「なぁ、蓮。最近、綾瀬さんと、どうなん?」


放課後のファミレス。4人で座ったソファ席。紗月がジュースのおかわりに行っている隙に、ジュースのストローをくるくる回しながら、藤井がそれとなく尋ねる。


「別に、どうってことないよ。」


蓮は苦笑して答えたが、その横顔には、わずかな迷いが浮かんでいた。


「ふーん……そうなんだ。」


さくらはジュースを一口飲んで、天井を仰いだ。その瞳の奥で、何かが少しずつ崩れかけていた。


夏休みが終わって、紗月はまた塾通いの日々に戻っていた。学校が終わると、真っ直ぐ駅に向かい、夕方には塾の教室に消えていく。


「今度の模試、判定が下がったら志望校変えろって言われるかも。」


そう言って、笑うように顔を伏せる紗月の声は、どこか他人事のようで、けれど確かに本音が滲んでいた。


——頑張ってるんだ。無理してるんだ。


蓮は、それが分かるから、どうにか力になりたいと思っていた。


でも、彼女はそれを拒む。


(どうしてなんだろう……)


「さくら、どうしたの? 元気ないじゃん。」


向かいに座る藤井が、心配そうに顔を覗き込む。さくらははっと我に返り、慌てて笑顔を作った。


「ううん、大丈夫! ちょっと疲れてるだけ〜。推薦の小論文、また課題出されちゃってさ〜」


「そっか。…頑張ってるもんな、さくらは。えらいよ。」


その藤井の言葉に、さくらの胸が、ほんの少しだけ痛んだ。


(私が本当に欲しいのは、蓮からの言葉なのに)


気づけば、紗月と蓮が並んでいる姿ばかりが、記憶の中に増えていた。あの花火の夜。神社へ走って行った蓮の背中。


ずっと一緒にいたのは、私の方だったのに。

静かな沈黙が、テーブルの上に落ちた。


ちょうどそのとき、店内のテレビに映っていたニュースで、どこかの花火大会の映像が流れた。空に咲く光の華。その明滅が、4人それぞれの胸の内を映すように照らしていた。


さくらは、答えなかった。


ただ、ジュースのストローをゆっくりと口元に運びながら、何かを噛みしめるように目を伏せた。


11

夕暮れの空に、うっすらと朱が滲んでいた。

塾帰りの紗月は、いつものように駅からの帰り道を歩きながら、ふと足を止める。


目の前にあるのは、小さな神社だった。

夏祭りの夜、蓮とふたりで花火を見上げたあの場所。


あの夜から、胸の奥がずっとざわついている。

鼓動が速くなったのは、あの夜の花火のせいじゃない。

——蓮のせいだ。


「私が、恋をしたら……その人は消えてしまうのに……」


誰にも聞こえない声でつぶやいて、境内の石段を見上げる。

神に祝福されて、悪いことが起こらなくなった。

雨の日には傘を忘れても晴れ間が差し、事故に巻き込まれそうになっても寸前で助かる。

周囲は「運が良いね。」と笑ってくれる。でも……


「代償は、重すぎるよ……」


“好き”になったかもしれない人のことを、失いたくない。

好きになったと認識したら、彼はこの世界からいなくなる。

そんなのは、耐えられない。


だから、私は——

好きにならなければいい。ただ、それだけの話。


そう自分に言い聞かせて、歩き出す。



---


翌朝。

学校の門をくぐった瞬間、蓮の声がした。


「お、綾瀬。早いな。」


「うん。でも、もう慣れたよ。春野くんは? 最近、朝早いよね。」


「塾で模試あるって言われて。そろそろ本気出さないとな。」


たわいない会話。

なのに、それだけで心臓が痛くなる。


——本当は、もっと話したい。もっと、近づきたい。

だけど、これ以上近づいたら、私はきっと、もう戻れない。


「じゃあ、またあとで。」


笑って、蓮よりも先に教室へと向かう。

振り返らなかったのは、自分の顔を見られたくなかったから。


蓮は立ち尽くしたまま、小さく息を吐いた。



---


放課後。

紗月が教室に忘れ物を取りに戻ると、さくらが窓際に立っていた。


「……あ、さくらちゃん。」


「ん。紗月は塾?」


「うん、これから。」


「そっか。頑張ってるんだね、えらいな。」


明るい声。でも、その目は笑っていなかった。


「ねえ、紗月って——」


さくらがふと視線を落とし、少し考えてから口を開いた。


「蓮のこと、どう思ってる?」


一瞬、心臓が跳ねる音がした気がした。

けれど紗月は、あくまで平静を装って笑う。


「……いい人だと思うよ。面倒見もいいし、優しいし。」


「そっか。——でも、それって“好き”とは違うのかな?」


その言葉には、どこか試すような、刺すような響きがあった。

しばらくの沈黙の後


「ううん。好きとは違うよ。」

「そっか。」


再びの沈黙の中、放課後の教室に風が通り抜けた。



---


帰り道、紗月はまた空を見上げた。

夏の濃さが少し薄れ、秋の気配が漂い始めていた。


「私は、まだ“恋”なんかしてない。」


自分にそう言い聞かせながら歩く。

けれど、今日の蓮の言葉も、声も、表情も——全部、胸に焼き付いて離れなかった。


“この距離を超えたら、もう戻れない”

だから、あと少しだけ。このままで。


心に鍵をかけるように、唇をきゅっと結んだ。


12

夏の終わりが近づいていた。

とはいえ、日中の暑さはまだ衰えず、セミの鳴き声と一緒にアスファルトの照り返しが容赦なく肌を焦がしてくる。


教室の窓から差し込む日差しのなか、蓮はぼんやりと黒板を見つめていた。

頭の中は授業の内容とは違うことばかりでいっぱいだった。


——あの夜のこと。

神社で見た紗月の、あの笑顔。

花火が照らした横顔と、「ありがとう」と笑ったときの声が、何度も頭の中をよぎる。


「蓮、ノート貸して。」


隣から声がかかって、蓮は我に返った。

振り返ると、さくらがいつものようににこやかに手を差し出している。


「ん。はい。」


さくらは受け取ったノートをめくりながら、ふと蓮の横顔を盗み見た。


……最近、蓮が上の空になることが増えた。

話しかけても返事が遅れたり、目を見て話さなくなったり。

理由なんて、分かりきっている。

蓮が見ているのは、自分じゃない。


放課後、さくらは藤井と校門を一緒に出た。

今日は偶然、蓮と紗月は塾の日で、そのまま駅へ向かった。

残されたふたりは、ゆるく続く商店街を歩く。


「……最近、蓮の様子が変わったなって思わない?」


さくらがぽつりとこぼす。

藤井は少しだけ視線を落とした。


「紗月ちゃんのこと、見てる時間が多くなったな。気づいてるよ、俺でも。」


「だよね。」


さくらは笑った。でもその笑顔は、どこか苦味が混ざっていた。


「……花火のときにさ、藤井に聞いたよね。蓮って紗月のこと好きなのかなって。あのときは、まだ“そうかも”って思ってただけだったけど……」


風に髪が揺れる。さくらは歩く足を止めて、空を見上げた。


「もう、分かってるの。きっと蓮は、紗月のことが好き。……あの子も、たぶん。」


そう言って、さくらはふっと笑った。


「なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのかな。全部分かってるのに、納得してるのに……なんか、やだよね、こういうの。」


藤井は返す言葉を探して、結局何も言えなかった。

ただ、となりを歩く彼女の横顔がいつもより遠く感じて、胸の奥に痛みが残った。



そのころ、蓮は駅前のコンビニで買ったペットボトルを片手に、塾へと向かっていた。

交差点の信号が青になり、歩き出そうとしたその瞬間。

斜め前から、紗月が同じように信号を渡ってくるのが見えた。


「……綾瀬!」


思わず声が出た。

紗月は気づき、少し驚いたように微笑む。


「春野くん、今日も塾?」


「うん。綾瀬も?」


「うん。……なんか、毎日だね。」


信号を渡り切ると、蓮は一瞬の迷いのあと、言った。


「途中まで、一緒に行こうか。」


「……うん。」


並んで歩く帰り道。

周囲の騒がしさとは裏腹に、ふたりの間にはどこか静かな空気が流れていた。


——君に、もっと近づきたい。

けれど、近づけば近づくほど、胸の奥で何かが警鐘を鳴らす。


紗月は自分の中で沸き上がる感情に、蓋をしようとしていた。

“これは、きっと勘違いだ。塾帰りの偶然。よくあること。”


でも。

こうして並んで歩いているだけで、胸が苦しいのはなぜだろう。

声をかけてくれただけで、嬉しかったのはなぜ?


それを恋と呼んでしまえば、すべてが壊れてしまう。


だから紗月は、何も言わなかった。

そして蓮も、何も聞かなかった。


——その沈黙のなかで、ふたりは少しずつ、確かに、惹かれあっていた。


13

それは、遠い夏の日の記憶だった。

 蝉の鳴き声が、耳を塞ぎたくなるほどにけたたましく響いていた。


 あの日、綾瀬紗月は、家族と訪れた観光地で迷子になった。

 いつの間にか手を離し、見知らぬ小道に入り込んでしまった幼い彼女は、不安でいっぱいだった。

 泣きたかった。でも、泣かなかった。泣いたところで、誰かが来てくれるとは限らないと、幼いながらに思ったからだ。


 細い山道を、どれくらい歩いただろう。

 やがて、木々の合間に見えてきたのは、古びた鳥居と、誰もいない小さな神社だった。

 風もないのに、鈴の音だけが涼やかに響いていた。


 紗月は引き寄せられるように、その境内に足を踏み入れた。


「ようこそ、迷い人の娘よ。」


 誰のものとも知れない声が、頭の中に直接響いた。

 怖くはなかった。むしろ、どこか懐かしくて、温かかった。


「君はこれから、大きな孤独を背負うだろう。だけど、それと引き換えに、君に祝福を与えよう。」

「君が歩む道に災いは訪れず、運は君の味方となる。」

「でも、ひとつだけ覚えていて。誰かを愛せば、その人は……世界から消える。」


 幼い紗月には、その言葉の意味はよく分からなかった。

 けれど、「怖くないよ。」「幸せになっていいんだよ。」と繰り返すその声に、首を縦に振ってしまった。

 小さな手が差し出されたような気がして、彼女はそっと、その空気に触れるように指を伸ばした。


 次の瞬間、世界はまばゆい光に包まれた。



「……あれは、夢なんかじゃない。」


 夏の夜、窓をわずかに開け放ち、遠くで鳴く虫の音に耳を澄ませながら、紗月は静かに思い出していた。


 ――なぜ、自分は大怪我をしないのか。

 ――なぜ、いつもタイミングよく助けが来るのか。

 ――なぜ、小学校の頃、好きになった男子が翌日から登校しなくなり、周りの子は初めからその子がいなかったかのように、存在そのものを忘れてしまったのか。


 すべてが、繋がっていた。

 祝福は、確かに彼女に与えられていた。けれど、それは同時に、代償としての呪いでもあった。


(私が愛してしまえば、その人が――)


 あの時、迷子になった花火大会の夜。

 真っ先に自分を探しに来てくれた春野蓮の姿。

 誰よりも自分を見つめてくれた、優しいまなざし。

 胸が苦しくて、怖くて、それでも、嬉しかった。


 でも、あの気持ちに名前をつけてはいけない。


「これは……恋なんかじゃない。認識をしなかったら、呪いは発動しない。」


 そう自分に言い聞かせながら、紗月は静かに目を閉じた。


 けれど、胸の奥が熱を帯びるように、鼓動だけは早くなっていた。


14

十一月。

校内には冷たい風が吹き込み、制服のブレザーの下にカーディガンを重ねる生徒が増えてきた。

屋上の芝生は色を失い、教室の窓から見える空も、どこか乾いている。


三年生の秋は、思っていたよりも静かだった。

推薦入試を受ける生徒はすでに校内選考を終え、あとは日を待つばかり。

さくらは看護学校への推薦が決まり、藤井も進学せずに家業を継ぐと宣言していた。


「蓮は?」

ある日の放課後、教室を出たところで藤井にそう聞かれて、蓮はちょっとだけ言葉に詰まった。


「まあ……塾、行ってるしな。一応、大学……かな。」


“なんとなく” という自分の曖昧な未来を、言葉で飾ることはできなかった。

紗月のように目指すものが明確なわけでも、さくらのように一直線でもない。

けれど、誰かと同じ場所に立っていたくて、蓮は塾に通い続けていた。


その日の帰り道。

塾の始まる時間まではまだ少しあって、蓮はひとりで中庭のベンチに座っていた。

そこに、教室からふらりと出てきた紗月が、目にとまった。


「珍しいね。春野くんがこんなとこにいるなんて。」


「たまたま。時間つぶし。」


そう言いながら、自然に並んで歩き出す。

誰に約束されたわけでもない時間なのに、それが不思議と、心地よかった。


西の空が赤く染まり、坂道に長い影が伸びていた。


ふと、蓮が口を開いた。


「綾瀬ってさ……好きな人とか、いるの?」


風が止まったような気がした。

それは、どこにでもあるような問いだったのに――なぜか、重たかった。


紗月は数秒、口を閉ざしたあと、柔らかく微笑んだ。


「いないよ。前にも言ったけど、そういうの、しないって決めてるの。」


声のトーンも、表情も、完璧だった。

だけど蓮は、どこか「正しすぎる」その答えに、ほんの少しだけ違和感を覚えていた。


「そっか。」


たったそれだけの返事で、会話は終わった。


けれど、紗月の胸の奥では、その問いと答えがずっと、こだまのように響いていた。


(なんであんな質問されたんだろう)

(なんで、私は――)


“いない”なんて、本当は嘘だった。

わかってる。自分の中には、もうとっくに「芽」のような気持ちが息づいていること。


ただ、その名前をつけた瞬間、すべてが壊れてしまう。

それが“恋”と認識した瞬間、何もかもを失うことになるから――


紗月は、自分の心を押し殺すことに慣れ始めていた。


ほんのひとつ。

ささやかな嘘。


それでも、それは確かに、心に小さな壁をつくった。


坂道の途中、蓮が手を振る。


「じゃあ、また明日。」


「うん。またね。」


笑顔を浮かべて応えたその瞬間、夕陽の光に紛れるように、紗月の指先が小さく震えていた。


風が冷たくなる季節。

心の奥に、あたたかいものが芽生えはじめていた。


けれど、それを守るために――

紗月は今日、たったひとつの嘘を、選んだ。


15

12月の風は、秋の名残をほんのわずかに残したまま、街を凍えさせていた。

赤や緑のイルミネーションが商店街を飾り、行き交う人々の足取りが少しだけ浮き立って見える。

冬の受験期。けれどその日だけは、ほんの少しだけ、勉強の手を止めてもいい気がした。


「じゃーん!どう?このツリー、いい感じに飾れたと思わない?」


放課後の教室で、さくらが嬉しそうに手を広げた。

黒板の前には小さなツリー。手作りのオーナメントと、100円ショップで買った電飾が瞬いている。


「うん、綺麗だな。すごいな、全部一人でやったのか?」


蓮はホチキス片手に机を並べながら、感心したように言った。

「ううん、準備手伝ってくれてるじゃん。……ありがとね。」


さくらは少しだけ照れたように笑った。

藤井も補助に来ていたが、途中で教室を離れて買い出しへ行ったため、今は蓮と二人きりだった。


けれど、さくらの胸の内には、喜びだけではない感情がゆっくりと広がっていた。


それでも、笑う。明るく、いつものように。

「このリボン、ちょっと斜めかな? ねえ、蓮、見てくれる?」


蓮は近づいてリボンを直しながら、柔らかく笑う。

「……よし、これで完璧だな。」


さくらはその横顔を見つめた。何も言えず、胸が少しだけ痛かった。



パーティ当日。

色とりどりの私服姿のクラスメイトたちが、飾られた教室に集まっていた。


「うわー、みんな本気出してるじゃん。」

「このケーキ、手作り? すごっ!」


蓮と紗月も、もちろん参加していた。

受験勉強の合間に少しだけ抜け出すことに、最初は紗月も迷っていた。

けれど、蓮の「たまには息抜きも大事だぞ。」の一言で、そっと頷いてしまったのだった。


「綾瀬、こっち座れよ。ほら、みんなで並んで食おう。」


藤井の声に応じて、4人が並んで机を囲む。

笑い声が重なるなかで、紗月は時折、蓮の横顔を意識してしまう。


さくらは、そんな二人をちらりと見て、静かにケーキにフォークを入れた。


「……寒い時に、甘いものって、なんか落ち着くよね。」

誰にともなくつぶやいた言葉は、誰にも返されなかった。



プレゼント交換の時間。

箱のなかに入ったカードを引いて、指定された番号の人のプレゼントをもらうというシンプルなルール。


蓮の手に渡ったのは、淡いピンク色の包装がされた小さな箱だった。


開けると、そこには香りのするハンドクリーム。

ふとその香りに覚えがあり、顔を上げると、紗月と目が合った。


「……あ、もしかして、それ、私の……」


「そっか。ありがとう。……なんか、嬉しいな。」


蓮は思わずそう言って、目を逸らした。

隣では紗月もまた、そっと手元のプレゼントの包みを開ける。

中にはシンプルなブックカバー。


「あ、それ俺のやつ!」


偶然にも蓮と紗月はそれぞれでプレゼント交換をすることとなった。


蓮は、二人でプレゼント交換出来たことに運命めいたものを感じた。


「なんで、そうなるかな……」


ぽつりとつぶやかれたさくらの言葉は、BGMと笑い声にかき消された。



帰り道。

空には星がにじみ、冬の静けさが街を包み込んでいた。


さくらは、ひとり、部屋に戻ってから、手にしたプレゼントの包装をゆっくりほどく。

中から出てきたのは、小さな手鏡だった。

裏には英語で書かれた短い言葉。


《You are enough.(あなたは、あなたでいい)》


思わず、ぽろりと涙がこぼれる。

蓮のものではなかった。けれど、誰かがそう伝えてくれた気がして、少しだけ救われた。


「……わたし、バカみたいだな。」


それでも、また笑えるようになれる気がした。


16

昼休みのチャイムが鳴ると同時に、さくらは鞄の中からスマートフォンを取り出し、画面を開いた。

視線は一点、固まったまま。数秒の沈黙。

そのあと、小さな声で息を呑む。


「……やった。」


心臓の鼓動がどくん、と跳ねた。


看護師を目指す彼女が挑んだ、推薦試験。

その合格通知が、今、画面に表示されていた。


思わず窓際のベンチに腰を下ろし、スマホを握りしめる。

指先が少し震えていた。


夢に向かう最初の扉が、静かに、確かに、開いた瞬間だった。



「えっ、マジで!? さくら、すごいじゃん!」


教室でその報告を受けた蓮が、驚いたように声を上げた。

藤井も「マジか! おめでとう!」と机を軽く叩いて喜ぶ。

紗月は静かに微笑みながら、「おめでとう、さくらちゃん。」と祝福の言葉をかけた。


「ありがとう。なんか、まだ実感ないんだけどね。」


はにかみながら言うさくらの目は、少し潤んでいた。

頑張ってきた時間のことが、一気に脳裏に甦る。


蓮がふと、優しく言った。


「ちゃんと自分の目標に向かって動けるの、すごいよ。尊敬する。」


それは素直な本音だった。

将来について具体的に考え、動いているさくらに比べ、自分はまだ、ぼんやりとした進学のイメージしかない。


藤井が笑いながら言った。


「いやー、さくらが看護士かぁ。俺、わざと怪我して、さくらがいる病院に行くかもしんねーわ。」


「バカ言わないの。ちゃんと元気でいてよ?」


一同が笑う。

そんな空気が、ただただ心地よかった。


藤井は思い立ったように声を上げた。


「なぁ、せっかくだから、週末にお祝いしようぜ!」


「賛成!」と蓮。

紗月も、うなずく。

「あ……うん。私も、行きたい。」

「皆ありがとう。蓮も紗月も受験控えてるのにごめんね。」

「良いんだよ。たまには息抜きもしたいしな。」


さくらはそんな蓮の気持ちがとても嬉しかった。


ファミレスのボックス席。

夕日がファミレスの窓を照らすなか、テーブルの上にはパフェやフライドポテト、チーズハンバーグが並ぶ。


「合格、おめでとう、さくら。」


「ありがと〜! ってことで、今日だけは遠慮なく食べまくるから!」


そんな明るい声に誘われ、三人も笑顔を見せた。


「なんか、こういうの久しぶりだよな。勉強とか、進路指導とかで最近集まれてなかったし。」


蓮がふと、そんなことを呟く。


「うん、そうだね。……でも、またこうやって集まれたの、嬉しい。」


紗月がそう言って、少しだけ顔を上げる。


「私さ、本当は受かると思ってなかったんだよ。面接も手応えなくて……でもね、推薦の条件クリアするために、ずっと我慢してたことがあって。遊びとか、バイトとか、あと、好きな人のことも……」


さくらの声がふっと小さくなった。


「え、好きな人?」


藤井が少し身を乗り出す。

さくらはハッとしたように笑って、「なんでもないっ」と慌ててパフェを口に運んだ。


でも、その言葉の後で、さくらの視線は無意識に――蓮の横顔へと向かっていた。

笑っている彼の顔の先には、また、紗月がいた。



帰り道。

冬の夜はもう冷たい。

制服のスカートの裾を風が揺らす。


蓮と紗月は、駅までの道をゆっくりと並んで歩いていた。


「さくら、すごいな。ちゃんと夢、叶えてて。」


「うん……そうだね。すごいと思う。」


「綾瀬は? なんか、やりたいこととか、ある?」


しばらく間を置いて、紗月は小さく答えた。


「私は……まだ、分からない。でも……何かにならなきゃ、って焦ってる。何にもなれないまま、大人になるのが……怖いんだ。」


その言葉に、蓮は何も言えなかった。


ただ、隣にいる彼女の手の甲が少し震えていることに気づいて、無言で歩幅を合わせた。


夜の街灯が二人の影を伸ばしていく。


その距離は、まだほんの少し、縮まりきらずにいた。


17

冷たい冬の空気が肌を刺すような朝だった。


一月、共通テスト当日。

街はまだ眠気を引きずっていたが、駅のホームには制服姿の高校生たちが次々と集まり、ざわざわとした緊張感が漂っていた。


紗月は一人、電車を待っていた。

白い吐息と共に、掌のカイロをぎゅっと握りしめる。


(大丈夫。何度も模試でやってきたし、ちゃんと準備はした。私は大丈夫。)


自分に言い聞かせるように心の中で呟く。

それでも、どこか不安で胸がざわついていた。


「……あれ、綾瀬?」


声をかけられて振り向くと、コートの下からマフラーをのぞかせた蓮が立っていた。


「春野くん……?」


「もしかして、同じ会場?」


「うん。駅からちょっと歩いたとこの大学だよね。」


「だな。偶然……いや、ラッキーだったかも。」


蓮は少し照れたように笑った。

紗月の胸が、ふわっとあたたかくなる。

だけど、それを表には出さずに、軽く笑い返すだけにした。


「そっか、じゃあ一緒に行こっか。時間もまだあるし。」


蓮の提案に、紗月は小さく頷いた。


電車に揺られながら、会場までの道をふたり並んで歩く。

言葉は少なく、それでも心はどこか穏やかだった。


「緊張してる?」と蓮が訊いた。


「ちょっとね。春野くんは?」


「してるよ、そりゃ。だけどさ。」


蓮は立ち止まり、紗月の方を向いて言った。


「大丈夫。綾瀬なら、きっとやれる。」


その言葉は、どこか根拠がなくて、それでも不思議と力を持っていた。

鼓動が少し速くなる。

紗月は視線を落としながら、「……ありがとう。」と小さく呟いた。


――こんなふうに、誰かに期待されるのって、あたし、あんまり慣れてないな。


試験時間中、紗月の頭の中に何度も蓮の声がよぎった。

「大丈夫。」

「綾瀬なら、きっとやれる。」


気がつけば、緊張が少しずつほどけていた。



---


夕方、試験を終えた学生たちが会場からぞろぞろと出てくる中、蓮が入り口の近くで待っていた。


「お疲れ。」


「うん、春野くんも。」


「どうだった?」


「うーん……まぁ、なんとか。多分。」


そんな言葉を交わしながら、ふたりで歩き出す。

駅へと続く道には、同じように疲れた表情の学生たちが歩いていた。


「終わったらさ」

蓮がふと立ち止まり、顔を向けた。


「またどこか行こう。……前みたいに、みんなでさ。」


その言葉に、紗月の心臓が跳ねた。


(だめ、またそういうの……)


「……うん」と言いたくて、でも言えなくて。


その代わりに、微笑んでごまかす。

「また計画しようか。」とだけ返した。


笑顔はできた。でも、胸の奥はずっと痛かった。


――蓮の声も、優しさも、全部あたしの心を甘やかしてくる。


けれど、その先には“好きになってはいけない”という境界線がある。


『誰かを好きになれば、その人は存在ごと消える』


あの神社で、幼い自分が交わした約束。

意味も知らずに、ただ頷いてしまったあの日のことが、今も影のように付きまとっていた。


普通の人生で良かったのに……。


でも――


(それでも、春野くんの声に救われた自分がいた)


紗月は、またひとつ自分の中の感情が増えていくのを感じていた。

それを恋と呼ばないように、必死で自分を誤魔化しながら。


18

二月も終わりに差しかかる頃。

澄みきった空気はまだ冬の匂いを残していたが、風の合間にふと感じるやわらかな温度に、春が近いことを思わせた。


その朝、紗月は静かに目を覚ました。

目覚ましよりも少し早く、心地よい緊張が胸を満たしていた。


今日は、第一志望の国立大学の試験の日。

小さな頃から目指していた道、その入口に立つための最後の関門だった。


朝食の味は、まるで記憶に残らない。

けれど、母が用意してくれた味噌汁の湯気のやさしさだけが、胸にじんと染みた。

「いってらっしゃい」と背中にかけられた言葉が、妙に温かくて、思わず「行ってきます」と返す声が震えそうになった。


駅までの道を歩きながら、紗月は数日前のことを思い出していた。


蓮はあのとき、変わらないまなざしで、こう言ってくれた。


――「綾瀬なら、大丈夫だよ。」


何気ないように見えて、あれは紗月の心の奥にまっすぐ届いた言葉だった。

心が折れそうになるたびに、その声が浮かんできた。

何度も、何度も。


駅のホームで立ち止まり、スマートフォンで時刻を確認する。

発車まであと五分。

白い息がふわりと空に消え、かじかむ手をコートのポケットに入れ、指先が少しだけ落ち着きを取り戻したとき――


「綾瀬!」


声がした。


振り向けば、階段を駆け上がってくる蓮の姿があった。

コートを羽織り、少しだけ息を切らしながら、まっすぐこっちを見ている。


「……春野くん?」


「よかった、間に合った。」


「どうしたの?」


「……最後に、頑張れって言いたくてさ。」


ぽかんとしていた紗月の胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。

受験の日の朝に、こんなふうに立ってくれる人がいる。

それだけで、十分すぎるくらいに心強かった。


「ありがとう。……嬉しい。」


「共通テスト、そこそこいけたんだろ?」


「うん、ボーダーは超えてた。だから、あとは今日……本番をしっかりやるだけ。」


「なら、きっと大丈夫だ。」


蓮は笑った。

それはこれまで何度も見てきた、あのやさしい笑顔だった。


「俺さ、共通テスト利用で受けてた大学、合格したよ。」


「えっ、本当?」


「うん。だから、たぶんそこに通うことにする。第一志望ってわけじゃなかったけど……なんか、悪くないなって思えたから。」


「春野くんが決めたなら、きっと正解だよ。……おめでとう。」


「ありがとな。」


二人のあいだを、電車の接近音が切り裂く。

やがて、ホームに滑り込んできた列車のドアが、控えめな音を立てて開く。


「じゃあ、行ってくるね。」


「……綾瀬」


蓮が、一歩だけ踏み出した。


「今日、すげぇ寒いからさ。これ、使って。」


そう言って、ポケットから自分のカイロを差し出す。

カイロの温かさと共に蓮の温かさも感じた気がした。


「……ありがとう。終わったら、また連絡するね。」


「待ってる。」


軽く手を振って、列車に乗り込んだ紗月は、窓越しに蓮の姿を見つけた。

遠ざかる景色の中で、彼が変わらずこちらを見ている。


(……ありがとう、春野くん)


小さなころ、神に“祝福”を受け取ったあの日。

その意味も重さも分からぬまま、それが正しいと思い込んでいた。

けれど、今――


たとえそれが恋だと気づいてはいけない関係だとしても。

紗月の中にあるこの温かさが、何よりの“願い”なのだと思っていた。


そして、ただ一つ。

春を迎えるこの日々が、ずっと続くようにと、少女はそっと祈るのだった。


19

三月の風が、街をゆっくりと春色に染め始めていた。

無事に卒業式を終え、蓮は大学の入学式を待つだけだった。

ただ、そんな事よりも、紗月の試験の結果が気になり、入学の準備どころではなかった。


蓮が目を覚ましたのは、日差しがすでにカーテンの隙間から部屋を照らし始めた頃だった。


スマートフォンの通知に、一件のMINE。

差出人は、綾瀬紗月。


──「受かってた。ありがとう、春野くん。」


短いそのメッセージに、蓮の胸が静かに熱くなる。


試験当日、駅のホームで別れたあのときの笑顔が、ふと蘇った。


---


合格の報せを聞いたさくらは、声を弾ませていた。


「良かったぁ〜〜〜! 本っ当に頑張ってたもん、紗月!」


「ありがとう……ほんとは不安だったけど、終わってみるとあっという間だったよ。」


いつものファミリーレストランで、ささやかな“祝賀会”が開かれていた。


藤井が「うちから祝い酒持ってこようか?」なんて言い出して笑いを誘いながらも、テーブルの上には花束とケーキ、そして高校最後の春を祝う空気が流れていた。


「春野くんも、合格おめでとう。大学生活、楽しくなるといいね。」


「いや、たぶん最初はオリエンテーションとか緊張して終わる気がするけどな……」


「蓮は絶対すぐ友だちできるって!」


と、さくらが無邪気に笑う。

けれど、その笑顔の裏にあるものに気づいていたのは、たぶん紗月だけだった。


(さくらちゃん……)


ケーキを分け合いながら笑う4人。

けれど、同じ輪の中にいるはずなのに、それぞれの気持ちは、そっと別の方向へと歩き出しているような――そんな感覚が、紗月の胸をかすめていた。



---


帰り道、藤井と紗月は途中で別れ、蓮とさくらのふたりが並んで歩いていた。


「ねえ、蓮。」


「ん?」


「……今日は、話したいことがあって。」


さくらは立ち止まった。

街灯の光が、彼女の表情を半分だけ照らしていた。


「ねぇ、ちょっとだけ……歩かない?」


促されるまま、二人は駅とは反対方向の、川沿いの道を歩き出す。

夜の空気は澄んでいて、星が少し滲んで見えた。


「ここ、懐かしいな。小学校のとき、よくここ通って帰ってたよね。」


「……うん。ランドセル、やたらでかく感じたな。」


そんな他愛もない会話が、やがて沈黙に変わる。


「蓮さ……覚えてる?」


「え?」


「“好きな人ができたら、ここで言い合おう”って、昔約束したじゃん。ゆびきりしてさ。」


蓮は少し驚いて、思い出すように空を仰ぐ。


「……ああ。そういえば、そんなこと言ったっけ。」


「言ったの。あたし、ちゃんと覚えてたよ。」


さくらは足を止め、欄干に手を置いた。

その手が、少し震えていた。


「なんかさ、ずっと分からないふりしてたんだ。蓮の視線の先に、誰がいるのかなんて、本当はとっくに分かってたのに。」


「さくら……」


「でもね、それでもいいやって思ってた。自分の気持ちに気づかないふりして、笑ってれば、ずっと一緒にいられるって思ってた。でも違った。あたしは、蓮のことが好きだったんだって、ちゃんと……ちゃんと気づいたの。」

「私ね、蓮のことが好き。」


蓮は言葉を失い、じっと彼女の横顔を見つめる。

頬に風が当たる。前髪が揺れる。

その目は、真っ直ぐに彼を見ていた。


「……答えは、今じゃなくていい。ううん、いらないかもしれない。あたし、ただ言いたかっただけ。」


さくらが笑った。その笑顔は、どこまでも優しかった。


けれど蓮は、彼女の気持ちから目をそらさなかった。


「……さくら。ごめん。俺、綾瀬のことが好きなんだ。」


ほんの一瞬、空気が止まった気がした。

けれど、さくらの顔に泣き顔はなかった。


「うん。うん、そっか。……知ってた。」


その言葉に、強がりは含まれていなかった。

受け止めた、という静かな覚悟だけが、そこにあった。


「ありがとね、蓮。教えてくれて。……ちゃんと、終わりにできそうな気がする。」


そう言って、彼女はポケットから手を出し、小指を伸ばす。


「約束、覚えててくれたごほうび。最後に、もう一回だけゆびきりしよ?」


蓮も笑って、小指を重ねる。


「じゃあ今度は、“それぞれ幸せになろう”って約束な。」


「うん、絶対ね。」


約束を交わした指先が、夜風にほどける。

さくらの背中は、少しだけ軽やかだった。


蓮はその背中を、黙って見送る。


胸の中には、さくらへの感謝と、そして紗月への想いが、ゆっくりと静かに広がっていた。



春が、すぐそこまで来ていた。

気づかないうちに咲き始めた梅の花が、ふたりの間に、柔らかく香っていた。


20

3月に入ったとはいえ、朝晩の空気にはまだ冬の名残があった。


駅前のロータリーで蓮は、スマホをちらりと確認してから空を見上げる。

曇りの予報だったが、昼には晴れるらしい。どこか、今日という日を後押ししてくれているような気がした。


「春野くん!」


声に振り向くと、そこには薄手のコートを羽織った紗月が立っていた。

白いマフラーが風に揺れ、彼女の頬をやさしく撫でている。


「ごめん、待った?」


「いや、今来たとこ。」


蓮は自然と笑みを返す。

これまで何度も交わしてきた挨拶。けれど、今日だけはほんの少し違っていた。



---


ショッピングモールの館内は春休みらしい賑わいを見せていた。

親子連れで買い物を楽しんでいる家族もいれば、大学生らしきカップルの姿も見える。


「このバッグ、大学用にいいかな?」


「軽いし、丈夫そうだし……紗月らしいと思う。」


「どういう意味それ?」


「んー。シンプルで、でもちょっとおしゃれ。中身ちゃんとしてそうな感じ?」


紗月は少し笑って、「フォローになってる?」と問い返す。


文房具、ノート、定期入れ……。

実用品ばかりだけど、それらを選ぶ時間が妙に愛おしかった。ふたりして進学する、そんな未来が確かにやってくるのだという実感が、静かに胸に広がっていく。



---


午後。カフェでふたりは向かい合って座っていた。


「春って、少しさみしくなるよね」


ふと、紗月がそうつぶやいた。


「別れがあるから?」


「うん。終わっちゃうから、かな。高校って、思ってたより……ちゃんと楽しかったから。」


「俺も。……今が一番、そう思う。」


蓮はそう言いながら、スプーンでカップの中のアイスを軽くすくった。


「最初のころ、あんまり周りと喋らなかったよね。綾瀬。」


「うん。人と関わるの、ちょっと怖かったの。……でも、さくらちゃんが声かけてくれたから。」


「……そっか。」


それ以上、何か言葉を重ねるとこぼれてしまいそうで、ふたりはしばらくカフェのBGMに耳を傾けていた。



---


日が傾き始める頃、ふたりは川沿いの道を歩いていた。


風は冷たいのに、手をポケットに入れる気にはなれなかった。


桜並木の枝先には、うっすらと蕾が膨らみ始めている。

本格的に咲くのは、あと一、二週間後だろうか。


「なあ、綾瀬。」


蓮が立ち止まり、ゆっくりと紗月の方を向く。


彼女も歩みを止めた。


「……どうしたの?」


夕日がふたりの影を長く伸ばしている。


蓮は一度だけ深呼吸し、それから真正面から彼女を見つめた。


「俺……おまえのことが、好きだ。」


言葉は、真っ直ぐだった。

どこにも嘘のない、蓮らしい不器用な告白。


風の音が通り過ぎる。


紗月の目が、少し揺れた。

それでも、逃げるようなことはしなかった。ただ、真っ直ぐに蓮を見返していた。


21

「……ごめん。」


沈黙を破ったのは、紗月の小さな声だった。


川沿いの静かな遊歩道。風が少しだけ強くなり、木々の枝を揺らす。

蓮の告白に対して、紗月は目を伏せたまま言葉を続けなかった。


「……そっか。」


蓮はそれだけを返し、少し顔を上げて紗月を見つめる。

その視線に、彼女は少しだけ肩をすくめた。


けれど、そこには決して拒絶や嫌悪の気配はなかった。

迷い、ためらい、そして――悲しみに似た何かがあった。


「でも、それ……」


蓮は言葉を飲み込むようにしてから、はっきりと問うた。


「……それって、“好きじゃない”から?」


紗月の瞳が、大きく見開かれる。


「曖昧な“ごめん”なんて、言ってほしくない。」


蓮の声は静かだった。だが、確かな強さがあった。

覚悟を持って、想いを伝えたからこそ、曖昧なままでは終われない――そんな意思があった。


紗月はしばらく沈黙したあと、小さく息を吸って口を開いた。


「……私、小さい頃に迷子になって、神社に迷い込んだことがあるの。」


ぽつりぽつりと語られる“祝福”と“呪い”の話。


迷い込んだ社で出会った“神さま”のこと。

『おまえに祝福を授けよう。けれど、代償として――誰かを愛せば、その人は存在ごと消えてしまう』という言葉。


「怖くて、よく分からないまま“はい”って言って……。でも、あとから知ったの。

小学校の頃、好きになった子が、本当に消えてしまったの。友だちも、先生も、“そんな人なんていなかった”って……」


紗月の声は震えていた。


「私が誰かを好きになったら、その人は“いなかったこと”になってしまう。

私の記憶にだけ残って、他の誰からも――全部、忘れられるの。」


「だから、誰のことも好きにならないようにしてきた。

でも……でも……」


紗月はそこまで言って、言葉を詰まらせた。


蓮は一歩近づく。


「だったら、俺がなんとかする。呪いなんて、祝福なんて、そんなもん……ぶっ壊してやるよ。」


「無理だよ!」


「無理かどうか、まだ決まってない。諦める理由になんかならない。」


蓮の言葉が強く響いた。


「俺は、おまえのことが好きだ。ずっと一緒にいたい。だから、教えてくれよ。

……紗月は、俺のこと、どう思ってるんだ?」


それは、逃げ道を与えない問いだった。

けれど、逃げる理由も、もう紗月の中には残っていなかった。


「……私も、蓮が好き。ずっと、ずっと……好きだった。」


紗月が顔を上げる。

その目には涙が浮かんでいたが、表情はどこか晴れやかだった。


蓮はそっと紗月の頬に触れ、顔を近づける。

紗月もゆっくりと目を閉じた。


ふたりの唇が、そっと重なる。


冷たい風が吹いていたはずなのに、その瞬間だけ世界が温かくなった気がした。

その日、確かに2人の想いは重なり合っていた。


---


翌朝。紗月は、スマホを開いた。


蓮とのメッセージ履歴が、なかった。


連絡先も――消えている。


家を飛び出し、蓮の家へ向かう。けれど、そこに春野の表札はあるものの、刻まれていた蓮の名前はなかった。

慌ててさくらや藤井に、MINEで蓮のことを尋ねるも返ってきた答えは、同じだった。


「春野蓮?誰?」


周囲の景色は、昨日と変わらないはずなのに――

そこにいるべき“春野蓮”だけが、まるで最初から存在しなかったように、世界から欠けていた。


「……嘘、でしょ。」


紗月の肩が震えた。

誰にも届かない想いとともに、朝の風が通り過ぎていった。


22

いつもの部屋。しかし、蓮は確かに、昨日までとは違う空気を感じていた。


「ふふっ……マジかよ。」


ベッドの上で、蓮はひとり呟いた。

頬がゆるみそうになるのを、必死に押しとどめる。


(紗月が、俺のこと……)


思い出すだけで胸が熱くなる。

あの唇の温もり、あの瞳に映った自分の姿。

先ほどの出来事は、間違いなく夢じゃなかった。


だが、蓮は思う。

このままでいいのか、と。


紗月の“呪い”の話。

誰かを愛すれば、その人は存在ごと世界から消えるという、あまりにも残酷な呪い。


自分は今、確かにここにいる。

けれど、彼女の心があの神に触れたままなら、自分は本当に消えてしまうのではないか――。


「……守らなきゃ。俺が、紗月を。」


そのまま、意識がふっと落ちた。

眠りに沈んだわけではない。ただ、吸い込まれるように――“どこか”へ。




気がつくと、蓮は真っ白な空間に立っていた。


音も匂いもない、ただ無の世界。

足元も空も、白に染まり、地平もなく、時間もない。


「……ここは?」


その声に応えるように、誰かが現れる。


小さな子ども。

歳は小学校低学年くらいだろうか。

半袖の白い服、無表情に見えるが、どこか達観した目をしていた。


そして、その背後には――“何か”がいた。


輪郭が曖昧な、人のようで人ではないもの。

存在しているのに、目を逸らさずにはいられない、禍々しさと神聖さが入り混じったような気配。


蓮は直感で悟った。


(こいつが紗月に、呪いをかけた神か。)



「君が、春野蓮だね。」


姿がはっきりとしない“神”が口を開く。

その声は、性別も感情も感じさせなかった。ただ、真実だけを淡々と語るような声音だった。


「君は、彼女に選ばれた人間。……だから、ここに来た。

彼女は、誰かを愛してはいけない存在だ。彼女が誰かを愛せば、その者は世界から消える。」


「知ってるよ。」


蓮は一歩、踏み出す。


「それでも、紗月は俺のことを好きだって言ってくれた。俺も、あいつを好きになった。

こんな不条理、見過ごせるわけがない。」


「それは、彼女に課された“代償”だ。

幸運を手に入れる者には、相応の重荷が伴う。世界の調和を保つためには、誰かの犠牲が必要だ。」


「――だったら、その呪い、俺に移せ。」


神の表情は変わらなかった。


「祝福はいらない。呪いだけでいい。

俺が代わりになる。あいつには、これ以上何も背負わせたくない。」


蓮は、拳を握りしめた。


「二度と紗月に会わないって、誓う。

だから……お願いだ。

――紗月を、自由にしてくれ。」


沈黙が満ちる。


やがて、“神”がゆっくりとうなずいた。


「……いいだろう。契約は成立した。」


その言葉と同時に、蓮の身体が眩い光に包まれていく。


「呪いは、おまえが背負うことになる。

おまえが誰かに恋をしたと認識した瞬間――その人物は“無”になるだろう。

彼女に会うことも許さない。」


「それで構わない。」


蓮は、目を閉じる。


「ありがとう。……さよなら、紗月。」


その最後の言葉が、空間に溶けていった。


次に目を開けたとき、彼は再び、自分の部屋のベッドの上にいた。

昨夜と同じ風景。

けれど、自分に呪いがかかったことを直感的に感じた。


そして彼は、何事もなかったかのように静かに立ち上がり、窓の外を見つめる。


春の陽射しが、ただ穏やかに降り注いでいた。


23

紗月は、それから一週間、誰にも会わず部屋に閉じこもっていた。


あの日、蓮と結ばれた。

ようやく手を伸ばしても届く距離に彼がいたのに、

翌朝目を覚ましたとき、すべてが崩れていた。


蓮が、消えていた。


誰も蓮の存在を知らなかった。

さくらも、藤井も、誰もかれも。

写真を見返しても、そこに写っていたはずの姿は消え、空白になっていた。


まるで最初から存在していなかったかのように。


(嘘、でしょ……)


頭では理解していた。

私が“そういう選択”をしたのだと。

それでも、心は追いつかなかった。


何も手につかず、気付けば一週間が過ぎていた。


その夜。

スマホの通知が震えた。


画面には――「春野蓮」の名前があった。


> ありがとう

元気でな




一瞬、息が止まった。

手が震える。


「……っ!」


紗月はすぐに電話をかける。

だが、応答はなかった。何度かけても同じ。


MINEにも、どれだけメッセージを送っても“既読”にはならなかった。


(どうして……どうして、連絡を送れたの?)


けれど、彼が残したたった一言に、

彼がまだこの世界のどこかで生きていることを、確かに感じた。


数日後、紗月はさくらに会った。


春の日差しの中、さくらと会うのはこれが最後かもしれないと思った。


「……蓮のことなんだけど。」


さくらが言った。


「蓮、大学行くの辞めたらしいよ。就職するんだって。」


「就職……?」


「うん。しかも、どこに勤めるかも教えてくれないの。

やけにあっさりしてて……でも、きっと何か理由があるんだろうなって。」


紗月は黙って、さくらの顔を見つめた。


(さくらちゃん……蓮のこと、覚えてるの?)


そう問いかけかけたが、やめた。


誰もが蓮のことを忘れてしまったはずのこの世界で、さくらが、蓮との時間を覚えている。


蓮が何かをしてくれたのだと思った。

その時ふと、自分の祝福と呪いが消えていることを、直感的に感じた。


そして、紗月の“祝福”と“呪い”を蓮が代わりに引き受けたんだろう、何故かそんな気がした。


(……ずるいよ)


でも、それが蓮だった。

最後まで優しくて、馬鹿で、まっすぐで。


だから、紗月はもう、涙を流さなかった。



――六十年後。


春の風に揺れる花々の中、ひとつの墓の前に、白髪の老女と、女の子が立っていた。


「おばあちゃん、だれのお墓なの?」


女の子が問いかける。


その声に、紗月はふっと笑って答えた。


「おじいちゃんには内緒よ。……私が、いちばん愛した人のお墓よ。」


そう言って、そっと手を合わせる。

孫娘は不思議そうに首を傾げながらも、真似して手を合わせる。


ふと、墓地の入り口から老夫婦が現れたのに気付く。

ややふっくらした男性と、面倒見の良さそうな女性。


「あら、さくらちゃんに藤井くん。」


声をかけたのは、日高さくら。

隣には、変わらぬ優しい笑顔の藤井がいた。


「ああ、来てたのね。蓮もあれから会う事なく死んじゃうんだもん。蓮らしいっちゃ蓮らしいか。」

さくらがどこか遠い目をして言う。


「……まったく、あいつも馬鹿なやつだ。紗月ちゃんを置いて消えたと思ったら、死んじゃうんだもんな。」


紗月は笑って答える。


「ふたりは、相変わらず仲良しね。」


「ふふ、まあね。結婚して、もう何年経つかなぁ……」


さくらは藤井の腕に軽く寄りかかった。


孫娘が小声で紗月に訊く。


「ねぇ、あの人たち、知り合い?」


紗月はうなずく。


「ええ。ふたりとも、私の大切な友だちよ。」



あの日、誰よりも愛した人と過ごした一瞬の春を、胸に抱き続けて生きてきた。

あの日から、蓮とは二度と会っていない。

けれど、自分の中にはずっと彼がいた。


孫娘の頭を撫でながら、紗月は言った。


「あなたにも、いつか愛する人ができますように。」


愛は、祝福か、呪いか。

それでも、人はきっと――誰かを好きになる。


春の光の中、花びらが風に舞っていた。

その風の中に、どこか懐かしいぬくもりを感じながら、綾瀬紗月は、そっと目を閉じた。

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