▼ 山篭り ▼
▼ 山篭り ▼
水月は猛烈な空腹を覚えていた。転落から三日目には普通の状態に戻っていたのだが、その間は沢で水を飲み、持って来た焼き米を食っただけだった。米も無くなったし、とにかく食料を確保しなければならない。沢には魚がいたが捕まえるすべがない。野兎や猪、狸や狐などの動物もいそうだが、これも捕まえる技術がなかった。とりあえず考えついたのは、カエルや蛇などの爬虫類である。これならたぶん手に入れるのは簡単だ。この三日の間にも沢を泳ぐ蛇を何匹か見ていたからだ。今は夏だから、木ノ実や栗、柿はないが、さがせば食べられそうな草はあるだろう。それよりも、まずは、見えている魚を捕れるようにしたかった。
水月は竹の密集する藪から、太さが半寸ほどで長さが一間弱の物を十本ほど切り出した。小刀で片方の先端を鋭く削る。手製の銛の完成である。沢沿いの岩の上に立つと五〜六寸くらいの黒っぽい魚が数匹泳いでいるのが見える。水月は竹製の銛を右手に持ち、それを耳の横に掲げるや否や、魚めがけて打ちこんだ。だが、何回やっても動きの速い魚には刺さらなかった。それどころか、じっと動かない魚にもかすりもしなかった。水月は半刻ほど試みると魚突きをあきらめた。まあ、毎日練習すればそのうちコツも掴めるだろう、そう考えてから次の作業を始める。
沢から少し離れた高いところに、雨を凌げる空間を作るのである。竹藪から細めの竹と笹を大量に切り出すと、三角の屋根を造ろうと、竹を適当な長さに切ってから持って来た麻紐で結わえていく。屋根の骨組みができあがると笹の枝葉を大量に被せて行く。しばらくして雨がしのげる畳み二枚ほどの空間が完成した。だが、雨が降れば周囲から雨が流れ込むだろう。水月は沢から人の頭ほどの石を拾ってきて回りに敷き詰めることにした。沢には適当な石が大量にある。満足のゆくものを完成させるまでは数日かかったが、その間に、樫の木の枝から、長さが四尺ほどで握りが刀の柄と同程度の木刀を二本作る。
火打石を持って来たおかげで火を炊くことにも成功した。燃えやすい枯れ枝は沢の周りに大量にある。水が出た時に流された木の枝が乾燥したものだ。水月は作ったネグラを中心にして生活と剣の修行を始めた。
生活の方はまず周囲の探索であり、どこにどのような草や果実があるかを見付けることである。数日をかけて、実を付けているイチジク、山桃、ザクロにビワを見つけ、これから収穫できる栗と柿と蜜柑の木を見つけた。それと、銛打ちと石投げの修行は毎日半刻ずつおこなったが、二ヶ月もすると日に何匹か魚を突き刺せるようになった。石投げも拳に収まるくらいの石であれば、十間[約二十米] 離れた距離ならば正確に当てることが可能になる。水月は、そのうち野兎のような小動物やときどき見かける雉などを狙ってみようと思っていた。
山の秋は食料が豊富にある。柿や栗は沢山実を付けたし、食べられそうなキノコも手に入った。キノコには毒のあるものがあり、水月は慎重に、よく見知っている確実に食べられるものしか口にしなかった。魚もとれだしたし、雉や見知らぬ山鳥も石礫を投げて手に入れることが可能になってきた。
ある日のこと十間ほど離れていた野兎を石礫でしとめた。水月は小刀で頭部を落とし、腹を裂いてから頭部と内蔵を沢に捨てると、火を熾した。火力が強まる前に裂いた腹の内側に、持ってきた塩を刷り込むと、魚を突くために作った竹槍に兎をさして、それを火に投げ込んだ。回りの毛が燃える嫌な匂いがしばらく続いたが、それからしばらくして香ばしい匂いが立ち上りはじめる。頃合いをみて水月はかぶりついた。
———— こんなうまいもん食えるなんて久しぶりじゃ、山での猟師暮らしもええかもなあ、桔梗がいっしょならば猟師もええな…… 、桔梗はうんと言うじゃろか? いや、だめじゃ、絶対だめじゃ ————
水月はそんな弱気を打ち払うかのように頭を振った。
水月の生活は食料確保から剣の修行へと割ける時間が増えていった。この頃は朝晩に木刀での立ち木打ちを三千回づつ、昼は沢の深みの上にある崖から、三間ほど下の沢に飛びこみながら木刀を振る稽古を続ける。水面に着くまでに十回振れるようにするのが目標だが、今は三回しか振れないし、水面に着くときには体のバランスが崩れていた。飛び込み練習が終わると、一刀斎先生の教えてくれた幾つかの型を思いだしながら、それらを数百回ずつ繰り返す。
なんとか修行を、この生活を続けられるような気がしたが、冬になったらどうだろうか。そんなことを考えながら最初の秋が過ぎて行った。
冬がやって来た時、水月は今のままでは冬を越せないことを痛感した。夏の身支度では厳しすぎる。彼は山を降りて、冬の装備を調達する決心をした。しかし、堂々と神子上村に帰ることはできない。彼は、桔梗の屋敷の裏にある弥助の小屋に、必要なものがあることを思い出していた。月明かりのない深夜に忍び込んで盗むしかない。それが結論だった。
水月が弥助の小屋に侵入した事はしばらくばれなかった。弥助が山に入って留守にしていたからである。弥助が戻った後で、何者かが物を盗んでいったことが解ると、何がなくなったのかを調べはじめた。その場には、弥助と桔梗、それに桔梗の兄である神子上兵部がいた。
「どうやら、一番大きな行李に荷物を詰めて持って行ったらしいですな。足袋や下着から厚物の着物に、狸の毛皮も無くなっとる」と弥助は衣服を入れていた籠を改める。
「衣服のほかに食料はどうじゃ?」
「へえ、たぶん、干し飯と味噌と塩、それに干し梅の坪が一個ないですじゃ」
「かなりの量じゃのう。賊は数名かのう?」
「そうかもしれんですが、強か男ならば一人でもできるかも……」
「犬もいたはずじゃが、なぜ鳴かんかったんかのう」
「水月よ、きっと。だから権太は鳴かなかったのよ」
桔梗がぽつりとつぶやいた。
「水月? この夏に行方知らずになったまま村にも戻ってこん、あの水月か? あいつは死んだとの噂もあるが」
「村のだれも水月を探しに行ってくれなかったからよ。水月は生きていたかもしれなかったのに」
「北条との戦があるかもしれんかったからじゃ。村んことは女子が口出しすることじゃなかぞ」
兵部は大きな声を出していたが、桔梗は反応せずに無言のままだった。
「弥助、ここには鎌や鉈、それに刀はあるのか?」
「へえ、もちろんありますが」
「よし、すべてそろっているか調べるんじゃ」
半刻ほど後に、小屋から刃渡り一尺の小刀と、手斧一丁、それに一番小さな鍬が無くなっていることが判明した。
水月はなんとか冬を乗り越えた。南房総一帯は降雪もなく比較的温暖であったから、それが味方したのは間違いなかった。そして、水月の体も精神も一冬越えることで獣のようになっていった。
朝夕の立ち木打ちの稽古は計八千回になり、滝に飛び込む修行でも、一瞬にして八回の木刀を振り回すことができるようになる。それも、半年前であれば水に飛び込む瞬間には体の平衡が崩れていたが、今はほぼ平衡を保っている。もう間もなく、水面ではなく水平な地面を相手に飛び降りる修行ができるだろう。そんな自分に満足しそうな水月であったが、不安はあった。
どんなに速く、そして正確に剣を振るえても、相手があればどうなのか? 相手が剣を手にしていれば俺の今の修行なんか役にたたないのではないか? とはいっても、たった一人の山修行であり、自分を信じてやるしかなかった。