▼ 善鬼 ▼
▼ 善鬼 ▼
翌日、典膳は朝日が登ると出発し、約束の刻限よりも半刻早く神子上村の外れにある古寺についた。すでに、一刀斎と善鬼は出立できる支度で待っていた。
「先生、一刀斎先生……、ただいま三石山より戻りました。お約束の小太刀『桔梗』を持ってきました」
典膳は少し息を切らして言った。両方の手で油紙に包まれた小太刀を掲げ、一刀斎の元へ歩み出る。
「おう、これよ、これ……、典膳、よう戻った。ごくろうであったな」
「はい」
「それで……、水月はどうした? 途中で斬り合いでもしてきたか? それにしては返り血も浴びとらんようじゃが」
「水月は死にました。三石山に二人で向う途中、沢のどん詰まりで急な崖を登っているときに足を滑らせて転落しました。あの高さからでは生きてはいないじゃろうと……」
「で、水月が死んだことは確かめたのか?」一刀斎の目がキラリと光る。
「いえ、してません。断崖が急で降りることができんかったもんで……」
「まあよい。ではお前を連れて行くことにするが、家のもんには伝えておるか?」
「はい、先生と修行に出ることを父に伝えております」
「では、ワシは寺の和尚に出発することを伝えてくる。典膳、お前を待っている女子が寺の山門にある銀杏におる。ワシと武者修業に出ることを告げてきてもよいが……」
そこまで言うと、一刀斎は後ろにいた善鬼を振り向き「善鬼……、よけいな気を使うと今度は許さんぞ」と鋭い眼光で言い放った。
「はい、心得ています。先生」と感情を伴わない、抑揚のない声が響く。
一刀斎が消えると典膳は銀杏の木まで駆けた。そこには桔梗が心配そうにたたずんでいた。
「典膳? よかったわ、無事に戻ったのね……、水月は、水月はどうしたの?」
「桔梗……、よく聞いとくれ。水月は……、水月は行方知れずになった」
「えっ、どうして……、何があったの?」
「水月は三石山まであとわずかのところで……、そこでワシ等は沢から尾根に向う急斜面を登ったんじゃが、そこで水月は足を滑らせて転落した。いくら呼びかけても答えが返ってこんかったから……、もしかしたら死んどるかも……」
「本当なの? 水月が死んだのを確かめたの? もしかして生きてるってことはないの?」
「判らんのじゃ」
「なら、なんで助けに行かなかったのよ。もしかしたら……」
桔梗の目がキラキラと光る。こぼれ落ちそうな涙を堪えているのだ。
「すまん。断崖を降りることはできんかったから、もしかすると生きていたかもしれん。じゃが、あの高さからじゃ……。それに……、もう前に進むことしかできんかった……」
「沢に戻って水月を見つけようとはしなかったのね」
「最初は沢に戻って助けに行こう思ったんじゃ。だが、どの沢に入ったのか判らんかったから、ここに戻って、村の皆で探しに行くほうがよいと思ったんじゃ」
「水月は……、水月は……わたしと……」
後は言葉にならなかった。桔梗は銀杏の木にもたれるようにして着物の裾で目をおさえながら、声を押し殺す様に泣いていた。
「桔梗、村の者に探しに行ってもらえ。今ならば、もしかしたら助かるかもしれん。じゃが、お前は探しに行かんほうがええ。もしも死んどったならば、水月の遺体は見んほうがええんじゃから……」
桔梗は返事をしなかった。
そのとき、背後に殺気を感じた典膳は後ろを振り返るなり、一間ほど飛び下がった。
「よう、仲良しのお二人さん。別れの挨拶はすんだんかい」
そこには善鬼が薄気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「典膳、貴様は、水月をどうやって殺してきたんだ? 血が着いとらんから斬り殺したんじゃないな。毒でも盛ったのか?」
「善鬼殿……、ワシは水月を殺しとらん。あいつは転落して死んだんじゃ」
「けっ、どっちでもいいんだよ。貴様、さっき先生が言ったことを覚えとるか?」
典膳は一刀斎が「よけいな気を使うな」と善鬼に言ったことを思い出した。
「先生が俺以外に弟子を持とうとしたのは、いままでにも何回かあった。だが、どいつもこいつも、すべて俺が斬り殺してやった。こうやって修行に出る日の朝に、みな俺に斬り殺されたんだ。貴様とその女も殺してやるけーのう……、ふふっ、女は殺す前に食ろうちゃるぜ」
「桔梗! 離れろ。そいつはワシがやる」
典膳は懐から刃渡り一尺あまりの短刀をだすと鞘から抜いて身構えた。善鬼は朱鞘の派手な刀を手にしていたが抜こうとはしていない。隙がある。今、飛ぶようにして襲いかかれば善鬼を刺せるかもしれない。そんな考えが典膳の頭を一瞬よぎった。いや、こいつはそれを待っている。たぶん、行けば抜き打ちで真っ二つにされるに違いない。典膳は身構えたままで動くことができなかった。
「貴様を殺して、その女をぼろぼろにしてやるのは簡単なんだぜ」善鬼は典膳にそう言うと桔梗の方を向く「おい、お前いい女じゃのう。俺がいままで犯してきた何十もの女と比べても一番に美しいのう。いつかお前を犯してやろうと思ってたんだが、まあええ、先生が今日はやめろと言うとったからな、今日はええ……、見逃してやる。だがな、女、お前は目障りだ。すぐに失せろ。じゃねえと……、俺は女が血を流すのを見るのが飯よりも好きだからなぁ、我慢できなくなるぜ。ひっひっひっ」
典膳は身構えたままで後ろの桔梗に言う。
「桔梗、走って逃げろ。大丈夫だ。ワシは一刀斎先生と、この化け物と一緒に修行の旅にでる」
「ふん、化け物か。貴様もいつか俺が切り刻んでやるけーな。先生がいるからっていい気んなるなよ。この糞が」
桔梗は古寺から村に続く下り路を走り去って行った。
「典膳! いつか村に戻って来てよ……。必ず、必ずよ」
声が去って行く。それが、桔梗との別れだった。
「あいつはいつか俺の女にして可愛がってやる」善鬼のつぶやきは典膳には聞こえなかった。
まもなく一刀斎が戻ると、彼は典膳に一振りの太刀を差し出した。
「住職が、お前の旅立ちへのはなむけじゃと、奉納されておった刀を渡してくれと頼まれてな。無銘じゃがよう切れそうな刀じゃ。大事にせいよ」
「はい、ありがたく頂きとうございます」
典膳は刃渡り二尺六寸の刀を腰にさす。善鬼はまた全ての感情を消し去ったかのように無言になっていた。奇妙な三人の師弟は神子上村を出立した。
善鬼が一刀斎に出会ったのは彼等が神子上村を出立した三年前であった。一刀斎は紀伊半島を廻国して武者修業をしていた。紀州には優れた武芸者が多かったからである。例えば、大和には柳生新陰流の柳生石舟斉があり、また武芸者に畏怖の念を抱かせた塚原ト伝は関東鹿島の出身であるが、なぜか彼の高弟はこの地方に多かったのである。
一刀斎は桑名から鈴鹿峠を越える脇街道を歩いていた。そこは主要な街道からはそれていたので人の行き来が少ない。彼はそのような人気の少ない道を好んで歩いた。いや、歩かざるを得なかった。すでに一刀斎の剣名は知れ渡っており、街道で武芸者に行き逢えば、無用な命のやり取りに発展する。彼はもう、売名目的で挑んでくる若輩の輩を切り伏せるのに飽きていた。
桑名から街道に入ってすぐに、女の悲鳴と下卑た男達の笑いが街道脇の雑木林から聞こえてきた。一刀斎の持つ生来の女好きは、女の悲鳴をやり過ごして先を急ぐようなことを許さなかった。林の中を走ると、すでに若い女が着物を脱がされて白い肌を曝している。一人の男が女を組み敷こうとしており、周りには二人の薄汚い男が立っていた。一人は野太刀を腰にさして槍のようなものを持ち、もう一人は鉈のようなものを持っている。観ると、そこから数間先には男の死体と荷物が散乱していた。
「楽しそうな悲鳴じゃなぁ」
一刀斎は五間ほど離れたところから声をかけた。
上半身が裸で、女を組み敷こうとしていた男は飛び起き、残りの二人は一刀斎のほうに向直る。
「なんじゃあ! 貴様は……、失せろ、失せろ」
野太刀を腰に差した男が大声で喚いた。
「ワシも女好きだから、見捨てて行くわけにはいかんな」
一刀斎には余裕があった。武器を持っているがたいした腕には見えなかったからだ。
「お前もこの女とやりたいんか? じゃがな、お前の出番はないんじゃ。さっさと消えねえと突き殺すぞ」
上半身裸の男が言う。
「しかたがない。おのしらの命日がやってきたようじゃな」
「おい、権蔵よ。こいつを突き殺せや」
野太刀の男が、上半身裸の男に槍のようなものを渡した。それは柄が一間半で先に一尺くらいの金物が付いていたが、それは三方に分かれていた。槍ではない、三つ又の銛である。それを見て一刀斎も荷物と瓶割刀、桔梗の二刀を置くと、もう一つ持ち歩いている二尺六寸の太刀を抜刀した。野太刀の男も抜刀し、他の一人も鉈を振りかぶる。森の中に鈍い純鉄の金属光が放たれた。男たちは間合いを取って左右に開いた。一刀斎は前方にいる銛を持つ男との距離を二間まで詰める。
銛を構えた男は目つきが豹変した。
うっ、こっ、これは……、この男はワシがいままで倒してきた剣の達人と寸分違わぬ目付きをしている。何故じゃ? 何がどうなってる。たいした腕前には見えなかったはずじゃが……。
「権蔵はなぁ、誰もかなわんほどの桑名一の銛突きなんだ。どんな魚も、鯨も、海豚も、カジキも仕留めそこなったことはねえ。あそこに転がっとる男も一突きだった」
一刀斎は横たわる男の死体をチラッと見た。
「善鬼、黙ってろ。集中せんとやられるぞ。こいつはそこに転がっている木偶の棒とはちがうぜ」
権蔵は静かに言った。銛先は一刀斎の胸板に固定されている。一刀斎は中段に構えたが、汗が流れ出るのを感じていた。これほど緊張することはいままでなかった。銛先と自分の胸板が見えない糸で結ばれている。一瞬の緩みで、または動いた瞬間にそれはワシの胸に突き刺さるに違いない。一刀斎は動けなかった。
動かずに勝つ方法は一つしか思い浮かばなかった。しかたがない、これでだめならここで死ぬだけだ。どうせ、生まれ育った大島を板切れ一枚で脱出したときからどこで死んでも悔いはないと思っていたはずだ。そう考えると一刀斎は少し楽になった。中段に構えた刀から右手を離す。そのせつな唸りを上げて銛が打ちこまれた。銛は一刀斎の胸には届かなかった。離した右手が飛んできた銛の柄を掴んだのである。と、ほぼ同時に左手一本の太刀は刀筋を権蔵の首に立てていた。濡れた藁を切るような低い篭った音と同時に、真っ赤な血柱がババッと立ちのぼる。流れた刃は右手にいた男の両手も襲い、鉈を持ったままの両腕は一瞬で切断されていた。その男は絶叫をあげて倒れこむ。一刀斎が向直ると、野太刀の男は刀を落として茫然としていた。男の脳天を唐竹割りにしようとしていた一刀斎の刀は止まった。
「おい、この銛の男に免じてお前の命は助けてやる。その二人を埋めてやれ」
一刀斎は刀の血を振り払うと、鞘におさめて女の元に行く。女は脱がされた着物を着ていたが、空ろな目で呆然と立ちすくんでいた。一刀斎と女が立ち去ろうとすると、地面に伏していた男が叫んだ。
「そこの武芸者……、俺を、俺をあんたの弟子にしてくれ。俺はもう二度と女を手篭めにしたりはせんから……」
一刀斎は無言で立ち去ろうとした。
「でなけりゃ、殺してくれ。あんたの一刀で俺の首を切り離してくれれば本望じゃ」
一刀斎は向直ると男に近づいて行く。油断はない、もしかすると男が刀を拾い上げて襲いかかるかもしれないからだ。だが、地に伏している男からは殺気を感じなかった。
「顔をゆっくり上げて、名をなのれ」
一刀斎は二間ほど離れたところから声をかける。万が一のために刀のこい口を切っていた。
「俺は、小野善鬼と言うもんじゃ」
「小野善鬼……、このあたりの郷士の倅か?」
「ああ、じゃがもう家を出てから五年くれえたつ。家を出てからは仲間と暮らしてきた」
「なぜ家を出た。親の仕事をなぜ手伝わん」
「おっかあは俺や弟を置いて首をくくって死んじまった。おとうは俺たちを捨ててどこかへ行っちまった」
「そうか。それで、今まで何をやって暮らしてきた?」
「猟師や、樵や百姓仕事の手伝い。それに合戦んときの乱破仕事なんかじゃ。暇んときにゃあ、追いはぎや人さらいもやった」
「女は手篭めにしてから、さらって売るのか?」
「そうじゃ、ええ金になるけえ」
「なぜ、俺の弟子になりたい? 武芸者の命は薄紙一枚より軽いぞ」
「あんたは信じられんほど強い。権蔵を倒せる奴はいないと思うとった。あいつはいままでも武芸者を何人も突き殺してきたからな。なあ、俺も、俺も強くなりたいんだ。頼む。弟子にしてくれ。必ず心を入れ替えるけえ」
「おぬし、丈は六尺はありそうじゃのう。いい体つきじゃ。目に力が篭っとるし度胸もよさそうじゃ。だがな。お前が女を見るときの目が気に入らん。その妖気はお前の剣を邪剣にしそうじゃからのう」
「ああ、そうか。なら、ええ、ええんじゃ。俺はここで死ぬ。お前らが行ったら、ここで首を切るからな。そして呪ってやる。お前等を呪い殺してやる……」
「まあ、早まるな、善鬼とやら。ひとつ試してやる。お前の周りに円を書くから、三日間そこから出ないで座禅をしろ。もしできたなら弟子にしてやる。いいな、何があってもそこから出るなよ」
善鬼はそれに耐えて、一刀斎の弟子になったと言われている。剣の腕は短期間で考えられないほど上達した。弟子になってから一年もすると一刀斎の代わりに武芸者と立ち会ったが不敗であった。だが、一刀斎の胸中に満足感はなかった。それよりも、なんとしてでも、もう一人弟子を見つけなければ、その不安な思いのほうが日々強まっていった。
そうして諸国を廻りながら、一刀斎は安房の地で神子上典膳に……、新たなる弟子に出会うのである。