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ト伝 vs 一刀斎  作者: 古河 渚
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▼ 決意 ▼

▼ 決意 ▼


 水月(すいげつは怪我をしていた。断崖から転落したとき、運良く沢の水量が比較的多い深みに落ちたので、致命的な怪我を負わずにすんだのだが、それでも底の岩に打ち付けられたせいで左足と左肩を負傷していた。深みから流されたときには激痛で声もでず、もうここで死ぬのかと思ったが、しばらく流された下流で運良く岸に揚げられると、そこで完全に意識がなくなった。彼にとって幸いだったのは、真夏で比較的天候が良かったこと、それと夕立がなかったことである。もし、少しでも沢が増水したら命はひとたまりもなかったにちがいない。標高が低く沢の水温が致命的になるほど低くなかったことも幸いした。


 水月が痛みで目を覚ましたとき、頭上に満月が輝いていた。月の位置からして深夜に違いない。水月は水から足を引き揚げると岸に寝転んだ。足や肩が痛んだが大怪我をしているようでもない。両手両足をゆっくりと動かしたが、意志にしたがって動かすことができる。彼は、今、何を持っているのかを確認したかった。ふところには刃渡り一尺あまりの短刀があり、背負っていた袋は無くなってはいなかった。そこには麻縄や火打石それに塩が入っているはずだ。それと桔梗がくれた御守りの石。這って水辺から少し離れると、そこで再び眠りに落ちた。


「水月、水月、何してるのよ? こんなところで」

「誰? ああ、桔梗か。俺を探しに来てきてくれたのか? 失敗したんだ。崖から落ちてしまったって訳さ。それで、ほら、こんなに濡れちまって、でも、沢の深みに落ちたから何とか助かったみたいだ」

「ねえ、典膳は?」

「典膳? ああ、あいつならたぶん山頂に着いたはずだよ。今頃は先生の小太刀を抱えての帰り道さ」

「水月、あなた悔しくないの。あんなに一刀斎先生に合えてよかったって言ってたじゃない。修行して誰よりも強くなりたいって」

「そうさ。でも先生は俺か典膳かどっちか一人しか連れて行けないって言ったのさ。いいじゃないか典膳で。俺はあいつと命を懸けて争うなんていやだったんだ」

「水月、いいの、それで? わたし嫌いよ……、嘘つきの水月なんか嫌い……」

「何故? なぜ嘘だって言うんだ、桔梗!」

「あなたが、あの夜に泣いていたのを忘れないもの。わたしの前で誓ったじゃない。俺は強くなる。典膳よりも絶対強くなるんだって誓ったじゃない。そして……、誰よりも強くなってわたしを迎えに来るって言ったじゃない。それまで待っていてくれって言ったじゃない。嘘つき、水月の嘘つき……」


 荒い呼吸で水月が目覚めたときは日が昇っていた。こんな谷底の沢にまで日が入るのだから、もうかなりの時刻であろう。体の痛みはかなり少なくなっていて、なんとか歩けそうだった。彼は夢を思い出しながら考えた。典膳はもう村に着いただろうか? ふと前方を見ると視線の先には水月の進入を拒み、彼を振り落とした断崖がそびえていた。  

 典膳が山を登って小太刀を手に入れた後で、もしかしたら、俺を探しに来てくれるのではないかと期待したのは確かである。だが、典膳は来なかった。このあたりには沢が多いから、どの沢だったのか解からなかったのかもしれない。でも、もういい、とにかく典膳は来なかったのだ。俺はどうすればいい。


 水月は沢まで降りて、流れから水をすくって一口飲んだ。冷たくて美味しいその水はとても綺麗に澄んでいる。たぶん、明日になれば沢を降りられるに違いない、でも、村に帰っても、一刀斎先生はいないだろう。それに、何よりも許せないのは、典膳が先生に付き従って出立していることだ。それを自分の目で確認することは我慢できないことだった。


 でも、村に帰れば桔梗が俺を待っていてくれる。そうしたら、あいつと所帯を持って猟師か百姓をやるのもいいんじゃないか。もう剣の修行とは、きっぱりと縁を切ってしまうのもいいじゃないか。心のどこかに、そんなことを語り掛けるもう一人の自分がいた。だが、水月は被りを振った。桔梗が、桔梗がこんな小さな弱い男を受け入れてくれるはずがない。あいつは、あいつは強い男が迎えに来るのを待ってるんだ。

「俺はこの山に篭る。獣のような修行を積んで、必ずや典膳と一刀斎先生を超えてみせる」

 水月は断崖に向って叫んでいた。

「俺は獣になって……、強くなって必ず桔梗を迎えに行くんじゃ」

 彼の声は密林の中に吸収されていった。



 水月が落下していくのを見送った後、典膳は断崖の中央で狼狽していた。さっきから何度となく『水月〜〜〜』と呼びかけるが反応は無かった。水月が足を踏み外した瞬間を見ていた。あの時自分は下から支えの棒を突き出したはずだ。でも、その腕に必死の力が込められていたのか? と問われれば何と返せばいいのだろう。必死だったに決まってる、と自答したが、もしかすると何処かで水月が落下するのを望んでいたような気もする。典膳はその考えを振り払うかのように何度も頭を振った。とにかく、この急斜面を支えの綱もなく降りることは不可能だ。斜度の臨界点を超えた斜面では、降りることは登るよりも危険だった。水月を助けるためには、とにかく自分が斜面の上部に出て、三石山頂から下山するための山道を降りて沢に戻るしかない。典膳は登る覚悟を決めた。


 断崖を登りきり、尾根スジに出ると木々の間から、大きな巨石を戴いた三石山の山頂が見えた。それほどの距離は無さそうに見える。つまり、沢を登れば着くだろうとの予測は正しかったのだ。

 典膳が尾根スジを半刻ほど行くと、山頂の巨石の下に木でできた粗末な木造小屋があり、中には修行僧らしき人物が一人いた。

「あの、ここは三石山の山頂に違いないじゃろか?」

「間違いないが……、して、そなたは胸突き八丁を越えて来たのか?」

「胸突き八丁? いや、そんなもんは知らねえです。ワシはここから少し行ったところにある沢から断崖を登ってきたんですから」

 修行僧は、そんな沢は知らないがと言って怪訝そうな顔をした。


「お坊様、この山頂にほこらがあると聞いたんですが、どこでしょうか?」

ほこら? ああ、確かにこの巨石には修行のためにいくつか横穴が掘られている。山頂付近にも横穴があり扉が付いておるのがあるが、そのことかのう? もし、それならば、巨石を登るためのつたがあるから、それを伝って登ればよい」

 典膳は礼を言うと小屋の外に出た。巨石に近づくと確かに太い蔦が一本下がっている。きっと石の上部のどこかに固定されているのだろう。強く引っ張っても、それはしっかりとしていて緩む気配はなかった。典膳は蔦を持ち、足を巨石に引っ掛けると、それを登り始める。強い腕力と握力が必要だったが、野生児である彼には造作も無いことだった。しばらくして巨石の上部に着いた。だが巨石は一つではなく、三つの石が融合してできたものだった。そこは畳み二帖くらいの平坦部で、前面には次の巨石の壁がそびえている。壁にはところどころに穴や石像が彫られていた。そこに観音開きの扉がついた比較的大きな横穴があった。

 扉を開くと全長が二尺くらいの細長い物が、油紙に厳重に包まれて横たわっていた。一刀斎先生の言っていた小太刀「桔梗」に違いない。典膳はそれを掴むと腰紐に差し、それから周りを見まわした。そこからは南房総の山々が深い緑に幾重にも連なっている姿が一望できる。尾根が幾層にも連なっている姿は、数限りない沢が蜘蛛の巣の網目模様ように張り巡らされていることを示唆していた。あのどこかに水月が落ちた沢もあるのだろう。だが、それが何処なのか、いや、どっちの方角なのかもまったく解からなかった。しばらく景色を見た後で、典膳は蔦を掴むと慎重に巨石を降りた。


 典膳は小太刀を左手に持つと小屋に戻り、中で座禅をする修行僧に尋ねる。

「お坊様、この山から降りるにはどうすればいいのでしょうか?」

「ああ、お前か。用事があったようじゃが、すみましたか?」

「ええ」

「そうか。それで降りる路じゃが、ここに繋がる道は三つあると聞いておる。先ほどワシがお前に尋ねた、胸突き八丁と呼ばれる急斜面を行く道だ、急斜面いうてもその場所は短いし、登り降りを容易にする蔦があるからそこを通るのが一番よい選択じゃろう。次には月ヶ峰と呼ばれる道があるらしいが、それが見つかるかどうかはわからん。その道は黄泉に繋がっとるとも言われておる。霧の深い日には迷い込む者があるというが、そうした者は戻らんとのことじゃから気をつけねばならん。だが、今日は良い天気じゃからその心配はないじゃろう。他にはここから元清澄山に繋がる尾根づたいのケモノ道があるらしいが、ワシは行ったことがないから詳しくはわからん。小屋の外の杉林を行くと二又にでるから、北に向えば胸突き八丁へ、南なら元清澄に向うケモノ道に出るじゃろう」

「ありがてえ、助かりましたお坊様」

「それで、お前は山を降りてからはどうするんじゃ」

「はい、安房の里見領に行きたいんじゃが」

「安房か、なら山を降りると川に出る。小櫃おびつ川じゃ。水の流れをみて上流に向え、川にそって道があるから歩くには苦労せんよ。途中で川が分かれたときは、太い方を選んで行けばよい。ずっと行けば清澄山を迂回して安房に出られるはずじゃ」

「親切にありがとうございます。たぶん、その川伝いの道でここまできたんで、行けばわかります」


 典膳は礼を言うと小屋を出て出立した。到着したときと同じ荷物袋を背負い、腰には小太刀をさしていた。薄暗い杉林を半刻ほど行くと、小道は切り立った斜面に出た。胸突き八丁と呼ばれる急斜面だと思ったが、そこは登ってきた急斜面よりは緩やかだったし、斜面に沿って太い蔦の枝が添えられていて、上り下りに便利なようになっていた。胸突き八丁の斜面を降り、さらに一刻半ほど歩くと小櫃川に出た。

 そこに着くまで、ずっと水月のことを考えていた。昨日の夜は二人でこの川沿いで野宿をした。日が昇るとまもなく出発したので、まだ、十分に日は高かった。二人が分け入った沢が判りさえすれば、水月を助けに行ける。水月を助けに行こう、そう決心して下山してきたのだが、それが簡単ではないことがすぐに解かった。小櫃川に注ぎ込む小さな沢がかなりの数あったからだ。川沿いに出て半刻ばかり歩いたが、すでに沢は四本ほどあり、どれも入り口は木々が鬱蒼うっそうと生い茂って似たように見える。考えても、どの沢に入っていったのかを思い出せなかった。


 四つの沢を全て探索すれば、明日に、いやもしかしたら明後日になってしまうかもしれない。それに、この四つ中のどれかであるとの保証もないから、完全な徒労に終わるかもしれないのだ。明日の朝には、一刀斎先生は小太刀『桔梗』を手にできなくとも出立するに違いない。典膳は心の内を決めると全ての思いを断ち切るかのように、真っ直ぐに前だけを向いて確かな足取りで歩きはじめた。


 水月は死んだんだ。あの高さから落ちて生きているはずがない。ワシの懸命な呼びかけにも一切反応しなかったじゃないか。明日、村に戻って皆に顛末を話した後で、村の連中で行きたい奴が探しに行けばよいのだ。

 小櫃川の源流に沿った道が川を離れ、左手に清澄山をのぞむ峠にさしかかってくると、日が山影に暮れようとしていた。西の空はまだ黄金色に輝いていたが、まもなく朱色から暗い紅色になり、やがて漆黒の闇に覆われるだろう。典膳はそこで野宿の準備をはじめた。明日は日の出と共に出発すれば、先生との約束の刻限に間に合うだろう。

 典膳は東の山裾に登った満月を見ながら眠りに入った。



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