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ト伝 vs 一刀斎  作者: 古河 渚
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▼ 神子上村(みこがみむら) ▼

神子上村みこがみむら


 南房総の山々は九十九山と呼ばれている。最高でも四百メートル程度でそれほど高い山はないが、三石山みついしやま山頂からは、全周囲に山々の尾根が延々と続いて途切れることが無い山海を見渡せる。そして標高が低いせいか、木々が鬱蒼と茂り、うかつに踏み入れば方角を見失うに違いなかった。

 決闘からさかのぼること四年前の夏,水月と典膳はその密林地帯を流れる沢にいた。水月が数えで二十一、典膳は二十二である。彼等は沢をさかのぼっていけば、比較的簡単に三石山の山頂に出られるに違いないと考えていた。


 水月と典膳の二人は、安房の神子上みこがみ村に産まれた。水月が産まれたのは元亀元年(一五七〇年)、戦国時代のまっただ中で織田信長が姉川で浅井長政と合戦をしていた頃である。典膳が一歳年上であったが、その村の住人はすべてが血縁で、近隣の者からは神子上一族と呼ばれていた。安房とは今の千葉県房総半島にあった国で、二人が産まれた頃には里見氏がその一帯を支配しており、神子上一族も里見家の有力な家臣であった。


 その夏、三石山の山頂を目指して沢を登る二人は、数日前の出来事を思い出していた。  


 水月と典膳は村はずれにある寺にいた。その年の春にこの地を訪れていた不世出の剣聖、伊藤一刀斎に呼び出されたのである。一刀斎は房総とはさほど遠くない伊豆大島の生まれで、伊豆、三浦、そして房総半島にも何人かの知己がおり、このときも生まれ故郷の友人、つまり神子上村にある古寺の住職に会いにきていた。しかし一刀斎の目的は旧交を温めるためではなく、自らの剣の途を引き継げる若者を探すためであった。


 一刀斎は住職を通じて、神子上村の若者で俊敏な者や暴れん坊を何名かを稽古してみたいと村主に願い出て、二人の若者を、つまり典膳と水月を数ヶ月前から鍛えていたのである。

「お主ら二人はこの数ヶ月、ワシの稽古に耐えてよう修行した。したが、そろそろワシはこの地を発とう思うとる。今、いろいろと尋ね歩いとるのは、ワシの剣の妙態みょうていを引き継げる弟子を探しとるからじゃ……。そこで、お主らに問うが、ワシに付いて諸国を回る気はあるのか? まずは、そこを知りたい」

 一刀斎は薄暗い堂の中で仏像を背に、前に座る二人に問いかけた。

「ワシは、先生について行く」典膳がぼそりと答えた。

「俺もじゃ。俺にも剣を教えてくれ。もし先生が俺を弟子にしてくれるんなら、俺は村を出ると親父殿に言うてある。親父殿も一刀斎先生ならば希代の達人じゃからお前の好きにせいと言うていた」

 水月は喜びを隠しきれない様子で答える。

 二人には何の躊躇もなかった。彼らは一刀斎の目を凝視しながら感情の変化を読み取ろうとしたが、両目はいろいろな感情を深い孔に吸いこんでしまったかのようで、ただ、殺伐とした冷気を湛えているだけだった。

「したが、ワシにはすでに弟子が一人おる。じゃけん、二人は連れていかれんのよ。そいでじゃが……、ワシの使い物を取ってきた者を連れて行こうと思うが、それでよいか?」

 一刀斎の顎が微かに右後方を示したように見えたが、彼の右後方には彼と同じか、それ以上に暗く冷たい目をした巨魁が一人控えていた。結跏趺坐けっかふざの姿勢で微動だにしないその男は、名を「善鬼」、小野おの善鬼ぜんきといった。

 典膳と水月は互いの顔を見つめ合い、小さく頷きあう。

「それでいい、ワシも水月もそれでいいです」

 と年長の典膳が言う。

「使い物は、ここから十里ほど離れた三石山の山頂にある。ワシらはここに来る前にそこへ立ち寄り、山頂の祠に小太刀を安置した。その小太刀の名は『桔梗』、それを取ってきてほしいのじゃ。二人で行くも、一人ずつ出立するも勝手じゃが、今から三日目の辰の下刻に『桔梗』を持って来る者は一人でなければならない。その一人をどのように決めるかは、お主等二人で決めろ。談合してもよし、殺し合いでもよしじゃ」

 そう言い放った一刀斎の顔には微かな笑みが浮かんでいたが、それは、殺し合いを楽しみにしているかのように見えなくもなかった。

 二人はその小太刀が何故「桔梗」と名づけられているのかを知らなかった。その名の由来をひも解くには、一刀斎の神技について世間が噂していることを語らねばならない。


 一刀斎がまだ一人で廻国修行していたころ、東山道 [江戸時代の中仙道] のとある宿場で酒に酔った彼は、酒場の飯盛女に太刀を二本隠されてしまう。そのころの修行武芸者は太刀二本と小太刀一本を持ち歩くのが普通であった。太刀の一本は「甕割かめわり」と呼ばれる名刀であったが、しかし名刀を含む太刀二本は隠されてしまい役に立たず、代わりに決して身から離さなかった小太刀が彼を救うことになる。飯盛り女は手筈通りに物取りの乱破ラッパを多数呼び寄せて、一刀斎を襲撃した。


 店の奥で、釣られた蚊帳のなかでまどろんでいた一刀斎は、蚊帳の四隅を切られて、それを落とされた瞬間、小太刀を抜き蚊帳を切り裂きつつ闇の中で無意識に戦った。攻めかかる多数の乱波を切り捨てて危機をなんとか逃れたのだが、その体験が一刀流秘伝「仏捨刀ほっしゃとう」を編み出したと言われている。


 一刀斎は小太刀の神技を会得していた。彼の剣の師匠である「鐘捲自斉かねまきじさい」は小太刀を使用する中条流の正当伝承者であったからである。自斉は、越後名人と呼ばれ中条流の神技を編み出した富田勢源の愛弟子であり、変人としても有名であった。自斉が生涯に剣の印可を与えたのは、二名しかいないと言われている。一人が伊藤一刀斎であり、もう一人が佐々木小次郎である。一刀斎は中条流小太刀に自ら剣の工夫を加えて一刀流を、佐々木小次郎は小太刀への打ち込み役として体得した長剣の技を工夫して巌流がんりゅうを創始した。


 闇夜での危機を脱した一刀斎は明け方に、近くの草原で八名の乱破残党と対峙したと言われている。小太刀を用い瞬時に八人を切り伏せた後で、命だけは助けてほしいと懇願し、盗んだ「甕割かめわり」を差し出した飯盛女に草原の名を尋ねる。その血に染まった原が「桔梗ヶ原」と呼ばれていることを知った一刀斎は、彼の命を救った小太刀に「桔梗」という名を与え、神に感謝したと言われている。

 それが世間で噂されている「仏捨刀」の顛末だった。


 一刀斎は小太刀「桔梗」を更なる霊剣とするために、三石山山頂の祠に納め山の霊気を吸収させようと考えて実行したのである。

 水月と典膳は、一刀斎の申しつけを聞いたあとで、二人して寺を出た。

「なあ、水月、ワシらどうしたらよいじゃろうか?」

「わからん。先生は、ああ言ったが、俺たちは一つの物を殺し合いまでして取り合う仲じゃなか」

「ああ、だが、桔梗という名の刀は一人しか運べんのじゃろう」

「桔梗か? なぜその刀は”桔梗”ちゅう名前なんじゃろな?」

 水月は、これから取りに行く小太刀が桔梗という名を持つことを不思議に思っていた。なぜなら、それは馴染みのある名前だったからだ。


 村はずれの寺を出てからしばらく歩くと、大きな銀杏の木の下で一人の娘が彼等を待っていた。背は五尺三寸ほどで、すらりとした体型である。桃色の小袖に長い髪を一本に束ねている。顔は体型と同じようにほっそりとした卵型で、大きめな黒い瞳と整った鼻筋を持つ美しい女子おなごであった。

「典膳に水月。早いじゃない、今日はもう剣の修練は終わったの?」

 娘は歩いてきた二人に言う。

 男の一人、神子上水月は身の丈五尺八寸ほどで、娘と同じようにすらりとした体型である。髪は総髪を一本に結わえていたが、うりざね型の顔はどこか娘に似ているようにも見える。村の女たちの噂話にも上がるような美形であった。もう一人の男、典膳は身の丈五尺六寸ほどで、水月より小柄である。体付きは胸板が厚くがっしりとしており、髪は総髪をねじった紐で鉢巻状にして結わえている。少しエラの張った顔が実直さと頑固さを醸し出していた。


「なんだ、桔梗か。俺たちはな、これから桔梗を奪いに行くんじゃ」

 水月は笑みを浮かべると、娘に向かって言った。

「え、桔梗を? 桔梗って? わたしを奪いに行くってどういうことなの?」

「へへ、俺と典膳はな、どちらがお前を嫁にするかで勝負するんじゃ。どうじゃ、嬉しいだろう、勝った方がお前を嫁にもろうてやるからな……」

「す、水月ったら、へんなこと言わんでよ」

 娘は頬を少しだけ膨らませて怒ったように言った。


 娘の名前は「桔梗」だった。神子上一族の本家の一人娘である。血筋で言えば、典膳は分家であり、水月は分家から出たさらなる分家であった。桔梗は水月と同い年であり、典膳よりも一つ下だったが、歳が近いせいか三人は小さいころから一緒に遊ぶ仲間だった。でも、ここ二・三年、桔梗はあぶないことには加わらなくなった。昔のお転婆は影を潜め、そのかわりに丸みを帯びた女らしい雰囲気になり、髪も以前のようなお河童を適当に伸ばしたものではなく、腰まで垂れた黒髪をきれいに結わえるようになっていた。


「本当言うとな、桔梗ってのは、一刀斎先生の小太刀の名前なんじゃ。俺たちは先生に頼まれてそれを取りに行くんじゃ」と水月が言う。

「そう、先生の小太刀の名前だったのね。わたし、二人が決闘でもするのかと思って少し驚いたけど、よかったわ。それで、どこまで行くのかしら?」

 桔梗は水月の顔を見ながら、年頃の女子おなごが無意識に垣間見せる、うっとりとした表情を浮かべて尋ねた。

「三石山じゃ。お前知っとるか? 三石山」

「聞いたことあるけど、よく知らないわ。でもうちに居る弥助なら知ってるかもしれない」

 桔梗は自分の家に出入りしている猟師の名前を言った。水月と桔梗が言葉のやり取りをしている間、寡黙な典膳は一言もしゃべらずに聞いているだけだった。


 それから三人は桔梗の屋敷の裏にある小屋に行き、弥助に会った。小屋の周りには弥助が世話している畑があり、裏手は鬱蒼とした山に繋がっている。

「弥助さん、俺たち三石山まで行かなきゃなんねえ。でも、路がわからねえんだ。そいで、こんあたりの山を全部知っとる弥助さんに教えてもらおうと思って……」 

 と水月が尋ねる。

「三石山か……。ここから八里くらいかのう」

 弥助は腕を組み考え込むようにして続ける。

「清澄山は知っとろうが、ほら、昔、日蓮上人が修行した山じゃよ。あの清澄を右に見て山裾の峠を越える道がある。左は元清澄山じゃから、清澄から元清澄の間にある峠じゃよ。そこを越えれば川筋に出るから川伝いに進めばいいんじゃ。注意深く見ながら歩いていけば、左前方に頂上が大きな岩でできとる山が見えてくるじゃろう。それが三石山じゃ。だが、そこに登る山道の入り口は判り難い。おらが一緒に行けばよいのじゃが、旦那様の用事でしばらくはここを離れられんからのう……」


 弥助は小さい頃から神子上本家に仕えていた。季節によって百姓をやったり海で漁をしたり、また山に入っては木こりや猟師の仕事もした。歳は四十くらい、浅黒い肌で引き締まった体をしていた。弥助の小屋は神子上本家の広大な敷地のはずれにある。仕事がら、小屋の中には農作業の道具や漁師の道具、そして木こりや猟師の道具まで何でもそろっていた。


「弥助さん、注意深く歩いとりゃあ、そん山はすぐ見つかりそうじゃな。だが、登る道が見つからんときはどうするんじゃ?」

 寡黙な典膳がめずらしく尋ねる。

「そんときゃ沢に入るしかねえな。川沿いで三石山の方角に向かう沢に当たりを付けて沢を登るんじゃ。たぶん、沢の源流あたりで元清澄山から三石山に向かう尾根にぶつかるから、そんあたりで山の斜面を登れば着くじゃろう」

「どんくらいで行って帰れるじゃろうか?」と水月が不安そうに尋ねた。

「今から発てば、明日の朝には沢に入れるから……、明後日の朝には村に戻れるじゃろう。山に入るなら支度はしっかりせにゃならん。食い物のほかに、小刀、紐、草鞋の代え、それに蝮の毒消しに火打石も持ってゆけ……、そうそう、塩も袋に入れて行くといい、万一ん時にゃあ助けられる。あらかたは、こん小屋にあるから持って行け」


 それから半刻後、言われた物を詰め込んだ荷物袋を背負った二人は、弥助と桔梗に見送られて村を後にしていた。


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