▼ 定め ▼
▼ 定め ▼
神子上典膳が小野次郎右衛門と名を変え、徳川秀忠の剣術指南役についたことが神子上村にも伝わってくると、桔梗の父である神子上元晴はたいそう喜び、祝福の使者を江戸に使わした。元晴は半年前に、はやり病で他界した息子の兵部にも伝えてやりたいと墓に詣でて典膳の快挙を報告することにする。
墓は大きな敷地を有する神子上本家の裏山にあった。緩い上り坂と数個の石段を上った小高い開けた場所にそれはあった。春の淡い日差しの中で、遠くに海が白く輝いている。
「兵部、典膳がやりおったぞ。徳川様の剣術指南役になったそうじゃ。儂の見立てに間違いはなかったじゃろう。あいつはきっとやると思うとったんじゃ……。ああ、桔梗はどこにいったんじゃろうのう。本当なら、今頃は、桔梗は典膳の元へと嫁いでおったはずじゃのに……、兵部よ、もし知っとるんなら教えてくれ。儂が生きとるうちに探してやりたいからのう」
墓前に花を添えると、元晴は山を降りた。
元晴の元へ江戸に送った使者が帰ってくると、驚くべき知らせがもたらされた。桔梗が典膳の屋敷にいるというのである。
「なっ、なに、桔梗が、桔梗が居ったのか」
「はい、桔梗さまに間違いありませんでした」
「して、典膳とは夫婦なのであろうな」
「それが、どうやら、典膳殿の妹ということで、屋敷に住んでいるようです」
「なぜじゃ」
「解りませぬが、どうやら、寝間を分けて暮らしておるようです」
「うーむ。そうであるか。さすがは典膳、いや今は次郎右衛門殿であるな。たぶん、儂の許しを待っておるのであろう。よし、ならば、儂が江戸に出向いて二人の祝言を執り行おうぞ」
「ははっ、ではその報を持って再び江戸に向かいます」
「そうしてくれ。祝言は次郎右衛門殿の屋敷で、二ヶ月後の六月二四日に行いたい旨を告げてまいれ。儂はその前には江戸に向かうから、祝言の準備をしておくようにと、次郎右衛門殿と桔梗にそう伝えよ。そうそう、祝言につかう桔梗の着物や小物などを女中たちに見繕うよう言うてだな、準備が整いしだい、お前は荷物と女中などを連れて出立せよ」
それは元晴の最良の一日だったに違いなかった。
水月は決意していた。自分か典膳か、どちらかが倒れるしかないのだ、と。そして、その結果をもたらすことになる「果たし合い」の書状を書いた。
『 我が親愛なる
神子上典膳吉明殿
この度、徳川秀忠様剣術指南役へのお役目を仰せつかれた
とのことお喜び申し上げ候。
しかるに、貴殿の一刀流と我が剣技の優劣を決すべく、
当書状をもって果たし合いに及ばんと欲すものである。
貴殿におかれましても、是非ともこの立会いに来られんことを
望み申し候
時 六月中の満月翌日の昼、太陽が南中する刻限
場所 我らに縁の深い安房三石山山頂より、元清澄に向かう
ケモノ道にて待つ
文禄三年四月
卜伝流印可 神子上水月義直 筆 』
水月は、その書状を持ち駿河台下の小野次郎右衛門道場まで行くと、そこから出てきた下働き風の下男に、城より火急の使いでこの書状をお持ちしたから、これを必ず次郎右衛門殿に渡してほしいと言うと、姿を消したのである。
さて、書状を奥の書院で一人読んだ次郎右衛門は、腕を組み眼をつぶると考えこんだ。
そうか、やはり生きていたか。ワシはすでに徳川家に仕官いたしており、このような挑発など黙殺すればよいのだ。だが、水月とは因縁があり、もしこのまま黙殺すれば後々、仕官にも悪影響がでるやもしれん。
それに、水月は、やはり斬らねばならん。複数の門弟を連れて行けば必ず倒せようが、もしそのような卑怯が門弟より口外されれば、やはりワシの面目が立たなくなろう。ワシ一人で倒せないということはあり得まい。卜伝流とやらを治めたようじゃが、ワシの敵ではない。よし、行こう。
次郎右衛門にとっても、果たし合いの書状などを持って身辺にまとわりつく奴は邪魔な存在に違いなかった。
そんなことよりも、これは最初にして最後の機会なのだ。いや、最後というのは確かだが、最初というのは違うかもしれない。そう、ワシはあの時あの断崖で、水月が場所を失った時に支えの棒を突き出したが、あの瞬間、水月がいなくなれば、一刀斎先生と桔梗が手に入ると、支えの手を緩ませたのかもしれん……。
卑怯かもしれんが、あれは仕方のないことだった。あのときお前が死んでいれば……、だから、これは二回目の機会なのだ。今回の決闘で、お前がいなくなれば、ワシは桔梗を手に入れることができる。これは、お前がよこした果たし状なのだ、今度こそワシは正々堂々とお前を殺してかまわんのだ。桔梗の気性からして、正当な勝負の結果であれば水月への未練は雲散霧消してワシの元へ来よう。
次郎右衛門の決意も固まった。
次郎右衛門は、果たし状を持って桔梗の部屋に向かった。
「桔梗、居るか」
「典膳? はい、おりますよ。どうぞお入りください」
美しい朱鷺色の小袖を着た桔梗の髪は、もう肩よりもかなり長くなっている。
「桔梗、お前の探していたものが見つかったようじゃ」
「えっ」
次郎右衛門は、つい今しがた受け取った果たし状を桔梗に渡した。見る間に桔梗の顔が青ざめていく。
「典膳」
「ワシは立会いに行くつもりじゃ」
「典膳、止めることはできないの」
「前も言うたが、武芸者として生きることを決めたときから、果たし合いから逃げるという道はないんじゃ」
「でも、二人は兄弟のように育ったんじゃない」
桔梗は泣き出しそうな顔をしている。
「ああ、お前を入れて三人でよう遊んだのう。楽しかったころの思い出が目に浮かぶ。ほら、山で、お前が蝮に咬まれたときのことを覚えておるか」
「ええ、覚えてるわ」
「あんときは、ワシがお前の足から毒を吸いだして、水月がお前をおぶって山を降りたんじゃ。お前は激しく泣きじゃくって手におえんかった」
「そうね。今となっては楽しい思い出だわ……。ねえ、もう一度考えて、立会いを止めることはできないの?」
桔梗の目から大粒の涙がこぼれて、小袖を濡らしてゆく。
「これも定めなんじゃろう。運命の流れに逆らうことはできんことじゃ……。桔梗、お前は水月を応援すればいい。ワシはそれでもかまわんぞ」
「ああ、典膳、恐ろしいことを言わないで……。定めなのね。ならば、ならば、わたしも定めを受け入れる。どちらかを応援なんかできない。ただ、定めを見守ることしかできないわ」
「桔梗。ワシは必ず帰ってくる。そのときはワシの女房になれ」
そう言い残して、次郎右衛門は桔梗の部屋を出た。
文禄三年(一五九四年)初夏、房総半島の三石山から清澄山に向かう尾根づたいのケモノ道。そこは照葉樹や常緑針葉樹に覆われて、狭く薄暗かったが、一里ほどある道の途中には、樹木が疎らで幅が三間ほどに広がった場所が続いている。
水月は総髪を風に揺らせながら待っていた。背丈は六尺に届かないが、痩身で隙のない身ごなしは俊敏な山猫を思わせる。木々の切れ間から暖かな太陽の光がさしこんでおり、男の体を暖めていた。
「日が登りきるまであと僅かだな」
水月は小さな声で呟くと、南の空に輝いている太陽をちらっと見た。満月の翌日で、太陽が南中する時、それが約束の刻限だ。武芸者とは気の休まらぬものよ。このように穏やかな日だまりの中でさえ、全周囲に注意を向けねばならぬ。水月は、暖かい木漏れ日の存在に気づいた己を否定するかのように頭を振り、一瞬の間をおいて視線をケモノ道に戻す。と、約十間先に目指す相手がいることに気が付いた。すでに心は微塵の暖かさもない、決して融けない氷のようになっていた。
相手の顔を知っていたのだろうか。その瞬間まではよく知っているような気がしたのだが、いざ対峙してみると確信がない。まったく見知らぬ男のような気もした。
「神子上水月だな? 生きておったか……、水月」
ケモノ道に現れた男の無限に深い孔のような両眼は、言葉の真意をつかまれるのを拒絶しているかのように見える。
「小野……次郎右衛門? ……いや、神子上典膳よのう」
水月は声を震わせて応答した。水月からは、次郎右衛門の後方に、木々の隙間から三石山山頂にある巨石がかすかに見えていた。
「久しぶりじゃのう水月……、生きておったなら、おとなしくしていればいいものを、ワシとの立会いを望むとは、死に急ぎおって馬鹿な奴よ。それとも、今からでも技量の差を認めて立会いを止めるならそれで許してやってもよいぞ」
「どうやら支度はできとるようじゃのう……。善鬼を殺して一刀斎先生の跡目をついだか……。一刀流を、お主の剣を見たいだけじゃ。抜け!……典膳!……甕割刀を」
典膳と呼ばれた男は、小豆色の小袖に白絹のタスキを掛けていた。そして頭には柿色の鉢巻きを締めて,袴の股達を高くとっている。真剣を交えての闘いに相応しい姿であった。左手に鞘持つ妖刀「甕割」のこい口は切られており、いつでも抜刀可能である。そして体には微塵もよけいな力が入っていなかった。
「よい覚悟じゃのう水月……、お前をぶった切らにゃならんとはのう……。お前も少しは使えるらしいな、お前が下総で暴れていた噂は聞こえておったぞ……。どこで、誰について修行した」
「典膳。昔とちごうて饒舌じゃのう……。それはお前の恐れの現われじゃ。いいだろう、お前の恐れを一つだけ減らしてやる……。俺は塚原卜伝殿の高弟だった雲林院松軒先生と修行を続けて卜伝流の印可を授かった。下総は卜伝殿ゆかりの地で、そこで修行しただけじゃ。分かったならば、俺も一つだけ聞きたいんじゃ……、桔梗は? 桔梗はどうしておる」
尾根を横切る風は強くなり、声が聞き取り辛くなっていた。
「桔梗? お前が恋焦がれた桔梗は生きておる。じゃが、この決闘のことは何も知らん。お前のことは三年前に死んだと思い込んでいるだけじゃ」
典膳は嘘を言った。桔梗はこの日の決闘を知っている。水月、桔梗は貴様が生きてることを知っている。桔梗はずっとお前のことを待っていた、お前が迎えに来るのを待っていたんだ。じゃが、あいつは、お前からの果たし状を見て、定めに、運命に従いたいと言った。きっと心の奥底ではお前の勝利を願ってるのかもしれない。だが、ワシは自分で運命を切り開く、貴様を斬り捨てて桔梗を手に入れるんじゃ。
「そうか。何も知らないならば俺がお前を地獄に送っても、あいつは泣く事もないな」
水月はつぶやくように言ったが、それは典膳には聞こえなかった。
「桔梗は……で生きている……を……殺せば……あいつは……ワシの……になる……祝事が……」
同じように、風の中に立つ水月には、典膳のつぶやきを全て聞き取ることはできなかった。
水月は、卜伝から松軒先生へと受け継がれた二尺七寸五分の太刀を抜刀する。それは相州正宗に由来する妖しい光を放った。水月がそれを上段に構えると、典膳も腰に差していた二刀の内、一刀を鞘ごと引き出して抜刀した。一刀斎から受け継いだ甕割は腰に差したままである。鞘を投げ捨てた典膳は剣を青眼に構えた。
まだ、二人の距離は二間半開いていた。
「ワシが貴様を斬るのも運命じゃ……。卜伝流か、貴様も少しは使えるらしいが、一刀流の秘太刀を極めた俺の敵ではない」
見せてやる一刀流秘太刀「雷光」を、死ぬ前にとくと拝ませてやる。典膳は喉から出かかったこの言葉を飲み込んだ。一流の剣士であれば、雷光という名前だけから技を推測されるからだ。典膳は、水月の技量が並外れていることを感じていた。
「一刀流の秘太刀か、見たいものよ」
それが二人がかわした言葉の最後だった。
尾根を横切る風が強くなり、太陽はゆっくりと南の空を移動していく。二人の距離は太陽の動きと同じようにゆっくりと狭まっていく。
典膳は青眼の刀から左手を離すと、右手一本で柄を握り銛つきのように身構えた。善鬼を倒したときと同じ技である。その切っ先は水月の心臓を捕らえていた。
そのとき、水月は動けなかった。切っ先が自分の体と紐で繋がったかのようで、わずかでも動けばそれが繋がった体に飛んでくるだろう。あの刀が放たれた後だ。典膳はどのように動くのだろうか。水月は必死に典膳の形を見極めようとしたが、全体がぼけて捕らえどころがなかった。
かつて、柳生の高弟や柳生兵庫助が目付ができなかったように、水月も典膳の形を捕らえることができなかった。このままでは……、眼で奴の姿を捕らえることができても、剣の形は捕らえられん。奴の気の流れを捉えねば、水月は眼を閉じた。全身全霊を五感に集中する。
典膳の足は止まった。典膳はそれ以上踏み込めなかった。くそう、水月の奴、目を塞いでおるのか? 視覚を捨ててワシに目付をしようというのか? 馬鹿な、そんなことが簡単にできる訳がない。だが、典膳はツキンボの技で先制するのを止めて、しばらく様子をうかがうことにする。
水月には見えていた。あの鹿島神宮で一つ太刀を受けたときと同じ白い影が見える。それは剣先を中段にかまえているように見えた。あのときと、竜神と闘って「一つの太刀」を得たときと同じだ、水月はそう思った。
典膳は仕掛けた。水月の顔に安堵の笑みが浮かんだように感じたからだ。笑みが浮かんだ瞬間、ツキンボに構えていた典膳の刀が水月の胸目がけて飛んで行く。同時に典膳は甕割刀を抜くや否や瞬殺の突き技「雷光」を見舞った。
水月は、上段から振り下ろした刀で典膳の銛のような刀をなんとか弾き飛ばす。だが、そのときには典膳の雷光の突きは目前だった。それは、水月の胸を、心臓近くを突き抜いている、はずだった。銛突き刀を弾きながら後ろに反って行く水月の体。反ったせいで雷光の突きは狙いを胸から喉に変えてゆく。
典膳には喉から血を吹き上げる水月が見えたような気がしていた。
水月は喉元に伸びる切っ先を間一髪で外したような気がしていた。
それは、究極の剣技の応酬だったのかのだろうか。いや、それは、運命だったに違いない。
九十九谷に響きわたる絶叫が放たれると、一人が血を吹き上げて断崖を落ちて行った。四年前のあの時に二人の運命を分かった、あの断崖に。そして辺りは静寂に包まれた。
血を帯びた男が一人、三石山山頂から北西方角のケモノ道をフラフラと降りて行く。やがて、月ヶ峰と呼ばれるところに着くと、そのあたりには「湯殿山、月山、羽黒山」と掘りこまれた古い石像が散在していて、人の気配どころか昆虫や動物の気配もしなかった。
そこは、この世とあの世との境界のような場所であった。
「お前はなぜ死んだんだ……、なぜ、お前を斬らなければならなかったんだ……」
男の問いは空しく、叫び声は重い静寂の中に飲み込まれてゆく。
史実では、小野次郎右衛門忠明は寛永五年まで生きた事が記録として残っている。だが、この決闘があった後で江戸に戻った次郎右衛門は、数年後に正妻であった桔梗を神子上の里に返したと言われている。男子二人は側室が産み、一人は伊藤姓と小太刀桔梗を受け継ぎ伊藤派一刀流を、また、一人は小野姓と甕割刀を受け継ぎ小野派一刀流へと一刀流道統は脈々と受け継がれてゆく。
一刀斎が典膳に秘太刀として授けた「雷光ノ突き」は、その後その技を見た者はなく。一刀流秘伝書にも記載はない。




