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ト伝 vs 一刀斎  作者: 古河 渚
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▼ 深夜の小金原 ▼

▼ 深夜の小金原 ▼


 一刀流伝書によれば、神子上典膳と小野善鬼が師である伊藤一刀斎の道統(どうとう引継ぎをかけて、下総の国、小金原で決闘におよんだのは、文禄元年(一五九二年)であったと言われている。


 決闘の半年ほど前、徳川家康が関東入りし太田道灌が居城とした江戸城を中心に壮大な街造りが始まったころ、武蔵野から江戸入りした一刀斎は、その剣名の高さゆえに家康に招かれ謁見えっけんすることになった。家康は北条家の遺臣や、その前の武田氏の遺臣の中から才能があり家康に忠誠を誓う者たちを積極的に取り入れてきた。家康は剣術に優れた者も受け入れるとの考えがあったが、それは、家康自身が剣術使いであったからだと言われている。


 家康は若いころから剣術への関心が高く、新陰流の祖である上泉伊勢守の高弟であり奥山流を開いた奥山休加斎から学んで印可を得、さらに塚原ト伝のト伝流をも学んでいる。とにかく生来の剣術好きであり、この点は織田信長や豊臣秀吉とは異なっていた。信長や秀吉は、戦国の戦には剣を振り回す武芸などは役にたたない児戯じぎであり、趨勢すうせいは足軽の槍の長さや鉄砲の数で決まると考えていたのである。


 その家康の目に留まった一刀斎は、新築の香り漂う江戸城の一角で家康に会うことになった。

 家康が床几に座り、その両脇を伴の者が固めた気配を感じると、平伏していた一刀斎が声を発した。

「伊藤一刀斎景久、お召しによりまかりこしてございます」

「うむ、お主が伊藤一刀斎か。その剣名の高さは聞こえておるぞ。さ、面を上げよ」

 白砂の地に平伏していた一刀斎は顔を上げ家康を見る。

「初めて会うが、お主の仏捨刀ほっしゃとう夢想剣むそうけんも名前だけは知っておった。いつもその剣技を見たいものよと思うていたところじゃ。ところで、一刀斎、お主は剣を誰から学んだ」

「はい、伊豆大島で生まれて、板切れ一枚にすがって伊豆に流れ着いた後、縁があって鐘捲自斎先生より中条流を学び印可を受けました。その後諸国を流浪しながら優れた芸者との試合を経て今は一刀流と名乗っております」

「自斎とは、あの越後名人と呼ばれた冨田勢源の弟子であろう。そうか、あの勢源の道統を継ぐ者であったか。……まあ、そういう理由ではないがのう……、一刀斎、ひとつこの家康に仕えてみんか。徳川の剣術指南役として召抱えたいのじゃがのう」

「ありがたきお言葉ですが、家康様には優れた剣術指南が数おられると存じますが」

「それは気にせんでよい。優れた武芸者は何人でも召抱えたいと思うているのじゃ。どうだ、一刀斎」


 その時、一刀斎の脳裏に浮かんだのは「お美乃」のことであった。あと数年したら、武芸百般からは引退してお美乃と小さな一庵でも持って、静かに暮らそうと思っていたのだ。

「家康様。もし可能であれば、我が弟子を推挙したいと思いますが」

「一刀斎、お主はだめかのう」

「はい、お許しを賜りたく存じます」

「そうか。あい判った。……ところで、お主の弟子の件じゃが、そこの小幡勘兵衛にまかせるゆえ、いずれ小幡を尋ねるように申しておけ、その上で人物を見ることにするが、それでよいのう」

「はい、ありがたきお言葉にございます」


 家康との一件は一刀斎の脳裏に深く残った。あの凶行が収まらぬ善鬼を家康公のお側に召しだす訳にはいかぬ。なんとか、典膳を召し出したいが、それにはまず剣の優劣を決めるしかない。典膳が勝てば、典膳を小幡勘兵衛に引き合わせればよい、善鬼が勝ったときには、徳川家指南役の話は胸の内から出さずに善鬼を自ら抹殺するつもりであった。善鬼が勝ったときにはワシが奴を始末しなければなるまい、一刀斎は胸の内で何度もそう繰り返していた。


 奴の、善鬼の狂気はきっとワシの一刀流を滅ぼすことになろう。だが、一刀斎が二人に決闘を命じたときには、典膳に勝ち目は無いだろうと感じていた。一刀斎が教えた「雷光」の突きをもってしても、今の力量では善鬼の下段ツバメ返しの前に敗れるは必至、だからこそ時間的な猶予を作っての決闘日時であった。なんとか、その期間で「雷光」を進化させてほしい、それは偽りない一刀斎の気持ちであった。もしかすると、ワシでさえ善鬼の下段ツバメ返しに破れるやもしれん、そういう一抹の不安があったのも事実であった。


 一刀斎が小金原の約束したクヌギの大木の前に現われたのは、満月の日の深夜だった。腰にはあまり使ったことがない刀を佩いていた。腰に帯びていたのはその一刀のみであった。愛用の甕割り刀と秘伝書の巻物は、小金原の東端に位置し、一刀斎が宿を借りていた古寺である持法院に預けていた。小太刀の桔梗は、高崎宿にいるお美乃に預けてあったが、それは、一刀流の道統を継がせる者には、秘伝書と甕割り刀を引き継げばよいと考えていたからである。


 満月が西に傾く明け方には、善鬼と典膳の決闘が始まるのである。一刀斎はその木の根元で一夜を明かそうとしていたのだ。一刀斎は根元で胡坐あぐらをかき瞑想を始めた。いや、瞑想というよりも昔を思い出していただけかもしれない。あの若き日のことを。

 一刀斎が前原弥五郎と呼ばれて、伊豆大島から流木一本にすがって決死の覚悟で海を渡った日のことを、伊東の古寺に住み着いたときに寺を襲った盗賊どもを、奉納刀で切り伏せたときのことを、その奉納刀は寺の軒先に吊るされてあったのが紐が腐って刀が鞘から抜け落ちて落下したときに、下にあった大甕おおがめを真っ二つにしたことから甕割り刀と呼ばれて拝まれていたこと、その甕割り刀を寺の住職から盗賊退治の礼としてもらい受けたことなどである。

 思えば、儂は何人を殺してきたのじゃろうか。真剣で戦うこと二十余度、木刀を持って撃ち殺した者を入れれば七十名は殺したろうか。いままで遅れを取ったことは無いが、とにかく人を殺しすぎた。じゃが、それも今日で終わりになるじゃろう。どこぞに隠居してお美乃と静かに暮らしたいものよ。


 そのとき一刀斎は巨大な殺気が近づいてきたのを感じ眼を開けた。

「先生、一刀斎先生ではないですか」

 その声は善鬼であった。

「おう善鬼か。いよいよじゃのう。して、決闘は明朝じゃが、深夜にこのあたりの地形を調べておるのか」

「ええ、そうです。決闘に地の利を活かすのは常道ですから」

 大クヌギの周囲は緩やかな傾斜になっていて、草に覆われてはいたが深くはなかった。深夜を過ぎたからか、それまでいでいた風が緩やかに吹き始めていた。善鬼の風下になっていた一刀斎は微かな血の匂いを嗅いでいた。善鬼め、すでにここに来る前に刀に血を吸わせてきたようじゃな。たぶん罪も無い百姓か、かどわかした女子おなごであろう。平静を装う中にもふつふつと怒りが沸き起こって来る。一刀斎は立ち上がった。すでに決意は固まっていた。今ここで、隙あらば儂が自分の手で悪鬼を斬り捨ててやる、と。


 だが、善鬼に隙は微塵もなかった。

 逆に善鬼は冷静に一刀斎の殺気を分析していた。そして、勝てるかもしれん、と。

「先生、一刀斎先生。俺がここに来るまでに何をしてきたか話しましょうか」

「いや、言わんでもよい。想像はついておるからのう。血の匂いで生臭い」

「先生……、俺を斬れますか? 先生に弟子入りして五年、俺はずいぶんと強くなったような気がします。桑名で会ったとき、俺は先生に斬り殺されるしかなかった……、だが、今なら先生を殺せるかもしれんですよ」


 その瞬間、二人の距離は四間に開いた、二人ともに抜刀すると後ろに飛び下がったからである。上空の満月の光で二本の刃が青白く輝いている。

「善鬼、貴様をあのとき斬らなかったのは儂の不覚じゃった」

「たしかに、あんたはあの時、俺を殺すべきだった。まもなく、それを死ぬほど後悔することになりますよ」

「貴様の血に狂った狂気を、女を切り刻まねばならないその狂気を甘く見とったようじゃ。貴様が殺した女たちが冥土で待っているだろう。今すぐ送り届けてやる」

「先生、あんたを殺す前に聞いておこう。印可状と甕割りはどこにある?」

「そんなものは、元々貴様に渡すつもりはない。典膳に渡すつもりだからここにはない」

「ふん、そうだろうよ。そんなことは薄々気づいておったわ。俺が確認したかったのは、今、お前が手にしているのが甕割りかどうかじゃ。甕割りじゃないとは思ったのだが、月明かりではハッキリせんからのう。甕割りを置いてきたか? 俺の力を見くびったな」


 善鬼は剣先を下段に下げると猛然と間合いを詰める。

 俺のツバメ返し、避けることはできんぞ一刀斎、心の内でそう叫びながら、刀身三尺の長剣を上向きに舞い上がらせる。

 今、この瞬間を待っていたぞ。一刀流秘太刀「雷光」の突きを食らわせてやる。下段からの烈風をやりすごすと、一刀斎の体が剣と一体化し、剣先は善鬼の首を目掛けて突き出された。右手一本の突きは速い、切り上げたツバメ返しが方向を変える前に喉笛を切り裂ける。一刀斎は勝利を感じていた。だが、その瞬間、右手は激しい衝撃を感じていた。善鬼は跳ね上げた刀をいつもより下で方向転換させ全身全霊を込めて何かを斬ったのである。それは、一刀斎の突き出した刀であった。鋼と鋼がぶつかり合う激しい音がして閃光が飛び散った。折れたのは、一刀斎の剣先が善鬼の喉に突き刺さる一瞬前であった。一刀斎の刀が折れると、善鬼の三の太刀は袈裟懸けに一刀斎を切り裂いていた。

「甕割り……ならば……儂の勝ちじゃたぞ……善鬼……」

 それが、一刀斎の最後の言葉だった。

 伝承によれば、一刀斎は小金原で隠居生活を営み八十あるいは九十まで生きたと言われているが、小金原で善鬼と典膳が戦った後に、一刀斎の姿を見たものは一人もいない。


 満月は南中を過ぎて西の空に傾き始めている。秋分を過ぎたこの時期には明け方の気温も下がっているが、それに加えてさわやかな微風が吹き始めていた。善鬼は一刀斎の遺骸をまだ暗いうちに原を引きずって、窪地に投げ入れていた。

 俺は一刀斎を倒した。俺の剣名が天下に轟くのは間違いない。であれば、俺はもう典膳などには用はない、早急にここを引き払って、一刀斎を倒したことを宣伝すればいいだけじゃ。だが、人を信じさせるには証拠がいる。一刀流の秘伝書か、いや、最も説得力があるのは甕割刀を手にすることだろう、だが、一刀斎はその在処ありかを教えなかった。たぶん、典膳ならばその在処ありかを知っておろう。それが、善鬼が小金原に残った理由であった。もとより、典膳に負けることなど考えてはいない。秘伝書と甕割刀の在処ありかが解りさえすれば、あとは斬り伏せるだけだと考えていた。


 丑三つを過ぎた深夜の小金原を満月の明かりを頼りに三つの影が歩いていた。桔梗と楓、そしてもう一人は香取で桔梗たちが出会った池上隼人であった。二日前の夜に、池上に小金原での神子上典膳と小野善鬼との決闘があることを告げて、きっとそこに水月が現れるはずだから、私と楓はここを出て小金原に向かいたいと話すと、隼人は自分も行くと言って引き下がらなかった。

 たいした旅支度もせずに出立した三人は、前日の夜は印旛沼南端にある農家に宿泊していた。満月当日は早朝に出立して、昼過ぎには広大な小金原の東端に着いていたのだが、決闘がこの広大な原のどこで行われるのかを知らなかった。まさか、これほど広大だとは予想していなかった。決闘について典膳と話した日のことを必死に思い出した桔梗は、大きなクヌギの木と、そこからいくつか道が別れているらしいことを思い出した。近くの村で尋ねると、小金原の大クヌギは二里ほど離れているとのことだった。その大クヌギは江戸から常陸に向かう街道と武蔵から下総を経て上総に向う街道が交差するあたりに在るとのことだった。今日は満月だから、街道が見つかりさえすれば道は一本なので、夜歩いても見失うことはないだろう、という百姓の言葉を信じて、日が暮れてから百姓小屋を出立したのである。


 上総から武蔵に向う街道はすぐに見つかった。三人は暗闇の中を月明かりだけを頼りにゆっくりと進んでゆく。明け方の決闘であれば十分に間に合う速さである。小金原は広大だが、ただの草原というわけではなかった。たしかに広々とした草原も点在していたが、全体としては雑木林が多く、ところどころに松の並木があった。街道は広い草原部分に印されていた。ところどころに真っ黒くみえる場所が見えるのは、木々が密集している雑木林があるからである。

 秋の虫の音に混じって、三人が歩くときに草鞋わらじが枯れ草を踏む音が響いている。ときおり、遠くに馬のいななきや、犬だか狼だかの遠吠えが聞こえていた。

 やがて三人が歩いてきた道はもう一つの街道と交差した。


「このあたりじゃないかしら」と桔梗が言う。

「桔梗さま、この近くにクヌギの巨木があるのでしょうか」

 池上隼人は水月とゆかりの深い桔梗を、桔梗さまと呼んでいた。

「ええ、たぶん。でも、近くといっても離れてるかもしれないし、明るくならないと判らないかもしれないわ。ねえ、この近くで明るくなるのを待ちましょう」

「そうですね。決闘があるのなら、人が集まってくるかもしれません。この近くの林で身を潜めるのがいいかもしれませんね」と隼人が同意する。

 だが、その様子を木の陰から見ている者があった。この場所に先着し、半刻前に師一刀斎を倒した善鬼である。善鬼は半町ほど離れている集団が男一人と女二人であることを見破っていた。


 男は武芸者のようだが、腕はどうだろうか。深夜に女を連れているところを見るとよほどの腕達者なのかもしれん、だが、一刀斎を破った俺にかなう奴などこの世にいる訳が無い。善鬼は自信満々だった。あの男を血祭りに上げ、女二人は犯してから斬り捨てる。善鬼は息を潜めて声なき笑いをこぼした。

 香取神道流の印可とまではいかないが、免許皆伝で、神子上水月とも数ヶ月の修行を積んだ隼人は、左前方の小高い木々の裏から異様な殺気が立ち上っていることに気がついた。


「あそこの木の陰に誰かいるぞ。桔梗さま、楓殿、油断せずに、なにかあれば早々に今来た道を逃げられよ」

 隼人はそう言うと、腰の太刀に反りをうたせ、いつでも抜刀できるように身構える。

 桔梗は、隼人の言葉を聞くと小薙刀を構えて刃を飛びださせる。楓も吹き矢の両端を保護している金具を外してから、杖に隠した毒矢を取り出して素早く仕込んだ。暗闇でも夜目が利く楓には、木陰から黒い影が現われたのがはっきりと見えた。楓は吹き矢を使うには位置が悪いことを悟っていた。微風だが風が横から吹いている。吹き矢にとってはいい位置ではない。だが、あの海岸で襲われたときのように、一旦位置を開いてから、隙を見て近くにまで寄れば倒せるだろう。楓は楽観していた。

「誰、典膳? それとも、もしかして水月なの?」

 桔梗の声が暗闇に響いたが、影は無言だった。



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